夜明け前
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著者名:島崎藤村 

伊那にある平田門人の先輩株で、浪士間道通過の交渉には陰ながら尽力した倉沢義髄(くらさわよしゆき)も、その日は稲雄と一緒に歩いた。別れぎわに浪士らは、稲雄の骨折りを感謝し、それに報いる意味で記念の陣羽織を贈ろうとしたが、稲雄の方では幕府の嫌疑(けんぎ)を慮(おもんぱか)って受けなかった。
 その日の泊まりと定められた駒場(こまば)へは、平田派の同志のものが集まった。暮田正香と松尾誠(まつおまこと)(松尾多勢子(たせこ)の長男)とは伴野(ともの)から。増田平八郎(ますだへいはちろう)と浪合佐源太(なみあいさげんた)とは浪合から。駒場には同門の医者山田文郁(ぶんいく)もある。武田本陣にあてられた駒場の家で、土地の事情にくわしいこれらの人たちはこの先とも小藩や代官との無益な衝突の避けられそうな山国の間道を浪士らに教えた。その時、もし参州街道を経由することとなれば名古屋の大藩とも対抗しなければならないこと、のみならず非常に道路の険悪なことを言って見せるのは浪合から来た連中だ。木曾路から中津川辺へかけては熱心な同門のものもある、清内路(せいないじ)の原信好(のぶよし)、馬籠(まごめ)の青山半蔵、中津川の浅見景蔵、それから峰谷(はちや)香蔵なぞは、いずれも水戸の人たちに同情を送るであろうと言って見せるのは伴野から来た連中だ。
 清内路を経て、馬籠、中津川へ。浪士らの行路はその時変更せらるることに決した。
「諸君――これから一里北へ引き返してください。山本というところから右に折れて、清内路の方へ向かうようにしてください。」
 道中掛りはそのことを諸隊に触れて回った。
 伊那の谷から木曾の西のはずれへ出るには、大平峠(おおだいらとうげ)を越えるか、梨子野峠(なしのとうげ)を越えるか、いずれにしても奥山の道をたどらねばならない。木曾下四宿への当分助郷(すけごう)、あるいは大助郷の勤めとして、伊那百十九か村の村民が行き悩むのもその道だ。木から落ちる山蛭(やまびる)、往来(ゆきき)の人に取りつく蚋(ぶよ)、勁(つよ)い風に鳴る熊笹(くまざさ)、そのおりおりの路傍に見つけるものを引き合いに出さないまでも、昼でも暗い森林の谷は四里あまりにわたっている。旅するものはそこに杣(そま)の生活と、わずかな桑畠(くわばたけ)と、米穀も実らないような寒い土地とを見いだす。その深い山間(やまあい)を分けて、浪士らは和田峠合戦以来の負傷者から十数門の大砲までも運ばねばならない。

       三

 半蔵は馬籠本陣の方にいて、この水戸浪士を待ち受けた。彼が贄川(にえがわ)や福島の庄屋(しょうや)と共に急いで江戸を立って来たのは十月下旬で、ようやく浪士らの西上が伝えらるるころであった。時と場合により、街道の混乱から村民を護(まも)らねばならないとの彼の考えは、すでにそのころに起こって来た。諸国の人の注意は尊攘を標榜(ひょうぼう)する水戸人士の行動と、筑波(つくば)挙兵以来の出来事とに集まっている当時のことで、那珂港(なかみなと)の没落と共に榊原新左衛門(さかきばらしんざえもん)以下千二百余人の降参者と武田耕雲斎はじめ九百余人の脱走者とをいかに幕府が取りさばくであろうということも多くの人の注意を引いた。三十日近くの時の間には、幕府方に降(くだ)った宍戸侯(ししどこう)(松平大炊頭(おおいのかみ))の心事も、その運命も、半蔵はほぼそれを聞き知ることができたのである。幕府の参政田沼玄蕃頭は耕雲斎らが政敵市川三左衛門の意見をいれ、宍戸侯に死を賜わったという。それについで死罪に処せられた従臣二十八人、同じく水戸藩士二人(ふたり)、宍戸侯の切腹を聞いて悲憤のあまり自殺した家来数人、この難に死んだものは都合四十三人に及んだという。宍戸侯の悲惨な最期――それが水戸浪士に与えた影響は大きかった。賊名を負う彼らの足が西へと向いたのは、それを聞いた時であったとも言わるる。「所詮(しょせん)、水戸家もいつまで幕府のきげんを取ってはいられまい」との意志の下に、潔く首途(かどで)に上ったという彼ら水戸浪士は、もはや幕府に用のない人たちだった。前進あるのみだった。
 半蔵に言わせると、この水戸浪士がいたるところで、人の心を揺り動かして来るには驚かれるものがある。高島城をめがけて来たでもないものがどうしてそんなに諏訪藩(すわはん)に恐れられ、戦いを好むでもないものがどうしてそんなに高遠藩(たかとおはん)や飯田藩(いいだはん)に恐れられるだろう。実にそれは命がけだからで。二百何十年の泰平に慣れた諸藩の武士が尚武(しょうぶ)の気性のすでに失われていることを眼前に暴露して見せるのも、万一の節はひとかどの御奉公に立てと日ごろ下の者に教えている人たちの忠誠がおよそいかなるものであるかを眼前に暴露して見せるのも、一方に討死(うちじに)を覚悟してかかっているこんな水戸浪士のあるからで。
 それにしても、江戸両国の橋の上から丑寅(うしとら)の方角に遠く望んだ人たちの動きが、わずか一月(ひとつき)近くの間に伊那の谷まで進んで来ようとは半蔵の身にしても思いがけないことであった。水戸の学問と言えば、少年時代からの彼が心をひかれたものであり、あの藤田東湖の『正気(せいき)の歌』なぞを好んで諳誦(あんしょう)したころの心は今だに忘れられずにある。この東湖先生の子息(むすこ)さんにあたる人を近くこの峠の上に、しかも彼の自宅に迎え入れようとは、思いがけないことであった。平田門人としての彼が、水戸の最後のものとも言うべき人たちの前に自分を見つける日のこんなふうにして来ようとは、なおなお思いがけないことであった。
 別に、半蔵には、浪士の一行に加わって来るもので、心にかかる一人の旧友もあった。平田同門の亀山嘉治(かめやまよしはる)が八月十四日那珂港(なかみなと)で小荷駄掛(こにだがか)りとなって以来、十一月の下旬までずっと浪士らの軍中にあったことを半蔵が知ったのは、つい最近のことである。いよいよ浪士らの行路が変更され、参州街道から東海道に向かうと見せて、その実は清内路より馬籠、中津川に出ると決した時、二十六日馬籠泊まりの触れ書と共にあの旧友が陣中からよこした一通の手紙でその事が判然(はっきり)した。それには水戸派尊攘の義挙を聞いて、その軍に身を投じたのであるが、寸功なくして今日にいたったとあり、いったん武田藤田らと約した上は死生を共にする覚悟であるということも認(したた)めてある。今回下伊那の飯島というところまで来て、はからず同門の先輩暮田正香に面会することができたとある。馬籠泊まりの節はよろしく頼む、その節は何年ぶりかで旧(むかし)を語りたいともある。


