藤村詩抄
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著者名:島崎藤村 

夢に醉ひ夢に泣くなり

罪なれば親をも捨てて
世の鞭を忍び負ふなり
罪なれば宿を逐はれて
花園に別れ行くなり

罪なれば刃に伏して
紅き血に流れ去るなり
罪なれば手に手をとりて
死の門にかけり入るなり

罪なれば滅び碎けて
常闇(とこやみ)の地獄のなやみ
嗚呼二人(ふたり)抱(いだ)きこがれつ
戀の火にもゆるたましひ
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 風よ靜かにかの岸へ


風よ靜かに彼(か)の岸へ
こひしき人を吹き送れ
海を越え行く旅人の
群(むれ)にぞ君はまじりたる

八重の汐路をかき分けて
行くは僅に舟一葉
底白波(しらなみ)の上なれば
君安かれと祈るかな

海とはいへどひねもすは
皐月(さつき)の野邊と眺め見よ
波とはいへど夜もすがら
緑の草と思ひ寢よ

もし海怒り狂ひなば
われ是岸(このきし)に仆れ伏し
いといと深き歎息(ためいき)に
其嵐をぞなだむべき

樂しき初(はじめ)憶(おも)ふ毎
哀(かな)しき終(をはり)堪へがたし
ふたゝびみたびめぐり逢ふ
天(あま)つ惠みはありやなしや

あゝ緑葉の嘆(なげき)をぞ
今は海にも思ひ知る
破れて胸は紅き血の
流るゝがごと滴るがごと
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 椰子の實


名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ

故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月(いくつき)

舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる

われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ

實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)

海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思ひやる八重の汐々(しほ/″\)
いづれの日にか國へ歸らむ
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 浦島


浦島の子とぞいふなる
遊ぶべく海邊に出でて
釣すべく岩に上りて
長き日を絲垂れ暮す

流れ藻の青き葉蔭に
隱れ寄る魚かとばかり
手を延べて水を出でたる
うらわかき處女(をとめ)のひとり

名のれ名のれ奇(く)しき處女(をとめ)よ
わだつみに住める處女(をとめ)よ
思ひきや水の中にも
黒髮の魚のありとは

かの處女(をとめ)嘆きて言へる
われはこれ潮(うしほ)の兒なり
わだつみの神のむすめの
乙姫といふはわれなり

龍(たつ)の宮荒れなば荒れね
捨てて來し海へは入らじ
あゝ君の胸にのみこそ
けふよりは住むべかりけれ
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 舟路


海にして響く艫の聲
水を撃つ音のよきかな
大空に雲は飄(たゞよ)ひ
潮分けて舟は行くなり

靜なる空に透かして
青波の深きを見れば
水底(みなそこ)やはてもしられず
流れ藻の浮きつ沈みつ

緑なす草のかげより
湧き出づる泉ならねど
おのづから滿ち來る汐は
海原のうちに溢れぬ

さながらに遠き白帆は
群をなす牧場(まきば)の羊
吹き送る風に飼はれて
わだつみの野邊を行くらむ

雲行けば舟も隨ひ
舟行けば雲もまた追ふ
空と水相合ふかなた
諸共にけふの泊(とまり)へ
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 鳥なき里


鳥なき里の蝙蝠や
宗助(そうすけ)鍬をかたにかけ
幸助(かうすけ)網を手にもちて
山へ宗助海へ幸助

黄瓜花さき夕影に
蝉鳴くかなた桑の葉の
露にすゞしき山道を
海にうらやむ幸助のゆめ

磯菜遠近(をちこち)砂の上に
舟干すかなた夏潮の
鰺藻に響く海の音を
山にうらやむ宗助のゆめ

かくもかはれば變る世や
幸助鍬をかたにかけ
宗助網を手にもちて
山へ宗助海へ幸助

霞にうつり霜に暮れ
たちまち過ぎぬ春と秋
のぞみは草の花のごと
砂に埋れて見るよしもなし

さながらそれも一時(ひととき)の
胸の青雲いづこぞや
かへりみすれば跡もなき
宗助のゆめ幸助のゆめ

ふたゝび百合はさきかへり
ふたゝび梅は青みけり
深き緑の樹の蔭を
迷うて歸る宗助幸助
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 藪入


