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著者名:島崎藤村 

 物置蔵の側(わき)を帰りかけた頃、お種は娘と並んで歩きながら、「お仙や、お前は三吉叔父さん、三吉叔父さんと、毎日言い暮していたッけが――どうだね、三吉叔父さんが被入(いら)しって嬉しいかね」 と母に言われて、お仙はどう思うことを言い表して可いか解らないという風であった。この無邪気な娘は、唯、「ええ、ええ」と力を入れて言っていた。 庭伝いに奥座敷へ上ってから、お種は沢田という老人を三吉に紹介した。この老人は、直樹の叔父にあたる非常な神経家で、潔癖が嵩(こう)じて一種の痼疾(こしつ)のように成っていたが、平素(ふだん)癇(かん)の起らない時は口の利(き)きようなども至極丁寧にする人である。 老人は三吉に向って、よく直樹を東京から連れて来てくれたと言って、先(ま)ずその礼を述べた。「三吉」と姉は引取って、「この沢田さんは、やはりお前さんの父親(おとっ)さんのように、国学や神道の御話が好きで……父親さんが生きてる時分には、よく沢田さんの御宅へ伺っては、歌なぞを咏(よ)んだものだぞや」 こうお種が言出したので、老人も思出したように、「ええ……左様(さよう)だ……貴方がたの父親さんは、こう大きな懐(ふところ)をして、一ぱい書籍(ほん)を捩込(ねじこ)んでは歩かっせる人で……」 思わず三吉は、この姉の家で、父の旧友の一人に逢(あ)った。背の低い、瘠(やせ)ぎすな、武士らしい威厳を帯びた、憂鬱と老年とで震えているような人を見た。三吉も狂死した父のことを考える年頃である。 主人の達雄は高い心の調子でいる時であった。中の間にある古い柱の下が日々の業務を執るところで、番頭や手代と机を並べて、朝は八時頃から日の暮れるまで倦(う)むことを知らずに働いた。沈香(じんこう)、麝香(じゃこう)、人参(にんじん)、熊(くま)の胆(い)、金箔(きんぱく)などの仕入、遠国から来る薬の注文、小包の発送、その他達雄が監督すべきことは数々あった。包紙の印刷は何程(どれほど)用意してあるか、秋の行商の準備(したく)は何程出来たか、と達雄は気を配って、時には帳簿の整理のかたわら、自分でも包紙を折ったり、印紙を貼(は)ったりして、店の奉公人を助け励ました。 そればかりでは無い。達雄は地方の紳士として、外部(そと)から持込んで来る相談にも預り、種々(いろいろ)土地の為に尽さなければ成らない事も多かった。尤(もっと)も、政党の争闘(あらそい)などはなるべく避けている方で、祖先から伝わった業務の方に主(おも)に身を入れた。達雄の奮発と勉強とは東京から来た三吉を驚かした位である。 三吉が着いて三日目にあたる頃、連(つれ)の直樹は親戚の家へ遊びに行った。その日は午後から達雄も仕事を休んで、奥座敷の方に居た。そこは家のものの居間にしてあるところで、襖(ふすま)一つ隔てて娘達の寐(ね)る部屋に続いている。「お仙や」とお種は茶戸棚の前に坐りながら呼んだ。お仙は次の新座敷に小机を控えて、余念もなく薬の包紙を折っていたが、その時面長な笑顔を出した。「お前さんも御休みなさい。皆なで御茶を頂きましょう」 とお種に言われて、お仙は母の側へ来て、近過ぎるほど顔を寄せた。母の許を得たということがこの娘に取って何よりも嬉しかった。 三吉も入って来た。「貴方」とお種は夫の方を見て、「ちょっとまあ見てやって下さい。三吉がそこへ来て坐った様子は、どうしても父親(おとっ)さんですよ……手付(てつき)なぞは兄弟中で彼(あれ)が一番克(よ)く似てますよ」「阿爺(おやじ)もこんな不恰好(ぶかっこう)な手でしたかね」と三吉は笑いながら自分の手を眺める。 お種も笑って、「父親さんが言うには、三吉は一番学問の好きな奴だで、彼奴(あいつ)だけには俺(おれ)の事業(しごと)を継がせにゃならん……何卒(どうか)して彼奴だけは俺の子にしたいもんだなんて、よくそう言い言いしたよ」 三吉は姉の顔を眺めた。「あの可畏(こわ)い阿爺が生きていて、私達の為(し)てることを見ようものなら、それこそ大変です。弓の折かなんかで打(ぶ)たれるような目に逢います」「しかし、お前さん達の仕事は何処(どこ)へでも持って行かれて都合が好いね」とお種が笑った。 達雄は胡坐(あぐら)にした膝(ひざ)を癖のように動(ゆす)ぶりながら、「近頃の若い人には、大分種々な物を書く人が出来ましたネ。文学――それも面白いが、定(きま)った収入が無いのは一番困りましょう」「言わば、お前さん達のは、道楽商売」とお種も相槌(あいづち)を打つ。 三吉は答えなかった。「正太もね、お前さん達の書いた物は好きで、よく読む」とお種は言葉を続けて、「やっぱり若い者は若い者同志で、何処か似たような処も有ろうから、なるべく彼(あれ)にも読ませるようにしていますよ……ええええ、そりゃあもう今の若い者が私達のような昔者の気では駄目です――そんなことを言ったって、三吉、これでも若い者には負けない気だぞや――こうまあ私は思うから、なるべく正太の気分が開けて行くように……何かまたそういう物でも読ませたら、彼の為に成るだろうと思って……」「為に成るようなことは、先ずありません」 こう三吉が言ったので、お種は夫と顔を見合せて、苦笑(にがわらい)した。「お仙、兄さんにも、御茶が入りましたからッて、そう言っていらッしゃい」 こうお種は娘に言付けて、表座敷の方に居る正太を呼びにやった。 正太と三吉とは、年齢(とし)が三つしか違わない。背は正太の方が隆(たか)い。そこへ来て三吉の傍に坐ると、叔父甥(おい)というよりか兄弟のように見える。 正太が入って来ると同時に、急に達雄は厳格に成った。そして、黙って了(しま)った。 正太もあまり口数を利かないで、何となく不満な、焦々(いらいら)した、とはいえ若々しい眼付をしながら、周囲(あたり)を眺め廻した。 古い床の間の壁には、先祖の書いた物が幅広な軸に成って掛っている。それは竹翁(ちくおう)と言って、橋本の薬を創(はじ)めた先祖で、毎年の忌日には必ず好物の栗飯を供え祭るほど大切な人に思われている。その竹翁の精神が、何時(いつ)までも書いた筆に遺(のこ)って、こうして子孫に臨んでいるかのようにも見える。 この室内の空気は若い正太に何の興味をも起させなかった。彼の眼には、すべてが窮屈で、陰気で、物憂(ものう)いほど単調であった。彼は親の側に静止(じっと)していられないという風で、母が注(つ)いで出した茶を飲んで、やがてまたぷいと部屋を出て行って了った。 達雄は嘆息して、「三吉さん、お前さんの着いた日から私は聞いてみたい聞いてみたいと思って、まだ言わずにいることが有るんですが……お前さんが持っているその時計ですね……」「これですか」と三吉は兵児帯(へこおび)の間から銀側時計を取出して、それを大きな卓(つくえ)の上に置いた。「極く古い時計でサ、裏にこんな彫のしてある――」「実はその時計のことで……」と達雄は言淀(よど)んで、「正太を東京へ修業に出しました時に、私が特に注意して、金時計を一つくれてやったんです――まあ、そういう物でも持たしてやれば、普通の書生とも見られまいかと思いまして――ネ。ところが一夏、彼(あれ)が帰って来た時に、他の時計をサゲてる。