夜明け前
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著者名:島崎藤村 

吉左衛門が自分の部屋(へや)として臥起(ねお)きをしているのもその寛ぎの間だ。そこへも行って周囲を見回しながら、
「しかし、御苦労、御苦労。」
 と吉左衛門は繰りかえした。おまんはそれを聞きとがめて、
「あなたはだれに言っていらっしゃるの。」
「おれか。だれも御苦労とも言ってくれるものがないから、おれは自分で自分に言ってるところさ。」
 おまんは苦笑いした。吉左衛門は言葉をついで、
「でも、世の中は妙なものじゃないか。名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、苗字(みょうじ)帯刀御免ということになる。三十年この街道の世話をしても、だれも御苦労とも言い手がない。このおれにとっては、目に見えない街道の世話の方がどれほど骨が折れたか知れないがなあ。」
 そこまで行くと、それから先には言葉がなかった。
 馬籠の駅長としての吉左衛門は、これまでにどれほどの人を送ったり迎えたりしたか知れない。彼も殺風景な仕事にあくせくとして来たが、すこしは風雅の道を心得ていた。この街道を通るほどのものは、どんな人でも彼の目には旅人であった。
 遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿妻籠(つまご)の本陣、青山寿平次(じゅへいじ)の妹、お民(たみ)という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。この忰(せがれ)の結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。早くも青年時代にやって来たような濃い憂鬱(ゆううつ)が半蔵を苦しめたことを想(おも)って見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものに代(よ)を譲って行きたいと考えることも、その一つであった。半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山監物(けんもつ)を父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。二人(ふたり)の兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。兄は妻籠に。弟は馬籠に。何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、末(すえ)頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。
 この縁談には吉左衛門は最初からその話を金兵衛の耳に入れて、相談相手になってもらった。吉左衛門が半蔵を同道して、親子二人づれで妻籠の本陣を訪(たず)ねに行って来た時のことも、まずその報告をもたらすのは金兵衛のもとであった。ある日、二人は一緒になって、秋の祭礼までには間に合わせたいという舞台普請の話などから、若い人たちのうわさに移って行った。
「吉左衛門さん、妻籠の御本陣の娘さんはおいくつにおなりでしたっけ。」
「十七さ。」
 その時、金兵衛は指を折って数えて見て、
「して見ると、半蔵さんとは六つ違いでおいでなさる。」
 よい一対の若夫婦ができ上がるであろうというふうにそれを吉左衛門に言って見せた。そういう金兵衛にしても、吉左衛門にしても、二十三歳と十七歳とで結びつく若夫婦をそれほど早いとは考えなかった。早婚は一般にあたりまえの事と思われ、むしろよい風習とさえ見なされていた。当時の木曾谷には、新郎十六歳、新婦は十五歳で行なわれるような早い結婚もあって、それすら人は別に怪しみもしなかった。
「しかし、金兵衛さん、あの半蔵のやつがもう祝言(しゅうげん)だなんて、早いものですね。わたしもこれで、平素(ふだん)はそれほどにも思いませんが、こんな話が持ち上がると、自分でも年を取ったかと思いますよ。」
「なにしろ、吉左衛門さんもお大抵じゃない。あなたのところのお嫁取りなんて、御本陣と御本陣の御婚礼ですからねえ。」


「半蔵さま――お前さまのところへは、妻籠の御本陣からお嫁さまが来(こ)さっせるそうだなし。お前さまも大きくならっせいたものだ。」
 半蔵のところへは、こんなことを言いに寄る出入りのおふき婆(ばあ)さんもある。おふきは乳母(うば)として、幼い時分の半蔵の世話をした女だ。まだちいさかったころの半蔵を抱き、その背中に載せて、歩いたりしたのもこの女だ。半蔵の縁談がまとまったことは、本陣へ出入りの百姓のだれにもまして、この婆さんをよろこばせた。
 おふきはまた、今の本陣の「姉(あね)さま」(おまん)のいないところで、半蔵のそばへ来て歯のかけた声で言った。
「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、おれはお前さまのお母(っか)様をよく覚えている。お袖(そで)さま――美しい人だったぞなし。あれほどの容色(きりょう)は江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だったぞなし。あのお袖さまが煩(わずら)って亡(な)くなったのは、あれはお前さまを生んでから二十日(はつか)ばかり過ぎだったずら。おれはお前さまを抱いて、お母(っか)さまの枕(まくら)もとへ連れて行ったことがある。あれがお別れだった。三十二の歳(とし)の惜しい盛りよなし。それから、お前さまはまた、間もなく黄疸(おうだん)を病(や)まっせる。あの時は助かるまいと言われたくらいよなし。大旦那(おおだんな)(吉左衛門)の御苦労も一通りじゃあらすか。あのお母(っか)さまが今まで達者(たっしゃ)でいて、今度のお嫁取りの話なぞを聞かっせいたら、どんなだずら――」
 半蔵も生みの母を想像する年ごろに達していた。また、一人(ひとり)で両親を兼ねたような父吉左衛門が養育の辛苦を想像する年ごろにも達していた。しかしこのおふき婆さんを見るたびに、多く思い出すのは少年の日のことであった。子供の時分の彼が、あれが好きだったとか、これが好きだったとか、そんな食物のことをよく覚えていて、木曾の焼き米の青いにおい、蕎麦粉(そばこ)と里芋(さといも)の子で造る芋焼餅(いもやきもち)なぞを数えて見せるのも、この婆さんであるから。
 山地としての馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、村の子供らの教育のことなぞにかけては耕されない土も同然であった。この山の中に生まれて、周囲には名を書くことも知らないようなものの多い村民の間に、半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけたものである。村にはろくな寺小屋もなかった。人を化かす狐(きつね)や狸(たぬき)、その他種々(さまざま)な迷信はあたりに暗く跋扈(ばっこ)していた。そういう中で、半蔵が人の子を教えることを思い立ったのは、まだ彼が未熟な十六歳のころからである。ちょうど今の隣家の鶴松(つるまつ)が桝田屋(ますだや)の子息(むすこ)などと連れだって通(かよ)って来るように、多い年には十六、七人からの子供が彼のもとへ読書習字珠算などのけいこに集まって来た。峠からも、荒町(あらまち)からも、中のかやからも。時には隣村の湯舟沢、山口からも。年若な半蔵は自分を育てようとするばかりでなく、同時に無学な村の子供を教えることから始めたのであった。
 山里にいて学問することも、この半蔵には容易でなかった。良師のないのが第一の困難であった。信州上田(うえだ)の人で児玉(こだま)政雄(まさお)という医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。その人に『詩経(しきょう)』の句読(くとう)を受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。小雅(しょうが)の一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはや就(つ)いて学ぶべき師もなかった。馬籠の万福寺には桑園和尚(そうえんおしょう)のような禅僧もあったが、教えて倦(う)まない人ではなかった。十三歳のころ、父吉左衛門について『古文真宝(こぶんしんぽう)』の句読を受けた。当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。そのうちに自ら奮って『四書(ししょ)』の集註(しゅうちゅう)を読み、十五歳には『易書(えきしょ)』や『春秋(しゅんじゅう)』の類(たぐい)にも通じるようになった。寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。父吉左衛門は和算を伊那(いな)の小野(おの)村の小野甫邦(ほほう)に学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。村には、やれ魚釣(つ)りだ碁将棋だと言って時を送る若者の多かった中で、半蔵ひとりはそんな方に目もくれず、また話相手の友だちもなくて、読書をそれらの遊戯に代えた。幸い一人の学友を美濃の中津川の方に見いだしたのはそのころからである。蜂谷(はちや)香蔵(こうぞう)と言って、もっと学ぶことを半蔵に説き勧めてくれたのも、この香蔵だ。二人の青年の早い友情が結ばれはじめてからは、馬籠と中津川との三里あまりの間を遠しとしなかった。ちょうど中津川には宮川寛斎がある。寛斎は香蔵が姉の夫にあたる。医者ではあるが、漢学に達していて、また国学にもくわしかった。馬籠の半蔵、中津川の香蔵――二蔵は互いに競い合って寛斎の指導を受けた。
「自分は独学で、そして固陋(ころう)だ。もとよりこんな山の中にいて見聞も寡(すくな)い。どうかして自分のようなものでも、もっと学びたい。」
 と半蔵は考え考えした。古い青山のような家に生まれた半蔵は、この師に導かれて、国学に心を傾けるようになって行った。二十三歳を迎えたころの彼は、言葉の世界に見つけた学問のよろこびを通して、賀茂(かもの)真淵(まぶち)、本居(もとおり)宣長(のりなが)、平田(ひらた)篤胤(あつたね)などの諸先輩がのこして置いて行った大きな仕事を想像するような若者であった。
 黒船は、実にこの半蔵の前にあらわれて来たのである。

