夜明け前
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著者名:島崎藤村 

「あなたも一つお受けください。」
「お母(っか)さん、これは恐れ入りましたねえ。」
 景蔵はこころよくその冷酒を飲みほした。そこへ半蔵も進み寄って、
「でも、景蔵さん、福島での御通行があんなにすらすら行くとは思いませんでしたよ。」
「とにかく、けが人も出さずにね。」
「あの相良惣三(さがらそうぞう)の事件で、われわれを呼びつけた時なぞは、えらい権幕(けんまく)でしたなあ。」
「これも大勢(たいせい)でしょう。福島の本陣へは山村家の人が来ましてね、恭順を誓うという意味の請書(うけしょ)を差し出しました。」
「吾家(うち)の阿爺(おやじ)なぞも非常に心配していましたよ。この話を聞いたら、さぞあの阿爺も安心しましょう。旧(ふる)い、旧い木曾福島の旦那(だんな)さまですからね。」
「そう言えば、景蔵さん、あの相良惣三のことを半蔵さんに話してあげたら。」と隣席にいる三郎兵衛が言葉を添える。
「壮士ひとたび去ってまた帰らずサ。これもよんどころない。三月の二日に、相良惣三の総人数が下諏訪の御本陣に呼び出されて、その翌日には八人の重立ったものが下諏訪の入り口で、断頭の上、梟首(さらしくび)ということになりました。そのほかには、片鬚(かたひげ)、片眉(かたまゆ)を剃(そ)り落とされた上で、放逐になったものが十三人ありました。われわれは君、一同連名で、相良惣三のために命乞(ご)いをして見ましたがね、官軍の先駆なぞととなえて勝手に進退するものを捨て置くわけには行かないと言うんですからね――とうとう、われわれの嘆願もいれられませんでしたよ。」
 やがて客膳の並んだ光景がその奥座敷にひらけた。景蔵は隣席の三郎兵衛と共にすわり直して、馬籠本陣での昼じたくも一同が記念の一つと言いたげな顔つきである。
 時は、あだかも江戸の総攻撃が月の十五日と定められたというころに当たる。東海道回りの大総督の宮もすでに駿府(すんぷ)に到着しているはずだと言わるる。あの闘志に満ちた土佐兵が江戸進撃に参加する日を急いで、甲州方面に入り込んだといううわさのある幕府方の新徴組を相手に、東山道軍最初の一戦を交えているだろうかとは、これまた諏訪帰りの美濃衆一同から話題に上っているころだ。
 その日の景蔵はあまり多くを語らなかった。半蔵の方でも、友だちと二人きりの心持ちを語り合えるようなおりが見いだせない。ただ景蔵は言葉のはじに、総督嚮導(きょうどう)の志も果たし、いったん帰国した思いも届いたものだから、この上は今一度京都へ向かいたいとの意味のことをもらした。
「今の時は、一人でも多く王事に尽くすものを求めている。自分は今一度京都に出て、新政府の創業にあずかっている師鉄胤を助けたい。」
 このことを景蔵は自己の動作や表情で語って見せていた。皆と一緒に膳にむかって、箸(はし)を取りあげる手つきにも。お民が心づくしの手料理を味わう口つきにも。
 美濃衆の多くは帰りを急いでいた。昼食を終わると間もなく立ちかけるものもある。あわただしい人の動きの中で、半蔵は友人のそばへ寄って言った。
「景蔵さん、まあ中津川まで帰って行って見たまえ。よいものが君を待っていますから。あれは伊那の縫助さんの届けものです。あの人はわたしの家へも寄ってくれて、いろいろな京都の土産話(みやげばなし)を置いて行きました。」


 二日過ぎに、香蔵は伊那回りで馬籠まで引き返して来た。諏訪帰り十三人の美濃衆と同じように、陣笠(じんがさ)割羽織に立附(たっつけ)を着用し、帯刀までして、まだ総督を案内したままの服装(いでたち)も解かずにいる親しい友人を家に迎え入れることは、なんとはなしに半蔵をほほえませた。
「ようやく。ようやく。」
 その香蔵の声を聞いただけで、半蔵には美濃の大垣から信州下諏訪までの間の奔走を続けて来た友人の骨折りを察するに充分だった。
 何よりもまず半蔵は友人を店座敷の方へ通して、ものものしい立附(たっつけ)の紐(ひも)を解かせ、腰のものをとらせた。彼はお民と相談して、香蔵を家に引きとめることにした。くたびれて来た人のために、風呂(ふろ)の用意なぞもさせることにした。場合が場合でも、香蔵には気が置けない。そこで、お民までが夫の顔をながめながら、
「香蔵さんもあの服装(なり)じゃ窮屈でしょう。お風呂からお上がりになったら、あなたの着物でも出してあげましょうか。」
 こんな女らしい心づかいも半蔵をよろこばせた。
 香蔵は黒く日に焼けて来て、顔の色までめっきり丈夫そうに見える人だ。夕方から、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、お民にすすめられた着物の袖(そで)に手を通し、拝借という顔つきで半蔵の部屋に来てくつろいだ。
「相良惣三もえらいことになりましたよ。」
 と香蔵の方から言い出す。半蔵はそれを受けて、
「その話は景蔵さんからも聞きました。」
「われわれ一同で命乞いはして見たが、だめでしたね。あの伏見鳥羽(ふしみとば)の戦争が起こる前にさ、相良惣三の仲間が江戸の方であばれて来たことは、半蔵さんもそうくわしくは知りますまい。今度わたしは総督の執事なぞと一緒になって見て、はじめていろいろなことがわかりました。あの仲間には三つの内規があったと言います。幕府を佐(たす)けるもの。浪士を妨害するもの。唐物(とうぶつ)(洋品)の商法(あきない)をするもの。この三つの者は勤王攘夷の敵と認めて誅戮(ちゅうりく)を加える。ただし、私欲でもって人民の財産を強奪することは許さない。そういう内規があって、浪士数名が江戸金吹町(かなぶきちょう)の唐物店へ押しかけたと考えて見たまえ。前後の町木戸(まちきど)を閉(し)めて置いて、その唐物店で六連発の短銃を奪ったそうだ。それから君、幕府の用途方(ようどかた)で播磨屋(はりまや)という家へ押しかけた。そこの番頭を呼びつけて、新式な短銃を突きつけながら、貴様たちの頭には幕府しかあるまい、勤王の何物たるかを知るまい、もし貴様たちが前非を悔いるなら勤王の陣営へ軍資を献上しろ、そういうことを言ったそうだ。その時、子僧(こぞう)が二人(ふたり)で穴蔵の方へ案内して、浪士に渡した金が一万両の余ということさ。そういうやり方だ。」
「えらい話ですねえ。」
「なんでも、江戸三田(みた)の薩摩屋敷があの仲間の根拠地さ。あの屋敷じゃ、みんな追い追いと国の方へ引き揚げて行って、屋敷のものは二十人ぐらいしか残っていなかったそうです。浪士隊は三方に手を分けて、例の三つの内規を江戸付近にまで実行した上、その方に幕府方の目を奪って置いて、何か事をあげる計画があったとか。それはですね、江戸城に火を放つ、その隙(すき)に乗じて和宮(かずのみや)さまを救い出す、それが真意であったとか聞きました。あの仲間のことだ、それくらいのことはやりかねないね。そういうさかんな連中がわれわれの地方へ回って来たわけさ。川育ちは川で果てるとも言うじゃありませんか。今度はあの仲間が自分に復讐(ふくしゅう)を受けるようなことになりましたね。そりゃ不純なものもまじっていましたろう。しかし、ただ地方を攪乱(こうらん)するために、乱暴狼藉(ろうぜき)を働いたと見られては、あの仲間も浮かばれますまい。」
 こんな話が始まっているところへ、お民は夫の友人をねぎらい顔に、一本銚子(ちょうし)なぞをつけてそこへ持ち運んで来た。
「香蔵さん、なんにもありませんよ。」
「まあ、君、膝(ひざ)でもくずすさ。」
 夫婦してのもてなしに、香蔵も無礼講とやる。酒のさかなには山家の蕗(ふき)、それに到来物の蛤(はまぐり)の時雨煮(しぐれに)ぐらいであるが、そんなものでも簡素で清潔なのしめ膳(ぜん)の上を楽しくした。
「お民、香蔵さんは中津川へお帰りになるばかりじゃないよ。これからまた京都の方へお出かけになる人だよ。」
「それはおたいていじゃありません。」
 この夫婦のかわす言葉を香蔵は引き取って言った。
「ええ、たぶん景蔵さんと一緒に。わたしもまた京都の方へ行って、しばらく老先生(鉄胤のこと)のそばで暮らして来ます。」


