夜明け前
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著者名:島崎藤村 

 その時、オランダ人の参内を見送った群集はさらに英国公使の一行を待ち受けた。これは随行の赤備兵(あかぞなえへい)を引率していて、一層華々(はなばな)しい見ものであろうという。ところが智恩院を出たはずの公使らの一行が、待っても、待ってもやって来ない。しまいには正香らはあきらめて、なおも辛抱強くそこに立ち尽くしている多勢の男や女の群れから離れた。
「暮田さん、なんだかわたしは夢のような気がする。」
 正香と一緒に歩き出した時の縫助の述懐だ。


 京都は、東征軍の進発に、諸藩の人々の動きに、諸制度の改変に、あるいは破格な外国使臣の参内に、一切が激しく移り変わろうとするまっ最中にある。
「縫助さん、よく君は出て来た。まあ、この復興の京都を見てくれたまえ。」
 口にこそ出さなかったが、正香はそれを目に言わせて、その足で堺町通りの角(かど)から丸太町を連れと一緒に歩いて行った。そこは平田門人仲間に知らないもののない染め物屋伊勢久(いせきゅう)の店のある麩屋町(ふやまち)に近い。正香自身が仮寓(かぐう)する衣(ころも)の棚(たな)へもそう遠くない。
 正香が連れの縫助は、号を千足(ちたり)ともいう。伊那時代からの正香のなじみである。この人の上京は自身の用事のためばかりではなかった。旧冬十一月の二十二日に徳川慶喜が将軍職を辞したころから、国政は再び復古の日を迎えたとはいうものの、東国の物情はとかく穏やかでないと聞いて、江戸にある平田篤胤(あつたね)の稿本類がいつ兵火の災に罹(かか)るやも知れないと心配し出したのは、伊那の方にある先師没後の門人仲間である。座光寺村の北原稲雄が発起(ほっき)で、伊那の谷のような安全地帯へ先師の稿本類を移したい、一時それを平田家から預かって保管したい、それにはだれか同門のうちで適当な人物を江戸表へ送りたいとなった。その使者に選ばれたのが館松縫助なのだ。縫助はその役目を果たし、稿本類の全部を江戸から運搬して来て、首尾よく座光寺村に到着したのは前年の暮れのことであった。当時そのことは京都にある師鉄胤(かねたね)のもとへ書面で通知してあったが、なお、縫助は今度の上京を機会に、その報告をもたらして来たのである。
 正香としては、このよろこばしい音信(おとずれ)を伊勢久の亭主(ていしゅ)にも分けたかった。日ごろ懇意にする亭主に縫助をあわせ、縫助自身の口から故翁の草稿物の無事に保管されていることを亭主にも聞かせたかった。染め物屋とは言いながら、理解のある義気に富んだ町人として、伊勢屋久兵衛(きゅうべえ)の名は縫助もよく聞いて知っている。
「どうです、縫助さん、出て来たついでだ。一つ伊勢久へも寄っておいでなさるサ。」
 と言って、正香は連れを誘った。


 御染物所。伊勢屋とした紺暖簾(こんのれん)の見える麩屋町のあたりは静かな時だ。正香らが店の入り口の腰高な障子をあけて訪れると、左方の帳場格子(ちょうばごうし)のところにただ一人留守居顔な亭主を見つけた。ここでも家のものや店員は皆、異人見物の方に吸い取られている。
「これは。これは。」
 正香と連れだっての縫助の訪問が久兵衛をよろこばせた。
「さあ、どうぞ。」
 とまた久兵衛は言いながら、奥から座蒲団(ざぶとん)などを取り出して来て、その帳場格子のそばに客の席をつくった。
 久兵衛もまた平田門人の一人であった。この人は町人ながらに、早くから尊王の志を抱(いだ)き、和歌をも能(よ)くした。幕末のころには、彼のもとをたよって来る勤王の志士も多かったが、彼はそれを懇切にもてなし、いろいろと斡旋(あっせん)紹介の労をいとわなかった。文久年代に上京した伊那伴野(ともの)村の松尾多勢子(まつおたせこ)、つづいて上京した美濃中津川(みのなかつがわ)の浅見景蔵(あさみけいぞう)、いずれもまず彼のもとに落ちついて、伊勢屋に草鞋(わらじ)をぬいだ人たちだ。南信東濃地方から勤王のため入洛(じゅらく)を思い立って来る平田の門人仲間で、彼の世話にならないものはないくらいだ。
「この正月になりましてから、伊那からもだいぶお見えでございますな。」
 と久兵衛は縫助に言って見せて、王政復古の声を聞くと同時に競って地方から上京して来るもの、何がな王事のために尽くそうとするものなぞの名を数えた。祭政一致をめがけて神葬古式の復旧運動に奔走する倉沢義髄(よしゆき)と原信好(のぶよし)、榊下枝(さかきしずえ)の変名で岩倉家に身を寄せる原遊斎(ゆうさい)、伊那での長い潜伏時代から活(い)き返って来たような権田直助(ごんだなおすけ)、その弟子(でし)井上頼圀(いのうえよりくに)、それから再度上京して来て施薬院(せやくいん)[#「施薬院」は底本では「施楽院」]の岩倉家に来客の応接や女中の取り締まりや子女の教育なぞまで担当するようになった松尾多勢子――数えて来ると、正月以来京都に集まっている同門の人たちは、伊那方面だけでも久兵衛の指に折りきれないほどあった。そう言えば、師の平田鉄胤も今では全家をあげて京都に引き移っていて、参与として新政府の創業にあずかる重い位置にある。
「どれ、お茶でも差し上げて、それからお話を伺うとしましょう。あいにく、家のものを皆出してしまいました。」
 そう言いながら久兵衛は奥の方へ立って行って、こまかい大坂格子のかげで茶道具などを取り出す音をさせた。
 その時、正香はそこの店先にすわり直して、縫助と二人で話した。
「久兵衛さんもおもしろい人ですね。この店では篤胤先生の本を売りますよ。気吹(いぶき)の舎(や)の著述なら、なんでもそろえてありますよ。染め物のほかに、官服の注文にも応じるしサ。まあ商売(あきない)をしながら、道をひろめているんですね。」
「へえ、これはよいお店だ。」
 その店先は、亭主が帳場格子のところにいて染め物の仕事場を監督する場所である。正香は仕事場の方を縫助にさして見せた。入り口から裏の物干し場へ通りぬけられるような土間をへだててその仕事場がある。そこはなかなか広い仕事場であるが、周囲の格子をしめきるとすこぶる薄暗い。しかし三尺もの下壁と言わず、こまかく厚手なぶッつけ格子と言わず、がっしりとした構造は念の入ったものである。正香はまた、四つずつ一組としてある藍瓶(あいがめ)を縫助にさして見せた。わざと暗くしてあるような仕事場の格子を通して、かすかな光線がそこにさし入っている。幾組か並んだ瓶(かめ)の中の染料には熱が加えてあると見えて、静かに沸く藍の香がその店先までにおって来ている。
 久兵衛は自分で茶を入れて来た。それを店先へ運んで来た。その深い茶碗(ちゃわん)の形からして商家らしいものを正香らの前に置き、色も香ばしそうによく出た煎茶(せんちゃ)を客にもすすめ、自分でも飲みながら、
「館松(たてまつ)さんは、もう錦小路(にしきこうじ)(鉄胤の寓居(ぐうきょ)をさす)をお訪(たず)ねでございましたか。」
 こんな話を始めかけると、入り口の障子のあく音がして、家のものが一緒に異人見物からどやどやと戻(もど)って来た。とうとう英国公使だけは見えなかったと言うものがある。こっそりそばへ行ってあのオランダ人のにおいをかいで見たら、どんな異人臭いものかと言うものがある。「いやらし、いやらし」などと言う若い娘の声もする。


