夜明け前
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著者名:島崎藤村 

あるいは鬱金(うこん)や浅黄(あさぎ)の襦袢(じゅばん)一枚になり、あるいはちょん髷(まげ)に向こう鉢巻(はちまき)という姿である。陽気なもの、勇みなもの、滑稽(こっけい)なものの行列だ。外国人同志の間にはうわさもとりどりで、あの「えいじゃないか」は何を謳歌(おうか)する声だろうと言い出すものがあったが、だれもそれに答えうるものがない。中には二階からガラス窓の一つをあけて、
「ブラボオ、ブラボオ。」
 と群集の方へ向けて日本びいきらしい声を送るフランス書記官メルメット・カションのような人もある。この年若なフランス人は自国の方のカアナバルの祭りのころの仮装行列でも思い出したように、老幼の差別なくもみ合いながら通り過ぎる人々の声を潮(うしお)のように聞いていた。
 そのうちに、新政府の参与兼外国事務取調掛(とりしらべがか)りなる東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)をはじめ、随行員寺島陶蔵(てらじまとうぞう)、伊藤俊介(いとうしゅんすけ)、同じく中島作太郎なぞの面々がその応接室にはいって来た。当日は、ちょうど新帝が御元服で、大赦の詔(みことのり)も下るという日を迎えていたので、新政府の使臣、およびその随行員として来た人たちは、いずれも改まった顔つきをしていた。初対面のこととて、まず各自の姓名職掌の紹介がある。六か国の代表者の目は一様にその日の正使にそそいだ。通禧(みちとみ)は烏帽子(えぼし)に狩衣(かりぎぬ)を着け、剣を帯び、紫の組掛緒(くみかけお)という公卿(くげ)の扮装(いでたち)であったが、そのそばには伊藤俊介が羽織袴(はおりはかま)でついていて、いろいろと公使らの間を周旋した。俊介は先年井上聞多(いのうえもんた)と共に英国へ渡ったこともあるからで。武士らしい髷(まげ)を捨てて早くもヨーロッパ風を採り入れているような散髪のものは、正使随行員の中でもこの人一人(ひとり)だけであった。そこにあるものは何もかもまだ新世帯の感じだ。建築物(たてもの)からして和洋折衷だ。万事手回りかねる際とて、椅子(いす)も粗末なものを並べて間に合わせてある。
 やがて通禧は右手に国書をささげて、各国公使の前でそれを読み上げた。
「日本国天皇(にっぽんこくのてんのう)、告二諸外国帝王及其臣人一(しょがいこくのていおうおよびそのしんじんにつぐ)。嚮者将軍徳川慶喜(さきにしょうぐんとくがわよしのぶ)、請レ帰二政権一也(せいけんをきさんとこいたるや)、制二允之一(これをせいいんして)、内外政事親裁レ之(ないがいのせいじはしたしくこれをさいせり)。乃曰(すなわちいわく)、従前条約(じゅうぜんのじょうやくには)、雖レ用二大君名称一(たいくんのめいしょうをもちいたりといえども)、自レ今而後(いまよりのちは)、当三換以二天皇称一(まさにかうるにてんのうのしょうをもってすべし)、而諸国交際之儀(しこうしてしょこくとのこうさいのぎは)、専命二有司等一(もっぱらゆうしらにめいぜん)。各国公使諒二知斯旨一(かっこくこうしこのむねをりょうちせよ)。」
  慶応四年正月十日御諱(おんいみな) ともかくも、その日は日本の天皇が外国に対する御親政の始めであった。
 午後に、英国公使パアクスは東久世通禧と三宮英人殺傷事件の交渉談判を開いた。パアクスも当時の国情の殺気に満ちた情景は知りつくしていたから、あえてそう難題を持ち出そうとしなかった。即日にも穏やかに神戸の占領を解こうと言って、早速(さっそく)陸戦隊を引き揚げることを承諾した。それにはこの事件の本犯者を厳罰に処して将来の戒めとする事、日本政府はよろしく陳謝の意を表する事とを条件とした。
 やかましい三宮事件もこんなふうで、一気に解決を告げることになった。パアクスは双方の豊かな頬(ほお)に縮れ髯(ひげ)をたくわえている男だが、その時いささか得意げにその頬髯をなでて、
「自分は京都新政府に好意を表するため、かくも穏やかな取り計らいをした。これは御国に対し懇切な心から出た次第で、隔意のある事ではない。他の外国が交渉談判を開くとはわけ違いである。もしこれが他の外国人の殺傷の場合ででもあると、なかなかこんなわけにはまいるまい。」
 こういう意味のことを彼は通訳の書記官ミットフォードに言わせた。そして自分の言うことをわかってくれたかという顔つきで、堅い握手を求めるために、イギリス人らしい大きな手を東久世通禧の方に差し出した。