「半蔵さん、この騒ぎは何事でしょう。」
 と言って、隣宿妻籠(つまご)本陣の寿平次はこっそり半蔵を見に来た。
 その時は木曾福島の代官山村氏も幕府の命令を受けて、木曾谷の両端へお堅めの兵を出している。東は贄川(にえがわ)の桜沢口へ。西は妻籠の大平口へ。もっとも、妻籠の方へは福島の砲術指南役植松菖助(うえまつしょうすけ)が大将で五、六十人の一隊を引き連れながら、伊那の通路を堅めるために出張して来た。夜は往還へ綱を張り、その端に鈴をつけ、番士を伏せて、鳴りを沈めながら周囲を警戒している。寿平次はその妻籠の方の報告を持って、馬籠の様子をも探りに来た。
「寿平次さん、君の方へは福島から何か沙汰(さた)がありましたか。」
「浪士のことについてですか。本陣問屋へはなんとも言って来ません。」
「何か考えがあると見えて、わたしの方へもなんとも言って来ない。これが普通の場合なら、浪士なぞは泊めちゃならないなんて、沙汰のあるところですがね。」
「そりゃ、半蔵さん、福島の旦那(だんな)様だってなるべく浪士には避(よ)けて通ってもらいたい腹でいますさ。」
「いずれ浪士は清内路(せいないじ)から蘭(あららぎ)へかかって、橋場へ出て来ましょう。あれからわたしの家をめがけてやって来るだろうと思うんです。もし来たら、わたしは旅人として迎えるつもりです。」
「それを聞いてわたしも安心しました。馬籠から中津川の方へ無事に浪士を落としてやることですね、福島の旦那様も内々(ないない)はそれを望んでいるんですよ。」
「妻籠の方は心配なしですね。そんなら、寿平次さん、お願いがあります。あすはかなりごたごたするだろうと思うんです。もし妻籠の方の都合がついたら来てくれませんか。なにしろ、君、急な話で、したくのしようもない。けさは会所で寄り合いをしましてね、村じゅう総がかりでやることにしました。みんな手分けをして、出かけています。わたしも今、一息入れているところなんです。」
「そう言えば、今度は飯田でもよっぽど平田の御門人にお礼を言っていい。君たちのお仲間もなかなかやる。」
「平田門人もいくらか寿平次さんに認められたわけですかね。」
 その時、宿泊人数の割り当てに村方へ出歩いていた宿役人仲間も帰って来て、そこへ顔を見せる。年寄役の伊之助は荒町(あらまち)から。問屋九郎兵衛は峠から。馬籠ではたいがいの家が浪士の宿をすることになって、万福寺あたりでも引き受けられるだけ引き受ける。本陣としての半蔵の家はもとより、隣家の伊之助方でも向こう側の隠宅まで御用宿ということになり同勢二十一人の宿泊の用意を引き受けた。
「半蔵さん、それじゃわたしは失礼します。都合さえついたら、あす出直して来ます。」
 寿平次はこっそりやって来て、またこっそり妻籠の方へ帰って行った。
 にわかに宿内の光景も変わりつつあった。千余人からの浪士の同勢が梨子野峠(なしのとうげ)を登って来ることが知れると、在方(ざいかた)へ逃げ去るものがある。諸道具を土蔵に入れるものがある。大切な帳面や腰の物を長持に入れ、青野という方まで運ぶものがある。


 旧暦十一月の末だ。二十六日には冬らしい雨が朝から降り出した。その日の午後になると、馬籠宿内の女子供で家にとどまるものは少なかった。いずれも握飯(むすび)、鰹節(かつおぶし)なぞを持って、山へ林へと逃げ惑うた。半蔵の家でもお民は子供や下女を連れて裏の隠居所まで立ち退(の)いた。本陣の囲炉裏(いろり)ばたには、栄吉、清助をはじめ、出入りの百姓や下男の佐吉を相手に立ち働くおまんだけが残った。
「姉(あね)さま。」
 台所の入り口から、声をかけながら土間のところに来て立つ近所の婆(ばあ)さんもあった。婆さんはあたりを見回しながら言った。
「お前さまはお一人(ひとり)かなし。そんならお前さまはここに残らっせるつもりか。おれも心細いで、お前さまが行くなら一緒に本陣林へでも逃げずかと思って、ちょっくら様子を見に来た。今夜はみんな山で夜明かしだげな。おまけに、この意地の悪い雨はどうだなし。」
 独(ひと)り者の婆さんまでが逃げじたくだ。
 半蔵は家の外にも内にもいそがしい時を送った。水戸浪士をこの峠の上の宿場に迎えるばかりにしたくのできたころ、彼は広い囲炉裏ばたへ通って、そこへ裏二階から母屋(もや)の様子を見に来る父吉左衛門(きちざえもん)とも一緒になった。
「何しろ、これはえらい騒ぎになった。」と吉左衛門は案じ顔に言った。「文久元年十月の和宮(かずのみや)さまがお通り以来だぞ。千何百人からの同勢をこんな宿場で引き受けようもあるまい。」
「お父(とっ)さん、そのことなら、落合の宿でも分けて引き受けると言っています。」と半蔵が言う。
「今夜のお客さまの中には、御老人もあるそうだね。」
「その話ですが、山国兵部という人はもう七十以上だそうです。武田耕雲斎、田丸稲右衛門、この二人も六十を越してると言いますよ。」
「おれも聞いた。人が六、七十にもなって、全く後方(うしろ)を振り返ることもできないと考えてごらんな。生命(いのち)がけとは言いながら――えらい話だぞ。」
「今度は東湖先生の御子息さんも御一緒です。この藤田小四郎という人はまだ若い。二十三、四で一方の大将だというから驚くじゃありませんか。」
「おそろしく早熟なかただと見えるな。」
「まあ、お父(とっ)さん。わたしに言わせると、浪士も若いものばかりでしたら、京都まで行こうとしますまい。水戸の城下の方で討死(うちじに)の覚悟をするだろうと思いますね。」
「そりゃ、半蔵。老人ばかりなら、最初から筑波山(つくばさん)には立てこもるまいよ。」
 父と子は互いに顔を見合わせた。
 幕府への遠慮から、駅長としての半蔵は家の門前に「武田伊賀守様御宿(おんやど)」の札も公然とは掲げさせなかったが、それでも玄関のところには本陣らしい幕を張り回させた。表向きの出迎えも遠慮して、年寄役伊之助と組頭(くみがしら)庄助(しょうすけ)の二人と共に宿はずれまで水戸の人たちを迎えようとした。
「お母(っか)さん、お願いしますよ。」
 と彼が声をかけて行こうとすると、おまんはあたりに気を配って、堅く帯を締め直したり、短刀をその帯の間にはさんだりしていた。
 もはや、太鼓の音だ。おのおの抜き身の鎗(やり)を手にした六人の騎馬武者と二十人ばかりの歩行(かち)武者とを先頭にして、各部隊が東の方角から順に街道を踏んで来た。
 この一行の中には、浪士らのために人質に取られて、腰繩(こしなわ)で連れられて来た一人の飯田の商人もあった。浪士らは、椀屋文七(わんやぶんしち)と聞こえたこの飯田の商人が横浜貿易で一万両からの金をもうけたことを聞き出し、すくなくも二、三百両の利得を吐き出させるために、二人の番士付きで伊那から護送して来た。きびしく軍の掠奪(りゃくだつ)を戒め、それを犯すものは味方でも許すまいとしている浪士らにも一方にはこのお灸(きゅう)の術があった。ヨーロッパに向かって、この国を開くか開かないかはまだ解決のつかない多年の懸案であって、幕府に許されても朝廷から許されない貿易は売国であるとさえ考えるものは、排外熱の高い水戸浪士中に少なくなかったのである。


