夜明け前
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:島崎藤村 

     第八章

       一

「もう半蔵も王滝(おうたき)から帰りそうなものだぞ。」
 吉左衛門(きちざえもん)は隠居の身ながら、忰(せがれ)半蔵の留守を心配して、いつものように朝茶をすますとすぐ馬籠(まごめ)本陣の裏二階を降りた。彼の習慣として、ちょっとそこいらを見回りに行くにも質素な平袴(ひらばかま)ぐらいは着けた。それに下男の佐吉が手造りにした藁草履(わらぞうり)をはき、病後はとかく半身の回復もおそかったところから杖(つえ)を手放せなかった。
 そういう吉左衛門も、代を跡目(あとめ)相続の半蔵に譲り、庄屋(しょうや)本陣問屋(といや)の三役を退いてから、半年の余になる。前の年、文久(ぶんきゅう)二年の夏から秋へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路(きそじ)を通過した長州侯(ちょうしゅうこう)をこの宿場に迎えることもできなかったころだ。おりからの悪病流行で、あの大名ですら途中の諏訪(すわ)に三日も逗留(とうりゅう)を余儀なくせられたくらいのころだ。江戸表から、大坂[#「大坂」は底本では「大阪」]、京都は言うに及ばず、日本国じゅうにあの悪性の痲疹(はしか)が流行して、全快しても種々な病に変わり、諸方に死人のできたこともおびただしい数に上った。世間一統、年を祭り替えるようなことは気休めと言えば、気休めだが、そんなことでもして悪病の神を送るよりほかに災難の除(よ)けようもないと聞いては、年寄役の伏見屋金兵衛(ふしみやきんべえ)なぞが第一黙っているはずもなく、この宿でも八月のさかりに門松を立て、一年のうちに二度も正月を迎えて、世直しということをやった。吉左衛門としては、あれが長い駅長生活の最後の時だった。同じ八月の二十九日には彼は金兵衛と共に退役を仰せ付けられる日を迎えた。それぎり、ずっと引きこもりがちに暮らして来た彼だ。こんなに宿場の様子が案じられ、人のうわさも気にかかって、忰(せがれ)の留守に問屋場(といやば)の方まで見回ろうという心を起こしたのは、彼としてもめずらしいことであった。
 当時、将軍家茂(いえもち)は京都の方へ行ったぎりいまだに還御(かんぎょ)のほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。種々(さまざま)な流言も伝わって来るころだ。吉左衛門の足はまず孫たちのいる本陣の母屋(もや)の方へ向いた。


「やあ、例幣使(れいへいし)さま。」
 母屋の囲炉裏(いろり)ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って子供に戯れている。おまん(吉左衛門の妻)も裏二階の方から来て、お民(半蔵の妻)と一緒になっている。家族のあるものはすでに早い朝の食事をすまし、あるものはまだ膳(ぜん)に向かっている。そこへ吉左衛門がはいって行った。
「いゝえ、正己(まさみ)は例幣使さまじゃありません。」とおまんが三番目の孫に言って見せる。
「おとなしくして御飯(おまんま)を食べるものは、例幣使さまじゃないで。」とまた佐吉が言う。囲炉裏ばたのすみのところに片足を折り曲げ、食事をするにも草鞋(わらじ)ばきのままでやるのがこの下男の癖だった。
「佐吉、おれは例幣使さまじゃないぞい。」
 と総領の宗太が言い出したので、囲炉裏ばたに集まっているものは皆笑った。
 吉左衛門の孫たちも大きくなった。お粂(くめ)は八歳、宗太は六歳、三番目の正己が三歳にもなる。どうして例幣使のことがこんなに幼いものの口にまで上るかと言うに、この街道筋ではおよそやかましいものの通り名のようになっていたからで。道中で人足(にんそく)をゆすったり、いたるところの旅館で金を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から毎年きまりで下って来るその日光例幣使の一行であった。百姓らが二百十日の大嵐(おおあらし)にもたとえて恐怖していたのも、またその勅使代理の一行であった。公卿(くげ)、大僧正(だいそうじょう)をはじめ、約五百人から成るそれらの一行が金(きん)の御幣を奉じてねり込んで来て、最近にこの馬籠の宿でも二十両からの祝儀金(しゅうぎきん)をねだって通り過ぎたのは、ちょうど半蔵が王滝の方へ行っている留守の時だった。
 吉左衛門は広い炉ばたから寛(くつろ)ぎの間(ま)の方へ行って見た。そこは半蔵が清助を相手に庄屋(しょうや)本陣の事務を見る部屋(へや)にあててある。
「万事は半蔵の量見一つでやるがいい――おれはもう一切、口を出すまいから。」
 これは吉左衛門が退役の当時に半蔵に残した言葉で、隠居してからもその心に変わりはなかった。今さら、彼は家のことに口を出すつもりは毛頭(もうとう)なかった。ただ、半蔵の仕事部屋を見回るだけに満足した。
 店座敷の方へも行って見た。以前の大火に枯れた老樹の跡へは、枝ぶりのおもしろい松の樹(き)が山から移し植えられ、白い大きな蕾(つぼみ)を持つ牡丹(ぼたん)がまた焼け跡から新しい芽を吹き出している。半蔵の好きなものだ。「松(まつ)が枝(え)」とは、その庭の植樹(うえき)から思いついて、半蔵が自分の歌稿の題としているくらいだ。しかしそれらの庭にあるものよりも、店座敷の床の間に積み重ねてある書物が吉左衛門の目についた。そこには本居(もとおり)派や平田派の古学に関したいろいろな本が置いてある。あの平田篤胤(あつたね)と同郷で、その影響を受けたとも言われる佐藤信淵(さとうのぶひろ)が勧農に関する著述なぞも置いてある。
 吉左衛門はひとり言って見た。
「これだ。相変わらず半蔵はこういう方に凝っていると見えるなあ。」
 まだ朝のうちのことで、毎日手伝いに通(かよ)って来る清助も顔を見せない。吉左衛門はその足で母屋(もや)の入り口から表庭を通って、門の外に出て見た。早く馬籠を立つ上り下りの旅人以外には、街道を通る人もまだそれほど多くない。宿場の活動は道路を清潔にすることから始められるような時であった。
 将軍の上洛(じょうらく)以来、この街道を通行する諸大名諸公役なぞの警衛もにわかに厳重になった。その年の日光例幣使は高百五十石の公卿(くげ)であるが、八挺(ちょう)の鉄砲を先に立て、二頭の騎馬に護(まも)られて、おりからの強雨の中を発(た)って行ったといううわさを残した。公儀より一頭、水戸藩(みとはん)より一頭のお付き添いだなどと評判はとりどりであったが、あとになってそれが尾州藩よりの警衛とわかった。皇室と徳川霊廟(れいびょう)とを結びつけるはずの使者が、公武合体の役には立たないで、あべこべにそれをぶち壊(こわ)して歩くのもあの一行だった。さすがに憎まれ者の例幣使のことで、八挺の鉄砲と二頭の騎馬とで、その身を護(まも)ることを考えねばならなくなったのだ。
 毎月上半期を半蔵の家の方で、下半期を九太夫(くだゆう)方で交替に開く問屋場(といやば)は、ちょうどこちらの順番に当たっていた。吉左衛門の足はその方へ向いた。そこには書役(かきやく)という形で新たにはいった亀屋栄吉(かめやえいきち)が早く出勤していて、小使いの男と二人(ふたり)でそこいらを片づけている。栄吉は吉左衛門が実家を相続しているもので、吉左衛門の甥(おい)にあたり、半蔵とは従兄弟(いとこ)同志の間柄にあたる。問屋としての半蔵の仕事を手伝わせるために、わざわざ吉左衛門が見立てたのもこの栄吉だ。
「叔父(おじ)さん、早いじゃありませんか。」
「あゝ。もう半蔵も帰りそうなものだと思って、ちょっとそこいらを見回りに来たよ。だいぶ荷もたまってるようだね。」
「それですか。それは福島行きの荷です。けさはまだ峠の牛が降りて来ません。」
 栄吉は問屋場の御改(おあらた)め所(じょ)になっている小さい高台のところへ来て、その上に手を置き、吉左衛門はまたその前の羽目板(はめいた)に身を寄せ、蹴込(けこ)みのところに立ったままで、敷居の上と下とで言葉をかわしていた。吉左衛門のつもりでは、退職後の問屋の帳面にも一応は目を通し、半蔵の勤めぶりに安心の行くかどうかを確かめて、青山親子が職業に怠りのあるとは言われたくないためであった。でも、彼はすぐにそんなことを言い出しかねて、栄吉の方から言い出すいろいろな問屋場の近況に耳を傾けていた。
「大旦那(おおだんな)、店座敷(ここは宿役人の詰め所をさす)の方でお茶を一つお上がり。まだ役人衆はどなたも見えていませんから。」
 と小使いの男が言う。吉左衛門はそれをきッかけに、砂利(じゃり)で堅めた土間を通って、宿役人の詰め所の上がり端(はな)の方へ行って腰掛けた。そこは会所と呼んでいるところで、伏見屋、桝田屋(ますだや)、蓬莱屋(ほうらいや)、梅屋とこの四人の年寄役のほかに、今一軒の問屋九郎兵衛(くろべえ)なぞが事あるごとに相談に集まる場所だ。吉左衛門はその上がり端のところに杖(つえ)を置いて、腰掛けたままで茶を飲んだ。それから甥(おい)の方へ声をかけた。
「栄吉、問屋場の帳面をここへ見せてくれないか。ちょっとおれは調べたいことがある。」
 その時、栄吉は助郷(すけごう)の人馬数を書き上げた日〆帳(ひじめちょう)なぞをそこへ取り出して来た。吉左衛門も隠居の身で、駅路のことに口を出そうでもない。ただ彼はその大切な帳簿を繰って見て、半蔵の認(したた)め方に目を通すというだけに満足した。
「叔父(おじ)さん、街道の風儀も悪くなって来ましたね。」と栄吉は言って見せる。「なんでもこの節は力ずくで行こうとする。こないだも九太夫さんの家の方へ来て、人足の出し方がおそいと言って、問屋場であばれた侍がありましたぜ。ひどいやつもあるものですね。その侍は土足のままで、問屋場の台の上へ飛びあがりましたぜ。そこに九郎兵衛さんがいました。あの人も見ていられませんから、いきなりその侍を台の上から突き落としたそうです。さあ、怒(おこ)るまいことか、先方(さき)は刀に手を掛けるから、九郎兵衛さんがあの大きなからだでそこへ飛びおりて、斬(き)れるものなら斬って見るがいいと言ったそうですよ。ちょうど表には大名の駕籠(かご)が待っていました。大名は騒ぎを聞きつけて、ようやくその侍を取りしずめたそうですがね。どうして、この節は油断ができません。」
「そう言えば、十万石につき一人(ひとり)ずつとか、諸藩の武士が京都の方へ勤めるようになったと聞くが、真実(ほんとう)だろうか。」
「その話はわたしも聞きました。」
「参覲交代(さんきんこうたい)の御変革以来だよ。あの御変革は、どこまで及んで行くか見当がつかない。」
 こんな話をしたあとで、吉左衛門は思わず時を送ったというふうに腰を持ちあげた。問屋場からの出がけにも、彼は出入り口の障子の開いたところから板廂(いたびさし)のかげを通して、心深げに旧暦四月の街道の空をながめた。そして栄吉の方を顧みて言った。
「今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった。」


 吉左衛門の心配は、半蔵が親友の二人(ふたり)までも京都の方へ飛び出して行ったことであった。あの中津川本陣の景蔵や、新問屋和泉屋(いずみや)の香蔵のあとを追って、もし半蔵が家出をするような日を迎えたら。その懸念(けねん)から、年老いた吉左衛門は思い沈みながら、やがて自分の隠居所の方へ非常に静かに歩いて行った。彼がその裏二階に上るころには、おまんも母屋(もや)の方から夫(おっと)を見に来た。
「いや、朝のうちは問屋場も静かさ。栄吉が出勤しているだけで、まだ役人衆はだれも見えなかった。」
 吉左衛門はおまんの見ているところで袴(はかま)の紐(ひも)を解いて、先代の隠居半六の時代からある古い襖(ふすま)の前を歩き回った。先年の馬籠(まごめ)の大火にもその隠居所は焼け残って、筆者不明の大書をはりつけた襖の文字も吉左衛門には慰みの一つとなっている。
「もうそれでも半蔵も帰って来ていいころだぞ。」と彼は妻に言った。「この節は街道がごたごたして来て、栄吉も心配している。町ではいろいろなことを言う人があるようだね。」
「半蔵のことですか。」とおまんも夫の顔をながめる。
「あれは本陣の日記なぞを欠かさずつけているだろうか。」
「さあ。わたしもそれで気がついたことがありますよ。あれの日記が机の上にありましたから、あけるつもりもなくあけて見ました。あなたがよく本陣の日記をつけたように、半蔵も家を引き受けた当座は、だれが福島から来て泊まったとか、お材木方を湯舟沢へ御案内したとか、そういうことが細かくつけてありましたよ。だんだんあとの方になると、お天気のことしか書いてない日があります。晴。曇。晴。曇。そんな日の七日も八日も続いたところがありましたっけ。」
「それだ。無器用に生まれついて来たのは性分(しょうぶん)でしかたがないとしても、もうすこしあれには経済の才をくれたい。」
 茶のみ友だちともいうべき夫婦は、古風な煙草盆(たばこぼん)を間に置いて、いろいろと子の前途を心配し出した。その時、おまんは長い羅宇(らお)の煙管(きせる)で一服吸いつけて、
「こないだからわたしも言おう言おうと思っていましたが、半蔵のうわさを聞いて見ると残念でなりません。あの金兵衛さんなぞですら、馬籠の本陣や問屋が半蔵に勤まるかッて、そう思って見ているようですよ。」
「そりゃ、お前、それくらいのことはおれだって考える。だから清助さんというものを入れ、栄吉にも来てもらって、清助さんには庄屋と本陣、栄吉には問屋の仕事を手伝わせるようにしたさ。あの二人がついてるもの、これが普通の時世なら、半蔵にだって勤まらんことはない。」
「えゝ、そりゃそうです――土台ができているんですから。」
「あのお友だちを見てもわかる。中津川の本陣の子息(むすこ)に、新問屋の和泉屋の子息――二人とも本陣や問屋の仕事をおッぽりだして行ってしまった。」
「あれで半蔵も、よっぽど努めてはいるようです。わたしにはそれがよくわかる。なにしろ、あなた、お友だちが二人とも京都の方でしょう。半蔵もたまらなくなったら、いつ家を飛び出して行くかしれません。」
「そこだて。金兵衛さんなぞに言わせると、おれが半蔵に学問を勧めたのが大失策(おおしくじり)だ、学問は実に恐ろしいものだッて、そう言うんさ。でも、おれは自分で自分の学問の足りないことをよく知ってるからね。せめて半蔵には学ばせたい、青山の家から学問のある庄屋を一人出すのは悪くない、その考えでやらせて見た。いつのまにかあれは平田先生に心を寄せてしまった。そりゃ何も試みだ。あれが平田入門を言い出した時にも、おれは止めはしなかった。学問で身代をつぶそうと、その人その人の持って生まれて来るようなもので、こいつばかりはどうすることもできない。おれに言わせると、人間の仕事は一代限りのもので、親の経験を子にくれたいと言ったところで、だれもそれをもらったものがない。おれも街道のことには骨を折って見たが、半蔵は半蔵で、また新規まき直しだ。考えて見ると、あれも気の毒なほどむずかしい時に生まれ合わせて来たものさね。」
「まあ、そう心配してもきりがありません。清助さんでも呼んで、よく相談してごらんなすったら。」
「そうしようか。京都の方へでも飛び出して行くことだけは、半蔵にも思いとどまってもらうんだね。今は家なぞを顧みているような、そんな時じゃないなんて、あれのお友だちは言うかもしれないがね。」
 裏二階の下を通る人の足音がした。おまんはそれを聞きつけて障子の外に出て見た。
「佐吉か。隠居所でお茶がはいりますから、清助さんにお話に来てくださるようにッて、そう言っておくれよ。」


 清助を待つ間、吉左衛門はすこし横になった。わずかの時を見つけても、からだを横にして休み休みするのが病後の彼の癖のようになっている。
「枕(まくら)。」
 とおまんが気をきかして古風な昼寝用の箱枕を夫に勧める間もなく、清助は木曾風な軽袗(かるさん)をはいて梯子段(はしごだん)を上って来た。本陣大事と勤め顔な清助を見ると、吉左衛門はむっくり起き直って、また半蔵のうわさをはじめるほど元気づいた。
「清助さん、今旦那(だんな)と二人で半蔵のことを話していたところですよ。旦那も心配しておいでですからね。」とおまんが言う。
「その事ですか。大旦那の御用と言えば、将棋のお相手ときまってるのに、それにしては時刻が早過ぎるが、と思ってやって来ましたよ。」
 清助は快活に笑って、青々と剃(そ)っている毛深い腮(あご)の辺をなでた。二間続いた隠居所の二階で、おまんが茶の用意なぞをする間に、吉左衛門はこう切り出した。
「まあ、清助さん、その座蒲団(ざぶとん)でもお敷き。」
「いや、はや、どうも理屈屋がそろっていて、どこの宿場も同じことでしょうが苦情が絶えませんよ。大旦那のように黙って見ていてくださるといいけれども、金兵衛さんなぞは世話を焼いてえらい。」
「あれで、半蔵のやり方が間違ってるとでも言うのかな。」
「大旦那の前ですが、お師匠さまの家としてだれも御本陣に指をさすものはありません。そりゃこの村で読み書きのできるものはみんな半蔵さまのおかげですからね。宿場の問題となると、それがやかましい。たとえばですね、問屋場へお出入りの牛でも以前はもっとかわいがってくだすった、初めて参った牛なぞより荷物も早く出してくだすったし、駄賃(だちん)なぞも御贔屓(ごひいき)にあずかった、半蔵さまはもっとお出入りの牛をかわいがってくだすってもいい。そういうことを言うんです。」
「そいつは初耳だ。」
「それから、宿(しゅく)の伝馬役(てんまやく)と在の助郷(すけごう)とはわけが違う、半蔵さまはもっと宿の伝馬役をいばらせてくだすってもいい。そういうことを言うんです。ああいう半蔵さまの気性をよく承知していながら、そのいばりたい連中が何を話しているかと思って聞いて見ると――いったい、伊那(いな)から出て来る人足なぞにあんなに目をかけてやったところで、あの手合いはありがたいともなんとも思っていやしない。そりゃ中には宿場へ働きに来て泊まる晩にも、※遣(わらづか)[#「くさかんむり/稾」、18-3]いをするとか、読み書き算術を覚えるとか、そういう心がけのよいものがなくはない。しかし近ごろは助郷の風儀が一般に悪くなって、博打(ばくち)はうつ、問屋で払った駄賃(だちん)も何も飲んでしまって、村へ帰るとお定まりの愁訴だ――やれ人を牛馬のようにこき使うの、駄賃もろくに渡さないの、なんのッて、大げさなことばかり。半蔵さまはすこしもそれを御存じないんだ。そういうことを言うんです。大旦那の時分はよかったなんて、寄るとさわるとそんなうわさばかり……」
「待ってくれ。そう言われると、おれが宿場の世話をした時分には、なんだか依怙贔屓(えこひいき)でもしたように聞こえる。」
「大旦那、まあ、聞いてください。半蔵さまはよく参覲交代なぞはもう時世おくれだなんて言うでしょう。町のものに聞いて見ると、宿場がさびれて来たら、みんなどうして食えるかなんて、そういうことも言うんです。」
「そこだて。半蔵だって心配はしているんさ。この街道の盛衰にかかわることをだれだって、心配しないものがあるかよ。こう御公役の諸大名の往来が頻繁(ひんぱん)になって来ては、継立(つぎた)てに難渋するし、人馬も疲れるばかりだ。よいにも悪いにもこういう時世になって来た。だから、参覲交代のような儀式ばった御通行はそういつまで保存のできるものでもないというあれの意見なんだろう。妻籠(つまご)の寿平次(じゅへいじ)もその説らしい。ちょっと考えると、どの街道も同じことで、往還の交通が頻繁にあれば、それだけ宿場に金が落ちるわけだから、大きな御通行なぞは多いほどよさそうなものだが、そこが東海道あたりとわれわれの地方とすこし違うところさ。木曾のように人馬を多く徴発されるところじゃ、問屋場がやりきれない。事情を知らないものはそうは思うまいが、木曾十一宿の庄屋仲間が相談して、なるべく大きな御通行は東海道を通るようにッて、奉行所へ嘆願した例もあるよ。おれは昔者(むかしもの)だから、参覲交代を保存したい方なんだが、しかし半蔵や寿平次の意見にも一理屈あるとは思うね。」
「そういうこともありましょう。しかし、わたしに言わせると、九太夫(くだゆう)さんたちはどこまでも江戸を主にしていますし、半蔵さまはまた、京都を主にしています。九太夫さんたちと半蔵さまとは、てんで頭が違います。諸大名は京都の方へ朝参するのが本筋だ、そういうことは旧(ふる)い宿場のものは考えないんです。」
「だんだんお前の話を聞いて見ると、おれも思い当たることがある。つまり、おれの家じゃ問屋を商売とは考えていない。親代々の家柄で、町方のものも在の百姓もみんな自分の子のように思ってる。半蔵だって、本陣問屋を名誉職としか思っていまい。おれの家の歴史を考えて見てくれると、それがわかる。こういう山の上に発達した宿場というものは、百姓の気分と町人の気分とが混(まじ)り合っていて、なかなかどうして治めにくいところがあるよ。」
「だいぶお話に身が入るようですね。」
 と言いながら、おまんは軽く笑って、次ぎの間から茶道具を運んで来た。隠居所で沸かした湯加減のよい茶を夫にも清助にもすすめ、自分でも飲んで、話の仲間に加わった。
「なんでも、」とおまんは思い出したように、「神葬祭の一条で、半蔵が九太夫さんとやりやったことがあるそうじゃありませんか。あれから九太夫さんの家では、とかく半蔵の評判がよくないとか聞きましたよ。」
「そんなことはありません。」と清助は言った。「九太夫さんはどう思っているか知りませんが、九郎兵衛(くろべえ)さんにかぎって決してそんなことはありません。そりゃだれがなんと言ったって、お父(とっ)さんのためにお山へ参籠(さんろう)までして、御全快を祷(いの)りに行くようなことは、半蔵さまでなけりゃできないことです。」
「いえ、その点はおれも感心してるがね。なんと言うか、こう、まるで子供のようなところが半蔵にはあるよ。あれでもうすこし細かいところにも気がつくようだと、宿場の世話もよく届くかと思うんだが。」
「そりゃ、大旦那、街道へ日があたって来たからと言って、すぐに傘(からかさ)をひろげて出す金兵衛さんのような細かさは、半蔵さまにはありません。」
「金兵衛さんの言い草がいいじゃないか。半蔵に問屋場を預けて置くのは、米の値を知らない番人に米蔵を預けて置くようなものだとさ。あの人の言うことは鋭い。」
「まあ、栄吉さんも来てくれたものですし、そう大旦那のように御心配なすったものでもありません。見ていてください。半蔵さまだってなかなかやりますよ。」
「清助さん、」とその時、吉左衛門は相手の言うことをさえぎった。「この話はこのくらいにして、おれが一つ将棋のたとえを出すよ。お互いに好きな道だからね。一歩(ひとあし)ずつ進む駒(こま)もある。一足飛びに飛ぶ駒もある。ある駒は飛ぶことはできても一歩(ひとあし)ずつ進むことは知らない。ある駒はまた、一歩ずつ進むことはできても飛ぶことは知らない。この街道に生まれて来る人間だって、そのとおりさ。一気に飛ぶこともできれば、一歩ずつ進むこともできるような、そんな駒はめったに生まれて来るもんじゃないね。」
「そうすると、大旦那、あの金兵衛さんなぞは、さしずめどういう駒でしょう。」
「将棋で言えば、成った駒だね。人間もあそこまで行けば、まあ、成(な)り金(きん)と言ってよかろうね。」
「金兵衛さんだから、成り金ですか。大旦那の洒落(しゃれ)が出ましたね。」
 聞いているおまんも笑い出した。そして二人の話を引き取って、「今ごろは半蔵も、どこかでくしゃみばかりしていましょうよ。将棋のことはわたしにはわかりませんが、半蔵にしても、お民にしても、あの夫婦はまだ若い。若い者のよいところは、先の見えないということだ、この節わたしはつくづくそう思って来ましたよ。」
「それだけおまんも年を取った証拠だ。」と吉左衛門が笑う。
「そうかもしれませんね。」と言ったあとで、おまんは調子を変えて、「あなた、一番肝心なことをあと回しにして、まだ清助さんに話さないじゃありませんか。ほら、あの半蔵のことだから、お友だちのあとを追って、京都の方へでも行きかねない。もしそんな様子が見えたら、清助さんにもよく気をつけていてもらうようにッて、さっきからそう言って心配しておいでじゃありませんか。」
「それさ。」と吉左衛門も言った。「おれも今、それを言い出そうと思っていたところさ。」
 清助はうなずいた。

       二

 半蔵は勝重(かつしげ)を連れて、留守中のことを案じながら王滝(おうたき)から急いで来た。御嶽山麓(おんたけさんろく)の禰宜(ねぎ)の家から彼がもらい受けて来た里宮参籠(さんろう)記念のお札、それから神饌(しんせん)の白米なぞは父吉左衛門をよろこばせた。
 留守中に届いた友人香蔵からの手紙が、寛(くつろ)ぎの間(ま)の机の上に半蔵を待っていた。それこそ彼が心にかかっていたもので、何よりもまず封を切って読もうとした京都便(だよ)りだ。はたして彼が想像したように、洛中(らくちゅう)の風物の薄暗い空気に包まれていたことは、あの友だちが中津川から思って行ったようなものではないらしい。半蔵はいろいろなことを知った。友だちが世話になったと書いてよこした京都麩屋町(ふやまち)の染め物屋伊勢久(いせきゅう)とは、先輩暮田正香(くれたまさか)の口からも出た平田門人の一人(ひとり)で、義気のある商人のことだということを知った。友だちが京都へはいると間もなく深い関係を結んだという神祇職(じんぎしょく)の白川資訓卿(しらかわすけくにきょう)とは、これまで多くの志士が縉紳(しんしん)への遊説(ゆうぜい)の縁故をなした人で、その関係から長州藩、肥後藩、島原藩なぞの少壮な志士たちとも友だちが往来を始めることを知った。そればかりではない、あの足利(あしかが)将軍らの木像の首を三条河原(さんじょうがわら)に晒(さら)したという示威事件に関係して縛に就(つ)いた先輩師岡正胤(もろおかまさたね)をはじめ、その他の平田同門の人たちはわずかに厳刑をまぬかれたというにとどまり、いずれも六年の幽囚を申し渡され、正香その人はすでに上田藩の方へお預けの身となっていることを知った。ことにその捕縛の当時正胤の二条衣(ころも)の棚(たな)の家で、抵抗と格闘のあまりその場に斬殺(ざんさつ)せられた二人の犠牲者を平田門人の中から出したということが、実際に京都の土を踏んで見た友だちの香蔵に強い衝動を与えたことを知った。
 本陣の店座敷にはだれも人がいなかった。半蔵はその明るい障子のところへ香蔵からの京都便りを持って行って、そこで繰り返し読んで見た。


