夜明け前
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著者名:島崎藤村 

 各国公使の一行は無事に西本願寺に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一行十二人の外交団だ。しばらく休息の時を与えるため、接待役の僧が一室に案内し、黒い裙子(くんし)を着けた子坊主(こぼうず)は高坏(たかつき)で茶菓なぞを運んで行って一行をもてなした。
 寺の大広間は内外の使臣が会見室として、すでにその準備がととのえてある。やがて外人側は導かれて畳の上に並べた椅子(いす)に着いた。列藩の家老たちも来てそれぞれ着席する。まず東久世通禧の発話で各公使への挨拶(あいさつ)があった。それは日本の政体の復古した事、帝(みかど)自ら政権を執りたもう事、外国の交際も一切朝廷で引き受ける事は過日兵庫において布告したとおり相違のない旨(むね)を告げ、今回外国事務局を建てて交易通商一切の諸事件をことごとく取り扱うから、今日改めて朝廷守護の列藩と共に、各国公使に会同してこの盟約を定める旨を告げた。これには公使らも異議がない。帝はじめ列藩の諸侯が日本人民のために広く信睦(しんぼく)を求め、互いに誠実をもって交わろうということは、各国においてもかねがね渇望したところである、今後は帝の朝廷を日本の主府と仰いで、万事その政令を奉ずるであろう。公使らはその意味のことを答えた。
 通禧はまた、言葉を改めて言った。このたび万国と条約を改めた上は、帝自ら各国公使に対面して、盟(ちか)いを立てようとの思(おぼ)し召しである。不日(ふじつ)上京あるべき旨、各国公使に申し入れるよう、帝の命を奉じたのであると。公使らは恐れ入ったと言って、いずれ談合の上、明後日その御返事を申し上げると挨拶した。その時の英国公使の言葉に、徳川慶喜討伐の師がすでに京都を出発した上は、関東の形勢も安心なりがたい。もし早く帝に拝謁(はいえつ)することがかなわないならすみやかに浪華(なにわ)の地を退きたい、そして横浜にある居留民の保護に当たりたい一同の希望であると。これを聞くと、米国公使はそばにいる伊国公使や普国公使を顧みて、自分ら三人は明十五日までに大坂を出発して横浜へ回航したい、と述べた。
 ファルケンボルグはしきりに手をもんだ。横浜居留地の方のことも心にかかるから、としきりに弁解した。通禧はその様子をみて取って言った。
「では、こうなすったら、いかがでしょう。明日中には謁見の日取りを京都からも申してまいりましょう。それまで御滞坂になって、その上で進退せられたら。諸君も京都へ行って一度は天顔を拝するがいい。」


 滞坂中の各国公使の間には、帝に謁見の日限を確定して、それをもって盟(ちか)いの意味をはっきりさせたいと言うものと、ひどく上京を躊躇(ちゅうちょ)するものとがあった。このことが京都の方に聞こえると、外国人の参内(さんだい)は奥向きではなはだむつかしい、各国公使の御対面なぞはもってのほかであるということで、京都へ入れることはいけないという奥向きの模様が急使をもって通禧のところへ伝えられた。三条岩倉両公も困って、なんとかして奥向きを説諭してくれるようにとの伝言も添えてあった。
 これには通禧も驚かされた。早速(さっそく)京都への使者を立てて、今はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げた。肝心の京都からして信睦(しんぼく)の実を示さないなら、諸外国の態度はどうひっくりかえるやも測りがたい時であると申し上げた。たとえば江戸に各諸藩の留守居を置くと同様なもので、外国と御交際になる以上はその留守居、すなわち各国公使にお会いにならぬという事はできない、これはお会いなさるがいい、西洋各国は互いに交際を親密にしている、日本のように別になっていない、諸藩の留守居と思(おぼ)し召すがいいと申し上げた。
 もはや、周囲の事情はこの島国の孤立を許さない。その時になって見ると、かつては軟弱な外交として関東を攻撃した新政府方も、幕府当局者と同じ悩みを経験せねばならなかった。かつては幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人(けとうじん)と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとした岩瀬肥後(いわせひご)なぞの心を苦しめた立場は、ちょうど新政府当局者の身に回って来た。たとい、相手があの米国のハリスの言い残したように、「交易による世界一統」というごとき目的を立てて、工業その他のまだおくれていた極東の事情も顧みずに進み来るようなものであっても――ともかくも、国の上下をあげて、この際大いに譲らねばならなかった。


 東征軍が出発した後の大坂は、あたかも大きな潮の引いたあとのようになった。留守を預かる諸藩の人たちと、出征兵士のことを気づかう市民とだけがそのあとに残った。そして徳川慶喜はすでに幾度か尾州(びしゅう)の御隠居や越前の松平春嶽(しゅんがく)を通して謝罪と和解の意をいたしたということや、慶喜その人は江戸東叡山(とうえいざん)の寛永寺(かんえいじ)にはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。
 大坂西本願寺での各国公使との会見が行なわれた翌日のことである。中寺町にあるフランス公使館からは、各国公使と共に日本側の主(おも)な委員を晩食に招きたいと言って来た。江戸旧幕府の同情者として知られているフランス公使ロセスすら、前日の会見には満足して、この好意を寄せて来たのだ。
 やがて公使館からは迎えのものがやって来るようになった。日本側からの出席者は大坂の知事醍醐忠順(だいごただおさ)、宇和島伊予守(いよのかみ)、それに通禧ときまった。そこで、三人は出かけた。
 その晩、通禧らは何よりの土産(みやげ)を持参した。来たる十八日を期して各国公使に上京参内せよと京都から通知のあったことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者が京都からもたらして帰って来たものだ。諸藩の留守居と思(おぼ)し召して各国公使に御対面あるがいいとの通禧の進言が奥向きにもいれられたのである。
 中寺町のフランス公使館には主人側のロセスをはじめ、客分の公使たちまで集まって通禧らを待ち受けていた。そこには、まるで日本人のように話す書記官メルメット・カションがいて、通訳には事を欠かない。このカションが、
「さあ、これです。」
 と、わざわざ日本語で言って見せて、通禧らの土産話をロセスにも取り次ぎ、他の公使仲間にも取り次いだ。
「ボン。」
 ロセスがその時の答えは、そんなに短かかった。思わず彼の口をついて出たその短かい言葉は、万事好都合に運んだという意味を通わせた。英国のパアクス、米国のファルケンボルグ、伊国のトウール、普国のブランド、オランダのブロック――そこに招かれて来ている公使の面々はいずれも喜んで、十八日には朝延へ罷(まか)り出ようとの相談に花を咲かせた。中には、京都を見うる日のこんなに早く来ようとは思わなかったと言い出すものがある。自分らはもう長いこと、この日の来るのを待っていたと言うものもある。
 晩食。食卓の用意もすでにできたと言って、カションは一同の着席をすすめに来た。その時、宇和島少将は通禧の袖(そで)を引いて、
「東久世さん、わたしはこういうところで馳走(ちそう)になったことがない。万事、貴公によろしく頼みますよ。」
「どうも、そう言われても、わたしも困る。まあ、皆のするとおりにすれば、それでよろしいのでしょう。」
 通禧の挨拶(あいさつ)だ。
 配膳(はいぜん)の代わりに一つの大きな卓を置いたような食堂の光景が、やがて通禧らの目に映った。そこの椅子(いす)には腰掛ける人によって高下の格のさだまりがあるでもなかったが、でもだれの席をどこに置くかというような心づかいの細かさはあらわれていた。カションの案内で、通禧らはその晩の正客の席として設けてあるらしいところに着いた。パアクスの隣には醍醐大納言、ファルケンボルグとさしむかいには宇和島少将というふうに。そこには鳥の嘴(くちばし)のように動かせる箸(はし)のかわりに、獣の爪(つめ)のようなフォークが置いてある。吸い物に使う大きな匙(さじ)と、きれいに磨(みが)いた幾本かのナイフも添えてある。食卓用の白い口拭(ふ)きを折り畳(たた)んで、客の前に置いてあるのも異国の風俗だ。食わせる物の出し方も変わっている。吸い物の皿(さら)を出す前に持って来るパンは、この国のことで言って見るなら握飯(むすび)の代わりだ。
 カションはもてなし顔に言った。
「さあ、どうぞおはじめください。フランスの料理はお口に合いますか、どうですか。」
 給仕人(きゅうじにん)が料理を盛った大きな皿を運んで来て、客のうしろから好きな物を取れと勤めるたびに、通禧らは西洋人のするとおりにした。パアクスが鳥の肉を取れば、こちらでも鳥の肉を取った。ファルケンボルグが野菜を取れば、こちらでも野菜を取った。食事の間に、通禧はおりおり連れの方へ目をやったが、醍醐大納言も、宇和島少将も、共にすこし勝手が違うというふうで、主人の公使が馳走(ちそう)ぶりに勧める仏国産の白いチーズも、わずかにその香気をかいで見たばかり。古い葡萄酒(ぶどうしゅ)ですら、そんな席でゆっくり味わわれるものとは見えなかった。
 しかし、この食卓の上は楽しかった。そのうちに日本側の客を置いて、一人(ひとり)立ち、二人(ふたり)立ち、公使らは皆席を立ってしまった。変なことではある。その考えがすぐに通禧に来た。醍醐大納言や宇和島少将は、と見ると、これもいぶかしそうな顔つきである。なんぞ変が起こったのであろうか、それまで話を持って行って、互いにあたりを見回したころは、日本側の三人の客だけしかその食堂のなかに残っていなかった。


