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著者名:島崎藤村 

 どうかすると、子供らのすることは、病んでいる私をいらいらさせた。
「とうさんをおこらせることが、とうさんのからだにはいちばん悪いんだぜ。それくらいのことがお前たちにわからないのか。」
 それを私が寝ながら言ってみせると、次郎や三郎は頭をかいて、すごすごと障子のかげのほうへ隠れて行ったこともある。
 それからの私はこの部屋に臥(ね)たり起きたりして暮らした。めずらしく気分のよい日が来たあとには、また疲れやすく、眩暈心地(めまいごこち)のするような日が続いた。毎朝の気分がその日その日の健康を予報する晴雨計だった。私の健康も確実に回復するほうに向かって行ったが、いかに言ってもそれが遅緩で、もどかしい思いをさせた。どれほどの用心深さで私はおりおりの暗礁(あんしょう)を乗り越えようと努めて来たかしれない。この病弱な私が、ともかくも住居(すまい)を移そうと思い立つまでにこぎつけた。私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚(ほんだな)がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのようになっていた。世界を家とする巡礼者のような心であちこちと提(さ)げ回った古い鞄(かばん)――その外国の旅の形見が、まだそこに残っていた。
「子供でも大きくなったら。」
 私はそればかりを願って来たようなものだ。あの愛宕下(あたごした)の宿屋のほうで、太郎と次郎の二人(ふたり)だけをそばに置いたころは、まだそれでも自由がきいた。腰巾着(こしぎんちゃく)づきでもなんでも自分の行きたいところへ出かけられた。末子を引き取り、三郎を引き取りするうちに、目には見えなくても降り積もる雪のような重いものが、次第に深くこの私を埋(うず)めた。

 しかし私はひとりで子供を養ってみているうちに、だんだん小さなものの方へ心をひかれるようになって行った。年若い時分には私も子供なぞはどうでもいいと考えた。かえって手足まといだぐらいに考えたこともあった。知る人もすくない遠い異郷の旅なぞをしてみ、帰国後は子供のそばに暮らしてみ、次第に子供の世界に親しむようになってみると、以前に足手まといのように思ったその自分の考え方を改めるようになった。世はさびしく、時は難い。明日(あす)は、明日はと待ち暮らしてみても、いつまで待ってもそんな明日がやって来そうもない、眼前に見る事柄から起こって来る多くの失望と幻滅の感じとは、いつでも私の心を子供に向けさせた。
 そうは言っても、私が自分のすぐそばにいるものの友だちになれたわけではない。私は今の住居(すまい)に移ってから、三年も子供の大きくなるのを待った。そのころは太郎もまだ中学へ通い、婆やも家に奉公していた。釣(つ)りだ遠足だと言って日曜ごとに次郎もじっとしていなかった時代だ。いったい、次郎はおもしろい子供で、一人(ひとり)で家の内をにぎやかしていた。夕飯後の茶の間に家のものが集まって、電燈の下で話し込む時が来ると、弟や妹の聞きたがる怪談なぞを始めて、夜のふけるのも知らずに、皆をこわがらせたり楽しませたりするのも次郎だ。そのかわり、いたずらもはげしい。私がよく次郎をしかったのは、この子をたしなめようと思ったばかりでなく、一つには婆やと子供らの間を調節したいと思ったからで。太郎びいきの婆やは、何かにつけて「太郎さん、太郎さん」で、それが次郎をいらいらさせた。
 この次郎がいつになく顔色を変えて、私のところへやって来たことがある。
「わがままだ、わがままだって、どこが、わがままだ。」
 見ると次郎は顔色も青ざめ、少年らしい怒りに震えている。何がそんなにこの子を憤らせたのか、よく思い出せない。しかし、私も黙ってはいられなかったから、
「お前のあばれ者は研究所でも評判だというじゃないか。」
「だれが言った――」
「弥生町(やよいちょう)の奥さんがいらしった時に、なんでもそんな話だったぜ。」
「知りもしないくせに――」
 次郎が私に向かって、こんなふうに強く出たことは、あとにも先にもない。急に私は自分を反省する気にもなったし、言葉の上の争いになってもつまらないと思って、それぎり口をつぐんでしまった。
 次郎がぷいと表へ出て行ったあとで、太郎は二階の梯子段(はしごだん)を降りて来た。その時、私は太郎をつかまえて、
「お前はあんまりおとなし過ぎるんだ。お前が一番のにいさんじゃないか。次郎ちゃんに言って聞かせるのも、お前の役じゃないか。」
 太郎はこの側杖(そばづえ)をくうと、持ち前のように口をとがらしたぎり、物も言わないで引き下がってしまった。そういう場合に、私のところへ来て太郎を弁護するのは、いつでも婆やだった。
 しかし、私は子供をしかって置いては、いつでもあとで悔いた。自分ながら、自分の声とも思えないような声の出るにあきれた。私はひとりでくちびるをかんで、仕事もろくろく手につかない。片親の悲しさには、私は子供をしかる父であるばかりでなく、そこへ提(さ)げに出る母をも兼ねなければならなかった。ちょうど三時の菓子でも出す時が来ると、一人(ひとり)で二役を兼ねる俳優のように、私は母のほうに早がわりして、茶の間の火鉢(ひばち)のそばへ盆を並べた。次郎の好きな水菓子なぞを載せて出した。
「さあ、次郎ちゃんもおあがり。」
 すると、次郎はしぶしぶそれを食って、やがてきげんを直すのであった。
 私の四人の子供の中で、三郎は太郎と三つちがい、次郎とは一つちがいの兄弟(きょうだい)にあたる。三郎は次郎のあばれ屋ともちがい、また別の意味で、よく私のほうへ突きかかって来た。何をこしらえて食わせ、何を買って来てあてがっても、この子はまだ物足りないような顔ばかりを見せた。私の姉の家のほうから帰って来たこの子は、容易に胸を開こうとしなかったのである。上に二人(ふたり)も兄があって絶えず頭を押えられることも、三郎を不平にしたらしい。それに、次郎びいきのお徳が婆やにかわって私の家へ奉公に来るようになってからは、今度は三郎が納まらない。ちょうど婆やの太郎びいきで、とかく次郎が納まらなかったように。
「三ちゃん、人をつねっちゃいやですよ。ひどいことをするのねえ、この人は。」
「なんだ。なんにもしやしないじゃないか。ちょっとさわったばかりじゃないか――」
 お徳と三郎の間には、こんな小ぜり合いが絶えなかった。
「とうさんはお前たちを悪くするつもりでいるんじゃないよ。お前たちをよくするつもりで育てているんだよ。かあさんでも生きててごらん、どうして言うことをきかないような子供は、よっぽどひどい目にあうんだぜ――あのかあさんは気が短かかったからね。」
 それを私は子供らに言い聞かせた。あまり三郎が他人行儀なのを見ると、時には私は思い切り打ち懲らそうと考えたこともあった。ところが、ちいさな時分から自分のそばに置いた太郎や次郎を打ち懲らすことはできても、十年他(よそ)に預けて置いた三郎に手を下すことは、どうしてもできなかった。ある日、私は自分の忿(いか)りを制(おさ)えきれないことがあって、今の住居(すまい)の玄関のところで、思わずそこへやって来た三郎を打った。不思議にも、その日からの三郎はかえって私になじむようになって来た。その時も私は自分の手荒な仕打ちをあとで侮いはしたが。
