夜明け前
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著者名:島崎藤村 

「そう言えば半蔵さん、こないだもわたしは香蔵さんをつかまえて、どうもわれわれは目の前の事にばかり屈託して困る、これがわれわれの欠点だッて話しましたら、あの香蔵さんの言い草がいい。屈託するところが人間ですとさ。でも、周囲を見ると心細い。王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃありませんか。見たまえ、そよそよとした風はもう先の方から吹いて来ている。この一大変革の時に際会して、大局を見て進まないのはうそですね。」


「景蔵さん、君も気をつけて行って来たまえ。相良惣三に同情があると見た地方の有志は、全部呼び出して取り調べる――それがお役所の方針らしいから。」
 そう言いながら、半蔵は寝覚(ねざめ)を立って行く友人と手を分かった。
「どれ、福島の方へ行ってしかられて来るか。」
 景蔵はその言葉を残した。その時、半蔵は供の男をかえりみて、
「さあ、平兵衛さん、わたしたちもぽつぽつ出かけようぜ。」
 そんなふうに、また半蔵らは馬籠をさして出かけた。
 木曾谷は福島から須原(すはら)までを中三宿(なかさんしゅく)とする。その日は野尻(のじり)泊まりで、半蔵らは翌朝から下四宿(しもししゅく)にかかった。そこここの道の狭いところには、雪をかきのけ、木を伐(き)って並べ、藤(ふじ)づるでからめ、それで道幅を補ったところがあり、すでに橋の修繕まで終わったところもある。深い森林の方から伐り出した松明(たいまつ)を路傍に山と積んだようなところもある。上松(あげまつ)御陣屋の監督はもとより、近く尾州の御材木方も出張して来ると聞く。すべて東山道軍を迎える日の近づきつつあったことを語らないものはない。
 時には、伊勢参宮の講中にまじる旅の婦人の風俗が、あだかも前後して行き過ぎる影のように、半蔵らの目に映る。きのうまで手形なしには関所も通られなかった女たちが、男の近親者と連れだち、長途の旅を試みようとして、深い窓から出て来たのだ。そんな人たちの旅姿にも、王政第一の春の感じが深い。そのいずれもが日焼けをいとうらしい白の手甲(てっこう)をはめ、男と同じような参拝者の風俗で、解き放たれて歓呼をあげて行くかにも見えていた。
 次第に半蔵らは淡い雪の溶け流れている街道を踏んで行くようになった。歩けば歩くほど、なんとなく谷の空も明るかった。西から木曾川を伝って来る早い春も、まだまだ霜に延びられないような浅い麦の間に躊躇(ちゅうちょ)しているほどの時だ。それでも三留野(みどの)の宿まで行くと、福島あたりで堅かった梅の蕾(つぼみ)がすでにほころびかけていた。


 午後に、半蔵らは大火のあとを承(う)けてまだ間もない妻籠の宿にはいった。妻籠本陣の寿平次(じゅへいじ)をはじめ、その妻のお里、めっきり年とったおばあさん、半蔵のところから養子にもらわれて来ている幼い正己(まさみ)――皆、無事。でも寿平次方ではわずかに類焼をまぬかれたばかりで、火は本陣の会所まで迫ったという。脇(わき)本陣の得右衛門(とくえもん)方は、と見ると、これは大火のために会所の門を失った。半蔵が福島の方から引き返して、地方(じかた)御役所でしかられて来たありのままを寿平次に告げに寄ったのは、この混雑の中であった。
 もっとも、半蔵は往(い)きにもこの妻籠を通って寿平次の家族を見に寄ったが、わずかの日数を間に置いただけでも、板囲いのなかったところにそれができ、足場のなかったところにそれがかかっていた。そこにもここにも仮小屋の工事が始まって、総督の到着するまでにはどうにか宿場らしくしたいというそのさかんな復興の気象は周囲に満ちあふれていた。
 寿平次は言った。
「半蔵さん、今度という今度はわたしも弱った。東山道軍が見えるにしたところで、君の方はまだいい。昼休みの通行で済むからいい。妻籠を見たまえ、この大火のあとで、しかも総督のお泊まりと来てましょう。」
「ですから、当日の泊まり客は馬籠でも分けて引き受けますよ。いずれ御先触(おさきぶ)れが来ましょう。そうしたら、おおよそ見当がつきましょう。得右衛門さんでも馬籠の方へ打ち合わせによこしてくださるさ。」
「おまけに、妻籠へ割り当てられた松明(たいまつ)も三千把(ば)だ。いや、村のものは、こぼす、こぼす。」
「どうせ馬籠じゃ、そうも要(い)りますまい。松明も分けますよ。」
 こんなことであまり長くも半蔵は邪魔すまいと思った。寿平次のような養父を得て無事に成長するらしい正己にも声をかけて置いて、そこそこに彼は帰村を急ごうとした。
「もうお帰りですか。」と言いながら、仕事着らしい軽袗(かるさん)ばきで、寿平次は半蔵のあとを追いかけて来た。
「あの大火のあとで、よくそれでもこれまでに工事が始められましたよ。」と半蔵が言う。
「みんな一生懸命になりましたからね。なにしろ、高札下(こうさつした)から火が出て、西側は西田まで焼ける。東側は山本屋で消し止めた。こんな大火はわたしが覚えてから初めてだ。でも、村の人たちの意気込みというものは、実にすさまじいものさ。」
 しばらく寿平次は黙って、半蔵と一緒に肩をならべながら、木を削るかんなの音の中を歩いた。やがて、別れぎわに、
「半蔵さん、世の中もひどい変わり方ですね。何が見えて来るのか、さっぱり見当もつかない。」
「まあ統一ができてからあとのことでしょうね。」
 と半蔵の方で言って見せると、寿平次もうなずいた。そして別れた。
 半蔵が供の平兵衛と共に馬籠の宿はずれまで帰って行ったころは、日暮れに近かった。そこまで行くと、下男の佐吉が宗太(半蔵の長男)を連れて、主人の帰りのおそいのを案じ顔に、陣場というところに彼を待ち受けていた。その辺には「せいた」というものを用いて、重い物を背負い慣れた勁(つよ)い肩と、山の中で働き慣れた勇健な腰骨とで、奥山の方から伐(き)り出して来た松明を定められた場所へと運ぶ村の人たちもある。半蔵と見ると、いずれも頬(ほお)かぶりした手ぬぐいをとって、挨拶(あいさつ)して行く。
「みんな、御苦労だのい。」
 そう言って村の人たちに声をかける時の半蔵の調子は、父吉左衛門(きちざえもん)にそっくりであった。