 泉州(せんしゅう)、堺港(さかいみなと)の旭茶屋(あさひぢゃや)に、暴動の起こったことが大坂へ知れたのは、異人屋敷ではこの馳走の最中であった。よほどの騒動ということで、仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員が土佐(とさ)の家中のものに襲われたとの報知(しらせ)である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃(そげき)されたとのことであるが、旭茶屋方面から走って来るものの注進もまちまちで、出来事の真相は判然しない。ただ乗組員のうちの四人は即死し、七人は負傷し、別に七人は行くえ不明になったということは確かめられた。なお、行くえ不明の七人が難をのがれようとして水中に飛び込んだものだということもわかって来た。
 翌十六日の朝、とりあえず通禧は米国公使館を訪(たず)ねた。ファルケンボルグにあって、どうしたらよかろうと相談すると、仏国の軍艦はまさに横浜へ引き返そうとするところであるという。どうしてもこれは軍艦を引き留めねばならぬ。その考えから、通禧らは米国公使にしかるべく取りなしを依頼しようとした。
 すると、フランス側からは早速(さっそく)抗議を提出して来た。それは御門(みかど)政府外国事務掛り、東久世少将、伊達伊予守両閣下へとして、次ぎのような手詰めの談判を意味したものであった。
「……かくのごとき事件は世間まれに見聞いたし候(そうろう)事にて、禽獣(きんじゅう)の所行と申すべし。ついては仏国ミニストル、ひとまず軍艦ウエストの船中へ引き取りおり、なお右行くえ相知れざる人々死生にかかわらず残らず当方へ御差し返し下されたく、明朝第八時まで猶予いたし候間、この段大坂を領せらるる当時の政府へ申し進じ置き候。万一、右のとおり御処置これなきにおいてはいかようの御詫(わ)び御申し入れなされ候とも、かかる文明国の法則に違(たが)い、のみならずことにこのほど取りきめし条約書および条約の文に違背し、また当今御門政府の周囲にありて重役を勤めおる大名の家来にかくのごときの処置行なわれ候ては、これに対し相当と相心得候処置に及び候事にこれあるべく候間、この段申し進じ置き候。謹言。」
  千八百六十八年二月、大坂において
日本在留仏国全権レオン・ロセス ともかくも、五代、岩下らの働きから、十七日の朝八時とは言わないで、正午まで待ってもらうことにした。行くえ不明の七名をそれまでには見つけて返すから、軍艦の横浜へ引き返すことだけは見合わせてほしいと依頼した。さて、通禧らは当惑した。どこにいるやもわからないようなものを必ず見つけて返すと言ってのけたからで。
 その日の昼過ぎには、通禧は五代、中井らの人たちと共に堺(さかい)の旭(あさひ)茶屋に出張していた。済んだあとで何事もわからない。土佐の藩士らは知らん顔をして見ている。ぜひともその晩のうちに七人の死体を捜し出さねば、米国公使に取りなしを依頼した通禧らの立場もなくなるわけだ。一人探(さが)し出したものには金三十両ずつやると触れ出したところ、港の漁夫らが集まって来て、松明(たいまつ)をつけるやら、綱をおろすやらして探した。七人の異人の死体が順に一人ずつその暗い海から陸へ上がって来た。いずれも着物なしだ。通禧らは人を呼んで、それぞれ毛布に包ませなぞして、七つの土左衛門(どざえもん)のために間に合わせの新規な服を取り寄せる心配までした。中井弘蔵(こうぞう)がその棺を持って大坂に帰り着いたころは、やがて一番鶏(どり)が鳴いた。
 風雨の日がやって来た。ウエスト号という軍艦まで死骸(しがい)を持って行くにも、通禧らにはかなりの時を要した。その日は小松帯刀(こまつたてわき)も同行した。このあいにくな雨はどうだ、だれもそれを言わないものはない。しかしその雨を冒してまで届けに行くほどの心持ちを示さなかったら、フランス側でも穏やかに死骸(しがい)を引き取るとは言わなかったであろう。時刻も約束にはおくれた。通禧らは時計の針を正午のところに引き直して行って、ようやく約束を果たし、横浜の方へ引き返すことだけはどうやら先方に思いとどまってもらった。
 浪(なみ)も高かった。フランス側ではこの風に危ないと言って、小蒸汽船を卸して通禧らを送りかえしてくれた。ともかくも、死骸はフランス側の手に渡った。しかし、この容易ならぬ事件のあと始末は。それが心配になって、通禧らは帰りの船からもう一度ウエスト号の方を振り返って見た。例の黒船は気味の悪い沈黙を守りながら、雨の川口にかかっていた。