 パアクスは高い心の調子でいる時であった。この英国公使は前公使アールコックの方針を受け継いだ人で、かつては敵として戦った薩長(さっちょう)両藩の人士と握手する位置に立ち、兵器弾薬の類(たぐい)まで援助を惜しまないについては、その意見にも相応な理由はあった。この人に言わせると、今日世界はすでに全く開けて、いずれの国も皆交際しないものはない。国と国とが交わる以上は、人情もあまねく交わらないわけにいかない。物貨とてもそのとおりであろう。交易の道は小さな損害のないとは言えないが、しかしその小さな損害を恐れてそれを妨げるなら、必ず大艱難(だいかんなん)を引き出すようになる。ヨーロッパ人はもう長いことそれを経験して来た。在来の東洋諸国を見るに、多く皆旧(ふる)くからの習慣を固守するばかりだ。貿易を制限するところがあり、居留地を限るところがあり、交際の退歩するところがある。我(われ)は開くことを希望するし、彼は鎖(とざ)すことを希望する。そんなふうに競い合って行って、彼も迫り我も迫って互いに一歩も譲らないとなると、勢い銃剣の力をかりないわけにいかなくなる。互いの事情を斟酌(しんしゃく)する必要がそこから起こって来る。それには「真知」をもってせねばならない。そもそも外国人は何のために日本へ来るのであるか。ほかでもない、政府と親しくし、日本人とも親しく交わりたいがためである。交易以来、そのために貧しくなった国はまだない。万一、一方の損になるばかりなら、その交易は必ずすたれる。双方に利があれば必ず行なわれもするし、必ず富みもする。交易をすれは物価が高くなる。物価が高くなれば輸出の減るということも起こって来る。輸入品が多くなれば交易のできなくなることもある。だから節制しないうちに自然と節制があるようなもので、交易は常に氾濫(はんらん)に至らない。国内の人民も物を欠くに至らない。約(つづ)めて言えば、人類の交際は明白な直道で、いじけたものでもなく、曲がりくねったものでもないのに、何ゆえに日本はこんなに外国を嫉視(しっし)するのであるか。外人の居住するものは同盟条約の中について日本のためにならないことがあるのであるか。日本治国の体裁に害あることがあるのであるか。条約の精神が行き渡るなら、今日すでに日本国じゅうのものが交易の利を受けて、おのおのその便利を喜ぶであろう。決して今日のように人心動揺して外人を讐敵(かたき)のように見ることはあるまい。この排外は、全く今までの幕府政治の悪いのと、外交以来諸藩の費用のおびただしいとによっておこって来た。この形勢を打破するには、見識ある日本諸侯の力に待たねばならない。薩長両藩の有志者のごときは実に国を憂うるものと言うべきである。これがアールコック以来の方針を押し進め、徳川の旧勢力に見切りをつけたパアクスの言い分であった。今では彼は各国公使仲間の先頭に立って、いまだに江戸旧幕府に執着するフランスを冷笑するほどの鼻息の荒さである。
 このパアクスだ。後は東久世通禧に約したように、兵庫神戸の警衛を全く長州兵の手に任せて、早速街道両口の木柵(もくさく)を取り払わせ、上陸中の外国兵をそれぞれ軍艦に引き揚げさせ、なお、港内に抑留してあった諸藩の運送船をも解放した。のみならず、彼は兵庫にある仮の居館に公使兼総領事として滞在して、地方一般の無政治無規則から日に日に新しい設備のできて行く状態をながめていた。十五日には兵庫事務局が諸問屋会所に仮に設けられ、十九日にはそれが旧幕府大坂奉行所の所属であった勤番所に移されるという時だ。この国の建て直しの日がやって来て見ると、百般の事務はことごとく新規まき直しで、ほとんど手の着けようがないかにも見えていた。
 しかし、同じ公使仲間でも、新政府に対するアメリカ公使ファルケンボルグの態度はすこし違う。早い話が、アメリカはこの国への先着者である。合衆国と条約を結んだのは、日本が外国と条約を結んだ初めての場合である。その先着者を出し抜いて、事ごとに先鞭(せんべん)を着けようとする英国公使の態度は、ハリス以来日本の親友をもって任ずるファルケンボルグにこころよいはずもない。
 当時、討幕の官軍はいよいよ三道より出発するとのうわさが兵庫神戸まで伝わって来た。大総督有栖川宮(ありすがわのみや)は錦旗(きんき)節刀を拝受して大坂に出(い)で、軍国の形状もここに至って成ったとの風評はもっぱら行なわれるようになった。月の二十一日には、六か国の公使らは通禧(みちとみ)からの書面を受けて、東征の師の興(おこ)ったという報告に接した。武器を輸入して徳川慶喜およびその臣属を助くべからずとの意味を読んだ。その翌二十二日には兵庫に裁判所を兼ねた鎮台もできて、通禧がその総督に任ぜられたことも知った。
 この空気の中ではあるが、徳川慶喜はすでに前年十二月三日に外国公使らを大坂に集め、どんな変革がこの国に来ようとも、外交の事は依然責任を負うであろうと告げてある。公使らは、にわかに幕府を逆賊とは見なさない。この形勢をみて取ったファルケンボルグは率先して局外中立を唱え出した。そして、ひそかに新政府に武器を販売するイギリスと、旧幕府の手合いに軍用品を供給するフランスとに対して、アメリカの立場を明らかにした。
 ファルケンボルグの出した布告は、だれも正面から争えないほど厳正なものであった。彼は日本の御門(みかど)と大君との間に戦争の起こったことを布告し、かつ合衆国人民の局外中立を厳守すべきことを言い渡した。軍船あるいは運送船を売ることも貸すことも厳禁たるべきもの。兵士はもとより、武器、弾薬、兵粮(ひょうろう)、その他すべて軍事にかかわる品々をあるいは売りあるいは貸し渡すこともまた厳禁たるべきもの。もしこの規則にそむくなら、それは国際法から見て局外中立の法度(はっと)を破るものであるから、敵視せらるるに至ることはもちろんである、万一、これを破るものは軍法によって捕虜とせられ、その積み荷は没収せられ、局外荷主の品たりとも連累(れんるい)の禍(わざわ)いを免るることはできないと心得よ。日本国と合衆国との条約面の権によって、たとい自分の国籍のものたりとも右の規則を破ったものはあえてこれを保護することはできないものである。この布告が合衆国公使ファルケンボルグの名で、日本兵庫神戸にある居留館において、として発表された。
 アメリカ以外の条約国の公使らも、おもてむきこれには異議を唱えるものがなかった。彼らは皆、この局外中立の布告にならった。各国いずれも同じ文句で、ただ公使の名が異なるのみで。でも、生命(いのち)がけの冒険家が集まって来る開港場のようなところには、そう明るい昼間ばかりはない。ユウゼニイと名づくる砲船は十万ドルで肥前(ひぜん)へ売れたといい、ヒンダと名づくる船は十一万ドルで長州へ売れたともいう。その他、買い主と値段のよくわからないまでも、ひそかに内地へ売れたという外国船は幾艘(そう)かあった。アテリネと名づくる汽船は、これも売り物で、暗夜にまぎれてこっそり兵庫に来たことはすぐその道のものに知れた。

       三

 旧暦の二月にはいって、兵庫にある外国公使らは大坂の会合に赴(おもむ)くため、それぞれしたくをはじめることになった。これは島津修理太夫(しまづしゅりだゆう)をはじめ、毛利長門守(もうりながとのかみ)、細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ)、浅野安芸守(あさのあきのかみ)、松平大蔵大輔(まつだいらおおくらたいふ)(春嶽(しゅんがく))、それに山内容堂(やまのうちようどう)などの朝廷守護の藩主らが連署しての建議にもとづき、当時の急務は外国との交際を講明しないでは協(かな)わないとの趣意に出たものであった。各国がいよいよ新政府を承認するなら、前例のない京都参府を各国使臣に許されるであろうとの内々の達しまであった。
 それにしても新政府の信用はまだ諸外国の間に薄い。多年、排外の中心地として知られた京都にできた新政府である。この一大改革の機運を迎えて、開国の方向を確定するのが第一だとする新政府の熱心は聞こえても、各国公使らはまだまちまちの説を執って疑念の晴れるところまで至っていない。三宮(さんのみや)事件はこの新政府にとって誠意と実力とを示す一つの試金石とも見られた。二月の九日になると、各国公使あての詫書(わびしょ)が京都から届いた。それは陸奥陽之助(むつようのすけ)が使者として持参したというもので、パアクスらはその書面を寺島陶蔵から受け取った。見ると、朝廷新政のみぎり、この不行き届きのあるは申しわけがない。今後双方から信義を守って相交わるについては、こんな妄動(もうどう)の所為のないようきっと申し渡して置く。今後これらの事件はすべて朝廷で引き受ける。このたびの儀は、備前家来日置帯刀(へきたてわき)に謹慎を申し付け、下手人滝善三郎に割腹(かっぷく)を申し付けたから、そのことを各国公使に告げるよう勅命をこうむった、と認(したた)めてある。宇和島(うわじま)少将(伊達宗城(だてむねなり))の花押(かおう)まである。
 その日、兵庫の永福寺の方では本犯者の処刑があると聞いて、パアクスは二人(ふたり)の書記官を立ち会わせることにした。日本側からは、伊藤俊介(いとうしゅんすけ)、他一名のものが立ち会うという日であった。その時の公使の言葉に、
「自分は切腹が日本武士の名誉であると聞く。これは名誉の死であってはならない。今後の戒めとなるような厳罰に処することであらねばならない。」
 パアクスも大きく出た。
 その時になると、外人殺害者の処刑について世間にはいろいろな取りざたがあった。世が世なら、善三郎は無礼な外夷(がいい)を打ち懲らしたものとして、むしろお褒(ほ)めにも預かるべき武士だと言うものがある。彼は風采(ふうさい)も卑しくなく、死に臨んでもいささか悪びれた態度もなく、一首の辞世を残して行ったと言うものがある。一方にはまた、末期(まつご)に及んでもなお助命の沙汰(さた)を期した彼であった、同僚の備前藩士から何事かを耳のほとりにささやかれた時はにわかにその顔色を変えて震えた。彼も死に切れない死を死んで行ったと言うものもある。
 四日過ぎには、各国公使は書記官を伴って大坂へ向け出発するばかりになった。居留地の保護は長州兵の隊長に、諸般の事務を兵庫在留の領事らに、それぞれ依頼すべきことは依頼した。兵庫、西宮(にしのみや)から大坂間の街道筋は、山陰、山陽、西海、東海諸道からの要路に当たって、宿駅人馬の継立(つぎた)ても繁雑をきわめると言われたころだ。街道付近の村々からは人足差配方の肝煎(きもい)りが日々両三名ずつ問屋場(といやば)へ詰め、お定めの人馬二十五人二十五匹以外の不足は全部雇い上げとし、賃銭はその月の十四日から六割増と聞こえているくらいだ。各国公使はこの陸よりする途中の混雑を避けて、大坂天保山(てんぽうざん)の沖までは軍艦で行くことにしてあった。英国公使パアクスの提議で、護衛兵の一隊をも引率して行くことにした。この大坂行きは今までともちがい、各国公使がそれぞれの政府を代表しての晴れの舞台に臨むという時であった。
 どうやら二月半ばの海も凪(なぎ)だ。いよいよ朝早く兵庫の地を離れて行くとなると、なんとなく油断のならない気がして来たと言い出すのはオランダ代理公使ブロックであった。先年、条約許容の勅書を携えて、幕府外国奉行山口駿河(やまぐちするが)が老中松平伯耆(まつだいらほうき)を伴い、大坂から汽船を急がせて来たのもこの道だと言い出すのは仏国公使ロセスであった。たとい、前例のない京都参府が自分らに許されるとしても、大坂から先の旅はどうであろうかと気づかうのは米国公使ファルケンボルグであった。


