赤外線男
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著者名:海野十三 

「で、閣下がお入りになってから、フィルムを廻したのですネ」
「そうです。うまく撮ったつもりです。――だが閣下は殺害されました。兇器(きょうき)は鍼で、同じように延髄を刺しつらぬいています」
「現像は……」
「今やっています。直(す)ぐこれからおいで願いたいのです」
「ええ、参ります」
 帆村は憂鬱(ゆううつ)な返辞(へんじ)をした。
 駆(か)けつけてみると、本庁は上を下への大騒ぎだった。殺(や)られる人に事欠(ことか)いて、総監閣下が苟(かりそ)めの機会から非業(ひごう)の死を遂(と)げたというのだから、これは大変なことである。
「どうです。フィルムの現像は出来ましたか」帆村は課長に会うと、真先(まっさき)に訊(き)いた。
「出来たのですが……」
「どうしたんです?」
「駄目でした。赤外線灯の前に、どういうものかドヤドヤと人が立って、肝心(かんじん)のところは真暗で、何にも写ってやしません」
 課長は、面目(めんぼく)なげに下俯(うつむ)いた。
「深山氏とダリア嬢は、調べましたか」
「今度こそはというのでよく調べました。身体検査も百二十パーセントにやりました。ダリア嬢も気の毒でしたが、婦人警官に渡して少しひどいところまで、残る隈(くま)なく調べ、繃帯(ほうたい)もすっかり取外(とりはず)させるし、眼鏡もとられて眼瞼(まぶた)もひっくりかえしてみるというところまでやったんですが、何の得(う)るところもありません」
「ダリア嬢の眼はどうです」
「ますますひどいようですよ。左眼(さがん)は永久に失明するかも知れません。右眼も充血がひどくなっているそうです」
「ダリア嬢は眼のわるい点でいいとして、深山氏の行動に不審はなかったんですか」
「ところが深山氏は閣下にいろいろと詳(くわ)しく説明していた最中(さいちゅう)なのです。深山氏が喋(しゃべ)っているのに、閣下はウーンといって仆(たお)れられたのです。深山氏を疑うとなれば、喋っていながら手を動かして鍼(はり)を突き立てるということになりますが、これは実行の出来ないことですよ」
「すると二人の嫌疑は晴れたのですか」
「まあ、そうなりますネ。二人もこれに懲(こ)りて、今後はどんなことがあっても、あの装置を働かす暗室(あんしつ)内へは行かないと云っていますよ」
「では犯人は一体誰なんです」
「赤外線男――でしょうナ」
「課長さんは、赤外線男だといって満足していられるんですか」
「今となっては満足しています。昨日までは稍(やや)信じなかったですが、今日という今日は、赤外線男の仕業(しわざ)と信じました。この上は、私どもの手で、あの装置を二十四時間ぶっ通しに運転して、赤外線男を発見せずには置きません」
「しかし、レンズは室内を睨(にら)ませたがいいですよ。あの室内に赤外線男がウロウロしているのではネ」
 帆村は、課長の勇猛心に顔負けがして、ちょっと皮肉(ひにく)を飛ばした。


     7


 その次の朝のことだった。
 帆村荘六は早く起き出ると、どうした気紛(きまぐ)れか、洋服箪笥からニッカーと鳥打帽子とを取り出して、ゴルフでもやりそうな扮装(ふんそう)になった。
 しかし別にクラブ・バッグを引張(ひっぱ)り出すわけでもなく、細い節竹(ふしだけ)のステッキを軽く手にもつと、外へ飛び出した。忌(いま)わしい第一、第二の犠牲者を、昨日一昨日に送ったとは思えないほど、麗(うらら)かな陽春の空だった。
 彼は先ず、警視庁の大きな石段をテクテク登っていった。
「どうです。何か見付かりましたか」彼は捜査課長の不眠に脹(は)れぼったくなった顔を見ると、斯(こ)う声をかけた。
「駄目です」と課長は不機嫌に喚(わめ)いてから、「だが、昨夜また犠牲が出たんです。今朝がた報(しら)せて来ました」
「なに、又誰かやられたんですか」
「こうなると、私は君まで軽蔑(けいべつ)したくなるよ」
「そりゃ、一体どうしたというのです」帆村は自分でもなにかハッと思いあたることがあるらしく、激しく息を弾(はず)ませながら問いかえした。
「浅草の石浜(いしはま)というところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は岡見桃枝(おかみももえ)という女で、男というのが……」
「男というのが?」
「深山(みやま)理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった」
 課長は余程(よほど)口惜しいものと見えて、帆村の前も構わず、子供のような泪(なみだ)をポロポロ滾(こぼ)した。