       三

 その年、嘉永(かえい)六年の十一月には、半蔵が早い結婚の話も妻籠(つまご)の本陣あてに結納(ゆいのう)の品を贈るほど運んだ。
 もはや恵那山(えなさん)へは雪が来た。ある日、おまんは裏の土蔵の方へ行こうとした。山家のならわしで、めぼしい器物という器物は皆土蔵の中に持ち運んである。皿(さら)何人前、膳(ぜん)何人前などと箱書きしたものを出したり入れたりするだけでも、主婦の一役(ひとやく)だ。
 ちょうど、そこへ会所の使いが福島の役所からの差紙(さしがみ)を置いて行った。馬籠(まごめ)の庄屋(しょうや)あてだ。おまんはそれを渡そうとして、夫(おっと)を探(さが)した。
「大旦那(おおだんな)は。」
 と下女にきくと、
「蔵の方へおいでだぞなし。」
 という返事だ。おまんはその足で、母屋(もや)から勝手口の横手について裏の土蔵の前まで歩いて行った。石段の上には夫の脱いだ下駄(げた)もある。戸前の錠もはずしてある。夫もやはり同じ思いで、婚礼用の器物でも調べているらしい。おまんは土蔵の二階の方にごとごと音のするのを聞きながら梯子(はしご)を登って行って見た。そこに吉左衛門がいた。
「あなた、福島からお差紙(さしがみ)ですよ。」
 吉左衛門はわずかの閑(ひま)の時を見つけて、その二階に片づけ物なぞをしていた。壁によせて幾つとなく古い本箱の類(たぐい)も積み重ねてある。日ごろ彼の愛蔵する俳書、和漢の書籍なぞもそこに置いてある。その時、彼はおまんから受け取ったものを窓に近く持って行って読んで見た。
 その差紙には、海岸警衛のため公儀の物入りも莫大(ばくだい)だとある。国恩を報ずべき時節であると言って、三都の市中はもちろん、諸国の御料所(ごりょうしょ)、在方(ざいかた)村々まで、めいめい冥加(みょうが)のため上納金を差し出せとの江戸からの達しだということが書いてある。それにはまた、浦賀表(うらがおもて)へアメリカ船四艘(そう)、長崎表へオロシャ船四艘交易のため渡来したことが断わってあって、海岸防禦(ぼうぎょ)のためとも書き添えてある。
「これは国恩金の上納を命じてよこしたんだ。」と吉左衛門はおまんに言って見せた。「外は風雨(しけ)だというのに、内では祝言のしたくだ――しかしこのお差紙(さしがみ)の様子では、おれも一肌(ひとはだ)脱がずばなるまいよ。」
 その時になって見ると、半蔵の祝言を一つのくぎりとして、古い青山の家にもいろいろな動きがあった。年老いた吉左衛門の養母は祝言のごたごたを避けて、土蔵に近い位置にある隠居所の二階に隠れる。新夫婦の居間にと定められた店座敷へは、畳屋も通(かよ)って来る。長いこと勤めていた下男も暇を取って行って、そのかわり佐吉という男が今度新たに奉公に来た。
 おまんが梯子(はしご)を降りて行ったあと、吉左衛門はまた土蔵の明り窓に近く行った。鉄格子(てつごうし)を通してさし入る十一月の光線もあたりを柔らかに見せている。彼はひとりで手をもんで、福島から差紙のあった国防献金のことを考えた。徳川幕府あって以来いまだかつて聞いたこともないような、公儀の御金蔵(おかねぐら)がすでにからっぽになっているという内々(ないない)の取り沙汰(ざた)なぞが、その時、胸に浮かんだ。昔気質(かたぎ)の彼はそれらの事を思い合わせて、若者の前でもなんでもおかまいなしに何事も大げさに触れ回るような人たちを憎んだ。そこから子に対する心持ちをも引き出されて見ると、年もまだ若く心も柔らかく感じやすい半蔵なぞに、今から社会の奥をのぞかせたくないと考えた。いかなる人間同志の醜い秘密にも、その刺激に耐えられる年ごろに達するまでは、ゆっくりしたくさせたいと考えた。権威はどこまでも権威として、子の前には神聖なものとして置きたいとも考えた。おそらく隣家の金兵衛とても、親としてのその心持ちに変わりはなかろう。そんなことを思い案じながら、吉左衛門はその蔵の二階を降りた。
 かねて前触れのあった長崎行きの公儀衆も、やがて中津川泊まりで江戸の方角から街道を進んで来るようになった。空は晴れても、大雪の来たあとであった。野尻宿(のじりしゅく)の継所(つぎしょ)から落合(おちあい)まで通し人足七百五十人の備えを用意させるほどの公儀衆が、さくさく音のする雪の道を踏んで、長崎へと通り過ぎた。この通行が三日も続いたあとには、妻籠(つまご)の本陣からその同じ街道を通って、新しい夜具のぎっしり詰まった長持(ながもち)なぞが吉左衛門の家へかつぎ込まれて来た。
 吉日として選んだ十二月の一日が来た。金兵衛は朝から本陣へ出かけて来て、吉左衛門と一緒に客の取り持ちをした。台所でもあり応接間でもある広い炉ばたには、手伝いとして集まって来ているお玉、お喜佐、おふきなどの笑い声も起こった。
 仙十郎(せんじゅうろう)も改まった顔つきでやって来た。寛(くつろ)ぎの間(ま)と店座敷の間を往(い)ったり来たりして、半蔵を退屈させまいとしていたのもこの人だ。この取り込みの中で、金兵衛はちょっと半蔵を見に来て言った。
「半蔵さん、だれかお前さんの呼びたい人がありますかい。」
「お客にですか。宮川寛斎先生に中津川の香蔵さん、それに景蔵(けいぞう)さんも呼んであげたい。」
 浅見(あさみ)景蔵は中津川本陣の相続者で、同じ町に住む香蔵を通して知るようになった半蔵の学友である。景蔵はもと漢学の畠(はたけ)の人であるが、半蔵らと同じように国学に志すようになったのも、寛斎の感化であった。
「それは半蔵さん、言うまでもなし。中津川の御連中はあすということにして、もう使いが出してありますよ。あの二人(ふたり)は黙って置いたって、向こうから祝いに来てくれる人たちでさ。」
 そばにいた仙十郎は、この二人の話を引き取って、
「おれも――そうだなあ――もう一度祝言の仕直しでもやりたくなった。」
 と笑わせた。
 山家にはめずらしい冬で、一度は八寸も街道に積もった雪が大雨のために溶けて行った。そのあとには、金兵衛のような年配のものが子供の時分から聞き伝えたこともないと言うほどの暖かさが来ていた。寒がりの吉左衛門ですら、その日は炬燵(こたつ)や火鉢(ひばち)でなしに、煙草盆(たばこぼん)の火だけで済ませるくらいだ。この陽気は本陣の慶事を一層楽しく思わせた。
 午後に、寿平次兄妹(きょうだい)がすでに妻籠(つまご)の本陣を出発したろうと思われるころには、吉左衛門は定紋(じょうもん)付きの□□(かみしも)姿で、表玄関前の広い板の間を歩き回った。下男の佐吉もじっとしていられないというふうで、表門を出たりはいったりした。
「佐吉、めずらしい陽気だなあ。この分じゃ妻籠の方も暖かいだろう。」
「そうよなし。今夜は門の前で篝(かがり)でも焚(た)かずと思って、おれは山から木を背負(しよ)って来た。」
「こう暖かじゃ、篝(かがり)にも及ぶまいよ。」
「今夜は高張(たかはり)だけにせずか、なし。」
 そこへ金兵衛も奥から顔を出して、一緒に妻籠から来る人たちのうわさをした。
「一昨日(おととい)の晩でさ。」と金兵衛は言った。「桝田屋(ますだや)の儀助さんが夜行で福島へ出張したところが、往還の道筋にはすこしも雪がない。茶屋へ寄って、店先へ腰掛けても、凍えるということがない。どうもこれは世間一統の陽気でしょう。あの儀助さんがそんな話をしていましたっけ。」
「金兵衛さん――前代未聞(みもん)の冬ですかね。」
「いや、全く。」
 日の暮れるころには、村の人たちは本陣の前の街道に集まって来て、梅屋の格子(こうし)先あたりから問屋の石垣(いしがき)の辺へかけて黒山を築いた。土地の風習として、花嫁を載せて来た駕籠(かご)はいきなり門の内へはいらない。峠の上まで出迎えたものを案内にして、寿平次らの一行はまず門の前で停(と)まった。提灯(ちょうちん)の灯(ひ)に映る一つの駕籠を中央にして、木曾の「なかのりさん」の唄(うた)が起こった。荷物をかついで妻籠から供をして来た数人のものが輪を描きながら、唄の節(ふし)につれて踊りはじめた。手を振り腰を動かす一つの影の次ぎには、またほかの影が動いた。この鄙(ひな)びた舞踏の輪は九度も花嫁の周囲(まわり)を回った。
 その晩、盃(さかずき)をすましたあとの半蔵はお民と共に、冬の夜とも思われないような時を送った。半蔵がお民を見るのは、それが初めての時でもない。彼はすでに父と連れだって、妻籠にお民の家を訪(たず)ねたこともある。この二人の結びつきは当人同志の選択からではなくて、ただ父兄の選択に任せたのであった。親子の間柄でも、当時は主従の関係に近い。それほど二人は従順であったが、しかし決して安閑としてはいなかった。初めて二人が妻籠の方で顔を見合わせた時、すべてをその瞬間に決定してしまった。長くかかって見るべきものではなくて、一目に見るべきものであったのだ。
 店座敷は東向きで、戸の外には半蔵の好きな松の樹(き)もあった。新しい青い部屋(へや)の畳は、鶯(うぐいす)でもなき出すかと思われるような温暖(あたたか)い空気に香(かお)って、夜遊び一つしたことのない半蔵の心を逆上(のぼ)せるばかりにした。彼は知らない世界にでもはいって行く思いで、若さとおそろしさのために震えているようなお民を自分のそばに見つけた。