 大坂西本願寺には各国公使を待ち受ける人たちが集まった。醍醐大納言(だいごだいなごん)(忠順(ただおさ))は大坂の知事、ないしは裁判所総督として。宇和島少将(伊達宗城(だてむねなり))はその副総督として。
 次第に外国事務掛りの顔もそろった。兵庫裁判所総督としての東久世通禧も伊藤俊介らを伴って来た。これらの人たちが諸藩からの列席者を持ち合わす間に、順に一人(ひとり)ずつ寺僧に案内されて、清げな白足袋(しろたび)で広間の畳を踏んで来る家老たちもある。
 その日、十四日は薩州藩から護衛兵を出して、小蒸汽船で安治川口(あじがわぐち)に着く各国公使を出迎えるという手はずであった。その日の主人役はなんと言っても東久世通禧であったが、この人とても外交のことに明るいわけではない。いったい、兵庫から大坂へかけての最初の外国談判は、朝廷の新政治を外国公使に報告し、諸外国の承認を求めねばならない。それにはなるべくは公卿(くげ)の中でその役を勤めるがよいということであった。ところが、公卿の中に、だれも外国公使に接したものがない。第一、西洋人というものにあったものもない。皆尻込(しりご)みして、通禧を推した。通禧だけが西洋人の顔を見ているというわけで。彼なら西洋人の意気込みも知っているだろうからというわけで。この通禧は過ぐる慶応三年の冬、筑前(ちくぜん)の方にいて、一つ開港場の様子を見て置いたらよかろうと人にも勧められ、自分からも思い立ったことがある。同時に、三条公にも長崎行きを勧めるものがあったが、同公は一方の大将であり、それに密行も気がかりであるからと言って、同行はされなかった。通禧だけが行った。大山格之助の周旋で、薩州人になって長崎へ行った。さらに五代(ごだい)才助の周旋で、三週間ばかりも長崎にいて、変名でオランダやイギリスの商人にもあい、米人フルベッキなどにも交わった。その時、外国の軍艦も見、西洋の話も聞いたことがある。
 人も知るごとく、通禧は文久三年の過去に、攘夷御親征大和行幸(じょういごしんせいやまとぎょうこう)の事件で長州へ脱走した七卿の一人である。攘夷主唱の張本人とも言うべき人たちの中での錚々(そうそう)である。不思議な運命は、この閲歴を持った人を外国人歓迎の主人役の位置に立たせた。ヨーロッパは日本を去ることも遠く、蘭書以外の洋書のこの国の書庫中に載せらるるものとても少ない。通禧はじめ国際に関する知識もまだ浅かった。しかし、徳川慶喜ですら先年各国公使をこの大坂に集めて将軍自ら会見する先例を開いている。新政府を護(も)り立てようとするものは、この際、何を忍んでも、外国事務局の設置を各国公使に認めさせ、いつまで排外を固執するものでないことを明らかにせねばならない。当時漢訳から来た言葉ではあるが、新熟語として士人の間に流行して来た標語に「万国公法」というがある。旧を捨て新に就(つ)こうとする人たちはそれを何よりの水先案内として、その万国公法の意気で異国人を迎えようとしていた。
 そのうちに、公使らの安治川(あじがわ)着を知らせる使者が走って来た。軍旗をたてた薩州兵の一隊を先頭に、護衛の外国兵はいずれも剣付き鉄砲を肩にして、すでに外人居留地を出発したとの注進がある。駕籠(かご)に乗った異人の行列を見ようとする男や女の出たことも驚くばかり、大坂運上所の前あたりから、居留地、新大橋の辺へかけては人の黒山を築いているとの注進もある。


 各国公使の一行は無事に西本願寺に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一行十二人の外交団だ。しばらく休息の時を与えるため、接待役の僧が一室に案内し、黒い裙子(くんし)を着けた子坊主(こぼうず)は高坏(たかつき)で茶菓なぞを運んで行って一行をもてなした。
 寺の大広間は内外の使臣が会見室として、すでにその準備がととのえてある。やがて外人側は導かれて畳の上に並べた椅子(いす)に着いた。列藩の家老たちも来てそれぞれ着席する。まず東久世通禧の発話で各公使への挨拶(あいさつ)があった。それは日本の政体の復古した事、帝(みかど)自ら政権を執りたもう事、外国の交際も一切朝廷で引き受ける事は過日兵庫において布告したとおり相違のない旨(むね)を告げ、今回外国事務局を建てて交易通商一切の諸事件をことごとく取り扱うから、今日改めて朝廷守護の列藩と共に、各国公使に会同してこの盟約を定める旨を告げた。これには公使らも異議がない。帝はじめ列藩の諸侯が日本人民のために広く信睦(しんぼく)を求め、互いに誠実をもって交わろうということは、各国においてもかねがね渇望したところである、今後は帝の朝廷を日本の主府と仰いで、万事その政令を奉ずるであろう。公使らはその意味のことを答えた。
 通禧はまた、言葉を改めて言った。このたび万国と条約を改めた上は、帝自ら各国公使に対面して、盟(ちか)いを立てようとの思(おぼ)し召しである。不日(ふじつ)上京あるべき旨、各国公使に申し入れるよう、帝の命を奉じたのであると。公使らは恐れ入ったと言って、いずれ談合の上、明後日その御返事を申し上げると挨拶した。その時の英国公使の言葉に、徳川慶喜討伐の師がすでに京都を出発した上は、関東の形勢も安心なりがたい。もし早く帝に拝謁(はいえつ)することがかなわないならすみやかに浪華(なにわ)の地を退きたい、そして横浜にある居留民の保護に当たりたい一同の希望であると。これを聞くと、米国公使はそばにいる伊国公使や普国公使を顧みて、自分ら三人は明十五日までに大坂を出発して横浜へ回航したい、と述べた。
 ファルケンボルグはしきりに手をもんだ。横浜居留地の方のことも心にかかるから、としきりに弁解した。通禧はその様子をみて取って言った。
「では、こうなすったら、いかがでしょう。明日中には謁見の日取りを京都からも申してまいりましょう。それまで御滞坂になって、その上で進退せられたら。諸君も京都へ行って一度は天顔を拝するがいい。」