「そうですか」帆村も泪を誘(さそ)われそうになった。「じゃ貴方も深山理学士は大丈夫といいながら、一面では大いに疑っていたんですネ」
「そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた」
「大いに同感ですな」
「視(み)えもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。――ところが其(そ)の本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった」
「僕は兎(と)に角(かく)、見に行って来ます。あれは日本堤署(にほんつつみしょ)の管内(かんない)ですね」
 課長は黙って肯(うなず)いた。
 警察へ行ってみると、現場(げんじょう)はまだそのままにしてあるということだった。場所を教えて貰(もら)うと、彼は直ぐ警察の門を飛び出した。
 そこから、桃枝の家までは五丁ほどで、大した道程(みちのり)ではなかった。彼は捷径(ちかみち)をして歩いてゆくつもりで、通りに出ると、直ぐ左に折れて、田中町(たなかまち)の方へ足を向けた。震災前(しんさいぜん)には、この辺は帆村の縄張(なわば)りだったが、今ではすっかり町並(まちなみ)が一新(いっしん)してどこを歩いているものやら見当がつかなかった。どこから金を見つけて来たかと思うような堂々たる五階建のアパートなどが目の前にスックと立って、行(ゆ)く手(て)を見えなくした。彼は忌々(いまいま)しそうに舌打ちをして、大田中(おおたなか)アパートにぶつかると、その横をすりぬけようとした。そしてハッと気がついた。
 見ると、アパートの高い非常梯子(ひじょうばしご)に、近所の人らしいのが十四五人も載(の)って、何ごとか上と下とで喚(わめ)きあっているのだ。
「どうしたんです」
 帆村は道傍(みちばた)に立っている人のよさそうな内儀(おかみ)さんに訊(たず)ねた。
「なんですか、どうも気味の悪い話なんでござんすよ」と内儀さんは細い眉(まゆ)を顰(しか)めると、赤い裏のついた前垂(まえだれ)を両手で顔の上へ持っていった。「あのアパートの五階に人が死んでいるんだって云いますよ。そういえば、このごろ、近所の方が、何だか莫迦(ばか)に臭(くさ)い臭(くさ)いと云ってましたが、その死骸(しがい)のせいなんですよ。まあ、いやだ」
 内儀さんは、ゲッゲーッと地面へ唾(つば)をはいた。
「じゃ、よっぽど永く経(た)った死骸なんですネ」
「そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ」
「ナニ、若い女の屍体?」帆村はドキンと胸を打たれた。そうだ、今日は探しに歩こうと思っていたあの女の屍体かも知れない。日数が経っているところから云っても、これは見遁(みのが)せないぞと、心の中で叫んだ。
「そこは、その女の人の借りている室なんですか」
「いいえ、そうじゃないですよ。あすこは潮(うしお)さんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで……」
「その潮さんというのは、若(も)しや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう」
「よく知ってますね」と内儀さんは、はだけた胸を掻(か)き合(あ)わせながら云った。「ちょいといい男ですわヨ、ホッホッホ」
 帆村は苦笑した。
「あらッ、向うから潮さんが帰ってきちゃったわ」
「えッ」と帆村は駭(おどろ)いて、内儀さんの視線の彼方を見た。
「まア大変顔色がわるいけれど、あの人に違いない……」
 その言葉の終らないうちに、帆村は向うから飄々(ひょうひょう)とやってくる潮らしき人物の袂(たもと)を抑(おさ)えていた。
「潮君」
「呀(あ)ッ」
 青年は帆村の手をヒラリと払って、とッとと逃げ出した。帆村はもう必死で、このコンパスの長い韋駄天(いだてん)を追駈(おいか)けた。そして横丁を曲ったところで追付いて、遂(つい)に組打ちが始まった。そのとき青年の懐中(ふところ)から、コロコロと平べったい丸缶(まるかん)のようなものが転げ出て、溝(みぞ)の方へ動いていった。
「ああ――それは……」
 と青年の腕が伸びようとするところを、帆村は懸命に抑えて、うまく自分の手の内に収めた。そこへバラバラと警官と刑事とが駈けつけたので、帆村は間違われて二つ三つ蹴られ損(ぞん)をしただけで助かった。彼が手に入れたものは一巻のフィルムだった。それも十六ミリの小さいものだった。
 ああ、フィルムといえば、身許不明の轢死(れきし)婦人のハンドバッグに、フィルムの焼(や)け屑(くず)があったではないか。