 隠れたところにいて同門の人たちのために働いているような久兵衛は、先師稿本の類が伊那の方に移されたことを聞いたあとで、さらに話しつづけた。
「さぞ老先生(鉄胤のこと)も御安心でございましょう。」
「なにしろ、王政復古の日が来たばかりのごたごたした中で、七十何里もあるところに運搬しようというんですから。」と正香が言って見せる。
「そいつは、なかなか。」と久兵衛も言う。
「いや、」と縫助はその話を引き取った。「わたしが江戸へ出ました時は、平田家でも評議の最中でした。江戸も騒がしゅうございましたよ。早速(さっそく)、お見舞いを申し上げて、それから保管方を申し出ましたところ、大変によろこんでくださいました。道中が心配になりましたから、護(まも)りの御符(ごふ)は白河家(しらかわけ)(京都神祇伯(じんぎはく))からもらい受けました。それを荷物に付けるやら、自分で宰領をするやらして、たくさんな稿本や書類を馬で運搬したわけなんです。昨年、十二月の十八日に座光寺へ着きましたが、あの時は北原稲雄もわたしの手を執ってよろこびました。田島の前沢万里、今村豊三郎(とよさぶろう)、いずれもこの事には心配して、路用なぞを出し合った仲間です。」
 こんな話が尽きなかった。
 旅にある縫助はその日と翌日とを知人の訪問に費やし、出て来たついでに四条の雛市(ひないち)を見、寄れたら今一度正香のところへも寄って、京都を辞し去ろうという人であった。彼は正香の言うように、それほどこの復興の京都に浸(ひた)って見る時を持たないまでも、ともかくも師鉄胤の家を訪ね、正香と旧(ふる)い交わりを温(あたた)め、伊勢久の店先に旅の時を送るというだけにも満足していた。
 この縫助が礼を述べて立ちかけるので、久兵衛はそれを引きとめるようにして、
「オヤ、もうお帰りでございますか。何もおかまいいたしませんでした。」
 その時、久兵衛は染め物屋らしいことを言い出した。昨年の三月、諒闇(りょうあん)の春を迎えたころから再度の入洛を思い立って来て、正香らと共にずっと奔走を続けていた人に中津川本陣の浅見景蔵がある。東山道先鋒(せんぽう)兼鎮撫(ちんぶ)総督の一行が美濃(みの)を通過すると知って、にわかに景蔵は京都の仮寓(かぐう)を畳(たた)み、郷里をさして帰って行った。その節、注文の染め物を久兵衛のもとに残した。こんな街道筋の混雑する時で、それを送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいというのであった。
「暮田さん、あなたからもお願いしてください。」と久兵衛は手をもみもみ言った。「初めてお目にかかったかたに、こんなことをお願いしちゃ失礼ですけれど。」
「なあに、そこは万国公法の世の中だもの。」と正香が戯れて見せた。
「それ、それ、」と久兵衛も軽く笑って、「近ごろはそれが大流行(おおはやり)。」
「縫助さん、君もその意気で預かって行くさ。」とまた正香が言い添える。
「暮田さんらしいトボけたことを言い出したぞ。」と縫助まで一緒になって笑い出した。「わたしも今度京都へ出て来て見て、皆が万国公法を振り回すには驚きましたね。では、こうします。立つ前に、もう一度暮田さんを訪(たず)ねます。その時に伊勢屋さんへもお寄りします。」


 英国公使パアクスの上京には新政府でもことに意を用いた。大坂を立つ時は小松帯刀(たてわき)と伊藤俊介とが付き添い、京都にはいった時は中井弘蔵と後藤象次郎とが伏見稲荷(いなり)の辺に出迎え、無事に智恩院の旅館に到着した。この公使の一行が赤い軍服を着けた英国の護衛兵(いわゆる赤備兵)を引率し、あるいは騎馬、あるいは駕籠(かご)で、参内のために智恩院新門前通りから繩手通(なわてどお)りにかかった時だ。そこへ二人の攘夷家が群集の中から飛び出したのであった。かねて新政府ではこんなことのあるのを憂い、各藩からは二十人以上の兵隊を出させ、通行の道筋を厳重に取り締まらせ、旅館の近傍へは屯兵所(とんぺいじょ)を設けて昼夜怠りなき回り番の手配りまでしたほどであったのに、新政府が万国交際の趣意もよく攘夷家に徹しなかったのであろう。それ乱暴者だと言って、一行護衛の先頭にあった兵隊が発砲する、群集は驚いて散乱する、その間に壮漢らの撃ち合いが行なわれた。中井弘蔵と後藤象次郎とは公使の接待役として、その時も行列の中にあったが、後藤は赤備兵の中へしゃにむに斬(き)り込んで来たもののあるのを見て、刀を抜いて一名を斃(たお)した。二度目に後藤の刀の目釘(めくぎ)が抜けて、その刀が飛んだ。そこで中井が受けた。中井は受けそこねて、頭部を斬られながらその場に倒れた。一名が兵隊のため生捕(いけど)りにされて、この騒ぎはようやくしずまったが、赤備兵の中には八、九人の手負いを出した。騎馬で行列の中にあったパアクスその人は運強くも傷つけられなかったとはいえ、参内はこの変事のために見合わせになった。さてこそ英国公使の通行を見なかったのである。一方には、紫宸殿(ししんでん)での御対面の式がパアクス以外の二国公使に対して行なわれた。新帝は御袴(おんはかま)に白の御衣(ぎょい)で、仏国のロセスとオランダのブロックとに拝謁を許された。式後の公使には鶴(つる)の間(ま)で、菓子カステラなどを饗(きょう)せられたという。従来、徳川将軍の時代にもまれに外国使節の謁見を許したが、しかし将軍の態度はすこぶる尊大であったのに、その跪坐低頭(きざていとう)の礼をすら免じ、帝みずから親しく異邦人を引見せられるばかりか、彼らをして直立して帝の尊顔を拝することを得せしめたもうたとある。この一事だけでも、彼らフランス人やオランダ人の間には信じがたいほどの大改革の感を与えたという。しかし、繩手通りでの変事がロセスらに知られずにはいなかった。式の終わったあとで、接待役と通詞とを兼ねた伊藤俊介が二公使を接待席に伴ない、その時までロセスに示さずにあったパアクスからの書面を取り出して見せた。それは英国の一騎兵がパアクスの使いとして仏国公使あてに持参したものだ。ロセスはそれを読むと、たちまち顔色を変え、「暴動がある。」と叫びながらそこそこに暇(いとま)を告げて、単騎で智恩院へ駆けつけた。そしてパアクスに向かって、すみやかに兵庫へ帰ろう、軍艦で横浜の方へおもむこうと説き勧めたという。でも、パアクスは頭を左右に振って、仏国公使の勧めに応じなかったとか。
 これらの話をもって、翌日の午後にまた正香は久兵衛を見に寄った。衣(ころも)の棚(たな)の方へ暇乞(いとまご)いに来た縫助とも同道で、二人して伊勢久の店先に腰掛けた。
「どうも驚きましたね。」
 久兵衛は奥からそこへ飛んで出て来て言った。店先に腰掛けるものも、火鉢(ひばち)なぞを引き寄せて客を迎えるものも、互いに顔を見合わせた。
「昨日は、岩倉様が見舞いに行く、越前の殿様(春嶽)が見舞いに行く、智恩院も大変だったそうです。」とまた久兵衛が言い出した。「昨晩はみんな心配したようですよ。」
「でも、パアクスもおもしろい男じゃありませんか。」と正香は言った。「引き連れて来た兵士に傷を負ったものは多いんだけれど、自分も、士官らも、中井、後藤二氏の奮闘のおかげで助かった、今ここで謁見の式も済まさずに帰ってしまったら、皇帝陛下に対しても不敬に当たるだろう――そう言ったそうだ。」
「さあ、この処置はどう収まるものですかサ。すくなくも六、七万両ぐらいの償金は取られるだろうなんて、そんなうわさでございますよ。」
 その時になると、二日を置いて改めて英国公使の参内があると触れ出されたが、町々の取り締まりは一層厳重をきわめるようになった。久兵衛は帳場格子のところへ立って行って、町役人から回って来たばかりの触れ書を取り出して来た。それを正香にも縫助にも見せた。来たる英国公使参内の当日には、繩手通り、三条通りから、堺町の往来筋へかけて、巳(み)の刻(こく)より諸人通行留めの事とある。左右横道の木戸は締め切りの事とある。往来筋に住居(すまい)する町家その他の家族と召使いのほかは、他人一切の滞留を差し留めるともある。
「ホ、」と縫助は目を円(まる)くして、「公用はもちろん、私用でも、町役人の免許を得ないものは通行を許さないとありますね。ぐずぐずしてると、わたしは国の方へ立てなくなる。」
「今は京都も騒がしゅうございますよ。諸藩の人が入り込んでおります。こんな新政府は今にひっくりかえるなんて、内々そんな腹でいるものもございます――なかなか油断はなりません。」
 久兵衛は言葉に力を入れてそれを縫助に言って見せた。
 そこへ久兵衛の養子が奥から顔を出した。店には平田篤胤(あつたね)の遺著でも取りそろえて置こうというような町人気質(かたぎ)の久兵衛とも違って、その養子はまた染め物屋一方という顔つきの人だ。手も濃い藍(あい)の色に染まっている。久兵衛はその人に言い付けて、帳箪笥(ちょうだんす)の横手にある戸棚(とだな)から紙包みを取り出させた。その上に、「御誂(おあつらえ)、伊勢久」としてあるのを縫助の前に置いた。
「では、恐れ入りますが、これを中津川の浅見景蔵さんへ届けていただきたい。道中のお荷物になって、お邪魔でしょうけれど。」と言って、久兵衛は養子の方を顧みて、「ちょっとお客様にお目にかけるか。」
「よい色に上がりましたよ。」と養子も紙包みを解きながら言った。
「これはよい黒だ。」と正香が言う。
「京の水でなければこの色は出ません。江戸紫と申して、江戸の水は紫に合いますし、京の水はまた紅(べに)によく合います。京紅と申すくらいです。この羽織地(はおりじ)の黒も下染めには紅が使ってございます。」
 久兵衛は久兵衛らしいことを言った。