「十年他(よそ)へ行っていたものは、とうさんの家へ帰って来るまでに、どうしたってまた十年はかかる。」
 私はそれを家のものに言ってみせて、よく嘆息した。
 私たちが住み慣れた家の二階は東北が廊下になっている。窓が二つある。その一つからは、小高い石垣(いしがき)と板塀(いたべい)とを境に、北隣の家の茶の間の白い小障子まで見える。三郎はよくその窓へ行った。遠い郷里のほうの木曽川(きそがわ)の音や少年時代の友だちのことなぞを思い出し顔に、その窓のところでしきりに鶯(うぐいす)のなき声のまねを試みた。
「うまいもんだなあ。とても鶯(うぐいす)の名人だ。」
 三郎は階下の台所に来て、そこに働いているお徳にまで自慢して聞かせた。
 ある日、この三郎が私のところへ来て言った。
「とうさん、僕の鶯(うぐいす)をきいた? 僕がホウヽホケキョとやると、隣の家のほうでもホウヽホケキョとやる。僕は隣の家に鶯が飼ってあるのかと思った。それほど僕もうまくなったかなあと思った。ところがねえ、本物の鶯が僕に調子を合わせていると思ったのは、大間違いサ。それが隣の家に泊まっている大学生サ。」
 何かしら常に不満で、常にひとりぼっちで、自分のことしか考えないような顔つきをしている三郎が、そんな鶯(うぐいす)のまねなぞを思いついて、寂しい少年の日をわずかに慰めているのか。そう思うと、私はこの子供を笑えなかった。
「かあさんさえ達者(たっしゃ)でいたら、こんな思いを子供にさせなくとも済んだのだ。もっと子供も自然に育つのだ。」
 と、私も考えずにはいられなかった。
 私が地下室にたとえてみた自分の部屋(へや)の障子へは、町の響きが遠く伝わって来た。私はそれを植木坂の上のほうにも、浅い谷一つ隔てた狸穴(まみあな)の坂のほうにも聞きつけた。私たちの住む家は西側の塀(へい)を境に、ある邸(やしき)つづきの抜け道に接していて、小高い石垣(いしがき)の上を通る人の足音や、いろいろな物売りの声がそこにも起こった。どこの石垣のすみで鳴くとも知れないような、ほそぼそとした地虫(じむし)の声も耳にはいる。私は庭に向いた四畳半の縁先へ鋏(はさみ)を持ち出して、よく延びやすい自分の爪(つめ)を切った。
 どうかすると、私は子供と一緒になって遊ぶような心も失ってしまい、自分の狭い四畳半に隠れ、庭の草木を友として、わずかにひとりを慰めようとした。子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱(ゆううつ)にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護(まも)ろうとする心に帰って行った。

 安い思いもなしに、移り行く世相をながめながら、ひとりでじっと子供を養って来た心地(ここち)はなかった。しかし子供はそんな私に頓着(とんじゃく)していなかったように見える。
 七年も見ているうちには、みんなの変わって行くにも驚く。震災の来る前の年あたりには太郎はすでに私のそばにいなかった。この子は十八の歳(とし)に中学を辞して、私の郷里の山地のほうで農業の見習いを始めていた。これは私の勧めによることだが、太郎もすっかりその気になって、長いしたくに取りかかった。ラケットを鍬(くわ)に代えてからの太郎は、学校時代よりもずっと元気づいて来て、翌年あたりにはもう七貫目ほどの桑を背負いうるような若者であった。
 次郎と三郎も変わって来た。私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂(ふろ)を浴びに、鼠坂(ねずみざか)から森元町(もりもとちょう)の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟(きょうだい)二人(ふたり)とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。私の顔色はまだ悪かった。私は小田原(おだわら)の海岸まで保養を思い立ったこともある。その時も次郎は先に立って、弟と一緒に、小田原の停車場まで私を送りに来た。
 やがて大地震だ。私たちは引き続く大きな異変の渦(うず)の中にいた。私が自分のそばにいる兄妹(きょうだい)三人の子供の性質をしみじみ考えるようになったのも、早川(はやかわ)賢(けん)というような思いがけない人の名を三郎の口から聞きつけるようになったのも、そのころからだ。
 毎日のような三郎の「早川賢、早川賢」は家のものを悩ました。きのうは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通ったとか、きょうは焼け跡へ焼け跡へと歩いて行く人たちが舞い上がる土ぼこりの中に続いたとか、そういう混雑がやや沈まって行ったころに、幾万もの男や女の墓地のような焼け跡から、三つの疑問の死骸(しがい)が暗い井戸の中に見いだされたという驚くべきうわさが伝わった。
「あゝ――早川賢もついに死んでしまったか。」
 この三郎の感傷的な調子には受け売りらしいところもないではなかったが、まだ子供だ子供だとばかり思っていたものがもはやこんなことを言うようになったかと考えて、むしろ私にはこの子の早熟が気にかかった。
 震災以来、しばらく休みの姿であった洋画の研究所へも、またポツポツ研究生の集まって行くころであった。そこから三郎が目を光らせて帰って来るたびにいつでも同じ人のうわさをした。
「僕らの研究所にはおもしろい人がいるよ。『早川賢だけは、生かして置きたかったねえ』――だとサ。」
 無邪気な三郎の顔をながめていると、私はそう思った。どれほどの冷たい風が毎日この子の通う研究所あたりまでも吹き回している事かと。私はまた、そう思った。あの米騒動以来、だれしもの心を揺り動かさずには置かないような時代の焦躁(しょうそう)が、右も左もまだほんとうにはよくわからない三郎のような少年のところまでもやって来たかと。私は屋外(そと)からいろいろなことを聞いて来る三郎を見るたびに、ちょうど強い雨にでもぬれながら帰って来る自分の子供を見る気がした。
 私たちの家では、坂の下の往来への登り口にあたる石段のそばの塀(へい)のところに、大きな郵便箱を出してある。毎朝の新聞はそれで配達を受けることにしてある。取り出して来て見ると、一日として何か起こっていない日はなかった。あの早川賢が横死(おうし)を遂げた際に、同じ運命を共にさせられたという不幸な少年一太のことなぞも、さかんに書き立ててあった。またかと思うような号外売りがこの町の界隈(かいわい)へも鈴を振り立てながら走ってやって来て、大げさな声で、そこいらに不安をまきちらして行くだけでも、私たちの神経がとがらずにはいられなかった。私は、年もまだ若く心も柔らかい子供らの目から、殺人、強盗、放火、男女の情死、官公吏の腐敗、その他胸もふさがるような記事で満たされた毎日の新聞を隠したかった。あいにくと、世にもまれに見る可憐(かれん)な少年の写真が、ある日の紙面の一隅(いちぐう)に大きく掲げてあった。評判の一太だ。美しい少年の生前の面影(おもかげ)はまた、いっそうその死をあわれに見せていた。
