藤村詩抄
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著者名:島崎藤村 

血に泣きて聲は呑むとも
寂寞(さびしさ)の裾こそよけれ

世を知らぬをさなき昔
香ににほふ妹(いも)を抱きて
すゝりなく恨みの日より
吾蟲は驕(たかぶ)るばかり

わがいのち戲(たはれ)の臺(うてな)
その惡を舞ふにやあらむ
わがこゝろ悲しき鏡
その夢を見るにやあらむ

人の世に羽を撃つ風雨(あらし)
天地(あめつち)に身(み)は捨小舟
今更に我をうみてし
亡き母も恨めしきかな

父いかに舊(もと)の山河
妻いかに遠(とほ)の村里
この道を忘れたまふや
この空を忘れたまふや

いかなれば歎きをすらむ
その父はわれを捨つるに
いかなれば忍びつ居らむ
その妻はわれを捨つるに

くろがねの窓に縋りて
故郷(ふるさと)の空を望めば
浮雲や遠く懸りて
履みなれし丘にさながら

さびしさの訪ひくる外に
おとなひも絶えてなかりし
吾窓に鳴く音を聽けば
人知れず涙し流る

鵯(ひよどり)よ翅を振りて
黄葉(もみぢば)の陰に歌ふか
幽囚(とらはれ)の笞(しもと)の責や
人の身は鳥にもしかじ

あゝ一葉(ひとは)枝に離れて
いづくにか漂ふやらむ
照れる日の光はあれど
わがたましひは暗くさまよふ
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 響りん/\音りん/\


響りん/\音りん/\
うちふりうちふる鈴高く
馬は蹄をふみしめて
故郷の山を出づるとき
その黒毛なす鬣(たてがみ)は
冷(すゞ)しき風に吹き亂れ
その紫の兩眼は
青雲遠く望むかな
枝の緑に袖觸れつ
あやしき鞍に跨りて
馬上に歌ふ一ふしは
げにや遊子の旅の情

あゝをさなくて國を出で
東の磯邊西の濱
さても繋がぬ舟のごと
夢長きこと二十年
たま/\ことし歸りきて
昔懷へばふるさとや
蔭を岡邊に尋ぬれば
松柏(しようはく)すでに折れ碎け
徑(みち)を川邊にもとむれば
野草は深く荒れにけり
菊は心を驚かし
蘭は思を傷ましむ
高きに登り草を藉き
惆悵として眺むれば
檜原(ひばら)に迷ふ雲落ちて
涙流れてかぎりなし

去(い)ね/\かゝる古里(ふるさと)は
ふたゝび言ふに足らじかし
あゝよしさらばけふよりは
日行き風吹き彩雲(あやぐも)の
あやにたなびくかなたをも
白波高く八百潮の
湧き立ちさわぐかなたをも
かしこの岡もこの山も
いづれ心の宿とせば
しげれる谷の野葡萄に
秋のみのりはとるがまゝ
深き林の黄葉(もみぢば)に
秋の光は履(ふ)むがまゝ

響りん/\音りん/\
うちふりうちふる鈴高く
馬は首(かうべ)をめぐらして
雲に嘶きいさむとき
かへりみすれば古里(ふるさと)の
檜原(ひばら)は目にも見えにけるかな
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 翼なければ


羽翼(つばさ)なければ繋がれて
朽ちはつべしとかねてしる
光なければ埋もれて
老いゆくべしとかねてしる

知る人もなき山蔭に
朽ちゆくことを厭はねば
牛飼ふ野邊の寂しさを
かくれがとこそ頼むなれ

埋(う)もるゝ花もありやとて
獨り戸に倚り眺むれば
ゆふべ空(むな)しく日は暮れて
牧場の草に春雨(はるさめ)のふる
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 罪人と名にも呼ばれむ


罪人(つみびと)と名にも呼ばれむ
罪人(つみびと)と名にも呼ばれむ
歸らじとかねて思へば
嗚呼涙さらば故郷(ふるさと)

駒とめて路の樹蔭に
あまたたびかへりみすれば
輝きて立てる白壁
さやかにも見えにけるかな

鬣(たてがみ)は風に吹かれて
吾駒の歩みも遲し
愁ひつゝ蹄をあげて
雲遠き都にむかふ

戰ひの世にしあなれば
野の草の露と知れれど
吾父の射る矢に立ちて
消えむとは思ひかけずよ

捨てよとや紙にもあらず
吾心燒くよしもなし
捨てよとや筆にもあらず
吾心折るよしもなし

そのねがひ親や古(ふ)りたる
このおもひ子や新しき
つくづくと父を思へば
吾袖は紅き血となる

靜息(やすみ)なく激(たぎ)つ胸には
柵(しがらみ)もなにかとゞめむ
洪水(おほみづ)の溢るゝごとく
海にまで入らではやまじ

はらからやさらば故郷(ふるさと)
去(い)ねよ去(い)ねよ去(い)ねよ吾駒
諸共(もろとも)に暗く寂しく
故(むかし)の園を捨てて行かまし
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 胡蝶の夢