金時計はどうしたと私が聞きましたら、友達から是非貸してくれと言われて置いて来ました、そのかわり友達のを持って来ました、こう言うじゃありませんか。どうでしょう、その友達の時計が今度来たお前さんの帯の間に挾(はさ)まってる……」 三吉は笑出した。「一体これは宗(そう)さんの時計です。近頃私が宗さんから貰ったんです。多分正太さんも宗さんから借りて来たんでしょう」 達雄はお種と顔を見合せた。宗さんとは三吉が直ぐ上の兄にあたる宗蔵のことである。「どうも不思議だ、不思議だと思った」と達雄が言った。「三吉の方が正直なと見えるテ」とお種も考深い眼付をする。 金側の時計が銀側の時計に変ったということは、三吉にはさ程(ほど)不思議でもなかった。「正直なと見えるテ」と言われる三吉にすら、それ位のことは若いものに有勝(ありがち)だと思われた。達雄はそうは思わなかった。「どういう人に成って行くかサ」とお種は更に吾子(わがこ)のことを言出して、長い羅宇(らう)の煙管(きせる)で煙草(たばこ)を吸付けた。「一体彼(あれ)は妙な気分の奴で、まだ私にも好く解らないが――為(す)る事がどうも危(あぶな)くて危くて――」「正太さんですか」と三吉も巻煙草を燻(ふか)しながら、「なにしろ、まだ若いんですもの。話をして見ると心地(こころもち)の好い人ですがねえ。どうかするとこう物凄(ものすご)いような感じのすることが有る。あそこは、僕は面白いところじゃないかと思いますよ」「実は、私も、そうも思って見てる」 こう達雄が言った。「何卒(どうか)まあウマくやって貰わないと――橋本の家に取っては大事な人だで」とお種は三吉の方を見て、「兄さんもこの節は彼のことばかり心配してますよ。吾家(うち)でも、御蔭で、大分商法が盛んに成って、一頃から見ると倍も薬が売れる。この調子で行きさえすれば内輪(うちわ)は楽なものなんですよ。他に何も心配は無い。唯、彼が……」と言いかけて、声を低くして、「近頃懇意にする娘が有るだテ」「有りそうなことだ」と三吉は正太を弁護するように言う。「お前さんは直にそうだ」とお種は叱って見せて、「若いものの肩ばかり持つもんじゃ有りませんよ」「やはりこの町の人ですか」と三吉が聞いた。「ええ、そうですよ」とお種は受けて、「兄さんにしろ、私にしろ、どうもそこが気に入らん」 こういう話をして居る間、お仙は手持無沙汰(てもちぶさた)に起(た)ったり坐ったりして、時には親達の話の中で解ったと思うことが有る度に、独(ひと)り微笑(ほほえ)んだりしていたが、つと母の傍へ寄った。「お仙ちゃん、御話が解りますかネ」とお種は母らしい調子で言った。「ええ、解る」とお仙は両親の顔を見比べながら。「解るは、よかった」達雄は笑った。 お種は三吉の方を見て、「すこし込入った話に成ると、お仙には好く解らない風だ。そのかわり、奇麗な気分のものだぞや」「真実(ほんと)に、好い姉さんに成りましたネ」と三吉が言う。「彼女(あれ)も最早(もう)女ですよ。その事は私がよく言って聞かせて、誰にでも普通(あたりまえ)に有ることだからッて教えて置いたもんですから、ちゃんと承知してる。こうして大きく成って、可惜(おし)いようなものだが、仕方が無い。行く行くは一軒別にでもして、彼女が独りで静かに暮せるようだったら、それが何よりですよ」「そんなことをしないたッて、お婿さんを貰ってやるが可い」と三吉は戯れるように言った。「叔父さんはああいうことを言う……」 とお仙は呆(あき)れて、笑い転げるように新座敷へ逃出した。 風呂が沸いたと言って、下婢(おんな)のお春が告げに来た頃、先ず達雄は連日の疲労を忘れに行った。「お仙、ちゃっと髪を結って了(しま)わまいかや」とお種は、炉辺へ来て待っている髪結を呼んで、古風な鏡台だの櫛箱(くしばこ)だのを新座敷の方へ取出した。「三吉。すこし御免なさいよ」とお種は鏡の前に坐りながら言った。「私は花が好きだで、今年も丹精して造りましたに見て下さい――夏菊がよく咲きましたでしょう」 三吉は庭に出て、大きな石と石の間を歩いたが、不図(ふと)姉の後に立つ女髪結を見つけて不思議そうに眺めていた。髪結は種々な手真似(てまね)をしてお種に見せた。お種は笑いながら、庭に居る弟の方を見て、「この髪結さんは手真似で何でも話す。今東京から御客さんが来たそうだが、と言って私に話して聞かせるところだ――唖(おし)だが、悧好(りこう)なものだぞい」こう言い聞かせた。 深い屋根の下にばかり日を送っているお種は、この唖の髪結を通して、女でなければ穿鑿(せんさく)して来ないような町の出来事を知り得るのである。髪結は又、人の気の付かないことまで見て来て、それを不自由な手真似で表わして見せる。その日も、親指を出したり、小指を出したり、終(しまい)に額のところへ角を生(はや)す真似をしたりして、世間話を伝えながら笑った。 日暮に近い頃から、達雄、三吉の二人は涼しい風の来る縁先へ煙草盆を持出した。大番頭の嘉助も談話(はなし)の仲間に加わった。そこへお仙やお春が台所の方から膳(ぜん)を運んで来た。 お種は嘉助の前にも膳を据えて、「今日は旦那も骨休めだと仰(おっしゃ)るし、三吉も来ているし、何物(なんに)も無いが河魚で一杯出すで、お前もそこで御相伴(ごしょうばん)しよや」 こう言われて、嘉助は癖のように禿頭(はげあたま)を押えた。「さ、御酌致しましょう」 と嘉助は遠慮深い膝を進めた。この人は前垂を〆(し)めてはいるが、武術の心得も有るらしい体格で、大きな律義(りちぎ)そうな手を出して、旦那や客に酒を勧めた。 何時(いつ)の間にか話も若旦那のことに落ちて行った。お種は台所の方にも気を配りながら、時々部屋を出て行くかと思うと、復(ま)た入って来て、皆なと一緒に息子のことを心配した。「いッそのこと、その娘を貰ってやったら可いじゃ有りませんか」三吉は書生流儀に言出した。「そんな馬鹿なことが出来るもんですかね」とお種は嘲(あざけ)るように言って、「お前さんは何事(なんに)も知らないからそんなことを言うけれど」「それに、お前さま」と嘉助は引取って、紅(あか)く充血した眼で客の方を見て、「娘の親というものが気に入りません……これは、まあ、私の邪推かも知(しれ)ませんが、どうも親が背後(うしろ)に居て、娘の指図(さしず)をするらしい……」 お種は何か思出したように、物に襲われるような眼付をしたが、それを口に出そうとはしなかった。「よしんば、そうでないと致したところで」と嘉助は言葉を継いで、「家の格が違います。どうして、お前さま、あんな家から橋本へ貰えるものかなし……」 暮れかかって来た。屋根を越して来る山の影が、庭にもあり、一段高く斜に見える蔵の白壁にもあり、更に高い石垣の上に咲く夕顔南瓜(かぼちゃ)などの棚(たな)にもあった。この家の先代が砲術の指南をした頃に用いた場所は、まだ耕地として残っていたが、その辺から小山の頂へかけて、夕日が映(あた)っていた。 百姓の隠居も鍬(くわ)を肩に掛けて、上の畠(はたけ)の方から降りて来た。 夕飯時を報(しら)せる寺の鐘が谷間に響き渡った。達雄は、縁先から、自分の家に附いた果樹の多い傾斜を眺めて、一杯は客の為に酌(く)み、一杯はよく働いてくれる大番頭の為に酌み、一杯は自分の健康の為に酌んだ。