千曲川のスケッチ
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著者名:島崎藤村 

 翌日は朝霧の籠(こも)った谿谷(けいこく)に朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。浅間は隠れた。山のかなたは青がかった灰色に光った。白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。国さんという可憐(かれん)の少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具(おもちゃ)の銀笛(ぎんてき)を吹いた。
 そこは保福寺(ほうふくじ)峠と地蔵峠とに挟まれた谷間だ。二十日の月はその晩も遅くなって上った。水の流が枕に響いて眠られないので、一旦寝た私は起きて、こういう場所の月夜の感じを味(あじわ)った。高い欄(てすり)に倚凭(よりかか)って聞くと、さまざまの虫の声が水音と一緒に成って、この谷間に満ちていた。その他暗い沢の底の方には種々な声があった。――遅くなって戸を閉める音、深夜の人の話声、犬の啼声(なきごえ)、楽しそうな農夫の唄。
 四日目の朝まだ暗いうちに、私達は月明りで仕度(したく)して、段々夜の明けて行く山道を別所の方へ越した。

     学窓の一

 夏休みも終って、復(ま)た私は理学士やB君や、それから植物の教師などと学校でよく顔を合せるように成った。
 秋の授業を始める日に、まだ桜の葉の深く重なり合ったのが見える教室の窓の側で、私は上級の生徒に釈迦(しゃか)の話をした。
 私は『釈迦譜(しゃかふ)』を選んだ。あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲(ドラマ)を読むように写出(うつしだ)してある。あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話なぞを借りて来て話した。青年の王子が憂愁に沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心をも引いたらしい。一つの門を出たら、病人に逢った。人は病まなければ成らないかと王子は深思した。他の二つの門を出ると、老人に逢い、死者に逢った。人は老いなければ成らないか、人は死ななければ成らないか。この王子の逢着(ほうちゃく)する人生の疑問がいかにも簡素に表してある。最後に出た門の外で道者に逢った。そこで王子は心を決して、このLifeを解かんが為に、あらゆるものを破り捨てて行った。
 戯曲的ではないか。少年の頭脳にも面白いように出来ているではないか。私はこんな話を生徒にした後で、多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人に成ろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込もあって欲しい、と言って聞かせた。
 私は生徒の方を見た。生徒は私の言った意味を何と釈(と)ったか、いずれも顔を見合せて笑った。中には妙な顔をして、頭を擁(かか)えているものもあった。

     学窓の二

 樹木が一年に三度ずつ新芽を吹くとは、今まで私は気がつかなかった。今は九月の若葉の時だ。
 学校の校舎の周囲(まわり)には可成(かなり)多くの樹木を植えてある。大きな桜の実の熟する頃なぞには、自分等の青年時代のことまでも思い起させたが、こうして夏休過に復たこの庭へ来て見ると、何となく白ッぽい林檎(りんご)の葉や、紅味を含んだ桜や、淡々しい青桐(あおぎり)などが、校舎の白壁に映り合って、楽しい陰日向(かげひなた)を作っている。楽しそうに吹く生徒の口笛が彼方此方(あちこち)に起る。テニスのコートを城門の方へ移してからは、桜の葉蔭で角力(すもう)を取るものも多い。
 学校の帰りに、夏から病んでいるBの家を訪ねた。その家の裏を通り抜けて石段を下りると、林檎の畠がある。そこにも初秋らしい日が映(あた)っていた。

     田舎(いなか)教師

 朝顔の花を好んで毎年培養する理学士が、ある日学校の帰途(かえりみち)に、新しい弟子(でし)の話を私にして聞かせた。
 弟子と言っても朝顔を培養する方の弟子だ。その人は町に住む牧師で、一部の子供から「日曜学校の叔父さん」と懐(なつ)かしがられている。
 この叔父さんの説教最中に夕立が来た。まだ朝顔の弟子入をしたばかりの時だ。彼の心は毎日楽しんでいる畑の方へ行った。大事な貝割葉(かいわれば)の方へ行った。雨に打たれる朝顔鉢(ばち)の方へ行った。説教そこそこにして、彼は夕立の中を朝顔棚の方へ駈出(かけだ)した。
「いかにも田舎の牧師さんらしいじゃ有りませんか」と理学士はこの新しい弟子の話をして、笑った。その先生はまた、火事見舞に来て、朝顔の話をして行くほど、自分でも好きな人だ。