「お民、香蔵さんともしばらくお別れだ。お酒をもう一本頼む。お母(っか)さんには内証だよ。」
 半蔵は自分で自分の耳たぶを無意識に引ッぱりながら、それを言った。その年になっても、まだ彼は継母の手前を憚(はばか)っていた。
「今夜は御幣餅(ごへいもち)でも焼いてあげたいなんて、台所で今したくしています。」とお民は言った。「まあ、香蔵さんもゆっくり召し上がってください。」
「そいつはありがたい。御幣餅とは、よいものをごちそうしてくださる。木曾の胡桃(くるみ)の香(かおり)は特別ですからね。」と香蔵もよろこぶ。
 半蔵は友人の方を見て、同門の人たちのうわさに移った。南条村の縫助が自分のところに置いて行った京都の話なぞをそこへ持ち出した。
「香蔵さん、君は京都のことはくわしい。今度はいろいろな便宜もありましょう。今度君が京都で暮らして見る一か月は、以前の三か月にも半年にも当たりましょう。何にしても、君や景蔵さんはうらやましい。」
「さあ、もう一度京都へ行って見たら、どんなふうに変わっていましょうかさ。」
「なんでも縫助さんの話じゃ、京都は今、復興の最中だというじゃありませんか。」
「伊那でもそれが大評判。一方には君、東征軍があの勢いでしょう。世の中の舞台も大きく回りかけて来ましたね。しかし、半蔵さん、われわれはお互いに平田先生の門人だ。ここは考うべき時ですね。」
「わたしもそれは思う。」
「見たまえ、舞台の役者というものは、芝居(しばい)全体のことよりも、それぞれの持ち役に一生懸命になり過ぎるようなところがあるね。熱心な役者ほど、そういうところがあるね。今度わたしは総督のお供をして見て、そのことを感じました。狂言作者が、君、諸侯の割拠を破るという筋を書いても、そうは役者の方で深く読んでくれない。」
「多勢の仕事となると、そういうものかねえ。」
「まあ、半蔵さん、わたしは京都の方へ出かけて行って、あの復興の都の中に身を置いて見ますよ。いろいろまた君のところへも書いてよこしますよ。関東の形勢がどんなに切迫したと言って見たところで、肝心の慶喜公がお辞儀をしてかかっているんですからね。佐幕派の運命も見えてますね。それよりも、わたしは兵庫(ひょうご)や大坂の開港開市ということの方が気にかかる。外国公使の参内も無事に済んだからって、それでよいわと言えるようなものじゃありますまい。こんな草創の際に、したくらしいしたくのできようもなしさ。先方は兵力を示しても条約の履行を迫って来るのに、それすらこの国のものは忍ばねばならない。辛抱、辛抱――われわれは子孫のためにも考えて、この際は大いに忍ばねばならない。ほんとうに国を開くも、開かないも、実にこれからです……」
「お客さま――へえ、御幣餅(ごへいもち)。」
 という子供の声がして、お粂(くめ)や宗太が母親と一緒に、皿(さら)に盛った山家の料理を囲炉裏ばたの方からそこへ運んで来た。
「さあ、どうぞ、冷(さ)めないうちに召し上がってください。」とお民は言って、やがて子供の方をかえり見ながら、「さっきから囲炉裏ばたじゃ大騒ぎなんですよ。吾家(うち)のお父(とっ)さんの着物をお客さまが着てるなんて、そんなことを言って――ほんとに、子供の時はおかしなものですね。」
 この「お父(とっ)さんの着物」が客をも主人をも笑わせた。その時、香蔵は手をもみながら、
「どれ、一つ頂戴(ちょうだい)して見ますか。」
 と言って、焼きたての御幣餅の一つをうまそうに頬(ほお)ばった。その名の御幣餅にふさわしく、こころもち平たく銭形(ぜにがた)に造って串(くし)ざしにしたのを、一ずつ横にくわえて串を抜くのも、土地のものの食い方である。こんがりとよい色に焼けた焼き餅に、胡桃(くるみ)の香に、客も主人もしばらく一切のことを忘れて食った。


 翌朝早く、香蔵は半蔵夫婦に礼を述べて、そこそこに帰りじたくをした。この友人の心は半分京都の方へ行っているようでもあった。別れぎわに、
「でも、半蔵さん。今は生きがいのある時ですね。」
 その言葉を残した。
 友人を送り出した後、半蔵は本陣の店座敷から奥の間へ通う廊下のところに出た。香蔵の帰って行く美濃の方の空はその位置から西に望まれる。彼は、同門の人たちの多くが師鉄胤の周囲に集まりつつあることを思い、一切のものが徳川旧幕府に対する新政府の大争いへと吸い取られて行く時代の大きな動きを思い、三道よりする東征軍の中には全く封建時代を葬ろうとするような激しい意気込みで従軍する同門の有志も多かるべきことを思いやって、ひとりでその静かな廊下をあちこち、あちこちと歩いた。
 古代復帰の夢はまた彼の胸に帰って来た。遠く山県大弐(やまがただいに)、竹内式部(たけのうちしきぶ)らの勤王論を先駆にして、真木和泉(まきいずみ)以来の実行に移った討幕の一大運動はもはやここまで発展して来た。一地方に起った下諏訪の悲劇なぞは、この大きな波の中にさらわれて行くような時だ。よりよき社会を求めるためには一切の中世的なものをも否定して、古代日本の民族性に見るような直(なお)さ、健やかさに今一度立ち帰りたいと願う全国幾千の平田門人らの夢は、当然この運動に結びつくべき運命のものであった、と彼には思われるのである。
 彼は周囲を見回した。過ぐる年の秋、幕府の外交奉行で大目付を兼ねた山口駿河(するが)(泉処)をこの馬籠本陣に泊めた時のことが、ふと彼の胸に浮かんだ。あの大目付が、京都から江戸への帰りに微行でやって来て、ひとりで彼の家の上段の間に隠れながら、あだかも徳川幕府もこれまでだと言ったように、暗い涙をのんで行った姿は、まだ彼には忘れられずにある。彼はあの幕臣が「条約の大争いも一段落を告げる時が来た」と言ったことを思い出した。「この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもあるまい」と言ったことをも思い出した。とうとう、その日がやって来たのだ。しかも、御親政の初めにあたり、この多難な時に際会して。
 明日(あす)――最も古くて、しかも最も新しい太陽は、その明日にどんな新しい古(いにしえ)を用意して、この国のものを待っていてくれるだろうとは、到底彼などが想像も及ばないことであった。そういう彼とても、平田門人の末に列(つら)なり、物学びするともがらの一人(ひとり)として、もっともっと学びたいと思う心はありながら、日ごろ思うことの万が一を果たしうるような静かな心の持てる時代でもなかった。信を第一とす、との心から、ただただ彼は人間を頼みにして、同門のものと手を引き合い、どうかして新政府を護(も)り立て、後進のためにここまで道をあけてくれた本居宣長(もとおりのりなが)らの足跡をその明日にもたどりたいと願った。