「あなた、景蔵さんからお手紙ですよ。」
 お民が半蔵に手紙を渡しに来た。京都便りはあっちからもこっちからも半蔵のところへ届いた。
「お民、この手紙はだれが持って来たい。」
「中津川の万屋(よろずや)から届けて来たんですよ。安兵衛(やすべえ)さんが京都の方へ商法(あきない)の用で行った時に、これを預かって来たそうですよ。」
 その時お民は、御嶽参籠後の半蔵がそれほど疲れたらしい様子もないのに驚いたというふうで、夫の顔をながめた。「本陣鼻」と言われるほど大きく肉厚(にくあつ)な鼻の先へしわを寄せて笑うところから、静かな口もとまで、だんだん父親の吉左衛門に似て来るような夫の容貌(ようぼう)をながめて置いて、何やらいそがしげにそのそばを離れて行くのも彼女だ。
「お師匠さま、おくたぶれでしょう。」
 と言って、勝重もそこへ半蔵の顔を見に来た。
「わたしはそれほどでもない。君は。」
「平気ですよ。往(ゆ)きを思うと、帰りは実に楽でした。わたしもこれから田楽(でんがく)を焼くお手伝いです。お師匠さまに食べさせたいッて、今囲炉裏(いろり)ばたでみんなが大騒ぎしているところです。」
「もう山椒(さんしょ)の芽が摘めるかねえ。王滝じゃまだ梅だったがねえ。」
 勝重もそばを離れて行った。半蔵はお民の持って来た手紙を開いて見た。
 もはやしばらく京都の方に滞在して国事に奔走し平田派の宣伝に努めている友人の景蔵は、半蔵から見れば兄のような人だった。割合に年齢(とし)の近い香蔵に比べると、この人から受け取る手紙は文句からして落ち着いている。その便(たよ)りには、香蔵を京都に迎えたよろこびが述べてあり、かねてうわさのあった石清水行幸(いわしみずぎょうこう)の日のことがその中に報じてある。
 景蔵の手紙はなかなかこまかい。それによると、今度の行幸については種々(さまざま)な風説が起こったとある。国事寄人(こくじよりうど)として活動していた侍従中山忠光(ただみつ)は官位を朝廷に返上し、長州に脱走して毛利真斎(もうりしんさい)と称し、志士を糾合(きゅうごう)して鳳輦(ほうれん)を途中に奪い奉る計画があるというような、そんな風説も伝わったとある。その流言に対して会津(あいづ)方からでも出たものか、八幡(はちまん)の行幸に不吉な事のあるやも測りがたいとは実に苦々(にがにが)しいことだが、万一それが事実であったら、武士はもちろん、町人百姓までこの行幸のために尽力守衛せよというような張り紙を三条大橋の擬宝珠(ぎぼし)に張りつけたものがあって、役所の門前で早速(さっそく)その張り紙は焼き捨てられたという。石清水(いわしみず)は京都の町中からおよそ三里ほどの遠さにある。帝(みかど)にも当日は御気分が進まれなかったが、周囲にある公卿(くげ)たちをはじめ、長州侯らの懇望に励まされ、かつはこの国の前途に深く心を悩まされるところから、御祈願のため洛外(らくがい)に鳳輦(ほうれん)を進められたという。将軍は病気、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)も忌服(きぶく)とあって、名代(みょうだい)の横山常徳(つねのり)が当日の供奉(ぐぶ)警衛に当たった。景蔵に言わせると、当時、鱗形屋(うろこがたや)の定飛脚(じょうびきゃく)から出たものとして諸方に伝わった聞書(ききがき)なるものは必ずしも当日の真相を伝えてはない。その聞書には、
「四月十一日。石清水行幸の節、将軍家御病気。一橋(ひとつばし)様御名代のところ、攘夷(じょうい)の節刀を賜わる段にてお遁(に)げ。」
 とある。この「お遁(に)げ」はいささか誇張された報道らしい。景蔵はやはり、一橋公の急病か何かのためと解したいと言ってある。いずれにしても、当日は必ず何か起こる。その出来事を待ち受けるような不安が、関東方にあったばかりでなく、京都方にあったと景蔵は書いている。この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは叡覧(えいらん)のなかったのに、初めて淀川(よどがわ)の滔々(とうとう)と流るるのを御覧になって、さまざまのことを思(おぼ)し召され、外夷(がいい)親征なぞの御艱難(ごかんなん)はいうまでもなく、国家のために軽々しく龍体(りゅうたい)を危うくされ給(たも)うまいと慮(おもんぱか)らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、紫宸殿(ししんでん)の御車寄せのところで水を召し上がったという話までが、景蔵からの便りにはこまごまと認(したた)めてある。
 聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田(いいだ)の在から京都に出ている松尾多勢子(たせこ)(平田鉄胤(かねたね)門人)のような近い親戚(しんせき)の人があって、この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき、女官たちにも近づきがあったから、その辺から出た消息かと半蔵には想(おも)い当たる。いずれにしても、その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って、石清水行幸後に三条の橋詰(はしづ)めに張りつけられたという評判な張り紙の写しまでも書いてよこした。
徳川家茂「右は、先ごろ上洛(じょうらく)後、天朝より仰せ下されたる御趣意のほどもこれあり候(そうろう)ところ、表には勅命尊奉の姿にて、始終虚喝(きょかつ)を事とし、言を左右によせて万端因循にうち過ぎ、外夷(がいい)拒絶談判の期限等にいたるまで叡聞(えいぶん)を欺きたてまつる。あまつさえ帰府の儀を願い出(い)づるさえあるに、石清水行幸の節はにわかに虚病(けびょう)を構え、一橋中納言(ひとつばしちゅうなごん)においてもその場を出奔いたし、至尊をあなどり奉りたるごとき、その他、板倉周防守(いたくらすおうのかみ)、岡部駿河守(おかべするがのかみ)らをはじめ奸吏(かんり)ども数多くこれありて、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)、安藤対馬守(あんどうつしまのかみ)らの遺志をつぎ、賄賂(わいろ)をもって種々奸謀(かんぼう)を行ない、実(じつ)もって言語道断、不届きの至りなり。右は、天下こぞって誅戮(ちゅうりく)を加うべきはずに候えども、大樹(たいじゅ)(家茂)においてはいまだ若年(じゃくねん)の儀にて、諸事奸吏どもの腹中より出(い)で候おもむき相聞こえ、格別寛大の沙汰(さた)をもって、しばらく宥恕(ゆうじょ)いたし候につき、速(すみや)かに姦徒(かんと)の罪状を糺明(きゅうめい)し、厳刑を加うべし。もし遅緩に及び候わば旬日を出(い)でずして、ことごとく天誅(てんちゅう)を加うべきものなり。」
  亥(い)四月十七日天下義士 この驚くべき張り紙――おそらく決死の覚悟をもって書かれたようなこの張り紙の発見されたことは、将軍家をして攘夷期限の公布を決意せしめるほどの力があったということを景蔵は書いてよこした。イギリスとの戦争は避けられないかもしれないとある。自分はもとより対外硬の意見で、時局がここまで切迫して来ては攘夷の実行もやむを得まいと信ずる、攘夷はもはや理屈ではない、しかし今の京都には天下の義士とか、皇大国の忠士とか、自ら忠臣義士と称する人たちの多いにはうんざりする、ともある。景蔵はその手紙の末に、自分もしばらく京都に暮らして見て、かえって京都のことが言えなくなったとも書き添えてある。
 日ごろ、へりくだった心の持ち主で、付和雷同なぞをいさぎよしとしない景蔵ですらこれだ。この京都便りを読んだ半蔵にはいろいろなことが想像された。同じ革新潮流の渦(うず)の中にあるとは言っても、そこには幾多の不純なもののあることが想像された。その不純を容(い)れながらも、尊王の旗を高くかかげて進んで行こうとしているらしい友だちの姿が半蔵の目に浮かぶ。
「どうだ、青山君。今の時は、一人(ひとり)でも多く勤王の味方を求めている。君も家を離れて来る気はないか。」
 この友だちの声を半蔵は耳の底に聞きつける思いをした。


 京都から出た定飛脚(じょうびきゃく)の聞書(ききがき)として、来たる五月の十日を期する攘夷の布告がいよいよ家茂の名で公(おおやけ)にされたことが、この街道筋まで伝えられたのは、それから間もなくであった。
 こういう中で、いろいろな用事が半蔵の身辺に集まって来た。参覲交代制度の変革に伴い定助郷(じょうすけごう)設置の嘆願に関する件がその一つであった。これは宿々(しゅくじゅく)二十五人、二十五疋(ひき)の常備御伝馬以外に、人馬を補充し、継立(つぎた)てを応援する定員の公役を設けることであって、この方法によると常備人馬でも応じきれない時に定助郷の応援を求め、定助郷が出てもまだ足りないような大通行の場合にかぎり加助郷(かすけごう)の応援を求めるのであるが、これまで木曾地方の街道筋にはその組織も充分にそなわっていなかった。それには木曾十一宿のうち、上(かみ)四宿、中(なか)三宿、下(しも)四宿から都合四、五人の総代を立て、御変革以来の地方の事情を江戸にある道中奉行所につぶさに上申し、東海道方面の例にならって、これはどうしても助郷の組織を改良すべき時機であることを陳述し、それには定助郷を勤むるものに限り高掛(たかかか)り物(もの)(金納、米納、その他労役をもってする一種の戸数割)の免除を願い、そして課役に応ずる百姓の立場をはっきりさせ、同時に街道の混乱を防ぎ止めねばならぬ、そのことに十一宿の意見が一致したのであった。もしこの定助郷設置の嘆願が道中奉行に容(い)れられなかったら、お定めの二十五人、二十五疋(ひき)以外には継立(つぎた)てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたいとの申し合わせもしてあった。馬籠の宿では年寄役蓬莱屋(ほうらいや)の新七がその総代の一人に選ばれた。吉左衛門、金兵衛はすでに隠居し、九太夫も退き、伏見屋では伊之助、問屋では九郎兵衛、その他の宿役人を数えて見ても年寄役の桝田屋小左衛門(ますだやこざえもん)は父儀助に代わり、同役梅屋五助は父与次衛門(よじえもん)に代わって、もはや古株(ふるかぶ)で現役に踏みとどまっているものは蓬莱屋新七一人しか残っていなかったのである。新七は江戸表をさして出発するばかりに、そのしたくをととのえて、それから半蔵のところへ庄屋としての調印を求めに来た。
 五月の七日を迎えるころには、馬籠の会所に集まる宿役人らはさしあたりこの定助郷の設けのない不自由さを互いに語り合った。なぜかなら、にわかな触(ふ)れ書(しょ)の到来で、江戸守備の任にある尾州藩の当主が京都をさして木曾路を通過することを知ったからで。
「なんのための御上京か。」
 と半蔵は考えて、来たる十三日のころにはこの宿場に迎えねばならない大きな通行の意味を切迫した時局に結びつけて見た。その月の八日はかねて幕府が問題の生麦(なまむぎ)事件でイギリス側に確答を約束したと言われる期日であり、十日は京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも書いて来たように、イギリスとの衝突も避けがたいかに見えて来た。
「半蔵さん、村方へはどうしましょう。」
 と従兄弟(いとこ)の栄吉が問屋場から半蔵を探(さが)しに来た。
「尾張(おわり)領分の村々からは、人足が二千人も出て、福島詰め野尻(のじり)詰めで殿様を迎えに来ると言いますから、継立(つぎた)てにはそう困りますまいが。」とまた栄吉が言い添える。
「まあ、村じゅう総がかりでやるんだね。」と半蔵は答えた。
「御通行前に、田圃(たんぼ)の仕事を片づけろッて、百姓一同に言い渡しましょうか。」
「そうしてください。」
 そこへ清助も来て一緒になった。清助はこの宿場に木曾の大領主を迎える日取りを数えて見て、
「十三日と言えば、もうあと六日しかありませんぞ。」
 村では、飼蚕(かいこ)の取り込みの中で菖蒲(しょうぶ)の節句を迎え、一年に一度の粽(ちまき)なぞを祝ったばかりのころであった。やがて組頭(くみがしら)庄助(しょうすけ)をはじめ、五人組の重立ったものがそれぞれ手分けをして、来たる十三日のことを触れるために近い谷の方へも、山間(やまあい)に部落のある方へも飛んで行った。ちょうど田植えも始まっているころだ。大領主の通行と聞いては、男も女も田圃(たんぼ)に出て、いずれも植え付けを急ごうとした。


 木曾地方の人民が待ち受けている尾州藩の当主は名を茂徳(もちのり)という。六十一万九千五百石を領するこの大名は御隠居(慶勝(よしかつ))の世嗣(よつぎ)にあたる。木曾福島の代官山村氏がこの人の配下にあるばかりでなく、木曾谷一帯の大森林もまたこの人の保護の下にある。
 当時、将軍は上洛(じょうらく)中で、後見職一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)をはじめ、会津藩主松平容保(かたもり)なぞはいずれも西にあり、江戸の留守役を引き受けるものがなければならなかった。例の約束の期日までに、もし満足な答えが得られないなら、艦隊の威力によっても目的を達するに必要な行動を取るであろうというような英国水師提督を横浜の方へ控えている時で、この留守役はかなり重い。尾州藩主は水戸慶篤(みとよしあつ)と共にその守備に当たっていたのだ。
 しかし、尾州藩の位置を知るには、ただそれだけでは足りない。当時の京都には越前(えちぜん)も手を引き、薩摩(さつま)も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったようであるが、その実、幾多の勢力の錯綜(さくそう)していたことを忘れてはならない。その中にあって、京都の守護をもって任じ、帝の御親任も厚かった会津が、次第に長州と相対峙(あいたいじ)する形勢にあったことを忘れてはならない。たとい王室尊崇の念において両者共にかわりはなくとも、早く幕府に見切りをつけたものと、幕府から頼まるるものとでは、接近する堂上の公卿(くげ)たちを異(こと)にし、支持する勢力を異にし、地方的な気質と見解とをも異にしていた。あらゆる点で両極端にあったようなこの東西両藩の間にはさまれていたものが尾州藩だ。もとより尾州に人がなくもない。成瀬正肥(なるせまさみつ)のような重臣があって、将軍上洛以前から勅命を奉じて京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢(いせ)、熱田(あつた)の両神宮、ならびに摂津海岸の警衛を厳重にして、万一の防禦(ぼうぎょ)に備えたのも、尾州藩の奔走周旋による。尾州の御隠居は京都にあって中国の大藩を代表していたと見ていい。
 不幸にも御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都で年々米二千俵を賞せられたようなこと、また勤王家として知られた田宮如雲(たみやじょうん)以下の人たちが多く賞賜せられたようなことは、藩主たる茂徳(もちのり)のあずかり知らないくらいであった。もともと御隠居は安政大獄の当時、井伊大老に反対して幽閉せられた閲歴を持つ人で、『神祇宝典(じんぎほうてん)』や『類聚日本紀(るいじゅうにほんぎ)』なぞを選んだ源敬公の遺志をつぎ、つとに尊王の志を抱(いだ)いたのであった。徳川御三家の一つではありながら、必ずしも幕府の外交に追随する人ではなかった。この御隠居側に対外硬を主張する人たちがあれば、藩主側には攘夷を非とする人たちがあった。尾州に名高い金鉄組とは、法外なイギリスの要求を拒絶せよと唱えた硬派の一団である。江戸の留守役をあずかり外交当局者の位置に立たせられた藩主側は、この意見に絶対に反対した。もし無謀の戦(いくさ)を開くにおいては、徳川家の盛衰浮沈にかかわるばかりでない、万一にもこの国の誇りを傷つけられたら世界万国に対して汚名を流さねばならない、天下万民の永世のことをも考えよと主張したのである。
 外人殺傷の代償も大きかった。とうとう、尾州藩主は老中格の小笠原図書頭(おがさわらずしょのかみ)が意見をいれ、同じ留守役の水戸慶篤(よしあつ)とも謀(はか)って、財政困難な幕府としては血の出るような十万ポンドの償金をイギリス政府に払ってしまった。五月の三日には藩主はこの事を報告するために江戸を出発し、京都までの道中二十日の予定で、板橋方面から木曾街道に上った。一行が木曾路の東ざかい桜沢に達すると、そこはもう藩主の領地の入り口である。時節がら、厳重な警戒で、護衛の武士、足軽(あしがる)、仲間(ちゅうげん)から小道具なぞの供の衆まで入れると二千人からの同勢がその領地を通って、かねて触れ書の回してある十三日には馬籠の宿はずれに着いた。
 おりよく雨のあがった日であった。駅長としての半蔵は、父の時代と同じように、伊之助、九郎兵衛、小左衛門、五助などの宿役人を従え、いずれも定紋(じょうもん)付きの麻□□(あさがみしも)で、この一行を出迎えた。道路の入り口にはすでに盛り砂が用意され、竹籠(たけかご)に厚紙を張った消防用の水桶(みずおけ)は本陣の門前に据(す)え置かれ、玄関のところには二張(ふたはり)の幕も張り回された。坂になった馬籠の町は金の葵(あおい)の紋のついた挾箱(はさみばこ)、長い柄(え)の日傘(ひがさ)、鉄砲、箪笥(たんす)、長持(ながもち)、その他の諸道具で時ならぬ光景を呈した。鉾(ほこ)の先を飾る大鳥毛の黒、三間鎗(さんげんやり)の大刀打(たちうち)に光る金なぞはことに大藩の威厳を見せ、黒の絹羽織(きぬばおり)を着た小人衆(こびとしゅう)はその間を往(い)ったり来たりした。普通御通行のお定めと言えば、二十万石以上の藩主は馬十五疋(ひき)ないし二十疋、人足百二、三十人、仲間二百五十人ないし三百人とされていたが、尾張領分の村々から藩主を迎えに来た人足だけでも二千人からの人数がこの宿場にあふれた。
 東山道にある木曾十一宿の位置は、江戸と京都のおよそ中央のところにあたる。くわしく言えば、鳥居峠(とりいとうげ)あたりをその実際の中央にして、それから十五里あまり西寄りのところに馬籠の宿があるが、大体に十一宿を引きくるめて中央の位置と見ていい。ただ関東平野の方角へ出るには、鳥居、塩尻(しおじり)、和田、碓氷(うすい)の四つの峠を越えねばならないのに引きかえ、美濃(みの)方面の平野は馬籠の西の宿はずれから目の下にひらけているの相違だ。言うまでもなく、江戸で聞くより数日も早い京都の便(たよ)りが馬籠に届き、江戸の便りはまた京都にあるより数日も先に馬籠にいて知ることができる。一行の中の用人らがこの峠の上の位置まで来て、しきりに西の方の様子を聞きたがるのに不思議はなかった。
 その日の藩主は中津川泊まりで、午後の八つ時ごろにはお小休みだけで馬籠を通過した。
「下に。下に。」
 西へと動いて行く杖払(つえはら)いの声だ。その声は、石屋の坂あたりから荒町(あらまち)の方へと高く響けて行った。路傍(みちばた)に群れ集まる物見高い男や女はいずれも大領主を見送ろうとして、土の上にひざまずいていた。
 半蔵も目の回るようないそがしい時を送った。西の宿はずれに藩主の一行を見送って置いて、群衆の間を通りぬけながら、また自分の家へと引き返して来た。その時、御跡改(おあとあらた)めの徒士目付(かちめつけ)の口からもれた言葉で、半蔵は尾州藩主が江戸から上って来た今度の旅の意味を知った。
 徒士目付は藩主がお小休みの礼を述べ、不時の人馬賃銭を払い、何も不都合の筋はなかったかなぞと尋ねた上で立ち去った。半蔵は跡片づけにごたごたする家のなかのさまをながめながら、しばらくそこに立ち尽くした。藩主入洛(じゅらく)の報知(しらせ)が京都へ伝わる日のことを想(おも)って見た。藩主が名古屋まで到着する日にすら、強い反対派の議論が一藩の内に沸きあがりそうに思えた。まして熾(さか)んな敵愾心(てきがいしん)で燃えているような京都の空気の中へ、御隠居の同意を得ることすら危ぶまれるほどの京都へ、はたして藩主が飛び込んで行かれるか、どうかは、それすら実に疑問であった。
 やかましい問題の償金はすでにイギリスへ払われたのだ。そのことを告げ知らせるために、半蔵はだれよりも先に父の吉左衛門を探(さが)した。こういう時のきまりで、出入りの百姓は男も女も手伝いとして本陣に集まって来ている。半蔵はその間を分けて、お民を見つけるときき、清助をつかまえるときいた。
「お父(とっ)さんは?」
 馬籠の本陣親子が尾州家との縁故も深い。ことに吉左衛門はその庄屋時代に、財政困難な尾州藩の仕法立てに多年尽力したかどで、三回にもわたって、一度は一代苗字(みょうじ)帯刀、一度は永代苗字帯刀、一度は藩主に謁見(えっけん)の資格を許すとの書付を贈られていたくらいだ。そんな縁故から、吉左衛門は隠居の身ながら麻□□(あさがみしも)を着用し、旅にある藩主を自宅に迎えたのである。半蔵が本陣の奥の部屋(へや)にこの父を見つけた時は、吉左衛門はまだ麻の袴(はかま)を着けたままでいた。
「やれ、やれ、戦争も始まらずに済むか。」
 父は半蔵から徒士目付(かちめつけ)の残した話の様子を聞いたあとで言った。
「しかし、お父(とっ)さん、これが京都へ知れたらどういうことになりましょう。なぜ、そんな償金を払ったかなんて、そういう声が必ず起こって来ましょうよ。」

       三

「あなた、羽織の襟(えり)が折れていませんよ。こんな日には、髪結いでも呼んで、さっぱりとなすったら。」
「まあいい。」
「さっき、三浦屋の使いが来て、江戸のじょうるり語りが家内六人連(づ)れで泊まっていますから、本陣の旦那(だんな)にもお出かけくださいッて、そう言って行きましたよ。旅の芸人のようじゃない、まあきいてごらんなさればわかる、今夜は太平記(たいへいき)ですなんて、そんなことをしきりと言っていましたよ。」
「まあ、おれはいい。」
「きょうはどうなすったか。」
「どうも心が動いてしかたがない。囲炉裏(いろり)ばたへ来て、今すわって見たところだ。」
 半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
 尾州藩主を見送ってから九日も降り続いた雨がまだあがらなかった。藩主が通行前に植え付けの済んだ村の青田の方では蛙(かわず)の声を聞くころだ。天保(てんぽう)二年の五月に生まれて、生みの母の覚えもない半蔵には、ことさら五月雨(さみだれ)のふるころの季節の感じが深い。
「お民、おれのお母(っか)さんが亡(な)くなってから、三十三年になるよ。」
 と彼は妻に言って見せた。さびしい雨の音をきいていると、過去の青年時代を繞(めぐ)りに繞ったような名のつけようのない憂鬱(ゆううつ)がまた彼に帰って来る。
 お民はすこし青ざめている夫の顔をながめながら言った。
「あなたはため息ばかりついてるじゃありませんか。」
「どうしておれはこういう家に生まれて来たかと考えるからさ。」
 お民が奥の部屋(へや)の方へ子供を見に行ったあとでも、半蔵は囲炉裏ばたを離れなかった。彼はひとり周囲を見回した。遠い先祖から伝えられた家業を手がけて見ると、父吉左衛門にしても、祖父半六にしても、よくこのわずらわしい仕事を処理して来たと彼には思わるるほどだ。本陣とは何をしなければならないところか。これは屋敷の構造が何よりもよくその本来の成り立ちを語っている。公用兼軍用の旅舎と言ってしまえばそれまでだが、ここには諸大名の乗り物をかつぎ入れる広い玄関がなければならない。長い鎗(やり)を掛けるところがなければならない。馬をつなぐ厩(うまや)がなければならない。消防用の水桶(みずおけ)、夜間警備の高張(たかはり)の用意がなければならない。いざと言えば裏口へ抜けられる厳重な後方の設備もなければならない。本陣という言葉が示しているように、これは古い陣屋の意匠である。二百何十年の泰平の夢は、多くの武家を変え、その周囲を変えたけれども、しかしそれらの人たちを待つ設備と形式とは昔のままこうした屋敷に残っている。食器から寝道具までを携帯する大名の旅は、おそらく戦時を忘れまいとする往昔(むかし)の武人が行軍の習慣の保存されたもので、それらの一行がこの宿場に到着するごとに、本陣の玄関のところには必ず陣中のような幕が張り回される。大名以外には、公卿(くげ)、公役、それに武士のみがここへ来て宿泊し、休息することを許されているのだ。こんな人たちのために屋敷を用意し、部屋部屋を貸し与えるのが本陣としての青山の家業で、それには相応な心づかいがいる。前もって宿割(しゅくわり)の役人を迎え、御宿札(おやどふだ)というもののほかに関所を通過する送り荷の御鑑札を渡され、畳表を新しくするとか障子を張り替えるとか、時には壁を塗り替えるとかして、権威ある人々を待たねばならない。屏風(びょうぶ)何双(そう)、手燭(てしょく)何挺(ちょう)、燭台何挺、火鉢(ひばち)何個、煙草盆(たばこぼん)何個、草履(ぞうり)何足、幕何張、それに供の衆何十人前の膳飯(ぜんぱん)の用意をも忘れてはならない。どうして、旅人を親切にもてなす心なしに、これが勤まる家業ではないのだ。
 そんなら、問屋は何をしなければならないところか。半蔵の家に付属する問屋場なぞは、明らかに本陣と同じ意匠のもとにあるもので、主として武家に必要な米穀、食糧、武器、その他の輸送のために開始された場処であることがわかる。これはまた時代が変遷して来ても、街道を通過する公用の荷物、諸藩の送り荷などを継ぎ送るだけにも、かなりの注意を払わねばならない。諸大名諸公役が通行のおりの荷物の継立(つぎた)ては言うまでもなく、宿人馬、助郷(すけごう)人馬、何宿の戻(もど)り馬、在馬(ざいうま)の稼(かせ)ぎ馬などの数から、商人荷物の馬の数まで、日々の問屋場帳簿に記入しなければならない。のみならず、毎年あるいは二、三年ごとに、人馬徴発の総高を計算して、それを人馬立辻(じんばたてつじ)ととなえて、道中奉行(どうちゅうぶぎょう)の検閲を経なければならない。諸街道にある他の問屋のことは知らず、同じ馬籠の九太夫の家もさておき、半蔵の家のように父祖伝来の勤めとしてこの仕事に携わるとなると、これがまた公共の心なしに勤まる家業でもないのだ。
 見て来ると、地方自治の一単位として村方の世話をする役を除いたら、それ以外の彼の勤めというものは、主として武家の奉公である。一庄屋としてこの政治に安んじられないものがあればこそ、民間の隠れたところにあっても、せめて勤王の味方に立とうと志している彼だ。周囲を見回すごとに、他の本陣問屋に伍(ご)して行くことすら彼には心苦しく思われて来た。
 奥の部屋(へや)の方からは、漢籍でも読むらしい勝重(かつしげ)の声が聞こえて来ていた。ときどき子供らの笑い声も起こった。


「どうもよく降ります。」
 会所の小使いが雨傘(あまがさ)をつぼめてはいって来た。
 その声に半蔵は沈思を破られて、小使いの用事を聞きに立って行った。近く大坂御番衆の通行があるので、この宿場でも人馬の備えを心がけて置く必要があった。宿役人一同の寄り合いのことで小使いはその打ち合わせに来たのだ。
 街道には、毛付(けづ)け(木曾福島に立つ馬市)から帰って来る百姓、木曾駒(きそごま)をひき連れた博労(ばくろう)なぞが笠(かさ)と合羽(かっぱ)で、本陣の門前を通り過ぎつつある。半蔵はこの長雨にぬれて来た仙台(せんだい)の家中を最近に自分の家に泊めて見て、本陣としても問屋としても絶えず心を配っていなければならない京大坂と江戸の関係を考えて見ていた時だ。その月の十二日とかに江戸をたって来たという仙台の家中は、すこしばかりの茶と焼酎(しょうちゅう)を半蔵の家から差し出した旅の親しみよりか、雨中のつれづれに将軍留守中の江戸話を置いて行った。当時外交主任として知られた老中格の小笠原図書頭(おがさわらずしょのかみ)は近く千五、六百人の兵をひき連れ、大坂上陸の目的で横浜を出帆するとの風評がもっぱら江戸で行なわれていたという。これはいずれ生麦(なまむぎ)償金授与の事情を朝廷に弁疏(べんそ)するためであろうという。この仙台の家中の話で、半蔵は将軍還御(かんぎょ)の日ももはやそんなに遠くないことを感知した。近く彼が待ち受けている大坂御番衆の江戸行きとても、いずれこの時局に無関係な旅ではなかろうと想像された。同時に、京都引き揚げの関東方の混雑が、なんらかの形で、この街道にまであらわれて来ることをも想像せずにはいられなかった。
 その時になって見ると、重大な任務を帯びて西へと上って行った尾州藩主のその後の消息は明らかでない。あの一行が中津川泊まりで馬籠を通過して行ってから、九日にもなる。予定の日取りにすれば、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまでのことはわかっていたが、それから先になると飛脚の持って来る話もごくあいまいで、今度の上京は見合わせになるかもしれないような消息しか伝わって来なかった。生麦償金はすでに払われたというにもかかわらず、宣戦の布告にもひとしいその月十日の攘夷期限が撤回されたわけでも延期されたわけでもない。こういう中で、将軍を京都から救い出すために一大示威運動を起こすらしい攘夷反対の小笠原図書頭のような人がある。漠然(ばくぜん)とした名古屋からの便(たよ)りは半蔵をも、この街道で彼と共に働いている年寄役伊之助をも不安にした。

       四

 もはや、西の下(しも)の関(せき)の方では、攘夷を意味するアメリカ商船の砲撃が長州藩によって開始されたとのうわさも伝わって[#「伝わって」は底本では「伝わつて」]来るようになった。
  小倉藩(こくらはん)より御届け
    口上覚(こうじょうおぼ)え
「当月十日、異国船一艘(そう)、上筋(かみすじ)より乗り下し、豊前国(ぶぜんのくに)田野浦部崎(へさき)の方に寄り沖合いへ碇泊(ていはく)いたし候(そうろう)。こなたより船差し出(いだ)し相尋ね候ところアメリカ船にて、江戸表より長崎へ通船のところ天気悪(あ)しきため、碇泊いたし、明朝出帆のつもりに候おもむき申し聞け候間、番船付け置き候。しかるところ、夜に入り四つ時ごろ、長州様軍艦乗り下り、右碇泊いたし候アメリカ船へ向け大砲二、三発、ならびにかなたの陸地よりも四、五発ほど打ち出し候様子のところ、異船よりも二、三発ほど発砲いたし、ほどなく出船、上筋へ向かい飄(ただよ)い行き候。もっとも夜中(やちゅう)の儀につき、しかと様子相わからず候段、在所表(ざいしょおもて)より申し越し候間、この段御届け申し上げ候。以上。」
小笠原左京大夫内関重郎兵衛 これは京都に届いたものとして、香蔵からわざわざその写しを半蔵のもとに送って来たのであった。別に、次ぎのような来状の写しも同封してある。
  五月十一日付
    下の関より来状の写し
「昨十日異国船一艘(そう)、ここもと田野浦沖へ碇泊(ていはく)。にわかに大騒動。市中荷物を片づけ、年寄り、子供、遊女ども、在郷(ざいごう)へ逃げ行き、若者は御役申し付けられ、浪人武士数十人異船へ乗り込みいよいよ打ち払いの由に相成り候(そうろう)。同夜、子(ね)の刻(こく)ごろより、石火矢(いしびや)数百挺(ちょう)打ち放し候ところ、異船よりも数十挺打ち放し候えども地方(じかた)へは届き申さず。もっとも、右異船は下り船に御座候ところ、当瀬戸の通路つかまつり得ず、またまた跡へ戻(もど)り、登り船つかまつり候。当方武士数十人、鎧兜(よろいかぶと)、抜き身の鎗(やり)、陣羽織(じんばおり)を着し、騎馬数百人も出、市中は残らず軒前(のきさき)に燈火(あかり)をともし、まことにまことに大騒動にこれあり候。しかるところ、長州様蒸気船二艘まいり、石火矢(いしびや)打ち掛け、逃げ行く異船を追いかけ二発の玉は当たり候由に御座候。その後、異船いずれへ逃げ行き候や行くえ相わかり申さず。ようやく今朝一同引き取りに相成り鎮(しず)まり申し候。しかし他の異国船五、六艘も登り候うわさもこれあり、今後瀬戸通路つかまつり候えば皆々打ち払いに相成る様子、委細は後便にて申し上ぐべく候。以上。」
 とある。
 関東の方針も無視したような長州藩の大胆な行動は、攘夷を意味するばかりでなく、同時に討幕を意味する。下の関よりとした来状の写しにもあるように、この異国船の砲撃には浪人も加わっていた。半蔵はこの報知(しらせ)を自分で読み、隣家の伊之助のところへも持って行って読ませた。多くの人にとって、異国は未知数であった。時局は容易ならぬ形勢に推し移って行きそうに見えて来た。