 しきりに起こる排外の沙汰(さた)。しかも今度の旭(あさひ)茶屋での件は諸外国との親睦(しんぼく)を約した大坂西本願寺会見の日から見て、実に二日目の出来事だ。危うくもまた測りがたいのは当時の空をおおう雲行きであった。そこで新政府では外国交際の布告を急いだ。太政官(だじょうかん)代三職の名で発表したその布告には、幕府において定め置いた条約が日本政府としての誓約であることからはじめて、時の得失により条目は改められても、その大体に至ってはみだりに動かすべきものでないの意味を告げてある。今さら朝廷においてこれを変えられたら、かえって信義を海外万国に失い、実に容易ならぬ大事であると心得よ、皇国固有の国体と万国公法とを斟酌(しんしゃく)して御採用になったのも、これまたやむを得ない御事であると心得よと告げてある。ついては、越前宰相以下建白(けんぱく)の趣旨に基づき、広く百官諸藩の公議により、古今の得失と万国交際のありさまとを折衷せられ、今般外国公使の入京参朝を仰せ付けられた次第である、と告げてある。もとより膺懲(ようちょう)のことを忘れてはならない、たとい和親を講じても曲直は明らかにせねばならない、攻守の覚悟はもちろんの事であるが、先朝においてすでに開港を差し許され、皇国と各国との和親はその時に始まっている、このたび王政一新、万機朝廷より仰せいだされるについては、各国との交際も直ちに朝廷においてお取り扱いになるは元よりの御事である、今や御親政の初めにあたり、非常多難の時に際会し、深く恐懼(きょうく)と思慮とを加え、天下の公論をもつて奏聞(そうもん)に及び、今般の事件を御決定になった次第である、かつ、国内もまだ定まらない上に、海外万国交際の大事である、上下協力して共に王事に勤労せよ、現時の急務は活眼を開いて従前の弊習を脱するにあると心得よ、とも告げてある。
 これは開国の宣言とも見るべきものであるが、大いに伸びようとするものは大いに屈しなければならないとの意志はこの英断にこもっていた。よろしく世界に進みいでよ、理のあるところには異国人にも頭を下げよ、彼の長を採り我の短を補い万世の大基礎を打ち建てよ、上下一致して縦横に踏み出せ、と言われたのはこの際である。
 二月の十九日に、仏国公使からは五か条の申し出があった。三日間にその決答を求めて来た。その時になると、旭茶屋事件の真相もはっきりして来た。仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員は艦長の指揮により、士官両人の付き添いで、堺港内の深浅を測量していたところ、土州兵のためにその挙動を疑われ、にわかに岸からの狙撃(そげき)を受けたものであった。乗組員のうち、わずかに一人(ひとり)だけが水を泳ぎきって無事にその場をのがれたこともわかって来た。フランス側に言わせると、軍港でもないところの海底の深浅を測量したからとて、そのために外国人を斃(たお)すとは何事であるか、もしその行為が不当であるなら乗組員を諭(さと)して去らしめるがいい、それでも言うことをきかなかったら抑留して仏国領事に引き渡すがいい、日本に在留したヨーロッパ人、ないしアメリカ人の身に罪なくして命を失ったものはすでに三十人に及んでいるとの言い分である。


「申し上げます。明後二十三日には堺の妙国寺で、土佐の暴動人に切腹を言い付けるそうでございます。つきましては、フランス側の被害者は、即死四人、手負い七人、行くえ知れず七人でありましたから、土佐のものも二十人ぐらいでよろしかろうということで、関係者二十人に切腹を言い付けるそうでございます。」
「気の毒なことだが、いたし方ない。暴動人の処刑は先方のきびしい請求だから。」
 東久世家の執事と通禧とは、こんな言葉をかわした。
「では、五代才助と上野敬助の両人に、当日立ち会うようにと、そう言ってやってください。」
 と通禧は言い添えた。
 妙国寺に土州兵らの処刑があったという日の夕方には、執事がまた通禧のところへ来て言った。
「今日は土佐家から、客分の家老職に当たります深尾康臣(ふかおやすおみ)も検使として立ち会ったと申してまいりました。鬮引(くじび)きで、切腹に当たる者を呼び出したということですが、なかなか立派であったそうで――辞世なぞも詠(よ)みましたそうで。ところが、切腹を実行して十一人目になりますと、そこに出張していたフランスの士官から助命の申し出がありました。あまり気の毒だから、切腹はもうおやめなさいと申したそうでございます。いや、はや、慷慨家(こうがいか)の寄り集まりで、仏人からそう申しても、ぜひ切ると言った調子で、聞き入れません。これには五代氏も止めるがいいと言い出しまして、切腹、罷(まか)りならぬ、そう厳命で止めさせたと承りました。」
 この「切腹、罷りならぬ」には通禧も笑っていいか、どうしていいか、わからなかった。
 もはや、旧暦二月末の暖かい雨もやって来るようになった。それからの旭茶屋事件には、仏人からの命乞(ご)いがあり、九人の土州兵を流罪(るざい)ということにして肥後と芸州とに預けるような相談も出た。山階(やましな)の宮(みや)も英国の軍艦までおいでになって、仏国全権ロセスに面会せられ、五か条の中の一か条で御挨拶(ごあいさつ)があった。この事を心配した土佐の山内容堂が病気を押して国もとから大坂に着いた日の後には、償金十五万両を三度に切って、フランス国に陳謝の意を表するほか、十一人の遺族、七人の負傷者のために土佐藩から贈るような日が続いた。

       四

「先達(せんだっ)て布告に相成り候(そうろう)各国の中(うち)、仏英蘭公使、いよいよ来たる二十七日大坂表出発、水陸通行、同夜伏見表(ふしみおもて)に止宿、二十八日上京仰せいだされ候。右については、かねて御沙汰(ごさた)のとおり、すべて万国公法をもって御交際遊ばされ候儀につき、一同心得違いこれなきよう、藩々においても厳重取り締まりいたすべく仰せいだされ候事。」
 この布告が出るころには、米国、伊国、普国の公使らはもはや大坂にいなかった。亡(な)きフランス軍人のために神戸外人墓地での葬儀が営まれるのを機会に、関東方面の形勢も案じられると言って、横浜居留地をさして大坂から退いて行った。後には、上京のしたくにいそがしい英国、仏国、オランダの三公使だけが残った。
 外人禁制の都、京都へ。このことが英公使パアクスをよろこばせた上に、彼にはこの上京につけて心ひそかな誇りがあった。今や日本の中世的な封建制度はヨーロッパ人の東漸(とうぜん)とともに消滅せざるを得ない時となって来ている、それを見抜いたのが前公使のアールコックであり、また、新社会構成のために西方諸藩の人たちを助けてこの革命を成就(じょうじゅ)せしめようとしているものも、そういう自分であるとの強い自負心は絶えず彼の念頭を去らない。このパアクスは、年若な日本の政事家の多い新政府の人たちを自分の生徒とも見るような心構えでもって、例の赤備兵(あかぞなえへい)の一隊を引き連れ、書記官ミットフォードと共に二十七日にはすでに上京の途についた。
 仏国公使ロセスと、オランダ代理公使ブロックとの出発は、それより一日おくれた。これは途中の危険を慮(おもんぱか)り、かつその混雑を防ごうとする日本委員の心づかいによる。神戸三宮事件に、堺旭茶屋事件に、御一新早々苦(にが)い経験をなめさせられたのも、そういう新政府の人たちだからであった。太政官(だじょうかん)では従来の秘密主義を捨てて、三国の使節が大坂出発の日取りまで発表し、かく上京参内を仰せ付けられたのも深き思(おぼ)し召しのあることだから、いささかも不作法な所業のないように、町役を勤めるものはもちろん、一家一家においても召使いの者までとくと申し聞けよ、もし心得違いのことがあって国難を引き出したら相済まない次第であるぞ、と触れ出した。
 時はあだかも江戸開板の新聞紙が初めて印行されるというころに当たる。東征先鋒(せんぽう)兼鎮撫(ちんぶ)総督らの進出する模様は、先年横浜に発行されたタイムス、またはヘラルドの英字新聞を通しても外人の間には報道されていた。大政官日誌以外に、京大坂にはまだ新聞紙の発行を見ない。それでも会津(あいづ)、松山、高松、大多喜(おおたき)等の諸大名は皆京都に敵対するものとして、その屋敷をも領地をも召し上げらるべきよしの報道なぞはしきりに伝わって来た。新政府が東征軍進発のために立てた予算は当局者以外にだれも知るよしもなかったが、大坂の町人で御用金の命に応じたり、あるいは奮って国恩のために上納金を願い出たりしたもののうわさは、金銭のことにくわしい市民の口に上らずにはいなかったころである。
 公使ロセスは書記官カションを同伴して、安治川(あじがわ)の川岸から艀(はしけ)に乗るところへ出た。仏国船将ピレックス、およびトワアルの両人もフランス兵をしたがえて京都まで同行するはずであった。そこへオランダ代理公使ブロックと同国書記官クラインケエスも落ち合って見ると、公使一行の主(おも)なものは都合六人となった。岸からすこし離れたところには二艘(そう)の小蒸汽船が待っていて、一艘には公使一行と、護衛のために同伴する日本人の官吏およびフランス兵を乗せ、他の一艘には薩州の護衛兵を乗せた。その日は伏見泊まりの予定で、水陸両道から淀川(よどがわ)をさかのぼる手はずになっていた。陸を行く護衛の一隊なぞはすでに伏見街道をさして出発したという騒ぎだ。異国人の参内と聞いて、一行の旅装を見ようとする男や女はその川岸にも群がり集まって来ている。京都の方へは中井弘蔵(こうぞう)が数日前に先発し、小松帯刀(たてわき)、伊藤俊介(しゅんすけ)らは英国公使と同道で大坂を立って行った。ロセスらの一行が途中の無事を祈り顔な東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)の名代もその艀(はしけ)まで見送りに来た。