胡蝶の夢の人の身を
旅といふこそうれしけれ
常世(とこよ)に長き天地(あめつち)を
宿といふこそをかしけれ

青き山邊は吾枕
花さく野邊は吾衾(わがしとね)
星縫ふ空は吾帳(わがとばり)
さかまく海は吾緒琴(わがをごと)

 いづこよりとは告げがたし
 いづこまでとは言ひがたし

いま日の光いま嵐
來る歡樂(たのしみ)哀傷(かなしみ)の
人のさかりをかりそめに
夏といはむもおもしろや

あゝわれひとの知らぬ間に
心の色は褪せ易し
胸うち掩ふ緑葉(みどりば)の
若き命もいくばくぞ

 かんばせの花紅き子も
 あはれや早く翁顏

あるひは高く撃てれども
翅碎けて八重葎(むぐら)
あるひは遠く舞へれども
望は落ちて塵埃(あくた)

譽も聲も浮ける雲
すぐれし才はいづこぞや
涙も夢も草の雨
流れて更に音も無し

 思うて誰か傷まざる
 歩みて誰か迷はざる

人の命を兒童(わらはべ)の
□戲(たはれ)と言ふは誰が言葉
賤も聖(ひじり)も丈夫(ますらを)も
兒童(わらはべ)ならぬものやある

晝には晝に遊ぶべし
夜には夜に遊ぶべし
破りはつべき世ならねば
身は狂ふこそ悲しけれ

 捨てつ拾ひつこの命
 行きつ運(めぐ)りつこの環(たまき)
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 落葉松の樹


落葉松(からまつ)の樹はありとても
石南花(しやくなげ)の花さくとても
故郷(ふるさと)遠き草枕
思はなにか慰まむ
旅寢は胸も病むばかり
沈む憂は醉ふがごと
獨りぬる夜の夢にのみ
たゞ夢にのみ山路を下る
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 ふと目はさめぬ


ふと目は覺めぬ五とせの
心の醉に驚きて
若き是身(このみ)をながむれば
はや吾春は老いにけり

夢の心地(こゝち)も甘かりし
昔は何を知れとてか
清(すず)しき星も身を呪ふ
今は何をか思へとや

剛愎(かたくな)なりし吾さへも
折れて泣きしは戀なりき
荒き胸にも一輪の
花をかざすは戀なりき

勇める馬の狂ひいで
鬣(たてがみ)長く嘶きて
風こゝちよき青草の
野邊を蹄に履(ふ)むがごと

又は眼(まなこ)も紫に
胸より熱き火を吹きて
汲めど盡きせぬ眞清水の
泉に喘(あへ)ぎよるがごと

若き心の躍りては
軛(くびき)も綱も捨てけりな
こがれつ醉ひつ筆振れば
筆神ありと思ひてき

あゝうつくしき花草は
咲く間を待たで萎(しぼ)むらむ
消(き)えはてにけり吾戀は
藝術(たくみ)諸共(もろとも)消えにけり

そは何故のうき世にて
人に誠はありながら
戀路の末はとこしへの
冬を生命(いのち)に刻(きざ)むらむ

黒髮われを覆ふとも
血潮はわれを染むるとも
花口脣(くちびる)を飾るとも
思は胸を傷(いた)ましむ

繪筆うちふる吾指は
歎きのために震ふかな
涙に濡るゝ吾紙は
象(かたち)空(むな)しく消(き)ゆるかな

かはりはてたる吾命
かはりはてたる吾思
かはりはてたる吾戀路
かはりはてたる吾藝術(たくみ)

この世はあまり實(み)にすぎて
あたら吾身は夢ばかり
なぐさめもなき幻(まぼろし)の
境に泣きてさまよふわれは
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 縫ひかへせ


縫ひかへせ縫ひかへせ
膩(あぶら)に染みし其袂
涙に濡れし其袂
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
君が衣を縫ひかへせ
愁(うれひ)は水に汗は瀬に
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
捨てよ昔の夢の垢(あか)
やめよ甲斐なき物思
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
腐れて何の袖かある
勞(つか)れて何の道かある
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
薄き羽袖の蝉すらも
歌うて殼を出づる世に
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
君がなげきは古(ふ)りたりや
とく新しき世に歸れ
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな




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