新生
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著者名:島崎藤村 

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    序の章



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        一

「岸本君――僕は僕の近来の生活と思想の断片を君に書いて送ろうと思う。然(しか)し実を言えば何も書く材料は無いのである。黙していて済むことである。君と僕との交誼(まじわり)が深ければ深いほど、黙していた方が順当なのであろう。旧(ふる)い家を去って新しい家に移った僕は懶惰(らんだ)に費す日の多くなったのをよろこぶぐらいなものである。僕には働くということが出来ない。他人の意志の下に働くということは無論どうあっても出来ない。そんなら自分の意志の鞭(むち)を背にうけて、厳粛な人生の途(みち)に上るかというに、それも出来ない。今までに一つとして纏(まとま)った仕事をして来なかったのが何よりの証拠である。空と雲と大地とは一日眺(なが)めくらしても飽くことを知らないが、半日の読書は僕を倦(う)ましめることが多い。新しい家に移ってからは、空地に好める樹木を栽(う)えたり、ほんの慰み半分に畑をいじったりするぐらいの仕事しかしないのである。そして僅(わず)かに発芽する蔬菜(そさい)のたぐいを順次に生に忠実な虫に供養するまでである。勿論(もちろん)厨房(ちゅうぼう)の助に成ろう筈(はず)はない。こんな有様であるから田園生活なんどは毛頭(もうとう)思いも寄らぬことである。僕の生活は相変らず空(くう)な生活で始終している。そして当然僕の生涯の絃(げん)の上には倦怠(けんたい)と懶惰が灰色の手を置いているのである。考えて見れば、これが生の充実という現代の金口(きんく)に何等(なんら)の信仰をも持たぬ人間の必定(ひつじょう)堕(お)ちて行く羽目(はめ)であろう。それならそれを悔むかというに、僕にはそれすら出来ない。何故かというに僕の肉体には本能的な生の衝動が極(きわ)めて微弱になって了(しま)ったからである。永遠に堕ちて行くのは無為の陥穽(かんせい)である。然しながら無為の陥穽にはまった人間にもなお一つ残されたる信仰がある。二千年も三千年も言い古した、哲理の発端で総合である無常――僕は僕の生気の失せた肉体を通して、この無常の鐘の音を今更ながらしみじみと聴き惚(ほ)るることがある。これが僕のこのごろの生活の根調である……」
 郊外の中野の方に住む友人の手紙が岸本の前に披(ひろ)げてあった。
 これは数月前に岸本の貰(もら)った手紙だ。それを彼は取出して来て、読返して見た。若かった頃は彼も友人に宛(あ)てて随分長い手紙を書き、また友人の方からも貰いもしたものであったが、次第に書きかわす文通もほんの用事だけの短いものと成って行った。それも葉書で済ませる場合にはなるべく簡単に。それだけ書くべき手紙の数が一方には増(ふ)えて来た。一日かかって何通となく書くことはめずらしくない。その意味から言えば、彼の前に披げてあったものは、めったに友人から貰うことの出来る手紙でもなかった。手紙の形式をかりて書いて寄(よこ)してくれた手紙でない手紙だ。読んで行くうちに、彼は何よりも先(ま)ず人生の半ばに行き着いた人一人としての友人の生活のすがたに、その告白に、ひどく胸を打たれた。ある夕方が来て見ると、あだかも彼方(あっち)の木に集り是方(こっち)の木に集りして飛び騒いでいた小鳥の群が、一羽黙り、二羽黙り、がやがやとした楽しい鳴声が何時(いつ)の間にか沈まって行ったように、丁度そうした夕方が岸本の周囲へも来た。中にも、この手紙をくれた友人が中野の方へ新しい家を造って引移ってからというものは、ずっと声を潜めてしまった。ほんとに黙ってしまった。
 読みかけた手紙を前に置いて、岸本は十四五年このかた変ることのない敬愛の情を寄せたこの友人に自分の生涯を比べて見た。

        二

 岸本は更に読みつづけた。
「……郊外に居を移してから僕の宗教的情調は稍(やや)深くなって来た。僕の仏教は勿論僕の身体を薫染(くんせん)した仏教的気分に過ぎないのである。僕は涅槃(ねはん)に到達するよりも涅槃に迷いたい方である。幻の清浄を体得するよりも、寧(むし)ろ如幻(にょげん)の境に暫(しばら)く倦怠と懶惰の「我(が)」を寄せたいのである。睡(ねむ)っている中に不可思議な夢を感ずるように、倦怠と懶惰の生を神秘と歓喜の生に変えたいのである。無常の宗教から蠱惑(こわく)の芸術に行きたいのである……斯様(かよう)に懶惰な僕も郊外の冬が多少珍らしかったので、日記をつけて見た。去年の十一月四日初めて霜が降った。それから十一日には二度目の霜が降った。四度目の霜である十二月朔日(ついたち)は雪のようであった。そしてその七日八日九日は三朝続いたひどい霜で、八(や)ツ手(で)や、つわぶきの葉が萎(な)えた。その八日の朝初氷が張った。二十二日以後は完全な冬季の状態に移って、丹沢山塊から秩父(ちちぶ)連山にかけて雪の色を見る日が多くなった。風がまたひどく吹いた。然し概して言えば初冬の野の景色はしみじみと面白いものである。霜の色の蒼白(あおじろ)さは雪よりも滋(しげ)くて切ない趣がある。それとは反対に霜どけの土の色の深さは初夏の雨上りよりも快濶(かいかつ)である。またほろほろになった苔(こけ)が霜どけに潤って朝の日に照らさるる時、大地の色彩の美は殆(ほとん)ど頂点に達するのである。この時の苔の緑は如何(いか)なる種類の緑よりも鮮(あざや)かで生気がある。あだかも緑玉を砕いて棄(す)てたようである。またあだかも印象派の画布(カンバス)を見るようでもある。僕はわびしい冬の幻相の中で、こんな美しい緑に出会おうとも思いがけなかったのである。僕の魂も肉もかかる幻相の美に囚(とら)われている刹那(せつな)、如幻の生も楽しく、夢の浮世も宝玉のように愛惜せられるのである。然しながら自然の幻相は何等の努力の発現でないのと等しく、その幻相の完全な領略はまた何等の努力をも待たないものである。夢をして夢と過ぎしめよ……」
 芸術的生活と宗教的生活との融合を試みようとしているような中野の友人には、相応な資産と倹約な習慣とを遺(のこ)して置いて行った父親があって、この手紙にもよくあらわれている静寂な沈黙を味(あじわ)い得るほどの余裕というものが与えられていた。岸本にはそれが無かった。中野の友人には朝に晩にかしずく好い細君があった。岸本にはそれも無かった。彼の妻は七人目の女の児を産むと同時に産後の激しい出血で亡(な)くなった。
 山を下りて都会に暮すように成ってから岸本には七年の月日が経(た)った。その間、不思議なくらい親しいものの死が続いた。彼の長女の死。次女の死。三女の死。妻の死。つづいて愛する甥(おい)の死。彼のたましいは揺(ゆすぶ)られ通しに揺られた。ずっと以前に岸本もまだ若く友人も皆な若かった頃に、彼には青木という友人があったが、青木は中野の友人なぞを知らないで早く亡くなった。あの青木の亡くなった年から数えると、岸本は十七年も余計に生き延びた。そして彼の近い周囲にあったもので、滅びるものは滅びて行ってしまい、次第に独(ひと)りぼっちの身と成って行った。

        三

 まだ新しい記憶として岸本の胸に上って来る一つの光景があった。続きに続いた親しいものの死から散々に脅(おびやか)された彼は復(ま)たしてもその光景によって否応(いやおう)なしに見せつけられたと思うものがあった。それは会葬者の一人として麹町(こうじまち)の見附内(みつけうち)にある教会堂に行われた弔いの儀式に列(つらな)った時のことだ。黒い布をかけ、二つの花輪を飾った寝棺が説教台の下に置いてあった。その中には岸本の旧い学友で、耶蘇(やそ)信徒で、二十一年ばかりも前に一緒に同じ学校を卒業した男の遺骸(いがい)が納めてあった。肺病で亡くなった学友を弔うための儀式は生前その人が来てよく腰掛けた教会堂の内で至極質素に行われた。やがて寝棺は中央の腰掛椅子の間を通り、壁に添うて教会堂の出入口の方へ運ばれて来た。亡くなった人のためには極く若い学生時代に教を説いて聞かせるからその日の弔いの説教までして面倒を見た牧師をはじめ、親戚(しんせき)友人などがその寝棺の前後左右を持ち支(ささ)えながら。
 岸本は灰色な壁のところに立って、その光景を眺(なが)めていた。その日は岸本の外に、足立(あだち)、菅(すげ)の二人も弔いにやって来ていた。三人とも亡くなった人の同窓の友だ。
「吾儕(われわれ)の仲間はこれだけかい」
 と菅は言って、同じ卒業生仲間を探(さが)すような眼付をした。
「誰かまだ見えそうなものだ」
 と足立も言った。
 会葬のために集まった人達は思い思いに散じつつあった。しばらく岸本は二人の学友と一緒に教会堂の内に残って、帰り行く信徒の群なぞを眺めて立っていた。そこへ来て親戚の代りとして挨拶(あいさつ)した年老いた人があった。三人とも世話になった以前の学校の幹事さんだ。
「可哀そうなことをしました」
 とその幹事さんが亡くなった学友のことを言った。
「子供は幾人(いくたり)あったんですか」
 と岸本が尋ねた。
「四人」
 と幹事さんは言って見せて、「後がすこし困るテ」という言葉を残しながら別れて行った。
 二人の学友と連立って岸本が帰りかけた頃は、会葬者は大抵出て行ってしまった。人気(ひとけ)の少い会堂の建物のみが残った。正面にある尖(とが)ったアーチ風の飾、高い壁、今が今まで花輪を飾った寝棺がその前に置かれてあった質素な説教台のみが残った。会葬者一同が立去った後の沢山並べてある長い腰掛椅子のみが残った。弔いの儀式のために特に用意したらしい説教台の横手にある大きな花瓶(かびん)と花と葉とのみが残った。そろそろ熱くなりかける時分のことで、教会堂風な窓々から明く射(さ)しこんで来る五月の日の光のみが残った。
 岸本は立去りがたい思をして、高い天井の下に映る日の光を眺めながら、つくづく生き残るものの悲哀(かなしみ)を覚えた。その悲哀を多くの親しい身内のものに死別れた後の底疲れに疲れて来た自分の身体で覚えた。
 足立や菅を見ると、若かった日の交遊が岸本の胸に浮んで来る。つづいてあの亡くなった青木のことなぞが聯想(れんそう)せられる。岸本と一緒にその教会堂の石階(いしだん)を降りた二人の学友は最早(もう)青木なぞの生きていた日のことを昔話にするような人達に成っていた。

        四

 それから岸本は二人の学友と一緒に見附を指(さ)して歩いた。久し振(ぶり)で足立の家の方へ誘われて行った。岸本を教会堂まで送って行った車夫は空車を引きながら、話し話し歩いて行く岸本の後へ随(つ)いて来た。
「何年振で会堂へ来て見たか」そんな話をして行くうちに、旧い見附跡に近い空地(あきち)のところへ出た。風の多い塵埃(ほこり)の立つ日で、黄ばんだ砂煙が渦を巻いてやって来た。その度(たび)に足立も、菅も、岸本も、背中をそむけて塵埃の通過ぎるのを待っては復(ま)た歩いた。
 蒸々と熱い日あたりは三人の行く先にあった。牧師が説教台の上で読んだ亡い学友の略伝――四十五年の人の一生――互にそのことを語り合いながら、城下らしい地勢の残ったところについて緩慢(なだらか)な坂の道を静かに上って行った。
「先刻(さっき)、僕が吾家(うち)から出掛けて来ると、丁度御濠端(おほりばた)のところで皆に遭遇(でっくわ)した。僕は棺に随いて会堂までやって行った」
 と言出したのは三人の中でも一番年長(としうえ)な足立であった。
「吾儕(われわれ)の組では、最早(もう)幾人(いくたり)亡くなってるだろう」
 それを岸本が言うと、足立は例の精(くわ)しいことの好きな調子で、
「二十人の卒業生の中が、四人欠けていたんだろう。これで五人目だ」
「まだ誰か死んでやしないか。もっと居ないような気がするぜ」それを言ったのは菅だ。
「この次は誰の番だろう」
 あの足立の串談(じょうだん)には、菅も岸本も黙ってしまった。しばらく三人は黙って歩いて行った。
「この三人の中じゃ、一番先へ僕が逝(い)きそうだ」と復(ま)た足立が笑いながら言出した。
「僕の方が怪しい」岸本はそれを言わずにいられなかった。
「ナニ、君は大丈夫だよ。僕こそ一番先かも知れない」と菅は串談のようにそれを言って笑った。
「ところがネ、僕はマイるものなら、この一二年にマイってしまいそうな気がする……」
 この岸本の言葉は二人の学友には串談とも聞えたか知れないが、彼自身は自分で自分の言ったことを笑えなかった。煙のような風塵(かざぼこり)が復た恐ろしくやって、彼は口の中がジャリジャリするほど砂を浴びた。
 その日は葬式の帰りがけにも関(かかわ)らず菅と二人で足立の家へ押掛けた。
「こうして揃(そろ)って来て貰うことは、めったに無い」それを足立が言っていろいろと持成(もてな)してくれた。思わず岸本は話し込んで、車夫を門前に待たせて置きながら、日暮頃までも話した。
「皆一緒に学校を出た時分――あの頃は、何か面白そうなことが先の方に吾儕を待っているような気がした。こうしているのが、これが君、人生かねえ」
 言出すつもりもなく岸本はそれを二人の学友の前に言出した。
「そうサ、これが人生だ」と菅は冷静な調子で言った。「僕はそう思うと変な気のすることがある」
「もうすこしどうかいうことは無いものかね」
 と岸本が言うと、足立はそれを引取って、
「そんなに面白いことが有ると思うのが、間違いだよ」
 足立の部屋に菅と集まって見て、岸本はそこにも不思議な沈黙が旧い馴染(なじみ)の三人を支配していることを感じたのであった。それほど隔ての無い仲間同志にあっても、それほど喋舌(しゃべ)ったり笑ったりしても、互いに心(しん)が黙っていた。
「どうしてもこのままじゃ、僕には死に切れない」
 岸本はまた、それを言わずにいられなかった。
 これらの談話の記憶、これらの光景の記憶、これらの出来事の記憶、これらの心の経験の記憶――すべては岸本に取って生々しいほど新しかった。何かにつけて彼は自分の一生の危機が近づいたと思わせるような、ある忌(いまわ)しい予感に脅されるように成った。

        五

 学友の死を思いつづけながら、神田川に添うて足立の家の方から帰って来た車の上も、岸本には忘れがたい記憶の一つとして残っていた。古代の人が言った地水火風というようなことまで、しきりと彼の想像に上って来たのも、あの車の上であった。火か、水か、土か、何かこう迷信に近いほどの熱意をもって生々しく元始的な自然の刺激に触れて見たら、あるいは自分を救うことが出来ようかと考えたのも、あの車の上であった。
 生存の測りがたさ。曾(かつ)て岸本が妻子を引連れて山を下りようとした頃にこうした重い澱(よど)んだものが一生の旅の途中で自分を待受けようとは、どうして思いがけよう。中野の友人にやって来たというような倦怠は、彼にもやって来た。曾て彼の精神を高めたような幾多の美しい生活を送った人達のことも、皆空虚(うつろ)のように成ってしまった。彼はほとほと生活の興味をすら失いかけた。日がな一日侘(わび)しい単調な物音が自分の部屋の障子に響いて来たり、果しもないような寂寞(せきばく)に閉(とざ)される思いをしたりして、しばらくもう人も訪(たず)ねず、冷い壁を見つめたまま坐ったきりの人のように成ってしまった。これはそもそも過度な労作の結果か、半生を通してめぐりにめぐった原因の無い憂鬱(ゆううつ)の結果か、それとも母親のない幼い子供等を控えて三年近くの苦艱(くかん)と戦った結果か、いずれとも彼には言うことが出来なかった。
 中野の友人から貰った手紙の終(しまい)の方には、こんな事も書いてある。
「岸本君、僕はもう黙して可(い)い頃であろう。倦怠と懶惰(らんだ)は僕が僕自身に還(かえ)るのを待っている。眼も疲れ心も疲れた。ふと花壇のほとりを見やると、白い蝴蝶(こちょう)がすがれた花壇に咲いた最初の花を探しあてたところである。そしてその蝴蝶も今年になって初めて見た蝴蝶である。僕の好きな山椿(やまつばき)の花も追々盛りになるであろう。十日ばかり前から山茱黄(やまぐみ)と樒(しきみ)の花が咲いている。いずれも寂しい花である。ことに樒の花は臘梅(ろうばい)もどきで、韵致(いんち)の高い花である。その花を見る僕の心は寂しく顫(ふる)えている」こう結んである。
 中野の友人には子が無かった。曾て岸本の二番目の男の児を引取って養おうと言ってくれたこともあった。しかし、頑是(がんぜ)なく聞分けのない子供は一週間と友人の家に居つかなかった。結局岸本は二人の子供を手許(てもと)に置き、一人を郷里の姉の家に托(たく)した。常陸(ひたち)の海岸の方にある乳母(うば)の家へ預けた末の女の児のためにも月々の仕送りを忘れる訳にはいかなかった。彼はもう黙って、黙って、絶間なしに労作を続けた。
 岸本の四十二という歳(とし)も間近に迫って来ていた。前途の不安は、世に男の大厄(たいやく)というような言葉にさえ耳を傾けさせた。彼は中野の友人に自分を比べて、こんな風に言って見たこともある。友人のは生々とした寛(くつろ)いだ沈黙で、自分のは死んだ沈黙であると。その死んだ沈黙で、彼は自分の身に襲い迫って来るような強い嵐(あらし)を待受けた。


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    第一巻



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        一

 神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本は日頃歩くことを楽みにする河岸(かし)へ出た。そして非常に静かにその河岸を歩いた。あだかも自分の部屋のつい外にある長い廊下でも歩いて見るように。
 その河岸へ来る度(たび)に、釣船屋(つりぶねや)米穀の問屋もしくは閑雅な市人の住宅が柳並木を隔てて水に臨んでいるのを見る度に、きまりで岸本は胸に浮べる一人の未知な青年があった。ふとしたことから岸本はその青年からの手紙を貰(もら)って、彼が歩くことを楽みにする柳並木のかげは矢張(やはり)その青年が幾年となく好んで往来する場所であったことを知った。二人は互いに顔を合せたことも無いが、同じ好きな場所を見つけたということだけでは不思議に一致していた。それから青年は岸本に逢(あ)いたいと言って来た。その時、岸本は日頃逢い過ぎるほど人に逢っていることを書いて、吾儕(われわれ)二人は互いに未知の友として同じ柳並木のかげを楽もうではないか、という意味の返事をその青年に出した。この岸本の心持は届いたと見え、先方(さき)からも逢いたいという望みは強(し)いて捨てたと言って来て、手紙の遣(や)り取りがその時から続いた。例の柳並木、それで二人の心は通じていた。その青年に取っては河岸は岸本であった。岸本に取っては河岸はその青年であった。
 同じ水を眺(なが)め同じ土を踏むというだけのこんな知らないもの同志の手紙の上の交りが可成(かなり)長い間続いた。時にはその青年は旅から岸本の許(もと)へ葉書をくれ、どんなに海が青く光っていても別にこれぞという考えも湧(わ)かない、例の柳並木の方が寧(むし)ろ静かだと書いてよこしたり、時には東京の自宅の方から若い日に有りがちな、寂しい、頼りの無さそうな心持を細々(こまごま)と書いてよこしたりした。次第に岸本はそうした手紙を貰うことも少くなった。ぱったり消息も絶えてしまった。
「あの人もどうしたろう」
 と岸本は河岸を歩きながら自分で自分に言って見た。
 曾(かつ)てその青年から貰った葉書の中に、「あの柳並木のかげには石がございましょう」と書いてあった文句が妙に岸本の頭に残っていた。岸本はそれらしい石の側に立って、浅草橋の下の方から寒そうに流れて来る掘割の水を眺めながら、十八九ばかりに成ろうかとも思われる年頃の未知の青年を胸に描いて見た。曾て頬(ほお)へ触れるまでに低く垂(た)れ下った枝葉の青い香を嗅(か)いだ時は何故とも知らぬ懐(なつ)かしさに胸を踴(おど)らせたというその青年を胸に描いて見た。曾てその石に腰を掛け、膝(ひざ)の上に頬杖(ほおづえ)という形で、岸本がそこを歩く時のことをさまざまに想像したというその青年を胸に描いて見た。
 これほど若々しい心を寄せられた自分は、堪(た)え難いような哀愁を訴えられた自分は、互いに手紙を書きかわすというだけでも何等(なんら)かの力に思われた自分は――そこまで考えて行った時は、岸本はその石の側にも立っていられなかった。
 例の柳並木――そこにはもう青年は来なくなったらしい。以前と同じように歩きに来る岸本だけが残った。

        二

 青年が去った後の河岸には、二人の心を結び着けた柳並木も枯々としていた。岸本の心は静かではなかった。三年近い岸本の独身は決して彼の心を静かにさせては置かなかった。「お前はどうするつもりだ。何時(いつ)までお前はそうして独(ひと)りで暮しているつもりだ。お前の沈黙、お前の労苦には一体何の意味があるのだ。お前の独身は人の噂(うわさ)にまで上(のぼ)っているではないか」こう他(ひと)から言われることがあっても、彼は何と言って答えて可(い)いかを知らなかった。ある時は彼は北海道の曠野(こうや)に立つという寂しいトラピストの修道院に自分の部屋を譬(たと)えて見たこともある。先(ま)ず自己の墓を築いて置いて粗衣粗食で激しく労働しつつ無言の行をやるというあの修道院の内の僧侶(ぼうさん)達に自分の身を譬えて見たこともある。「自分はもう考えまいと思うけれども、どうしても考えずにはいられない」と言った人もあったとやら。岸本が矢張それだ。唯(ただ)彼は考えつづけて来た。
 河岸の船宿の前には石垣の近くに寄せて繋(つな)いである三四艘(そう)の小舟も見えた。岸本はつくづく澱(よど)み果てた自分の生活の恐ろしさから遁(のが)れようとして、二夏ばかり熱心に小舟を漕(こ)いで見たこともあった。その夏と、その前の年の夏と。もうどうにもこうにも遣切(やりき)れなくなって、そんなことを思いついた。彼が自分の部屋にジッと孤坐(すわ)ったぎり終(しまい)には身動きすることさえも厭(いと)わしく思うように成った二階から無理に降りて来て、毎朝早く小舟を出したのもその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川(すみだがわ)の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏の朝の空気を胸一ぱいに吸って、復(ま)た多くの荷船の通う中を漕ぎ帰って来たのもその石垣の側だ。
「岸本さん」
 と呼びかけて彼の方へ歩いて来る一人の少年があった。河岸の船宿の総領子息(むすこ)だ。
「こう寒くちゃ、舟もお仕舞(しまい)だね」
 と岸本も忸々(なれなれ)しく言った。彼は十五六ばかりになるその少年を小舟に乗る時の相手として、よく船宿から借りて連れて行った。少年ながらに櫓(ろ)を押すことは巧みであった。
 船宿の子息は岸本の顔を見ながら、
「貴方(あなた)のとこの泉(せん)ちゃんには、よく逢(あ)いますよ」
「君は泉ちゃんを知ってるんですか」と岸本が言った。彼はその少年の口から自分の子供の名を聞くのをめずらしく思った。
「よくこの辺へ遊びに来ますよ」
「へえ、こんな方まで遊びに来ますかねえ」
 と岸本は漸(ようや)くその年から小学校へ通うように成った自分の子供のことを言って見た。
 無心な少年に別れて、復た岸本は細い疎(まば)らな柳の枯枝の下った石垣に添いながら歩いて行った。柳橋を渡って直(すぐ)に左の方へ折れ曲ると、河岸の角に砂揚場(すなあげば)がある。二三の人がその砂揚場の近くに、何か意味ありげに立って眺めている。わざわざ足を留めて、砂揚場の空地(あきち)を眺めて、手持無沙汰(ぶさた)らしく帰って行く人もある。
「何があったんだろう」
 と岸本は独(ひと)りでつぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の眼に映った。

        三

 六年ばかり岸本も隅田川に近く暮して見て、水辺(みずべ)に住むものの誰しもが耳にするような噂をよく耳にしたことはあるが、ついぞまだ女の死体が流れ着いたという実際の場合に自分で遭遇(でっくわ)したことはなかった。偶然にも、彼はそうした出来事のあった場所に行き合わせた。
「今朝(けさ)……」
 砂揚場の側(わき)に立って眺めていた男の一人がそれを岸本に話した。
 両国の附近に漂着したという若い女の死体は既に運び去られた後で、検視の跡は綺麗(きれい)に取片付けられ、筵(むしろ)一枚そこに見られなかった。唯(ただ)、入水(にゅうすい)した女の噂のみがそこに残っていた。
 思いがけない悲劇を見たという心持で、岸本は家をさして引返して行った。彼の胸には最近に断った縁談のことが往(い)ったり来たりした。彼は自分の倦怠(けんたい)や疲労が、澱(よど)み果てた生活が、漸く人としてのさかりな年頃に達したばかりでどうかすると早や老人のように震えて来る身体が、それらが皆独身の結果であろうかと考えて見る時ほど忌々(いまいま)しく口惜(くや)しく思うことはなかった。「結婚するならば今だ」――そう言って心配してくれる友人の忠告に耳を傾けないではないが、実際の縁談となると何時でも彼は考えてしまった。
 岸本の恩人にあたる田辺(たなべ)の小父(おじ)さんという人の家でも、小父さんが亡(な)くなり、姉さんが亡くなって、岸本の書生時代からよく彼のことを「兄さん、兄さん」と呼び慣れた一人子息の弘の時代に成って来ていた。お婆さんはまだ達者だった。そのお婆さんがわざわざ年老いた体躯(からだ)を車で運んで来て勧めてくれた縁談もあったが、それも岸本は断った。郷里の方にある岸本の実の姉も心配して姉から言えば亡くなった自分の子息の嫁、岸本から言えば甥(おい)の太一の細君にあたる人を手紙でしきりに勧めて寄(よこ)したが、その縁談も岸本は断った。
「出来ることなら、そのままでいてくれ。何時までもそうした暮しを続けて行ってくれ」
 こういう意味の手紙を一方では岸本も貰わないではなかった。尤(もっと)も、そう言って寄してくれる人に限ってずっと年は若かった。
 独りに成って見て、はじめて岸本は世にもさまざまな境遇にある女の多いことを知るように成った。その中には、尼にも成ろうとする途中にあるのであるが、もしそちらで貰ってくれるなら嫁に行っても可(い)いというような、一度嫁(かたづ)いて出て来たというまだ若いさかりの年頃の女の人を数えることが出来た。女としての嗜(たしな)みも深く、学問もあって、家庭の人として何一つ欠くることは無いが、あまりに格の高い寺院(おてら)に生れた為、四十近くまで処女(おとめ)で暮して来たというような人を数えることも出来た。こうした人達は、よし居たにしても、今まで岸本には気がつかなかった。独りで居る女の数は、あるいは独りで居る男の数よりも多かろうか、とさえ岸本には思われた。

        四

 姪(めい)の節子は家の方で岸本を待っていた。河岸から岸本の住む町までの間には、横町一つ隔てて幾つかの狭い路地があった。岸本はどうにでも近道を通って家の方へ帰って行くことが出来た。
「子供は?」
 一寸(ちょっと)そこいらを歩き廻って戻って来た時でも、それを家のものに尋ねるのが岸本の癖のように成っていた。
 彼は節子の口から、兄の方の子供が友達に誘われて町へ遊びに行ったとか、弟の方が向いの家で遊んでいるとか、それを聞くまでは安心しなかった。
 節子が岸本の家へ手伝いに来たのは学校を卒業してしばらく経(た)った時からで、丁度その頃は彼女の姉の輝子も岸本の許(ところ)に来ていた。姉妹(きょうだい)二人は一年ばかりも一緒に岸本の子供の世話をして暮した。その夏他(よそ)へ嫁(かたづ)いて行く輝子を送ってからは、岸本は節子一人を頼りにして、使っている婆やと共にまだ幼い子供等の面倒を見て貰うことにしてあった。
 岸本の家へ来たばかりの頃の節子はまだ若かった。同じ姉妹でも、姉は学校で刺繍(ぬいとり)裁縫造花なぞを修め、彼女はむずかしい書籍(ほん)を読むことを習って来た。その節子が学窓を離れて岸本の家へ来て見た時は、筋向うには一中節(いっちゅうぶし)の師匠の家があり、その一軒置いて隣には名高い浮世画師の子孫にあたるという人の住む家があり、裏にはまた常磐津(ときわず)の家元の住居(すまい)なぞがあって、学芸に志す彼女の叔父の書斎をこうしたごちゃごちゃとした町中に見つけるということさえ、彼女はそれをめずらしそうに言っていた。「私が叔父さんの家へ来ていると言いましたら、学校の友達は羨(うらや)ましがりましたよ」それを言って見せる彼女の眼には、まだ学校に通っている娘のような輝きがあった。あの河岸の柳並木のかげを往来した未知の青年の心――寂しい、頼りのなさそうな若い日の懊悩(おうのう)をよく手紙で岸本のところへ訴えてよこした未知の青年の心――丁度あの青年に似たような心をもって、叔父(おじ)の許(もと)に身を寄せ、叔父を頼りにしている彼女の容子(ようす)が岸本にも感じられた。彼女の母や祖母(おばあ)さんは郷里の山間に、父は用事の都合あって長いこと名古屋に、姉の輝子は夫に随(つ)いて遠い外国に、東京には根岸に伯母(おば)の家があってもそこは留守居する女達ばかりで、民助伯父(おじ)――岸本から言えば一番年長(としうえ)の兄は台湾の方で、彼女の力になるようなものは叔父としての岸本一人より外に無かったから。その夏輝子が嫁いて行く時にも、岸本の家を半分親の家のようにして、そこから遠い新婚の旅に上って行ったくらいであるから。
「繁(しげる)さん、お遊びなさいな」
 と表口から呼ぶ近所の女の児の声がした。繁は岸本の二番目の子供だ。
「繁さんは遊びに行きましたよ」
 と節子は勝手口に近い部屋に居て答えた。彼女はよく遊びに通って来る一人の女の児に髪を結ってやっていた。その女の児は近くに住む針医の娘であった。
「子供が居ないと、莫迦(ばか)に家(うち)の内(なか)が静かだね」
 こう節子に話しかけながら、岸本は家の内を歩いて見た。そこへ婆やが勝手口の方から入って来た。
「お節ちゃん、女の死骸(しがい)が河岸へ上りましたそうですよ」
 と婆やは訛(なま)りのある調子で、町で聞いて来た噂を節子に話し聞かせた。
「なんでも、お腹に子供がありましたって。可哀そうにねえ」
 節子は針医の娘の髪を結いかけていたが、婆やからその話を聞いた時は厭(いや)な顔をした。

