幼き日
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著者名:島崎藤村 

        七

 私は極く早い頃から臆病な性質をあらはしました。銀さんは國に居る頃から私と違ひまして、木登りの惡戲(いたづら)から脚に大きな刺(とげ)などが差さつても親達に見つかる迄はそれを隱して居るといふ方でしたが、私は他(ひと)の身體の疼痛(いたみ)を想像するにも堪へませんでした。東京へ修業に出て來てからも、二番目の兄に連れられて寄席などへ遊びに行きますと、中入前あたりには妙に私は心細く成つて來るのが癖でした。斯の兄は其頃から度々上京しまして旅屋(やどや)に日を送りましたから、私もよく銀座邊の寄席へは連れられて行きましたが、騷がしい樂屋の鳴物だの役者の假白(こわいろ)だのを聞いて居ると、何時でも私は堪へ難いほどの不安な念に襲はれました。その度に、私は兄一人を殘して置いて、寄席から逃げて歸り/\しました。それほど私は臆病でした。
 一方から言へば私は八歳の昔に早や初戀を感じたほどの少年で(そのことは既に貴女に御話しましたが)、その私が鷲津の姉さんのやうな家庭の空氣の中に置かれて、種々な大人の淫蕩(みだら)を見たり聞いたりしながら、しかも少年らしい多くの誘惑から自分を護り得たといふのも、一つは斯の臆病からだと自分で思ひ當ることが有ります。
 二番目の兄は鷲津の姉さんの傍に長く私を置くことを好みませんでした。そこで私は姉や兄達の懇意な豐田さんの家の方へ引取られて、豐田さんの監督の下に勉強することに成つたのです。丁度それは私が十一の年の秋頃でした。
 貴女は十一二といふ年頃をお母さんの側で奈何(どん)な風に送つたでせうか。私は全く獨りで――母からも、姉からも離れて――早くから他人の中へ投げ出されたやうなものでした。それが私に取つての修業といふものでした。私はいかにせば、鷲津の姉さんのやうな性急で氣むづかしい人を喜ばすであらうかと、そんなことに心を碎きました。一旦等閑(なほざり)にされた私は豐田さんの方へ引移つて、思はぬ深切と温い心とを見つけたのです。
 豐田さんと言へば、姉が東京に居ました時分にはよく私も使に行きましたからそこの細君や隱居さんは全く知らない顏でもありませんでした。姉の家から細い路地を曲つて行くと、鼈甲屋(べつかふや)、時計屋などのある銀座の裏通りの町、そこにある黒い土藏造りの豐田さんの家、鐵格子の箝(はま)つた窓などは、私には既に親しいものでした。私は豐田さんのことを小父さん、隱居さんのことをお婆さんと呼ぶやうに成りました。細君は本來なら小母さんと呼ぶべきでしたが、豐田さんとは大分年も違つて居ましたし、兄でも姉でも斯の人ばかりは豐田の姉さんと言ひましたから、私もそれに倣つて姉さんと呼びました。
 例の往來に面した鐵格子の箝つた窓――私に取つては忘れることの出來ない朝に晩に行つた窓――その窓の下にある三疊ばかりの小部屋に私は鷲津さんの家から運んで行つた自分の机を置きました。壁によせて、抽斗(ひきだし)の附いた本箱をも置きました。抽斗の中には上京の折に父が餞別に書いて呉れた座右の銘なぞが入れてあります。稀(たま)には私は幾枚かある其短册を取出して見ます。『温良恭謙讓』と一行に書いたのがあれば『勉強』とか『儉約』とかの文字をいくつも書き並べたのもあります。私は器械的に繰返して見て、寧ろ父の手蹟を見るといふだけに滿足して、復た紙に包んで元の抽斗の中へ藏つて置きました。國許の父からはよく便りがありました。父は村の中の眺望(ながめ)の好い位置を擇んで小さな別莊を造つたとかで、母と共に新築の家の方へ移つたことや、その建物から見える遠近(をちこち)の山々、谷、林のさまなどを書いて寄(よこ)しました。其頃から漸く私も父へ宛てゝ手紙を書くやうに成りました。時には豐田の小父さんがニコ/\しながら私の机の側へ來まして、
『お父さんの許(とこ)へ奈樣(どん)な手紙を書いたか、お見せ。そんなことを隱すもんぢや無い。』
 と言ひますから、私が學校の作文でも書くやうに半紙に書きつけた手紙を出して見せますと、小父さんは笑つて、それを奧の方に居るお婆さんや姉さんのところへ持つて行つて讀んで聞かせたりなどしました。『むう、斯の手紙はなか/\好く出來た』なんて小父さんは私を勵ました後で、是處は斯う書けとか、彼處は彼樣(あゝ)直せとか言つて呉れました。道さん――ホラ、お文さんの直ぐ上の兄さん――からもめづらしく便りがありました。私は窓の下にその幼友達の手紙を展げて、何度も/\繰返し讀みました。二年あまり半分夢中で都會に暮して來た私の心は田舍々々した日のあたつた故郷の田圃側の方へ歸つて行きました。しばらく忘れて居てめつたに平素(ふだん)思出さないやうなことが、しかも一部分だけ妙に私の頭腦(あたま)の中に光つて來ました。例へば、お牧がよく水汲みに行つた裏の深い井戸の中へ、ある夏の日のこと兄が手製のレモン水を罎詰にしまして、細引に釣して冷したことが有りました。私はそのレモン水の罎を思出しました。私は又、道さんだの問屋の子息だのと一緒に遊び□つた村の裏河づたひの細道、清水の槽(ふね)、落雷のために裂けた高い杉の幹、それから樂しい爐邊の火に映るお文さんのお母さんの艶々とした頬邊(ほつぺた)などを遠く離れて居てしかもあり/\と見ることが出來ました。私は道さんへ宛てゝ少年らしい返事を出しました。その返事は道さんから父の方へ□つたと見えて、父が私の書いた手紙を批評して寄したことが有りました。