 滞坂中の各国公使の間には、帝に謁見の日限を確定して、それをもって盟(ちか)いの意味をはっきりさせたいと言うものと、ひどく上京を躊躇(ちゅうちょ)するものとがあった。このことが京都の方に聞こえると、外国人の参内(さんだい)は奥向きではなはだむつかしい、各国公使の御対面なぞはもってのほかであるということで、京都へ入れることはいけないという奥向きの模様が急使をもって通禧のところへ伝えられた。三条岩倉両公も困って、なんとかして奥向きを説諭してくれるようにとの伝言も添えてあった。
 これには通禧も驚かされた。早速(さっそく)京都への使者を立てて、今はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げた。肝心の京都からして信睦(しんぼく)の実を示さないなら、諸外国の態度はどうひっくりかえるやも測りがたい時であると申し上げた。たとえば江戸に各諸藩の留守居を置くと同様なもので、外国と御交際になる以上はその留守居、すなわち各国公使にお会いにならぬという事はできない、これはお会いなさるがいい、西洋各国は互いに交際を親密にしている、日本のように別になっていない、諸藩の留守居と思(おぼ)し召すがいいと申し上げた。
 もはや、周囲の事情はこの島国の孤立を許さない。その時になって見ると、かつては軟弱な外交として関東を攻撃した新政府方も、幕府当局者と同じ悩みを経験せねばならなかった。かつては幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人(けとうじん)と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとした岩瀬肥後(いわせひご)なぞの心を苦しめた立場は、ちょうど新政府当局者の身に回って来た。たとい、相手があの米国のハリスの言い残したように、「交易による世界一統」というごとき目的を立てて、工業その他のまだおくれていた極東の事情も顧みずに進み来るようなものであっても――ともかくも、国の上下をあげて、この際大いに譲らねばならなかった。


 東征軍が出発した後の大坂は、あたかも大きな潮の引いたあとのようになった。留守を預かる諸藩の人たちと、出征兵士のことを気づかう市民とだけがそのあとに残った。そして徳川慶喜はすでに幾度か尾州(びしゅう)の御隠居や越前の松平春嶽(しゅんがく)を通して謝罪と和解の意をいたしたということや、慶喜その人は江戸東叡山(とうえいざん)の寛永寺(かんえいじ)にはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。
 大坂西本願寺での各国公使との会見が行なわれた翌日のことである。中寺町にあるフランス公使館からは、各国公使と共に日本側の主(おも)な委員を晩食に招きたいと言って来た。江戸旧幕府の同情者として知られているフランス公使ロセスすら、前日の会見には満足して、この好意を寄せて来たのだ。
 やがて公使館からは迎えのものがやって来るようになった。日本側からの出席者は大坂の知事醍醐忠順(だいごただおさ)、宇和島伊予守(いよのかみ)、それに通禧ときまった。そこで、三人は出かけた。
 その晩、通禧らは何よりの土産(みやげ)を持参した。来たる十八日を期して各国公使に上京参内せよと京都から通知のあったことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者が京都からもたらして帰って来たものだ。諸藩の留守居と思(おぼ)し召して各国公使に御対面あるがいいとの通禧の進言が奥向きにもいれられたのである。
 中寺町のフランス公使館には主人側のロセスをはじめ、客分の公使たちまで集まって通禧らを待ち受けていた。そこには、まるで日本人のように話す書記官メルメット・カションがいて、通訳には事を欠かない。このカションが、
「さあ、これです。」
 と、わざわざ日本語で言って見せて、通禧らの土産話をロセスにも取り次ぎ、他の公使仲間にも取り次いだ。
「ボン。」
 ロセスがその時の答えは、そんなに短かかった。思わず彼の口をついて出たその短かい言葉は、万事好都合に運んだという意味を通わせた。英国のパアクス、米国のファルケンボルグ、伊国のトウール、普国のブランド、オランダのブロック――そこに招かれて来ている公使の面々はいずれも喜んで、十八日には朝延へ罷(まか)り出ようとの相談に花を咲かせた。中には、京都を見うる日のこんなに早く来ようとは思わなかったと言い出すものがある。自分らはもう長いこと、この日の来るのを待っていたと言うものもある。
 晩食。食卓の用意もすでにできたと言って、カションは一同の着席をすすめに来た。その時、宇和島少将は通禧の袖(そで)を引いて、
「東久世さん、わたしはこういうところで馳走(ちそう)になったことがない。万事、貴公によろしく頼みますよ。」
「どうも、そう言われても、わたしも困る。まあ、皆のするとおりにすれば、それでよろしいのでしょう。」
 通禧の挨拶(あいさつ)だ。
 配膳(はいぜん)の代わりに一つの大きな卓を置いたような食堂の光景が、やがて通禧らの目に映った。そこの椅子(いす)には腰掛ける人によって高下の格のさだまりがあるでもなかったが、でもだれの席をどこに置くかというような心づかいの細かさはあらわれていた。カションの案内で、通禧らはその晩の正客の席として設けてあるらしいところに着いた。パアクスの隣には醍醐大納言、ファルケンボルグとさしむかいには宇和島少将というふうに。そこには鳥の嘴(くちばし)のように動かせる箸(はし)のかわりに、獣の爪(つめ)のようなフォークが置いてある。吸い物に使う大きな匙(さじ)と、きれいに磨(みが)いた幾本かのナイフも添えてある。食卓用の白い口拭(ふ)きを折り畳(たた)んで、客の前に置いてあるのも異国の風俗だ。食わせる物の出し方も変わっている。吸い物の皿(さら)を出す前に持って来るパンは、この国のことで言って見るなら握飯(むすび)の代わりだ。
 カションはもてなし顔に言った。
「さあ、どうぞおはじめください。フランスの料理はお口に合いますか、どうですか。」
 給仕人(きゅうじにん)が料理を盛った大きな皿を運んで来て、客のうしろから好きな物を取れと勤めるたびに、通禧らは西洋人のするとおりにした。パアクスが鳥の肉を取れば、こちらでも鳥の肉を取った。ファルケンボルグが野菜を取れば、こちらでも野菜を取った。食事の間に、通禧はおりおり連れの方へ目をやったが、醍醐大納言も、宇和島少将も、共にすこし勝手が違うというふうで、主人の公使が馳走(ちそう)ぶりに勧める仏国産の白いチーズも、わずかにその香気をかいで見たばかり。古い葡萄酒(ぶどうしゅ)ですら、そんな席でゆっくり味わわれるものとは見えなかった。
 しかし、この食卓の上は楽しかった。そのうちに日本側の客を置いて、一人(ひとり)立ち、二人(ふたり)立ち、公使らは皆席を立ってしまった。変なことではある。その考えがすぐに通禧に来た。醍醐大納言や宇和島少将は、と見ると、これもいぶかしそうな顔つきである。なんぞ変が起こったのであろうか、それまで話を持って行って、互いにあたりを見回したころは、日本側の三人の客だけしかその食堂のなかに残っていなかった。