 帆村は、深山理学士と情婦の桃枝との殺害場所を点検すると、大急ぎで日本堤署へ引かえした。その頃には、本庁からも予審判事が駈けつけていたが、もう何事も観念したものと見え、潮十吉という青年は、墓場から婦人の死骸を掘りだして遁(に)げたことを白状していた。しかし婦人が何者であるか、彼との関係はどうなのであるかについては中々口を緘(つぐ)んで語らなかった。フィルムのことは意外にも、深山理学士の室から奪ったものだと告白したが、事務室から千二百円の大金を盗んだことは極力(きょくりょく)否定した。
 あとは本庁で調べることとし、意気昂然(いきこうぜん)たる老判事は、潮十吉と帆村とを伴(ともな)って、警視庁へ引上げた。
 今朝の不機嫌をどこかへ落してしまった大江山捜査課長の前に、帆村探偵は手に入れた一巻のフィルムを置いて、いろいろと打合わせをした。
「じゃ、午後の五時に、本庁の第四映画検閲室(けんえつしつ)で試写ということにするのですね」
「そう決めましょう。じゃ万事(ばんじ)よろしく」捜査課長は、何が嬉しいのか、帆村の手をギュッと握った。


     8


 帆村は一名の警官と連れ立って、黒河内子爵(くろこうちししゃく)を訊ねた。子爵の代りに、例の白丘ダリアが出て、子爵は重態(じゅうたい)で、看護婦が二人もついている騒ぎだからと云った。
「実は、失踪された子爵夫人のことに関し、是非ご覧願いたい映画の試写があるのですが、それは困りましたネ」と帆村は長くもない頤(あご)を指先でつまんだ。
「映画ですか。あたし、代りに行きましょうか」
「そうですか。じゃ子爵の御了解(ごりょうかい)を得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう」
「ええ、いくわ」
 ダリアは、まだ繃帯のとれぬ大きな頭を振り振り奥に引きかえしたが、直(す)ぐコートと帽子とを持ってあらわれた。
「さあ、お伴しますわ」
 三人が警視庁についたのは、すこし早すぎた。
「ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ」
「退屈ですわネ」
「ちょっと永いですネ」と帆村は云った。「そうそう、この中に面白いものがありますよ。警官に射撃を訓練させるために、室内射的場(しゃてきば)がつくってあります。僕たちが行っても構わないのです。行ってみませんか」
「射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ」
「じゃいい。行ってみましょう」
 呑気千万(のんきせんばん)にも帆村は、ダリアを引張って、警官の射的室へ連れて来た。そこは矢場のように細長い室だが、手前の方に、拳銃(ピストル)を並べてある高い台があって、遥(はる)か向うの壁には、大きな掛図(かけず)のような的(まと)がかかっていた。その的というのは、白い紙の上に、水珠(みずたま)を寄せたように、茶椀(ちゃわん)ほどの大きさの、青だの、赤だの、黄だの円(まる)が、べた一面に描いてあって、その上に5とか3とかいう点数が記してあった。
「僕やってみましょうか」帆村は気軽に拳銃(ピストル)をとって、覘(ねら)いを定(さだ)めると、ドーンと一発やった。3点と書いた大きな赤円(あかまる)に、小さい穴がプスリと明いた。
「どうです。相当なものでしょう」
 そういいながら、彼は次から次へと、あまり点数の多くない色とりどりの円を、撃ちぬいていった。
「今度は、ダリアさん、やってごらんなさい」帆村は拳銃を彼女の方に薦(すす)めた。
「エエ――」とダリアは答えたが、「あたし、よすわ」とハッキリ云った。
「そんなことを云わないで、やってごらんなさいな」
「だってあたし……あたし、眼が悪くて駄目なんですわ」
 そういってダリアは、カラカラと男のような声で笑った。
 まだ時間はあったから、二人は食堂へ行った。そこでオレンジ・エードを注文して、麦藁(むぎわら)の管(くだ)でチュウチュウ吸った。
「警視庁なんてところ、随分(ずいぶん)開けてんのネ」ダリアは、帆村をすっかり友達扱いにしていた。
「それはそうですよ。貴女(あなた)みたいな方をお招きすることもありますのでネ」
「だけど、このオレンジ・エード、なんだか石鹸くさいのネ。あたし、よすッ」
 半分ばかり吸ったところで、ダリアは吸管(すいくだ)を置いた。
 そんなことをしている裡(うち)に時間が経って、警官がわざわざ二人を探しに来た程だった。
 階段を地下へ降りて、長い廊下をグルグル廻ってゆくと、大変天井の低い暗いところへ出た。例の赤外線男が出て来そうな気配(けはい)だったが、しかし仄暗(ほのぐら)いながら電灯がついているから停電でもしない限り先(ま)ず大丈夫だろう。
 映画検閲用の試写室は、思いの外(ほか)、広かった。壁は一様にチョコレート色に塗ってあり、まるで講堂のような座席が並んでいた。正面には二メートル平方位のスクリーンがあった。