 そこへ大坂御番衆の通行だ。五月も末のことであったが、半蔵は朝飯をすますとすぐ庄屋らしい平袴(ひらばかま)を着けて、問屋場の方へ行って見た。前の晩から泊まりがけで働きに来ている百人ばかりの伊那(いな)の助郷(すけごう)が二組に分かれ、一組は問屋九郎兵衛の家の前に、一組は半蔵が家の門の外に詰めかけていた。
「上清内路(かみせいないじ)村。下清内路(しもせいないじ)村。」
 と呼ぶ声が起こった。村の名を呼ばれた人足たちは問屋場の前に出て行った。そこには栄吉が助郷村々の人名簿をひろげて、それに照らし合わせては一人一人百姓の名を呼んでいた。
「お前は清内路か。ここには座光寺(ざこうじ)[#ルビの「ざこうじ」は底本では「さこうじ」]のものはいないかい。」
 と半蔵が尋ねると、
「旦那(だんな)、わたしは座光寺です。」
 と、そこに集まる百姓の中に答えるものがあった。
 清内路とは半蔵が同門の先輩原信好(のぶよし)の住む地であり、座光寺とは平田大人(うし)の遺書『古史伝』三十二巻の上木(じょうぼく)に主となって尽力している先輩北原稲雄の住む村である。お触れ当てに応じてこの宿場まで役を勤めに来る百姓のあることを伊那の先輩たちが知らないはずもなかった。それだけでも半蔵はこの助郷人足たちにある親しみを覚えた。
「みんな気の毒だが、きょうは須原(すはら)まで通しで勤めてもらうぜ。」
 半蔵の家の問屋場ではこの調子だ。いったいなら半蔵の家は月の下半期の非番に当たっていたが、特にこういう日には問屋場を開いて、九郎兵衛方を応援する必要があったからで。
 大坂御番衆の通行は三日も続いた。三日目あたりには、いかな宿場でも人馬の備えが尽きる。やむなく宿内から人別(にんべつ)によって狩り集め、女馬まで残らず狩り集めても、継立(つぎた)てに応じなければならない。各継ぎ場を合わせて助郷六百人を用意せよというような公儀御書院番の一行がそのあとに二日も続いた。助郷は出て来る日があり、来ない日がある。こうなると、人馬を雇い入れるためには夥(おびただ)しい金子(きんす)も要(い)った。そのたびに半蔵は六月近い強雨の来る中でも隣家の伏見屋へ走って行って言った。
「伊之助さん、君の方で二日ばかりの分を立て替えてください。四十五両ばかりの雇い賃を払わなけりゃならない。」
 半蔵も、伊之助も熱い汗を流しつづけた。公儀御書院番を送ったあとには、大坂御番頭(ごばんがしら)の松平兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)と肥前平戸(ひぜんひらど)の藩主とを同日に迎えた。この宿場では、定助郷(じょうすけごう)設置の嘆願のために蓬莱屋(ほうらいや)新七を江戸に送ったばかりで、参覲交代制度の変革以来に起こって来た街道の混雑を整理する暇(いとま)もなかったくらいである。十挺(ちょう)の鉄砲を行列の先に立て、四挺の剣付き鉄砲で前後を護(まも)られた大坂御番頭の一行が本陣の前で駕籠(かご)を休めて行くと聞いた時は、半蔵は大急ぎで会所から自分の部屋(へや)に帰った。麻□□(あさがみしも)をお民に出させて着た。そして父の駅長時代と同じような御番頭の駕籠に近く挨拶(あいさつ)に行った。彼は父と同じように軽く袴(はかま)の股立(ももだち)を取り、駕籠のわきにひざまずいて、声をかけた。
「当宿本陣の半蔵でございます。お目通りを願います。」
 この挨拶を済ますころには、彼は一方に平戸藩主の一行を待ち受け、馬籠お泊まりという武家衆のために三十余人の客を万福寺にまで割り当てることを心配しなければならなかった。
 六月の十日が来て、京都引き揚げの関東方を迎えるころには、この街道は一層混雑した。将軍家茂(いえもち)はすでに、生麦償金授与の情実を聞き糺(ただ)して攘夷の功を奏すべきよしの御沙汰(ごさた)を拝し、お暇乞(いとまご)いの参内(さんだい)をも済まし、大坂から軍艦で江戸に向かったとうわさせらるるころだ。たださえ宿方(しゅくがた)では大根蒔(だいこんま)きがおそくなると言って一同目を回しているところへ、十頭ばかりの将軍の御召馬(おめしうま)が役人の付き添いで馬籠に着いた。この御召馬には一頭につき三人ずつの口取り別当が付いて来た。
「半蔵さん。」
 と言って伊之助が半蔵の袖(そで)を引いたのは、ばらばら雨の来る暮れ合いのころであった。この宿でも一両二分の金をねだられた上で、御召馬の通行を見送ったあとであった。
「およそやかましいと言っても、こんなやかましい御通行にぶつかったのは初めてです。」
 そう半蔵が言って見せると、伊之助は声を潜めて、
「半蔵さん、脇本陣(わきほんじん)の桝田屋(ますだや)へ来て休んで行った別当はなんと言ったと思います。御召馬とはなんだ。そういうことを言うんですよ。桝田屋の小左衛門さんもそれには震えてしまって、公方様(くぼうさま)の御召馬で悪ければ、そんならなんと申し上げればよいのですかと伺いを立てたそうです。その時の別当の言い草がいい――御召御馬(おめしおうま)と言え、それからこの御召御馬は焼酎(しょうちゅう)を一升飲むから、そう心得ろですとさ。」
 半蔵と伊之助とは互いに顔を見合わせた。
「半蔵さん、それだけで済むならまだいい。どうしてあの別当は機嫌(きげん)を悪くしていて、小左衛門さんの方で返事をぐずぐずしたら、いきなりその御召御馬を土足のまま桝田屋の床の間に引き揚げたそうですよ。えらい話じゃありませんか。実に、踏んだり蹴(け)ったりです。」
「京都の敵(かたき)をこの宿場へ来て打たれちゃ、たまりませんね。」と言って半蔵は嘆息した。


 京都から引き揚げる将軍家用の長持が五十棹(さお)も木曾街道を下って来るころは、この宿場では一層荷送りの困難におちいった。六月十日に着いた将軍の御召馬は、言わば西から続々殺到して来る関東方の先触(さきぶ)れに過ぎなかった。半蔵は栄吉と相談し、年寄役とも相談の上で、おりから江戸屋敷へ帰東の途にある仙台の家老(片倉小十郎(かたくらこじゅうろう))が荷物なぞは一時留め置くことに願い、三棹の長持と五駄(だ)の馬荷とを宿方に預かった。
 隠退後の吉左衛門が沈黙に引き換え、伊之助の養父金兵衛は上の伏見屋の隠宅にばかり引き込んでいなかった。持って生まれた世話好きな性分(しょうぶん)から、金兵衛はこの混雑を見ていられないというふうで、肩をゆすりながら上の伏見屋から出て来た。
「どうも若い者は覚えが悪い。」と金兵衛は会所の前まで杖(つえ)をひいて来て、半蔵や伊之助をつかまえて言った。「福島のお役所というものもある。お役人衆の出張を願った例は、これまでにだっていくらもあることですよ。こういう時のお役所じゃありませんかね。」
「金兵衛さん、その事なら笹屋(ささや)の庄助さんが出かけましたよ。あの人は作食米(さくじきまい)の拝借の用を兼ねて、福島の方へ立って行きましたよ。」
 半蔵の挨拶(あいさつ)だ。百姓総代ともいうべき組頭(くみがしら)庄助と、年寄役伊之助とは、こういう時に半蔵が力と頼む人たちだったのだ。
 やがてこの宿場では福島からの役人とその下役衆の出張を見た。野尻(のじり)、三留野(みどの)の宿役人までが付き添いで、関東御通行中の人馬備えにということであった。なにしろおびただしい混(こ)み合いで、伊那の助郷もそうそうは応援に出て来ない。継立(つぎた)ての行き届かないことは馬籠ばかりではなかった。美濃の大井宿、中津川宿とても同様で、やむなく福島から出張して来た役人には一時の止宿を願うよりほかに半蔵としてはよい方法も見当たらなかったくらいだ。ところが、この峠の上の小駅は家ごとに御用宿で、役人を休息させる場処もなかった。その一夜の泊まりは金兵衛の隠宅で引き受けた。
「お師匠さま。」
 と言って勝重(かつしげ)が半蔵のところへ飛んで来たのは、将軍家用の長持を送ってから六日もの荷造りの困難が続いたあとだった。福島の役人衆もずっと逗留(とうりゅう)していて、在郷の村々へ手分けをしては催促に出かけたが、伊那の人足は容易に動かなかった。江戸行きの家中が荷物という荷物は付き添いの人たち共にこの宿場に逗留していた時だ。ようやくその中の三分の一だけ継立てができたと知って、半蔵も息をついていた時だ。
「勝重(かつしげ)さんは復習でもしていますか。これじゃ本も読めないね。しばらくわたしも見てあげられなかった。こんな日も君、そう長くは続きますまい。」
「いえ、そこどこじゃありません。なんにもわたしはお手伝いができずにいるんです。そう言えば、お師匠さま――わたしは今、問屋場の前でおもしろいものを見て来ましたよ。いくら荷物を出せと言われても、出せない荷物は出せません、そう言って栄吉さんが旅の御衆に断わったと思ってごらんなさい。その人が袖(そで)を出して、しきりに何か催促するじゃありませんか。栄吉さんもしかたなしに、天保銭(てんぽうせん)を一枚その袂(たもと)の中に入れてやりましたよ。」
 勝重はおとなの醜い世界をのぞいて見たというふうに、自分の方ですこし顔をあからめて、それからさらに言葉をついで見せた。
「どうでしょう、その人は栄吉さんだけじゃ済ましませんよ。九郎兵衛さんのところへも押し掛けて行きました。あそこでもしかたがないから、また天保銭を一枚その袂の中へ入れてやりました。『よし、よし、これで勘弁してやる、』――そうあの旅の御衆が大威張(おおいば)りで言うじゃありませんか。これにはわたしも驚きましたよ。」


 当時の街道に脅迫と強請の行なわれて来たことについては実にいろいろな話がある。「実懇(じっこん)」という言葉なぞもそこから生まれてきた。この実懇になろうとは、心やすくなろうとの意味であって、その言葉を武士の客からかけられた旅館の亭主(ていしゅ)は、必ず御肴代(おさかなだい)の青銅とか御祝儀(ごしゅうぎ)の献上金とかをねだられるのが常であった。町人百姓はまだしも、街道の人足ですら駕籠(かご)をかついで行く途中で武士風の客から「実懇になろうか」とでも言葉をかけられた時は、必ず一分(ぶ)とか、一分二百とかの金をねだられることを覚悟せねばならなかった。貧しい武家衆や公卿(くげ)衆の質(たち)の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し、それによって二、三年は寝食いができると言われるような世の中になって来た。どうして問屋場のものを脅迫する武家衆が天保銭一枚ずつの話なぞは、この街道ではめずらしいことではなくなった。
 この脅迫と強請とがある。一方に賄賂(わいろ)の公然と行なわれていたのにも不思議はなかった。従来問屋場を通過する荷物の貫目にもお定めがあって、本馬(ほんま)一駄(だ)二十貫目、軽尻(からじり)五貫目、駄荷(だに)四十貫目、人足一人持ち五貫目と規定され、ただし銭差(ぜにさし)、合羽(かっぱ)、提灯(ちょうちん)、笠袋(かさぶくろ)、下駄袋(げたぶくろ)の類(たぐい)は本馬一駄乗りにかぎり貫目外の小付(こづけ)とすることを許されていた。この貫目を盗む不正を取り締まるために、板橋、追分(おいわけ)、洗馬(せば)の三宿に設けられたのがいわゆる御貫目改め所であって、幕府の役人がそこに出張することもあり、問屋場のものの立ち合って改めたこともあった。そこは賄賂の力である程度までの出世もでき、御家人(ごけにん)の株を譲り受けることもできたほどの時だ。規定の貫目を越えた諸藩の荷物でもずんずん御貫目改め所を通過して、この馬籠の問屋場にまで送られて来た。
 将軍家御召替(おめしか)えの乗り物、輿(こし)、それに多数の鉄砲、長持を最後にして、連日の大混雑がようやく沈まったのは六月二十九日を迎えるころであった。京都引き揚げの葵(あおい)の紋のついた輿は四十人ずつの人足に護(まも)られて行った。毎日のように美濃(みの)筋から入り込んで来た武家衆の泊まり客、この村の万福寺にまであふれた与力(よりき)、同心衆の同勢なぞもそれぞれ江戸方面へ向けて立って行った。将軍の還御(かんぎょ)を語る通行も終わりを告げた。その時になると、わずか十日ばかりの予定で入洛(じゅらく)した関東方が、いかに京都の空気の中でもまれにもまれて来たかがわかる。大津の宿から五十四里の余も離れ、天気のよい日には遠くかすかに近江(おうみ)の伊吹山(いぶきやま)の望まれる馬籠峠の上までやって来て、いかにあの関東方がホッと息をついて行ったかがわかる。嫡子(ちゃくし)を連れた仙台の家老はその日まで旅をためらっていて、宿方で荷物を預かった礼を述べ、京都の方の大長噺(おおながばなし)を半蔵や伊之助のところへ置いて行った。
 七月にはいっても、まだ半蔵は連日の激しい疲労から抜け切ることができなかった。そろそろ茶摘みの始まる季節に二日ばかりも続いて来た夏らしい雨は、一層人を疲れさせた。彼が自分の家の囲炉裏ばたに行って見た時は、そこに集まる栄吉、清助、勝重から、下男の佐吉までがくたぶれたような顔をしている。近くに住む馬方の家の婆(ばあ)さんも来て話し込んでいる。この宿場で八つ当たりに当たり散らして行った将軍御召馬(おめしうま)のうわさはその時になってもまだ尽きなかった。
「あの御召馬が焼酎(しょうちゅう)を一升も飲むというにはおれもたまげた。」
「御召馬なぞというと怒(おこ)られるぞ。御召御馬(おめしおうま)だぞ。」
「いずれ口取りの別当が自分に飲ませろということずらに。」
「嫌味(いやみ)な話ばかりよなし。この節、街道にろくなことはない。わけのわからないお武家様と来たら、ほんとにしかたあらすか。すぐ刀に手を掛けて、威(おど)すで。」
「あゝあゝ、今度という今度はおれもつくづくそう思った。いくら名君が上にあっても、御召馬を預かる役人や別当からしてあのやり方じゃ、下のものが服さないよ。お気の毒と言えばお気の毒だが、人民の信用を失うばかりじゃないか。」
「徳川の代も末になりましたね。」
 だれが語るともなく、だれが答えるともない話で、囲炉裏ばたには囲炉裏ばたらしい。中には雨に疲れて横になるものがある。足を投げ出すものがある。半蔵が男の子の宗太や正己(まさみ)はおもしろがって、その間を泳いで歩いた。
「半蔵さん、すこしお話がある。一つ片づいて、やれうれしやと思ったら、また一つ宿場の問題が起こって来ました。」
 と言って隣家から訪(たず)ねて来る伊之助を寛(くつろ)ぎの間(ま)に迎えて見ると、東山道通行は助郷人足不参のため、当分その整理がつくまで大坂御番頭の方に断わりを出そうということであった。
「なんでも木曾十一宿の総代として、須原(すはら)からだれか行くそうです。大坂まで出張するそうです。」
「それじゃ、伊之助さん、馬籠からも人をやりましょう。」
 半蔵は栄吉や清助をそこへ呼んで、四人でその人選に額(ひたい)を鳩(あつ)めた。
 参覲交代制度変革以来の助郷の整理は、いよいよこの宿場に働くものにとって急務のように見えて来た。過ぐる六月の十七日から二十八日にわたる荷送りを経験して見て、伊那方面の人足の不参が実際にその困難を証拠立てた。多年の江戸の屋敷住居(やしきずまい)から解放された諸大名が家族もすでに国に帰り、東照宮の覇業(はぎょう)も内部から崩(くず)れかけて来たかに見えることは、ただそれだけの幕府の衰えというにとどまらなかった。その意味から言っても、半蔵は蓬莱屋(ほうらいや)新七が江戸出府の結果を待ち望んだ。
「そうだ。諸大名が朝参するばかりじゃない、将軍家ですら朝参するような機運に向かって来たのだ。こんな時世に、武家中心の参覲交代のような儀式をいつまで保存できるものか知らないが、しかし街道の整理はそれとは別問題だ。」
 と彼は考えた。
 旧暦七月半ばの暑いさかりに、半蔵は伊奈助郷のことやら自分の村方の用事やらで、木曾福島の役所まで出張した。ちょうどその時福島から帰村の途中に、半蔵は西から来る飛脚のうわさを聞いた。屈辱の外交とまで言われて支払い済みとなった生麦償金十万ポンドのほかに、被害者の親戚(しんせき)および負傷者の慰藉料(いしゃりょう)としてイギリスから請求のあった二万五千ポンドはそのままに残っていて、あの問題はどうなったろうとは、かねて多くの人の心にかかっていた。はたして、イギリスは薩州侯と直接に交渉しようとするほどの強硬な態度に出て、薩摩方ではその請求を拒絶したという。西からの飛脚が持って来たうわさはその談判の破裂した結果であった。九隻からのイギリス艦隊は薩摩の港に迫ったという。海と陸とでの激しい戦いはすでに戦われたともいうことであった。

       五

「青山君――その後の当地の様子は鱗形屋(うろこがたや)の聞書(ききがき)その他の飛脚便によっても御承知のことと思う。大和国(やまとのくに)へ行幸を仰せ出されたのは去る八月十三日のことであった。これは攘夷(じょうい)御祈願のため、神武帝(じんむてい)御山陵ならびに春日社(かすがしゃ)へ御参拝のためで、しばらく御逗留(ごとうりゅう)、御親征の軍議もあらせられた上で、さらに伊勢神宮へ行幸のことに承った。この大和行幸の洛中(らくちゅう)へ触れ出されたのを自分が知ったのは、柳馬場丸太(やなぎのばばまるた)[#ルビの「ばば」はママ]町下(さが)ル所よりの来状を手にした時であった。これは実にわずか七日前のことに当たる。
 ――一昨日、十七日の夜の丑(うし)の刻(こく)のころ、自分は五、六発の砲声を枕(まくら)の上で聞いた。寄せ太鼓の音をも聞いた。それが東の方から聞こえて来た。あわやと思って自分は起き出し、まず窓から見ると、会津家(あいづけ)参内(さんだい)の様子である。そのうち自分は町の空に出て見て、火事装束(かじしょうぞく)の着込みに蓑笠(みのかさ)まで用意した一隊が自分の眼前を通り過ぐるのを目撃した。
 ――しばらく、自分には何の事ともわからなかった。もっとも御祭礼の神燈を明けの七つごろから出した町の有志があって、それにつれて総町内のものが皆起き出し、神燈を家ごとにささげなどするうち、夜も明けた。昨日になって見ると、九門はすでに堅く閉ざされ、長州藩は境町御門の警固を止められ、議奏、伝奏、御親征掛(がか)り、国事掛りの公卿(くげ)の参内もさし止められた。十七日の夜に参内を急いだのは、中川宮(青蓮院(しょうれんいん))、近衛(このえ)殿、二条殿、および京都守護職松平容保(かたもり)のほかに、会津と薩州の重立った人たちとわかった。在京する諸大名、および水戸、肥後、加賀、仙台などの家老がいずれもお召に応じ、陣装束で参内した混雑は筆紙に尽くしがたい。九門の前通りは皆往来止めになったくらいだ。
 ――京都の町々は今、会津薩州二藩の兵によってほとんど戒厳令の下にある。謹慎を命ぜられた三条、西三条、東久世(ひがしくぜ)、壬生(みぶ)、四条、錦小路(にしきこうじ)、沢の七卿はすでに難を方広寺に避け、明日は七百余人の長州兵と共に山口方面へ向けて退却するとのうわさがある。」
 こういう意味の手紙が京都にある香蔵から半蔵のところに届いた。


 支配階級の争奪戦と大ざっぱに言ってしまえばそれまでだが、王室回復の志を抱(いだ)く公卿たちとその勢力を支持する長州藩とがこんなに京都から退却を余儀なくされ、尊王攘夷を旗じるしとする真木和泉守(まきいずみのかみ)らの討幕運動にも一頓挫(いちとんざ)を来たしたについて、種々(さまざま)な事情がある。多くの公卿たちの中でも聡敏(そうびん)の資性をもって知られた伝奏姉小路(あねがこうじ)少将(公知(きんとも))が攘夷のにわかに行なわれがたいのを思って密奏したとの疑いから、攘夷派の人たちから変節者として目ざされ、朔平門(さくへいもん)の外で殺害された事変は、ことに幕府方を狼狽(ろうばい)せしめた。石清水(いわしみず)行幸のおりにすでにそのうわさのあった前侍従中山忠光を中心とする一派の志士が、今度の大和行幸を機会に鳳輦(ほうれん)を途中に擁し奉るというような風説さえ伝えられた。しかもこの風説は、大和地方における五条の代官鈴木源内らを攘夷の血祭りとした事実となってあらわれたのである。かねて公武合体の成功を断念し、政事総裁の職まで辞した越前藩主はこの形勢を黙ってみてはいなかった。同じ公武合体の熱心な主唱者の一人(ひとり)で、しばらく沈黙を守っていた人に薩摩(さつま)の島津久光もある。この人も本国の方でのイギリス艦隊との激戦に面目をほどこし、たとい敵の退却が風雨のためであるとしても勝敗はまず五分五分で、薩摩方でも船を沈められ砲台を破壊され海岸の町を焼かれるなどのことはあったにしても、すくなくもこの島国に住むものがそうたやすく征服される民族でないことをヨーロッパ人に感知せしめ、同時に他藩のなし得ないことをなしたという自信を得た矢先で、松平春嶽(しゅんがく)らと共に再起の時機をとらえた。討幕派の勢力は京都から退いて、公武合体派がそれにかわった。大和行幸の議はくつがえされて、いまだ攘夷親征の機会でないとの勅諚(ちょくじょう)がそれにかわった。激しい焦躁(しょうそう)はひとまず政事の舞台から退いて、協調と忍耐とが入れかわりに進んだのである。
 しかし、この京都の形勢を全く凪(なぎ)と見ることは早計であった。九月にはいって、西からの使者が木曾街道を急いで来た。
「また早飛脚ですぞ。」
 清助も、栄吉もしかけた仕事を置いて、何事かと表に出て見た。早飛脚の荒い掛け声は宿場に住むものの耳についてしまった。


 とうとう、新しい時代の来るのを待ち切れないような第一の烽火(のろし)が大和地方に揚がった。これは千余人から成る天誅組(てんちゅうぐみ)の一揆(いっき)という形であらわれて来た。紀州(きしゅう)、津(つ)、郡山(こおりやま)、彦根(ひこね)の四藩の力でもこれをしずめるには半月以上もかかった。しかし闇(やみ)の空を貫く光のように高くひらめいて、やがて消えて行ったこの出来事は、名状しがたい暗示を多くの人の心に残した。従来、討幕を意味する運動が種々(いろいろ)行なわれないでもないが、それは多く示威の形であらわれたので、かくばかり公然と幕府に反旗を翻したものではなかったからである。遠く離れた馬籠峠の上あたりへこのうわさが伝わるまでには、美濃苗木藩(みのなえぎはん)の家中が大坂から早追(はやおい)で急いで来てそれを京都に伝え、商用で京都にあった中津川の万屋安兵衛(よろずややすべえ)はまたそれを聞書(ききがき)にして伏見屋の伊之助のところへ送ってよこした。この一揆(いっき)は「禁裏百姓」と号し、前侍従中山忠光を大将に仰ぎ、日輪に雲を配した赤地の旗を押し立て、別に一番から百番までの旗を用意して、初めは千余人の人数であったが、追い追いと同勢を増し、長州、肥後、有馬(ありま)の加勢もあったということである。公儀の陣屋はつぶされ、大和(やまと)河内(かわち)は大騒動で、やがて紀州へ向かうような話もあり、大坂へ向かうやも知れないとまで一時はうわさされたほどである。ともかくも、この討幕運動は失敗に終わった。天(てん)の川(かわ)というところでの大敗、藤本鉄石(ふじもとてっせき)の戦死、それにつづいて天誅組(てんちゅうぐみ)の残党が四方への離散となった。
 九月の二十七日には、木曾谷中宿村の役人が福島山村氏の屋敷へ呼び出された。その屋敷の御鎗下(おやりした)で、年寄と用達(ようたし)と用人(ようにん)との三役も立ち合いのところで、山村氏から書付を渡され、それを書記から読み聞かせられたというものを持って、伏見屋伊之助と問屋九郎兵衛の二人(ふたり)が福島から引き取って来た。
    宿村へ仰せ渡され候書付
「方今の御時勢、追い追い伝聞いたしおり申すべく候(そうら)えども、上方辺(かみがたへん)の騒動容易ならざる事にこれあり、右残党諸所へ散乱いたし候につき、御関所においてもその取り締まり方、御老中より御話し相成りし次第に候。なおまた、中山大納言殿御嫡子(忠光)の由に申し立て、浪人数十人召し連れ、御陣屋向きに乱暴いたし候ものこれあり、御取り締まり方、国々へ仰せ出されよとのお触れもこれあり候。加うるに、薩州長州においては夷船(えびすぶね)打ち払い等これあり、公辺においてもいよいよ攘夷御決定との趣にも相聞こえ、内乱外寇(がいこう)何時(なんどき)相発し候儀も計りがたき時節に候。木曾の儀、辺土とは申しながら街道筋にこれあり候えば、もはや片時も油断相成りがたく、宿村役人においてもかかる容易ならざる御時勢をとくと弁別いたされ、申すにも及ばざる儀ながら木曾谷庄屋(しょうや)問屋(といや)年寄(としより)などは多く旧家筋の者にこれあり候につき、万一の節はひとかどの御奉公相勤め候心得にこれあるべく候。なお、右のほか、帯刀御免の者、ならびに旧家の者などへもよくよく申し諭(さと)し、随分武芸心がけさせ候よういたすべく候……」
 半蔵はこの書付を伊之助から受け取って見て、公辺からの宿村の監視がいよいよ厳重になって行くことを知った。同時に、諸所へ散乱したという禁裏百姓の残党の中には、必ず平田門下の人もあるべきことをほとんど直覚的に感知した。
 当時、平田篤胤(あつたね)没後の門人は諸国を通じて千人近くに達するほどの勢いで、その中には古学の研究と宣伝のみに満足せず、自ら進んで討幕運動の渦中(かちゅう)に身を投ずるものも少なくなかった。さきには三条河原示威の事件で、昼夜兼行で京都から難をのがれて来た暮田正香(くれたまさか)のような例もある。今また何かの姿に身をやつして、伊那(いな)の谷のことを聞き伝え、遠く大和(やまと)地方から落ちて来る人のないとは半蔵にも言えなかった。
「待てよ、いずれこの事件には平田門人の中で関係した人がある。やった事が間違っているか、どうか、それはわからないが、生命(いのち)をかけても勤王のお味方に立とうとして、ああして滅びて行ったことを思うと、あわれは深い。」
 そこまで考え続けて行くと、彼はこのことをだれにも隠そうとした。彼の周囲にいて本居(もとおり)平田の古学に理解ある人々にすら、この大和五条の乱は福島の旦那(だんな)様のいわゆる「浪人の乱暴」としか見なされなかったからで。
 木曾谷支配の山村氏が宿村に与えた注意は、単に時勢を弁別せよというにとどまらなかった。何方(いずかた)に一戦が始まるとしても近ごろは穀留(こくど)めになる憂いがある。中には一か年食い継ぐほどの貯(たくわ)えのある村もあろうが、上松(あげまつ)から上の宿々では飢餓しなければならない。それには各宿各村とも囲い米(まい)の用意をして非常の時に備えよと触れ回った。十六歳から六十歳までの人別(にんべつ)名前を認(したた)め、病人不具者はその旨を記入し、大工、杣(そま)、木挽(こびき)等の職業までも記入して至急福島へ差し出せと触れ回した。村々の鉄砲の数から、猟師筒(りょうしづつ)の玉の目方まで届け出よと言われるほど、取り締まりは実に細かく、やかましくなって来た。

       六

 江戸の方の道中奉行所でも木曾十一宿から四、五人の総代まで送った定助郷(じょうすけごう)設置の嘆願をそう軽くはみなかった。その証拠には、馬籠(まごめ)からもそのために出て行った蓬莱屋(ほうらいや)新七などを江戸にとどめて置いて、各宿人馬継立(つぎた)ての模様を調査する公役(道中奉行所の役人)が奥筋の方面から木曾路を巡回して来た。
 もはや秋雨が幾たびとなく通り過ぎるようになった。妻籠(つまご)の庄屋寿平次、年寄役得右衛門の二人(ふたり)は江戸からの公役に付き添いで馬籠までやって来た。ちょうど伊之助は木曾福島出張中であったので、半蔵と九郎兵衛とがこの一行を迎えて、やがて妻籠の寿平次らと一緒に美濃(みの)の方面にあたる隣宿落合(おちあい)まで公役を見送った。
「半蔵さん。」
 と声をかけながら、寿平次は落合から馬籠への街道を一緒に踏んだ。前には得右衛門と九郎兵衛、後ろには供の佐吉が続いた。公役見送りの帰りとあって、妻籠と馬籠の宿役人はいずれも袴(はかま)に雪駄(せった)ばきの軽い姿になった。半蔵の脱いだ肩衣(かたぎぬ)は風呂敷包(ふろしきづつ)みにして佐吉の背中にあった。
「そう言えば、半蔵さんのお友だちは二人ともまだ京都ですか。」
「そうですよ。」
「よくあれで留守が続くと思う。」
「さあ、わたしもそれは心配しているんですよ。」
「騒がしい世の中になって来た。こんな時世でももうける人はもうける。」
 寿平次が半蔵と並んで話し話し歩いて行くうちに、石屋の坂の下あたりで得右衛門たちに追いついた。
「九郎兵衛さん、君はくわしい。」と寿平次は連れの方を見て言った。「飛騨(ひだ)の商人がはいり込んで来て、うんと四文銭を買い占めて行ったというじゃありませんか。」
「その話ですか。今の銭相場は一両で六貫四百文するところを、一両について四貫四百文替えに相談がまとまったとか言いましてね、金兵衛さんのところなぞじゃ四文銭を六把(ぱ)も売ったと聞きました。」
 九太夫は大きなからだをゆすりゆすり答える。その時、得右衛門は妻籠からずっと同行して来た連れの肩をたたいて言った。
「寿平次さん、四文銭を六把で、いくらだと思います。二十七両の余ですよ。」
「いえ、今ね、こんな時世でももうける人はもうけるなんて、半蔵さんと話して来たところでさ。」
「違う。こんな時世だからもうけられるんでさ。」
 みんな笑って、馬籠の下町の入り口にあたる石屋の坂を登った。
 半蔵には、妻籠の客を二人とも自分の家に誘って、今後の街道や宿場のことについて語り合いたい心があり、馬籠ばかりでなく妻籠の方の人馬継立ての様子をも尋ねたい心があった。寿平次は寿平次で、この公役の見送りを機会に、かねて半蔵まで申し込んであった妹お民が三番目の男の子を妻籠の方へ連れて行って育てたいという腹で来た。いまだに子供を持たない寿平次が妻籠本陣での家庭をさみしがって、その話をかねて今度やって来たとは、半蔵は義理ある兄の顔を一目見たばかりの時にすでにそれと察していた。