 覺束ないながらも私が故郷へ文通するやうに成つてから、父は話をするやうに種々な事を手紙で知らせて來ました。ある時、私は父から受取つた手紙を讀んで行くうちに、若い嫂の懷姙といふことにブツカリました。『行ひは必ず篤敬』などと餞別の短册に書いて呉れる父のことですから、其手紙も至極眞面目に、私にも喜べといふ意味でした。しかし私は『あゝ左樣か、姉さんに赤んぼが出來たのか』では濟ませませんでした。何故と言ふに、大人には左樣いふ言葉は何でも無くても、少年の私は初めてそれを見つけたのですから。しかも父の手紙の中に見つけたのですから。私は自分の身のまはりに何とも言つて見やうの無い世界のあることを感じ始めました。
 例の窓からは往來を隔てゝ時計屋の店頭(みせさき)が見えます。白い障子の箝硝子(はめガラス)を通して錯々(せつせ)と時計を磨いて居る亭主の容子(ようす)が見えます。その窓の下へは時折來て聲を掛ける學校の友達もありました。斯の少年は級は私より一つ上でしたが、家が三十間堀で近くもあり、それに毎日同じ道を取つて學校へ通ひましたから、自然と心易く成りました。『六ちやん』『六ちやん』と言つて學校でも評判な元氣の好い生徒でした。六ちやんが横町を□つて誘ひに來る朝などは、私は豐田のお婆さんに詰めて貰つた辨當を持つて、一緒に連立つて彌左衞門町の廣い通りへ出、丸茂といふ紙店の前を過ぎ、(あの紙店では私達はよく清書の『おとりかへ』をして貰つたり黄ばんだ駿河半紙を買つたりしました。)それから數寄屋河岸について赤煉瓦の學校へ通ひました。どうかすると六ちやんと二人で辨當の空箱を振りくりながら歸つて來て、往來の眞中へぶちまけたことも有りました。
 豐田の姉さんは性來多病で――多病な位ですから怜悧(りこう)な性質の婦人だと他(ひと)から言はれて居ました――起きたり臥たりしてるといふ方でしたから、直接(ぢか)に私の面倒を見て呉れたのは主にお婆さんでした。
『お婆さん、霜燒(しもやけ)が痒(かゆ)い。』
 そんなことを言つて夜中に私が泣きますと、お婆さんは臥床(ねどこ)から身(からだ)を起して、傷み腫れた私の足を叩いて呉れました。
 斯のお婆さんは私に、行儀といふものを見覺えなければ成らないと言つて、種々な細い注意を拂ふことを教へました。客の送迎(おくりむかへ)は私の役□りでしたが、私はお婆さんに言ひ附けられた通り客の下駄を直し、茶などもよく運んで行きました。
『江戸は火事早(くわじばや)いよ。』
 これがお婆さんの口癖でした。お婆さんに言はせると、東京は生馬(いきうま)の眼でも拔かうといふ位の敏捷な氣風のところだ、愚圖々々して居ては駄目だ、第一都會の人は物の言ひ方からして違ふ――よくそれを私に言つて聞かせたものでした。姉さんも笑ひながら、
『そりや、お前さん、東京の人の話は「何」で通るからネ。ちよいとあの何を何して下さいナ――あの何ですが――それでお前さん、話がもうちやんと解つて了ふんだからネ。えらいよ。』 
 斯樣な風に言つて聞かせました。地方から出て來た斯の姉さんでもお婆さんでも、小父さんを助けて、都會で自分等の運命を築き上げようとする健氣(けなげ)な人達でした。
 めづらしく姉さんの氣分の好い日が續いて、屋外(そと)へでも歩きに行かうといふ夕方などは、お婆さんは非常に悦びました。その頃、尾張町の角のところには毎晩のやうに八百屋の市が立ちました。私は靜かに歩いて行く姉さんやお婆さんの後に隨いて、買物に集る諸方(はう/″\)の内儀さんだの、市場の灯だの、積み重ねた野菜と野菜の間だのを歩き□るのを樂みにしました。銀座の縁日の晩などには、よくまた小父さんに連れられて行つたものです。乞食の集つて居るやうな薄暗いところから急に明るい群集(ひとごみ)の中へ出ることは、妙に私の心を唆(そゝ)りました。小父さんは夜見世をひやかすのが好きで、私を連れては種々な物のごちや/\並んだ露店の前を眺め/\歩きました。
 斯の手紙を書きかけて居るうちに、私は今一寸こゝで、姉の家や鷲津さんの家を振返つて見たいやうな心が起りました。といふはあの二軒の家に有るもので、豐田さんの家には無いものがあります。私の生れた家にも無いものです。私が姉の家に居る頃、あそこの祖母(おばあ)さんが時々なぐさみに琴を鳴らしたことを貴女に御話しましたらう。小さな甥までが謠曲(うたひ)の一ふしぐらゐは諳記(そらん)じて居ることを御話しましたらう。鷲津さんの家が矢張それで、しめやかな小唄でも口吟(くちずさ)んで見るやうな聲が老人(としより)の部屋から時々泄(も)れて聞えました。左樣いふ音樂の空氣といふものは豐田さんの家の方へ移つてからは、バツタリ無くなりました。