 もう七八人の人が入っていた。雁金検事、中河判事、大江山捜査課長の顔も見えた。
 そこへ別の入口から、警官に護られて、潮十吉(うしおじゅうきち)が手錠(てじょう)をガチャガチャ云わせながら入って来て、最前列(さいぜんれつ)に席をとった。そこは、帆村探偵と白丘ダリアとが並んである丁度(ちょうど)その横だった。
「もうこれで皆さん全部お揃いですか」
 警官の映写技師が、一番後方から声をかけた。
「うん、揃ったぞ。もう始めて貰おうか」
 帆村のうしろにいた捜査課長が声をかけた。
「じゃ始めます。あれを演(や)る前に、一つ調子をつけるために、実写(じっしゃ)ものを一巻写してみます。ウィーンの牢獄です」
 スクリーンの上へ、サッと白い光が躍ると、室内の電灯がパッと消された。一座はハッと緊張した。まずスクリーンの明るさで、室の中は暗闇だというほどではないが、しかし椅子の下、後方の両脇などには、小暗(こぐら)い蔭があった。それにこうして平然と、画面に見入(みい)っていていいものかしら、赤外線男の出てくるには屈強(くっきょう)な地下室ではないか。
 しかし一巻の映画は、極めて短いものであった。そしてまだ映画がうつっているのに、早くも電灯がパッと明るく室内を照らした。
「さあ、いよいよこの次だ」
「一体どんな映画なのだろう」
 人々は胸のうちに、あれやこれやと想像をめぐらせた。
「私を外へ出して下さい」潮十吉は隣りに遊んでいる警官に訴えた。
「いや、ならん」
 警官の声はあっけなかった。
 さあ、いよいよ問題の映画が写し出されようとしている。潮十吉が、深山理学士のところから奪って来たフィルムはこれだ。そして身許(みもと)不明の轢死(れきし)婦人のハンドバッグの底に発見せられたのも、矢張(やは)り同じフィルムだった。この映画が写し出されたが最後、意外なことが起るのではないか。既に靴の跡によって嫌疑(けんぎ)の深い潮十吉であるが、この一巻の映画によって、彼の正体が暴露(ばくろ)するのではあるまいか。赤外線男は潮十吉か。或いは赤外線男の合棒(あいぼう)でもあるか。
 カタリと音がして、スクリーンの上に、青白い光芒(こうぼう)が走った。こんどは十六ミリであるから、画面はスクリーンの真中(まんなか)に小さくうつった。
「ああ、これは……」
「ウム……」
 画面の展開につれ、人々は苦しそうに呻(うな)った。誰かが、いやらしい咳払(せきばら)いをした。
 いまスクリーンに写っている画面には二人の人物が出ている。
「ああ、こっちは、潮十吉だな」帆村は、あえぐように叫んだ。
「ああ、あれは伯母(おば)様ですわ。伯母様に違いないわ。だけど、ホホ……まッ……」
 といったきり、白丘ダリアは口を噤(つぐ)んだ。
 さて画面に、それから如何なる情景(じょうけい)が展開していったか、その内容についてはここに記(しる)すことが許されぬ。しかしそれは密閉されたる室のうちで演じられている怪しげなる戯(たわむ)れだった。斯(か)かる情景は人目のつかぬ真夜中に行うべきものだと思うのに、それがまことに明るい光の下に於て行われている。そのいぶかしさは、尚(なお)も仔細に画面を点検すれば、次第に明瞭(めいりょう)だった。それは赤外線で撮影した活動写真であったのだ。
 恐らく場面は、真夜中であったろう。真暗な室の中に、この場のことは演ぜられたのに違いない。それにも係(かかわ)らず、この室にどこからか赤外線を当て、それを赤外線の活動写真に撮影したのだった。そして人物は子爵(ししゃく)夫人黒河内京子と青年潮十吉!
 さてこの呪うべき撮影者は、一体誰であるか。
 潮はこの映画の写っている間は、頭を下げ顔を掩(おお)うたまま、一度も首をあげようとはしなかった。映画が終って、一座の深い溜息(ためいき)と共に、パッと電灯がついた。
「潮」大江山課長は声をかけた。「この撮影者は誰か」
「あいつです」青年はグッと首をもちあげた。「あいつです。深山楢彦(みやまならひこ)――彼奴(あいつ)がやったんです。子爵夫人と僕とは間違ったことをしていました。深山は而(しか)も夫人に恋をしていたのです。彼奴(あいつ)は私達の深夜の室をひそかに窺(うかが)って暗黒の中にあの赤外線映画をとってしまったんです。深山はそれをもって可憐(かれん)なる子爵夫人を幾度となく脅迫(きょうはく)しました。一度は夫人があのフィルムの一端(いったん)を奪ったのですが、それは焼いてしまいました。バッグの底にのこっているフィルムの焼け屑は、あれだったんです。鬼のような深山は、赤外線利用の技術を悪用して、それまでにも、人の寝室を密(ひそ)かに写真にとっては、打ち興じていたという痴漢(ちかん)です。しかし飽(あ)くまで夫人に未練(みれん)をもつ彼は、夫人が意に従わないときはあの映画を公開するといって脅(おびや)かしたのです。