夜明け前
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著者名:島崎藤村 

     序の章

       一

 木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、木曾十一宿(しゅく)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。名高い桟(かけはし)も、蔦(つた)のかずらを頼みにしたような危(あぶな)い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降(くだ)って来た。道の狭いところには、木を伐(き)って並べ、藤(ふじ)づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨(けんそ)な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫(はんらん)が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄(もよ)り最寄りの宿場に逗留(とうりゅう)して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷(けいこく)の最も深いところには木曾福島(きそふくしま)の関所も隠れていた。
 東山道(とうさんどう)とも言い、木曾街道六十九次(つぎ)とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋(いたばし)を経て江戸に続き、西は大津(おおつ)を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否(いや)でも応(おう)でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚(つか)を築き、榎(えのき)を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
 馬籠(まごめ)は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境(みのざかい)にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿(しゅく)を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣(いしがき)を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札(こうさつ)の立つところを中心に、本陣(ほんじん)、問屋(といや)、年寄(としより)、伝馬役(てんまやく)、定歩行役(じょうほこうやく)、水役(みずやく)、七里役(しちりやく)(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主(おも)な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名(こな)の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町(あらまち)、みつや、横手(よこて)、中のかや、岩田(いわた)、峠(とうげ)などの部落がそれだ。そこの宿はずれでは狸(たぬき)の膏薬(こうやく)を売る。名物栗(くり)こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処(おやすみどころ)もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山(えなさん)のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通(かよ)って来るようなところだ。
 本陣の当主吉左衛門(きちざえもん)と、年寄役の金兵衛(きんべえ)とはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、二人(ふたり)ともすでに五十の坂を越していた。吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。これは当時としてめずらしいことでもない。吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。吉左衛門にはすでに半蔵(はんぞう)という跡継ぎがある。しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。福島の役所からでもその沙汰(さた)があって、いよいよ引退の時期が来るまでは、まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。

       二

 山里へは春の来ることもおそい。毎年旧暦の三月に、恵那(えな)山脈の雪も溶けはじめるころになると、にわかに人の往来も多い。中津川(なかつがわ)の商人は奥筋(おくすじ)(三留野(みどの)、上松(あげまつ)、福島から奈良井(ならい)辺までをさす)への諸勘定(かんじょう)を兼ねて、ぽつぽつ隣の国から登って来る。伊那(いな)の谷の方からは飯田(いいだ)の在のものが祭礼の衣裳(いしょう)なぞを借りにやって来る。太神楽(だいかぐら)もはいり込む。伊勢(いせ)へ、津島へ、金毘羅(こんぴら)へ、あるいは善光寺への参詣(さんけい)もそのころから始まって、それらの団体をつくって通る旅人の群れの動きがこの街道に活気をそそぎ入れる。
 西の領地よりする参覲交代(さんきんこうたい)の大小の諸大名、日光への例幣使(れいへいし)、大坂の奉行(ぶぎょう)や御加番衆(おかばんしゅう)などはここを通行した。吉左衛門なり金兵衛なりは他の宿役人を誘い合わせ、羽織(はおり)に無刀、扇子(せんす)をさして、西の宿境(しゅくざかい)までそれらの一行をうやうやしく出迎える。そして東は陣場(じんば)か、峠の上まで見送る。宿から宿への継立(つぎた)てと言えば、人足(にんそく)や馬の世話から荷物の扱いまで、一通行あるごとに宿役人としての心づかいもかなり多い。多人数の宿泊、もしくはお小休(こやす)みの用意も忘れてはならなかった。水戸(みと)の御茶壺(おちゃつぼ)、公儀の御鷹方(おたかかた)をも、こんなふうにして迎える。しかしそれらは普通の場合である。村方の財政や山林田地のことなぞに干渉されないで済む通行である。福島勘定所の奉行を迎えるとか、木曾山一帯を支配する尾張藩(おわりはん)の材木方を迎えるとかいう日になると、ただの送り迎えや継立てだけではなかなか済まされなかった。
 多感な光景が街道にひらけることもある。文政九年の十二月に、黒川村の百姓が牢舎(ろうや)御免ということで、美濃境まで追放を命ぜられたことがある。二十二人の人数が宿籠(しゅくかご)で、朝の五つ時(どき)に馬籠(まごめ)へ着いた。師走(しわす)ももう年の暮れに近い冬の日だ。その時も、吉左衛門は金兵衛と一緒に雪の中を奔走して、村の二軒の旅籠屋(はたごや)で昼じたくをさせるから国境(くにざかい)へ見送るまでの世話をした。もっとも、福島からは四人の足軽(あしがる)が付き添って来たが、二十二人ともに残らず腰繩(こしなわ)手錠であった。
 五十余年の生涯(しょうがい)の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の遺骸(いがい)がこの街道を通った時のことにとどめをさす。藩主は江戸で亡(な)くなって、その領地にあたる木曾谷を輿(こし)で運ばれて行った。福島の代官、山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋の大領主から託されているわけだ。吉左衛門らは二人(ふたり)の主人をいただいていることになるので、名古屋城の藩主を尾州(びしゅう)の殿と呼び、その配下にある山村氏を福島の旦那(だんな)様と呼んで、「殿様」と「旦那様」で区別していた。
「あれは天保(てんぽう)十年のことでした。全く、あの時の御通行は前代未聞(ぜんだいみもん)でしたわい。」
 この金兵衛の話が出るたびに、吉左衛門は日ごろから「本陣鼻」と言われるほど大きく肉厚(にくあつ)な鼻の先へしわをよせる。そして、「また金兵衛さんの前代未聞が出た」と言わないばかりに、年齢(とし)の割合にはつやつやとした色の白い相手の顔をながめる。しかし金兵衛の言うとおり、あの時の大通行は全く文字どおり前代未聞の事と言ってよかった。同勢およそ千六百七十人ほどの人数がこの宿にあふれた。問屋の九太夫(くだゆう)、年寄役の儀助(ぎすけ)、同役の新七、同じく与次衛門(よじえもん)、これらの宿役人仲間から組頭(くみがしら)のものはおろか、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。木曾谷中から寄せた七百三十人の人足だけでは、まだそれでも手が足りなくて、千人あまりもの伊那の助郷(すけごう)が出たのもあの時だ。諸方から集めた馬の数は二百二十匹にも上った。吉左衛門の家は村でも一番大きい本陣のことだから言うまでもないが、金兵衛の住居(すまい)にすら二人の御用人(ごようにん)のほかに上下合わせて八十人の人数を泊め、馬も二匹引き受けた。
 木曾は谷の中が狭くて、田畑もすくない。限りのある米でこの多人数の通行をどうすることもできない。伊那の谷からの通路にあたる権兵衛(ごんべえ)街道の方には、馬の振る鈴音に調子を合わせるような馬子唄(まごうた)が起こって、米をつけた馬匹(ばひつ)の群れがこの木曾街道に続くのも、そういう時だ。