 小蒸汽船が動き出してからも、不慮の出来事を警戒するような監視者の目は一刻も毛色の変わった人たちから離れない。いたるところに青みがかった岸の柳も旅するものの目をよろこばすころで、一大三角州をなした淀川の川口にはもはや春がめぐって来ていた。でも、うっかりロセスなぞは肩に掛けていた双眼鏡を取り出せなかったくらいだ。
「こんなにしてくれなくてもいい。どうして外国人はこんな監視を受けなければならないのか。」
 オランダの代理公使はひどくうるさがって、それを通訳の書記官に言わせると、付き添いの日本の官吏は首を振った。
「諸君を保護するのであります。」
 との答えだ。
 旅の掟(おきて)もやかましい。一行が京都へ着いた際の心得まで個条書になって細かく規定されている。その規定によると、滞在中は洛(らく)の中外を随意に徘徊(はいかい)することは許される、諸商い物を買い求めたり小屋物等を見物したりすることも許される、しかし茶屋酒楼等へひそかに越すことは許されない。夜分の外出は差し留められる事、宮方(みやかた)へ行き合う節は路傍に控えおるべき事、堂上あるいは諸侯へ行き合う節は双方道の半ばを譲って通行すべき事の類(たぐい)だ。それには但(ただ)し書(が)きまで付いていて、宮方へ行き合う節は御供頭(おともがしら)へその旨(むね)を通じ、公使から相当の礼式があれば御会釈(ごえしゃく)もあるはずだというようなことまで規定されている。
 この個条書を正確に読みうるものは、一行のうちでカションのほかにない。カションはそれを公使ロセスにもオランダ代理公使ブロックにも訳して聞かせた。その船の船室には赤い毛氈(もうせん)を敷き、粗末な椅子(いす)を並べて、茶なぞのもてなしもあったが、カションはひとりながめを自由にするために、大坂を離れるころから船室を出て、舷(ふなばた)に近い廊下の方へ行った。そこここには護衛顔なフランス兵も陣取っている。カションはその狭い廊下の一隅(いちぐう)にいて煙草(たばこ)を取り出そうとすると、近づいて来て彼に挨拶(あいさつ)し、いろいろと異国のことを質問する日本の官吏もあった。
 そういうカションはフランス人ながらに、俗にいう袂落(たもとおと)しの煙草入れを洋服の内側のかくしに潜ませているほどの日本通だった。そばへ来た官吏は目さとくそれを見つけて、
「ホ。君は日本の煙草をおやりですか。」
 と不思議そうに尋ねる。
 カションはフランス人らしく肩をゆすった。さらに別のかくしから燧袋(ひうちぶくろ)まで取り出した。彼はその船中で眼前に展開する河内(かわち)平野の景色でもながめながら一服やることを楽しむばかりでなく、愛用する平たい鹿皮(しかがわ)の煙草入れのにおいをかいで見たり、刀豆形(なたまめがた)の延べ銀の煙管(きせる)を退屈な時の手なぐさみにしたりするだけにも、ある異国趣味の満足を覚えるというふうの男だ。やがて彼は煙管を口にくわえて、さもうまそうに刻みの葉をふかしていた。燧石(ひうちいし)を打つ手つきから、燃えついた火口(ほくち)を煙草に移すまで、その辺は彼も慣れたものだ。それを見ると官吏は目を円(まる)くして、こんな人も西洋人の中にあるかという顔つきで、
「へえ、君はなかなかよく話す。」
「どういたしまして。」
「へたな日本人は、かないませんよ。」
「それこそ御冗談でしょう。」
「だれから君はそんな日本語をお習いでしたか。」
「わたしですか。蝦夷(えぞ)の方にいた時分でした。函館奉行(はこだてぶぎょう)の組頭(くみがしら)に、喜多村瑞見(きたむらずいけん)という人がありまして、あの人につきました。その時分、わたしは函館領事館に勤めていましたから。そうです、あの喜多村さんがわたしの教師です。なかなか話のおもしろい人でした。漢籍にもくわしいし、それに元は医者ですから、医学と薬草学の知識のある人でした。わたしはあの人にフランス語を教える、あの人はわたしに日本語を教えてくれました。あの時分は、喜多村さんも若かったし、わたしもまだ……」
「喜多村瑞見と言えば、聞いたことがある。幕府の使節でフランスの方へ行ってるあの喜多村じゃありませんか。」
「そうです。その喜多村さんです。」
 それを聞くと、相手の官吏は急にきげんを悪くして、口をつぐんでしまった。その時、カションは局外中立である自分ら外国人が旧(ふる)い教師のうわさをするのは一向差しつかえはあるまいというふうで、半分ひとりごとのように言った。
「あの人も驚いていましょう。日本の国内に起こったことを聞いたら、驚いてパリから帰って来ましょう。」