     九月の田圃道(たんぼみち)

 傾斜に添うて赤坂(小諸町の一部)の家つづきの見えるところへ出た。
 浅間の山麓(さんろく)にあるこの町々は眠(ねむり)から覚めた時だ。朝餐(あさげ)の煙は何となく湿った空気の中に登りつつある。鶏の声も遠近(おちこち)に聞える。
 熟しかけた稲田の周囲(まわり)には、豆も莢(さや)を垂れていた。稲の中には既に下葉の黄色くなったのも有った。九月も半ば過ぎだ。稲穂は種々(いろいろ)で、あるものは薄(すすき)の穂の色に見え、あるものは全く草の色、あるものは紅毛(あかげ)の房を垂れたようであるが、その中で濃い茶褐色(ちゃかっしょく)のが糯(もちごめ)を作った田であることは、私にも見分けがつく。
 朝日は谷々へ射して来た。
 田圃道の草露は足を濡(ぬ)らして、かゆい。私はその間を歩き廻って、蟋蟀(こおろぎ)の啼(な)くのを聞いた。
 この節、浅間は日によって八回も煙を噴(は)くことがある。
「ああ復た浅間が焼ける」と土地の人は言い合うのが癖だ。男や女が仕事しかけた手を休めて、屋外(そと)へ出て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙の団(かたまり)が望まれる。そういう時だけ火山の麓(ふもと)に住んでいるような心地(こころもち)を起させる。こういうところに住み慣れたものは、平素(ふだん)は、そんなことも忘れ勝ちに暮している。
 浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山(ぎっぱやま)が往時(むかし)の噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。何か山の形状(かたち)に一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、大概失望する。浅間ばかりでなく、蓼科(たでしな)山脈の方を眺(なが)めても、何の奇も無い山々ばかりだ。唯、面白いのは山の空気だ。昨日出て見た山と、今日出て見た山とは、殆んど毎日のように変っている。