 何故私が斯樣なことを御話するかといふに、あの甥の一生を考へ、豐田さんの家に殘つた人達のことを思ひ、又今日までの私自身の生涯を辿つて見るに、斯の家に附いた空氣は何處までも同じやうに流れて行つて居ますから、それは實に爭はれないものだと思ひます。私の父はあれでもいくらか横笛を吹いたといふことですが、私の兄弟で好い耳を持つて居るやうなものは一人も居りません。あの甥の造つた家庭には、別に樂器を置かないまでも、何處かに音樂の空氣の流れた好ましいところが有りました。あの甥の一生がそれでした。私は自分自身がもうすこし寛濶であつても好いと思ふことは度々ですが、しかしそれを奈何することも出來ません。私が今住む家は殆んど周圍(まはり)を音樂で取繞(とりま)かれて居るやうなところにあります。表へ出れば一中節の師匠、裏へ行けば常磐津の家元、左樣いふ町の中に住ひながら、未だに私は自分の家へやはらかな空氣を取入れることも出來ずに居ります。
 それから比べて見ますと、繪畫に趣味を有つことは――私はその性質を身に近い女達にも、自分の子供にも見つけることが出來るやうに思ひます。私自身にも繪畫を好むことは天性に近いやうな氣がします。少年の時代から、いくらか進んだ普通教育を受けるまで、私は最もそれを得意にしました。斯の傾向(かたむき)はずつと早い頃からあらはれまして、豐田さんの家へ行つて二年目に成る頃には、私は柔い鉛筆と畫學紙を携へて、築地の居留地の方までも鉛筆畫を作りに出掛けたことがあります。豐田のお婆さんは私が何をするかと思つて、ある日、私の行く方へ一緒に歩いて來ました。私はお婆さんを橋の畔に立たせて置いて、築地邊の景色を寫しました。私は又、參謀本部の方までも行つて、あの建物を寫した鉛筆畫を一枚作りました。それは粗末な子供らしいもので有りましたが、兎も角も、御手本に據らないで、自分で見たまゝを畫にしようと骨折つたものでした。小父さんに勸められて私は左樣いふ小さな製作の一つを國の方へ送りました。父から來た手紙の中には、『貴樣は繪畫を學ぶが好からうと思ふ』といふ意味のことを書いて寄したことも有りました。
 お婆さんや姉さんが私のために注意して居て呉れたことは、銀さんの着物の世話まで屆いたのを見ても解ります。私達兄弟の少年は二人だけ東京に殘つて居てもめつたに逢ふやうな機會は有りませんでした。なにしろ銀さんは御店(おたな)ずまひの身で、宿入の時より外には豐田さんの家へも來られませんでしたから。で、銀さんの着物の洗濯でも出來た時には私の方から持つて行きました。日本橋の本町です。風呂敷包を携(かゝ)へながら紙問屋の店頭(みせさき)まで行きますと、そこに居る番頭が直ぐ私を見つけまして、小僧にそれと知らせたものです。銀さんは前垂の塵埃(ほこり)を拂ひながら、奧の藏の方から出て來て、庭で荷造りする人達の間などを通りましてそれから私の方へ來ました。私の口から言つては可笑しいやうですが、銀さんも大きく成りました。それに髮などを短くしまして、すつかり御店風(おたなふう)に成りました。私達二人は店の横手の日のあたつた土藏のところに倚凭(よりかゝ)りながら、少年らしい簡單な言葉を交換(とりかは)すのみでした。
 私は勤奉公する銀さんから自分の自由な身を羨み見られるのがツライと思つたことも有り、時にはいそがしさうな店頭の樣子を眺めて、碌に話もせずに別れて來ることが有りました。左樣いふ時には、私達は唯ニツコリ顏を見合せるに過ぎませんでした。銀さんも亦默つて私の手から洗濯着物を受取つて、御店の方へ引込んで行つて了ひました……
 ある日、豐田さんの家では田舍から女の客を迎へました。お霜婆がめづらしく訪ねて來たのでした。お霜婆は散々(さん/″\)國の方の話をして、豐田のお婆さんや姉さんから私達兄弟のことも聞取りました。御蔭で國への土産話が出來た、それを別れ際まで掻口説(かきくど)きました。他人の家で修業する身には、舊い出入の女も客だと思ひましたから、私はお霜婆の下駄を揃へて置きました。
『まあ、俺の履物まで直して下すつたさうな――』
 と言つて、お霜婆は私の方を見て、ホロリと涙を落しました。
 舊い馴染が歸つて行つた後で、お霜婆の話の中に、『俺が――俺が――』と言つたことは私の耳に殘りました。私の故郷では、目上の者に對しても、女でも『俺』です。
 斯の手紙の序(ついで)に、私は田舍言葉のことをこゝに書きつけませう。一概に田舍言葉と言ひますけれども、鄙びた言葉づかひが柔軟(やはらか)に働いて東京言葉では言ひ表はせないやうな微細な陰影(かげ)までも言ひ表はせるのが有ります。
 私の故郷の方の言葉では大きいといふことを三段に形容することが出來ます。それから助動詞などにも古い言葉の殘つたのが有つて、面白く、細く、しかも簡潔な働きをして居るのに氣がつくことが有ります。田舍言葉と言つても、粗野なばかりでは有りません。
 左樣言へば、都へも寒い雨がやつて來ました。斯の空には御地の山々は雪でせうか。貴女がたは例の炬燵を持ち出したでせうか。

        八