 よく耕された平野の光景は行く先にひらけた。そのよろこびが公使の一行をじっとさして置かなかった。いずれも平素はその時ほどの旅行の自由を持たなかったからで。そして、これを機会に、先着のヨーロッパ人が足跡をつけて行って見ようとしていたからで。
 極東をめがけて来たヨーロッパ人の中には、まれに許されて内地に深く進んだものもないではない。その中にはまた、日本の社会を観察して、かなり手きびしい意見を発表したものもないではない。ヨーロッパ文明と東洋文明とを比較して、その間の主(おも)なる区別は一つであるとなし、前者は虚偽を一般に排斥するも、後者は公然一般にこれを承認する。日本人やシナ人にあっては最も著しい虚言が発覚しても恥辱とせられない、かくまで信用の行なわるることの少ないこの社会に、いかにして人生における種々の関係が保たるるかは、解しがたいきわみであると言うものがある。日本人の道徳、および国民生活の基礎に関する思想は全くヨーロッパ人のそれと異なっている、その婦人身売りの汚辱から一朝にして純潔な結婚生活に帰るようなことは、日本には徳と不徳との間になんらの区画もないかと疑わせると言うものがある。自分らが旅行の初めには、土地の非常に豊かなのにも似ず、住民の貧乏な状態のはなはだしいのが目についた、村はもとより、大家屋の多く見える町でさえ活気や繁栄の見るべきものがない、かく人民の貧窮の状態にあるのはただ外形のみであってその実そうでないのか、あるいは実際耕作より得る収入も少ないのか、自分らはそれを満足に説明することができない、日本では政治上にも、統計上にも、また学問上にも、すべてに関してその知識を得ることが容易でない、これは各人がおのれ自身の生活とその職業とに関しない事項を全く承知しないためによると言うものもある。しかし、日本に高い運命の潜んでいることを言わないヨーロッパ人はない。もし彼ら日本人にして応用科学の知識に欠くることなく、機械工業に進歩することもあらば、彼らはヨーロッパ諸国民と優に競争しうるものである、日本は文学上にも哲学上にも未知の国であるが、ここにある家屋は清潔に、衣服も実用に耐え、武器の精鋭は驚くばかりである、独創の美に富んだ美術工芸の類(たぐい)については人によって見方も分かれているが、とにもかくにも過ぐる三百年の間、ほとんど外国と交通することもなしに、これほど独自の文化を築き上げた民族は他にその比を見ない。そう言わないものもない。
「今こそ日本内地の深さにはいって見る時が来た。」
 こうカションが公使のそばへ行って語って見せるたびに、ロセスはそれをたしなめるような語気で、
「カション、いくら君が日本の言葉からはいろうとしても、その言葉の奥にあるものには手が届くまい。やはり、われわれヨーロッパのものは、なかなか東洋人の魂にははいれないのだ。」
 それがロセスの言い草だった。
 公使の一行が進んで行ったところは、広い淀川の流域から畿内(きない)中部地方の高地へと向かったところにあるが、あいにくと曇った日で、遠い山地の方を望むことはかなわなかった。二艘(そう)の小蒸汽船は対岸に神社の杜(もり)や村落の見える淀川の中央からもっと先まで進んだ。そこまで行っても、遠い山々に隠れ潜んで容(かたち)をあらわさない。天気が天気なら、初めて接するそれらの山嶽(さんがく)から、一行のものは激しい好奇心を癒(いや)し得たかもしれない。でも、そちらの方には深い高地があって、その遠い連山の間に山城(やましろ)から丹波(たんば)にまたがるいくつかの高峰があるという日本人の説明を聞くだけにも満足するものが多かった。中でも、一番年若なカションは、一番熱心にその説明を聞いていた。どんな白い目で極東の視察に来るヨーロッパ人でも、この淀川に浮かんで来る春をながめたら、いかにこの島国が自然に恵まれていることの深いかを感じないものはあるまいとするのも、彼だ。


 次第に淀の駅の船着場も近いと聞くころには、煙(けぶ)るような雨が川の上へ来た。公使一行の中には慣れない不自由な旅に疲れて、早く伏見へと願っているものがある。何が伏見や京都の方に自分ら外国人を待っているだろうと言って、そろそろ上陸後の心づかいを始めるものがある。舷(ふなばた)の側の狭い廊下にもたれて、暖かではあるが寂しい雨を旅らしくながめているものもある。
 日本好きなカションにして見れば、この煙るような雨にしてからが、この国に来て初めて見られるようなものなのだ。なんでも彼は目をとめて見た。しばらく彼は書記官としての自分の勤めも忘れて、大坂道頓堀(どうとんぼり)と淀の間を往復する川舟、その屋根をおおう画趣の深い苫(とま)、雨にぬれながら櫓(ろ)を押す船頭の蓑(みの)と笠(かさ)なぞに見とれていた。そのうちに、反対な岸の方をも見ようとして、狭い汽船の廊下を一回りして行くと、公使ロセスとオランダ代理公使ブロックとが舷(ふなばた)に近く立って話しているそばへ出た。しとしと降り続けている雨をその廊下からながめながら、聞くつもりもなく彼は公使らの話に耳を傾けた。
「江戸が攻撃されることになったら、横浜はどうなろう。」とロセスの声で。
「無論危ない。救いはどこからもあの港に来ない。おそらく、その日が来たら、居留民を保護する暇なぞは日本新政府の力にもなくなろう。」とブロックの声で。
 遠からず来たるべき江戸総攻撃のうわさが、そこにかわされている。公使らを監視しようとして一刻も油断しない戒心のために、同伴の官吏もひどく疲れた時であったから、公使らはその弱点に乗ずるともなく、互いに遠慮のないところを語り合っているのだ。
「徳川慶喜はただただ謹慎の意を表しているというではないか。戦いを好まないというではないか。」
 と今度はブロックの声で。
「そこだ。そのことはだれも認めている。あの英国公使ですら、それは認めている。それほど恭順の意を表しているものに対して、攻撃を加えるようなことは、正義と人道とが許すだろうか。」とロセスの声で。
「まったく、君の言うとおりだ。」
「なんとかして江戸攻撃をやめさせることはできないものか。自分はもう、こんなみじめな内乱を傍観してはいられない。」
 オランダ公務代理総領事としてのブロックが関東の形勢の案じられると言うにも、相応の理由はあった。この人に言わせると、当時のこの国の急務は内乱をおさめるにある。日本国がいつまでも日本人の手にありたいと願うなら、早くこんな内乱をおさめるがいい。そして国内衰弊の風を諸外国に示さないがいい。これまで強大な諸大名が外国から購(あがな)い入れた軍船、運送船、鉄砲、弾薬の類はおびただしい額に上り、その代金は全部直ちに支払われるはずもなく、現に諸外国の政府もしくは臣民はその債権者の位置にある。もし国内の戦争が日につぎやむ時なく、ここに終わってかしこに始まるというふうに、強大な諸大名が互いに争闘を事としたら、国勢は窮蹙(きゅうしゅく)し、四民は困弊するばかりであろう。これがブロックの懸念(けねん)であった。
「どうしてもこれは英国公使に協議する必要がある。」とまたロセスの声で、「もちろんわれわれは日本の内政に干渉する意志はない。しかしなんらかの形で、南軍の参謀に反省を求める必要がある。あの慶喜をも救わねばならない。一国の政治を執って来たものを、われわれはにわかに逆賊とは見なしたくない。まして慶喜はこれまで政権を執ったばかりでなく、過去三世紀にもわたってこの国の平和を維持した徳川の旧(ふる)い事業に対しても感謝されていい人だ。彼が江戸の方へにげ帰ったあとで、彼に謁見(えっけん)した外国人もあるが、いずれも彼の温雅であって貴人の体を失わないことをほめないものはない。今こそ徳川は不幸にして浮き雲におおわれているが、全く滅亡する事は惜しい、そう多くのものは言っている。しかし、彼慶喜がこの国にあっては、もとより凡庸の人でないことは自分も知っている。彼が自分ら外国人に対してもつねに親友の情を失わないのは不思議もない。」
 フランス公使ロセスが徳川に寄せる同情は、言葉のはしにも隠せないものがあった。そこには随行員以外に、だれも公使のつかうフランス語を解するものはいなかった。それでもカションは周囲を見回してその狭い廊下を行きつ戻(もど)りつしながら、公使のそばを立ち去りかねていた。