 泉州(せんしゅう)、堺港(さかいみなと)の旭茶屋(あさひぢゃや)に、暴動の起こったことが大坂へ知れたのは、異人屋敷ではこの馳走の最中であった。よほどの騒動ということで、仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員が土佐(とさ)の家中のものに襲われたとの報知(しらせ)である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃(そげき)されたとのことであるが、旭茶屋方面から走って来るものの注進もまちまちで、出来事の真相は判然しない。ただ乗組員のうちの四人は即死し、七人は負傷し、別に七人は行くえ不明になったということは確かめられた。なお、行くえ不明の七人が難をのがれようとして水中に飛び込んだものだということもわかって来た。
 翌十六日の朝、とりあえず通禧は米国公使館を訪(たず)ねた。ファルケンボルグにあって、どうしたらよかろうと相談すると、仏国の軍艦はまさに横浜へ引き返そうとするところであるという。どうしてもこれは軍艦を引き留めねばならぬ。その考えから、通禧らは米国公使にしかるべく取りなしを依頼しようとした。
 すると、フランス側からは早速(さっそく)抗議を提出して来た。それは御門(みかど)政府外国事務掛り、東久世少将、伊達伊予守両閣下へとして、次ぎのような手詰めの談判を意味したものであった。
「……かくのごとき事件は世間まれに見聞いたし候(そうろう)事にて、禽獣(きんじゅう)の所行と申すべし。ついては仏国ミニストル、ひとまず軍艦ウエストの船中へ引き取りおり、なお右行くえ相知れざる人々死生にかかわらず残らず当方へ御差し返し下されたく、明朝第八時まで猶予いたし候間、この段大坂を領せらるる当時の政府へ申し進じ置き候。万一、右のとおり御処置これなきにおいてはいかようの御詫(わ)び御申し入れなされ候とも、かかる文明国の法則に違(たが)い、のみならずことにこのほど取りきめし条約書および条約の文に違背し、また当今御門政府の周囲にありて重役を勤めおる大名の家来にかくのごときの処置行なわれ候ては、これに対し相当と相心得候処置に及び候事にこれあるべく候間、この段申し進じ置き候。謹言。」
  千八百六十八年二月、大坂において
日本在留仏国全権レオン・ロセス ともかくも、五代、岩下らの働きから、十七日の朝八時とは言わないで、正午まで待ってもらうことにした。行くえ不明の七名をそれまでには見つけて返すから、軍艦の横浜へ引き返すことだけは見合わせてほしいと依頼した。さて、通禧らは当惑した。どこにいるやもわからないようなものを必ず見つけて返すと言ってのけたからで。
 その日の昼過ぎには、通禧は五代、中井らの人たちと共に堺(さかい)の旭(あさひ)茶屋に出張していた。済んだあとで何事もわからない。土佐の藩士らは知らん顔をして見ている。ぜひともその晩のうちに七人の死体を捜し出さねば、米国公使に取りなしを依頼した通禧らの立場もなくなるわけだ。一人探(さが)し出したものには金三十両ずつやると触れ出したところ、港の漁夫らが集まって来て、松明(たいまつ)をつけるやら、綱をおろすやらして探した。七人の異人の死体が順に一人ずつその暗い海から陸へ上がって来た。いずれも着物なしだ。通禧らは人を呼んで、それぞれ毛布に包ませなぞして、七つの土左衛門(どざえもん)のために間に合わせの新規な服を取り寄せる心配までした。中井弘蔵(こうぞう)がその棺を持って大坂に帰り着いたころは、やがて一番鶏(どり)が鳴いた。
 風雨の日がやって来た。ウエスト号という軍艦まで死骸(しがい)を持って行くにも、通禧らにはかなりの時を要した。その日は小松帯刀(こまつたてわき)も同行した。このあいにくな雨はどうだ、だれもそれを言わないものはない。しかしその雨を冒してまで届けに行くほどの心持ちを示さなかったら、フランス側でも穏やかに死骸(しがい)を引き取るとは言わなかったであろう。時刻も約束にはおくれた。通禧らは時計の針を正午のところに引き直して行って、ようやく約束を果たし、横浜の方へ引き返すことだけはどうやら先方に思いとどまってもらった。
 浪(なみ)も高かった。フランス側ではこの風に危ないと言って、小蒸汽船を卸して通禧らを送りかえしてくれた。ともかくも、死骸はフランス側の手に渡った。しかし、この容易ならぬ事件のあと始末は。それが心配になって、通禧らは帰りの船からもう一度ウエスト号の方を振り返って見た。例の黒船は気味の悪い沈黙を守りながら、雨の川口にかかっていた。


 しきりに起こる排外の沙汰(さた)。しかも今度の旭(あさひ)茶屋での件は諸外国との親睦(しんぼく)を約した大坂西本願寺会見の日から見て、実に二日目の出来事だ。危うくもまた測りがたいのは当時の空をおおう雲行きであった。そこで新政府では外国交際の布告を急いだ。太政官(だじょうかん)代三職の名で発表したその布告には、幕府において定め置いた条約が日本政府としての誓約であることからはじめて、時の得失により条目は改められても、その大体に至ってはみだりに動かすべきものでないの意味を告げてある。今さら朝廷においてこれを変えられたら、かえって信義を海外万国に失い、実に容易ならぬ大事であると心得よ、皇国固有の国体と万国公法とを斟酌(しんしゃく)して御採用になったのも、これまたやむを得ない御事であると心得よと告げてある。ついては、越前宰相以下建白(けんぱく)の趣旨に基づき、広く百官諸藩の公議により、古今の得失と万国交際のありさまとを折衷せられ、今般外国公使の入京参朝を仰せ付けられた次第である、と告げてある。もとより膺懲(ようちょう)のことを忘れてはならない、たとい和親を講じても曲直は明らかにせねばならない、攻守の覚悟はもちろんの事であるが、先朝においてすでに開港を差し許され、皇国と各国との和親はその時に始まっている、このたび王政一新、万機朝廷より仰せいだされるについては、各国との交際も直ちに朝廷においてお取り扱いになるは元よりの御事である、今や御親政の初めにあたり、非常多難の時に際会し、深く恐懼(きょうく)と思慮とを加え、天下の公論をもつて奏聞(そうもん)に及び、今般の事件を御決定になった次第である、かつ、国内もまだ定まらない上に、海外万国交際の大事である、上下協力して共に王事に勤労せよ、現時の急務は活眼を開いて従前の弊習を脱するにあると心得よ、とも告げてある。
 これは開国の宣言とも見るべきものであるが、大いに伸びようとするものは大いに屈しなければならないとの意志はこの英断にこもっていた。よろしく世界に進みいでよ、理のあるところには異国人にも頭を下げよ、彼の長を採り我の短を補い万世の大基礎を打ち建てよ、上下一致して縦横に踏み出せ、と言われたのはこの際である。
 二月の十九日に、仏国公使からは五か条の申し出があった。三日間にその決答を求めて来た。その時になると、旭茶屋事件の真相もはっきりして来た。仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員は艦長の指揮により、士官両人の付き添いで、堺港内の深浅を測量していたところ、土州兵のためにその挙動を疑われ、にわかに岸からの狙撃(そげき)を受けたものであった。乗組員のうち、わずかに一人(ひとり)だけが水を泳ぎきって無事にその場をのがれたこともわかって来た。フランス側に言わせると、軍港でもないところの海底の深浅を測量したからとて、そのために外国人を斃(たお)すとは何事であるか、もしその行為が不当であるなら乗組員を諭(さと)して去らしめるがいい、それでも言うことをきかなかったら抑留して仏国領事に引き渡すがいい、日本に在留したヨーロッパ人、ないしアメリカ人の身に罪なくして命を失ったものはすでに三十人に及んでいるとの言い分である。


