夜明け前
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:島崎藤村 

       一

 新帝東幸のおうわさがいよいよ事実となってあらわれて来たころは、その御通行筋に当たる東海道方面は言うまでもなく、木曾街道(きそかいどう)の宿々村々にいてそれを伝え聞く人民の間にまで和宮様(かずのみやさま)御降嫁の当時にもまさる深い感動をよび起こすようになった。
 慶応四年もすでに明治元年と改められた。その年の九月が来て見ると、奥羽(おうう)の戦局もようやく終わりを告げつつある。またそれでも徳川方軍艦脱走の変報を伝え、人の心はびくびくしていて、毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのような時であった。
 もはや江戸もない。これまで江戸と呼び来たったところも東京と改められている。今度の行幸(ぎょうこう)はその東京をさしての京都方の大きな動きである。これはよほどの決心なしに動かれる場合でもない。一方には京都市民の動揺があり、一方には静岡(しずおか)以東の御通行さえも懸念(けねん)せられる。途中に鳳輦(ほうれん)を押しとどめるものもあるやの流言もしきりに伝えられる。東山道方面にいて宿駅のことに従事するものはそれを聞いて、いずれも手に汗を握った。というは、あの和宮様御降嫁当時の彼らが忘れがたい経験はこの御通行の容易でないことを語るからであった。
 東海道方面からあふれて来る旅人の混雑は、馬籠(まごめ)のような遠く離れた宿場をも静かにして置かない。年寄役で、問屋後見を兼ねている伏見屋の伊之助は例のように、宿役人一同を会所に集め、その混雑から街道を整理したり、木曾下(しも)四か宿の相談にあずかったりしていた。七里役(飛脚)の置いて行く行幸のうわさなぞを持ち寄って、和宮様御降嫁当時のこの街道での大混雑に思い比べるのは桝田屋(ますだや)の小左衛門だ。助郷(すけごう)徴集の困難が思いやられると言い出すのは梅屋の五助だ。時を気づかう尾州の御隠居(慶勝(よしかつ))が護衛の兵を引き連れ熱田(あつた)まで新帝をお出迎えしたとの話を持って来るのは、一番年の若い蓬莱屋(ほうらいや)の新助だ。そこへ問屋の九郎兵衛でも来て、肥(ふと)った大きなからだで、皆の間に割り込もうものなら、伊之助の周囲(まわり)は男のにおいでぷんぷんする。彼はそれらの人たちを相手に、東海道の方に動いて行く鳳輦を想像し、菊の御紋のついた深紅色の錦(にしき)の御旗(みはた)の続くさかんな行列を想像し、惣萌黄(そうもえぎ)の股引(ももひき)を着けた諸士に取り巻かれながらそれらの御旗を静かに翻し行く力士らの光景を想像した。彼はまた、外国の旋条銃(せんじょうじゅう)と日本の刀剣とで固めた護衛の武士の風俗ばかりでなく、軍帽、烏帽子(えぼし)、陣笠(じんがさ)、あるいは鉄兜(てつかぶと)なぞ、かぶり物だけでも新旧時代の入れまじったところは、さながら虹(にじ)のごとき色さまざまな光景をも想像し、この未曾有(みぞう)の行幸を拝する沿道人民の熱狂にまで、その想像を持って行った。
 十月のはじめには、新帝はすでに東海道の新井(あらい)駅に御着(おんちゃく)、途中潮見坂(しおみざか)というところでしばらく鳳輦を駐(と)めさせられ、初めて大洋を御覧になったという報告が来るようになった。そこにひらけたものは、遠く涯(はて)も知らない鎖国時代の海ではなくて、もはや彼岸(ひがん)に渡ることのできる大洋である。木曾あたりにいて、想像する伊之助にとっても、これは多感な光景であった。
「や、これはよいお話だ。半蔵さんにも聞かせたい。」
 と伊之助は言って見たが、あいにくと半蔵が会所に顔を見せない。この街道筋の混雑の中で、半蔵の父吉左衛門の病は重くなった。中津川から駕籠(かご)で医者を呼ぶの、組頭(くみがしら)の庄助(しょうすけ)を山口村へも走らせるのと、本陣の家では取り込んでいた。

       二

 一日として街道に事のない日もない。ともかくも一日の勤めを終わった。それが会所を片づけて立ち上がろうとするごとに伊之助の胸に浮かんで来ることであった。その二、三日、半蔵が病める父の枕(まくら)もとに付きッきりだと聞くことも、伊之助の心を重くした。彼はその様子を知るために、砂利(じゃり)で堅めた土間を通って、問屋場(といやば)の方をしまいかけている栄吉を見に行った。そこには日〆帳(ひじめちょう)を閉じ、小高い台のところへ来て、その上に手をつき、叔父(おじ)(吉左衛門のこと)の病気を案じ顔な栄吉を見いだす。栄吉は羽目板(はめいた)の上の位置から、台の前の蹴込(けこ)みのところに立つ伊之助の顔をながめながら、長年中風を煩(わずら)っているあの叔父がここまで持ちこたえたことさえ不思議であると語っていた。
 その足で、伊之助は本陣の母屋(もや)までちょっと見舞いを言い入れに行った。半蔵夫婦をはじめ、お粂(くめ)や宗太まで、いずれも裏二階の方と見えて、広い囲炉裏ばたもひっそりとしている。そこにはまた、あかあかと燃え上がる松薪(まつまき)の火を前にして、母屋を預かり顔に腕組みしている清助を見いだす。
 清助は言った。
「伊之助さま、ここの旦那(だんな)はもう三晩も四晩も眠りません。おれには神霊(みたま)さまがついてる、神霊さまがこのおれを護(まも)っていてくださるから心配するな、ナニ、三晩や四晩ぐらい起きていたっておれはちっともねむくない――そういうことを言われるんですよ。大旦那の病気もですが、あれじゃ看護するものがたまりません。わたしは半蔵さまの方を心配してるところです。」
 それを聞くと、伊之助は病人を疲れさせることを恐れて、裏の隠居所までは見に行かなかった。極度に老衰した吉左衛門の容体、中風患者のこととて冷水で頭部を冷やしたり温石で足部を温(あたた)めたりするほかに思わしい薬もないという清助の話を聞くだけにとどめて、やがて彼は本陣の表門を出た。
 伊之助ももはや三十五歳の男ざかりになる。半蔵より三つ年下である。そんなに年齢(とし)の近いことが半蔵に対して特別の親しみを覚えさせるばかりでなく、きげんの取りにくい養父金兵衛に仕えて来た彼は半蔵が継母のおまんに仕えて来たことにもひそかな思いやりを寄せていた。二人(ふたり)はかつて吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられた日に、同じく木曾福島の代官所からの剪紙(きりがみ)(召喚状)を受け、一方は本陣問屋庄屋三役青山吉左衛門忰(せがれ)、一方は年寄兼問屋後見役小竹金兵衛忰として、付き添い二人、宿方惣代(そうだい)二人同道の上で、跡役(あとやく)を命ぜられて来たあれ以来の間柄である。
 しかし、伊之助もいつまで旧(もと)の伊之助ではない。次第に彼は隣人と自分との相違を感ずるような人である。いかに父親思いの半蔵のこととは言え、あの吉左衛門発病の当時、たとい自己の寿命を一年縮めても父の健康に代えたいと言ってそれを祷(いの)るために御嶽参籠(おんたけさんろう)を思い立って行ったことから、今また不眠不休の看護、もう三晩も四晩も眠らないという話まで――彼伊之助には、心に驚かれることばかりであった。
「どうして半蔵さんはああだろう。」