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     第十一章

       一

「青山君――伊那にある平田門人の発起(ほっき)で、近く有志のものが飯田(いいだ)に集まろうとしている。これはよい機会と思われるから、ぜひ君を誘って一緒に伊那の諸君を見に行きたい。われら両人はその心組みで馬籠(まごめ)までまいる。君の都合もどうあろうか。ともかくもお訪(たず)ねする。」
中津川にて景蔵香蔵 馬籠にある半蔵あてに、二人(ふたり)の友人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、水戸浪士の通り過ぎてから十七日ほど後にあたる。
 美濃(みの)の中津川にあって聞けば、幕府の追討総督田沼玄蕃頭(げんばのかみ)の軍は水戸浪士より数日おくれて伊那の谷まで追って来たが、浪士らが清内路(せいないじ)から、馬籠、中津川を経て西へ向かったと聞き、飯田からその行路を転じた。総督は飯田藩が一戦をも交えないで浪士軍の間道通過に任せたことをもってのほかであるとした。北原稲雄兄弟をはじめ、浪士らの間道通過に斡旋(あっせん)した平田門人の骨折りはすでにくつがえされた。飯田藩の家老はその責めを引いて切腹し、清内路の関所を預かる藩士もまた同時に切腹した。景蔵や香蔵が訪(たず)ねて行こうとしているのはこれほど動揺したあとの飯田で、馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には和宮様(かずのみやさま)御降嫁以来の出来事だと言わるる水戸浪士の通過についても、まだ二人は馬籠の半蔵と話し合って見る機会もなかった時だ。


「いかがですか。おしたくができましたら、出かけましょう。」
 香蔵は中津川にある問屋の家を出て、同じ町に住む景蔵が住居(すまい)の門口から声をかけた。そこは京都の方から景蔵をたよって来て身を隠したり、しばらく逗留(とうりゅう)したりして行くような幾多の志士たち――たとえば、内藤頼蔵(ないとうらいぞう)、磯山新助(いそやましんすけ)、長谷川鉄之進(はせがわてつのしん)、伊藤祐介(いとうゆうすけ)、二荒四郎(ふたらしろう)、東田行蔵(ひがしだこうぞう)らの人たちを優にかばいうるほどの奥行きの深い本陣である。そこはまた、過ぐる文久二年の夏、江戸屋敷の方から来た長州侯の一行が木曾街道経由で上洛(じょうらく)の途次、かねての藩論たる公武合体、航海遠略から破約攘夷(じょうい)へと、大きく方向の転換を試みるための中津川会議を開いた由緒(ゆいしょ)の深い家でもある。
「どうでしょう、香蔵さん、大平峠(おおだいらとうげ)あたりは雪でしょうか。」
「さあ、わたしもそのつもりでしたくして来ました。」
 二人の友だちはまずこんな言葉をかわした。景蔵のしたくもできた。とりあえず馬籠まで行こう、二人して半蔵を驚かそうと言うのは香蔵だ。年齢の相違こそあれ、二人は旧(ふる)い友だちであり、平田の門人仲間であり、互いに京都まで出て幾多の政変の渦(うず)の中にも立って見た間柄である。その時の二人は供の男も連れず、途中は笠(かさ)に草鞋(わらじ)があれば足りるような身軽な心持ちで、思い思いの合羽(かっぱ)に身を包みながら、午後から町を離れた。もっとも、飯田の方に着いて同門の人たちと一緒になる場合を考えると紋付の羽織に袴(はかま)ぐらい風呂敷包(ふろしきづつ)みにして肩に掛けて行く用意は必要であり、馬籠本陣への手土産(てみやげ)も忘れてはいなかったが。
 中津川から木曾の西のはずれまではそう遠くない。その間には落合(おちあい)の宿一つしかない。美濃よりするものは落合から十曲峠(じっきょくとうげ)にかかって、あれから信濃(しなの)の国境(くにざかい)に出られる。各駅の人馬賃銭が六倍半にも高くなったその年の暮れあたりから見ると、二人の青年時代には駅と駅との間を通う本馬(ほんま)五十五文、軽尻(からじり)三十六文、人足二十八文と言ったところだ。
 水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一月の二十七日には西へ通り過ぎて行った。飯田の方で北原兄弟が間道通過のことに尽力してからこのかた、清内路に、馬籠に、中津川に、浪士らがそれからそれと縁故をたどって来たのはいずれもこの地方に本陣庄屋なぞをつとめる平田門人らのもとであった。一方には幕府への遠慮があり、一方には土地の人たちへの心づかいがあり、平田門人らの苦心も一通りではなかった。木曾にあるものも、東美濃にあるものも、同門の人たちは皆この事件からは強い衝動を受けた。