 半蔵は福島出張中のことを父に告げるため、馬籠本陣の裏二階にある梯子段(はしごだん)を上った。彼も妻子のところへ帰って来て、母屋(もや)の囲炉裏ばたの方で家のものと一緒に夕飯を済まし、食後に父をその隠居所に見に行った。
「ただいま。」
 この半蔵の「ただいま」が、炬燵(こたつ)によりかかりながら彼を待ち受けていた吉左衛門をも、茶道具なぞをそこへ取り出す継母のおまんをもまずよろこばせた。
「半蔵、福島の方はどうだったい。」
 と吉左衛門が言いかけると、おまんも付け添えるように、
「おとといはお前、中津川の景蔵さんまでお呼び出しで、ちょっと吾家(うち)へも寄って行ってくれたよ。」
「そうでしたか。景蔵さんには寝覚(ねざめ)で行きあいましたっけ。まあ、お役所の方も、お叱(しか)りということで済みました。つまらない疑いをかけられたようなものですけれど、今度のお呼び出しのことは、お父(とっ)さんにもおわかりでしょう。」
「いや、わかるどころか、あんまりわかり過ぎて、おれは心配してやったよ。お前の帰りもおそいものだからね。」
 こんな話がはじまっているところへ、母屋(もや)の方にいた清助も裏二階の梯子段(はしごだん)を上って来た。無事に帰宅した半蔵を見て、清助も「まあ、よかった」という顔つきだ。
「半蔵、お前の留守に、追分(おいわけ)の名主(なぬし)のことが評判になって、これがまた心配の種さ。」と吉左衛門が言って見せた。
「それがです。」と清助もその話を引き取って、「あの名主は親子とも入牢(にゅうろう)を仰せ付けられたとか、いずれ追放か島流しになるとか、いろいろなことを言いましょう。まさか、そんなばかばかしいことが。どうせ街道へ伝わって来るうわさだぐらいに、わたしどもは聞き流していましたけれど、村のうわさ好きな人たちと来たら、得ていろいろなことを言いたがる。今度は本陣の旦那(だんな)も無事にお帰りになれまいなんて。」
 吉左衛門は笑い出した。そして、追分の名主のことについて、何がそんな評判を立てさせたか、名主ともあろうものが腰縄(こしなわ)手錠で松代藩(まつしろはん)の方へ送られたとはどうしたことか、そのいぶかしさを半蔵にたずねた。そういう吉左衛門はいまだに宿駅への関心を失わずにいる。
「お父(とっ)さん、そのことでしたら。」と半蔵は言う。「なんでも、小諸藩(こもろはん)から捕手(とりて)が回った時に、相良惣三の部下のものは戦さでもする気になって、追分の民家を十一軒も焼いたとか聞きました。そのあとです、小諸藩から焼失人へ米を六十俵送ったところが、その米が追分の名主の手で行き渡らないと言うんです。偽(にせ)官軍の落として行った三百両の金も、焼失人へは割り渡らないと言うんです。あの名主は貧民を救えと言われて、偽官軍から米を十六俵も受け取りながら、その米も貧民へは割り渡らないと言うんです。あの名主はそれで松代藩の方へ送られたというのが、まあ実際のところでしょう。しかしわたしの聞いたところでは、あの名主と不和なものがあって中傷したことらしい――飛んだ疑いをかけられたものですよ。」
「そういうことが起こって来るわい。」と吉左衛門は考えて、「そんなごたごたの中で、米や金が公平に割り渡せるもんじゃない。追分の名主も気の毒だが、米や金を渡そうとした方にも無理がある。」
「そうです、わたしも大旦那(おおだんな)に賛成です。」と清助も言葉を添える。「いきなり貧民救助なぞに手をつけたのが、相良惣三の失敗のもとです。そういうことは、もっと大切に扱うべきで、なかなか通りすがりの嚮導隊(きょうどうたい)なぞにうまくやれるもんじゃありません。」
「とにかく。」と半蔵は答えた。「あの仲間は、東山道軍と行動を共にしませんでした。そこから偽官軍というような評判も立ったのですね。そこへつけ込む者も起こって来たんですね。でも、相良惣三らのこころざしはくんでやっていい。やはりその精神は先駆というところにあったと思います。ですから、地方の有志は進んで献金もしたわけです。そうはわたしも福島のお役所じゃ言えませんでした。まあ、お父(とっ)さんやお母(っか)さんの前ですから話しますが、あのお役人たちもかなり強いことを言いましたよ。二度目に呼び出されて行った時にですね、お前たち親子は多年御奉公も申し上げたものだし、頼母子講(たのもしこう)のお世話方も行き届いて、その骨折りも認めないわけにいかないから、特別の憐憫(れんびん)をもってきっと叱(しか)り置く、特に手錠を免ずるなんて――それを言い渡された時は、御奉公もこれまでだと思って、わたしも我慢して来ました。」
 その時、にぎやかな子供らの声がして、半蔵が妻のお民の後ろから、お粂(くめ)、宗太(そうた)も梯子段(はしごだん)を上って来たので、半蔵はもうそんな話をしなかった。その裏二階に集まったものは、やがて馬籠の宿場に迎えようとする岩倉の二公子、さては東山道軍のうわさなどで持ち切った。
「粂さま、お前さまは和宮様(かずのみやさま)の御通行の時のことを覚えておいでか。」と清助がきいた。
「わたしはよく覚えていない。」とお粂が羞(はじ)を含みがちに言う。
「ゆめのようにですか。」
「えゝ。」
「そうでしょうね。あの時分のことは、はっきり覚えていなさるまい。」
「清助さん、水戸浪士(みとろうし)のことをきいてごらん。」と横鎗(よこやり)を入れるのは宗太だ。
「だれに。」
「おれにさ。このおれにきいてごらん。」
「おゝ、お前さまにか。」
「清助さん、水戸浪士のことなら、おれだって知ってるよ。」
「さあ、今度の御通行はどうありますかさ。」とおまんは言って、やがて孫たちの方を見て、「今度はもうそんなに、こわい御通行じゃない。なんにも恐ろしいことはないよ。今に――錦(にしき)の御旗(みはた)が来るんだよ。」
 半蔵の子供らも大きくなった。その年、慶応四年の春を迎えて見ると、姉のお粂はもはや十三歳、弟の宗太は十一歳にもなる。お民は夫が往(い)きにも還(かえ)りにも大火後の妻籠(つまご)の実家に寄って来たと聞いて、
「あなた、正己(まさみ)も大きくなりましたろうね。あれもことしは八つになりますよ。」
「いや、大きくなったにも、なんにも。もうすっかり妻籠の子になりすましたような顔つきさ。おれが呼んだら、男の子らしい軽袗(かるさん)などをはいて、お辞儀に出て来たよ。でも、きまりが悪いような顔つきをして、広い屋敷のなかをまごまごしていたっけ。」
 もらわれて行った孫のうわさに、吉左衛門もおまんも聞きほれていた。やがて、吉左衛門は思いついたように、
「時に、半蔵、御通行はあと十二、三日ぐらいしかあるまい。人足は足りるかい。」
「今度は旧天領のものが奮って助郷(すけごう)を勤めることになりました。これは天領にかぎらないからと言って、総督の執事は、村々の小前(こまえ)のものにまで人足の勤め方を奨励しています。おそらく、今度の御通行を一期(いちご)にして、助郷のことも以前とは変わりましょう。」
「あなたは、それだからいけない。」とおまんは吉左衛門の方を見て、その話をさえぎった。「人足のことなぞは半蔵に任せてお置きなさるがいい。おれはもう隠居だなんて言いながら、そうあなたのように気をもむからいけない。」
「どうも、この節はおまんのやつにしかられてばかりいる。」
 そう言って吉左衛門は笑った。
 長話は老い衰えた父を疲らせる。その心から、半蔵は妻子や清助を誘って、間もなく裏二階を降りた。母屋(もや)の方へ引き返して行って見ると、上がり端(はな)に畳(たた)んだ提灯(ちょうちん)なぞを置き、風呂(ふろ)をもらいながら彼を見に来ている馬籠村の組頭(くみがしら)庄助(しょうすけ)もいる。庄助も福島からの彼の帰りのおそいのを案じていた一人(ひとり)なのだ。その晩、彼は下男の佐吉が焚(た)きつけてくれた風呂桶(ふろおけ)の湯にからだを温(あたた)め、客の応接はお民に任せて置いて、店座敷の方へ行った。白木(しらき)の桐(きり)の机から、その上に掛けてある赤い毛氈(もうせん)、古い硯(すずり)までが待っているような、その自分の居間の畳の上に、彼は長々と足腰を延ばした。
 子供らがのぞきに来た。いつも早寝の宗太も、その晩は眠らないで、姉と一緒にそこへ顔を出した。背丈(せたけ)は伸びても顔はまだ子供子供した宗太にくらべると、いつのまにかお粂の方は姉娘らしくなっている。素朴(そぼく)で、やや紅味(あかみ)を帯びた枝の素生(すば)えに堅くつけた梅の花のつぼみこそはこの少女のものだ。
「あゝあゝ、きょうはお父(とっ)さんもくたぶれたぞ。宗太、ここへ来て、足でも踏んでくれ。」
 半蔵がそれを言って、畳の上へ腹ばいになって見せると、宗太はよろこんだ。子供ながらに、宗太がからだの重みには、半蔵の足の裏から数日のはげしい疲労を追い出す力がある。それに、血を分けたものの親しみまでが、なんとなく温(あたた)かに伝わって来る。
「どれ、わたしにも踏ませて。」
 とお粂も言って、姉と弟とはかわるがわる半蔵の大きな足の裏を踏んだ。