「まあ、得右衛門さん、お上がりください。」
 お民は本陣の奥から上がり端(はな)のところへ飛んで出て来た。兄を見るばかりでなく、妻籠なじみの得右衛門を家に迎えることは、彼女としてもめずらしかった。
「はてな。阿爺(おやじ)も久しぶりでお目にかかりたいでしょうから、隠居所の方へ来ていただきましょうか。」
 そう半蔵は言って、その足で裏二階の方へ妻籠の客を案内した。
 間もなく吉左衛門の隠居部屋(べや)では、「皆さん、袴(はかま)でもお取り。」という老夫婦の声を聞いた。
「お父(とっ)さん、いかがですか、その後御健康は。」と寿平次が尋ねる。
「いや、ありがとう。自分でも不思議なくらいにね、ますます快(よ)い方に向いて来たよ。こうして隠居しているのがもったいないくらいさ。」と吉左衛門は言って見せた。
 その時になって見ると、徳川政府が参覲交代のような重大な政策を投げ出したことは、諸藩分裂の勢いを助成するというにとどまらなかった。吉左衛門の言い草ではないが、その制度変革の影響はどこまで及んで行くとも見当がつかなかった。当時交通輸送の一大動脈とも言うべき木曾街道にまで、その影響は日に日に深刻に浸潤して来ていた。
 江戸の公役が出張を見た各宿調査の模様は、やがて一同の話題に上った。そこには吉左衛門のようにすでに宿役を退いたもの、得右衛門のようにそろそろ若い者に代を譲る心じたくをしているもの、半蔵や寿平次のようにまだ経験も浅いものとが集まった。
「以前からわたしはそう言ってるんですが、助郷のことは大問題ですて。」と吉左衛門が言い出した。「まあ、わたしのような昔者から見ると、もともと宿場と助郷は金銭ずくの関係じゃありませんでしたよ。人足の請負なぞをするものはもとよりなかった。助郷はみんな役を勤めるつもりで出て来ていました。参覲交代なぞがなくって、諸大名の奥方でも、若様でも、御帰国は御勝手次第ということになりましたろう。こいつは下のものに響いて来ますね。御奉公という心がどうしても薄らいで来ると思いますね。」
 退役以来、一切のことに口をつぐんでいるこの吉左衛門にも、陰ながら街道の運命を見まもる心はまだ衰えなかった。得右衛門はその話を引き取って、
「吉左衛門さん、無論それもあります。しかし、御変革の結果で、江戸屋敷の御女中がたが御帰りになる時に、あの御通行にかぎって相対雇(あいたいやと)いのよい賃銭を許されたものですから、あれから人足の鼻息が荒くなって来ましたよ。」
「そこが問題です。」寿平次が言う。
「待っておくれよ。そりゃ助郷が問屋場に来て見て、いろいろ不平もありましょうがね。宿(しゅく)助成ということになると、どうしてもみんなに分担してもらわんけりゃならんよ。こりゃ、まあお互いのことなんだからね。」とまた吉左衛門は言い添える。
「ところが、吉左衛門さん。」と得右衛門は言った。「御通行、御通行で、物価は上がりましょう。伝馬役(てんまやく)は給金を増せと言い出して来る。どうしても問屋場に無理ができるんです。助郷から言いますと、宿の御伝馬が街道筋に暮らしていて、ともかくもああして妻子を養って行くのに、その応援に来る在の百姓ばかり食うや食わずにいる法はないという腹ができて来ます。それに、ある助郷村には疲弊のために休養を許して、ある村には許さないとなると、お触れ当ては不公平だという声も起こって来ます。旧助郷と新助郷だけでも、役を勤めに出て来る気持ちは違いますからね。一概に助郷の不参と言いますけれど掘って見ると村々によっていろいろなものが出て来ますね。そりゃ問屋だって、あなた、地方地方によってどれほど相違があるかしれないようなものですよ。」
 その時、半蔵はそこにいる継母のおまんに頼んで母屋(もや)の方から清助を呼び寄せ、町方のものから申し出のあった書付を取り寄せた。それを一同の前に取り出して見せた。当時は諸色(しょしき)も高くなるばかりで、人馬の役を勤めるものも生活が容易でないとある。それには馬役、歩行役、ならびに七里役(飛脚を勤めるもの)の給金を増してほしいとある。伝馬一疋(ぴき)給金六両、定歩行役(じょうほこうやく)一両二分、夏七里役一両二分、冬七里役一両三分と定めたいとある。
「こういうことになるから困る。」と得右衛門は言った。「宿の伝馬役が給金を増してくれと言い出すと、助郷だっても黙ってみちゃいますまい。」
「半蔵さん、君の意見はどうなんですか。」と寿平次がたずねる。
「そうですね。」と半蔵は受けて、「定助郷はぜひ置いてみたい。現在のありさまより無論いいと思います。しかし、自分一個の希望としては、わたしは別に考えることもあるんです。」
「そいつを話して見てください。」
「夢が多いなんて、また笑われても困る。」
「そんなことはありません。」
「まあ、お話しして見れば、たとえば公儀の御茶壺(おちゃつぼ)だとか、日光例幣使だとかですね、御朱印付きの証書を渡されている特別な御通行に限って、宿の伝馬役が無給でそれを継ぎ立てるような制度は改めたい。ああいう義務を負わせるものですから、伝馬役がわがままを言うようになるんです。継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷へ押しつけるというようなことが起こるんです。つまり、わたしの夢は、宿の伝馬役と助郷の区別をなくしたい。みんな助郷であってほしい。だれでも、同じように助郷には勤めに出るというようにしたい。」
「万民が助郷ですか。なるほど、そいつは遠い先の話だ。」
「でも、寿平次さん、このままにうッちゃらかして置いてごらんなさい。」
「そう言えば、そうですね。古いことは知りませんが、和宮様(かずのみやさま)の御通行の時がまず一期、参覲交代の廃止がまた一期で、助郷も次第に変わって来ましたね。」


 ともかくも江戸に出ている十一宿総代が嘆願の結果を待つことにして、得右衛門は寿平次より先に妻籠(つまご)の方へ帰って行った。
「きょうは吉左衛門さんにお目にかかれて、わたしもうれしい。妻籠でも収穫(とりいれ)が済んで、みんな、一息ついてるところですよ。」
 との言葉をお民のところへ残して行った。
 半蔵は得右衛門を送り出して置いて、母屋(もや)の店座敷に席をつくった。そこに裏二階から降りて来る寿平次を待った。
「寿平次さんも話し込んでいると見えるナ。お父(とっ)さんにつかまったら、なかなか放さないよ。」
 と半蔵がお民に言うころは、姉娘のお粂(くめ)が弟の正己(まさみ)を連れて、裏の稲荷(いなり)の方の栗(くり)拾いから戻(もど)って来た。正己はまだごく幼くて、妻籠本陣の方へ養子にもらわれて行くことも知らずにいる。
「やい、やい。妻籠の子になるのかい。」
 と宗太もそこへ飛んで来て弟に戯れた。
「宗太、お前は兄さんのくせに、そんなことを言うんじゃないよ。」とお民はたしなめるように言って見せた。「妻籠はお前お母(っか)さんの生まれたお家じゃありませんか。」
 半蔵夫婦の見ている前では、兄弟(きょうだい)の子供の取っ組み合いが始まった。兄の前髪を弟がつかんだ。正己はようやく人の言葉を覚える年ごろであるが、なかなかの利(き)かない気で、ちょっとした子供らしい戯れにも兄には負けていなかった。
「今夜は、妻籠の兄さんのお相伴(しょうばん)に、正己にも新蕎麦(しんそば)のごちそうをしてやりましょう。それに、お母(っか)さんの言うには、何かこの子につけてあげなけりゃなりますまいッて。」
「妻籠の方への御祝儀(ごしゅうぎ)にかい。扇子(せんす)に鰹節(かつおぶし)ぐらいでよかないか。」
 夫婦はこんな言葉をかわしながら、無心に笑い騒ぐ子供らをながめた。お民は妻籠からの話を拒もうとはしなかったが、さすがに幼いものを手放しかねるという様子をしていた。
「お師匠さま、来てください。」
 表玄関の方で、けたたましい呼び声が起こった。勝重(かつしげ)は顔色を変えて、表玄関から店座敷へ飛んでやって来た。よくある街道でのけんかかと思って、半蔵は「袴(はかま)、袴。」と妻に言った。急いでその平袴(ひらばかま)をはいて、紐(ひも)も手ばしこく、堅く結んだ。
「冗談じゃないぞ。」
 そう言いながら半蔵は本陣の表まで出て見た。問屋場の前の荷物の積み重ねてあるところは、何様(なにさま)かの家来らしい旅の客が栄吉をつかまえて、何か威(おど)し文句を並べている。半蔵はすぐにその意味を読んだ。彼はその方へ走って行って、木刀を手にした客の前に立った。客の吹く酒の臭気はぷんと彼の鼻をついた。
 客は栄吉の方を尻目(しりめ)にかけて、
「やい。人足の出し方がおそいぞ。」
 とにらんだ。その時、客はいまいましそうに、なおも手にした木刀で栄吉の方へ打ちかかろうとするので、半蔵は身をもって従兄弟(いとこ)をかばおうとした。
「当宿問屋の主人(あるじ)は自分です。不都合なことがありましたら、わたしが打たれましょう。」
 と半蔵はそこへ自分を投げ出すように言った。
 この騒ぎを聞きつけた清助は本陣の裏の方から、九郎兵衛は石垣(いしがき)の上にある住居(すまい)の方から坂になった道を走って来た。かつて問屋場の台の上から無法な侍を突き落としたほどの九郎兵衛がそこへ来て割り込むと、その力の人並みすぐれた大きな体格を見ただけでも、客はいつのまにか木刀を引き込ました。
「半蔵さん、御本陣にはお客があるんでしょう。ここはわたしにお任せなさい。そうなさい。」
 この九郎兵衛の声を聞いて、半蔵は母屋(もや)の方へ引き返して行ったが、客から吹きかけられた酒の臭気の感じは容易に彼から離れなかった。しばらく彼は門内の庭の一隅(いちぐう)にある椿(つばき)の若木のそばに立ちつくした。


 その足で半蔵は店座敷の方へ引き返して行って見た。自分の机の上に置いた本なぞをあけて見ている寿平次をそこに見いだした。
「半蔵さん、何かあったんですか。」
「なに、なんでもないんですよ。」
「だれか問屋場であばれでもしたんですか。」
「いえ、人足の出し方がおそいと言うんでしょう。聞き分けのない武家衆と来たら、問屋泣かせです。」
「この節はなんでも力ずくで行こうとする。力で勝とうとするような世の中になって来た。」
「寿平次さん、吾家(うち)にいる勝重さんが何を言い出すかと思ったら、徳川の代も末になりましたね、ですとさ。それを聞いた時は、わたしもギョッとしましたね。ほんとに――あんな少年がですよ。」
 二人(ふたり)の話はそこへはいって行った子供らのために途切れた。
「どうだ、正己。」と寿平次は子供をそばへ呼び寄せて、「叔父(おじ)さんと一緒に、妻籠へ行くかい。」
「行く。」
「行くはよかった。」と半蔵が笑う。
「どれ、叔父さんが一つ抱いて見てやろうか。」
 と言って、寿平次が正己を抱き上げると、そばに見ていた宗太も同じように抱かれに行った。
「叔父さん、わたしも。」
 お粂までもそれを言って、寿平次が弟の子供たちにしてやったと同じことを姉娘にもしてやるまではそばを離れなかった。
「よ。これは重い。」
 寿平次はさも重そうに言って、あとから抱き上げた姉娘の小さなからだを畳の上におろした。
「お粂はよい娘になりそうですね。」と寿平次は末頼もしそうに半蔵に言って見せた。「祖母(おばあ)さんのお仕込みと見えて、どこか違う。君たち夫婦はこんな娘があるからいいさ。わたしは実に家庭には恵まれない。」
 その時、半蔵は子供らを見て言った。「みんな、祖母(おばあ)さんの方へ行ってごらん。台所で蕎麦(そば)を打ってるから、見に行ってごらん。」
 東南に向いた店座敷の障子には次第に日が影(かげ)って来た。半蔵の家では、おまんの計らいで、吉左衛門が老友の金兵衛をも招いて、妻籠へ行く子を送る前の晩のわざとのしるしばかりに、新蕎麦で一杯振る舞いたいという。夕飯にはまだすこし間があった。その静かさの中で、寿平次は半蔵と二人ぎりさしむかいにすわっていた。裏二階の方であった吉左衛門との話なぞがそこへ持ち出された。
「や、寿平次さんに見せるものがある。」
 半蔵は部屋(へや)の押し入れの中から四巻ばかりの本を取り出して来て、
「これがわたしたちの仕事の一つです。」
 と寿平次の前に置いた。『古史伝』の第二帙(ちつ)だ。江戸の方で、彫板、印刷、製本等の工程を終わって、新たにでき上がって来たものだ。
「これはなかなか立派な本ができましたね。」と寿平次は手に取って見て、「この上木(じょうぼく)の趣意書には、お歴々の名前も並んでいますね。前島正弼(しょうすけ)、片桐春一(かたぎりしゅんいち)、北原信質(のぶただ)、岩崎長世(ながよ)、原信好(のぶよし)か。ホウ、中津川の宮川寛斎(みやがわかんさい)もやはり発起人の一人(ひとり)とありますね。」
「どうです、平田先生の本は木板が鮮明で、読みいいでしょう。」
「たしかに特色が出ていますね。」
「この第一帙(ちつ)の方は伊那(いな)の門人の出資で、今度できたのは甲州の門人の出資です。いずれ、わたしも阿爺(おやじ)と相談して、この上木の費用を助けるつもりです。」
「半蔵さん、今じゃ平田先生の著述というものはひろく読まれるそうじゃありませんか。こういう君たちの仕事はいい。ただ、わたしの心配することは、半蔵さんがあまり人を信じ過ぎるからです。君はなんでも信じ過ぎる。」
「寿平次さんの言うことはよくわかりますがね、信じてかかるというのが平田門人のよいところじゃありませんか。」
「信を第一とす、ですか。」
「その精神をヌキにしたら、本居(もとおり)や平田の古学というものはわかりませんよ。」
「そういうこともありましょうが、なんというか、こう、君は信じ過ぎるような気がする――師匠でも、友人でも。」
「……」
「そいつは、気をつけないといけませんぜ。」
「……」
「そう言えば、半蔵さん、京都の方へ行ってる景蔵さんや香蔵さんもどうしていましょう。よくあんなに中津川の家を留守にして置かれると思うと、わたしは驚きます。」
「それはわたしも思いますよ。」
「半蔵さんも、京都の方へ行って見る気が起こるんですかね。」
「さあ、この節わたしはよく京都の友だちの夢を見ます。あんな夢を見るところから思うと、わたしの心は半分京都の方へ行ってるのかもしれません。」
「お父(とっ)さんもそれで心配していますぜ。さっき、裏の二階でお父さんと二人(ふたり)ぎりになった時にも、いろいろそのお話が出ました。何もお父さんのようにそう黙っていることはない。半蔵さんとわたしの仲で、これくらいのことの言えないはずはない。そう思って、わたしはあの二階から降りて来ました。」
「いや、あの阿爺(おやじ)がなかったら、とッくにわたしは家を飛び出していましょうよ……」
 下女が夕飯のしたくのできたことを知らせるころは、二人はもうこんな話をしなかった。半蔵が寿平次を寛(くつろ)ぎの間(ま)へ案内して行って見ると、吉左衛門は裏二階から、金兵衛は上の伏見屋の方からそこに集まって来ていた。
「どうだ、寿平次、金兵衛さんはことし六十七におなりなさる。おれより二つ上だ。それにしてはずいぶん御達者さね。」
「そう言えば、吉左衛門さん、あなたにお目にかかると、この節は食べる物の話ばかり出るじゃありませんか。」
 この人たちのにぎやかな笑い声を聞きながら、半蔵は寿平次の隣にいて膳(ぜん)に就(つ)いた。酒は隣家の伏見屋から取り寄せたもの。山家風な手打ち蕎麦(そば)の薬味には、葱(ねぎ)、唐(とう)がらし。皿(さら)の上に小鳥。それに蝋茸(ろうじ)のおろしあえ。漬(つ)け物。赤大根。おまんが自慢の梅酢漬(うめずづ)けの芋茎(ずいき)。


「半蔵さん、正己が養子縁組のことはどうしたものでしょう。」
 と寿平次がたずねた。一晩馬籠に泊まった翌朝のことである。
「そいつはあとでもいいじゃありませんか。」と半蔵は答えた。「まあ、なんということなしに、連れて行ってごらんなさるさ。」
 そこへおまんとお民も来て一緒になった。おまんは寿平次を見て、
「正己はあれで、もうなんでも食べますよ。酢茎(すぐき)のようなものまで食べたがって困るくらいですよ。妻籠のおばあさんはよく御承知だろうが、あんまり着せ過ぎてもいけない。なんでも子供は寒く饑(ひも)じく育てるものだって、昔からよくそう言いますよ。」
「兄さん、正己も当分は慣れますまいから、おたけを付けてあげますよ。」とお民も言い添えた。
 おたけとは、正己が乳母(うば)のようにしてめんどうを見た女の名である。お粂(くめ)でも、宗太でも、一人ずつ子供の世話をするものを付けて養育するのが、この家族の習慣のようになっていたからで。
 すでに妻籠の方からも迎えの男がやって来た。馬籠本陣の囲炉裏ばたには幼いものの門出を祝う日が来た。お民は裏道づたいに峠の上まで見送ると言って、お粂や宗太を連れて行くしたくをした。こういう時に、清助は黙ってみていなかった。
「さあ、正己さま、おいで。」
 と言って、妻籠へ行く子を自分の背中に載せた。それほど清助は腰が低かった。
 吉左衛門、おまん、栄吉、勝重、それに佐吉から二人の下女までが半蔵と一緒に門の外に集まった。狭い土地のことで、ちいさな子供一人の出発も近所じゅうのうわさに上った。本陣の向こうの梅屋、一軒上の問屋、街道をへだてて問屋と対(むか)い合った伏見屋、それらの家々の前にもだれかしら人が出て妻籠行きのものを見送っていた。
 半蔵は父や継母の前に立って言った。
「寿平次さんの家で育ててもらえば、安心です。正己も仕合わせです。」
 やがて寿平次らは離れて行った。半蔵はそのまま自分の家にはいろうとしなかった。その足で坂になった町を下の方へと取り、石屋の坂の角(かど)を曲がり、幾層にもなっている傾斜の地勢について、荒町(あらまち)の方まで降りて行った。荒町には村社諏訪(すわ)分社がある。その氏神への参詣(さんけい)を済ましても、まだ彼は家の方へ引き返す気にならなかった。この宿場で狸(たぬき)の膏薬(こうやく)なぞを売るのも、そこを出はずれたところだ。路傍には大きく黒ずんだ岩石がはい出して来ていて、広い美濃(みの)の盆地の眺望(ちょうぼう)は谷の下の方にひらけている。もはや恵那山(えなさん)の連峰へも一度雪が来て、また溶けて行った。その大きな傾斜の望まれるところまで歩いて行って見ると、彼は胸いっぱいの声を揚げて叫びたい気になった。
 寿平次が残して置いて行ったいろいろな言葉は、まだ彼の胸から離れなかった。大概の事をばかにしてひとり弓でもひいていられる寿平次に比べると、彼は日常生活の安逸をむさぼっていられなかったのだ。やがて近づいて来る庚申講(こうしんこう)の夜、これから五か月もの長さにわたって続いて行く山家の寒さ、石を載せた板屋根でも吹きめくる風と雪――人を眠らせにやって来るようなそれらの冬の感じが、破って出たくも容易に出られない一切の現状のやるせなさにまじって、彼の胸におおいかぶさって来ていた。
 しかし、歩けば歩くほど、彼は気の晴れる子供のようになって、さらに西の宿はずれの新茶屋の方へと街道の土を踏んで行った。そこには天保十四年のころに、あの金兵衛が亡父の供養にと言って、木曾路を通る旅人のために街道に近い位置を選んで建てた芭蕉(ばしょう)の句碑もある。とうとう、彼は信濃(しなの)と美濃の国境(くにざかい)にあたる一里塚(いちりづか)まで、そこにこんもりとした常磐木(ときわぎ)らしい全景を見せている静かな榎(え)の木の下まで歩いた。


[#改頁]



     第九章

       一

 江戸の町々では元治(げんじ)元年の六月を迎えた。木曾街道(きそかいどう)方面よりの入り口とも言うべき板橋から、巣鴨(すがも)の立場(たてば)、本郷(ほんごう)森川宿なぞを通り過ぎて、両国(りょうごく)の旅籠屋(はたごや)十一屋に旅の草鞋(わらじ)をぬいだ三人の木曾の庄屋(しょうや)がある。
 この庄屋たちは江戸の道中奉行(どうちゅうぶぎょう)から呼び出されて、いずれも木曾十一宿の総代として来たのである。その中に半蔵も加わっていた。もっとも、木曾の上四宿からは贄川(にえがわ)の庄屋、中三宿からは福島の庄屋で、馬籠(まごめ)から来た半蔵は下四宿の総代としてであった。
 五月下旬に半蔵は郷里の方をたって来たが、こんなふうに再び江戸を見うる日のあろうとは、彼としても思いがけないことであった。両国の十一屋は彼にはすでになじみの旅籠屋である。他の二人(ふたり)の庄屋――福島の幸兵衛(こうべえ)、贄川(にえがわ)の平助、この人たちも半蔵と一緒にひとまずその旅籠屋に落ちつくことを便宜とした。そこには木曾出身で世話好きな十一屋の隠居のような人があるからで。
「早いものでございますな。あれから、もう十年近くもなりますかな。」
 十一屋の隠居は半蔵のそばに来て、旅籠屋の亭主(ていしゅ)らしいことを言い出す。この隠居は十年近くも前に来て泊まった木曾の客を忘れずにいた。半蔵が江戸から横須賀(よこすか)在へかけての以前の旅の連れは妻籠(つまご)本陣の寿平次であったことまでよく覚えていた。
「そりゃ、十一屋さん、この前にわたしたちが出て来ました時は、まだ横浜開港以前でしたものね。」
「さよう、さよう、」と隠居も思い出したように、「あれから宮川寛斎先生も手前どもへお泊まりくださいましたよ。えゝ、お連れさまは中津川の万屋(よろずや)さんたちで。あれは横浜貿易の始まった年でした。あの時は神奈川(かながわ)の牡丹屋(ぼたんや)へも手前どもから御案内いたしましたっけ。毎度皆さまにはごひいきにしてくださいまして、ありがとうございます。」
 そういう隠居も大分(だいぶ)年をとったが、しかし元気は相変わらずだ。この宿屋には隠居に見比べると親子ほど年の違うかみさんもある。親子かと思えば、どうもそうでもないようだし、夫婦にしては年が違いすぎる。そう半蔵も以前の旅には想(おも)って見たが、今度江戸へ出て来た時は、そのかみさんが隠居の子供を抱いていた。
 見るもの聞くもの半蔵には過ぐる年の旅の記憶をよび起こした。あれは安政三年で、半蔵が平田入門を思い立って来たころだ。彼が江戸に出て、初めて平田鉄胤(かねたね)を知り、その子息(むすこ)さんの延胤(のぶたね)をも知ったころだ。当時の江戸城にはようやく交易大評定のうわさがあって、長崎の港の方に初めてのイギリスの船がはいったと聞くも胸をおどらせたくらいのころだ。なんと言ってもあのころの徳川政府の威信はまだまだ全国を圧していた。
 十年近い月日はいかに半蔵の周囲を変え、今度踏んで来た街道の光景までも変えたことか。道中奉行からのお呼び出しで、半蔵も自分の宿場を離れて来て見ると、あの木曾街道筋の堅めとして聞こえた福島の関所あたりからして、えらいあわて方であった。諸国に頻発(ひんぱつ)する暴動ざたが幕府を驚かしてか、宿村の取り締まりも実に厳重をきわめるようになった。半蔵が国を出るころは、街道に怪しいものは見つけ次第注進せよと言われていた。ひとり旅の者はもちろん、怪しい浪人体のものは休息させまじき事、俳諧師(はいかいし)生花師(いけばなし)等の無用の遊歴は差し置くまじき事、そればかりでなく、狼藉者(ろうぜきもの)があったら村内打ち寄って取り押え、万一手にあまる場合は切り捨てても鉄砲で打ち殺しても苦しくないというような、そんな御用達所からのお書付が宿々村々へ渡っていた。
 江戸へ出る途中、半蔵は以前の旅を思い出して、二人の連れと一緒に追分宿(おいわけじゅく)の名主(なぬし)文太夫(ぶんだゆう)の家へも寄って来た。あの地方では取締役なるものができ、村民は七名ずつ交替で御影(みかげ)の陣屋を護(まも)り、強賊や乱暴者の横行を防ぐために各自自衛の道を講ずるというほどの騒ぎだ。その陣屋には新たに百二十間あまりの柵矢来(さくやらい)が造りつけられ、非常時の合図として村々には半鐘、太鼓、板木が用意され、それに鉄砲、竹鎗(たけやり)、袖(そで)がらみ、六尺棒、松明(たいまつ)なぞを備え置くという。村内のものでも長脇差(ながわきざし)を帯びるか、または無宿者(むしゅくもの)を隠し泊めるかするものがあればきびしく取り締まるようになって、毎月五日には各村民が陣屋に参集するという。この申し合わせに加わる村々は、北佐久(きたさく)、南佐久の方面で七十四か村にも及んでいる。いかに生活難に追い詰められた無宿浮浪の群れが浪人のまねをしたり大刀を帯びたりしてあの辺の街道を押し歩いているかがわかる。追分(おいわけ)、軽井沢(かるいざわ)あたりは長脇差の本場に近いところから、ことに騒がしい。それにしても、村民各自に自警団を組織するほどのぎょうぎょうしいことはまだ木曾地方にはない。それをしなければ小前(こまえ)のものが安心して農業家業に従事し得られないというほどのことはない。半蔵が二人の連れのように、これまでたびたび江戸に出たことのある庄屋たちでも、こんな油断のならない道中は初めてだと言っている。どうして些細(ささい)のことにも気を配って、互いに助け合うことなしに踏んで出て来られる八十里の道ではなかったのだ。
 さしあたり一行三人のものの仕事は、当時の道中奉行都筑駿河守(つづきするがのかみ)が役宅を訪(たず)ね、今度総代として来たことを告げ、木曾宿々から取りそろえて来た人馬立辻帳(じんばたてつじちょう)なぞを差し出すことであった。
 言うまでもなく、その帳簿には過ぐる一年間の人馬徴発の総高が計算してある。最初に半蔵らが奉行の屋敷に出た日には、徒士目付(かちめつけ)が応接に出て、奉行へは自分から諸事取り次ぐであろうとの話があった末に、今度三人の庄屋を呼び出した奉行の意向を言い聞かせた。それには諸大名が江戸への参覲交代をもう一度復活したい徳川現内閣の方針であることを言い聞かせた。徒士目付の口ぶりによると、いずれ奉行から改めてお呼び出しがあるであろう、そのおりは木曾地方における人馬継立(つぎた)ての現状を問いただされるであろう、そんなことで半蔵らは引き取って来た。同行の幸兵衛、平助、共に半蔵から見ればずっと年の違った人たちで、宿駅のことにも経験の多い庄屋たちであるが、三人連れだって両国の旅籠屋(はたごや)まで戻(もど)って来た時は、互いに街道の推し移りを語り合って、今後の成り行きに額(ひたい)を鳩(あつ)めた。


