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著者名:島崎藤村 

 子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈(せたけ)を比べに行った。次郎の背(せい)の高くなったのにも驚く。家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四分(ぶ)ぐらいで鴨居(かもい)にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、郷里のほうから年取りに上京して、その時だけ私たちと一緒になる太郎よりも、次郎のほうが背はずっと高くなった。
 茶の間の柱のそばは狭い廊下づたいに、玄関や台所への通い口になっていて、そこへ身長を計りに行くものは一人(ひとり)ずつその柱を背にして立たせられた。そんなに背延びしてはずるいと言い出すものがありもっと頭を平らにしてなどと言うものがあって、家じゅうのものがみんなで大騒ぎしながら、だれが何分(なんぶ)延びたというしるしを鉛筆で柱の上に記(しる)しつけて置いた。だれの戯れから始まったともなく、もう幾つとなく細い線が引かれて、その一つ一つには頭文字(かしらもじ)だけをローマ字であらわして置くような、そんないたずらもしてある。
「だれだい、この線は。」
 と聞いてみると、末子(すえこ)のがあり、下女(げじょ)のお徳(とく)のがある。いつぞや遠く満州の果てから家をあげて帰国した親戚(しんせき)の女の子の背丈(せたけ)までもそこに残っている。私の娘も大きくなった。末子の背は太郎と二寸ほどしか違わない。その末子がもはや九文(もん)の足袋(たび)をはいた。
 四人ある私の子供の中で、身長の発育にかけては三郎がいちばんおくれた。ひところの三郎は妹の末子よりも低かった。日ごろ、次郎びいきの下女は、何かにつけて「次郎ちゃん、次郎ちゃん」で、そんな背の低いことでも三郎をからかうと、そのたびに三郎はくやしがって、
「悲観しちまうなあ――背はもうあきらめた。」
 と、よく嘆息した。その三郎がめきめきと延びて来た時は、いつのまにか妹を追い越してしまったばかりでなく、兄の太郎よりも高くなった。三郎はうれしさのあまり、手を振って茶の間の柱のそばを歩き回ったくらいだ。そういう私が同じ場所に行って立って見ると、ほとんど太郎と同じほどの高さだ。私は春先の筍(たけのこ)のような勢いでずんずん成長して来た次郎や、三郎や、それから末子をよく見て、時にはこれが自分の子供かと心に驚くことさえもある。
 私たち親子のものは、遠からず今の住居(すまい)を見捨てようとしている時であった。こんなにみんな大きくなって、めいめい一部屋(ひとへや)ずつを要求するほど一人前(いちにんまえ)に近い心持ちを抱(いだ)くようになってみると、何かにつけて今の住居(すまい)は狭苦(せまぐる)しかった。私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟(きょうだい)は二人(ふたり)ともある洋画研究所の研究生であったから、)末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分は玄関側(わき)の四畳半にこもって、そこを書斎とも応接間とも寝部屋(ねべや)ともしてきた。今一部屋もあったらと、私たちは言い暮らしてきた。それに、二階は明るいようでも西日が強く照りつけて、夏なぞは耐えがたい。南と北とを小高い石垣(いしがき)にふさがれた位置にある今の住居(すまい)では湿気の多い窪地(くぼち)にでも住んでいるようで、雨でも来る日には茶の間の障子(しょうじ)はことに暗かった。
「ここの家には飽きちゃった。」
 と言い出すのは三郎だ。
「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行ってさがして来るよ。いい家があったら、とうさんは見においで。」
 次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人(ひとり)でも借家をさがしに出かけた。
 今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二町(ちょう)はある。煙草屋(たばこや)へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋(とこや)へも五六町はあって、どこへ用達(ようたし)に出かけるにも坂を上(のぼ)ったり下(くだ)ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった。
 実に些細(ささい)なことから、私は今の家を住み憂(う)く思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。

 ある日も私は次郎と連れだって、麻布(あざぶ)笄町(こうがいちょう)から高樹町(たかぎちょう)あたりをさんざんさがし回ったあげく、住み心地(ごこち)のよさそうな借家も見当たらずじまいに、むなしく植木坂(うえきざか)のほうへ帰って行った。いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて来る。だれかしら見知った顔にもあう。暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡(とち)の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人(ふたり)でその新しい歩道を踏んで、鮨屋(すしや)の店の前あたりからある病院のトタン塀(べい)に添うて歩いて行った。植木坂は勾配(こうばい)の急な、狭い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀(れんがべい)、そこにある蔦(つた)の蔓(つる)、すべて身にしみるように思われてきた。
 下女のお徳は家のほうに私たちを待っていた。私たちが坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、もはや三年近くもお徳は私の家に奉公していた。主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥(ふと)った笑顔(えがお)を見せて、半分子供らの友だちのような、慣れ慣れしい口をきいた。
「次郎ちゃん、いい家があって?」
「だめ。」
 次郎はがっかりしたように答えて、玄関の壁の上へ鳥打帽(とりうちぼう)をかけた。私も冬の外套(がいとう)を脱いで置いて、借家さがしにくたぶれた目を自分の部屋(へや)の障子の外に移した。わずかばかりの庭も霜枯れて見えるほど、まだ春も浅かった。