「申し上げます。明後二十三日には堺の妙国寺で、土佐の暴動人に切腹を言い付けるそうでございます。つきましては、フランス側の被害者は、即死四人、手負い七人、行くえ知れず七人でありましたから、土佐のものも二十人ぐらいでよろしかろうということで、関係者二十人に切腹を言い付けるそうでございます。」
「気の毒なことだが、いたし方ない。暴動人の処刑は先方のきびしい請求だから。」
 東久世家の執事と通禧とは、こんな言葉をかわした。
「では、五代才助と上野敬助の両人に、当日立ち会うようにと、そう言ってやってください。」
 と通禧は言い添えた。
 妙国寺に土州兵らの処刑があったという日の夕方には、執事がまた通禧のところへ来て言った。
「今日は土佐家から、客分の家老職に当たります深尾康臣(ふかおやすおみ)も検使として立ち会ったと申してまいりました。鬮引(くじび)きで、切腹に当たる者を呼び出したということですが、なかなか立派であったそうで――辞世なぞも詠(よ)みましたそうで。ところが、切腹を実行して十一人目になりますと、そこに出張していたフランスの士官から助命の申し出がありました。あまり気の毒だから、切腹はもうおやめなさいと申したそうでございます。いや、はや、慷慨家(こうがいか)の寄り集まりで、仏人からそう申しても、ぜひ切ると言った調子で、聞き入れません。これには五代氏も止めるがいいと言い出しまして、切腹、罷(まか)りならぬ、そう厳命で止めさせたと承りました。」
 この「切腹、罷りならぬ」には通禧も笑っていいか、どうしていいか、わからなかった。
 もはや、旧暦二月末の暖かい雨もやって来るようになった。それからの旭茶屋事件には、仏人からの命乞(ご)いがあり、九人の土州兵を流罪(るざい)ということにして肥後と芸州とに預けるような相談も出た。山階(やましな)の宮(みや)も英国の軍艦までおいでになって、仏国全権ロセスに面会せられ、五か条の中の一か条で御挨拶(ごあいさつ)があった。この事を心配した土佐の山内容堂が病気を押して国もとから大坂に着いた日の後には、償金十五万両を三度に切って、フランス国に陳謝の意を表するほか、十一人の遺族、七人の負傷者のために土佐藩から贈るような日が続いた。

       四

「先達(せんだっ)て布告に相成り候(そうろう)各国の中(うち)、仏英蘭公使、いよいよ来たる二十七日大坂表出発、水陸通行、同夜伏見表(ふしみおもて)に止宿、二十八日上京仰せいだされ候。右については、かねて御沙汰(ごさた)のとおり、すべて万国公法をもって御交際遊ばされ候儀につき、一同心得違いこれなきよう、藩々においても厳重取り締まりいたすべく仰せいだされ候事。」
 この布告が出るころには、米国、伊国、普国の公使らはもはや大坂にいなかった。亡(な)きフランス軍人のために神戸外人墓地での葬儀が営まれるのを機会に、関東方面の形勢も案じられると言って、横浜居留地をさして大坂から退いて行った。後には、上京のしたくにいそがしい英国、仏国、オランダの三公使だけが残った。
 外人禁制の都、京都へ。このことが英公使パアクスをよろこばせた上に、彼にはこの上京につけて心ひそかな誇りがあった。今や日本の中世的な封建制度はヨーロッパ人の東漸(とうぜん)とともに消滅せざるを得ない時となって来ている、それを見抜いたのが前公使のアールコックであり、また、新社会構成のために西方諸藩の人たちを助けてこの革命を成就(じょうじゅ)せしめようとしているものも、そういう自分であるとの強い自負心は絶えず彼の念頭を去らない。このパアクスは、年若な日本の政事家の多い新政府の人たちを自分の生徒とも見るような心構えでもって、例の赤備兵(あかぞなえへい)の一隊を引き連れ、書記官ミットフォードと共に二十七日にはすでに上京の途についた。
 仏国公使ロセスと、オランダ代理公使ブロックとの出発は、それより一日おくれた。これは途中の危険を慮(おもんぱか)り、かつその混雑を防ごうとする日本委員の心づかいによる。神戸三宮事件に、堺旭茶屋事件に、御一新早々苦(にが)い経験をなめさせられたのも、そういう新政府の人たちだからであった。太政官(だじょうかん)では従来の秘密主義を捨てて、三国の使節が大坂出発の日取りまで発表し、かく上京参内を仰せ付けられたのも深き思(おぼ)し召しのあることだから、いささかも不作法な所業のないように、町役を勤めるものはもちろん、一家一家においても召使いの者までとくと申し聞けよ、もし心得違いのことがあって国難を引き出したら相済まない次第であるぞ、と触れ出した。
 時はあだかも江戸開板の新聞紙が初めて印行されるというころに当たる。東征先鋒(せんぽう)兼鎮撫(ちんぶ)総督らの進出する模様は、先年横浜に発行されたタイムス、またはヘラルドの英字新聞を通しても外人の間には報道されていた。大政官日誌以外に、京大坂にはまだ新聞紙の発行を見ない。それでも会津(あいづ)、松山、高松、大多喜(おおたき)等の諸大名は皆京都に敵対するものとして、その屋敷をも領地をも召し上げらるべきよしの報道なぞはしきりに伝わって来た。新政府が東征軍進発のために立てた予算は当局者以外にだれも知るよしもなかったが、大坂の町人で御用金の命に応じたり、あるいは奮って国恩のために上納金を願い出たりしたもののうわさは、金銭のことにくわしい市民の口に上らずにはいなかったころである。
 公使ロセスは書記官カションを同伴して、安治川(あじがわ)の川岸から艀(はしけ)に乗るところへ出た。仏国船将ピレックス、およびトワアルの両人もフランス兵をしたがえて京都まで同行するはずであった。そこへオランダ代理公使ブロックと同国書記官クラインケエスも落ち合って見ると、公使一行の主(おも)なものは都合六人となった。岸からすこし離れたところには二艘(そう)の小蒸汽船が待っていて、一艘には公使一行と、護衛のために同伴する日本人の官吏およびフランス兵を乗せ、他の一艘には薩州の護衛兵を乗せた。その日は伏見泊まりの予定で、水陸両道から淀川(よどがわ)をさかのぼる手はずになっていた。陸を行く護衛の一隊なぞはすでに伏見街道をさして出発したという騒ぎだ。異国人の参内と聞いて、一行の旅装を見ようとする男や女はその川岸にも群がり集まって来ている。京都の方へは中井弘蔵(こうぞう)が数日前に先発し、小松帯刀(たてわき)、伊藤俊介(しゅんすけ)らは英国公使と同道で大坂を立って行った。ロセスらの一行が途中の無事を祈り顔な東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)の名代もその艀(はしけ)まで見送りに来た。