「何卒(どうか)して、まあ、若旦那にも好いお嫁さんを……」と嘉助は旦那から差された盃(さかずき)を前に置いて、「早く好いところから貰って上げて、一同安心いたしまするように……これが何よりも御家の堅めで御座いまするで」「そのお嫁さんだテ」とお種も力を入れる。「どうもこの町には無いナア」と達雄は眉(まゆ)を動かして、快濶(かいかつ)らしく笑った。 その時、お種は指を折って、心当りの娘を数えてみた。年頃に成る子は多勢あっても、いざ町から貰うと成ると、適当な候補者は見当らなかった。「飯田の方の話よなし」とお種は嘉助の方を見て、「あれを一つお前に聞いて貰うぞい」「ええ、あれは引受けた」と嘉助が言った。 三吉は聞咎(ききとが)めて、「飯田の方に候補者でも有るんですか」「ナニ、まだそうハッキリした話では無いんですがね、すこしばかり心当りが有って」と達雄は膝を動かす。「聞き込んだ筋が好いもんですから」とお種も三吉に言い聞かせた。「今年の秋は、嘉助も彼地(あっち)へ行商に出掛けるで、序(ついで)に精(くわ)しく様子を探って貰うわい――吾家(うち)でお嫁さを貰うなんて、お前さん、それこそ大仕事なんですよ」 この人達は、子と子の結婚を考える前に、先ず家と家の結婚を考えなければ成らなかった。 何時の間にかお仙も母の傍へ来て、皆なの話に耳を傾けていた。やがて母が気が付いた頃は、お仙の姿が見えなかった。お種は起って行って、何気なく次の部屋を覗(のぞ)いて見た。「お仙、そんなところで何をしてるや……」 娘は答えなかった。「この娘(こ)は、まあ、妙な娘だぞい。お嫁さんの話を聞いて哀(かな)しく成るような者が何処(どこ)にあらず」とお種は娘を慰撫(なだ)めるように。「お仙ちゃん、どうしました」こう三吉が縁側のところから聞いた。 お種は三吉の方を振返って見て、「お仙はこれで極く涙脆(なみだもろ)いぞや。兄さんに何か言われても直に涙が出る……」 その晩、三吉は少量(すこし)ばかりの酒に酔ったと言って、表座敷の方へ横に成りに行き、嘉助も風呂を貰って入りに裏口の方へ廻った。奥座敷には達雄夫婦二人ぎりと成った。まだ正太は町から帰って来なかった。 お種は立ちがけに、一寸(ちょっと)夫の顔を眺めて、「正太もあれで三吉叔父さんとは仲が好いぞなし――叔父さんには何でも話す様子だ」「そうだろうナア。年齢(とし)から言っても、丁度好い友達だからナア」と達雄が答える。「貴方はどう思わっせるか知らんが……私は三吉の今度来たのが彼の子の為めにも好からずと思って……」「俺も、まあそう思ってる」 この様な言葉を交換(とりかわ)した。不図、お種は洋燈(ランプ)の置いてある方へ寄って、白い、神経質らしい手を腕の辺まで捲(まく)って見て、蚤(のみ)でも逃がしたように坐っていたところを捜す。「痒(かゆ)い痒いと思ったら、こんなに食いからかいて」とお種は単衣(ひとえ)の裾(すそ)の方を掲(から)げながら捜してみた。「そうどうも苦にしちゃ、えらい」と達雄は笑った。「一匹居ても、私は身体中ゾクゾクして来る」 こうお種は言って、若い時のような忍耐(こらえしょう)は無くなったという風で、やがて笑いながら台所の方へ出て行った。 三吉が東京から訪ねて来たことは、達雄に取っても嬉しかった。彼は親身(しんみ)の兄弟というものが無い人で、日頃お種の弟達を実の兄弟のように頼もしく思っている。三吉が来た為に、種々(いろいろ)話が出る。話が出れば出るほど、種々な心地(こころもち)が引出される。子に対する達雄の心配も一層深く引出された形である。 平素潜んでいたようなことまで達雄の胸に浮んで来た。先代が亡くなったのは、彼がまだ若かった時のことで。その頃は嘉助同格の支配人が三人も詰切って、それを薬方(くすりかた)と称(とな)えて、先祖から伝わった仕事は言うに及ばず、経済から、交際まで、一切そういう人達でこの橋本の家を堅めていた。彼もまた、青年の時代には、家の為に束縛されることを潔(いさぎよ)しとしなかったので、志を抱(いだ)いて国を出たものである。白髪の老母や妻子を車に載せて、再びこの山の中へ帰って来るまでには、何程の波瀾を経たろう。長い間かかって地盤を築き上げた先祖の事業(しごと)は彼が半生の努力よりも根深かった。先祖は失意の人の為に好い「隠れ家」を造って置いてくれた。彼は家附の支配人の手から、退屈な事業を受取ってみて、はじめて先祖の畏敬(いけい)すべきことを知ったのである。「丁度正太が自分の若い時だ」と達雄は自分で自分に言った。「いや、自分以上の空想を抱いて、この家を壊(こわ)しかけているのだ」と思った。彼は、自分の子が自分の自由に成らないことを考えて、その晩は定時(いつも)より早く、可慨(なげかわ)しそうに寐床(ねどこ)へ入った。家のものが皆な寝た頃、お種は雪洞(ぼんぼり)を点(とも)して表座敷の方へ見に行った。三吉と直樹とは最早(もう)枕を並べて眠っていたが、まだ正太は帰らなかった。お種は表庭から門のところへ出て、押せば潜(くぐ)り戸(ど)の開くようにして置いた。厳(きび)しい表庭の戸締も掛金だけ掛けずに置いたは、可愛い子の為であった。     二 大森林に連続(つづ)いた谷間(たにあい)の町でも、さすがに暑い日は有った。三吉は橋本の表座敷に籠(こも)って、一夏かかって若い思想(かんがえ)を纏(まと)めようとしていた。姉は仕事に疲れた弟を慰めようとして、暇のある時は、この家に伝わる陶器、漆器、香具(こうぐ)の類(たぐい)などを出して来て見せた。ある日、お種は大きな鍵(かぎ)を手にしながら、裏の土蔵の方へ弟を導いて行った。 高い白壁の隣には、丁度物置蔵と反対の位置に、屋根の低い味噌蔵(みそぐら)がある。姉はその前に立って、大きな味噌桶(おけ)を弟に覗(のぞ)かせて、毎日食膳に上る手製の醤油(たまり)はその中で造られることなどを話して、それから厳重な金網張の戸の閉った土蔵の内部(なか)へ三吉を案内した。 二階は広く薄暗かった。一方の窓から射し込む光線は沢山(たくさん)積んである本箱や古びた道具の類を照らして見せた。姉は今一つの窓をも開けて、そこにあるのは祖母(おばあ)さんが嫁に来た時の長持、ここにあるのは自分の長持、と弟に指して話し聞かせた。三吉は自由に橋本の蔵書を猟(あさ)ることを許された。 姉は出て行った。三吉は本箱の前を彼方是方(あちこち)と見て廻った。その時、彼は未だ自分の生れた家の焼けない前に一度帰省して阿爺(おやじ)の蔵書を見たことを思出して、それをこの家のに比べてみた。ここのはそれ程豊富では無かった。三吉の阿爺が心酔したような本居(もとおり)派の学説に関する著述だの、万葉や古事記の研究だの、和漢の史類だの、詩歌の集だの、そういうものは少なかったが、そのかわり橋本の家に特有な武術、武道などのことを書いた写本が沢山ある。経書(けいしょ)、子類(しるい)もある。誰が集めたものか漢訳の旧約全書などもある。見て行くと、三吉の興味を引くような書目は少なかった。窓に寄せて、大きな柳行李(やなぎごうり)の蓋(ふた)が取ってあって、その中に達雄の筆で表題を書いたものが幾冊か取散してある。旧(ふる)い日記だ。何気なく三吉はその一冊を取上げて見た。 直樹の父親の名なぞが出て来た。それは三吉が姉と一緒に東京で暮した頃の事実(こと)で、ところどころ拾って読んで行くうちに、少年時代の記憶が浮び揚(あが)った。その頃は姉の住居(すまい)でもよく酒宴を催したものだった。