 末子やお徳は茶の間に集まって、その日の新聞をひろげていた。そこへ三郎が研究所から帰って来た。
「あ――一太。」
 三郎はすぐにそれへ目をつけた。読みさしの新聞を妹やお徳の前に投げ出すようにして言った。
「こんな、罪もない子供までも殺す必要がどこにあるだろう――」
 その時の三郎の調子には、子供とも思えないような力があった。
 しかし、これほどの熱狂もいつのまにか三郎の内を通り過ぎて行った。伸び行くさかりの子供は、一つところにとどまろうとしていなかった。どんどんきのうのことを捨てて行った。
「オヤ――三ちゃんの『早川賢』もどうしたろう。」
 と、ふと私が気づいたころは、あれほど一時大騒ぎした人の名も忘れられて、それが「木下(きのした)繁(しげる)、木下繁」に変わっていた。木下繁ももはや故人だが、一時は研究所あたりに集まる青年美術家の憧憬(どうけい)の的(まと)となった画家で、みんなから早い病死を惜しまれた人だ。
 その時になって見ると、新しいものを求めて熱狂するような三郎の気質が、なんとなく私の胸にまとまって浮かんで来た。どうしてこの子がこんなに大騒ぎをやるかというに――早川賢にしても、木下繁にしても――彼らがみんな新しい人であるからであった。
「とうさんは知らないんだ――僕らの時代のことはとうさんにはわからないんだ。」
 訴えるようなこの子の目は、何よりも雄弁にそれを語った。私もまんざら、こうした子供の気持ちがわからないでもない。よりすぐれたものとなるためには、自分らから子供を叛(そむ)かせたい――それくらいのことは考えない私でもない。それにしても、少年らしい不満でさんざん子供から苦しめられた私は、今度はまた新しいもので責められるようになるのかと思った。
 末子も目に見えてちがって来た、堅肥(かたぶと)りのした体格から顔つきまで、この娘はだんだんみんなの母親に似て来た。上(うえ)は男の子供ばかりの殺風景な私の家にあっては、この娘が茶の間の壁のところに小乾(さぼ)す着物の類も目につくようになった。それほど私の家には女らしいものも少なかった。
 今の住居(すまい)の庭は狭くて、私が猫(ねこ)の額(ひたい)にたとえるほどしかないが、それでも薔薇(ばら)や山茶花(さざんか)は毎年のように花が絶えない。花の好きな末子は茶の間から庭へ降りて、わずかばかりの植木を見に行くことにも学校通いの余暇を慰めた。今の住居(すまい)の裏側にあたる二階の窓のところへは、巣をかけに来る蜂(はち)があって、それが一昨年(おととし)も来、去年も来、何か私の家にはよい事でもある前兆のように隣近所の人たちから騒がれたこともある。末子はその窓の見える抜け道を通っては毎日学校のほうから帰って来た。そして、好きな裁縫や編み物のような、静かな手芸に飽きることを知らないような娘であった。そろそろ女の洋服がはやって来て、女学校通いの娘たちが靴(くつ)だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着(うわぎ)に襟(えり)のところだけ紫の刺繍(ぬい)のしてある質素な服をつくった。その短い上着のまま、早い桃の実の色した素足(すあし)を脛(すね)のあたりまであらわしながら、茶の間を歩き回るなぞも、今までの私の家には見られなかった図だ。
 この娘がぱったり洋服を着なくなった。私も多少本場を見て来たその自分の経験から、「洋服のことならとうさんに相談するがいいぜ」なぞと末子に話したり、帯で形をつけることは東西の風俗ともに変わりがないと言い聞かせたりして、初めて着せて見る娘の洋服には母親のような注意を払った。十番で用の足りないものは、銀座(ぎんざ)まで買いにお徳を娘につけてやった。それほどにして造りあげた帽子も、服も、付属品いっさいも、わずか二月(ふたつき)ほどの役にしか立たないとを知った時に私も驚いた。
「串談(じょうだん)じゃないぜ。あの上着は十八円もかかってるよ。そんなら初めから洋服なぞを造らなければいいんだ。」
 日ごろ父一人(ひとり)をたよりにしている娘も、その時ばかりは私の言うことを聞き入れようとしなかった。お徳がそこへ来て、
「どうしても末子さんは着たくないんだそうですよ。洋服はもういらないから、ほしい人があったらだれかにあげてくだすってもいいなんて……」
 こういう場合に、末子の代弁をつとめるのは、いつでもこの下女だった。それにしても、どうかして私はせっかく新調したものを役に立てさせたいと思って、
「洋服を着るんなら、とうさんがまた築地(つきじ)小劇場をおごる。」
 と言ってみせた。すると、お徳がまた娘の代わりに立って来て、
「築地へは行きたいし、どうしても洋服は着たくないし……」
 それが娘の心持ちだった。その時、お徳はこんなこともつけたして言った。
「よくよく末子さんも、あの洋服がいやになったと見えますよ。もしかしたら、屑屋(くずや)に売ってくれてもいいなんて……」これほどの移りやすさが年若(としわか)な娘の内に潜んでいようとは、私も思いがけなかった。でも、私も子に甘い証拠には、何かの理由さえあれば、それで娘のわがままを許したいと思ったのである。お徳に言わせると、末子の同級生で新調の校服を着て学校通いをするような娘は今は一人もないとのことだった。
「そんなに、みんな迷っているのかなあ。」
「なんでも『赤襟(あかえり)のねえさん』なんて、次郎ちゃんたちがからかったものですから、あれから末子さんも着なくなったようですよ。」
「まあ、あの洋服はしまって置くサ。また役に立つ日も来るだろう。」
 とうとう私には娘のわがままを許せるほどのはっきりした理由も見当たらずじまいであった。私は末子の「洋服」を三郎の「早川賢」や「木下繁」にまで持って行って、娘は娘なりの新しいものに迷い苦しんでいるのかと想(おも)ってみた。時には私は用達(ようたし)のついでに、坂の上の電車路(みち)を六本木(ろっぽんぎ)まで歩いてみた。婦人の断髪はやや下火でも、洋装はまだこれからというころで、思い思いに流行の風俗を競おうとするような女学校通いの娘たちが右からも左からもあの電車の交差点(こうさてん)に群がり集まっていた。
 私たち親子のものが今の住居(すまい)を見捨てようとしたころには、こんな新しいものも遠い「きのう」のことのようになっていた。三郎なぞは、「木下繁」ですらもはや問題でないという顔つきで、フランス最近の画界を代表する人たち――ことに、ピカソオなぞを口にするような若者になっていた。
「とうさん、今度来たビッシェールの画(え)はずいぶん変わっているよ。あの人は、どんどん変わって行く――確かに、頭がいいんだろうね。」
 この子の「頭がいいんだろうね」には私も吹き出してしまった。
 私の話相手――三人の子供はそれぞれに動き変わりつつあった。三人の中でも兄(にい)さん顔の次郎なぞは、五分刈(ごぶが)りであった髪を長めに延ばして、紺飛白(こんがすり)の筒袖(つつそで)を袂(たもと)に改めた――それもすこしきまりの悪そうに。顔だけはまだ子供のようなあの末子までが、いつのまにか本裁(ほんだち)の着物を着て、女らしい長い裾(すそ)をはしょりながら、茶の間を歩き回るほどに成人した。

