若菜集
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著者名:島崎藤村 

身にふりかゝる凶禍(まがごと)の
天の兆(しるし)とうたがへり
総鳴(そうなき)に鳴く鶯(うぐひす)の
にほひいでたる声をあげ
さへづり狂ふ音(ね)をきけば
げにめづらしき春の歌
春を得知らぬ処女(をとめ)さへ
かのうぐひすのひとこゑに
枕の紙のしめりきて
人なつかしきおもひあり
まだ時ならぬ白百合の
籬(まがき)の陰にさける見て
九十九(つくも)の翁(おきな)うつし世の
こゝろの慾の夢を恋ひ
音(ね)をだにきかぬ雛鶴(ひなづる)の
軒(のき)の榎樹(えのき)に来て鳴けば
寝覚(ねざめ)の老嫗(おうな)後の世の
花の台(うてな)に泣きまどふ
空にかゝれる星のいろ
春さきかへる夏花(なつはな)や
是(これ)わざはひにあらずして
よしや兆(しるし)といへるあり
なにを酔ひ鳴く春鳥(はるどり)よ
なにを告げくる鶴の声
それ鳥の音(ね)に卜(うらな)ひて
よろこびありと祝ふあり
高き聖(ひじり)のこの村に
声をあげさせたまふらん
世を傾けむ麗人(よきひと)の
茂れる賤(しづ)の春草(はるぐさ)に
いでたまふかとのゝしれど
誰かしるらん新星(にひぼし)の
まことの北をさししめし
さみしき蘆(あし)の湖(みづうみ)の
沈める水に映(う)つるとき
名もなき賤の片びさし
春の夜風の音を絶え
村の南のかたほとり
その夜生れし牝(め)の馬は
流るゝ水の藍染(あゐぞめ)の
青毛(あをげ)やさしき姿なり
北に生れし雄(を)の馬の
栗毛にまじる紫は
色あけぼのの春霞
光をまとふ風情(ふぜい)あり
星のひかりもをさまりて
噂(うはさ)に残る鶴の音や
啼く鶯に花ちれば
嗚呼この村に生れてし
馬のありとや問ふ人もなし

   雄馬(をうま)

あな天雲(あまぐも)にともなはれ
緑の髪をうちふるひ
雄馬は人に随(したが)ひて
箱根の嶺(みね)を下(くだ)りけり
胸は踴(をど)りて八百潮(やほじほ)の
かの蒼溟(わだつみ)に湧くごとく
喉(のど)はよせくる春濤(はるなみ)を
飲めども渇(かわ)く風情あり
目はひさかたの朝の星
睫毛(まつげ)は草の浅緑(あさみどり)
うるほひ光る眼瞳(ひとみ)には
千里(ちさと)の外(ほか)もほがらにて
東に照らし西に入る
天つみそらを渡る日の
朝日夕日の行衛(ゆくへ)さへ
雲の絶間に極むらん
二つの耳をたとふれば
いと幽(かすか)なる朝風に
そよげる草の葉のごとく
蹄(ひづめ)の音をたとふれば
紫金(しこん)の色のやきがねを
高くも叩(たた)く響あり
狂へば長き鬣(たてがみ)の
うちふりうちふる乱れ髪
燃えてはめぐる血の潮(しほ)の
流れて踴(をど)る春の海
噴(は)く紅(くれなゐ)の光には
火炎(ほのほ)の気息(いき)もあらだちて
深くも遠き嘶声(いななき)は
大神(おほがみ)の住む梁(うつばり)の
塵(ちり)を動かす力あり
あゝ朝鳥(あさとり)の音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つげわたる鳥の音に
木曽の御嶽(みたけ)の巌(いは)を越え
かの青雲(あをぐも)に嘶(いなな)きて
天(そら)より天(そら)の電影(いなづま)の
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき
主人(あるじ)のあとをとめくれば
箱根も遠し三井寺や
日も暖(あたたか)に花深く
さゝなみ青き湖の
岸の此彼(こちごち)草を行く
天の雄馬のすがたをば
誰かは思ひ誰か知る
しらずや人の天雲(あまぐも)に
歩むためしはあるものを
天馬の下(お)りて大土(おほつち)に
歩むためしのなからめや
見よ藤の葉の影深く
岸の若草香(か)にいでて
春花に酔ふ蝶(ちょう)の夢
そのかげを履(ふ)む雄馬には
一つの紅(あか)き春花(はるはな)に
見えざる神の宿(やどり)あり
一つうつろふ野の色に
つきせぬ天のうれひあり
嗚呼鷲鷹(わしたか)の飛ぶ道に
高く懸(かか)れる大空の
無限(むげん)の絃(つる)に触れて鳴り
男神(をがみ)女神(めがみ)に戯(たはむ)れて
照る日の影の雲に鳴き
空に流るゝ満潮(みちしほ)を
飲みつくすとも渇(かわ)くべき
天馬よ汝(なれ)が身を持ちて
鳥のきて啼(な)く鳰(にほ)の海
花橘(はなたちばな)の蔭を履(ふ)む
その姿こそ雄々しけれ