直樹の父親が来て、「木曾のナカノリサン」などを歌い出せば、達雄は又、清(すず)しい、恍惚(ほれぼれ)とするような声で、時の流行唄(はやりうた)を聞かせたものだった。直樹の父親もよく細(こまか)い日記をつけた。これはそう細いという方でもないが、何処(どこ)か成島柳北(なるしまりゅうほく)の感化を思わせる心の持方で、放肆(ほしいまま)な男女(おとこおんな)の臭気(におい)を嗅(か)ぐような気のすることまで、包まず掩(おお)わずに記しつけてある。思いあたる事実(こと)もある。 静かな蔵の窓の外には、熱い明るい空気を通して庭の草木も蒸されるように見える。三吉はその窓のところへ行って、誰がこの柳行李の蓋を取て置いたかと想像した。あるいは正太がこの隠れた場処で、父の耽溺(たんでき)の歴史を読みかけて置いたものではなかろうか、と想(おも)ってみた。 重い戸を閉めて置いて、三吉は蔵の石階(いしだん)を下りた。前には葡萄棚(ぶどうだな)や井戸の屋根が冷(すず)しそうな蔭を成している。横にある高い石垣の側からは清水も落ちている。心臓形をした雪下(ゆきのした)の葉もその周囲(まわり)に蔓延(はびこ)っている。 この場所を択(えら)んで、お仙は盥(たらい)を前に控えながら、何か濯(すす)ぎ物を始めていた。下婢(おんな)のお春も井戸端に立って、水を汲(く)んでいた。お春は、ちょっと見たところこう気むずかしそうな娘で、平常(しょっちゅう)店の若い番頭や手代の顔を睨(にら)み付けるような眼付をしていたが、しかしそれは彼女が普通の下女奉公と同じに見られまいとする矜持(ほこり)からであった。こうして、お仙相手に立話をしている時なぞは、最早(もう)年頃の娘らしさが隠されずにある。彼女とても、濃情な土地の女の血を分けた一人である。 三吉はお仙に言葉を掛けて、暫時(しばらく)そこに立っていた。丁度正太が、植木いじりでもしたという風で、土塗(つちまみ)れの手を洗いに来た。お春は言付けられて、釣瓶(つるべ)から直(じか)に若旦那の手へ水を掛けて、すこし紅くなった。お仙も無心に眺めていた。 手を洗った後、正太は三吉叔父と一緒に成った。二人は話し話し母屋の方へ帰って行った。 手桶を担(かつ)いだお春は威勢よく二人の側を通った。百姓の隠居も会釈して通った。隠居の眼は正太に向って特別な意味を語った。「若旦那様――お前さまは唯の若いものの気でいると違うぞなし……お前さまを頼りにする者が多勢あるぞなし……行く行くはお前様の厄介に成ろうと思って、こうして働けるだけ働いている老人(としより)もここに一人居るぞなし……」とその無智な眼が言った。 正太は一種の矜持(ほこり)を感じた。同時に、この隠居にまで拝むような眼で見られる自分の身を煩(うるさ)く思った。 漠然(ばくぜん)とした反抗の心は絶えず彼の胸にあった。「どうしてこう家のものは皆な世話を焼きたがるだろう、どうしてこうヤイヤイ言うだろう――もうすこし自分の自由にさせて置いて貰いたい」これが彼の願っていることで、一々自分のすることを監視するような重苦しい空気には堪えられなかった。 田舎(いなか)風の屋造(やづくり)のことで、裏口から狭い庭を通って、表の方へ抜けられる。表座敷へ通う店頭(みせさき)の庭のところで、三吉、正太の二人は沢田老人の訪ねて来るのに逢(あ)った。「沢田さんですか。やはり吾家(うち)の内職をしています――薬の紙を折ってます」 こう正太は三吉に話した。 直樹の叔父にあたるこの神経質な老人の眼は、又、こんなことを言った。「正太様――お前さまの祖母様(おばあさま)や母上様(おっかさま)は皆な立派な旧家から来ておいでる……大旦那は学問を為(し)過ぎたで、それで不経済なことを為(さ)っせえたが、お前さまは算盤(そろばん)の方も好くやらんと不可(いかん)ぞなし……お前さまの責任は重いぞなし……」 正太はこういう人々の眼から遁(のが)れたかった。 表座敷へ戻って、向の山の傾斜がよく見えるようにと、三吉はすっかり障子を開け展(ひろ)げた。正太も広い部屋の真中へ大きな一閑張(いっかんばり)の机を持出した。こうして、二人ぎりで、楽しい雑談に耽(ふけ)るにつけても、正太はこの叔父の何時(いつ)までも書生でいられるのを羨(うらや)ましく思った。叔父がここへ来て何を為ようと、何を考えようと、誰一人気を揉(も)む者も無い。それに引きかえて、正太は折角(せっかく)思い立った東京の遊学すら、中途で空(むな)しく引戻されて了った。やれ大旦那が失敗したから、若旦那には学問は無用だことの、やれ単独(ひとり)で都会に置くのは危いことの、種々な故障が薬方の衆から出た。「家なぞはどうでもいい」と思うことは屡々(しばしば)有ったのである。 この座敷から谷底の方に聞える木曾川(きそがわ)の音も、正太には何の新しい感じを起させなかった。彼は森林の憂鬱にも飽き果てた。「こうして――一生――山の中に埋れて了(しま)うのかナア」それを考えてみたばかりでも、彼には堪え難かった。どうかすると、彼は話の途中で耳を澄ました。そして、引入れられるような眼付をして、熟(じっ)と渓流の音に聞き入って。 お種が入って来た。「ネブ茶を香ばしく入れましたから、持って来ました」とお種は款待顔(もてなしがお)に言て、吾子(わがこ)と弟の顔を見比べて、「正太や、叔父さんにも注(つ)いで進(あ)げとくれ」 この「ネブ茶」はある灌木(かんぼく)の葉から製したもので、三吉も子供の時分には克(よ)く飲み慣れた飲料である。「どうでした、吾家(うち)の蔵には三吉の見るような書物(ほん)が有りましたか」とお種が聞いた。「ええ……有りました」と三吉は気の無い返事をする。 お種は、二人が睦(むつ)まじそうに語る様子を眺めて、やがて出て行った。 若いもの同志の話は木曾少女(おとめ)の美しいことに落ちて行った。その時、三吉は姉から聞いた娘のことを言出して、正太の意中を叩(たた)いてみた。正太は、唯、あわれに思うというだけのことを泄(も)らした。彼の心では、そんな話を聞いて貰う前に、何故(なぜ)に自分の恋が穢(けが)れて行くかを語りたかったのである。 暫時(しばらく)二人は無言でいた。「しかし、叔父さん――この町にも種々(いろいろ)な青年が有りますがね、どうも家にばかり居るような人は面白味が有りません……やっぱり働きもすれば遊びもする、そういう人の方が話せるようですね」こう正太が言出した。 香ばしい「ネブ茶」を飲み、巻煙草(まきたばこ)を燻(ふか)しながら、叔父甥(おい)は話し続けた。正太の方は実業に志し、東京へ出た時は主に塗物染物のことを調べ、傍(かたわ)ら絵画の知識をも得ようとしたものであったが、性来物を感受(うけい)れる力に富むところから、三吉などの向いて行こうとする方面にも興味を感じている。その日も、三吉の書きかけた草稿を机の上に展(ひろ)げて、清(すず)しい、力のある父の達雄に克(よ)く似た声で読聞かせた。 東京で送った二年――殊(こと)にその間の冬休を三吉叔父と一緒に仙台で暮したことは、正太に取って忘れられなかった。東京から押掛けて行くと、丁度叔父は旅舎(やどや)の裏二階に下宿していて、相携えて人を訪ねたり、松島の方まで遊びに行ったりした。あの時も、仙台で、叔父の書いたものを見せて貰って、寂しい旅舎の洋燈(ランプ)の下でその草稿を読み聞かせながら、一緒に長い冬の夜を送ったことが有った。