       五

 三国公使参内のうわさは早くも京都市民の間に伝わった。往昔、朝廷では玄蕃(げんば)の官を置き、鴻臚館(こうろかん)を建てて、遠い人を迎えたためしもある。今度の使節の上京はそれとは全く別の場合で、異国人のために建春門を開き、万国公法をもって御交際があろうというのだから、日本紀元二千五百余年来、未曾有(みぞう)の珍事であるには相違なかった。
 しかし、京都側として責任のある位置に立つものは、ただそれだけでは済まされない。正直一徹で聞こえた大原三位重徳(おおはらさんみしげとみ)なぞは、一度は恐縮し、一度は赤面した。先年の勅使が関東下向(げこう)は勅諚(ちょくじょう)もあるにはあったが、もっぱら鎖攘(さじょう)(鎖港攘夷の略)の国是(こくぜ)であったからで。王政一新の前日までは、鎖攘を唱えるものは忠誠とせられ、開港を唱えるものは奸悪(かんあく)とせられた。しかるに手の裏をかえすように、その方向を一変したとなると、改革以前までの鎖攘を唱えたのは畢竟(ひっきょう)外国人を憎むのではなくして、徳川氏を顛覆(てんぷく)するためであったとしか解されない。もとより朝廷において、そんな卑劣な叡慮(えいりょ)はあらせられるはずもないが、世間からながめた時は徳川氏をつぶす手段と思うであろう。御一新となってまだ間もない。かくもにわかに方向を転換することは、朝廷も徳川氏に対して御遠慮あるべきはずである。先帝にもこの事にはすこぶる叡慮を悩ませられたと言って、大原卿はその心配をひそかに松平春嶽にもらしたという。
 当時、京都は兵乱のあとを承(う)けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸堺(さかい)の暴動、およびその処刑の始末等はひどく攘夷の党派に影響を及ぼし、人心の激昂(げきこう)もはなはだしい。この際、公使謁見の接待を命ぜられた新政府の人たち、小松帯刀(たてわき)、木戸準一郎、後藤象次郎(ごとうしょうじろう)、伊藤俊介、それに京都旅館の準備と接待とを命ぜられた中井弘蔵(こうぞう)なぞは、どんな手配りをしてもその勤めを果たさねばならない。京都にある三大寺院は公使らの旅館にあてるために準備された。三藩の兵隊はまた、それぞれの寺院に分かれて宿泊する公使らを衛(まも)ることになった。尾州兵は智恩院(ちおんいん)。薩州兵は相国寺(しょうこくじ)。加州兵は南禅寺(なんぜんじ)。


 外国使臣一行の異様な行装(こうそう)を見ようとして遠近から集まって来た老若男女の群れは京都の町々を埋(うず)めた。三国公使とも前後して伏見街道から無事に京都の旅館に到着した翌々日だ。その前日は雨で、一行はいずれも騎馬、あるいは駕籠(かご)を用い、中井、伊藤らの官吏に伴われながら、新政府の大官貴顕と聞こえた三条、岩倉、鍋島(なべしま)、毛利、東久世の諸邸を回礼したと伝えらるることすら、大変な評判になっているころだ。
 いよいよその日の午後には、新帝も南殿に出御(しゅつぎょ)して各国代表者の御挨拶(ごあいさつ)を受けさせられる、公使らの随行員にまで謁見を許される、その間には楽人の奏楽まである、このうわさが人の口から口へと伝わった。新政府の処置挙動に不満を抱(いだ)くものはもとより少なくない。こんな外国の侵入者がわが禁闕(きんけつ)の下(もと)に至るのは許しがたいことだとして、攘夷の決行されないのを慷慨(こうがい)するものもある。官吏ともあろうものが夷狄(いてき)の輩(ともがら)を引いて皇帝陛下の謁見を許すごときは、そもそも国体を汚すの罪人だというような言葉を書きつらね、係りの官吏および外国公使を誅戮(ちゅうりく)すべしなどとした壁書も見いだされる。腕をまくるもの、歯ぎしりをかむものは、激しい好奇心に燃えている群集の中を分けて、西に東にと走り回った。三条、二条の通りを縦に貫く堺町あたりの両側は、公使らの参内を待ち受ける人で、さながら立錐(りっすい)の地を余さない。
 この人出の中に、平田門人暮田正香(くれたまさか)もまじっていた。彼も今では沢家(さわけ)に身を寄せ、橘東蔵(たちばなとうぞう)の変名で、執事として内外の事に働いている人であるが、丸太町と堺町との交叉(こうさ)する町角(まちかど)あたりに立って、多勢の男や女と一緒に使節一行を待ち受けた。もっとも、その時は正香一人(ひとり)でもなかった。信州伊那(いな)の南条村から用事があって上京している同門の人、館松縫助(たてまつぬいすけ)という連れがあった。
 彼岸(ひがん)のころの雨降りあげくにかわきかけた町中の道が正香らの目にある。周囲には今か今かと首を延ばして南の方角を望むものがある。そこは相国寺を出る仏国公使の通路でないまでも、智恩院を出る英国公使と、南禅寺を出るオランダ代理公使との通路に当たる。正香も縫助もまだ西洋人というものを見たこともない。昨日の紅夷(あかえみし)は、実に今日の国賓である。そのことが新政府をささえようとする熱い思いと一緒になって、二人(ふたり)の胸に入れまじった。


 やがて、加州の紋じるしらしい梅鉢(うめばち)の旗を先に立てて、剣付き鉄砲を肩にした兵隊の一組が三条の方角から堺町通りを動いて来た。公使一行を護衛して来た人たちだ。そのうちにオランダ代理公使ブロックと、その書記官クラインケエスとを乗せた駕籠(かご)は、正香や縫助の待ち受けている前へさしかかった。
 遠い世界の人のようにのみ思われていたものは、今二人の平田門人のすぐ目の前にある。正香らはつとめて西洋人の風貌(ふうぼう)を熟視しようとしたが、それは容易なことではなかった。というのは、先方が駕籠の中の人であり、時は短かく、かつ動いているため、思うように公使らを見る余裕もないからであった。のみならず、筒袖(つつそで)、だんぶくろ、それに帯刀の扮装(いでたち)で、周囲を警(いまし)め顔(がお)な官吏が駕籠のそばに付き添うているからで。
 しかし、公使らを乗せた駕籠の窓には簾(すだれ)が巻き揚げてある。時には捧の前後に取りつく四人の駕籠かきが肩がわりをするので、正香らは黒羅紗(くろらしゃ)の日覆(ひおお)いの下にくっきりと浮き出しているような公使らの顔をその窓のところに見ることはできた。駕籠の造りは蓙打(ござう)ちの腰黒(こしぐろ)で、そんな乗り物を異国の使臣のために提供したところにも、旧(ふる)い格式などを破って出ようとする新政府の意気込みがあらわれている。初めて正香らの目に映る西洋人は、なかなかに侮りがたい人たちで、ことに代理公使の方は、犯しがたい威風をさえそなえた容貌(ようぼう)の人であった。髪の毛色を異にし、眸(ひとみ)の色を異にし、皮膚の色を異にし、その他風俗から言葉までを異にするような、このめずらしい異国の人たちは、これがうわさに聞いて来た京都かという顔つきで、正香らの見ているところを通り過ぎて行った。
 その時、オランダ人の参内を見送った群集はさらに英国公使の一行を待ち受けた。これは随行の赤備兵(あかぞなえへい)を引率していて、一層華々(はなばな)しい見ものであろうという。ところが智恩院を出たはずの公使らの一行が、待っても、待ってもやって来ない。しまいには正香らはあきらめて、なおも辛抱強くそこに立ち尽くしている多勢の男や女の群れから離れた。
「暮田さん、なんだかわたしは夢のような気がする。」
 正香と一緒に歩き出した時の縫助の述懐だ。