 本陣から上隣りの石垣(いしがき)の上に立つ造り酒屋の堅牢(けんろう)な住居(すまい)が、この伊之助の帰って行くのを待っていた。西は厚い白壁である。東南は街道に面したがっしりした格子である。暗い時代の嵐(あらし)から彼が逃げ込むようにするところも、その自分の家であった。
 伏見屋では表格子の内を仕切って、一方を店座敷に、一方の入り口に近いところを板敷きにしてある。裏の酒蔵の方から番頭の運んで来る酒はその板敷きのところにたくわえてある。買いに来るものがあれば、桝(ます)ではかって売る。新酒揚げの日はすでに過ぎて、今は伏見屋でも書き入れの時を迎えていた。売り出した新酒の香気(かおり)は、伊之助が宿役人の袴(はかま)をぬいで前掛けにしめかえるところまで通って来ていた。
「お父(とっ)さんは。」
 伊之助はそれを妻のお富にたずねた。隠居金兵衛も九月の下旬から中津川の方へ遊びに行き、月がかわって馬籠に帰って来ると持病の痰(たん)が出て、そのまま隠宅へも戻(もど)らずに本家の二階に寝込んでいるからであった。伊之助にしても、お富にしても、二人は両養子である。隣家に病む吉左衛門よりも年長の七十二歳にもなる養父がいかに精力家だからとはいいながら、もうそう長いこともあるまいと言い合って、なんでもしたいことはさせるがいいとも言い合って、夫婦共に腫物(はれもの)にさわるようにしている。
 ちょうどお富は夕飯のしたくにかかっていたが、台所の流しもとの方からまた用事ありげに夫のそばへ来た。見ると、夫は何か独語(ひとりごと)を言いながら、黒光りのする大黒柱(だいこくばしら)の前を往(い)ったり来たりしていた。
「もうすこし、あたりまえということが大切に思われてもいいがナ。」
「まあ、あなたは何を言っていらっしゃるんですかね。」
「いや、おれはお父(とっ)さんに対して言ってるんじゃない。今の世の中に対してそう言ってるんさ。」
 この伊之助の言うことがお富を笑わせもし、あきれさせもした。何が「あたりまえ」で、何がそんな独語(ひとりごと)を言わせるのやら、彼女にはちんぷん、かんぷんであったからで。
 その時、お富は峠の組頭が来て夫の留守中に置いて行った一幅の軸をそこへ取り出した。それは木曾福島の代官山村氏が御勝手仕法立(おかってしほうだて)の件で、お払い物として伊之助にも買い取ってもらいたいという旦那様愛蔵の掛け物の一つであった。あの平兵衛が福島の用人からの依頼を受けて、それを断わりきれずに、あちこちと周旋奔走しているという意味のものでもあった。
「へえ、平兵衛さんがこんなものを置いて行ったかい。」
「あの人もお払い物を頼まれて、中津川の方へ行って来るから、帰るまでこれを預かってくれ、旦那がお留守でも話のわかるようにしといてくれ、そう言って置いて行きましたよ。」
「平兵衛さんも世話好きさね。それにしても、あの山村様からこういう物が出るようになったか。まあ、お父(とっ)さんともあとで相談して見る。」
 もともと養父金兵衛は木曾谷での分限者(ぶげんしゃ)に数えられた馬籠の桝田屋惣右衛門(ますだやそうえもん)父子の衣鉢(いはつ)を継いで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、山林には木の苗を植え、時には米の売買にもたずさわって来た人である。その年の福島の夏祭りの夜に非命の最期をとげた植松菖助(うえまつしょうすけ)なぞは御関所番(おせきしょばん)の重職ながらに膝(ひざ)をまげて、生前にはよく養父のところへ金子(きんす)の調達を頼みに来たものだ。その実力においては次第に福島の家中衆からもおそれられたが、しかし養父とても一町人である。結局、多くのひくい身分のものと同じように、長いものには巻かれることを子孫繁栄の道とあきらめて来た。天明(てんめい)六年度における山村家が六千六百余両の無尽の発起をはじめ、文久二年度に旦那様の七千両の無尽の発起、同じ四年度に岩村藩の殿様の三万両の無尽の発起など、それらの大口ものの調達を依頼されるごとに、伏見屋でも二百両、二百三十両と年賦で約束して来た御上金(おあげきん)のことを取り出すまでもなく、やれお勝手の不如意(ふにょい)だ、お家の大事だと言われるたびに、養父が尾州代官の山村氏に上納した金高だけでもよほどの額に上ろう。
 伊之助はこの養父の妥協と屈伏とを見て来た。変革、変革の声で満たされている日が来たことは、町人としての彼を一層用心深くした。この大きな混乱の中に巻き込まれるというは、彼には恐ろしいことであった。いつでもそこから逃げ込むようにするところは、養父より譲られた屋根の下よりほかになかった。頼むは、忠、孝、正直、倹約、忍耐、それから足ることを知り分に安んぜよとの町人の教えよりほかになかった。
 そういう彼は少年期から青年期のはじめへかけてを、学問、宗教、工芸、商業なぞの早く発達した隣国の美濃(みの)に送った人で、文字の嗜(たしな)みのない男でもない。日ごろ半蔵を感心させるほどの素直な歌を詠(よ)む。彼が開いて見る本の中には京大坂の町人の手に成った古版物や新版物の類もある。そういうものから彼が見つけて来たのは、平常な心をもつものの住む世界であった。彼は見るもの聞くものから揺られ通しに揺られていて、ほとほと彼の求めるような安らかさも、やさしさも、柔らかさも得られないとしている。彼は都会の町人が狭い路地なぞを選んで、そこに隠れ住むあのわびを愛する。また、あの細(ほそ)みを愛する。彼は養子らしいつつしみ深さから、自分の周囲にある人たちのことばかりでなく、みずから志士と許してこの街道を往来する同時代の人たちのあの度はずれた興奮を考えて見ることもある。驚かずにはいられなかった。伊那(いな)の谷あたりを中心にして民間に起こって来ている実行教(富士講)の信徒が、この際、何か特殊な勤倹力行と困苦に堪(た)えることをもって天地の恩に報いねばならないということを言い出し、一家全員こぞって種々(さまざま)な難行事を選び、ちいさな子供にまで、早起き、はいはい、掃除(そうじ)、母三拝、その他飴菓子(あめがし)を買わぬなどの難行事を与えているようなあの異常な信心ぶりを考えて見ることもある。これにも驚かずにはいられなかった。
 しかし、彼は養父の金兵衛とも違い、隣家の半蔵と共になんとかしてこのむつかしい時を歩もうとするだけの若さを持っていた。豊太閤(ほうたいこう)の遺徳を慕うあの京大坂の大町人らが徳川幕府打倒の運動に賛意を表し、莫大(ばくだい)な戦費を支出して、新政府を助けていると聞いては、それを理解するだけの若さをも持っていた。いかに言っても、彼は受け身に慣れて来た町人で、街道を吹き回す冷たい風から立ちすくんでしまう。その心から、絶えず言いあらわしがたい恐怖と不安とを誘われていた。