 水戸浪士の通り過ぎて行ったあとには、実にいろいろなものが残った。景蔵と香蔵とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋(いなばや)まで呼び出され、浪士の一人なる横田東四郎から渋紙包みにした首級の埋葬方を依頼された時のことも、まだ二人の記憶に生々(なまなま)しい。これは和田峠で戦死したのをこれまで渋紙包みにして持参したのである。二男藤三郎、当年十八歳になるものの首級であると言って、実父の東四郎がそれを二人の前に差し出したのもその時だ。景蔵は香蔵と相談の上、夜中ひそかに自家の墓地にそれを埋葬した。そういう横田東四郎は参謀山国兵部や小荷駄掛(こにだがか)り亀山嘉治(かめやまよしはる)と共に、水戸浪士中にある三人の平田門人でもあったのだ。
 浪士らの行動についてはこんな話も残った。和田峠合戦のあとをうけ下諏訪(しもすわ)付近の混乱をきわめた晩のことで、下原村の百姓の中には逃げおくれたものがあった。背中には長煩(ながわずら)いで床についていた一人の老母もある。どうかして山手の方へ遠くと逃げ惑ううちに、母は背に負われて腹筋の痛みに堪(た)えがたいと言い出す。その時の母の言葉に、自分はこんな年寄りのことでだれもとがめるものはあるまい、その方は若者だ、どんな憂(う)き目を見ないともかぎるまいから、早く身を隠せよ。そう言われた百姓は、どうしたら親たる人を捨て置いてそこを逃げ延びたものかと考え、古筵(ふるむしろ)なぞを母にきせて介抱していると、ちょうどそこへ来かかった二人の浪士の発見するところとなった。お前は当所のものであろう、寺があらば案内せよ、自分らは主君の首を納めたいと思うものであると浪士が言うので、百姓は大病の老母を控えていることを答えて、その儀は堅く御免こうむりましょうと断わった。しからば自分の家来を老母に付けて置こう、早く案内せとその浪士に言われて見ると、百姓も断わりかねた。案内した先は三町ほど隔たった来迎寺(らいごうじ)の境内だ。浪士はあちこちと場所を選んだ。扇を開いて、携えて来た首級をその上にのせた。敬い拝して言うことには、こんなところで御武運つたなくなりたまわんとは夢にも知らなかった、御本望の達する日も見ずじまいにさぞ御残念に思(おぼ)し召されよう、軍(いくさ)の習い、是非ないことと思し召されよと、生きている人にでも言うようにそれを言って、暗い土の上にぬかずいた。短刀を引き抜いて、土中に深くその首級を納めた。それから浪士は元のところへ引き返して来て、それまで案内した男に褒美(ほうび)として短刀を与えたが、百姓の方ではそれを受けようとしなかった。元来百姓の身に武器なぞは不用の物であるとして、堅く断わった。そういうことなら、病める老母に薬を与えようとその浪士が言って、銀壱朱をそこに投げやりながら、家来らしい連れの者と一緒に下諏訪方面へ走り去ったという。
 こんな話を伝え聞いた土地のものは、いずれもその水戸武士の態度に打たれた。あれほどの恐怖をまき散らして行ったあとにもかかわらず、浪士らに対して好意を寄せるものも決して少なくはなかったのだ。
 景蔵、香蔵の二人は落合の宿まで行って、ある町角(まちかど)で一人の若者にあった。稲葉屋の子息(むすこ)勝重(かつしげ)だ。長いこと半蔵に就(つ)いて内弟子(うちでし)として馬籠本陣の方にあった勝重も、その年の春からは落合の自宅に帰って、年寄役の見習いを始めるほどの年ごろに達している。
「勝重さんもよい子息(むすこ)さんになりましたね。」
 驚くばかりの成長の力を言いあらわすべき言葉もないというふうに、二人は勝重の前に立って、まだ前髪のあるその額(ひたい)つきをながめながら、かわるがわるいろいろなことを尋ねて見た。この勝重に勧められて、しばらく二人は落合に時を送って行くことにした。その日は二人とも馬籠泊まりのつもりであり、急ぐ道でもなかったからで。のみならず、落合村の長老として知られた勝重の父儀十郎を見ることも、二人としては水戸浪士の通過以来まだそのおりがなかったからで。
 稲葉屋へ寄って見ると、そこでも浪士らのうわさが尽きない。横田東四郎からその子の首級を託せられた節は稲葉屋でも驚いたであろうという景蔵らの顔を見ると、勝重の父親はそれだけでは済まさなかった。あの翌朝、重立った幹部の人たちと見える浪士らが馬籠から落合に集まって、中津川の商人万屋安兵衛(よろずややすべえ)と大和屋李助(やまとやりすけ)の両人をこの稲葉屋へ呼び出し、金子(きんす)二百両の無心のあったことを語り出すのも勝重の父親だ。
「その話はわたしも聞きました。」と景蔵が笑う。
「でも、世の中は回り回っていますね。」と香蔵は言った。「横浜貿易でうんともうけた安兵衛さんが、水戸浪士の前へ引き出されるなんて。」
「そこは安兵衛さんです。」と儀十郎は昔気質(むかしかたぎ)な年寄役らしい調子で、「あの人は即答はできないが、一同でよく相談して来ると言って、いったん中津川の方へ引き取って行きました。それから、あなた、生糸(きいと)取引に関係のあったものが割前で出し合いまして、二百両耳をそろえてそこへ持って来ましたよ。」
「あの安兵衛さんと水戸浪士の応対が見たかった。」と香蔵が言う。
 しかし、一方に、浪士らが軍律をきびしくすることも想像以上で、幹部の目を盗んで民家を掠奪(りゃくだつ)した一人の土佐(とさ)の浪人のあることが発見され、この落合宿からそう遠くない三五沢まで仲間同志で追跡して、とうとうその男を天誅(てんちゅう)に処した、その男の逃げ込んだ百姓家へは手当てとして金子一両を家内のものへ残して行ったと語って見せるのも、またこの儀十郎だ。
「何にいたせ、あの同勢が鋭い抜き身の鎗(やり)や抜刀で馬籠の方から押して来ました時は、恐ろしゅうございました。」
 それを儀十郎が言うと、子息は子息で、
「あの藤田小四郎が吾家(うち)へも書いたものを残して行きましたよ。大きな刀をそばに置きましてね、何か書くから、わたしに紙を押えていろと言われた時は、思わずこの手が震えました。」
「勝重、あれを持って来て、浅見さんにも蜂谷(はちや)さんにもお目にかけな。」
 浪士らは行く先に種々(さまざま)な形見を残した。景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、副将田丸稲右衛門が所伝の黒糸縅(くろいとおどし)の甲冑片袖(かっちゅうかたそで)を残した。それは玉子色の羽二重(はぶたえ)に白麻の裏のとった袋に入れて、別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。
「馬籠の御本陣へも何か残して置いて行ったようなお話です。」と儀十郎が言う。
「どうせ、帰れる旅とは思っていないからでしょう。」
 景蔵の答えだ。
 その時、勝重は若々しい目つきをしながら、小四郎の記念というものを奥から取り出して来た。景蔵らの目にはさながら剣を抜いて敵王の衣を刺し貫いたという唐土(とうど)の予譲(よじょう)を想(おも)わせるようなはげしい水戸人の気性(きしょう)がその紙の上におどっていた。しかも、二十三、四歳の青年とは思われないような老成な筆蹟(ひっせき)で。
大丈夫当雄飛(だいじょうふまさにゆうひすべし)安雌伏(いずくんぞしふくせんや)
藤田信「そう言えば、浪士もどの辺まで行きましたろう。」
 景蔵らと稲葉屋親子の間にはそんなうわさも出る。
 その後の浪士らが美濃を通り過ぎて越前(えちぜん)の国まではいったことはわかっていた。しかしそれから先の消息は判然(はっきり)しない。中津川や落合へ飛脚が持って来る情報によると、十一月二十七日に中津川を出立した浪士らは加納藩(かのうはん)や大垣藩(おおがきはん)との衝突を避け、本曾街道の赤坂、垂井(たるい)あたりの要処には彦根藩(ひこねはん)の出兵があると聞いて、あれから道を西北方に転じ、長良川(ながらがわ)を渡ったものらしい。師走(しわす)の四日か五日ごろにはすでに美濃と越前の国境(くにざかい)にあたる蝿帽子峠(はえぼうしとうげ)の険路を越えて行ったという。
「あの蝿帽子峠の手前に、クラヤミ峠というのがございます。」と儀十郎は言って見せた。「ひどい峠で、三里の間は闇(やみ)を行くようだと申しますんで、それで俗にクラヤミでございますさ。あの辺は深い雪と聞きますから、浪士も難渋いたしましたろうよ。」
「千辛万苦の旅ですね。」
 と勝重も言っていた。
 間もなく景蔵らはこの稲葉屋を辞して、落合の宿をも離れた。中山薬師から十曲峠にかかって、新茶屋に出ると、そこはもう隣の国だ。雪まじりに土のあらわれた街道は次第に白く変わっていた。鋭い角度を見せた路傍の大石も雪にぬれていて、まず木曾路の入り口の感じを二人に与える。
 師走の五日には中津川や落合へも初雪が来た。その晩に大雪だったという馬籠峠の上では、宿場そのものがすでに冬ごもりだ。南側の雪は溶けても、北側は溶けずに、石を載せた板屋根までが山家らしいところで、中津川から行った二人の友だちはそこに待ちわび顔な半蔵とも、その家族の人たちとも一緒になった。