「お父(とっ)さん――わたしのためでしたら、祝いはなるべく質素にしてください。」
「それはお前に言われるまでもない。質素はおれも賛成だねえ。でも、本陣には本陣の慣例(しきたり)というものもある。呼ぶだけのお客はお前、どうしたって呼ばなけりゃならない。まあ、おれに任せて置け。」
 半蔵が父とこんな言葉をかわしたのは、客振舞(きゃくぶるまい)の続いた三日目の朝である。
 思いがけない尾張藩の徒士目付(かちめつけ)と作事方(さくじかた)とがその日の午前に馬籠の宿(しゅく)に着いた。来たる三月には尾張藩主が木曾路を経て江戸へ出府のことに決定したという。この役人衆の一行は、冬のうちに各本陣を見分(けんぶん)するためということであった。
 こういう場合に、なくてならない人は金兵衛と問屋の九太夫とであった。万事扱い慣れた二人は、吉左衛門の当惑顔をみて取った。まず二人で梅屋の方へ役人衆を案内した。金兵衛だけが吉左衛門のところへ引き返して来て言った。
「まずありがたかった。もう少しで、この取り込みの中へ乗り込まれるところでした。オット。皆さま、当宿本陣には慶事がございます、取り込んでおります、恐れ入りますが梅屋の方でしばらくお休みを願いたい、そうわたしが言いましてね。そこはお役人衆も心得たものでさ。お昼のしたくもあちらで差し上げることにして来ましたよ。」
 梅屋と本陣とは、呼べば応(こた)えるほどの対(むか)い合った位置にある。午後に、徒士目付(かちめつけ)の一行は梅屋で出した福草履(ふくぞうり)にはきかえて、乾(かわ)いた街道を横ぎって来た。大きな髷(まげ)のにおい、帯刀の威、袴(はかま)の摺(す)れる音、それらが役人らしい挨拶(あいさつ)と一緒になって、本陣の表玄関には時ならぬいかめしさを見せた。やがて、吉左衛門の案内で、部屋(へや)部屋の見分があった。
 吉左衛門は徒士目付にたずねた。
「はなはだ恐縮ですが、中納言(ちゅうなごん)様の御通行は来春のようにうけたまわります。当宿(しゅく)ではどんな心じたくをいたしたものでしょうか。」
「さあ、ことによるとお昼食(ひる)を仰せ付けられるかもしれない。」
 婚礼の祝いは四日も続いて、最終の日の客振舞(きゃくぶるまい)にはこの慶事に来て働いてくれた女たちから、出入りの百姓、会所の定使(じょうづかい)などまで招かれて来た。大工も来、畳屋も来た。日ごろ吉左衛門や半蔵のところへ油じみた台箱(だいばこ)をさげて通(かよ)って来る髪結い直次(なおじ)までが、その日は羽織着用でやって来て、膳(ぜん)の前にかしこまった。
 町内の小前(こまえ)のものの前に金兵衛、髪結い直次の前に仙十郎、涙を流してその日の来たことを喜んでいるようなおふき婆(ばあ)さんの前には吉左衛門がすわって、それぞれ取り持ちをするころは、酒も始まった。吉左衛門はおふきの前から、出入りの百姓たちの前へ動いて、
「さあ、やっとくれや。」
 とそこにある銚子(ちょうし)を持ち添えて勧めた。百姓の一人(ひとり)は膝(ひざ)をかき合わせながら、
「おれにかなし。どうも大旦那(おおだんな)にお酌(しゃく)していただいては申しわけがない。」
 隣席にいるほかの百姓が、その時、吉左衛門に話しかけた。
「大旦那(おおだんな)――こないだの上納金のお話よなし。ほかの事とも違いますから、一同申し合わせをして、お受けをすることにしましたわい。」
「あゝ、あの国恩金のことかい。」
「それが大旦那、百姓はもとより、豆腐屋、按摩(あんま)まで上納するような話ですで、おれたちも見ていられすか。十八人で二両二分とか、五十六人で三両二分とか、村でも思い思いに納めるようだが、おれたちは七人で、一人が一朱(いっしゅ)ずつと話をまとめましたわい。」
 仙十郎は酒をついで回っていたが、ちょうどその百姓の前まで来た。
「よせ。こんな席で上納金の話なんか。伊勢(いせ)の神風の一つでも吹いてごらん、そんな唐人船(とうじんぶね)なぞはどこかへ飛んでしまう。くよくよするな。それよりか、一杯行こう。」
「どうも旦那はえらいことを言わっせる。」と百姓は仙十郎の盃(さかずき)をうけた。
「上の伏見屋の旦那。」と遠くの席から高い声で相槌(あいづち)を打つものもある。「おれもお前さまに賛成だ。徳川さまの御威光で、四艘や五艘ぐらいの唐人船がなんだなし。」
 酒が回るにつれて、こんな話は古風な石場搗(いしばづ)きの唄(うた)なぞに変わりかけて行った。この地方のものは、いったいに酒に強い。だれでも飲む。若い者にも飲ませる。おふき婆さんのような年をとった女ですら、なかなか隅(すみ)へは置けないくらいだ。そのうちに仙十郎が半蔵の前へ行ってすわったころは、かなりの上きげんになった。半蔵も方々から来る祝いの盃をことわりかねて、顔を紅(あか)くしていた。
 やがて、仙十郎は声高くうたい出した。
  木曾のナ
  なかのりさん、
  木曾の御嶽(おんたけ)さんは
  なんちゃらほい、
  夏でも寒い。
  よい、よい、よい。
 半蔵とは対(むか)い合いに、お民の隣には仙十郎の妻で半蔵の異母妹にあたるお喜佐も来て膳(ぜん)に着いていた。お喜佐は目を細くして、若い夫のほれぼれとさせるような声に耳を傾けていた。その声は一座のうちのだれよりも清(すず)しい。
「半蔵さん、君の前でわたしがうたうのは今夜初めてでしょう。」
 と仙十郎は軽く笑って、また手拍子(てびょうし)を打ちはじめた。百姓の仲間からおふき婆さんまでが右に左にからだを振り動かしながら手を拍(う)って調子を合わせた。塩辛(しおから)い声を振り揚げる髪結い直次の音頭取(おんどと)りで、鄙(ひな)びた合唱がまたそのあとに続いた。
  袷(あわせ)ナ
  なかのりさん、
  袷やりたや
  なんちゃらほい、
  足袋(たび)添えて。
  よい、よい、よい。