 夕飯と入浴とをすました後、伊之助は峠の組頭が置いて行った例の軸物を抱いて、広い囲炉裏ばたの片すみから二階への箱梯子(はこばしご)を登った。
「お父(とっ)さん。」
 と声をかけて置いて、彼は二階の西向きの窓に近く行った。提灯(ちょうちん)でもつけて水をくむらしい物音が隣家の深い井戸の方から、その窓のところに響けて来ていた。
「お父さん、」とまた彼は窓に近い位置から、次ぎの部屋(へや)に寝ていた金兵衛に声をかけた。「今ごろ、本陣じゃ水をくみ上げています。釣瓶繩(つるべなわ)を繰る音がします。」
 金兵衛は東南を枕(まくら)にして、行燈(あんどん)を引きよせ、三十年来欠かしたことのないような日記をつけているところだった。伊之助の言うことはすぐ金兵衛にも読めた。
「吉左衛門さんもおわるいと見えるわい。」
 と金兵衛は身につまされるように言って、そばへ来た伊之助と同じようにしばらく耳を澄ましていた。この隠居は痰(たん)が出て歩行も自由でないの、心やすい人のほかはあまり物も言いたくないの、それもざっと挨拶(あいさつ)ぐらいにとどめてめんどうな話は御免こうむるのと言っているが、持って生まれた性分(しょうぶん)から枕(まくら)の上でもじっとしていない人だ。
「さっき、わたしは本陣へお寄り申して来ました。半蔵さんは病人に付きッきりで、もう三晩も四晩も眠らないそうです。今夜もあの人は徹夜でしょう。」
 伊之助はそれを養父に言って見せ、やがて山村家のお払い物を金兵衛の枕もとに置いて、平兵衛の話をそこへ持ち出した。これはどうしたものか、とその相談をも持ちかけた。
「伊之助、そんなことまでこのおれに相談しなくてもいいぞ。」
 と言いながらも、金兵衛は蒲団(ふとん)から畳の上へすこし乗り出した。平常から土蔵の前の梨(なし)の木に紙袋をかぶせて置いて、大風に落ちた三つの梨のうちで、一番大きな梨の目方が百三匁、ほかの二つは六十五匁ずつあったというような人がそこへ頭を持ち上げた。
「お父さん、ちょっとこの行燈(あんどん)を借りますよ。よく見えるところへ掛けて見ましょう。」
 伊之助は代官の生活を連想させるような幅をその部屋の床の間に掛けて見せた。竹に蘭(らん)をあしらって、その間に遊んでいる五羽の鶏を描き出したものが壁の上にかかった。それは権威の高い人の末路を語るかのような一幅の花鳥の絵である。過去二百何十年にもわたってこの木曾谷を支配し、要害無双の関門と言われた木曾福島の関所を預かって来たあの旦那様にも、もはや大勢(たいせい)のいかんともしがたいことを知る時が来て、太政官(だじょうかん)からの御達(おたっ)しや総督府からの催促にやむなく江戸屋敷を引き揚げた紀州方なぞと同じように、いよいよ徳川氏と運命を共にするであろうかと思わせるようなお払い物である。
「どれ、一つ拝見するか。」
 金兵衛は寝ながらながめていられない。彼は寝床を離れて、寝衣(ねまき)の上に袷羽織(あわせばおり)を重ね、床の間の方へはって行った。老いてはいるが、しかしはっきりした目で、行燈のあかりに映るその掛け物を伊之助と一緒に拝見に行った。彼は福島の旦那様の前へでも出たように、まず平身低頭の態度をとった。それからながめた。濃い、淡い、さまざまな彩色の中には、夜のことで隠れる色もあり、時代がついて変色した部分もある。
「長くお世話になった旦那様に、金でお別れを告げるようで、なんだか水臭いな。水臭いが、これも時世だ。伊之助――品はよく改めて見ろよ。」
「お父さん、ここに落款(らっかん)が宗紫山(そうしざん)としてありますね。」
「これはシナ人の筆だろうか、どうも宗紫山とは聞いたことがない。」
「さあ、わたしにもよくわかりません。」
「何にしろ、これは古い物だ。それに絹地だ。まあ、気に入っても入らなくても、頂(いただ)いて置け。これも御恩返しの一つだ。」
「時に、お父さん、これはいくらに頂戴(ちょうだい)したものでしょう。」
「そうさな。これくらいは、はずまなけりゃなるまいね。」
 その時、金兵衛は皺(しわ)だらけな手をぐっと養子の前に突き出して、五本の指をひろげて見せた。
「五両。」
 とまた金兵衛は言って、町人風情(ふぜい)の床の間には過ぎた物のようなその掛け軸の前にうやうやしくお辞儀一つして、それから寝床の方へ引きさがった。

       三

  雨のふるよな
  てっぽの玉のくる中に、
   とことんやれ、とんやれな。
  命も惜しまず先駆(さきがけ)するのも
  みんなおぬしのためゆえじゃ。
   とことんやれ、とんやれな。

  国をとるのも、人を殺すも、
  だれも本意じゃないけれど、
   とことんやれ、とんやれな。
  わしらがところの
  お国へ手向かいするゆえに。
   とことんやれ、とんやれな。

 馬籠(まごめ)の宿場の中央にある高札場の前あたりでは、諸国流行の唄(うた)のふしにつれて、調練のまねをする子供らの声が毎日のように起こった。
 その名を呼んで見るのもまだ多くのものにめずらしい東京の方からは新帝も無事に東京城の行宮(かりみや)西丸に着御(ちゃくぎょ)したもうたとの報知(しらせ)の届くころである。途中を気づかわれた静岡あたりの御通行には、徳川家が進んで駿河(するが)警備の事に当たったとの報知も来る。多くの東京市民は御酒頂戴(ごしゅちょうだい)ということに活気づき、山車(だし)まで引き出して新しい都の前途を祝福したと言い、おりもおりとて三、四千人からの諸藩の混成隊が会津戦争からそこへ引き揚げて来たとの報知もある。馬籠の宿場では、毎日のようにこれらの報知を受け取るばかりでなく、一度は生命の危篤を伝えられた本陣吉左衛門の病状が意外にもまた見直すようになったことまでが、なんとなく宿内の人気を引き立てた。
 ある日も、伊之助は伏見屋の店座敷にいて、周囲の事情にやや胸をなでおろしながら会所へ出るしたくをするところであった。彼は隣家の主人がまだ宿内を見回るまでには至るまいと考え、自分の力にできるだけのことをして、なるべくあの半蔵を休ませたいと考えた。その時、店座敷の格子の外へは、街道に戯れている子供らの声が近づいて来る。彼は聞くともなしにその無心な流行唄(はやりうた)を聞きながら、宿役人らしい袴(はかま)をつけていた。
 そこへお富が来た。お富は自分の家の子供らまでが戦(いくさ)ごっこに夢中になっていることを伊之助に話したあとで言った。
「でも、妙なものですね。ちょうどおとなのやるようなことを子供がやりますよ。梅屋の子供が長州、桝田屋(ますだや)の子供が薩摩(さつま)、それから出店(でみせ)(桝田屋分家)の子供が土佐とかで、みんな戦ごっこです。わたしが吾家(うち)の次郎に、お前は何になるんだいと聞いて見ましたら、あの子の言うことがいい。おれは尾州ですとさ。」
「へえ、次郎のやつは尾州かい。」
「えゝ、その尾州――ほんとに、子供はおかしなものですね。ところが、あなた、だれも会津になり手がない。」
 この「会津になり手がない」が伊之助を笑わせた。お富は言葉をついで、
「そこは子供じゃありませんか。次郎が蓬莱屋(ほうらいや)の子に、桃さ、お前は会津におなりと言っても、あの蓬莱屋の子は黙っていて、どうしても会津になろうとは言い出さない。桃さ、お前がなるなら、よい物を貸す、吾家(うち)のお父(とっ)さんに買ってもらった大事な木の太刀(たち)を貸す、きょうも――あしたも――ずっと明後日(あさって)もあれを貸す、そう次郎が言いましたら、蓬莱屋の子はよっぽど借りたかったと見えて、うん、そんならおれは会津だ、としまいに言い出したそうです。会津になるものは討(う)たれるんだそうですからね。」
「よせ、そんな話は。おれは大げさなことはきらいだ。」
 ごくわずかの時の間に、伊之助はお富からこんな子供の話を聞かされた。彼は会所へ出かける前、ちょっと裏の酒蔵の方を見回りに行ったが、無心な幼いものの世界にまで激しい波の浸って来ていることを考えて見ただけでもハラハラした。でも、お富の言って見せたことが妙に気になって、天井の高い造酒場の内を一回りして来たあとで、今度は彼の方からたずねて見た。
「お富、子供の戦さごっこはどんなことをするんだえ。」
「そりゃ、あなた、だれも教えもしないのに、石垣(いしがき)の下なぞでわいわい騒いで、会津になるものを追い詰めて行くんですよ。いよいよ石垣のすみに動けなくなると、そこで戦さに負けたものの方が、参った――と言い出すんです。まあ、どこから会津戦争のことなぞを覚えて来るんでしょう。あんなちいさな子供がですよ。」