 私が早く自分の配偶者(つれあい)を失い、六歳を頭(かしら)に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな生活は始まったのである。私はいろいろな人の手に子供らを託してみ、いろいろな場所にも置いてみたが、結局父としての自分が進んでめんどうをみるよりほかに、母親のない子供らをどうすることもできないのを見いだした。不自由な男の手一つでも、どうにかわが子の養えないことはあるまい、その決心にいたったのは私が遠い外国の旅から自分の子供のそばに帰って来た時であった。そのころの太郎はようやく小学の課程を終わりかけるほどで、次郎はまだ腕白盛(わんぱくざか)りの少年であった。私は愛宕下(あたごした)のある宿屋にいた。二部屋(ふたへや)あるその宿屋の離れ座敷を借り切って、太郎と次郎の二人(ふたり)だけをそこから学校へ通わせた。食事のたびには宿の女中がチャブ台などを提(さ)げながら、母屋(おもや)の台所のほうから長い廊下づたいに、私たちの部屋までしたくをしに来てくれた。そこは地方から上京するなじみの客をおもに相手としているような家で、入れかわり立ちかわり滞在する客も多い中に、子供を連れながら宿屋ずまいする私のようなものもめずらしいと言われた。
 外国の旅の経験から、私も簡単な下宿生活に慣れて来た。それを私は愛宕下(あたごした)の宿屋に応用したのだ。自分の身のまわりのことはなるべく人手を借りずに。そればかりでなく、子供にあてがう菓子も自分で町へ買いに出たし、子供の着物も自分で畳(たた)んだ。
 この私たちには、いつのまにか、いろいろな隠し言葉もできた。
「あゝ、また太郎さんが泣いちゃった。」
 私はよくそれを言った。少年の時分にはありがちなことながら、とかく兄のほうは「泣き」やすかったから、夜中に一度ずつは自分で目をさまして、そこに眠っている太郎を呼び起こした。子供の「泣いたもの」の始末にも人知れず心を苦しめた。そんなことで顔を紅(あか)めさせるでもあるまいと思ったから。
 次第に、私は子供の世界に親しむようになった。よく見ればそこにも流行というものがあって、石蹴(いしけ)り、めんこ、剣玉(けんだま)、べい独楽(ごま)というふうに、あるものははやりあるものはすたれ、子供の喜ぶおもちゃの類までが時につれて移り変わりつつある。私はまた、二人(ふたり)の子供の性質の相違をも考えるようになった。正直で、根気(こんき)よくて、目をパチクリさせるような癖のあるところまで、なんとなく太郎は義理ある祖父(おじい)さんに似てきた。それに比べると次郎は、私の甥(おい)を思い出させるような人なつこいところと気象の鋭さとがあった。この弟のほうの子供は、宿屋の亭主(ていしゅ)でもだれでもやりこめるほどの理屈屋だった。
 盆が来て、みそ萩(はぎ)や酸漿(ほおづき)で精霊棚(しょうりょうだな)を飾るころには、私は子供らの母親の位牌(いはい)を旅の鞄(かばん)の中から取り出した。宿屋ずまいする私たちも門口(かどぐち)に出て、宿の人たちと一緒に麻幹(おがら)を焚(た)いた。私たちは順に迎え火の消えた跡をまたいだ。すると、次郎はみんなの見ている前で、
「どれ三ちゃんや末ちゃんの分をもまたいで――」
 と言って、二度も三度も焼け残った麻幹(おがら)の上を飛んだ。
「ああいうところは、どうしても次郎ちゃんだ。」
 と、宿屋の亭主(ていしゅ)は快活に笑った。
 ややもすれば兄をしのごうとするこの弟の子供を制(おさ)えて、何を言われても黙って順(したが)っているような太郎の性質を延ばして行くということに、絶えず私は心を労しつづけた。その心づかいは、子供から目を離させなかった。町の空で、子供の泣き声やけんかする声でも聞きつけると、私はすぐに座をたった。離れ座敷の廊下に出てみた。それが自分の子供の声でないことを知るまでは安心しなかった。
 私のところへは来客も多かった。ある酒好きな友だちが、この私を見に来たあとで、「久しぶりでどこかへ誘おうと思ったが、ああして子供をひかえているところを見ると、どうしてもそれが言い出せなかった、」と、人に語ったという。その話を私は他の友だちの口から聞いた。でも、私も、引っ込んでばかりはいられなかった。世間に出て友だち仲間に交わりたいような夕方でも来ると、私は太郎と次郎の二人を引き連れて、いつでも腰巾着(こしぎんちゃく)づきで出かけた。
 そのうちに、私は末子をもその宿屋に迎えるようになった。私は額(ひたい)に汗する思いで、末子を迎えた。
「二人育てるも、三人育てるも、世話する身には同じことだ。」
 と、私も考え直した。長いこと親戚(しんせき)のほうに預けてあった娘が学齢に達するほど成人して、また親のふところに帰って来たということは、私に取っての新しいよろこびでもあった。そのころの末子はまだ人に髪を結ってもらって、お手玉や千代紙に余念もないほどの小娘であった。宿屋の庭のままごとに、松葉を魚(さかな)の形につなぐことなぞは、ことにその幼い心を楽しませた。兄たちの学校も近かったから、海老茶色(えびちゃいろ)の小娘らしい袴(はかま)に学校用の鞄(かばん)で、末子をもその宿屋から通わせた。にわかに夕立でも来そうな空の日には、私は娘の雨傘(あまがさ)を小わきにかかえて、それを学校まで届けに行くことを忘れなかった。
 私たち親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下(あたごした)から今の住居(すまい)のあるところまでは、歩いてもそう遠くない。電車の線路に添うて長い榎坂(えのきざか)を越せば、やがて植木坂の上に出られる。私たちは宿屋の離れ座敷にあった古い本箱や机や箪笥(たんす)なぞを荷車に載せ、相前後して今の住居(すまい)に引き移って来たのである。

 今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆(ばあ)やを一人(ひとり)雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年ごろであったから、すこし遠くても電車で私の母校のほうへ通わせ、次郎と末子の二人(ふたり)を愛宕下の学校まで毎日歩いて通わせた。そのころの私は二階の部屋(へや)に陣取って、階下を子供らと婆やにあてがった。
 しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し声や、客のおとずれや、子供らの笑う声までを手に取るように知るようになった。それもそのはずだ。餌(えさ)を拾う雄鶏(おんどり)の役目と、羽翅(はね)をひろげて雛(ひな)を隠す母鶏(ははどり)の役目とを兼ねなければならなかったような私であったから。
 どうかすると、末子のすすり泣く声が階下から伝わって来る。それを聞きつけるたびに、私はしかけた仕事を捨てて、梯子段(はしごだん)を駆け降りるように二階から降りて行った。
 私はすぐ茶の間の光景を読んだ。いきなり箪笥(たんす)の前へ行って、次郎と末子の間にはいった。太郎は、と見ると、そこに争っている弟や妹をなだめようでもなく、ただ途方に暮れている。婆やまでそこいらにまごまごしている。
 私は何も知らなかった。末子が何をしたのか、どうして次郎がそんなにまで平素のきげんをそこねているのか、さっぱりわからなかった。ただただ私は、まだ兄たち二人とのなじみも薄く、こころぼそく、とかく里心(さとごころ)を起こしやすくしている新参者(しんざんもの)の末子がそこに泣いているのを見た。
 次郎は妹のほうを鋭く見た。そして言った。
「女のくせに、いばっていやがらあ。」
 この次郎の怒気を帯びた調子が、はげしく私の胸を打った。