 この伊那(いな)行きはひどく半蔵をもよろこばせた。水戸浪士の通過を最後にして、その年の街道の仕事もどうやら一段落を告げたばかりではない。浪士らの残して置いて行った刺激は彼の心を静かにさせて置かなかったからである。浪士らの通過以来、伊那にある平田門人らはしきりに往来し始めたと聞くころだ。半蔵もまた二人の年上の友だちと共に、たとい大平峠の雪を踏んでも、伊那の谷の方にある同門の人たちを見に行かずにはいられなかった。
 馬籠本陣の店座敷では、翌朝の出発を楽しみにする三人が久しぶりの炬燵話(こたつばなし)に集まった。そこへ半蔵の父吉左衛門も茶色な袖無(そでな)し羽織などを重ねながらちょっと挨拶(あいさつ)に来て、水戸浪士のうわさを始める。
「中津川の方はいかがでしたか。」
「そりゃ、香蔵さん、馬籠は君たちの方と違って、隣に妻籠(つまご)というものを控えていましょう。福島から出張した人たちは大平口を堅める。えらい騒ぎでしたさ。」と半蔵が言う。
「いや、はや、あの時は福島の家中衆も大あわて。」とまた吉左衛門が言って見せた。「あとになって軍用の荷物をあけて見たら、あなた、桜沢口の方へは鉄砲の玉ばかり行って、大平口の方へはまた焔硝(えんしょう)(火薬)ばかり来ておりましたなんて。まあ、無事に浪士を落としてやってよかったと思うものは、わたしたちばかりじゃありますまい。あれから総督の田沼玄蕃頭(げんばのかみ)が浪士の跡を追って来るというので、またこちらじゃ一騒ぎでしたよ。御同勢千人あまり、残らず軍(いくさ)の陣立てで、剣付鉄砲を一挺(ちょう)ずつ用意しまして、浪士の立った翌日には伊那道の広瀬村泊まりで追って来るなぞといううわさでしょう。御承知のとおり、宅では浪士の宿をしましたから、どういうことになろうかと思って、ひどく心配しました。あの翌々日には、お先荷の長持だけはまいりましたが、とうとう田沼侯の御同勢はまいりませんでした。あの時ばかりはわたしもホッとしましたよ。聞けば飯田藩じゃ、御家老が切腹したといううわさじゃありませんか。おまけに、清内路の御関所番までも……」
 吉左衛門は年老いた手を膝(ひざ)の上に置いて、深いため息をついた。
 父が席を避けて行った後、半蔵は水戸浪士の幹部の人たちから礼ごころに贈られたものを二人の友だちの前に取り出した。武田、田丸、山国、藤田諸将の書いた詩歌の短冊(たんざく)、小桜縅(こざくらおどし)の甲冑片袖(かっちゅうかたそで)、そのほかに小荷駄掛りの亀山嘉治(かめやまよしはる)が特に半蔵のもとに残して置いて行った歌がある。水戸浪士に加わって来た同門の人が飯田や馬籠での述懐だ。
あられなす矢玉の中は越えくれどすすみかねたる駒(こま)の山麓(やまもと)
ふみわくる深山紅葉(みやまもみじ)を敷島のやまとにしきと見る人もがも
八束穂(やつかほ)のしげる飯田の畔(あぜ)にさへ君に仕ふる道はありけり
みだれ世のうき世の中にまじらなく山家は人の住みよからまし
草まくら夜ふす猪(しし)の床(とこ)とはに宿りさだめぬ身にもあるかな
つはものに数ならぬ身も神にます我が大君の御楯(みたて)ともがな
木曾山の八岳(やたけ)ふみこえ君がへに草むす屍(かばね)ゆかむとぞおもふ
嘉治「亀山は亀山らしい歌を残して行きましたね。思い入った人の歌ですね。」
 と景蔵が言うと、半蔵は炬燵(こたつ)の上に手を置きながら、
「あの騒ぎの中で、亀山とは一晩じゅう話してしまいました。もっとも、番士は交代で篝(かがり)を焚(た)く、村のものは村のもので宿内を警戒する、火の番は回って来る、なかなか寝られるようなものじゃありませんでしたよ。わたしも興奮しましてね、あの翌晩もひとりで起きていて、旧作の長歌を一晩かかって書き改めたりなぞしましたよ。」
 ちょうどその時、年寄役の伊之助が村方の用事をもって家の囲炉裏ばたまで見えたので、半蔵は伊那行きのことを伊之助に話しかつ留守中のことをも頼んで置くつもりで、ちょっとその席をはずした。そして、店座敷へ引き返して来て見ると、景蔵、香蔵の二人はお民にすすめられて、かわるがわる風呂場(ふろば)の方へからだを温(あたた)めに行っていた。
「半蔵、なんにもないが、お客さまに一杯あげる。ごらんな、お客さまというと子供が大はしゃぎだよ。にぎやかでありさえすれば子供はうれしいんだね。」
 と継母のおまんが言うころは、店座敷の障子も薄暗い。下女は行燈(あんどん)をさげて来た。
 やがて、こうした土地での習いで、炬燵板(こたついた)の上を食卓に代用して、半蔵は二人の友だちに山家の酒をすすめた。
「愉快、愉快。」と香蔵はそこへ心づくしの手料理を運んで来るお民を見て言った。「奥さんの前ですが、わたしたちが三人寄ることはこれでめったにないんです。半蔵さんとわたしと二人の時は、景蔵さんは京都の方へ行ってる。景蔵さんと一緒の時は、半蔵さんは江戸に出てる。まあ、きょうは久しぶりで、あの寛斎老人の家に三人机を並べた時分の心持ちに帰りましたよ。」


「こうして三人集まって見ると、やっぱり話したい。いや、ことしは実にえらい年でした。いろいろなものが一年のうちに、どしどし片づいて行ってしまいましたよ。」
 食後に、景蔵はそんなことを言い出した。その暮れになって見ると、天王山(てんのうざん)における真木和泉(まきいずみ)の自刃も、京都における佐久間象山(さくましょうざん)の横死も、皆その年の出来事だ。名高い攘夷(じょうい)論者も、開港論者も、同じように故人になってしまった。その時、三人の話は水戸の人たちのことに落ちて行った。
 尊攘は水戸浪士の掲げて来た旗じるしである。景蔵に言わせると、もともと尊王と攘夷とを結びつけ、その二つのものの堅い結合から新機運をよび起こそうと企てたのは真木和泉らの運動で、これは幕府の専横と外国公使らの不遜(ふそん)とを憤り一方に王室の衰微を嘆く至情からほとばしり出たことは明らかであるが、この尊攘の結合を王室回復の手段とするの可否はだんだん心あるものの間に疑問となって来た。尊王は尊王、攘夷は攘夷――尊王は遠い理想、攘夷は当面の外交問題であるからである。しかし、あの真木和泉にはそれを結びつけるだけの誠意があった。衆にさきがけして諸国の志士を導くに足るだけの熱意があった。もはやその人はない。尊攘の運動は事実においてすでにその中心の人物を失っている。のみならず、筑後水天宮(ちくごすいてんぐう)の祠官(しかん)の家に生まれ、京都学習院の徴士にまで補せられ、堂々たる朝臣の列にあった真木和泉がたとい生きながらえているとしても、大和(やまと)行幸論に一代を揺り動かしたほどの熱意を持ちつづけて、今後もあの尊攘論で十八隻から成る英米仏蘭四国の連合艦隊を向こうに回すようなこの国の難局を押し通せるものかどうか。尊王と攘夷との切り離して考えられるような時がようやくやって来たのではなかろうか。これが景蔵の意見であった。
 景蔵は言った。
「どうでしょう、尊攘ということもあの水戸の人たちを最後とするんじゃありますまいか。」