「確かに。」
 その言葉を残して置いて、縫助は久兵衛に別れを告げた。預かった染め物の風呂敷包(ふろしきづつ)みをも小脇(こわき)にかかえながら、やがて彼は紺地に白く伊勢屋と染めぬいてある暖簾(のれん)をくぐって出た。
「縫助さん、わたしもそこまで一緒に行こう。」
 と言いながら正香は縫助のあとを追って行った。
 外国人滞在中は、乗輿(じょうよ)、および乗馬のまま九門の通行を許すというだけでも、今までには聞かなかったことである。一事が実に万事であった。一切の破格なことがかもし出す空気は、この山の上の古い都に活(い)き返るような生気をそそぎ入れつつあった。
「とにかく、世界の人を相手にするような時世にはなって来ましたね。」
 伊那南条村の片田舎(かたいなか)から出て来て見た縫助にこの述懐があるばかりでなく、王政復古を迎えた日は、やがて万国交際の始まった日であったとは、正香にとっても決しておろそかには考えられないことであった。
 縫助は三条の方角をさして、正香と一緒に麩屋町(ふやまち)から寺町の通りに出ながら、
「暮田さん、今度わたしは京都に出て来て見て、そう思います。なんと言っても今のところじゃ藩が中心です。藩というものをそれぞれ背負(しょ)って立ってる人たちは、思うことがやれる。ところが、われわれ平田門人はいずれも医者か、庄屋(しょうや)か、本陣問屋(といや)か、でなければ百姓町人でしょう。」
「そう言えば、そうさ。平田門人の大部分は。」
「でしょう。みんな縁の下の力持ちです。それでも、どうかして新政府を護(も)り立てようとしています。それを思うと、いたいたしい。」
「しかし、縫助さん、君は平田門人が下積みになってるものばかりのように言うが、士分のものだってなくはない。」
「そうでしょうか。」
「見たまえ、こないだわたしは鉄胤(かねたね)先生のところで、天保(てんぽう)時代の古い門人帳を見せてもらったが、あの時分の篤胤直門(じきもん)は五百四十九人ぐらいで、その中で七十三人が士分のものさ。全国で十七藩ぐらいから、そういう人たちを出してるよ。最も多い藩が十四人、最も少ない藩が一人(ひとり)というふうにね。鹿児島(かごしま)、津和野(つわの)、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台(せんだい)――数えて来ると、同門の藩士もふえて来たね。山吹(やまぶき)、苗木(なえぎ)なぞは言うまでもなしさ。あの時分の十七藩が、今じゃ三十五藩ぐらいになってやしないか。そこだよ、君――各藩は今、大きな問題につき当たって、だれもが右往左往してる。勤王か、佐幕かだ。こういう時に、平田篤胤没後の門人が諸藩の中にもあると考えて見たまえ。あの越前藩の中根雪江が、春嶽公と同藩の人たちとの間に立って、勤王を鼓吹してるなぞは、そのよい例じゃないかと思うね。それから、越前には君、橘曙覧(たちばなあけみ)のような同門の歌人もあるよ――もっとも、この人は士分かどうか、その辺はよく知らないがね。」
「とにかく、暮田さん。同門の人たちが急にふえて来たことは、驚くようですね。他の土地は知りませんが、あなたが伊那に来て隠れていた時分、一年の入門者は二十人くらいのものでしたろう。それでもあの谷じゃ、七人か九人から急に二十人の入門者ができたと言って、みんな肩身が広くなったように思ったものです。どうでしょう、昨年の冬からこの春へかけて、一息に百人という勢いですぜ。」
「この調子で行ったら、全国の御同門は今に三千人を越えるだろうね。そりゃ君、士分のものばかりじゃない。堂上の公卿(くげ)衆にだって、三十人近い御同門のかたができて来たからね。こんなに故人の平田篤胤を師と頼んで来る人のあるのは、どういう理由(わけ)かと尋ねて見るがいい。あの篤胤先生には『霊(たま)の真柱(まはしら)』という言葉がある……そうさ、魂の柱さ。そいつを皆が失っているからじゃないかね……今の時代が求めるものは、君、再び生きるということじゃなかろうか……」
 しばらく二人(ふたり)は黙って寺町の通りを歩いて行った。そのうちに、縫助は何か言い出そうとして、すこし躊躇(ちゅうちょ)して、また始めた。
「暮田さん、ここまで送って来ていただけばたくさんです。あすの朝はわたしも早く立ちます。大津経由で、木曾(きそ)街道の方に向かいます。ここでお別れとしましょう。」
「まあもうすこし一緒に行こう。」
「どうでしょう、暮田さん、沢家のお邸(やしき)の方へは何か報告が来るんでしょうか。東山道回りの鎮撫(ちんぶ)総督も行き悩んでいるようですね。」
「どうも、そうらしい。」
「あれで美濃にはいろいろな藩がありますからね。中には、佐幕でがんばってるところもありますからね。」
「これから君の足で木曾街道を下って行ったら、大垣(おおがき)あたりで総督の一行に追いつきゃしないか。」
「さあ」
「中津川の浅見君にはよろしく言ってくれたまえ。それから、君が馬籠峠(まごめとうげ)を通ったら、あそこの青山半蔵の家へも声をかけて行ってもらいたい。」
 とうとう、正香は縫助について、寺町の通りを三条まで歩いた。さらに三条大橋のたもとまで送って行った。その河原(かわら)は正香にとって、通るたびに冷や汗の出るところだ。過ぐる文久三年の二月、同門の師岡正胤(もろおかまさたね)ら八人のものと共に、彼が等持院にある足利尊氏(あしかがたかうじ)以下、二将軍の木像の首を抜き取って、幕府への見せしめのため晒(さら)し物としたのも、その河原だ。そこには今、徳川慶喜征討令を掲げた高札がいかめしく建てられてあるのを見る。川上の橋の方から奔(はし)り流れて来る加茂川(かもがわ)の水に変わりはないまでも、京都はもはや昨日の京都ではない。人心を鼓舞するために新しく作られた「宮さま、宮さま」の軍歌は、言葉のやさしいのと流行唄(はやりうた)の調子に近いのとで、手ぬぐいに髪を包んでそこいらの橋のたもとに遊んでいるような町の子守(こも)り娘の口にまで上っていた。