 本陣とは言っても、吉左衛門の家の生活は質素で、芋焼餅(いもやきもち)なぞを冬の朝の代用食とした。祝言のあった六日目の朝には、もはや客振舞(きゃくぶるまい)の取り込みも静まり、一日がかりのあと片づけも済み、出入りの百姓たちもそれぞれ引き取って行ったあとなので、おまんは炉ばたにいて家の人たちの好きな芋焼餅を焼いた。
 店座敷に休んだ半蔵もお民もまだ起き出さなかった。
「いつも早起きの若旦那が、この二、三日はめずらしい。」
 そんな声が二人の下女の働いている勝手口の方から聞こえて来る。しかしおまんは奉公人の言うことなぞに頓着(とんちゃく)しないで、ゆっくり若い者を眠らせようとした。そこへおふき婆さんが新夫婦の様子を見に屋外(そと)からはいって来た。
「姉(あね)さま。」
「あい、おふきか。」
 おふきは炉ばたにいるおまんを見て入り口の土間のところに立ったまま声をかけた。
「姉さま。おれはけさ早く起きて、山の芋(いも)を掘りに行って来た。大旦那も半蔵さまもお好きだで、こんなものをさげて来た。店座敷ではまだ起きさっせんかなし。」
 おふきは※苞(わらづと)[#「くさかんむり/稾」、58-12]につつんだ山の芋にも温(あたた)かい心を見せて、半蔵の乳母(うば)として通(かよ)って来た日と同じように、やがて炉ばたへ上がった。
「おふき、お前はよいところへ来てくれた。」とおまんは言った。「きょうは若夫婦に御幣餅(ごへいもち)を祝うつもりで、胡桃(くるみ)を取りよせて置いた。お前も手伝っておくれ。」
「ええ、手伝うどころじゃない。農家も今は閑(ひま)だで。御幣餅とはお前さまもよいところへ気がつかっせいた。」
「それに、若夫婦のお相伴(しょうばん)に、お隣の子息(むすこ)さんでも呼んであげようかと思ってさ。」
「あれ、そうかなし。それじゃおれが伏見屋へちょっくら行って来る。そのうちには店座敷でも起きさっせるずら。」
 気候はめずらしい暖かさを続けていて、炉ばたも楽しい。黒く煤(すす)けた竹筒、魚の形、その自在鍵(じざいかぎ)の天井から吊(つ)るしてある下では、あかあかと炉の火が燃えた。おふきが隣家まで行って帰って見たころには、半蔵とお民とが起きて来ていて、二人で松薪(まつまき)をくべていた。渡し金(がね)の上に載せてある芋焼餅も焼きざましになったころだ。おふきはその里芋(さといも)の子の白くあらわれたやつを温め直して、大根おろしを添えて、新夫婦に食べさせた。
「お民、おいで。髪でも直しましょう。」
 おまんは奥の坪庭に向いた小座敷のところへお民を呼んだ。妻籠(つまご)の本陣から来た娘を自分の嫁として、「お民、お民」と名を呼んで見ることもおまんにはめずらしかった。おとなの世界をのぞいて見たばかりのようなお民は、いくらか羞(はじらい)を含みながら、十七の初島田(はつしまだ)の祝いのおりに妻籠の知人から贈られたという櫛箱(くしばこ)なぞをそこへ取り出して来ておまんに見せた。
「どれ。」
 おまんは襷掛(たすきが)けになって、お民を古風な鏡台に向かわせ、人形でも扱うようにその髪をといてやった。まだ若々しく、娘らしい髪の感覚は、おまんの手にあまるほどあった。
「まあ、長い髪の毛だこと。そう言えば、わたしも覚えがあるが、これで眉(まゆ)でも剃(そ)り落とす日が来てごらん――あの里帰りというものは妙に昔の恋しくなるものですよ。もう娘の時分ともお別れですねえ。女はだれでもそうしたものですからねえ。」
 おまんはいろいろに言って見せて、左の手に油じみた髪の根元を堅く握り、右手に木曾名物のお六櫛(ろくぐし)というやつを執った。額(ひたい)から鬢(びん)の辺へかけて、梳(す)き手(て)の力がはいるたびに、お民は目を細くして、これから長く姑(しゅうとめ)として仕えなければならない人のするままに任せていた。
「熊(くま)や。」
 とその時、おまんはそばへ寄って来る黒毛の猫(ねこ)の名を呼んだ。熊は本陣に飼われていて、だれからもかわいがられるが、ただ年老いた隠居からは憎まれていた。隠居が熊を憎むのは、みんなの愛がこの小さな動物にそそがれるためだともいう。どうかすると隠居は、おまんや下女たちの見ていないところで、人知れずこの黒猫に拳固(げんこ)を見舞うことがある。おまんはお民の髪を結いながらそんな話までして、
「吾家(うち)のおばあさんも、あれだけ年をとったかと思いますよ。」
 とも言い添えた。
 やがて本陣の若い「御新造(ごしんぞ)」に似合わしい髪のかたちができ上がった。儀式ばった晴れの装いはとれて、さっぱりとした蒔絵(まきえ)の櫛(くし)なぞがそれに代わった。林檎(りんご)のように紅(あか)くて、そして生(い)き生きとしたお民の頬(ほお)は、まるで別の人のように鏡のなかに映った。
「髪はできました。これから部屋(へや)の案内です。」
 というおまんのあとについて、間もなくお民は家の内部(なか)のすみずみまでも見て回った。生家(さと)を見慣れた目で、この街道に生(は)えたような家を見ると、お民にはいろいろな似よりを見いだすことも多かった。奥の間、仲の間、次の間、寛(くつろ)ぎの間というふうに、部屋部屋に名のつけてあることも似ていた。上段の間という部屋が一段高く造りつけてあって、本格な床の間、障子から、白地に黒く雲形を織り出したような高麗縁(こうらいべり)の畳まで、この木曾路を通る諸大名諸公役の客間にあててあるところも似ていた。
 熊は鈴の音をさせながら、おまんやお民の行くところへついて来た。二人が西向きの仲の間の障子の方へ行けば、そこへも来た。この黒毛の猫は新来の人をもおそれないで、まだ半分お客さまのようなお民の裾(すそ)にもまといついて戯れた。
「お民、来てごらん。きょうは恵那山(えなさん)がよく見えますよ。妻籠(つまご)の方はどうかねえ、木曾川の音が聞こえるかねえ。」
「えゝ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河(かわ)のすぐそばでもありませんけれど。」
「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」
「それでも、まあよいながめですこと。」
「そりゃ馬籠(まごめ)はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい日には、遠い伊吹(いぶき)山まで見えることがありますよ――」
 林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。わずかに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の訛(なま)りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことのできる紅(あか)い「ずいき」の漬物(つけもの)なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。