 参覲交代制度変革の影響は江戸にも深いものがあった。武家六分、町人四分と言われた江戸から、諸国大小名の家族がそれぞれ国もとをさして引き揚げて行ったあとの町々は、あだかも大きな潮の引いて行ったあとのようになった。
 二度目に来てこの大きな都会の深さにはいって見る半蔵の目には、もはや江戸城もない。過ぐる文久三年十一月十五日の火災で、本丸、西丸、共に炎上した。将軍家ですら田安御殿(たやすごてん)の方に移り住むと聞くころだ。西丸だけは復興の工事中であるが、それすら幕府御勘定所のやり繰りで、諸国の町人百姓から上納した百両二百両のまとまった金はもとより、一朱二朱ずつの細かい金まではいっている御普請上納金より成り立つことは、半蔵のように地方にいていくらかでも上納金の世話を命ぜられたものにわかる。西丸の復興ですらこのとおりだ。本丸の方の再度の造営はもとより困難と見られている。朝日夕日に輝いて八百八町(はっぴゃくやちょう)を支配するようにそびえ立っていたあの建築物も、周囲に松の緑の配置してあった高い白壁も、特色のあった窓々も、幕府大城の壮観はとうとうその美を失ってしまった。言って見れば、ここは広大な城下町である。大小の武家屋敷、すなわち上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷、御用屋敷、小屋敷、百人組その他の組々の住宅など、皆大城を中心にしてあるようなものである、変革はこの封建都市に持ち来たされた。諸大名は国勝手を許され、その家族の多くは屋敷を去った。急激に多くの消費者を失った江戸は、どれほどの財界の混乱に襲われているやも知れないかのようである。
 しかし、あの制度の廃止は文久の改革の結果だ。あれは時代の趨勢(すうせい)に着眼して幕政改革の意見を抱(いだ)いた諸国の大名や識者なぞの間に早くから考えられて来たことだ。もっと政治は明るくして新鮮な空気を注ぎ入れなければだめだとの多数の声に聞いて、京都の方へ返すべき慣例はどしどし廃される、幕府から任命していた皇居九門の警衛は撤去されるというふうに、多くの繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が改められた時、幕府が大改革の眼目として惜しげもなく投げ出したのも参覲交代の旧(ふる)い慣例だ。もともと徳川氏にとっては重要なあの政策を捨てるということが越前(えちぜん)の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)から持ち出された時に、幕府の諸有司の中には反対するものが多かったというが、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)は越前藩主の意見をいれ、多くの反対説を排して、改革の英断に出た。今さらあの制度を復活するとなると、当時幕府を代表して京都の方に禁裡(きんり)守衛総督摂海防禦(ぼうぎょ)指揮の重職にある慶喜の面目を踏みつぶすにもひとしい。遠くは紀州と一橋との将軍継嗣問題以来、苦しい反目を続けて来た幕府の内部は、ここにもその内訌(ないこう)の消息を語っていた。
 それにしても、政治の中心はすでに江戸を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華を忘れかねているような諸有司が、いったん投げ出した政策を復活して、幕府の頽勢(たいせい)を挽回(ばんかい)しうるか、どうかは、半蔵なぞのように下から見上げるものにすら疑問であった。時節がら、無用な費用を省いて、兵力を充実し、海岸を防禦(ぼうぎょ)するために国に就(つ)いた諸大名が、はたして幕府の言うなりになって、もう一度江戸への道を踏むか、どうかも疑問であった。
 諸大名の家族が江戸屋敷から解き放たれた日、あれは半蔵が父吉左衛門から家督を譲られて、新しい駅長の職に就いてまだ間もなかったころにあたる。彼はあの馬籠の宿場の方で、越前の女中方や、尾州の若殿に簾中(れんちゅう)や、紀州の奥方ならびに女中方なぞを迎えたり送ったりしたいそがしさをまだ忘れずにいる。昨日は秋田の姫君が峠の上に着いたとか、今日は肥前島原の女中方が着いたとか、こういう婦人や子供の一行が毎日のようにあの街道に続いた。まるで人質も同様にこもり暮らした江戸から手足の鎖を解かれたようにして、歓呼の声を揚げて行った屋敷方の人々だ。それらの御隠居、奥方、若様、女中衆なぞが江戸をにぎわそうとして、もう一度この都会に帰り来る日のあるか、どうかは、なおなお疑問であった。
 江戸に出て数日の間、半蔵は連れの庄屋と共に道中奉行から呼び出される日を待った。一行三人のものは思い思いに出歩いた。そして両国の旅籠屋(はたごや)をさして帰って行くたびに、互いに見たり聞いたりして来る町々の話を持ち寄った。江戸にある木曾福島の代官山村氏の屋敷を東片町(ひがしかたまち)に訪(たず)ねたが、あの辺の屋敷町もさみしかったと言うのは幸兵衛だ。木曾の領主にあたる尾州侯の屋敷へも顔出しに行って来て、いたるところの町々に「かしや」の札の出ているのが目についたと言うのは平助だ。両国から親父橋(おやじばし)まで歩いて、当時江戸での最も繁華な場所とされている芳町(よしちょう)のごちゃごちゃとした通りをあの橋の畔(たもと)に出ると、芋(いも)の煮込みで名高い居酒屋には人だかりがして、その反対の町角(まちかど)にある大きな口入宿(くちいれやど)には何百人もの職を求める人が詰めかけていたと言うのは半蔵だ。
 十一屋の隠居は半蔵らを宿へ迎え入れるたびに言った。
「皆さんは町へお出かけになりましても、日暮れまでには両国へお帰りください。なるべく夜分はお出ましにならない方がよろしゅうございますぞ。」


 ようやく道中奉行からの差紙(さしがみ)で、三人の庄屋の出頭する日が来た。十一屋の二階で、半蔵は連れと同じように旅の合羽(かっぱ)をぬいで、国から用意して来た麻の□□(かみしも)に着かえた。
「さあ、これから御奉行さまの前だ。」と贄川(にえがわ)の平助は用心深い目つきをしながら、半蔵の袖(そで)をひいた。「きょうは、うっかりした口はきけませんよ。半蔵さんはまだ若いから、何か言い出しそうで心配です。」
「わたしですか。わたしは平素(ふだん)から黙っていたい方ですから、そんなよけいなことはしゃべりませんよ。」
 その時、福島の幸兵衛も庄屋らしい袴(はかま)の紐(ひも)を結んでいたが、半分串談(じょうだん)のような調子で、
「半蔵さんは平田の御門人だと言うから、余分に目をつけられますぜ。」
 と戯れた。
「いえ。」と半蔵は言った。「わたしは馬籠をたつ時に、家のものからもそんなことを言われて来ましたよ。でも、木曾十一宿の総代で呼び出されるものをつかまえて、まさか入牢(にゅうろう)を申し付けるとも言いますまい。」
 幸兵衛も平助も笑った。三人ともしたくができた。そこで出かけた。
 道中奉行都筑駿河(つづきするが)の役宅は神田橋(かんだばし)外にある。そこには例の徒士目付(かちめつけ)が待ち受けていてくれて、やがて三人は二部屋(へや)続いた広間に通された。旧暦六月のことで、襖(ふすま)障子(しょうじ)なぞも取りはずしてあった。正面に奉行、そのそばに道中下方掛(したかたがか)りの役人らが控え、徒士目付はいろいろとその間を斡旋(あっせん)した。そこへ新たに道中奉行の一人(ひとり)となった神保佐渡(じんぼうさど)もはいって来て、席に着いた。
尾張殿領分東山道贄川宿、外(ほか)十か宿総代組合宿々取締役右贄川宿庄屋遠山平助福島宿庄屋堤幸兵衛馬籠宿庄屋本陣問屋青山半蔵 徒士目付は三人の庄屋を奉行に紹介するようにそれを読み上げる。平助も、幸兵衛も、それから半蔵も扇子を前に置き、各自の名前が読まれるたびに両手を軽く畳の上に置いて、順に挨拶(あいさつ)した。
 都筑駿河はかつて勘定奉行であり、神保佐渡は大目付(おおめつけ)であった閲歴を持つ人たちである。下々の役人のようにいばらない。奉行としての威厳を失わない程度で、砕けた物の言いようもすれば、笑いもする。徒士目付からすでに三人の庄屋も聞いたであろうように、文久二年以来廃止同様の姿であった参覲交代を復活したい意志が幕府にある、将軍の上洛(じょうらく)は二度にも及んで沿道の宿々は難渋の聞こえもある、木曾は諸大名通行の難場(なんば)でもあるから地方の事情をきき取った上で奉行所の参考としたい、それには人馬継立(つぎた)ての現状を腹蔵なく申し立てよというのが奉行の意向であった。
 その日の会見はあまり細目にわたらないようにとの徒士目付の注意もあって、平助は異国船渡来以後の諸大名諸公役の頻繁(ひんぱん)な往来が街道筋に及ぼした影響から、和宮様(かずのみやさま)の御通過、諸大名家族の帰国というふうに、次第に人馬徴発の激増して来たことをあるがままに述べ、宿駅の疲弊も、常備人馬補充の困難も、助郷(すけごう)勤め村や手助け村の人馬の不参も、いずれも過度な人馬徴発の結果であることを述べた末に言った。
「恐れながら申し上げます。昨年三月より七月へかけ、公方様(くぼうさま)の還御(かんぎょ)にあたりまして、木曾街道の方にも諸家様のおびただしい御通行がございました。何分にも毎日のことで、お継立ても行き届かず、それを心配いたしまして木曾十一宿のものが定助郷(じょうすけごう)の嘆願に当お役所へ罷(まか)り出ました。問屋四名、年寄役一名、都合五名のものが総代として出たような次第でございます。その節、定助郷はお許しがなく、本年二月から六か月の間、当分助郷を申し付けるとのことで、あの五名のものも帰村いたしました。もはやその期日も残りすくなでございますし、なんとかその辺のことも御配慮に預かりませんと、またまた元通り継立てに難渋することかと心配いたされます。」
「そういう注文も出ようかと思って、実は当方でも協議中であるぞ。」と都筑駿河は言った。
 その時、幸兵衛はまた、別の立場から木曾地方の付近にある助郷の組織を改良すべき時機に達したことを申し立てた。彼に言わせると、従来課役として公用藩用に役立って来たもの以外に、民間交通事業の見るべきものが追い追いと発達して来ている。伊那(いな)の中馬(ちゅうま)、木曾の牛、あんこ馬(駄馬(だば))、それから雲助の仕事なぞがそれだ。もっとも、木曾の方にあるものは牛以外に取りたてて言うほどでもないが、伊那の中馬と来ては物資の陸上運搬にさかんな活動を始め、松本から三河(みかわ)、尾張(おわり)の街道、および甲州街道は彼ら中馬が往還するところに当たり、木曾街道にも出稼(でかせ)ぎするものが少なくない。その村数は百六十か村の余を数え、最も多い村は百四十五疋(ひき)、最も少ない村でも十疋の中馬を出している。もしこの際、定助郷の設備もなく、彼らを優遇する方法もなく、課役に応ずる百姓の位置をもっとはっきりさせることもなかったら、割のよい民間の仕事に圧(お)されて、ますます多くの助郷不参の村々を出すであろう。公辺に参覲交代復活の意向があるなら、その辺の事情も一応考慮の中に入れて置いていただきたいというのが福島の庄屋の意見であった。
「いや、いろいろな注文が出る。」と都筑駿河が言った。「将軍二度目の御上洛には往復共に軍艦にお召しになった。それも人民が多年の疲弊を憐(あわれ)むという御思(おぼ)し召しによることだぞ。もう一度諸大名を江戸へお呼び寄せになるにしても、そういう参覲交代の古式を回復するにしても、願い出るものには軍艦を貸そうという御内議もある。その方たちの心配は無理もないが、今度はもうそれほど宿場のごたごたするようなこともあるまい。」
「木曾下四宿の総代もこれに控えております。」と徒士目付は奉行の言葉を引き取って言った。「昨年出てまいりました年寄役の新七なるものは、これに控えております半蔵と同宿のように聞き及びます。」
「三人ともいそがしいところをよく出て来てくれた。どうだ、半蔵、その方の意見も聞こう。」
 そういう都筑駿河ばかりでなく、新参で控え目がちな神保佐渡の眸(ひとみ)も半蔵の方にそそいだ。それまで二人(ふたり)の庄屋のそばにすわっていた半蔵は何か言い出すべき順に回って来た。
「さようでございます。」と彼は答えた。「近年は諸家様の御権威が強くなりまして、何事にも御威勢をもって人民へ仰せ付けられるようになりました。御承知のとおり、木曾の下四宿はいずれも小駅でございまして、お定めの人馬はわずかに二十五人二十五疋(ひき)でお継立てをいたしてまいりました。そこへ美濃(みの)の落合宿あたりから、助郷人馬をもちまして、一時に多数の継立てがございますと、そうは宿方(しゅくがた)でも応じきれません。まず多数にお入り込みの場合を申しますと、宿方にあり合わせた人馬を出払いまして、その余は人馬の立ち帰るまで御猶予を願います。また、時刻によりましては宿方にお泊まりをも願います。これが平素の場合でございましたところ、近年は諸家様がそういう宿方の願いをもお聞き入れになりません。なんでも御威勢をもって継立て方をきびしく仰せ付けられるものですから、まあよんどころなく付近の村々から人馬を雇い入れまして、無理にもお継立てをいたします。そんな次第で。雇い金(きん)も年々に積もってまいりました。宿方困窮の基(もと)と申せば、あまりに諸家様の御権威が高くなったためかと存じます。それさえありませんでしたら、街道の仕事はもっと安らかに運べるはずでございます。」
「なるほど、そういうこともあろう。」と都筑駿河は言って、居並ぶ神保佐渡の方へ膝(ひざ)を向け直して、「御同役、いかがでしょう。くわしいことは書面にして差し出してもらいたいと思いますが。」
「御同感です。」と神保佐渡は手にした扇子で胸のあたりをあおぎながら答えた。
 道中下方掛(したかたがか)りの役人らの間にもしきりに扇子が動いた。その時、徒士目付は奉行の意を受けて、庄屋側から差し出した人馬立辻帳(じんばたてつじちょう)の検閲を終わったら、いずれ三人に沙汰(さた)するであろうと言った。なお、過ぐる亥年(いどし)の三月から七月まで、将軍還御のおりのお供と諸役人が通行中に下された人馬賃銭の仕訳書上帳(しわけかきあげちょう)なるものを至急国もとから取り寄せて差し出せと言いつけた。


 細目にわたることは書面で、あとから庄屋側より差し出すように。そんな約束で半蔵らは神田橋外の奉行屋敷を出た。江戸城西丸の新築工事ができ上がる日を待つと見えて、剃髪(ていはつ)した茶坊主なぞが用事ありげに町を通り過ぎるのも目につく。城内で給仕役(きゅうじやく)を勤めるそれらの茶坊主までが、大名からもらうのを誇りとしていた縮緬(ちりめん)の羽織(はおり)も捨て、短い脇差(わきざし)も捨て、長い脇差を腰にぶちこみながら歩くというだけにも、武道一偏の世の中になって来たことがわかる。幕府に召し出されて幅(はば)をきかせている剣術師なぞは江戸で大変な人気だ。当時、御家人(ごけにん)旗本(はたもと)の間の大流行は、黄白(きじろ)な色の生平(きびら)の羽織に漆紋(うるしもん)と言われるが、往昔(むかし)家康公(いえやすこう)が関ヶ原の合戦に用い、水戸の御隠居も生前好んで常用したというそんな武張(ぶば)った風俗がまた江戸に回(かえ)って来た。
 両国をさして帰って行く途中、平助は連れを顧みて、
「半蔵さん、君は時々立ち止まって、じっとながめているような人ですね。」
「御覧なさい、小さな宮本武蔵(みやもとむさし)や荒木又右衛門(あらきまたえもん)がいますよ。」
「ほんとに、江戸じゃ子供まで武者修行のまねだ。一般の人気がこうなって来たんでしょうかね。」
 そういう平助は実にゆっくりゆっくりと歩いた。
 その日は風の多い日で、半蔵らは柳原(やなぎわら)の土手にかかるまでに何度かひどい砂塵(すなぼこり)を浴びた。往(い)きには追い風であったから、まだよかったが、戻(もど)りには向い風になったからたまらない。土手の柳の間に古着(ふるぎ)古足袋(ふるたび)古股引(ふるももひき)の類(たぐい)を並べる露店から、客待ち顔な易者の店までが砂だらけだ。目もあけていられないようなやつが、また向こうからやって来る。そのたびに半蔵らは口をふさぎ、顔をそむけて、深い砂塵(すなぼこり)の通り過ぎるのを待った。乾燥しきった道路に舞い揚がる塵埃(ほこり)で、町の空までが濁った色に黄いろい。
 両国の旅籠屋(はたごや)に戻ってから、三人は二階で□□(かみしも)をぬいだり、腰につけた印籠(いんろう)を床の間に預けたりして、互いにその日のことを語り合った。
「とにかく、きょうの模様を国の方へ報告して置くんですね。」
「早速福島の方へそう言ってやりましょう。」
「わたしも一つ馬籠(まごめ)へ手紙を出して、仕訳帳(しわけちょう)を至急取り寄せなけりゃならない。」
 多くの江戸の旅人宿と同じように、十一屋にも風呂場(ふろば)は設けてない。半蔵らは町の銭湯へ汗になったからだを洗いに行ったが、手ぬぐいを肩にかけて帰って来るころは、風も静まった。家々の表に打たれる水も都会の町中らしい時が来た。十一屋では夕飯も台所で出た。普通の場合、旅客は皆台所に集まって食った。
 食後に、半蔵らが二階にくつろいでいると、とかく同郷の客はなつかしいと言っている話し好きな十一屋の隠居がそこへ話し込みに来る。部屋(へや)の片すみに女中の置いて行った古風な行燈(あんどん)からして、堅気(かたぎ)な旅籠屋らしいところだ。
「なんと言っても[#「なんと言っても」は底本では「なんと言っも」]、江戸は江戸ですね。」と言い出すのは平助だ。「きょうは屋敷町の方で蚊帳(かや)売りの声を聞いて来ましたよ。」
「えゝ、蚊帳や蚊帳と、よい声で呼んでまいります。一町も先から呼んで来るのがわかります。あれは越後者(えちごもの)だそうですが、江戸名物の一つでございます。あの声を聞きますと、手前なぞは木曾から初めて江戸へ出てまいりました時分のことをよく思い出します。」と隠居が言う。
 幸兵衛も手さげのついた煙草盆(たばこぼん)を引き寄せて、一服吸い付けながらその話を引き取った。「十一屋さん、江戸もずいぶん不景気のようですね。」
「いや、あなた、不景気にも何にも。」と隠居は受けて、「お屋敷方があのとおりでしょう。きのうもあの建具屋の阿爺(おやじ)が見えまして、どこのお屋敷からも仕事が出ない、吾家(うち)の忰(せがれ)なぞは去年の暮れからまるきり遊びです、そう言いまして、こぼし抜いておりました。そんならお前の家の子息(むすこ)は何をしてるッて、手前が言いましたら、することがないから当時流行の剣術のけいこですとさ。だんだん聞いて見ますと、江戸にはちょいちょい火事があるんで、まあ息がつけます、仕事にありつけますなんて、そんなことを言っていましたっけ。ああいう職人にして見たら、それが正直なところかもしれませんね。」
「火事があるんで、息がつけるか。江戸は広い。」と平助はくすくすやる。
「いえ、串談(じょうだん)でなしに。火事は江戸の花――だれがあんなことを言い出したものですかさ。そのくせ、江戸の人くらい火事をこわがってるものもありませんがね。この節は夏でも火事があるんで、みんな用心しておりますよ。放火、放火――あのうわさはどうでしょう。苦しくなって来ると、それをやりかねないんです。ひどいやつになりますと、樋(とい)を逆さに伏せて、それを軒から軒へ渡して、わざわざ火を呼ぶと言いますよ。」
「全く、これじゃ公方様のお膝元(ひざもと)はひどい。」と幸兵衛は言った。「今度わたしも出て来て見て、そう思いました。この江戸を毎日見ていたら、参覲交代を元通りにしたいと考えるのも無理はないと思いますね。」
 幸兵衛と半蔵とはかなり庄屋気質(しょうやかたぎ)を異にしていた。不思議にも、旅は年齢の相違や立場を忘れさせる。半蔵は宿屋のかみさんが貸してくれた糊(のり)のこわい浴衣(ゆかた)の肌(はだ)ざわりにも旅の心を誘われながら、黙しがちにみんなの話に耳を傾けた。
「どうも、油断のならない世の中になりました。」と隠居は言葉をつづけて、「大店(おおだな)は大店で、仕入れも手控え、手控えのようです。おまけに昼は押し借り、夜は強盗の心配でございましょう。まあ、手前どもにはよくわかりませんが、お屋敷方の御隠居でも若様でも御簾中(ごれんちゅう)でも御帰国御勝手次第というような、そんな御改革はだれがしたなんて、慶喜公を恨んでいるものもございます。あの豚一様(ぶたいちさま)(豚肉を試食したという一橋公の異名)か、何も知らないものは諧謔(ふざけ)半分にそんなことを申しまして、とかく江戸では慶喜公の評判がよくございません……」
 江戸の話は尽きなかった。
 その晩、半蔵はおそくまでかかって、旅籠屋の行燈(あんどん)のかげで郷里の伏見屋伊之助あてに手紙を書いた。町々では夜燈なしに出歩くことを禁ぜられ、木戸木戸は堅く閉ざされた。警察もきびしくなって、その年の四月以来江戸市中に置かれたという邏卒(らそつ)が組の印(しる)しを腰につけながら屯所(たむろしょ)から回って来た。それすら十一屋の隠居のように町に居住するものから言わせれば、実に歯がゆいほどの巡回の仕方で。

       二

 江戸の旅籠屋(はたごや)は公事宿(くじやど)か商人宿のたぐいで、京坂地方のように銀三匁も四匁も宿泊料を取るようなぜいたくを尽くした家はほとんどない。公用商用のためこの都会に集まるものを泊めるのが旨としてあって、家には風呂場(ふろば)も設けず、膳部(ぜんぶ)も台所で出すくらいで、万事が実に質素だ。しかし半蔵が十年前に来て泊まって見たころとは宿賃からして違う。昼食抜きの二百五十文ぐらいでは泊めてくれない。
 道中奉行の意向がわかってから、間もなく半蔵は両国の十一屋を去ることにした。同行の二人(ふたり)の庄屋をそこに残して置いて、自分だけは本所相生町(ほんじょあいおいちょう)の方へ移った。同じ本所に住む平田同門の医者の世話で、その人の懇意にする家の二階に置いてもらうことをしきりに勧められたからで。
 半蔵が移って行った相生町の家は、十一屋からもそう遠くない。回向院(えこういん)から東にあたる位置で、一つ目の橋の近くだ。そこには親子三人暮らしの気の置けない家族が住む。亭主(ていしゅ)多吉(たきち)は深川(ふかがわ)の米問屋へ帳付けに通(かよ)っているような人で、付近には名のある相撲(すもう)の関取(せきとり)も住むような町中であった。早速(さっそく)平助は十一屋のあるところから両国橋を渡って、その家に半蔵を訪(たず)ねて来た。
「これはよい家が見つかりましたね。」
 平助は半蔵と一緒にその二階に上がってから言った。夏は二階の部屋(へや)も暑いとされているが、ここは思ったより風通しもよい。西に窓もある。しばらく二人はそんなことを語り合った。
「時に、半蔵さん。」と平助が言い出した。「どうもお役所の仕事は長い。去年木曾[#「木曾」は底本では「木曽」]から総代が出て来た時は、あれは四月の末でした。それが今年(ことし)の正月までかかりました。今度もわたしは長いと見た。」
「まったく、近ごろは道中奉行の交代も頻繁(ひんぱん)ですね。」と半蔵は答える。「せっかく地方の事情に通じた時分には一年か二年で罷(や)めさせられる。あれじゃお役所の仕事も手につかないわけですね。」
「そう言えば、半蔵さん、江戸にはえらい話がありますよ。わたしは山村様のお屋敷にいる人たちから、神奈川奉行の組頭(くみがしら)が捕(つか)まえられた話を聞いて来ましたよ。どうして、君、これは聞き捨てにならない。その人は神奈川奉行の組頭だと言うんですから、ずいぶん身分のある人でしょうね。親類が長州の方にあって、まあ手紙をやったと想(おも)ってごらんなさい。親類へやるくらいですから普通の手紙でしょうが、ふとそれが探偵(たんてい)の手にはいったそうです。まことに穏やかでない御時節がらで、お互いに心配だ、どうか明君賢相が出てなんとか始末をつけてもらいたい、そういうことが書いてあったそうです。それを幕府のお役人が見て、何、天下が騒々しい、これは公方様(くぼうさま)を蔑(ないがし)ろにしたものだ、公方様以外に明君が出てほしいと言うなら、いわゆる謀反人(むほんにん)だということになって、組頭はすぐにお城の中で捕縛されてしまった。どうも、大変な話じゃありませんか。それから組頭が捕(つか)まえられると同時に家捜(やさが)しをされて、当人はそのまま伝馬町(てんまちょう)に入牢(にゅうろう)さ。なんでもたわいない吟味のあったあとで、組頭は牢中で切腹を申し付けられたと言いますよ。東片町(ひがしかたまち)のお屋敷でその話が出て、皆驚いていましたっけ。組頭の検死に行った御小人目付(おこびとめつけ)を知ってる人もあのお屋敷にありましてね、検死には行ったがまことに気の毒だったと、あとで御小人目付がそう言ったそうです。あの話を聞いたら、なんだかわたしは江戸にいるのが恐ろしくなって来ました。こうして宿方の費用で滞在して、旅籠屋の飯を食ってるのも気が気じゃありません。」
 この平助の言うように、長い旅食(りょしょく)は半蔵にしても心苦しかった。しかし、道中奉行に差し出す諸帳簿の検閲を受け、問わるるままに地方の事情を上申するというだけでは済まされなかった。この江戸出府を機会に、もう一度定助郷(じょうすけごう)設置の嘆願を持ち出し、かねての木曾十一宿の申し合わせを貫かないことには、平助にしてもまた半蔵にしても、このまま国へは帰って行かれなかった。
 前年、五人の総代が木曾から出て来た時、何ゆえに一行の嘆願が道中奉行の容(い)れるところとならなかったか。それは、よくよく村柄(むらがら)をお糺(ただ)しの上でなければ、容易に定助郷を仰せ付けがたいとの理由による。しかし、五人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるからと言って、道中奉行は元治元年の二月から向こう六か月を限り、定助郷のかわりに当分助郷を許した。そして木曾下四宿への当分助郷としては伊奈(いな)百十九か村、中三宿へは伊奈九十九か村、上四宿へは筑摩郡(ちくまごおり)八十九か村と安曇郡(あずみごおり)百四十四か村を指定した。このうち遠村で正人馬(しょうじんば)を差し出しかね代永勤(だいえいづと)めの示談に及ぶとしても、一か年高百石につき金五両の割合より余分には触れ当てまいとの約束であった。過ぐる半年近くの半蔵らの経験によると、この新規な当分助郷の村数が驚くばかりに拡大されたことは、かえって以前からの勤め村に人馬の不参を多くするという結果を招いた。これはどうしても前年の総代が嘆願したように、やはり東海道の例にならって定助郷を設置するにかぎる。道中奉行に誠意があるなら、適当な村柄を糺(ただ)されたい、もっと助郷の制度を完備して街道の混乱を防がれたい。もしこの木曾十一宿の願いがいれられなかったら、前年の総代が申し合わせたごとく、お定めの人馬二十五人二十五疋(ひき)以外には継立(つぎた)てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたい。そのことに平助と半蔵とは申し合わせをしたのであった。