       四

「あなた。」
「おれを呼んだのは、お前かい。」
「あなたはどうなさるだろうッて、お母(っか)さんが心配していますよ。」
「どうしてさ。」
「だって、あなたのお友だちは岩倉様のお供をするそうじゃありませんか。」
 半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
 暖かい雨はすでに幾たびか馬籠峠(まごめとうげ)の上へもやって来た。どうかすると夜中に大雨が来て、谷々の雪はあらかた溶けて行った。わずかに美濃境(みのざかい)の恵那山(えなさん)の方に、その高い山間(やまあい)の谿谷(けいこく)に残った雪が矢の根の形に白く望まれるころである。そのころになると東山道軍の本営は美濃まで動いて来て、大垣(おおがき)を御本陣にあて、沿道諸藩との交渉を進めているやに聞こえて来た。兵馬の充実、資金の調達などのためから言っても、軍の本営ではいくらかの日数をそこに費やす必要があったのだ。勤王の味方に立とうとする地方の有志の中には、進んで従軍を願い出るものも少なくない。
「おれもこうしちゃいられないような気がする。」
 半蔵がそれを言って見せると、お民は夫の顔をながめながら、
「ですから、お母(っか)さんが心配してるんですよ。」
「お民、おれは出られそうもないぞ。そのことはお母(っか)さんに話してくれてもいい。おれがお供をするとしたら、どうしたって福島の山村様の方へ願って出なけりゃならない。中津川の友だちとおれとは違うからね。あの幕府びいきの御家中がおれのようなものを許すと思われない。」
「……」
「ごらんな、景蔵さんや香蔵さんは、ただ岩倉様のお供をするんじゃないよ。軍の嚮導(きょうどう)という役目を命ぜられて行くんだよ。その下には十四、五人もついて御案内するという話だが、それがお前、みんな平田の御門人さ。何にしてもうらやましい。」
 夫婦の間にはこんな話も出た。
 その時になって初めて本陣も重要なものになった。東山道総督執事からの布告にもあるように、徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来苛政(かせい)に苦しめられて来たものは遠慮なくその事情を届けいでよと指定された場所は、本陣である。諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べよと命ぜられた貧民に関する報告や願書の集まって来るのも、本陣である。のみならず、従来本陣と言えば、公用兼軍用の旅舎のごときもので、諸大名、公卿(くげ)、公役、または武士のみが宿泊し、休息する場所として役立つぐらいに過ぎなかった。今度の布告で見ると、諸藩の藩主または重職らが勤王を盟(ちか)い帰順の意を総督にいたすべき場所として指定された場所も、また本陣である。
 半蔵の手もとには、東山道軍本営の執事よりとして、大垣より下諏訪(しもすわ)までの、宿々問屋役人中へあてた布達がすでに届いていた。それによると、薩州勢四百七十二人、大垣勢千八百二十七人、この二藩の兵が先鋒(せんぽう)として出発し、因州勢八百人余は中軍より一宿先、八百八十六人の土州勢と三百人余の長州勢とは前後交番で中軍と同日に出発、それに御本陣二百人、彦根(ひこね)勢七百五十人余、高須(たかす)勢百人とある。この人数が通行するから、休泊はもちろん、人馬継立(つぎた)て等、不都合のないように取り計らえとある。しかし、この兵数の報告はかなり不正確なもので、実際に大垣から進んで来る東山道軍はこれほどあるまいということが、半蔵を不安にした。当時の諸藩、および旗本の向背(こうはい)は、なかなか楽観を許さなかった。
 そのうちに、美濃から飛騨(ひだ)へかけての大小諸藩で帰順の意を表するものが続々あらわれて来るようになった。昨日(きのう)は苗木(なえぎ)藩主の遠山友禄が大垣に行って総督にお目にかかり勤王を盟(ちか)ったとか、きょうは岩村藩の重臣羽瀬市左衛門(はせいちざえもん)が藩主に代わって書面を総督府にたてまつり慶喜に組した罪を陳謝したとか、加納藩(かのうはん)、郡上藩(ぐじょうはん)、高富藩(たかとみはん)、また同様であるとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。あの旧幕府の大老井伊直弼(なおすけ)の遺風を慕う彦根藩士までがこの東征軍に参加し、伏見鳥羽の戦いに会津(あいづ)方を助けた大垣藩ですら薩州方と一緒になって、先鋒としてこの街道を下って来るといううわさだ。
 しかし、これには尾張(おわり)のような中国の大藩の向背が非常に大きな影響をあたえたことを記憶しなければならない。いわゆる御三家の随一とも言われたほど勢力のある尾張藩が、率先してその領地を治め、近傍の諸藩を勧誘し、東征の進路を開かせようとしたことは、復古の大業を遂行する上にすくなからぬ便宜となったことを記憶しなければならない。
 尾州とても、藩論の分裂をまぬかれたわけでは決してない。過ぐる年の冬あたりから、尾張藩の勤王家で有力なものは大抵御隠居(徳川慶勝(よしかつ))に従って上洛(じょうらく)していたし、御隠居とても日夜京都に奔走して国を顧みるいとまもない。その隙(すき)を見て心を幕府に寄せる重臣らが幼主元千代を擁し、江戸に走り、幕軍に投じて事をあげようとするなどの風評がしきりに行なわれた。もはや躊躇(ちゅうちょ)すべき時でないと見た御隠居は、成瀬正肥(なるせまさみつ)、田宮如雲(たみやじょうん)らと協議し、岩倉公の意見をもきいた上で、名古屋城に帰って、その日に年寄渡辺(わたなべ)新左衛門、城代格榊原勘解由(さかきばらかげゆ)、大番頭(おおばんがしら)石川内蔵允(くらのすけ)の三人を二之丸向かい屋敷に呼び寄せ、朝命をもって死を賜うということを宣告した。なお、佐幕派として知られた安井長十郎以下十一人のものを斬罪(ざんざい)に処した。幼主元千代がそれらの首級をたずさえ、尾張藩の態度を朝野に明らかにするために上洛したのは、その年の正月もまだ早いころのことである。
 尾州にはすでにこの藩論の一定がある。美濃から飛騨(ひだ)地方へかけての諸藩の向背も、幕府に心を寄せるものにはようやく有利でない。これらの周囲の形勢に迫られてか、大垣あたりの様子をさぐるために、奥筋の方から早駕籠(はやかご)を急がせて来る木曾福島の役人衆もあった。それらの人たちが往(い)き還(かえ)りに馬籠の宿を通り過ぎるだけでも、次第に総督の一行の近づいたことを思わせる。旧暦二月の二十二日を迎えるころには、岩倉公子のお迎えととなえ、一匹の献上の馬まで引きつれて、奥筋の方から馬籠に着いた一行がある。それが山村氏の御隠居だった。半蔵父子がこれまでのならわしによれば、あの名古屋城の藩主は「尾州の殿様」、これはその代官にあたるところから、「福島の旦那様(だんなさま)」と呼び来たった主人公である。