   牝馬(めうま)

青波(あをなみ)深きみづうみの
岸のほとりに生れてし
天の牝馬は東(あづま)なる
かの陸奥(みちのく)の野に住めり
霞に霑(うるほ)ひ風に擦(す)れ
音(おと)もわびしき枯くさの
すゝき尾花にまねかれて
荒野(あれの)に嘆く牝馬かな
誰か燕(つばめ)の声を聞き
たのしきうたを耳にして
日も暖かに花深き
西も空をば慕はざる
誰か秋鳴くかりがねの
かなしき歌に耳たてて
ふるさとさむき遠天(とほぞら)の
雲の行衛(ゆくへ)を慕はざる
白き羚羊(ひつじ)に見まほしく
透(す)きては深く柔軟(やはらか)き
眼(まなこ)の色のうるほひは
吾(わ)が古里(ふるさと)を忍べばか
蹄(ひづめ)も薄く肩痩(や)せて
四つの脚(あし)さへ細りゆき
その鬣(たてがみ)の艶(つや)なきは
荒野(あれの)の空に嘆けばか
春は名取(なとり)の若草や
病める力に石を引き
夏は国分(こくぶ)の嶺(みね)を越え
牝馬にあまる塩を負ふ
秋は広瀬の川添(かはぞひ)の
紅葉(もみぢ)の蔭にむちうたれ
冬は野末に日も暮れて
みぞれの道の泥に饑(う)ゆ
鶴よみそらの雲に飽き
朝の霞の香に酔ひて
春の光の空を飛ぶ
羽翼(つばさ)の色の嫉(ねた)きかな
獅子(しし)よさみしき野に隠れ
道なき森に驚きて
あけぼの露にふみ迷ふ
鋭き爪のこひしやな
鹿よ秋山(あきやま)妻恋(つまごひ)に
黄葉(もみぢ)のかげを踏みわけて
谷間の水に喘(あへ)ぎよる
眼睛(ひとみ)の色のやさしやな
人をつめたくあぢきなく
思ひとりしは幾歳(いくとせ)か
命を薄くあさましく
思ひ初(そ)めしは身を責むる
強き軛(くびき)に嘆き侘(わ)び
花に涙をそゝぐより
悲しいかなや春の野に
湧(わ)ける泉を飲み干すも
天の牝馬のかぎりなき
渇ける口をなにかせむ
悲しいかなや行く水の
岸の柳の樹の蔭の
かの新草(にひぐさ)の多くとも
饑ゑたる喉(のど)をいかにせむ
身は塵埃(ちりひぢ)の八重葎(やへむぐら)
しげれる宿にうまるれど
かなしや地(つち)の青草は
その慰藉(なぐさめ)にあらじかし
あゝ天雲(あまぐも)や天雲や
塵(ちり)の是世(このよ)にこれやこの
轡(くつわ)も折れよ世も捨てよ
狂ひもいでよ軛(くびき)さへ
噛み砕けとぞ祈るなる
牝馬のこゝろ哀(あはれ)なり
尽きせぬ草のありといふ
天つみそらの慕はしや
渇かぬ水の湧くといふ
天の泉のなつかしや
せまき厩(うまや)を捨てはてて
空を行くべき馬の身の
心ばかりははやれども
病みては零(お)つる泪(なみだ)のみ
草に生れて草に泣く
姿やさしき天の馬
うき世のものにことならで
消ゆる命のもろきかな
散りてはかなき柳葉(やなぎは)の
そのすがたにも似たりけり
波に消え行く淡雪(あはゆき)の
そのすがたにも似たりけり
げに世の常の馬ならば
かくばかりなる悲嘆(かなしみ)に
身の苦悶(わづらひ)を恨(うら)み侘び
声ふりあげて嘶(いなな)かん
乱れて長き鬣の
この世かの世の別れにも
心ばかりは静和(しづか)なる
深く悲しき声きけば
あゝ幽遠(かすか)なる気息(ためいき)に
天のうれひを紫の
野末の花に吹き残す
世の名残こそはかなけれ

  鶏(にはとり)