夫人は凡(すべ)てを観念し、とうとう新宿のプラットホームからとびこまれたのです。これも皆、深山の仕業です。夫人は身許(みもと)のわかることを恐れて、いつもあのような服装を持って居られました。あれは最も平凡な、世間にザラにある持ちものを集められたのです。いわば月並(つきなみ)の衣類なり所持品です。それがうまく効(こう)を奏して隅田(すみだ)氏の妹と間違えられたのです。顔面の諸(もろ)に砕(くだ)けたのは、神も夫人の心根(こころね)を哀(あわれ)み給いてのことでしょう。僕は復讐を誓いました。そして深山の室に闖入(ちんにゅう)して、あのフィルムを奪回(だっかい)したのです。彼奴(かやつ)を探しましたが、どうしたものかベッドはあっても姿はありません。早くも風を喰らって逃げてしまった後だったのです。それから僕は……」
 このとき白丘ダリアは、先刻(さっき)から耐えていた尿意(にょうい)が、どうにももう持ちきれなくなった。その激しさは、いまだ経験したことが無い位だった。彼女は慌(あわ)てて試写室を出ると、薄暗い廊下に飛び出した。見ると、直ぐ間近(まぢ)かに、赤い灯火(ともしび)が点(とも)っていて、それに「便所」という文字が読めた。
 彼女は、飛び立つ想いで、そこの扉(ドア)を押した。扉があくと、そこには清潔な便器が並んでいる洋風厠(ようふうかわや)だった。ダリアはその一つに飛びこんで、パタリと戸を寄せると、気持のよい程、充分に用を足した。
 大きい鏡があったので、ダリアはそこで繃帯(ほうたい)を気にしながら、硫酸(りゅうさん)の焼け跡のある顔へ粉白粉(こなおしろい)を叩いた。そして入口の扉を押して、廊下に出た。その途端(とたん)にダリアはハッと駭(おどろ)いて、
「呀(あ)ッ」
 と声をあげた。
 そこには思いがけなくも、帆村を始め、捜査課長、検事、判事など十四五人が、ダリアの方に身構(みがま)えをしていた。
「まア、どうしたんです。帆村さん」
 ダリアの救いを求めた帆村は、最早(もはや)、先刻、射的(しゃてき)で遊んだ帆村とは別人(べつじん)のようであった。
「白丘ダリアさん。それは今大江山捜査課長から説明して下さるでしょう」
 言下(げんか)に大江山課長はヌッと前へ出た。
「白丘ダリア。いま汝(なんじ)を逮捕する」
「あたしを逮捕するって、冗談はよして下さい」
「まだ白っぱくれているな。吾々の眼はもう胡魔化(ごまか)されんぞ。白丘ダリアが嫌いだったら、『赤外線男』として汝を捕縛(ほばく)する。それッ」
 ワッと喚(わめ)いて、選(え)りぬきの腕に覚えのある刑事が、ダリアの上に折り重なった。もう遁(に)げる道もなければ、方法もなかった。
「赤外線男」は、それっきり自由を奪われてしまった。
     *   *   *
 事件が一段落(だんらく)ついた後の或る日、筆者(わたくし)は南伊豆(みなみいず)の温泉場で、はからずも帆村探偵に巡(めぐ)りあった。彼は丁度(ちょうど)事件で疲れた頭脳を鳥渡(ちょっと)やすめに来ていたところだった。仄(ほの)かに硫黄(いおう)の香(かおり)の残っている浴後(よくご)の膚(はだ)を懐(なつか)しみながら、二人きりで冷いビールを酌(く)み交(か)わした。そのとき彼の口から、この事件の一切の顛末(てんまつ)を聞くことが出来たのだった。彼は中学校で同級だったときのあの飾り気のない口調(くちょう)で、こんな風に最後の解決を語った。

「『赤外線男』が白丘ダリアといったんでは、警官の中にも本気にしない人があった位だよ。しかし要点を云うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が便宜上(べんぎじょう)拵(こしら)えた創作的観念であって、実在ではなかった。
 何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間を呀(あ)ッと云わせて虚名(きょめい)を博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が消費(つかい)こんだ大金(おおがね)の穴埋(あなう)めに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、逸早(いちはや)く彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。
 しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は情婦(じょうふ)という評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分貢(みつ)いだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。
 もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との秘交(ひこう)を赤外線映画にうつしたのは、夫人に挑(いど)むことよりも莫大(ばくだい)な金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないで済(す)んだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。
 そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの狒々(ひひ)のような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろと唆(そその)かしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。
 しかしダリアの使嗾(しそう)に乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない情婦(じょうふ)桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった恰好(かっこう)になった。其(そ)の後(ご)に来るもの――それを考えると彼は安閑(あんかん)としていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのを幸(さいわ)い、水素瓦斯(ガス)を使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目を醒(さ)まされ、不成功に終ってしまったのだ。
 ダリアはこの事を勿論(もちろん)感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を荒立(あらだ)てる代りに、一層(いっそう)深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを牛耳(ぎゅうじ)ってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、右眼(うがん)は大した損傷(そんしょう)もなかったが、左眼(さがん)はまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼が潰(つぶ)れたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌に侵(おか)されて駄目になると、のこりの一方の肺が代償(だいしょう)として急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼の明(めい)を失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、一眼(いちがん)になって異常な視神経の発達により、普通の人には到底(とうてい)見えない赤外線までが、アリアリと彼女の網膜(もうまく)には映(えい)ずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリ視(み)える。――この異常な感覚を自覚したときのダリアの狂喜(きょうき)ぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。殺人淫楽者(さつじんいんらくしゃ)という恐ろしい犯罪者に堕(お)ちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って秘密曝露(ひみつばくろ)の鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」
 そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、琥珀色(こはくいろ)の液体をグーッと呑(の)み乾(ほ)した。筆者(わたくし)は壜(びん)をとりあげると、静かに酌(つ)いでやった。
「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが阻害(そがい)された。誰があの暗黒(あんこく)のなかで、選(よ)りに選(よ)って非常に正確を要する延髄(えんずい)の真中に鍼(はり)を刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という超人(ちょうじん)でなければ、到底(とうてい)想像し得られないことだった。ダリア嬢は、然(しか)りその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの銀鍼(ぎんばり)をシャープペンシルの軸(じく)の中に隠して持っていたのだった。