「子供でも大きくなったら。」
 長いこと待ちに待ったその日が、ようやく私のところへやって来るようになった。しかしその日が来るころには、私はもう動けないような人になってしまうかと思うほど、そんなに長くすわり続けた自分を子供らのそばに見いだした。
「強い嵐(あらし)が来たものだ。」
 と、私は考えた。
「とうさん――家はありそうで、なかなかないよ。僕と三ちゃんとで毎日のように歩いて見た。二人(ふたり)ですっかりさがして見た。この麻布(あざぶ)から青山へんへかけて、もう僕らの歩かないところはない……」
 と、次郎が言うころは、私たちの借家さがしもひと休みの時だった。なるべく末子の学校へ遠くないところに、そんな注文があった上に、よさそうな貸し家も容易に見当たらなかったのである。あれからまた一軒あるにはあって、借り手のつかないうちにと大急ぎで見に行って来た家は、すでに約束ができていた。今の住居(すまい)の南隣に三年ばかりも住んだ家族が、私たちよりも先に郊外のほうへ引っ越して行ってしまってからは、いっそう周囲もひっそりとして、私たちの庭へ来る春もおそかった。
 めずらしく心持ちのよい日が私には続くようになった。私は庭に向いた部屋(へや)の障子をあけて、とかく気になる自分の爪(つめ)を切っていた。そこへ次郎が来て、
「とうさんはどこへも出かけないんだねえ。」
 と、さも心配するように、それを顔にあらわして言った。
「どうしてとうさんの爪はこう延びるんだろう。こないだ切ったばかりなのに、もうこんなに延びちゃった。」
 と、私は次郎に言ってみせた。貝爪(かいづめ)というやつで、切っても、切っても、延びてしかたがない。こんなことはずっと以前には私も気づかなかったことだ。
「とうさんも弱くなったなあ。」
 と言わぬばかりに、次郎はややしばらくそこにしゃがんで、私のすることを見ていた。ちょうど三郎も作画に疲れたような顔をして、油絵の筆でも洗いに二階の梯子段(はしごだん)を降りて来た。
「御覧、お前たちがみんなでかじるもんだから、とうさんの脛(すね)はこんなに細くなっちゃった。」
 私は二人の子供の前へ自分の足を投げ出して見せた。病気以来肉も落ち痩(や)せ、ずっと以前には信州の山の上から上州(じょうしゅう)下仁田(しもにた)まで日に二十里の道を歩いたこともある脛(すね)とは自分ながら思われなかった。
「脛(すね)かじりと来たよ。」
 次郎は弟のほうを見て笑った。
「太郎さんを入れると、四人もいてかじるんだから、たまらないや。」
 と、三郎も半分他人の事のように言って笑った。そこへ茶の間の唐紙(からかみ)のあいたところから、ちょいと笑顔(えがお)を見せたのは末子だ。脛かじりは、ここにも一人(ひとり)いると言うかのように。
 その時まで、三郎は何かもじもじして、言いたいことも言わずにいるというふうであったが、
「とうさん――ホワイトを一本と、テラ・ロオザを一本買ってくれない? 絵の具が足りなくなった。」
 こう切り出した。
「こないだ買ったばかりじゃないか。」
「だって、足りないものは足りないんだもの。絵の具がなけりゃ、何も描(か)けやしない。」
 と、三郎は不平顔である。すると、次郎はさっそく弟の言葉をつかまえて、
「あ――またかじるよ。」
 この次郎の串談(じょうだん)が、みんなを吹き出させた。
 私は子供らに出して見せた足をしまって、何げなく自分の手のひらをながめた。いつでも自分の手のひらを見ていると、自分の顔を見るような気のするのが私の癖だ。いまいましいことばかりが胸に浮かんで来た。私はこの四畳半の天井からたくさんな蛆(うじ)の落ちたことを思い出した。それが私の机のそばへも落ち、畳の上へも落ち、掃いても掃いても落ちて来る音のしたことを思い出した。何が腐り爛(ただ)れたかと薄気味悪くなって、二階の部屋(へや)から床板(ゆかいた)を引きへがして見ると、鼠(ねずみ)の死骸(しがい)が二つまでそこから出て来て、その一つは小さな動物の骸骨でも見るように白く曝(さ)れていたことを思い出した。私は恐ろしくなった。何かこう自分のことを形にあらわして見せつけるようなものが、しかもそれまで知らずにいた自分のすぐ頭の上にあったことを思い出した。
 その時になって見ると、過ぐる七年を私は嵐(あらし)の中にすわりつづけて来たような気もする。私のからだにあるもので、何一つその痕跡(こんせき)をとどめないものはない。髪はめっきり白くなり、すわり胼胝(だこ)は豆のように堅く、腰は腐ってしまいそうに重かった。朝寝の枕(まくら)もとに煙草盆(たばこぼん)を引きよせて、寝そべりながら一服やるような癖もついた。私の姉がそれをやった時分に、私はまだ若くて、年取った人たちの世界というものをのぞいて見たように思ったことを覚えているが、ちょうど今の私がそれと同じ姿勢で。
 私はもう一度、自分の手を裏返しにして、鏡でも見るようにつくづくと見た。
「自分の手のひらはまだ紅(あか)い。」
 と、ひとり思い直した。
 午後のいい時を見て、私たちは茶の間の外にある縁側に集まった。そこには私の意匠した縁台が、縁側と同じ高さに、三尺ばかりも庭のほうへ造り足してあって、蘭(らん)、山査子(さんざし)などの植木鉢(ばち)を片すみのほうに置けるだけのゆとりはある。石垣(いしがき)に近い縁側の突き当たりは、壁によせて末子の小さい風琴(オルガン)も置いてあるところで、その上には時々の用事なぞを書きつける黒板も掛けてある。そこは私たちが古い籐椅子(とういす)を置き、簡単な腰掛け椅子を置いて、互いに話を持ち寄ったり、庭をながめたりして来た場所だ。毎年夏の夕方には、私たちが茶の間のチャブ台を持ち出して、よく簡単な食事に集まったのもそこだ。
 庭にあるおそ咲きの乙女椿(おとめつばき)の蕾(つぼみ)もようやくふくらんで来た。それが目につくようになって来た。三郎は縁台のはなに立って、庭の植木をながめながら、
「次郎ちゃん、ここの植木はどうなるんだい。」
 この弟の言葉を聞くと、それまで妹と一緒に黒板の前に立って何かいたずら書きをしていた次郎が、白墨をそこに置いて三郎のいるほうへ行った。
「そりゃ、引っこ抜いて持って行ったって、かまうもんか――もとからここの庭にあった植木でさえなければ。」
「八つ手も大きくなりやがったなあ。」
「あれだって、とうさんが植えたんだよ。」
「知ってるよ。山茶花(さざんか)だって、薔薇(ばら)だって、そうだろう。あの乙女椿(おとめつばき)だって、そうだろう。」
 気の早い子供らは、八つ手や山茶花を車に積んで今にも引っ越して行くような調子に話し合った。
「そんなにお前たちは無造作に考えているのか。」と、私はそこにある籐椅子(とういす)を引きよせて、話の仲間にはいった。「とうさんぐらいの年齢(とし)になってごらん、家というものはそうむやみに動かせるものでもないに。」
「どこかにいい家はないかなあ。」
 と言い出すのは三郎だ。すると次郎は私と三郎の間に腰掛けて、
「そう、そう、あの青山の墓地の裏手のところが、まだすこし残ってる。この次ぎにはあそこを歩いて見るんだナ。」