「しかし、景蔵さん。」とその時、香蔵は年上の友だちの話を引き取って言った。「あの亀山嘉治(かめやまよしはる)なぞは、そうは考えていませんぜ。」
「亀山は亀山、われわれはわれわれですさ。」と景蔵は言う。
「そういう景蔵さんの意見は、実際の京都生活から来てる。どうもわたしはそう思う。」
「そんなら見たまえ、長州藩あたりじゃ伊藤俊助(いとうしゅんすけ)だの井上聞多(いのうえもんた)だのという人たちをイギリスへ送っていますぜ。それが君、去年あたりのことですぜ。あの人たちの密航は、あれはなかなか意味が深いといううわさです。攘夷派の筆頭として知られた長州藩の人たちがそれですもの。」
「世の中も変わって来ましたな。」
「まあ、わたしに言わせると、尊攘ということを今だにまっ向(こう)から振りかざしているのは、水戸ばかりじゃないでしょうか。そこがあの人たちの実に正直なところでもありますがね。」
 木曾山の栗(くり)の季節はすでに過ぎ去り、青い香のする焼き米にもおそい。それまで半蔵は炬燵(こたつ)の上に手を置いて二人の友だちの話を聞いていたが、雪の来るまで枯れ枝の上に残ったような信濃柿(しなのがき)の小粒で霜に熟したのなぞをそこへ取り出して来て、景蔵や香蔵と一緒に熱い茶をすすりながら、店座敷の行燈(あんどん)のかげに長い冬の夜を送ろうとしていた。彼にして見ると、ヨーロッパを受けいれるか、受けいれないかは、多くの同時代の人の悩みであって、たとい先師篤胤(あつたね)がその日まで達者(たっしゃ)に在世せられたとしても、これには苦しまれたろうと思われる問題である。もはや、異国と言えば、オランダ一国を相手にしていて済まされたような、先師の時代ではなくなって来たからである。それにしても、あれほど京都方の反対があったにもかかわらず、江戸幕府が開港を固執して来たについては、何か理由がなくてはならない。幕府の役人にそれほどの先見の明があったとは言いがたい。なるほど、安政万延年代には岩瀬肥後(いわせひご)のような人もあった。しかし、それはごくまれな人のことで、大概の幕府の役人は皆京都あたりの攘夷家に輪をかけたような西洋ぎらいであると言わるる。その人たちが開港を固執して来た。これは外国公使らの脅迫がましい態度に余儀なくせられたとのみ言えるだろうか。水戸浪士の尊攘が話題に上ったのを幸いに、半蔵はその不思議さを二人の友だちの前に持ち出した。
「こういう説もあります。」と景蔵は言った。「政府がひとりで外国貿易の利益を私するから、それでこんなに攘夷がやかましくなった。一年なら一年に、得(う)るところを計算してですね、朝廷へ何ほど、公卿(くげ)へ何ほど、大小各藩へ何ほどというふうに、その額をきめて、公明正大な分配をして来たら、上御一人(かみごいちにん)から下は諸藩の臣下にまでよろこばれて、これほど全国に不平の声は起こらなかったかもしれない。今になって君、そういうことを言い出して来たものもありますよ。」
「政府ばかりが外国貿易の利益をひとり占(じ)めにする法はないか。」と香蔵はくすくすやる。
「ところが、そういうことを言い出して、政府のお役人に忠告を試みたのが、英国公使のアールコックだといううわさだからおもしろいじゃありませんか。」とまた景蔵が言って見せた。
「いや、」と半蔵はそれを引き取って、「そう言われると、いろいろ思い当たることはありますよ。」
「横浜には外国人相手の大遊郭(だいゆうかく)も許可してあるしね。」と香蔵が言い添える。
「あの生麦(なまむぎ)償金のことを考えてもわかります。」と景蔵は言った。「見たまえ、この苦しい政府のやり繰りの中で、十万ポンドという大金がどこから吐き出せると思います。幕府のお役人が開港を固執して来たはずじゃありませんか。」
 しばらく沈黙が続いた。
「半蔵さん。攘夷論がやかましくなって来たそもそもは、あれはいつごろだったでしょう。ほら、幕府の大官が外国商人と結託してるの、英国公使に愛妾(あいしょう)をくれたのッて、やかましく言われた時がありましたっけね。」
「そりゃ、尊王攘夷の大争いにだって、利害関係はついて回る。横浜開港以来の影響はだれだって考えて来たことですからね。でも、尊攘と言えば、一種の宗教運動に似たもので、成敗利害の外にある心持ちから動いて来たものじゃありますまいか。」
「今日(こんにち)まではそうでしょうがね。しかし、これから先はどうありましょうかサ。」
「まあ、西の方へ行って見たまえ。公卿でも、武士でも、驚くほど実際的ですよ。水戸の人たちのように、ああ物事にこだわっていませんよ。」
「いや、京都へ行って帰って来てから、君らの話まで違って来た。」
 こんな話も出た。
 その夜、半蔵は家のものに言い付けて二人の友だちの寝床を店座敷に敷かせ、自分も同じように枕(まくら)を並べて、また寝ながら語りつづけた。近く中津川を去って国学者に縁故の深い伊勢(いせ)地方へ晩年を送りに行った旧師宮川寛斎のうわさ、江戸の方にあった家を挙(あ)げて京都に移り住みたい意向であるという師平田鉄胤(かねたね)のうわさ、枕の上で語り合うこともなかなか尽きない。半蔵は江戸の旅を、景蔵らは京都の方の話まで持ち出して、寝物語に時のたつのも忘れているうちに、やがて一番鶏(どり)が鳴いた。

       二

「あなた、佐吉が飯田(いいだ)までお供をすると言っていますよ。」
 お民はそれを言って、あがりはなのところに腰を曲(こご)めながら新しい草鞋(わらじ)をつけている半蔵のそばへ来た。景蔵、香蔵の二人もしたくして伊那行きの朝を迎えていた。
「飯田行きの馬は通(かよ)っているんだろう。」と半蔵は草鞋の紐(ひも)を結びながら言う。
「けさはもう荷をつけて通りましたよ。」
「馬さえ通(かよ)っていれば大丈夫さ。」
「なにしろ、道が悪くて御苦労さまです。」
 そういうお民から半蔵は笠(かさ)を受け取った。下男の佐吉は主人らの荷物のほかに、その朝の囲炉裏で焼いた芋焼餅(いもやきもち)を背中に背負(しょ)った。一同したくができた。そこで出かけた。
 降った雪の溶けずに凍る馬籠峠の上。雪を踏み堅め踏み堅めしてある街道には、猿羽織(さるばおり)を着た村の小娘たちまでが集まって、一年の中の最も楽しい季節を迎え顔に遊び戯れている。愛らしい軽袗(かるさん)ばきの姿に、鳶口(とびぐち)を携え、坂になった往来の道を利用して、朝早くから氷滑(すべ)りに余念もない男の子の中には、半蔵が家の宗太もいる。
 一日は一日より、白さ、寒さ、深さを増す恵那山(えなさん)連峰の谿谷(けいこく)を右手に望みながら、やがて半蔵は連れと一緒に峠の上を離れた。木曾山森林保護の目的で尾州藩から見張りのために置いてある役人の駐在所は一石栃(いちこくとち)(略称、一石)にある。いわゆる白木の番所だ。番所の屋根から立ちのぼる煙も沢深いところだ。その辺は馬籠峠の裏山つづきで、やがて大きな木曾谷の入り口とも言うべき男垂山(おたるやま)の付近へと続いて行っている。この地勢のやや窮まったところに、雪崩(なだれ)をも押し流す谿流の勢いを見せて、凍った花崗石(みかげいし)の間を落ちて来ているのが蘭川(あららぎがわ)だ。木曾川の支流の一つだ。そこに妻籠(つまご)手前の橋場があり、伊那への通路がある。
 蘭川の谷の昔はくわしく知るよしもない。ただしかし、尾張美濃から馬籠峠を経て、伊那諏訪(すわ)へと進んだ遠い昔の人の足跡をそこに想像することはできる。そこにはまた、幾世紀の長さにわたるかと思われるような沈黙と寂寥(せきりょう)との支配する原生林の大きな沢を行く先に見つけることもできる。蘭(あららぎ)はこの谷に添い、山に倚(よ)っている村だ。全村が生活の主(おも)な資本(もとで)を山林に仰いで、木曾名物の手工業に親代々からの熟練を見せているのもそこだ。そこで造らるる檜木笠(ひのきがさ)の匂(にお)いと、石垣(いしがき)の間を伝って来る温暖(あたたか)な冬の清水(しみず)と、雪の中にも遠く聞こえる犬や鶏の声と。しばらく半蔵らはその山家の中の山家とも言うべきところに足を休めた。
 そこまで行くと、水戸浪士の進んで来た清内路(せいないじ)も近い。清内路の関所と言えば、飯田藩から番士を出張させてある山間(やまあい)の関門である。千余人からの浪士らの同勢が押し寄せて来た当時、飯田藩で間道通過を黙許したものなら、清内路の関所を預かるものがそれをするにさしつかえがあるまいとは、番士でないものが考えても一応言い訳の立つ事柄である。飯田藩の家老と運命を共にしたという関所番が切腹のうわさは、半蔵らにとってまだ実に生々(なまなま)しかった。