 時も時だ。西にはすでに大和(やまと)五条の乱があり、続いて生野銀山(いくのぎんざん)の乱があり、それがようやくしずまったかと思うと、今度は東の筑波山(つくばさん)の方に新しい時代の来るのを待ち切れないような第三の烽火(のろし)が揚がった。尊王攘夷(そんのうじょうい)を旗じるしにする一部の水戸の志士はひそかに長州と連絡を執り、四月以来反旗をひるがえしているが、まだその騒動もしずまらない時だ。
 両国をさして帰って行く平助を送りながら、半蔵は一緒に相生町(あいおいちょう)の家を出た。不自由な旅の身で、半蔵には郷里の方から届く手紙のことが気にかかっていた。十一屋まで平助と一緒に歩いて、そのことを隠居によく頼みたいつもりで出た。
「平助さん、筑波(つくば)が見えますよ。」
 半蔵は長い両国橋の上まで歩いて行った時に言った。
「あれが筑波ですかね。」
 と言ったぎり、平助も口をつぐんだ。水戸はどんなに騒いでいるだろうかとも、江戸詰めの諸藩の家中や徳川の家の子郎党なぞはどんな心持ちで筑波の方を望みながらこの橋を渡るだろうかとも、そんな話は出なかった。ただただ平助は昔風の庄屋気質(しょうやかたぎ)から、半蔵と共に旅の心配を分(わか)つのほかはなかった。
 その時、半蔵は向こうから橋を渡って帰って来る二人連れの女の子にもあった。その一人は相生町の家の娘だ。清元(きよもと)の師匠のもとからの帰りででもあると見えて、二人とも稽古本(けいこぼん)を小脇(こわき)にかかえながら橋を渡って来る。ちょうど半蔵が郷里の馬籠の家に残して置いて来たお粂(くめ)を思い出させるような年ごろの小娘たちだ。
「半蔵さん、相生町にはあんな子供があるんですか。」
 と平助が言っているところへ、一人の方の女の子が近づいて来て、半蔵にお辞儀をして通り過ぎた。後ろ姿もかわいらしい。男の子のように結った髪のかたちから、さっぱりとした浴衣(ゆかた)に幅の狭い更紗(さらさ)の帯をしめ、後ろにたれ下がった浅黄(あさぎ)の付け紐(ひも)を見せたところまで、ちょっと女の子とは見えない。小娘ではありながら男の子の服装だ。その異様な風俗がかえってなまめかしくもある。
「へえ、あれが女の子ですかい。わたしは男の子かとばかり思った。」と平助が笑う。
「でしょう。何かの願掛(がんが)けで、親たちがわざとあんな男の子の服装(なり)をさせてあるんだそうです。」
 そう答えながら、半蔵の目はなおも歩いて行く小娘たちの後ろ姿を追った。連れだって肩を並べて行く一人の方の女の子は、髪をお煙草盆(たばこぼん)というやつにして、渦巻(うずま)きの浴衣に紅(あか)い鹿(か)の子(こ)の帯を幅狭くしめたのも、親の好みをあらわしている。巾着(きんちゃく)もかわいらしい。
「都に育つ子供は違いますね。」
 それを半蔵が言って、平助と一緒に見送った。
 十一屋の隠居は店先にいた。格子戸(こうしど)のなかで、旅籠屋(はたごや)らしい掛け行燈(あんどん)を張り替えていた。頼む用事があって来た半蔵を見ると、それだけでは済まさせない。毎年五月二十八日には浅草川(あさくさがわ)の川開きの例だが、その年の花火には日ごろ出入りする屋敷方の御隠居をも若様をも迎えることができなかったと言って見せるのはこの隠居だ。遠くは水神(すいじん)、近くは首尾(しゅび)の松あたりを納涼の場所とし、両国を遊覧の起点とする江戸で、柳橋につないである多くの屋形船(やかたぶね)は今後どうなるだろうなどと言って見せるのもこの人だ。川一丸、関東丸、十一間丸などと名のある大船を水に浮かべ、舳先(へさき)に鎗(やり)を立てて壮(さか)んな船遊びをしたという武家全盛の時代を引き合いに出さないまでも、船屋形の両辺を障子で囲み、浅草川に暑さを避けに来る大名旗本の多かったころには、水に流れる提灯(ちょうちん)の影がさながら火の都鳥であったと言って見せるのもこの話し好きの人だ。
「半蔵さん、まあ話しておいでなさるさ。」
 と平助も二階へ上がらずにいて、半蔵と一緒にその店先でしばらく旅らしい時を送ろうとしていた。その時、隠居は思い出したように、
「青山さん、あれから宮川先生もどうなすったでしょう。浜の貿易にはあの先生もしっかりお儲(もう)けでございましたろうねえ。なんでも一駄(だ)もあるほどの小判(こばん)を馬につけまして、宰領の衆も御一緒で、中津川へお帰りの時も手前どもから江戸をお立ちになりましたよ。」
 これには半蔵も答えられなかった。彼は忘れがたい旧師のことを一時の浮沈(うきしずみ)ぐらいで一口に言ってしまいたくなかった。ただあの旧師が近く中津川を去って、伊勢(いせ)の方に晩年を送ろうとしている人であることをうわさするにとどめていた。
「横浜貿易と言えば、あれにはずいぶん祟(たた)られた人がある。」と言うのは平助だ。「中津川あたりには太田の陣屋へ呼び出されて、尾州藩から閉門を仰せ付けられた商人もあるなんて、そんな話じゃありませんか。お灸(きゅう)だ。もうけ過ぎるからでさ。」
「万屋(よろずや)さんもどうなすったでしょう。」と隠居が言う。
「万屋さんですか。」と半蔵は受けて、「あの人はぐずぐずしてやしません。横浜の商売も生糸(きいと)の相場が下がると見ると、すぐに見切りをつけて、今度は京都の方へ目をつけています。今じゃ上方(かみがた)へどんどん生糸の荷を送っているでしょうよ。」
「どうも美濃(みの)の商人にあっちゃ、かなわない。中津川あたりにはなかなか勇敢な人がいますね。」と平助が言って見せる。
「宮川先生で思い出しました。」と隠居は言った。「手前が喜多村瑞見(きたむらずいけん)というかたのお供をして、一度神奈川の牡丹屋(ぼたんや)にお訪(たず)ねしたことがございました。青山さんは御存じないかもしれませんが、この喜多村先生がまた変わり物と来てる。元は幕府の奥詰(おくづめ)のお医者様ですが、開港当時の函館(はこだて)の方へ行って長いこと勤めていらっしゃるうちに、士分に取り立てられて、間もなく函館奉行の組頭でさ。今じゃ江戸へお帰りになって、昌平校(しょうへいこう)の頭取(とうどり)から御目付(監察)に出世なすった。外交掛(がか)りを勤めておいでですが、あの調子で行きますと今に外国奉行でしょう。手前もこんな旅籠屋渡世(はたごやとせい)をして見ていますが、あんなに出世をなすったかたもめずらしゅうございます。」
「徳川幕府に人がないでもありませんかね。」
 この平助のトボケた調子に、隠居も笑い出した、外国貿易に、開港の結果に、それにつながる多くの人の浮沈(うきしずみ)に、聞いている半蔵には心にかかることばかりであった。
 その日から、半蔵は両国橋の往(い)き還(かえ)りに筑波山(つくばさん)を望むようになった。関東の平野の空がなんとなく戦塵(せんじん)におおわれて来たことは、それだけでも役人たちの心を奪い、お役所の事務を滞らせ、したがって自分らの江戸滞在を長引かせることを恐れた。時には九十六間(けん)からある長い橋の上に立って、木造の欄干に倚(よ)りかかりながら丑寅(うしとら)の方角に青く光る遠い山を望んだ。どんな暑苦しい日でも、そこまで行くと風がある。目にある隅田川(すみだがわ)も彼には江戸の運命と切り離して考えられないようなものだった。どれほどの米穀を貯(たくわ)え、どれほどの御家人旗本を養うためにあるかと見えるような御蔵(おくら)の位置はもとより、両岸にある形勝の地のほとんど大部分も武家のお下屋敷で占められている。おそらく百本杭(ひゃっぽんぐい)は河水の氾濫(はんらん)からこの河岸(かし)や橋梁(きょうりょう)を防ぐ工事の一つであろうが、大川橋(今の吾妻橋(あずまばし))の方からやって来る隅田川の水はあだかも二百何十年の歴史を語るかのように、その百本杭の側に最も急な水勢を見せながら、両国の橋の下へと渦(うず)巻き流れて来ていた。


 三人の庄屋が今度の江戸出府を機会に嘆願を持ち出したのは、理由のないことでもない。早い話が参覲交代制度の廃止は上から余儀なくされたばかりでなく、下からも余儀なくされたものである。たといその制度の復活が幕府の頽勢(たいせい)を挽回(ばんかい)する上からも、またこの深刻な不景気から江戸を救う上からも幕府の急務と考えられて来たにもせよ、繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が旧のままであったら、そのために苦しむものは地方の人民であったからで。
 しかし、道中奉行の協議中、協議中で、庄屋側からの願いの筋も容易にはかどらなかった。半蔵らは江戸の町々に山王社(さんのうしゃ)の祭礼の来るころまで待ち、月を越えて将軍が天璋院(てんしょういん)や和宮様(かずのみやさま)と共に新たに土木の落成した江戸城西丸へ田安御殿(たやすごてん)の方から移るころまで待った。
 七月の二十日ごろまで待つうちに、さらに半蔵らの旅を困難にすることが起こった。
「長州様がいよいよ御謀反(ごむほん)だそうな。」
 そのうわさは人の口から口へと伝わって行くようになった。早乗りの駕籠(かご)は毎日幾立(いくたて)となく町へ急いで来て、京都の方は大変だと知らせ、十九日の昼時に大筒(おおづつ)鉄砲から移った火で洛中(らくちゅう)の町家の大半は焼け失(う)せたとのうわさをすら伝えた。半蔵が十一屋まで行って幸兵衛や平助と一緒になり、さらに三人連れだって殺気のあふれた町々を浅草橋の見附(みつけ)から筋違(すじかい)の見附まで歩いて行って見たのは二十三日のことであったが、そこに人だかりのする高札場(こうさつば)にはすでに長州征伐のお触(ふ)れ書(しょ)が掲げられていた。
 七月二十九日はちょうど二百十日の前日にあたる。半蔵は他の二人(ふたり)の庄屋と共に、もっと京都の方の事実を確かめたいつもりで、東片町(ひがしかたまち)の屋敷に木曾福島の山村氏が家中衆を訪(たず)ねた。そこでは京都まで騒動聞き届け役なるものを仰せ付けられた人があって、その前夜にわかに屋敷を出立したという騒ぎだ。京都合戦の真相もほぼその屋敷へ行ってわかった。確かな書面が名古屋のお留守居からそこに届いていて、長州方の敗北となったこともわかった。
 その時になって見ると、長州征伐の命令が下ったばかりでなく、松平大膳太夫(まつだいらだいぜんのだゆう)ならびに長門守(ながとのかみ)は官位を剥(は)がれ、幕府より与えられた松平姓と将軍家御諱(おんいみな)の一字をも召し上げられた。長防両国への物貨輸送は諸街道を通じてすでに堅く禁ぜられていた。
 ある朝、暁(あけ)の七つ時とも思われるころ。半蔵は本所相生町(ほんじょあいおいちょう)の家の二階に目をさまして、半鐘の音を枕(まくら)の上で聞いた。火事かと思って、彼は起き出した。まず二階の雨戸を繰って見ると、別に煙らしいものも目に映らない。そのうちに寝衣(ねまき)のままで下から梯子段(はしごだん)をのぼって来たのはその家の亭主(ていしゅ)多吉だ。
「火事はどこでございましょう。」
 という亭主と一緒に、半蔵はその二階から物干し場に登った。家々の屋根がそこから見渡される。付近に火の見のある家は、高い屋根の上に登って、町の空に火の手の揚がる方角を見さだめようとするものもある。
「青山さん、表が騒がしゅうございますよ。」
 と下から呼ぶ多吉がかみさんの声もする。半蔵と亭主はそれを聞きつけて、二階から降りて見た。
 多くの人は両国橋の方角をさして走った。半蔵らが橋の畔(たもと)まで急いで行って見た時は、本所方面からの鳶(とび)の者の群れが刺子(さしこ)の半天に猫頭巾(ねこずきん)で、手に手に鳶口(とびぐち)を携えながら甲高(かんだか)い叫び声を揚げて繰り出して来ていた。組の纏(まとい)が動いて行ったあとには、消防用の梯子(はしご)が続いた。革羽織(かわばおり)、兜頭巾(かぶとずきん)の火事装束(しょうぞく)をした人たちはそれらの火消し人足を引きつれて半蔵らの目の前を通り過ぎた。
 長州屋敷の打ち壊(こわ)しが始まったのだ。幕府はおのれにそむくものに対してその手段に出た。江戸じゅうの火消し人足が集められて、まず日比谷(ひびや)にある毛利家(もうりけ)の上屋敷が破壊された。かねて長州方ではこの事のあるのを予期してか、あるいは江戸を見捨てるの意味よりか、先年諸大名の家族が江戸屋敷から解放されて国勝手(くにがって)の命令が出たおりに、日比谷にある長州の上屋敷では表奥(おもておく)の諸殿を取り払ったから、打ち壊されたのは四方の長屋のみであった。麻布龍土町(あざぶりゅうどちょう)の中屋敷、俗に長州の檜屋敷(ひのきやしき)と呼ぶ方にはまだ土蔵が二十か所もあって、広大な建物も残っていた。打ち壊しはそこでも始まった。大きな柱は鋸(のこぎり)や斧(おの)で伐(き)られ、それに大綱を鯱巻(しゃちま)きにして引きつぶされた。諸道具諸書物の類(たぐい)は越中島で焼き捨てられ、毛利家の定紋(じょうもん)のついた品はことごとくふみにじられた。


 やがて京都にある友人景蔵からのめずらしい便(たよ)りが、両国米沢町(よねざわちょう)十一屋あてで、半蔵のもとに届くようになった。あの年上の友人が安否のほども気づかわれていた時だ。彼は十一屋からそれを受け取って来て、相生町の二階でひらいて見た。
 とりあえず彼はその手紙に目を通して、あの友人も無事、師鉄胤(かねたね)も無事、京都にある平田同門の人たちのうち下京(しもぎょう)方面のものは焼け出されたが幸いに皆無事とあるのを確かめた。さらに彼は繰り返し読んで見た。
 相変わらず景蔵の手紙はこまかい。過ぐる年の八月十七日の政変に、王室回復の志を抱(いだ)く公卿(くげ)たち、および尊攘派(そんじょうは)の志士たちと気脈を通ずる長州藩が京都より退却を余儀なくされたことを思えば、今日この事のあるのは不思議もないとして、七月十九日前後の消息を伝えてある。
 池田屋の変は六月五日の早暁のことであった。守護職、所司代(しょしだい)、および新撰組(しんせんぐみ)の兵はそこに集まる諸藩の志士二十余名を捕えた。尊攘派の勢力を京都に回復し、会津(あいづ)と薩摩(さつま)との支持する公武合体派の本拠を覆(くつがえ)し、筑波山(つくばさん)の方に拠(よ)る一派の水戸の志士たちとも東西相呼応して事を挙(あ)げようとしたそれらの種々の計画は、与党の一人(ひとり)なる近江人(おうみじん)の捕縛より発覚せらるるに至った。この出来事があってから、長州方はもはや躊躇(ちゅうちょ)すべきでないとし、かねて準備していた挙兵上京の行動に移り、それを探知した幕府方もようやく伏見、大津の辺を警戒するようになった。守護職松平容保(かたもり)のにわかな参内(さんだい)と共に、九門の堅くとざされたころは、洛中の物情騒然たるものがあった。七月十八日には三道よりする長州方の進軍がすでに開始されたとの報知(しらせ)が京都へ伝わった。夜が明けて十九日となると、景蔵は西の蛤御門(はまぐりごもん)、中立売御門(なかだちうりごもん)の方面にわくような砲声を聞き、やがて室町(むろまち)付近より洛中に延焼した火災の囲みの中にいたとある。
 今度の京都の出来事を注意して見るものには、長州藩に気脈を通じていて、しかも反覆常なき二、三藩のあったことも見のがせない事実であり、堂上にはまた、この計画に荷担して幕府に反対し併(あわ)せて公武合体派を排斥しようとする有栖川宮(ありすがわのみや)をはじめ、正親町(おおぎまち)、日野、石山その他の公卿たちがあったことも見のがせない、と景蔵は言っている。烈風に乗じて火を内裏(だいり)に放ち、中川宮および松平容保の参内を途中に要撃し、その擾乱(じょうらん)にまぎれて鸞輿(らんよ)を叡山(えいざん)に奉ずる計画のあったことも知らねばならないと言ってある。流れ丸(だま)はしばしば飛んで宮中の内垣(うちがき)に及んだという。板輿(いたこし)をお庭にかつぎ入れて帝(みかど)の御動座を謀(はか)りまいらせるものがあったけれども、一橋慶喜はそれを制(おさ)えて動かなかったという。なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名(くわな)の護(まも)るところであったからで。皇居の西南には樟(くす)の大樹がある。築地(ついじ)を楯(たて)とし家を砦(とりで)とする戦闘はその樹(き)の周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えたけれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。
 この市街戦はその日未(ひつじ)の刻(こく)の終わりにわたった。長州方は中立売(なかだちうり)、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは巳(み)の刻(こく)のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川(たかせがわ)から西は堀川(ほりかわ)に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものを負(おぶ)った男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったと認(したた)めてある。
 しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉(まきいずみ)の死も報じてある。弘化(こうか)安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳(うた)われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者(こすいしゃ)は自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂(くさか)、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。
 この真木和泉の死について、景蔵の所感もその手紙の中に書き添えてある。尊王と攘夷との一致結合をねらい、それによって世態の変革を促そうとした安政以来の志士の運動は、事実においてその中心の人物を失ったとも言ってある。平田門人としての自分らは――ことに後進な自分らは、彼真木和泉が生涯(しょうがい)を振り返って見て、もっと自分らの進路を見さだむべき時に到達したと言ってある。
 半蔵はその手紙で、中津川の友人香蔵がすでに京都にいないことを知った。その手紙をくれた景蔵も、ひとまず長い京都の仮寓(かぐう)を去って、これを機会に中津川の方へ引き揚げようとしていることを知った。


 真木和泉の死を聞いたことは、半蔵にもいろいろなことを考えさせた。景蔵の手紙にもあるように、対外関係のことにかけては硬派中の硬派とも言うべき真木和泉らのような人たちも、もはやこの世にいなかった。生前幕府の軟弱な態度を攻撃することに力をそそぎ、横浜鎖港(さこう)の談判にも海外使節の派遣にもなんら誠意の見るべきものがないとし、将軍の名によって公布された幕府の攘夷もその実は名のみであるとしたそれらの志士たちも京都の一戦を最後にして、それぞれ活動の舞台から去って行った。
 これに加えて、先年五月以来の長州藩が攘夷の実行は豊前(ぶぜん)田(た)の浦(うら)におけるアメリカ商船の砲撃を手始めとして、下(しも)の関(せき)海峡を通過する仏国軍艦や伊国軍艦の砲撃となり、その結果長州では十八隻から成る英米仏蘭四国連合艦隊の来襲を受くるに至った。長州の諸砲台は多く破壊せられ、長藩はことごとく撃退せられ、下の関の市街もまたまさに占領せらるるばかりの苦(にが)い経験をなめたあとで、講和の談判はどうやら下の関から江戸へ移されたとか、そんな評判がもっぱら人のうわさに上るころである。開港か、攘夷か。それは四艘(そう)の黒船が浦賀の久里(くり)が浜(はま)の沖合いにあらわれてから以来の問題である。国の上下をあげてどれほど深刻な動揺と狼狽(ろうばい)と混乱とを経験して来たかしれない問題である。一方に攘夷派を頑迷(がんめい)とののしる声があれば、一方に開港派を国賊とののしり返す声があって、そのためにどれほどの犠牲者を出したかもしれない問題である。英米仏蘭四国を相手の苦い経験を下の関になめるまで、攘夷のできるものと信じていた人たちはまだまだこの国に少なくなかった。好(よ)かれ悪(あ)しかれ、実際に行なって見て、初めてその意味を悟ったのは、ひとり長州地方の人たちのみではなかった。その時になって見ると、全国を通じてあれほどやかましかった多年の排外熱も、ようやく行くところまで行き尽くしたかと思わせる。

       三

 とうとう、半蔵は他の庄屋たちと共に、道中奉行からの沙汰(さた)を九月末まで待った。奉行から話のあった仕訳書上帳(しわけかきあげちょう)の郷里から届いたのも差し出してあり、木曾十一宿総代として願書も差し出してあって、半蔵らはかわるがわる神田橋(かんだばし)外の屋敷へ足を運んだが、そのたびに今すこし待て、今すこし待てと言われるばかり。両国十一屋に滞在する平助も、幸兵衛もしびれを切らしてしまった。こんな場合に金を使ったら、尾州あたりの留守居役を通しても、もっとてきぱき運ぶ方法がありはしないかなどと謎(なぞ)をかけるものがある。そんな無責任な人の言うことが一層半蔵をさびしがらせた。
「さぞ、御退屈でしょう。」
 と言って相生町(あいおいちょう)の家の亭主(ていしゅ)が深川の米問屋へ出かける前に、よく半蔵を見に来る。四か月も二階に置いてもらううちに、半蔵はこの人を多吉さんと呼び、かみさんをお隅(すみ)さんと呼び、清元(きよもと)のけいこに通(かよ)っている小娘のことをお三輪(みわ)さんと呼ぶほどの親しみを持つようになった。
「青山さん、宅じゃこんな勤めをしていますが、たまにお暇(ひま)をもらいまして、運座(うんざ)へ出かけるのが何よりの楽しみなんですよ。ごらんなさい、わたしどもの家には白い団扇(うちわ)が一本も残っていません。一夏もたって見ますと、どの団扇にも宅の発句(ほっく)が書き散らしてあるんですよ。」
 お隅がそれを半蔵に言って見せると、多吉は苦笑(にがわら)いして、矢立てを腰にすることを忘れずに深川米の積んである方へ出かけて行くような人だ。
 筑波(つくば)の騒動以来、関東の平野の空も戦塵(せんじん)におおわれているような時に、ここには一切の争いをよそにして、好きな俳諧(はいかい)の道に遊ぶ多吉のような人も住んでいた。生まれは川越(かわごえ)で、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲(かよく)と商法の手違いとから、この多吉が古い暖簾(のれん)も畳(たた)まねばならなくなった時、かみさんはまた、草鞋(わらじ)ばき尻端折(しりはしょ)りになって「おすみ団子(だんご)」というものを売り出したこともあり、一家をあげて江戸に移り住むようになってからは、夫(おっと)を助けてこの都会に運命を開拓しようとしているような健気(けなげ)な婦人だ。
 そういうかみさんはまだ半蔵が妻のお民と同年ぐらいにしかならない。半蔵はこの婦人の顔を見るたびに、郷里の本陣の方に留守居するお民を思い出し、都育ちのお三輪の姿を見るたびに、母親のそばで自分の帰国を待ち受けている娘のお粂(くめ)を思い出した。徳川の代ももはや元治年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱とし、何を力として生きて行くだろうか。そう思って半蔵がこの宿のかみさんを見ると、お隅は正直ということをその娘に教え、それさえあればこの世にこわいもののないことを言って聞かせ、こうと彼女が思ったことに決して間違った例(ためし)のないのもそれは正直なおかげだと言って、その女の一心にまだ幼いお三輪を導こうとしている。
「青山さん、あなたの前ですが、青表紙(あおびょうし)の二枚や三枚読んで見たところで、何の役にも立ちますまいねえ。」
「どうもおかみさんのような人にあっちゃ、かないませんよ。」
 この家へは、亭主が俳友らしい人たちも訪(たず)ねて来れば、近くに住む相撲(すもう)取りも訪ねて来る。かみさんを力にして、酒の席を取り持つ客商売から時々息抜きにやって来るような芸妓(げいぎ)もある。かみさんとは全く正反対な性格で、男から男へと心を移すような女でありながら、しかもかみさんとは一番仲がよくて、気持ちのいいほど江戸の水に洗われたような三味線(しゃみせん)の師匠もよく訪ねて来る。
 お隅は言った。
「不景気、不景気でも、芝居(しばい)ばかりは大入りですね。春の狂言なぞはどこもいっぱい。どれ――青山さんに、猿若町(さるわかちょう)の番付(ばんづけ)をお目にかけて。」
 相生町ではこの調子だ。
 六月の江戸出府以来、四月近くもむなしく奉行の沙汰(さた)を待つうちに、旅費のかさむことも半蔵には気が気でなかった。東片町(ひがしかたまち)にある山村氏の屋敷には、いろいろな家中衆もいるが、木曾福島の田舎侍(いなかざむらい)とは大違いで、いずれも交際上手(じょうず)な人たちばかり。そういう人たちがよく半蔵を誘いに来て、広小路(ひろこうじ)にかかっている松本松玉(まつもとしょうぎょく)の講釈でもききに行こうと言われると、帰りには酒のある家へ一緒に付き合わないわけにいかない。それらの人たちへの義理で、幸兵衛や平助と共にある屋敷へ招かれ、物数奇(ものずき)な座敷へ通され、薄茶(うすちゃ)を出されたり、酒を出されたり、江戸の留守居とも思われないような美しい女まで出されて取り持たれると、どうしても一人前につき三分(ぶ)ぐらいの土産(みやげ)を持参しなければならない。半蔵は国から持って来た金子(きんす)も払底(ふってい)になった。もっとも、多吉方ではむだな金を使わせるようなことはすこしもなく、食膳(しょくぜん)も質素ではあるが朔日(ついたち)十五日には必ず赤の御飯をたいて出すほど家族同様な親切を見せ、かみさんのお隅(すみ)がいったん引き受けた上は、どこまでも世話をするという顔つきでいてくれたが。こんなに半蔵も長逗留(ながとうりゅう)で、追い追いと懐(ふところ)の寒くなったところへ、西の方からは尾張(おわり)の御隠居を総督にする三十五藩の征長軍が陸路からも海路からも山口の攻撃に向かうとのうわさすら伝わって来た。


 この長逗留の中で、わずかに旅の半蔵を慰めたのは、国の方へ求めて行きたいものもあるかと思って本屋をあさったり、江戸にある平田同門の知人を訪(たず)ねたり、時には平田家を訪ねてそこに留守居する師鉄胤(かねたね)の家族を見舞ったりすることであった。しかしそれにも増して彼が心を引かれたのは多吉夫婦で、わけてもかみさんのお隅のような目の光った人を見つけたことであった。
 江戸はもはや安政年度の江戸ではなかった。文化文政のそれではもとよりなかった。十年前の江戸の旅にはまだそれでも、紙、織り物、象牙(ぞうげ)、玉(ぎょく)、金属の類(たぐい)を応用した諸種の工芸の見るべきものもないではなかったが、今は元治年代を誇るべき意匠とてもない。半蔵はよく町々の絵草紙問屋(えぞうしどんや)の前に立って見るが、そこで売る人情本や、敵打(かたきう)ちの物語や、怪談物なぞを見ると、以前にも増して書物としての形も小さく、紙質も悪(あ)しく、版画も粗末に、一切が実に手薄(てうす)になっている。相変わらずさかんなのは江戸の芝居でも、怪奇なものはますます怪奇に、繊細なものはますます繊細だ。とがった神経質と世紀末の機知とが淫靡(いんび)で頽廃(たいはい)した色彩に混じ合っている。
 この江戸出府のはじめのころには、半蔵はよくそう思った。江戸の見物はこんな流行を舞台の上に見せつけられて、やり切れないような心持ちにはならないものかと。あるいは藍微塵(あいみじん)の袷(あわせ)、格子(こうし)の単衣(ひとえ)、豆絞りの手ぬぐいというこしらえで、贔屓(ひいき)役者が美しいならずものに扮(ふん)しながら舞台に登る時は、いよすごいぞすごいぞと囃(はや)し立てるような見物ばかりがそこにあるのだろうかと。四月も江戸に滞在して、いろいろな人にも交際して見るうちに、彼はこの想像がごく表(うわ)ッ面(つら)なものでしかなかったことを知るようになった。
 よく見れば、この頽廃(たいはい)と、精神の無秩序との中にも、ただただその日その日の刺激を求めて明日(あす)のことも考えずに生きているような人たちばかりが決して江戸の人ではなかった。相生町のかみさんのように、婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかった名もない町人の妻ですら、世の移り変わりを舞台の上にながめ、ふとした場面から時の感じを誘われると、人の泣かないようなことに泣けてしかたがないとさえ言っている。うっかり連中の仲間入りをして芝居見物には出かけられないと言っている。
 当時の武士でないものは人間でないような封建社会に、従順ではあるが決して屈してはいない町人をそう遠いところに求めるまでもなく、高い権威ぐらいに畏(おそ)れないものは半蔵のすぐそばにもいた。背は高く、色は白く、目の光も強く生まれついたかわりに、白粉(おしろい)一つつけたこともなくて、せっせと台所に働いているような相生町の家のかみさんには、こんな話もある。彼女の夫がまだ大きな商家の若主人として川越(かわごえ)の方に暮らしていたころのことだ。当時、お国替(くにが)えの藩主を迎えた川越藩では、きびしいお触れを町家に回して、藩の侍に酒を売ることを禁じた。百姓町人に対しては実にいばったものだという川越藩の新しい侍の中には、長い脇差(わきざし)を腰にぶちこんで、ある日の宵(よい)の口ひそかに多吉が家の店先に立つものがあった。ちょうど多吉は番頭を相手に、その店先で将棋をさしていた。いきなり抜き身の刀を突きつけて酒を売れという侍を見ると、多吉も番頭もびっくりして、奥へ逃げ込んでしまった。そのころのお隅(すみ)は十八の若さであったが、侍の前に出て、すごい権幕(けんまく)をもおそれずにきっぱりと断わった。先方は怒(おこ)るまいことか。そこへ店の小僧が運んで来た行燈(あんどん)をぶち斬(き)って見せ、店先の畳にぐざと刀を突き立て、それを十文字に切り裂いて、これでも酒を売れないかと威(おど)しにかかった。なんと言われても城主の厳禁をまげることはできないとお隅が答えた時に、その侍は彼女の顔をながめながら、「そちは、何者の娘か」と言って、やがて立ち去ったという話もある。
「江戸はどうなるでしょう。」
 半蔵は十一屋の二階の方に平助を見に行った時、腹下しの気味で寝ている連れの庄屋にそれを言った。平助は半蔵の顔を見ると、旅の枕(まくら)もとに置いてある児童の読本(よみほん)でも読んでくれと言った。幸兵衛も長い滞在に疲れたかして、そのそばに毛深い足を投げ出していた。


 ようやく十月の下旬にはいって、三人の庄屋は道中奉行からの呼び出しを受けた。都筑駿河(つづきするが)の役宅には例の徒士目付(かちめつけ)が三人を待ち受けていて、しばらく一室に控えさせた後、訴え所(じょ)の方へ呼び込んだ。
「ただいま駿河守は登城中であるから、自分が代理としてこれを申し渡す。」
 この挨拶(あいさつ)が公用人からあって、十一宿総代のものは一通の書付を読み聞かせられた。それには、定助郷(じょうすけごう)嘆願の趣ももっともには聞こえるが、よくよく村方の原簿をお糺(ただ)しの上でないと、容易には仰せ付けがたいとある。元来定助郷は宿駅の常備人馬を補充するために、最寄(もよ)りの村々へ正人馬勤(しょうじんばづと)めを申し付けるの趣意であるから、宿駅への距離の関係をよくよく調査した上でないと、定助郷の意味もないとある。しかし三人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるから、十一宿救助のお手当てとして一宿につき金三百両ずつを下し置かれるとある。ただし、右はお回(まわ)し金(きん)として、その利息にて年々各宿の不足を補うように心得よともある。別に、三人は請書(うけしょ)を出せと言わるる三通の書付をも公用人から受け取った。それには十一宿あてのお救いお手当て金下付のことが認(したた)めてあって、駿河(するが)佐渡(さど)二奉行の署名もしてある。
 木曾地方における街道付近の助郷が組織を完備したいとの願いは、ついにきき入れられなかった。三人の庄屋は定助郷設置のかわりに、そのお手当てを許されただけにも満足しなければならなかった。その時、庄屋方から差し出してあった人馬立辻帳(じんばたてつじちょう)、宿勘定仕訳帳等の返却を受けて、そんなことで屋敷から引き取った。
「どうも、こんな膏薬(こうやく)をはるようなやり方じゃ、これから先のことも心配です。」
 両国の十一屋まで三人一緒に戻(もど)って来た時、半蔵はそれを言い出したが、心中の失望は隠せなかった。
「半蔵さんはまだ若い。」と幸兵衛は言った。「まるきりお役人に誠意のないものなら、一文(もん)だってお手当てなぞの下がるもんじゃありません。」
「まあ、まあ、これくらいのところで、早く国の方へ引き揚げるんですね――長居は無用ですよ。」
 平助は平助らしいことを言った。
 ともかくも、地方の事情を直接に道中奉行の耳に入れただけでも、十一宿総代として江戸へ呼び出された勤めは果たした。請書(うけしょ)は出した。今度は帰りじたくだ。半蔵らは東片町にある山村氏の屋敷から一時旅費の融通(ゆうずう)をしてもらって、長い逗留(とうりゅう)の間に不足して来た一切の支払いを済ませることにした。ところが、東片町には何かの機会に一盃(ぱい)やりたい人たちがそろっていて、十一宿の願書が首尾よく納まったと聞くからには、とりあえず祝おう、そんなことを先方から切り出した。江戸詰めの侍たちは、目立たないところに料理屋を見立てることから、酒を置き、芸妓(げいぎ)を呼ぶことまで、その辺は慣れたものだ。半蔵とてもその席に一座して交際上手(じょうず)な人たちから祝盃(しゅくはい)をさされて見ると、それを受けないわけに行かなかったが、宿方の用事で出て来ている身には酒も咽喉(のど)を通らなかった。その日は酒盛(さかも)り最中に十月ももはや二十日過ぎらしい雨がやって来た[#「やって来た」は底本では「やった来た」]。一座六人の中には、よいきげんになっても、まだ飲み足りないという人もいた。二軒も梯子(はしご)で飲み歩いて、無事に屋敷へ帰ったかもわからないような大酩酊(めいてい)の人もいた。
 間もなく相生町(あいおいちょう)の二階で半蔵が送る終(つい)の晩も来た。出発の前日には十一屋の方へ移って他の庄屋とも一緒になる約束であったからで。その晩は江戸出府以来のことが胸に集まって来て、実に不用な雑費のみかさんだことを考え、宿方総代としてのこころざしも思うように届かなかったことを考えると、彼は眠られなかった。階下(した)でも多吉夫婦がおそくまで起きていると見えて、二人(ふたり)の話し声がぼそぼそ聞こえる。彼は枕(まくら)の上で、郷里の方の街道を胸に浮かべた。去る天保四年、同じく七年の再度の凶年で、村民が死亡したり離散したりしたために、馬籠(まごめ)のごとき峠の上の小駅ではお定めの人足二十五人を集めるにさえも、隣郷の山口村や湯舟沢村の加勢に待たねばならないことを思い出した。駅長としての彼が世話する宿駅の地勢を言って見るなら、上りは十曲峠(じっきょくとうげ)、下りは馬籠峠、大雨でも降れば道は河原のようになって、おまけに土は赤土と来ているから、嶮岨(けんそ)な道筋での継立(つぎた)ても人馬共に容易でないことを思い出した。冬春の雪道、あるいは凍り道などのおりはことに荷物の運搬も困難で、宿方役人どもをはじめ、伝馬役(てんまやく)、歩行役、七里役等の辛労は言葉にも尽くされないもののあることを思い出した。病み馬、疲れ馬のできるのも無理のないことを思い出した。郷里の方にいる時こそ、宿方と助郷村々との利害の衝突も感じられるようなものだが、遠く江戸へ離れて来て見ると、街道筋での奉公には皆同じように熱い汗を流していることを思い出した。彼は郷里の街道のことを考え、江戸を見た目でもう一度あの宿場を見うる日のことを考え、そこに働く人たちと共に武家の奉公を忍耐しようとした。