        五

「お節ちゃん」
 子供らしい声で呼んで、弟の繁が向いの家から戻って来た。針医の娘の髪を済まして子供の側へ寄った節子を見ると、繁はいきなり彼女の手に縋(すが)った。
 岸本は家の内を歩きながらこの光景(ありさま)を見ていた。彼は亡くなった妻の園子が形見としてこの世に置いて行った二番目の男の児や、子供に纏(まと)いつかれながらそこに立っている背の高い節子のすがたを今更のように眺(なが)めた。園子がまだ達者でいる時分は、節子は根岸の方から学校へ通っていたが、短い単衣(ひとえ)なぞを着て岸本の家へ遊びに来た頃の節子に比べると、眼前(めのまえ)に見る彼女は別の人のように姉さんらしく成っていた。
「繁ちゃん、お出(いで)」と岸本は子供の方へ手を出して見せた。「どれ、どんなに重くなったか、父さんが一つ見てやろう」
「父さんがいらっしゃいッて」と節子は繁の方へ顔を寄せて言った。岸本は嬉(うれ)しげに飛んで来る繁を後ろ向きにしっかりと抱きしめて、さも重そうに成人した子供の体躯(からだ)を持上げて見た。
「オオ重くなった」
 と岸本が言った。
「繁さん、今度は私の番よ」と針医の娘もそこへ来て、岸本の顔を見上げるようにした。「小父さん、私も――」
「これも重い」と言いながら、岸本は復(ま)た復たさも重そうに針医の娘を抱き上げた。
 急に繁は節子の方へ行って何物かを求めるように愚図(ぐず)り始めた。
「お節ちゃん」
 言葉尻(ことばじり)に力を入れて強請(ねだ)るようにするその母親のない子供の声は、求めても求めても得られないものを求めようとしているかのように岸本の耳に徹(こた)えた。
「繁ちゃんはお睡(ねむ)になったんでしょう――それでそんな声が出るんでしょう――」と節子が子供に言った。「おねんねなさいね。好いものを進(あ)げますからね」
 その時婆やは勝手口の方から来て、子供のために部屋の片隅(かたすみ)へ蒲団(ふとん)を敷いた。そこは長火鉢(ながひばち)なぞの置いてある下座敷で、二階にある岸本の書斎の丁度直(す)ぐ階下(した)に当っていた。節子は仏壇のところから蜜柑(みかん)を二つ取出して来て、一つを繁の手に握らせ、もう一つの黄色いやつを針医の娘の前へ持って行った。
「へえ、あなたにも一つ」
 そういう場合の節子には、言葉にも動作にも、彼女に特有な率直があった。
「さあ、繁ちゃん、お蜜柑もって、おねんねなさい」と節子は子供に添寝する母親のようにして、愚図々々言う繁の頭(つむり)を撫でてやりながら宥(なだ)めた。
「叔父さん、御免なさいね」
 こう言って子供の側に横に成っている節子や、部屋の内を取片付けている婆やを相手に、岸本は長火鉢の側で一服やりながら話す気に成った。
「これでも繁ちゃんは、一頃(ひところ)から見るといくらか温順(おとな)しく成ったろうか」と岸本が言出した。
「一日々々に違って来ましたよ」と節子は答えた。
「そりゃもう、旦那(だんな)さん、こちらへ私が上った頃から見ると、繁ちゃんは大変な違いです。お節ちゃんの姉さんがいらしった頃と、今とは――」と婆やも言葉を添える。
 この二人の答は岸本の聞きたいと思うものであった。彼はまだ何か言出そうとしたが、自分で自分を励ますように一つ二つ荒い息を吐(つ)いた。

        六

「厭(いや)、繁ちゃんは。懐(ふところ)へ手を入れたりなんかして」と節子は母親の懐でも探すようにする子供の顔を見て言った。「そんなことすると、もう一緒にねんねして進(あ)げません」
「温順(おとな)しくして、おねんねするんですよ」と婆やも子供の枕頭(まくらもと)に坐って言った。
「ほんとに繁ちゃんは子供のようじゃないのね」と節子は自分の懐を掻合(かきあわ)せるようにした。「だからあなたは大人と子供の合の子だなんて言われるんですよ――コドナだなんて」
「コドナには困ったねえ」と婆やは田舎訛(いなかなまり)を出して笑った。「あれ、復た愚図る。誰もあなたのことを笑ったんじゃ有りませんよ。今、今、皆なであなたのことを褒(ほ)めてるじゃ有りませんか。ほんとにまあ、私が上った頃から見ると繁ちゃんは大変に温順しくお成りなすったッて――ネ」
「さあ、おねんねなさいね」と節子は寝かかっている子供の短い髪を撫(な)でてやった。
「ああ、もう寝てしまったのか」と岸本は長火鉢の側に居て、子供の寝顔の方を覗(のぞ)くようにした。「ほんとに子供は早いものだね。罪の無いものだね……この児はなかなか手数が要(かか)る。どうして、繁ちゃんの暴(あば)れ方と来た日にゃ、戸は蹴(け)る、障子は破る、一度愚図り出したら容易に納まらないんだから……全く、一頃はえらかった。輝でも、節ちゃんでも困ったろうと思うよ」
「繁ちゃんでは随分泣かせられました」と言いながら、節子は極く静かに身を起して、そっと子供の側を離れた。「なにしろ、捉(つかま)えたら放さないんですもの――袖(そで)でも何でも切れちゃうんですもの」
「そうだったろうね。あの時分から見ると、繁ちゃんもいくらか物が分るように成って来たかナ」こう言う岸本の胸には、節子の姉がまだ新婚の旅に上らないで妹と一緒に子供等の世話をしていてくれたその年の夏のことが浮んで来た。二階に居て聞くと、階下(した)で繁の泣声が聞える――輝子も、節子も、一人の小さなものを持余(もてあま)しているように聞える――その度(たび)に岸本は口唇(くちびる)を噛(か)んで、二階から楼梯(はしごだん)を駆下りて来て見ると、「どうして、あんたはそう聞分けがないの」と言って、輝子は子供と一緒に泣いてしまっている――節子は節子で、泣叫ぶ子供から隠れて、障子の影で自分も泣いている――何卒(どうか)して子供を自然に育てたい、拳固(げんこ)の一つも食(くら)わせずに済むものならなるべくそんな手荒いことをせずに子供を育てたい、とそう岸本も思っても残酷な本能の力は怒なしに暴れ廻る子供を見ていられなくなる――「父さん、御免なさい、繁ちゃんはもう泣きませんから見てやって下さい」と子供の代りに詫(わ)びるように言う輝子の言葉を聞くまでは、岸本は心を休めることも出来ないのが常であった。子供が行って結婚前の島田に結った輝子に取縋(とりすが)る度に、「厭よ、厭よ、髪がこわれちまうじゃありませんか」と言ったあの輝子の言葉を岸本は胸に浮べた。「お嫁に行くんだ――やい、やい」と輝子の方に指さして言った悪戯盛(いたずらざか)りの繁の言葉を胸に浮べた。輝子が夫と一緒に遠い外国へ旅立つ前、別れを告げにその下座敷へ来た時、「それでも皆大きく成ったわねえ」と言って二人の子供をかわるがわる抱いたことを胸に浮べた。その時、節子が側に居て、「大きく成ったと言われるのがそんなに嬉しいの」と子供に言ったことを胸に浮べた。すべてこれらの過去った日の光景(ありさま)が前にあったことも後にあったことも一緒に混合(いれまざ)って、稲妻(いなずま)のように岸本の胸を通過ぎた。
「一切は園子一人の死から起ったことだ」
 岸本は腹(おなか)の中でそれを言って見て、何となくがらんとした天井の下を眺め廻した。

        七

 母親なしにもどうにかこうにか成長して行く幼いものに就(つ)いての話は年少(としした)の子供のことから年長(としうえ)の子供のことに移って、岸本は節子や婆やを相手に兄の方の泉太の噂(うわさ)をしているところへ、丁度その泉太が屋外(そと)から入って来た。
「繁ちゃんは?」
 いきなり泉太は庭口の障子の外からそれを訊(き)いた。二人一緒に遊んでいれば終(しまい)にはよく泣いたり泣かせられたりしながら、泉太が屋外からでも入って来ると、誰よりも先に弟を探した。
「泉ちゃん、皆で今あなたの噂をしていたところですよ」と婆やが言った。「そんなに屋外を飛んで歩いて寒かありませんか」
「あんな紅(あか)い頬(ほっ)ぺたをして」と節子も屋外の空気に刺激されて耳朶(みみたぶ)まで紅くして帰って来たような子供の方を見て言った。
 泉太の癖として、この子供は誰にでも行って取付いた。婆やの方へ行って若い時は百姓の仕事をしたこともあるという巌畳(がんじょう)な身体へも取付けば、そこに居るか居ないか分らないほど静かな針医の娘を側に坐らせた節子の方へも行って取付いた。
「泉ちゃんのようにそう人に取付くものじゃないよ」
 そういう岸本の背後(うしろ)へも来て、泉太は父親の首筋に齧(かじ)りついた。
「でも、泉ちゃんも大きく成ったねえ」と岸本が言った。「毎日見てる子供の大きくなるのは、それほど目立たないようなものだが」
「着物がもうあんなに短くなりました――」と節子も言葉を添える。
「泉ちゃんの顔を見てると、俺(おれ)はそう思うよ。よくそれでもこれまでに大きくなったものだと思うよ」と復(ま)た岸本が言った。「幼少(ちいさ)い時は弱い児だったからねえ。あの巾着頭(きんちゃくあたま)が何よりの証拠サ。この児の姉さん達の方がずっと壮健(じょうぶ)そうだった。ところが姉さん達は死んでしまって、育つかしらんと思った泉ちゃんの方がこんなに成人(しとな)って来た――分らないものだね」
「黙っといで。黙っといで」と泉太は父の言葉を遮(さえぎ)るようにした。「節ちゃん、好いことがある。お巡査(まわり)さんと兵隊さんと何方(どっち)が強い?」
 こういう子供の問は節子を弱らせるばかりでなく、夏まで一緒に居た輝子をもよく弱らせたものだ。
「何方(どっち)も」と節子は姉が答えたと同じように子供に答えた。
「学校の先生と兵隊さんと何方が強い?」
「何方も」
 と復(ま)た節子は答えて、そろそろ智識の明けかかって来たような子供の瞳(ひとみ)に見入っていた。
 岸本は思出したように、
「こうして経(た)って見れば造作(ぞうさ)もないようなものだがね、三年の子守(こもり)はなかなかえらかった。これまでにするのが容易じゃなかった。叔母(おば)さんの亡(な)くなった時は、なにしろ一番年長(うえ)の泉ちゃんが六歳(むっつ)にしか成らないんだからね。熱い夏の頃ではあり、汗疹(あせも)のようなものが一人に出来ると、そいつが他の子供にまで伝染(うつ)っちゃって――節ちゃんはあの時分のことをよく知らないだろうが、六歳を頭(かしら)に四人の子供に泣出された時は、一寸(ちょっと)手の着けようが無かったね。どうかすると、子供に熱が出る。夜中にお医者さまの家を叩(たた)き起しに行ったこともある。あの時分は、叔父さんもろくろく寝なかった……」
「そうでしたろうね」と節子はそれを眼で言わせた。
「あの時分から見ると、余程(よっぽど)これでも楽に成った方だよ。もう少しの辛抱だろうと思うね」
「繁ちゃんが学校へ行くようにでも成ればねえ」と節子は婆やの方を見て言った。
「どうかまあ、宜(よろ)しくお願い申します」
 こう岸本は言って、節子と婆やの前に手をついてお辞儀した。

        八

 下座敷には箪笥(たんす)も、茶戸棚(ちゃとだな)も、長火鉢も、子供等の母親が生きていた日と殆(ほと)んど同じように置いてあった。岸本が初めて園子と世帯(しょたい)を持った頃からある記念の八角形の古い柱時計も同じ位置に掛って、真鍮(しんちゅう)の振子が同じように動いていた。園子の時代と変っているのは壁の色ぐらいのものであった。一面に子供のいたずら書きした煤(すす)けた壁が、淡黄色の明るい壁と塗りかえられたぐらいのものであった。その夏岸本は節子に、節子の姉に、泉太に、繁まで例の河岸(かし)へ誘って行って、そこから家中のものを小舟に乗せ、船宿の子息(むすこ)をも連れて一緒に水の上へ出たことがあった。それからというものは、「父さん、お舟――父さん、お舟――」と強請(ねだ)るようにする子供の声をこの下座敷でよく聞いたばかりでなく、どうかすると机は覆(ひっくりか)えされて舟の代りになり、団扇掛(うちわかけ)に長い尺度(ものさし)の結び着けたのが櫓(ろ)の代りになり、蒲団(ふとん)が舟の中の蓆莚(ござ)になり、畳の上は小さな船頭の舟漕(こ)ぐ場所となって、塗り更(か)えたばかりの床の間の壁の上まで子供の悪戯(いたずら)した波の図なぞですっかり汚(よご)されてしまったが。
 暗い仏壇には二つの位牌(いはい)が金色に光っていた。その一つは子供等の母親ので、もう一つは三人の姉達のだ。しかしその位牌の周囲(まわり)には早や塵埃(ほこり)が溜(たま)るようになった。岸本が築いた四つの墓――殊(こと)に妻の園子の墓――三年近くも彼が見つめて来たのは、その妻の墓ではあったが、しかし彼の足は実際の墓参りからは次第に遠くなった。
「叔母さんのことも大分忘れて来た――」
 岸本はよくそれを節子に言って嘆息した。
 丁度この下座敷の直(す)ぐ階上(うえ)に、硝子戸(ガラスど)を開ければ町につづいた家々の屋根の見える岸本の部屋があった。階下(した)に居て二階の話声はそれほどよく聞えないまでも、二階に居て階下の話声は――殊に婆やの高い声なぞは手に取るように聞える。そこへ昇って行って自分の机の前に静坐して見ると、岸本の心は絶えず階下へ行き、子供の方へ行った。彼はまだ年の若い節子を助けて、二階に居ながらでも子供の監督を忘れることが出来なかった。家のものは皆屋外(そと)へ遊びに出し、門の戸は閉め、錠は掛けて置いて、たった独(ひと)りで二階に横に成って見るような、そうした心持には最早(もう)成れなかった。
 岸本は好きな煙草(たばこ)を取出した。それを燻(ふか)し燻し園子との同棲(どうせい)の月日のことを考えて見た。
「父さん、私を信じて下さい……私を信じて下さい……」
 そう言って、園子が彼の腕に顔を埋めて泣いた時の声は、まだ彼の耳の底にありありと残っていた。
 岸本はその妻の一言を聞くまでに十二年も掛った。園子は豊かな家に生れた娘のようでもなく、艱難(かんなん)にもよく耐えられ、働くことも好きで、夫を幸福にするかずかずの好い性質を有(も)っていたが、しかし激しい嫉妬(しっと)を夫に味(あじわ)わせるような極く不用意なものを一緒にもって岸本の許(もと)へ嫁(かたづ)いて来た。自分はあまりに妻を見つめ過ぎた、とそう岸本が心づいた時は既に遅かった。彼は十二年もかかって、漸(ようや)く自分の妻とほんとうに心の顔を合せることが出来たように思った。そしてその一言を聞いたと思った頃は、園子はもう亡くなってしまった。
「私は自分のことを考えると、何ですか三つ離れ離れにあるような気がしてなりません――子供の時分と、学校に居た頃と、お嫁に来てからと。ほんとに子供の時分には、私は泣いてばかりいるような児でしたからねえ」
 心から出たようなこの妻の残して行った言葉も、まだ岸本の耳についていた。
 岸本はもう準備なしに、二度目の縁談なぞを聞くことの出来ない人に成ってしまった。独身は彼に取って女人に対する一種の復讎(ふくしゅう)を意味していた。彼は愛することをすら恐れるように成った。愛の経験はそれほど深く彼を傷(きずつ)けた。

        九

 書斎の壁に対(むか)いながら、岸本は思いつづけた。
「ああああ、重荷を卸した。重荷を卸した」
 こんな偽りのない溜息(ためいき)が、女のさかりを思わせるような年頃で亡(な)くなった園子を惜しみ哀(かな)しむ心と一緒になって、岸本には起きて来たのであった。妻を失った当時、岸本はもう二度と同じような結婚生活を繰返すまいと考えた。両性の相剋(あいこく)するような家庭は彼を懲りさせた。彼は妻が残して置いて行った家庭をそのまま別の意味のものに変えようとした。出来ることなら、全く新規な生涯を始めたいと思った。十二年、人に連添って、七人の子を育てれば、よしその中で欠けたものが出来たにしても、人間としての奉公は相当に勤めて来たとさえ思った。彼は重荷を卸したような心持でもって、青い翡翠(ひすい)の珠(たま)のかんざしなどに残る妻の髪の香をなつかしみたかった。妻の肌身(はだみ)につけた形見の着物を寝衣(ねまき)になりとして着て見るような心持でもって、沈黙の形でよくあらわれた夫婦の間の苦しい争いを思出したかった。
 岸本の眼前(めのまえ)には、石灰と粘土とで明るく深味のある淡黄色に塗り変えた、堅牢(けんろう)で簡素な感じのする壁があった。彼は早(はや)三年近くもその自分の部屋の壁を見つめてしまったことに気がついた。そしてその三年の終の方に出来た自分の労作の多くが、いずれも「退屈」の産物であることを想って見た。
「父さん」
 と楼梯(はしごだん)のところで呼ぶ声がして、泉太が階下(した)から上って来た。
「繁ちゃんは?」と岸本が訊(き)いた。
 泉太は気のない返事をして、何か強請(ねだ)りたそうな容子(ようす)をしている。
「父さん、蜜豆(みつまめ)――」
「蜜豆なんか止(よ)せ」
「どうして――」
「何か、何かッて、お前達は食べてばかりいるんだね。温順(おとな)しくして遊んでいると、父さんがまた節ちゃんに頼んで、御褒美(ごほうび)を出して貰(もら)ってやるぜ」
 泉太は弟のように無理にも自分の言出したことを通そうとする方ではなかった。それだけ気の弱い性質が、岸本にはいじらしく思われた。妻が形見として残して置いて行ったこの泉太はどういう時代に生れた子供であったか、それを辿(たど)って見るほど岸本に取って夫婦の間だけの小さな歴史を痛切に想い起させるものはなかった。
 町中に続いた家々の見える硝子戸の方へ行って遊んでいた泉太はやがて復た階下(した)へ降りて行った。岸本は六年の間の仕事場であった自分の書斎を眺(なが)め廻した。曾(かつ)ては彼の胸の血潮を湧(わ)き立たせるようにした幾多の愛読書が、さながら欠(あく)びをする静物のように、一ぱいに塵埃(ほこり)の溜った書棚(しょだな)の中に並んでいた。その時岸本はある舞台の上で見た近代劇の年老いた主人公をふと胸に浮べた。その主人公の許(ところ)へ洋琴(ピアノ)を弾(ひ)いて聞かせるだけの役目で雇われて通って来る若い娘を胸に浮べた。生気のあふれた娘の指先から流れて来るメロディを聞こうが為めには、劇の主人公は毎月金を払ったのだ。そして老年の悲哀と寂寞(せきばく)とを慰めようとしたのだ。岸本は劇の主人公に自分を比べて見た。時には静かな三味線(しゃみせん)の音でも聞くだけのことを心やりとして酒のある水辺(みずべ)の座敷へ呼んで見る若草のような人達や、それから若い時代の娘の心で自分の家に来ているというだけでも慰めになる節子をあの劇中の娘に比べて見た。三年の独身は、漸(ようや)く四十の声を聞いたばかりで早老人の心を味わせた。それを考えた時は、岸本は忌々(いまいま)しく思った。

        十

 屋外(そと)の方で聞える子供の泣き声は岸本の沈思を破った。妻を失った後の岸本は、雛鳥(ひなどり)のために餌(えさ)を探す雄鶏(おんどり)であるばかりでなく、同時にまたあらゆる危害から幼いものを護ろうとして一寸(ちょっと)した物音にも羽翅(はがい)をひろげようとする母鶏の役目までも一身に引受けねばならなかった。子供の泣き声がすると、彼は殆(ほとん)ど本能的に自分の座を起(た)った。部屋の外にある縁側に出て硝子戸を開けて見た。それから階下へも一寸見廻りに降りて行った。
「子供が喧嘩(けんか)しやしないか」
 と彼は節子や婆やに注意するように言った。
「あれは他(よそ)の家の子供です」
 節子は勝手口に近い小部屋の鼠不入(ねずみいらず)の前に立っていて、それを答えた。何となく彼女は蒼(あお)ざめた顔付をしていた。
「どうかしたかね」と岸本は叔父らしい調子で尋ねた。
「なんですか気味の悪いことが有りました」
 岸本は節子が学問した娘のようでも無いことを言出したので、噴飯(ふきだ)そうとした。節子に言わせると、彼女が仏壇を片付けに行って、勝手の方へ物を持運ぶ途中で気がついて見ると、彼女の掌(て)にはべっとり血が着いていた。それを流許(ながしもと)で洗い落したところだ。こう叔父に話し聞かせた。
「そんな馬鹿な――」
「でも、婆やまでちゃんと見たんですもの」
「そんな事が有りようが無いじゃないか――仏壇を片付けていたら、手へ血が附着(くっつ)いたなんて」
「私も変に思いましたからね、鼠かなんかの故(せい)じゃないかと思って、婆やと二人で仏さまの下まですっかり調べて見たんですけれど……何物(なんに)も出て来やしません……」
「そんなことを気にするものじゃないよ。原因(もと)が分って見ると、きっとツマラないことなんだよ」
「仏さまへは今、お燈明をあげました」
 節子はこの家の内に起って来る何事(なに)かの前兆ででもあるかのように、それを言った。
「お前にも似合わないじゃないか」岸本は叱(しか)って見せた。「輝が居た時分にも、ホラ、一度妙な事があったぜ。姉さんの枕許(まくらもと)へ国の方に居る祖母(おばあ)さんが出て来たなんて……あの時はお前まで蒼(あお)くなっちまった。ほんとに、お前達はときどき叔父さんをびっくりさせる」
 日の短い時で、階下の部屋はそろそろ薄暗くなりかけていた。岸本は節子の側を離れて家の内をあちこちと歩いて見たが、しまいには気の弱いものに有りがちな一種の幻覚として年若な姪(めい)の言ったことを一概に笑ってしまえなかった。人が亡(な)くなった後の屋根の下を気味悪く思って、よく引越をするもののあるのも笑ってしまえなかった。
 岸本は仏壇の前へ行って立って見た。燈明のひかりにかがやき映った金色の位牌(いはい)には、次のような文字が読まれた。
  「宝珠院妙心大姉(だいし)」

        十一

「汝(なんじ)、わが悲哀(かなしみ)よ、猶(なお)賢く静かにあれ」
 この文句を口吟(くちずさ)んで見て、岸本は青い紙の蓋(かさ)のかかった洋燈(ランプ)で自分の書斎を明るくした。「君の家はまだランプかい。随分旧弊だねえ」と泉太の小学校の友達にまで笑われる程、岸本の家では洋燈を使っていた。彼はその好きな色の燈火(あかり)のかげで自分で自分の心を励まそうとした。あの赤熱(しゃくねつ)の色に燃えてしかも凍り果てる北極の太陽に自己(おのれ)の心胸(こころ)を譬(たと)え歌った仏蘭西(フランス)の詩人ですら、決して唯(ただ)梟(ふくろう)のように眼ばかり光らせて孤独と悲痛の底に震えてはいなかったことを想像し、その人の残した意味深い歌の文句を繰返して見て、自分を励まそうとした。
 黄ばんだ洋燈の光は住慣れた部屋の壁の上に、独(ひと)りで静坐することを楽みに思う岸本の影法師を大きく写して見せていた。岸本はその影法師を自分の友達とも呼んで見たいような心持でもって、長く生きた昔の独身生活を送った人達のことを思い、世を避けながらも猶かつ養生することを忘れずに芋(いも)を食って一切の病気を治(なお)したというあの「つれづれ草」の中にある坊さんのことを思い、出来ることならこのまま子供を連れて自分の行けるところまで行って見たいと願った。
「旦那(だんな)さん、お粂(くめ)ちゃんの父さんが参りましたよ」
 と婆やが楼梯(はしごだん)の下のところへ来て呼んだ。お粂ちゃんとは、よく岸本の家へ遊びに来る近所の針医の娘の名だ。
 頼んで置いた針医が小さな手箱を提(さ)げて楼梯を上って来た。過ぐる年の寒さから岸本は腰の疼痛(いたみ)を引出されて、それが持病にでも成ることを恐れていた。自分の心を救おうとするには、彼は先(ま)ず自分の身(からだ)から救ってかかる必要を感じていた。
「あんまり坐り過ぎている故(せい)かも知れませんが、私の腰は腐ってしまいそうです」
 こんなことをその針医に言って、岸本は家のものの手も借りずに書斎の次の間から寝道具なぞを取出して来た。それを部屋の片隅(かたすみ)によせて壁に近く敷いた。
「やっぱり疝(せん)の気味でごわしょう。こうした陽気では冷込みますからナ」と言いながら針医は手にした針術(しんじゅつ)の道具を持って岸本の側へ寄った。
 ぷんとしたアルコオルの香が岸本の鼻へ来た。背を向けて横に成った岸本は針医のすることを見ることは出来なかったが、アルコオルで拭(ぬぐ)われた後の快さを自分の背の皮膚で感じた。やがて針医の揉込(もみこ)む針は頸(くび)の真中あたりへ入り、肩へ入り、背骨の両側へも入った。
「痛(いた)」
 思わず岸本は声をあげて叫ぶこともあった。しかし一番長そうに思われる細い金針(きんばり)が腰骨の両側あたりへ深く入って、ズキズキと病める部分に触れて行った時は、睡気(ねむけ)を催すほどの快感がその針の微(かす)かな震動から伝わって来た。彼は針医に頼んで、思うさま腰の疼痛(いたみ)を打たせた。
「自分はもう駄目かしら」
 針医の行った後で、岸本は独りで言って見た。手術後の楽しく激しい疲労から、長いこと彼は死んだように壁の側に横になっていた。部屋の雨戸の外へは寒い雨の来る音がした。

        十二

 年も暮れて行った。節子は姉と二人でなしに、彼女一人の手に叔父の家の世話を任せられたことを迷惑とはしていなかった。彼女は自分一人に任せられなければ、何事も愉快に行うことの出来ないような気むずかしいところを有(も)っていた。その意味から言えば、彼女は意のままに、快適に振舞った。
 しかしそれは婆やなぞと一緒に働く時の節子で、岸本の眼には何となく楽まない別の節子が見えて来た。姉がまだ一緒にいた夏の頃、節子は黄色く咲いた薔薇(ばら)の花を流許(ながしもと)の棚の上に罎(びん)に挿(さ)して置いて、勝手を手伝いながらでも独(ひと)りで眺(なが)め楽むという風の娘であった。「泉ちゃん、好いものを嗅(か)がして進(あ)げましょうか」と言いながらその花を子供の鼻の先へ持って行って見せ、「ああ好い香気(におい)だ」と泉太が眼を細くすると、「生意気ねえ」と快活な調子で言う姉の側に立っていて、「泉ちゃんだって、好いものは好いわねえ」と娘らしい歯を出して笑うのが節子であった。節子姉妹は岸本の知らない西洋草花の名なぞをよく知っていたが、殊(こと)に妹の方は精(くわ)しくもあり、又た天性花を愛するような、物静かな、うち沈んだところを有(も)っていた。「お前達はよくそれでもそんな名前を知ってる」と岸本が感心したように言った時、「花の名ぐらい知らなくって――ねえ、節ちゃん」と姉の方が言えば、「叔父さん、これ御覧なさい、甘い椿(つばき)のような香気がするでしょう」と言ってチュウリップの咲いた鉢(はち)を持って来て見せたのも節子であった。これほど節子はまだ初々(ういうい)しかった。学窓を離れて来たばかりのような処女(おとめ)らしさがあった。その節子が年の暮あたりには何となく楽まないで、じっと考え込むような娘になった。
 岸本の妻が残して置いて行った着物は、あらかたは生家(さと)の方へ返し、形見として郷里の姉へも分け、根岸の嫂(あによめ)にも姪(めい)にも分け、山の方にある知人へも分け、生前園子が懇意にしたような人達のところへは大抵分けて配ってしまって、岸本の手許には僅(わず)かしか残らないように成った。「子供がいろいろお世話に成りました」それを岸本が言って、下座敷に置いてある箪笥の抽筐(ひきだし)の底から園子の残したものを節子姉妹に分けてくれたこともあった。「節ちゃん、いらっしゃいッて」とその時、輝子が妹を呼んだ声はまだ岸本の耳についていた。子供の世話に成る人達に亡くなった母親の形見を分けることは、岸本に取って決して惜しく思われなかった。
 復(ま)た岸本は箪笥の前に立って見た。平素(ふだん)は節子任せにしてある抽筐から彼女の自由にも成らないものを取出して見た。
「叔母さんのお形見も、皆に遣(や)るうちに段々少くなっちゃった」
 と岸本は半分独語(ひとりごと)のように言って、思い沈んだ節子を慰めるために、取出したものを彼女の前に置いた。
「こんな長襦袢(ながじゅばん)が出て来た」
 と復た岸本は言って見て、娘の悦(よろこ)びそうな女らしい模様のついたやつを節子に分けた。それを見てさえ彼女は楽まなかった。