       三

 山の中の深さを思わせるようなものが、この村の周囲には数知れずあった。林には鹿(しか)も住んでいた。あの用心深い獣は村の東南を流れる細い下坂川(おりさかがわ)について、よくそこへ水を飲みに降りて来た。
 古い歴史のある御坂越(みさかごえ)をも、ここから恵那(えな)山脈の方に望むことができる。大宝(たいほう)の昔に初めて開かれた木曾路とは、実はその御坂を越えたものであるという。その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山のすその方には、霧が原の高原もひらけていて、そこにはまた古代の牧場の跡が遠くかすかに光っている。
 この山の中だ。時には荒くれた猪(いのしし)が人家の並ぶ街道にまで飛び出す。塩沢というところから出て来た猪は、宿(しゅく)はずれの陣場から薬師堂(やくしどう)の前を通り、それから村の舞台の方をあばれ回って、馬場へ突進したことがある。それ猪だと言って、皆々鉄砲などを持ち出して騒いだが、日暮れになってその行くえもわからなかった。この勢いのいい獣に比べると、向山(むこうやま)から鹿の飛び出した時は、石屋の坂の方へ行き、七回りの藪(やぶ)へはいった。おおぜいの村の人が集まって、とうとう一矢(ひとや)でその鹿を射とめた。ところが隣村の湯舟沢(ゆぶねざわ)の方から抗議が出て、しまいには口論にまでなったことがある。
「鹿よりも、けんかの方がよっぽどおもしろかった。」
 と吉左衛門は金兵衛に言って見せて笑った。何かというと二人(ふたり)は村のことに引っぱり出されるが、そんなけんかは取り合わなかった。
 檜木(ひのき)、椹(さわら)、明檜(あすひ)、高野槇(こうやまき)、※(ねずこ)[#「木+臘のつくり」、10-17]――これを木曾では五木(ごぼく)という。そういう樹木の生長する森林の方はことに山も深い。この地方には巣山(すやま)、留山(とめやま)、明山(あきやま)の区別があって、巣山と留山とは絶対に村民の立ち入ることを許されない森林地帯であり、明山のみが自由林とされていた。その明山でも、五木ばかりは許可なしに伐採することを禁じられていた。これは森林保護の精神より出たことは明らかで、木曾山を管理する尾張藩がそれほどこの地方から生まれて来る良い材木を重く視(み)ていたのである。取り締まりはやかましい。すこしの怠りでもあると、木曾谷中三十三か村の庄屋(しょうや)は上松(あげまつ)の陣屋へ呼び出される。吉左衛門の家は代々本陣庄屋問屋の三役を兼ねたから、そのたびに庄屋として、背伐(せぎ)りの厳禁を犯した村民のため言い開きをしなければならなかった。どうして檜木(ひのき)一本でもばかにならない。陣屋の役人の目には、どうかすると人間の生命(いのち)よりも重かった。
「昔はこの木曾山の木一本伐ると、首一つなかったものだぞ。」
 陣屋の役人の威(おど)し文句だ。
 この役人が吟味のために村へはいり込むといううわさでも伝わると、猪(いのしし)や鹿(しか)どころの騒ぎでなかった。あわてて不用の材木を焼き捨てるものがある。囲って置いた檜板(ひのきいた)を他(よそ)へ移すものがある。多分の木を盗んで置いて、板にへいだり、売りさばいたりした村の人などはことに狼狽(ろうばい)する。背伐(せぎ)りの吟味と言えば、村じゅう家探(やさが)しの評判が立つほど厳重をきわめたものだ。
 目証(めあかし)の弥平(やへい)はもう長いこと村に滞在して、幕府時代の卑(ひく)い「おかっぴき」の役目をつとめていた。弥平の案内で、福島の役所からの役人を迎えた日のことは、一生忘れられない出来事の一つとして、まだ吉左衛門の記憶には新しくてある。その吟味は本陣の家の門内で行なわれた。のみならず、そんなにたくさんな怪我人(けがにん)を出したことも、村の歴史としてかつて聞かなかったことだ。前庭の上段には、福島から来た役人の年寄、用人、書役(かきやく)などが居並んで、そのわきには足軽が四人も控えた。それから村じゅうのものが呼び出された。その科(とが)によって腰繩(こしなわ)手錠で宿役人の中へ預けられることになった。もっとも、老年で七十歳以上のものは手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは「お叱(しか)り」というだけにとどめて特別な憐憫(れんびん)を加えられた。
 この光景をのぞき見ようとして、庭のすみの梨(なし)の木のかげに隠れていたものもある。その中に吉左衛門が忰(せがれ)の半蔵もいる。当時十八歳の半蔵は、目を据えて、役人のすることや、腰繩につながれた村の人たちのさまを見ている。それに吉左衛門は気がついて、
「さあ、行った、行った――ここはお前たちなぞの立ってるところじゃない。」
 としかった。
 六十一人もの村民が宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。その中の十人は金兵衛が預かった。馬籠(まごめ)の宿役人や組頭(くみがしら)としてこれが見ていられるものでもない。福島の役人たちが湯舟沢村の方へ引き揚げて行った後で、「お叱り」のものの赦免せられるようにと、不幸な村民のために一同お日待(ひまち)をつとめた。その時のお札は一枚ずつ村じゅうへ配当した。
 この出来事があってから二十日(はつか)ばかり過ぎに、「お叱り」のものの残らず手錠を免ぜられる日がようやく来た。福島からは三人の役人が出張してそれを伝えた。
 手錠を解かれた小前(こまえ)のものの一人(ひとり)は、役人の前に進み出て、おずおずとした調子で言った。
「畏(おそ)れながら申し上げます。木曾は御承知のとおりな山の中でございます。こんな田畑もすくないような土地でございます。お役人様の前ですが、山の林にでもすがるよりほかに、わたくしどもの立つ瀬はございません。」

       四

 新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍(みちばた)に芭蕉(ばしょう)の句塚(くづか)の建てられたころは、なんと言っても徳川の代(よ)はまだ平和であった。
 木曾路の入り口に新しい名所を一つ造る、信濃(しなの)と美濃(みの)の国境(くにざかい)にあたる一里塚(づか)に近い位置をえらんで街道を往来する旅人の目にもよくつくような緩慢(なだらか)な丘のすそに翁塚(おきなづか)を建てる、山石や躑躅(つつじ)や蘭(らん)などを運んで行って周囲に休息の思いを与える、土を盛りあげた塚の上に翁の句碑を置く――その楽しい考えが、日ごろ俳諧(はいかい)なぞに遊ぶと聞いたこともない金兵衛の胸に浮かんだということは、それだけでも吉左衛門を驚かした。そういう吉左衛門はいくらか風雅の道に嗜(たしな)みもあって、本陣や庄屋の仕事のかたわら、美濃派の俳諧の流れをくんだ句作にふけることもあったからで。
 あれほど山里に住む心地(こころもち)を引き出されたことも、吉左衛門らにはめずらしかった。金兵衛はまた石屋に渡した仕事もほぼできたと言って、その都度(つど)句碑の工事を見に吉左衛門を誘った。二人とも山家風(やまがふう)な軽袗(かるさん)(地方により、もんぺいというもの)をはいて出かけたものだ。
「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、口癖のようにそう言っていました。まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
 そう言って見せる金兵衛の案内で、吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ送りつ果(はて)は木曾の龝(あき)  はせを