 私は巣の入口のみを貴女に御話して、まだ奧の方はお目に掛けませんでした。豐田さんの住居は二棟の二階建の家屋から出來て居て、それが高い引窓から明りを取るやうにした板敷の廊下で結び着けてありました。中央の廊下から奥の二階へ通ふことも出來、臺所の方へ□ることも出來ました。奧の下座敷が豐田の小父さんや姉さんやお婆さんの居間でした。客でもあると、小父さんは煙草盆を提げて土藏造の内の部屋へ出掛けて來ます。その暗い部屋の外が玄關で、私の机が置いてあるのもそこなれば、私がよく行つた往來の見える窓もそこにありました。斯樣な風に、私の勉強する部屋はいくらか奧の方と離れて居ましたから、そこで私は種々な少年らしい遊戲を考へ出しました。私は國に居てよく木登りをしたやうに、その土藏造の部屋の入口へ兩脚を突張りまして、それを左右の手で支へて、次第に高く登つて行くことを企てました。手を放せば、トンと私は入口の階段の上へ飛び降りることが出來たのです。朝に晩に大人に見つからないやうにしてはよく登りましたが、ある時私の手が滑つて堅い階段のところでひどく背骨を打つたことがありました。しばらくの間私は身動きすることも出來ませんでした。これに懲りて次第にその遊戲も止めるやうに成つて行きました。
 もつと危い遊戲を考へ出したこともあります。それは土藏の二階へ昇る梯子が二段に成つて居た爲に、私は下から逆さに昇つて行くことを企てたのです。これは梯子が足を掛け易く出來て居たからでもありました。しかし斯の危い戲れよりも安全で、もつと少年の私の心を喜ばせたのは、低い梯子から高い梯子へ昇らうとする中途の袋戸棚の上から、逆(さかさ)にでんぐり返しを打つことでした。ある日も人の居ない時を見て、袋戸棚の上へ身體を寢かし、足の方から段々高く持ち上げて見事に疊の上へ立つたと思ひましたら、そこに豐田の小父さんが笑ひながら立つて見て居て、ひどく私は赤面したことが有りました。
 山家育ちの私は、時には小父さんから、叱られるやうな惡戲をもやりました。ある時私は手頃な小刀を得ました。國に居れば鉈(なた)や鎌で立木の枝を拂つたり皮を剥いたりしたやうに、私は唯譯もなくその小刀を試みたくて成りませんでした。で、入口の格子の中に閉める戸へ行つてそれを試みました。大きなフシ穴を一つ刳(く)り拔いて了つた頃に、小父さんが來て見て呆れまして、
『貴樣はもつと悧好(りかう)な奴だと思つたら、存外馬鹿だナ。』
 と言つて叱られました。斯ういふ惡戲をした時でも、小父さんは實に寛大で、私に好く言つて聞かせるだけでした。私は斯の善良な主人から手荒い目などには一度も逢つたことが有りません。それだけ又た少年の心にも深く斯の小父さんを尊敬しました。
 ある日、私は表の方から馳出(かけだ)して來まして、格子を開けて上らうとする拍子に上(あが)り框(がまち)に激しく躓きました。私の身體は飛んで玄關に轉げました。
『馬鹿め、上から下へ轉がり落ちるつてことは有るが、下から上へ轉がり落ちる奴が有るかい。』
 斯う言つて、小父さんは笑ふやうな人でした。
 斯の小父さんは手細工が好きで、銀座の夜店から鋸(のこぎり)、鉋(かんな)の類を買つて來まして閑暇(ひま)な時には種々な物を手造りにしました。大工の用ひるやうな道具箱までも具へて有りました。小父さんの器用なことは天性で、左樣いふ道具を使つて餘念もなく箱を組立てたり板を削つたりする間がまた小父さんの一番樂しみな心の落ち着く時のやうに見えました。私は小父さんから厚い木の片で『コンパス』の入物を造つて貰つたことも有ります。
 奧座敷の縁先にはタヽキの池が有りました。そこには澤山金魚が飼つて有りまして、姉さんも氣分の好い時にはその縁先に出て、長い優美な尻尾を引きながら青い藻の中に見え隱れする魚のさまなどを眺めては病を慰めたものでした。小父さんは好く身體の動く人でしたから、その池に臭い泥でも溜ると、一番先きに立つて水を替へたり掃除をしたりしました。左樣いふ時には私も小父さんの手傳ひで手桶に半分ばかり入れた水を裏の井戸から池の方へ運ぶことが出來るやうに成りました。
 家の裏は丁度銀座通の裏側にあたる路地でした。もし私が父に勸められたやうに畫家にでも成つて居たら、彼樣いふ路地を畫いたらうと思ふほどゴチヤ/\した面白味のあるところでした。家々の下婢(をんな)が水汲みに集るのもそこでしたし、番頭や職人などが朝晩に通ふのもそこでしたし、豐田さんの家の裏には小屋なども造りつけて有りまして時々薪を割る音のするのもそこでした。まるで私は小鳥かなんどのやうに、唯譯もなくその間を歩き□りました。時には路地の奧の方までも入つて行つて、活版屋の裏に堆高(うづだか)く積重ねてある屑の中から細い活字を拾ふのを樂しみにしました。丁度私が國に居た頃、榎(えのき)の實を拾ひに行つて其下に落ちて居た橿鳥(かしどり)の羽を見つけたやうに。
 話はいろ/\に飛びますが、こゝで私は子供と着物のことをすこし書きつけたいと思ひます。少年時代の神經質は妙に着物などにも表はれると思ひます。私はどつちかと言へば頓着しない方で、着ろと言はれる物を着て學校へ通ひました。羽織や袴がすこしぐらゐ汚れても着慣れた物でさへあれば滿足しました。豐田のお婆さんは私の學校の方の成績を褒めまして、ある時私のために黒ずんだ黄八丈の羽織を仕立て直して呉れました。それは國の方に居る母が手織にした物でした。私が持つて居る羽織では上等の物でした。ところが黄八丈などを着て學校の式に出る友達は一人も居ません。私はそれを思ふと、何となく人に嘲戲(からか)はれさうな氣がして、氣羞かしくて堪りませんでした。お婆さんはわざ/\式に間に合はせる積りで夜業(よなべ)までして仕立て直して呉れたのでしたが、到頭私は強情を言ひ張つて、その羽織を着るだけは許して貰つたことが有りました。