 半蔵は急いで父吉左衛門をさがした。山村氏の御隠居が彼の家の上段の間で昼食の時を送っていること、行く先は中津川で総督お迎えのために見えたこと、彼の家の門内には献上の馬まで引き入れてあることなどを告げて置いて、また彼は父のそばから離れて行った。
 例の裏二階で、吉左衛門はおまんを呼んだ。衣服なぞを取り出させ、そこそこに母屋(もや)の方へ行くしたくをはじめた。
「肩衣(かたぎぬ)、肩衣。」
 とも呼んだ。
 そういう吉左衛門はもはやめったに母屋の方へも行かず、村の衆にもあわず、先代の隠居半六が忌日のほかには墓参りの道も踏まない人である。めずらしくもこの吉左衛門が代を跡目相続の半蔵に譲る前の庄屋に帰って、青山家の定紋のついた麻□□(あさがみしも)に着かえた。
「おまん、おれは隠居の身だから、わざわざ旦那様の前へ御挨拶(ごあいさつ)には出まい。何事も半蔵に任せたい。お馬を拝見させていただけば、それだけでたくさん。」
 こう言いながら、彼はおまんと一緒に裏二階を降りた。下男の佐吉が手造りにした草履(ぞうり)をはき、右の手に杖(つえ)をついて、おまんに助けられながら本陣の裏庭づたいに母屋への小道を踏んだ。実に彼はゆっくりゆっくりと歩いた。わずかの石段を登っても、その上で休んで、また歩いた。
 吉左衛門がお馬を見ようとして出たところは、本陣の玄関の前に広い板敷きとなっている式台の片すみであった。表庭の早い椿(つばき)の蕾(つぼみ)もほころびかけているころで、そのあたりにつながれている立派な青毛の馬が見える。総督へ献上の駒(こま)とあって、伝吉、彦助と名乗る両名の厩仲間(うまやちゅうげん)のものがお口取りに選ばれ、福島からお供を仰せつけられて来たとのこと。試みに吉左衛門はその駒の年齢を尋ねたら、伝吉らは六歳と答えていた。
「お父(とっ)さん。」
 と声をかけて、奥の方へ挨拶(あいさつ)に出ることを勧めに来たのは半蔵だ。
「いや、おれはここで失礼するよ。」
 と吉左衛門は言って、その駒の雄々(おお)しい鬣(たてがみ)も、大きな目も、取りつく蝿(はえ)をうるさそうにする尻尾(しっぽ)までも、すべてこの世の見納めかとばかり、なおもよく見ようとしていた。
 だれもがそのお馬をほめた。だれもがまた、中津川の方に山村氏の御隠居を待ち受けるものの何であるかを見定めることもできなかった。やがて奥から玄関先へ来て、供の衆を呼ぶ清助の大きな声もする。それは乗り物を玄関先につけよとの掛け声である。早、お立ちの合図である。その時、吉左衛門は式台の片すみのところに、その板敷きの上にかしこまっていて、父子代々奉仕して来た旧(ふる)い主人公のつつがない顔を見ることができた。
「旦那様。吉左衛門でございます。お馬拝見に出ましてございます。」
「おゝ、その方も達者(たっしゃ)か。」
 御隠居が彼の方を顧みての挨拶だ。
 吉左衛門は目にいっぱい涙をためながら、長いことそこに立ち尽くした。御隠居を乗せた駕籠を見送り、門の外へ引き出されて行くお馬を見送り、中津川行きの供の衆を見送った。半蔵がその一行を家の外まで送りに出て、やがて引き返して来たころになっても、まだ父は式台の上がり段のところに腰掛けながら、街道の空をながめていた。
「お父(とっ)さん、本陣のつとめもつくづくつらいと思って来ましたよ。」
「それを言うな。福島の御家中がどうあろうと、あの御隠居さまには御隠居さまのお考えがあって、わざわざお出かけになったと見えるわい。」


 東山道軍御本陣の執事から出た順路の日取りによると、二月二十三日は美濃の鵜沼(うぬま)宿お休み、太田宿お泊まりとある。その日、先鋒(せんぽう)はすでに中津川に到着するはずで、木曾福島から行った山村氏の御隠居が先鋒の重立った隊長らと会見せらるるのもその夜のことである。総督御本陣は、薩州兵と大垣兵とより成る先鋒隊からは三日ずつおくれて木曾街道を進んで来るはずであった。馬籠宿はすでに万般の手はずもととのった。というのは、全軍の通行に昼食の用意をすればそれでよかったからであった。よし隣宿妻籠の方に泊まりきれない兵士があるとしても、せいぜい一晩ぐらいの宿を引き受ければ、それで済みそうだった。半蔵はひとり一室に退いて、総督一行のために祈願をこめた。長歌などを作り試みて、それを年若な岩倉の公子にささげたいとも願った。
 夕方が来た。半蔵は本陣の西側の廊下のところへ宗太を呼んで、美濃の国の空の方を子供にさして見せた。暮色につつまれて行く恵那山(えなさん)の大きな傾斜がその廊下の位置から望まれる。中津川の町は小山のかげになって見えないまでも、遠く薄暗い空に反射するほのかな町の明りは宗太の目にも映った。
「御覧、中津川の方の空が明るく見えるよ。篝(かがり)でもたいているんだろうね。」
 と半蔵が言って見せた。
 その晩、半蔵は店座敷にいておそくまで自分の机にむかった。古風な行燈(あんどん)の前で、その日に作った長歌の清書などをした。中津川の友人景蔵の家がその晩の先鋒隊の本陣であることを考え、先年江戸屋敷の方から上って来た長州侯がいわゆる中津川会議を開いて討幕の第一歩を踏み出したのもまたあの友人の家であるような縁故の不思議さを考えると、お民のそはで枕(まくら)についてからも彼はよく眠られなかった。あたかも春先の雪が来てかえって草木の反発力を増させるように、木曾街道を騒がしたあの相良惣三(さがらそうぞう)の事件までが、彼にとっては一層東山道軍を待ち受ける心を深くさせたのである。あの山村氏の家中衆あたりがやかましく言う徳川慶喜征討の御制札の文面がどうあろうと――慶喜が大政を返上して置いて、大坂城へ引き取ったのは詐謀(さぼう)であると言われるようなことが、そもそも京都方の誤解であろうと、なかろうと――あまつさえ帰国を仰せ付けられた会津を先鋒にして、闕下(けっか)を犯し奉ったのもその慶喜であると言われるのは、事実の曲解であろうと、なかろうと――伏見、鳥羽の戦さに、現に彼より兵端を開いたのは慶喜の反状が明白な証拠だと言われるのに、この街道を通って帰国した会津藩の負傷兵が自ら合戦の模様を語るところによれば、兵端を開いたのは薩摩(さつま)方であったと言うような、そんな言葉の争いがどうあろうと――そんなことはもう彼にはどうでもよかった。先年七月の十七日、長州の大兵が京都を包囲した時、あの時の流れ丸(だま)はしばしば飛んで宮中の内垣(うちがき)にまで達したという。当時、長州兵を敵として迎え撃ったものは、陛下の忠僕をもって任ずる会津武士であった。あの時の責めを一身に引き受けた長州侯ですら寛大な御処置をこうむりながら、慶喜公や会津桑名のみが大逆無道の汚名を負わせられるのは何の事かと言って、木曾福島の武士なぞはそれをくやしがっている。しかし、多くの庄屋、本陣、問屋、医者なぞと同じように、彼のごとく下から見上げるものにとっては、もっと大切なことがあった。
「王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃないか。」
 寝覚(ねざめ)の蕎麦屋(そばや)であった時の友人の口から聞いて来た言葉が、枕(まくら)の上で彼の胸に浮かんだ。彼は乱れ放題乱れた社会にまた統一の曙光(しょこう)の見えて来たのも、一つは日本の国柄であることを想像し、この古めかしく疲れ果てた街道にも生気のそそぎ入れられる日の来ることを想像した。彼はその想像を古代の方へも馳(は)せ、遠く神武(じんむ)の帝(みかど)の東征にまで持って行って見た。