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。
 あれは天保十四年にあたる。いわゆる天保の改革の頃で、世の中建て直しということがしきりに触れ出される。村方一切の諸帳簿の取り調べが始まる。福島の役所からは公役、普請役(ふしんやく)が上って来る。尾張藩の寺社(じしゃ)奉行(ぶぎょう)、または材木方の通行も続く。馬籠の荒町(あらまち)にある村社の鳥居(とりい)のために檜木(ひのき)を背伐(せぎ)りしたと言って、その始末書を取られるような細かい干渉がやって来る。村民の使用する煙草(たばこ)入(い)れ、紙入れから、女のかんざしまで、およそ銀という銀を用いた類(たぐい)のものは、すべて引き上げられ、封印をつけられ、目方まで改められて、庄屋(しょうや)預けということになる。それほど政治はこまかくなって、句碑一つもうっかり建てられないような時世ではあったが、まだまだそれでも社会にゆとりがあった。
 翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。あいにくと曇った日で、八(や)つ半時(はんどき)より雨も降り出した。招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、手土産(てみやげ)も田舎(いなか)らしく、扇子に羊羹(ようかん)を添えて来るもの、生椎茸(なまじいたけ)をさげて来るもの、先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、国も二つ、言葉の訛(なま)りもまた二つに入れまじった。その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿落合(おちあい)の宗匠、崇佐坊(すさぼう)も招かれて来た。この人の世話で、美濃派の俳席らしい支考(しこう)の『三□(さんちょう)の図』なぞの壁にかけられたところで、やがて連中の付合(つけあい)があった。
 主人役の金兵衛は、自分で五十韻、ないし百韻の仲間入りはできないまでも、
「これで、さぞ親父(おやじ)もよろこびましょうよ。」
 と言って、弁当に酒さかななど重詰(じゅうづめ)にして出し、招いた人たちの間を斡旋(あっせん)した。
 その日は新たにできた塚のもとに一同集まって、そこで吟声供養を済ますはずであった。ところが、記念の一巻を巻き終わるのに日暮れ方までかかって、吟声は金兵衛の宅で済ました。供養の式だけを新茶屋の方で行なった。
 昔気質(むかしかたぎ)の金兵衛は亡父の形見(かたみ)だと言って、その日宗匠崇佐坊(すさぼう)へ茶縞(ちゃじま)の綿入れ羽織なぞを贈るために、わざわざ自分で落合まで出かけて行く人である。
 吉左衛門は金兵衛に言った。
「やっぱり君はわたしのよい友だちだ。」

       五

 暑い夏が来た。旧暦五月の日のあたった街道を踏んで、伊那(いな)の方面まで繭買いにと出かける中津川の商人も通る。その草いきれのするあつい空気の中で、上り下りの諸大名の通行もある。月の末には毎年福島の方に立つ毛付(けづ)け(馬市)も近づき、各村の駒改(こまあらた)めということも新たに開始された。当時幕府に勢力のある彦根(ひこね)の藩主(井伊(いい)掃部頭(かもんのかみ))も、久しぶりの帰国と見え、須原宿(すはらじゅく)泊まり、妻籠宿(つまごしゅく)昼食(ちゅうじき)、馬籠はお小休(こやす)みで、木曾路を通った。
 六月にはいって見ると、うち続いた快晴で、日に増し照りも強く、村じゅうで雨乞(あまご)いでも始めなければならないほどの激しい暑気になった。荒町の部落ではすでにそれを始めた。
 ちょうど、峠の上の方から馬をひいて街道を降りて来る村の小前(こまえ)のものがある。福島の馬市からの戻(もど)りと見えて、青毛の親馬のほかに、当歳らしい一匹の子馬をもそのあとに連れている。気の短い問屋の九太夫(くだゆう)がそれを見つけて、どなった。
「おい、どこへ行っていたんだい。」
「馬買いよなし。」
「この旱(ひで)りを知らんのか。お前の留守に、田圃(たんぼ)は乾(かわ)いてしまう。荒町あたりじゃ梵天山(ぼんでんやま)へ登って、雨乞いを始めている。氏神(うじがみ)さまへ行ってごらん、お千度(せんど)参(まい)りの騒ぎだ。」
「そう言われると、一言(いちごん)もない。」
「さあ、このお天気続きでは、伊勢木(いせぎ)を出さずに済むまいぞ。」
 伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願をこめるための神木(しんぼく)をさす。こうした深い山の中に古くから行なわれる雨乞いの習慣である。よくよくの年でなければこの伊勢木を引き出すということもなかった。
 六月の六日、村民一同は鎌止(かまど)めを申し合わせ、荒町にある氏神の境内に集まった。本陣、問屋をはじめ、宿役人から組頭(くみがしら)まで残らずそこに参集して、氏神境内の宮林(みやばやし)から樅(もみ)の木一本を元伐(もとぎ)りにする相談をした。
「一本じゃ、伊勢木も足りまい。」
 と吉左衛門が言い出すと、金兵衛はすかさず答えた。
「や、そいつはわたしに寄付させてもらいましょう。ちょうどよい樅(もみ)が一本、吾家(うち)の林にもありますから。」
 元伐(もとぎ)りにした二本の樅には注連(しめ)なぞが掛けられて、その前で禰宜(ねぎ)の祈祷(きとう)があった。この清浄な神木が日暮れ方になってようやく鳥居の前に引き出されると、左右に分かれた村民は声を揚げ、太い綱でそれを引き合いはじめた。
「よいよ。よいよ。」
 互いに競い合う村の人たちの声は、荒町のはずれから馬籠の中央にある高札場(こうさつば)あたりまで響けた。こうなると、庄屋としての吉左衛門も骨が折れる。金兵衛は自分から進んで神木の樅を寄付した関係もあり、夕飯のしたくもそこそこにまた馬籠の町内のものを引き連れて行って見ると、伊勢木はずっと新茶屋の方まで荒町の百姓の力に引かれて行く。それを取り戻そうとして、三(み)つや表(おもて)から畳石(たたみいし)の辺で双方のもみ合いが始まる。とうとうその晩は伊勢木を荒町に止めて置いて、一同疲れて家に帰ったころは一番鶏(どり)が鳴いた。