        十三

 ある夕方、節子は岸本に近く来た。突然彼女は思い屈したような調子で言出した。
「私の様子は、叔父さんには最早(もう)よくお解(わか)りでしょう」
 新しい正月がめぐって来ていて、節子は二十一という歳(とし)を迎えたばかりの時であった。丁度二人の子供は揃(そろ)って向いの家へ遊びに行き、婆やもその迎えがてら話し込みに行っていた。階下(した)には外に誰も居なかった。節子は極く小さな声で、彼女が母になったことを岸本に告げた。
 避けよう避けようとしたある瞬間が到頭やって来たように、思わず岸本はそれを聞いて震えた。思い余って途方に暮れてしまって言わずにいられなくなって出て来たようなその声は極く小さかったけれども、実に恐ろしい力で岸本の耳の底に徹(こた)えた。それを聞くと、岸本は悄(しお)れた姪(めい)の側にも居られなかった。彼は節子を言い宥(なだ)めて置いて、彼女の側を離れたが、胸の震えは如何(いかん)ともすることが出来なかった。すごすごと暗い楼梯(はしごだん)を上って、自分の部屋へ行ってから両手で頭を押えて見た。
 世のならわしにも従わず、親戚(しんせき)の勧めも容(い)れず、友人の忠告にも耳を傾けず、自然に逆らってまでも自分勝手の道を歩いて行こうとした頑固(かたくな)な岸本は、こうした陥穽(おとしあな)のようなところへ堕(お)ちて行った。自分は犯すつもりもなくこんな罪を犯したと言って見たところで、それが彼には何の弁解(いいわけ)にも成らなかった。自分は婦徳を重んじ正義を愛するの念に於(おい)て過ぐる年月の間あえて人には劣らなかったつもりだと言って見たところで、それがまた何の弁解にも成らなかった。自分は多少酒の趣味を解し、上方唄(かみがたうた)の合(あい)の手のような三味線を聞くことを好み、芸で身を立てるような人達を相手に退屈な時を送ったこともあるが、如何(いか)なる場合にも自分は傍観者であって、曾(かつ)てそれらの刺戟(しげき)に心を動かされたこともなかったと言って見たところで、それが何の弁解の足(た)しにも成らないのみか、あべこべに洒脱(しゃだつ)をよそおい謹厳をとりつくろう虚偽と偽善との行いのように自分ながら疑われて来た。のみならず、小唄の一つも聞いて見るほどの洒落気(しゃれけ)があるならば、何故もっと賢く適当に、独身者として大目に見て貰(もら)うような身の処し方をしなかったか、とこう反問するような声を彼は自分の頭脳(あたま)の内部(なか)ですら聞いた。
 しばらく岸本は何事(なんに)も考えられなかった。
 部屋には青い蓋(かさ)の洋燈(ランプ)がしょんぼり点(とぼ)っていた。がっしりとした四角な火鉢(ひばち)にかけてある鉄瓶(てつびん)の湯も沸いていた。岸本は茶道具を引寄せて、日頃(ひごろ)好きな熱い茶を入れて飲んだ。好きな巻煙草(まきたばこ)をもそこへ取出して、火鉢の灰の中にある紅々(あかあか)とおこった炭の焔(ほのお)を無心に眺(なが)めながら、二三本つづけざまに燻(ふか)して見た。
 壊(こわ)れ行く自己(おのれ)に対するような冷たく痛ましい心持が、そのうちに岸本の意識に上って来た。

        十四

 簾(すだれ)がある。団扇(うちわ)がある。馳走(ちそう)ぶりの冷麦(ひやむぎ)なぞが取寄せて出してある。親戚のものは花火を見ながら集って来ている。甥(おい)の細君が居る。女学生時代の輝子が居る。郷里の方から東京へ出て来たばかりの節子も姉に連れられて来ている。白い扇子をパチパチ言わせながら、「世が世なら伝馬(てんま)の一艘(いっそう)も借りて押出すのになあ」と嘆息する甥(おい)の太一が居る。まだ幼少(ちいさ)な泉太は着物を着更(きか)えさせられて、それらの人達の間を嬉しそうに歩き廻っている。皆を款待(もてな)そうとする母親に抱かれて、乳房を吸っている繁もそこに居る。両国の方ではそろそろ晩の花火のあがる音がする――
 これは園子がまだ達者でいた頃の下座敷の光景(ありさま)だ。岸本はその頃のさかりの園子を、女らしく好く発達した彼女を、堅肥(かたぶと)りに肥(ふと)っても柔軟(しなやか)な姿を失わない彼女の体格を、記憶でまだありありと見ることが出来た。岸本はまたその頃の記憶を階下から自分の書斎へ持って来ることも出来た。独(ひと)りで二階に閉籠(とじこも)って机に向っている彼自身がある。どうかするとその彼の背後(うしろ)へ来て、彼を羽翅(はがい)で抱締めるようにして、親しげに顔を寄せるものがある。それが彼の妻だ。
 園子はその頃から夫の書斎を恐れなかった。画家のアトリエというよりは寧(むし)ろ科学者の実験室のように冷く厳粛(おごそか)なものとして置いた書斎の中に、そうして忸々(なれなれ)しくいられることを彼女は夢のようにすら楽しく思うらしかった。岸本が彼女に忸々しく仕向けたことは、必(きっ)とその同じ仕向けでもって、彼女はそれを夫に酬(むく)いた。時には彼女は夫の身体(からだ)を自分の背中に乗せて、そこにある書架の前あたりをヨロヨロしながら歩き廻ったのも岸本の現に眼前(めのまえ)に見るその同じ部屋の内だ。長いこと妻を導こう導こうとのみ焦心した彼は、その頃に成って、初めて何が園子の心を悦(よろこ)ばせるかを知った。彼は自分の妻もまた、下手(へた)に礼義深く尊敬されるよりは、荒く抱愛されることを願う女の一人であることを知った。
 それから岸本の身体は眼を覚(さ)ますように成って行った。髪も眼が覚めた。耳も眼が覚めた。皮膚も眼が覚めた。眼も眼が覚めた。その他身体のあらゆる部分が眼を覚ました。彼は今まで知らなかった自分の妻の傍に居ることを知るように成った。彼が妻の懐(ふところ)に啜泣(すすりなき)しても足りないほどの遣瀬(やるせ)ないこころを持ち、ある時は蕩子(たわれお)戯女(たわれめ)の痴情にも近い多くのあわれさを考えたのもそれは皆、何事(なんに)も知らずによく眠っているような自分の妻の傍に見つけた悲しい孤独から起って来たことであった。岸本の心の毒は実にその孤独に胚胎(はいたい)した。
 岸本はずっと昔の子供の時分から好い事でも悪い事でも何事もそれを自分の身に行って見た上でなければ、ほんとうにその意味を悟ることが出来なかった。彼は悄れた節子を見て、取返しのつかないような結果に成ったことを聞いて、初めて羞(は)じることを知ったその自分の心根を羞じた。彼は節子の両親の忿怒(いかり)の前に、自分を持って行って考えて見た。彼も早や四十二歳であった。頭を掻(か)いてきまりの悪い思をすれば、何事も若いに免じて詫(わび)の叶(かな)うような年頃とは違っていた。とても彼は名古屋の方に行っている兄の義雄に、また郷里の方にある嫂(あによめ)に、合せ得られるような顔は無かった。

        十五

 嵐(あらし)は到頭やって来た。彼自身の部屋をトラピストの修道院に譬(たと)え、彼自身を修道院の内の僧侶(ぼうさん)に譬えた岸本のところへ。しかも半年ばかり前まで節子の姉が妹と一緒に居て割合に賑(にぎや)かに暮した頃には夢にだも岸本の思わなかったような形で。
 多くの場合に岸本は女性に冷淡であった。彼が一箇の傍観者として種々(さまざま)な誘惑に対(むか)って来たというのも、それは無理に自分を制(おさ)えようとしたからでもなく、むしろ女性を軽蔑(けいべつ)するような彼の性分から来ていた。一生を通して女性の崇拝家であったような亡(な)くなった甥の太一に比べると、彼は余程(よほど)違った性分に生れついていた。その岸本が別に多くの女の中から択(えら)んだでも何でもない自分の姪と一緒に苦しまねば成らないような位置に立たせられて行った。節子は重い石の下から僅(わずか)に頭を持上げた若草のような娘であった。曾(かつ)て愛したこともなく愛されたこともないような娘であった。特に岸本の心を誘惑すべき何物をも彼女は有(も)たなかった。唯(ただ)叔父を頼りにし、叔父を力にする娘らしさのみがあった。何という「生」の皮肉だろう。四人の幼い子供を残した自分の妻の死をそう軽々しくも考えたくないばかりに三年一つの墓を見つめて来た岸本は、あべこべにその死の力から踏みにじられるような心持を起して来た。しかも、極(きわ)めて残酷に。
「父さん。これ、朝?」
 と繁が岸本のところへ来て、大きな子供らしい眼で父の顔を見上げて言った。繁はよく「これ、朝?」とか、「これ、晩?」とか聞いた。
「ああ朝だよ。これが朝だよ。一つねんねして起きるだろう、そうするとこれが朝だ」
 岸本は言いきかせて、まだ朝晩の区別もはっきり分らないような幼いものを一寸(ちょっと)抱いて見た。
 節子の様子をよく見るために岸本は勝手に近い小部屋の方へ行った。用事ありげにそこいらを歩いて見た。節子は婆やを相手に勝手で働いていた。時には彼女は小部屋にある鼠不入(ねずみいらず)の前に立って、その中から鰹節(かつおぶし)の箱を取出し、それを勝手の方へ持って行って削った。すこしもまだ彼女の様子には人の目につくような変ったところは無かった。起居(たちい)にも。動作にも。それを見て、岸本は一時的ながらもやや安心した。
 節子を見た眼で岸本は婆やを見た。婆やは流許(ながしもと)に腰を曲(こご)めて威勢よく働いていた。正直で、働き好きで、丈夫一式を自慢に奉公しているこの婆やは、肺病で亡くなった旧(ふる)い学友の世話で、あの学友が悪い顔付はしながらもまだ床に就(つ)くほどではなく岸本のところへよく人生の不如意を嘆きに来た頃に、そこの細君に連れられて目見えに来たものであった。水道の栓(せん)から迸(ほとばし)るように流れ落ちて来る勢いの好い水の音を聞きながら鍋(なべ)の一つも洗う時を、この婆やは最も得意にしていた。
 何となく節子は一番彼女に近い婆やを恐れるように成った。それにも関(かかわ)らず、彼女は冷静を保っていた。

        十六

「旦那(だんな)さんは今朝(けさ)はどうかなすったんですか。御飯も召上らず」
 二階へ雑巾(ぞうきん)がけに来た婆やがそれを岸本に訊(き)いた。
「今朝は旦那さんのお好きな味噌汁(おみおつけ)がほんとにオイしく出来ましたよ」とまた婆やが言った。
「なに、一度ぐらい食べないようなことは、俺(おれ)はよくある」と岸本は一刻も働かずにじっとしてはいられないような婆やの方を見て言った。「まあ俺の方はどうでも可(い)い。お前達は子供をよく見てくれ」
「なにしろ旦那さんの身体(からだ)は大事な身体だ。旦那さんが弱った日にゃ、吾家(うち)じゃほんとに仕様がない。よくそれでも一人で何もかもやっていらっしゃるッて、この近所の人達が皆そう言っていますよ。ほんとに吾家の旦那さんは、堅い方ですッて……」
 雑巾を掛けながら婆やの話すことを岸本は黙って聞いていた。やがて婆やは階下(した)へ降りて行った。岸本は独りで手を揉(も)んで見た。
 岸本は人知れず自分の顔を紅(あか)めずにはいられなかった。もしあの河岸(かし)の柳並木のかげを往来した未知の青年のような柔(やわらか)い心をもった人が、自分の行いを知ったなら。あの恩人の家の弘のように「兄さん、兄さん」と言って親身の兄弟のように思っていてくれる人や、それから自分のために日頃心配していてくれる友人や、山の方にある園子の女の友達なぞが、聞いたなら。岸本は身体全体を紅くしてもまだ羞(は)じ足りなかった。彼は二十七歳で早くこの世を去った友人の青木のことなぞにも想い到(いた)って、「君はもっと早く死んでいた方が好かった」とあの亡(な)くなった友達にまで笑われるような声を耳の底の方で聞いた。
 もしこれが進んで行ったら終(しまい)にはどうなるというようなことは岸本には考えられなかった。しかし、すくなくも彼は自分に向って投げられる石のあるということを予期しない訳に行かなかった。彼はある新聞社の主筆が法廷で陳述した言葉を思い出すことが出来る。その主筆に言わせると、世には法律に触れないまでも見遁(みのが)しがたい幾多の人間の罪悪がある。社会はこれに向って制裁と打撃とを加えねば成らぬ。新聞記者は好んで人の私行を摘発するものではないが、社会に代ってそれらの人物を筆誅(ひっちゅう)するに外ならないのであると。こうした眼に見えない石が自分の方へ飛んで来る時の痛さ以上に、岸本は見物の喝采(かっさい)を想像して見て悲しく思った。
 昼と夜とは長い瞬間のように思われるように成って行った。そして岸本の神経は姪に負わせ又自分でも負った深傷(ふかで)に向って注ぎ集るように成って行った。
 岸本は硝子戸(ガラスど)に近く行った。往来の方へ向いた二階の欄(てすり)のところから狭い町を眺めた。白い障子のはまった幾つかの窓が向い側の町家の階上(うえ)にも階下(した)にもあった。その窓々には、岸本の家で部屋の壁を塗りかえてさえ、「お嫁さんでもお迎えに成るんですか」と噂(うわさ)するような近所の人達が住んでいた。いかなる町内の秘密をも聞き泄(もら)すまいとしているようなある商家のかみさんは大きな風呂敷包を背負って、買出しの帰りらしく町を通った。

        十七

「岸本様――只今(ただいま)ここに参り居り候。久しぶりにて御話承りたく候。御都合よろしく候わば、この俥(くるま)にて御出(おいで)を御待ち申上げ候」
 岸本は迎えの俥と一緒に、この友人の手紙を受取った。
「節ちゃん、叔父さんの着物を出しとくれ。一寸友達の顔を見に行って来る」
 こう岸本は節子に言って、そこそこに外出する支度(したく)した。箪笥(たんす)から着物を取出して貰うというだけでも、岸本は心に責めらるるような親しみと、罪の深い哀(あわれ)さとを節子に感ずるように成った。何となく彼女に起りつつある変化、それを押えよう押えようとしているらしい彼女の様子は、重い力で岸本の心を圧した。節子は黙し勝ちに、叔父のために白足袋(しろたび)までも用意した。
 まだ松の内であった。その正月にかぎって親戚への年始廻りにも出掛けずに引籠(ひきこも)っていた岸本は久しぶりで自分の家を離れる思をした。彼は怪しく胸騒ぎのするような心持をもって、門並(かどなみ)に立ててある青い竹の葉の枯れ萎(しお)れたのが風に鳴るのを俥の上で聞いて行った。橋を渡り、電車路を横ぎった。新しい年を迎え顔な人達は祭礼(まつり)の季節にも勝(まさ)って楽しげに町々を往(い)ったり来たりしていた。川蒸汽の音の聞えるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川(すみだがわ)の水が見える。その辺は岸本に取って少年時代からの記憶のあるところであった。
 元園町の友人は古い江戸風の残った気持よく清潔な二階座敷で岸本を待受けていた。この友人が多忙(いそが)しい身(からだ)に僅(わずか)の閑(ひま)を見つけて隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄(よこ)した。
「御無沙汰(ごぶさた)しました」
 と言って坐り直す元園町をも、岸本をも、「先生、先生」と呼ぶほど、その家には客扱いに慣れた女達が揃(そろ)っていた。
「元園町の先生は先刻(さっき)から御待兼(おまちかね)でございます」
 と髪の薄い女中が言うと、年嵩(としかさ)な方の女中がそれを引取って、至極慇懃(いんぎん)な調子で、
「岸本先生もしばらく御見えに成りませんから、どうなすったろうッて皆で御噂を申しておりましたよ。御宅でも皆さん御変りもございませんか。坊ちゃん方も御丈夫で」
 岸本が古い小曲の一ふしも聞いて見るために友人と集ったり、折々は独りでもやって来て心を慰めようとしたのは、その二階座敷であった。年と共に募る憂鬱(ゆううつ)な彼の心は何等(なんら)かの形で音楽を求めずにいられなかった。曾て彼が一度、旧友の足立をその二階に案内した時、「岸本君がこういうところへ来るように成ったかと思うと面白いよ」と言って足立は笑ったこともあった。どうかすると彼は逢(あ)い過ぎるほど逢わねば成らないような客をその二階に避け、諸方(ほうぼう)から貰った手紙を一まとめにして持って来て、半日独りで読み暮すこともあった。彼は自分と全く生立(おいた)ちを異にしたような人達と話すことを好む方で、そこに奉公する女達のさまざまな身上話に耳を傾け、そこに集る年老た客や年若な客の噂に耳を傾け、時には芸で身を立てようとする娘達ばかりを自分の周囲(まわり)に集め、彼等の若い恋を語らせて、それを聞くのを楽みとしたこともあった。一生舞台の上で花を咲かせる時もなく老朽ちてしまったような俳優がその座敷の床の間の花を活(い)けるために、もう何年となく通って来ているということまで岸本は知っていた。
「岸本さんに御酌しないか」と元園町は傍(そば)にいる女を顧みて言った。
「今お熱いのを持って参ります」
 と言いながら女中はそこにある徳利を持添えて岸本に酒を勧めた。
「ああああ、久しぶりでこういうところへやって来た」
 岸本は独語のようにそれを言って、酒の香を嗅(か)いで見た。

        十八

 元園町は岸本の前に居た。しかも岸本がそんな深傷(ふかで)を負っていようとは知らずに酒を飲んでいた。何事も打明けて相談して見たら随分力に成ってくれそうな、思慮と激情とが同時に一人の人にあるこの友人の顔を見ながら、岸本は自分の身に起ったことを仄(ほのめ)かそうともしなかった。それを仄かすことすら羞(は)じた。
「先生、お熱いのが参りました」
 女中の一人が勧めてくれるのを盃(さかずき)に受けて、岸本は皆の楽しい話声を聞きながら、すこしばかりの酒をやっていた。何時(いつ)の間にか彼の心はずっと以前に就(つ)いて学んだことのある旧師の方へ行った。その先生が三度目に結婚した奥さんの方へ行った。その奥さんの若い妹の方へ行った。花なぞを植えて静かに老年の時を送ろうとした先生がしばらく奥さんと別れ住んでいたというその幽棲(すまい)の方へ行った。先生と奥さんの妹との関係は、岸本と姪との関係に似ているかどうかそこまでは彼もよく知らなかったが、すくなくも結果に於(お)いては似ていた。深夜に人知れずある医師の門を叩(たた)いたという先生の心の懊悩(おうのう)を岸本は自分の胸に描いて見た。道理ある医師の言葉に服して再びその門を出たという先生の悔恨をも胸に描いて見た。しばらく彼の心は眼前(めのまえ)にあることを離れてしまった。
「岸本先生は何をそんなに考えていらっしゃるんですか」
 と年嵩な方の女中が岸本の顔を見て言った。
「私ですか……」と岸本は自分の前にある盃を眺めながら、「考えたところで仕方のないことを考えていますよ」
「今日は何物(なんに)も召上って下さらないじゃありませんか。折角のお露(つゆ)が冷(さ)めてしまいます」
「私は先刻(さっき)からそう思って拝見しているところなんですけれど、今日は先生のお顔色も好くない」ともう一人の女中が言い添えた。
「ほんとに岸本先生はお目にかかる度(たんび)に違ってお見えなさる……紅い顔をしていらっしゃるかと思うと、どうかなすったんじゃないかと思うほど蒼(あお)い顔をしていらっしゃることがある……」
 こうそこへ来て酒の興を添えている年の若い痩(や)せぎすな女も言った。岸本はこの女がまだ赤い襟(えり)を掛けているようなほんの小娘の時分から贔屓(ひいき)にして、宴会なぞのある時にはよく呼んで働いて貰うことにしていた。この人も最早(もう)若草のように延びた。
「そこへ行くと、元園町の先生の方は何時見てもお変りなさらない。何時見てもニコニコしていらしって……」と年嵩な女中は言いかけたが、急に気を変えて、「まあ、殿方のことばかり申上げて相済みません」
 そう言いながら女中は自分の膝(ひざ)の上に手を置いて御辞儀した。
「歌の一つも聞かせて下さい」
 と岸本は言出した。すこしの酒が直(す)ぐに顔へ発しる方の彼も、その日は毎時(いつも)のように酔わなかった。

        十九

 生きたいと思う心を岸本に起させるものは、不思議にも俗謡を聞く時であった。酒の興を添えにその二階座敷へ来ていた女の一人は、日頃岸本が上方唄(かみがたうた)なぞの好きなことを知っていて、古い、沈んだ、陰気なほど静かな三味線(しゃみせん)の調子に合せて歌った。

  「心づくしのナ
  この年月(としつき)を、
  いつか思ひの
  はるゝやと、
  心ひとつに
  あきらめん――
  よしや世の中」

 いかなる人に聞かせるために、いかなる人の原作したものとも知れないような古い唄(うた)の文句が、熟した李(すもも)のように色の褪(さ)め変った女の口唇(くちびる)から流れて来た。

  「みじか夜の
  ゆめはあやなし、
  そのうつり香の
  悪(に)くて手折(たを)ろか
  ぬしなきはなを、
  何のさら/\/\、
  更に恋は曲者(くせもの)」

 元園町の友人の側に居て、この唄を聞いていると、情慾のために苦み悩んだような男や女のことがそれからそれと岸本の胸に引出されて行った。
「元園町の先生は好い顔色におなんなすった」と年嵩(としかさ)の方の女中が言った。
「君の酒は好い酒だ」と岸本も友人の方を見た。
「岸本先生は真実(ほんと)に御酔いなすったということが御有んなさらないでしょう」と髪の薄い女中は二人の客の顔を見比べて、「先生のは御酒もそう召上らず、御遊びもなさらず、まさか先生だって女嫌(おんなぎら)いだという訳でもございますまいが――」
「先生は若い姉さん達を並べて置いて、唯(ただ)眺(なが)めてばかりいらっしゃる」と年嵩な方が引取って笑った。
「しかし、私は何時(いつ)までも先生にそうしていて頂(いただ)きたいと思います」と復(ま)た髪の薄い方の女中が言った。「先生だけはどうかして堕落させたくないと思います」
「私だって弱い人間ですよ」と岸本が言った。
「いえ、手前共のようなところへもこうして御贔屓(ごひいき)にしていらしって下さるのが、何よりでございます。そりゃもう御察しいたしております。歌の一つも聞いて見ようという御心持は手前共にもよく分っております……」
「よくそれでも御辛抱が続くと思いますよ。そんなにしていらしって、先生はお寂しか有りませんか……奥さんもお迎えなさらず……」
 元園町は盃を手にしてさも心地(ここち)よさそうに皆の話を聞いていたが、急に岸本の方を強く見て言った。
「岸本君の独(ひと)りで居るのは、今だに僕には疑問です」
 岸本は人知れず溜息(ためいき)を吐(つ)いた。

        二十

「僕は友人としての岸本君を尊敬してはいますが」とその時、元園町は酒の上で岸本を叱(しか)るように言った。「一体、この男は馬鹿です」
「ヨウヨウ」と髪の薄い女中は手を打って笑った。「元園町の先生の十八番(おはこ)が出ましたね」
「あの『馬鹿』が出るようでなくッちゃ、元園町の先生は好い御心持に御酔いなさらない」と年嵩な方の女中も一緒に成って笑った。
 岸本は自分の家の方に仕残した用事があって、長くもこの場所に居なかった。心持好さそうに酔い寛(くつろ)いでいる友人を二階座敷に残して置いて、やがてその家を出た。色彩も、音曲(おんぎょく)も、楽しい女の笑い声も、すべて人を享楽させるためにあるような空気の中から離れて行った時は、余計に岸本の心は沈んでしまった。
 岸本は家をさして歩いた。大川端(おおかわばた)まで出ると酒も醒(さ)めた。身に浸(し)みるような冷い河風の刺激を感じながら、少年の時分に恩人の田辺の家の方からよく歩き廻りに来た河岸(かし)を通って両国の橋の畔(ほとり)にかかった。名高い往昔(むかし)の船宿の名残(なご)りを看板だけに留(とど)めている家の側を過ぎて砂揚場(すなあげば)のあるところへ出た。神田川の方からゆるく流れて来る黒ずんだ水が岸本の眼に映った。その水が隅田川に落合うあたりの岸近くには都鳥も群れ集って浮いていた。ふと岸本はその砂揚場の近くで遭遇(でっくわ)した出来事を思い出した。妊娠した若い女の死体がその辺へ流れ着いたことを思出した。曾(かつ)て検屍(けんし)の後の湿った砂なぞを眺めた彼自身にも勝(まさ)って、一層よく岸本はその水辺の悲劇の意味を読むことが出来た。その心持から、彼は言いあらわし難い恐怖を誘われた。
 急いで岸本は橋を渡った。すたすた家の方へ帰って行った。門松のある中に遊ぼうとするような娘子供は狭い町中で追羽子(おいばね)の音をさせて、楽しい一週の終らしい午後の四時頃の時を送っていた。丁度家には根岸の嫂(あによめ)が訪ねて来て岸本の帰りを待っていた。
「オオ、捨さんか」
 と嫂は岸本の名を呼んで言った。この嫂は岸本が一番年長(うえ)の兄の連合(つれあい)にあたって、節子から言えば学校時代に世話に成った伯母さんであった。「女の御年始という日でもありませんけれど、宅でも台湾の方ですし、代理がてら今日は一寸(ちょっと)伺いました」とも言った。
 節子は正月らしい着物に着更(きか)えて根岸の伯母を款待(もてな)していた。何となく荒れて見える節子の顔の肌(はだ)も、岸本だけにはそれが早(は)や感じられた。彼はこの女らしく細(こまか)いものに気のつく嫂から、三人も子供をもったことのある人の観察から、なるべく節子を避けさせたかった。
「節ちゃん、そんなとこに坐っていなくても可(い)いから、お茶でも入れ替えて進(あ)げて下さい」
 岸本は節子を庇護(かば)うように言った。長火鉢(ながひばち)を間に置いて岸本と対(むか)い合った嫂の視線はまた、娘のさかりらしく成人した節子の方へよく向いた。この嫂は亡(な)くなった岸本の母親やまだ青年時代の岸本と一緒に、夫の留守居をして暮した骨の折れた月日のことを忘れかねるという風で、何かにつけて若いものを教え誨(さと)すような口調で節子に話しかけた。遠い外国の方で楽しい家庭をつくっているという輝子の噂(うわさ)も出た。
「ここの叔父さんなればこそ、あれまでに御世話が出来たんですよ。この御恩を忘れるようなことじゃ仕方がありません、いくら輝さんが今楽だからと言って――」と嫂は好い婿を取らせて子供まである自分の娘の愛子に、輝子の出世を思い比べるような調子で言って、やがて節子の方を見て、「節ちゃんも、好い叔父さんをお持ちなすって、ほんとにお仕合せですよ」
 それを聞いている岸本は冷い汗の流れる思をした。

        二十一

 嫂は長い年月の間の留守居も辛抱甲斐(がい)があって漸(ようや)く自分の得意な時代に廻って来たことや、台湾にある民助兄の噂や、自分の娘の愛子の自慢話や、それから常陸(ひたち)の方に行っている岸本が一番末の女の児の君子の話なぞを残して根岸の方へ帰って行った。岸本から云えば姪(めい)の愛子の夫にあたる人の郷里は常陸の海岸の方にあった。その縁故から岸本はある漁村の乳母(うば)の家に君子を托(たく)して養って貰(もら)うことにしてあった。
「捨さんも、そうして何時(いつ)までも独りでいる訳にも行きますまい。どうして岸本さんではお嫁さんをお迎えに成らないんでしょうッて、それを聞かれる度(たび)に私まで返事に困ってしまう」
 根岸の嫂はこんな言葉をも残して置いて行った。
 こうした親類の女の客があった後では、岸本は節子と顔を見合せることを余計に苦しく思った。それは唯の男と女とが見合せる顔では無くて、叔父と姪との見合せる顔であった。岸本は節子の顔にあらわれる暗い影をありありと読むことが出来た。その暗い影は、「貴様は実に怪(け)しからん男だ」という兄の義雄の怒った声を心の底の方で聞くにも勝(まさ)って、もっともっと強い力で岸本の心に迫った。快活な姉の輝子とも違い、平素(ふだん)から節子は口数も少い方の娘であるが、その節子の黙し勝ちに憂い沈んだ様子は彼女の無言の恐怖(おそれ)と悲哀(かなしみ)とを、どうかすると彼女の叔父に対する強い憎(にくし)みをさえ語った。
「叔父さん、私はどうして下さいます――」
 この声を岸本は姪の顔にあらわれる暗い影から読んだ。彼は何よりも先(ま)ず節子の鞭(むち)を受けた。一番多く彼女の苦んでいる様子から責められた。
 急に二人の子供の喧嘩(けんか)する声を聞きつけた時は、岸本は二階の方の自分の部屋にいた。彼は急いで楼梯(はしごだん)を馳(か)け降りた。
 見ると二人の子供は、引留めようとする節子の言うことも聞入れないで争っていた。兄は弟を打(ぶ)った。弟も兄を打った。
「何をするんだ。何を喧嘩するんだ――馬鹿」
 と岸本が言った。泉太も、繁も、一緒に声を揚げて泣出した。
「繁ちゃんが兄さんの凧(たこ)を破いたッて、それから喧嘩に成ったんですよ」と節子は繁を制(おさ)えながら言った。
「泉ちゃんが打(ぶ)った――」と繁は父に言付けるようにして泣いた。
 兄の子供は物を言おうとしても言えないという風で、口惜しそうに口唇(くちびる)を噛(か)んで、もう一度弟をめがけて拳(こぶし)を振上げようとした。
「さあ、止(よ)した。止した」と岸本が叱るように言った。
「もうお止しなさいね。兄さんも、もうお止しなさいね」と節子も言葉を添えた。
「まあ、坊ちゃん方は何を喧嘩なすったんです」
 と言って、婆やがそこへ飛んで来た頃は、まだ二人の子供は泣きじゃくりを吐(つ)いていた。
 岸本は胸を踊らせながら自分の部屋へ引返して行った。硝子戸(ガラスど)に近く行って日暮時の町を眺(なが)めた。河岸の砂揚場のところを通って誘われて来た心持が岸本の胸を往来し始めた。彼はあの水辺(みずべ)の悲劇を節子に結びつけて考えることすら恐ろしく思った。冷い、かすかな戦慄(みぶるい)は人知れず彼の身を伝うように流れた。