 父が私に逢ふのを樂みにして一度上京しましたことは、私に取つて忘れ難いことの一つです。何故かと言ひますに、それぎり私は父に逢ひませんから。
 豐田さんの家の奧の二階は廣い靜かな座敷で、そこに父は旅の毛布(ケツト)やら荷物やらを解き、暫時(しばらく)逗留しました。豐田のお婆さんの亡くなつた連合(つれあひ)だの、親戚にあたる年老いた漢學者だの、其他豐田さんの身のまはりの人で父の懇意な人は澤山ありまして、國に居る頃は父もまだ昔風に髮を束ねまして、それを紫の紐で結んで後の方へ垂れて居るやうな人でしたが、その旅で名古屋へ來て始めて散髮に成つた話などを私に聞かせました。私は心の中で、お父さんも大分開けて來たと思ひました。
『あれは彼樣(あゝ)と、これは斯樣(かう)と――』
 そんなことを父はよく獨語(ひとりごと)のやうに言つて、自分の考へを纏めやうとするのが癖でした。
 奧の二階からは廣い物乾場を通して町家の屋根、窓などが見られます。父は旅の包の中から桐の箱に入つた鏡を取出しましたから、
『お父さん、男が鏡を見るんですか。』
 と私が尋ねますと、父は微笑んで、鏡といふものは男にも大切だ、殊に斯うして旅にでも來た時は、自分の容姿(ようす)を正しくしなければ成らないと私に話しました。
 父は隨分奇行に富んだ人で、到るところに逸話を殘しましたが、しかし子としての私の眼には面白いといふよりも氣の毒で、異常なといふよりも突飛に映りました。斯の上京で私はそれを感じたのでした。私の學校友達の六ちやんの家へも父が訪ねて行かうと言ひますから、私は一方には嬉しく思ひながら、一方には復た下手なことをして呉れなければ可いがと唯そればかり心配して、三十間堀の友達の家へ案内して行きました。六ちやんの家ではお母さんが後家さんで六ちやん達を育てゝ居ました。訪ねて行くと、先方(さき)でも大層喜んで呉れましたが、別れ際に父は六ちやんのお母さんからお盆を借りまして、土産がはりに持つて行つた大きな蜜柑をその上に載せました。やがてツカ/\と立つて、その蜜柑を佛壇へ供へたといふものです。斯ういふ父の行ひが少年の私には唯奇異に思はれました。私は父の精神の美しいとか正直なとかを考へる餘裕はありませんでした。何でも早く六ちやんの家を辭して豐田さんの方へ父を連れて歸りたいと思ひました。
 父は私の通ふ學校を見たいと言ひますから、數寄屋河岸の方へも案内しまして赤煉瓦の建物を見せました。河岸に石の轉がつたのが有りましたら、子供の通ふ路に斯ういふ石は危いと言つて、父はそれを往來の片隅に寄せたり、お堀の中へ捨たりするやうな人でした。
 父が逗留の間に舊尾州公の邸をも訪ねました。その時、私も父に伴はれて、以前の尾張の殿樣といふ人の前に出ました。父は私が學校で作つた鉛筆畫の裏に私の名前などを書いたものを尾州公の前に差出しました。私は廣い御座敷に身を置いて燈火(あかり)の影で大人の話をするのを聞いたのと、歸りに御菓子を頂いて來たのとその他に今記憶して居ることも有りません。父は又淺草邊の鹿(か)の子(こ)といふ飮食店へも私を連れて行つて、そこの主人(あるじ)や内儀(かみ)さんに私を引合せました。
『斯樣なお子さんが御有りなさるの。』と内儀さんは愛相よく言つて、父と私の顏を見比べました。私は内儀さんばかりでなく多勢の女中からジロ/\傍へ來て顏を見られるのが厭でした。鹿の子の主人は地方出で、父とは懇意な人でした。
 その時の私の心では、私は矢張郷里の山村の方に父を置いて考へたいと思ひました。私は一日も早く父が東京を引揚げて、あの年中榾火(ほたび)の燃えて居る爐邊の方へ歸つて行つて、老祖母(おばあ)さんやお母(つか)さんや、兄夫婦や、それから太助などと一緒に居て貰ひたいと思ひました。久し振の上京で、父は東京にある舊い知人を訪ねたり、亡くなつた人の御墓參をしたりしまして、間もなく郷里の方へ戻つて行きましたが、後で國から出て來た人の話には、餘程私が嬉しがるかと思つて上京したのに、子供には失望したと言つて、父が郷里へ戻つてから嘆息して他(ひと)に話しましたとか。斯の手紙で私が今貴女に御話して居るのは、銀座の大倉組の角に點(つ)いた白い強い電燈の光が東京の人の眼に珍しく映つた頃のことです。尾張町の角にあつた日々新聞社の前に花瓦斯(はなガス)の點く晩などは、私は豐田さんの家の人達に隨いて、明るい夜の銀座通を歩きに行きましたものです。

        九

 豐田さんの家で可愛らしい赤兒(あかんぼ)が生れるまでは、私は土藏の中の部屋でお婆さんの側に寢かされましたが、赤兒が生れてからはお婆さんの代りに下婢(をんな)が土藏の方へ來て寢ることに成りました。とても子供があるまいと言はれて居た豐田の小母さんは男の兒が生れたので、急に家の内の光景(さま)が變つて賑かに成つて來ました。それにしても下婢と同じ部屋に私を寢かして可からうか、と注意深いお婆さんがそれを言ふと、
『お婆さん――あんな子供ぢや有りませんか。』
 と小父さんが笑ひました。
 私は奧の部屋の炬燵にあたりながら、眠たい耳に斯の話を聞いて居ました。小父さんの言ふ通り、私はまだ子供でした。でもお婆さん達の話が分らないほどの子供では有りませんでした。