 十月も末に近くなって、毎年定例の恵比寿講(えびすこう)を祝うころになると、全く東北方面も平定し、従軍士卒の帰還を迎える日が来た。過ぐる閏(うるう)四月に、尾州の御隠居(徳川慶勝(よしかつ))が朝命をうけて甲信警備の部署を名古屋に定め、自ら千五百の兵を指揮して太田に出陣し、家老千賀与八郎(ちがよはちろう)は先鋒(せんぽう)総括として北越に進軍した日から数えると、七か月にもなる。近国の諸侯で尾州藩に属し応援を命ぜられたのは、三河(みかわ)の八藩、遠江(とおとうみ)の四藩、駿河(するが)の三藩、美濃の八藩、信濃(しなの)の十一藩を数える。当時北越方面の形勢がいかに重大で、かつ危急を告げていたかは、これらの中国諸藩の動きを見てもおおよそ想像せられよう。
 もはや、東山道軍と共に率先して戦地に赴(おもむ)いた山吹藩(やまぶきはん)の諸隊は伊那の谷に帰り、北越方面に出動した高遠(たかとお)、飯田(いいだ)二藩の諸隊も続々と帰国を急ぎつつあった。越後口から奥州路(おうしゅうじ)に進出し、六十里越(ごえ)、八十里越のけわしい峠を越えて会津口にまで達したという従軍の諸隊は、九月二十二日の会津落城と共に解散命令が下ったとの話を残し、この戦争の激しかったことをも伝えて置いて、すでに幾組となく馬籠峠の上を西へと通り過ぎて行った。
 この凱旋兵(がいせんへい)の通行は十一月の十日ごろまで続いた。時には五百人からの一組が三留野(みどの)方面から着いて、どっと一時に昼時分の馬籠の宿場にあふれた。ようやくそれらの混雑も沈まって行ったころには、かねて馬籠から戦地の方へ送り出した荒町の禰宜(ねぎ)松下千里も、遠く奥州路から無事に帰って来るとの知らせがある。その日には馬籠組頭としての笹屋(ささや)庄助も峠の上まで出迎えに行った。
「お富、早いものじゃないか。荒町の禰宜さまがもう帰って来るそうだよ。」
 その言葉を残して置いて、伊之助は伏見屋の門口を出た。彼は従軍の禰宜を待ち受ける心からも、また会所勤めに通って行った。
 連日の奔走にくたぶれて、会所に集まるものはいずれも膝(ひざ)をくずしながら、凱旋兵士のうわさや会津戦争の話で持ちきった。その日の昼過ぎになっても松下千里は見えそうもないので、家事にかこつけて疲れを休めに帰って行く宿役人もある。例の会所の店座敷にはひとりで気をもむ伊之助だけが残った。本陣付属の問屋場もにわかに閑散になって、到着荷物の順を争うがやがやとした声も沈まって行った時だ。隣宿妻籠(つまご)からの二人の客がそこへ見えた。妻籠本陣の寿平次と、脇(わき)本陣の得右衛門(とくえもん)とだ。
「やれ、やれ、これでわたしたちも安心した。吉左衛門さんの病気もあの調子で行けば、まず峠を越したようなものです。」
 そういう妻籠の連中の声を聞くと、伊之助はその店座敷の一隅(いちぐう)に客の席をつくるほど元気づいた。同じ宿駅の勤めに従いながら、寿平次らがすこしも疲れたらしい様子のないには、これにも彼は感心した。連日の疲労を休める暇もなく、本陣への病気見舞いに来て、今その帰りがけであるということも、彼をよろこばせた。
「まあ、座蒲団(ざぶとん)でも敷いてください。ここは会所で何もおかまいはできませんが、お茶でも一つ飲んで行ってください。」と言いながら、伊之助は手をたたいて、会所の小使いを呼んだ。熱い茶の用意を命じて置いて、吉左衛門のうわさに移った。
「なんと言っても、馬籠のお父(とっ)さん(吉左衛門のこと)にはねばり強いところがありますね。」と言い出すのは寿平次だ。
「そりゃ、寿平次さん、何十年となくこの街道の世話をして来た人で、からだの鍛えからして違いますさ。」と言うのは得右衛門だ。「どうもあの病人は、寝ていても宿場のことを心配する。ああ気をもんじゃえらい。自分の病気から、半蔵の勤めぶりにまで響くようじゃ申しわけがない、青山親子に怠りがあると言われてはまことに済まないなんて、吉左衛門さんはどこまでも吉左衛門さんらしい。」
「へえ、そんなお話が出ましたか。」と伊之助は二人の話を引き取った。「なにしろ、看護も届いたんです。あれで半蔵さんは七日か八日もろくに寝なかったでしょう。よくからだが続きましたよ。わたしはあの人を疲れさせないようにと思って、会所の事務なぞはなるべく自分で引き受けるようにしていましたが、そこへあの凱旋(がいせん)、凱旋でしょう。助郷(すけごう)の人馬は滞る。御剪紙(おきりがみ)は来る。まったく一時は目を回してしまいました。」
「いや、はや、今度の御通行には妻籠でも心配しましたよ。」と得右衛門は声を潜めながら、「何にしろ、戦(いくさ)に勝って来た勢いで、鼻息が荒いや。あれは先月の二十八日でした。妻籠へは鍬野(くわの)様からお知らせがあって、あすお着きになるおおぜいの御家中方へは、宿々でもごちそうする趣だから、妻籠でもその用意をするがいいなんて、そんなことを言って来ましたっけ。こちらはおおぜいの御通行だけでも難渋するところへもって来て、ごちそうの用意さ。大まごつきにも何にも。あのお知らせは馬籠へもありましたろう。」
「ありました。」と伊之助はそれを承(う)けて、「なんでも最初のお知らせのあった時は、お取り持ちのしかたが足りないとでも言われるのかぐらいに思っていました。奥筋の方でもあの御家中方には追い追い難儀をしたとありましたが、その意味がはっきりしませんでした。そこへ、また二度目の知らせがある。今度は飛脚で、しかも夜中にたたき起こされる。あの時ばかりは、わたしもびっくりしましたよ。上(かみ)四か宿の内で、宿役人が一人(ひとり)に女中が一人手打ちにされて、首を二つ受け取ったと言うんでしょう。」
「その話さ。三留野(みどの)あたりの旅籠屋(はたごや)じゃ、残らず震えながらお宿をしたとか聞きましたっけ。」と得右衛門が言う。
「待ってくださいよ。」と伊之助は思い出したように、「実は、あとでわたしも考えて見ました。これには何か子細があります。凱旋の酒の上ぐらいで、まさかそんな乱暴は働きますまい。福島辺は今、よほどごたごたしていて、官軍の迎え方が下(しも)四か宿とは違うんじゃありますまいか。その話をわたしは吾家(うち)の隠居にしましたところ、隠居はしばらく黙っていました。そのうちに、あの隠居が何を言い出すかと思いましたら、しかし街道の世話をする宿役人を手打ちにするなんて、はなはだもってわがままなしかただ、いくら官軍の天下になったからって、そんなわがままは許せない、ですとさ。」
「いや、その説にはわたしも賛成だ。」と寿平次は言った。「君のところの老人は金をもうけることにも抜け目がないが、あれでなかなか奇骨がある。」