 まだ半蔵夫婦の新規な生活は始まったばかりだ。午後に、おまんは一通り屋敷のなかを案内しようと言って、土蔵の大きな鍵(かぎ)をさげながら、今度は母屋(もや)の外の方へお民を連れ出そうとした。
 炉ばたでは山家らしい胡桃(くるみ)を割る音がしていた。おふきは二人の下女を相手に、堅い胡桃の核(たね)を割って、御幣餅(ごへいもち)のしたくに取りかかっていた。その時、上がり端(はな)にある杖(つえ)をさがして、おまんやお民と一緒に裏の隠居所まで歩こうと言い出したのは隠居だ。このおばあさんもひところよりは健康を持ち直して、食事のたびに隠居所から母屋(もや)へ通(かよ)っていた。
 馬籠の本陣は二棟(ふたむね)に分かれて、母屋(もや)、新屋(しんや)より成り立つ。新屋は表門の並びに続いて、すぐ街道と対(むか)い合った位置にある。別に入り口のついた会所(宿役人詰め所)と問屋場の建物がそこにある。石垣(いしがき)の上に高く隣家の伏見屋を見上げるのもその位置からで、大小幾つかの部屋がその裏側に建て増してある。多人数の通行でもある時は客間に当てられるのもそこだ。おまんは雨戸のしまった小さな離れ座敷をお民にさして見せて、そこにも本陣らしい古めかしさがあることを話し聞かせた。ずっと昔からこの家の習慣で、女が見るものを見るころは家族のものからも離れ、ひとりで煮焚(にた)きまでして、そこにこもり暮らすという。
「お民、来てごらん。」
 と言いながら、おまんは隠居所の階下(した)にあたる味噌納屋(みそなや)の戸をあけて見せた。味噌、たまり、漬物の桶(おけ)なぞがそこにあった。おまんは土蔵の前の方へお民を連れて行って、金網の張ってある重い戸をあけ、薄暗い二階の上までも見せて回った。おまんの古い長持と、お民の新しい長持とが、そこに置き並べてあった。
 土蔵の横手について石段を降りて行ったところには、深い掘り井戸を前に、米倉、木小屋なぞが並んでいる。そこは下男の佐吉の世界だ。佐吉も案内顔に、伏見屋寄りの方の裏木戸を押して見せた。街道と平行した静かな村の裏道がそこに続いていた。古い池のある方に近い木戸をあけて見せた。本陣の稲荷(いなり)の祠(ほこら)が樫(かし)や柊(ひいらぎ)の間に隠れていた。
 その晩、家のもの一同は炉ばたに集まった。隠居はじめ、吉左衛門から、佐吉まで一緒になった。隣家の伏見家からは少年の鶴松(つるまつ)も招かれて来て、半蔵の隣にすわった。おふきが炉で焼く御幣餅の香気はあたりに満ちあふれた。
「鶴さん、これが吾家(うち)の嫁ですよ。」
 とおまんは隣家の子息(むすこ)にお民を引き合わせて、串差(くしざ)しにした御幣餅をその膳(ぜん)に載せてすすめた。こんがりと狐色(きつねいろ)に焼けた胡桃醤油(くるみだまり)のうまそうなやつは、新夫婦の膳にも上った。吉左衛門夫婦はこの質素な、しかし心のこもった山家料理で、半蔵やお民の前途を祝福した。