 兄とは言っても、そのころの次郎はようやく十三歳ぐらいの子供だった。日ごろ感じやすく、涙もろく、それだけ激しやすい次郎は、私の陰に隠れて泣いている妹を見ると、さもいまいましそうに、
「とうさんが来たと思って、いい気になって泣くない。」
「けんかはよせ。末ちゃんを打つなら、さあとうさんを打て。」
 と、私は箪笥(たんす)の前に立って、ややもすれば妹をめがけて打ちかかろうとする次郎をさえぎった。私は身をもって末子をかばうようにした。
「とうさんが見ていないとすぐこれだ。」と、また私は次郎に言った。「どうしてそうわからないんだろうなあ。末ちゃんはお前たちとは違うじゃないか。他(よそ)からとうさんの家へ帰って来た人じゃないか。」
「末ちゃんのおかげで、僕がとうさんにしかられる。」
 その時、次郎は子供らしい大声を揚げて泣き出してしまった。
 私は家の内を見回した。ちょうど町では米騒動以来の不思議な沈黙がしばらくあたりを支配したあとであった。市内電車従業員の罷業(ひぎょう)のうわさも伝わって来るころだ。植木坂の上を通る電車もまれだった。たまに通る電車は町の空に悲壮な音を立てて、窪(くぼ)い谷の下にあるような私の家の四畳半の窓まで物すごく響けて来ていた。
「家の内も、外も、嵐(あらし)だ。」
 と、私は自分に言った。
 私が二階の部屋(へや)を太郎や次郎にあてがい、自分は階下へ降りて来て、玄関側(わき)の四畳半にすわるようになったのも、その時からであった。そのうちに、私は三郎をも今の住居(すまい)のほうに迎えるようになった。私はひとりで手をもみながら、三郎をも迎えた。
「三人育てるも、四人育てるも、世話する身には同じことだ。」
 と、末子を迎えた時と同じようなことを言った。それからの私は、茶の間にいる末子のよく見えるようなところで、二階の梯子段(はしごだん)をのぼったり降りたりする太郎や次郎や三郎の足音もよく聞こえるようなところで、ずっとすわり続けてしまった。

 こんな世話も子供だからできた。私は足掛け五年近くも奉公していた婆やにも、それから今のお徳にも、串談(じょうだん)半分によくそう言って聞かせた。もしこれが年寄りの世話であったら、いつまでも一つ事を気に掛けるような年老いた人たちをどうしてこんなに養えるものではないと。
 私たちがしきりにさがした借家も容易に見当たらなかった。好ましい住居(すまい)もすくないものだった。三月の節句も近づいたころに、また私は次郎を連れて一軒別の借家を見に行って来た。そこは次郎と三郎とでくわしい見取り図まで取って来た家で、二人(ふたり)ともひどく気に入ったと言っていた。青山(あおやま)五丁目まで電車で、それから数町ばかり歩いて行ったところを左へ折れ曲がったような位置にあった。部屋の数が九つもあって、七十五円なら貸す。それでも家賃が高過ぎると思うなら、今少しは引いてもいいと言われるほど長く空屋(あきや)になっていた古い家で、造作もよく、古風な中二階などことにおもしろくできていたが、部屋が多過ぎていまだに借り手がないとのこと。よっぽど私も心が動いて帰って来たが、一晩寝て考えた上に、自分の住居(すまい)には過ぎたものとあきらめた。
 適当な借家の見当たり次第に移って行こうとしていた私の家では、障子も破れたまま、かまわずに置いてあった。それが気になるほど目について来た。せめて私は毎日ながめ暮らす身のまわりだけでも繕いたいと思って、障子の切り張りなどをしていると、そこへ次郎が来て立った。
「とうさん、障子なんか張るのかい。」
 次郎はしばらくそこに立って、私のすることを見ていた。
「引っ越して行く家の障子なんか、どうでもいいのに。」
「だって、七年も雨露(あめつゆ)をしのいで来た屋根の下じゃないか。」
 と私は言ってみせた。
 煤(すす)けた障子の膏薬(こうやく)張りを続けながら、私はさらに言葉をつづけて、
「ホラ、この前に見て来た家サ。あそこはまるで主人公本位にできた家だね。主人公さえよければ、ほかのものなぞはどうでもいいという家だ。ただ、主人公の部屋(へや)だけが立派だ。ああいう家を借りて住む人もあるかなあ。そこへ行くと、二度目に見て来た借家のほうがどのくらいいいかしれないよ。いかに言っても、とうさんの家には大き過ぎるね。」
「僕も最初見つけた時に、大き過ぎるとは思ったが――」
 この次郎は私の話を聞いているのかと思ったら、何かもじもじしていたあとで、私の前に手をひろげて見せた。
「とうさん、月給は?」
 この「月給」が私を笑わせた。毎月、私は三人の子供に「月給」を払うことにしていた。月の初めと半ばとの二度に分けて、半月に一円ずつの小遣(づかい)を渡すのを私の家ではそう呼んでいた。
「今月はまだ出さなかったかねえ。」
「とうさん、きょうは二日(ふつか)だよ。三月の二日だよ。」
 それを聞いて、私は黒いメリンスを巻きつけた兵児帯(へこおび)の間から蝦蟇口(がまぐち)を取り出した。その中にあった金を次郎に分け、ちょうどそこへ屋外(そと)からテニスの運動具をさげて帰って来た三郎にも分けた。
「へえ、末ちゃんにも月給。」
 と、私は言って、茶の間の廊下の外で古い風琴(オルガン)を静かに鳴らしている娘のところへも分けに行った。その時、銀貨二つを風琴(オルガン)の上に載せた戻(もど)りがけに、私は次郎や三郎のほうを見て、半分串談(じょうだん)の調子で、
「天麩羅(てんぷら)の立食(たちぐい)なんか、ごめんだぜ。」
「とうさん、そんな立食なんかするものか。そこは心得ているから安心しておいでよ。」と次郎は言った。
 楽しい桃の節句の季節は来る、月給にはありつく、やがて新しい住居(すまい)での新しい生活も始められる、その一日は子供らの心を浮き立たせた。末子も大きくなって、もう雛(ひな)いじりでもあるまいというところから、茶の間の床には古い小さな雛と五人囃子(ばやし)なぞをしるしばかりに飾ってあった。それも子供らの母親がまだ達者(たっしゃ)な時代からの形見(かたみ)として残ったものばかりだった。私が自分の部屋に戻(もど)って障子の切り張りを済ますころには、茶の間のほうで子供らのさかんな笑い声が起こった。お徳のにぎやかな笑い声もその中にまじって聞こえた。
 見ると、次郎は雛壇(ひなだん)の前あたりで、大騒ぎを始めた。暮れの築地(つきじ)小劇場で「子供の日」のあったおりに、たしか「そら豆の煮えるまで」に出て来る役者から見て来たらしい身ぶり、手まねが始まった。次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。
「オイ、とうさんが見てるよ。」
 と言って、三郎はそこへ笑いころげた。

 私たちの心はすでに半分今の住居(すまい)を去っていた。
 私は茶の間に集まる子供らから離れて、ひとりで自分の部屋(へや)を歩いてみた。わずかばかりの庭を前にした南向きの障子からは、家じゅうでいちばん静かな光線がさして来ている。東は窓だ。二枚のガラス戸越しに、隣の大屋(おおや)さんの高い塀(へい)と樫(かし)の樹(き)とがこちらを見おろすように立っている。その窓の下には、地下室にでもいるような静かさがある。
 ちょうど三年ばかり前に、五十日あまりも私の寝床が敷きづめに敷いてあったのも、この四畳半の窓の下だ。思いがけない病が五十の坂を越したころの身に起こって来た。私はどっと床についた。その時の私は再び起(た)つこともできまいかと人に心配されたほどで、茶の間に集まる子供らまで一時沈まり返ってしまった。