 まだ夜の明けきらないうちから半蔵は本陣の母屋(もや)を出て、薄暗い庭づたいに裏の井戸の方へ行った。水垢離(みずごり)を執り、からだを浄(きよ)め終わって、また母屋へ引き返そうとするころに、あちこちに起こる鶏の声を聞いた。
 いよいよ東征軍を迎える最初の日が来た。青く暗い朝の空は次第に底明るく光って来たが、まだ街道の活動ははじまらない。そのうちに、一番早く来て本陣の門をたたいたのは組頭の庄助だ。
「半蔵さま、お早いなし。」
 と庄助は言って、その日から向こう三日間、切畑(きりばた)、野火、鉄砲の禁止のお触れの出ていることを近在の百姓たちに告げるため、青の原から杁(いり)の方まで回りに行くところだという。この庄助がその日の村方の準備についていろいろと打ち合わせをした後、半蔵のそばから離れて行ったころには、日ごろ本陣へ出入りの百姓や手伝いの婆(ばあ)さんたちなどが集まって来た。そこの土竈(どがま)の前には古い大釜(おおがま)を取り出すものがある。ここの勝手口の外には枯れ松葉を運ぶものがある。玄関の左右には陣中のような二張りの幕も張り回された。
 半蔵はそこへ顔を出した清助をも見て、
「清助さん、総督は八十歳以上の高齢者をお召しになるという話だが、この庭へ砂でも盛って、みんなをすわらせることにするか。」
「そうなさるがいい。」
「今から清助さんに頼んで置くが、わたしも中津川まで岩倉様のお迎えに行くつもりだ。その時は留守を願いますぜ。」
 そんな話も出た。
 日は次第に高くなった。使いの者が美濃境の新茶屋の方から走って来て、先鋒(せんぽう)の到着はもはや間もないことであろうという。駅長としての半蔵は、問屋九郎兵衛、年寄役伏見屋伊之助、同役桝田屋(ますだや)小左衛門、同じく梅屋五助などの宿役人を従え、先鋒の一行を馬籠の西の宿はずれまで出迎えた。石屋の坂から町田の辺へかけて、道の両側には人の黒山を築いた。
  宮さま、宮さま、お馬の前に
  ひらひらするのはなんじゃいな。
   とことんやれ、とんやれな。
  ありや、朝敵、征伐せよとの
  錦(にしき)の御旗(みはた)じゃ、知らなんか。
   とことんやれ、とんやれな。
 島津轡(しまづぐつわ)の旗を先頭にして、太鼓の音に歩調を合わせながら、西から街道を進んで来る人たちの声だ。こころみに、この新作の軍歌が薩摩隼人(さつまはやと)の群れによって歌われることを想像して見るがいい。慨然として敵に向かうかのような馬のいななきにまじって、この人たちの揚げる蛮音が山国の空に響き渡ることを想像して見るがいい。先年の水戸浪士がおのおの抜き身の鎗(やり)を手にしながら、水を打ったように声まで潜め、ほとんど死に直面するような足取りで同じ街道を踏んで来たのに比べると、これはいちじるしい対照を見せる。これは京都でなく江戸をさして、あの過去三世紀にわたる文明と風俗と流行との中心とも言うべき大都会の空をめがけて、いずれも遠い西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑ぞろいかと見える。江戸ももはや中世的な封建制度の残骸(ざんがい)以外になんらの希望をつなぐべきものを見いだされないために、この人たちをして過去から反(そむ)き去るほどの堅き決意を抱(いだ)かせたのであるか、復古の機運はこの人たちの燃えるような冒険心を刺激して新国家建設の大業に向かわせたのであるか、いずれとも半蔵には言って見ることができなかった。この勇ましく活気に満ちた人たちが肩にして来た銃は、舶来の新式で、当時の武器としては光ったものである。そのいでたちも実際の経験から来た身軽なものばかり。官軍の印(しるし)として袖(そで)に着けた錦の小帛(こぎれ)。肩から横に掛けた青や赤の粗(あら)い毛布(けっと)。それに筒袖(つつそで)。だんぶくろ。


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     第四章

       一

 四日にわたって東山道軍は馬籠峠(まごめとうげ)の上を通り過ぎて行った。過ぐる文久元年の和宮様(かずのみやさま)御降嫁以来、道幅はすべて二間(けん)見通しということに改められ、街道に添う家の位置によっては二尺通りも石垣(いしがき)を引き込めたところもあるが、今度のような御通行があって見ると、まだそれでも充分だとは言えなかった。馬籠の宿場ではあと片づけに混雑していた時だ。そこここには人馬のために踏み崩(くず)された石垣を繕うものがある。焼け残りの松明(たいまつ)を始末するものがある。道路にのこしすてられた草鞋(わらじ)、馬の藁沓(わらぐつ)、それから馬糞(まぐそ)の類(たぐい)なぞをかき集めるものがある。
「大きい御通行のあとには、きっと大雨がやって来るぞ。」
 そんなことを言って、そろそろ怪しくなった峠の上の空模様をながめながら、家の表の掃除(そうじ)を急ぐものもある。多人数のために用意した膳(ぜん)、椀(わん)から、夜具蒲団(ふとん)、枕(まくら)の類までのあと片づけが、どの家でもはじまっていた。
 過去の大通行の場合と同じように、総督一行の通り過ぎたあとにはいろいろなものが残った。全軍の諸勘定を引き受けた高遠藩(たかとおはん)では藩主に代わる用人らが一切のあと始末をするため一晩馬籠に泊まったが、人足買い上げの賃銭が不足して、容易にこの宿場を立てなかった。どうやらそれらの用人らも引き揚げて行った。駅長としての半蔵はその最後の一行を送り出した後、宿内見回りのためにあちこちと出歩いた。彼は蔦屋(つたや)という人足宿の門口にも立って見た。そこには美濃(みの)の大井宿から総督一行のお供をして来た請負人足、その他の諸人足が詰めていて、賃銭分配のいきさつからけんか口論をはじめていた。旅籠屋(はたごや)渡世をしている大野屋勘兵衛方の門口にも立って見た。そこでは軍の第二班にあたる因州藩の御連中の宿をしたところ、酒を出せの、肴(さかな)を出せのと言われ、中にはひどく乱暴を働いた侍衆もあったというような話が残っていた。ある伝馬役(てんまやく)の門口にも立って見た。街道に添う石垣の片すみによせて、大きな盥(たらい)が持ち出してある。馬の行水(ぎょうずい)もはじまっている。馬の片足ずつを持ち上げさせるたびに、「どうよ、どうよ。」と言う馬方の声も起こる。湯水に浸された荒藁(あらわら)の束で洗われるたびに、馬の背中からにじみ出る汗は半蔵の見ている前で白い泡(あわ)のように流れ落ちた。そこにはまた、妻籠(つまご)、三留野(みどの)の両宿の間の街道に、途中で行き倒れになった人足の死体も発見されたというような、そんなうわさも伝わっていた。