        二十二

 七日ばかりも岸本はろくろく眠らなかった。独(ひと)りで心配した。昼の食事の時だけは彼は家のものと一緒でなしに、独りで膳(ぜん)に対(むか)うことが多かったが、そういう時には極(きま)りで節子が膳の側へ来て坐った。彼女はめったに叔父の給仕の役を婆やに任せなかった。それを自分でした。そして俯向(うつむ)き勝ちに帯の間へ手を差入れ、叔父と眼を見合せることを避けよう避けようとしているような場合でも、何時でも彼女の膝(ひざ)は叔父の方へ向いていた。晩(おそ)かれ早かれ破裂を見ないでは止(や)まないような前途の不安が二人を支配した。岸本は膳を前にして、黙って節子と対い合うことが多かった。
「叔父さん、めずらしいお客さまがいらっしゃいましたよ」
 と楼梯(はしごだん)の下から呼ぶ節子の声を聞きつけた時は、岸本は自分の書斎に居た。客のある度(たび)に彼は胸を騒がせた。その度に、節子を隠そうとする心が何よりも先に起(おこ)って来た。
 丁度町でも家の内でもそろそろ燈火(あかり)の点(つ)く頃であった。岸本は階下(した)へ降りて行って見た。十年も彼のところへは消息の絶えていた鈴木の兄が、彼から言えば郷里の方にある実の姉の夫にあたる人が、人目を憚(はばか)るような落魄(らくはく)した姿をして、薄暗い庭先の八ツ手の側に立っていた。
 岸本はこの珍客が火点(ひとも)し頃(ごろ)を選んでこっそりと訪(たず)ねて来た意味を直(す)ぐに読んだ。傷(いた)ましい旅窶(たびやつ)れのしたその様子で。手にした風呂敷包と古びた帽子とで。十年も前に見た鈴木の兄に比べると、旅で年とったその容貌(おもばせ)で。この人が亡くなった甥(おい)の太一の父親であった。
 妻子を捨てて家出をした鈴木の兄は岸本の思惑(おもわく)を憚るという風で、遠慮勝ちに下座敷へ通った。
「台湾の兄貴の方から御噂はよく聞いておりました」
 こう言って迎える岸本をも鈴木の兄は気味悪そうにして、何を義理ある弟から言出されるかという様子をしていた。
「泉ちゃん、お出(いで)。鈴木の伯父(おじ)さんに御辞儀するんだよ」と岸本がそこに居る子供を呼んだ。
「これが泉ちゃんですか」と言って子供の方を見る客の顔には漸(ようや)く以前の旧(ふる)い鈴木の家の主人公らしい微笑(えみ)が浮んだ。
「伯父さん、いらっしゃいまし」と節子もそこへ来て挨拶(あいさつ)した。
「節ちゃんか。どうも見違えるほど大きくなりましたね。幼顔(おさながお)が僅(わず)かに残っているぐらいのもので――」と鈴木の兄に言われて、節子はすこし顔を紅(あか)めた。
「私の家でもお園が亡くなりましてね」と岸本が言った。「あなたの御馴染(おなじみ)の子供は三人とも亡くなってしまいました。一頃(ひところ)は輝も居て手伝ってくれましたが、あの人もお嫁に行きましてね、今では節ちゃんが子供の世話をしていてくれます」
「お園さんのお亡くなりに成ったことは、台湾の方で聞きました……民助君には彼方(あちら)で大分御世話に成りました……捨さんのことも、民助君からよく聞きました……何しろ私も年は取りますし、身体も弱って来ましたし、捨さんに御相談して頂くつもりで実は台湾の方から帰って参りました……」

        二十三

「節ちゃん、鈴木の兄さんは袷(あわせ)を着ていらっしゃるようだぜ。叔父さんの綿入を出してお上げ。序(ついで)に、羽織も出して上げたら可(よ)かろう」
 こう岸本は節子を呼んで言って、十年振りで旅から帰って来た人のために夕飯の仕度(したく)をさせた。よくよく困った揚句(あげく)に義理ある弟の家をめがけて遠く辿(たど)り着いたような鈴木の兄の相談を聞くのは後廻しとして、ともかくも岸本は疲れた旅の人を休ませようとした。しばらく家に泊めて置いて、その人の様子を見ようとした。十年の月日は岸本の生活を変えたばかりでなく、太一の父親が家出をした後の旧(ふる)い大きな鈴木の家をも変えた。そこには最早(もう)岸本の甥でもあり友人でもあり話相手ででもあった太一は居なかった。太一の細君も居なかった。そこには倒れかけた鈴木の家を興(おこ)した養子が居た。養子の細君が居た。十年も消息の絶えた夫を待っている岸本の姉が居た。太一の妹が居た。岸本が三番目の男の児はその姉の家に托してあった。
 節子のことを案じ煩(わずら)いながら、岸本はポツポツ鈴木の兄の話すことを聞いた。台湾地方の熱い日に焼けて来た流浪者を前に置いて、岸本はまだこの人が大蔵省の官吏であった頃の立派な威厳のあった風采(ふうさい)を思出すことが出来る。岸本が少年の頃に流行した猟虎(らっこ)の帽子なぞを冠(かぶ)ったこの人の紳士らしい風采を思出すことが出来る。彼が九つの歳(とし)に東京へ出て来た時、初めて身を寄せたのはこの人の家であって、よくこの人から漢籍の素読なぞを受けた幼い日のことを思出すことが出来る。岸本がこの人と姉との側に少年の時代を送ったのは一年ばかりに過ぎなかったが、しかしその間に受けた愛情は幼い彼の心に深く刻みつけられていた。それからずっと後になって、この人の身の上には種々(さまざま)な変化が起り、その行いには烈(はげ)しい非難を受けるような事も多かった。そういう中でも、猶(なお)岸本が周囲の人のようにはこの人を考えていなかったというのは、全く彼が少年の時に受けた温い深切(しんせつ)の為で――丁度、それが一点のかすかな燈火(ともしび)のように彼の心の奥に燃えていたからであった。
 岸本は七日ばかりもこの旅の人を自分の許に逗留(とうりゅう)させて置いた。その七日の後には、この落魄(らくはく)した太一の父親を救おうと決心した。
「節ちゃん、叔父さんは鈴木の兄さんを連れて、国の方へ御辞儀に行って来るよ」
 岸本はその話をした後で、別に彼の留守中に医師の診察を受けるようにと節子に勧めた。節子はその時の叔父の言葉に同意した。彼女自身も一度診(み)て貰いたいと言った。幸に彼女の思違いであったなら。岸本はそんな覚束(おぼつか)ないことにも万一の望みをかけ、そこそこに旅の仕度(したく)して、節子に二三日の留守を頼んで置いて行った。

        二十四

 実に急激に、岸本の心は暗くなって行った。郷里の方にある姉の家から帰って来る途中にも、彼は節子に言置いたことを頼みにして、どれ程(ほど)医師の言葉に万一の希望を繋(つな)いだか知れなかった。引返して来て見ると、余計に彼は落胆した。
「節ちゃん、そんなに心配しないでも可(い)いよ。何とか好いように叔父さんが考えて進(あ)げるからね」
 こう岸本は言って、もしもの場合には自分の庶子(しょし)として届けても可いというようなことを節子に話した。
「庶子ですか」
 と節子はすこし顔を紅(あか)めた。
 不幸な姪(めい)を慰めるために、岸本はそんな将来の戸籍のことなぞまで言出したもののその戸籍面の母親の名は――そこまで押詰めて考えて行くと到底そんなことは行われそうも無かった。これから幾月の間、いかに彼女を保護し、いかに彼女を安全な位置に置き得るであろうか。つくづく彼は節子の思い悩んでいることが、彼女に取っての致命傷にも等しいことを感じた。
 岸本は町へ出て行った。節子のために女の血を温め調(ととの)えるという煎(せん)じ薬を買求めて来た。
「もっとお前も自分の身体(からだ)を大切にしなくちゃいけないよ」
 と言って、その薬の袋を節子に渡してやった。
 夜が来た。岸本は自分の書斎へ上って行って、独(ひと)りで机に対(むか)って見た。あの河岸(かし)に流れ着いた若い女の死体のことなぞが妙に意地悪く彼の胸に浮んで来た。
「節ちゃんはああいう人だから、ひょっとすると死ぬかも知れない」
 この考えほど岸本の心を暗くするものは無かった。妻の園子を失った後二度と同じような結婚生活を繰返すまいと思っていた彼は、出来ることなら全く新規な生涯を始めたいと願っていた彼は、独身そのものを異性に対する一種の復讎(ふくしゅう)とまで考えていた彼は、日頃煩(わずら)わしく思う女のために――しかも一人の小さな姪のために、こうした暗いところへ落ちて行く自分の運命を実に心外にも腹立しくも思った。
 思いもよらない悲しい思想(かんがえ)があだかも閃光(せんこう)のように岸本の頭脳(あたま)の内部(なか)を通過ぎた。彼は我と我身を殺すことによって、犯した罪を謝し、後事を節子の両親にでも托(たく)そうかと考えるように成った。近い血族の結婚が法律の禁ずるところであるばかりで無く、もしもこうした自分の行いが猶(なお)かつそれに触れるようなものであるならば、彼は進んで処罰を受けたいとさえ考えた。何故というに、彼は世の多くの罪人が、無慈悲な社会の嘲笑(ちょうしょう)の石に打たるるよりも、むしろ冷やかに厳粛(おごそか)な法律の鞭(むち)を甘受しようとする、その傷(いた)ましい心持に同感することが出来たからである。部屋には青い蓋(かさ)の洋燈(ランプ)がしょんぼり点(とも)っていた。その油の尽きかけて来た燈火(ともしび)は夜の深いことを告げた。岸本は自分の寝床を壁に近く敷いて、その上に独りで坐って見た。一晩寝て起きて見たら、またどうかいう日が来るか、と不図(ふと)思い直した。考え疲れて床の上に腕組みしていた岸本は倒れるように深い眠の底へ落ちて行った。

        二十五

「父さん」
 繁は岸本の枕頭(まくらもと)へ来て、子供らしい声で父を呼起そうとした。岸本は何時間眠ったかをもよく知らなかった。子供が婆やと一緒に二階へ上って来た頃は、眼は覚(さ)めていたが、いくら寝ても寝ても寝足りないように疲れていた。彼は子供の呼声を聞いて、寝床を離れる気になった。
「繁ちゃん、父さんは独りじゃ起きられない。お前も一つ手伝っておくれ。父さんの頭を持上げて見ておくれ」
 と岸本に言われて、繁は喜びながら両手を父の頭の下に差入れた。
「坊ちゃん、父さんを起してお進(あ)げなさい――ほんとに坊ちゃんは力があるから」
 と婆やにまで言われて、繁は倒れた木の幹でも起すように父の体躯(からだ)を背後(うしろ)の方から支(ささ)えた。
「どっこいしょ」
 と繁が力を入れて言った。岸本はこの幼少(ちいさ)な子供の力を借りて漸(ようや)くのことで身を起した。
「旦那(だんな)さん、もう十一時でございますよ」と婆やはすこし呆(あき)れたように岸本の方を見て言った。
「や、どうも難有(ありがと)う。繁ちゃんの御蔭(おかげ)で漸(ようや)く起きられた」
 こう言いながら、岸本は悪い夢にでも襲われたように自分の周囲を見廻した。
 太陽は昨日と同じように照っていた。町の響は昨日と同じように部屋の障子に伝わって来ていた。眼が覚めて見ると昨日と同じ心持が岸本には続いていた。昨日より吉(い)いという日は別に来なかった。熱い茶を啜(すす)った後のいくらかハッキリとした心持で彼は自分の机に対って見た。
 最近に筆を執り始めた草稿が岸本の机の上に置いてあった。それは自伝の一部とも言うべきものであった。彼の少年時代から青年時代に入ろうとする頃のことが書きかけてあった。恐らく自分に取ってはこれが筆の執り納めであるかも知れない、そんな心持が乱れた彼の胸の中を支配するように成った。彼は机の前に静坐して、残すつもりもなくこの世に残して置いて行こうとする自分の書きかけの文章を読んで見た。それを読んで、耐えられるだけジッと耐えようとした。又終りの方の足りない部分を書き加えようともした。草稿の中に出て来るのは十八九歳の頃の彼自身である。
「暑中休暇が来て見ると、彼方(あっち)へ飛び是方(こっち)へ飛びしていた小鳥が木の枝へ戻って来た様に、学窓で暮した月日のことが捨吉の胸に集って来た。その一夏をいかに送ろうかと思う心持に混って。彼はこれから帰って行こうとする家の方で、自分のために心配し、自分を引受けていてくれる恩人の家族――田辺の主人、細君、それからお婆さんのことなぞを考えた。田辺の家の近くに下宿住居(ずまい)する兄の民助のことをも考えた。それらの目上の人達からまだ子供のように思われている間に、彼の内部(なか)に萌(きざ)した若い生命(いのち)の芽は早や筍(たけのこ)のように頭を持上げて来た。自分を責めて、責めて、責め抜いた残酷(むご)たらしさ――沈黙を守ろうと思い立つように成った心の悶(もだ)え――狂(きちがい)じみた真似(まね)――同窓の学友にすら話しもせずにあるその日までの心の戦を自分の目上の人達がどうして知ろう、繁子や玉子というような基督(キリスト)教主義の学校を出た婦人があって青年男女の交際を結んだ時があったなどとはどうして知ろう、況(ま)してそういう婦人に附随する一切の空気が悉(ことごと)く幻のように消え果てたとはどうして知ろう、と彼は想って見た。まだ世間見ずの捨吉には凡(すべ)てが心に驚かれることばかりであった。今々この世の中へ生れて来たかのような心持でもって、現に自分の仕ていることを考えると、何時(いつ)の間にか彼は目上の人達の知らない道を自分勝手に歩き出しているということに気が着いた。彼はその心持から言いあらわし難い恐怖を感じた……」
 岸本は読みつづけた。
「……明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものも無い頃であった。学校から田辺の家までは凡(およ)そ二里ばかりあるが、それくらいの道を歩いて通うことは一書生の身に取って何でも無かった。よく捨吉は岡つづきの地勢に沿うて古い寺や墓地の沢山にある三光町(さんこうちょう)寄の谷間(たにあい)を迂回(うかい)することもあり、あるいは高輪(たかなわ)の通りを真直(まっすぐ)に聖坂(ひじりざか)へと取って、それから遠く下町の方にある田辺の家を指(さ)して降りて行く。その日は伊皿子坂(いさらござか)の下で乗合馬車を待つ積りで、昼飯を済ますと直(す)ぐ寄宿舎を出掛けた。夕立揚句(あげく)の道は午後の日に乾(かわ)いて一層熱かった。けれども最早(もう)暑中休暇だと思うと、何となく楽しい道を帰って行くような心持になった。何かこう遠い先の方で、自分等を待受けていてくれるものがある。こういう翹望(ぎょうぼう)は、あだかもそれが現在の歓喜であるかの如(ごと)くにも感ぜられた。彼は自分自身の遽(にわ)かな成長を、急に高くなった背を、急に発達した手足を、自分の身に強く感ずるばかりでなく、恩人の家の方で、もしくはその周囲で、自分と同じように揃(そろ)って大きくなって行く若い人達のあることを感じた。就中(わけても)、まだ小娘のように思われていた人達が遽かに姉さんらしく成って来たには驚かされる。そういう人達の中には、大伝馬町(おおてんまちょう)の大勝(だいかつ)の娘、それからへ竃河岸(へっついがし)の樽屋(たるや)の娘なぞを数えることが出来る。大勝とは捨吉が恩人の田辺や兄の民助に取っての主人筋に当り、樽屋の人達はよく田辺の家と往来している。あの樽屋のおかみさんが自慢の娘のまだ初々(ういうい)しい鬘下地(かつらしたじ)なぞに結って踊の師匠の許(もと)へ通っていた頃の髪が何時の間にか島田に結い変えられたその姉さんらしい額つきを捨吉は想像で見ることが出来た。彼はまた、あの大伝馬町辺の奥深い商家で生長した大勝の主人の秘蔵娘の白いきゃしゃな娘らしい手を想像で見ることが出来た……」
 読んで行くうちに、年若な自分がそこへあらわれた。何かしら胸を騒がせることがあると、直(す)ぐ頬(ほお)が熱くなって来るような、まだ無垢(むく)で初心(うぶ)な自分がそこへあらわれた。何か遠い先の方に自分等を待受けていてくれるものがあるような心持でもって歩き出したばかりの頃の自分がそこへあらわれた。岸本は自分の少年の姿を自分で見る思いをした。

        二十六

「どうも仕方が無い。最早これまでだ」
 岸本は独りでそれを言って見た。人から責められるまでもなく、彼は自分から責めようとした。世の中から葬られるまでもなく、自分から葬ろうとした。二十年前、岸本は一度国府津(こうず)附近の海岸へ行って立ったことがある。暗い相模灘(さがみなだ)の波は彼の足に触れるほど近く押寄せて来たことがある。彼もまだ極(ごく)若いさかりの年頃であった。止(や)み難い精神(こころ)の動揺から、一年ばかりも流浪を続けた揚句、彼の旅する道はその海岸の波打際(なみうちぎわ)へ行って尽きてしまった。その時の彼は一日食わず飲まずであった。一銭の路用も有(も)たなかった。身には法衣(ころも)に似て法衣でないようなものを着ていた。それに、尻端折(しりはしおり)、脚絆(きゃはん)、草鞋穿(わらじばき)という異様な姿をしていた。頭は坊主に剃(そ)っていた。その時の心の経験の記憶が復(ま)た実際に岸本の身に還(かえ)って来た。曾(かつ)て彼の眼に映った暗い波のかわりに、今は四つ並んだ墓が彼の眼にある。曾て彼の眼に映ったものは実際に彼の方へ押寄せて来た日暮方の海の波であって、今彼の眼にあるものは幻の墓ではあるけれども、その冷たさに於(お)いては幻はむしろ真実に勝(まさ)っていた。三年も彼が見つめて来た四つの墓は、さながら暗夜の実在のようにして彼の眼にあった。岸本園子の墓。同じく富子の墓。同じく菊子の墓。同じく幹子の墓。彼はその四つの墓銘をありありと読み得るばかりでなく、どうかすると妻の園子の啜泣(すすりな)くような声をさえ聞いた。それは彼が自分の乱れた頭脳(あたま)の内部(なか)で聞く声なのか、節子の居る下座敷の方から聞えて来る声なのか、それとも何か他の声なのか、いずれとも彼には言うことが出来なかった。その幻の墓が見えるところまで堕(お)ちて行く前には、彼は恥ずべき自己(おのれ)を一切の知人や親戚(しんせき)の眼から隠すために種々な遁路(にげみち)を考えて見ないでもなかった。知らない人ばかりの遠い島もその一つであった。訪れる人もすくない寂しい寺院(おてら)もその一つであった。しかし、そうした遁路を見つけるには彼は余りに重荷を背負っていた。余りに疲れていた。余りに自己を羞(は)じていた。彼は四つ並んだ幻の墓の方へ否(いや)でも応でも一歩ずつ近づいて行くの外はなかった。
 一日は空(むな)しく暮れて行った。夕日は二階の部屋に満ちて来た。壁も、障子も、硝子戸(ガラスど)も、何もかも深い色に輝いて来た。岸本の心は実に暗かった。日頃(ひごろ)彼の気質として、心を決することは行うことに等しかった。泉太、繁の兄弟の子供の声も最早彼の耳には入らなかった。唯(ただ)、心を決することのみが彼を待っていた。

        二十七

 節子が何事(なんに)も知らずに二階へ上って来た頃は、日は既に暮れていた。彼女は使の持って来た手紙を叔父に渡した。それを受取って見て、岸本は元園町の友人が復た手紙と一緒にわざわざ迎えの俥(くるま)までも寄(よこ)してくれたことを知った。
 友人を見たいと思う心が岸本には動かないではなかった。しかしその心からと言うよりも、むしろ彼は半分器械のように動いた。元園町の手紙を読むと直ぐ楼梯(はしごだん)を降りて、そこそこに外出する支度(したく)した。
 暗い門の外には母衣(ほろ)の掛った一台の俥が岸本を待っていた。節子に留守を頼んで置いて、ぶらりと岸本は家を出た。別れを友人に告げに行くつもりでは無いまでも、実際どう成ってしまうか解らないような暗い不安な心持で、彼はその俥に乗った。そして地を踏んで行く車夫の足音や、時々車夫の鳴らす鈴の音や、橋の上へさしかかる度(たび)に特に響ける車輪の音を母衣の内で聞いて行った。大きな都会の夜らしい町々の灯が母衣の硝子(ガラス)に映ったり消えたりした。幾つとなく橋を渡る音もした。彼はめったに行かない町の方へ揺られて行くことを感じた。
 元園町の友人は一人の客と一緒に、岸本の知らない家で彼を待受けていた。そこには電燈のかがやきがあった。酒の香気(におい)も座敷に満ちていた。岸本のために膳部(ぜんぶ)までが既に用意して置いてあった。元園町は客を相手に、さかんに談(はな)したり飲んだりしているところであった。
「岸本君、今夜は大いに飲もうじゃ有りませんか」
 と元園町が眉(まゆ)をあげて言った。岸本は元園町から差された盃(さかずき)を受ける間もなく、日頃懇意にする客の方からも盃を受けた。
「今夜は岸本さんを一つ酔わせなければいけない」
 とその客も言って、復た岸本の方へ別の盃を差した。
「ねえ、君」と元園町は客の方を見ながら、「僕なぞが、どれほど岸本君を思っているか、それを岸本君は知らないでいる」
「まあ、一つ頂きましょう」と客は岸本からの返盃(へんぱい)を催促するように言った。
 耳に聞く友人等の笑声、眼に見る華(はな)やかな電燈の灯影(ほかげ)は、それらのものは岸本が心中の悲痛と混合(まざりあ)った。彼は楽しい酒の香気を嗅(か)ぎながら、車の上でそこまで震えてやって来た彼自身のすがたを思って見た。節子と彼と、二人の中の何方(どっち)か一人が死ぬより外に仕方が無いとまで考えて来たその時までの身の行詰りを思って見た。
 元園町は心地(ここち)よさそうに酔っていたが、やがて何か思い出したように客の方を見ながら、
「ねえ、君、岸本君なぞも一度欧羅巴(ヨーロッパ)を廻って来ると可(い)いね……是非僕はそれをお勧(すす)めする……」
 客はこうした酒の上の話も肴(さかな)の一つという様子で、盃を重ねていた。
「岸本君」と元園町は酔に乗じて岸本を励ますように言った。「君も一度欧羅巴を見ていらっしゃい……是非見ていらっしゃい……もし君が奮発して出掛けられるようなら、僕はどんなにでも骨を折ります……一度は欧羅巴というものを見て置く必要がありますよ……」
 岸本は黙し勝ちに、友人の話を聞いていた。どうかして生きたいと思う彼の心は、情愛の籠(こも)った友人の言葉から引出されて行った。

        二十八

 夜は更(ふ)けた。四辺(あたり)はひっそりとして来た。酒の相手をするものは皆帰ってしまった。まだそれでも元園町は客を相手に飲んでいた。それほど二人は酒の興が尽きないという風であった。その晩は岸本もめずらしく酔った。夜が更ければ更けるほど、妙に彼の頭脳(あたま)は冴(さ)えて来た。
「友人は好いことを言ってくれた。これ以上の死滅には自分は耐えられない――」
 彼は自分で自分に言って見た。
 呼んで貰(もら)った俥が来た。岸本は自分の家を指(さ)して深夜の都会の空気の中を帰って行った。東京の目貫(めぬき)とも言うべき町々も眠ってしまって、遅くまで通う電車の響も絶えていた。広い大通りには往来(ゆきき)の人の足音も聞えなかった。海の外へ。岸本がその声をハッキリと聞きつけたのも帰りの車の上であった。あだかも深い「夜」が来てその一条の活路を彼の耳にささやいてくれたかのように。すくなくも元園町の友人が酒の上で言った言葉から、その端緒(いとぐち)を見つけて来たというだけでも、彼に取って、難有(ありがた)い賜物のように思われた。どうかして自分を救わねば成らない。同時に節子をも。又た泉太や繁をも。この考えが彼の胸に湧(わ)いて来て、しかも出来ない事でも無いらしく思われた時は、彼は心からある大きな驚きに打たれた。
 可成(かなり)な時を車で揺られて岸本は住み慣れた町へ帰って来た。割合に遅くまで人通の多いその界隈(かいわい)でも、最早(もう)真夜中で、塒(ねぐら)で鳴く鶏の声が近所から僅かに聞えて来ていた。家でも皆寝てしまったらしい。そう思いながら、岸本は門の戸を叩(たた)いた。
「叔父さんですか」
 という節子の声がして、やがて戸の掛金を内からはずしてくれる音のする頃は、まだ岸本は酒の酔が醒(さ)めなかった。
「まあ、叔父さんにはめずらしい」
 と節子は驚いたように叔父を見て言った。
 岸本は自分の部屋へ行ってからも、胸の中に湧(わ)き上って来る感動を制(おさ)えることが出来なかった。丁度節子は酔っている叔父のために冷水(おひや)を用意して来た。岸本は何事(なんに)も知らずにいる姪にまで自分の心持を分けずにいられなかった。
「可哀そうな娘だなあ」
 思わずそれを言って、彼ゆえに傷ついた小鳥のような節子を堅く抱きしめた。
「好い事がある。まあ明日話して聞かせる」
 その岸本の言葉を聞くと、節子は何がなしに胸が込上(こみあ)げて来たという風で、しばらく壁の側に顔を押えながら立っていた。とめども無く流れて来るような彼女の暗い涙は酔っている岸本の耳にも聞えた。

        二十九

 朝が来て見ると、平素(ふだん)はそれほど気もつかずにいた書斎の内の汚(よご)れが酷(ひど)く岸本の眼についた。彼は長く労作の場所とした二階の部屋を歩いて見た。何一つとしてそこには澱(よど)み果てていないものは無かった。多年彼が志した学芸そのものすら荒れ廃(すた)れた。書棚(しょだな)の戸を開けて見た。そこには半年の余も溜(たま)った塵埃(ほこり)が書籍という書籍を埋めていた。壁の側に立って見た。そこには血が滲(にじ)んでいるかと思われるほど見まもり疲れた冷たさ、恐ろしさのみが残っていた。
 遠い外国の旅――どうやらこの沈滞の底から自分を救い出せそうな一筋の細道が一層ハッキリと岸本に見えて来た。何よりも先(ま)ず彼は力を掴(つか)もうとした。あの情人の夫を殺すつもりで過(あやま)って情人を殺してまでも猶(なお)かつ生きることの出来たという文覚上人(もんがくしょうにん)のような昔の坊さんの生涯の不思議を考えた。そこからもっと自己を強くすることを学ぼうとした。一歩(ひとあし)も自分の国から外へ踏出したことの無い岸本のようなものに取っては、遠い旅の思立ちはなかなか容易でなかった。七年ばかり暮しつづけているうちにまるで根が生(は)えてしまったような現在の生活を底から覆(くつがえ)すということも容易ではなかった。節子や子供等をもっと安全な位置に移し、留守中のことまでも考えて置いて、独(ひと)りで家庭を離れて行くということも容易ではなかった。それを思うと、岸本の額からは冷い脂(あぶら)のような汗が涌(わ)いて来た。
 しかし、不思議にも岸本の腰が起(た)った。腐ってしまいそうだとよく岸本の嘆いていた身体(からだ)が、ひょっとすると持病に成るかとまで疼痛(いたみ)を恐ろしく感じていた身体が、小舟を漕(こ)いで見たり針医に打たせたりしてまだそれでも言うことを利(き)かなかった身体が、半日ぐらい壁の側に倒れていることはよく有って激しい疲労と倦怠(けんたい)とをどうすることも出来なかったような身体が、その時に成って初めて言うことを利(き)いた。彼は精神(こころ)から汗を出した。そしてズキズキと病める腰のことなぞは忘れてしまった。一切を捨てて海の外へ出て行こう。全く知らない国へ、全く知らない人の中へ行こう。そこへ行って恥かしい自分を隠そう。こうした心持は、自ら進んで苦難を受くることによって節子をも救いたいという心持と一緒に成って起って来た。
 その心持から岸本は元園町の友人へ宛(あ)てた手紙を書いた。彼は自分の身についた一切のものを捨ててかかろうとしたばかりでなく、多年の労作から得た一切の権利をも挙(あ)げて旅の費用に宛てようと思って来た。この遽(にわ)かな旅の思い立ちは誰よりも先ず節子を驚かした。