それを正太は言出さずにいられなかった。「そうそう」と三吉も思出したように、「丁度岩沼の基督降誕祭(クリスマス)に招ばれて行った後へ、君が訪ねて来て……あんな田舎らしい基督降誕祭に遭遇(であ)ったことは僕も始めてでしたよ……信者が五目飯なぞを煮(た)いて御馳走(ごちそう)してくれましたッけ。あの晩は長老の呉服屋さんの家に泊って、翌朝(あくるあさ)阿武隈川(あぶくまがわ)を見に行って、それから汽車で仙台へ帰てみると、君が来ていた……」「そうでしたね……あの二階から海の音なぞも聞えましたね」と正太は若々しい眼付をして言った。「仙台は好かったよ。葡萄畠(ばたけ)はある、梨畠はある……読みたいと思う書籍(ほん)は何程(いくら)でも借りて来られる……彼処(あすこ)へ行って僕も夜が明けたような気がしたサ……あれまでというものは、君、死んでいたようなものだったからね」と言って、三吉は深い溜息(ためいき)を吐(つ)いて、「考えてみると、僕のような人間がよく今まで生きて来たようなものだ」 正太は叔父の顔を眺めた。 三吉は言葉を継いで、「彼処へ着いた晩から、僕は最早(もう)別の人だった。種々な物が活(い)きて見えて来た。書く気も起った……」「あの時叔父さんの書いたものは、吾家(うち)に蔵(しま)ってあります」「しかし正太さん、お互にこれからですネ。僕なぞも未だ若いんですから、これから一つ歩き出してみようと思いますよ……」 こんな話をしているところへ直樹が入って来た。直樹は中学に入ったばかりの青年で、折取った野の花を提げて、草臥(くたぶ)れたような顔付をしながら屋外(そと)から帰って来た。「直樹さん、何処(どちら)へ?」と三吉が聞いてみた。「ええ――ずっと河の岸を廻って来ました」と直樹は答える。 その時、正太は床の間にある花瓶(かびん)を持出して、直樹が持って来た百合だの撫子(なでしこ)だのの花で机の上を飾った。「兄さん、山脇(やまわき)の姉さんがチト御遊びに被入(いら)っしゃいッて――真実(ほんとう)に兄さんは遠慮深い人だって」 こう直樹が自分の親戚からの言伝(ことづて)を三吉に告げた。三吉はあまり町の人を訪問する気が無かった。 活気のある鈴の音が谷底の方で起った。急に正太は輝くような眼付をして、その音のする方を見た。「ア――御岳(おんたけ)参りが着いたとみえるナ」 と正太は独語(ひとりごと)のように言った。高山の頂を極(きわ)めようとする人達が、威勢よく腰の鈴をチリンチリンチリンチリン言わせて、宿屋に着くことを楽みにして来る様子は、活気が外部(そと)からこの谷間(たにあい)へ流れ込むように聞える。正太は聞耳を立てた。その音こそ彼が聞こうと思うものである。彼は縁側にまで出て聞いた。 祭の日は橋本でも一同仕事を休んだ。薬の看板を掛け、防火用の黒い異様な大団扇(おおうちわ)を具(そな)え付けてある表門のところには、時ならぬ紅白の花が掛かった。小僧達も新しい仕着(しきせ)に着更えて、晴々しい顔付をして、提灯(ちょうちん)のかげを出たり入ったりした。 お種は表座敷へ来て、「三吉、お前さんは羽織が有るまいがナ」 と弟の顔を眺めた。三吉もサッパリとした単衣(ひとえ)に着更えていた。「羽織なんか要(い)りません。これで沢山です」と三吉が言った。「正太の紋付を貸すで――今に吾家(うち)の前を御輿(みこし)が通るから、そうしたら兄さん達と一緒に出て見よや」「借着をして祭を見るのも変なものですナア」「何が変なものか。旅では、お前さん、それが普通(あたりまえ)だ」「私はどうでも可(よ)う御座んすが、姉さんが着た方が可いと思うなら、借りましょう――」 旅で祭に遇(あ)った直樹は、方々の親類から招(よ)ばれて、出て行った。正太を始め、薬方の若衆も皆な遊びに出た。町の方が賑(にぎや)かなだけ、家の内は寂しい。「姉さん」と三吉は、姉が羽織を出しに行く序(ついで)に、物を頼むという風で、「この節私は夢を見て困りますが、身体(からだ)の故(せい)じゃないかと思うんです……サフランでも有るなら、すこし私に飲ましてくれませんか」「そんなことは造作ない。吾家(うち)にあるから、くれる」「母親(おっか)さんが生きてる時分には、時々私に飲ましてくれましたッけ――女の薬だが、飲めッて」「ええ、男子(おとこ)にも血が起るということは有るで」 こう言って、お種は出て行った。やがて橋本の紋の付いた夏羽織と、薬草の袋と、水とを持って来た。紅いサフランの花弁(はなびら)は、この家で薬の客に出す為に特に焼かした茶椀の中へ浸して、それを弟に勧める。「どんな夢を見るよ」と姉が聞いた。「私の夢ですか」と三吉は顔に苦痛を帯びて、「友達の中には、景色の夢を見るなんて言う人も有りますがね、私は景色なぞを一度も見たことが無い。夢と言えば女が出て来る」「馬鹿らしい!」と姉は嘲(あざけ)るように。「いえ、姉さん、私は正直なところを話してるんです。だからこんな薬なぞを貰って飲むんです」「お前さんの知ってる人かい」「ところが、それが誰だか解らない。どう後で考えても、記憶(おぼえ)の無いような人が出て来るんです――多くは、素足で――火傷(やけど)でもしそうな、恐しい勢で。昨夜なぞは、林檎畠(りんごばたけ)のようなところへ追詰められて、樹と樹の間へ私の身体が挾(はさま)って、どうにも逃げ場を失って了った……もうすこしで其奴(そいつ)に捕まるかしらん……と思ったら目が覚(さ)めました。汗はビッショリ……」「お前さん達の見る夢は、どうせそんなものだ」 と姉は復(ま)た嘲るように笑った。 御輿の近づいたことを、お仙が報(しら)せに来た。女連(おんなれん)は門の外まで出た。そこから家々の屋根、町の中央を流れる木曾川が下瞰(みおろ)される。三吉は長過ぎるような羽織を借りて着て、達雄と一緒に崖(がけ)の下へ降りた。 御輿の通り過ぎた後、お種は娘に下婢(おんな)を付けて祭を見せにやり、自分は門の内へ引返した。店口の玄関のところには、手代の幸作が大きな薬の看板に凭(もた)れながら、尺八を吹いて遊んでいたが、何時(いつ)の間にかこれも出て行った。広い家の内にはお種一人残った。 急に周囲(そこいら)が闃寂(しんかん)として来た。寺院(おてら)のように人気(ひとけ)が無かった。お種は炉辺(ろばた)に坐って独(ひと)りで静かに留守居をした。この祭には、近在の若い男女(おとこおんな)は言うに及ばず、遠い村々の旦那(だんな)衆まで集って、町は人で埋められるのが例で、その熱狂した群集の気勢ばかりでも、静止(じっと)していられないような思をさせる。こういう時にも、お種は家を守るものと定(き)めて、それを自分の務めのように心得ていた。 実家の父――小泉忠寛の名は、時につけ事に触れ、お種の胸に浮んだ。お種や三吉の生れた小泉の家は、橋本の家とは十里ほど離れて、丁度この谿谷(たに)の尽きようとするところに在(あ)った。その家でお種は娘の時代を送った。父の忠寛は体格の大きな、足袋(たび)も図無(ずな)しを穿(は)いた程の人で、よく肩が凝ると言っては、庭先に牡丹(ぼたん)の植えてある書院へ呼ばれて、そこでお種が叩かせられたもので、その間に父の教えたこと、話したことは、お種に取って長く忘れられないものと成った。