       五

 三月下旬には、東山道軍が木曾街道の終点ともいうべき板橋に達したとの報知(しらせ)の伝わるばかりでなく、江戸総攻撃の中止せられたことまで馬籠の宿場に伝わって来るようになった。すでに大政を奉還し、将軍職を辞し、広大な領地までそこへ投げ出してかかった徳川慶喜が江戸城に未練のあろうはずもない。いかに徳川家を疑い憎む反対者でも、当時局外中立の位置にある外国公使らまで認めないもののないこの江戸の主人の恭順に対して、それを攻めるという手はなかった。慶喜は捨てうるかぎりのものを捨てることによって、江戸の市民を救った。
 このことは、いろいろに取りざたせられた。もとより、その直接交渉の任に当たり、あるいは主なき江戸城内にとどまって諸官の進退と諸般の処置とを総裁し順々として条理を錯乱せしめなかったは、大久保一翁、勝安房(かつあわ)、山岡(やまおか)鉄太郎の諸氏である。しかし、幕府内でも最も強硬な主戦派の頭目として聞こえた小栗上野(おぐりこうずけ)の職を褫(は)いで謹慎を命じたほどの堅い決意が慶喜になかったとしたら。当時、「彼を殺せ」とは官軍の中に起こる声であったばかりでなく、江戸城内の味方のものからも起こった。慶喜の心事を知らない兵士らの多くは、その恭順をもってもっぱら京都に降(くだ)るの意であるとなし、怒気髪(はつ)を衝(つ)き、双眼には血涙をそそぎ、すすり泣いて、「慶喜斬(き)るべし、社稷(しゃしょく)立つべし」とまでいきまいた。もしその殺気に満ちた空気の中で、幾多の誤解と反対と悲憤との声を押し切ってまでも断乎(だんこ)として公武一和の素志を示すことが慶喜になかったとしたら、おそらく、慶喜がもっと内外の事情に暗い貴公子で、開港条約の履行を外国公使らから迫られた経験もなく、多額の金を注(つ)ぎ込んだ債権者としての位置からも日本の内乱を好まない諸外国の存在を意にも留めずに、後患がどうであろうが将来がなんとなろうがさらに頓着(とんちゃく)するところもなく、ひたすら徳川家として幕府を失うのが残念であるとの一点に心を奪われるような人であったなら、たとい勝安房や山岡鉄太郎や大久保一翁などの奔走尽力があったとしても、この解決は望めなかった。かつては参覲交代(さんきんこうたい)制度のような幕府にとって重要な政策を惜しげもなく投げ出した当時からの、あの弱いようで強い、時代の要求に敏感で、そして執着を持たない慶喜の性格を知るものにとっては――また、文久年度と慶応年度との二回にまでわたって幾多の改革に着手したその性格のあらわれを知るものにとっては、これは不思議でもなかったのである。不幸にも、徳川の家の子郎党の中にすら、この主人をよろこばないものがある。その不平は、多年慶喜を排斥しようとする旧(ふる)い幕臣の中からも起こり、かくのごとき未曾有(みぞう)の大変革はけだし天子を尊ぶの誠意から出たのではなくて全く薩摩(さつま)と長州との決議から出た事であろうと推測する輩(やから)の中からも起こり、逆賊の名を負わせられながらなんらの抵抗をも示すことなしに過去三百年の都会の誇りをむざむざ西の野蛮人らにふみにじられるとはいかにも残念千万であるとする諸陪臣の中からも起こった。
「神祖(東照宮)に対しても何の面目がある。」――その声はどんな形をとって、どこに飛び出すかもしれなかった。江戸の空は薄暗く、重い空気は八十三里の余もへだたった馬籠あたりの街道筋にまでおおいかぶさって来た。
 諸大名の家中衆で江戸表にあったものの中には、早くも屋敷を引き揚げはじめたとの報もある。江戸城明け渡しの大詰めも近づきつつあったのだ。開城準備の交渉も進められているという時だ。それらの家中衆の前には、およそ四つの道があったと言わるる。脱走の道、帰農商の道、移住の道、それから王臣となるの道がそれだ。周囲の事情は今までどおりのような江戸の屋敷住居(やしきずまい)を許さなくなったのだ。
 将軍家直属の家の子、郎党となると、さらにはなはだしい。それらの旗本方は、いずれも家政を改革し、費用を省略して、生活の道を立てる必要に迫られて来た。連年海陸軍の兵備を充実するために莫大(ばくだい)な入り用をかけて来た旧幕府では、彼らが知行(ちぎょう)の半高を前年中借り上げるほどの苦境にあったからで。彼ら旗本方はほとんどその俸禄(ほうろく)にも離れてしまった。慶喜が彼らに示した書面の中には、実に今日に至ったというのも皆自分一身の過(あやま)ちより起こったことである。自分は深く恥じ深く悲しむ、ついては生計のために暇(いとま)を乞いたい者は自分においてそれをするには忍びないけれども、その志すところに任せるであろう、との意味のことが諭(さと)してあったともいう。
 もはや、江戸屋敷方の避難者は在国をさして、追い追いと東海道方面にも入り込むとのうわさがある。この薄暗い街道の空気の中で、どんなにか昔気質(むかしかたぎ)の父も心を傷(いた)めているだろう。そのことが半蔵をハラハラさせた。幾たびか彼に家出を思いとまらせ、庄屋のつとめを耐(こら)えさせ、友人の景蔵や香蔵のあとを追わせないで、百姓相手に地方(じかた)を守る心に立ち帰らせるのも、一つはこの年老いた父である。
 昼過ぎから、ちょっと裏の隠居所をのぞきに行こうとする前に、半蔵は本陣の母屋(もや)から表門の外に走り出て見た。
「村のものは。」
 だれに言うともなく、彼はそれを言って見た。旧幕府時代の高札でこれまでの分は一切取り除(の)けられ、新しい時代の来たことを辺鄙(へんぴ)な地方にまで告げるような太政官(だじょうかん)の定三札(じょうさんさつ)は、宿場の中央に改めて掲示されてある。彼は自分の家の門前の位置から、その高札場のあるあたりを坂になった町の上の方に望むこともでき、住み慣れた街道の両側に並ぶ石を載せた板屋根を下の方に見おろすこともできる。
 こんな山里にまで及んで来る時局の影響も争われなかった。毎年桃から山桜へと急ぐよい季節を迎えるころには、にわかに人の往来も多く、木曾福島からの役人衆もきまりで街道を上って来るが、その年の春にかぎってまだ宿場継立(つぎた)てのことなぞの世話を焼きに来る役人衆の影もない。東山道軍通過以来の山村氏の代官所は測りがたい沈黙を守って、木曾谷に声を潜めた原生林そのままの沈まり方である。わずかに尾張藩(おわりはん)の山奉行が村民らの背伐(せぎ)りを監視するため、奥筋から順に村々を回って来たに過ぎなかった。
 この宿場では、つい二日ほど前に、中津川泊まりで西から進んで来る二百人ばかりの尾州兵の太鼓の音を聞いた。およそ三組から成る同勢の高旗をも望んだ。それらの一隊が、越後(えちご)方面を警戒する必要ありとして、まず松本辺をさして通り過ぎて行った後には、なんとなくゆききの人の足音も落ち着かない。飛脚荷物を持って来るものの名古屋便(だよ)りまでが気にかかって、半蔵はしばらくその門前に立ってながめた。午後の日の光は街道に満ちている時で、諸勘定を兼ねて隣の国から登って来る中津の客、呉服物の大きな風呂敷(ふろしき)を背負った旅商人(たびあきんど)、その他、宿から宿への本馬(ほんま)何ほど、軽尻(からじり)何ほど、人足何ほどと言った当時の道中記を懐(ふところ)にした諸国の旅行者が、彼の前を往(い)ったり来たりしていた。