        三十

「酒の上で言ったようなことを、そう岸本君のように真面目(まじめ)に取られても困る」
 これは元園町の友人の意見として、過ぐる晩一緒に酒を酌(く)みかわした客から岸本の又聞きにした言葉であった。岸本はこの友人に対してすら、何故そう「真面目」に取らずにはいられなかったというその自分の位置をどうしても打明けることが出来なかった。
 とは言え、元園町からは助力を惜まないという意味の手紙を寄(よこ)してくれた。この手紙が岸本を励した上に、幸いにも旅の思立ちを賛成してくれた人達のあったことは一層彼の心を奮い起(た)たせた。それからの岸本は殆(ほとん)ど旅の支度(したく)に日を送った。そろそろ梅の咲き出すという頃には大体の旅の方針を定めることが出来るまでに成った。長いこと人も訪(たず)ねずに引籠(ひっこ)みきりでいた彼は、神田へも行き、牛込(うしごめ)へも行った。京橋へも行った。本郷へも行った。どうかして節子の身体がそれほど人の目につかないうちに支度を急ぎたいと願っていた。
「一度は欧羅巴(ヨーロッパ)を見ていらっしゃるというのも可(よ)かろうと思いますね。何もそんなにお急ぎに成る必要は無いでしょう――ゆっくりお出掛になっても可(い)いでしょう」
 番町の方の友人が岸本の家へ訪ねて来てくれた時に、その話が出た。この友人は岸本から見ると年少ではあったが、外国の旅の経験を有(も)っていた。
「思い立った時に出掛けて行きませんとね、愚図々々してるうちには私も年を取ってしまいますから」
 こう岸本は言い紛らわしたものの、親切にいろいろなことを教えてくれる友人にまで、隠さなければ成らない暗いところのある自分の身を羞(は)ずかしく思った。
 まだ岸本は兄の義雄に何事(なんに)も言出してなかった。留守中の子供の世話ばかりでなく、節子の身の始末に就(つ)いては親としての兄の情にすがるの外は無いと彼も考えた。しかしながら、日頃兄の性質を熟知する岸本に何を言出すことが出来よう。義雄は岸本の家から出て、母方の家を継いだ人であった。民助と義雄とは同じ先祖を持ち同じ岸本の姓を名のる古い大きな二つの家族の家長たる人達であった。地方の一平民を以(もっ)て任ずる義雄は、家名を重んじ体面を重んずる心を人一倍多く有っていた。婦女の節操は義雄が娘達のところへ書いてよこす何よりも大切な教訓であった。こうした気質の兄から不日上京するつもりだという手紙を受取ったばかりでも、岸本は胸を騒がせた。
「お前のお父さんが出ていらっしゃるそうだ」
 それを岸本が節子に言って聞かせると、彼女は唯(ただ)首を垂(た)れて、悄(しお)れた様子を見せていた。でも彼女が割合に冷静であることは岸本の心をやや安んじさせた。
 旅の支度に心忙しく日を送りながら今日見えるか明日見えるかと岸本が心配しつつ待っていた兄は名古屋の方から着いた。

        三十一

「や。どうも久しぶりで出て来た。今停車場(ステーション)から来たばかりで、まだ宿屋へも寄らないところだ。今度は大分用事もあるし、そうゆっくりしてもいられないが――まあ、すこし話して行こう。子供も皆丈夫でいるかね」
 義雄は外套(がいとう)を脱ぎながらもこんな話をして、久しぶりで弟を見るばかりでなく、娘をも見るという風に、そこへ来て帽子や外套を受取ろうとする節子へも言葉を掛けた。
「節ちゃんも相変らず働いてるね」
 それを聞くと、岸本は何事(なんに)も知らずにいる兄の顔を見ることさえも出来なかった。久しぶりで上京した人を迎え顔に、下座敷の内をあちこちと歩き廻った。
「どれ、お茶の一ぱいも御馳走(ごちそう)に成って行こう」
 と言いながら、勝手を知った兄は自分から先に立って二階の座敷へ上った。この兄と対(むか)い合って見ると、岸本は思うことも言出しかねて、外国の旅の思立ちだけしか話すことが出来なかった。留守中の子供のことだけを兄に頼んだ。「そいつは面白いぞ」と義雄は相変らずの元気で、「俺(おれ)の家でもこれから大いに発展しようというところだ。近いうちに国の方のものを東京へ呼ぶつもりでいたところだ。貴様が家を見つけて置いてくれさえすれば、子供の世話は俺の方で引受けた」
 義雄の話は何時(いつ)でも簡単で、そしてテキパキとしていた。
 十年振りで帰国した鈴木の兄の噂(うわさ)、台湾の方の長兄の噂などにしばらく時を送った後、義雄は用事ありげに弟の許(もと)を辞し去る支度した。仮令(たとえ)この兄の得意の時代はまだ廻って来ないまでも勃々(ぼつぼつ)とした雄心は制(おさ)えきれないという風で、快く留守中のことを引受けたばかりでなく、外国の旅にはひどく賛成の意を表してくれた。
 兄は出て行った。岸本は節子を呼んで、兄の話を彼女に伝え、不安な彼女の心にいくらかの安心を与えようとした。
「でも、お前のことを頼むとは、いかに厚顔(あつかま)しくも言出せなかった――どうしても俺には言出せなかった」
 と岸本は嘆息して言った。
「もしお前のお母(っか)さんが国から出ていらしったら、さぞびっくりなさるだろう」
 と復(ま)た彼は附添(つけた)した。
 弟の外遊を悦(よろこ)んでくれた義雄の顔は岸本の眼についていた。自己の不徳を白状することを後廻しにして、留守中の子供の世話を引受けて貰(もら)ったでは、欺くつもりもなく兄を欺いたにも等しかった。岸本はこの旅の思立ちが、いかに兄を欺き、友を欺き、世をも欺く悲しき虚偽の行いであるかを思わずにいられなかった。そして一書生の旅に過ぎない自分の洋行というようなことが大袈裟(おおげさ)に成れば成るだけ、余計にその虚偽を増すようにも思い苦しんだ。出来ることなら人にも知らせずに行こう。日頃親しい人達にのみ別れを告げて行こう。すくなくも苦を負い、難を負うことによって、一切の自己(おのれ)の不徳を償おう、とこう考えた。それにしても、いずれ一度は節子のことを兄の義雄だけには頼んで置いて行かねば成らなかった。それを考えると、岸本は地べたへ顔を埋めてもまだ足りないような思いをした。

        三十二

 春の近づいたことを知らせるような溶け易(やす)い雪が来て早や町を埋めた。実に無造作に岸本は旅を思い立ったのであるが、実際にその支度に取掛って見ると、遠い国に向おうとする途中で必要なものを調(ととの)えるだけにも可成(かなり)な日数を要した。
 眼に見えない小さな生命(いのち)の芽は、その間にそろそろ頭を持上げ始めた。節子の苦しみと悩みとは、それを包もう包もうとしているらしい彼女の羞(はじ)を帯びた容子(ようす)は、一つとして彼女の内部(なか)から押出して来る恐ろしい力を語っていないものはなかった。あだかも堅い地を割って日のめを見ないでは止(や)まない春先の筍(たけのこ)のような勢で。それを見せつけられる度(たび)に、岸本は注文して置いた旅の衣服や旅の鞄(かばん)の出来て来るのを待遠しく思った。
 ある日、岸本は警察署に呼出されて身元調を受けて帰って来た。これは外国行の旅行免状を下げて貰うに必要な手続きの一つであった。節子は勝手口に近い小座敷に立っていて、何となく彼女に起りつつある変化が食物の嗜好(しこう)にまであらわれて来たことを心配顔に叔父に話した。
「婆やにそう言われましたよ。『まあ妙な物をお節ちゃんは食べて見たいんですねえ』ッて――梅干のようなものが頂きたくて仕方が無いんですもの」
 こう節子は顔を紅(あか)めながら言った。彼女はまた、婆やに近くいて見られることを一番恐ろしく思うとも言った。
 岸本はまだ二人の子供に何事(なんに)も話し聞かせて無かった。幾度(いくたび)となく彼は自分の言出そうとすることが幼いものの胸を騒がせるであろうと考えた。その度に躊躇(ちゅうちょ)した。
「泉ちゃん、お出(いで)」
 と岸本は夕飯の膳(ぜん)の側へ泉太を呼んだ。
「繁ちゃん、父さんがお出ッて」
 と泉太はまた弟を呼んだ。
 二人の子供は父の側に集った。旅を思い立つように成ってからは客も多く、岸本は家のものと一緒に夕飯の膳に就(つ)くことも出来ない時の方が多かった。
「父さんはお前達にお願いがあるがどうだね。近いうちに父さんは外国の方へ出掛けて行くが、お前達はおとなしくお留守居してくれるかね」
 節子は膳の側に、婆やは勝手口に聞いているところで、岸本はそれを子供に言出した。
「お留守居する」
 と弟は兄よりも先に膝(ひざ)を乗出した。
「繁ちゃん」
 と兄は弟を叱(しか)るように言った。その泉太の意味は、自分は弟よりも先に父の言葉に応じるつもりであったとでも言うらしい。
「二人ともおとなしくして聞いていなくちゃ不可(いけない)。お前達は父さんの行くところをよく覚えて置いておくれ。父さんは仏蘭西(フランス)という国の方へ行って来る――」
「父さん、仏蘭西は遠い?」と弟の方が訊(き)いた。
「そりゃ、遠いサ」と兄の方は小学校の生徒らしく弟に言って聞かせようとした。
 岸本は二人の幼いものの顔を見比べた。「そりゃ、遠いサ」と言った兄の子供ですら、何程の遠さにあるということは知らなかった。

        三十三

 思いの外、泉太や繁は平気でいた。それほど何事(なんに)も知らずにいた。父が遠いところへ行くことを、鈴木の伯父の居る田舎(いなか)の方か、妹の君子が預けられている常陸(ひたち)の海岸の方へでも行くぐらいにしか思っていないらしかった。その無心な様子を見ると、岸本はさ程子供等の心を傷(いた)めさせることもなしに手放して行くことが出来るかと考えた。
 岸本は膳の側へ婆やをも呼んで、
「いろいろお前にはお世話に成った。俺も今度思立って外国の方へ行って来るよ。近いうちに節ちゃんのお母さん達が郷里(くに)から出て来て下さるだろうから、それまでお前も勤めていておくれ」
「あれ、旦那(だんな)さんは外国の方へ」と婆やが言った。「それはまあ結構でございますが――」
 岸本はこの婆やに聞かせるばかりでなく、子供等にも聞かせる積りで、
「俺は九つの歳(とし)に東京へ修業に出て来た。それからはもうずっと親の側にもいなかった。他人の中でばかり勉強した。それでもまあ、どうにかこうにか今日までやって来た。それを考えるとね、泉ちゃんや繁ちゃんだって父さんのお留守居が出来ないことは有るまいと思うよ……どうだね、泉ちゃん、お留守居が出来るかね」
「出来るサ」と泉太は事もなげに言った。
「父さんが居なくたって、お節ちゃんはお前達と一緒に居るし、今に伯母さんや祖母(おばあ)さんも来て下さる」
「お節ちゃんは居るの」と繁が節子の方を見て訊(き)いた。
「ええ、居ますよ」
 節子は言葉に力を入れて子供の手を握りしめた。
 何時(いつ)伝わるともなく岸本の外遊は人の噂に上るように成った。彼は中野の友人からも手紙を貰った。その中には、かねてそういう話のあったようにも覚えているが、こんなに急に決行しようとは思わなかったという意味のことを書いて寄(よこ)してくれた。若い人達からも手紙を貰った。その中には、「母親のない幼少(おさな)い子供を控えながら遠い国へ行くというお前の旅の噂は信じられなかった。お前は気でも狂ったのかと思った。それではいよいよ真実(ほんとう)か」という意味のことを書いて寄してくれた人もあった。こうした人の噂は節子の小さな胸を刺激せずには置かなかった。諸方(ほうぼう)から叔父の許へ来る手紙、遽(にわ)かに増(ふ)えた客の数だけでも、急激に変って行こうとする彼女の運命を感知させるには充分であった。彼女は叔父に近く来て、心細そうな調子で言出した。
「叔父さんはさぞ嬉しいでしょうねえ――」
 叔父の外遊をよろこんでくれるらしいこの節子の短い言葉が、あべこべに名状しがたい力で岸本の心を責めた。何か彼一人が好い事でもするかのように。頼りのない不幸なものを置去りにして、彼一人外国の方へ逃げて行きでもするかのように。
「叔父さんが嬉しいか、どうか――まあ見ていてくれ」
 と岸本は答えようとしたが、それを口にすることすら出来なかった。彼は黙って姪(めい)の側を離れた。

        三十四

 叔父を恐れないように成ってからの節子の瞳(ひとみ)は、叔父に対する彼女の強い憎(にくし)みを語っているばかりでも無かった。どうかするとその瞳は微笑(ほほえ)んでいることもあった。そして彼女の顔にあらわれる暗い影と一緒に成って動いていた。
「妙なものですねえ」
 節子はこうした短い言葉で、彼女の内部(なか)に起って来る激しい動揺を叔父に言って見せようとすることもあった。しかし岸本は不幸な姪の憎みからも、微笑(ほほえみ)からも、責められた。その憎みも微笑も彼を責めることに於(お)いては殆んど変りがなかったのである。
 温暖(あたたか)い雨が通過ぎた。その雨が来て一切のものを濡(ぬ)らす音は、七年住慣れた屋根の下を離れ行く日の次第に近づくことを岸本に思わせた。早くこの家を畳まねば成らぬ。新しい家の方に節子を隠さねば成らぬ。それらの用事が実に数限りも無く集って来ている中で、一方には岸本は日頃(ひごろ)親しい人達にそれとなく別離(わかれ)を告げて行きたいと思った。出来るだけ手紙も書きたいと思った。岸本はある劇場へと車を急がせた。彼はいそがしい自分の身(からだ)の中から僅(わずか)の時を見つけて、せめてその時を芝居小屋の桟敷(さじき)の中に送って行こうとした。ある近代劇の試演から岸本の知るように成った二三の俳優がその舞台に上る時であった。前後に関係の無い旧(ふる)い芝居の一幕が開けた。人形のように白く塗った男の子役の顔が岸本の眼に映った。女の子にもして見たいようなその長い袖(そで)や、あまえるように傾(かし)げたその首や、哀れげに子役らしいその科白廻(せりふまわ)しは、悪戯(いたずら)ざかりの泉太や繁とは似てもつかないようなものばかりであった。でも、岸本は妙に心を誘われた。彼の胸の中は国に残して置いて行こうとする自分の子供等のことで満たされるように成った。熱い涙がその時絶間なしに岸本の頬(ほお)を伝って流れて来た。彼は舞台の方を見ていることも出来なかった。座にも耐えられなかった。人を避けて長い廊下へ出て見ると、そこには幾つかの並んだ薄暗い窓があった。彼はその窓の一つの方へ行って、激しく泣いた。

        三十五

 岸本は出来るだけ旅の支度を急ごうとした。漸(ようや)く家の周囲(まわり)の狭い廂間(ひあわい)なぞに草の芽を見る頃に成って、引越の準備をするまでに漕(こ)ぎ付けることが出来た。節子は暇さえあれば炬燵(こたつ)に齧(かじ)りついて、丁度巣に隠れる鳥のように、勝手に近い小座敷に籠(こも)ってばかりいるような人に成った。一月は一月より眼に見えないものの成長から苦しめられて行く彼女の様子が岸本にもよく感じられた。彼の心が焦(あせ)れば焦るほど、延びることを待っていられないような眼に見えないものは意地の悪いほど無遠慮(ぶえんりょ)な勢いを示して来た。一日も、一刻も、与えられた時を猶予することは出来ないかのように。仮令(たとえ)母の生命(いのち)を奪ってまでも生きようとするようなその小さなものを実際人の力でどうすることも出来なかった。
 死を思わせるほど悩ましい節子の様子から散々に脅(おびや)かされた岸本は、今復(ま)た彼女から生れて来るものの力に踏みにじられるような心持でもって、時々節子をいたわりに行った。節子は娘らしく豊かな胸の上あたりを羽織で包んで見せ、張り満ちて来る力の制(おさ)えがたさを叔父に告げた。彼女の恐怖、彼女の苦痛を分つものは叔父一人の外に無かった。
「御免下さいまし」
 という親戚(しんせき)の女の声を表口の方に聞きつけたばかりでも、岸本は心配が先に立った。
 根岸の姪(めい)――民助兄の総領娘にあたる愛子が引越間際(まぎわ)の取込んだところへ訪ねて来た。輝子や節子が「根岸の姉さん」と呼んでいるのは、この愛子のことであった。愛子は岸本の許へ何よりの餞別(せんべつ)の話を持って来てくれた。それは台湾の父とも相談の上、叔父の末の児(君子)を自分の妹として養って見たいというのであった。
「いろいろ父も御世話さまに成りましたし……それに叔父さんも外国の方へいらっしゃるようになれば、君ちゃんの仕送りをなさるのも大変でしょうと思いましてね……」
 この愛子のこころざしを岸本は有難(ありがた)く受けた。
「そう言えば叔父さんの髪の毛は――」と愛子は驚いたように岸本の方を見て言った。「まあ、白くおなんなすったこと。この一二年の間に、急に白くおなんなすったようですね」
「そうかねえ、そんなに白くなったかねえ」
 岸本は笑い紛わした。
 この「根岸の姉さん」の前で見る時ほど、節子の改まって見えることは無かった。それは節子にのみ限らなかった。姉の輝子とても矢張(やはり)その通りであった。同じ岸本を名のる近い親類でも、愛子と節子姉妹の間には女同志でなければ見られないような神経質があった。のみならず、節子は見る人に見られることを恐れるかして、障子のかげの炬燵の方にとかく愛子を避け勝ちであった。
「君ちゃんの許(とこ)へ一つ送ってやって貰いましょうか」
 と言いながら、岸本は亡(な)くなった長女の形見として箪笥(たんす)の底に遺(のこ)ったものを愛子の前に取出した。罪の深い叔父は、自分の女の児を引取って養おうと言ってくれる一人の姪の手前をさえ憚(はばか)った。

        三十六

 住慣れた町を去る時が来た。泉太や繁の母親が生きている頃と殆(ほとん)ど同じようにして置いてあった家の内の諸道具も、柱の上から古い時計を一つ下し、壁の隅(すみ)から茶戸棚(ちゃとだな)一つ動かしする度(たび)に、下座敷の内の見慣れた光景(さま)が壊(こわ)れて行った。
 岸本は遠い旅の鞄(かばん)に入れて持って行かれるだけの書籍を除いて、日頃愛蔵した書架の中の殆ど全部の書籍を売払った。それから、外国の客舎の方で部屋着として着て見ようと思う寒暑の衣類だけを別にして、園子と結婚した時からある古い羽織袴(はかま)の類から日頃身に着けていたものまで、自分の着物という着物はあらかた売払った。
「節ちゃん、これはお前に置いて行く」
 岸本は節子を呼んで、箪笥(たんす)の抽筐(ひきだし)を引出して見せた。園子の形見としてその日まで大切に蔵(しま)って置いた一重(ひとかさ)ねの晴着と厚い帯とが、そこに残っていた。その帯は園子が結婚の日の記念であるばかりでなく、愛子の結婚の時にも役に立ち、輝子の時にも役に立った。岸本はそれらの妻の最後の形見を惜気もなく節子に分けた。
「泉ちゃんや繁ちゃんのことは、お前に頼んだよ」
 という言葉を添えた。
 裏口の垣根の側には二株ばかりの萩(はぎ)の根があった。毎年花をもつ頃になると岸本の家ではそれを大きな鉢(はち)に移して二階の硝子戸(ガラスど)の側に置いた。丸葉と、いくらか尖(とが)った葉とあって、二株の花の形状(かたち)も色合もやや異っていたが、それが咲き盛る頃には驚くばかり美しかった。狭い町の中で岸本の書斎を飾ったのもその萩であった。植物の好きな節子は岸本の知らない間に自分で萩の根の始末をして、一年半の余を叔父と一緒に暮した家の記念として、新規な住居の方へ運んで行くばかりにして置いてあった。やがて待侘(まちわ)びた朝が来た。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、いらっしゃい。おべべを着更(きか)えましょうね」と節子は二人の子供を呼んだ。
「彼方(あっち)のお家へ行くんですよ」
 と婆やも子供の側へ寄った。
 針医の娘は兄弟の子供の着物を着更えるところを見に来た。泉太も、繁も、知らない町の方へ動くことを悦(よろこ)んで、買いたての新しい下駄で畳の上をさも嬉(うれ)しそうに歩き廻った。
 岸本は二階へ上って行って見た。もっと長く住むつもりで塗り更(か)えさせた黄色い部屋の壁がそこにあった。がらんとした書斎がそこにあった。硝子戸のところへ行って立って見た。幾度(いくたび)か既に温暖(あたたか)い雨が通過ぎた後の町々の続いた屋根が彼の眼に映った。噂好(うわさず)きな人達の口に上ることもなしに、ともかくも別れて行くことの出来るその朝が来たのを不思議にさえ思った。
 最近に訪(たず)ねて来てくれた恩人の家の弘の言葉が不図(ふと)岸本の胸へ来た。
「菅(すげ)さんの言草が好いじゃ有りませんか。『岸本君は時々人をびっくりさせる。――昔からあの男の癖です』とさ」
 これは弘が岸本の外出中に、この家で旧友の菅と落合った時の言葉であった。町に別れを告げるようにして岸本はその二階の戸を閉めた。遠く高輪(たかなわ)の方に見つけた家の方へ、彼は先(ま)ず女子供を送出した。

        三十七

 新しい隠れ家は岸本を待っていた。節子と婆やに連れられて父よりも先に着いていた二人の子供は、急に郊外らしく樹木の多い新開の土地に移って来たことをめずらしそうにして、竹垣と板塀(いたべい)とで囲われた平屋造りの家の周囲(まわり)を走り廻っていた。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、気をつけるんだよ。お庭の植木の葉なぞを採るんじゃないよ」
 岸本は先ずそれを子供に言って聞かせたが、兄弟の幼いものが互いに呼びかわす声を新しい住居の方で聞いたばかりでも、彼には別の心地(こころもち)を起させた。
 節子は婆やを相手に引越の日らしく働いているところであった。まだ荷車は着かなかった。
「漸(ようや)く。漸く」
 と岸本はさも重荷でも卸したように言って、ざっと掃除の出来た家の内をあちこちと見て廻った。以前の住居に比べると、そこには可成(かなり)間数もあった。岸本は節子に伴われながら、静かな日のあたって来ている北向の部屋を歩いて見た。
「祖母(おばあ)さんでも出ていらしったら、この部屋に居て頂(いただ)くんだね。針仕事でもするには静かで好さそうな部屋だね」
 と岸本は節子に言った。丁度その部屋の前には僅(わず)かばかりの空地があって、裏木戸から勝手口の方へ通われるように成っていた。
「叔父さん、持って来た萩(はぎ)を植るには好さそうなところが有りますよ」と言って、節子はその空地の隅(すみ)のあたりを叔父に指(さ)して見せた。
 岸本は南向の部屋の方へ行って見た。そこへも節子が随(つ)いて来た。彼女はめずらしく晴々とした顔付で、まだ姿にも動作にも包みきれないほどの重苦しさがあるでもなく、僅(わずか)に軽い息づかいを泄(もら)しながら庭先の椿(つばき)の芽などを叔父に指して見せた。その庭には勢いよく新しい枝の延びた満天星(どうだん)や、また枯々とはしていたが銀杏(いちょう)の樹なぞのあることが、彼女を悦(よろこ)ばせた。
「親類中で、こんな家に住んでるものは一人もありやしません」
 と節子は半分独語(ひとりごと)のように言って、若々しい眼付をしながらそこいらを眺(なが)め廻した。
 やがて節子は婆やの方へ行った。彼女の言ったことは不思議な寂しさを岸本の心に与えた。こんな家に住むことが、それが何の誇りだろう。親類なぞに対して外見(がいけん)をよそおうような場合だろうか。こう彼は節子の居ないところで独(ひと)り自分に言って見た。
 荷が着いてからの混雑はそれから夕方まで続いた。夕飯の済む頃になると、岸本は以前のせせこましい町中から離れて来たことより外に何も考えなかった。七年馴染(なじみ)を重ねた噂好きな人達は最早(もう)一人も彼の家の前を通らなかった。夜遅くまで聞えた人の足音や、通過ぎる俥(くるま)のひびきすらしなかった。
「父さん、汽車の音がする」
 と下町育ちの子供等は聞耳を立てた。品川の空の方から響けて伝わって来るその汽車の音は一層四辺(あたり)をひっそりとさせた。岸本は越したての屋根の下で身を横にして、家中のものを笑わせるほど続けざまに溜息(ためいき)を吐(つ)いた。

        三十八

 岸本は既に半ば旅人であった。彼はなるべく人目につくことを避けようとした。送別会の催しなども断れるだけ断った。旅支度(たびじたく)が調(ととの)うまでは諸方への通知も出さずに置いた。彼が横浜から出る船には乗らないで、わざわざ神戸まで行くことにしたのも、独りでこっそりと母国に別れを告げて行くつもりであったからで。
 突然な岸本の思立ちは反(かえ)って見ず知らずの人々の好奇心を引いた。彼の方でなるべく静かに動こうとすればするほど、余計に彼の外遊は人の噂に上るように成った。そうした外観の華(はなや)かさは一層彼を不安にした。断らなくても好いような人にまで、何故彼は両国の附近から場末も場末も荏原郡(えばらぐん)に近い芝区の果のようなそんな遠く離れた町へわざわざ家を移したかということを断らずにはいられなかった。先方(さき)から別に尋ねられもしないのに、高輪は彼が青年時代の記憶のある場所であること、足立や菅などの学友と一緒に四年の月日を送ったのもそこの岡の上にある旧(ふる)い学窓であったことを話した。その学窓の附近に極く平民的な大地主の家族が住むことを話した。その家族の主人公にはまだあの界隈(かいわい)に武蔵野(むさしの)の面影が残っている頃からの庄屋の徳を偲(しの)ばせるに足(た)るものがあることを話した。そのめずらしく大きな家族によって、私立の女学校と、幼稚園と、特色のある小学校が経営されていることを話した。彼はその小学校がいかにも家族的で、自分の子供を托(たく)して行くには最も好ましく考えたかを話した。そして、その学園の附近を択(えら)んで自分の留守宅を移したことを話した。
 毎日のように岸本は旧馴染(むかしなじみ)の高台を下りて、用達(ようたし)に出歩いた。下町の方にある知人の家々へもそれとなく別れを告げに寄った。時には両国の方まで行って、もう一度隅田川の水の流れて行くのが見える河岸(かし)に添いながら、ある雑誌記者と一緒に歩いたこともあった。
「あなたが奮発してお出掛になるということは、大分皆を動したようです」
 この記者の言葉を聞くと、岸本には返事のしようが無かった。地べたを見つめたままで、しばらく黙って歩いた。
「あなたのお子さん達はどうするんです」とまた記者が訊(き)いた。
「子供ですか。留守は兄貴の家の人達に頼んで行くつもりです。姉が郷里(くに)から出て来てくれることに成っていますからね」
「姉さんは最早出ていらしったんですか」
「いえ、まだ……来月でなきゃ」
「あなたは今月のうちに神戸へお立ちに成るというじゃ有りませんか。姉さんもまだ出ていらっしゃらないのに――」
 記者が心配して言ってくれたことは岸本の身に徹(こた)えた。とても彼は嫂(あによめ)に、節子の母親に合せて行く顔が無かった。

        三十九

 長旅に耐えられるような鞄をひろげて書籍や衣服なぞを取纏(とりまと)め、いささかの薬の用意をも忘れまいとする頃は、遠い国に向おうとする心持が実際に岸本に起って来た。
「泉ちゃんや繁ちゃんも、これからは味方になるものが無くて可哀そうですね」
 根岸の姪も高輪へ訪(たず)ねて来て、そんなことを岸本に言った。
「お前達はそんな風に思うかね。叔父さんはまだ小学校へ通う時分から、鈴木の兄さんの家に一年、それから田辺さんの家にずっと長いこと書生をしていたが、別にそんな風に考えないでも済んだ。お世話に成る人は皆な親だと思えば可(い)いよ」
「二人ともまだ幼少(ちいそ)うございますから、お出掛になるなら今の中の方が可いかも知れません」
 こう言う愛子はあまりに岸本が義雄兄の家族を頼み過ぎていることを匂(にお)わせた。何故、彼が根岸へ相談もなしに二人の子供を義雄兄に托して行くのか。それは愛子にも言えないことであった。
「君ちゃんのことは何分よろしく願います」
 と岸本は末の女の児のことを根岸の姪に頼んだ。
 高輪には岸本は十日ばかり暮した。節子や子供等と一緒に居ることも早や一日ぎりに成った。出発前の混雑した心持の中で、夕飯前の時を見つけて、岸本は独り屋外(そと)へ歩きに出た。彼の足は近くにある岡の方へ向いた。ずっと以前に卒業した学校の建築物(たてもの)のある方へ向いた。二十二年の月日はそこを出た一人の卒業生を変えたばかりでなく、以前の学校をも変えた。緩慢(なだらか)な地勢に沿うて岡の上の方から学校の表門の方へ弧線を描いている一筋の径(みち)だけは往時(むかし)に変らなかったが、門の側(わき)に住む小使の家の窓は無かった。岸本はその門を入って一筋の径(みち)を上って行って見た。チャペルの方で鳴る鐘を聞きながらよく足立や菅と一緒に通った親しみのある古い講堂はもう無かった。そのかわりに新しい別の建築物があった。その建築物の裏側へ行って見た。そこに旧い記憶のある百日紅(さるすべり)の樹を見つけた。岸本が外国の書籍に親しみ初めたのも、外国の文学や宗教を知り初めたのも、海の外というものを若い心に想像し初めたのも皆その岡の上であった。しばらく彼は新しい講堂の周囲(まわり)を歩き廻った。彼はこの旧い馴染の土を踏んで、別れを告げて行こうとしたばかりではなかった。彼には遠い異郷の客舎の方で書きかけの自伝の一部の稿を継ごうと思う心があった。その辺をよく見て置いて、青年時代の記憶を喚起(よびおこ)して行こうとしたからでもあった。日暮時の谷間(たにあい)の方から起って来る寺の鐘も、往時を思出すものの一つであった。その鐘の音は岸本の足を家の方へ急がせた。節子は夕飯の用意して叔父を待っていた。