「なにしろ、日あたりがよくて、部屋(へや)の都合がよくて、庭もあって、それで安い家と来るんだから、むずかしいや。」と、三郎は混ぜ返すように笑い出した。
「もっと大きい家ならある。」と次郎も私に言ってみせた。「五間か六間というちょうどいいところがない。これはと思うような家があっても、そういうところはみんな人が住んでいてネ。」
「とうさん、五間で四十円なんて、こんな安い家をさがそうたって無理だよ。」
「そりゃ、ここの家は例外サ。」と、私は言った。「まあ、ゆっくりさがすんだナ。」
「なにも追い立てをくってるわけじゃないんだから――ここにいたって、いられないことはないんだから。」
 こう次郎も兄(にい)さんらしいところを見せた。
 やがて自分らの移って行く日が来るとしたら、どんな知らない人たちがこの家に移り住むことか。そんなことがしきりに思われた。庭にある山茶花(さざんか)でも、つつじでも、なんど私が植え替えて手入れをしたものかしれない。暇さえあれば箒(ほうき)を手にして、自分の友だちのようにそれらの木を見に行ったり、落ち葉を掃いたりした。過ぐる七年の間のことは、そこの土にもここの石にもいろいろな痕跡(こんせき)を残していた。
 いつのまにか末子は黒板の前を離れて、霜どけのしている庭へ降りて行った。
「次郎ちゃん、芍薬(しゃくやく)の芽が延びてよ。」
 末子は庭にいながら呼んだ。
「蔦(つた)の芽も出て来たわ。」
 と、また石垣(いしがき)の近くで末子の呼ぶ声も起こった。

 遠い山地のほうにできかけている新しい家が、別にこの私たちに見えて来た。こんな落ちつかない気持ちで今の住居(すまい)に暮らしているうちにも、そのうわさが私たちの間に出ない日はなかった。私は郷里のほうに売り物に出た一軒の農家を太郎のために買い取ったからである。それを峠の上から村の中央にある私たちの旧家の跡に移し、前の年あたりから大工を入れ、新しい工事を始めさせていた。太郎もすでに四年の耕作の見習いを終わり、雇い入れた一人(ひとり)の婆(ばあ)やを相手にまだ工事中の新しい家のほうに移ったと知らせて来た。彼もどうやら若い農夫として立って行けそうに見えて来た。
 いったい、私が太郎を田舎(いなか)に送ったのは、もっとあの子を強くしたいと考えたからで。土に親しむようになってからの太郎は、だんだん自分の思うような人になって行った。それでも私は遠く離れている子の上を案じ暮らして、自分が病気している間にも一日もあの山地のほうに働いている太郎のことを忘れなかった。郷里のほうから来るたよりはどれほどこの私を励ましたろう。私はまた次郎や三郎や末子と共に、どれほどそれを読むのを楽しみにしたろう。そういう私はいまだに都会の借家ずまいで、四畳半の書斎でも事は足りると思いながら、自分の子のために永住の家を建てようとすることは、われながら矛盾した行為だと考えたこともある。けれども、これから新規に百姓生活にはいって行こうとする子には、寝る場所、物食う炉ばた、土を耕す農具の類からして求めてあてがわねばならなかった。
 私の四畳半に置く机の抽斗(ひきだし)の中には、太郎から来た手紙やはがきがしまってある。その中には、もう麦を蒔(ま)いたとしたのもある。工事中の家に移って障子を張り唐紙(からかみ)を入れしてみたら、まるで別の家のように見えて来たとしたのもある。これが自分の家かと思うと、なんだか恐ろしいようなうれしいような気がして来たとしたのもある。だれに気兼ねもなく、新しい木の香のする炉ばたにあぐらをかいて、飯をやっているところだとしたのもある。
 ふとしたことから、私は手にしたある雑誌の中に、この遠く離れている子の心を見つけた。それには父を思う心が寄せてあって、いろいろなことがこまごまと書きつけてあった。四人の兄妹(きょうだい)の中での長男として、自分はいちばん長く父のそばにいて見たから、それだけ親しみを感ずる心も深いとしたところがあり、それからまた、父の勧農によって自分もその気になり、今では鍬(くわ)を手にして田園の自然を楽しむ身であるが、四年の月日もむなしく過ぎて行った、これからの自分は新しい家にいて新しい生活を始めねばならない、時には自分は土を相手に戦いながら父のことを思って涙ぐむことがあるとしたところもあり、その中にはまた、父もこの家を見ることを楽しみにして郷里の土を踏むような日もやがて来るだろう、寺の鐘は父の健康を祈るかのように、山に沈む夕日は何かの深い暗示を自分に投げ与えるように消えて行くとしてあったのを覚えている。
 最近に、また私は太郎からのはがきを受け取っていた。それによって私はあの山地のほうにできかけている農家の工事が風呂場(ふろば)を造るほどはかどったことを知った。なんとなく鑿(のみ)や槌(つち)の音の聞こえて来るような気もした。こんなに私にも気分のいい日が続いて行くようであったら、おりを見て、あの新しい家を見に行きたいと思う心が動いた。

 長いこと私は友だちも訪(たず)ねない。日がな一日寂寞(せきばく)に閉ざされる思いをして部屋(へや)の黄色い壁も慰みの一つにながめ暮らすようなことは、私に取ってきょうに始まったことでもない。母親のない幼い子供らをひかえるようになってから、三年もたつうちに、私はすでに同じ思いに行き詰まってしまった。しかし、そのころの私はまだ四十二の男の厄年(やくどし)を迎えたばかりだった。重い病も、老年の孤独というものも知らなかった。このまますわってしまうのかと思うような、そんな恐ろしさはもとより知らなかった。「みんな、そうですよ。子供が大きくなる時分には、わがからだがきかなくなりますよ。」と、私に言ってみせたある婆(ばあ)さんもある。あんな言葉を思い出して見るのも堪(た)えがたかった。
「とうさん、どこへ行くの。」
 ちょっと私が屋外(そと)へ出るにも、そう言って声を掛けるのが次郎の癖だ。植木坂の下あたりには、きまりでそのへんの門のわきに立ち話する次郎の旧(ふる)い遊び友だちを見いだす。ある若者は青山師範へ。ある若者は海軍兵学校へ。七年の月日は私の子供を変えたばかりでなく、子供の友だちをも変えた。
 居住者として町をながめるのもその春かぎりだろうか、そんな心持ちで私は鼠坂(ねずみざか)のほうへと歩いた。毎年のように椿(つばき)の花をつける静かな坂道がそこにある。そこにはもう春がやって来ているようにも見える。
 私の足はあまり遠くへ向かわなかった。病気以来、ことにそうなった。何か特別の用事でもないかぎり、私は樹木の多いこの町の界隈(かいわい)を歩き回るだけに満足した。そして、散歩の途中でも家のことが気にかかって来るのが私の癖のようになってしまった。「とうさん、僕たちが留守居するよ。」と、次郎なぞが言ってくれる日を迎えても、ただただ私の足は家の周囲を回りに回った。あらゆる嵐(あらし)から自分の子供を護(まも)ろうとした七年前と同じように。
「旦那(だんな)さん。もうお帰りですか。」
 と言って、下女のお徳がこの私を玄関のところに迎えた。お徳の白い割烹着(かっぽうぎ)も、見慣れるうちにそうおかしくなくなった。
「次郎ちゃんは?」
「お二階で御勉強でしょう。」
 それを聞いてから、私は両手に持てるだけ持っていた袋包みをどっかとお徳の前に置いた。