 まず街道にも異状がない。そのことに、半蔵はやや心を安んじて、やがて自分の屋敷内にある母屋(もや)と新屋の間の細道づたいに、裏の隠居所の方へ行った。階下を味噌(みそ)や漬(つ)け物の納屋(なや)に当ててあるのは祖父半六が隠居時代からで、別に二階の方へ通う入り口もそこに造りつけてある。雪隠(せっちん)通(がよ)いに梯子段(はしごだん)を登ったり降りたりしないでも、用をたせるだけの設けもある。そこは筆者不明の大書を張りつけた古風な押入れの唐紙(からかみ)から、西南に明るい障子をめぐらした部屋(へや)の間取りまで、父が祖父の意匠をそっくり崩(くず)さずに置いてあるところだ。代を跡目相続の半蔵に譲り、庄屋本陣問屋の三役を退いてからの父が連れ添うおまんを相手に、晩年を暮らしているところだ。
 そういう吉左衛門は、もはや一日の半ばを床の上に送る人である。その床の上に七十年の生涯(しょうがい)を思い出して、自己(おのれ)の黄昏時(たそがれどき)をながめているような人である。ちょうど半蔵が二階に上がって来て見た時は、父は眠っていた。
「お休みですか。」
 と言いながら、半蔵は父の寝顔をのぞきに行った。その時、継母のおまんが次ぎの部屋から声をかけた。
「これ、お父(とっ)さんを起こさないでおくれ。」
 大きな鼻、静かな口、長く延びた眉毛(まゆげ)、見慣れた半蔵の目には父の顔の形がそれほど変わったとも映らなかった。両手の置き場所から、足の重ね方まで考えるようになったと、よくその話の出る父は右を下にして昼寝の枕(まくら)についている。かすかないびきの声も聞こえる。半蔵はその鼻息を聞きすまして置いて、おまんのいる次ぎの部屋へ退いた。
「半蔵、江戸も大変だそうだねえ。」とおまんは言った。「さっきも、わたしがお父(とっ)さんに、そうあなたのように心配するからいけない、世の中のことは半蔵に任せてお置きなさるがいい、そう言ってあげても、お父さんは黙っておいでさ。そこへ、お前、上の伏見屋の金兵衛(きんべえ)さんだろう。あの人の話はまた、こまかいと来てる。わたしはそばできいていても、気が気じゃない。いくら旧(ふる)いお友だちでも、いいかげんに切り揚げて行ってくれればいい。そう思うとひとりでハラハラして、またこないだのようにお父さんが疲れなけりゃいいが、そればかり心配さ。金兵衛さんが帰って行ったあとで、お父さんが何を言い出すかと思ったら、おれはもうこんな時が早く通り過ぎて行ってくれればいい、早く通り過ぎて行ってくれればいいと、そればかり願っているとさ……」
 隣室の吉左衛門は容易に目をさまさない。めずらしくその裏二階に迎えたという老友金兵衛との長話に疲れたかして、静かな眠りを眠りつづけている。
 その時、母屋の方から用事ありげに半蔵をさがしに来たものもある。いろいろな村方の雑用はあとからあとからと半蔵の身辺に集まって来ていた時だ。彼はまた父を見に来ることにして、懐(ふところ)にした書付を継母の前に取り出した。それは彼が父に読みきかせたいと思って持って来たもので、京都方面の飛脚便(だよ)りの中でも、わりかた信用の置ける聞書(ききがき)だった。当時ほど流言のおびただしくこの街道に伝わって来る時もなかった。たとえば、今度いよいよ御親征を仰せ出され、大坂まで行幸のあるということを誤り伝えて、その月の上旬に上方(かみがた)には騒動が起こったとか、新帝が比叡山(ひえいざん)へ行幸の途中鳳輦(ほうれん)を奪い奉ったものがあらわれたとかの類(たぐい)だ。種々の妄説(もうせつ)はほとんど世間の人を迷わすものばかりであったからで。
「お母(っか)さん、これもあとでお父(とっ)さんに見せてください。」
 と半蔵が言って、おまんの前に置いて見せたは、東征軍が江戸城に達する前日を期して、全国の人民に告げた新帝の言葉で、今日の急務、永世の基礎、この他にあるべからずと記(しる)し添えてあるものの写しだ。それは新帝が人民に誓われた五つの言葉より成る。万機公論に決せよ、上下心を一にせよ、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよ、旧来の陋習(ろうしゅう)を破って天地の公道に基づけ、知識を世界に求め大いに皇基を振起せよ、とある。それこそ、万民のために書かれたものだ。

       六

 四月の中旬まで待つうちに、半蔵は江戸表からの飛脚便(だよ)りを受け取って、いよいよ江戸城の明け渡しが事実となったことを知った。
 さらに彼は月の末まで待った。昨日は将軍家が江戸東叡山(とうえいざん)の寛永寺を出て二百人ばかりの従臣と共に水戸(みと)の方へ落ちて行かれたとか、今日は四千人からの江戸屋敷の脱走者が武器食糧を携えて両総方面にも野州(やしゅう)方面にも集合しつつあるとか、そんな飛報が伝わって来るたびに、彼の周囲にある宿役人から小前(こまえ)のものまで仕事もろくろく手につかない。箒星(ほうきぼし)一つ空にあらわれても、すぐそれを何かの前兆に結びつけるような村民を相手に、ただただ彼は心配をわかつのほかなかった。
 でも、そのころになると、この宿場を通り過ぎて行った東山道軍の消息ばかりでなく、長州、薩州、紀州、藤堂(とうどう)、備前(びぜん)、土佐諸藩と共に東海道軍に参加した尾州藩の動きを知ることはできたのである。尾州の御隠居父子を木曾の大領主と仰ぐ半蔵らにとっては、同藩の動きはことに凝視の的(まと)であった。偶然にも、彼は尾州藩の磅□隊(ほうはくたい)その他と共に江戸まで行ったという従軍医が覚え書きの写しを手に入れた。名古屋の医者の手になった見聞録ともいうべきものだ。
 とりあえず、彼はその覚え書きにざっと目を通し、筆者の付属する一行が大総督の宮の御守衛として名古屋をたったのは二月の二十六日であったことから、先発の藩隊長富永孫太夫(とみながまごだゆう)をはじめ総軍勢およそ七百八十余人の尾州兵と駿府(すんぷ)で一緒になったことなぞを知った。さらに、彼はむさぼるように繰り返し読んで見た。
 その中に、徳川玄同(とくがわげんどう)の名が出て来た。玄同が慶喜を救おうとして駿府へと急いだ記事が出て来た。「玄同さま」と言えば、半蔵父子にも親しみのある以前の尾州公の名である。御隠居と意見の合わないところから、越前(えちぜん)公の肝煎(きもい)りで、当時一橋家(ひとつばしけ)を嗣(つ)いでいる人である。ずっと以前にこの旧藩主が生麦(なまむぎ)償金事件の報告を携えて、江戸から木曾路を通行されたおりのことは、まだ半蔵の記憶に新しい。あのおりに、二千人からの人足が尾張領分の村々から旧藩主を迎えに来て、馬籠の宿場にあふれた往時のことも忘れられずにある。尾州藩ではこの人を起こし、二名の藩の重職まで同行させ、慶喜の心事が誤り伝えられていることを訴えて、大総督の宮を深く動かすところがあったと書いてある。
 その中にはまた、容易ならぬ記事も出て来た。小田原(おだわら)から神奈川(かながわ)の宿まで動いた時の東海道軍の前には、横浜居留民を保護するために各国連合で組織した警備兵があらわれたとある。外人はいろいろな難題を申し出た。これまで徳川氏とは和親を結んだ国の事ゆえ、罪あって征討するなら、まず各国へその理由を告げてしかるべきに、さらに何の沙汰(さた)もない。かつ、交易場の辺を兵隊が通行して戦争にも及ぶことがあるなら、前もって各国へ布告もあるべきに、その沙汰もない。そういうことを申し立てて一本突ッ込んで来た外人らの多くは江戸開市を前に控えて、早く秩序の回復を希望するものばかりだ。神戸三宮(こうべさんのみや)事件に、堺旭茶屋(さかいあさひぢゃや)事件に、潜んだ攘夷熱はまだ消えうせない。各国公使のうちには京都の遭難から危うく逃げ帰ったばかりのものもある。外人らは江戸攻撃の余波が、横浜居留地に及ぶことを恐れて、容易に東海道軍の神奈川通過を肯(がえん)じない。ついには、外国軍艦の陸戦隊が上陸を見るまでになった。これには総督府も御心配、薩州らも当惑したとある。その筆者に言わせるとすでに、万国交際の道を開いた新政府側としては、東征軍の行動に関しても、外人らの意見を全く無視するわけには行かなかった。江戸攻撃を開始して、あたりを兵乱の巷(ちまた)と化し、無辜(むこ)の民を死傷させ、城地を灰燼(かいじん)に帰するには忍びないのみか、その災禍が外人に及んだら、どんな国難をかもさないものでもないとは、大総督府の参謀においても深く考慮されたことであろうと書いてある。
 こんな外国交渉に手間取れて、東海道軍は容易に品川(しながわ)へはいれなかった。その時は東山道軍はすでに板橋から四谷新宿(よつやしんじゅく)へと進み、さらに市(いち)ヶ谷(や)の尾州屋敷に移り、あるいは土手を切り崩(くず)し、あるいは堤を築き、八、九門の大砲を備えて、事が起こらば直ちに邸内から江戸城を砲撃する手はずを定めていた。意外にも、東海道軍の遅着は東山道軍のために誤解され、ことに甲州、上野両道で戦い勝って来た鼻息の荒さから、総攻撃の中止に傾いた東海道軍の態度は万事因循で、かつ手ぬるく実に切歯(せっし)に堪(た)えないとされた。東海道軍はまた東海道軍で、この友軍の態度を好戦的であるとなし、甲州での戦さのことなぞを悪(あ)しざまに言うものも出て来た。ここに両道総督の間に自然と軋(へだた)りを生ずるようにもなったとある。
「フーン。」
 半蔵はそれを読みかけて、思わずうなった。