     山中生活

 理学士の住んでいる家のあたりは、荒町の裏手で、酢屋のKという娘の家の大きな醤油蔵(しょうゆぐら)の窓なぞが見える。その横について荒町の通へ出ると、畳表、鰹節(かつぶし)、茶、雑貨などを商う店々の軒を並べたところに、可成大きな鍛冶屋(かじや)がある。高い暗い屋根の下で、古風な髷(まげ)に結った老爺(ろうや)が鉄槌(てっつい)の音をさせている。
 この昔気質(むかしかたぎ)の老爺が学校の体操教師の父親(おとっ)さんだ。
 朝風の涼しい、光の熱い日に、私は二人ばかり学生を連れて、その家の鍛冶場の側(わき)を裏口へ通り抜け、体操の教師と一緒に浅間の山腹を指して出掛けた。
 山家(やまが)と言っても、これから私達が行こうとしているところは真実(ほんとう)の山の中だ。深い山林の中に住む人達の居る方だ。
 粟(あわ)、小豆(あずき)、飼馬(かいば)の料にするとかいう稗(ひえ)なぞの畠が、私達の歩るいて行く岡部(おかべ)の道に連なっていた。花の白い、茎の紅い蕎麦(そば)の畠なぞも到るところにあった。秋のさかりだ。体操の教師は耕作のことに委(くわ)しい人だから、諸方(ほうぼう)に光って見える畠を私に指して見せて、あそこに大きな紫紅色の葉を垂れたのが「わたり粟」というやつだとか、こっちの方に細い青黒い莢(さや)を垂れたのが「こうれい小豆」という種類だとか、御蔭で私は種々なことを教えて貰(もら)った。この体操教師は稲田を眺めたばかりで、その種類を区別するほど明るかった。
 五六本松の岡に倚(よ)って立っているのを望んだ。囁道祖神(ささやきどうそじん)のあるのは其処(そこ)だ。
 寺窪(てらくぼ)というところへ出た。農家が五六軒ずつ、ところどころに散在するほどの極く辺鄙(へんぴ)な山村だ。君に黒斑山(くろふやま)のことは未だ話さなかったかと思うが、矢張浅間の山つづきだ、ホラ、小諸の城址(しろあと)にある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒斑のように見える山林の多い高い傾斜、そこを私達は今歩いて行くところだ。あの天主台から黒斑山の裾(すそ)にあたって、遠く点のような白壁を一つ望む。その白壁の見えるのもこの山村だ。
 塩俵を負(しょ)って腰を曲(ゆが)めながら歩いて行く農夫があった。体操の教師は呼び掛けて、
「もう漬物(つけもの)ですか」と聞いた。
「今やりやすと二割方得ですよ」
 荒い気候と戦う人達は今から野菜を貯えることを考えると見える。
 前の前の晩に降った涼しい雨と、前の日の好い日光とで、すこしは蕈(きのこ)の獲物もあるだろう。こういう体操教師の後に随(つ)いて、私は学生と共に松林の方へ入った。この松林は体操教師の持山だ。松葉の枯れ落ちた中に僅かに数本の黄しめじと、牛額(うしびたい)としか得られなかった。それから笹の葉の間なぞを分けて「部分木(ぶぶんぼく)の林」と称(とな)える方に進み入った。
 私達は可成深い松林の中へ来た。若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下したり、それを束ねたりして働いているのに逢った。女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染(あかじ)みた手拭(てぬぐい)を冠(かぶ)り、襦袢肌抜(じゅばんはだぬ)ぎ尻端折(しりはしょり)という風で、前垂を下げて、藁草履(わらぞうり)を穿(は)いていた。赤い荒くれた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。
 その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬(よもぎ)のように見えた。でも、健(すこや)かな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。
 母らしい人も林の奥から歩いて来た。一同仕事を休(や)めて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。
 この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦(たいら)な松林の中へ出た。刈草を負(しょ)った男が林の間の細道を帰って行った。日は泄(も)れて、湿った草の上に映(あた)っていた。深い林の中の空気は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。
 がらがらと音をさせて、柴(しば)を積んだ車も通った。その音は寂しい林の中に響き渡った。
 熊笹(くまざさ)、柴などを分けて、私達は蕈(きのこ)を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。枯葉を鎌(かま)で掻除(かきの)けて見ると稀(たま)にあるのは紅蕈(べにたけ)という食われないのか、腐敗した初蕈(はつだけ)位のものだった。終(しまい)には探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。軽い腰籠(こしご)を提げたまま南瓜(かぼちゃ)の花の咲いた畠のあるところへ出て行った。山番の小屋が見えた。