[#改頁]



     第三章

       一

 東海、東山、北陸の三道よりする東征軍進発のことは早く東濃南信の地方にも知れ渡った。もっとも、京都にいて早くそのことを知った中津川の浅見景蔵が帰国を急いだころは、同じ東山道方面の庄屋(しょうや)本陣問屋(といや)仲間で徳川慶喜(よしのぶ)征討令が下るまでの事情に通じたものもまだ少なかった。
 今度の東山道先鋒(せんぽう)は関東をめがけて進発するばかりでなく、同時に沿道諸国鎮撫(ちんぶ)の重大な使命を兼ねている。本来なら、この方面には岩倉公の出馬を見るべきところであるが、なにしろ公は新政府の元締めとも言うべき位置にあって、自身に京都を離れかねる事情にあるところから、岩倉少将(具定(ともさだ))、同八千丸(やちまる)(具経(ともつね))の兄弟(きょうだい)の公達(きんだち)が父の名代(みょうだい)という格で、正副の総督として東山道方面に向かうこととなったのである。それには香川敬三、伊地知正治(いじちまさはる)、板垣退助(いたがきたいすけ)、赤松護之助(あかまつもりのすけ)らが、あるいは参謀として、あるいは監察として随行する。なお、この方面に総督を護(まも)って行く役目は薩州(さっしゅう)、長州、土州、因州の兵がうけたまわる。それらの藩から二名ずつを出して軍議にも立ち合うはずである。景蔵はその辺の事情を友人の蜂谷香蔵(はちやこうぞう)にも、青山半蔵にも伝え、互いに庄屋なり本陣なり問屋なりとして、東山道軍の一行をあの街道筋に迎えようとしていた。
 幕府廃止以来、急激な世態の変化とともに、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を現出した地方もある中で、景蔵らの住む東濃方面は尾州藩の行き届いた保護の下にあった。それでも人心の不安はまぬかれない。景蔵が帰国を急いだはこの地方の動揺の際だ。


 青山半蔵は馬籠(まごめ)本陣の方にいて、中津川にある二人(ふたり)の友人と同じように、西から進んで来る東山道軍を待ち受けた。だれもが王政一新の声を聞き、復興した御代(みよ)の光を仰ごうとして、競って地方から上京するものの多い中で、あの景蔵がわざわざ京都の方にあった仮寓(かぐう)を畳(たた)み、師の平田鉄胤(かねたね)にも別れを告げ、そこそこに美濃(みの)の郷里をさして帰って来たについては、深い理由がなくてはかなわない。半蔵は日ごろ敬愛するあの年上の友人の帰国から、いろいろなことを知った。伝え聞くところによると、東山道総督として初陣(ういじん)の途に上った岩倉少将はようやく青年期に達したばかりのような年ごろの公子である。兄の公子がその若さであるとすると、弟の公子の年ごろは推して知るべしである。いかに父の岩倉公が新政府の柱石とも言うべき公卿(くげ)であり、現に新帝の信任を受けつつある人とは言いながら、その子息らはまだおさなかった。沿道諸藩の思惑(おもわく)もどうあろう。それに正副の総督を護(まも)って来る人たちがいずれ一騎当千の豪傑ぞろいであるとしても、おそらく中部地方の事情に暗い。これは捨て置くべき場合でないと考えたあの友人のあわただしい帰国が、その辺の消息を語っている。半蔵は割合に年齢(とし)の近い中津川の香蔵を通して、あの年上の友人の国をさして急いで来た心持ちを確かめた。
 そればかりでない、帰国後の景蔵は香蔵と力をあわせ、東濃地方にある平田諸門人を語らい、来たるべき東山道軍のためによき嚮導者(きょうどうしゃ)たることを期している。それを知った時は半蔵の胸もおどった。できることなら彼も二人の友人と行動を共にしたかった。でも、木曾福島(きそふくしま)の代官山村氏の支配の下にある馬籠の庄屋に、それほどの自由が許されるかどうかは、すこぶる疑問であった。
 東山道総督執事の名で、この進軍のため沿道地方に働く人民を励まし、またその応援を求める意味の布告が発せられたのは、すでに正月のころからである。半蔵は幾たびか木曾福島の方から回って来るお触れ状を読んだ。それは木曾谷中を支配する地方(じかた)御役所よりの通知で、尾張藩(おわりはん)からの厳命に余儀なくこんな通知を送るとの苦(にが)い心持ちが言外に含まれていないでもない。名古屋方と木曾福島の山村氏が配下との反目はそんなお触れ状のはじにも隠れた鋒先(ほこさき)をあらわしていた。ともあれ、半蔵はそれを読んで、多人数入り込みの場合を予想し、人夫の用意から道橋の修繕までを心がける必要があった。各宿とも旅客用の夜具蒲団(ふとん)、膳椀(ぜんわん)の類(たぐい)を取り調べ、至急その数を書き上ぐべきよしの回状をも手にした。皇軍通行のためには、多数の松明(たいまつ)の用意もなくてはならない。木曾谷は特に森林地帯とあって、各村ともその割り付けに応ずべきよしの通知もやって来た。
 半蔵は会所の方へ隣家の伊之助(いのすけ)その他の宿役人を集めて相談する前に、まず自分の家へ通(かよ)って来る清助と二人でその通知を読んで見た。各村とも三千把(ぱ)から三千五百把ずつの松明を用意せよとある。これは馬籠(まごめ)宿の囲いうちにのみかぎらない。上松(あげまつ)、須原(すはら)、野尻(のじり)、三留野(みどの)、妻籠(つまご)の五宿も同様であって、中には三留野宿の囲いうちにある柿其村(かきそれむら)のように山深いところでは、一村で松明七千把の仕出し方を申し付けられたところもある。
 清助は言った。
「半蔵さま、御覧なさい。檜木(ひのき)類の枝を伐採する場所と、元木(もとぎ)の数をとりしらべて、至急書面で届け出ろとありますよ。つまり、木曾山は尾州の領分だから、松明(たいまつ)の材料は藩から出るという意味なんですね。へえ、なかなかこまかいことまで言ってよこしましたぞ。元木の痛みにならないように、役人どもにおいてはせいぜい伐採を注意せよとありますよ。いずれ御材木方も出張して、お取り締まりもある、御陣屋最寄(もよ)りの場所はそこへ松明を取り集めて置いて、入り用の節に渡すはずであるから、その辺のことを心得て不締まりのないようにいたせ、ともありますよ。」
 どうして、これらの労苦の負担は木曾地方の人民にとって決して軽くない。その通知によれば、馬籠村三千把、山口村三千五百把、湯舟沢村三千五百把とあって、半蔵が世話すべき宿内に割り当てられた分だけでも、松明(たいまつ)一万把の仕出し方を申し付けられたことになる。しかし彼はどんなにでもして、村民を励まし、奮ってこの割り付けに応じさせようとしていた。
 それほど半蔵は王師を迎える希望に燃えていた。どれほどの忍耐を重ねたあとで、彼も馬籠の宿場に働く人たちと共に、この新しい春にめぐりあうことができたろう。その心から、たとい中津川の友人らと行動を共にし得ないまでも、一庄屋としての彼は自分の力にできるだけのことをして、来たるべき東山道軍を助けようとしていた。かねて新時代の来るのを待ち切れないように、あの大和(やまと)五条にも、生野(いくの)にも、筑波山(つくばさん)にも、あるいは長防二州にも、これまで各地に烽起(ほうき)しつつあった討幕運動は――実に、こんな熾仁親王(たるひとしんのう)を大総督にする東征軍の進発にまで大きく発展して来た。