 徳川幕府の頽勢(たいせい)を挽回(ばんかい)し、あわせてこの不景気のどん底から江戸を救おうとするような参覲交代(さんきんこうたい)の復活は、半蔵らが出発以前にすでに触れ出された。
一、万石(まんごく)以上の面々ならびに交代寄合(こうたいよりあい)、参覲の年割(ねんわ)り御猶予成し下され候(そうろう)旨(むね)、去々戌年(いぬどし)仰せ出(いだ)され候ところ、深き思(おぼ)し召しもあらせられ候につき、向後(こうご)は前々(まえまえ)お定めの割合に相心得(あいこころえ)、参覲交代これあるべき旨、仰せ出さる。一、万石以上の面々ならびに交代寄合、その嫡子在国しかつ妻子国もとへ引き取り候とも勝手たるべき次第の旨、去々戌年仰せ出され、めいめい国もとへ引き取り候面々もこれあり候ところ、このたび御進発も遊ばされ候については、深き思し召しあらせられ候につき、前々の通り相心得、当地(江戸)へ呼び寄せ候よういたすべき旨、仰せ出さる。 このお触れ書の中に「御進発」とあるは、行く行く将軍の出馬することもあるべき大坂城への進発をさす。尾張大納言(おわりだいなごん)を総督にする長州征討軍の進発をさす。
 三人の庄屋には、道中奉行から江戸に呼び出され、諸大名通行の難関たる木曾地方の事情を問いただされ、たとい一時的の応急策たりとも宿駅補助のお手当てを下付された意味が、このお触れ書の発表で一層はっきりした。
 江戸は、三人の庄屋にとって、もはやぐずぐずしているべきところではなかった。
「長居は無用だ。」
 そう考えるのは、ひとり用心深い平助ばかりではなかったのだ。
 しかし、郷里の方の空も心にかかって、三人の庄屋がそこそこに江戸を引き揚げようとしたのは、彼らの滞在が六月から十月まで長引いたためばかりでもなかったのである。出発の前日、筑波(つくば)の方の水戸浪士の動静について、確かな筋へ届いたといううわさを東片町の屋敷から聞き込んで来たものもあったからで。
 出発の日には、半蔵はすでに十一屋の方に移って、同行の庄屋たちとも一緒になっていたが、そのまま江戸をたって行くに忍びなかった。多吉夫婦に別れを告げるつもりで、ひとりで朝早く両国の旅籠屋(はたごや)を出た。霜だ。まだ人通りも少ない両国橋の上に草鞋(わらじ)の跡をつけて、彼は急いで相生町の家まで行って見た。青い河内木綿(かわちもめん)の合羽(かっぱ)に脚絆(きゃはん)をつけたままで門口から訪れる半蔵の道中姿を見つけると、小娘のお三輪は多吉やお隅(すみ)を呼んだ。
「オヤ、もうお立ちですか。すっかりおしたくもできましたね。」
 と言うお隅のあとから、多吉もそこへ挨拶(あいさつ)に来る。その時、多吉はお隅に言いつけて、紺木綿の切れの編みまぜてある二足の草鞋を奥から持って来させた。それを餞別(せんべつ)のしるしにと言って、風呂敷包(ふろしきづつ)みにして半蔵の前に出した。
「これは何よりのものをいただいて、ありがたい。」
「いえ、お邪魔かもしれませんが、道中でおはきください。それでも宅が心がけまして、わざわざ造らせたものですよ。」
「多吉さんは多吉さんらしいものをくださる。」
 あわただしい中にも、半蔵は相生町の家の人とこんな言葉をかわした。
 多吉は別れを惜しんで、せめて十一屋までは見送ろうと言った。暇乞(いとまご)いして行く半蔵の後ろから、尻端(しりはし)を折りながら追いかけて来た。
「青山さん、あなたの荷物は。」
「荷物ですか。きのうのうちに馬が頼んであります。」
「それにしても、早いお立ちですね。実は吾家(うち)から立っていただきたいと思って、お隅ともその話をしていたんですけれど、連れがありなさるんじゃしかたがない。この次ぎ、江戸へお出かけになるおりもありましたら、ぜひお訪(たず)ねください。お宿はいつでもいたしますよ。」
「さあ、いつまた出かけて来られますかさ。」
「ほんとに、これも何かの御縁かと思いますね。」
 両国十一屋の方には、幸兵衛、平助の二人(ふたり)がもう草鞋(わらじ)まではいて、半蔵を待ち受けていた。頼んで置いた馬も来た。その日はお茶壺(ちゃつぼ)の御通行があるとかで、なるべく朝のうちに出発しなければならなかった。半蔵は大小二荷(か)の旅の荷物を引きまとめ、そのうち一つは琉球(りゅうきゅう)の莚包(こもづつ)みにして、同行の庄屋たちと共に馬荷に付き添いながら板橋経由で木曾街道の方面に向かった。

       四

 四月以来、筑波(つくば)の方に集合していた水戸の尊攘派(そんじょうは)の志士は、九月下旬になって那珂湊(なかみなと)に移り、そこにある味方の軍勢と合体して、幕府方の援助を得た水戸の佐幕党(さばくとう)と戦いを交えた。この湊の戦いは水戸尊攘派の運命を決した。力尽きて幕府方に降(くだ)るものが続出した。二十三日まで湊をささえていた筑波勢は、館山(たてやま)に拠(よ)っていた味方の軍勢と合流し、一筋の血路を西に求めるために囲みを突いて出た。この水戸浪士の動きかけた方向は、まさしく上州路(じょうしゅうじ)から信州路に当たっていたのである。木曾の庄屋たちが急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。
 筑波の空に揚がった高い烽火(のろし)は西の志士らと連絡のないものではなかった。筑波の勢いが大いに振(ふる)ったのは、あだかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であったと言わるる。水長二藩の提携は従来幾たびか画策せられたことであって、一部の志士らが互いに往来し始めたのは安藤老中(あんどうろうじゅう)要撃の以前にも当たる。東西相呼応して起こった尊攘派の運動は、西には長州の敗退となり、東には水戸浪士らの悪戦苦闘となった。
 湊(みなと)を出て西に向かった水戸浪士は、石神村(いしがみむら)を通過して、久慈郡大子村(くじごおりだいごむら)をさして進んだが、討手(うって)の軍勢もそれをささえることはできなかった。それから月折峠(つきおれとうげ)に一戦し、那須(なす)の雲巌寺(うんがんじ)に宿泊して、上州路に向かった。
 この一団はある一派を代表するというよりも、有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。その人数は、すくなくも九百人の余であった。水戸領内の郷校に学んだ子弟が、なんと言ってもその中堅を成す人たちであったのだ。名高い水戸の御隠居(烈公(れっこう))が在世の日、領内の各地に郷校を設けて武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組織はやや鹿児島(かごしま)の私学校に似ている。水戸浪士の運命をたどるには、一応彼らの気質を知らねばならない。


 寺がある。付近は子供らの遊び場処である。寺には閻魔(えんま)大王の木像が置いてある。その大王の目がぎらぎら光るので、子供心にもそれを水晶であると考え、得がたい宝石を欲(ほ)しさのあまり盗み取るつもりで、昼でも寂しいその古寺の内へ忍び込んだ一人(ひとり)の子供がある。木像に近よると、子供のことで手が届かない。閻魔王の膝(ひざ)に上り、短刀を抜いてその目をえぐり取り、莫大(ばくだい)な分捕(ぶんど)り品でもしたつもりで、よろこんで持ち帰った。あとになってガラスだと知れた時は、いまいましくなってその大王の目を捨ててしまったという。これが九歳にしかならない当時の水戸の子供だ。
 森がある。神社の鳥居がある。昼でも暗い社頭の境内がある。何げなくその境内を行き過ぎようとして、小僧待て、と声をかけられた一人の少年がある。見ると、神社の祭礼のおりに、服装のみすぼらしい浪人とあなどって、腕白盛(わんぱくざか)りのいたずらから多勢を頼みに悪口を浴びせかけた背の高い男がそこにたたずんでいる。浪人は一人ぽっちの旅烏(たびがらす)なので、祭りのおりには知らぬ顔で通り過ぎたが、その時は少年の素通りを許さなかった。よくも悪口雑言(あっこうぞうごん)を吐いて祭りの日に自分を辱(はずか)しめたと言って、一人と一人で勝負をするから、その覚悟をしろと言いながら、刀の柄(つか)に手をかけた。少年も負けてはいない。かねてから勝負の時には第一撃に敵を斬(き)ってしまわねば勝てるものではない、それには互いに抜き合って身構えてからではおそい。抜き打ちに斬りつけて先手を打つのが肝要だとは、日ごろ親から言われていた少年のことだ。居合(いあい)の心得は充分ある。よし、とばかり刀の下(さ)げ緒(お)をとって襷(たすき)にかけ、袴(はかま)の股立(ももだ)ちを取りながら先方の浪人を見ると、その身構えがまるで素人(しろうと)だ。掛け声勇ましくこちらは飛び込んで行った。抜き打ちに敵の小手(こて)に斬りつけた。あいにくと少年のことで、一尺八寸ばかりの小脇差(こわきざし)しか差していない。その尖端(せんたん)が相手に触れたか触れないくらいのことに先方の浪人は踵(きびす)を反(かえ)して、一目散に逃げ出した。こちらもびっくりして、抜き身の刀を肩にかつぎながら、あとも見ずに逃げ出して帰ったという。これがわずかに十六歳ばかりの当時の水戸の少年だ。
 二階がある。座敷がある。酒が置いてある。その酒楼の二階座敷の手摺(てすり)には、鎗(やり)ぶすまを造って下からずらりと突き出した数十本の抜き身の鎗がある。町奉行のために、不逞(ふてい)の徒の集まるものとにらまれて、包囲せられた二人(ふたり)の侍がそこにある。なんらの罪を犯した覚えもないのに、これは何事だ、と一人の侍が捕縛に向かって来たものに尋ねると、それは自分らの知った事ではない。足下(そっか)らを引致(いんち)するのが役目であるとの答えだ。しからば同行しようと言って、数人に護(まも)られながら厠(かわや)にはいった時、一人の侍は懐中の書類をことごとく壺(つぼ)の中に捨て、刀を抜いてそれを深く汚水の中に押し入れ、それから身軽になって連れの侍と共に引き立てられた。罪人を乗せる網の乗り物に乗せられて行った先は、町奉行所だ。厳重な取り調べがあった。証拠となるべきものはなかったが、二人とも小人目付(こびとめつけ)に引き渡された。ちょうど水戸藩では佐幕派の領袖(りょうしゅう)市川三左衛門(いちかわさんざえもん)が得意の時代で、尊攘派征伐のために筑波(つくば)出陣の日を迎えた。邸内は雑沓(ざっとう)して、侍たちについた番兵もわずかに二人のみであった。夕方が来た。囚(とら)われとなった連れの侍は仲間にささやいて言う。自分はかの反対党に敵視せらるること久しいもので、もしこのままにいたら斬(き)られることは確かである、彼らのために死ぬよりもむしろ番兵を斬りたおして逃げられるだけ逃げて見ようと思うが、どうだと。それを聞いた一人の方の侍はそれほど反対党から憎まれてもいなかったが、同じ囚われの身でありながら、行動を共にしないのは武士のなすべきことでないとの考えから、その夜の月の出ないうちに脱出しようと約束した。待て、番士に何の罪もない、これを斬るはよろしくない、一つ説いて見ようとその侍が言って、番士を一室に呼び入れた。聞くところによると水府は今非常な混乱に陥っている、これは国家危急の秋(とき)で武士の坐視(ざし)すべきでない、よって今からここを退去する、幸いに見のがしてくれるならあえてかまわないが万一職務上見のがすことはならないとあるならやむを得ない、自分らの刀の切れ味を試みることにするが、どうだ。それを言って、刀を引き寄せ、鯉口(こいぐち)を切って見せた。二人の番士はハッと答えて、平伏したまま仰ぎ見もしない。しからば御無礼する、あとの事はよろしく頼む、そう言い捨てて、侍は二人ともそこを立ち去り、庭から墻(かき)を乗り越えて、その夜のうちに身を匿(かく)したという。これが当時の水戸の天狗連(てんぐれん)だ。
 水戸人の持つこのたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられた。かつては横浜在留の外国人にも。井伊大老もしくは安藤老中のような幕府当局の大官にも。これほど敵を攻撃することにかけては身命をも賭(と)してかかるような気性(きしょう)の人たちが、もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、郷里なる水戸城の内にも見いだしたとしたら。


 水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。もとより、一般の人心は動揺し、新しい世紀もようやくめぐって来て、だれもが右すべきか左すべきかと狼狽(ろうばい)する時に当たっては、二百何十年来の旧を守って来た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。水戸はことにそれが激しかったのだ。『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世に阿(おもね)るものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館(しょうこうかん)の修史、弘道館(こうどうかん)の学問は、諸藩の学風を指導する役目を勤めた。当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾につき当たった。あの波瀾(はらん)の多い御隠居の生涯(しょうがい)がそれだ。遠く西山公(せいざんこう)以来の遺志を受けつぎ王室尊崇の念の篤(あつ)かった御隠居は、紀州や尾州の藩主と並んで幕府を輔佐する上にも人一倍責任を感ずる位置に立たせられた。この水戸の苦悶(くもん)は一方に誠党と称する勤王派の人たちを生み、一方に奸党(かんとう)と呼ばるる佐幕派の人たちを生んだ。一つの藩は裂けてたたかった。当時諸藩に党派争いはあっても、水戸のように惨酷(ざんこく)をきわめたところはない。誠党が奸党を見るのは極悪(ごくあく)の人間と心の底から信じたのであって、奸党が誠党を見るのもまたお家の大事も思わず御本家大事ということも知らない不忠の臣と思い込んだのであった。水戸の党派争いはほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあるものだと言った人もある。いわゆる誠党は天狗連(てんぐれん)とも呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。当時の水戸藩にある才能の士で、誠でないものは奸、奸でないものは誠、両派全く分かれて相鬩(あいせめ)ぎ、その中間にあるものをば柳と呼んだ。市川三左衛門をはじめ諸生党の領袖(りょうしゅう)が国政を左右する時を迎えて見ると、天狗連の一派は筑波山の方に立てこもり、田丸稲右衛門(たまるいなえもん)を主将に推し、亡(な)き御隠居の御霊代(みたましろ)を奉じて、尊攘の志を致(いた)そうとしていた。かねて幕府は水戸の尊攘派を毛ぎらいし、誠党領袖の一人なる武田耕雲斎(たけだこううんさい)と筑波に兵を挙(あ)げた志士らとの通謀を疑っていた際であるから、早速(さっそく)耕雲斎に隠居慎(いんきょつつし)みを命じ、諸生党の三左衛門らを助けて筑波の暴徒を討(う)たしめるために関東十一藩の諸大名に命令を下した。三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、水戸城に帰って簾中(れんちゅう)母公貞芳院(ていほういん)ならびに公子らを奉じ、その根拠を堅めた。これを聞いた耕雲斎らは水戸家の存亡が今日にあるとして、幽屏(ゆうへい)の身ではあるが禁を破って水戸を出発した。そして江戸にある藩主を諫(いさ)めて奸徒(かんと)の排斥を謀(はか)ろうとした。かく一藩が党派を分かち、争闘を事とし、しばらくも鎮静する時のなかったため、松平大炊頭(おおいのかみ)(宍戸侯(ししどこう))は藩主の目代(もくだい)として、八月十日に水戸の吉田に着いた。ところが、水戸にある三左衛門はこの鎮撫(ちんぶ)の使者に随行して来たものの多くが自己の反対党であるのを見、その中には京都より来た公子余四麿(よしまろ)の従者や尊攘派の志士なぞのあるのを見、大炊頭が真意を疑って、その入城を拒んだ。朋党(ほうとう)の乱はその結果であった。
 混戦が続いた。大炊頭、耕雲斎、稲右衛門、この三人はそれぞれの立場にあったが、尊攘の志には一致していた。水戸城を根拠とする三左衛門らを共同の敵とすることにも一致した。湊(みなと)の戦いで、大炊頭が幕府方の田沼玄蕃頭(たぬまげんばのかみ)に降(くだ)るころは、民兵や浮浪兵の離散するものも多かった。天狗連の全軍も分裂して、味方の陣営に火を放ち、田沼侯に降るのが千百人の余に上った。稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山(たてやま)に拠(よ)る耕雲斎の一隊に合流し、共に西に走るのほかはなかったのである。湊における諸生党の勝利は攘夷をきらっていた幕府方の応援を得たためと、形勢を観望していた土民の兵を味方につけたためであった。一方、天狗党では、幹部として相応名の聞こえた田中源蔵(げんぞう)が軍用金調達を名として付近を掠奪(りゃくだつ)し、民心を失ったことにもよると言わるるが、軍資の供給をさえ惜しまなかったという長州方の京都における敗北が水戸の尊攘派にとっての深い打撃であったことは争われない。


 西の空へと動き始めた水戸浪士の一団については、当時いろいろな取りざたがあった。行く先は京都だろうと言うものがあり、長州まで落ち延びるつもりだろうと言うものも多かった。
 しかし、これは亡(な)き水戸の御隠居を師父と仰ぐ人たちが、従二位大納言(じゅにいだいなごん)の旗を押し立て、その遺志を奉じて動く意味のものであったことを忘れてはならない。九百余人から成る一団のうち、水戸の精鋭をあつめたと言わるる筑波組は三百余名で、他の六百余名は常陸(ひたち)下野(しもつけ)地方の百姓であった。中にはまた、京都方面から応援に来た志士もまじり、数名の婦人も加わっていた。二名の医者までいた。その堅い結び付きは、実際の戦闘力を有するものから、兵糧方(ひょうろうかた)、賄方(まかないかた)、雑兵(ぞうひょう)、歩人(ぶにん)等を入れると、千人以上の人を動かした。軍馬百五十頭、それにたくさんな小荷駄(こにだ)を従えた。陣太鼓と旗十三、四本を用意した。これはただの落ち武者の群れではない。その行動は尊攘の意志の表示である。さてこそ幕府方を狼狽(ろうばい)せしめたのである。
 この浪士の中には、藤田小四郎(ふじたこしろう)もいた。亡き御隠居を動かして尊攘の説を主唱した藤田東湖(とうこ)がこの世を去ってから、その子の小四郎が実行運動に参加するまでには十一年の月日がたった。衆に先んじて郷校の子弟を説き、先輩稲右衛門を説き、日光参拝と唱えて最初から下野国大平山(しもつけのくにおおひらやま)にこもったのも小四郎であった。水戸の家老職を父とする彼もまた、四人の統率者より成る最高幹部の一人たることを失わなかった。
 高崎での一戦の後、上州下仁田(しもにた)まで動いたころの水戸浪士はほとんど敵らしい敵を見出さなかった。高崎勢は同所の橋を破壊し、五十人ばかりの警固の組で銃を遠矢に打ち掛けたまでであった。鏑川(かぶらがわ)は豊かな耕地の間を流れる川である。そのほとりから内山峠まで行って、嶮岨(けんそ)な山の地勢にかかる。朝早く下仁田を立って峠の上まで荷を運ぶに慣れた馬でも、茶漬(ちゃづ)けごろでなくては帰れない。そこは上州と信州の国境(くにざかい)にあたる。上り二里、下り一里半の極(ごく)の難場だ。千余人からの同勢がその峠にかかると、道は細く、橋は破壊してある。警固の人数が引き退いたあとと見えて、兵糧雑具等が山間(やまあい)に打ち捨ててある。浪士らは木を伐(き)り倒し、その上に蒲団(ふとん)衣類を敷き重ねて人馬を渡した。大砲、玉箱から、御紋付きの長持、駕籠(かご)までそのけわしい峠を引き上げて、やがて一同佐久(さく)の高原地に出た。
 十一月の十八日には、浪士らは千曲川(ちくまがわ)を渡って望月宿(もちづきじゅく)まで動いた。松本藩の人が姿を変えてひそかに探偵(たんてい)に入り込んで来たとの報知(しらせ)も伝わった。それを聞いた浪士らは警戒を加え、きびしく味方の掠奪(りゃくだつ)をも戒めた。十九日和田泊まりの予定で、尊攘の旗は高く山国の空にひるがえった。


[#改頁]



     第十章

       一

 和田峠の上には諏訪藩(すわはん)の斥候隊が集まった。藩士菅沼恩右衛門(すがぬまおんえもん)、同じく栗田市兵衛(くりたいちべえ)の二人(ふたり)は御取次御使番(おとりつぎおつかいばん)という格で伝令の任務を果たすため五人ずつの従者を引率して来ている。徒士目付(かちめつけ)三人、書役(かきやく)一人(ひとり)、歩兵斥候三人、おのおの一人ずつの小者を連れて集まって来ている。足軽(あしがる)の小頭(こがしら)と肝煎(きもいり)の率いる十九人の組もいる。その他には、新式の鉄砲を携えた二人の藩士も出張している。和田峠口の一隊はこれらの人数から編成されていて、それぞれ手分けをしながら斥候の任務に就(つ)いていた。
 諏訪高島の城主諏訪因幡守(いなばのかみ)は幕府閣老の一人として江戸表の方にあったが、急使を高島城に送ってよこして部下のものに防禦(ぼうぎょ)の準備を命じ、自己の領地内に水戸浪士の素通りを許すまいとした。和田宿を経て下諏訪宿に通ずる木曾街道の一部は戦闘区域と定められた。峠の上にある東餅屋(ひがしもちや)、西餅屋に住む町民らは立ち退(の)きを命ぜられた。


 こんなに周囲の事情が切迫する前、高島城の御留守居(おるすい)は江戸屋敷からの早飛脚が持参した書面を受け取った。その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速(さっそく)人数を出張させるようにとしてあった。右の峠の内には松本方面への抜け路(みち)もあるから、時宜によっては松本藩からも応援すべき心得で、万事取り計らうようにと仰せ出されたとしてあった。さてまた、甲府からも応援の人数を差し出すよう申しまいるやも知れないから、そのつもりに出兵の手配りをして置いて、中仙道(なかせんどう)はもとより甲州方面のことは万事手抜かりのないようにと仰せ出されたともしてあった。
 このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。武蔵(むさし)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、甲斐(かい)、信濃(しなの)の諸国に領地のある諸大名はもとより、相模(さがみ)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)の諸大名まで皆そのお書付を受けた。それはかなり厳重な内容のもので、筑波(つくば)辺に屯集(とんしゅう)した賊徒どものうち甲州路または中仙道(なかせんどう)方面へ多人数の脱走者が落ち行くやに相聞こえるから、すみやかに手はずして見かけ次第もらさず討(う)ち取れという意味のことが認(したた)めてあり、万一討ちもらしたら他領までも付け入って討ち取るように、それを等閑(なおざり)にしたらきっと御沙汰(ごさた)があるであろうという意味のことも書き添えてあった。同時に、幕府では三河(みかわ)、尾張(おわり)、伊勢(いせ)、近江(おうみ)、若狭(わかさ)、飛騨(ひだ)、伊賀(いが)、越後(えちご)に領地のある諸大名にまで別のお書付を回し、筑波辺の賊徒どものうちには所々へ散乱するやにも相聞こえるから、めいめいの領分はもとより、付近までも手はずをして置いて、怪しい者は見かけ次第すみやかに討(う)ち取れと言いつけた。あの湊(みなと)での合戦(かっせん)以来、水戸の諸生党を応援した参政田沼玄蕃頭(げんばのかみ)は追討総督として浪士らのあとを追って来た。幕府は一方に長州征伐の事に従いながら、大きな網を諸国に張って、一人残らず水府義士なるものを滅ぼし尽くそうとしていた。その時はまだ八十里も先から信じがたいような種々(さまざま)な風聞が諏訪藩へ伝わって来るころだ。高島城に留守居するものだれ一人として水戸浪士の来ることなぞを意(こころ)にかけるものもなかった。初めて浪士らが上州にはいったと聞いた時にも、真偽のほどは不確実(ふたしか)で、なお相去ること数十里の隔たりがあった。諏訪藩ではまだまだ心を許していた。その浪士らが信州にはいったと聞き、佐久(さく)へ来たと聞くようになると、急を知らせる使いの者がしきりに飛んで来る。にわかに城内では評定(ひょうじょう)があった。あるものはまず甲州口をふさぐがいいと言った。あるものは水戸の精鋭を相手にすることを考え、はたして千余人からの同勢で押し寄せて来たら敵しうるはずもない、沿道の諸藩が討(う)とうとしないのは無理もない、これはよろしく城を守っていて浪士らの通り過ぎるままに任せるがいい、後方(うしろ)から鉄砲でも撃ちかけて置けば公儀への御義理はそれで済む、そんなことも言った。しかし君侯は現に幕府の老中である、その諏訪藩として浪士らをそう放縦(ほしいまま)にさせて置けないと言うものがあり、大げさの風評が当てになるものでもないと言うものがあって、軽々しい行動は慎もうという説が出た。そこへ諏訪藩では江戸屋敷からの急使を迎えた。その急使は家中でも重きを成す老臣で、幕府のきびしい命令をもたらして来た。やがて水戸浪士が望月(もちづき)まで到着したとの知らせがあって見ると、大砲十五門、騎馬武者百五十人、歩兵七百余、旌旗(せいき)から輜重駄馬(しちょうだば)までがそれに称(かな)っているとの風評には一藩のものは皆顔色を失ってしまった。その時、用人の塩原彦七(しおばらひこしち)が進み出て、浪士らは必ず和田峠を越して来るに相違ない。峠のうちの樋橋(といはし)というところは、谷川を前にし、後方(うしろ)に丘陵を負い、昔時(むかし)の諏訪頼重(すわよりしげ)が古戦場でもある。高島城から三里ほどの距離にある。当方より進んでその嶮岨(けんそ)な地勢に拠(よ)り、要所要所を固めてかかったなら、敵を討(う)ち取ることができようと力説した。幸いなことには、幕府追討総督として大兵を率いる田沼玄蕃頭(げんばのかみ)が浪士らのあとを追って来ることが確かめられた。諏訪藩の家老はじめ多くのものはそれを頼みにした。和田峠に水戸浪士を追いつめ、一方は田沼勢、一方は高島勢で双方から敵を挾撃(きょうげき)する公儀の手はずであるということが何よりの力になった。一藩の態度は決した。さてこそ斥候隊の出動となったのである。
 元治(げんじ)元年十一月十九日のことで、峠の上へは朝から深い雨が来た。