そればかりではない、父は娘が手習の手本にまで、貞操の美しいことや、献身の女の徳であることや、隣の人までも愛せよということや、それから勤勉、克己、倹約、誠実、篤行などの訓誨(くんかい)を書いて、それをお種に習わせたものであった。 こういう阿爺(おやじ)を持って嫁(かたづ)いて来た人の腹(おなか)に正太が出来た。お種は又、夫の達雄が心配するとは別の方で、自分の子が自分の自由にも成らないことを可嘆(なげかわ)しく思った。彼女は、炉辺で、正太のことばかり案じていた。「宗助――幸助――宗助――幸助」 と御輿を担いで通る人々の掛声を真似(まね)ながら、一人の小僧が庭口へ入って来た。この小僧は、祭の為に逆上(のぼ)せて了(しま)ったような眼付をして、隠居が汲(く)んで置いた水を柄杓(ひしゃく)でガブガブ飲んだ。 三吉も帰って来た。お種は祝の強飯(こわめし)だの煮染(にしめ)だのを出して、それを炉辺で振舞っていると、そこへ正太が気息(いき)をはずませて入って来た。「母親(おっか)さん、何か飲む物を頂戴(ちょうだい)。咽喉(のど)が乾いて仕様が無い」と正太は若々しい眼付をして、「今ネ、御輿の飾りを取って了ったところだ。鳳凰(ほうおう)も下した。これからが祭礼(まつり)だ。ウンと一つ今年は暴(あば)れ廻ってくれるぞ」「まあ、騒ぎですネ。正太、お前も強飯(おこわ)を食えや」とお種が言った。「叔父さん、御覧でしたか」と正太は三吉の方を見て、「どうです、田舎の祭は。変ってましょう。殊(こと)に是処(ここ)のは荒神様(あらがみさま)で通っていますから、あの大きな御輿を町中転(ころ)がして歩くんです。終(しまい)に、神社の立木へ持ってッて、輿を担(かつ)ぐ棒までヘシ折って了う。その為に毎年白木で新調するんです――エライことをやりますよ。髭(ひげ)の生(はえ)た人まで頬冠で揉(も)みに出るんですからネ」 乾いた咽喉を霑(うるお)した後、復た正太は出て行った。「宗助――幸助――宗助――幸助」 と小僧が手拭(てぬぐい)を首に巻付けて出て行くのを見ると、三吉も姉の傍に静止(じっと)していられないような気がした。 夜に入って、谷底の町は歓楽の世界と化した。花やかに光る提灯の影には、祭を見ようとする男女の群が集って、狭い通を潮のように往来した。押しつ押されつする御輿の地を打つ響、争い叫ぶ若者の声なぞは、人々の胸を波打つようにさせる。王滝川の岸に添うて二里も三里もある道を歌いながら通って来る幾組かの娘達は、いずれも連に離(はぐ)れまいとし、人に踏まれまいとして、この群集の中を互に手を引合って歩いた。中には雑踏(ひとごみ)に紛れて知らない男を罵(ののし)るものも有った。慾に目の無い町の商人は、簪(かんざし)を押付け、飲食(のみくい)する物を売り、多くの労働の報酬(むくい)を一晩に擲(なげう)たせる算段をした。町の中央にある広い暗い場処では踊も始まった。 祭の光景(ありさま)を見て廻った後、一しきりは三吉も御輿に取付いて、跣足(はだし)に尻端折(しりはしょり)で、人と同じように「宗助――幸助」と叫びながら押してみたが、やがて額に流れる汗を拭(ふ)きつつ橋本の家の方へ帰って来た。足を洗って、三吉は涼しい風の来る表座敷へ行った。そこで畳の上に毛脛(けずね)を投出した。「三吉帰ったかい」 こう言いながら、お種も団扇(うちわ)を持って入って来た。「私も横に成るわい。今夜は二人で話さまいかや」 と復たお種が言って、弟の側に寝転(ねころ)んだ。東京にある小泉の家のことは自然と姉の話に上った。相続人(あととり)の実も今度はよくやってくれればいいがということ、次の森彦からも暫時(しばらく)便(たよ)りが無いこと、宗蔵の病気もどうかということ、それからそれへと姉の話は弟達の噂(うわさ)に移って、結局吾子のことに落ちて行った。お種は三吉の考えないようなことまで考えて、種々(いろいろ)と正太の為に取越苦労をしていた。「若いもののことですもの、お前さん、どんな間違がないとも限りませんよ――もし、子供でも出来たら。それを私は心配してやる」 こうお種は言って、土地の風俗を蔑視(さげす)むような眼付をした。楽しそうな御輿の響は大切な若い子息(むすこ)を放縦(ほしいまま)な世界の方へと誘うように聞える……お種は正太のことを思ってみた。誰と一緒に、何処を歩いている、と思ってみた。そして、何の思慮も無い甘い私語(ささやき)には、これ程心配している親の力ですら敵(かな)わないか、と考えた。「私が彼(あれ)に言って聞かせて、父親(おとっ)さんも女のことでは度々失敗(しくじり)が有ったから、それをお前は見習わないように、世間から後指(うしろゆび)を差されないようにッて――ネ、種々(いろいろ)彼に言うんだけれど……ええええ、彼はもう父親さんのワルいことを何もかも知ってますよ」 三吉は黙って姉の言うことを聞いていた。お種は更に嘆息して、「旦那もね、お前さんの知ってる通り、好い人物(ひと)なんですよ。気分は温厚(すなお)ですし、奉公人にまで優しくて……それにお前さん、この節は非常な勉強で、人望はますます集って来ましたサ。唯、親としてのシメシがつかない。真実(ほんとう)に吾子の前では一言もないようなことばかり仕出来(しでか)したんですからね。旦那も今ではすっかり後悔なすって、ああして何事(なんに)も言わずに働いてる。旦那の心地(こころもち)は私によく解る。真実に、その方の失敗(しくじり)さえなかったら、旦那にせよ、正太にせよ……私は惜しいと思いますよ」 お種は、気の置けない弟の前ですら、夫の噂(うわさ)することを羞(は)ずるという風であった。夫から受けた深い苦痛――その心を他人に訴えるということは、父の教訓(おしえ)が許さなかった。「代々橋本家の病気だから仕方ない」 とお種は独語(ひとりごと)のように言って、それぎり、夫の噂はしなかった。 ゴットン、ゴットンという御輿の転(ころが)される音は、遅くまで谷底の方で、地響のように聞えていた。 直樹は一月ほどしか逗留(とうりゅう)しなかった。植物の好きなこの中学生は、東京への土産(みやげ)にと言って、石斛(せっこく)、うるい、鷺草(さぎそう)、その他深い山の中でなければ見られないような珍しい草だの、香のある花だのの見本を集めて、盆前に橋本の家を発(た)って行った。三吉は自分の仕事の纏(まと)まるまで残った。 旧暦の盆が来た。橋本では、先代からの例として、仏式でなく家の「御霊(みたま)」を祭った。お種は序(ついで)に小泉の母の二年をも記念する積りであった。年を経(と)るにつれて、余計に彼女はこういうことを大切にするように成った。 墓参りの為に、お種は三吉を案内して、めずらしく家を出た。お仙は母に言付けられた総菜(そうざい)の仕度をしようとして、台所の板の間に俎板(まないた)を控えて、夕顔の皮を剥(む)いた。干瓢(かんぴょう)に造っても可(い)い程の青い大きなのが最早(もう)裏の畠には沢山生(な)っていた。「お春、お前の髪は好く似合う」 とお仙は、流許(ながしもと)に立って働いている下婢(おんな)の方を見て、話しかけた。「そうかなし」とお春は振向いて、嬉しそうな微笑(えみ)を見せた。「貴方(あんた)の島田も恰好(かっこう)が好く出来た」 お仙も嬉しそうに笑って、やがて夕顔を適当の厚さに切ろうと試みた。幾度か庖丁(ほうちょう)を宛行(あてが)って、当惑したという顔付で、終(しまい)には口を「ホウ、ホウ」言わせた。