 地方の人民にあてて東山道総督執事が発した布告は、ひとりその応援を求める意味のものにとどまらない。どんな社会の変革でも人民の支持なしに成し就(と)げられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならない。万事草創の際で、新政府の信用もまだ一般に薄かった。東山道総督の執事はそのために、幾たびか布告を発して、民意の尊重を約束した。このたび勅命をこうむり進発する次第は先ごろ朝廷よりのお触れのとおりであるが、地方にあるものは安堵(あんど)して各自の世渡りせよ。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来苛政(かせい)に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその旨(むね)を本陣に届けいでよ。総督の進発については、沿道にある八十歳以上の老年、および鰥寡(かんか)、孤独、貧困の民どもは広く賑恤(しんじゅつ)する。忠臣、孝子、義夫、および節婦らの聞こえあるものへは、それぞれ褒美(ほうび)をやる思(おぼ)し召しであるから、諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べ、書面をもって本陣へ申し出よ。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨(えいし)であるぞ、と触れ出されたのもこの際である。
 こんなふうに、新政府が地方人民を頼むことの深かったのも、一つは新政府に対する沿道諸藩が向背(こうはい)のほども測りがたかったからで。最初、伏見鳥羽(ふしみとば)の戦いが会津(あいづ)方の敗退に終わった時、東山道方面の諸藩ではその出来事を先年八月十八日の政変に結びつけて、あの政変が逆に行なわれたぐらいに考えるものが多かった。もとより沿道の諸藩にもいろいろある。それぞれ領地の事情を異にし、旧将軍家との関係をも異にしている。中には、大垣藩(おおがきはん)のように直接に伏見鳥羽の戦いに参加して、会津や桑名を助けようとしたようなところがなくもない。しかし、京都の形勢に対しては、各藩ともに多く観望の態度を執った。慶喜が将軍職の位置を捨てて京都二条城を退いたと聞いた時にも、各藩ともにそれほど全国的な波動が各自の城下にまで及んで来ると思うものもなかった。その慶喜が軍艦で江戸の方へ去ったと聞いた時にすら、各藩の家中衆はまだまだ心を許していた。日本の国運循環して、昨日の将軍は実に今日の逆賊であると聞くようになって、それらの家中衆はいずれもにわかに強い衝動を受けた。その衝動は非常な藩論の分裂をよび起こした。これまで賊徒に従う譜代臣下の者たりとも、悔悟憤発(ふんぱつ)して国家に尽くす志あるの輩(ともがら)は寛大の思し召しをもって御採用あらせらるべく、もしまた、この時節になっても大義をわきまえずに、賊徒と謀(はかりごと)を通ずるような者は、朝敵同様の厳刑に処せられるであろう。この布告が東山道総督執事の名で発表せらるると同時に、それを読んだ藩士らは皆、到底現状の維持せられるべくもないことを知った。さすがに、ありし日の武家時代を忘れかねるものは多い。あるいは因循姑息(いんじゅんこそく)のそしりをまぬかれないまでも、君侯のために一時の安さをぬすもうと謀(はか)るものがあり、あるいは両端を抱(いだ)こうとするものがある。勤王か、佐幕か――今や東山道方面の諸藩は進んでその態度を明らかにすべき時に迫られて来ていた。
 慶喜と言えば、彼が過ぐる冬十月の十二日に大小目付(めつけ)以下の諸有司を京都二条城の奥にあつめ、大政奉還の最後の決意を群臣に告げた時、あるいは政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないかと言って、退位後の諸藩の末を案じながら将軍職を辞して行ったのもあの慶喜だ。いかにせば幕府の旧勢力を根からくつがえし、慶喜の問題を処分し、新国家建設の大業を成し就(と)ぐべきやとは、当時京都においても勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た問題である。よろしく衆議を尽くし、天下の公論によるべしとは、後年を待つまでもなく、早くすでに当時に萌(きざ)して来た有力な意見であった。この説は主として土佐藩の人たちによって唱えられたが、これには反対するものがあって、衆議は容易に決しなかった。剣あるのみ、とは薩摩(さつま)の西郷吉之助(さいごうきちのすけ)のような人の口から言い出されたことだという。もはや、論議の時は過ぎて、行動の時がそれに代わっていた。
 この形勢をみて取った有志の間には、進んで東征軍のために道をあけようとする気の速い連中もある。東山道先鋒(せんぽう)兼鎮撫(ちんぶ)総督の先駆ととなえる百二十余人の同勢は本営に先立って、二門の大砲に、租税半減の旗を押し立て、旧暦の二月のはじめにはすでに京都方面から木曾街道を下って来た。