     山番

 番小屋の立っている処は尾の石と言って、黒斑山(くろふやま)の直ぐ裾にあたる。
 三峯神社とした盗難除(とうなんよけ)の御札を貼付(はりつ)けた馬小屋や、萩(はぎ)なぞを刈って乾してある母屋(おもや)の前に立って、日の映(あた)った土壁の色なぞを見た時は、私は余程人里から離れた気がした。
 鋭い眼付きの赤犬が飛んで来た。しきりと私達を怪(あやし)むように吠(ほ)えた。この犬は番人に飼われて、種々(いろいろ)な役に立つと見えた。
 番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭を撫(な)でさせるほどに成った。主人は鬚(ひげ)も剃(そ)らずに林の監督をやっているような人であった。細君は襷掛(たすきがけ)で、この山の中に出来た南瓜(かぼちゃ)なぞを切りながら働いていた。
 四人の子供も庭へ出て来た。一番年長(うえ)のは最早(もう)十四五になる。狭い帯を〆《しめ》て藁草履(わらぞうり)なぞを穿(は)いた、しかし髪の毛の黒い娘(こ)だ。年少(としした)の子供は私達の方を見て、何となくキマリの悪そうな羞(はじ)を帯びた顔付をしていた。その側には、トサカの美しい、白い雄鶏(おんどり)が一羽と、灰色な雌鶏(めんどり)が三羽ばかりあそんでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れて了(しま)った。
 小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際平素(ふだん)は寝室と言った方が当っているだろう。家族が食事したり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉辺(ろばた)の板敷には薄縁(うすべり)を敷いて、耕作の道具食器の類はすべてその辺(あたり)に置き並べてある。何一つ飾りの無い、煤(すす)けた壁に、石版画の彩色したのや、木版刷の模様のついた暦なぞが貼付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも何程かこの山の中に住む人達の眼を悦(よろこ)ばすであろうと思われた。暮の売出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。
 私達は草鞋掛(わらじがけ)のまま炉辺で足を休めた。細君が辣韮(らっきょう)の塩漬(しおづけ)にしたのと、茶を出して勧めてくれた。渇(かわ)いた私達の口には小屋で飲んだ茶がウマかった。冬はこの炉に焚火(たきび)を絶(たや)したことが無いと、主人が言った。ここまで上ると、余程気候も違う。
 一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が上らないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の地味にも適することなど種々な話を主人から聞いて来た。
 やがて昼飯時だ。
 庭の栗の樹の蔭で、私達は小屋で分けて貰(もら)った蕈(きのこ)を焼いた。主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。そこで昼飯が始まった。細君は別に鶏と茄子(なす)の露、南瓜(とうなす)の煮付を馳走振(ちそうぶり)に勧めてくれた。いずれも大鍋(おおなべ)にウンとあった。私達は各自(めいめい)手盛でやった。学生は握飯、パンなぞを取出す。体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。
 この山の中で林檎(りんご)を試植したら、地梨(じなし)の虫が上って花の蜜(みつ)を吸う為に、実らずに了った。これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。
 食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡(おおよそ)一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族も少(すくな)し、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。
 私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。蕎麦(そば)は十俵の収穫があるとか、試植した銀杏(いちょう)、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほど播(ま)いてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。
 落葉松(からまつ)の畠も見えた。その苗は草のように嫩(やわら)かで、日をうけて美しくかがやいていた。畠の周囲(まわり)には地梨も多い。黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。尤(もっと)も、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。
 主人は又、山火事の恐しいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今は椚(くぬぎ)の木炭を焼いているという話もした。
 この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。尾の石から菱野(ひしの)の湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。あの田舎娘(いなかむすめ)の村は菱野だから。
 土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったことも有る。
 彼処(あそこ)はまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
 別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺(しらかんば)なぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。
 白樺の幹は何処(どこ)の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早(もう)美しく黄ばんだのも混っていた。


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   その六


     秋の修学旅行

 十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。秋の日和(ひより)で楽しい旅を続けることが出来た。この修学旅行には、八つが岳の裾(すそ)から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪(すわ)へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、その他の同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸(こもろ)へ戻って来た。この旅には殆(ほと)んど一週間を費した。私達は蓼科(たでしな)、八つが岳の長い山脈について、あの周囲を大きく一廻りしたのだ。
 その中でも、千曲川の上流から野辺山(のべやま)が原へかけては一度私が遊びに行ったことのあるところだ。その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。この旅で、私は以前の記憶を新しくした。その話を君にしようと思う。

     甲州街道

 小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前(めのまえ)に展(ひら)けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間(たにあい)を流れている。
 一体、犀川(さいかわ)に合するまでの千曲川は、殆(ほと)んど船の影を見ない。唯(ただ)、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
 私は、佐久、小県(ちいさがた)の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰(みおろ)した千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田(うすだ)、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
 馬流(まながし)というところまで岸に添うて遡(さかのぼ)ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧(むし)ろ大きな谿流(けいりゅう)に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州商人(あきんど)の往来するのも見られる。
 馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司(ぐうじ)で、街道からすこし離れた幽邃(ゆうすい)な松原湖の畔(ほとり)にある。Tは私達を待受けていたのだ。
 白楊(どろ)、蘆(あし)、楓(かえで)、漆(うるし)、樺(かば)、楢(なら)などの類が、私達の歩いて行く河岸に生(お)い茂っていた。両岸には、南牧(みなみまき)、北牧、相木(あいぎ)などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊(おおくずれ)の跡、金峯(きんぶ)、国師(こくし)、甲武信(こぶし)、三国(みくに)の山々、その高く聳(そび)えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望(ちょうぼう)の中に入った。
 日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
 時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼の烟(けむり)の立登るのも見えた。
 この谷の尽きたところに海(うみ)の口(くち)村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。