 半蔵が中津川まで迎えに行って謁見(えっけん)を許された東山道総督岩倉少将は、ようやく十六、七歳ばかりのうらわかさである。御通行の際は、白地の錦(にしき)の装束(しょうぞく)に烏帽子(えぼし)の姿で、軍旅のいでたちをした面々に前後を護(まも)られながら、父岩倉公の名代を辱(はず)かしめまいとするかのように、勇ましく馬上で通り過ぎて行った。副総督の八千丸(やちまる)も兄の公子に負けてはいないというふうで、赤地の錦の装束に太刀(たち)を帯び、馬にまたがって行ったが、これは初陣(ういじん)というところを通り越して、いじらしいくらいであった。この総督御本陣直属の人数は二百六人、それに用物人足五十四人、家来向き諸荷物人足五十二人、赤陣羽織(あかじんばおり)を着た十六人のものが赤地に菊の御紋のついた錦の御旗と、同じ白旗とをささげて来た。空色に笹龍胆(ささりんどう)の紋じるしをあらわした総督家の旗もそのあとに続いた。そればかりではない、井桁(いげた)の紋じるしを黒くあらわしたは彦根(ひこね)勢、白と黒とを半分ずつ染め分けにしたは青山勢、その他、あの同勢が押し立てて来た馬印から、「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」と大書した吹き流しまで――数えて来ると、それらの旗や吹き流しのはたはたと風に鳴る音が馬のいななきにまじって、どれほど軍容をさかんにしたかしれない。東山道軍の一行が活気に満ちていたことは、あの重い大砲を車に載せ、兵士の乗った馬に前を引かせ、二人(ふたり)ずつの押し手にそのあとを押させ、美濃と信濃(しなの)の国境(くにざかい)にあたる十曲峠(じっきょくとうげ)の険しい坂道を引き上げて来たのでもわかる。その勢いで木曾の奥筋へと通り過ぎて行ったのだ。轍(わだち)の跡を馬籠峠の上にも印(しる)して。
 一行には、半蔵が親しい友人の景蔵、香蔵、それから十四、五人の平田門人が軍の嚮導(きょうどう)として随行して来た。あの同門の人たちの輝かしい顔つきこそ、半蔵が村の百姓らにもよく見てもらいたかったものだ。今度総督を迎える前に、彼はそう思った。もし岩倉公子の一行をこの辺鄙(へんぴ)な山の中にも迎えることができたなら、おそらく村の百姓らは山家の酒を瓢箪(ふくべ)にでも入れ、手造りにした物を皿(さら)にでも盛って、一行の労苦をねぎらいたいと思うほどのよろこびにあふれることだろうかと。彼はまた、そう思った。長いこと百姓らが待ちに待ったのも、今日(きょう)という今日ではなかったか。昨日(きのう)、一昨日(おととい)のことを思いめぐらすと、実に言葉にも尽くされないほどの辛労と艱難(かんなん)とを忍び、共に共に武家の奉公を耐(こら)え続けたということも、この日の来るのを待ち受けるためではなかったかと。さて、総督一行が来た。諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨(えいし)をもたらして来た。地方にあるものは安堵(あんど)して各自に世渡りせよ、年来苛政(かせい)に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨(むね)を本陣に届けいでよと言われても、だれ一人(ひとり)百姓の中から進んで来て下層に働く仲間のために強い訴えをするものがあるでもない。鰥寡(かんか)、孤独、貧困の者は広く賑恤(しんじゅつ)するぞ、八十歳以上の高齢者へはそれぞれ褒美(ほうび)をつかわすぞと言われても、あの先年の「ええじゃないか」の騒動のおりに笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なくこの街道を踊り回ったほどの熱狂が見られるでもない。宿内のものはもちろん、近在から集まって来てこの街道に群れをなした村民は、結局、祭礼を見物する人たちでしかない。庄屋風情(ふぜい)ながらに新政府を護(も)り立てようと思う心にかけては同門の人たちにも劣るまいとする半蔵は、こうした村民の無関心につき当たった。

       二

 御通行後の混雑も、一つ片づき、二つ片づきして、馬籠宿としての会所の残務もどうにか片づいたころには、やがて一切のがやがやした声を取り沈めるような、夕方から来る雨になって行った。慶応四年二月の二十八日のことで、ちょうど会所の事務は問屋九郎兵衛方で取り扱っているころにあたる。これは半蔵の家に付属する問屋場(といやば)と、半月交替で開く従来のならわしによるのである。半蔵はその会所の見回りを済まし、そこに残って話し込んでいる隣家の伊之助その他の宿役人にも別れて、日暮れ方にはもう扉(とびら)を閉じ閂(かんぬき)を掛ける本陣の表門の潜(くぐ)り戸(ど)をくぐった。
「岩倉様の御兄弟(ごきょうだい)も、どの辺まで行かっせいたか。」
 例の囲炉裏ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って、御通行後のうわさをしている。毎日通いで来る清助もまだ話し込んでいる。その日のお泊まりは、三留野(みどの)か、野尻(のじり)かなぞと、そんなうわさに余念もない。半蔵が継母のおまんから、妻のお民まで、いずれもくたびれたらしい顔つきである。子供まで集まって来ている。そこへ半蔵が帰って行った。
「宗太さま、お前さまはどこで岩倉様を拝まっせいたなし。」と佐吉が子供にたずねる。
「おれか。おれは石屋の坂で。」と宗太は少年らしい目をかがやかしながら、「山口(隣村)から見物に来たおじさんがおもしろいことを言ったで――まるで錦絵(にしきえ)から抜け出した人のようだったなんて――なんでも、東下(あずまくだ)りの業平朝臣(なりひらあそん)だと思えば、間違いないなんて。」
「業平朝臣はよかった。」と清助も笑い出した。
「そう言えば、清助さんは福島の御隠居さまのことをお聞きか。」とおまんが言う。
「えゝ、聞いた。」
「あの御隠居さまもお気の毒さ。わざわざ中津川までお出ましでも、岩倉様の方でおあいにならなかったそうじゃないか。」
「そういう話です。」
「まあ、御隠居さまはああいうかたでも、木曾福島の御家来衆に不審のかどがあると言うんだろうね。献上したお馬だけは、それでも首尾よく納めていただいたと言うから。」
「何にしても、福島での御通行は見ものです。」
「しかし、清助さん、大垣(おおがき)のことを考えてごらんな。あの大きな藩でも、城を明け渡して、五百七十人からの人数が今度のお供でしょう。福島の御家中でも、そうはがんばれまい。」
「ですから、見ものだと言うんですよ。そこへ行くと、村の衆なぞは実にノンキなものですね。江戸幕府が倒れようと、御一新の世の中になろうと――そんなことは、どっちでもいいような顔をしている。」
「この時節がらにかい。そりゃ、清助さん、みんな心配はしているのさ。」
 とまたおまんが言うと、清助は首を振って、
「なあに、まるで赤の他人です。」
 と無造作に片づけて見せた。
 半蔵はこんな話に耳を傾けながら、囲炉裏ばたにつづいている広い台所で、家のものよりおそく夕飯の膳(ぜん)についた。その日一日のあと片づけに下女らまでが大掃除のあとのような顔つきでいる。間もなく半蔵は家のものの集まっているところから表玄関の板の間を通りぬけて、店座敷の戸に近く行った。全国にわたって影響を及ぼすとも言うべき、この画期的な御通行のことが自然とまとまって彼の胸に浮かんで来る。何ゆえに総督府執事があれほど布告を出して、民意の尊重を約束したかと思うにつけても、彼は自分の世話する百姓らがどんな気でいるかを考えて、深いため息をつかずにはいられなかった。
「もっと皆が喜ぶかと思った。」
 彼の述懐だ。