 京都は、東征軍の進発に、諸藩の人々の動きに、諸制度の改変に、あるいは破格な外国使臣の参内に、一切が激しく移り変わろうとするまっ最中にある。
「縫助さん、よく君は出て来た。まあ、この復興の京都を見てくれたまえ。」
 口にこそ出さなかったが、正香はそれを目に言わせて、その足で堺町通りの角(かど)から丸太町を連れと一緒に歩いて行った。そこは平田門人仲間に知らないもののない染め物屋伊勢久(いせきゅう)の店のある麩屋町(ふやまち)に近い。正香自身が仮寓(かぐう)する衣(ころも)の棚(たな)へもそう遠くない。
 正香が連れの縫助は、号を千足(ちたり)ともいう。伊那時代からの正香のなじみである。この人の上京は自身の用事のためばかりではなかった。旧冬十一月の二十二日に徳川慶喜が将軍職を辞したころから、国政は再び復古の日を迎えたとはいうものの、東国の物情はとかく穏やかでないと聞いて、江戸にある平田篤胤(あつたね)の稿本類がいつ兵火の災に罹(かか)るやも知れないと心配し出したのは、伊那の方にある先師没後の門人仲間である。座光寺村の北原稲雄が発起(ほっき)で、伊那の谷のような安全地帯へ先師の稿本類を移したい、一時それを平田家から預かって保管したい、それにはだれか同門のうちで適当な人物を江戸表へ送りたいとなった。その使者に選ばれたのが館松縫助なのだ。縫助はその役目を果たし、稿本類の全部を江戸から運搬して来て、首尾よく座光寺村に到着したのは前年の暮れのことであった。当時そのことは京都にある師鉄胤(かねたね)のもとへ書面で通知してあったが、なお、縫助は今度の上京を機会に、その報告をもたらして来たのである。
 正香としては、このよろこばしい音信(おとずれ)を伊勢久の亭主(ていしゅ)にも分けたかった。日ごろ懇意にする亭主に縫助をあわせ、縫助自身の口から故翁の草稿物の無事に保管されていることを亭主にも聞かせたかった。染め物屋とは言いながら、理解のある義気に富んだ町人として、伊勢屋久兵衛(きゅうべえ)の名は縫助もよく聞いて知っている。
「どうです、縫助さん、出て来たついでだ。一つ伊勢久へも寄っておいでなさるサ。」
 と言って、正香は連れを誘った。


 御染物所。伊勢屋とした紺暖簾(こんのれん)の見える麩屋町のあたりは静かな時だ。正香らが店の入り口の腰高な障子をあけて訪れると、左方の帳場格子(ちょうばごうし)のところにただ一人留守居顔な亭主を見つけた。ここでも家のものや店員は皆、異人見物の方に吸い取られている。
「これは。これは。」
 正香と連れだっての縫助の訪問が久兵衛をよろこばせた。
「さあ、どうぞ。」
 とまた久兵衛は言いながら、奥から座蒲団(ざぶとん)などを取り出して来て、その帳場格子のそばに客の席をつくった。
 久兵衛もまた平田門人の一人であった。この人は町人ながらに、早くから尊王の志を抱(いだ)き、和歌をも能(よ)くした。幕末のころには、彼のもとをたよって来る勤王の志士も多かったが、彼はそれを懇切にもてなし、いろいろと斡旋(あっせん)紹介の労をいとわなかった。文久年代に上京した伊那伴野(ともの)村の松尾多勢子(まつおたせこ)、つづいて上京した美濃中津川(みのなかつがわ)の浅見景蔵(あさみけいぞう)、いずれもまず彼のもとに落ちついて、伊勢屋に草鞋(わらじ)をぬいだ人たちだ。南信東濃地方から勤王のため入洛(じゅらく)を思い立って来る平田の門人仲間で、彼の世話にならないものはないくらいだ。
「この正月になりましてから、伊那からもだいぶお見えでございますな。」
 と久兵衛は縫助に言って見せて、王政復古の声を聞くと同時に競って地方から上京して来るもの、何がな王事のために尽くそうとするものなぞの名を数えた。祭政一致をめがけて神葬古式の復旧運動に奔走する倉沢義髄(よしゆき)と原信好(のぶよし)、榊下枝(さかきしずえ)の変名で岩倉家に身を寄せる原遊斎(ゆうさい)、伊那での長い潜伏時代から活(い)き返って来たような権田直助(ごんだなおすけ)、その弟子(でし)井上頼圀(いのうえよりくに)、それから再度上京して来て施薬院(せやくいん)[#「施薬院」は底本では「施楽院」]の岩倉家に来客の応接や女中の取り締まりや子女の教育なぞまで担当するようになった松尾多勢子――数えて来ると、正月以来京都に集まっている同門の人たちは、伊那方面だけでも久兵衛の指に折りきれないほどあった。そう言えば、師の平田鉄胤も今では全家をあげて京都に引き移っていて、参与として新政府の創業にあずかる重い位置にある。
「どれ、お茶でも差し上げて、それからお話を伺うとしましょう。あいにく、家のものを皆出してしまいました。」
 そう言いながら久兵衛は奥の方へ立って行って、こまかい大坂格子のかげで茶道具などを取り出す音をさせた。
 その時、正香はそこの店先にすわり直して、縫助と二人で話した。
「久兵衛さんもおもしろい人ですね。この店では篤胤先生の本を売りますよ。気吹(いぶき)の舎(や)の著述なら、なんでもそろえてありますよ。染め物のほかに、官服の注文にも応じるしサ。まあ商売(あきない)をしながら、道をひろめているんですね。」
「へえ、これはよいお店だ。」
 その店先は、亭主が帳場格子のところにいて染め物の仕事場を監督する場所である。正香は仕事場の方を縫助にさして見せた。入り口から裏の物干し場へ通りぬけられるような土間をへだててその仕事場がある。そこはなかなか広い仕事場であるが、周囲の格子をしめきるとすこぶる薄暗い。しかし三尺もの下壁と言わず、こまかく厚手なぶッつけ格子と言わず、がっしりとした構造は念の入ったものである。正香はまた、四つずつ一組としてある藍瓶(あいがめ)を縫助にさして見せた。わざと暗くしてあるような仕事場の格子を通して、かすかな光線がそこにさし入っている。幾組か並んだ瓶(かめ)の中の染料には熱が加えてあると見えて、静かに沸く藍の香がその店先までにおって来ている。
 久兵衛は自分で茶を入れて来た。それを店先へ運んで来た。その深い茶碗(ちゃわん)の形からして商家らしいものを正香らの前に置き、色も香ばしそうによく出た煎茶(せんちゃ)を客にもすすめ、自分でも飲みながら、
「館松(たてまつ)さんは、もう錦小路(にしきこうじ)(鉄胤の寓居(ぐうきょ)をさす)をお訪(たず)ねでございましたか。」
 こんな話を始めかけると、入り口の障子のあく音がして、家のものが一緒に異人見物からどやどやと戻(もど)って来た。とうとう英国公使だけは見えなかったと言うものがある。こっそりそばへ行ってあのオランダ人のにおいをかいで見たら、どんな異人臭いものかと言うものがある。「いやらし、いやらし」などと言う若い娘の声もする。