        四十

 夕飯には家のもの一同別離(わかれ)の膳(ぜん)に就(つ)いた。食事する部屋の片隅(かたすみ)には以前の住居の方から仏も移して持って来てあって、節子はそこへも叔父の出発の前夜らしく燈明を進(あ)げた。そのかがやきを見ても、二人の子供は何事(なんに)も知らずにいた。食後に岸本は明るい仏壇の前へ子供を連れて行った。
「母さん、左様なら」
 と岸本は子供等に言って見せた。あだかも亡(な)くなった人にまで別れを告げるかのように。
「これが母さん?」
 泉太の方が戯れるように言って、側に居る繁と顔を見合せた。
「そうサ。これがお前達の母さんだよ」
 と岸本が言うと、二人の子供はわざと知らない振(ふり)をして噴飯(ふきだ)してしまった。
 岸本は南向の部屋へ行っていそがしく出発前の準備に取掛った。書くべき手紙の数だけでも多かった。部屋には旅の鞄に詰めるものが一ぱいにひろげてあった。諸方(ほうぼう)から餞別(せんべつ)として贈られた物も、異郷への土産(みやげ)として、出来るだけ岸本は鞄や行李(こうり)の中に納(い)れて行こうとした。
「明日は天気かナ」
 と言いながら、岸本は庭に向いた硝子戸の方へ行って見た。雨戸を開けると、暗い樹木の間を通して、夜の空が彼の眼に映った。遠く光る星もあった。寒さと温暖(あたたか)さとの混合(まじりあ)ったような空気は部屋の内までも流れ込んで来た。
「節ちゃん、春が来るね」
 と岸本は旅支度の手伝いに余念もない節子の方を顧みて言った。節子は電燈のかげで白い襯衣(シャツ)の類なぞを揃(そろ)えていたが、叔父と入替りに雨戸の方へ立って行った。
「今日は鶯(うぐいす)が来て、しきりにこの庭で啼(な)いていましたッけ」
 と彼女は言って見せた。
 遅くまで人通りの多い下町の方から移って来て見ると、浅草代地あたりでまだ宵の口かと思われた頃がその高台の上では深夜のように静かであった。屋外(そと)では音一つしなかった。以前の住居から持って来た古い柱時計の時を刻む音が際立(きわだ)って岸本の耳に聞えた。
「ほんとにこの辺は静かだね。山の中にでも居るようだね」
 こう岸本は節子に話しかけながら、郊外らしい夜の静かさの中で、遠い旅立の支度を急いだ。岸本に取っては、めったに着たことの無い洋服をこれから先、身につけるというだけでも煩(わずら)わしかった。彼は熱帯地方の航海のことなぞを想像して見て、その準備に思い煩った。
 次第に夜は更(ふ)けて行った。二人の子供の中でも、兄は早く眠った。弟の方は遅くまで眼を覚(さ)まして婆やを相手に子供らしい話をしていたが、やがてこれも寝沈(ねしずま)った。
 十二時打ち、一時打っても、まだ部屋の内はすっかり片付かなかった。「お前達はもう休んでおくれ」と岸本は節子や婆やに言った。「婆や、お前は明日の朝早い人だ。俺(おれ)の方は構わなくても可(い)い。遠慮しないでお休み」
「左様でございますか」と婆やは受けて、「ほんとに遠方へいらっしゃるというものは、御支度ばかりでも容易じゃござりません――旦那(だんな)さん、それでは御先に御免蒙(こうむ)ります」
「節ちゃん、お前もお休み」
 と岸本が言うと、節子の眼は涙でかがやいて来た。羅馬(ローマ)文字で岸本の名を記(しる)しつけた鞄を見るにつけても、悲しい叔父の決心を思いやるような女らしい表情が彼女の涙ぐんだ眼に読まれた。「叔父さん、お休み」それを言いながら、彼女は激しい啜泣(すすりなき)と共に叔父の別離(わかれ)のくちびるを受けた。

        四十一

 翌日岸本は旅の荷物と一緒に旧(もと)の新橋停車場(ステーション)に近いある宿屋に移った。そこで日頃親しい人達を待った。入替り立替り訪(たず)ねて来る客が終日絶えなかった。中野の友人も来て、岸本の方から頼んで置いた茶と椿(つばき)の実を持って来てくれた。岸本はその東洋植物の種子(たね)を異郷への土産として旅の鞄に納(い)れて行こうとした。「こいつが生(は)えて、大きくなるまでには容易じゃ有りませんね」と中野の友人が言って持前の高い響けるような声で笑ったが、この人の笑声も復(ま)た何時(いつ)聞けるかと岸本には思われた。その日は彼は皆に酒を出した。
 慨然として岸本は旅に上る仕度した。眠りがたい僅かの時間をすこしとろとろしたかと思ううちに、早や東京を出発する日が来ていた。その朝、彼が身につけたものは、旅らしい軽い帽子でも、新調の洋服でも、一つとして彼の胸の底に湛(たた)えた悲哀(かなしみ)に似合っているものは無かった。曾(かつ)て彼は身内のものが過(あやま)って鍛冶橋(かじばし)の未決監に繋(つな)がれたことを思い出すことが出来る。その身内のものが手錠、腰繩(こしなわ)の姿で、裁判所の庭を通り過ぎようとした時、冠(かぶ)っていた編笠(あみがさ)のかげから黙って彼に挨拶(あいさつ)した時のことを思出すことが出来る。丁度あの囚人(しゅうじん)の姿こそ自分で自分の鞭(むち)を受けようとする岸本の心には適(ふさ)わしいものであった。眼に見えない編笠。眼に見えない手錠。そして眼に見えない腰繩。実際彼は生きて還(かえ)れるか還れないか分らない遠い島にでも流されて行くような心持で、新橋の停車場の方へ向って行った。
 寒い細(こまか)い雨はしとしと降っていた。旧(ふる)い停車場の石階(いしだん)を上ると、見送りに来てくれた人達が早やそこにもここにも集っていた。
「お目出度(めでと)うございます」
 とある書店の主人が彼の側へ来て挨拶した。
「今日(こんち)はお目出度うございます」
 と大川端(おおかわばた)の方でよく上方唄(かみがたうた)なぞを聞かせてくれた老妓(ろうぎ)が彼の側へ来た。この人は自分より年若な夫の落語家と連立って来て、一緒に挨拶した。
「こりゃ、困ったなあ」
 この考えが見送りに来てくれた人達に逢(あ)うと同時に、岸本の胸へ来た。思いがけない人達までが彼の出発を聞き伝えて、順に彼の方へ近づいて来た。
 岸本は高輪の方から婆やに連れられて来た子供等に逢った。婆やは改まった顔付で、よそいきの羽織なぞを着て、泉太と繁とを引連れていた。
「お節ちゃんは今日はお留守居でございますッて」と婆やは岸本を見て言った。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、よく来たね」
 岸本はかわるがわる二人の子供を抱きかかえた。泉太は眼を円(まる)くして父の周囲(まわり)に集る人々を見廻していたが、やがて首を垂(た)れて涙ぐんだ。その時になってこの兄の方の子供だけは、父が遠いところへ行くことを朦朧(おぼろ)げながらに知ったらしかった。

        四十二

 田辺の弘は中洲(なかす)の方から、愛子夫婦は根岸の方から、いずれも停車場(ステーション)まで岸本を見送りに来た。弘のよく肥(ふと)った立派な体格は、別れを告げて行く岸本に取って、亡(な)くなった恩人を眼(ま)のあたりに見るの思いをさせた。「叔父さん、今日はお目出度うございます」と愛子の夫も帽子を手にして挨拶(あいさつ)した。この人といい、弘といい、岸本から見るとずっと年の違った人達が皆もう働き盛りの年頃に成っていた。次第に停車場へ集って来る人の中で岸本は白い立派な髯(ひげ)を生(はや)した老人を見つけた。その人が妻の父親であった。老人は岸本の外遊を聞いて、見送りかたがた函館(はこだて)の方から出て来てくれた。園子の姉とか妹とかいう人達までこの老人に托(たく)してそれぞれ餞別(せんべつ)なぞを贈って寄(よこ)してくれたことを考えても、思わず岸本の頭は下った。代々木、加賀町、元園町、その他の友人や日頃仕事の上で懇意にする人達も多くやって来てくれた。岸本はそれから人達の集っている方へも別れを告げに行った。
「この次は君の洋行する番だね」
 と代々木の友人の前に立って話しかける人があった。
「そう皆出掛けなくても可(い)いサ」
 と代々木は笑って、快活な興奮した眼付で周囲に集って来る人達を眺(なが)めていた。
 発車の時が近づいた。つと函館の老人は岸本の側へ寄った。
「私はここで失礼します。そんならまあ御機嫌(ごきげん)よう」
 改札口の柵(さく)の横手で、老人は岸本の方をよく見て言った。他の人と同じように入場券を手にしないところにこの老人の気質を示していた。
 五六人の友人は岸本と一緒に列車の中へ入った。岸本が車窓から顔を出した時は、日頃親しい人達ばかりでなく、彼の著述の一冊も読んで見てくれるような知らない年若な人達までがそこに集まって来ていた。多くの人の中を分けて窓際(まどぎわ)へ岸本を捜しに来た美術学校のある教授もあった。
「仏蘭西(フランス)の方へ御出掛だそうですね――私は御立(おたち)の日もよく知りませんでした。今朝新聞を見て急いでやって来ました」
「ええ、君の御馴染(おなじみ)の国へ行ってまいりますよ」
 岸本はその窓際で、少年時代から知合っている画家とあわただしい別れの言葉を交(かわ)した。
「岸本さん、もうすこし顔をお出しなすって下さい。今写真を撮(と)りますから」
 という声が新聞記者の一団の方から起った。岸本は出したくない顔を余儀なく窓の外へ出した。
「どうぞ、もうすこしお出しなすって下さい。それでは写真がよく写りません」
 パッと光る写真器の光の中に、岸本は恥の多い顔を曝(さら)した。
「泉ちゃん、繁ちゃん――左様なら」
 と岸本が婆やに連れられている二人の子供の顔を見ているうちに、汽車は動き出した。岸本は黙って歩廊に立つ人々の前に頭をさげた。
「大変な見送りだね。こんなに人の来てくれるようなことはわれわれの一生にそうたんと無い。まあ西洋へでも行く時か、お葬式(とむらい)の時ぐらいのものだね」
 一緒に乗込んだ加賀町は高級な官吏らしい調子で言って、窓際に立ちながら岸本の方を見た。全く、岸本に取っては生きた屍(しかばね)の葬式(とむらい)が来たにも等しかった。

        四十三

 到頭(とうとう)岸本は幼い子供等を残して置いて東京を離れた。元園町、加賀町、森川町、その他の友人は品川まで彼を見送った。代々木の友人は別れを惜んで、ともかくも鎌倉まで一緒に汽車で行こうと言出した。鎌倉には岸本を待つという一人の友人もあったからで。
 汽車は鶴見を過ぎた。しとしと降る雨は硝子窓(ガラスまど)の外を伝って流れていた。その駅にも、岸本は窓から別れを告げて行こうとした知合の人があったが、果さなかった。硝子に映ったり消えたりする駅夫も、乗降する客も、しょんぼりと小さな停車場の歩廊に立つ人も、一人として細い雨に濡(ぬ)れて見えないものは無かった。
 鎌倉で岸本を待っていたのは、信濃(しなの)の山の上に彼が七年も暮した頃からの志賀の友人で、この人の細君や、細君の叔母さんに当る人は園子の友達でもあった。この特別な親しみのある人は神戸行の途中で岸本を引留めて、小半日代々木とも一緒に話し暮したばかりでなく、別離(わかれ)の意(こころ)を尽すために鎌倉から更に箱根の塔の沢までも先立って案内して行った。旅の途中の小さな旅の楽しさ、塔の沢へ行って見る山の裾(すそ)の雪、青木や菅(すげ)や足立(あだち)などと曾(かつ)て遊んだことのある若かった日までも想い起させるような早川(はやかわ)の音、それらの忘れ難い印象が誰にも言うことの出来ない岸本の心の内部(なか)の無言な光景(ありさま)と混合(まざりあ)った。
 代々木、志賀の親しい友達を前に置いて、ある温泉宿の二階座敷で互に別れの酒を酌(く)みかわした時にも、岸本は何事(なんに)も訴えることが出来なかった。箱根の山の裾へ来て聞く深い雨とも、谷間を流れ下る早川の水勢とも、いずれとも差別のつかないような音に耳を傾けながら、岸本は僅(わずか)に言出した。
「僕もね……まあ深い溜息(ためいき)の一つも吐(つ)くつもりで出掛けて行って来ますよ……」
「そうだねえ、一切のものから離れて、溜息でも吐きたいと思う心持は僕にも有るよ」
 そういう代々木の眼は輝いていた。志賀はまた思いやりの深い調子で、岸本の方を見ながら、
「奥さんのお亡(な)くなりに成ったということから、仏蘭西あたりへお出掛けに成るようなお考えも生れて来たんでしょう」
「とにかく、一年でも二年でも、旅でゆっくり本の読めるだけでも羨(うらや)ましい。加賀町なぞも君の仏蘭西行には大分刺激されたようだ」
 と復(ま)た代々木が言って、「しばらくお別れだ」という風に岸本のために酒を注(つ)いだ。
 その日、岸本はさかんな見送りを受けて東京を発(た)って来た朝から、冷い汗の流れる思をしつづけた。余儀ない旅の思立から、身をもって僅に逃れて行こうとするような彼は、丁度捨て得るかぎりのものを捨て去って「火焔(ほのお)の家」を出るという憐(あわ)れむべき発心者(ほっしんしゃ)にも彼自身を譬(たと)えたいのであった。こうした出奔が同年配の友人等を多少なりとも刺激するということは、彼に取って実に心苦しかった。彼は何とも自身の位置を説明(ときあか)しようが無くて、以前に仙台や小諸(こもろ)へ行ったと同じ心持で巴里(パリ)の方へ出掛けて行くというに留(とど)めて置いた。
 酒に趣味を有(も)ち、旅に趣味を有つ代々木は、岸本の所望で、古い小唄を低声(ていせい)に試みた。復た何時(いつ)逢われるかと思われるような友人の口から、岸本は好きな唄の文句を聞いて、遠い旅に行く心を深くした。

        四十四

 二人の友人と連立って岸本が塔の沢を発ったのは翌日の午後であった。国府津(こうず)まで来て、そこで岸本は代々木と志賀とに別れを告げた。やがてこの友人等の顔も汽車の窓から消えた。その日の東京の新聞に出ていた新橋を出発する時の自分に関する賑(にぎや)かな記事を自分の胸に浮べながら、岸本は独(ひと)り悄然(しょうぜん)と西の方へ下って行った。
 マルセエユ行の船を神戸で待受ける日取から言うと、岸本はそれほど急いで東京を離れて来る必要も無いのであった。唯(ただ)、彼は節子の母親にどうしても合せる顔が無くて、嫂(あによめ)の上京よりも先に神戸へ急ごうとした。仮令(たとえ)彼は神戸へ行ってからの用事にかこつけて、郷里の方の嫂宛(あて)に詫手紙(わびてがみ)を送って置いたにしても。また仮令嫂が上京の費用等は彼の方で用意することを怠らなかったとしても。
 神戸へ着いてから四五日経(た)つと、岸本は節子からの手紙を受取った。それは岸本から出した手紙の返事として寄(よこ)したものであったが、子供等の無事なことや留守宅の用事のようなことばかりでなく、もっと彼女の心に立入ったことがその中に書いてあった。
 神戸の港町から諏訪山(すわやま)の方へ通う坂の途中に見つけた心持の好い旅館の二階座敷で、彼はその手紙を読んで見た。すくなくも節子に起って来た不思議な心の変化がその中に書きあらわしてあった。過ぐる四五箇月の間、ある時は恐怖(おそれ)をもって、ある時は強い憎(にくし)みをもって、ある時はまた親しみをもって叔父に対して来たような動揺した心の節子に比べると、その中には何となく別の節子が居た。岸本は自分の遠い旅に上って来たことから、何か急激な変化が不幸な姪(めい)の心に展(ひら)けて来たことを感じない訳にいかなかった。
 猶(なお)よくその手紙を繰返して見た。節子は岸本の方から詫(わ)びてやった一切の心持を――彼女に対して気の毒がる一切の心持を打消してよこした。今日までを考えると、どうして自分はこんなことに成って来たか、それを思うと自分ながら驚かれると書いてよこした。矢張(やっぱり)自分は誘惑に勝てなかったのだと思うと書いてよこした。しかしこの世の中には、人情の外の人情というようなものがある、それを自分は思い知るように成って来たと書いてよこした。何故(なぜ)叔父さんの手紙には、「お前さん」というような、よそよそしい言葉で自分のことを呼んでくれるか、「お前」で沢山ではないかと書いてよこした。叔父さんの新橋を発(た)つ朝、自分は高輪の家の庭先から品川の方に起る汽車の音を聞いて、あの音が遠く聞えなくなるまで何時までも同じところにボンヤリ佇立(たたず)んでいたと書いてよこした。叔父さんの残して行った本箱、叔父さんの残して行った机、何一つとして叔父さんのことを想い起させないものは無い、自分は今机や本箱の置いてある部屋を歩いて見ていると書いてよこした。叔父さんが外遊の決心を聞いてから、自分はかずかずの話したいと思うことを有(も)っていたが、どうしてもそれが自分には出来なかったとも書いてよこした。

        四十五

 節子の手紙を手にして見ると、彼女と共に恐怖を分ち、彼女と共に苦悩を分った時の心持はまだ岸本から離れなかった。
「ああ、酷(ひど)かった。酷かった」
 岸本はそれを言って見て周囲(あたり)を見廻した。親戚(しんせき)も、友人も、二人の子供も最早彼の側には居なかった。唯一人の自分を神戸の宿屋に見つけた。彼は漸(ようや)くのことでその港まで落ちのびることの出来た嵐(あらし)の烈(はげ)しさを想って見て、思わずホッと息を吐(つ)いた。
 いかに節子の方から打消してよこそうとも、彼女の一生を過(あやま)らせ、同時に拭(ぬぐ)いがたい汚点を自身の生涯に留めてしまったような、深い悔恨の念は岸本の胸を去るべくもなかった。その日まで彼が節子のために心配し、出来るだけ彼女をいたわり、留守中のことまで彼女のために考えて置いて来たというのは、どうかして彼女を破滅から救いたいと思うからであった。頑(かたくな)な心の彼は節子から言ってよこしたことに就(つ)いては、何事(なんに)も答えまいと考えた。
 四月に入って節子は母の上京を知らせてよこした。岸本は胸を震わせながらその手紙を読んで見て、彼女の母と祖母とまだ幼い弟とが無事に高輪(たかなわ)へ着いたことを知った。節子の一人ある弟は丁度岸本の二番目の子供と同年ぐらいであった。郷里(くに)から家を畳んで出て来たそれらの家族を節子は品川の停車場まで迎えに行ったことを書いてよこした。母も年をとった、と彼女は書いてよこした。年老いた祖母や母を眼(ま)のあたりに見るにつけても自分は余程(よほど)しっかりしなければ成らないと思うと書いてよこした。過ぐる月日の間、自分に附纏(つきまと)う暗い影は一日も自分から離れることが無かったが、今はその暗い影も離れたと書いてよこした。そして自分は年寄や子供のために、もっと働かねば成らないと思って来たと書いてよこした。
 この節子の手紙には岸本の身に浸(し)みるような、かずかずの細(こまか)いことが書いてあった。その中には、女らしい彼女の性質までもよく表れていた。岸本は、普通の身(からだ)でない彼女が上京した母親と一緒に成った時のことを胸に描いて見た。その時の彼女の小さな胸の震えを、何時でも割合に冷静を失うことのない彼女の態度を――何もかも、岸本はありありと想像で見ることが出来た。あの嫂が高輪の留守宅を見た時は、あの嫂が節子と子供を残して置いて海の外へ行こうとする自分の意味を読んだ時は、それを考えると岸本は自分の顔から火の出るような思いをした。
 神戸へ来て、是非とも岸本の為(し)なければ成らないことは、名古屋に滞在する義雄兄へ宛(あ)てた書きにくい手紙を書くことであった。彼はその一通を残して置いて独りで船に乗ろうとした。幾度(いくたび)か彼は節子のことを兄に依頼して行くつもりで、紙をひろげて見た。その度に筆を捨てて嘆息してしまった。
 東京の方にあるクック会社の支店からは、岸本が約束して置いて来た仏蘭西船の切符に添えて、船床の番号までも通知して来た。宿屋の二階座敷から廊下のところへ出て見ると、神戸の港の一部が坂になった町の高い位置から望まれた。これから出て行こうとする青い光った海も彼の眼にあった。

        四十六

「名古屋から岸本さんという方が御見えでございます」
 宿屋の女中が岸本のところへ告げに来た。丁度彼はインフルエンザの気味で、神戸を去る前に多少なりとも書いて置いて行きたいと思う自伝の一節も稿を続(つ)げないでいるところであった。義雄兄の来訪と聞いて、急いで彼は寝衣(ねまき)の上に羽織を重ねた。敷いてある床も部屋の隅(すみ)へ押しやった。もしもインフルエンザの気味ででもなかったら、隠しようの無いほど彼の顔色は急に蒼(あお)ざめた。義雄兄は岸本の出発前に名古屋から彼を見に来たのであった。
「弟が外国へ行くというのに、手紙で御別れも酷(ひど)いと思ってね。それに神戸には用事の都合もあったし、一寸(ちょっと)やって来た」
 こうした兄の言葉を聞くまでは岸本は安心しなかった。
「や――時に、引越も無事に済んだ。一軒の家を動かすとなるとなかなか荷物もあるもんだよ。貴様の方からの注意もあったし、まあ大抵の物は郷里の方へ預けることにして、要(い)る物だけを荷造りして送った。俺(おれ)も名古屋から出掛けて行ってね。すっかり郷里の方の家を片付けて来た。『捨様(すてさま)も外国の方へ行かっせるッて――子供を置いて、よくそれでも思切って出掛る気に成らッせいたものだ』なんて、田舎(いなか)の者が言うから、人間はそれくらいの勇気がなけりゃ駄目だッて俺がそう言ってやった」
 義雄は相変らずの元気な調子で話した。次第に岸本の頭は下って行った。彼は兄の言うことを聞きながら自分の掌(てのひら)を眺めていた。
「俺の家でも皆東京へ出ると言うんで、村のものが送別会なぞをしてくれたよ。嘉代(かよ)(節子の母)もね、なんだか気の弱いことを言ってるから、そんなことじゃダチカン。兄弟が互いに助け合うというのはわれわれ岸本の家の祖先からの美風ではないか。それに捨吉の方ばかりじゃない、俺の家でもこれから発展しようというところだ。そう言って俺が嘉代を励ましてやった。まあ見ていてくれ、貴様が仏蘭西の方へ行って帰って来るまでには、俺も大いに雄飛するつもりだ――」
 気象の烈(はげ)しい義雄がこんな風に話すところを聞いていると、とても岸本は弟の身として節子のことなぞを言出す機会は無いのであった。義雄は神戸まで来て弟の顔を見て行けば、それで気が済んだという風で、用事の都合からそうゆっくりもしていなかった。この時機を失っては成らない。こう命ずるような声を岸本は自分の頭脳(あたま)の内で聞いた。彼は立ちかける兄の袖(そで)を心では捉(とら)えながらも、何事(なんに)も言出すことが出来なかった。
 到頭岸本は言わずじまいに、兄に別れた。彼は嫂(あによめ)に一言の詫(わび)も言えず、今また兄にも詫ることの出来ないような自分の罪過(つみ)の深さを考えて、嘆息した。

        四十七

 神戸の宿屋で岸本は二週間も船を待った。その二週間が彼に取っては可成(かなり)待遠しかった。隠して置いて来た節子と彼との隔りは既に東京と神戸との隔りで、それだけでも彼女から離れ遠ざかることが出来たようなものの、眼に見えない恐ろしさは絶えず彼を追って来た。今日は東京の方から何か言って来はしまいか、明日は何か言って来はしまいか、毎日々々その心配が彼の胸を往来した。しかし彼は二週間の余裕を有(も)った御蔭(おかげ)で、東京の方では書けなかった手紙も書き、急いだ旅の支度(したく)を纏(まと)めることも出来た。その間に、大阪へ用事があって序(ついで)に訪(たず)ねて来たという元園町の友人を、もう一度神戸で見ることも出来た。彼は東京の留守宅から来た自分の子供の手紙をも読んだ。
「父さん。こないだは玉子のおもちゃをありがとうございました。わたしも毎日学校へかよって、べんきょうしています。フランスからおてがみを下さい。さよなら――泉太」
 これは岸本が志賀の友人に托(たく)して、箱根細工の翫具(おもちゃ)を留守宅へ送り届けたその礼であった。手伝いする人があって漸く出来たような子供らしいこの手紙は、泉太が父に宛てて書いた初めての手紙で、学校の作文でも書くように半紙一ぱいに書いてあった。子供に勧めてこういうものを書かして寄(よこ)したらしい節子の心持も思われて岸本は唯々(ただただ)気の毒でならなかった。
 海は早や岸本を呼んでいた。出発前に節子から来た便(たよ)りには、遠く叔父の船に乗るのを見送るという短い別れの言葉が認(したた)めてあった。岸本の胸はこれから彼が出て行こうとする知らない異国の想像で満たされるように成った。彼は神戸へ来た翌日、海岸の方へ歩き廻りに行って、図らず南米行の移民の群を見送ったことを思出した。幾百人かのそれらの移住者の中には「どてら」に脚絆(きゃはん)麻裏穿(あさうらば)きという風俗のものがあり、手鍋(てなべ)を提(さ)げたものがあり、若い労働者の細君らしい人達まで幾人(いくたり)となくその中に混っていたことを思出した。彼はまた、今まで全く気がつかずにいた自分の皮膚の色や髪の毛色のことなどを妙に強く意識するように成った。
 出発の日が迫った。いつの間にか新聞記者の一団が岸本の宿屋を見つけて押掛けて来た。
「どうもこういうところに隠れているとは思わなかった」
 と記者の一人が岸本を前に置いて、他の記者と顔を見合せて笑った。
 この避けがたい混雑の中で、岸本は思いもよらない台湾の兄の来訪を受けた。
「や、どうも丁度好いところへやって来た。船の会社の人がお前の宿屋を教えてくれた」
 と民助が言った。
 この長兄は台湾の方から上京する途中にあるとのことであった。それを岸本の方でも知らなかった。兄弟は偶然にも幾年振りかで顔を合せることが出来た。
 鈴木の兄に比べると、民助はもっと熱い地方の日に焼けて来た。健康そのものとも言いたいこの長兄は身体までもよく動いて、六十歳に近い人とは受取れないほどの若々しさと好い根気とをも有(も)っていた。多年の骨折から漸く得意の時代に入ろうとしている民助の前に、岸本は弟らしく対(むか)い合った。つくづく彼は自分の精神(こころ)の零落を感じた。

        四十八

 岸本の船に乗るのを見送ろうとして、番町は東京から、赤城(あかぎ)は堺(さかい)の滞在先から、いずれも宿屋へ訪(たず)ねて来た。いよいよ神戸出発の日が来て見ると、二十年振りで御影(みかげ)の方から岸本を見に来た二人の婦人もあった。その一人は夫という人に伴われて来た。岸本がまだ若かった頃(ころ)に、曾(かつ)て東京の麹町(こうじまち)の方の学校で勝子という生徒を教えたことがある。彼が書きかけている自伝の一節は長い寂しい道を辿(たど)って行ってその勝子に逢(あ)うまでの青年時代の心の戦いの形見である。訪ねて来た二人の婦人は丁度勝子と同時代に岸本が教えた昔の生徒であった。勝子は若かった日の岸本と殆(ほと)んど同じ年配で、学校を出て許嫁(いいなずけ)の人と結婚してから一年ばかりで亡(な)くなったのであった。
「先生はもっと変っていらっしゃるかと思った」
 そういう昔の生徒は早や四十を越した婦人であった。
 思いがけない人達を見たという心持で、岸本は兄と一緒にそれらの客を款待(もてな)したり出発の用意をしたりした。時には彼は独(ひと)りで座敷の外へ出て二階の縁側から見える港の空を望んだ。別れを告げて行こうとする神戸の町々には、もう彼岸桜(ひがんざくら)の春が来ていた。
 約束して置いた仏国の汽船は午後に港に入った。外国の旅に慣れた番町は町へ出て、岸本のために旅費の一部を仏蘭西(フランス)の紙幣や銀貨に両替して来るほどの面倒を見てくれた。仏蘭西の知人に紹介の手紙をくれたり、巴里(パリ)へ行ってからの下宿なぞを教えてくれたりしたのもこの友人であった。番町はそこそこに支度する岸本の方を眺(なが)めて、旅慣れない彼を励ますような語気で、
「岸本さんと来たら、随分手廻しの好い方だからねえ」
「これでも手廻しの好い方でしょうか――」と岸本は番町にそう言われたことを嬉しく思った。
「好い方ですとも。僕なぞが外国へ行く時は、鞄(かばん)でも何でも皆人に詰めて貰(もら)ったものですよ」
「なにしろ私は一人ですし、どうにかこうにか要(い)るものだけの物を揃(そろ)えました」
 こう言う岸本の側へは民助兄が立って来て、遠く行く弟のために不慣(ふなれ)な洋服を着ける手伝いなぞをしてくれた。
「兄さん、私はあなたに置いて行くものが有ります」と言いながら岸本は一つの包を兄の前に差出した。「この中に、お母(っか)さんの織った袷(あわせ)が入っています。外国へ行って部屋着にでもする積りで、東京からわざわざ持って来たんです。いかに言っても鞄が狭いものですから、これはあなたに置いて行きましょう」
「そいつは好いものをくれるナ」と民助も悦(よろこ)んだ。「お母さんのものは何物(なんに)も最早俺(おれ)のところには残っていない」
「私のところにも、その袷がたった一枚残っていました。でも随分長いこと有りました。十何年も大切にして置いて、毎年袷時には出して着ましたが、まだそっくりしています。木綿(もめん)に糸がすこし入っていて私の一番好きな着物です。惜しいけれども仕方が無い。まあ、これは兄さんの方へ進(あ)げる」
「じゃ、俺がまた貰っといて着てやるわい」
 兄弟はこんな言葉をかわした。岸本はその母の手織にしたものを形見として兄に残して置いて、すっかり旅人の姿になった。