 これは父にも読み聞かせたいものだ。その考えから半蔵は尾州の従軍医が書き留めたものの写しをふところに入れて午後からまた裏二階の方へ父を見に行った。
「もう藤(ふじ)の花も咲くようになったか。」
 吉左衛門はそれをおまんにも半蔵にも言って見せて、例の床の上にすわり直していた。将軍家の没落もいよいよ事実となってあらわれて来たころは、この山家ではもはや小草山の口明けの季節を迎えていた。
「半蔵、江戸のお城はこの十一日に明け渡しになったのかい。」とまた吉左衛門が言った。
「そうですよ。」と半蔵は答える。「なんでも、東征軍が江戸へはいったのは先月の下旬ですから、ちょうどさくらのまっ盛りのころだったと言いますよ。屋敷屋敷へは兵隊が入り込む、落ちた花の上へは大砲をひき込む――殺風景なものでしたろうね。」
「まあ、おれのような昔者にはなんとも言って見ようもない。」
 その時、半蔵はふところにして行った覚え書きを取り出した。江戸開城に関する部分なぞを父の枕(まくら)もとで読み聞かせた。大城を請け取る役目も薩摩(さつま)や長州でなくて、将軍家に縁故の深い尾州であったということも、父の耳をそばだてさせた。
 その中には、開城の前夜に芝(しば)増上寺(ぞうじょうじ)山内の大総督府参謀西郷氏の宿陣で種々(さまざま)な軍議のあったことも出て来た。城を請け取る刻限も、翌日の早朝五ツ時と定められた。万一朝廷の命令に抵抗するものがあるなら討(う)ち取るはずで、諸藩の兵隊はその時刻前に西丸の城下に整列することになった。いよいよその朝が来た。錦旗(きんき)を奉じた尾州兵が大手外へ進んだ時は、徳川家の旧旗下(はたもと)の臣は各礼服着用で、門外まで出迎えたとある。域内にある野戦砲の多くはすでに取り出されたあとで、攻城砲、軽砲の類(たぐい)のみがそこここに据(す)え置かれてあったが、それでも百余の大砲を数えたという。旧旗下の臣も退城し、諸藩の兵隊も帰陣して、尾州兵が城内へ繰り込んだ。そして、それぞれ警備の役目についた。実に慶応四年四月十一日の朝だ。江戸八百八町(はっぴゃくやちょう)を支配するようにそびえ立っていた幕府大城はその時に最後の幕を閉じたともある。
「お父(とっ)さん、ここに神谷(かみや)八郎右衛門とありますよ。ホ、この人は外桜田門の警衛だ。」
「名古屋の神谷八郎右衛門さまと言えば、おれもお目にかかったことがある。」
「西丸の大手から、神田橋(かんだばし)、馬場先(ばばさき)、和田倉門(わだくらもん)、それから坂下二重門内の百人番所まで、要所要所は尾州の兵隊で堅めたとありますね。」
「つまり、江戸城は尾州藩のお預かりということになったのだね。」
「待ってください。ここに静寛院(せいかんいん)さまと、天璋院(てんしょういん)さまのことも出ています。この静寛院さまとは、和宮(かずのみや)さまのことです。お二人(ふたり)とも最後まで江戸城にお残りになったとありますよ。」
「へえ、そうあるかい。」とおまんがそれを引き取って、「お二人とも苦しい立場さね。そりゃ、お前、和宮さまは京都から御輿入(おこしい)れになったし、天璋院さまは薩摩からいらしったかただから。」
「まあ、待ってください。天璋院さまには、こんな話もありますね。以前、十四代将軍のところへ、和宮さまをお迎えになって、言わばお姑(しゅうと)さまとして、初めて京都方と御対面の時だったと覚えています。そこは天璋院さまです、すぐに自分の席には着かない。まず多数の侍女の中にまじっていて、京都方の様子をとくと見定めたと言いますね。それから、たち上がって、いきなり自分の方が上座に着いたとも言いますね。こうすっくと侍女の中からたち上がったところは、いかにもその人らしい。あの話は今だに忘れられません。ごらんなさい、天璋院さまはそういう人でしょう。今度、城を明け渡すについては、和宮さまは田安(たやす)の方へお移りになるから、あなたは一橋家の方へお移りなさいと言われても、容易に天璋院さまは動かなかったとありますね。それを無理にお連れ申したようなことが、この覚え書きの中にも出ていますよ。」
「あわれな話だねえ。」と吉左衛門はそれを聞いたあとで言った。