 奥州から越後の新発田(しばた)、村松、長岡(ながおか)、小千谷(おぢや)を経、さらに飯山(いいやま)、善光寺、松本を経て、五か月近い従軍からそこへ帰って来た人がある。とがった三角がたの軍帽をかぶり、背嚢(はいのう)を襷掛(たすきが)けに負い、筒袖(つつそで)を身につけ、脚絆草鞋(きゃはんわらじ)ばきで、左の肩の上の錦(にしき)の小片(こぎれ)に官軍のしるしを見せたところは、実地を踏んで来た人の身軽ないでたちである。この人が荒町(あらまち)の禰宜(ねぎ)だ。腰にした長い刀のさしかたまで、めっきり身について来た松下千里だ。
 千里は組頭庄助その他の出迎えのものに伴われて、まず本陣へ無事帰村の挨拶(あいさつ)に寄り、はじめて吉左衛門の病気を知ったと言いながら会所へも挨拶に立ち寄ったのであった。
「ヨウ、禰宜さま。」
 その声は、問屋場の方にいる栄吉らからも、会所を出たりはいったりする小使いらの間からも起こった。軍帽もぬぎ、草鞋の紐(ひも)もといて、しばらく会所に休息の時を送って行く千里の周囲には、会津戦争の話を聞こうとする人々が集まった。その時まで店座敷に話し込んでいた寿平次や得右衛門までがまたそこへすわり直したくらいだ。
 さすがに千里の話はくわしい。この禰宜が越後口より進んだ一隊に付属する兵粮方(ひょうろうかた)の一人として、はじめて若松城外の地を踏んだのは九月十四日とのことである。十九日未明には、もはや会津方の三人の使者が先に官軍に降(くだ)った米沢藩(よねざわはん)を通して開城降伏の意を伝えに来たとの風聞があった。それらの使者がいずれも深い笠(かさ)をかぶり、帯刀も捨て、自縛して官軍本営の簷下(のきした)に立たせられた姿は実にかわいそうであったとか。その時になると、白河口(しらかわぐち)よりするもの、米沢口よりするもの、保成口(ぼなりぐち)、越後口よりするもの、官軍参謀の集まって来たものも多く、評議もまちまちで、会津方が降伏の真偽も測りかねるとのうわさであった。翌二十日にはさらに会津藩の鈴木為輔(ためすけ)、川村三助の両人が重役の書面を携えて国情を申し出るために、通路も絶えたような城中から進んで来た。彼千里はその二人の使者が兵卒の姿に身を変え、背中には大根を担(にな)って、官軍の本営に近づいて来たのを目撃したという。味方も敵も最前線にあるものはまだその事を知らない。その日は諸手(しょて)の持ち場持ち場からしきりに城中を砲撃し、城中からも平日よりははげしく応戦した。二十二日が来た。いよいよ諸口の官兵に砲撃中止の命令の伝えられる時が来た。朝の八時ごろには約束のように追手門の外へ「降参」としるした大旗の建つのを望んだともいう。
「いや、戦地の方へ行って見て、自分の想像と違うことはいろいろありました。同じ官軍仲間でも競争のはげしいには、これにもたまげましたね。どこの兵隊は手ぬるいの、どこの兵隊はまるで戦争を見物してるのッて、なかなか大やかまし。一緒に戦争するのはいやだなんて、しまいまで仲の悪かった味方同志のものもありましたよ。あれは九月の十九日でした、米沢藩の兵が着いたことがありました。ところがこの米沢兵と来たら、七連銃の隊もあるし、火繩仕掛(ひなわじか)けの三十目銃の隊もあるし、ミンベール銃とかの隊もある。大牡丹(おおぼたん)、小牡丹、いれまざりだ。おまけに木綿(もめん)の筒袖(つつそで)で、背中には犬の皮を背負(しょ)ってる。さあ、みんな笑っちまって、そんな軍装の異様なことまでが一つ話にされるという始末でしょう。ちょっとした例がそれですよ。」
 気の置けない郷里の人たちを前にしての千里の土産話(みやげばなし)には、取りつくろったところがない。この禰宜はただありのままを語るのだと言って、さらにうちとけた調子で、
「これはまあ、大きな声じゃ言われないが、戦地の方でわたしも聞き込んで来たことがあります。土佐あたりの人に言わせると、今度の戦争は諸国を統一する御主旨でも、勝ち誇って帰る各藩有力者の頭をだれが抑(おさ)えるか。そういうことを言っていました。七百年来も武事に関しないお公家(くげ)さまが朝廷に勢力を占めたところで、所詮(しょせん)永続(ながつづ)きはおぼつかない。きっと薩摩(さつま)と長州が戦功を争って、不和を生ずる時が来る。そうなると、元弘(げんこう)、建武(けんむ)の昔の蒸し返しで、遠からずまた戦乱の世の中となるかもしれない。まあ、われわれは高知の方へ帰ったら、一層兵力を養って置いて、他日真の勤王をするつもりですとさ。ごらんなさい――土佐あたりの人はそんな気で、会津戦争に働いていましたよ。そりゃ一方に戦功を立てる藩があれば、とかく一方にはそれを嫉(ねた)んで、窮(こま)るように窮るようにと仕向ける藩が出て来る。こいつばかりは訴えようがない。そういうことをよく聞かされました。土佐もあれで今度の戦争じゃ、だいぶ鼻を高くしていますからね。」
 こんな話をも残した。
 千里が荒町の方へ帰って行った後、得右衛門と寿平次とは互いに顔を見合わせていて、容易に腰を持ち上げようとしない。禰宜の置いて行った話は妙に伊之助をも沈黙させた。
「さすがに、会津は最後までやった。」と得右衛門は半分ひとりごとのように言って、やがて言葉の調子を変えて、
「そう言えば、今の禰宜さまの話さ。どうでしょう、伊之助さん、あの禰宜さまが土佐の人から聞いて来たという話は。」
 伊之助は即座に答えかねていた。
「さあ、ねえ。」とまた得右衛門は伊之助の返事を催促するように、「半蔵さんならなんと言いますかさ。この世の中が遠からずまた大いに乱れるかもしれないなんて、そんなことを言われたんじゃ、実際わたしたちはやりきれない。武家の奉公はもうまッぴら。」
「得右衛門さん、」と伊之助は力を入れて言った。「半蔵さんの言うことなら、わたしにはちゃんとわかってます。あの人なら、そう薩摩(さつま)や長州の自由になるもんじゃないと言いましょう。今度の復古は下からの発起ですから、人民の心に変わりさえなければ、また武家の世の中になるようなことは決してないと言いましょう。」
「どうです、寿平次さん、君の意見は。よっぽど考うべき時世ですね。」と得右衛門が言う。
「わたしですか。わたしはまあ高見の見物だ。」
 寿平次はその調子だ。