     山村の一夜

 この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことが有った。
「清仏(しんふつ)戦争の後、仏蘭西(フランス)兵の用いた軍馬は吾(わが)陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象雄健なアルゼリイ種の馬匹(ばひつ)が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専(おも)にこのアルゼリイ種を指したものです。その後亜米利加(アメリカ)産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山(のべやま)が原の馬市は一年増に盛んに成る、その噂(うわ)さが某(それがし)の宮殿下の御耳まで届くように成りました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好ですから、御寵愛(ちょうあい)のファラリイスと云(いう)亜刺比亜(アラビア)産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御喜悦(よろこび)は何程(どんな)でしたろう。到頭野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」
 以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓(ふもと)の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時だった。
 静かな山村の夜――河水の氾濫(はんらん)を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曾路なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯(ともしび)――鄙(ひな)びた旅舎(やどや)の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊(そうゆう)の地をもう一度見ることが出来た。
 ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地(うまどころ)だ。馬が土地の人の主なる財産だ。娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。
 風呂桶(ふろおけ)が下水の溜(ため)の上に設けてあるということは――いかにこの辺の人達が骨の折れる生活を営むとはいえ――又、それほど生活を簡易にする必要があるとはいえ――来て見る度(たび)に私を驚かす。ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。
 私達が着いたと聞いて、仕立屋の親類に成る人が提灯(ちょうちん)つけて旅舎(やどや)へ訪ねて来た。ここから小諸へ出て、長いこと私達の校長の家に奉公していた娘があった。
 その娘も今では養子して、子供まであるとか。こういう山村に連関して、下女奉公する人達の一生なぞも何となく私の心を引いた。
 君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。恐らく名前も聞いたことがあるまい。熱い灰の中で焼いた蕎麦餅(そばもち)だ。草鞋穿(わらじばき)で焚火(たきび)に温(あた)りながら、その「ハリコシ」を食い食い話すというが、この辺での炉辺(ろばた)の楽しい光景(ありさま)なのだ。