        四十九

 隠れた罪を犯したものの苦難を負うべき時が来た。ひょっとするとこれを神戸の見納(みおさ)めとしなければ成らないような遠い旅に上るべき時が来た。そろそろ夕飯時に近い頃であった。船まで見送ろうという友人や民助兄と連立って岸本は宿屋を出た。御影から来た二人の婦人も岸本に随(つ)いて歩いて来た。
 長い坂になった町が皆の眼にあった。一同はその坂を下りたところで物食う場処を探した。ある料理屋の前まで行くと、二人の婦人はそこで岸本に別れを告げた。友人等の案内で、岸本はその料理屋の一間に互いに別れの酒を酌(く)みかわした。弟の外遊を何か誉あることのようにして盃(さかずき)をくれる民助兄に対しても、わざわざ堺から逢いに来てくれた赤城に対しても、初めて顔を合せた御影に対しても、それから番町のような友人に対しても、岸本はそれぞれ別の意味で羞恥(はじ)の籠(こも)った感謝の盃を酬(むく)いた。
 やがてその料理屋を出た頃は日もすっかり暮れていた。全く言葉の通じない仏蘭西船に上るということは、それだけでも酷(ひど)く岸本の心を不安にした。町々を包む夜の闇(やみ)はひしひしと彼の身に迫って来た。
「言葉が通じないというのも、旅の面白味の一つじゃ有りませんか」
 この番町の言葉に励まされて、岸本は皆と一緒に波止場(はとば)の方へ歩いて行った。神戸を去る前に、彼は是非とも名古屋の義雄兄に宛(あ)てた手紙を残して行くつもりで、幾度かあの宿屋の二階でそれを試みたか知れなかった。どうしても、その手紙は彼には書けなかった。彼はどういう言葉でもって自分の心を言いあらわして可(い)いかを知らなかった。そこには言葉も無かった。仕方なしに船に乗ってから書くことにして、到頭彼はその手紙を残さずにランチに乗移った。
 暗い海上に浮ぶ本船へは、友人や兄などの外に岸本を見送ろうとする二三の年若な人達もあった。岸本が二週間あまり世話になった宿屋のかみさんも女中を連れて、外国船の模様を見ながら彼を送りに来た。このかみさんは旅の着物のほころびでも縫えと言って、紅白の糸をわざわざ亭主と二人して糸巻に巻いて、それに縫針(ぬいばり)を添えて岸本に餞別(せんべつ)としたほど細(こまか)く届いた上方風の婦人であった。かねて岸本は独りでこの仏蘭西船に身を隠し、こっそりと故国に別れを告げて行くつもりであった。その心持から言えば、こうした人達に見送らるることは聊(いささ)か彼の予期にそむいた。まばゆく電燈の点(つ)いた二等室の食堂に集って、皆から離別(わかれ)を惜まれて見ると、遠い前途の思いが旅慣れない岸本の胸に塞(ふさが)った。
 ランチの方へ引揚げて行く人達を見送るために、岸本は複雑な船の構造の間を通りぬけて甲板(かんぱん)の上へ出た。友人等は船の梯子(はしご)に添うて順に元来たランチの方へ降りて行った。やがて暗い波間から岸本を呼ぶ一同の声が起った。ランチは既に船から離れて居た。岸本はその声を聞こうとして、高い甲板の上のギラギラと光った電燈の影を狂気のように走り廻った。
 岸本を乗せた船は夜の十一時頃に港を離れた。もう一度彼が甲板の上に出て見た時は空も海も深い闇(やみ)に包まれていた。甲板の欄(てすり)に近く佇立(たたず)みながら黙って頭を下げた彼は次第に港の燈火(ともしび)からも遠ざかって行った。

        五十

 三日目に岸本は上海(シャンハイ)に着いた。船に乗ってから書こうと思った義雄兄への手紙は上海への航海中にも書けなかった。
 嘆息して、岸本は後尾の方にある甲板の上へ出た。更に船梯子(ふなばしご)を昇(のぼ)って二重になった高い甲板の上へ出て見た。船客もまだ極く少い時で、その高い甲板の上には独(ひと)りで寂しそうに海を眺(なが)めている長い髯(ひげ)を生(はや)した一人の仏蘭西人の客を見つけるぐらいに過ぎなかった。岸本は艫(とも)の方の欄に近く行った。そこから故国の方の空を望んだ。仏国メサジュリイ・マリチイム会社に属するその汽船は四月十三日の晩に神戸を出て十五日の夜のうちには早や上海の港に入った程(ほど)の快よい速力で、上海から更に香港(ホンコン)へ向け波の上を駛(はし)りつつある時であった。遠く砕ける白波は岸本の眼にあった。その眺めは、国の方で別れて来た人達と彼自身との隔たりを思わせた。一日は一日よりそれらの人達から遠ざかり行くことをも思わせた。あの東京浅草の七年住慣れた住居の二階から、あの身動きすることさえも厭(いと)わしく思うように成った壁の側から、ともかくもその波の上まで動くことが出来た不思議をも胸に浮べさせた。彼は深林の奥を指(さ)して急ぐ傷(きずつ)いた獣に自分の身を譬(たと)えて見た。
 海風の烈(はげ)しさに、岸本は高い甲板を離れた。船梯子に沿うて長い廊下を見るような下の甲板に降りた。そこにも一人二人の仏蘭西人の客しか見えなかった。明るい黄緑な色の海は後方(うしろ)にして出て来た故国の春の方へ岸本の心を誘った。彼は上海の方で見て来た李鴻章(りこうしょう)の故廟(こびょう)に咲いた桃の花がそこにも春の深さを語っていたことを胸に浮べた。その支那風(しなふう)な濃い花の姿は日頃花好きな姪(めい)にでも見せたいものであったことを胸に浮べた。彼はまた、上海へ来るまでの途中で、どれ程彼女の父親に宛てようとした一通の手紙のために苦しんだかを胸に浮べた。神戸の宿屋で義雄兄から彼が受取った手紙の中には、兄その人も彼の外遊から動かされたと書いてあったことを胸に浮べた。その手紙の中には、恐らく露領の方にある輝子の夫もこれを聞いたなら刺激を受くるであろうと思うと書いてあったことを胸に浮べた。そうした手紙をくれるほどの兄の心を考えると、節子の苦しんでいることに就(つ)いて岸本の方から書き得る言葉も無かったのである。
 香港を指(さ)して進んで行く船の煙突からは、さかんな石炭の煙が海風に送られて来て、どうかすると波の上の方へ低く靡(なび)いた。岸本は香港から国の方へ向う便船の日数を考えた。嫂(あによめ)が節子と一緒になってから既に十八九日の日数が経(た)つことをも考えた。否(いや)でも応でも彼は香港への航海中に書きにくい手紙を書く必要に迫られた。その機会を失えば、次の港は仏領のセエゴンまでも行かなければ成らなかった。

        五十一

 船室に行って岸本は旅の鞄(かばん)の中から手紙書く紙を取出した。セエゴンから東の港は乗客も少いという仏蘭西(フランス)船の中で、六つ船床のある部屋を岸本一人に宛行(あてが)われたほどのひっそりとした時を幸いにして、彼は国の方に残して行く義雄兄宛の手紙を書こうとした。円い船窓に映る波の反射は余計にその部屋を静かにして見せた。彼は波に揺られていることも忘れて書いた。この手紙は上海を去って香港への航海中にある仏蘭西船で認(したた)めると書いた。神戸を去る時に書こうとしても書けず、余儀なく上海から送るつもりでそれも出来なかった手紙であると書いた。自分が新橋を出発する時も、神戸を去る時も、思いがけない見送りなどを受けたのであるが、それにも関(かかわ)らず自分は悄然(しょうぜん)として別れを告げて来たものであると書いた。何故に自分が母親のない子供等を残してこうした旅に上って来たか、その自分の心事は誰にも言わずにあるが、大兄だけにはそれを告げて行かねば成らないと書いた。多くの友人も既にこの世を去り、甥(おい)も妻も去った中で、自分のようなものが生き残って今また大兄にまで嘆きをかける自分の愚かしい性質を悲しむと書いた。自分は弟の身として、大兄の前にこんなことの言えた訳ではないが、忍び難いのを忍ぶ必要に迫られたと書いた。自分が責任をもって大兄から預かった節子は今はただならぬ身(からだ)であると書いた。それが自分の不徳の致すところであると書いた。自分の旧(ふる)い住居(すまい)の周囲は大兄の知らるるごとくであって、種々な交遊の関係から自然と自分も酒席に出入したことはあるが、そのために身を過(あやま)つようなことは無かったと書いた。その自分がこうした恥の多い手紙を書かなければ成らないと書いた。今から思えば、自分が大兄の娘を預かって、すこしでも世話をしたいと思ったのが過りであると書いた。実に自分は親戚(しんせき)にも友人にも相談の出来ないような罪の深いことを仕出来(しでか)し、無垢(むく)な処女(おとめ)の一生を過り、そのために自分も曾(かつ)て経験したことの無いような深刻な思を経験したと書いた。節子は罪の無いものであると書いた。彼女を許して欲しいと書いた。彼女を救って欲しいと書いた。家を移し、姉上の上京を乞(こ)い、比較的に安全な位置に彼女を置いて来たというのも、それは皆彼女のために計ったことであると書いた。この手紙を受取られた時の大兄の驚きと悲しみとは想像するにも余りあることであると書いた。とても自分は大兄に合せ得る顔を有(も)つものでは無いと書いた。書くべき言葉を有つものでも無いと書いた。唯(ただ)、節子のためにこの無礼な手紙を残して行くと書いた。自分は遠い異郷に去って、激しい自分の運命を哭(こく)したいと思うと書いた。義雄大兄、捨吉拝と書いた。

        五十二

 三十七日の船旅の後で、岸本は仏蘭西マルセエユの港に着いた。
「あのプラタアヌの並木の美しいマルセエユの港で、この葉書を受取って下さるかと思うと愉快です」
 こうした意味の葉書を岸本はその港に着いて読むことが出来た。船の事務長が岸本の名を呼んでその葉書を渡してくれた。多くの仏蘭西人の船客の中でも、便(たよ)りの待遠しいその港で葉書なり手紙なりを受取るものは稀(まれ)であった。岸本が神戸を去る時船まで見送って来た番町の友人がその葉書を西伯利亜(シベリア)経由にして、東京の方から出して置いてくれたからで。
 初めて欧羅巴(ヨーロッパ)の土を踏んだ岸本は、上陸した翌日、マルセエユの港にあるノオトル・ダムの寺院(おてら)を指して崖(がけ)の間の路(みち)を上って行った。その時は一人の旅の道連(みちづれ)があった。コロンボの港(印度(インド)、錫蘭(セーロン))からポオト・セエドまで同船した日本の絹商で、一度船の中で手を分った人に岸本は復(ま)たその港で一緒に成ったのであった。絹商は倫敦(ロンドン)まで行く人で外国の旅に慣れていた。御蔭(おかげ)と岸本は好い案内者を得た。高い崖に添うて日のあたった路(みち)を上りきると、古い石造の寺院の前へ出た。欧羅巴風な港町の眺望(ちょうぼう)は崖の下の方に展(ひら)けた。
 海は遠く青く光った。その海が地中海だ。ポオト・セエドからマルセエユの港まで乗って来る間で、一日岸本が高い波に遭遇(であ)った地中海だ。眼の下にある黄ばみを帯びた白い崖の土と、新しい草とは、一層その海の色を青く見せた。岸本は自分の乗って来た二本煙筒(えんとつ)の汽船が波止場近くに碇泊(ていはく)しているのをその高い位置から下瞰(みおろ)して、実にはるばると旅して来たことを思った。
 寺院(おてら)の入口に立つまだ年若な一人の尼僧(あまさん)が岸本に近づいた。遠く東洋の空の方から来た旅人としての彼を見て何か寄附でも求めるらしく鉄鉢(てっぱつ)のかたちに似た器を差出して見せた。その尼僧は仏蘭西人だ。一人の乞食(こじき)が石段のところに腰を掛けていた。その乞食も仏蘭西人だ。岸本は絹商と連立って寺院の入口にある石段を昇って見た。入口の片隅(かたすみ)には、故国(くに)の方の娘達にしても悦(よろこ)びそうな白と薄紫との木製の珠数(ずず)を売る老婆(ばあさん)があった。その老婆も仏蘭西人だ。岸本は本堂の天井の下に立って見た。薄暗い石の壁の上には、航海者の祈願を籠(こ)めて寄附したものでもあるらしい船の図の額が掛っていた。寺院の番人に案内されて、更に奥深く行って見た。彩硝子(いろガラス)の窓から射(さ)し入る静かな日の光は羅馬(ローマ)旧教風な聖母マリアの金色の像と、その辺に置いてある古めかしく物錆(ものさ)びた風琴(オルガン)などを照して見せた。その番人も仏蘭西人だ。そこはもう岸本に取って全く知らない人達の中であった。
 あわただしい旅の心持の中でも、香港(ホンコン)から故国の方へ残して置いて来た手紙のことは一日も岸本の心に掛らない日は無かった。その晩の夜行汽車で、彼は絹商と一緒に巴里へ向けて発(た)った。

        五十三

 遠く目ざして行った巴里(パリ)に岸本が入ったのは、船から上って四日目の朝であった。彼は巴里までの途中で同行の絹商と一緒に一日をリヨンに送って行った。ガール・ド・リヨンとは初て彼が巴里に着いた時の高い時計台のある停車場(ステーション)であった。そこで彼は倫敦行の絹商に別れ、辻馬車(つじばしゃ)を雇って旅の荷物と一緒に乗った。晴雨兼帯とも言いたい馬丁(べっとう)の冠(かぶ)った高帽子まで彼にはめずらしい物であった。彼は右を見、左を見して、初めてセエヌ河を渡った。まだ町々の響も喧(かしま)しくない五月下旬の朝のうちのことで、マルセエユやリヨンで見て行ったと同じプラタアヌの並木が両側にやわらかい若葉を着けた街路の中を乗って行った時は、馬丁の鳴らす鞭(むち)の音や石道を踏んで行く馬の蹄(ひづめ)の音まで彼の耳に快よく聞えた。
 巴里の天文台に近い並木街の一角にある下宿が岸本を待っていた。その辺の往来には朝通いらしい人達、労働者、牛乳の壜(びん)を提(さ)げた娘、野菜の買出しに出掛ける女連(おんなれん)なぞが岸本の眼についた。下宿の女中と家番(やばん)のかみさんとが来て彼の荷物を運んでくれたが、言葉は一切通じなかった。彼は七層ばかりある建築物(たてもの)の内の第一階の戸口のところで、年とった壮健(じょうぶ)そうな婦(おんな)の赤黒い朝の寝衣(ねまき)のままで出て迎えるのに逢った。その人が下宿の主婦(かみさん)であった。この主婦の言うことも岸本には通じなかった。
 客扱いに慣れたらしい主婦は一人の日本人を岸本のところへ連れて来た。その下宿に泊っている留学生で、かねて岸本は番町の友人から名前を聞いて来た人だ。長く外国生活をして来た人らしいことは一目見たばかりで岸本にも直(すぐ)にそれと分った。岸本は巴里へ来て最初に逢ったこの留学生から下宿の主婦の言おうとすることを聞取った。部屋へも案内された。
 留学生は食事の時間なぞを岸本に説明して聞かせた後で言った。
「この主婦が君にそう言って下さいッて――『寝衣のままで大変失礼しました、いずれ着物を着更(きか)えてから改めて御挨拶(ごあいさつ)します』ッて。君の着くのが今朝早かったからね」
 それを聞いていた主婦は留学生と岸本の顔を見比べて、
「お解(わか)りでございましたか」
 という風に、両手を岸本の方へひろげて見せた。
 独りで部屋に残って見ると、まだ岸本には船にでも揺られているような長道中の気持が失せなかった。旅慣れない彼に取っては、外国人ばかりの中に混って航海を続けて来たというだけでも一仕事であった。熱帯の光と熱とは彼の想像以上であった。その色彩も夢のようであった。時には彼は自分独りぎめに「海の砂漠(さばく)」という名をつけて形容して見たほど、遠い陸は言うに及ばず、船一艘(いっそう)、鳥一羽、何一つ彼の眼には映じない広い際涯(はてし)の無い海の上で、その照光と、その寂寞(せきばく)と、その不滅とを味(あじわ)って来たこともあった。印度洋にさしかかる頃から船客はいずれも甲板(かんぱん)の上に出て眠ったが、彼も欄(てすり)近く籐椅子(とういす)を持出して暗い波を流れる青ざめた燐(りん)の光を眺めながら幾晩か眠り難い夜を過したこともあった。船は紅海(こうかい)の入口にあたる仏領ジュプティの港へも寄って石炭を積んで来た。スエズで望んで来た小亜細亜(アジア)と亜弗利加(アフリカ)の荒原、ポオト・セエドを離れてから初めて眺めた地中海の波、伊太利(イタリー)の南端――こう数えて見ると、遠く旅して来た地方の印象が実に数限りもなく彼の胸に浮んで来た。

        五十四

 新しい言葉を学ぶことによって、岸本は心の悲哀(かなしみ)を忘れようと志した。同宿の留学生が天文台の近くに住む語学の教師を彼に紹介した。その人は巴里に集る外国人を相手に仏蘭西語を教えて、それを糊口(くちすぎ)としているような年とった婦人であったが、英語で講釈をしてくれるので岸本には好都合であった。取りあえず、彼は語学の教師の許(もと)に通うことを日課の一つとした。
 こうして故国の消息を待つうちに、西伯利亜(シベリア)経由とした義雄兄からの返事が届いた。思わず岸本の胸は震えた。兄は東京の留守宅の方から書いてよこした。お前が香港から出した手紙を読んで茫然(ぼうぜん)自失するの他はなかったと書いてよこした。十日あまりも考え苦しんだ末、適当な処置をするために名古屋から一寸(ちょっと)上京したと書いてよこした。お前に言って置くが、出来たことは仕方がない、お前はもうこの事を忘れてしまえと書いてよこした。
 兄はまた、これは誰にも言うべき事でないから、母上はもとより自分の妻にすらも話すまいと決心したと書いてよこした。嘉代(かよ)(嫂)には、吉田某というものがあったことにして置くと書いてよこした。その某は例の人を捨てて行方(ゆくえ)不明であるということにして置くと書いてよこした。実は嘉代も今妊娠中であると書いてよこした。のみならず輝子も近いうちに帰国して、国の方でお産をしたいと言って来たと書いてよこした。この輝子の帰国がかちあえば事は少し面倒であると書いてよこした。しかし世の中のことは、曲りなりにもどうにか納りの着くものであると書いてよこした。当方一同無事、泉太も繁も元気で居ると書いてよこした。お前は国の方のことに懸念(けねん)しないで、専心にそちらで自分の思うことを励めと書いてよこした。
 岸本は人の知らない溜息(ためいき)を吐(つ)いた。仏蘭西語の読本を小脇(こわき)に擁(かか)えて下宿を出、果実(くだもの)なぞの並べてある店頭(みせさき)を通過ぎて並木街の電車路を横ぎり、産科病院の古い石の塀(へい)について天文台の前を語学の教師の家の方へと折れ曲って行った。そして語学の稽古(けいこ)を受けた後で、天文台の前の並木のかげあたりに遊んでいる少年を見るにつけても国の方の自分の子供のことを思いやりながら、復(ま)た同じ道を下宿の方へ帰って行った。その年齢(とし)になって、四十の手習を始めたことを感じながら。
 幾度(いくたび)か岸本は兄から来た手紙を取出して、繰返し読んで見た。「お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言った兄の心持に対しては、彼は心から感謝しなければ成らなかった。東京から神戸までも、上海までも、香港までも――どうかすると遠く巴里までも追って来た名状しがたい恐怖はその時になっていくらか彼の胸から離れた。そのかわり、兄に手伝って貰って人知れず自分の罪を埋(うず)めるという空恐しさは、自分一人ぎりで心配した時にも勝(まさ)って、何とも言って見ようの無い暗い心持を起させた。兄の手紙には「例の人」とあるだけで、節子の名を書きあらわすことすら避けてある。彼は母や姉と同時に普通(ただ)ならぬ身であるという彼女を想像した。

        五十五

 間もなく岸本は節子からの便(たよ)りを受取った。彼女は郡部にある片田舎(かたいなか)の方へ行ったことを知らせてよこした。
「到頭節ちゃんも出掛けて行ったか――」
 それを言って見て、岸本は以前の食堂の隣から移って来た新規な部屋の内を見廻した。窓が二つあって、プラタアヌの並木の青葉が一方の窓に近く茂っていた。その並木の青葉も岸本が巴里(パリ)に着いたばかりの頃から見ると早や緑も濃く、花とも実ともつかない小さな栗(くり)のイガのようなものが青い毬(まり)を見るように葉蔭から垂下(たれさが)った。一方の窓は丁度建築物(たてもの)の角にあたって、交叉(こうさ)した町が眼の下に見えた。あの東京浅草の住慣れた二階の外に板囲(いたがこい)の家だの白い障子の窓だのを眺(なが)め暮した岸本の眼には、古い寺院にしても見たいような産科病院の門前にひるがえる仏蘭西(フランス)の三色旗、その病院に対(むか)い合った六層ばかりの建築物、街路の角の珈琲店(コーヒーてん)の暖簾(のれん)なぞが、両側に並木の続いた町の向うに望まれた。あの大きな風呂敷包を背負って毎朝門前を通った噂好(うわさず)きな商家のかみさんのかわりに、そこには薪(まき)ざっぽうのような食麺麭(しょくパン)を擁(かか)えた仏蘭西の婦女(おんな)が窓の下を通った。あの書斎へよく聞えて来た常磐津(ときわず)や長唄の三味線のかわりに、そこにはピアノを復習(さら)う音が高い建築物の上の方から聞えて来た。それが彼の頭の上でした。
 その窓へ行って、岸本は節子から来た手紙を読返した。彼女はお母(っか)さんの上京後、婆やにも暇を出したと書いてよこした。お父さんが名古屋から上京して初めてあの話があったと書いてよこした。その時はお母さんも大分やかましかったが、結局自分はしばらく家を出ることに成ったと書いてよこした。お父さんがある病院で知った看護婦長の世話で、自分はこの田舎へ来るように成ったと書いてよこした。その看護婦長は今は女医であると書いてよこした。至極親切な人で、この田舎に住んでいて、毎日のように自分を見に来て慰めてくれると書いてよこした。自分はある産婆の家の二階で、人知れずこの手紙を認(したた)めていると書いてよこした。叔父さんのことは親切な女医にすら知らせずにあると書いてよこした。高輪(たかなわ)の家にある叔父さんの著書をここへも持って来てこの侘(わび)しい時のなぐさめとしたいのであるが、人に見られることを気遣(きづか)って見合せたと書いてよこした。この家に住む人達は親子とも産婆であると書いてよこした。ここは東京から汽車で極(ごく)僅(わずか)の時間に来られる場処であると書いてよこした。片田舎らしい蛙(かわず)の声が自分の耳に聞えて来ていると書いてよこした。自分が産褥(さんじょく)に就(つ)くまでには、まだしばらく間があるから、せめてもう一度ぐらいは便りをしたいと思うが、それも覚束(おぼつか)ないと書いてよこした。姉(輝子)も夫の任地から近く産のために帰国するであろうと附添(つけたし)てよこした。

        五十六

 森のように茂って行くマロニエとプラタアヌの並木は岸本の行く先にあった。彼はその楽しい葉蔭(はかげ)を近くにある天文台の時計の前にも見つけることが出来、十八世紀あたりの王妃の石像の並んだルュキサンブウルの公園の内に見つけることも出来た。彼よりも先に故国を出て北欧諸国を歴遊して来た東京のある友人が九日ばかりも彼の下宿に逗留(とうりゅう)した時は、一緒に巴里の劇場の廊下も歩いて見、パンテオンの内にある聖ジュネヴィエーヴの壁画の前にも立って見た。普仏戦争時代の国防記念のためにあるという巨大な獅子(しし)の石像の立つダンフェル・ロシュリュウの広場の方へ歩き廻りに行っても、彼は旅人らしい散歩の場所に事を欠かなかった。
 しかし仏蘭西の旅は岸本に取って、ある生活の試みを企てたにも等しかった。彼は全く新規な、全く異ったものの中へ飛込んで来た。それには長い年月の間、身に浸(し)みついている国の方の習慣からして矯(ため)て掛らねば成らなかった。彼のように静坐する癖のついたものには、朝から晩まで椅子に腰掛けて暮すということすら一難儀であった。日がな一日彼は真実(ほんとう)の休息を知らなかった。立ちつづけに立っているような気がした。日本の畳の上で思うさまこの身体を横にして見たら。この考えは、どうかすると子供のように泣きたく成るような心をさえ彼に起させた。彼は長い船旅で、日に焼け、熱に蒸され、汐風(しおかぜ)に吹かれて来たばかりでなく、漸(ようや)くのことであの東京浅草の小楼から起して来た身(からだ)をこうした外国の生活の試みの下に置いた。実際、眼に見えない不可抗な力にでも押出されるようにして故国から離れて来たことを考えると、彼はこれから先どうなってしまうかという風に自分で自分の旅の身を怪んだ。
 節子から来た手紙は旅にある岸本の心を責めずには置かなかった。偶然にも岸本の下宿の前に産科病院があって、四十いくつかあるその建築物(たてもの)の窓の一つ一つには子供が生れたり生れかけたりしているということは、何かのしるしのように彼の眼に映った。その石の門は彼の部屋の窓からも見え、その石の塀(へい)は毎日彼が語学の稽古(けいこ)に通う道の側にあたっていた。その多くの窓は町中で一番遅くまで夜も燈火(あかり)が射(さ)していて、毎晩のように物を言った。
「知らない人の中へ行こう」
 と岸本はつぶやいた。その中へ行って恥かしい自分を隠すことは、この旅を思い立つ時からの彼の心であった。

        五十七

 セエヌの河蒸汽に乗るために岸本はシャトレエの石橋の畔(たもと)に出た。何処(どこ)へ行くにも彼はベデカの案内記を手放すことの出来ない程ではあったが、しかし全く自分独(ひと)りで、巴里へ来て初めて知合になった仏蘭西人の家を訪(たず)ねようとした。
 岸本は最早旅人であるばかりでなく同時に異人であった。あの島国の方に引込んで海の魚が鹹水(しおみず)の中でも泳いでいれば可(い)いような無意識な気楽さをもって東京の町を歩いていた時に比べると、稀(まれ)に外国の方から来た毛色の違った旅人を見て「異人が通る」と思った彼自身の位置は丁度顛倒(てんとう)してしまった。否(いや)でも応でも彼は自分の髪の毛色の違い、皮膚の色の違い、顔の輪廓(りんかく)の違い、眸(ひとみ)の色の違いを意識しない訳に行かなかった。逢(あ)う人毎(ごと)にジロジロ彼の顔を見た。こうした不断の被観察者の位置に立たせらるることは、外出する時の彼の心を一刻も休ませなかった。そしてまたこんな骨折が実際何の役に立つのだろうとさえ思わせた。下宿からシャトレエの橋の畔へ出るまでに彼の頭脳(あたま)は好い加減にボンヤリしてしまった。
 石で築きあげた高い堤について、河蒸汽を待つところへ降りた。中洲(なかす)になったシテイの島に添うて別れて来る河の水は彼の眼にあった。岸本が訪ねて行こうとする仏蘭西人は巴里の国立図書館の書記で、彼はその人のお母さんから英語で書いた招きの手紙を貰(もら)った。その中にはルウブルで河蒸汽に乗ってビヨンクウルまで来るように、自分等の家は河蒸汽の着くところから直(すぐ)である、五分とは掛らない、河蒸汽にも種々(いろいろ)あるからビヨンクウル行を気を着けよなぞと、細(こまか)いことまで年とった女らしく親切に書いてあった。岸本はシャトレエから河蒸汽に乗って、復(ま)たルウブルで乗換えるほどの無駄をした。それほどまだ土地不案内であった。その時の彼は仏蘭西人の家庭を見ようとする最初の時であった。どうにでも入って行かれるような知らない人達の生活が彼の前にあった。彼は右することも、左することも出来た。そしてこれから先逢う人達によって右とも左とも旅の細道が別れて行ってしまうような不思議な心持が彼の胸の中を往来した。

        五十八

「異人さん、ここがビヨンクウルですよ」
 とでも言うらしく、河蒸汽に乗っていた仏蘭西人が岸本に船着場を指(さ)して教えた。船着場から岸本の尋ねる家までは僅しかなかった。高いポプリエの並木の立った河岸(かし)の道路を隔ててセエヌ河に面した住宅風の建築物(たてもの)があった。そこが図書館の書記の住居(すまい)であった。岸本は門の扉(とびら)を押して草花の咲いた植込の間を廻って行った。何時(いつ)の間にか一匹(ぴき)の飼犬が飛んで来て、鋭い眼付で彼の側へ寄って、吠(ほ)えかかりそうな気勢(けはい)を示した。
「あなたが岸本さんですか」
 とその時入口の石階(いしだん)のところへ出て来て英語で訊(き)いた年とった婦人があった。岸本はその人を一目見たばかりで手紙をくれたお母さんだと知った。
「帽子と杖(つえ)はそこにお置き下さい。それから私と一緒に部屋の方へお出(いで)下さい」
 こんな風に言って老婦人は岸本を案内した。
「忰(せがれ)はまだ図書館の方ですが追(おっ)つけ帰って参りましょう。忰の家内も今お目に掛ります」
 仏蘭西人の家庭に来て、こうした英語で話してくれる老婦人を見つけることは、まだ土地の馴染(なじみ)も薄い岸本の旅の身に嬉しかった。
 この家の方へ岸本を導いたのは老婦人の姪(めい)にあたる人であった。そのマドマゼエルは純粋な仏蘭西の婦人ながらに遠く日本を慕って行って、現に東京の方に住んでいた。岸本は番町の友人の紹介で東京を発(た)つ前にその人に逢(あ)って来た。その時のマドマゼエルは可成(かなり)もう日本の言葉が話せて、紫式部の日記ぐらいは読めるような人であった。日本狂(きちがい)とも言いたいほど日本贔負(びいき)の婦人であった。その人が岸本を紹介してくれたのであった。老婦人は居間の方へ岸本を連れて行った。その室内を飾る種々な道具から絵画彫刻の類(たぐい)まで、老婦人の嗜(たしな)みに好く調和したような物ばかりであった。窓に近く机の置いてあるところで、老婦人は東京の方にある姪からの手紙を岸本に取出して見せ、
「姪も無事で暮しておりましょうか。すこしは日本の婦人らしく見えるように成りましたでしょうか」と言って、東洋の果を志して行ったマドマゼエルの身を非常に心配顔に岸本に尋ねた。老婦人はマドマゼエルが自分の兄弟の一人娘であることや、彼女が幼い時分から学問好きであったことや、巴里に居る頃から日本留学生に就(つ)いて古典の一通りを学んだことなぞをも話した。
 岸本は風呂敷包の中から旅のしるしに持って来た国の方の土産(みやげ)を取出した。老婦人はその風呂敷の模様を見るさえめずらしそうに、
「へえ、お国の方ではそういうものを用いますか。面白い模様ですね。でもまあ日本の方にお目に掛って、姪(めい)の噂(うわさ)をするだけでも嬉しい。ああして姪が日本へ行ってしまったのは私が悪いのだ、私の落度(おちど)だ、とそう皆が私のことを申すのです……可哀そうな娘……」
 と言って、仏蘭西を捨てて出て行った姪を思いやるような眼付をした。やがて老婦人はその居間の壁に掛けてある日本の古画なぞを眺めながら岸本に言って見せた。
「日本というものは、私に取っては空想の郷(くに)でしたからね」