 どうかすると、子供らのすることは、病んでいる私をいらいらさせた。
「とうさんをおこらせることが、とうさんのからだにはいちばん悪いんだぜ。それくらいのことがお前たちにわからないのか。」
 それを私が寝ながら言ってみせると、次郎や三郎は頭をかいて、すごすごと障子のかげのほうへ隠れて行ったこともある。
 それからの私はこの部屋に臥(ね)たり起きたりして暮らした。めずらしく気分のよい日が来たあとには、また疲れやすく、眩暈心地(めまいごこち)のするような日が続いた。毎朝の気分がその日その日の健康を予報する晴雨計だった。私の健康も確実に回復するほうに向かって行ったが、いかに言ってもそれが遅緩で、もどかしい思いをさせた。どれほどの用心深さで私はおりおりの暗礁(あんしょう)を乗り越えようと努めて来たかしれない。この病弱な私が、ともかくも住居(すまい)を移そうと思い立つまでにこぎつけた。私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚(ほんだな)がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのようになっていた。世界を家とする巡礼者のような心であちこちと提(さ)げ回った古い鞄(かばん)――その外国の旅の形見が、まだそこに残っていた。
「子供でも大きくなったら。」
 私はそればかりを願って来たようなものだ。あの愛宕下(あたごした)の宿屋のほうで、太郎と次郎の二人(ふたり)だけをそばに置いたころは、まだそれでも自由がきいた。腰巾着(こしぎんちゃく)づきでもなんでも自分の行きたいところへ出かけられた。末子を引き取り、三郎を引き取りするうちに、目には見えなくても降り積もる雪のような重いものが、次第に深くこの私を埋(うず)めた。

 しかし私はひとりで子供を養ってみているうちに、だんだん小さなものの方へ心をひかれるようになって行った。年若い時分には私も子供なぞはどうでもいいと考えた。かえって手足まといだぐらいに考えたこともあった。知る人もすくない遠い異郷の旅なぞをしてみ、帰国後は子供のそばに暮らしてみ、次第に子供の世界に親しむようになってみると、以前に足手まといのように思ったその自分の考え方を改めるようになった。世はさびしく、時は難い。明日(あす)は、明日はと待ち暮らしてみても、いつまで待ってもそんな明日がやって来そうもない、眼前に見る事柄から起こって来る多くの失望と幻滅の感じとは、いつでも私の心を子供に向けさせた。
 そうは言っても、私が自分のすぐそばにいるものの友だちになれたわけではない。私は今の住居(すまい)に移ってから、三年も子供の大きくなるのを待った。そのころは太郎もまだ中学へ通い、婆やも家に奉公していた。釣(つ)りだ遠足だと言って日曜ごとに次郎もじっとしていなかった時代だ。いったい、次郎はおもしろい子供で、一人(ひとり)で家の内をにぎやかしていた。夕飯後の茶の間に家のものが集まって、電燈の下で話し込む時が来ると、弟や妹の聞きたがる怪談なぞを始めて、夜のふけるのも知らずに、皆をこわがらせたり楽しませたりするのも次郎だ。そのかわり、いたずらもはげしい。私がよく次郎をしかったのは、この子をたしなめようと思ったばかりでなく、一つには婆やと子供らの間を調節したいと思ったからで。太郎びいきの婆やは、何かにつけて「太郎さん、太郎さん」で、それが次郎をいらいらさせた。
 この次郎がいつになく顔色を変えて、私のところへやって来たことがある。
「わがままだ、わがままだって、どこが、わがままだ。」
 見ると次郎は顔色も青ざめ、少年らしい怒りに震えている。何がそんなにこの子を憤らせたのか、よく思い出せない。しかし、私も黙ってはいられなかったから、
「お前のあばれ者は研究所でも評判だというじゃないか。」
「だれが言った――」
「弥生町(やよいちょう)の奥さんがいらしった時に、なんでもそんな話だったぜ。」
「知りもしないくせに――」
 次郎が私に向かって、こんなふうに強く出たことは、あとにも先にもない。急に私は自分を反省する気にもなったし、言葉の上の争いになってもつまらないと思って、それぎり口をつぐんでしまった。
 次郎がぷいと表へ出て行ったあとで、太郎は二階の梯子段(はしごだん)を降りて来た。その時、私は太郎をつかまえて、
「お前はあんまりおとなし過ぎるんだ。お前が一番のにいさんじゃないか。次郎ちゃんに言って聞かせるのも、お前の役じゃないか。」
 太郎はこの側杖(そばづえ)をくうと、持ち前のように口をとがらしたぎり、物も言わないで引き下がってしまった。そういう場合に、私のところへ来て太郎を弁護するのは、いつでも婆やだった。
 しかし、私は子供をしかって置いては、いつでもあとで悔いた。自分ながら、自分の声とも思えないような声の出るにあきれた。私はひとりでくちびるをかんで、仕事もろくろく手につかない。片親の悲しさには、私は子供をしかる父であるばかりでなく、そこへ提(さ)げに出る母をも兼ねなければならなかった。ちょうど三時の菓子でも出す時が来ると、一人(ひとり)で二役を兼ねる俳優のように、私は母のほうに早がわりして、茶の間の火鉢(ひばち)のそばへ盆を並べた。次郎の好きな水菓子なぞを載せて出した。
「さあ、次郎ちゃんもおあがり。」
 すると、次郎はしぶしぶそれを食って、やがてきげんを直すのであった。
 私の四人の子供の中で、三郎は太郎と三つちがい、次郎とは一つちがいの兄弟(きょうだい)にあたる。三郎は次郎のあばれ屋ともちがい、また別の意味で、よく私のほうへ突きかかって来た。何をこしらえて食わせ、何を買って来てあてがっても、この子はまだ物足りないような顔ばかりを見せた。私の姉の家のほうから帰って来たこの子は、容易に胸を開こうとしなかったのである。上に二人(ふたり)も兄があって絶えず頭を押えられることも、三郎を不平にしたらしい。それに、次郎びいきのお徳が婆やにかわって私の家へ奉公に来るようになってからは、今度は三郎が納まらない。ちょうど婆やの太郎びいきで、とかく次郎が納まらなかったように。
「三ちゃん、人をつねっちゃいやですよ。ひどいことをするのねえ、この人は。」
「なんだ。なんにもしやしないじゃないか。ちょっとさわったばかりじゃないか――」
 お徳と三郎の間には、こんな小ぜり合いが絶えなかった。
「とうさんはお前たちを悪くするつもりでいるんじゃないよ。お前たちをよくするつもりで育てているんだよ。かあさんでも生きててごらん、どうして言うことをきかないような子供は、よっぽどひどい目にあうんだぜ――あのかあさんは気が短かかったからね。」
 それを私は子供らに言い聞かせた。あまり三郎が他人行儀なのを見ると、時には私は思い切り打ち懲らそうと考えたこともあった。ところが、ちいさな時分から自分のそばに置いた太郎や次郎を打ち懲らすことはできても、十年他(よそ)に預けて置いた三郎に手を下すことは、どうしてもできなかった。ある日、私は自分の忿(いか)りを制(おさ)えきれないことがあって、今の住居(すまい)の玄関のところで、思わずそこへやって来た三郎を打った。不思議にも、その日からの三郎はかえって私になじむようになって来た。その時も私は自分の手荒な仕打ちをあとで侮いはしたが。