 小蒸汽船が動き出してからも、不慮の出来事を警戒するような監視者の目は一刻も毛色の変わった人たちから離れない。いたるところに青みがかった岸の柳も旅するものの目をよろこばすころで、一大三角州をなした淀川の川口にはもはや春がめぐって来ていた。でも、うっかりロセスなぞは肩に掛けていた双眼鏡を取り出せなかったくらいだ。
「こんなにしてくれなくてもいい。どうして外国人はこんな監視を受けなければならないのか。」
 オランダの代理公使はひどくうるさがって、それを通訳の書記官に言わせると、付き添いの日本の官吏は首を振った。
「諸君を保護するのであります。」
 との答えだ。
 旅の掟(おきて)もやかましい。一行が京都へ着いた際の心得まで個条書になって細かく規定されている。その規定によると、滞在中は洛(らく)の中外を随意に徘徊(はいかい)することは許される、諸商い物を買い求めたり小屋物等を見物したりすることも許される、しかし茶屋酒楼等へひそかに越すことは許されない。夜分の外出は差し留められる事、宮方(みやかた)へ行き合う節は路傍に控えおるべき事、堂上あるいは諸侯へ行き合う節は双方道の半ばを譲って通行すべき事の類(たぐい)だ。それには但(ただ)し書(が)きまで付いていて、宮方へ行き合う節は御供頭(おともがしら)へその旨(むね)を通じ、公使から相当の礼式があれば御会釈(ごえしゃく)もあるはずだというようなことまで規定されている。
 この個条書を正確に読みうるものは、一行のうちでカションのほかにない。カションはそれを公使ロセスにもオランダ代理公使ブロックにも訳して聞かせた。その船の船室には赤い毛氈(もうせん)を敷き、粗末な椅子(いす)を並べて、茶なぞのもてなしもあったが、カションはひとりながめを自由にするために、大坂を離れるころから船室を出て、舷(ふなばた)に近い廊下の方へ行った。そこここには護衛顔なフランス兵も陣取っている。カションはその狭い廊下の一隅(いちぐう)にいて煙草(たばこ)を取り出そうとすると、近づいて来て彼に挨拶(あいさつ)し、いろいろと異国のことを質問する日本の官吏もあった。
 そういうカションはフランス人ながらに、俗にいう袂落(たもとおと)しの煙草入れを洋服の内側のかくしに潜ませているほどの日本通だった。そばへ来た官吏は目さとくそれを見つけて、
「ホ。君は日本の煙草をおやりですか。」
 と不思議そうに尋ねる。
 カションはフランス人らしく肩をゆすった。さらに別のかくしから燧袋(ひうちぶくろ)まで取り出した。彼はその船中で眼前に展開する河内(かわち)平野の景色でもながめながら一服やることを楽しむばかりでなく、愛用する平たい鹿皮(しかがわ)の煙草入れのにおいをかいで見たり、刀豆形(なたまめがた)の延べ銀の煙管(きせる)を退屈な時の手なぐさみにしたりするだけにも、ある異国趣味の満足を覚えるというふうの男だ。やがて彼は煙管を口にくわえて、さもうまそうに刻みの葉をふかしていた。燧石(ひうちいし)を打つ手つきから、燃えついた火口(ほくち)を煙草に移すまで、その辺は彼も慣れたものだ。それを見ると官吏は目を円(まる)くして、こんな人も西洋人の中にあるかという顔つきで、
「へえ、君はなかなかよく話す。」
「どういたしまして。」
「へたな日本人は、かないませんよ。」
「それこそ御冗談でしょう。」
「だれから君はそんな日本語をお習いでしたか。」
「わたしですか。蝦夷(えぞ)の方にいた時分でした。函館奉行(はこだてぶぎょう)の組頭(くみがしら)に、喜多村瑞見(きたむらずいけん)という人がありまして、あの人につきました。その時分、わたしは函館領事館に勤めていましたから。そうです、あの喜多村さんがわたしの教師です。なかなか話のおもしろい人でした。漢籍にもくわしいし、それに元は医者ですから、医学と薬草学の知識のある人でした。わたしはあの人にフランス語を教える、あの人はわたしに日本語を教えてくれました。あの時分は、喜多村さんも若かったし、わたしもまだ……」
「喜多村瑞見と言えば、聞いたことがある。幕府の使節でフランスの方へ行ってるあの喜多村じゃありませんか。」
「そうです。その喜多村さんです。」
 それを聞くと、相手の官吏は急にきげんを悪くして、口をつぐんでしまった。その時、カションは局外中立である自分ら外国人が旧(ふる)い教師のうわさをするのは一向差しつかえはあるまいというふうで、半分ひとりごとのように言った。
「あの人も驚いていましょう。日本の国内に起こったことを聞いたら、驚いてパリから帰って来ましょう。」


 よく耕された平野の光景は行く先にひらけた。そのよろこびが公使の一行をじっとさして置かなかった。いずれも平素はその時ほどの旅行の自由を持たなかったからで。そして、これを機会に、先着のヨーロッパ人が足跡をつけて行って見ようとしていたからで。
 極東をめがけて来たヨーロッパ人の中には、まれに許されて内地に深く進んだものもないではない。その中にはまた、日本の社会を観察して、かなり手きびしい意見を発表したものもないではない。ヨーロッパ文明と東洋文明とを比較して、その間の主(おも)なる区別は一つであるとなし、前者は虚偽を一般に排斥するも、後者は公然一般にこれを承認する。日本人やシナ人にあっては最も著しい虚言が発覚しても恥辱とせられない、かくまで信用の行なわるることの少ないこの社会に、いかにして人生における種々の関係が保たるるかは、解しがたいきわみであると言うものがある。日本人の道徳、および国民生活の基礎に関する思想は全くヨーロッパ人のそれと異なっている、その婦人身売りの汚辱から一朝にして純潔な結婚生活に帰るようなことは、日本には徳と不徳との間になんらの区画もないかと疑わせると言うものがある。自分らが旅行の初めには、土地の非常に豊かなのにも似ず、住民の貧乏な状態のはなはだしいのが目についた、村はもとより、大家屋の多く見える町でさえ活気や繁栄の見るべきものがない、かく人民の貧窮の状態にあるのはただ外形のみであってその実そうでないのか、あるいは実際耕作より得る収入も少ないのか、自分らはそれを満足に説明することができない、日本では政治上にも、統計上にも、また学問上にも、すべてに関してその知識を得ることが容易でない、これは各人がおのれ自身の生活とその職業とに関しない事項を全く承知しないためによると言うものもある。しかし、日本に高い運命の潜んでいることを言わないヨーロッパ人はない。もし彼ら日本人にして応用科学の知識に欠くることなく、機械工業に進歩することもあらば、彼らはヨーロッパ諸国民と優に競争しうるものである、日本は文学上にも哲学上にも未知の国であるが、ここにある家屋は清潔に、衣服も実用に耐え、武器の精鋭は驚くばかりである、独創の美に富んだ美術工芸の類(たぐい)については人によって見方も分かれているが、とにもかくにも過ぐる三百年の間、ほとんど外国と交通することもなしに、これほど独自の文化を築き上げた民族は他にその比を見ない。そう言わないものもない。
「今こそ日本内地の深さにはいって見る時が来た。」
 こうカションが公使のそばへ行って語って見せるたびに、ロセスはそれをたしなめるような語気で、
「カション、いくら君が日本の言葉からはいろうとしても、その言葉の奥にあるものには手が届くまい。やはり、われわれヨーロッパのものは、なかなか東洋人の魂にははいれないのだ。」
 それがロセスの言い草だった。
 公使の一行が進んで行ったところは、広い淀川の流域から畿内(きない)中部地方の高地へと向かったところにあるが、あいにくと曇った日で、遠い山地の方を望むことはかなわなかった。二艘(そう)の小蒸汽船は対岸に神社の杜(もり)や村落の見える淀川の中央からもっと先まで進んだ。そこまで行っても、遠い山々に隠れ潜んで容(かたち)をあらわさない。天気が天気なら、初めて接するそれらの山嶽(さんがく)から、一行のものは激しい好奇心を癒(いや)し得たかもしれない。でも、そちらの方には深い高地があって、その遠い連山の間に山城(やましろ)から丹波(たんば)にまたがるいくつかの高峰があるという日本人の説明を聞くだけにも満足するものが多かった。中でも、一番年若なカションは、一番熱心にその説明を聞いていた。どんな白い目で極東の視察に来るヨーロッパ人でも、この淀川に浮かんで来る春をながめたら、いかにこの島国が自然に恵まれていることの深いかを感じないものはあるまいとするのも、彼だ。