「きょうはみんなの三時にと思って、林檎(りんご)を買って来た。ついでに菓子も買って来た。」
「旦那さんのように、いろいろなものを買って提(さ)げていらっしゃるかたもない。」
「そう言えば、鼠坂(ねずみざか)の椿(つばき)が咲いていたよ。今にもうおれの家の庭へも春がやって来るよ。」
 そんな話をして置いて、私は自分の部屋(へや)へ行った。
 私の心はなんとなく静かでなかった。実は私は次郎の将来を考えたあげく、太郎に勧めたとは別の意味で郷里に帰ることを次郎にも勧めたいと思いついたからで。長いこと養って来た小鳥の巣から順に一羽ずつ放してやってもいいような、そういう日がすでに来ているようにも思えた。しかし私も、それを言い出してみるまでは落ちつかなかった。
 ちょうど、三郎は研究所へ、末子は学校へ、二人(ふたり)とも出かけて行ってまだ帰らなかった時だった。次郎はもはや毎日の研究所通いでもあるまいというふうで、しばらく家にこもっていて描(か)き上げた一枚の油絵を手にしながら、それを私に見せに二階から降りて来た。いつでも次郎が私のところへ習作を持って来て見せるのは弟のいない時で、三郎がまた見せに来るのは兄のいない時だった。
「どうも光っていけない。」
 と言いながら、その時次郎は私の四畳半の壁のそばにたてかけた画(え)を本棚(ほんだな)の前に置き替えて見せた。兄の描(か)いた妹の半身像だ。
「へえ、末ちゃんだね。」
 と、私も言って、しばらく次郎と二人してその習作に見入っていた。
「あの三ちゃんが見たら、なんと言うだろう。」
 その考えが苦しく私の胸へ来た。二人の兄弟(きょうだい)の子供が決して互いの画(え)を見せ合わないことを私はもうちゃんとよく知っていた。二人はこんな出発点のそもそもから全く別のものを持って生まれて来た画家の卵のようにも見えた。
 次郎は画作に苦しみ疲れたような顔つきで、癖のように爪(つめ)をかみながら、
「どうも、糞(くそ)正直にばかりやってもいけないと思って来た。」
「お前のはあんまり物を見つめ過ぎるんだろう。」
「どうだろう、この手はすこし堅過ぎるかね。」
「そんなことをとうさんに相談したって困るよ。とうさんは、お前、素人(しろうと)じゃないか。」
 その日は私はわざと素気(すげ)ない返事をした。これが平素なら、私は子供と一緒になって、なんとか言ってみるところだ。それほど実は私も画が好きだ。しかし私は自分の畠(はたけ)にもない素人評(しろうとひょう)が実際子供の励ましになるのかどうか、それにすら迷った。ともあれ、次郎の言うことには、たよろうとするあわれさがあった。
 次郎の作った画(え)を前に置いて、私は自分の内に深く突き入った。そこにわが子を見た。なんとなく次郎の求めているような素朴(そぼく)さは、私自身の求めているものでもある。最後からでも歩いて行こうとしているような、ゆっくりとおそい次郎の歩みは、私自身の踏もうとしている道でもある。三郎はまた三郎で、画面の上に物の奥行きなぞを無視し、明快に明快にと進んで行っているほうで、きのう自分の描(か)いたものをきょうは旧(ふる)いとするほどの変わり方だが、あの子のように新しいものを求めて熱狂するような心もまた私自身の内に潜んでいないでもない。父の矛盾は覿面(てきめん)に子に来た。兄弟であって、同時に競争者――それは二人(ふたり)の子供に取って避けがたいことのように見えた。なるべく思い思いの道を取らせたい。その意味から言っても、私は二人の子供を引き離したかった。
「次郎ちゃん、おもしろい話があるんだが、お前はそれを聞いてくれるか。」
 そんなことから切り出して、私はそれまで言い出さずにいた田舎(いなか)行きの話を次郎の前に持ち出してみた。
「半農半画家の生活もおもしろいじゃないか。」と、私は言った。「午前は自分の画(え)をかいて、午後から太郎さんの仕事を助けたってもいいじゃないか。田舎で教員しながら画(え)をかくなんて人もあるが、ほんとうに百姓しながらやるという画家は少ない。そこまで腰を据(す)えてかかってごらん、一家を成せるかもしれない。まあ、二三年は旅だと思って出かけて行ってみてはどうだね。」
 日ごろ田舎(いなか)の好きな次郎ででもなかったら、私もこんなことを勧めはしなかった。
「できるだけとうさんも、お前を助けるよ。」と、また私は言った。「そのかわり、太郎さんと二人で働くんだぜ。」
「僕もよく考えてみよう。こうして東京にぐずぐずしていたってもしかたがない。」
 と、次郎は沈思するように答えて、ややしばらく物も言わずに、私のそばを離れずにいた。

 四月にはいって、私は郷里のほうに太郎の新しい家を見に行く心じたくを始めていた。いよいよ次郎も私の勧めをいれ、都会を去ろうとする決心がついたので、この子を郷里へ送る前に、私は一足先に出かけて行って来たいと思った。留守中のことは次郎に預けて行きたいと思う心もあった。日ごろ家にばかり引きこもりがちの私が、こんな気分のいい日を迎えたことは、家のものをよろこばせた。
「ちょっと三人で、じゃんけんしてみておくれ。」
 と、私は自分の部屋(へや)から声を掛けた。気候はまだ春の寒さを繰り返していたころなので、子供らは茶の間の火鉢(ひばち)の周囲に集まっていた。
「オイ、じゃんけんだとよ。」
 何かよい事でも期待するように、次郎は弟や妹を催促した。火鉢の周囲には三人の笑い声が起こった。
「だれだい、負けた人は。」
「僕だ。」と答えるのは三郎だ。「じゃんけんというと、いつでも僕が貧乏くじだ。」
「さあ、負けた人は、郵便箱を見て来て。」と、私が言った。「もう太郎さんからなんとか言って来てもいいころだ。」
「なあんだ、郵便か。」
 と、三郎は頭をかきかき、古い時計のかかった柱から鍵(かぎ)をはずして路地(ろじ)の石段の上まで見に出かけた。
 郷里のほうからのたよりがそれほど待たれる時であった。この旅には私は末子を連れて行こうとしていたばかりでなく、青山の親戚(しんせき)が嫂(あによめ)に姪(めい)に姪の子供に三人までも同行したいという相談を受けていたので、いろいろ打ち合わせをして置く必要もあったからで。待ち受けた太郎からのはがきを受け取って見ると、四月の十五日ごろに来てくれるのがいちばん都合がいい、それより早過ぎてもおそ過ぎてもいけない、まだ壁の上塗(うわぬ)りもすっかりできていないし、月の末になるとまた農家はいそがしくなるからとしてあった。
「次郎ちゃん、とうさんが行って太郎さんともよく相談して来るよ。それまでお前は東京に待っておいで。」
「太郎さんのところからも賛成だと言って来ている。ほんとに僕がその気なら、一緒にやりたいと言って来ている。」
「そうサ。お前が行けば太郎さんも心強かろうからナ。」
 私は次郎とこんな言葉をかわした。
 久しぶりで郷里を見に行く私は、みやげ物をあつめに銀座へんを歩き回って来るだけでも、額(ひたい)から汗の出る思いをした。暮れからずっと続けている薬を旅の鞄(かばん)に納めることも忘れてはならなかった。私は同伴する人たちのことを思い、ようやく回復したばかりのような自分の健康のことも気づかわれて、途中下諏訪(しもすわ)の宿屋あたりで疲れを休めて行こうと考えた。やがて、四月の十三日という日が来た。いざ旅となれば、私も遠い外国を遍歴して来たことのある気軽な自分に帰った。古い鞄(かばん)も、古い洋服も、まだそのまま役に立った。連れて行く娘のしたくもできた。そこで出かけた。