       二

 京坂地方では例の外国使臣らの上京参内を許すという未曾有(みぞう)の珍事で騒いでいる間に、西から進んで来た百二十余人の同勢は、堂上の滋野井(しげのい)、綾小路(あやのこうじ)二卿の家来という資格で、美濃の中津川、落合(おちあい)の両宿から信濃境(しなのざかい)の十曲峠(じっきょくとうげ)にかかり、あれから木曾路にはいって、馬籠峠の上をも通り過ぎて行った。あるところでは、藩の用人や奉行(ぶぎょう)などの出迎いを受け、あるところでは、本陣や問屋などの出迎いを受けて。
「もう、先駆がやって来るようになった。」
 この街道筋に総督を待ち受けるほどのもので、それを思わないものはない。一行の大砲や武装したいでたちを見るものは来たるべき東山道軍のさかんな軍容を想像し、その租税半減の旗を望むものは信じがたいほどの一大改革であるとさえ考えた。やがて一行は木曾福島の関所を通り過ぎて下諏訪(しもすわ)に到着し、そのうちの一部隊は和田峠を越え、千曲川(ちくまがわ)を渡って、追分(おいわけ)の宿にまで達した。
 なんらの抵抗を受けることもなしに、この一行が近江(おうみ)と美濃と信濃の間の要所要所を通り過ぎたことは、それだけでも東山道軍のためによい瀬踏みであったと言わねばならぬ。なぜかなら、西は大津から東は追分までの街道筋に当たる諸藩の領地を見渡しただけでも、どこに譜代大名のだれを置き、どこに代官のだれを置くというような、その要所要所の手配りは実に旧幕府の用心深さを語っていたからで。彦根(ひこね)の井伊氏(いいし)、大垣(おおがき)の戸田氏、岩村の松平(まつだいら)氏、苗木(なえぎ)の遠山氏、木曾福島の山村氏、それに高島の諏訪(すわ)氏――数えて来ると、それらの大名や代官が黙ってみていなかったら、なかなか二門の大砲と、百二十余人の同勢で、素通りのできる道ではなかったからで。
 この一行はおもに相良惣三(さがらそうぞう)に率いられ、追分に達したその部下のものは同志金原忠蔵に率いられていた。過ぐる慶応三年に、西郷吉之助が関東方面に勤王の士を募った時、同志を率いてその募りに応じたのも、この相良惣三であったのだ。あの関西方がまだ討幕の口実を持たなかったおりに、進んで挑戦的(ちょうせんてき)の態度に出、あらゆる手段を用いて江戸市街の攪乱(こうらん)を試み、当時江戸警衛の任にあった庄内藩(しょうないはん)との衝突となったのも、三田(みた)にある薩摩屋敷の焼き打ちとなったのも皆その結果であって、西の方に起こって来た伏見鳥羽の戦いも実はそれを導火線とすると言われるほどの討幕の火ぶたを切ったのも、またこの相良惣三および同志のものであったのだ。
 意外にも、この一行の行動を非難する回状が、東山道総督執事から沿道諸藩の重職にあてて送られた。それには、ちかごろ堂上の滋野井(しげのい)殿や綾小路(あやのこうじ)殿が人数を召し連れ、東国御下向(ごげこう)のために京都を脱走せられたとのもっぱらな風評であるが、右は勅命をもってお差し向けになったものではない、全く無頼(ぶらい)の徒が幼稚の公達(きんだち)を欺いて誘い出した所業と察せられると言ってある。綾小路殿らはすでに途中から御帰京になった、その家来などと唱え、追い追い東下するものがあるように聞こえるが、右は決して東山道軍の先駆でないと言ってある。中には、通行の途次金穀をむさぼり、人馬賃銭不払いのものも少なからぬ趣であるが、右は名を官軍にかりるものの所業であって、いかようの狼藉(ろうぜき)があるやも測りがたいから、諸藩いずれもこの旨(むね)をとくと心得て、右等の徒に欺かれないようにと言ってある。今後、岩倉殿の家来などと偽り、右ようの所業に及ぶものがあるなら、いささかも用捨なくとらえ置いて、総督御下向の上で、その処置を伺うがいいと言ってある。万一、手向かいするなら、討(う)ち取ってもくるしくないとまで言ってある。
 こういう回状は、写し伝えられるたびに、いくらかゆがめられた形のものとなることを免れない。しかし大体に、東山道軍の本営でこの自称先駆の一行を認めないことは明らかになった。
「偽(にせ)官軍だ。偽官軍だ。」
 さてこそ、その声は追分からそう遠くない小諸藩(こもろはん)の方に起こった。その影響は意外なところへ及んで、多少なりとも彼らのために便宜を計ったものは、すべて偽官軍の徒党と言われるほどのばからしい流言の渦中(かちゅう)に巻き込まれた。追分の宿はもとより、軽井沢(かるいざわ)、沓掛(くつかけ)から岩村田へかけて、軍用金を献じた地方の有志は皆、付近の藩からのきびしい詰問を受けるようになった。そればかりではない、惣三らの通り過ぎた木曾路から美濃地方にまでその意外な影響が及んで行った。馬籠本陣の半蔵が木曾福島へ呼び出されたのも、その際である。


 そこは木曾福島の地方(じかた)御役所だ。名高い関所のある街道筋から言えば、深い谷を流れる木曾川の上流に臨み、憂鬱(ゆううつ)なくらいに密集した原生林と迫った山とにとりかこまれた対岸の傾斜をなした位置に、その役所がある。そこは三棟(みむね)の高い鱗葺(こけらぶ)きの屋根の見える山村氏の代官屋敷を中心にして、大小三、四十の武家屋敷より成る一区域のうちである。
 役所のなかも広い。木曾谷一切の支配をつかさどるその役所には、すべて用事があって出頭するものの待ち合わすべき部屋(へや)がある。馬籠から呼び出されて行った半蔵はそこでかなり長く待たされた。これまで彼も木曾十一宿の本陣問屋の一人(ひとり)として、または木曾谷三十三か村の庄屋の一人として、何度福島の地を踏み、大手門をくぐり、大手橋を渡り、その役所へ出頭したかしれない。しかし、それは普通の場合である。意味ありげな差紙(さしがみ)なぞを受けないで済む場合である。今度はそうはいかなかった。
 やがて、足軽(あしがる)らしい人の物慣れた調子で、
「馬籠の本陣も見えております。」
 という声もする。間もなく半蔵は役人衆や下役などの前に呼び出された。その中に控えているのが、当時佐幕論で福島の家中を動かしている用人の一人だ。おもなる取り調べ役だ。
 その日の要事は、とかくのうわさを諸藩の間に生みつつある偽(にせ)官軍のことに連関して、一層街道の取り締まりを厳重にせねばならないというにあったが、取り調べ役はただそれだけでは済まさなかった。右の手に持つ扇子(せんす)を膝(ひざ)の上に突き、半蔵の方を見て、相良惣三ら一行のことをいろいろに詰問した。
「聞くところによると、小諸(こもろ)の牧野遠江守(まきのとおとうみのかみ)の御人数が追分(おいわけ)の方であの仲間を召し捕(と)りの節に、馬士(まご)が三百両からの包み金(がね)を拾ったと申すことであるぞ。早速(さっそく)宿役人に届け出たから、一同立ち会いの上でそれを改めて見たところ、右の金子(きんす)は賊徒が逃げ去る時に取り落としたものとわかって、総督府の方へ訴え出たとも申すことであるぞ。相良惣三の部下のものが、どうして三百両という大金を所持していたろう。半蔵、その方はどう考えるか。」
 そんな問いも出た。
 その席には、立ち会いの用人も控えていて、取り調べ役に相槌(あいづち)を打った。その時、半蔵は両手を畳の上について、惣三らの一行が馬籠宿通行のおりの状況をありのままに述べた。尾張領通行のみぎりはあの一行のすこぶる神妙であったこと、ただ彼としては惣三の同志伊達徹之助(だててつのすけ)の求めにより金二十両を用立てたことをありのままに申し立てた。
「偽役(にせやく)のかたとはさらに存ぜず、献金なぞいたしましたことは恐れ入ります。」
 そう半蔵は答えた。
「待て、」と取り調べ役が言った。「その方もよく承れ。近ごろはいろいろな異説を立てるものがあらわれて来て、実に心外な御時世ではある。なんでも悪い事は皆徳川の方へ持って行く。そういう時になって来た。まあ、あの相良惣三(さがらそうぞう)一味のものが江戸の方でしたことを考えて見るがいい。天道にも目はあるぞ。おまけに、この街道筋まで来て、追分辺で働いた狼藉(ろうぜき)はどうだ。官軍をとなえさえすれば、何をしてもいいというものではあるまい。」
「さようだ。」と言い出すのは火鉢(ひばち)に手をかざしている立ち会いの用人だ。「貴殿はよく言った。実は、拙者もそれを言おうと思っていたところでござる。」
「いや、」とまた取り調べ役は言葉をつづけた。「御同役の前でござるが、あの御征討の制札にしてからが、自分には腑(ふ)に落ちない。今になって、拙者はつくづくそう思う。もし先帝が御在世であらせられたら、慶喜公に対しても、会津や桑名に対しても、こんな御処置はあらせられまいに……」