「まあ、お話に気を取られて、わたしはまだお茶も入れてあげなかった。」
 おまんは次ぎの部屋(へや)の方へ立って行って、小屏風(こびょうぶ)のわきに茶道具なぞ取り出す音をさせた。
「半蔵、」と吉左衛門は床の上に静坐(せいざ)しながら話しつづけた。「この先、江戸もどうなろう。」
「さあ、それがです。京都の方ではもう遷都論が起こってるという話ですよ。香蔵さんからはそんな手紙でした。あの人も今じゃ京都の方ですからね。」
「どうも、えらいことを聞かされるぞ。この御一新はどこまで及んで行くのか、見当もつかない。」
「そりゃ、お父(とっ)さん――どうせやるなら、そこまで思い切ってやれという論のようです。」
 こんな言葉をかわしているところへ、おまんは隣家の伏見屋からもらい受けたという新茶を入れて来た。時節がらの新茶は香(かおり)は高くとも、年老いた人のためには灰汁(あく)が強すぎる。彼女はそれに古茶をすこし混ぜ入れて来たと言って見せるほど、注意深くもあった。
「あなた、横におなりなすったら。」とおまんは夫の方を見て言った。「そうすわってばかりじゃ、お疲れでしょうに。」
「そうさな。それじゃ、寝て話すか。」
 吉左衛門とおまんとはもはやよい茶のみ友だちである。この父はおまんが勧めて出した湯のみを枕(まくら)もとに引きよせ、日ごろ愛用する厚手な陶器の手ざわりを楽しみながら、年をとってますます好きになったという茶のにおいをさもうまそうにかいだ。半蔵をそばに置いて、青山家の昔話までそこへ持ち出すのもこの父である。自分ごときですら、将軍家の没落を聞いては目もくらむばかりであるのに、実際に大きなものが眼前に倒れて行くのを見る人はどんなであろう、そんな述懐が老い衰えた父の口からもれて来た。武家全盛の往時しか知らないで、代々本陣、問屋、庄屋の三役を勤めて来た祖父たちの方がむしろ幸福であったのか、かくも驚くべき激変の時代にめぐりあって、一世に二世を経験し、一身に二身を経験するような自分ごときが幸福であるのか。そんな話が出た。
「そう言えば、半蔵、こないだ金兵衛さんが見舞いに来てくれた時に、おれはあの老友と二人で新政府のお勝手向きのことを話し合ったよ。これだけの兵隊を動かすだけでも、莫大(ばくだい)な費用だろう。金兵衛さんは、お前、あのとおり町人気質(かたぎ)の人だから、いったい今度の戦費はどこから出るなんて、言い出した。そりゃ各藩から出るにきまってます、そうおれが答えたら、あの金兵衛さんは声を低くして、各藩からは無論だが、そのほかに京大坂の町人たちが御用達(ごようだて)のことを聞いたかと言うのさ。百何十万両の調達を引き受けた大きな町家もあるという話だぜ。そんな大金の調達を申し付けるかわりには、新政府でそれ相応な待遇を与えなけりゃなるまい。こりゃおれたちの時代に藩から苗字(みょうじ)帯刀を許したぐらいのことじゃ済むまいぞ。王政御一新はありがたいが、飛んだところに禍(わざわ)いの根が残らねばいいが。金兵衛さんが帰って行ったあとで、おれはひとりでそのうわささ。」
 そんな話も出た。
「金兵衛さんで思い出した。」と吉左衛門は枕もとの煙草盆(たばこぼん)を引きよせて、一服やりながら、「おれなぞはもう日暮れ道遠しだ。そこへ行くと、あの伏見屋の隠居はよくそれでもあんなにからだが続くと思うよ。年はおれより二つも上だが、あの人にはまだかんかん日があたってる。」
「かんかん日があたってるはようござんした。」とおまんも軽く笑って、「あれで金兵衛さんも、大事な子息(むすこ)さん(鶴松(つるまつ))は見送るし、この正月にはお玉さん(後妻)のお葬式まで出して、よっぽどがっかりなさるかと思いましたが――」
「どうして、あの年になって、馬の七夜の祝いにでも招(よ)ばれて行こうという人だ。おれはあの金兵衛さんが、古屋敷の洞(ほら)へ百二十本も杉苗(すぎなえ)を植えたことを知ってる――世の中建て直しのこの大騒ぎの中でだぜ。あれほどのさかんな物欲は、おれにはないナ。おれなぞはお前、できるだけ静かにこの世の旅を歩きつづけて来たようなものさ。おれは、あの徳川様の代に仕上がったものがだんだんに消えて行くのを見た。おれも、もう長いことはあるまい……よくそれでも本陣、問屋、庄屋を勤めあげた。そうあの半六親爺(おやじ)が草葉の陰で言って、このおれを待っていてくれるような気がする……」
「そんな、お父(とっ)さんのような心細いことを言うからいけない。」
「いや、半蔵には御嶽(おんたけ)の参籠(さんろう)までしてもらったがね、おれの寿命が今年(ことし)の七十歳で尽きるということは、ある人相見から言われたことがあるよ。」
「ごらんな、半蔵。お父さんはすぐあれだもの。」
 裏二階では、こんな話が尽きなかった。


 何から何まで動いて来た。過ぐる年の幕府が参覲交代制度を廃した当時には動かなかったほどの諸大名の家族ですら、住み慣れた江戸の方の屋敷をあとに見捨てて、今はあわただしく帰国の旅に上って来るようになった。
「お屋敷方のお通りですよ。」
 と呼ぶお粂(くめ)や宗太の声でも聞きつけると、半蔵は裏二階なぞに話し込んでいられない。会所に集まる年寄役の伊之助や問屋九郎兵衛なぞを助けて、人足や馬の世話から休泊の世話まで、それらのめんどうを見ねばならない。
 東海道回りの混雑を恐れるかして、この木曾街道方面を選んで帰国する屋敷方には、どこの女中方とか、あるいは御隠居とかの人たちの通行を毎日のように見かける。
「国もとへ。国もとへ。」
 その声は、過ぐる年に外様(とざま)諸大名の家族が揚げて行ったような解放の歓呼ではない。現にこの街道を踏んで来る屋敷方は、むしろその正反対で、なるべくは江戸に踏みとどまり、宗家の成り行きをも知りたく、今日の急に臨んでその先途も見届けたく、かつは疾病死亡を相訪(あいと)い相救いたい意味からも親近の間柄にある支族なぞとは離れがたく思って、躊躇(ちゅうちょ)に躊躇したあげく、太政官(だじょうかん)からの御達(おたっ)しや総督府参謀からの催促にやむなく屋敷を引き払って来たという人たちばかりである。
 将軍家の居城を中心に、大きな市街の六分通りを武家で占領していたような江戸は、もはや終わりを告げつつあった。この際、徳川の親藩なぞで至急に江戸を引き払わないものは、違勅の罪に問われるであろう。兵威をも示されるであろう。その御沙汰(ごさた)があるほど、総督府参謀の威厳は犯しがたくもあったという。西の在国をさして馬籠の宿場を通り過ぎる屋敷方の中には、紀州屋敷のうわさなどを残して行くものもある。そのうわさによると、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷から、小屋敷その他まで、江戸の市中に散在する紀州屋敷だけでも大小およそ六百戸の余もある。奥向きの女中を加えると、上下の男女四千余人を数える。この大人数が、三百年来住み慣れた墳墓の地を捨て、百五十里もある南の国へ引き揚げよと命ぜられても、わずか四、五日の間でそんな大移住が行ないうるものか、どうかと。半蔵らの目にあるものは、徳川氏と運命を共にする屋敷方の離散して行く光景を語らないものはない。茶摘みだ烙炉(ほいろ)だ筵(むしろ)だと騒いでいる木曾の季節の中で、男女の移住者の通行が続きに続いた。