復た、お仙は庖丁を取直した。 何程の厚さに切れば、大略(おおよそ)同じ程に揃(そろ)えられるか、その見当がお仙には付きかねた。薄く切ってみたり、厚く切ってみたりした。彼女の手は震えて来た。 お春はそれとも気付かずに、何となく沈着(おちつ)かないという様子をして、別なことを考えながら働いていた。何もかもこの娘には楽しかった。新しい着物に新しい前垂を掛けて働くということも楽しかった。晩には暇が出て、叔母の家へ遊びに行かれるということも楽しかった。 墓参りに行った人達が帰って来た。お種は直に娘の様子を看(み)て取った。お仙の指からはすこし血が流れていた。「大方こんなことだらずと思った」とお種は言った。「お仙ちゃん、母親(おっか)さんが御手伝しますよ――お前さんに御手本を置いて行かなかったのは、私が悪かった」 お仙は途方に暮れたという顔付をしている。「これ、袂糞(たもとぐそ)でも付けさんしょ」とお種は気を揉(も)んで、「折角(せっかく)今日は髪まで結って、皆な面白く遊ぼうという日だに、指なぞを切っては大事(おおごと)だぞや」 お春はお仙の傍へ寄った。お種は三吉の方を見て、「ええええ、これだから眼が離されない……真実(ほんとう)にこういうところは極(ごく)子供だ……そう言えば、お前さん、今年の春もね、正太のお友達が寄って吾家(うち)で歌留多(かるた)をしたことが有った。山瀬さんも来た。あの人は正太とは仲好だから、お仙を側(そば)へ呼んで、貴方(あなた)もお仲間で御取りなさいなッて――ネ。山瀬さんがそう言って下すった。するとお仙が山瀬さんの膝(ひざ)に凭(もた)れて……まあ、無邪気なと言って無邪気な……兄さんだから好いの、お友達だから悪いの、そんな区別はすこしも無いようだ。罪の無い者だぞや」こう話し聞かせた。 その晩は、若いものに取って、一年のうちの最も楽しい時の一つであった。夕方から橋本の家でも皆な盆踊を見に行くことを許された。涼しい夏の夜の空気は祭の夜以上の楽しさを思わせる。暗いが、星はある。恋しい風の吹く寺の境内の方へ自然と人の足は向いて行った。 叔母の家に帰ることを許されたお春も、人に誘われて、この光景(ありさま)を見に行った。大きな輪を作って、足拍子揃(そろ)えて、歌いながら廻って歩く男女(おとこおんな)の群。他処(よそ)から来ている工女達は多くその中に混って踊った。頬冠りした若者は又、幾人(いくたり)かお春の左右を通り過ぎた。彼女は言うに言われぬ恐怖(おそれ)を感じた。丁度そこに若旦那も来ていた。お春は若旦那に手を引いて貰って、漸(ようや)くこの混雑(ひとごみ)から遁(のが)れた。 九月に入って、三吉は一夏かかった仕事を終った。お種から言えば二番目の弟にあたる森彦の貰われて行った家――この養家も姓はやはり小泉で、姉弟(きょうだい)の生れた家から見ると二里ほど手前にある――そこの老人から橋本へ便りがあった。「三吉も最早東京へ帰るそうなが、わざわざ是方(こちら)へ廻るには及ばん、直に帰れ、その方が両為(りょうだめ)だ」こんなことが書いてあった。「両為とは、老人も書いてくれた」 こう達雄は、三吉にその手紙を見せて、笑った。この老人の倹約なことは、封筒や巻紙を見ても知れた。 いよいよ三吉の発って行くべき日が近づいた。復た何時(いつ)来られるものやら解らないから、と言って、達雄は酷(ひど)く名残(なごり)を惜んだ。三吉が表座敷で書いた物をも声を出して通読してみた。薬の方の多忙(いそが)しいところを見て貰ったのが、何より東京への土産だ、とも話した。「三吉さん、来て御覧なさい。君に御馳走(ごちそう)しようと思って頼んで置いた物が、漸く手に入りましたから」 と達雄は炉辺へ三吉を呼んで言った。三吉も帰る仕度やら、土地の人の訪問を受けるやらで、心はあわただしかった。「三吉」と姉も名残を惜むという風で、「お前さんに食べさせてもやりたいし、持たせてもやりたいと思って、今三人掛りで、この蜂(はち)の子を抜くところだ。見よや、これが巣だ。えらい大きな巣を作ったもんじゃないか」 五層ばかりある地蜂の巣は、漆の柱を取離して、そこに置いてあった。お種はお仙やお春と一緒に、子は子、親に成りかけた蜂は蜂で、一々巣の穴から抜取っていた。この地蜂は、蜜蜂などに比べるとずっと小さく、土地の者の珍重する食料である。三吉も少年の時代には、よく人に随(つ)いて、この巣を探しに歩いたものである。「母親さん、写真屋が来ましたから、着物を着更えて下さい」 こう正太がそこへ来て呼んだ。「写真屋が来た? それは大多忙(おおいそがし)だ。お仙――蜂の子はこうして置いて、ちゃっと着更えまいかや。お春、お前も仕度するが可い」とお種は言った。「嘉助――皆な写すで来いよ」達雄は店の方を見て呼んだ。 記念の為、奥座敷に面した庭で、一同写真を撮(と)ることに成った。大番頭から小僧に至るまで、思い思いの場処に集った。達雄は、先祖の竹翁が植えたという満天星(どうだん)の樹を後にして立った。「女衆は前へ出るが可い」 と達雄に言われて、お種、お仙、お春の三人は腰掛けた。「叔父さん、貴方は御客様ですから、もうすこし中央(まんなか)へ出て下さい」 こう正太が三吉の方を見て言った。三吉は野菊の花の咲いた大きな石の側へ動いた。 白い、熱を帯びた山雲のちぎれが、皆なの頭の上を通り過ぎた。どうかすると日光が烈(はげ)しく落ちて来て、撮影を妨げる。急に嘉助は空を仰いで、何か思い付いたように自分の場処を離れた。「嘉助、何処へ行くなし」とお種は腰掛けたままで聞いた。「そこを動かない方がいいよ――今、大きな雲がやって来た。あの影に成ったところで、早速撮って貰おう」と正太も注意する。「いえ――ナニ――私はすこし注文が有るで」 と言って、嘉助は皆なの見ている前を通って、一番日影に成りそうな場処を択んだ。丁度旦那と大番頭とは並んだ。待設(まちもう)けた雲が来た。若い手代の幸作、同じく嘉助の忰(せがれ)の市太郎、皆な撮(うつ)った。 三吉が出発の日は、達雄夫婦を始め、正太、お仙まで、朝のうちに奥座敷へ集った。三吉も夏服に着更えて、最早(もう)秋海棠(しゅうかいどう)などの咲出した裏庭を皆なと一緒に眺めながら、旅の脚絆(きゃはん)を当てた。ここへ来がけに酷(ひど)く馬車で揺られたと言って、彼は背中のある部分だけ薄く削取(けずりと)られたような上着を着ていた。 三吉がこの山の中で書いたものは――達雄夫婦の賜物(たまもの)のように――手荷物の中に納めてあった。彼の心は暗い悲惨な過去の追想から離れかけていた。その若い思想(かんがえ)を、彼は静かなところで纏(まと)めてみたに過ぎなかった。 通いで来る嘉助親子も、東京の客が発つというので、その朝は定時(いつも)より早く橋を渡って来た。 朝飯の後、一同炉辺で別離(わかれ)の茶を飲だ。姉は名残が尽きないという風で、「でも、よく来てくれた。何時でも来られそうなものだが、なかなか思うようにはいきません」「どうして、それどこじゃない」と嘉助も引取って、「三吉様はこれで何度郷里(くに)へ帰らッせるなし」「僕ですか、ずっと前に老祖母(おばあ)さんの死んだ時に一度、母親(おっか)さんの葬式の時に一度――今度で三度目です」と三吉が言う。「彼(あれ)は八歳(やっつ)の時分に郷里(くに)を出たッきりよなし」とお種は嘉助の方を見て。