 今一度改めて出頭せよ、翌朝を待ってなにぶんの沙汰(さた)があるであろう、その役人の声を聞いたあとで、半蔵は役所の門を出た。馬籠から供をして来た峠村の組頭(くみがしら)、先代平助の跡継ぎにあたる平兵衛(へいべえ)がそこに彼を待ち受けていた。
「半蔵さま。」
「おゝ、お前はそこに待っていてくれたかい。」
「そうよなし。おれも気が気でないで、さっきからこの御門の外に立ち尽くした。」
 二人(ふたり)はこんな言葉をかわし、雪の道を踏んで、大手橋から旅籠屋(はたごや)のある町の方へ歩いた。
 木曾福島も、もはや天保文久年度の木曾福島ではない。創立のはじめに渡辺方壺(わたなべほうこ)を賓師に、後には武居用拙(たけいようせつ)を学頭に、菁莪館(せいがかん)の学問を誇ったころの平和な町ではない。剣術師範役遠藤(えんどう)五平太の武技を見ようとして、毎年馬市を機会に諸流の剣客の集まって来たころの町でもない。まして、木曾から出た国家老(くにがろう)として、名君の聞こえの高い山村蘇門(そもん)(良由)が十数年も尾張藩の政事にあずかったころの長閑(のどか)な城下町ではもとよりない。
 町々の警戒もにわかに厳重になった。怪しい者の宿泊は一夜たりとも許されなかった。旅籠屋をさして帰って行く半蔵らのそばには、昼夜の差別もないように街道を急いで来て、また雪を蹴(け)って出て行く早駕籠(はやかご)もある。
 流言の取り締まりもやかましい。そのお達しは奉行所よりとして、この宿場らしい町中の旅籠屋にまで回って来ている。当今の時勢について、かれこれの品評を言い触らす輩(やから)があっては、諸藩の人気にもかかわるから、右ようのことのないようにとくと心得よ、酒興の上の議論はもちろん、たとい女子供に至るまで茶呑(ちゃの)み噺(ばなし)にてもかれこれのうわさは一切いたすまいぞ、とのお触れだ。半蔵が泊まりつけの宿の門口をはいって、土地柄らしく掛けてある諸講中(こうじゅう)の下げ札なぞの目につくところから、土間づたいに広い囲炉裏(いろり)ばたへ上がって見た時は、さかんに松薪(まつまき)の燃える香気(におい)が彼の鼻の先へ来た。二人ばかりの泊まり客がそこに話し込んでいる。しばらく彼は炉の火にからだをあたため、宿のかみさんがくんで出してくれる熱いネブ茶を飲んで見ている間に、なかなか人の口に戸はたてられないことを知った。
「おれは葵(あおい)の紋を見ても、涙がこぼれて来るよ。」
「今はそんな時世じゃねえぞ。」
 二人の客の言い争う声だ。まっかになるほど炉の火に顔をあぶった男と、手製の竹の灰ならしで囲炉裏の灰をかきならしている男とが、やかましいお触れもおかまいなしにそんなことを言い合っている。
「なあに、こんな新政府はいつひっくりかえるか知れたもんじゃないさ。」
「そんなら君は、どっちの人間だい。」
「うん――おれは勤王で、佐幕だ。」
 時代の悩みを語る声は、そんな一夜の客の多く集まる囲炉裏ばたの片すみにも隠れていた。


 地方(じかた)御役所での役人たちが言葉のはじも気にかかって、翌朝の沙汰(さた)を聞くまでは半蔵も安心しなかった。その晩、半蔵は旅籠屋らしい行燈(あんどん)のかげに時を送っていた。供に連れて来た平兵衛は、どこに置いても邪魔にならないような男だ。馬籠あたりに比べると、ここは陽気もおくれている。昼間は騒がしくても、夜になるとさびしい河(かわ)から来るらしい音が、半蔵の耳にはいった。彼はそれを木曾川の方から来るものと思い、石を越して流れる水瀬の音とばかり思ったが、よく聞いて見ると、町へ来る夜の雨の音のようでもある。その音は、まさに測りがたい運命に直面しているような木曾谷の支配者の方へ彼の心を誘った。
 もともとこの江戸と京都との中央にあたる位置に、要害無双の関門とも言うべき木曾福島の関所があるのは、あだかも大津伏見をへだてて京都を監視するような近江(おうみ)の湖水のほとりの位置に、三十五万石を領する井伊氏の居城のそびえ立つと同じ意味のもので、幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていたのだ。この関所を預かる山村氏は最初徳川直属の代官であった。それは山村氏の祖先が徳川台徳院を関ヶ原の戦場に導いて戦功を立てた慶長年代以来の古い歴史にもとづく。後に木曾地方は名古屋の管轄に移って、山村氏はさらに尾州の代官を承るようになったが、ここに住む福島の家中衆が徳川直属時代の誇りと長い間に養い来たった山嶽的(さんがくてき)な気風とは、事ごとに大領主の権威をもって臨んで来る尾州藩の役人たちと相いれないものがあった。この暗闘反目は決して一朝一夕に生まれて来たものではない。
 そこへ東山道軍の進発だ。各藩ともに、否(いや)でも応でもその態度を明らかにせねばならない。尾張藩は、と見ると、これは一切の従来の行きがかりを捨て、勤王の士を重く用い、大義名分を明らかにすることによって、時代の暗礁(あんしょう)を乗り切ろうとしている。名古屋の方にある有力な御小納戸(おこなんど)、年寄(としより)、用人らの佐幕派として知られた人たちは皆退けられてしまった。その時になっても、山村氏の家中衆だけは長い武家時代の歴史を誇りとし、頑(がん)として昔を忘れないほどの高慢さである。ここには尾張藩の態度に対する非難の声が高まるばかりでなく、徳川氏の直属として独立を思う声さえ起こって来ている。徳川氏と存亡を共にする以外に、この際、情誼(じょうぎ)のあるべきはずがないと主張し、神祖の鴻恩(こうおん)も忘れるような不忠不義の輩(やから)はよろしく幽閉せしむべしとまで極言するものもある。
「福島もどうなろう。」
 半蔵はそのことばかり考えつづけた。その晩は彼は平兵衛の蒲団(ふとん)を自分のそばに敷かせ、道中用の脇差(わきぎし)を蒲団の下に敷いて、互いに枕(まくら)を並べて寝た。
 翌朝になると、やがて役所へ出頭する時が来た。半蔵は供の平兵衛を門内に待たせて置いて、しばらく待合所に控えていた後、さらに別室の方へ呼び込まれた。上段に居並ぶ年寄、用人などの前で、きびしいおしかりを受けた。その意味は、官軍先鋒(せんぽう)の嚮導隊(きょうどうたい)などととなえ当国へ罷(まか)り越した相良惣三(さがらそうぞう)らのために周旋し、あまつさえその一味のもの伊達(だて)徹之助に金子二十両を用だてたのは不埓(ふらち)である。本来なら、もっと重い御詮議(ごせんぎ)もあるべきところだが、特に手錠を免じ、きっと叱(しか)り置く。これは半蔵父子とも多年御奉公申し上げ、頼母子講(たのもしこう)お世話方も行き届き、その尽力の功績も没すべきものでないから、特別の憐憫(れんびん)を加えられたのであるとの申し渡しだ。
「はッ。」
 半蔵はそこに平伏した。武家の奉公もこれまでと思う彼は、甘んじてそのおしかりを受けた。そして、屋敷から引き取った。