「どうもことしは年回りがよくない。」
「そう言えば、正月のはじめから不思議なこともありましたよ。正月の三日の晩です、この山の東の方から光ったものが出て、それが西南(にしみなみ)の方角へ飛んだといいます。見たものは皆驚いたそうですよ。馬籠(まごめ)ばかりじゃない、妻籠(つまご)でも、山口でも、中津川でも見たものがある。」
 吉左衛門と金兵衛とは二人(ふたり)でこんな話をして、伊勢木の始末をするために、村民の集まっているところへ急いだ。山里に住むものは、すこし変わったことでも見たり聞いたりすると、すぐそれを何かの暗示に結びつけた。
 三日がかりで村じゅうのものが引き合った伊勢木を落合川の方へ流したあとになっても、まだ御利生(ごりしょう)は見えなかった。峠のものは熊野(くまの)大権現(だいごんげん)に、荒町のものは愛宕山(あたごやま)に、いずれも百八の松明(たいまつ)をとぼして、思い思いの祈願をこめる。宿内では二組に分かれてのお日待(ひまち)も始まる。雨乞いの祈祷(きとう)、それに水の拝借と言って、村からは諏訪(すわ)大社(たいしゃ)へ二人の代参までも送った。神前へのお初穂料(はつほりょう)として金百疋(ぴき)、道中の路用として一人(ひとり)につき一分(ぶ)二朱(しゅ)ずつ、百六十軒の村じゅうのものが十九文ずつ出し合ってそれを分担した。
 東海道浦賀(うらが)の宿(しゅく)、久里(くり)が浜(はま)の沖合いに、黒船のおびただしく現われたといううわさが伝わって来たのも、村ではこの雨乞いの最中である。
 問屋の九太夫がまずそれを彦根(ひこね)の早飛脚(はやびきゃく)から聞きつけて、吉左衛門にも告げ、金兵衛にも告げた。その黒船の現われたため、にわかに彦根の藩主は幕府から現場の詰役(つめやく)を命ぜられたとのこと。
 嘉永(かえい)六年六月十日の晩で、ちょうど諏訪大社からの二人の代参が村をさして大急ぎに帰って来たころは、その乾(かわ)ききった夜の空気の中を彦根の使者が西へ急いだ。江戸からの便(たよ)りは中仙道(なかせんどう)を経て、この山の中へ届くまでに、早飛脚でも相応日数はかかる。黒船とか、唐人船(とうじんぶね)とかがおびただしくあの沖合いにあらわれたということ以外に、くわしいことはだれにもわからない。ましてアメリカの水師提督ペリイが四艘(そう)の軍艦を率いて、初めて日本に到着したなぞとは、知りようもない。
「江戸は大変だということですよ。」
 金兵衛はただそれだけを吉左衛門の耳にささやいた。


[#改丁]



     第一章

       一

 七月にはいって、吉左衛門(きちざえもん)は木曾福島(きそふくしま)の用事を済まして出張先から引き取って来た。その用向きは、前の年の秋に、福島の勘定所から依頼のあった仕法立(しほうだ)ての件で、馬籠(まごめ)の宿(しゅく)としては金百両の調達を引き請け、暮れに五十両の無尽(むじん)を取り立ててその金は福島の方へ回し、二番口も敷金にして、首尾よく無尽も終会になったところで、都合全部の上納を終わったことを届けて置いてあった。今度、福島からその挨拶(あいさつ)があったのだ。
 金兵衛(きんべえ)は待ち兼ね顔に、無事で帰って来たこの吉左衛門を自分の家の店座敷(みせざしき)に迎えた。金兵衛の家は伏見屋(ふしみや)と言って、造り酒屋をしている。街道に添うた軒先に杉(すぎ)の葉の円(まる)く束(たば)にしたのを掛け、それを清酒の看板に代えてあるようなところだ。店座敷も広い。その時、吉左衛門は福島から受け取って来たものを風呂敷(ふろしき)包(づつ)みの中から取り出して、
「さあ、これだ。」
 と金兵衛の前に置いた。村の宿役人仲間へ料紙一束ずつ、無尽の加入者一同への酒肴料(しゅこうりょう)、まだそのほかに、二巾(ふたはば)の縮緬(ちりめん)の風呂敷が二枚あった。それは金兵衛と桝田屋(ますだや)の儀助(ぎすけ)の二人(ふたり)が特に多くの金高を引き受けたというので、その挨拶の意味のものだ。
 吉左衛門の報告はそれだけにとどまらなかった。最後に、一通の書付(かきつけ)もそこへ取り出して見せた。

「其方(そのほう)儀、御勝手(おかって)御仕法立てにつき、頼母子講(たのもしこう)御世話方(かた)格別に存じ入り、小前(こまえ)の諭(さと)し方も行き届き、その上、自身にも別段御奉公申し上げ、奇特の事に候(そうろう)。よって、一代苗字(みょうじ)帯刀(たいとう)御免なし下され候。その心得あるべきものなり。」
  嘉永(かえい)六年丑(うし)六月
三(みつ)逸作(いつさく)石(いし)団之丞(だんのじょう)荻(おぎ)丈左衛門(じょうざえもん)白(しろ)新五左衛門(しんござえもん)    青山吉左衛門殿