 こゝまで書きつけて來ますと、豐田さんの家へ來て奉公して居た種々な下婢が私の眼に浮びます。あるものは目見えに來たかと思ふと直に暇を取つて行つたのもありましたし、あるものは又隨分長いこと好く勤めたのもありました。左樣いふ下婢と私との隔りは最早あのお霜と私との隔りでは無くなつて來ました。私には無智な彼等の言ふことや爲ることが分つて來ました。私が玄關の小部屋に机を控へて勉強して居りますと、彼等の一人が主人の子供を抱いて來て、窓の外を見せながらよく當時の流行唄(はやりうた)を歌ひました。そんな唄を歌つて居ることが奧へ知れようものなら、直に御目玉を頂戴するほど豐田さんの家では嚴しかつたものですから、それを主人に聞えないやうに、窓のところへ來ては歌ひましたのです。
 私は誘惑され易い年頃になりました。もし私に性來の臆病と、一種の自尊心とが無かつたら、早く私は少年らしい好奇心の捕虜(とりこ)と成つたかも知れません。で、私は下婢が傍へ來て樂しさうに歌ふみだらな流行唄などに耳を傾て、氣は浮々とさせることを感じながら、一方には左樣いふ女と碌に口も利かないほど彼等を憎み蔑視(さげす)むやうな心を持つて居ました。
 私がよく行く窓の外には種々雜多なものが通りました。一頃流行(はや)つたパン屋が太鼓を叩いて來ますと、奧の方に居る小母さん達までその音を聞きつけて、往來の見える窓側の鐵の格子から眺めました。
『パン屋のパン、
木村屋のパン――』
 風變りなパン屋夫婦の洋裝、太鼓や三味線の音などは人の氣を浮き立たせました。あのパン屋はもとは相應な官吏であつたとか、細君はそれ者(しや)の果だとか、どうして夫婦ともナカ/\の洒落者だとか、小母さん達は窓側で互の眼前(めのまへ)を通る藝人の噂をしました。町々の子供等ばかりでなく、大人まで爭つて呼びとめては買つたものでした。それパン屋が來たと言へば、窓の外の狹い往來は人だかりがして、何となく私の幼い心をそゝりました。
 豐田さんの家である年の節句か何かの折に草餅を造つたことをも、私はこゝに書きつけて置きたいと思ひます。何故といふに、田舍に居る身内のものから遠く離れた私には、左樣いふ草餅の香氣(にほひ)などを嗅ぐほど可懷(なつか)しい思をさせるものが有りませんでしたから。尤も、草餅と言つても、蓬(もちぐさ)のたりない都では田舍で食べるほど青いシコ/\としたのは出來ません。これでもつと草が多く入つて居て、餅の合せ目から田舍風のアンコが這出したら、そんなことを思ひました。
 臺所に近い奧の部屋ではお婆さんや小母さんが下婢(をんな)を相手にしてその草餅を造(こしら)へる、私は出來たのを重箱に入れて貰つて近所へ配りに行きました。見ると、お婆さん達は捏(こ)ねた餅を手頃にちぎつては、それを掌で薄べたく圓く延ばして居りますから、
『お婆さん、僕の田舍では其樣な風にしません。』
 と私は餘計なことながら、郷里(くに)の方で母などが造つて居たのを思出して、母は小皿にちぎつた餅を宛行(あてが)つてその上で延ばすといふ話をしました。
 お婆さんは成程とは思つたやうでしたが、
『えゝ、斯の子は――ほんとにベンカウなことを言ふ子だ。』
 と叱るやうに言つて見せました。『ベンカウ』とは矢張私達の田舍で使ふ言葉で、まあ生意氣と言つたら近いかも知れませんが、すつかり意味の宛嵌(あては)まる東京言葉は一寸思ひ當りません。
 私の學資は毎月極めて郷里(くに)から送つて寄(よこ)して呉れるといふ風には成つて居ませんでした。これには私は多少の不安を感じて居ました。すると、ある時のこと長兄の許から手紙が來て、金は纏めて豐田の小父さんの方へ送つたから買ひたい物があらば買へ、苦しい中でも貴樣達は東京へ出してあるのだから、その積りで勉強せよ、と言つて寄しました。幾度(いくたび)私はその手紙を繰返し讀んで見て、兄の言葉に勵まされたか知れません。丁度、故中村正直氏の書いたナポレオンの小傳が私の手に入りました。傳記らしい傳記で私が初めて讀んだのは恐らくその小册子です。中でも、ナポレオンの青年時代のことは酷く私の心を動かしました。私は例の日光の射し込む窓の下で獨りその小傳を開いては感激の涙を流すやうに成りました。
 斯ういふ物に感じ易い私の少年時代が一方では極く無作法な荒くれた時でも有りました。姉がまだ東京に居ました頃、あの家の二階の袋戸棚の前へ幼い甥を呼びつけて、その戸棚の中に入れて置いた燒饅頭(やきまんぢゆう)が何日(いつ)の間にか失くなつたことを責めたことが有りました。私はそれを見て、心の中で甥の行ひを笑つたり憐んだりしました。どうでせう、その私が豐田さんの家へ來てからは甥を笑へなく成りました。私は白状します、どうかすると私はお腹が空いて空いて堪らないことが有りました。さういふ時には我知らず甥と同じ行ひに出て、煮付けた唐辛(たうがらし)の葉などはよく摘(つま)みました。私は又、自分の空腹を滿す爲でも何でもないのに、酒屋へ使に行つた歸りなどには往來で酢の罎を傾(かし)げて、人知れずそれを舐めて見たりしました。
 注意深い豐田のお婆さんでも左樣々々は氣が附きません。私はそれを好い事にして、ある日、酒屋から酒を買つて戻りました。煮物にでも使ふのでしたらう。小父さんはあまり酒をやらない方でしたから。私が持つて歸つた罎の酒は減つて居ました。