  上
朝淺草を立ちいでて
かの深川を望むかな
片影冷(すゞ)しわれは今
こひしき家に歸るなり

籠の雀のけふ一日(ひとひ)
いとまたまはる藪入や
思ふまゝなる吾身こそ
空飛ぶ鳥に似たりけれ

大川端を來て見れば
帶は淺黄の染模樣
うしろ姿の小走りも
うれしきわれに同じ身か

柳の並樹暗くして
墨田の岸のふかみどり
漁(すなど)り舟の艫の音は
靜かに波にひゞくかな

白帆をわたる風は來て
鬢の井筒(ゐづゝ)の香を拂ひ
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり

潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿

  下
その名ばかりの鮨つけて
やがて一日(ひとひ)は暮れにけり
いとまごひして見かへれば
蚊遣(かやり)に薄き母の影

あゆみは重し愁ひつゝ
岸邊を行きて吾宿の
今のありさま忍ぶにも
忍ぶにあまる宿世(すぐせ)かな

家をこゝろに浮ぶれば
夢も冷たき古簀子(ふるすのこ)
西日悲しき土壁(つちかべ)の
まばら朽ちたる裏住居

南の廂(ひさし)傾きて
垣に短かき草箒
破(や)れし戸に倚る夏菊の
人に昔を語り顏

風吹くあした雨の夜半(よは)
すこしは世をも知りそめて
むかしのまゝの身ならねど
かゝる思ひは今ぞ知る

身を世を思ひなげきつゝ
流れに添うてあゆめばや
今の心のさみしさに
似るものもなき眺めかな

夕日さながら畫のごとく
岸の柳にうつろひて
汐みちくれば水禽の
影ほのかなり隅田川

茶舟を下す舟人の
聲遠近(をちこち)に聞えけり
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲
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 惡夢


少年の昔よりかりそめに相知れるなにがし、獄に繋がるゝことこゝに三とせあまりなりしが、はからざりき飛報かれの凶音を傳へぬ。今春獄吏に導かれて、かれを巣鴨の病床に訪ひしは、舊知相見るの最後にてありき、かれ學あり、才あり、西の國の言葉にも通じ、宗教の旨をも味はひ知り、おほかたの藝能にもつたなからず、人にも侮られまじき程の品かたちは持てりしに、其半生を思ひやれば實に慘苦と落魄との連鎖とも言ふべかりき。かれは春の日の長閑に暖かなる家庭に生ひたちて、希望と幸福とを一身に荷ひたりしかど、やがて獄窓に呻吟せしの日は人生流離の極みを盡したる後なりき。あはれむべし、死と狂と罪とを除きて他にかれの行くべき道とてはあらざりしなり。われは今、かれが惡夢を憐むの餘り、一篇の蕪辭囚人の愁ひをとりて、みだりに花鳥の韻事を穢す、罪の受くべきはもとよりわが期する所なり。