     高原の上

 翌朝私達は野辺山が原へ上った。私の胸には種々な記憶が浮び揚(あが)って来た。ファラリイスの駒(こま)三十四頭、牝馬(めうま)二百四十頭、牡馬(おうま)まで合せて三百余頭の馬匹(ばひつ)が列をつくって通過したのも、この原へ通う道だった。馬市の立つというあたりに作られた御仮屋(かりや)、紫と白との幕、あちこちに巣をかけた商人(あきんど)、四千人余の群集、そんなものがゴチャゴチャ胸に浮んで来た。あの時は、私は仕立屋と連立って、秋の日のあたった原の一部を歩き廻ったが、今でも私の眼についているのは長野の方から知事に随(つ)いて来た背の高い参事官だ。白いしなやかな手を振って、柔かな靴音をさせる紳士だった。それで居て動作には敏捷(びんしょう)なところもあった。丁度あの頃私はトルストイの「アンナ・カレニナ」を読んでいたから、私は自分で想像したヴロンスキイの型(タイプ)をその参事官に当嵌(あてはめ)てみたりなぞした。あの紳士が肩に掛けた双眼鏡を取出して、八つが岳の方に見える牧場を遠く望んでいた様子は――失礼ながら――私の思うヴロンスキイそのままだった。
 あの時の混雑に比べると、今度は原の上も寂しい。最早霜が来るらしい雑草の葉のあるいは黄に、あるいは焦茶色に成ったのを踏んで、ポツンポツンと立っている白樺(しらかんば)の幹に朝日の映(あた)るさまなぞを眺(なが)めながら、私達は板橋村という方へ進んで行った。この高原の広さは五里四方もある、荒涼とした原の中には、蕎麦(そば)なぞを蒔(ま)いたところもあって、それを耕す人達がところどころに僅(わず)かな村落を形造っている。板橋村はその一番取付(とっつき)にある村だ。
 以前、私はこの辺のことを、こんな風に話の中に書いた。
「晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾(すそ)の見えた八つが岳が次第に険(けわ)しい山骨を顕(あら)わして来て、終(しまい)に紅色の光を帯びた巓(いただき)まで見られる頃は、影が山から山へ映(さ)しておりました。甲州に跨(またが)る山脈の色は幾度(いくたび)変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空に成りました。ああ朝です。
 男山(おとこやま)、金峯山(きんぶざん)、女山(おんなやま)、甲武信岳(こぶしがたけ)、などの山々も残りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました――」
 夫婦とあるは、私がその話の中に書こうとした人物だ。一時は私もこうした文体を好んで書いたものだ。
「筒袖(つつそで)の半天に、股引(ももひき)、草鞋穿(わらじばき)で、頬冠(ほおかぶ)りした農夫は、幾群か夫婦の側を通る。鍬(くわ)を肩に掛けた男もあり、肥桶(こえおけ)を担(かつ)いで腰を捻(ひね)って行く男もあり、爺(おやじ)の煙草入を腰にぶらさげながら随いて行く児もありました。気候、雑草、荒廃、瘠土(せきど)などを相手に、秋の一日の烈(はげ)しい労働が今は最早始まるのでした。
 既に働いている農夫もありました。黒々とした「ノッペイ」の畠の側を進んでまいりますと、一人の荒くれ男が汗雫(あせみずく)に成って、傍目(わきめ)をふらずに畠を打っておりました。大きな鍬を打込んで、身(からだ)を横にして仆(たお)れるばかりに土の塊(かたまり)を起す。気の遠くなるような黒土の臭気(におい)は紛(ぷん)として、鼻を衝(つ)くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも逢いました。
 高原の秋は今です。見渡せば木立もところどころ。枝という枝は南向に生延びて、冬季に吹く風の勁(つよ)さも思いやられる。白樺は多く落葉して高く空に突立ち、細葉の楊樹(やなぎ)は踞(うずくま)るように低く隠れている。秋の光を送る風が騒しく吹渡ると、草は黄な波を打って、動き靡(なび)いて、柏の葉もうらがえりました。
 ここかしこに見える大石には秋の日があたって、寂しい思をさせるのでした。
「ありしおで」の葉を垂れ、弘法菜(こうぼうな)の花をもつのは爰(ここ)です。
「かしばみ」の実の落ちこぼれるのも爰(ここ)です。
 爰(ここ)には又、野の鳥も住み隠れました。笹の葉蔭に巣をつくる雲雀(ひばり)は、老いて春先ほどの勢も無い。鶉(うずら)は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛立つ。見れば不格好(ぶかっこう)な短い羽をひろげて、舞揚(まいあが)ろうとしてやがて、パッタリ落ちるように草の中へ引隠れるのでした。
 外(ほか)の樹木の黄に枯々とした中に、まだ緑勝(みどりがち)な蔭をとどめたところも有る。それは水の流を旅人に教えるので、そこには雑木が生茂って、泉に添うて枝を垂れて、深く根を浸しているのです。
 今は村々の農夫も秋の労働に追われて、この高原に馬を放すものも少い。八つが岳山脈の南の裾に住む山梨の農夫ばかりは、冬季の秣(まぐさ)に乏しいので、遠く爰(ここ)まで馬を引いて来て、草を刈集めておりました……」
 これは主に旧道から見た光景(さま)だ。趣の深いのも旧道だ。
 以前私は新道の方をも取って、帰り路(みち)に原の中を通ったこともある。その時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに逢った。彼等は弁当を食いながら歩いていた。聞いてみると往復十六里の道を歩いて、その間に秣を刈集めなければ成らない。朝暗いうちに山梨を出ても、休んで弁当を食っている暇が無いという。馬を引いて歩きながらの弁当――実に忙(せわ)しい生活の光景(さま)だと思った。
 こんな話を私は同行のT君にしながら、旧道を取って歩いて行った。三軒家という小さな村を離れてからは人家を見ない。
 この高原が牧場に適するのは、秣が多いからとのことだ。今は馬匹(ばひつ)を見ることも少いが、丘陵の起伏した間には、遊び廻っている馬の群も遠く見える。
 白樺(しらかんば)の下葉は最早落ちていた。枯葉や草のそよぐ音――殊に槲(かしわ)の葉の鳴る音を聞くと、風の寒い、日の熱い高原の上を旅することを思わせる。
「まぐそ鷹(たか)」というが八つが岳の方の空に飛んでいるのも見た。私達はところどころにある茶色な楢(なら)の木立をも見て通った。それが遠い灰色の雲なぞを背景(バック)にして立つさまは、何んとなく茫漠(ぼうばく)とした感じを与える。原にある一筋の細い道の傍には、紫色に咲いた花もあった。T君に聞くと、それは松虫草とか言った。この辺は古い戦場の跡ででもあって、往昔(おうせき)海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言伝えられる場所もある。
 甲州境に近いところで、私達は人の背ほどの高さの小梨(こなし)を見つけた。葉は落ち尽して、小さな赤い実が残っていた。草を踏んで行ってその実を採って見ると、まだ渋い。中には霜に打たれて、口へ入れると溶けるような味のするもあった。間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
 と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻(けわ)しい坂道を甲州の方へ下りた。