『高い酒屋だねえ。』
 とお婆さんに言はれた時は、思はず私は紅く成りました。
 午後の三時は毎日私の樂みにした時でした。物のキマリの好い豐田さんの家では、三時といふと必(きつ)と煎餅なり燒芋なりが出ました。あのウマさうに氣(いき)の出るやつを輪切にした水芋か、黄色くホコ/\した栗芋かにブツカる時には殊に嬉しく思ひました。夏にでも成ると、土藏の廂間(ひあはひ)から涼しい風の來るところへ御櫃(おひつ)を持出して、その上から竹の簾(すだれ)を掛けて置いても、まだそれでも暑さに蒸されて御櫃の臭氣(にほひ)が御飯に移ることがあります。儉約なお婆さんは、それを握飯(むすび)に丹精して、醤油で味を附けまして、熱い火で燒いたのをお茶の時に出しました。いかに三時が待遠しくても、終(しまひ)にはその握飯の微かな臭氣が私の鼻に附いて了ひました。折角(せつかく)丹精して造(こしら)へることを思ふと、お婆さんの氣を惡くさせたくない。私の癖として、人が惡い顏をするのを見ては居られません。そこで私は握飯の遣り場に窮(こま)つて、玄關の小部屋の縁の下へそツと藏つて置くことにしました。土藏造で床も高く出來て居ましたから。斯の人の知らない倉庫を暮の煤拂(すゝはらひ)には開けなければ成りませんでした。その時は實はハラ/\しました。
 私の生れた家では子供に金錢(おかね)は持たせない習慣でした。それが癖に成つて、私は東京へ出て來てからも自分で金錢を所有したことは少く、餘分なものは家の人に預けました。時とすると豐田さんへ來る客から土産がはりとして包んだ金錢を貰つたことも有りましたが、それよりか珍しい風景の彩色した版畫でも貰つた時の方が私には難有かつたのです。私は子供の時分から金錢に對しては淡泊な方でした。で、私は唐辛の葉の煮たのなどは摘んでも、他(ひと)の所有する金錢を欲しいといふ心は起りませんでした。ところが、それが全く私に無いとは言へません。有ります。私は別に何を買ひたいでは無し、それで居ながら不圖さういふ心に成つたのです。その一時の出來心で私の爲たことは、知られずに濟んだとは言へ、今だに私は冷汗の流れるやうな心地(こゝろもち)が殘つて居ます。
 ある物語の中に、私はあの當時のことを思出して書きつけて見たことも有りました。
『小母の寢床はもう其時分から敷いて有つた。すこし小母が氣分の好い時には、池の金魚の見えるところへ人を集めて、病を慰める爲に花札(はな)を引いた。其時自分は雨だの日の出だのを畫いてある札を持つて見て、「青たん」とか「三光」とかいふことを始めて習つた。よく臺所の方では、小母の爲に牛肉のソップを製(こしら)へた。儉約な祖母(おばあ)さんはそのソップ渣(かす)へ味を附けて自分等にも食はせたが、終(しまひ)にはそのにほひが鼻へ着いて、誰も食ふ氣に成れなかつた。仕方が無いから、祖母さんはそれを乾して三時の茶といふと出した。そのソップを製へる爲に生の牛肉を細かく賽(さい)の目(め)に切つて、口の長い大きな徳利(とくり)へ入れる。是がまた一役で、氣の長いものでなければ勤まらなかつた。丁度奧の二階には、小父の親戚に當る年老いた漢學者が親子連で來て世話に成つて居て、結句牛肉の切り役は斯の温厚な白髮の老先生に□つた。老先生が眼鏡を掛て、階下(した)で牛肉を切つて居る間は、奧の二階は閑寂(しん)として居る。そこには先生の書籍(ほん)が置並べてある。机の上には先生の置き忘れた金錢(かね)がある。その金錢を十錢許り盜んだものがある――この盜みをしたものが自分だ……』
 金錢を置き忘れる位の老先生のことですから、斯の私の行ひも別段詮議されずに終つたのでせう。慚愧(ざんき)の情はずつと後に成つてその年老いた漢學者の沒する頃までも續いて居ました。私が老先生の靈前へと思つて、香奠を封じた手紙を書いた時にも、活々と胸に浮んだのはそのことでした。假令(たとへ)金錢は僅かでも、私には全く左樣いふ心を起したことが無いとは言へないのですから。
 金錢はあまり欲しいとは思はなかつたが、品物は欲しいと思つた。私は斯ういふ言ひ□しをして自分の少年時代に爲たことを辯解しようとも思ひません。取りましたから取りました。どういふものか、ふいとそんな量見に成りました。それが私の幼い日の中で掻消すことの出來ない記憶の一つとして殘つて居るのです。
 それから同じ物語の續きとして、もう一つ私は書きにくいことを書きました。
『尾張町の夜店には野菜の市があつて、家の人が買ひに出掛けたものだ。自分もよく隨いて行つた。そこには少年の眼を引き易いやうな繪本を商ふ店もある。美しい表紙畫の草雙紙が數多(あまた)そこには並べてある。何がなしにその草雙紙が欲しく成つて、何度も/\其前を往つたり來たりして、終(しまひ)に混雜に紛れて一册懷中(ふところ)に入れた少年がある――斯の少年が、自分だ。其時自分は捕まりさうにして、命がけで逃げた。草雙紙は置場所に困つて、溝(どぶ)の中へ裂いて捨てた。もし彼(あ)の時捕つたら、自分の生涯は奈何(どん)な風に成つて行つたらう……』
 左樣です。確かに斯ういふことも有りました。ナポレオンの傳記を讀んで感激の涙を流すといふことと、夜見世に並べてある草雙紙を懷中に入れるといふことと、それが私の少年時代には同時に起つて來たのです。私は自分の爲たことに恥ぢ恐れて、二度とそんな行ひはすまいと心に堅く誓ひました。