       四

 東北戦争――多年の討幕運動の大詰(おおづめ)ともいうべき戊辰(ぼしん)の遠征――その源にさかのぼるなら、開国の是非をめぐって起こって来た安政大獄あたりから遠く流れて来ている全国的の大争いが、この戦争に運命を決したばかりでなく、おそらく新しい時代の舞台はまさにこの戦争から一転するだろうとさえ見えて来た。
 当時、この日の来るのを待ち受けていた人たちのことについては、実にいろいろな話がある。阿島の旗本の家来で国事に心を寄せ、王室の衰えを慨(なげ)くあまりに脱籍して浪人となり、元治(げんじ)年代の長州志士らと共に京坂の間を活動した人がある。たまたま元治甲子(きのえね)の戦さが起こった。この人は漁夫に変装して日々桂川(かつらがわ)に釣(つ)りを垂(た)れ、幕府方や会津桑名の動静を探っては天龍寺にある長州軍の屯営(とんえい)に通知する役を勤めた。その戦さが長州方の敗退に終わった時、巣内式部(すのうちしきぶ)ら数十人の勤王家と共に幕吏のために捕えられて、京都六角の獄に投ぜられた。後に、この人は許されたが、王政復古を聞くと同時によろこびのあまりにか、精神に異状を来たしてしまったという。おそらくこの不幸な勤王家はこんな全国統一の日の来たことすら知るまいとの話もある。
 時代の空気の薄暗さがおよそいかなる程度のものであったかは、五年の天井裏からはい出してようやくこんな日のめを見ることのできた水戸(みと)の天狗連(てんぐれん)の話にもあらわれている。その侍は水戸家に仕えた大津地方の門閥家で、藤田(ふじた)小四郎らの筑波組(つくばぐみ)と一致の行動は執らなかったが、天狗残党の首領として反対党からしきりに捜索せられた人だ。辻々(つじつじ)には彼の首が百両で買い上げられるという高札まで建てられた人だ。水戸における天狗党と諸生党との激しい党派争いを想像するものは、直ちにその侍の位置を思い知るであろう。筑波組も西に走ったあとでは彼の同志はほとんど援(たす)けのない孤立のありさまであった。襲撃があるというので、一家こぞって逃げなければならない騒ぎだ。長男には家に召使いの爺(じい)をつけて逃がした。これはある農家に隠し、馬小屋の藁(わら)の中に馬と共に置いたが、人目については困るというので秣(まぐさ)の飼桶(かいおけ)をかぶせて置いた。夫人には二人(ふたり)の幼児と下女を一人(ひとり)連れさせて、かねて彼が後援もし危急を救ったこともある平潟(ひらがた)の知人のもとをたよって行けと教えた。これはお尋ね者が来ても決して匿(かく)してはならないとのきびしいお達しだからと言って断わられ、日暮れごろにとぼとぼと帰路についた。おりよくある村の農家のものが気の毒がって、そこに三、四日も置いてくれたので、襲撃も終わり危険もないと聞いてから夫人らは家に帰った。当時は市川三左衛門(いちかわさんざえもん)をはじめ諸生党の領袖(りょうしゅう)が水戸の国政を左右する際で、それらの反対党は幕府の後援により中山藩と連合して天狗残党を討(う)とうとしていたので、それを知った彼は場合によっては天王山(てんのうざん)に立てこもるつもりで、武器をしらべると銃が七挺(ちょう)あるに過ぎない。土民らはまた蜂起(ほうき)して反対党の先鋒となり、竹槍(たけやり)や蓆旗(むしろばた)を立てて襲って来たので、彼の同志数十人はそのために斃(たお)れ、あるものは松平周防守(まつだいらすおうのかみ)の兵に捕えられ、彼は身をもって免かれるというありさまであった。その時の彼は、日中は山に隠れ、夜になってから歩いた。各村とも藩命によって出入り口に関所の設けがある。天狗党の残徒にとっては到底のがれる路(みち)もない。大胆にも彼はその途中から引き返し、潜行して自宅に戻(もど)って見ると、家はすでに侵掠(しんりゃく)を被って、ついに身の置きどころとてもなかったが、一策を案じてかくれたのがその天井裏だ。その時はまだ捜索隊がいて、毎日昼は家の内外をあらために来る。天井板をずばりずばり鎗で突き上げる。彼は梁(うつばり)の上にいながら、足下に白く光るとがった鎗先を見ては隠れていた。三峰山(みつみねさん)というは後方にそびえる山である。昼は人目につくのを恐れて天井裏にいても、夜は焼き打ちでもされてはとの懸念(けねん)から、その山に登って藪(やぶ)の中に様子をうかがい、夜の明けない先に天井裏に帰っているというのが彼の身を隠す毎日の方法であった。何を食ってこんな人が生きていられたろう。それには家のものが握飯(むすび)を二日分ずつ笊(ざる)に入れ、湯は土瓶(どびん)に入れて、押入れに置いてくれる。彼は押入れの天井板を取り除き、そこから天降(あまくだ)りで飲み食いするものにありつき、客でも来るごとにその押入れに潜んでいてそれとなく客の話に耳を澄ましたり世間の様子をうかがったりした。時には、次男が近所の子供を相手に隠れんぼをはじめ、押入れに隠れようとして、家にはいないはずの父をそこに見つける。まっ黒な顔。延びた髪と髯(ひげ)。光った目。その父が押入れの中ににらんで立っているのを見ると、次男はすぐに戸をぴしゃんとしめて他のところへ行って隠れた。子供心にもそれを口外しては悪いと考えたのであろう。時にはまた、用を達(た)すための彼が天井裏から床下に降りて行って、下男に見つけられることもある。驚くまいことか、下男はまっ黒な貉(むじな)のようなやつが縁の下にいると言って、それを告げに夫人のところへ走って行く。まさかそれが旦那(だんな)だとは夫人も言いかねて、貉か犬でもあろうから捧で突ッついて見よなぞと言い付けると、早速(さっそく)下男が竹竿(たけざお)を取り出して来て突こうとするから、たまらない。幸いその床下には大きな炉が切ってあって、彼はそのかげに隠れたこともある。五年の月日を彼はそんな暗いところに送った。いよいよ王政復古となったころは、彼は長い天井裏からはい出し、大手を振って自由に濶歩(かっぽ)しうる身となった。のみならず、水戸藩では朝命を奉じて佐幕派たる諸生党を討伐するというほどの一変した形勢の中にいた。彼としては真(まこと)に時節到来の感があったであろう。間もなく彼は藩命により、多年怨(うら)みの敵なる市川三左衛門らの徒を捕縛すべく従者数名を伴い奥州に赴(おもむ)いたという。官軍が大挙して奥羽同盟の軍を撃破するため東北方面に向かった時は、水戸藩でも会津に兵を出した。その中に、同藩銃隊長として奮戦する彼を見かけたものがあったとの話もある。


 すべてがこの調子だとも言えない。水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もなく、また維新直後にそれほど恐怖時代を顕出した地方もめずらしいと言われる。しかし、信州伊那(いな)の谷あたりだけでも、過ぐる年の密勅事件に関係して自ら毒薬を仰いだもの、元治年代の長州志士らと運命を共にしたもの、京都六角通りの牢屋(ろうや)に囚(とら)われの身となっていたものなぞは数え切れないほどある。いよいよ東北戦争の結果も明らかになったころは、それらの恨みをのんで倒れて行ったものの記憶や、あるいは闇黒(あんこく)からはい出したものの思い出のさまざまが、眼前の霜葉(しもは)枯れ葉と共にまた多くの人の胸に帰って来た。
 今さら、過ぐる長州征伐の結果をここに引き合いに出すまでもないが、あの征伐の一大失敗が徳川方を覚醒(かくせい)させ、封建諸制度の革新を促したことは争われなかった。いわゆる慶応の改革がそれで、二百年間の繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が非常な勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易の風(ふう)に移ったのも皆その結果であった。旧(ふる)い伝馬制度の改革が企てられたのもあの時からで、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、問屋場刎銭(はねせん)の割合も少なくなって、街道宿泊の方法まで簡易に改められるようになって行きかけていた。今度の東北戦争の結果は一層この勢いを助けもし広げもして、軍制武器兵服の改革は言うまでもなく、身分の打破、世襲の打破、主従関係の打破、その他根深く澱(よど)み果てた一切の封建的なものの打破から、もはや廃藩ということを考えるものもあるほどの驚くべき新陳代謝を促すようになった。
 何事も土台から。旧時代からの藩の存在や寺院の権利が問題とされる前に、現実社会の動脈ともいうべき交通組織はまず変わりかけて行きつつあった。
 江戸の方にあった道中奉行所の代わりに京都駅逓司(えきていし)の設置、定助郷(じょうすけごう)その他種々(さまざま)な助郷名目の廃止なぞは皆この消息を語っていた。従来、諸公役の通行と普通旅人の通行には荷物の貫目にまで非常な差別のあったものであるが、それらの弊習も改められ、勅使以下の通行に特別の扱いすることも一切廃止され、公領私領の差別なくすべて助郷に編成されることになった。諸藩の旅行者たりとも皆相対(あいたい)賃銭を払って人馬を使用すべきこと、助郷村民の苦痛とする刎銭(はねせん)なるものも廃されて、賃銭はすべて一様に割り渡すべきこと、それには宿駅常備の御伝馬とそれを補助する助郷人馬との間になんらの差別を設けないこと――これらの駅逓司の方針は、いずれも沿道付近に住む百姓と宿場の町人ないし伝馬役との課役を平等にするためでないものはなかった。多年の問題なる助郷農民の解放は、すくなくもその時に第一歩を踏み出したのである。