其耳はいづこにありや
其胸はいづこにありや
激(たぎ)り落つ愁の思
この心誰に告ぐべき

秋蠅の窓に殘りて
日の影に飛びかふごとく
あぢきなき牢獄(ひとや)のなかに
伏して寢ねまたも目さめぬ

夜(よ)な/\の衾(ふすま)は濡れて
吾床は乾く間も無し
黒髮は霜に衰へ
若き身は歎きに老いぬ

春やなき無間の谷間
潮やなき紅蓮の岸邊
憔悴(うらがれ)の死灰の身には
熱き火の燃ゆる罪のみ

銀(しろかね)の臺(うてな)も碎け
戀の矢も朽ちて行く世に
いつまでか骨に刻みて
時しらず活(い)くる罪かも

空の鷲われに來よとや
なにかせむ自在なき身は
天の馬われに來よとや
なにかせむ鐵鎖(くさり)ある身は

いかづちの火を吹くごとく
この痛み胸に踊れり
なかなかに罪の住家(すみか)は
濃き陰の暗にこそあれ

いとほしむ人なき我ぞ
隱れむにものなき我ぞ
血に泣きて聲は呑むとも
寂寞(さびしさ)の裾こそよけれ

世を知らぬをさなき昔
香ににほふ妹(いも)を抱きて
すゝりなく恨みの日より
吾蟲は驕(たかぶ)るばかり

わがいのち戲(たはれ)の臺(うてな)
その惡を舞ふにやあらむ
わがこゝろ悲しき鏡
その夢を見るにやあらむ

人の世に羽を撃つ風雨(あらし)
天地(あめつち)に身(み)は捨小舟
今更に我をうみてし
亡き母も恨めしきかな

父いかに舊(もと)の山河
妻いかに遠(とほ)の村里
この道を忘れたまふや
この空を忘れたまふや

いかなれば歎きをすらむ
その父はわれを捨つるに
いかなれば忍びつ居らむ
その妻はわれを捨つるに

くろがねの窓に縋りて
故郷(ふるさと)の空を望めば
浮雲や遠く懸りて
履みなれし丘にさながら

さびしさの訪ひくる外に
おとなひも絶えてなかりし
吾窓に鳴く音を聽けば
人知れず涙し流る

鵯(ひよどり)よ翅を振りて
黄葉(もみぢば)の陰に歌ふか
幽囚(とらはれ)の笞(しもと)の責や
人の身は鳥にもしかじ

あゝ一葉(ひとは)枝に離れて
いづくにか漂ふやらむ
照れる日の光はあれど
わがたましひは暗くさまよふ
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 響りん/\音りん/\


響りん/\音りん/\
うちふりうちふる鈴高く
馬は蹄をふみしめて
故郷の山を出づるとき
その黒毛なす鬣(たてがみ)は
冷(すゞ)しき風に吹き亂れ
その紫の兩眼は
青雲遠く望むかな
枝の緑に袖觸れつ
あやしき鞍に跨りて
馬上に歌ふ一ふしは
げにや遊子の旅の情

あゝをさなくて國を出で
東の磯邊西の濱
さても繋がぬ舟のごと
夢長きこと二十年
たま/\ことし歸りきて
昔懷へばふるさとや
蔭を岡邊に尋ぬれば
松柏(しようはく)すでに折れ碎け
徑(みち)を川邊にもとむれば
野草は深く荒れにけり
菊は心を驚かし
蘭は思を傷ましむ
高きに登り草を藉き
惆悵として眺むれば
檜原(ひばら)に迷ふ雲落ちて
涙流れてかぎりなし

去(い)ね/\かゝる古里(ふるさと)は
ふたゝび言ふに足らじかし
あゝよしさらばけふよりは
日行き風吹き彩雲(あやぐも)の
あやにたなびくかなたをも
白波高く八百潮の
湧き立ちさわぐかなたをも
かしこの岡もこの山も
いづれ心の宿とせば
しげれる谷の野葡萄に
秋のみのりはとるがまゝ
深き林の黄葉(もみぢば)に
秋の光は履(ふ)むがまゝ

響りん/\音りん/\
うちふりうちふる鈴高く
馬は首(かうべ)をめぐらして
雲に嘶きいさむとき
かへりみすれば古里(ふるさと)の
檜原(ひばら)は目にも見えにけるかな
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 翼なければ


羽翼(つばさ)なければ繋がれて
朽ちはつべしとかねてしる
光なければ埋もれて
老いゆくべしとかねてしる

知る人もなき山蔭に
朽ちゆくことを厭はねば
牛飼ふ野邊の寂しさを
かくれがとこそ頼むなれ

埋(う)もるゝ花もありやとて
獨り戸に倚り眺むれば
ゆふべ空(むな)しく日は暮れて
牧場の草に春雨(はるさめ)のふる
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 罪人と名にも呼ばれむ


罪人(つみびと)と名にも呼ばれむ
罪人(つみびと)と名にも呼ばれむ
歸らじとかねて思へば
嗚呼涙さらば故郷(ふるさと)

駒とめて路の樹蔭に
あまたたびかへりみすれば
輝きて立てる白壁
さやかにも見えにけるかな

鬣(たてがみ)は風に吹かれて
吾駒の歩みも遲し
愁ひつゝ蹄をあげて
雲遠き都にむかふ

戰ひの世にしあなれば
野の草の露と知れれど
吾父の射る矢に立ちて
消えむとは思ひかけずよ

捨てよとや紙にもあらず
吾心燒くよしもなし
捨てよとや筆にもあらず
吾心折るよしもなし

そのねがひ親や古(ふ)りたる
このおもひ子や新しき
つくづくと父を思へば
吾袖は紅き血となる

靜息(やすみ)なく激(たぎ)つ胸には
柵(しがらみ)もなにかとゞめむ
洪水(おほみづ)の溢るゝごとく
海にまで入らではやまじ

はらからやさらば故郷(ふるさと)
去(い)ねよ去(い)ねよ去(い)ねよ吾駒
諸共(もろとも)に暗く寂しく
故(むかし)の園を捨てて行かまし
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 胡蝶の夢