        五十九

 しばらく老婦人と話しているうちに岸本はその部屋の長い窓掛まで日本から渡来した古い金糸の繍(ぬい)のある布で造ってあるのに気がついた。瘠(や)せぎすな身体に古雅な黒い仏蘭西風の衣裳(いしょう)を着けた老婦人は岸本に見せるものを探すために時々部屋の内を歩いたり、時には奥の方へ立って行ったりしたが、その部屋にあるものは何一つとして遠い異国に対する憧憬(あこがれ)の心を語っていないものは無かった。こういう老婦人の姪に、異国趣味そのものとも言いたいマドマゼエルのような人が生れたのも決して不思議は無いと岸本は想って見た。
「これが忰の家内です」
 と老婦人はそこへ着物を着更(きか)えて挨拶(あいさつ)に来た細君を岸本に引合せた。
 主人の帰りを待つ間、三人の話は東京の方にあるマドマゼエルの噂で持切った。細君はマドマゼエルが絵画にも趣味を有(も)つことを話して、まだ仏蘭西に居る頃に彼女が描いたという油絵の額の前へも岸本を連れて行って見せ、彼女が残して置いて行ったという写真なぞをも取出して来た。
「マドマゼエルは仏蘭西に居る頃(ころ)から人に頼みまして、日本の髪に結ったこともありましたよ。それほど日本好でしたよ」
 仏蘭西語まじりに細君が言おうとすることを老婦人は英語で補った。老婦人は岸本に向って、自分は曾(かつ)て倫敦(ロンドン)に住んだことが有るという話や、そのために自分は家中で一番よく英語が話せる、娵(よめ)はあまり話せないが忰の方はすこしは話せて好都合であるということなぞや、自分等の家族は以前は巴里の市中に住んだがこのビヨンクウルに住居を卜(ぼく)して引移って来たということや、この家屋(いえ)もなかなか安くは求められなかったというようなことまで、いかにも心安い調子で話した。
「もう忰も見えそうなものです」と言う老婦人や細君に誘われながら、岸本は一緒に入口の廊下から石の階段を下りて庭を歩いた。門の外へも出て見た。清いセエヌ河の水は並木の続いた低い岸の下を流れていた。郊外らしい空気につつまれた対岸の傾斜には、ところどころに別荘風な赤瓦(あかがわら)の屋根も望まれた。
 細君の案内で、岸本は裏庭の方へも廻って、果樹、野菜なぞを見て歩いた。「今年はこんなに葱(ねぎ)を造りました」なぞと岸本に言って聞かせる細君はいろいろ話そうとしてはそれが英語で浮んで来ないという風であった。日の映(あた)った梨(なし)の樹(き)の下で、岸本は二人の子供を遊ばせている乳母(うば)にも逢った。
「日本の方だよ」
 と細君に言われて、二人の子供は気味悪そうに岸本の方へ近づいた。そしてかわるがわる小さな手を差出した。岸本はそれらの幼い人達の手を握りしめたが、子供に話しかけたいにも仏蘭西の言葉ではまだ物が言えなかった。
「私も国の方へ子供を残して来ました」
 この岸本の英語はまた細君にはよく通じなかった。
 人の好さそうな細君はその家を囲繞(とりま)く庭や畠(はたけ)ばかりでなく、家の入口から奥の方へ続いた廊下の両側に掛けてある種々な肖像の額の前へ、二階にある主人の書斎へ、子供の部屋へ、終(しまい)には寝室へまで岸本を連れて行って見せた。丁度そこへ主人が帰って来た。

        六十

 その家の主人とは岸本は既に図書館の方で親(ちか)づきに成っていた。主人が帰った頃は夕飯の仕度(したく)が出来ていて、岸本は樹木の多い庭に臨んだ食堂の方へ案内された。
「夏の間、私共はよくこの窓の外で食事することもあります」
 という老婦人の話なぞを聞きながら岸本は主人と細君と四人して食卓を囲んだ。
「何にもお構い申しません。私共でも何時(いつ)でもこの通りです」
 と細君は款待顔(もてなしがお)に言った。
「岸本さんのようにわざわざ日本から仏蘭西へお出掛下さる方もあり――」と言って老婦人は自分の子息(むすこ)と岸本の顔を見比べて、「そうかと思うと姪のように、仏蘭西から日本の方へ行ってしまうのもあります」
 その時岸本は国の方から茶や椿(つばき)の種を持って来たことを言出した。誰か専門家に頼んで旅の記念に植えて見て貰いたいと話した。
「岸本さんは何をお持ちに成ったと言うのかい」と老婦人は主人に言って、やがて岸本の方を見て、「私は耳が遠くなって時々お話の聞取れないことが有ります」
「種」と主人は大きな声で言って見せて笑った。
 食後に岸本は持って来た風呂敷包を取出した。その中からは銀杏(いちょう)、椿、山茶花(さざんか)、藤、肉桂(にくけい)、沈丁花(じんちょうげ)なぞの実も出て来た。
 老婦人は岸本に向って、東京にある姪から仏蘭西大学の教授の許(もと)へも彼を紹介してよこしたことを話して、これから忰夫婦が案内する、丁度教授の家には茶の会がある、一緒に行ってあの好い家族とも親(ちか)づきに成れと言った。
「念のために御話して置きますが、教授は当地でも有名な学者です」
 と老婦人は廊下のところに立って岸本に注意するように言った。
 晩に出る最終の河蒸汽に乗後(のりおく)れまいとして、岸本は夫婦と一緒に河岸を急いだ。細君は教授の夫人への手土産(てみやげ)にと庭の薔薇(ばら)の花を提(さ)げ、自分がまだ娘であった頃から教授の家へはよく出入(ではいり)したという話を岸本にして聞かせた。漸くのことで三人は船に間に合った。知らない仏蘭西人ばかりの乗客の間に陣取って種々(いろいろ)親しげに言葉を掛ける夫婦と一緒に腰掛けた時は、岸本に取って肩身が広かった。
「セエヌの水は何時(いつ)でもこんなに静かでしょうか」
「大抵こんなです。毎朝私はこの船で図書館通いをしています。夏の朝はなかなか好うござんすが、晩も悪くはありませんね」
 岸本と書記とが暗い静かな河景色を眺めながら話している傍(そば)で、細君は女持の手提鞄(てさげかばん)を膝(ひざ)に乗せて二人の話に耳を傾けた。
 このビヨンクウルの書記には著述もあった。その家に半ばを分けて来た植物の種子(たね)は岸本が国を出る時にあの中野の友人等から贈られたのだ。岸本は残りの半ばを植物園の近くに住むという教授の許へも分けるつもりで、これから書記夫婦と共に見に行こうとする教授の人となりを想像した。その晩の茶の会に集まろうとする未知の人々をも想像した。

        六十一

 ギイ・ド・ラ・ブロッスという町にある教授の家の茶の会から岸本が下宿の方へ歩いて帰って行った頃は大分遅かった。彼の胸は初めて仏蘭西人の家庭を見、未知の人々に逢ったその日のことで満たされていた。恐ろしく巌畳(がんじょう)なアーチ形に出来た家々の門の前には遅く帰った人達が立って、呼鈴(よびりん)の引金を鳴らしていた。家番(やばん)もぐっすり寝込んだ時分であった。
 暗い階段を上って下宿の戸を開けると、皆もう寝沈まっていた。廊下の突当りにある自分の部屋へ行ってからも、岸本は直(す)ぐには寝台に上らなかった。部屋を明るくした古めかしい洋燈(ランプ)に対(むか)って見ると、「巴里へは何時御着きに成ったのです、何故もっと早く訪ねて来てくれないのです」と快く爽(さわや)かな調子で言ったブロッスの教授の声はまだ彼の耳についていた。印度(インド)研究に関した蔵書の類が沢山置並べてある書斎の中で、まだ大学へでも通っているらしい青年の方へ彼を連れて行って、「忰(せがれ)にも一つ逢(あ)ってやって下さい」と言ったあの教授の声も。それから彼が旅のしるしとして贈った銀杏の実なぞを教授は別の部屋の方へ持って行くと、茶に招かれて来ていた若い教授の細君らしい人達が集って、皆なで一緒にその粒の揃(そろ)った東洋植物の種を眺めながら、「まあ、植えてしまうのは惜しい、こうして見ていたい」と言ったあの女らしい人達の声も。彼はこの異郷に来て智識階級に属するそれらの人達とこれ程熱い握手を交(かわ)し得るとは思いもかけなかった。あのビヨンクウルの夫婦が河蒸汽や電車の切符まで彼には払わせなかった程の心づくしも、全く彼の予期しないことであった。敏感で優雅なビヨンクウルのお母さんも彼が初めて逢って見た旧(ふる)い仏蘭西の婦女(おんな)をいかにも好く表したような人であった。髪は最早(もう)白いほどの年頃ながら眼には青年のような輝きを見せた教授、素朴(そぼく)でそして男らしく好ましい感じのする書記、彼は眠りに就(つ)こうとして壁の側の寝台に上ってからも、それらの人達から受けた最初の好い印象を考えて、この温かい親切は長く忘れられまいと思った。
 しかし朝になって見ると、初めて逢った人達の感じが好かっただけ、それだけ旅人としての物足(ものた)らなさが岸本の胸に忍び込んで来た。彼は皆の言った事を考えて見て、ボンヤリしてしまった。外国人は何処(どこ)までも外国人で、物の皮相にしか触れることの出来ないような物足らなさがその最初の好い印象と一緒になって起って来た。
 仏蘭西に居る頃から人に頼んで日本の髪に結ったというマドマゼエルのことが、しきりと岸本の胸に浮んだ。それほど強烈な異国に対する憧憬の心を以(もっ)てしても、仏蘭西を捨てて去ったマドマゼエルがどれ程まで日本人の心の奥を汲(く)み知ることが出来るであろうか、とそう彼は想像して見た。彼はあの日本の着物を着て畳の上に坐っているマドマゼエルに、洋服を着て椅子に腰掛けている自分の旅の身を思い比べた。
「結局、自分等は芸術に行くの外(ほか)はないかも知れない。芸術によって、この国の人の心に触れるの外はないかも知れない」
 この考えは岸本の心を駆(か)って一層言葉の稽古(けいこ)の方へ向わせた。

        六十二

 旅に来て五月目(いつつきめ)に、岸本は新たに父になったことを国の方からの便(たよ)りによって知った。亡(な)くなった三人の女の児を入れて数えると、最早彼は七人だけの子の親ではなかった。園子との間に設けたおもてむきの子供の外に、知らない子供が一人何処(どこ)かに生きていた。彼は極印でも打たれたような額を客舎の硝子窓(ガラスまど)のところへ持って行って、人知れずそのことを自分に言って見た。
 義雄兄からの便りには、「例の人」は産後の乳腫(ちちばれ)で手術を受けさせるから、その費用を送れとしてあった。それから一月半ばかりも待つうちに節子は精(くわ)しいことを知らせてよこした。産は重くて骨が折れたが男の子が生れたと彼女の手紙の中に書いてあった。彼女はこまごまと書いてよこした。こんなにお産が重かったのは身体(からだ)を粗末にしていた為であろう、自分はその事を人から言われたと書いてよこした。自分は僅(わず)かに一目しか生れたものの顔を見ることを許されなかったと書いてよこした。その田舎(いなか)に住む子供の無い家の人から懇望されて、嬰児(あかご)は直(す)ぐに引取られて行ったと書いてよこした。例の親切な女医が来ての話に、「あなたのややさんは、それはよくあなたのお父さんに似ていますよ」と言って笑って話してくれたと書いてよこした。その田舎に住む坊さんが名づけ親になって親夫(ちかお)という名を命(つ)けてくれた――実はその名は坊さんが自分の子に命けるつもりで考えて置いたとかいうのを譲ってくれたのだと書いてよこした。生れたものの貰(もら)われて行った先で、どうかしてこの子のお母さんの苗字(みょうじ)だけでも明して欲しい、それを明すことが出来なければ東京のどの辺か――せめて方角だけでも明して欲しいとのことであったが、それだけはお断りすると言って、女医の方で明さなかったと書いてよこした。定めしお父さんの方からの知らせが行ったことと思うが、自分の乳が腫(は)れ痛んで、捨てて置く訳にはいかないと言われて、切開の手術を受ける為にしばらく女医の方へ行っていたと書いてよこした。どうもまだ自分の身体の具合は本当でないから、今しばらくこの産婆の家の二階にとどまるつもりであるが、出来るだけ早くここを去りたいと思うと書いてよこした。つくづく自分はこの二階に居るのが恐ろしくなった、何事につけてもここはお金お金で、地獄にあるような思いをすると書いてよこした。このお産のために自分の髪は心細いほど抜けた、この次叔父さんにお目にかかるのも恥かしいほど赤く短く切れてしまったと書いてよこした。
 この節子の手紙を読んで、岸本は心から深い溜息(ためいき)を吐(つ)いた。彼はいくらか重荷をおろしたような気がした。しかしそのために、一度つけてしまった生涯の汚点は打消すべくもなかった。埋めようとすればするほど、余計に罪過は彼の心の底に生きて来た。彼は多くもない旅費の中を割(さ)いて節子が身二つに成るまでの一切の入費に宛(あ)てて来たし、外国から留守宅への仕送りも欠かすことは出来なかったし、義雄兄から請求して来た節子の手術に要する費用も負担せねば成らなかった。旅も容易でなかった。それにも関(かかわ)らず、彼は行けるところまで行こうとした。

        六十三

 東京高輪(たかなわ)の留守宅の方に節子を隠して置て嫂(あによめ)の上京も待たずに旅に上って来た心持から言っても、義雄兄に宛てた一通の手紙を残して置いて香港(ホンコン)を離れて来た心持から言っても、岸本は再び兄夫婦を見るつもりで国を出たものではなかった。節子は旅にある叔父に便りすることを忘れないで、彼女が郡部にある片田舎から高輪の方へ戻った時にも精しい手紙を送ってよこしたが、その便りが岸本の手許(てもと)へ着いた頃は、最早ノエル(降誕祭)の季節の近づく年の暮であった。異郷で初めて逢(あ)う正月、羅馬(ローマ)旧教国らしいカアナバルの祭、その肉食の火曜も、ミ・カレエムの日も、彼の旅の心を深くした。彼の下宿には独逸(ドイツ)のミュウニッヒの方から来た慶応の留学生を迎えたり、瑞西(スイス)の方へ行く人を送ったりしたが、それらの人達と連立ってルュキサンブウルの美術館を訪(たず)ねた時でも、ガボオの音楽堂に上った時でも、何時(いつ)でも彼は心の飄泊者(ひょうはくしゃ)としてであった。
「人はいかなる境涯にも慣れるもので、それがまた吾儕(われら)に与えられたる自然の恵みである」と言った人もあったとやら。ある人はまた、「慣れるということほど恐ろしいものは無い」とも言ったとやら。岸本はその二つの言葉の意味に籠(こも)る両様の気質と真実とを味(あじわ)い知った。所詮(しょせん)彼とても慣れずにはいられなかった。そして高い建築物(たてもの)もさ程気に成らず、往来も平気で歩かれ、全く日本風の畳というものも無い部屋に一日腰掛けて暮せる頃は、自分の髪の毛色の違い、自分の皮膚の色の違いを忘れる時すらあるように成った。不思議にも、外界の事物に対してこれ程彼が無頓着(むとんじゃく)に成ったと同時に、外界の事物もまた彼に対して無頓着に成った。彼は自分の部屋の窓の下を往来する人達と全く無関係に生きて行く異邦の旅人としての自分の身をその客舎に見つけた。あだかも獄裡(ごくり)に繋(つな)がるる囚人(しゅうじん)が全く娑婆(しゃば)というものと縁故の無いと同じように。
 恐ろしい町の響が岸本の耳につくように成った。一切の刺激から起る激しい感覚が沈まって行くにつれ、そうした響がハッキリと彼の耳に聞えて来た。剣のように尖(とが)った厳(いか)めしく頑固(がんこ)な馬具を着け、真鍮(しんちゅう)の金具(かなぐ)を光らせた幾頭かの馬が大きな荷馬車を引いて行く音、モン・トオロン行の乗合自動車の通う音、並木街を往復する電車の音、その他石造の街路から起る町の響が、高い建築物の間に響けて、岸本の部屋の硝子窓に揺れるように伝わって来た。それを聞くと遽(にわ)かに故国も遠くなった。彼はそろそろ外国生活の無聊(ぶりょう)がやって来たことを感じた。
 苦難はもとより彼の心に期するところであった。どんなにでもして彼は耐えがたい無聊と戦わねば成らなかった。そして心の飄泊を続けねば成らなかった。

        六十四

 復活祭も近づいて来ていた。東京の留守宅へ戻って行ってからの節子は折ある毎(ごと)に泉太や繁のことを書いて、それに彼女の境遇を訴えてよこした。岸本はあの片田舎の家の方から品川の停車場(ステーション)まで帰って来て、そこで迎えの嫂と一緒に成ったという時の彼女を想いやることも出来た。彼女の母にも姉の輝子にも男の子の生れている高輪の家へもう一度帰って行った時の彼女を想いやることも出来た。多くの知人や親戚(しんせき)から祝わるる姉の子供に比べて、誰一人顧るものもない彼女に生れた子供こそその実この世に幸福なものであると言ってよこした彼女の女らしい負惜みを思いやることも出来た。あの事があってからの父は別の人かと思われるほど彼女に優しく、叔父さんから父宛(あて)に来た手紙もこっそり彼女の机の上に置いてくれるほどの人になったと言うような、とかく母に対して気まずい思いをしているらしい彼女を遠く想いやることも出来た。「実に可哀そうなことをした」この憐(あわれ)みの心は自ら責むる心と一緒になって何時でも岸本に起って来た。
 異郷の旅の心を慰めるために、岸本は自分の部屋にある箪笥(たんす)の前に行った。箪笥とは言っても、鏡を張った開き戸のある置戸棚(おきとだな)に近い。その抽筐(ひきだし)の中から国の方の親戚や友人の写真を取出した。義雄兄の家族一同で撮(と)った写真も出て来た。それは最近に東京から送って来たのであった。高輪の家の庭の一部がそっくりその写真の中にある。南向の縁側の上には蒲団(ふとん)を敷いて坐った祖母(おばあ)さんが居る。庭には嬰児(あかご)を抱いて立つ輝子が一番前の方に居る。二人の少年が庭石の上に立っている。その一人は義雄兄の子供で、一人は繁だ。兄さんらしく撮れた泉太の姿をその弟の傍に見ることも出来る。義雄兄が居る。嫂が居る。嫂はその家で生れた男の児を抱いている。岸本は兄夫婦の写真顔をすら平気では眺(なが)められなかった。一番後方(うしろ)に立つのが変り果てた節子の面影であった。娘らしく豊かな以前の胸のあたりは最早彼女に見られなかった。特色のある長い生(は)えさがりは一層彼女の頬(ほお)を痩(や)せ細ったように見せていた。
「自分は、人一人をこんなにしてしまったのか」
 それを思うと岸本は恐ろしくなってその写真を抽筐の底に隠した。

        六十五

 山羊(やぎ)の乳売の笛で岸本は自分の部屋に眼を覚(さ)ました。巴里(パリ)のような大きな都会の空気の中にもそうした牧歌的なメロディの流れているかと思われるような笛の音(ね)がまだ朝の中の硝子窓に伝わって来た。旅らしい心持で、その細い清(す)んだ音に耳を澄ましながら、岸本は窓に向いた机のところで小さな朝飯の盆に対(むか)った。それを済ました時分に、女中が来てコンコンと軽く部屋の戸を叩(たた)く音をさせた。何時でも西伯利亜(シベリア)経由とした郵便物の来るのは朝の配達と極(きま)っていた。その時彼は新聞や雑誌や手紙の集まったのをドカリと一時に受取った。待たれた故国からの便りの中には、節子の手紙も混っていた。
「ホウ、泉ちゃんが御清書を送ってよこした」
 と岸本は言って見て、外国に居て見ればめずらしいほど大きく書いた子供の文字を展(ひろ)げて見た。それから節子の手紙を読んだ。何と言ってよこしても直接には答えないで黙っている叔父に宛(あ)てて、彼女は根気好くも書いてよこした。叔父さんの旅の便りが新聞に出る度(たび)に、自分はそれを読むのをこの上もない心の慰めとしていると書いてよこした。叔父さんに別れた頃の季節が復た回(めぐ)って来たと書いてよこした。遠く行く叔父さんを見送った時の心持が復た自分に帰って来たと書いてよこした。この高輪の家の庭先に佇立(たたず)んで品川の方に起る汽車の音を聞いた時のことまでしきりに思出されると書いてよこした。
 岸本は自分の旅の心を昔の人の旅の歌に寄せて、故国の新聞への便りのはじに書きつけて送ったこともあった。節子はその古歌を引いて、同じ昔の人の詠(よ)んだ歌の文句をさながら彼女の遣瀬(やるせ)ない述懐のように手紙の中に書いてよこした。

  「つきやあらぬ、
   はるや昔の
   はるならぬ、
   わがみひとつは
   もとのみにして」

 先頃(さきごろ)送った家中で撮(と)った写真を叔父さんはどう見たろうとも彼女は書いてよこした。あの中に居る自分はまるで幽霊のように撮れて、ああした写真で叔父さんにお目に掛るのも恥かしいと書いてよこした。その事を母に話して叱(しか)られたと書いてよこした。彼女は浅草の家の方で使っていた婆やのことも書いてよこした。婆やは今でも時々訪ねて来てくれるが、自分は家にある雑誌なぞを貸与えて婆やの機嫌(きげん)を取って置いたと書いてよこした。「婆やは可恐(こお)うございますからね」と書いてよこした。
 旅に上ってから以来(このかた)、引続き岸本はこうした調子の手紙を節子から受取った。彼は東京を去って神戸まで動いた時に、既に彼女の心に起って来た思いがけない変化を感じたのであった。彼は一切から離れようとして国を出たものだ。けれども彼の方で節子から遠ざかろうとすればするほど、不幸な姪の心は余計に彼を追って来た。飽くまでも彼はこうした節子の手紙に対して沈黙を守ろうとした。彼は節子の手紙を読む度(たび)に、自分の傷口が破れてはそこから血の流れる思いをした。嘆息して、岸本は机に対(むか)った。書架の上から淡黄色な紙表紙の書籍を取出して来て、自分の心をその方へ向けた。そして側目(わきめ)もふらずに新しい言葉の世界へ行こうとした。英訳を通して日頃親しんでいた書籍の原本を手にすることすら彼には楽しかった。彼は既に読みたいと思うかずかずの書籍を有(も)っていたが、覚束(おぼつか)ない彼の語学の知識では多くはまだ書架の飾り物であるに過ぎなかった。この国の言葉に籠(こも)る陰影の多い感情までも読み得るの日は何時のことかと、もどかしく思われた。

        六十六

 旅の空で岸本は既に種々(いろいろ)な年齢を異にし志すところを異にした同胞に邂逅(めぐりあ)った。わざわざ仏蘭西船を択(えら)んで海を渡って来て、神戸を離れるから直(ただち)に外国人の中に入って見ようとした程の彼は、巴里に来た最初の間なるべく同胞の在留者から離れていようとした。外国へ来て日本人同志そう一つところへ集ってしまっても仕方が無い、こうした岸本の考え方はある言葉の行違いから一部の在留者の間に反感をさえ引起させた。「岸本は日本人には附合わないつもりだそうだ」と言って彼の誠意を疑うような在留者の声が彼自身の耳にすら聞えて来た。しかしこの疑いは次第に解けて行った。モン・パルナッスの附近に住む美術家で彼の下宿に顔を見せる連中も多くなり、通りすがりの同胞で彼の下宿に足を留めて行く人達も少くはなかった。
 岸本は部屋の窓へ行った。京都の大学の教授がしばらく泊っていた旅館の窓が岸本の部屋から見えた。その教授に、東北大学の助教授に、いずれも旅で逢った好ましい人達が食事の度(たび)に彼の下宿の食堂へ通って来たばかりでなく、彼の方からも自分の部屋から見える旅館へ行って夜遅くまで思うさま国の方の言葉を出して話し込んだ時のことが、まだ昨日(きのう)のことのように彼の胸にあった。もし互の事情が許すなら、もう一度白耳義(ベルジック)のブラッセルか、倫敦(ロンドン)あたりで落合いたいものだと約束して行った教授、一年ぶりで伯林(ベルリン)の地を踏んだと言って帰国の途上から葉書をくれた助教授、それらの人達が去った後の並木街を岸本は独りで窓のところから眺めた。とても国の方では話し合わないような話が異郷の客舎に集まった教授等と自分の間に引出されて行ったことを想って見た。旅の不自由と、国の言葉の恋しさと、信じ難いほどの無聊(ぶりょう)とは、異郷で邂逅(めぐりあ)う同胞の心を十年の友のように結び着けるのだとも想って見た。彼は一緒にルュキサンブウルの公園を歩いたりリラの珈琲店(コーヒーてん)に腰掛けたりした教授連に比べて見て、どれ程自分のたましいが暗いところにあるかということをも思わずにはいられなかった。
 毎日のように並木街をうろうろしている不思議な婦人が窓の硝子を通して彼の眼に映った。恐らく白痴であろうと下宿の食堂に集る人達は噂(うわさ)し合って、誰が命(つ)けるともなく「カロリイン夫人」という名を命けていた。「カロリイン夫人」は紅(あか)い薔薇(ばら)の花のついた帽子を冠(かぶ)り、白の手套(てぶくろ)をはめ、朝から晩までその界隈(かいわい)を往(い)ったり来たりしていた。何を待つかと他目(よそめ)には思われるようなその婦人の姿を窓の下に見つけたことは、一層岸本の心を異郷の旅らしくさせた。
「姪(めい)ゆえにこんな苦悩と悲哀とを得た」
 ある仏蘭西の詩人が歌った詩の一節になぞらえて、彼は自分で自分の旅の身を言って見た。丁度そこへ岡という画家が訪ねて来た。

        六十七

 岡は今更のように岸本の部屋を眺め廻した。壁紙で貼(は)りつめた壁の上には古めかしく大きな銅版画の額が掛っていた。「ソクラテスの死」と題してあって、あの哲学者の最後をあらわした図であったが、セエヌの河岸通(かしどお)りの古道具屋あたりに見つけるものと大して相違の無いような、仏蘭西風の銅版画としては極く有りふれたものであった。岸本が一年近い旅寝の寝台(ねだい)はその額の掛った壁によせて置いてあった。
「この部屋に掛っている額と、岸本さんとは、何の関係があるんです――」
 岡は画家らしいことを言って、ロココという建築の様式が流行(はや)った時代のことでも聯想(れんそう)させるような古い版画を眺めた。
「ここの下宿のおかみさんが、あれでも自慢に掛けてくれたんでさ」と岸本が言った。
「ああいうものが掛っていても、岸本さんは気に成りませんかね」
「この節は君、別に気にも成らなくなりましたよ。有っても無くても僕に取っては同じことでさ。旅では君、仕方が無いからね」
 国に居た頃から見ると岸本はずっと簡単な生活に慣れて来た。巴里に着いたばかりの頃は外国風の旅館や下宿の殺風景に呆(あき)れて、誰も自分の机の上を片付けてくれる人もないのか、とよくそんな嘆息をしたものであったが、次第に万事人手を借りずに済ませるように成った。着物も自分で畳めば、鬚(ひげ)も自分で剃(そ)った。一週に一度の按摩(あんま)は欠かすことの出来ないものであったが、それも無しに済んだ。彼はずっと昔の書生にもう一度帰って行った。自分と同年配の人を見ると同じ心持で、国から到来した茶でも入れて年下な岡を款待(もてな)そうとしていた。
「僕なぞは君、極楽へ島流しになったようなものです」
 と言いながら岸本は椅子を離れた。岸本が極楽と言ったは、学芸を重んずる国という意味を通わせたので。
「極楽へ島流しですか」
 と岡も笑出した。
 岸本は洗面台の横手にある窓の下へアルコオル・ランプと湯沸(ゆわかし)を取りに行った。それは何処(どこ)かの画室の隅(すみ)に転(ころ)がっていたのを岡が探出して以前に持って来てくれたものであった。留学していた美術家の残して置いて行った形見であった。
「岡君、国から雑誌や新聞が来ましたよ。僕の子供のところからはお清書なぞを送ってよこしました」
「岸本さんは子供は幾人(いくたり)あるんですか」
「四人」 
 と岸本は言淀(いいよど)んだ。岡はそんなことに頓着(とんじゃく)なく、
「皆東京の方なんですか」
「いえ、二人だけ東京にいます。三番目のやつは郷里(くに)の姉の方に行ってますし、一番末の女の児は常陸(ひたち)の海岸の方へ預けてあります。今生きてるのが、それだけで、僕の子供はもう三人も死んでますよ」
「好い阿父(おとっ)さんの訳だなあ」
 ランプに燃えるアルコオルの火を眺めながら、岸本は岡と一緒に国の方の言葉で話をするだけでも、それを楽みに思った。彼の下宿にはヴェルサイユ生れの軍人の子息(むすこ)でソルボンヌの大学へ通っている哲学科の学生と、独逸(ドイツ)人の青年とが泊っていた。同胞を相手に話す時のような気楽さは到底下宿の食堂では味われなかった。岡はまた岸本が勧めた雑誌や新聞を展(ひろ)げて饑(う)え渇(かわ)くようにそれを読もうとした。

        六十八

 岡は岸本よりも半年ばかり先に巴里へ来た人であった。岸本が旅でこの画家を知るように成ったのは数々の機会からで。ペルランの蔵画を見ようとして一緒に巴里の郊外へ辻馬車(つじばしゃ)を駆(か)った時。マデラインの寺院(おてら)の附近に新画を陳列する美術商店を訪ねた時。テアトルという町での忘年会に二人して過(あやま)って火傷(やけど)をした時。
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