 次第に淀の駅の船着場も近いと聞くころには、煙(けぶ)るような雨が川の上へ来た。公使一行の中には慣れない不自由な旅に疲れて、早く伏見へと願っているものがある。何が伏見や京都の方に自分ら外国人を待っているだろうと言って、そろそろ上陸後の心づかいを始めるものがある。舷(ふなばた)の側の狭い廊下にもたれて、暖かではあるが寂しい雨を旅らしくながめているものもある。
 日本好きなカションにして見れば、この煙るような雨にしてからが、この国に来て初めて見られるようなものなのだ。なんでも彼は目をとめて見た。しばらく彼は書記官としての自分の勤めも忘れて、大坂道頓堀(どうとんぼり)と淀の間を往復する川舟、その屋根をおおう画趣の深い苫(とま)、雨にぬれながら櫓(ろ)を押す船頭の蓑(みの)と笠(かさ)なぞに見とれていた。そのうちに、反対な岸の方をも見ようとして、狭い汽船の廊下を一回りして行くと、公使ロセスとオランダ代理公使ブロックとが舷(ふなばた)に近く立って話しているそばへ出た。しとしと降り続けている雨をその廊下からながめながら、聞くつもりもなく彼は公使らの話に耳を傾けた。
「江戸が攻撃されることになったら、横浜はどうなろう。」とロセスの声で。
「無論危ない。救いはどこからもあの港に来ない。おそらく、その日が来たら、居留民を保護する暇なぞは日本新政府の力にもなくなろう。」とブロックの声で。
 遠からず来たるべき江戸総攻撃のうわさが、そこにかわされている。公使らを監視しようとして一刻も油断しない戒心のために、同伴の官吏もひどく疲れた時であったから、公使らはその弱点に乗ずるともなく、互いに遠慮のないところを語り合っているのだ。
「徳川慶喜はただただ謹慎の意を表しているというではないか。戦いを好まないというではないか。」
 と今度はブロックの声で。
「そこだ。そのことはだれも認めている。あの英国公使ですら、それは認めている。それほど恭順の意を表しているものに対して、攻撃を加えるようなことは、正義と人道とが許すだろうか。」とロセスの声で。
「まったく、君の言うとおりだ。」
「なんとかして江戸攻撃をやめさせることはできないものか。自分はもう、こんなみじめな内乱を傍観してはいられない。」
 オランダ公務代理総領事としてのブロックが関東の形勢の案じられると言うにも、相応の理由はあった。この人に言わせると、当時のこの国の急務は内乱をおさめるにある。日本国がいつまでも日本人の手にありたいと願うなら、早くこんな内乱をおさめるがいい。そして国内衰弊の風を諸外国に示さないがいい。これまで強大な諸大名が外国から購(あがな)い入れた軍船、運送船、鉄砲、弾薬の類はおびただしい額に上り、その代金は全部直ちに支払われるはずもなく、現に諸外国の政府もしくは臣民はその債権者の位置にある。もし国内の戦争が日につぎやむ時なく、ここに終わってかしこに始まるというふうに、強大な諸大名が互いに争闘を事としたら、国勢は窮蹙(きゅうしゅく)し、四民は困弊するばかりであろう。これがブロックの懸念(けねん)であった。
「どうしてもこれは英国公使に協議する必要がある。」とまたロセスの声で、「もちろんわれわれは日本の内政に干渉する意志はない。しかしなんらかの形で、南軍の参謀に反省を求める必要がある。あの慶喜をも救わねばならない。一国の政治を執って来たものを、われわれはにわかに逆賊とは見なしたくない。まして慶喜はこれまで政権を執ったばかりでなく、過去三世紀にもわたってこの国の平和を維持した徳川の旧(ふる)い事業に対しても感謝されていい人だ。彼が江戸の方へにげ帰ったあとで、彼に謁見(えっけん)した外国人もあるが、いずれも彼の温雅であって貴人の体を失わないことをほめないものはない。今こそ徳川は不幸にして浮き雲におおわれているが、全く滅亡する事は惜しい、そう多くのものは言っている。しかし、彼慶喜がこの国にあっては、もとより凡庸の人でないことは自分も知っている。彼が自分ら外国人に対してもつねに親友の情を失わないのは不思議もない。」
 フランス公使ロセスが徳川に寄せる同情は、言葉のはしにも隠せないものがあった。そこには随行員以外に、だれも公使のつかうフランス語を解するものはいなかった。それでもカションは周囲を見回してその狭い廊下を行きつ戻(もど)りつしながら、公使のそばを立ち去りかねていた。

       五

 三国公使参内のうわさは早くも京都市民の間に伝わった。往昔、朝廷では玄蕃(げんば)の官を置き、鴻臚館(こうろかん)を建てて、遠い人を迎えたためしもある。今度の使節の上京はそれとは全く別の場合で、異国人のために建春門を開き、万国公法をもって御交際があろうというのだから、日本紀元二千五百余年来、未曾有(みぞう)の珍事であるには相違なかった。
 しかし、京都側として責任のある位置に立つものは、ただそれだけでは済まされない。正直一徹で聞こえた大原三位重徳(おおはらさんみしげとみ)なぞは、一度は恐縮し、一度は赤面した。先年の勅使が関東下向(げこう)は勅諚(ちょくじょう)もあるにはあったが、もっぱら鎖攘(さじょう)(鎖港攘夷の略)の国是(こくぜ)であったからで。王政一新の前日までは、鎖攘を唱えるものは忠誠とせられ、開港を唱えるものは奸悪(かんあく)とせられた。しかるに手の裏をかえすように、その方向を一変したとなると、改革以前までの鎖攘を唱えたのは畢竟(ひっきょう)外国人を憎むのではなくして、徳川氏を顛覆(てんぷく)するためであったとしか解されない。もとより朝廷において、そんな卑劣な叡慮(えいりょ)はあらせられるはずもないが、世間からながめた時は徳川氏をつぶす手段と思うであろう。御一新となってまだ間もない。かくもにわかに方向を転換することは、朝廷も徳川氏に対して御遠慮あるべきはずである。先帝にもこの事にはすこぶる叡慮を悩ませられたと言って、大原卿はその心配をひそかに松平春嶽にもらしたという。
 当時、京都は兵乱のあとを承(う)けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸堺(さかい)の暴動、およびその処刑の始末等はひどく攘夷の党派に影響を及ぼし、人心の激昂(げきこう)もはなはだしい。
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