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     第二章

       一

 十曲峠(じっきょくとうげ)の上にある新茶屋には出迎えのものが集まった。今度いよいよ京都本山の許しを得、僧智現(ちげん)の名も松雲(しょううん)と改めて、馬籠(まごめ)万福寺の跡を継ごうとする新住職がある。組頭(くみがしら)笹屋(ささや)の庄兵衛(しょうべえ)はじめ、五人組仲間、その他のものが新茶屋に集まったのは、この人の帰国を迎えるためであった。
 山里へは旧暦二月末の雨の来るころで、年も安政(あんせい)元年と改まった。一同が待ち受けている和尚(おしょう)は、前の晩のうちに美濃(みの)手賀野(てがの)村の松源寺(しょうげんじ)までは帰って来ているはずで、村からはその朝早く五人組の一人(ひとり)を発(た)たせ、人足も二人(ふたり)つけて松源寺まで迎えに出してある。そろそろあの人たちも帰って来ていいころだった。
「きょうは御苦労さま。」
 出迎えの人たちに声をかけて、本陣の半蔵もそこへ一緒になった。半蔵は父吉左衛門の名代(みょうだい)として、小雨の降る中をやって来た。
 こうした出迎えにも、古い格式のまだ崩(くず)れずにあった当時には、だれとだれはどこまでというようなことをやかましく言ったものだ。たとえば、村の宿役人仲間は馬籠の石屋の坂あたりまでとか、五人組仲間は宿はずれの新茶屋までとかいうふうに。しかし半蔵はそんなことに頓着(とんちゃく)しない男だ。のみならず、彼はこうした場処に来て腰掛けるのが好きで、ここへ来て足を休めて行く旅人、馬をつなぐ馬方、または土足のまま茶屋の囲炉裏(いろり)ばたに踏ん込(ご)んで木曾風(きそふう)な「めんぱ」(木製割籠(わりご))を取り出す人足なぞの話にまで耳を傾けるのを楽しみにした。
 馬籠の百姓総代とも言うべき組頭庄兵衛は茶屋を出たりはいったりして、和尚の一行を待ち受けたが、やがてまた仲間のもののそばへ来て腰掛けた。御休処(おやすみどころ)とした古い看板や、あるものは青くあるものは茶色に諸講中(こうじゅう)のしるしを染め出した下げ札などの掛かった茶屋の軒下から、往来一つ隔てて向こうに翁塚(おきなづか)が見える。芭蕉(ばしょう)の句碑もその日の雨にぬれて黒い。
 間もなく、半蔵のあとを追って、伏見屋の鶴松(つるまつ)が馬籠の宿(しゅく)の方からやって来た。鶴松も父金兵衛(きんべえ)の名代(みょうだい)という改まった顔つきだ。
「お師匠さま。」
「君も来たのかい。御覧、翁塚のよくなったこと。あれは君のお父(とっ)さんの建てたんだよ。」
「わたしは覚えがない。」
 半蔵が少年の鶴松を相手にこんな言葉をかわしていると、庄兵衛も思い出したように、
「そうだずら、鶴さまは覚えがあらっせまい。」
 と言い添えた。
 小雨は降ったりやんだりしていた。松雲和尚の一行はなかなか見えそうもないので、半蔵は鶴松を誘って、新茶屋の周囲を歩きに出た。路傍(みちばた)に小高く土を盛り上げ、榎(えのき)を植えて、里程を示すたよりとした築山(つきやま)がある。駅路時代の一里塚だ。その辺は信濃(しなの)と美濃(みの)の国境(くにざかい)にあたる。西よりする木曾路の一番最初の入り口ででもある。
 しばらく半蔵は峠の上にいて、学友の香蔵や景蔵の住む美濃の盆地の方に思いを馳(は)せた。今さら関東関西の諸大名が一大合戦(かっせん)に運命を決したような関ヶ原の位置を引き合いに出すまでもなく、古くから東西両勢力の相接触する地点と見なされたのも隣の国である。学問に、宗教に、商業に、工芸に、いろいろなものがそこに発達したのに不思議はなかったかもしれない。すくなくもそこに修業時代を送って、そういう進んだ地方の空気の中に僧侶(そうりょ)としてのたましいを鍛えて来た松雲が、半蔵にはうらやましかった。その隣の国に比べると、この山里の方にあるものはすべておそい。あだかも、西から木曾川を伝わって来る春が、両岸に多い欅(けやき)や雑木の芽を誘いながら、一か月もかかって奥へ奥へと進むように。万事がそのとおりおくれていた。
 その時、半蔵は鶴松を顧みて、
「あの山の向こうが中津川(なかつがわ)だよ。美濃はよい国だねえ。」
 と言って見せた。何かにつけて彼は美濃尾張(おわり)の方の空を恋しく思った。
 もう一度半蔵が鶴松と一緒に茶屋へ引き返して見ると、ちょうど伏見屋の下男がそこへやって来るのにあった。その男は庄兵衛の方を見て言った。
「吾家(うち)の旦那(だんな)はお寺の方でお待ち受けだげな。和尚さまはまだ見えんかなし。」
「おれはさっきから来て待ってるが、なかなか見えんよ。」
「弁当持ちの人足も二人出かけたはずだが。」
「あの衆は、いずれ途中で待ち受けているずらで。」
 半蔵がこの和尚を待ち受ける心は、やがて西から帰って来る人を待ち受ける心であった。彼が家と万福寺との縁故も深い。最初にあの寺を建立(こんりゅう)して万福寺と名づけたのも青山の家の先祖だ。しかし彼は今度帰国する新住職のことを想像し、その人の尊信する宗教のことを想像し、人知れずある予感に打たれずにはいられなかった。早い話が、彼は中津川の宮川寛斎に就(つ)いた弟子(でし)である。寛斎はまた平田(ひらた)派の国学者である。この彼が日ごろ先輩から教えらるることは、暗い中世の否定であった。中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来た漢学(からまな)び風(ふう)の因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということであった。それらのものの深い影響を受けない古代の人の心に立ち帰って、もう一度心寛(こころゆた)かにこの世を見直せということであった。一代の先駆、荷田春満(かだのあずままろ)をはじめ、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、それらの諸大人が受け継ぎ受け継ぎして来た一大反抗の精神はそこから生まれて来ているということであった。彼に言わせると、「物学びするともがら」の道は遠い。もしその道を追い求めて行くとしたら、彼が今待ち受けている人に、その人の信仰に、行く行く反対を見いだすかもしれなかった。
 こんな本陣の子息(むすこ)が待つとも知らずに、松雲の一行は十曲峠の険しい坂路(さかみち)を登って来て、予定の時刻よりおくれて峠の茶屋に着いた。