「ホ。苗字帯刀御免とありますね。」
「まあ、そんなことが書いてある。」
「吉左衛門さん一代限りともありますね。なんにしても、これは名誉だ。」
と金兵衛が言うと、吉左衛門はすこし苦(にが)い顔をして、
「これが、せめて十年前だとねえ。」
 ともかくも吉左衛門は役目を果たしたが、同時に勘定所の役人たちがいやな臭気(におい)をもかいで帰って来た。苗字帯刀を勘定所のやり繰り算段に替えられることは、吉左衛門としてあまりいい心持ちはしなかった。
「金兵衛さん、君には察してもらえるでしょうが、庄屋(しょうや)のつとめも辛(つら)いものだと思って来ましたよ。」
 吉左衛門の述懐だ。
 その時、上(かみ)の伏見屋の仙十郎(せんじゅうろう)が顔を出したので、しばらく二人(ふたり)はこんな話を打ち切った。仙十郎は金兵衛の仕事を手伝わされているので、ちょっと用事の打ち合わせに来た。金兵衛を叔父(おじ)と呼び、吉左衛門を義理ある父としているこの仙十郎は伏見家から分家して、別に上の伏見屋という家を持っている。年も半蔵より三つほど上で、腰にした煙草入(たばこい)れの根付(ねつけ)にまで新しい時の流行(はやり)を見せたような若者だ。
「仙十郎、お前も茶でも飲んで行かないか。」
 と金兵衛が言ったが、仙十郎は吉左衛門の前に出ると妙に改まってしまって、茶も飲まなかった。何か気づまりな、じっとしていられないようなふうで、やがてそこを出て行った。
 吉左衛門は見送りながら、
「みんなどういう人になって行きますかさ――仙十郎にしても、半蔵にしても。」
 若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らない。アメリカのペリイ来訪以来のあわただしさはおろか、それ以前からの周囲の空気の中にあるものは、若者の目や耳から隠したいことばかりであった。殺人、盗賊、駈落(かけおち)、男女の情死、諸役人の腐敗沙汰(ざた)なぞは、この街道でめずらしいことではなくなった。
 同宿三十年――なんと言っても吉左衛門と金兵衛とは、その同じ駅路の記憶につながっていた。この二人に言わせると、日ごろ上に立つ人たちからやかましく督促せらるることは、街道のよい整理である。言葉をかえて言えば、封建社会の「秩序」である。しかしこの「秩序」を乱そうとするものも、そういう上に立つ人たちからであった。博打(ばくち)はもってのほかだという。しかし毎年の毛付(けづ)け(馬市)を賭博場(とばくじょう)に公開して、土地の繁華を計っているのも福島の役人であった。袖(そで)の下はもってのほかだという。しかし御肴代(おさかなだい)もしくは御祝儀(ごしゅうぎ)何両かの献上金を納めさせることなしに、かつてこの街道を通行したためしのないのも日光への例幣使であった。人殺しはもってのほかだという。しかし八沢(やさわ)の長坂の路傍(みちばた)にあたるところで口論の末から土佐(とさ)の家中(かちゅう)の一人を殺害し、その仲裁にはいった一人の親指を切り落とし、この街道で刃傷(にんじょう)の手本を示したのも小池(こいけ)伊勢(いせ)の家中であった。女は手形(てがた)なしには関所をも通さないという。しかし木曾路を通るごとに女の乗り物を用意させ、見る人が見ればそれが正式な夫人のものでないのも彦根(ひこね)の殿様であった。
「あゝ。」と吉左衛門は嘆息して、「世の中はどうなって行くかと思うようだ。あの御勘定所のお役人なぞがお殿様からのお言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、吾家(うち)の床柱の前にでもすわり込まれると、わたしはまたかと思う。しかし、金兵衛さん、そのお役人の行ってしまったあとでは、わたしはどんな無理なことでも聞かなくちゃならないような気がする……」
 東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた。江戸から八十三里の余も隔たった木曾の山の中に住んで、鎖国以来の長い眠りを眠りつづけて来たものは、アメリカのような異国の存在すら初めて知るくらいの時だ。
 この街道に伝わるうわさの多くは、諺(ことわざ)にもあるようにころがるたびに大きな塊(かたまり)になる雪達磨(ゆきだるま)に似ている。六月十日の晩に、彦根の早飛脚が残して置いて行ったうわさもそれで、十四日には黒船八十六艘(そう)もの信じがたいような大きな話になって伝わって来た。寛永(かんえい)十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられ、オランダ、シナ、朝鮮をのぞくほかは外国船の来航をも堅く禁じてある。その国のおきてを無視して、故意にもそれを破ろうとするものがまっしぐらにあの江戸湾を望んで直進して来た。当時幕府が船改めの番所は下田(しもだ)の港から浦賀の方に移してある。そんな番所の所在地まで知って、あの唐人船(とうじんぶね)がやって来たことすら、すでに不思議の一つであると言われた。
 様々な流言が伝わって来た。宿役人としての吉左衛門らはそんな流言からも村民をまもらねばならなかった。やがて通行の前触れだ。間もなくこの街道では江戸出府の尾張(おわり)の家中を迎えた。尾張藩主(徳川慶勝(よしかつ))の名代(みょうだい)、成瀬(なるせ)隼人之正(はやとのしょう)、その家中のおびただしい通行のあとには、かねて待ち受けていた彦根の家中も追い追いやって来る。公儀の御茶壺(おちゃつぼ)同様にとの特別扱いのお触れがあって、名古屋城からの具足(ぐそく)長持(ながもち)が十棹(とさお)もそのあとから続いた。それらの警護の武士が美濃路(みのじ)から借りて連れて来た人足だけでも、百五十人に上った。継立(つぎた)ても難渋であった。馬籠の宿場としては、山口村からの二十人の加勢しか得られなかった。例の黒船はやがて残らず帰って行ったとやらで、江戸表へ出張の人たちは途中から引き返して来るものがある。ある朝馬籠(まごめ)から送り出した長持は隣宿の妻籠(つまご)で行き止まり、翌朝中津川から来た長持は馬籠の本陣の前で立ち往生する。荷物はそれぞれ問屋預けということになったが、人馬継立ての見分(けんぶん)として奉行(ぶぎょう)まで出張して来るほど街道はごたごたした。
 狼狽(ろうばい)そのもののようなこの混雑が静まったのは、半月ほど前にあたる。浦賀へ押し寄せて来た唐人船も行くえ知れずになって、まずまず恐悦(きょうえつ)だ。そんな報知(しらせ)が、江戸方面からは追い追いと伝わって来たころだ。
 吉左衛門は金兵衛を相手に、伏見屋の店座敷で話し込んでいると、ちょうどそこへ警護の武士を先に立てた尾張の家中の一隊が西から街道を進んで来た。吉左衛門と金兵衛とは談話(はなし)半ばに伏見屋を出て、この一隊を迎えるためにほかの宿役人らとも一緒になった。尾張の家中は江戸の方へ大筒(おおづつ)の鉄砲を運ぶ途中で、馬籠の宿の片側に来て足を休めて行くところであった。本陣や問屋の前あたりは檜木笠(ひのきがさ)や六尺棒なぞで埋(うず)められた。騎馬から降りて休息する武士もあった。肌(はだ)脱ぎになって背中に流れる汗をふく人足たちもあった。よくあの重いものをかつぎ上げて、美濃境(みのざかい)の十曲峠(じっきょくとうげ)を越えることができたと、人々はその話で持ちきった。吉左衛門はじめ、金兵衛らはこの労苦をねぎらい、問屋の九太夫はまた桝田屋(ますだや)の儀助らと共にその間を奔(はし)り回って、隣宿妻籠までの継立てのことを斡旋(あっせん)した。
 村の人たちは皆、街道に出て見た。その中に半蔵もいた。彼は父の吉左衛門に似て背(せい)も高く、青々とした月代(さかやき)も男らしく目につく若者である。ちょうど暑さの見舞いに村へ来ていた中津川の医者と連れだって、通行の邪魔にならないところに立った。この医者が宮川(みやがわ)寛斎(かんさい)だ。半蔵の旧(ふる)い師匠だ。その時、半蔵は無言。寛斎も無言で、ただ医者らしく頭を円(まる)めた寛斎の胸のあたりに、手にした扇だけがわずかに動いていた。
「半蔵さん。」
 上の伏見屋の仙十郎もそこへ来て、考え深い目つきをしている半蔵のそばに立った。目方百十五、六貫ばかりの大筒(おおづつ)の鉄砲、この人足二十二人がかり、それに七人がかりから十人がかりまでの大筒五挺(ちょう)、都合六挺が、やがて村の人々の目の前を動いて行った。こんなに諸藩から江戸の邸(やしき)へ向けて大砲を運ぶことも、その日までなかったことだ。
 間もなく尾張の家中衆は見えなかった。しかし、不思議な沈黙が残った。その沈黙は、何が江戸の方に起こっているか知れないような、そんな心持ちを深い山の中にいるものに起こさせた。六月以来頻繁(ひんぱん)な諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものはなかったからで。あるものは江戸湾一帯の海岸の防備、あるものは江戸城下の警固のためであったからで。
 金兵衛は吉左衛門の袖(そで)を引いて言った。
「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。まあ、おかげでお継立(つぎた)ても済みました。今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。あとでおいでを願いましょう。そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。」