 蘭(あららぎ)から道は二つに分かれる。右は清内路に続き、左は広瀬、大平(おおだいら)に続いている。半蔵らはその左の方の道を取った。時には樅(もみ)、檜木(ひのき)、杉(すぎ)などの暗い木立ちの間に出、時には栗(くり)、その他の枯れがれな雑木の間の道にも出た。そして越えて来た蘭川の谷から広瀬の村までを後方に振り返って見ることのできるような木曾峠の上の位置に出た。枝と枝を交えた常磐木(ときわぎ)がささえる雪は恐ろしい音を立てて、半蔵らが踏んで行く路傍に崩(くず)れ落ちた。黒い木、白い雪の傾斜――一同の目にあるものは、ところまだらにあらわれている冬の山々の肌(はだ)だった。
 昼すこし過ぎに半蔵らは大平峠の上にある小さな村に着いた。旅するものはもとより、荷をつけて中津川と飯田の間を往復する馬方なぞの必ず立ち寄る休み茶屋がそこにある。まず笠(かさ)を脱いで炉ばたに足を休めようとしたのは景蔵だ。香蔵も半蔵も草鞋(わらじ)ばきのままそのそばにふん込(ご)んで、雪にぬれた足袋(たび)の先をあたためようとした。
「どれ、芋焼餅(いもやきもち)でも出さずか。」
 と供の佐吉は言って、馬籠から背負(しょ)って来た風呂敷包みの中のものをそこへ取り出した。
「山で食えば、焼きざましの炙(あぶ)ったのもうまからず。」
 とも言い添えた。
 炉にくべた枯れ枝はさかんに燃えた。いくつかの芋焼餅は、火に近く寄せた鉄の渡しの上に並んだ。しばらく一同はあかあかと燃え上がる火をながめていたが、そのうちに焼餅もよい色に焦げて来る。それを割ると蕎麦粉(そばこ)の香と共に、ホクホクするような白い里芋(さといも)の子があらわれる。大根おろしはこれを食うになくてならないものだ。佐吉はそれを茶屋の婆(ばあ)さんに頼んで、熱い焼餅におろしだまりを添え、主人や客にも勧めれば自分でも頬(ほお)ばった。
 その時、※頭巾(わらずきん)[#「くさかんむり/稾」、171-13]をかぶって鉄砲をかついだ一人の猟師が土間のところに来て立った。
「これさ、休んでおいでや。」
 と声をかけるのは、勝手口の流しもとに皿小鉢(さらこばち)を洗う音をさせている婆さんだ。半蔵は炉ばたにいて尋ねて見た。
「お前はこの辺の者かい。」
「おれかなし。おれは清内路だ。」
 肩にした鉄砲と一緒に一羽の獲物(えもの)の山鳥をそこへおろしての猟師の答えだ。
 清内路と聞くと、半蔵は炉ばたから離れて、その男の方へ立って行った。見ると、耳のとがった、尻尾(しっぽ)の上に巻き揚がった猟犬をも連れている。こいつはその鋭い鼻ですぐに炉ばたの方の焼餅の匂(にお)いをかぎつけるやつだ。
「妙なことを尋ねるようだが、お前はお関所の話をよく知らんかい。」と半蔵が言った。
「おれが何を知らすか。」と猟師は※[#「くさかんむり/稾」、172-6]頭巾を脱ぎながら答える。
「お前だって、あのお関所番のことは聞いたろうに。」
「うん、あの話か。おれもそうくわしいことは知らんぞなし。なんでも、水戸浪士が来た時に、飯田のお侍様が一人と、二、三十人の足軽の組が出て、お関所に詰めていたげな。そんな小勢でどうしようもあらすか。通るものは通れというふうで、あのお侍様も黙って見てござらっせいたそうな。」と言って、猟師は気をかえて、「おれは毎日鉄砲打ちで、山ばかり歩いていて、お関所番の亡(な)くなったこともあとから聞いた。そりゃ、お前さま、この茶屋の婆さんの方がよっぽどくわしい。おれはこんな犬を相手だが、ここの婆さんはお客さまを相手だで。」


 日暮れごろに半蔵らは飯田の城下町にはいった。水戸浪士が間道通過のあとをうけてこの地方に田沼侯の追討軍を迎えることになった飯田では、またまた一時大騒ぎを繰り返したというところへ着いた。
 飯田藩の家老が切腹の事情は、中津川や馬籠から来た庄屋問屋のうかがい知るところではなかった。しかし、半蔵らは木曾地方に縁故の深いこの町の旅籠屋(はたごや)に身を置いて見て、ほぼその悲劇を想像することはできた。人が激しい運命に直面した時は身をもってそれに当たらねばならない。何ゆえにこの家老は一藩の重きに任ずる身で、それほどせっぱ詰まった運命に直面しなければならなかったか。半蔵らに言わせると、当時は幕府閣僚の権威が強くなって、何事につけても権威をもって高二万石にも達しない飯田のような外藩にまで臨もうとするからである。その強い権威の目から見たら、飯田藩が弓矢沢の防備を撤退したはもってのほかだと言われよう。間道の修繕を加えたはもってのほかだと言われよう。飯田町が水戸浪士に軍資金三千両の醵出(きょしゅつ)を約したことなぞはなおなおもってのほかだと言われよう。しかし、砥沢口(とざわぐち)合戦の日にも和田峠に近づかず、諏訪(すわ)松本両勢の苦戦をも救おうとせず、必ず二十里ずつの距離を置いて徐行しながら水戸浪士のあとを追って来たというのも、そういう幕府の追討総督だ。
 ともあれ、この飯田藩家老の死は強い力をもって伊那地方に散在する平田門人を押した。もともと飯田藩では初めから戦いを避けようとしたでもない。御会所の軍議は籠城(ろうじょう)のことに一決され、もし浪士らが来たら市内は焼き払われて戦乱の巷(ちまた)ともなるべく予想されたから、飯田の町としては未曾有(みぞう)の混乱状態を現出した際に、それを見かねてたち上がったのが北原稲雄兄弟であるからだ。稲雄がその弟の豊三郎をして地方係りと代官とに提出させた意見書の中には、高崎はじめ諏訪(すわ)高遠(たかとお)の領地をも浪士らが通行の上のことであるから、当飯田の領分ばかりが恥辱にもなるまいとの意味のことが認(したた)めてあった。豊三郎はそれをもって、おりから軍議最中の飯田城へ駆けつけたところ、郡奉行(こおりぶぎょう)はひそかに彼を別室に招き間道通過に尽力すべきことを依託したという。その足で豊三郎は飯田の町役人とも会見した。もし北原兄弟の尽力で、兵火戦乱の災(わざわい)から免れることができるなら、これに過ぎた町の幸福(しあわせ)はない、ついては町役人は合議の上で、十三か町の負担をもって、翌日浪士軍に中食を供し、かつ三千両の軍資金を醵出(きょしゅつ)すべき旨(むね)の申し出があったというのもその時だ。もっとも、この金の調達はおくれ、そのうち千両だけできたのを持って浪士軍を追いかけたものがあるが、はたして無事にその金を武田藤田らの手に渡しうるかどうかは疑問とされていた。
「これを責めるとは、酷だ。」
 その声は伊那地方にある同門の人たちを奮いたたせた。上にあって飯田藩の責任を問う人よりもさらによく武士らしい責任を知っていたというべき家老や関所番の死を憐(あわれ)むものが続々と出て来て、手向(たむ)けの花や線香がその新しい墓地に絶えないという時だ。半蔵が景蔵や香蔵と一緒に伊那の谷を訪れたのは、この際である。