 この旅には私はいろいろな望みを掛けて行った。長いしたくと親子の協力とからできたような新しい農家を見る事もその一つであった。七年の月日の間に数えるほどしか離れられてなかった今の住居(すまい)から離れ、あの恵那(えな)山の見えるような静かな田舎(いなか)に身を置いて、深いため息でも吐(つ)いて来たいと思う事もその一つであった。私のそばには、三十年ぶりで郷里を見に行くという年老いた嫂(あによめ)もいた。姪(めい)が連れていたのはまだ乳離(ちばな)れもしないほどの男の子であったが、すぐに末子に慣れて、汽車の中で抱かれたりその膝(ひざ)に乗ったりした。それほど私の娘も子供好きだ。その子は時々末子のそばを離れて、母のふところをさぐりに行った。
「叔父(おじ)さん、ごめんなさいよ。」
 と言って、姪(めい)は幾人もの子供を生んだことのある乳房(ちぶさ)を小さなものにふくませながら話した。そんなにこの人は気の置けない道づれだ。
「そう言えば、太郎さんの家でも、屋号をつけたよ。」と、私は姪に言ってみせた。「みんなで相談して田舎(いなか)風に『よもぎや』とつけた。それを『蓬屋』と書いたものか、『四方木屋』と書いたものかと言うんで、いろいろな説が出たよ。」
「そりゃ、『蓬屋』と書くよりも、『四方木屋』と書いたほうがおもしろいでしょう。いかにも山家(やまが)らしくて。」
 こんな話も旅らしかった。
 甲府(こうふ)まで乗り、富士見(ふじみ)まで乗って行くうちに、私たちは山の上に残っている激しい冬を感じて来た。下諏訪(しもすわ)の宿へ行って日が暮れた時は、私は連れのために真綿(まわた)を取り寄せて着せ、またあくる日の旅を続けようと思うほど寒かった。――それを嫂(あによめ)にも着せ、姪にも着せ、末子にも着せて。
 中央線の落合川(おちあいがわ)駅まで出迎えた太郎は、村の人たちと一緒に、この私たちを待っていた。木曾路(きそじ)に残った冬も三留野(みどの)あたりまでで、それから西はすでに花のさかりであった。水力電気の工事でせき留められた木曾川の水が大きな渓(たに)の間に見えるようなところで、私はカルサン姿の太郎と一緒になることができた。そこまで行くと次郎たちの留守居する東京のほうの空も遠かった。
「ようやく来た。」
 と、私はそれを太郎にも末子にも言ってみせた。
 年とった嫂(あによめ)だけは山駕籠(やまかご)、その他のものは皆徒歩で、それから一里ばかりある静かな山路(やまみち)を登った。路傍に咲く山つつじでも、菫(すみれ)でも、都会育ちの末子を楽しませた。登れば登るほど青く澄んだ山の空気が私たちの身に感じられて来た。旧(ふる)い街道の跡が一筋目につくところまで進んで行くと、そこはもう私の郷里の入り口だ。途中で私は森(もり)さんという人の出迎えに来てくれるのにあった。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習いから新築の家の工事まで、ほとんどいっさいの世話をしてくれたのもこの人だ。
 郷里に帰るものの習いで、私は村の人たちや子供たちの物見高い目を避けたかった。今だに古い駅路(うまやじ)のなごりを見せているような坂の上のほうからは、片側に続く家々の前に添うて、細い水の流れが走って来ている。勝手を知った私はある抜け道を取って、ちょうどその村の裏側へ出た。太郎は私のすぐあとから、すこしおくれて姪や末子もついて来た。私は太郎の耕しに行く畠(はたけ)がどっちの方角に当たるかを尋ねることすら楽しみに思いながら歩いた。私の行く先にあるものは幼い日の記憶をよび起こすようなものばかりだ。暗い竹藪(たけやぶ)のかげの細道について、左手に小高い石垣(いしがき)の下へ出ると、新しい二階建ての家のがっしりとした側面が私の目に映った。新しい壁も光って見えた。思わず私は太郎を顧みて、
「太郎さん、お前の家かい。」
「これが僕の家サ。」
 やがて私はその石垣(いしがき)を曲がって、太郎自身の筆で屋号を書いた農家風の入り口の押し戸の前に行って立った。
四方木屋(よもぎや)。
 太郎には私は自身に作れるだけの田と、畑と、薪材(まきざい)を取りに行くために要(い)るだけの林と、それに家とをあてがった。自作農として出発させたい考えで、余分なものはいっさいあてがわない方針を執った。
 都会の借家ずまいに慣れた目で、この太郎の家を見ると、新規に造った炉ばたからしてめずらしく、表から裏口へ通り抜けられる農家風の土間もめずらしかった。奥もかなり広くて、青山の親戚(しんせき)を泊めるには充分であったが、おとなから子供まで入れて五人もの客が一時にそこへ着いた時は、いかにもまだ新世帯(しんじょたい)らしい思いをさせた。
「きのうまで左官屋(さかんや)さんがはいっていた。庭なぞはまだちっとも手がつけてない。」
 と、太郎は私に言ってみせた。
 何もかも新規だ。まだ柱時計一つかかっていない炉ばたには、太郎の家で雇っているお霜(しも)婆(ばあ)さんのほかに、近くに住むお菊(きく)婆さんも手伝いに来てくれ、森さんの母(かあ)さんまで来てわが子の世話でもするように働いていてくれた。
 私は太郎と二人(ふたり)で部屋部屋(へやべや)を見て回るような時を見つけようとした。それが容易に見当たらなかった。
「この家は気に入った。思ったよりいい家だ。よっぽど森さんにはお礼を言ってもいいね。」
 わずかにこんな話をしたかと思うと、また太郎はいそがしそうに私のそばから離れて行った。そこいらには、まだかわき切らない壁へよせて、私たちの荷物が取り散らしてある。末子は姪(めい)の子供を連れながら部屋部屋をあちこちとめずらしそうに歩き回っている。嫂(あによめ)も三十年ぶりでの帰省とあって、旧(ふる)なじみの人たちが出たりはいったりするだけでも、かなりごたごたした。
 人を避けて、私は眺望(ちょうぼう)のいい二階へ上がって見た。石を載せた板屋根、ところどころに咲きみだれた花の梢(こずえ)、その向こうには春深く霞(かす)んだ美濃(みの)の平野が遠く見渡される。天気のいい日には近江(おうみ)の伊吹山(いぶきやま)までかすかに見えるということを私は幼年のころに自分の父からよく聞かされたものだが、かつてその父の旧(ふる)い家から望んだ山々を今は自分の新しい家から望んだ。
 私はその二階へ上がって来た森さんとも一緒に、しばらく窓のそばに立って、久しぶりで自分を迎えてくれるような恵那(えな)山にもながめ入った。あそこに深い谷がある、あそこに遠い高原がある、とその窓から指(さ)して言うことができた。
「おかげで、いい家ができました。太郎さんにくれるのは惜しいような気がして来ました。これまでに世話してくださるのも、なかなか容易じゃありません。私もまた、時々本でも読みに帰ります。」
 と、私は森さんに話したが、礼の心は言葉にも尽くせなかった。
 翌日になっても、私は太郎と二人(ふたり)ぎりでゆっくり話すような機会を見いださなかった。嫂(あによめ)の墓参に。そのお供に。入れかわり立ちかわり訪(たず)ねて来る村の人たちの応接に。午後に、また私は人を避けて、炉ばたつづきの六畳ばかりの部屋(へや)に太郎を見つけた。