「十年他(よそ)へ行っていたものは、とうさんの家へ帰って来るまでに、どうしたってまた十年はかかる。」
 私はそれを家のものに言ってみせて、よく嘆息した。
 私たちが住み慣れた家の二階は東北が廊下になっている。窓が二つある。その一つからは、小高い石垣(いしがき)と板塀(いたべい)とを境に、北隣の家の茶の間の白い小障子まで見える。三郎はよくその窓へ行った。遠い郷里のほうの木曽川(きそがわ)の音や少年時代の友だちのことなぞを思い出し顔に、その窓のところでしきりに鶯(うぐいす)のなき声のまねを試みた。
「うまいもんだなあ。とても鶯(うぐいす)の名人だ。」
 三郎は階下の台所に来て、そこに働いているお徳にまで自慢して聞かせた。
 ある日、この三郎が私のところへ来て言った。
「とうさん、僕の鶯(うぐいす)をきいた? 僕がホウヽホケキョとやると、隣の家のほうでもホウヽホケキョとやる。僕は隣の家に鶯が飼ってあるのかと思った。それほど僕もうまくなったかなあと思った。ところがねえ、本物の鶯が僕に調子を合わせていると思ったのは、大間違いサ。それが隣の家に泊まっている大学生サ。」
 何かしら常に不満で、常にひとりぼっちで、自分のことしか考えないような顔つきをしている三郎が、そんな鶯(うぐいす)のまねなぞを思いついて、寂しい少年の日をわずかに慰めているのか。そう思うと、私はこの子供を笑えなかった。
「かあさんさえ達者(たっしゃ)でいたら、こんな思いを子供にさせなくとも済んだのだ。もっと子供も自然に育つのだ。」
 と、私も考えずにはいられなかった。
 私が地下室にたとえてみた自分の部屋(へや)の障子へは、町の響きが遠く伝わって来た。私はそれを植木坂の上のほうにも、浅い谷一つ隔てた狸穴(まみあな)の坂のほうにも聞きつけた。私たちの住む家は西側の塀(へい)を境に、ある邸(やしき)つづきの抜け道に接していて、小高い石垣(いしがき)の上を通る人の足音や、いろいろな物売りの声がそこにも起こった。どこの石垣のすみで鳴くとも知れないような、ほそぼそとした地虫(じむし)の声も耳にはいる。私は庭に向いた四畳半の縁先へ鋏(はさみ)を持ち出して、よく延びやすい自分の爪(つめ)を切った。
 どうかすると、私は子供と一緒になって遊ぶような心も失ってしまい、自分の狭い四畳半に隠れ、庭の草木を友として、わずかにひとりを慰めようとした。子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱(ゆううつ)にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護(まも)ろうとする心に帰って行った。

 安い思いもなしに、移り行く世相をながめながら、ひとりでじっと子供を養って来た心地(ここち)はなかった。しかし子供はそんな私に頓着(とんじゃく)していなかったように見える。
 七年も見ているうちには、みんなの変わって行くにも驚く。震災の来る前の年あたりには太郎はすでに私のそばにいなかった。この子は十八の歳(とし)に中学を辞して、私の郷里の山地のほうで農業の見習いを始めていた。これは私の勧めによることだが、太郎もすっかりその気になって、長いしたくに取りかかった。ラケットを鍬(くわ)に代えてからの太郎は、学校時代よりもずっと元気づいて来て、翌年あたりにはもう七貫目ほどの桑を背負いうるような若者であった。
 次郎と三郎も変わって来た。私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂(ふろ)を浴びに、鼠坂(ねずみざか)から森元町(もりもとちょう)の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟(きょうだい)二人(ふたり)とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。私の顔色はまだ悪かった。私は小田原(おだわら)の海岸まで保養を思い立ったこともある。その時も次郎は先に立って、弟と一緒に、小田原の停車場まで私を送りに来た。
 やがて大地震だ。私たちは引き続く大きな異変の渦(うず)の中にいた。私が自分のそばにいる兄妹(きょうだい)三人の子供の性質をしみじみ考えるようになったのも、早川(はやかわ)賢(けん)というような思いがけない人の名を三郎の口から聞きつけるようになったのも、そのころからだ。
 毎日のような三郎の「早川賢、早川賢」は家のものを悩ました。きのうは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通ったとか、きょうは焼け跡へ焼け跡へと歩いて行く人たちが舞い上がる土ぼこりの中に続いたとか、そういう混雑がやや沈まって行ったころに、幾万もの男や女の墓地のような焼け跡から、三つの疑問の死骸(しがい)が暗い井戸の中に見いだされたという驚くべきうわさが伝わった。
「あゝ――早川賢もついに死んでしまったか。」
 この三郎の感傷的な調子には受け売りらしいところもないではなかったが、まだ子供だ子供だとばかり思っていたものがもはやこんなことを言うようになったかと考えて、むしろ私にはこの子の早熟が気にかかった。
 震災以来、しばらく休みの姿であった洋画の研究所へも、またポツポツ研究生の集まって行くころであった。そこから三郎が目を光らせて帰って来るたびにいつでも同じ人のうわさをした。
「僕らの研究所にはおもしろい人がいるよ。『早川賢だけは、生かして置きたかったねえ』――だとサ。」
 無邪気な三郎の顔をながめていると、私はそう思った。どれほどの冷たい風が毎日この子の通う研究所あたりまでも吹き回している事かと。私はまた、そう思った。あの米騒動以来、だれしもの心を揺り動かさずには置かないような時代の焦躁(しょうそう)が、右も左もまだほんとうにはよくわからない三郎のような少年のところまでもやって来たかと。私は屋外(そと)からいろいろなことを聞いて来る三郎を見るたびに、ちょうど強い雨にでもぬれながら帰って来る自分の子供を見る気がした。
 私たちの家では、坂の下の往来への登り口にあたる石段のそばの塀(へい)のところに、大きな郵便箱を出してある。毎朝の新聞はそれで配達を受けることにしてある。取り出して来て見ると、一日として何か起こっていない日はなかった。あの早川賢が横死(おうし)を遂げた際に、同じ運命を共にさせられたという不幸な少年一太のことなぞも、さかんに書き立ててあった。またかと思うような号外売りがこの町の界隈(かいわい)へも鈴を振り立てながら走ってやって来て、大げさな声で、そこいらに不安をまきちらして行くだけでも、私たちの神経がとがらずにはいられなかった。私は、年もまだ若く心も柔らかい子供らの目から、殺人、強盗、放火、男女の情死、官公吏の腐敗、その他胸もふさがるような記事で満たされた毎日の新聞を隠したかった。あいにくと、世にもまれに見る可憐(かれん)な少年の写真が、ある日の紙面の一隅(いちぐう)に大きく掲げてあった。評判の一太だ。美しい少年の生前の面影(おもかげ)はまた、いっそうその死をあわれに見せていた。
 末子やお徳は茶の間に集まって、その日の新聞をひろげていた。そこへ三郎が研究所から帰って来た。
「あ――一太。」