胡蝶の夢の人の身を
旅といふこそうれしけれ
常世(とこよ)に長き天地(あめつち)を
宿といふこそをかしけれ

青き山邊は吾枕
花さく野邊は吾衾(わがしとね)
星縫ふ空は吾帳(わがとばり)
さかまく海は吾緒琴(わがをごと)

 いづこよりとは告げがたし
 いづこまでとは言ひがたし

いま日の光いま嵐
來る歡樂(たのしみ)哀傷(かなしみ)の
人のさかりをかりそめに
夏といはむもおもしろや

あゝわれひとの知らぬ間に
心の色は褪せ易し
胸うち掩ふ緑葉(みどりば)の
若き命もいくばくぞ

 かんばせの花紅き子も
 あはれや早く翁顏

あるひは高く撃てれども
翅碎けて八重葎(むぐら)
あるひは遠く舞へれども
望は落ちて塵埃(あくた)

譽も聲も浮ける雲
すぐれし才はいづこぞや
涙も夢も草の雨
流れて更に音も無し

 思うて誰か傷まざる
 歩みて誰か迷はざる

人の命を兒童(わらはべ)の
□戲(たはれ)と言ふは誰が言葉
賤も聖(ひじり)も丈夫(ますらを)も
兒童(わらはべ)ならぬものやある

晝には晝に遊ぶべし
夜には夜に遊ぶべし
破りはつべき世ならねば
身は狂ふこそ悲しけれ

 捨てつ拾ひつこの命
 行きつ運(めぐ)りつこの環(たまき)
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 落葉松の樹


落葉松(からまつ)の樹はありとても
石南花(しやくなげ)の花さくとても
故郷(ふるさと)遠き草枕
思はなにか慰まむ
旅寢は胸も病むばかり
沈む憂は醉ふがごと
獨りぬる夜の夢にのみ
たゞ夢にのみ山路を下る
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 ふと目はさめぬ


ふと目は覺めぬ五とせの
心の醉に驚きて
若き是身(このみ)をながむれば
はや吾春は老いにけり

夢の心地(こゝち)も甘かりし
昔は何を知れとてか
清(すず)しき星も身を呪ふ
今は何をか思へとや

剛愎(かたくな)なりし吾さへも
折れて泣きしは戀なりき
荒き胸にも一輪の
花をかざすは戀なりき

勇める馬の狂ひいで
鬣(たてがみ)長く嘶きて
風こゝちよき青草の
野邊を蹄に履(ふ)むがごと

又は眼(まなこ)も紫に
胸より熱き火を吹きて
汲めど盡きせぬ眞清水の
泉に喘(あへ)ぎよるがごと

若き心の躍りては
軛(くびき)も綱も捨てけりな
こがれつ醉ひつ筆振れば
筆神ありと思ひてき

あゝうつくしき花草は
咲く間を待たで萎(しぼ)むらむ
消(き)えはてにけり吾戀は
藝術(たくみ)諸共(もろとも)消えにけり

そは何故のうき世にて
人に誠はありながら
戀路の末はとこしへの
冬を生命(いのち)に刻(きざ)むらむ

黒髮われを覆ふとも
血潮はわれを染むるとも
花口脣(くちびる)を飾るとも
思は胸を傷(いた)ましむ

繪筆うちふる吾指は
歎きのために震ふかな
涙に濡るゝ吾紙は
象(かたち)空(むな)しく消(き)ゆるかな

かはりはてたる吾命
かはりはてたる吾思
かはりはてたる吾戀路
かはりはてたる吾藝術(たくみ)

この世はあまり實(み)にすぎて
あたら吾身は夢ばかり
なぐさめもなき幻(まぼろし)の
境に泣きてさまよふわれは
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 縫ひかへせ


縫ひかへせ縫ひかへせ
膩(あぶら)に染みし其袂
涙に濡れし其袂
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
君が衣を縫ひかへせ
愁(うれひ)は水に汗は瀬に
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
捨てよ昔の夢の垢(あか)
やめよ甲斐なき物思
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
腐れて何の袖かある
勞(つか)れて何の道かある
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
薄き羽袖の蝉すらも
歌うて殼を出づる世に
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
君がなげきは古(ふ)りたりや
とく新しき世に歸れ
濯(すゝ)げよさらば嘆かずもがな




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