 その翌日は、朝から大降りで、半蔵の周囲にあるものはいずれも疲労を引き出された。家(うち)じゅうのものがごろごろした。降り込む雨をふせぐために、東南に向いた店座敷の戸も半分ほど閉(し)めてある。半蔵はその居間に毛氈(もうせん)を敷いた。あだかも宿入りの日を楽しむ人のように、いくらかでも彼が街道の勤めから離れることのできるのは、そうした毛氈の上にでも横になって見る時である。宿内総休みだ。だれも訪(たず)ねて来るものもない。彼は長々と延ばした足を折り重ねて、わびしくはあるが暖かい雨の音をきいていたが、いつのまにかこの街道を通り過ぎて行った薩州(さっしゅう)、長州、土州、因州、それから彦根、大垣なぞの東山道軍の同勢の方へ心を誘われた。
 多数な人馬の足音はまだ半蔵の耳の底にある。多い日には千百五十余人、すくない日でも四百三十余人からの武装した人たちから成る一大集団の動きだ。一行が大垣進発の当時、諸軍の役々は御本営に召され、軍議のあとで御酒頂戴(ごしゅちょうだい)ということがあったとか。土佐の片岡(かたおか)健吉という人は、参謀板垣退助の下で、迅衝隊(じんしょうたい)半大隊の司令として、やはり御酒頂戴の一人(ひとり)であるが、大勢(おおきお)いのあまり本営を出るとすぐ堀溝(どぶ)に落ちたと言って、そのことが一行の一つ話になっていた。こんな些細(ささい)なあやまちにも、薩州や長州は土佐を笑おうとした。薩州の三中隊、長州の二中隊、因州の八小隊、彦根の七小隊に比べると、土佐は東山道軍に一番多く兵を出している。十二小隊から成る八百八十六人の同勢である。それがまたまるで見かけ倒しだなぞと、上州縮(じょうしゅうちぢみ)の唄(うた)にまでなぞらえて愚弄(ぐろう)するものがあるかと思えば、一方ではそれでも友軍の態度かとやりかえす。今にめざましい戦功をたてて、そんなことを言う手合いに舌を巻かせて見せると憤激する高知藩(こうちはん)の小監察なぞもある。全軍が大垣を立つ日から、軍を分けて甲州より進むか進まないかの方針にすら、薩長は土佐に反対するというありさまだ。そのくせ薩軍では甲州の形勢を探らせに人をやると、土佐側でも別に人をやって、たとい途中で薩長と別れても甲州行きを決するがいいと言い出したものもあったくらいだ。半蔵の耳の底にあるのは、そういう人たちの足音だ。それは押しのけ、押しのけるものの合体して動いて行った足音だ。互いのかみ合いだ。躍進する生命のすさまじい真剣さだ。中には、押せ、押せでやって行くものもある。彦根や大垣の寝返りを恐れて、後方を振り向くものは撃つぞと言わないばかりのものもある。まったく、足音ほど隠せないものはない。あるものはためらいがちに、あるものは荒々しく、あるものはまた、多数の力に引きずられるようにしてこの街道を踏んで行った。いかに王師を歓迎する半蔵でも、その競い合う足音の中には、心にかかることを聞きつけないでもない。
「彼を殺せ。」
 その声は、昨日の将軍も実に今日の逆賊であるとする人たちの中から聞こえる。半蔵が多数の足音の中に聞きつけたのもその声だ。いや、これが決して私闘であってはならない、蒼生万民(そうせいばんみん)のために戦うことであらねばならない。その考えから、彼はいろいろ気にかかることを自分の小さな胸一つに納めて置こうとした。どうして、新政府の趣意はまだ地方の村民の間によく徹しなかったし、性急な破壊をよろこばないものは彼の周囲にも多かったからで。
 相変わらず休みなしで、騒ぎ回っているのは子供ばかり。桃の節句も近いころのことで、姉娘のお粂(くめ)は隣家の伏見屋から祝ってもらった新しい雛(ひな)をあちこちとうれしそうに持ち回った。それを半蔵のところにまで持って来て見せた。


 どうやら雨もあがり、あと片づけも済んだ三日目になって見ると、馬籠の宿場では大水の引いて行ったあとのようになった。陣笠(じんがさ)をかぶった因州の家中の付き添いで、野尻宿の方から来た一つの首桶(くびおけ)がそこへ着いた。木曾路行軍の途中、東山道軍の軍規を犯した同藩の侍が野尻宿で打ち首になり、さらに馬籠の宿はずれで三日間梟首(さらしくび)の刑に処せらるるというものの首級なのだ。半蔵は急いで本陣を出、この扱いを相談するために他の宿役人とも会所で一緒になった。
 因州の家中はなかなか枯れた人で、全軍通過のあとにこうしたものを残して行くのは本意でないと半蔵らに語り、自分らの藩からこんなけが人を出したのはかえすがえすも遺憾であると語った。木曾少女(きそおとめ)は色白で、そこいらの谷川に洗濯(せんたく)するような鄙(ひな)びた姿のものまでが旅人の目につくところから、この侍もつい誘惑に勝てなかった。女ゆえに陣中の厳禁を破った。辱(はず)かしめられた相手は、山の中の番太(ばんた)のむすめである。そんな話も出た。
 因州の家中はまた、半蔵の方を見て言った。
「時に、本陣の御主人、拙者は途次(みちみち)仕置場(しおきば)のことを考えて来たが、この辺では竹は手に入るまいか。」
「竹でございますか。それなら、わたしどもの裏にいくらもございます。」
「これで奥筋の方へまいりますと、竹もそだちませんが、同じ木曾でも当宿は西のはずれでございますから。」と半蔵のそばにいて言葉を添えるものもある。
「それは何よりだ。そういうことであったら、獄門は青竹で済ませたい。そのそばに御制札を立てたい。早速(さっそく)、村の大工をここへ呼んでもらいたい。」
 一切の準備は簡単に運んだ。宿役人仲間の桝田屋(ますだや)小左衛門は急いで大工をさがしに出、伏見屋伊之助は青竹を見立てるために本陣の裏の竹藪(たけやぶ)へと走った。狭い宿内のことで、このことを伝え聞いたものは目を円(まる)くして飛んで来る。問屋場の前あたりは大変な人だかりだ。
 その中に宗太もいた。本陣の小忰(こせがれ)というところから、宗太は特に問屋の九郎兵衛に許されて、さも重そうにその首桶(くびおけ)をさげて見た。
「どうして、宗太さまの力に持ちあがらすか。首はからだの半分の重さがあるげなで。」
 そんなことを言って混ぜかえすものがある。それに半蔵は気がついて、
「さあ、よした、よした――これはお前たちなぞのおもちゃにするものじゃない。」
 としかった。
 獄門の場処は、町はずれの石屋の坂の下と定められた。そこは木曾十一宿の西の入り口とも言うべきところに当たる。本陣の竹藪からは一本の青竹が切り出され、その鋭くとがった先に侍の首級が懸(か)けられた。そのそばには規律の正しさ、厳(おごそ)かさを示すために、東山道軍として制札も立てられた。そこには見物するものが集まって来て、うわさはとりどりだ。これは尾州藩から掛け合いになったために、因州軍でも捨てて置かれなかったのだと言うものがある。当月二十六日の夜に、宿内の大野屋勘兵衛方に止宿して、酒宴の上であばれて行ったのも、おおかたこの侍であろうと言って見るものもある。やがて因州の家中も引き揚げて行き、街道の空には夜鷹(よたか)も飛び出すころになると、石屋の坂のあたりは人通りも絶えた。
「どうも、番太のむすめに戯れたぐらいで、打ち首とは、おれもたまげたよ。」
「山の中へでも無理に女を連れ込んだものかなあ。」
「このことは尾州藩からやかましく言い出したげな。領地内に起こった出来事だで。それに、名古屋の御重職も一人、総督のお供をしているで。なにしろ、七藩からの寄り合いだもの。このくらいのことをやらなけりゃ、軍規が保てんと見えるわい。」
 だれが問い、だれが答えるともなく、半蔵の周囲にはそんな声も起こる。
 こうした光景を早く村民から隠したいと考えるのも半蔵である。彼は周囲を見回した。村には万福寺もある。そこの境内には無縁の者を葬るべき墓地もある。早くもとの首桶に納めたい、寺の住持松雲和尚(しょううんおしょう)に立ち会ってもらってあの侍の首級を埋(うず)めてしまいたい、その考えから彼は獄門三日目の晩の来るのを待ちかねた。彼はまた、こうした極刑が新政府の意気込みをあらわすということに役立つよりも、むしろ目に見えない恐怖をまき散らすのを恐れた。庄屋としての彼は街道に伝わって来る種々(さまざま)な流言からも村民を護(まも)らねばならなかった。