 三郎はすぐにそれへ目をつけた。読みさしの新聞を妹やお徳の前に投げ出すようにして言った。
「こんな、罪もない子供までも殺す必要がどこにあるだろう――」
 その時の三郎の調子には、子供とも思えないような力があった。
 しかし、これほどの熱狂もいつのまにか三郎の内を通り過ぎて行った。伸び行くさかりの子供は、一つところにとどまろうとしていなかった。どんどんきのうのことを捨てて行った。
「オヤ――三ちゃんの『早川賢』もどうしたろう。」
 と、ふと私が気づいたころは、あれほど一時大騒ぎした人の名も忘れられて、それが「木下(きのした)繁(しげる)、木下繁」に変わっていた。木下繁ももはや故人だが、一時は研究所あたりに集まる青年美術家の憧憬(どうけい)の的(まと)となった画家で、みんなから早い病死を惜しまれた人だ。
 その時になって見ると、新しいものを求めて熱狂するような三郎の気質が、なんとなく私の胸にまとまって浮かんで来た。どうしてこの子がこんなに大騒ぎをやるかというに――早川賢にしても、木下繁にしても――彼らがみんな新しい人であるからであった。
「とうさんは知らないんだ――僕らの時代のことはとうさんにはわからないんだ。」
 訴えるようなこの子の目は、何よりも雄弁にそれを語った。私もまんざら、こうした子供の気持ちがわからないでもない。よりすぐれたものとなるためには、自分らから子供を叛(そむ)かせたい――それくらいのことは考えない私でもない。それにしても、少年らしい不満でさんざん子供から苦しめられた私は、今度はまた新しいもので責められるようになるのかと思った。
 末子も目に見えてちがって来た、堅肥(かたぶと)りのした体格から顔つきまで、この娘はだんだんみんなの母親に似て来た。上(うえ)は男の子供ばかりの殺風景な私の家にあっては、この娘が茶の間の壁のところに小乾(さぼ)す着物の類も目につくようになった。それほど私の家には女らしいものも少なかった。
 今の住居(すまい)の庭は狭くて、私が猫(ねこ)の額(ひたい)にたとえるほどしかないが、それでも薔薇(ばら)や山茶花(さざんか)は毎年のように花が絶えない。花の好きな末子は茶の間から庭へ降りて、わずかばかりの植木を見に行くことにも学校通いの余暇を慰めた。今の住居(すまい)の裏側にあたる二階の窓のところへは、巣をかけに来る蜂(はち)があって、それが一昨年(おととし)も来、去年も来、何か私の家にはよい事でもある前兆のように隣近所の人たちから騒がれたこともある。末子はその窓の見える抜け道を通っては毎日学校のほうから帰って来た。そして、好きな裁縫や編み物のような、静かな手芸に飽きることを知らないような娘であった。そろそろ女の洋服がはやって来て、女学校通いの娘たちが靴(くつ)だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着(うわぎ)に襟(えり)のところだけ紫の刺繍(ぬい)のしてある質素な服をつくった。その短い上着のまま、早い桃の実の色した素足(すあし)を脛(すね)のあたりまであらわしながら、茶の間を歩き回るなぞも、今までの私の家には見られなかった図だ。
 この娘がぱったり洋服を着なくなった。私も多少本場を見て来たその自分の経験から、「洋服のことならとうさんに相談するがいいぜ」なぞと末子に話したり、帯で形をつけることは東西の風俗ともに変わりがないと言い聞かせたりして、初めて着せて見る娘の洋服には母親のような注意を払った。十番で用の足りないものは、銀座(ぎんざ)まで買いにお徳を娘につけてやった。それほどにして造りあげた帽子も、服も、付属品いっさいも、わずか二月(ふたつき)ほどの役にしか立たないとを知った時に私も驚いた。
「串談(じょうだん)じゃないぜ。あの上着は十八円もかかってるよ。そんなら初めから洋服なぞを造らなければいいんだ。」
 日ごろ父一人(ひとり)をたよりにしている娘も、その時ばかりは私の言うことを聞き入れようとしなかった。お徳がそこへ来て、
「どうしても末子さんは着たくないんだそうですよ。洋服はもういらないから、ほしい人があったらだれかにあげてくだすってもいいなんて……」
 こういう場合に、末子の代弁をつとめるのは、いつでもこの下女だった。それにしても、どうかして私はせっかく新調したものを役に立てさせたいと思って、
「洋服を着るんなら、とうさんがまた築地(つきじ)小劇場をおごる。」
 と言ってみせた。すると、お徳がまた娘の代わりに立って来て、
「築地へは行きたいし、どうしても洋服は着たくないし……」
 それが娘の心持ちだった。その時、お徳はこんなこともつけたして言った。
「よくよく末子さんも、あの洋服がいやになったと見えますよ。もしかしたら、屑屋(くずや)に売ってくれてもいいなんて……」これほどの移りやすさが年若(としわか)な娘の内に潜んでいようとは、私も思いがけなかった。でも、私も子に甘い証拠には、何かの理由さえあれば、それで娘のわがままを許したいと思ったのである。お徳に言わせると、末子の同級生で新調の校服を着て学校通いをするような娘は今は一人もないとのことだった。
「そんなに、みんな迷っているのかなあ。」
「なんでも『赤襟(あかえり)のねえさん』なんて、次郎ちゃんたちがからかったものですから、あれから末子さんも着なくなったようですよ。」
「まあ、あの洋服はしまって置くサ。また役に立つ日も来るだろう。」
 とうとう私には娘のわがままを許せるほどのはっきりした理由も見当たらずじまいであった。私は末子の「洋服」を三郎の「早川賢」や「木下繁」にまで持って行って、娘は娘なりの新しいものに迷い苦しんでいるのかと想(おも)ってみた。時には私は用達(ようたし)のついでに、坂の上の電車路(みち)を六本木(ろっぽんぎ)まで歩いてみた。婦人の断髪はやや下火でも、洋装はまだこれからというころで、思い思いに流行の風俗を競おうとするような女学校通いの娘たちが右からも左からもあの電車の交差点(こうさてん)に群がり集まっていた。
 私たち親子のものが今の住居(すまい)を見捨てようとしたころには、こんな新しいものも遠い「きのう」のことのようになっていた。三郎なぞは、「木下繁」ですらもはや問題でないという顔つきで、フランス最近の画界を代表する人たち――ことに、ピカソオなぞを口にするような若者になっていた。
「とうさん、今度来たビッシェールの画(え)はずいぶん変わっているよ。あの人は、どんどん変わって行く――確かに、頭がいいんだろうね。」
 この子の「頭がいいんだろうね」には私も吹き出してしまった。
 私の話相手――三人の子供はそれぞれに動き変わりつつあった。三人の中でも兄(にい)さん顔の次郎なぞは、五分刈(ごぶが)りであった髪を長めに延ばして、紺飛白(こんがすり)の筒袖(つつそで)を袂(たもと)に改めた――それもすこしきまりの悪そうに。顔だけはまだ子供のようなあの末子までが、いつのまにか本裁(ほんだち)の着物を着て、女らしい長い裾(すそ)をはしょりながら、茶の間を歩き回るほどに成人した。

「子供でも大きくなったら。」
 長いこと待ちに待ったその日が、ようやく私のところへやって来るようになった。しかしその日が来るころには、私はもう動けないような人になってしまうかと思うほど、そんなに長くすわり続けた自分を子供らのそばに見いだした。
「強い嵐(あらし)が来たものだ。」