 隠れたところにいて同門の人たちのために働いているような久兵衛は、先師稿本の類が伊那の方に移されたことを聞いたあとで、さらに話しつづけた。
「さぞ老先生(鉄胤のこと)も御安心でございましょう。」
「なにしろ、王政復古の日が来たばかりのごたごたした中で、七十何里もあるところに運搬しようというんですから。」と正香が言って見せる。
「そいつは、なかなか。」と久兵衛も言う。
「いや、」と縫助はその話を引き取った。「わたしが江戸へ出ました時は、平田家でも評議の最中でした。江戸も騒がしゅうございましたよ。早速(さっそく)、お見舞いを申し上げて、それから保管方を申し出ましたところ、大変によろこんでくださいました。道中が心配になりましたから、護(まも)りの御符(ごふ)は白河家(しらかわけ)(京都神祇伯(じんぎはく))からもらい受けました。それを荷物に付けるやら、自分で宰領をするやらして、たくさんな稿本や書類を馬で運搬したわけなんです。昨年、十二月の十八日に座光寺へ着きましたが、あの時は北原稲雄もわたしの手を執ってよろこびました。田島の前沢万里、今村豊三郎(とよさぶろう)、いずれもこの事には心配して、路用なぞを出し合った仲間です。」
 こんな話が尽きなかった。
 旅にある縫助はその日と翌日とを知人の訪問に費やし、出て来たついでに四条の雛市(ひないち)を見、寄れたら今一度正香のところへも寄って、京都を辞し去ろうという人であった。彼は正香の言うように、それほどこの復興の京都に浸(ひた)って見る時を持たないまでも、ともかくも師鉄胤の家を訪ね、正香と旧(ふる)い交わりを温(あたた)め、伊勢久の店先に旅の時を送るというだけにも満足していた。
 この縫助が礼を述べて立ちかけるので、久兵衛はそれを引きとめるようにして、
「オヤ、もうお帰りでございますか。何もおかまいいたしませんでした。」
 その時、久兵衛は染め物屋らしいことを言い出した。昨年の三月、諒闇(りょうあん)の春を迎えたころから再度の入洛を思い立って来て、正香らと共にずっと奔走を続けていた人に中津川本陣の浅見景蔵がある。東山道先鋒(せんぽう)兼鎮撫(ちんぶ)総督の一行が美濃(みの)を通過すると知って、にわかに景蔵は京都の仮寓(かぐう)を畳(たた)み、郷里をさして帰って行った。その節、注文の染め物を久兵衛のもとに残した。こんな街道筋の混雑する時で、それを送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいというのであった。
「暮田さん、あなたからもお願いしてください。」と久兵衛は手をもみもみ言った。「初めてお目にかかったかたに、こんなことをお願いしちゃ失礼ですけれど。」
「なあに、そこは万国公法の世の中だもの。」と正香が戯れて見せた。
「それ、それ、」と久兵衛も軽く笑って、「近ごろはそれが大流行(おおはやり)。」
「縫助さん、君もその意気で預かって行くさ。」とまた正香が言い添える。
「暮田さんらしいトボけたことを言い出したぞ。」と縫助まで一緒になって笑い出した。「わたしも今度京都へ出て来て見て、皆が万国公法を振り回すには驚きましたね。では、こうします。立つ前に、もう一度暮田さんを訪(たず)ねます。その時に伊勢屋さんへもお寄りします。」


 英国公使パアクスの上京には新政府でもことに意を用いた。大坂を立つ時は小松帯刀(たてわき)と伊藤俊介とが付き添い、京都にはいった時は中井弘蔵と後藤象次郎とが伏見稲荷(いなり)の辺に出迎え、無事に智恩院の旅館に到着した。この公使の一行が赤い軍服を着けた英国の護衛兵(いわゆる赤備兵)を引率し、あるいは騎馬、あるいは駕籠(かご)で、参内のために智恩院新門前通りから繩手通(なわてどお)りにかかった時だ。そこへ二人の攘夷家が群集の中から飛び出したのであった。かねて新政府ではこんなことのあるのを憂い、各藩からは二十人以上の兵隊を出させ、通行の道筋を厳重に取り締まらせ、旅館の近傍へは屯兵所(とんぺいじょ)を設けて昼夜怠りなき回り番の手配りまでしたほどであったのに、新政府が万国交際の趣意もよく攘夷家に徹しなかったのであろう。それ乱暴者だと言って、一行護衛の先頭にあった兵隊が発砲する、群集は驚いて散乱する、その間に壮漢らの撃ち合いが行なわれた。中井弘蔵と後藤象次郎とは公使の接待役として、その時も行列の中にあったが、後藤は赤備兵の中へしゃにむに斬(き)り込んで来たもののあるのを見て、刀を抜いて一名を斃(たお)した。二度目に後藤の刀の目釘(めくぎ)が抜けて、その刀が飛んだ。そこで中井が受けた。中井は受けそこねて、頭部を斬られながらその場に倒れた。一名が兵隊のため生捕(いけど)りにされて、この騒ぎはようやくしずまったが、赤備兵の中には八、九人の手負いを出した。騎馬で行列の中にあったパアクスその人は運強くも傷つけられなかったとはいえ、参内はこの変事のために見合わせになった。さてこそ英国公使の通行を見なかったのである。一方には、紫宸殿(ししんでん)での御対面の式がパアクス以外の二国公使に対して行なわれた。新帝は御袴(おんはかま)に白の御衣(ぎょい)で、仏国のロセスとオランダのブロックとに拝謁を許された。式後の公使には鶴(つる)の間(ま)で、菓子カステラなどを饗(きょう)せられたという。従来、徳川将軍の時代にもまれに外国使節の謁見を許したが、しかし将軍の態度はすこぶる尊大であったのに、その跪坐低頭(きざていとう)の礼をすら免じ、帝みずから親しく異邦人を引見せられるばかりか、彼らをして直立して帝の尊顔を拝することを得せしめたもうたとある。この一事だけでも、彼らフランス人やオランダ人の間には信じがたいほどの大改革の感を与えたという。しかし、繩手通りでの変事がロセスらに知られずにはいなかった。式の終わったあとで、接待役と通詞とを兼ねた伊藤俊介が二公使を接待席に伴ない、その時までロセスに示さずにあったパアクスからの書面を取り出して見せた。それは英国の一騎兵がパアクスの使いとして仏国公使あてに持参したものだ。ロセスはそれを読むと、たちまち顔色を変え、「暴動がある。」と叫びながらそこそこに暇(いとま)を告げて、単騎で智恩院へ駆けつけた。そしてパアクスに向かって、すみやかに兵庫へ帰ろう、軍艦で横浜の方へおもむこうと説き勧めたという。でも、パアクスは頭を左右に振って、仏国公使の勧めに応じなかったとか。
 これらの話をもって、翌日の午後にまた正香は久兵衛を見に寄った。衣(ころも)の棚(たな)の方へ暇乞(いとまご)いに来た縫助とも同道で、二人して伊勢久の店先に腰掛けた。
「どうも驚きましたね。」
 久兵衛は奥からそこへ飛んで出て来て言った。店先に腰掛けるものも、火鉢(ひばち)なぞを引き寄せて客を迎えるものも、互いに顔を見合わせた。
「昨日は、岩倉様が見舞いに行く、越前の殿様(春嶽)が見舞いに行く、智恩院も大変だったそうです。」とまた久兵衛が言い出した。「昨晩はみんな心配したようですよ。」
「でも、パアクスもおもしろい男じゃありませんか。」と正香は言った。
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