恐しき通夜
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:海野十三 

     ×
 それを見届けると、大蘆原軍医は始めて莞爾(かんじ)と笑って、側(かたわ)らに擦(す)りよってくる紅子の手をとって、入口の扉(と)の方にむかって歩きだした。
 今宵、紅子は、彼女の良人(おっと)、川波大尉を射殺して置きながら、それを振返ってみようともしないのは、どうしたことであるか。それは、川波大尉こそは、第一話に出て来た熊内中尉に、あの恐ろしい無理心中を使嗾(しそう)した悪漢だった。そのために、当時、鮎川紅子(あゆかわべにこ)と名乗っていた彼女は、愛の殿堂(でんどう)にまつりあげておいた婚約者の竹花中尉を、永遠に喪(うしな)ってしまったのだった。
 いわば、今宵(こよい)の良人(おっと)射殺事件は、あたかも竹花中尉の敵打(かたきう)ちをしたようなものだった。この隠れた事実を、紅子が知ったのは、極(ご)く最近のことで、それを教えたのは、炯眼(けいがん)きまわる大蘆原軍医だった。今夜の紅子の登場も、無論、軍医の書いたプログラムの一つだった。
 ここへ来て、この軍医を賞讃する前に、読者諸君は、すこし考えてみなければならない。それは、いくら愛する妹の復讐とは云え、彼女の産みおとしたものを、人間に喰わせるという手段が、人道上許されるものであろうかどうか。奇怪にも友人の細君だった婦人を、狎(な)れ狎(な)れしく、かき抱いてゆく大蘆原軍医は、誰よりも一番恐ろしい、鬼か魔かというべき人物ではあるまいか。
 それはそれとして、二人の姿が、戸外の闇に紛(まぎ)れて、見えなくなった丁度その時、血みどろに染った二つの死骸が転っている実験室では、真夜中の十二時を報ずる柱時計が、ボーン、ボーンと、無気味な音をたてて、鳴り始めたのだった。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:35 KB

担当:undef