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     第五章

       一

 五月中旬から六月上旬へかけて、半蔵は峠村の組頭(くみがしら)平兵衛(へいべえ)を供に連れ、名古屋より伊勢(いせ)、京都への旅に出た。かねて旧師宮川寛斎(みやがわかんさい)が伊勢宇治(うじ)の館太夫方(かんだゆうかた)の長屋で客死したとの通知を受けていたので、その墓参を兼ねての思い立ちであった。どうやら彼はこの旅を果たし、供の平兵衛と共に馬籠(まごめ)の宿をさして、西から木曾街道(きそかいどう)を帰って来る途中にある。
 留守中のことも案じられて、二人(ふたり)とも帰りを急いでいた。大津、草津を経て、京から下って来て見ると、思いがけない郷里の方のうわさがその途中で半蔵らの耳にはいった。京からの下りも加納の宿あたりまでは登り坂の多いところで、半蔵らがそんな話を耳にしたのは美濃路(みのじ)にはいってからであるが、その道を帰って来るころは、うわさのある中津川辺へはまだかなりの距離があり、真偽のほどすら判然とはしなかった。
 鵜沼(うぬま)まで帰って来て見た。新政府の趣意もまだよく民間に徹しないかして、だれが言い触らすとも知れないような種々(さまざま)な流言は街道に伝わって来る時である。どうして、あの例幣使なぞが横行したり武家衆がいばったりして人民を苦しめぬいた旧時代にすら、ついぞ百姓一揆(いっき)のあったといううわさを聞いたこともない尾州領内で、しかも世の中建て直しのまっ最中に、日ごろ半蔵の頼みにする百姓らが中津川辺を騒がしたとは、彼には信じられもしなかった。まして、彼の世話する馬籠あたりのものまでが、その一揆の中へ巻き込まれて行ったなぞとは、なおなお信じられもしなかった。


 しかし、郷里の方へ近づいて行けば行くほど、いろいろと半蔵には心にかかって来た。道中して見てもわかるように、地方の動揺もはなはだしい時だ。たとえば、馬の背や人足の力をかりて旅の助けとするとしても、従来の習慣(ならわし)によれば本馬(ほんま)三十六貫目、乗掛下(のりかけした)十貫目より十八貫目、軽尻(からじり)あふ付三貫目より八貫目、人足荷五貫目である。これは当時道中するもののだれもが心得ねばならない荷物貫目の掟(おきて)である。本駄賃(だちん)とはこの本馬(駄荷)に支払うべき賃銭のことで、それを二つ合わせて三つに割ればすなわち軽尻駄賃となる。言って見れば、本駄賃百文の時、二つ合わせれば二百文で、それを三つに割ったものが軽尻駄賃の六十四文となる。人足はまた、この本駄賃の半分にあたる。これらの駄賃が支払われる場合に、今までどおりの貨幣でなくてそれにかわる金札で渡されたとしても、もし一両の札が実際は二分にしか通用しないとしたら。
 その年、慶応四年は、閏(うるう)四月あたりから不順な時候が続き、五月にはいってからもしきりに雨が来た。この旅の間、半蔵は名古屋から伊勢路(いせじ)へかけてほとんど毎日のように降られ続け、わずかに旧師寛斎の墓前にぬかずいた日のみよい天気を迎えたぐらいのものであった。別号を春秋花園とも言い、国学というものに初めて半蔵の目をあけてくれたあの旧師も、今は宇治の今北山(いまきたやま)に眠る故人だ。伊勢での寛斎老人は林崎文庫(はやしざきぶんこ)の学頭として和漢の学を講義し、かたわら医業を勤め、さみしい晩年の日を送ったという。半蔵は旅先ながらに土地の人たちの依頼を断わりかね、旧師のために略歴をしるした碑文までもえらんで置いて、「慶応戊辰(ぼしん)の初夏、来たりてその墓を拝す」と書き残して来た。そんな話を持って、先輩暮田正香(くれたまさか)から、友人の香蔵や景蔵まで集まっている京都の方へ訪(たず)ねて行って見ると、そこでもまた雨だ。定めない日和(ひより)が続いた。かねて京都を見うる日もあらばと、夢にも忘れなかったあの古い都の地を踏み、中津川から出ている友人らの仮寓(かぐう)にたどり着いて、そこに草鞋(わらじ)の紐(ひも)をといた時。うわさのあった復興最中の都会の空気の中に身を置いて見て、案内顔な香蔵や景蔵と共に連れだちながら、平田家のある錦小路(にしきこうじ)まで歩いた時。平田鉄胤(かねたね)老先生、その子息(むすこ)さんの延胤(のぶたね)、いずれも無事で彼をよろこび迎えてくれたばかりでなく、宿へ戻(もど)って気の置けないものばかりになると、先師篤胤(あつたね)没後以来の話に花の咲いた時。そこへ暮田正香でも顔を見せると、先輩は伊那(いな)の長い流浪(るろう)時代よりもずっと若返って見えるほどの元気さで、この王政の復古は同時に一切の中世的なものを否定することであらねばならない、それには過去数百年にわたる武家と僧侶(そうりょ)との二つの大きな勢力をくつがえすことであらねばならないと言って、宗教改革の必要にまで話を持って行かなければあの正香が承知しなかった時。そういう再会のよろこびの中でも、彼が旅の耳に聞きつけるものは、降り続く長雨の音であった。
 京都を立って帰路につくころから、ようやく彼は六月らしい日のめを見たが、今度は諸方に出水(でみず)のうわさだ。淀川(よどがわ)筋では難場(なんば)が多く、水損(みずそん)じの個処さえ少なくないと言い、東海道辺では天龍川(てんりゅうがわ)の堤が切れて、浜松あたりの町家は七十軒も押し流されたとのうわさもある。彼が江州(ごうしゅう)の草津辺を帰るころは、そこにも満水の湖を見て来た。
 郷里の方もどうあろう。その懸念(けねん)が先に立って、過ぐる慶応三年は白粥(しらかゆ)までたいて村民に振る舞ったほどの凶年であったことなぞが、旅の行く先に思い出された。


 時はあだかも徳川将軍の処分について諸侯貢士(こうし)の意見を徴せられたという後のころにあたる。薩長(さっちょう)人士の中には慶喜を殺せとの意見を抱(いだ)くものも少なくないので、このことはいろいろな意味で当時の人の心に深い刺激をあたえた。遠く猪苗代(いなわしろ)の湖を渡り、何百里の道を往復し、多年慶喜の背後(うしろ)にあって京都の守護をもって自ら任じた会津(あいづ)武士が、その正反対を西の諸藩に見いだしたのも決して偶然ではなかった。伏見鳥羽(ふしみとば)の戦さに敗れた彼らは仙台藩(せんだいはん)等と共に上書して、逆賊の名を負い家屋敷を毀(こぼ)たれるのいわれなきことを弁疏(べんそ)し、退いてその郷土を死守するような道をたどり始めていた。強大な東北諸侯の同盟が形造られて行ったのもこの際である。
 こんな東北の形勢は尾州藩の活動を促して、旧江戸城の保護、関東方面への出兵などばかりでなく、越後口(えちごぐち)への進発ともなった。半蔵は名古屋まで行ってそれらの事情を胸にまとめることができた。武装解除を肯(がえん)じない江戸屋敷方の脱走者の群れが上野東叡山にたてこもって官軍と戦ったことを聞いたのも、百八十余人の彰義隊(しょうぎたい)の戦士、輪王寺(りんのうじ)の宮(みや)が会津方面への脱走なぞを聞いたのも、やはり名古屋まで行った時であった。さらに京都まで行って見ると、そこではもはや奥羽(おうう)征討のうわさで持ち切っていた。
 新政府が財政困難の声も高い。こんな東征軍を動かすほどの莫大(ばくだい)な戦費を支弁するためからも、新政府の金札(新紙幣)が十円から一朱までの五種として発行されたのは、半蔵がこの旅に出てからのことであった。ところが今日の急に応じてひそかに武器を売り込んでいる外国政府の代理人、もしくは外国商人などの受け取ろうとするものは、日本の正金である。内地の人民、ことに商人は太政官の準備を危ぶんで新しい金札をよろこばない。これは幕府時代からの正銀の使用に慣らされて来たためでもある。それかあらぬか、新紙幣の適用が仰せ出されると間もなく、半蔵は行く先の商人から諸物価のにわかな騰貴を知らされた。昨日は一駄(だ)の代金二両二分の米が今日の値段は三両二分の高値にも引き上げたという。小売り一升の米の代が急に四百二十四文もする。会津の方の戦争に、こんな物価の暴騰に、おまけに天候の不順だ。いろいろと起こって来た事情は旅をも困難にした。