「これで、旧(むかし)の家でも焼けずに在ると、帰る機会が多いんだがナア」と達雄も快濶(かいかつ)らしく笑った。 前の晩のうちに頼んで置いた乗合馬車の馬丁(べっとう)が、その時、庭口へ声を掛けに来た。「叔父さん、馬車が来ました」と正太が言って、叔父の手荷物を提(さ)げながら、一歩(ひとあし)先(さき)へ出て行った。「では、私はここで御免蒙りますから――」とお種は炉辺で弟に別離(わかれ)を告げた。「皆さんに宜敷(よろしく)――実にも御無沙汰(ごぶさた)するがッて、宜敷言っておくれや――お前さんもまあ折角(せっかく)御無事で――」 挨拶(あいさつ)もそこそこに、三吉はお仙やお春などにも別れて、橋本の家を出た。達雄はそこまで見送ると言って、三吉と一緒に石段を降りた。 崖下(がけした)には乗合馬車が待っていた。車の中には二三の客もあった。この車はお六櫛(ぐし)を売る宿(しゅく)あたりまでしか乗せないので、遠く行こうとする旅人は其処(そこ)で一つ山を越えて、更に他の車へ乗替えなければ成らなかった。「直樹さんと来た時は沓掛(くつかけ)から歩きましたが、途中で虻(あぶ)に付かれて困りましたッけ」「ええ、蠅(はえ)だの、蚋(ぶよ)だの……そういうものは木曾路(きそじ)の名物です。産馬地(うまどこ)の故(せい)でしょうね」 こんな言葉を、三吉と正太とは車の上と下とで取換(とりかわ)した。 ノンキな田舎のことで、馬車は容易に出なかった。三吉は車の周囲(まわり)に立って見送っている達雄や嘉助や若い手代達にも話しかける時はあった。待っても待っても他に乗合客が見えそうもないので、馬丁(べっとう)はちょっと口笛を吹いて、それから手綱(たづな)を執った。車は崖について、朝日の映(あた)った道路を滑(すべ)り始めた。二月ばかり一緒にいた人達の顔は次第に三吉から遠く成った。     三 弟の三吉が帰るという報知(しらせ)を、実は東京の住居(すまい)の方で受取った。小泉の実と橋本の達雄とは、義理ある兄弟の中でも殊(こと)に相許している仲で、旧(ふる)い家を相続したことも似ているし、地方の「旦那衆」として知られたことも似ているし、年齢(とし)から言ってもそう沢山違っていなかった。 実は、達雄のように武士として、又薬の家の主人(あるじ)としての阿爺(おやじ)を持たなかったが、そのかわりに、一村の父として、大地主としての阿爺を持った。父の忠寛は一生を煩悶(はんもん)に終ったような人で、思い余っては故郷を飛出して行って国事の為に奔走するという風であったから、実が十七の年には最早家を任せられる程の境涯にあった。彼は少壮(としわか)な孝子で、又可傷(いたま)しい犠牲者であった。父の亡くなる頃は、彼も地方に居て、郡会議員、県会議員などに選ばれ、多くの尊敬を払われたものであったが、その後都会へ出て種々な事業に携(たずさわ)るように成ってから、失敗の生涯ばかり続いた。製氷を手始めとして、後から後から大きな穴が開いた。 不図(ふと)した身の蹉跌(つまずき)から、彼も入獄の苦痛を嘗(な)めて来た人である。赤煉瓦(れんが)の大きな門の前には、弟の宗蔵や三吉が迎えに来ていて、久し振で娑婆(しゃば)の空気を呼吸した時の心地(こころもち)は、未だ忘れられずにある。日光の渇(かわき)……楽しい朝露……思わず嬉しさのあまりに、白い足袋跣足(たびはだし)で草の中を飛び廻った。三吉がくれた巻煙草(まきたばこ)も一息に吸い尽した。千円くれると言ったら、誰かそれでも暗い処へ一日来る気は有るか、この評定(ひょうじょう)が囚人の間で始まった時、一人として御免を蒙(こうむ)ると答えない者はなかった。その娑婆で、彼は新しい事業を経営しつつあるのである。 直樹の父親もまた同郷から出て来た事業家であった。この人と実兄弟とは、長い間、親戚のように往(い)ったり来たりした。直樹の父親の旦那(だんな)は、伝馬町(てんまちょう)の「大将」と言って、紺暖簾(こんのれん)の影で采配(さいはい)を振るような人であったが、その「大将」が自然と実の旦那でもあった。旦那は、実の開けた穴を埋めさせようとして、更に大きく注込(つぎこ)んでいた。 格子戸の填(はま)った、玄関のところに小泉商店とした看板の掛けてある家の奥で、実は狭い庭の盆栽に水をくれた。以前の失敗に懲りて、いかなる場合にも着物は木綿で通すという主義であった。彼の胸には種々なことがある。故郷の広い屋敷跡――山――畠――田――林――すべてそういう人手に渡って了(しま)ったものは、是非とも回復せねばならぬ。祖先に対しても、又自分の名誉の為にも。それから嵩(かさ)なり嵩なった多くの負債の仕末をせねば成らぬ。 新しく起って来た三吉が結婚の話――それも良縁と思われるから、弟に勧めて、なるべく纏(まと)まるように運ばねばならぬ。こう思い耽(ふけ)っているところへ、弟が旅から帰って来た。「只今(ただいま)」 と三吉は玄関のところから日に焼けた顔を出した。 もし正太に適当な嫁でも有ったら、こんなことまで頼まれて帰って来た三吉の眼には、いかにも都の町中(まちなか)の住居(すまい)が窮屈に映った。玄関の次の部屋には、病気でブラブラしている宗蔵兄がいる。片隅(かたすみ)へ寄せて乳呑児(ちのみご)が寝かしてある。縁側のところには、姪(めい)のお俊が遊んでいる。その次の長火鉢(ながひばち)の置いてある部屋は勝手に続いて、そこには嫂(あによめ)のお倉と二十(はたち)ばかりに成る下女とが出たり入ったりして働いている。突当りの窓の外は直ぐ細い路地で、簾越(すだれご)しに隣の家の側面も見える。 夕飯時に近かった。実は長火鉢の側に膳(ぜん)を控えて、先ずオシキセをやりながら、三吉から橋本の家の様子を簡単に聴取(ききと)った。「木曾の姉さんからの御土産(おみやげ)です」 とお倉はオズオズとした調子で言って、三吉が持って来た蜂の子の煎付(いりつ)けたのを皿に載せて出した。 実が家長としての威厳は何時(いつ)までも変らなかった。彼は、家の外では極(きわ)めて円滑な人として通っていたが、家の者に対(むか)っては厳格過ぎる位。丁度往時(むかし)故郷の広い楽しい炉辺(ろばた)で、ややもすると嫌味(いやみ)なことを言う老祖母(おばあ)さんを前に置いて、碌々(ろくろく)口も利(き)かずに食った若夫婦の時代と同じように、何時まで経ってもそう打解けた様子を妻に見せなかった。「お種さんも御変りは御座いませんか」 こうお倉は三吉に尋ねながら、弟や娘の為にも膳を用意した。 宗蔵は三吉と相対(さしむかい)に胡坐(あぐら)にやった。「どうも胡坐をかかないと、食ったような気がしないネ――へえ、久し振で田舎(いなか)の御馳走(ごちそう)に成るかナ」 こんなことを言って、細く瘠(や)せた左の手で肉叉(ホオク)や匙(さじ)を持添えながら食った。宗蔵は箸(はし)が持てなかった。で、こういうものを買って宛行(あてが)われている。「宗さん、不相変(あいかわらず)いけますね」と三吉が戯れて言った。「不相変いけますねとは、失敬な」と宗蔵は叱るように。「ええええ、いけるどころじゃない」とお倉は引取って、「病人のくせに、宗さんの食べるには驚いちまう」 宗蔵は兄の前をも憚(はばか)らないという風で、食客同様の人とも見えなかった。
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