「とうさん、みやげはこれっきり?」
「なんだい、これっきりとは。」
 私は約束の柱時計を太郎のところへ提(さ)げて来られなかった。それを太郎が催促したのだ。
「次郎ちゃんが来る時に、時計は持たしてよこす。」と言ったあとで、ようやく私は次郎のことをそこへ持ち出した。「どうだろう、次郎ちゃんは来たいと言ってるが、お前の迷惑になるようなことはなかろうか。」
「そんなことはない。あのとおり二階はあいているし、次郎ちゃんの部屋はあるし、僕はもうそのつもりにして待っているところだ。」
「半日お前の手伝いをさせる、半日画(え)をかかせる――そんなふうにしてやらしてみるか。何も試みだ。」
「まあ、最初の一年ぐらいは、僕から言えばかえって邪魔になるくらいなものだろうけれど――そのうちには次郎ちゃんも慣れるだろう。なかなか百姓もむずかしいからね。」
 そういう太郎の手は、指の骨のふしぶしが強くあらわれていて、どんな荒仕事にも耐えられそうに見えた。その手はもはやいっぱしの若い百姓の手だった。この子の机のそばには、本箱なぞも置いてあって、農民と農村に関する書籍の入れてあるのも私の目についた。
 その日は私は新しい木の香のする風呂桶(ふろおけ)に身を浸して、わずかに旅の疲れを忘れた。私は山家(やまが)らしい炉ばたで婆(ばあ)さんたちの話も聞いてみたかった。で、その晩はあかあかとした焚火(たきび)のほてりが自分の顔へ来るところへ行って、くつろいだ。
「ほんとに、おらのようなものの造るものでも、太郎さんはうまいうまいと言って食べさっせる。そう思うと、おらはオヤゲナイような気がする。」
 と、私に言ってみせるのは、肥(ふと)って丈夫そうなお霜婆さんだ。私の郷里では、このお霜婆さんの話すように、女でも「おら」だ。
「どうだなし、こんないい家ができたら、お前さまもうれしからず。」
 と、今度はお菊婆さんが言い出した。無口なお霜婆さんに比べると、この人はよく話した。
「今度帰って見て、私も安心しました。」と、私は言った。「私はあの太郎さんを旦那衆(だんなしゅう)にするつもりはありません。要(い)るだけの道具はあてがう、あとは自分で働け――そのつもりです。」
「えゝ、太郎さんもその気だで。」と、お菊婆さんは炉の火のほうに気をくばりながら言った。「この焚木(たきぎ)でもなんでも、みんな自分で山から背負(しょ)っておいでるぞなし。そりゃ、お前さま、ここの家を建てるだけでも、どのくらいよく働いたかしれずか。」
 炉ばたでの話は尽きなかった。
 三日(みっか)目には私は嫂(あによめ)のために旧(ふる)いなじみの人を四方木屋(よもぎや)の二階に集めて、森さんのお母(かあ)さんやお菊婆さんの手料理で、みんなと一緒に久しぶりの酒でもくみかわしたいと思った。三年前に兄を見送ってからの嫂(あによめ)は、にわかに老(ふ)けて見える人であった。おそらくこれが嫂に取っての郷里の見納めであろうとも思われたからで。
 私たちは炉ばたにいて順にそこへ集まって来る客を待った。嫂が旧(ふる)いなじみの人々で、三十年の昔を語り合おうとするような男の老人はもはやこの村にはいなかった。そういう老人という老人はほとんど死に絶えた。招かれて来るお客はお婆さんばかりで、腰を曲(かが)めながらはいって来る人のあとには、すこし耳も遠くなったという人の顔も見えた。隣村からわざわざ嫂や姪(めい)や私の娘を見にやって来てくれた人もあったが、私と同年ですでに幾人かの孫のあるという未亡人(みぼうじん)が、その日の客の中での年少者であった。
 しかし、一同が二階に集まって見ると、このお婆さんたちの元気のいい話し声がまた私をびっくりさせた。その中でも、一番の高齢者で、いちばん元気よく見えるのは隣家のお婆さんであった。この人は酒の盃(さかずき)を前に置いて、
「どうか、まあ太郎さんにもよいおよめさんを見つけてあげたいもんだ。とうさんの御心配で、こうして家もできたし。この次ぎは、およめさんだ。そのおりには私もまたきょうのように呼んでいただきたい――私は私だけのお祝いを申し上げに来たい。」
 八十歳あまりになる人の顔にはまだみずみずしい光沢(つや)があった。私はこの隣家のお婆さんの孫にあたる子息(むすこ)や、森さんなぞと一緒に同じ食卓についていて、日ごろはめったにやらない酒をすこしばかりやった。太郎はまたこの新築した二階の部屋(へや)で初めての客をするという顔つきで、冷(さ)めた徳利を集めたり、それを熱燗(あつかん)に取り替えて来たりして、二階と階下(した)の間を往(い)ったり来たりした。
「太郎さんも、そこへおすわり。」と、私は言った。「森さんのおかあさんが丹精(たんせい)してくだすったごちそうもある――下諏訪(しもすわ)の宿屋からとうさんの提(さ)げて来た若鷺(わかさぎ)もある――」
「こういう田舎(いなか)にいますと、酒をやるようになります。」と、森さんが、私に言ってみせた。「どうしても、周囲がそうだもんですから。」
「太郎さんもすこしは飲めるように、なりましたろうか。」と、私は半分串談(じょうだん)のように。
「えゝ、太郎さんは強い。」それが森さんの返事だった。「いくら飲んでも太郎さんの酔ったところを見た事がない。」
 その時、私は森さんから返った盃(さかずき)を太郎の前に置いて、
「今から酒はすこし早過ぎるぜ。しかし、きょうは特別だ。まあ、一杯やれ。」
 わが子の労苦をねぎらおうとする心から、思わず私は自分で徳利を持ち添えて勧めた。若者、万歳――口にこそそれを出さなかったが、青春を祝する私の心はその盃にあふれた。私は自分の年とったことも忘れて、いろいろと皆を款待顔(もてなしがお)な太郎の酒をしばらくそこにながめていた。

 七日の後には私は青山の親戚(しんせき)や末子と共にこの山を降りた。
 落合川の駅からもと来た道を汽車で帰ると、下諏訪(しもすわ)へ行って日が暮れた。私は太郎の作っている桑畑や麦畑を見ることもかなわなかったほど、いそがしい日を郷里のほうで送り続けて来た。察しのすくない郷里の人たちは思うように私を休ませてくれなかった。この帰りには、いったん下諏訪で下車して次の汽車の来るのを待ち、また夜行の旅を続けたが、嫂(あによめ)でも姪(めい)でも言葉すくなに乗って行った。末子なぞは汽車の窓のところにハンケチを載せて、ただうとうとと眠りつづけて行った。
 東京の朝も見直すような心持ちで、私は娘と一緒に家に帰りついた。私も激しい疲れの出るのを覚えて、部屋(へや)の畳の上にごろごろしながら寝てばかりいるような自分を留守居するもののそばに見つけた。
「旦那(だんな)さん、あちらはいかがでした。」
 と、お徳が熱い茶なぞを持って来てくれると、私は太郎が山から背負(しょ)って来たという木で焚(た)いた炉にもあたり、それで沸かした風呂(ふろ)にもはいって来た話なぞをして、そこへ横になった。
「とうさん、どうだった。」
「思ったより太郎さんの家はいい家だったよ。しっかりとできていたよ。
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