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   その七


     落葉(らくよう)の一

 毎年十月の二十日といえば、初霜を見る。雑木林や平坦(たいら)な耕地の多い武蔵野(むさしの)へ来る冬、浅々とした感じの好い都会の霜、そういうものを見慣れている君に、この山の上の霜をお目に掛けたい。ここの桑畠(くわばたけ)へ三度(みたび)や四度もあの霜が来て見給え、桑の葉は忽(たちま)ち縮み上って焼け焦げたように成る、畠の土はボロボロに爛(ただ)れて了(しま)う……見ても可恐(おそろ)しい。猛烈な冬の威力を示すものは、あの霜だ。そこへ行くと、雪の方はまだしも感じが柔かい。降り積る雪はむしろ平和な感じを抱(いだ)かせる。
 十月末のある朝のことであった。私は家の裏口へ出て、深い秋雨のために色づいた柿の葉が面白いように地へ下(くだ)るのを見た。肉の厚い柿の葉は霜のために焼け損(そこな)われたり、縮れたりはしないが、朝日があたって来て霜のゆるむ頃には、重さに堪(た)えないで脆(もろ)く落ちる。しばらく私はそこに立って、茫然(ぼうぜん)と眺(なが)めていた位だ。そして、その朝は殊(こと)に烈(はげ)しい霜の来たことを思った。

     落葉の二

 十一月に入って急に寒さを増した。天長節の朝、起出して見ると、一面に霜が来ていて、桑畠も野菜畠も家々の屋根も皆な白く見渡される。裏口の柿の葉は一時に落ちて、道も埋れるばかりであった。すこしも風は無い。それでいて一葉(は)二葉ずつ静かに地へ下る。屋根の上の方で鳴く雀(すずめ)も、いつもよりは高くいさましそうに聞えた。
 空はドンヨリとして、霧のために全く灰色に見えるような日だった。私は勝手元の焚火(たきび)に凍えた両手をかざしたく成った。足袋(たび)を穿(は)いた爪先も寒くしみて、いかにも可恐(おそろ)しい冬の近よって来ることを感じた。この山の上に住むものは、十一月から翌年の三月まで、殆(ほと)んど五ヶ月の冬を過さねば成らぬ。その長い冬籠(ふゆごも)りの用意をせねば成らぬ。