 しかし、この宿場の改革には馬籠あたりでもぶつぶつ言い出すものがあった。その声は桝田屋(ますだや)および出店(でみせ)をはじめ、蓬莱屋(ほうらいや)、梅屋、その他の分家に当たる馬籠町内の旦那衆の中から出、二十五軒ある旧(ふる)い御伝馬役の中からも出た。もともと町内の旦那衆とても根は百姓の出であって、最初は梅屋の人足宿、桝田屋の旅籠屋(はたごや)というふうに、追い追いと転業するものができ、身分としては卑(ひく)い町人に甘んじたものであるが、いつのまにかこれらの人たちが百姓の上になった。かつて西の領地よりする参覲交代(さんきんこうたい)の諸大名がまださかんにこの街道を往来したころ、木曾(きそ)寄せの人足だけでは手が足りないと言われるごとに、伊那(いな)の谷に住む百姓三十一か村、後には百十九か村のものが木曾への通路にあたる風越山(かざこしやま)の山道を越しては助郷の勤めに通(かよ)って来たが、彼ら百姓のこの労役に苦しみつつあった時は、むしろ宿内の町人が手に唾(つば)をして各自の身代を築き上げた時であった。中には江戸に時めくお役人に取り入り、そのお声がかりから尾州侯の御用達(ごようたし)を勤めるほどのものも出て来た。どうして、これらの人たちが最下等の人民として農以下に賤(いや)しめられるほどの身分に満足するはずもない。頭を押えられれば押えられるほど、奢(おご)りも増長して、下着に郡内縞(ぐんないじま)、または時花(はやり)小紋、上には縮緬(ちりめん)の羽織をかさね、袴(はかま)、帯、腰の物までそれに順じ、知行取(ちぎょうと)りか乗り物にでも乗りそうな人柄に見えるのをよいとした時代もあったのである。
 さすがに二代目の桝田屋惣右衛門(ますだやそうえもん)はこれらの人たちの中ですこし毛色を異にしていた。幕府時代における町人圧迫の方針から、彼らの商業も、彼らの道徳も、所詮(しょせん)ゆがめられずには発達しなかったが、そういう空気の中に生(お)い立ちながらも、この人ばかりは百姓の元を忘れなかった。すくなくも人々の得生ということを考え、この生はみな天から得たものとして、親先祖から譲られた家督諸道具その他一切のものは天よりの預かり物と心得、随分大切に預かれば間違いないとその子に教え、今の日本の宝の一つなる金銀もそれをわが物と心得て私用に費やそうものなら、いつか天道へもれ聞こえる時が来ると教えたのもこの人だ。八十年来の浮世の思い出として、大きな造り酒屋の見世先(みせさき)にすわりながら酒の一番火入れなどするわが子のために覚え書きを綴(つづ)り、桝田屋一代目存生中の咄(はなし)のあらましから、分家以前の先祖代々より困窮な百姓であったこと、当時何不足なく暮らすことのできるようになったというのも全く先祖と両親のおかげであることを語り、人は得生の元に帰りたいものだと書き残したのもこの人だ。亭主(ていしゅ)たる名称を継いだものでも、常は綿布、夏は布羽織、特別のおりには糸縞(いとじま)か上は紬(つむぎ)までに定めて置いて、右より上の衣類等は用意に及ばない、町人は内輪に勤めるのが何事につけても安気(あんき)であると思うと書き残したのもまたこの人だ。この桝田屋の二代目惣右衛門は、わが子が得生のすくないくせに、口利口(くちりこう)で、人に出過ぎ、ことに宿役人なぞの末に列(つら)なるところから、自然と人の敬うにつけてもとかく人目にあまると言って、百姓時代の出発点を忘れそうな子孫のことを案じながら死んだ。しかし、三代目、四代目となるうちには、それほど惣右衛門父子が馬籠のような村にあって激しい生活苦とたたかった歴史を知らない。初代の家内が内職に豆腐屋までして、夜通し石臼(いしうす)をひき、夜一夜安気に眠らなかったというようなことは、だんだん遠い夢物語のようになって行った。それに、宿内の年寄役、組頭、皆それは村民の入札で定めたのが役替(やくが)えの時の古い慣例で、役替え札開きの日というがあり、礼高で当選したものが宿役人を勤めたのである。そのおりの当選者が木曾福島にある代官地へのお目見えには、両旦那様をはじめ、家老、用人、勘定方から、下は徒士(かち)、足軽、勘定下組の衆にまでそれぞれ扇子なぞを配ったのを見ても、安永(あんえい)年代のころにはまだこの選挙が行なわれ、したがって競争も激しかったことがわかる。いつのまにか、これとてもすたれた。年寄役も、組頭も、皆世襲に変わった。いかに不向きでもその家に生まれ、またはその家から分かれたものは自然に人から敬われ、旦那衆と立てられるようになって来た。あだかも江戸あたりの町人仲間に、株というものが固定してしまったように。
 この旦那衆だ。中にはいろいろな人がある。駅逓司(えきていし)の趣意はまだ皆の間に徹しないかして、一概にこれを過激な改革であるとなし、自分らの利害のみを考えるものも出て来た。古い宿場の御伝馬役として今までどおりのわがままも言えなくなるとみて取った人たちの助太刀(すけだち)は、一層その不平の声を深めた。
「これは宿場の盛衰にもかかわることだ。伏見屋の旦那あたりが先に立って、もっと骨を折ってくだすってもいい。」
 旧御伝馬役の中には、こんなことを言い出したものもある。