 酒のさかな。胡瓜(きゅうり)もみに青紫蘇(あおじそ)。枝豆。到来物の畳(たた)みいわし。それに茄子(なす)の新漬(しんづ)け。飯の時にとろろ汁(じる)。すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。
 店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへ二人(ふたり)の席を設けた。山家風(やまがふう)な風呂(ふろ)の用意もお玉の心づくしであった。招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階への箱梯子(はこばしご)を登った。黒光りのするほどよく拭(ふ)き込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。西向きの二階の部屋(へや)には、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きが灰汁抜(あくぬ)けのした表装にして壁に掛けてある。八人のものが集まって馬籠風景の八つの眺(なが)めを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。
 夕飯。お玉は膳(ぜん)を運んで来た。ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。やがて酒もはじまった。
「吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。」とお玉が言った。「吾家(うち)の鶴松(つるまつ)も出まして、お世話さまでございます。」
「さあ、一杯やってください。」と言って、金兵衛はお玉を顧みて、「吉左衛門さんはお前、苗字(みょうじ)帯刀御免ということになったんだよ。今までの吉左衛門さんとは違うよ。」
「それはおめでとうございます。」
「いえ。」と吉左衛門は頭をかいて、「苗字帯刀もこう安売りの時世になって来ては、それほどありがたくもありません。」
「でも、悪い気持ちはしないでしょう。」と金兵衛は言った。「二本さして、青山吉左衛門で通る。どこへ出ても、大威張(おおいば)りだ。」
「まあ、そう言わないでくれたまえ。それよりか、盃(さかずき)でもいただこうじゃありませんか。」
 吉左衛門も酒はいける口であり、それに勧め上手(じょうず)なお玉のお酌(しゃく)で、金兵衛とさしむかいに盃を重ねた。その二階は、かつて翁塚(おきなづか)の供養のあったおりに、落合の宗匠崇佐坊(すさぼう)まで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いたところだ。そう言えば、吉左衛門や金兵衛の旧(むかし)なじみでもはやこの世にいない人も多い。馬籠の生まれで水墨の山水や花果などを得意にした画家の蘭渓(らんけい)もその一人(ひとり)だ。あの蘭渓も、黒船騒ぎなぞは知らずに亡(な)くなった。
「お玉さんの前ですが。」と吉左衛門は言った。「こうして御酒(ごしゅ)でもいただくと、実に一切を忘れますよ。わたしはよく思い出す。金兵衛さん、ほら、あのアトリ(□子鳥)三十羽に、茶漬(ちゃづ)け三杯――」
「それさ。」と金兵衛も思い出したように、「わたしも今それを言おうと思っていたところさ。」
 アトリ三十羽に茶漬け三杯。あれは嘉永(かえい)二年にあたる。山里では小鳥のおびただしく捕(と)れた年で、ことに大平村(おおだいらむら)の方では毎日三千羽ずつものアトリが驚くほど鳥網にかかると言われ、この馬籠の宿までたびたび売りに来るものがあった。小鳥の名所として土地のものが誇る木曾の山の中でも、あんな年はめったにあるものでなかった。仲間のものが集まって、一興を催すことにしたのもその時だ。そのアトリ三十羽に、茶漬け三杯食えば、褒美(ほうび)として別に三十羽もらえる。もしまた、その三十羽と茶漬け三杯食えなかった時は、あべこべに六十羽差し出さなければならないという約束だ。場処は蓬莱屋(ほうらいや)。時刻は七つ時(どき)。食い手は吉左衛門と金兵衛の二人。食わせる方のものは組頭(くみがしら)笹屋(ささや)の庄兵衛(しょうべえ)と小笹屋(こざさや)の勝七。それには勝負を見届けるものもなくてはならぬ。蓬莱屋の新七がその審判官を引き受けた。さて、食った。約束のとおり、一人で三十羽、茶漬け三杯、残らず食い終わって、褒美の三十羽ずつは吉左衛門と金兵衛とでもらった。アトリは形もちいさく、骨も柔らかく、鶫(つぐみ)のような小鳥とはわけが違う。それでもなかなか食いではあったが、二人とも腹もはらないで、その足で会所の店座敷へ押し掛けてたくさん茶を飲んだ。その時の二人の年齢もまた忘れられずにある。吉左衛門は五十一歳、金兵衛は五十三歳を迎えたことであった。二人はそれほど盛んな食欲を競い合ったものだ。
「あんなおもしろいことはなかった。」
「いや、大笑いにも、なんにも。あんなおもしろいことは前代未聞(みもん)さ。」
「出ましたね、金兵衛さんの前代未聞が――」
 こんな話も酒の上を楽しくした。隣人同志でもあり、宿役人同志でもある二人の友だちは、しばらく街道から離れる思いで、尽きない夜咄(よばなし)に、とろろ汁に、夏の夜のふけやすいことも忘れていた。
 馬籠(まごめ)の宿(しゅく)で初めて酒を造ったのは、伏見屋でなくて、桝田屋(ますだや)であった。そこの初代と二代目の主人、惣右衛門(そうえもん)親子のものであった。桝田屋の親子が協力して水の量目を計ったところ、下坂川(おりさかがわ)で四百六十目、桝田屋の井戸で四百八十目、伏見屋の井戸で四百九十目あったという。その中で下坂川の水をくんで、惣右衛門親子は初めて造り酒の試みに成功した。馬籠の水でも良い酒のできることを実際に示したのも親子二人のものであった。それまで馬籠には造り酒屋というものはなかった。
 この惣右衛門親子は、村の百姓の中から身を起こして無遠慮に頭を持ち上げた人たちであるばかりでなく、後の金兵衛らのためにも好(よ)かれ悪(あ)しかれ一つの進路を切り開いた最初の人たちである。桝田屋の初代が伏見屋から一軒置いて上隣りの街道に添うた位置に大きな家を新築したのは、宝暦七年の昔で、そのころに初代が六十五歳、二代目が二十五歳であった。親代々からの百姓であった初代惣右衛門が本家の梅屋から分かれて、別に自分の道を踏み出したのは、それよりさらに四十年も以前のことにあたる。
 馬籠は田畠(たはた)の間にすら大きくあらわれた石塊(いしころ)を見るような地方で、古くから生活も容易でないとされた山村である。初代惣右衛門はこの村に生まれて、十八歳の時から親の名跡(みょうせき)を継ぎ、岩石の間をもいとわず百姓の仕事を励んだ。本家は代々の年寄役でもあったので、若輩(じゃくはい)ながらにその役をも勤めた。旅人相手の街道に目をつけて、旅籠屋(はたごや)の新築を思い立ったのは、この初代が二十八、九のころにあたる。そのころの馬籠は、一分(ぶ)か二分の金を借りるにも、隣宿の妻籠(つまご)か美濃の中津川まで出なければならなかった。師走(しわす)も押し詰まったころになると、中津川の備前屋(びぜんや)の親仁(おやじ)が十日あまりも馬籠へ来て泊まっていて、町中へ小貸(こが)しなどした。その金でようやく村のものが年を越したくらいの土地柄(がら)であった。
 四人の子供を控えた初代惣右衛門夫婦の小歴史は、馬籠のような困窮な村にあって激しい生活苦とたたかった人たちの歴史である。百姓の仕事とする朝草(あさくさ)も、春先青草を見かける時分から九月十月の霜をつかむまで毎朝二度ずつは刈り、昼は人並みに会所の役を勤め、晩は宿泊の旅人を第一にして、その間に少しずつの米商いもした。かみさんはまたかみさんで、内職に豆腐屋をして、三、四人の幼いものを控えながら夜通し石臼(いしうす)をひいた。新宅の旅籠屋(はたごや)もできあがるころは、普請(ふしん)のおりに出た木の片(きれ)を燈(とぼ)して、それを油火(あぶらび)に替え、夜番の行燈(あんどん)を軒先へかかげるにも毎朝夜明け前に下掃除(したそうじ)を済まし、同じ布で戸障子(としょうじ)の敷居などを拭(ふ)いたのも、そのかみさんだ。貧しさにいる夫婦二人のものは、自分の子供らを路頭に立たせまいとの願いから、夜一夜ろくろく安気(あんき)に眠ったこともなかったほど働いた。
 そのころ、本家の梅屋では隣村湯舟沢から来る人足たちの宿をしていた。その縁故から、初代夫婦はなじみの人足に頼んで、春先の食米(くいまい)三斗ずつ内証で借りうけ、秋米(あきまい)で四斗ずつ返すことにしていた。これは田地を仕付けるにも、旅籠屋(はたごや)片手間では芝草の用意もなりかねるところから、麦で少しずつ刈り造ることに生活の方法を改めたからで。
 初代惣右衛門はこんなところから出発した。旅籠屋の営業と、そして骨の折れる耕作と。もともと馬籠にはほかによい旅籠屋もなかったから、新宅と言って泊まる旅人も多く、追い追いと常得意の客もつき、小女(こおんな)まで置き、その奉公人の給金も三分がものは翌年は一両に増してやれるほどになった。飯米(はんまい)一升買いの時代のあとには、一俵買いの時代も来、後には馬で中津川から呼ぶ時代も来た。新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった。旅籠屋営業のほかに少しずつ商売などもする町人であった。
 二代目惣右衛門はこの夫婦の末子として生まれた。親から仕来(しきた)った百姓は百姓として、惣領(そうりょう)にはまだ家の仕事を継ぐ特権もある。次男三男からはそれも望めなかった。十三、四のころから草刈り奉公に出て、末は雲助(くもすけ)にでもなるか。末子と生まれたものが成人しても、馬追いか駕籠(かご)かきにきまったものとされたほどの時代である。そういう中で、二代目惣右衛門は親のそばにいて、物心づくころから草刈り奉公にも出されなかったというだけでも、親惣右衛門を徳とした。この二代目がまた、親の仕事を幾倍かにひろげた。
 人も知るように、当時の諸大名が農民から収めた年貢米(ねんぐまい)の多くは、大坂の方に輸送されて、金銀に替えられた。大坂は米取引の一大市場であった。次第に商法も手広くやるころの二代目惣右衛門は、大坂の米相場にも無関心ではなかった人である。彼はまた、優に千両の無尽にも応じたが、それほど実力を積み蓄えた分限者(ぶげんしゃ)は木曾谷中にも彼のほかにないと言われるようになった。彼は貧困を征服しようとした親惣右衛門の心を飽くまでも持ちつづけた。誇るべき伝統もなく、そうかと言って煩(わずら)わされやすい過去もなかった。腕一本で、無造作に進んだ。
 天明(てんめい)六年は二代目惣右衛門が五十三歳を迎えたころである。そのころの彼は、大きな造り酒屋の店にすわって、自分の子に酒の一番火入れなどをさせながら、初代在世のころからの八十年にわたる過去を思い出すような人であった。彼は親先祖から譲られた家督財産その他一切のものを天からの預かり物と考えよと自分の子に誨(おし)えた。彼は金銭を日本の宝の一つと考えよと誨(おし)えた。それをみだりにわが物と心得て、私用に費やそうものなら、いつか「天道(てんどう)」に泄(も)れ聞こえる時が来るとも誨えた。彼は先代惣右衛門の出発点を忘れそうな子孫の末を心配しながら死んだ。
 伏見屋の金兵衛は、この惣右衛門親子の衣鉢(いはつ)を継いだのである。そういう金兵衛もまた持ち前の快活さで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、時には米の売買にもたずさわり、美濃の久々里(くくり)あたりの旗本にまで金を貸した。