       三

 三月にはいって、めずらしい春の大雪は街道を埋(うず)めた。それがすっかり溶けて行ったころ、かねて上京中であった同門の人、伊那(いな)南条村の館松縫助(たてまつぬいすけ)が美濃路(みのじ)を経て西の旅から帰って来た。
 縫助は、先師篤胤(あつたね)の稿本全部を江戸から伊那の谷の安全地帯に移し、京都にある平田家へその報告までも済まして来て、やっと一安心という帰りの旅の途中にある。いよいよ江戸の総攻撃も開始されるであろうと聞いては、兵火の災に罹(かか)らないうちに早くあの稿本類を救い出して置いてよかったという顔つきの人だ。半蔵はこの人を馬籠本陣に迎えて、日ごろ忘れない師鉄胤(かねたね)や先輩暮田正香(くれたまさか)からのうれしい言伝(ことづて)を聞くことができた。
「半蔵さん、わたしは中津川の本陣へも寄って来たところです。ほら、君もおなじみの京都の伊勢久(いせきゅう)――あの亭主(ていしゅ)から、景蔵さんのところへ染め物を届けてくれと言われて、厄介(やっかい)なものを引き受けて来ましたが、あいにくと、また景蔵さんは留守の時さ。あの人も今度は総督のお供だそうですね。わたしは中津川まで帰って来てそのことを知りましたよ。」
 縫助はその調子だ。
 美濃の大垣から、大井、中津川、落合(おちあい)と、順に東山道総督一行のあとを追って来たこの縫助は、幕府の探索方なぞに目をつけられる心配のなかっただけでも、王政第一春の旅の感じを深くしたと言う人である。なんと言っても平田篤胤没後の門人らは、同じ先師の愛につながれ、同じ復古の志に燃えていた。半蔵はまた日ごろ気の置けない宿役人仲間にすら言えないようなことまで、この人の前には言えた。彼が東山道軍を迎える前には、西よりする諸藩の武士のみが総督を護(まも)って来るものとばかり思ったが、実際にこの宿場に総督一行を迎えて見て、はじめて彼は東山道軍なるものの性質を知った。その中堅をもって任ずる土佐兵にしてからが、多分に有志の者で、郷士(ごうし)、徒士、従軍する庄屋、それに浪人なぞの混合して組み立てた軍隊であった。そんなことまで彼は縫助の前に持ち出したのであった。
「いや、君の言うとおりでしょう。王事に尽くそうとするものは、かえって下のものの方に多いかもしれませんね。」
 と縫助も言って見せた。


 旧暦三月上旬のことで、山家でも炬燵(こたつ)なしに暮らせる季節を迎えている。相手は旅の土産話(みやげばなし)をさげて来た縫助である。おまけに、腰は低く、話は直(ちょく)な人と来ている。半蔵は心にかかる京都の様子を知りたくて、暮田正香もどんな日を送っているかと自分の方から縫助にたずねた。
 風の便(たよ)りに聞くとも違って、実地を踏んで来た縫助の話には正香の住む京都衣(ころも)の棚(たな)のあたりや、染物屋伊勢久の暖簾(のれん)のかかった町のあたりを彷彿(ほうふつ)させるものがあった。縫助は、「一つこの復興の京都を見て行ってくれ」と正香に言われたことを半蔵に語り、この国の歴史あって以来の未曾有(みぞう)の珍事とも言うべき外国公使の参内(さんだい)を正香と共に丸太町通りの町角(まちかど)で目撃したことを語った。三国公使のうち、彼は相国寺(しょうこくじ)から参内する仏国公使ロセスを見ることはかなわなかったが、南禅寺を出たオランダ代理公使ブロックと、その書記官の両人が黒羅紗(くろらしゃ)の日覆(ひおお)いのかかった駕籠(かご)に乗って、群集の中を通り過ぎて行くのを見ることができたという。まだ西洋人というものを見たことのない彼が、初めて自己の狭い見聞を破られた時は、夢のような気がしたとか。
 縫助はなお、言葉を継いで、彼と正香とが周囲に群がる人たちと共に、智恩院(ちおんいん)を出る英国公使パアクスを待ったことを語った。これは参内の途中、二人(ふたり)の攘夷家(じょういか)のあらわれた出来事のために沙汰止(さたや)みとなった。彼が暇乞(いとまご)いのために師鉄胤の住む錦小路(にしきこうじ)に立ち寄り、正香らにも別れを告げて、京都を出立して来るころは、町々は再度の英国公使参内のうわさで持ちきっていた。沿道の警戒は一層厳重をきわめ、薩州、長州、芸州、紀州の諸藩からは三十人ずつほどの人数を出してその事に当たり、当日の往来筋は諸人通行留めで、左右横道の木戸も締め切るという評判であった。もはや、周囲の事情はこの国の孤立を許さない。上御一人(かみごいちにん)ですら進んで外国交際の道を開き、万事条約をもって世界の人を相手としなければならない、今後みだりに外国人を殺害したり、あるいは不心得の所業に及んだりするものは、朝命に悖(もと)り、国難を醸(かも)すのみならず、この国の威信にもかかわる不届き至極(しごく)の儀と言われるようになった。その罪を犯すものは士分の者たりとも至当の刑に処せられるほどの世の中に変わって来た。京都を中心にして、国是を攘夷に置いた当時を追想すると、実に隔世の感があったともいう。
「しかし、半蔵さん、今度わたしは京都の方へ行って見て、猫(ねこ)も杓子(しゃくし)も万国公法を振り回すにはたまげました。外国交際の話が出ると、すぐ万国公法だ。あれにはわたしも当てられて来ましたよ。あれだけは味噌(みそ)ですね。」
 これは、縫助が半蔵のところに残して行った言葉だ。
 伊那の谷をさして、広瀬村泊まりで立って行った客を送り出した後、半蔵はひとり言って見た。
「百姓にだって、ああいう頼もしい人もある。」

       四

 一行十三人、そのいずれもが美濃の平田門人であるが、信州下諏訪(しもすわ)まで東山道総督を案内して、そこから引き返して来たのは、三日ほど後のことである。一行は馬籠宿昼食の予定で、いずれも半蔵の家へ来て草鞋(わらじ)の紐(ひも)を解いた。
 本陣の玄関先にある式台のところは、これらの割羽織に帯刀というものものしい服装(いでたち)の人たちで混雑した。陣笠(じんがさ)を脱ぎ、立附(たっつけ)の紐をほどいて、道中のほこりをはたくものがある。足を洗って奥へ通るものがある。
「さあ、どうぞ。」
 まッ先に玄関先へ飛んで出て、客を案内するのは清助だ。
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