花によりそふ鶏の
夫(つま)よ妻鳥(めどり)よ燕子花(かきつばた)
いづれあやめとわきがたく
さも似つかしき風情(ふぜい)あり

姿やさしき牝鶏(めんどり)の
かたちを恥づるこゝろして
花に隠るゝありさまに
品かはりたる夫鳥(つまどり)や

雄々しくたけき雄鶏(をんどり)の
とさかの色も艶(えん)にして
黄なる口觜(くちばし)脚蹴爪(あしけづめ)
尾はしだり尾のなが/\し

問ふても見まし誰(た)がために
よそほひありく夫鳥(つまどり)よ
妻(つま)守(も)るためのかざりにと
いひたげなるぞいぢらしき

画にこそかけれ花鳥(はなどり)の
それにも通ふ一つがひ
霜に侘寝(わびね)の朝ぼらけ
雨に入日の夕まぐれ

空に一つの明星の
闇行く水に動くとき
日を迎へんと鶏の
夜(よる)の使(つかひ)を音(ね)にぞ鳴く

露けき朝の明けて行く
空のながめを誰(たれ)か知る
燃ゆるがごとき紅(くれなゐ)の
雲のゆくへを誰(たれ)か知る

闇もこれより隣なる
声ふりあげて鳴くときは
ひとの長眠(ねむり)のみなめざめ
夜は日に通ふ夢まくら

明けはなれたり夜はすでに
いざ妻鳥(つまどり)と巣を出(い)でて
餌(ゑ)をあさらんと野に行けば
あなあやにくのものを見き

見しらぬ鶏(とり)の音(ね)も高に
あしたの空に鳴き渡り
草かき分けて来るはなぞ
妻恋ふらしや妻鳥(つまどり)を

ねたしや露に羽(はね)ぬれて
朝日にうつる影見れば
雄鶏(をどり)に惜(を)しき白妙(しろたへ)の
雲をあざむくばかりなり

力あるらし声たけき
敵(かたき)のさまを懼(おそ)れてか
声色(いろ)あるさまに羞(は)ぢてかや
妻鳥(めどり)は花に隠れけり

かくと見るより堪へかねて
背をや高めし夫鳥(つまどり)は
羽(は)がきも荒く飛び走り
蹴爪に土をかき狂ふ

筆毛(ふでげ)のさきも逆立(さかだ)ちて
血潮(ちしほ)にまじる眼のひかり
二つの鶏(とり)のすがたこそ
是(これ)おそろしき風情(ふぜい)なれ

妻鳥(めどり)は花を馳(か)け出でて
争闘(あらそひ)分くるひまもなみ
たがひに蹴合ふ蹴爪(けづめ)には
火焔(ほのほ)もちるとうたがはる

蹴るや左眼(さがん)の的(まと)それて
羽(はね)に血しほの夫鳥(つまどり)は
敵の右眼(うがん)をめざしつゝ
爪も折れよと蹴返しぬ

蹴られて落つるくれなゐの
血潮の花も地に染みて
二つの鶏(とり)の目もくるひ
たがひにひるむ風情なし

そこに声あり涙あり
争ひ狂ふ四つの羽(はね)
血潮(のり)に滑りし夫鳥(つまどり)の
あな仆(たふ)れけん声高し

一声長く悲鳴して
あとに仆るゝ夫鳥の
羽(はね)に血潮の朱(あけ)に染(そ)み
あたりにさける花紅(あか)し

あゝあゝ熱き涙かな
あるに甲斐なき妻鳥は
せめて一声鳴けかしと
屍(かばね)に嘆くさまあはれ

なにとは知らぬかなしみの
いつか恐怖(おそれ)と変りきて
思ひ乱れて音(ね)をのみぞ
鳴くや妻鳥(めどり)の心なく

我を恋ふらし音(ね)にたてて
姿も色もなつかしき
花のかたちと思ひきや
かなしき敵とならんとは

花にもつるゝ蝶(ちょう)あるを
鳥に縁(えにし)のなからめや
おそろしきかな其の心
なつかしきかな其の情(なさけ)

紅(あけ)に染(そ)みたる草見れば
鳥の命のもろきかな
火よりも燃ゆる恋見れば
敵(てき)のこゝろのうれしやな

見よ動きゆく大空の
照る日も雲に薄らぎて
花に色なく風吹けば
野はさびしくも変りけり

かなしこひしの夫鳥(つまどり)の
冷えまさりゆく其(その)姿
たよりと思ふ一ふしの
いづれ妻鳥(めどり)の身の末ぞ

恐怖(おそれ)を抱く母と子が
よりそふごとくかの敵に
なにとはなしに身をよする
妻鳥のこゝろあはれなれ

あないたましのながめかな
さきの楽しき花ちりて
空色暗く一彩毛(ひとはけ)の
雲にかなしき野のけしき

生きてかへらぬ鳥はいざ
夫(つま)か妻鳥(めどり)か燕子花(かきつばた)
いづれあやめを踏み分けて
野末を帰る二羽の鶏(とり)

  松島瑞巌寺(ずいがんじ)に遊び葡萄(ぶどう)
  栗鼠(きねずみ)の木彫を観て

舟路(ふなぢ)も遠し瑞巌寺
冬逍遙(ふゆじょうよう)のこゝろなく
古き扉に身をよせて
飛騨(ひだ)の名匠(たくみ)の浮彫(うきぼり)の
葡萄のかげにきて見れば
菩提(ぼだい)の寺の冬の日に
刀(かたな)悲(かな)しみ鑿(のみ)愁(うれ)ふ
ほられて薄き葡萄葉の
影にかくるゝ栗鼠よ
姿ばかりは隠すとも
かくすよしなし鑿(のみ)の香(か)は
うしほにひゞく磯寺(いそでら)の
かねにこの日の暮るゝとも
夕闇(ゆふやみ)かけてたゝずめば
こひしきやなぞ甚五郎




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