 これに対して僕の探偵力は、全く貧弱(ひんじゃく)なものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するより外(ほか)に仕方がなくなるのだ。僕はそんな莫迦気(ばかげ)たことがと排斥(はいせき)していたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。
『赤外線男』が殺人をやるようになったのは極(ご)く最近のことだ。以前に於(おい)ては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に探索(たんさく)の結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としても化(ば)けの皮を剥(は)いでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との秘交(ひこう)の赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスを掴(つか)む計画を樹(た)てた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。
 最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの水珠(みずたま)のように円(まる)い標的(ひょうてき)を二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険を悟(さと)って拳銃(ピストル)をとりあげようとはしなかった。若(も)しあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している深山(みやま)の別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼に映(うつ)るからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことから脱(の)がれた。しかし射撃を拒(こば)んだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる効能(ききめ)はあった。
 さて、最後のトリック――それには鬼才(きさい)ダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし下卑(げび)た話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい尿意(にょうい)を催(もよお)したのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るや否(いな)やダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような粗相(そそう)を演ずることになる。彼女は極度に狼狽(ろうばい)していたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤い灯(あかり)がついている。彼女は扉(ドア)を押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかし茲(ここ)に彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。
 それは、この『便所』と書いた赤い灯(あかり)は、普通の視力をもった人間には、到底(とうてい)発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を無造作(むぞうさ)に通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景は予(かね)て張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。流石(さすが)のダリア嬢もこうなっては策の施(ほどこ)しようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』――いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」




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