 と、私は考えた。
「とうさん――家はありそうで、なかなかないよ。僕と三ちゃんとで毎日のように歩いて見た。二人(ふたり)ですっかりさがして見た。この麻布(あざぶ)から青山へんへかけて、もう僕らの歩かないところはない……」
 と、次郎が言うころは、私たちの借家さがしもひと休みの時だった。なるべく末子の学校へ遠くないところに、そんな注文があった上に、よさそうな貸し家も容易に見当たらなかったのである。あれからまた一軒あるにはあって、借り手のつかないうちにと大急ぎで見に行って来た家は、すでに約束ができていた。今の住居(すまい)の南隣に三年ばかりも住んだ家族が、私たちよりも先に郊外のほうへ引っ越して行ってしまってからは、いっそう周囲もひっそりとして、私たちの庭へ来る春もおそかった。
 めずらしく心持ちのよい日が私には続くようになった。私は庭に向いた部屋(へや)の障子をあけて、とかく気になる自分の爪(つめ)を切っていた。そこへ次郎が来て、
「とうさんはどこへも出かけないんだねえ。」
 と、さも心配するように、それを顔にあらわして言った。
「どうしてとうさんの爪はこう延びるんだろう。こないだ切ったばかりなのに、もうこんなに延びちゃった。」
 と、私は次郎に言ってみせた。貝爪(かいづめ)というやつで、切っても、切っても、延びてしかたがない。こんなことはずっと以前には私も気づかなかったことだ。
「とうさんも弱くなったなあ。」
 と言わぬばかりに、次郎はややしばらくそこにしゃがんで、私のすることを見ていた。ちょうど三郎も作画に疲れたような顔をして、油絵の筆でも洗いに二階の梯子段(はしごだん)を降りて来た。
「御覧、お前たちがみんなでかじるもんだから、とうさんの脛(すね)はこんなに細くなっちゃった。」
 私は二人の子供の前へ自分の足を投げ出して見せた。病気以来肉も落ち痩(や)せ、ずっと以前には信州の山の上から上州(じょうしゅう)下仁田(しもにた)まで日に二十里の道を歩いたこともある脛(すね)とは自分ながら思われなかった。
「脛(すね)かじりと来たよ。」
 次郎は弟のほうを見て笑った。
「太郎さんを入れると、四人もいてかじるんだから、たまらないや。」
 と、三郎も半分他人の事のように言って笑った。そこへ茶の間の唐紙(からかみ)のあいたところから、ちょいと笑顔(えがお)を見せたのは末子だ。脛かじりは、ここにも一人(ひとり)いると言うかのように。
 その時まで、三郎は何かもじもじして、言いたいことも言わずにいるというふうであったが、
「とうさん――ホワイトを一本と、テラ・ロオザを一本買ってくれない? 絵の具が足りなくなった。」
 こう切り出した。
「こないだ買ったばかりじゃないか。」
「だって、足りないものは足りないんだもの。絵の具がなけりゃ、何も描(か)けやしない。」
 と、三郎は不平顔である。すると、次郎はさっそく弟の言葉をつかまえて、
「あ――またかじるよ。」
 この次郎の串談(じょうだん)が、みんなを吹き出させた。
 私は子供らに出して見せた足をしまって、何げなく自分の手のひらをながめた。いつでも自分の手のひらを見ていると、自分の顔を見るような気のするのが私の癖だ。いまいましいことばかりが胸に浮かんで来た。私はこの四畳半の天井からたくさんな蛆(うじ)の落ちたことを思い出した。それが私の机のそばへも落ち、畳の上へも落ち、掃いても掃いても落ちて来る音のしたことを思い出した。何が腐り爛(ただ)れたかと薄気味悪くなって、二階の部屋(へや)から床板(ゆかいた)を引きへがして見ると、鼠(ねずみ)の死骸(しがい)が二つまでそこから出て来て、その一つは小さな動物の骸骨でも見るように白く曝(さ)れていたことを思い出した。私は恐ろしくなった。何かこう自分のことを形にあらわして見せつけるようなものが、しかもそれまで知らずにいた自分のすぐ頭の上にあったことを思い出した。
 その時になって見ると、過ぐる七年を私は嵐(あらし)の中にすわりつづけて来たような気もする。私のからだにあるもので、何一つその痕跡(こんせき)をとどめないものはない。髪はめっきり白くなり、すわり胼胝(だこ)は豆のように堅く、腰は腐ってしまいそうに重かった。朝寝の枕(まくら)もとに煙草盆(たばこぼん)を引きよせて、寝そべりながら一服やるような癖もついた。私の姉がそれをやった時分に、私はまだ若くて、年取った人たちの世界というものをのぞいて見たように思ったことを覚えているが、ちょうど今の私がそれと同じ姿勢で。
 私はもう一度、自分の手を裏返しにして、鏡でも見るようにつくづくと見た。
「自分の手のひらはまだ紅(あか)い。」
 と、ひとり思い直した。
 午後のいい時を見て、私たちは茶の間の外にある縁側に集まった。そこには私の意匠した縁台が、縁側と同じ高さに、三尺ばかりも庭のほうへ造り足してあって、蘭(らん)、山査子(さんざし)などの植木鉢(ばち)を片すみのほうに置けるだけのゆとりはある。石垣(いしがき)に近い縁側の突き当たりは、壁によせて末子の小さい風琴(オルガン)も置いてあるところで、その上には時々の用事なぞを書きつける黒板も掛けてある。そこは私たちが古い籐椅子(とういす)を置き、簡単な腰掛け椅子を置いて、互いに話を持ち寄ったり、庭をながめたりして来た場所だ。毎年夏の夕方には、私たちが茶の間のチャブ台を持ち出して、よく簡単な食事に集まったのもそこだ。
 庭にあるおそ咲きの乙女椿(おとめつばき)の蕾(つぼみ)もようやくふくらんで来た。それが目につくようになって来た。三郎は縁台のはなに立って、庭の植木をながめながら、
「次郎ちゃん、ここの植木はどうなるんだい。」
 この弟の言葉を聞くと、それまで妹と一緒に黒板の前に立って何かいたずら書きをしていた次郎が、白墨をそこに置いて三郎のいるほうへ行った。
「そりゃ、引っこ抜いて持って行ったって、かまうもんか――もとからここの庭にあった植木でさえなければ。」
「八つ手も大きくなりやがったなあ。」
「あれだって、とうさんが植えたんだよ。」
「知ってるよ。山茶花(さざんか)だって、薔薇(ばら)だって、そうだろう。あの乙女椿(おとめつばき)だって、そうだろう。」
 気の早い子供らは、八つ手や山茶花を車に積んで今にも引っ越して行くような調子に話し合った。
「そんなにお前たちは無造作に考えているのか。」と、私はそこにある籐椅子(とういす)を引きよせて、話の仲間にはいった。「とうさんぐらいの年齢(とし)になってごらん、家というものはそうむやみに動かせるものでもないに。」
「どこかにいい家はないかなあ。」
 と言い出すのは三郎だ。すると次郎は私と三郎の間に腰掛けて、
「そう、そう、あの青山の墓地の裏手のところが、まだすこし残ってる。この次ぎにはあそこを歩いて見るんだナ。」
「なにしろ、日あたりがよくて、部屋(へや)の都合がよくて、庭もあって、それで安い家と来るんだから、むずかしいや。」と、三郎は混ぜ返すように笑い出した。
「もっと大きい家ならある。」と次郎も私に言ってみせた。「五間か六間というちょうどいいところがない。これはと思うような家があっても、そういうところはみんな人が住んでいてネ。」
「とうさん、五間で四十円なんて、こんな安い家をさがそうたって無理だよ。」
「そりゃ、ここの家は例外サ。」と、私は言った。「まあ、ゆっくりさがすんだナ。」