 水戸浪士の間道通過に尽力しあわせて未曾有の混乱から飯田の町を救おうとした北原兄弟らの骨折りは、しかし決してむなしくはなかった。厳密な意味での平田篤胤没後の門人なるものは、これまで伊那の谷に三十六人を数えたが、その年の暮れには一息に二十三人の入門候補者を得たほど、この地方の信用と同情とを増した。
 その時になって見ると、片桐春一(かたぎりしゅんいち)らの山吹(やまぶき)社中を中心にする篤胤研究はにわかに活気を帯びて来る。従来国恩の万分の一にも報いようとの意気込みで北原稲雄らによって計画された先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布(じょうぼくはんぷ)は一層順調に諸門人が合同協力の実をあげる。小野の倉沢義髄(くらさわよしゆき)、清内路の原信好(のぶよし)のように、中世否定の第一歩を宗教改革に置く意味で、神仏混淆(こんこう)の排斥と古神道の復活とを唱えるために、相携えて京都へ向かおうとしているものもある。
 この機運を迎えた、伊那地方にある同門の人たちは、日ごろ彼らが抱(いだ)いている夢をなんらかの形に実現しようとして、国学者として大きな諸先達のためにある記念事業を計画していた。半蔵らが飯田にはいった翌々日には、三人ともその下相談にあずかるために、町にある同門の有志の家に集まることになった。
 ここですこしく平田門人の位置を知る必要がある。篤胤の学説に心を傾けたものは武士階級に少なく、その多くは庄屋(しょうや)、本陣、問屋(といや)、医者、もしくは百姓、町人であった。先師篤胤その人がすでに医者の出であり、師の師なる本居宣長(もとおりのりなが)もまた医者であった。半蔵らの旧師宮川寛斎が中津川の医者であったことも偶然ではない。
 その中にも、庄屋と本陣問屋とが、東美濃から伊那へかけての平田門人を代表すると見ていい。しかし、当時の庄屋問屋本陣なるものの位置がその籍を置く公私の領地に深き地方的な関係のあったことを忘れてはならない。たとえば、景蔵、香蔵の生まれた地方は尾州領である。その地方は一方は木曾川を隔てて苗木(なえぎ)領に続き、一方は丘陵の起伏する地勢を隔てて岩村領に続いている。尾州の家老成瀬(なるせ)氏は犬山に、竹腰(たけごし)氏は今尾(いまお)に、石河(いしかわ)氏は駒塚(こまづか)に、その他八神(やがみ)の毛利(もうり)氏、久々里(くくり)九人衆など、いずれも同じ美濃の国内に居所を置き、食邑(しょくゆう)をわかち与えられている。言って見れば、中津川の庄屋は村方の年貢米だけを木曾福島の山村氏(尾州代官)に納める義務はあるが、その他の関係においては御三家の随一なる尾州の縄張(なわば)りの内にある。江戸幕府の権力も直接にはその地方に及ばない。東美濃と南信濃とでは、領地関係もおのずから異なっているが、そこに籍を置く本陣問屋庄屋なぞの位置はやや似ている。あるところは尾州旗本領、あるところはいわゆる交代寄り合いの小藩なる山吹領というふうに、公領私領のいくつにも分かれた伊那地方が篤胤研究者の苗床(なえどこ)であったのも、決して偶然ではない。たとえば暮田正香(くれたまさか)のような幕府の注意人物が小野の倉沢家にも、田島の前沢家にも、伴野(ともの)の松尾家にも、座光寺の北原家にも、飯田の桜井家にも、あるいは山吹の片桐家にもというふうに、巡行寄食して隠れていられるのも、伊那の谷なればこそだ。また、たとえば長谷川(はせがわ)鉄之進、権田直助(ごんだなおすけ)、落合直亮(なおあき)らの志士たちが小野の倉沢家に来たり投じて潜伏していられるということも、この谷なればこそそれができたのである。
 町の有志の家に集まる約束の時が来た。半蔵は二人の友だちと同じように飯田の髪結いに髪を結わせ、純白で新しい元結(もとゆい)の引き締まったここちよさを味わいながら一緒に旅籠屋(はたごや)を出た。時こそ元治(げんじ)元年の多事な年の暮れであったが、こんなに友だちと歩調を合わせて、日ごろ尊敬する諸大人のために何かの役に立ちに行くということは、そうたんと来そうな機会とも思われなかったからで。三人連れだって歩いて行く中にも、一番年上で、一番左右の肩の釣合(つりあ)いの取れているのは景蔵だ。香蔵と来たら、隆(たか)く持ち上げた左の肩に物を言わせ、歩きながらでもそれをすぼめたり、揺(ゆす)ったりする。この二人に比べると、息づかいも若く、骨太(ほねぶと)で、しかも幅の広い肩こそは半蔵のものだ。行き過ぎる町中には、男のさかりも好ましいものだと言いたげに、深い表格子の内からこちらをのぞいているような女の眸(ひとみ)に出あわないではなかったが、三人はそんなことを気にも留めなかった。その日の集まりが集まりだけに、半蔵らはめったに踏まないような厳粛な道を踏んだ。


 新しい社(やしろ)を建てる。荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長、平田篤胤、この国学四大人の御霊代(みたましろ)を置く。伊那の谷を一望の中にあつめることのできる山吹村の条山(じょうざん)(俗に小枝山(こえだやま)とも)の位置をえらび、九畝歩(せぶ)ばかりの土地を山の持ち主から譲り受け、枝ぶりのおもしろい松の林の中にその新しい神社を創立する。
 この楽しい考えが、平田門人片桐春一を中心にする山吹社中に起こったことは、何よりもまず半蔵らをよろこばせた。独立した山の上に建てらるべき木造の建築。四人の翁を祭るための新しい社殿。それは平田の諸門人にとって郷土後進にも伝うべきよき記念事業であり、彼らが心から要求する復古と再生との夢の象徴である。なぜかなら、より明るい世界への啓示を彼らに与え、健全な国民性の古代に発見せらるることを彼らに教えたのも、そういう四人の翁の大きな功績であるからで。
 その日、山吹社中の重立ったものが飯田にある有志の家に来て、そこに集まった同門の人たちに賛助を求めた。景蔵はじめ、香蔵、半蔵のように半ば客分のかたちでそこに出席したものまで、この記念の創立事業に異議のあろうはずもない。山吹から来た門人らの説明によると、これは片桐春一が畢生(ひっせい)の事業の一つとしたい考えで、社地の選定、松林の譲り受け、社殿の造営工事の監督等は一切山吹社中で引き受ける。これを条山神社とすべきか、条山霊社とすべきか、あるいは国学霊社とすべきかはまだ決定しない。その社号は師平田鉄胤(かねたね)の意見によって決定することにしたい。なお、四大人の御霊代(みたましろ)としては、先人の遺物を全部平田家から仰ぐつもりであるとの話で、片桐春一ははたから見ても涙ぐましいほどの熱心さでこの創立事業に着手しているとのことであった。
 その日の顔ぶれも半蔵らにはめずらしい。平素から名前はよく聞いていても、互いに見る機会のない飯田居住の同門の人たちがそこに集まっていた。駒場(こまば)の医者山田文郁(ぶんいく)、浪合(なみあい)の増田(ますだ)平八郎に浪合佐源太(さげんた)なぞの顔も見える。景蔵には親戚(しんせき)にあたる松尾誠(多勢子(たせこ)の長男)もわざわざ伴野(ともの)からやって来た。先師没後の同じ流れをくむとは言え、国学四大人の過去にのこした仕事はこんなにいろいろな弟子(でし)たちを結びつけた。
 その時、一室から皆の集まっている方へ来て、半蔵の肩をたたいた人があった。
「青山君。」
 声をかけたは暮田正香だ。半蔵はめずらしいところでこの人の無事な顔を見ることもできた。伊那の谷に来て隠れてからこのかた、あちこちと身を寄せて世を忍んでいるような正香も、こうして一同が集まったところで見ると、さすがに先輩だ。小野村の倉沢義髄(よしゆき)を初めて平田鉄胤の講筵(こうえん)に導いて、北伊那に国学の種をまく機縁をつくったほどの古株だ。
「世の中はおもしろくなって来ましたね。」
 だれが言い出すともないその声、だれが言いあらわして見せるともないその新しいよろこびは、一座のものの顔に読まれた。
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