 二人(ふたり)の隣人――吉左衛門と金兵衛とをよく比べて言う人に、中津川の宮川寛斎がある。この学問のある田舎(いなか)医者に言わせると、馬籠は国境(くにざかい)だ、おそらく町人気質(かたぎ)の金兵衛にも、あの惣右衛門親子にも、商才に富む美濃人の血が混(まじ)り合っているのだろう、そこへ行くと吉左衛門は多分に信濃(しなの)の百姓であると。
 吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦(そうしゅうみうら)の方から移って来た青山監物(けんもつ)の第二子であった。ここに一宇を建立(こんりゅう)して、万福寺(まんぷくじ)と名づけたのも、これまた同じ人であった。万福寺殿昌屋常久禅定門(まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん)、俗名青山次郎左衛門、隠居しての名を道斎(どうさい)と呼んだ人が、自分で建立した寺の墓地に眠ったのは、天正(てんしょう)十二年の昔にあたる。
「金兵衛さんの家と、おれの家とは違う。」
 と吉左衛門が自分の忰(せがれ)に言って見せるのも、その家族の歴史をさす。そういう吉左衛門が青山の家を継いだころは、十六代も連なり続いて来た木曾谷での最も古い家族の一つであった。
 遠い馬籠の昔はくわしく知るよしもない。青山家の先祖が木曾にはいったのは、木曾義昌(よしまさ)の時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。その後この地方の郷士(ごうし)として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、石田(いしだ)三成(みつなり)が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院は中仙道(なかせんどう)を登って関ヶ原の方へ向かった。その時の御先立(おさきだち)には、山村甚兵衛(じんべえ)、馬場(ばば)半左衛門(はんざえもん)、千村(ちむら)平右衛門(へいえもん)などの諸士を数える。馬籠の青山庄三郎(しょうざぶろう)、またの名重長(しげなが)(青山二代目)もまた、徳川方(がた)に味方し、馬籠の砦(とりで)にこもって、犬山勢(いぬやまぜい)を防いだ。当時犬山城の石川備前は木曾へ討手(うって)を差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方の味方をすると聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるようになったのも、当時の戦功によるものであるという。
 青山家の古い屋敷は、もと石屋の坂をおりた辺にあった。由緒(ゆいしょ)のある武具馬具なぞは、寛永年代の馬籠の大火に焼けて、二本の鎗(やり)だけが残った。その屋敷跡には代官屋敷の地名も残ったが、尾張藩への遠慮から、享保(きょうほう)九年の検地の時以来、代官屋敷の字(あざ)を石屋に改めたともいう。その辺は岩石の間で、付近に大きな岩があったからで。
 子供の時分の半蔵を前にすわらせて置いて、吉左衛門はよくこんな古い話をして聞かせた。彼はまた、酒の上のきげんのよい心持ちなぞから、表玄関の長押(なげし)の上に掛けてある古い二本の鎗の下へ小忰(こせがれ)を連れて行って、
「御覧、御先祖さまが見ているぞ。いたずらするとこわいぞ。」
 と戯れた。
 隣家の伏見屋なぞにない古い伝統が年若(としわか)な半蔵の頭に深く刻みつけられたのは、幼いころから聞いたこの父の炬燵話(こたつばなし)からで。自分の忰に先祖のことでも語り聞かせるとなると、吉左衛門の目はまた特別に輝いたものだ。
「代官造りという言葉は、地名で残っている。吾家(うち)の先祖が代官を勤めた時分に、田地を手造りにした場所だというので、それで代官造りさ。今の町田(まちだ)がそれさ。その時分には、毎年五月に村じゅうの百姓を残らず集めて植え付けをした。その日に吾家(うち)から酒を一斗出した。酔って田圃(たんぼ)の中に倒れるものがあれば、その年は豊年としたものだそうだ。」
 この話もよく出た。
 吉左衛門の代になって、本陣へ出入りの百姓の家は十三軒ほどある。その多くは主従の関係に近い。吉左衛門が隣家の金兵衛とも違って、村じゅうの百姓をほとんど自分の子のように考えているのも、由来する源は遠かった。