 斯ういふことを貴女に書き送るとは自分の愚かを表白するに當ります。けれども好いと思ふことでも惡いと思ふことでも、唯それだけでは私には漠然としたものでした。愚かな私は何事でも自分で行(や)つて見た上でなければ、眞實(ほんたう)にその意味を悟ることが出來ませんでした。
 銀座の夜見世と言へば、夜風の樂しい夏の晩などは私もよく豐田の小父さんに隨いて歩きに出掛けましたものです。こゝで私は物に好き嫌ひの激しい少年時代のことを一寸書き添へようと思ひます。その情の激しさは淡泊で洒落(しやらく)な大人の思ひもよらないことが有ると言ひたい位であります。私達の着る物でも、食べる物でも、すべての上にそれが表れて居ます。例へば芋の莖の酢煮(すに)に青豆を添へたのは、いかにも夏らしい總菜で、豐田さんの家でもよく造りましたし、今では私は食物に嫌ひな物があまり有りませんから、膳に上れば食べもします。ところが私の子供の時分には、どうしてもそれが食べられませんでした。
 斯の好き嫌ひの激しい子供らしさから、ある時、私はめつたに怒つたことの無い豐田の小父さんを怒らせました。丁度あの海水浴に冠るやうな縁の廣い麥藁帽子が流行つて來た時でした。小父さんの積りでは、輕くて少年の冠り物に好いと思つたのでせう。私にも一つ買つて遣らうと言つて呉れました。私の心では、どうしても彼の夏帽子を冠る氣に成れない。それよりか帽子なしの方がまだ好ましい。何故そんなら彼の流行の輕い麥藁帽が嫌ひだかと言ふに、それは私には説明が出來ません。唯、蟲が好かなかつたまでです。そこで私は小父さんに言出しかねて、尾張町邊の夜見世の前へ誘はるゝまゝに隨いて行きました。『どうだ、是は貴樣に丁度好からう』と小父さんは店先で擇びまして、私の頭に合ふか奈何(どう)かと冠せて見ました。私は内々買つて貰ひたくないのですから、これはすこし大きいの、いやこれは堅過ぎるの、種々なことを並べて、到頭強情を言ひ通して了ひました。
『貴樣に帽子を買つて遣ることは懲りた』と人の好い小父さんが何日(いつ)に無い調子で言ひましたが、それほど少年時代の好き嫌ひは大人の心に通じかねる、名のつけやうの無いものかとも思ひます。
 斯の手紙を書きつゞける前に、年老いた姉を見舞ふため、雪深い郷里の方まで一寸行つて來ました。姉のことは既に貴方に御話しました。あの若かつた姉が今年は最早五十八歳です。七人あつた姉弟(きやうだい)のうち姉は一番の年長者、私はまた一番末の弟にあたります。

        十

 斯の手紙を書き初めたのは昨年四月のことでした。私も長々と話し續けました。少年の日――私達に取つて二度とは來ない――その時代のことで御話すべきことは、まだ/\澤山あるやうに思ひます。書生を愛した豐田さんの家には幾人(いくたり)となく身を寄せた同郷の青年があつて、その一人々々の言つたこと爲したことが幼い私の上に働きかけたことや、あるひは豐田さんの家は一頃それらの人達の一小倶樂部(クラブ)を見る趣を成して夜になると私も土藏の中の部屋に机を並べ、同じ洋燈(ランプ)の下に集り、話を聞き、一緒に勉強し、どうかすると制(おさ)へきれないほどの居眠りが出て年長(としうへ)の人達からよく惡戲されたことなど、御話したいと思ふことはいろ/\ある。私は自分の机の上――墨汁(すみ)やインキで汚れたり小刀で刳(ゑぐ)り削られたりした机の上の景色、そこに取出す繪、書籍、雜誌などのことを精(くは)しく御話して見たら、それだけでも自分の少年時代を引出すに十分だらうとは思ひます。私は貴女に年老いた漢學者のことを御話しましたらう。豐田さんの家の奧二階でしばらく暮したあの老夫婦のこと、私が英學を始めた時分のこと、それから私の十三の年に父は郷里の方で死にましたこと、その前に父から私に寄(よこ)した手紙の中には古い歌などを引合に出して寸時も忘れることの出來ないといふやうな濃情の溢れた言葉が書き連ねてあつたこと、それからそれへと幼い日のことを辿つて見ると書くべきことは多くありますが、こゝで筆を止めます。
 私は母やお牧に抱かれた頃から始めて、婦人の手を離れるとは言へないまでも、すくなくも獨立の出來る頃まで斯の手紙を持つて行きたいと思ひました。婦人に對する少年らしい一種の無關心――左樣いふ時が一度私には來ました。私は側目(わきめ)もふらずに、錯々(せつせ)と自分の道を歩き始めた時がありました。そこまで御話しなければ、斯の手紙を書き始めた最初の目的は達したとも言へません。しかし今はそれをする時がありません。
 私は遠い旅を思ひ立つて、長く住み慣れた家を離れようとして居ます。私が御地を去つて東京へ引移らうとした時、貴女のお母さんの家へ小さな記念の桐苗を殘して來たことが丁度胸に浮びます。貴女の御存じない子供は三人も斯の家で生れ、貴女の友達であつた妻もこゝで亡くなりました。今夜は斯の家で送る最終の晩です。旅の荷物やら引越の仕度やらゴチヤ/\した中で、子供は皆な寢沈まりました。

「微風」――終



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