 民意の開発に重きを置いた尾州藩中の具眼者がまず京都駅逓司の方針に賛成したことは不思議でもない。このことが尾州領内の木曾地方に向かって働きかけるようになって行ったというのも、これまた不思議でもない。京都駅逓司の新方針によると、たとい諸藩の印鑑で保証する送り荷たりとも、これまでのように問屋場を素通りすることは許されない。公用藩用の名にかこつけて貫目を盗むことも許されない。袖(そで)の下もきかない。荷物という荷物の貫目は公私共に各問屋場で公平に改められることになった。
 東京と京都との間をつなぐ木曾街道の中央にあって、多年宿場に衣食した馬籠の御伝馬役の人たちはこの改革に神経をとがらせずにはいられなかったのである。彼らの多くは、継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷村民へ押しつけるような従来の弊習に慣れている。諸大名諸公役の大げさな御通行のあったごとに、すくなくも五、六百人以上の助郷村民は木曾四か宿に徴集されて来て朝勤め夕勤めの役に服したが、その都度(つど)割りのよい仕事にありつき、なおそのほかに宿方の補助を得ていたのも彼らである。街道で身代を築き上げた旦那衆と同じように、彼らもまた宿場全盛のころのはなやかな昔を忘れかねている。宿駅と助郷村々との課役を平等にせよというような駅逓司の方針は彼らにとってこの特権から離れることにも等しかった。
 旧御伝馬役の一人に小笹屋(こざさや)の勝七がある。この人なぞは伊之助の意見を聞こうとして、ある夜ひそかに伏見屋の門口をたたいたくらいだ。
「まあ、本陣へ行って聞いてくれ。」
 それが伊之助の答えだった。
「オッと、伏見屋の旦那、それはいけません。宿の御伝馬役と在の助郷とはわけが違いますぞ。桝田屋の旦那でも、蓬莱屋(ほうらいや)の旦那でも、皆おれたちの肩を持ってくださる。お前さまのような人は、もっと宿内のものをかわいがってくだすってもいい。」
 そう勝七が言い立てても、伊之助は隣の国から来た養子の身ということを楯(たて)にして、はっきりした返事をしなかった。同じ旦那衆の一人でも、伊之助だけは中庸の道を踏もうとしている。この「本陣へ行って聞いてくれ」が、いつでも彼の奥の手だ。
 十二月の下旬には、この宿場ではすでに幾度か雪を見た。時ならない尾州藩の一隊が七、八十人の同勢で、西から馬籠昼食の予定で街道を進んで来た。木曾福島行きの御連中である。ちょうど余日もすくない年の暮れにあたり、宿内にあり合わせた人馬もあちこちと出払った時で、特に荷物の継立(つぎた)てを頼むと言われても手が足りなかった。にわかなことで、助郷も間に合わない。宿駅改革の主旨にもとづく課役の平等は旦那衆の家へも回って行く。ともかくも交通機関の整理が完成されるまで、街道に居住するものはもとより、沿道付近の村民は皆各人が助郷たるの意気込みをもって、一軒につき一人ずつは出てこの非常時に当たれとある。こうなると、町人と言わず、百姓と言わず、宿内で人足を割り当てられたものは継立て方を助けねばならなかった。
 ある旦那衆などは、もうたまらなくってどなった。
「何。われわれの家からそんな人足なぞに出られるか。本陣へ行って聞いて来い。」


 父吉左衛門もめっきり健康を回復して来たので、それに力を得て、人足のさしずをするために本陣を出ようとしていたのは半蔵である。彼はすでに隣家の伊之助を通して、町内の旦那衆や旧御伝馬役の意向を聞いていた。
「もちろん。」
 半蔵の態度がそれを語った。あとは自分でも人足の姿に身を変え、下男の佐吉に言い付けて裏の木小屋から「せいた」(木曾風な背負子(しょいこ))を持って来させた。細引(ほそびき)まで用意した。彼は町内の旦那衆なぞから出る苦情を取り合わなかった。自分でもその日の人足の中にまじり、継立て方を助けるようにして、それを一切の答えに代えようとしていた。
「旦那、お前さまも出(で)させるつもりか。」
 と佐吉はそこへ飛んで来て言った。
「おれが行かず。お前さまの代わりにおれが行かず。一軒のうちでだれか一人出ればそれでよからずに。」
 とまた佐吉が言った。
 しかし、半蔵はもう背中に半蓑(はんみの)をつけて、敷居の外へ一歩(ひとあし)踏み出していた。尾州藩の一隊は幾組かに分かれて、本陣に昼食の時を送っている家中衆もある。幾本かの鎗(やり)は玄関の式台のところに持ち込んである。あの客の接待には清助というものがあって、半蔵もその方には事を欠かなかった。
「お民、頼んだぜ。」
 その言葉を妻に残して置いて、彼は客よりも先に自分の家の表門を出た。
 半月交代の問屋場は向こう上隣りの九郎兵衛方で開かれるころであった。問屋の前あたりには、思い思いに馬を引いて来る宿内の馬方もある。順番に当たった人足たちが上町からも下町からも集まって来ている。
「本陣の旦那、よい馬は今みんな出払ってしまった。いくら狩り集めようとしても、女馬か、あんこ馬しかない。」
 そんなことを言って、人馬の間を分けながらあちこちと走り回る馬指(うまざし)もある。
「きょうはおれもみんなの仲間入りだぞ。おれにも一つ荷物を分けてくれ。」
 この半蔵の言葉は人足指(にんそくざし)ばかりでなく、そこに働いている問屋の主人九郎兵衛をも驚かした。人足一人につき荷物七貫目である。半蔵はそれを「せいた」に堅く結びつけ、半蓑の上から背中に担(にな)って、日ごろ自分の家に出入りする百姓の兼吉らと共に、チラチラ雪の来る中を出かけた。
「ホウ、本陣の旦那だ。」
 とわけもなしにおもしろがる人足仲間もある。半蔵の方を盗むように見て、笠(かさ)をかぶった首を縮め、くすくす笑いながら荷物を背負(しょ)って行く百姓もある。
「これからお前さま、妻籠(つまご)まで――二里の山道はえらいぞなし。」
 兼吉の言い草だ。
 峠の上から一石栃(いちこくとち)(俗に一石)を経て妻籠までの間は、大きな谷の入り口に当たり、木曾路でも深い森林の中の街道筋である。過ぐる年月の間、諸大名諸公役らの大きな通行があるごとに、伊那方面から徴集される村民が彼らの鍬(くわ)を捨て、彼らの田園を離れ、木曾下四か宿への当分助郷、あるいは大助郷と言って、山蛭(やまびる)や蚋(ぶよ)なぞの多い四里あまりのけわしい嶺(みね)の向こうから通って来たのもその山道である。
 背中にしたは、なんと言っても慣れない荷だ。次第に半蔵は連れの人足たちからおくれるようになった。荷馬の歩みに調子を合わせるような鈴音からも遠くなった。時には兼吉その他の百姓が途中に彼を待ち合わせていてくれることもある。平素から重い物を背負い慣れた肩と、山の中で働き慣れた腰骨とを持つ百姓たちとも違い、彼は手も脚(あし)も震えて来た。待ち受けていた百姓たちはそれを見ると、さかんに快活に笑って、またさっさと先へ歩き出すというふうだ。
 その日ほど彼も額からにじみ出る膏(あぶら)のような冷たい汗を流したことはない。どうかすると、降って来る小雪が彼の口の中へも舞い込んだ。年の暮れのことで、凍り道にも行き悩む。熊笹(くまざさ)を鳴らす勁(つよ)い風はつれなくとも、しかし彼は宿内の小前(こまえ)のものと共に、同じ仕事を分けることをむしろ楽しみに思った。また彼は勇気をふるい起こし、道を縦横に踏んで、峠の上で見つけて来た金剛杖(こんごうづえ)を力に谷深く進んで行った。ようやく妻籠手前の橋場というところまでたどり着いて、あの大橋を渡るころには、後方からやって来た尾州藩の一隊もやがて彼に追いついた。

       五

 明治二年の二月を迎えるころは、半蔵らはもはや革新潮流の渦(うず)の中にいた。その勢いは、一方に版籍奉還奏請の声となり、一方には神仏混淆(こんこう)禁止の叫びにまで広がった。しかし、それがまだ実現の運びにも至らないうちに、交通の要路に当たるこの街道筋には早くもいろいろなことがあらわれて来た。
 木曾福島の関所もすでに崩(くず)れて行った。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:413 KB

担当:undef