       二

「また、黒船ですぞ。」
 七月の二十六日には、江戸からの御隠使(ごおんし)が十二代将軍徳川家慶(いえよし)の薨去(こうきょ)を伝えた。道中奉行(どうちゅうぶぎょう)から、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なしに謹慎の意を表することになった。問屋九太夫の「また、黒船ですぞ」が、吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日過ぎのことであった。
「いったい、きょうは幾日です。七月の二十九日じゃありませんか。公儀の御隠使(ごおんし)が見えてから、まだ三日にしかならない。」
 と言って吉左衛門は金兵衛と顔を見合わせた。長崎へ着いたというその唐人船(とうじんぶね)が、アメリカの船ではなくて、ほかの異国の船だといううわさもあるが、それさえこの山の中では判然(はっきり)しなかった。多くの人は、先に相州浦賀の沖合いへあらわれたと同じ唐人船だとした。
「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ。」
 と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、先荷物(さきにもつ)を運んで来る人たちの話はまちまちであった。奉行は通行を急いでいるとのことで、道割もいろいろに変わって来るので、宿場宿場で継立(つぎた)てに難渋した。八月の一日には、この街道では栗色(くりいろ)なめしの鎗(やり)を立てて江戸方面から進んで来る新任の長崎奉行、幕府内でも有数の人材に数えらるる水野(みずの)筑後(ちくご)の一行を迎えた。
 ちょうど、吉左衛門が羽織を着かえに、大急ぎで自分の家へ帰った時のことだ。妻のおまんは刀に脇差(わきざし)なぞをそこへ取り出して来て勧めた。
「いや、馬籠の駅長で、おれはたくさんだ。」
 と吉左衛門は言って、晴れて差せる大小も身に着けようとしなかった。今までどおりの丸腰で、着慣れた羽織だけに満足して、やがて奉行の送り迎えに出た。
 諸公役が通過の時の慣例のように、吉左衛門は長崎奉行の駕籠(かご)の近く挨拶(あいさつ)に行った。旅を急ぐ奉行は乗り物からも降りなかった。本陣の前に駕籠を停(と)めさせてのほんのお小休みであった。料紙を載せた三宝(さんぽう)なぞがそこへ持ち運ばれた。その時、吉左衛門は、駕籠のそばにひざまずいて、言葉も簡単に、
「当宿本陣の吉左衛門でございます。お目通りを願います。」
 と声をかけた。
「おゝ、馬籠の本陣か。」
 奉行の砕けた挨拶だ。
 水野筑後(ちくご)は二千石の知行(ちぎょう)ということであるが、特にその旅は十万石の格式で、重大な任務を帯びながら遠く西へと通り過ぎた。


 街道は暮れて行った。会所に集まった金兵衛はじめ、その他の宿役人もそれぞれ家の方へ帰って行った。隣宿落合まで荷をつけて行った馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送ったあとで、ぽつぽつ馬を引いて戻って来るころだ。
 子供らは街道に集まっていた。夕空に飛びかう蝙蝠(こうもり)の群れを追い回しながら、遊び戯れているのもその子供らだ。山の中のことで、夜鷹(よたか)もなき出す。往来一つ隔てて本陣とむかい合った梅屋の門口には、夜番の軒行燈(のきあんどん)の燈火(あかり)もついた。
 一日の勤めを終わった吉左衛門は、しばらく自分の家の外に出て、山の空気を吸っていた。やがておまんが二人の下女(げじょ)を相手に働いている炉ばたの方へ引き返して行った。
「半蔵は。」
 と吉左衛門はおまんにたずねた。
「今、今、仙十郎さんと二人でここに話していましたよ。あなた、異人の船がまたやって来たというじゃありませんか。半蔵はだれに聞いて来たんですか、オロシャの船だと言う。仙十郎さんはアメリカの船だと言う。オロシャだ、いやアメリカだ、そんなことを言い合って、また二人で屋外(そと)へ出て行きましたよ。」
「長崎あたりのことは、てんで様子がわからない――なにしろ、きょうはおれもくたぶれた。」
 山家らしい風呂(ふろ)と、質素な夕飯とが、この吉左衛門を待っていた。ちょうど、その八月朔日(ついたち)は吉左衛門が生まれた日にも当たっていた。だれしもその日となるといろいろ思い出すことが多いように、吉左衛門もまた長い駅路の経験を胸に浮かべた。雨にも風にもこの交通の要路を引き受け、旅人の安全を第一に心がけて、馬方(うまかた)、牛方(うしかた)、人足の世話から、道路の修繕、助郷(すけごう)の掛合(かけあい)まで、街道一切のめんどうを見て来たその心づかいは言葉にも尽くせないものがあった。
 吉左衛門は炉ばたにいて、妻のおまんが温(あたた)めて出した一本の銚子と、到来物の鮎(あゆ)の塩焼きとで、自分の五十五歳を祝おうとした。彼はおまんに言った。
「きょうの長崎奉行にはおれも感心したねえ。水野筑後(ちくご)の守(かみ)――あの人は二千石の知行(ちぎょう)取りだそうだが、きょうの御通行は十万石の格式だぜ。非常に破格な待遇さね。一足飛びに十万石の格式なんて、今まで聞いたこともない。それだけでも、徳川様の代(よ)は変わって来たような気がする。そりゃ泰平無事な日なら、いくら無能のものでも上に立つお武家様でいばっていられる。いったん、事ある場合に際会してごらん――」
「なにしろあなた、この唐人船の騒ぎですもの。」
「こういう時世になって来たのかなあ。」
 寛(くつろ)ぎの間(ま)と名づけてあるのは、一方はこの炉ばたにつづき、一方は広い仲(なか)の間(ま)につづいている。
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