 やがて和田方面へ偵察(ていさつ)に出かけて行ったものは、また雨をついて峠の上に引き返して来る。いよいよ水戸浪士がその日の晩に長窪(ながくぼ)和田両宿へ止宿のはずだという風聞が伝えられるころには、諏訪藩の物頭(ものがしら)矢島伝左衛門(でんざえもん)が九人の従者を引き連れ和田峠御境目(おさかいめ)の詰方(つめかた)として出張した。手明きの若党、鎗持(やりも)ちの中間(ちゅうげん)、草履取(ぞうりと)り、具足持(ぐそくも)ち、高張持(たかはりも)ちなぞ、なかなかものものしい。それにこの物頭(ものがしら)が馬の口を取る二人の厩(うまや)の者も随行して来た。
「敵はもう近いと思わんけりゃなりません。」
 御使番(おつかいばん)は早馬で城へ注進に行くと言って、馬上からその言葉を残した。あとの人数にも早速(さっそく)出張するようにその言伝(ことづ)てを御使番に頼んで置いて、物頭もまた乗馬で種々(さまざま)な打ち合わせに急いだ。遠い山々は隠れて見えないほどの大降りで、人も馬もぬれながら峠の上を往(い)ったり来たりした。
 物頭はまず峠の内の注連掛(しめかけ)という場所を選び、一手限(ひとてぎ)りにても防戦しうるようそこに防禦(ぼうぎょ)工事を施すことにした。その考えから、彼は人足の徴発を付近の村々に命じて置いた。小役人を連れて地利の見分にも行って来た。注連掛(しめかけ)へは大木を並べ、士居(どい)を築き、鉄砲を備え、人数を伏せることにした。大平(おおだいら)から馬道下の嶮岨(けんそ)な山の上には大木大石を集め、道路には大木を横たえ、急速には通行のできないようにして置いて、敵を間近に引き寄せてから、鉄砲で撃ち立て、大木大石を落としかけたら、たとえ多人数が押し寄せて来ても右の一手で何ほどか防ぎ止めることができよう、そのうちには追い追い味方の人数も出張するであろう、物頭はその用意のために雨中を奔走した。手を分けてそれぞれ下知(げじ)を伝えた。それを済ましたころにはもう昼時刻だ。物頭が樋橋(といはし)まで峠を降りて昼飯を認(したた)めていると、追い追いと人足も集まって来た。
 諏訪城への注進の御使番は間もなく引き返して来て、いよいよ人数の出張があることを告げた。そのうちに二十八人の番士と十九人の砲隊士の一隊が諏訪から到着した。別に二十九人の銃隊士の出張をも見た。大砲二百目玉筒(たまづつ)二挺(ちょう)、百目玉筒二挺、西洋流十一寸半も来た。その時、諏訪から出張した藩士が樋橋(といはし)上の砥沢口(とざわぐち)というところで防戦のことに城中の評議決定の旨(むね)を物頭に告げた。東餅屋、西餅屋は敵の足だまりとなる恐れもあるから、代官所へ申し渡してあるように両餅屋とも焼き払う、桟(かけはし)も取り払う、橋々は切り落とす、そんな話があって、一隊の兵と人足らは峠の上に向かった。
 ちょうど松本藩主松平丹波守(まつだいらたんばのかみ)から派遣せられた三百五十人ばかりの兵は長窪(ながくぼ)の陣地を退いて、東餅屋に集まっている時であった。もともと松本藩の出兵は追討総督田沼玄蕃頭(げんばのかみ)の厳命を拒みかねたので、沿道警備のため長窪まで出陣したが、上田藩も松代藩(まつしろはん)も小諸藩(こもろはん)も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したい旨(むね)、重役をもって、諏訪方へ交渉に来た。諏訪方としては、これは思いがけない友軍を得たわけである。早速、物頭(ものがしら)は歓迎の意を表し、及ばずながら諏訪藩では先陣を承るであろうとの意味を松本方の重役に致(いた)した。両餅屋焼き払いのこともすでに決定せられた。急げとばかり、東餅屋へは松本勢の手で火を掛け、西餅屋に控えていた諏訪方の兵は松本勢の通行が全部済むのを待って餅屋を焼き払った。
 物頭は樋橋(といはし)にいた。五、六百人からの人足を指揮して、雨中の防禦工事を急いでいた。そこへ松本勢が追い追いと峠から到着した。物頭は樋橋下の民家を三軒ほど貸し渡して松本勢の宿泊にあてた。松本方の持参した大砲は百目玉筒二挺(ちょう)、小銃五十挺ほどだ。物頭の計らいで、松本方三百五十人への一度分の弁当、白米三俵、味噌(みそ)二樽(たる)、漬(つ)け物一樽、それに酒二樽を贈った。
 樋橋付近の砦(とりで)の防備、および配置なぞは、多くこの物頭の考案により、策戦のことは諏訪藩銃隊頭を命ぜられた用人塩原彦七の方略に出た。日がな一日降りしきる強雨の中で、蓑笠(みのかさ)を着た数百人の人夫が山から大木を伐(き)り出す音だけでも周囲に響き渡った。そこには砲座を定めて木の幹を畳(たた)むものがある。ここには土居を築き土俵を積んで胸壁を起こすものがある。下諏訪(しもすわ)から運ぶ兵糧(ひょうろう)では間に合わないとあって、樋橋には役所も設けられ、炊(た)き出しもそこで始まった。この工事は夜に入って松明(たいまつ)の光で谷々を照らすまで続いた。垂木岩(たるきいわ)の桟(かけはし)も断絶せられ、落合橋(おちあいばし)も切って落とされた。村上の森のわきにあたる街道筋には篝(かがり)を焚(た)いて、四、五人ずつの番士が交代でそこに見張りをした。


 水戸浪士の西下が伝わると、沿道の住民の間にも非常な混乱を引き起こした。樋橋の山の神の砦(とりで)で浪士らをくい止める諏訪藩の思(おぼ)し召しではあるけれども、なにしろ相手はこれまで所々で数十度の実戦に臨み、場数を踏んでいる浪士らのことである、万一破れたらどうなろう。このことが沿道の住民に恐怖を抱(いだ)かせるようになった。種々(さまざま)な風評は人の口から口へと伝わった。万一和田峠に破れたら、諏訪勢は樋橋村を焼き払うだろう、下諏訪へ退いて宿内をも焼き払うだろう、高島の方へは一歩も入れまいとして下諏訪で防戦するだろう、そんなことを言い触らすものがある。その「万一」がもし事実となるとすると、下原村は焼き払われるだろう、宿内の友(とも)の町、久保(くぼ)、武居(たけい)も危(あぶ)ない、事急な時は高木大和町(たかぎやまとちょう)までも焼き払い、浪士らの足だまりをなくして防ぐべき諏訪藩での御相談だなぞと、だれが言い出したともないような風評がひろがった。
 沿道の住民はこれには驚かされた。家財は言うまでもなく、戸障子まで取りはずして土蔵へ入れるものがある。土蔵のないものは最寄(もよ)りの方へ預けると言って背負(しょ)い出すものがあり、近村まで持ち運ぶものがある。
 また、また、土蔵も残らず打ち破り家屋敷もことごとく焼き崩(くず)して浪士らの足だまりのないようにされるとの風聞が伝わった。それを聞いたものは皆大いに驚いて、一度土蔵にしまった大切な品物をまた持ち出し、穴を掘って土中に埋めるものもあれば、畑の方へ持ち出すものもある。何はともあれ、この雨天ではしのぎかねると言って、できるだけ衣類を背負(しょ)うことに気のつくものもある。人々は互いにこの混乱の渦(うず)の中に立った。乱世もこんなであろうかとは、互いの目がそれを言った。付近の老若男女はその夜のうちに山の方へ逃げ失(う)せ、そうでないものは畑に立ち退(の)いて、そこに隠れた。
 伊賀守(いがのかみ)としての武田耕雲斎を主将に、水戸家の元町奉行(もとまちぶぎょう)田丸稲右衛門を副将に、軍学に精通することにかけては他藩までその名を知られた元小姓頭取(もとこしょうとうどり)の山国兵部(やまぐにひょうぶ)を参謀にする水戸浪士の群れは、未明に和田宿を出発してこの街道を進んで来た。毎日の行程およそ四、五里。これは雑兵どもが足疲れをおそれての浪士らの動きであったが、その日ばかりは和田峠を越すだけにも上り三里の道を踏まねばならなかった。
 天気は晴れだ。朝の空には一点の雲もなかった。やがて浪士らは峠にかかった。八本の紅白の旗を押し立て、三段に別れた人数がまっ黒になってあとからあとからと峠を登った。両餅屋(もちや)はすでに焼き払われていて、その辺には一人(ひとり)の諏訪兵をも見なかった。先鋒隊(せんぽうたい)が香炉岩(こうろいわ)に近づいたころ、騎馬で進んだものはまず山林の間に四発の銃声を聞いた。飛んで来る玉は一発も味方に当たらずに、木立ちの方へそれたり、大地に打ち入ったりしたが、その音で伏兵のあることが知れた。左手の山の上にも諏訪への合図の旗を振るものがあらわれた。
 山間(やまあい)の道路には行く先に大木が横たえてある。それを乗り越え乗り越えして進もうとするもの、幾多の障害物を除こうとするもの、桟(かけはし)を繕おうとするもの、浪士側にとっては全軍のために道をあけるためにもかなりの時を費やした。間もなく香炉岩の上の山によじ登り、そこに白と紺とを染め交ぜにした一本の吹き流しを高くひるがえした味方のものがある。一方の山の上にも登って行って三本の紅(あか)い旗を押し立てるものが続いた。浪士の一隊は高い山上の位置から諏訪松本両勢の陣地を望み見るところまで達した。
 こんなに浪士側が迫って行く間に、一方諏訪勢はその時までも幕府の討伐隊を頼みにした。来る、来るという田沼勢が和田峠に近づく模様もない。もはや諏訪勢は松本勢と力を合わせ、敵として進んで来る浪士らを迎え撃つのほかはない。間もなく、峠の峰から一面に道を押し降(くだ)った浪士側は干草山(ほしくさやま)の位置まで迫った。そこは谷を隔てて諏訪勢の陣地と相距(あいへだ)たること四、五町ばかりだ。両軍の衝突はまず浪士側から切った火蓋(ひぶた)で開始された。山の上にも、谷口にも、砲声はわくように起こった。


 諏訪勢もよく防いだ。次第に浪士側は山の地勢を降り、砥沢口(とざわぐち)から樋橋(といはし)の方へ諏訪勢を圧迫し、鯨波(とき)の声を揚げて進んだが、胸壁に拠(よ)る諏訪勢が砲火のために撃退せられた。諏訪松本両藩の兵は五段の備えを立て、右翼は砲隊を先にし鎗(やり)隊をあとにした尋常の備えであったが、左翼は鎗隊を先にして、浪士側が突撃を試みるたびに吶喊(とっかん)し逆襲して来た。こんなふうにして追い返さるること三度。浪士側も進むことができなかった。
 その日の戦闘は未(ひつじ)の刻(こく)から始まって、日没に近いころに及んだが、敵味方の大小砲の打ち合いでまだ勝負はつかなかった。まぶしい夕日の反射を真面(まとも)に受けて、鉄砲のねらいを定めるだけにも浪士側は不利の位置に立つようになった。それを見て一策を案じたのは参謀の山国兵部だ。彼は道案内者の言葉で探り知っていた地理を考え、右手の山の上へ百目砲を引き上げさせ、そちらの方に諏訪勢の注意を奪って置いて、五、六十人ばかりの一隊を深沢山(ふかざわやま)の峰に回らせた。この一隊は左手の河(かわ)を渡って、松本勢の陣地を側面から攻撃しうるような山の上の位置に出た。この奇計は松本方ばかりでなく諏訪方の不意をもついた。日はすでに山に入って松本勢も戦い疲れた。その時浪士の一人(ひとり)が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。混乱はまずそこに起こった。勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、直下の敵陣をめがけて山から乱れ降(くだ)った。
 耕雲斎は砥沢口(とざわぐち)まで進出した本陣にいた。それとばかり采配(さいはい)を振り、自ら陣太鼓を打ち鳴らして、最後の突撃に移った。あたりはもう暗い。諏訪方ではすでに浮き腰になるもの、後方の退路を危ぶむものが続出した。その時はまだまだ諏訪勢の陣は堅く、樋橋に踏みとどまって頑強(がんきょう)に抵抗を続けようとする部隊もあったが、崩(くず)れはじめた全軍の足並みをどうすることもできなかった。もはや松本方もさんざんに見えるというふうで、早く退こうとするものが続きに続いた。
 とうとう、田沼玄蕃頭(げんばのかみ)は来なかった。合戦は諏訪松本両勢の敗退となった。にわかの火の手が天の一方に揚がった。諏訪方の放火だ。浪士らの足だまりをなくする意味で、彼らはその手段に出た。樋橋村の民家三軒に火を放って置いて退却し始めた。白昼のように明るく燃え上がる光の中で、諏訪方にはなおも踏みとどまろうとする勇者もあり、ただ一人元の陣地に引き返して来て二発の大砲を放つものさえあった。追撃の小競合(こぜりあ)いはそこにもここにもあった。そのうちに放火もすこし下火になって、二十日の夜の五つ時の空には地上を照らす月代(つきしろ)とてもない。敵と味方の見定めもつかないような深い闇(やみ)が総崩れに崩れて行く諏訪松本両勢を包んでしまった。
 この砥沢口の戦闘には、浪士側では十七人ほど討死(うちじに)した。百人あまりの鉄砲疵(きず)鎗疵なぞの手負いを出した。主将耕雲斎も戦い疲れたが、また味方のもの一同を樋橋に呼び集めるほど元気づいた。湊(みなと)出発以来、婦人の身でずっと陣中にある大納言(だいなごん)の簾中(れんちゅう)も無事、山国親子も無事、筑波(つくば)組の稲右衛門、小四郎、皆無事だ。一同は手分けをして高島陣地その他を松明(たいまつ)で改めた。そこの砦(とりで)、ここの胸壁の跡には、打ち捨ててある兜(かぶと)や小銃や鎗や脇差(わきざし)や、それから床几(しょうぎ)陣羽織(じんばおり)などの間に、目もあてられないような敵味方の戦死者が横たわっている。生臭(なまぐさ)い血の臭気(におい)はひしひしと迫って来る夜の空気にまじって一同の鼻をついた。
 耕雲斎は抜き身の鎗を杖(つえ)にして、稲右衛門や兵部や小四郎と共に、兵士らの間をあちこちと見て回った。戦場のならいで敵の逆襲がないとは言えなかった。一同はまたにわかに勢ぞろいして、本陣の四方を固める。その時、耕雲斎は一手の大将に命じ、味方の死骸(しがい)を改めさせ、その首を打ち落とし、思い思いのところに土深く納めさせた。深手(ふかで)に苦しむものは十人ばかりある。それも歩人(ぶにん)に下知して戸板に載せ介抱を与えた。こういう時になくてならないのは二人の従軍する医者の手だ。陣中には五十ばかりになる一人の老女も水戸から随(つ)いて来ていたが、この人も脇差を帯の間にさしながら、医者たちを助けてかいがいしく立ち働いた。
 夜もはや四つ半時を過ぎた。浪士らは味方の死骸(しがい)を取り片づけ、名のある人々は草小屋の中に引き入れて、火をかけた。その他は死骸のあるところでいささかの火をかけ、土中に埋(うず)めた。仮りの埋葬も済んだ。樋橋には敵の遺棄した兵糧や弁当もあったので、それで一同はわずかに空腹をしのいだ。激しい饑(う)え。激しい渇(かわ)き。それを癒(いや)そうためばかりにも、一同の足は下諏訪の宿へ向いた。やがて二十五人ずつ隊伍(たいご)をつくった人たちは樋橋を離れようとして、夜の空に鳴り渡る行進の法螺(ほら)の貝を聞いた。


 樋橋から下諏訪までの間には、村二つほどある。道案内のものを先に立て、松明(たいまつ)も捨て、途中に敵の待ち伏せするものもあろうかと用心する浪士らの長い行列は夜の街道に続いた。落合村まで進み、下の原村まで進んだ。もはやその辺には一人の敵の踏みとどまるものもなかった。
 合図の空砲の音と共に、浪士らの先着隊が下諏訪にはいったころは夜も深かった。敗退した諏訪松本両勢は高島城の方角をさして落ちて行ったあとで、そこにも一兵を見ない。町々もからっぽだ。浪士らは思い思いの家を見立てて、鍋釜(なべかま)から洗い米などの笊(ざる)にそのまま置き捨ててあるようなところへはいった。耕雲斎は問屋(といや)の宅に、稲右衛門は来迎寺(らいごうじ)にというふうに。町々の辻(つじ)、秋宮(あきみや)の鳥居前、会所前、湯のわき、その他ところどころに篝(かがり)が焚(た)かれた。四、五人ずつの浪士は交代で敵の夜襲を警戒したり、宿内の火の番に回ったりした。
 三百人ばかりの後陣の者は容易に下諏訪へ到着しない。今度の戦闘の遊軍で、負傷者などを介抱するのもそれらの人たちであったから、道に隙(ひま)がとれておくれるものと知れた。その間、本陣に集まる幹部のものの中にはすでに「明日」の評定がある。もともと浪士らは高島城を目がけて来たものでもない。西への進路を切り開くためにのみ、やむを得ず諏訪藩を敵として悪戦したまでだ。その夜の評定に上ったは、前途にどこをたどるべきかだ。道は二つある。これから塩尻峠(しおじりとうげ)へかかり、桔梗(ききょう)が原(はら)を過ぎ、洗馬(せば)本山(もとやま)から贄川(にえがわ)へと取って、木曾(きそ)街道をまっすぐに進むか。それとも岡谷(おかや)辰野(たつの)から伊那(いな)道へと折れるか。木曾福島の関所を破ることは浪士らの本意ではなかった。二十二里余にわたる木曾の森林の間は、嶮岨(けんそ)な山坂が多く、人馬の継立(つぎた)ても容易でないと見なされた。彼らはむしろ谷も広く間道も多い伊那の方をえらんで、一筋の血路をそちらの方に求めようと企てたのである。
 不眠不休ともいうべき下諏訪での一夜。ようやく後陣のものが町に到着して一息ついたと思うころには、本陣ではすでに夜立ちの行動を開始した。だれ一人、この楽しい湯の香のする町に長く踏みとどまろうとするものもない。一刻も早くこれを引き揚げようとして多くの中にはろくろく湯水を飲まないものさえある。
「夜盗を警戒せよ。」
 その声は、幹部のものの間からも、心ある兵士らの間からも起こった。この混雑の中で、十五、六軒ばかりの土蔵が切り破られた。だれの所業(しわざ)ともわからないような盗みが行なわれた。浪士らが引き揚げを急いでいるどさくさまぎれの中で。ほとんど無警察にもひとしい町々の暗黒の中で。
 暁(あけ)の六つ時(どき)には浪士は残らず下諏訪を出立した。平出宿(ひらでしゅく)小休み、岡谷(おかや)昼飯の予定で。あわただしく道を急ごうとする多数のものの中には、陣羽織のままで大八車(だいはちぐるま)を押して行くのもある。甲冑(かっちゅう)も着ないで馬に乗って行くのもある。負傷兵を戸板で運ぶのもある。もはや、大霜(おおしも)だ。天もまさに寒かった。

       二

 もとより浪士らは後方へ引き返すべくもない。幕府から回された討手(うって)の田沼勢は絶えず後ろから追って来るとの報知(しらせ)もある。千余人からの長い行列は前後を警戒しながら伊那の谷に続いた。
 筑波(つくば)の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真(ま)に受けた地方人民の中には、実際に浪士の一行を迎えて見て旅籠銭(はたごせん)一人前弁当用共にお定めの二百五十文ずつ払って通るのを意外とした。あるものはまた、一行と共に動いて行く金の葵紋(あおいもん)の箱、長柄(ながえ)の傘(かさ)、御紋付きの長持から、長棒の駕籠(かご)の類(たぐい)まであるのを意外として、まるで三、四十万石の大名が通行の騒ぎだと言うものもある。
 しかし、それも理のないことではない。なぜかなら、その葵紋の箱も、傘も、長持も、長棒の駕籠も、すべて水戸烈公を記念するためのものであったからで。たとい御隠居はそこにいないまでも、一行が「従二位大納言」の大旗を奉じながら動いて行くところは、生きてる人を護(まも)るとほとんど変わりがなかったからで。あの江戸駒込(こまごめ)の別邸で永蟄居(えいちっきょ)を免ぜられたことも知らずじまいにこの世を去った御隠居が生前に京都からの勅使を迎えることもできなかったかわりに、今「奉勅」と大書した旗を押し立てながら動いて行くのは、その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党のいう不忠の臣である彼らは、そこにいない御隠居にでもすがり、その人の志を彼らの志として、一歩でも遠く常陸(ひたち)のふるさとから離れようとしていたからで。
 天龍川(てんりゅうがわ)のほとりに出てからも、浪士らは武装を解こうとしなかった。いずれも鎧兜(よろいかぶと)、あるいは黒の竪烏帽子(たてえぼし)、陣羽織のいでたちである。高く掲げた紅白の旗、隊伍を区別する馬印(うまじるし)などは、馬上の騎士が携えた抜き身の鎗(やり)に映り合って、その無数の群立と集合との感じが一行の陣容をさかんにした。各部隊の護って行く二門ずつの大砲には皆御隠居の筆の跡が鋳(い)てある。「発而皆中節(はっしてみなせつにあたる)、源斉昭書(みなもとのなりあきしょ)」の銘は浪士らが誇りとするものだ。行列の中央に高く「尊攘(そんじょう)」の二字を掲げた旗は、陣太鼓と共に、筑波以来の記念でもあった。参謀の兵部は軍中第二班にある。采配を腰にさし、甲冑(かっちゅう)騎馬で、金の三蓋猩々緋(さんがいしょうじょうひ)の一段幡連(いちだんばれん)を馬印に立て、鎗鉄砲を携える百余人の武者を率いた。総勢の隊伍(たいご)を、第一班から第六班までの備えに編み、騎馬の使番に絶えず前後周囲を見回らせ、隊列の整頓(せいとん)と行進の合図には拍子木(ひょうしぎ)を用いることなぞ皆この人の精密な頭脳から出た。水戸家の元側用人(そばようにん)で、一方の統率者なる小四郎は騎馬の側に惣金(そうきん)の馬印を立て、百人ほどの銃隊士に護(まも)られながら中央の部隊を堅めた。五十人ばかりの鎗隊士を従えた稲右衛門は梶(かじ)の葉の馬印で、副将らしい威厳を見せながらそのあとに続いた。主将耕雲斎は「奉勅」の旗を先に立て、三蓋菱(さんがいびし)の馬印を立てた百人ばかりの騎兵隊がその前に進み、二百人ばかりの歩行武者の同勢は抜き身の鎗でそのあとから続いた。山国兵部父子はもとよりその他にも親子で連れだって従軍するものもある。各部隊が護って行く思い思いの旗の文字は、いずれも水府義士をもって任ずる彼らの面目を語っている。その中にまじる「百花の魁(さきがけ)」とは、中世以来の堅い殻(から)を割ってわずかに頭を持ち上げようとするような、彼らの早い先駆感をあらわして見せている。
 伊那には高遠藩(たかとおはん)も控えていた。和田峠での合戦の模様は早くも同藩に伝わっていた。松本藩の家老水野新左衛門(みずのしんざえもん)という人の討死(うちじに)、そのほか多数の死傷に加えて浪士側に分捕(ぶんど)りせられた陣太鼓、鎗、具足、大砲なぞのうわさは高遠藩を沈黙させた。それでも幕府のきびしい命令を拒みかねて、同藩では天龍川の両岸に出兵したが、浪士らの押し寄せて来たと聞いた時は指揮官はにわかに平出(ひらで)の陣地を撤退して天神山(てんじんやま)という方へ引き揚げた。それからの浪士らは一層勇んで一団となった行進を続けることができた。
 進み過ぎる部隊もなく、おくれる部隊もなかった。中にはめずらしい放吟の声さえ起こる。馬上で歌を詠ずるものもある。路傍(みちばた)の子供に菓子などを与えながら行くものもある。途中で一行におくれて、また一目散に馬を飛ばす十六、七歳の小冠者(こかんじゃ)もある。
 こんなふうにしてさらに谷深く進んだ。二十二日には浪士らは上穂(かみほ)まで動いた。そこまで行くと、一万七千石を領する飯田(いいだ)城主堀石見守(ほりいわみのかみ)は部下に命じて市田村(いちだむら)の弓矢沢というところに防禦(ぼうぎょ)工事を施し、そこに大砲数門を据(す)え付けたとの報知(しらせ)も伝わって来た。浪士らは一つの難関を通り過ぎて、さらにまた他の難関を望んだ。


「わたしたちは水戸の諸君に同情してまいったんです。実は、あなたがたの立場を思い、飯田藩の立場を思いまして、及ばずながら斡旋(あっせん)の労を執りたい考えで同道してまいりました。わたしたちは三人とも平田篤胤(あつたね)の門人です。」
 浪士らの幹部の前には、そういうめずらしい人たちがあらわれた。そのうちの一人(ひとり)は伊那座光寺(いなざこうじ)にある熱心な国学の鼓吹者(こすいしゃ)仲間で、北原稲雄が弟の今村豊三郎(いまむらとよさぶろう)である。一人は将軍最初の上洛(じょうらく)に先立って足利尊氏(あしかがたかうじ)が木像の首を三条河原(さんじょうがわら)に晒(さら)した示威の関係者、あの事件以来伊那に来て隠れている暮田正香(くれたまさか)である。
 入り込んで来る間諜(かんちょう)を警戒する際で、浪士側では容易にこの三人を信じなかった。その時応接に出たのは道中掛(がか)りの田村宇之助(たむらうのすけ)であったが、字之助は思いついたように尋ねた。
「念のためにうかがいますが、伊那の平田御門人は『古史伝』の発行を企てているように聞いています。あれは何巻まで行ったでしょうか。」
「そのことですか。今じゃ第四帙(ちつ)まで進行しております。一帙四巻としてありますが、もう第十六の巻(まき)を出しました。お聞き及びかどうか知りませんが、その上木(じょうぼく)を思い立ったのは座光寺の北原稲雄です。これにおります今村豊三郎の兄に当たります。」正香が答えた。
 こんなことから浪士らの疑いは解けた。そこへ三人が持ち出して、及ばずながら斡旋の労を執りたいというは、浪士らに間道の通過を勧め、飯田藩との衝突を避けさせたいということだった。正香や豊三郎は一応浪士らの意向を探りにやって来たのだ。もとより浪士側でも戦いを好むものではない。飯田藩を傷つけずに済み、また浪士側も傷つかずに済むようなこの提案に不賛成のあろうはずもない。異議なし。それを聞いた三人は座光寺の方に待っている北原稲雄へもこの情報を伝え、飯田藩ともよく交渉を重ねて来ると言って、大急ぎで帰って行った。
 二十三日には浪士らは片桐(かたぎり)まで動いた。その辺から飯田へかけての谷間(たにあい)には、数十の郷村が天龍川の両岸に散布している。岩崎長世(ながよ)、北原稲雄、片桐春一(しゅんいち)らの中心の人物をはじめ、平田篤胤没後の門人が堅く根を張っているところだ。飯田に、山吹(やまぶき)に、伴野(ともの)に、阿島(あじま)に、市田に、座光寺に、その他にも熱心な篤胤の使徒を数えることができる。この谷だ。今は黙ってみている場合でないとして、北原兄弟(きょうだい)のような人たちがたち上がったのに不思議もない。
 その片桐まで行くと、飯田の城下も近い。堀石見守(ほりいわみのかみ)の居城はそこに測りがたい沈黙を守って、浪士らの近づいて行くのを待っていた。その沈黙の中には御会所での軍議、にわかな籠城(ろうじょう)の準備、要所要所の警戒、その他、どれほどの混乱を押し隠しているやも知れないかのようであった。万一、同藩で籠城のことに決したら、市内はたちまち焼き払われるであろう。その兵火戦乱の恐怖は老若男女の町の人々を襲いつつあった。
 夜、武田(たけだ)本陣にあてられた片桐の問屋へは、飯田方面から、豊三郎が兄の北原稲雄と一緒に早駕籠(かご)を急がせて来た。その時、浪士側では横田東四郎と藤田(ふじた)小四郎とが応接に出た。飯田藩として間道の通過を公然と許すことは幕府に対し憚(はばか)るところがあるからと言い添えながら、北原兄弟は町役人との交渉の結果を書面にして携えて来た。その書面には左の三つの条件が認(したた)めてあった。
 一、飯田藩は弓矢沢の防備を撤退すること。
 二、間道に修繕を加うること。
 三、飯田町にて軍資金三千両を醵出(きょしゅつ)すること。


「お前はこの辺の百姓か。人足の手が足りないから、鎗(やり)をかついで供をいたせ。」
「いえ、わたくしは旅の者でございます、お供をいたすことは御免こうむりましょう。」
「うんにゃ、そう言わずに、片桐の宿までまいれば許してつかわす。」
 上伊那の沢渡村(さわどむら)という方から片桐宿まで、こんな押し問答の末に一人の百姓を無理押しつけに供に連れて来た浪士仲間の後殿(しんがり)のものもあった。
 いよいよ北原兄弟が奔走周旋の結果、間道通過のことに決した浪士の一行は片桐出立の朝を迎えた。先鋒隊(せんぽうたい)のうちにはすでに駒場(こまば)泊まりで出かけるものもある。
 後殿(しんがり)の浪士は上伊那から引ッぱって来た百姓をなかなか放そうとしなかった。その百姓は年のころ二十六、七の働き盛りで、荷物を持ち運ばせるには屈強な体格をしている。
「お前はどこの者か。」と浪士がきいた。
「わたくしですか。諏訪飯島村(すわいいじまむら)の生まれ、降蔵(こうぞう)と申します。お約束のとおり片桐までお供をいたしました。これでお暇(いとま)をいただきます。」
「何、諏訪だ?」
 いきなり浪士はその降蔵を帯で縛りあげた。それから言葉をつづけた。
「その方は天誅(てんちゅう)に連れて行くから、そう心得るがいい。」
 近くにある河(かわ)のところまで浪士は後ろ手にくくった百姓を引き立てた。「天誅」とはどういうわけかと降蔵が尋ねると、天誅とは首を切ることだと浪士が言って見せる。不幸な百姓は震えた。
「お武家様、わたくしは怪しい者でもなんでもございません。伊那(いな)[#「伊那」は底本では「伊奈」]辺まで用事があってまいる途中、御通行ということで差し控えていたものでございます。これからはいかようにもお供をいたしますから、お助けを願います。」
「そうか。しからば、その方は正武隊に預けるから、兵糧方(ひょうろうかた)の供をいたせ。」
 人足一人を拾って行くにも、浪士らはこの調子だった。
 諸隊はすでに続々間道を通過しつつある。その道は飯田の城下を避けて、上黒田で右に折れ、野底山から上飯田にかかって、今宮という方へと取った。今宮に着いたころは一同休憩して昼食をとる時刻だ。正武隊付きを命ぜられた諏訪の百姓降蔵は片桐から背負(しょ)って来た具足櫃(ぐそくびつ)をそこへおろして休んでいると、いろは付けの番号札を渡され、一本の脇差(わきざし)をも渡された。家の方へ手紙を届けたければ飛脚に頼んでやるなぞと言って、兵糧方の別当はいろいろにこの男をなだめたりすかしたりした。荷物を持ち労(つか)れたら、ほかの人足に申し付けるから、ぜひ京都まで一緒に行けとも言い聞かせた。別当はこの男の逃亡を気づかって、小用に立つにも番人をつけることを忘れなかった。
 京都と聞いて、諏訪の百姓は言った。
「わたくしも国元には両親がございます。御免こうむりとうございます。お暇(いとま)をいただきとうございます。」
「そんなことを言うと天誅(てんちゅう)だぞ。」
 別当の威(おど)し文句だ。
 切石まで間道を通って、この浪士の諸隊は伊那の本道に出た。参州街道がそこに続いて来ている。大瀬木(おおせぎ)というところまでは、北原稲雄が先に立って浪士らを案内した。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:426 KB

担当:FIRTREE