       二

 京都から大湫(おおくて)まで、半蔵らはすでに四十五里ほどの道を歩いた。大湫は伊勢参宮または名古屋への別れ道に当たる鄙(ひな)びた宿場で、その小駅から東は美濃(みの)らしい盆地へと降りて行くばかりだ。三里半の十三峠を越せば大井の宿へ出られる。大井から中津川までは二里半しかない。
 百三十日あまり前に東山道軍の先鋒隊(せんぽうたい)や総督御本陣なぞが錦(にしき)の御旗(みはた)を奉じて動いて行ったのも、その道だ。畠(はたけ)の麦は熟し、田植えもすでに終わりかけるころで、行く先の立場(たてば)は青葉に包まれ、草も木も共に六月の生気を呼吸していた。長雨あげくの道中となれば、めっきり強い日があたって来て、半蔵も平兵衛も路傍の桃の葉や柿(かき)の葉のかげで汗をふくほど暑い。
「でも、半蔵さま、歩きましたなあ。なんだかおれはもうよっぽど長いこと家を留守にしたような気がする。」
「馬籠(まごめ)の方でも、みんなどうしているかさ。」
「なんだぞなし。きっと、今ごろは田植えを済まして、こちらのうわさでもしていませず。」
 こんな話をしながら、二人(ふたり)は道を進んだ。
 時には、また街道へ雨が来る。青葉という青葉にはもうたくさんだと思われるような音がある。せっかくかわいた道路はまた見る間にぬれて行った。笠(かさ)を傾(かたぶ)けるもの、道づれを呼ぶもの、付近の休み茶屋へとかけ込むもの、途中で行きあう旅人の群れもいろいろだ。それは半蔵らが伊勢路や京都の方で悩んだような雨ではなくて、もはや街道へ来る夏らしい雨である。予定の日数より長くなった今度の旅といい、心にかかる郷里の方のうわさといい、二人ともに帰路を急いでいて、途中に休む気はなかった。たとい風雨の中たりともその日の午後のうちに三里半の峠を越して、泊まりと定めた大井の宿まではと願っていた。
 日暮れ方に、半蔵らは大井の旅籠屋(はたごや)にたどり着いた。そこまで帰って来れば、尾張(おわり)の大領主が管轄の区域には属しながら、年貢米(ねんぐまい)だけを木曾福島の代官山村氏に納めているような、そういう特別な土地の関係は、中津川辺と同じ縄張(なわば)りの内にある。挨拶(あいさつ)に来る亭主(ていしゅ)までが半蔵にはなじみの顔である。
「いや、はや、今度の旅は雨が多くて閉口しましたよ。こちらの方はどうでしたろう。」と半蔵がそれをきいて見る。
「さようでございます。先月の二十三日あたりは大荒れでございまして、中津川じゃ大橋も流れました。一時は往還橋止めの騒ぎで、坂下辺も船留めになりますし、木曾(きそ)の方でもだいぶ痛んだように承ります。もうお天気も定まったようで、この暑さじゃ大丈夫でございますが、一時は心配いたしました。」
 との亭主の答えだ。
 この亭主の口から、半蔵は半信半疑で途中に耳にして来たうわさの打ち消せないことを聞き知った。それは先月の二十九日に起こった百姓一揆(いっき)で、翌日の夜になってようやくしずまったということを知った。あいにくと、中津川の景蔵も、香蔵も、二人とも京都の方へ出ている留守中の出来事だ。そのために、中津川地方にはその人ありと知られた小野三郎兵衛が名古屋表へ昼夜兼行で早駕籠(はやかご)を急がせたということをも知った。
「して見ると、やっぱり事実だったのかなあ。」
 と言って、半蔵は平兵衛と顔を見合わせたが、騒ぐ胸は容易に沈まらなかった。
 こんな時の平兵衛は半蔵の相談相手にはならない。平兵衛はからだのよく動く男で、村方の無尽(むじん)をまとめることなぞにかけてはなくてならないほど奔走周旋をいとわない人物だが、こんな話の出る時にはたったりすわったりして、ただただ聞き手に回ろうとしている。
「すこし目を離すと、すぐこれです。」
 平兵衛は峠村の組頭(くみがしら)らしく、ただそれだけのことを言った。彼は旅籠屋(はたごや)の廊下に出て旅の荷物を始末したり、台所の方へ行って半蔵のためにぬれた合羽(かっぱ)を乾(ほ)したりして、そういう方にまめまめと立ち働くことを得意とした。
「まあ、中津川まで帰って行って見るんだ。」
 と半蔵は考えた。こんな出来事は何を意味するのか、時局の不安はこんなところへまで迷いやすい百姓を追い詰めるのか、窮迫した彼らの生活はそれほど訴える道もないのか、いずれとも半蔵には言うことができない。それにしても、あの東山道総督の一行が見えた時、とらえようとさえすればとらえる機会は百姓にもあった。彼らの訴える道は開かれてあった。年来苛政(かせい)に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨(むね)を本陣に届けいでよと触れ出されたくらいだ。総督一行は万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨(えいし)をもたらして来たからである。だれ一人(ひとり)、そのおりに百姓の中から進んで来るものもなくて、今になってこんな手段に訴えるとは。
 にわかな物価の騰貴も彼の胸に浮かぶ。横浜開港当時の経験が教えるように、この際、利に走る商人なぞが旧正銀買〆(かいしめ)のことも懸念されないではなかった。しかし、たとい新紙幣の信用が薄いにしても、それはまだ発行まぎわのことであって、幕府積年の弊政を一掃しようとする新政府の意向が百姓に知られないはずもない。これが半蔵の残念におもう点であった。その晩は、彼は山中の宿場らしい静かなところに来ていて、いろいろなことを思い出すために、よく眠らなかった。


 中津川まで半蔵らは帰って来た。百姓の騒いだ様子は大井で聞いたよりも一層はっきりした。百姓仲間千百五十余人、その主(おも)なものは東濃界隈(かいわい)の村民であるが、木曾地方から加勢に来たものも多く、まさかと半蔵の思った郷里の百姓をはじめ、宿方としては馬籠のほかに、妻籠(つまご)、三留野(みどの)、野尻(のじり)、在方(ざいかた)としては蘭村(あららぎむら)、柿其(かきそれ)、与川(よがわ)その他の木曾谷の村民がこの一揆の中に巻き込まれて行ったことがわかった。それらの百姓仲間は中津川の宿はずれや駒場村(こまばむら)の入り口に屯集(とんしゅう)し、中津川大橋の辺から落合(おちあい)の宿へかけては大変な事になって、そのために宿々村々の惣役人(そうやくにん)中がとりあえず鎮撫(ちんぶ)につとめたという。一揆の起こった翌日には代官所の役人も出張して来たが、村民らはみなみな中津川に逗留(とうりゅう)していて、容易に退散する気色(けしき)もなかったとか。
 半蔵が平兵衛を連れて歩いた町は、中津川の商家が軒を並べているところだ。壁は厚く、二階は低く、窓は深く、格子(こうし)はがっしりと造られていて、彼が京都の方で見て来た上方風(かみがたふう)な家屋の意匠が採り入れてある。木曾地方への物資の販路を求めて西は馬籠から東は奈良井(ならい)辺の奥筋まで入り込むことはおろか、生糸(きいと)売り込みなぞのためには百里の道をも遠しとしない商人がそこに住む。
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