「青山さん。」
 うしろから追いかけて来て、半蔵に声をかけるものがある。ちょうど半蔵は供の平兵衛と連れだって、木曾福島を辞し、帰村の道につこうとしたばかりの時だ。街道に添うて旅人に道を教える御嶽(おんたけ)登山口、路傍に建てられてある高札場なぞを右に見て、福島の西の町はずれにあたる八沢というところまで歩いて行った時だ。
「青山さん、馬籠の方へ今お帰り。」
 ときく人は、木曾風俗の軽袗(かるさん)ばきで、猟師筒を肩にかけている。屋敷町でない方に住む福島の町家の人で、大脇自笑(おおわきじしょう)について学んだこともある野口秀作というものだ。半蔵は別にその人と深い交際はないが、彼の知る名古屋藩士で田中寅三郎(とらさぶろう)、丹羽淳太郎(にわじゅんたろう)なぞの少壮有為な人たちの名はその人の口から出ることもある。あうたびに先方から慣れ慣れしく声をかけるのもその人だ。
「どれ、わたしも御一緒にそこまで行こう。」とまた秀作は歩き歩き半蔵に言った。「青山さん、あなたがお見えになったことも、お役所へ出頭したことも、きのうのうちに町じゅうへ知れています。えゝえゝ、そりゃもう早いものです。狭い谷ですからね。ここはあなた、うっかり咳(せき)ばらいもできないようなところですよ。福島はそういうところですよ。ほんとに――この谷も、こんなことじゃしかたがない。あなたの前ですが、この谷には、てんで平田の国学なぞははいらない。皆、漢籍一方で堅めきっていますからね。伊那から美濃地方のようなわけにはいかない。どうしても、世におくれる。でも青山さん、見ていてください。福島にも有志の者がなくはありませんよ。」
 口にこそ出さなかったが、秀作は肩にする鉄砲に物を言わせ、雉(きじ)でも打ちに行くらしいその猟師筒に春待つ心を語らせて、来たるべき時代のために勤王の味方に立とうとするものはここにも一人(ひとり)いるという意味を通わせた。
 思いがけなく声をかけられた人にも別れて、やがて半蔵らはさくさく音のする雪の道を踏みながら、塩淵(しおぶち)というところまで歩いた。そこは山の尾をめぐる一つの谷の入り口で、西から来るものはその崖(がけ)になった坂の道から、初めて木曾福島の町をかなたに望むことのできるような位置にある。半蔵は帰って行く人だが、その眺望(ちょうぼう)のある位置に出た時は、思わず後方(うしろ)を振り返って見て、ホッと深いため息をついた。

       三

 木曾の寝覚(ねざめ)で昼、とはよく言われる。半蔵らのように福島から立って来たものでも、あるいは西の方面からやって来るものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曾路を踏んで見るもののひとしく経験するところである。そこに名物の蕎麦(そば)がある。
 春とは言いながら石を載せた坂屋根に残った雪、街道のそばにつないである駄馬(だば)、壁をもれる煙――寝覚の蕎麦屋あたりもまだ冬ごもりの状態から完全に抜けきらないように見えていた。半蔵らは福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めようと思うころには、そろそろ食事を終わって出発するような伊勢参宮の講中もある。黒の半合羽(はんがっぱ)を着たまま奥の方に腰掛け、膳(ぜん)を前にして、供の男を相手にしきりに箸(はし)を動かしている客もある。その人が中津川の景蔵だった。
 偶然にも、半蔵はそんな帰村の途中に、しかも寝覚(ねざめ)の床(とこ)の入り口にある蕎麦屋の奥で、反対の方角からやって来た友人と一緒になることができた。景蔵は、これから木曾福島をさして出掛けるところだという。聞いて見ると、地方(じかた)御役所からの差紙(さしがみ)で。中津川本陣としてのこの友人も、やはり半蔵と同じような呼び出され方で。
「半蔵さん、これはなんという事です。」
 景蔵はまずそれを言った。
 その時、二人は顔を見合わせて、互いに木曾福島の役人衆が意図を読んだ。
「見たまえ。」とまた景蔵が言い出した。「東山道軍の執事からあの通知が行くまでは、だれだって偽(にせ)官軍だなんて言うものはなかった。福島の関所だって黙って通したじゃありませんか。奉行から用人まで迎えに出て置いて、今になってわれわれをとがめるとは何の事でしょう。」
「ですから、驚きますよ。」と半蔵はそれを承(う)けて、「これにはかなり複雑な心持ちが働いていましょう。」
「わたしもそれは思う。なにしろ、あの相良惣三の仲間は江戸の方でかなりあばれていますからね。あいつが諏訪(すわ)にも、小諸(こもろ)にも、木曾福島にも響いて来てると思うんです。そこへ東山道軍の執事からあの通知でしょう、こりゃ江戸の敵(かたき)を、飛んだところで打つようなことが起こって来た。」
「世の中はまだ暗い。」
 半蔵はそれを友人に言って見せて、嘆息した。その意味から言っても、彼は早く東山道軍をこの街道に迎えたかった。


「まあ、景蔵さん、蕎麦(そば)でもやりながら話そうじゃありませんか。」と半蔵は友人とさしむかいに腰掛けていて、さらに話しつづけた。「君はわたしたちにかまわないで、先に食べてください。そんなに話に身が入っては、せっかくの蕎麦も延びてしまう。でも、きょうは、よいところでお目にかかった。」
「いや、わたしも君にあえてよかった。」と景蔵の方でも言った。「おかげで、福島の方の様子もわかりました。」
 やがて景蔵が湯桶(ゆとう)の湯を猪口(ちょく)に移し、それを飲んで、口をふくころに、小女(こおんな)は店の入り口に近い台所の方から土間づたいに長い腰掛けの間を回って来て、
「へえ、お待ちどおさまでございます。」
 と言いながら、半蔵の注文したものをそこへ持ち運んで来た。本家なにがし屋とか、名物寿命そばありとかを看板にことわらなければ、客の方で承知しないような古い街道筋のことで、薬味箱、だし汁(じる)のいれもの、猪口、それに白木の割箸(わりばし)まで、見た目も山家のものらしい。竹簀(たけす)の上に盛った手打ち蕎麦は、大きな朱ぬりの器(うつわ)にいれたものを膳(ぜん)に積みかさねて出す。半蔵はそれを供の平兵衛に分け、自分でも箸を取りあげた。その時、彼は友人の方を見て、思い出したように、
「景蔵さん、東山道軍の執事から尾州藩の重職にあてた回状の写しさ、あれは君の方へも回って行きましたろう。」
「来ました。」
「あれを君はどう読みましたかい。」
「さあ、ねえ。」
「えらいことが書いてあったじゃありませんか。あれで見ると、本営の方じゃ、まるきり相良惣三の仲間を先駆とは認めないようですね。」
「全くの無頼の徒扱いさ。」
「いったい、あんな通知を出すくらいなら、最初から先駆なぞを許さなければよかった。」
「そこですよ。あの相良惣三の仲間は、許されて出て来たものでもないらしい。わたしはあの回状を読んで、初めてそのことを知りました。綾小路(あやのこうじ)らの公達(きんだち)を奉じて出かけたものもあるが、勅命によってお差し向けになったものではないとまで断わってある。見たまえ、相良惣三の同志というものは、もともと西郷吉之助の募りに応じて集まったという勤王の人たちですから、薩摩藩(さつまはん)に付属して進退するようにッて、総督府からもその注意があり、東山道軍の本営からもその注意はしたらしい。ところがです、先駆ととなえる連中が自由な行動を執って、ずんずん東下するもんですから、本営の方じゃこんなことで軍の規律は保てないと見たんでしょう。」

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