「なにも追い立てをくってるわけじゃないんだから――ここにいたって、いられないことはないんだから。」
 こう次郎も兄(にい)さんらしいところを見せた。
 やがて自分らの移って行く日が来るとしたら、どんな知らない人たちがこの家に移り住むことか。そんなことがしきりに思われた。庭にある山茶花(さざんか)でも、つつじでも、なんど私が植え替えて手入れをしたものかしれない。暇さえあれば箒(ほうき)を手にして、自分の友だちのようにそれらの木を見に行ったり、落ち葉を掃いたりした。過ぐる七年の間のことは、そこの土にもここの石にもいろいろな痕跡(こんせき)を残していた。
 いつのまにか末子は黒板の前を離れて、霜どけのしている庭へ降りて行った。
「次郎ちゃん、芍薬(しゃくやく)の芽が延びてよ。」
 末子は庭にいながら呼んだ。
「蔦(つた)の芽も出て来たわ。」
 と、また石垣(いしがき)の近くで末子の呼ぶ声も起こった。

 遠い山地のほうにできかけている新しい家が、別にこの私たちに見えて来た。こんな落ちつかない気持ちで今の住居(すまい)に暮らしているうちにも、そのうわさが私たちの間に出ない日はなかった。私は郷里のほうに売り物に出た一軒の農家を太郎のために買い取ったからである。それを峠の上から村の中央にある私たちの旧家の跡に移し、前の年あたりから大工を入れ、新しい工事を始めさせていた。太郎もすでに四年の耕作の見習いを終わり、雇い入れた一人(ひとり)の婆(ばあ)やを相手にまだ工事中の新しい家のほうに移ったと知らせて来た。彼もどうやら若い農夫として立って行けそうに見えて来た。
 いったい、私が太郎を田舎(いなか)に送ったのは、もっとあの子を強くしたいと考えたからで。土に親しむようになってからの太郎は、だんだん自分の思うような人になって行った。それでも私は遠く離れている子の上を案じ暮らして、自分が病気している間にも一日もあの山地のほうに働いている太郎のことを忘れなかった。郷里のほうから来るたよりはどれほどこの私を励ましたろう。私はまた次郎や三郎や末子と共に、どれほどそれを読むのを楽しみにしたろう。そういう私はいまだに都会の借家ずまいで、四畳半の書斎でも事は足りると思いながら、自分の子のために永住の家を建てようとすることは、われながら矛盾した行為だと考えたこともある。けれども、これから新規に百姓生活にはいって行こうとする子には、寝る場所、物食う炉ばた、土を耕す農具の類からして求めてあてがわねばならなかった。
 私の四畳半に置く机の抽斗(ひきだし)の中には、太郎から来た手紙やはがきがしまってある。その中には、もう麦を蒔(ま)いたとしたのもある。工事中の家に移って障子を張り唐紙(からかみ)を入れしてみたら、まるで別の家のように見えて来たとしたのもある。これが自分の家かと思うと、なんだか恐ろしいようなうれしいような気がして来たとしたのもある。だれに気兼ねもなく、新しい木の香のする炉ばたにあぐらをかいて、飯をやっているところだとしたのもある。
 ふとしたことから、私は手にしたある雑誌の中に、この遠く離れている子の心を見つけた。それには父を思う心が寄せてあって、いろいろなことがこまごまと書きつけてあった。四人の兄妹(きょうだい)の中での長男として、自分はいちばん長く父のそばにいて見たから、それだけ親しみを感ずる心も深いとしたところがあり、それからまた、父の勧農によって自分もその気になり、今では鍬(くわ)を手にして田園の自然を楽しむ身であるが、四年の月日もむなしく過ぎて行った、これからの自分は新しい家にいて新しい生活を始めねばならない、時には自分は土を相手に戦いながら父のことを思って涙ぐむことがあるとしたところもあり、その中にはまた、父もこの家を見ることを楽しみにして郷里の土を踏むような日もやがて来るだろう、寺の鐘は父の健康を祈るかのように、山に沈む夕日は何かの深い暗示を自分に投げ与えるように消えて行くとしてあったのを覚えている。
 最近に、また私は太郎からのはがきを受け取っていた。それによって私はあの山地のほうにできかけている農家の工事が風呂場(ふろば)を造るほどはかどったことを知った。なんとなく鑿(のみ)や槌(つち)の音の聞こえて来るような気もした。こんなに私にも気分のいい日が続いて行くようであったら、おりを見て、あの新しい家を見に行きたいと思う心が動いた。

 長いこと私は友だちも訪(たず)ねない。日がな一日寂寞(せきばく)に閉ざされる思いをして部屋(へや)の黄色い壁も慰みの一つにながめ暮らすようなことは、私に取ってきょうに始まったことでもない。母親のない幼い子供らをひかえるようになってから、三年もたつうちに、私はすでに同じ思いに行き詰まってしまった。しかし、そのころの私はまだ四十二の男の厄年(やくどし)を迎えたばかりだった。重い病も、老年の孤独というものも知らなかった。このまますわってしまうのかと思うような、そんな恐ろしさはもとより知らなかった。「みんな、そうですよ。子供が大きくなる時分には、わがからだがきかなくなりますよ。」と、私に言ってみせたある婆(ばあ)さんもある。あんな言葉を思い出して見るのも堪(た)えがたかった。
「とうさん、どこへ行くの。」
 ちょっと私が屋外(そと)へ出るにも、そう言って声を掛けるのが次郎の癖だ。植木坂の下あたりには、きまりでそのへんの門のわきに立ち話する次郎の旧(ふる)い遊び友だちを見いだす。ある若者は青山師範へ。ある若者は海軍兵学校へ。七年の月日は私の子供を変えたばかりでなく、子供の友だちをも変えた。
 居住者として町をながめるのもその春かぎりだろうか、そんな心持ちで私は鼠坂(ねずみざか)のほうへと歩いた。毎年のように椿(つばき)の花をつける静かな坂道がそこにある。そこにはもう春がやって来ているようにも見える。
 私の足はあまり遠くへ向かわなかった。病気以来、ことにそうなった。何か特別の用事でもないかぎり、私は樹木の多いこの町の界隈(かいわい)を歩き回るだけに満足した。そして、散歩の途中でも家のことが気にかかって来るのが私の癖のようになってしまった。「とうさん、僕たちが留守居するよ。」と、次郎なぞが言ってくれる日を迎えても、ただただ私の足は家の周囲を回りに回った。あらゆる嵐(あらし)から自分の子供を護(まも)ろうとした七年前と同じように。
「旦那(だんな)さん。もうお帰りですか。」
 と言って、下女のお徳がこの私を玄関のところに迎えた。お徳の白い割烹着(かっぽうぎ)も、見慣れるうちにそうおかしくなくなった。
「次郎ちゃんは?」
「お二階で御勉強でしょう。」
 それを聞いてから、私は両手に持てるだけ持っていた袋包みをどっかとお徳の前に置いた。
「きょうはみんなの三時にと思って、林檎(りんご)を買って来た。ついでに菓子も買って来た。」
「旦那さんのように、いろいろなものを買って提(さ)げていらっしゃるかたもない。」
「そう言えば、鼠坂(ねずみざか)の椿(つばき)が咲いていたよ。今にもうおれの家の庭へも春がやって来るよ。」
 そんな話をして置いて、私は自分の部屋(へや)へ行った。
 私の心はなんとなく静かでなかった。実は私は次郎の将来を考えたあげく、太郎に勧めたとは別の意味で郷里に帰ることを次郎にも勧めたいと思いついたからで。
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