 松雲は、出迎えの人たちの予想に反して、それほど旅やつれのした様子もなかった。六年の長い月日を行脚(あんぎゃ)の旅に送り、さらに京都本山まで出かけて行って来た人とは見えなかった。一行六、七人のうち、こちらから行った馬籠の人足たちのほかに、中津川からは宗泉寺の老和尚も松雲に付き添って来た。
「これは恐れ入りました。ありがとうございました。」
 と言いながら松雲は笠(かさ)の紐(ひも)をといて、半蔵の前にも、庄兵衛たちの前にもお辞儀をした。
「鶴さんですか。見ちがえるように大きくお成りでしたね。」
 とまた松雲は言って、そこに立つ伏見屋の子息(むすこ)の前にもお辞儀をした。手賀野村からの雨中の旅で、笠(かさ)も草鞋(わらじ)もぬれて来た松雲の道中姿は、まず半蔵の目をひいた。
「この人が万福寺の新住職か。」
 と半蔵は心の中で思わずにはいられなかった。和尚としては年も若い。まだ三十そこそこの年配にしかならない。そういう彼よりは六つか七つも年長(としうえ)にあたるくらいの青年の僧侶(そうりょ)だ。とりあえず峠の茶屋に足を休めるとあって、京都の旅の話なぞがぽつぽつ松雲の口から出た。京都に十七日、名古屋に六日、それから美濃路回りで三日目に手賀野村の松源寺に一泊――それを松雲は持ち前の禅僧らしい調子で話し聞かせた。ものの小半時(こはんとき)も半蔵が一緒にいるうちに、とてもこの人を憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主を彼は自分のそばに見つけた。
 やがて一同は馬籠の本宿をさして新茶屋を離れることになった。途中で松雲は庄兵衛を顧みて、
「ほ。見ちがえるように道路がよくなっていますな。」
「この春、尾州(びしゅう)の殿様が江戸へ御出府だげな。お前さまはまだ何も御存じなしか。」
「その話はわたしも聞いて来ましたよ。」
「新茶屋の境から峠の峰まで道普請(みちぶしん)よなし。尾州からはもう宿割(しゅくわり)の役人まで見えていますぞ。道造りの見分(けんぶん)、見分で、みんないそがしい思いをしましたに。」
 うわさのある名古屋の藩主(尾張慶勝(よしかつ))の江戸出府は三月のはじめに迫っていた。来たる日の通行の混雑を思わせるような街道を踏んで、一同石屋の坂あたりまで帰って行くと、村の宿役人仲間がそこに待ち受けるのにあった。問屋(といや)の九太夫(くだゆう)をはじめ、桝田屋(ますだや)の儀助、蓬莱屋(ほうらいや)の新七、梅屋の与次衛門(よじえもん)、いずれも裃(かみしも)着用に雨傘(あまがさ)をさしかけて松雲の一行を迎えた。
 当時の慣例として、新住職が村へ帰り着くところは寺の山門ではなくて、まず本陣の玄関だ。出家の身としてこんな歓迎を受けることはあながち松雲の本意ではなかったけれども、万事は半蔵が父の計らいに任せた。付き添いとして来た中津川の老和尚の注意もあって、松雲が装束(しょうぞく)を着かえたのも本陣の一室であった。乗り物、先箱(さきばこ)、台傘(だいがさ)で、この新住職が吉左衛門(きちざえもん)の家を出ようとすると、それを見ようとする村の子供たちはぞろぞろ寺の道までついて来た。
 万福寺は小高い山の上にある。門前の墓地に茂る杉(すぎ)の木立(こだ)ちの間を通して、傾斜を成した地勢に並び続く民家の板屋根を望むことのできるような位置にある。松雲が寺への帰参は、沓(くつ)ばきで久しぶりの山門をくぐり、それから方丈(ほうじょう)へ通って、一礼座了(いちれいざりょう)で式が済んだ。わざとばかりの饂飩振舞(うどんぶるまい)のあとには、隣村の寺方(てらかた)、村の宿役人仲間、それに手伝いの人たちなぞもそれぞれ引き取って帰って行った。
「和尚さま。」
 と言って松雲のそばへ寄ったのは、長いことここに身を寄せている寺男だ。その寺男は主人が留守中のことを思い出し顔に、
「よっぽど伏見屋の金兵衛さんには、お礼を言わっせるがいい。お前さまがお留守の間にもよく見舞いにおいでて、本堂の廊下には大きな新しい太鼓が掛かったし、すっかり屋根の葺(ふ)き替えもできました。あの萱(かや)だけでも、お前さま、五百二十把(ぱ)からかかりましたよ。まあ、おれは何からお話していいか。村へ大風の来た年には鐘つき堂が倒れる。そのたびに、金兵衛さんのお骨折りも一通りじゃあらすか。」
 松雲はうなずいた。
 諸国を遍歴して来た目でこの境内を見ると、これが松雲には馬籠の万福寺であったかと思われるほど小さい。長い留守中は、ここへ来て世話をしてくれた隣村の隠居和尚任せで、なんとなく寺も荒れて見える。方丈には、あの隠居和尚が六年もながめ暮らしたような古い壁もあって、そこには達磨(だるま)の画像が帰参の新住職を迎え顔に掛かっていた。
「寺に大地小地なく、住持(じゅうじ)に大地小地あり。」
 この言葉が松雲を励ました。
 松雲は周囲を見回した。彼には心にかかるかずかずのことがあった。当時の戸籍簿とも言うべき宗門帳は寺で預かってある。あの帳面もどうなっているか。位牌堂(いはいどう)の整理もどうなっているか。数えて来ると、何から手を着けていいかもわからないほど種々雑多な事が新住職としての彼を待っていた。毎年の献鉢(けんばち)を例とする開山忌(かいざんき)の近づくことも忘れてはならなかった。彼は考えた。ともかくもあすからだ。朝早く身を起こすために何かの目的を立てることだ。それには二人(ふたり)の弟子(でし)や寺男任せでなしに、まず自分で庭の鐘楼に出て、十八声の大鐘を撞(つ)くことだと考えた。
 翌朝は雨もあがった。松雲は夜の引き明けに床を離れて、山から来る冷たい清水(しみず)に顔を洗った。法鼓(ほうこ)、朝課(ちょうか)はあと回しとして、まず鐘楼の方へ行った。恵那山(えなさん)を最高の峰としてこの辺一帯の村々を支配して立つような幾つかの山嶽(さんがく)も、その位置からは隠れてよく見えなかったが、遠くかすかに鳴きかわす鶏の声を谷の向こうに聞きつけることはできた。まだ本堂の前の柊(ひいらぎ)も暗い。その時、朝の空気の静かさを破って、澄んだ大鐘の音が起こった。力をこめた松雲の撞(つ)き鳴らす音だ。その音は谷から谷を伝い、畠(はたけ)から畠を匍(は)って、まだ動きはじめない村の水車小屋の方へも、半分眠っているような馬小屋の方へもひびけて行った。

       二

 ある朝、半蔵は妻のそばに目をさまして、街道を通る人馬の物音を聞きつけた。妻のお民は、と見ると、まだ娘のような顔をして、寝心地(ねごこち)のよい春の暁を寝惜しんでいた。半蔵は妻の目をさまさせまいとするように、自分ひとり起き出して、新婚後二人(ふたり)の居間となっている本陣の店座敷の戸を明けて見た。
 旧暦三月はじめのめずらしい雪が戸の外へ来た。暮れから例年にない暖かさだと言われたのが、三月を迎えてかえってその雪を見た。表庭の塀(へい)の外は街道に接していて、雪を踏んで行く人馬の足音がする。半蔵は耳を澄ましながらその物音を聞いて、かねてうわさのあった尾張藩主の江戸出府がいよいよ実現されることを知った。
「尾州の御先荷(おさきに)がもうやって来た。」
 と言って見た。
 宿継ぎ差立(さした)てについて、尾張藩から送られて来た駄賃金(だちんがね)が馬籠の宿だけでも金四十一両に上った。駄賃金は年寄役金兵衛が預かったが、その金高を聞いただけでも今度の通行のかなり大げさなものであることを想像させる。半蔵はうすうす父からその話を聞いて知っていたので、部屋(へや)にじっとしていられなかった。台所に行って顔を洗うとすぐ雪の降る中を屋外(そと)へ出て見ると、会所では朝早くから継立(つぎた)てが始まる。あとからあとからと坂路(さかみち)を上って来る人足たちの後ろには、鈴の音に歩調を合わせるような荷馬の群れが続く。朝のことで、馬の鼻息は白い。時には勇ましいいななきの声さえ起こる。村の宿役人仲間でも一番先に家を出て、雪の中を奔走していたのは問屋の九太夫であった。
 前の年の六月に江戸湾を驚かしたアメリカの異国船は、また正月からあの沖合いにかかっているころで、今度は四隻の軍艦を八、九隻に増して来て、武力にも訴えかねまじき勢いで、幕府に開港を迫っているとのうわさすら伝わっている。全国の諸大名が江戸城に集まって、交易を許すか許すまいかの大評定(だいひょうじょう)も始まろうとしているという。半蔵はその年の正月二十五日に、尾州から江戸送りの大筒(おおづつ)の大砲や、軍用の長持が二十二棹(さお)もこの街道に続いたことを思い出し、一人持ちの荷物だけでも二十一荷(か)もあったことを思い出して、目の前を通る人足や荷馬の群れをながめていた。
 半蔵が家の方へ戻(もど)って行って見ると、吉左衛門はゆっくりしたもので、炉ばたで朝茶をやっていた。その時、半蔵はきいて見た。
「お父(とっ)さん、けさ着いたのはみんな尾州の荷物でしょう。」
「そうさ。」
「この荷物は幾日ぐらい続きましょう。」
「さあ、三日も続くかな。この前に唐人船(とうじんぶね)の来た時は、上のものも下のものも大あわてさ。今度は戦争にはなるまいよ。何にしても尾州の殿様も御苦労さまだ。」
 馬籠の本陣親子が尾張(おわり)藩主に特別の好意を寄せていたのは、ただあの殿様が木曾谷(きそだに)や尾張地方の大領主であるというばかりではない。吉左衛門には、時に名古屋まで出張するおりなぞには藩主のお目通りを許されるほどの親しみがあった。半蔵は半蔵で、『神祇(じんぎ)宝典』や『類聚日本紀(るいじゅうにほんぎ)』などをえらんだ源敬公以来の尾張藩主であるということが、彼の心をよろこばせたのであった。彼はあの源敬公の仕事を水戸(みと)の義公(ぎこう)に結びつけて想像し、『大日本史』の大業を成就したのもそういう義公であり、僧の契沖(けいちゅう)をして『万葉代匠記(だいしょうき)』をえらばしめたのもこれまた同じ人であることを想像し、その想像を儒仏の道がまだこの国に渡って来ない以前のまじりけのない時代にまでよく持って行った。彼が自分の領主を思う心は、当時の水戸の青年がその領主を思う心に似ていた。
 その日、半蔵は店座敷にこもって、この深い山の中に住むさみしさの前に頭をたれた。障子の外には、塀(へい)に近い松の枝をすべる雪の音がする。それが恐ろしい響きを立てて庭の上に落ちる。街道から聞こえて来る人馬の足音も、絶えたかと思うとまた続いた。
「こんな山の中にばかり引っ込んでいると、なんだかおれは気でも違いそうだ。みんな、のんきなことを言ってるが、そんな時世じゃない。」
 と考えた。
 そこへお民が来た。お民はまだ十八の春を迎えたばかり、妻籠(つまご)本陣への里帰りを済ましたころから眉(まゆ)を剃(そ)り落としていて、いくらか顔のかたちはちがったが、動作は一層生き生きとして来た。
「あなたの好きなねぶ茶をいれて来ました。あなたはまた、何をそんなに考えておいでなさるの。」
 とお民がきいた。ねぶ茶とは山家で手造りにする飲料である。
「おれか。おれは何も考えていない。ただ、こうしてぼんやりしている。お前とおれと、二人一緒になってから百日の余にもなるが――そうだ、百日どころじゃないや、もう四か月にもなるんだ――その間、おれは何をしていたかと思うようだ。阿爺(おやじ)の好きな煙草(たばこ)の葉を刻んだことと、祖母(おばあ)さんの看病をしたことと、まあそれくらいのものだ。」
 半蔵は新婚のよろこびに酔ってばかりもいなかった。学業の怠りを嘆くようにして、それをお民に言って見せた。
「わたしはお節句のことを話そうと思うのに、あなたはそんなに考えてばかりいるんですもの。だって、もう三月は来てるじゃありませんか。この御通行が済むまでは、どうすることもできないじゃありませんか。」
 新婚のそもそもは、娘の昔に別れを告げたばかりのお民にとって、むしろ苦痛でさえもあった。それが新しいよろこびに変わって来たころから、とかく店座敷を離れかねている。いつのまにか半蔵の膝(ひざ)はお民の方へ向いた。彼はまるで尻餅(しりもち)でもついたように、後ろ手を畳の上に落として、それで身をささえながら、妻籠から持って来たという記念の雛(ひな)人形の話なぞをするお民の方をながめた。手織り縞(じま)でこそあれ、当時の風俗のように割合に長くひいた裾(すそ)の着物は彼女に似合って見える。剃(そ)り落とした眉(まゆ)のあとも、青々として女らしい。半蔵の心をよろこばせたのは、ことにお民の手だ。この雪に燃えているようなその娘らしい手だ。彼は妻と二人ぎりでいて、その手に見入るのを楽しみに思った。
 実に突然に、お民は夫のそばですすり泣きを始めた。
「ほら、あなたはよくそう言うじゃありませんか。わたしに学問の話なぞをしても、ちっともわけがわからんなんて。そりゃ、あのお母(っか)さん(姑(しゅうとめ)、おまん)のまねはわたしにはできない。今まで、妻籠の方で、だれもわたしに教えてくれる人はなかったんですもの。」
「お前は機(はた)でも織っていてくれれば、それでいいよ。」
 お民は容易にすすり泣きをやめなかった。半蔵は思いがけない涙を聞きつけたというふうに、そばへ寄って妻をいたわろうとすると、
「教えて。」
 と言いながら、しばらくお民は夫の膝(ひざ)に顔をうずめていた。
 ちょうど本陣では隠居が病みついているころであった。あの婆(ばあ)さんももう老衰の極度にあった。
「おい、お民、お前は祖母(おばあ)さんをよく看(み)てくれよ。」
 と言って、やがて半蔵は隠居の臥(ね)ている部屋(へや)の方へお民を送り、自分でも気を取り直した。
 いつでも半蔵が心のさみしいおりには、日ごろ慕っている平田篤胤(あつたね)の著書を取り出して見るのを癖のようにしていた。『霊(たま)の真柱(まはしら)』、『玉だすき』、それから講本の『古道大意』なぞは読んでも読んでも飽きるということを知らなかった。大判の薄藍色(うすあいいろ)の表紙から、必ず古紫の糸で綴(と)じてある本の装幀(そうてい)までが、彼には好ましく思われた。『静(しず)の岩屋(いわや)』、『西籍概論(さいせきがいろん)』の筆記録から、三百部を限りとして絶版になった『毀誉(きよ)相半ばする書』のような気吹(いぶき)の舎(や)の深い消息までも、不便な山の中で手に入れているほどの熱心さだ。平田篤胤は天保(てんぽう)十四年に没している故人で、この黒船騒ぎなぞをもとより知りようもない。あれほどの強さに自国の学問と言語の独立を主張した人が、嘉永(かえい)安政の代に生きるとしたら――すくなくもあの先輩はどうするだろうとは、半蔵のような青年の思いを潜めなければならないことであった。
 新しい機運は動きつつあった。全く気質を相異(あいこと)にし、全く傾向を相異にするようなものが、ほとんど同時に踏み出そうとしていた。長州(ちょうしゅう)萩(はぎ)の人、吉田松陰(よしだしょういん)は当時の厳禁たる異国への密航を企てて失敗し、信州松代(まつしろ)の人、佐久間象山(さくましょうざん)はその件に連座して獄に下ったとのうわさすらある。美濃の大垣(おおがき)あたりに生まれた青年で、異国の学問に志し、遠く長崎の方へ出発したという人の話なぞも、決してめずらしいことではなくなった。
「黒船。」
 雪で明るい部屋(へや)の障子に近く行って、半蔵はその言葉を繰り返して見た。遠い江戸湾のかなたには、実に八、九艘(そう)もの黒船が来てあの沖合いに掛かっていることを胸に描いて見た。その心から、彼は尾張藩主の出府も容易でないと思った。


 木曾(きそ)寄せの人足七百三十人、伊那(いな)の助郷(すけごう)千七百七十人、この人数合わせて二千五百人を動かすほどの大通行が、三月四日に馬籠の宿を経て江戸表へ下ることになった。宿場に集まった馬の群れだけでも百八十匹、馬方百八十人にも上った。
 松雲和尚は万福寺の方にいて、長いこと留守にした方丈にもろくろく落ちつかないうちに、三月四日を迎えた。前の晩に来たはげしい雷鳴もおさまり、夜中ごろから空も晴れて、人馬の継ぎ立てはその日の明け方から始まった。
 尾張藩主が出府と聞いて、寺では徒弟僧(とていそう)も寺男もじっとしていない。大領主のさかんな通行を見ようとして裏山越しに近在から入り込んで来る人たちは、門前の石段の下に小径(こみち)の続いている墓地の間を急ぎ足に通る。
「お前たちも行って殿様をお迎えするがいい。」
 と松雲は二人の弟子(でし)にも寺男にも言った。
 旅にある日の松雲はかなりわびしい思いをして来た。京都の宿で患(わずら)いついた時は、書きにくい手紙を伏見屋の金兵衛にあてて、余分な路銀の心配までかけたこともある。もし無事に行脚(あんぎゃ)の修業を終わる日が来たら、村のためにも役に立とう、貧しい百姓の子供をも教えよう、そう考えて旅から帰って来た。周囲にある空気のあわただしさ。この動揺の中に僧侶(そうりょ)の身をうけて、どうして彼は村の幼く貧しいものを育てて行こうかとさえ思った。
「和尚さま。」

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