     落葉の三

 木枯が吹いて来た。
 十一月中旬のことであった。ある朝、私は潮の押寄せて来るような音に驚かされて、眼が覚めた。空を通る風の音だ。時々それが沈まったかと思うと、急に復(ま)た吹きつける。戸も鳴れば障子も鳴る。殊に南向の障子にはバラバラと木の葉のあたる音がしてその間には千曲川の河音も平素(ふだん)から見るとずっと近く聞えた。
 障子を開けると、木の葉は部屋の内までも舞込んで来る。空は晴れて白い雲の見えるような日であったが、裏の流のところに立つ柳なぞは烈風に吹かれて髪を振うように見えた。枯々とした桑畠に茶褐色(ちゃかっしょく)に残った霜葉なぞも左右に吹き靡(なび)いていた。
 その日、私は学校の往(いき)と還(かえり)とに停車場前の通を横ぎって、真綿帽子やフランネルの布で頭を包んだ男だの、手拭(てぬぐい)を冠(かぶ)って両手を袖(そで)に隠した女だのの行き過ぎるのに遭(あ)った。往来(ゆきき)の人々は、いずれも鼻汁(はな)をすすったり、眼側(まぶち)を紅くしたり、あるいは涙を流したりして、顔色は白ッぽく、頬(ほお)、耳、鼻の先だけは赤く成って、身を縮め、頭をかがめて、寒そうに歩いていた。風を背後(うしろ)にした人は飛ぶようで、風に向って行く人は又、力を出して物を押すように見えた。
 土も、岩も、人の皮膚の色も、私の眼には灰色に見えた。日光そのものが黄ばんだ灰色だ。その日の木枯が野山を吹きまくる光景(さま)は凄(すさ)まじく、烈しく、又勇ましくもあった。樹木という樹木の枝は撓(たわ)み、幹も動揺し、柳、竹の類は草のように靡いた。柿の実で梢(こずえ)に残ったのは吹き落された。梅、李(すもも)、桜、欅(けやき)、銀杏(いちょう)なぞの霜葉は、その一日で悉(ことごと)く落ちた。そして、そこここに聚(たま)った落葉が風に吹かれては舞い揚った。急に山々の景色は淋(さび)しく、明るく成った。

     炬燵話(こたつばなし)

 私が君に山上の冬を待受けることの奈様(いか)に恐るべきかを話した。しかしその長い寒い冬の季節が又、信濃(しなの)に於(お)ける最も趣の多い、最も楽しい時であることをも告げなければ成らぬ。
 それには先ず自分の身体のことを話そう。そうだ。この山国へ移り住んだ当時、土地慣れない私は風邪(かぜ)を引き易(やす)くて困った。こんなことで凌(しの)いで行かれるかと思う位だった。実際、人間の器官は生活に必要な程度に応じて発達すると言われるが、丁度私の身体にもそれに適したことが起って来た。次第に私は烈しい気候の刺激に抵抗し得るように成った。東京に居た頃から見ると、私は自分の皮膚が殊に丈夫に成ったことを感ずる。私の肺は極く冷い山の空気を呼吸するに堪えられる。のみならず、私は春先まで枯葉の落ちないあの椚林(くぬぎばやし)を鳴らす寒い風の音を聞いたり、真白に霜の来た葱畠(ねぎばたけ)を眺(なが)めたりして、屋(うち)の外を歩き廻る度に、こういう地方に住むものでなければ知らないような、一種刺すような快感を覚えるように成った。
 草木までも、ここに成長するものは、柔い気候の中にあるものとは違って見える。多くの常磐樹(ときわぎ)の緑がここでは重く黒ずんで見えるのも、自然の消息を語っている。試みに君が武蔵野(むさしの)辺の緑を見た眼で、ここの礫地(いしじ)に繁茂する赤松の林なぞを望んだなら、色相の相違だけにも驚くであろう。
 ある朝、私は深い霧の中を学校の方へ出掛けたことが有った。五六町先は見えないほどの道を歩いて行くと、これから野面(のら)へ働きに行こうとする農夫、番小屋の側にションボリ立っている線路番人、霧に湿りながら貨物の車を押す中牛馬(ちゅうぎゅうば)の男なぞに逢った。そして私は――私自身それを感ずるように――この人達の手なぞが真紅(まっか)に腫(は)れるほどの寒い朝でも、皆な見かけほど気候に臆してはいないということを知った。
「どうです、一枚着ようじゃ有りませんか――」
 こんなことを言って、皆な歩き廻る。それでも温熱(あたたかさ)が取れるという風だ。
 それから私は学校の連中と一緒に成ったが、朝霧は次第に晴れて行った。そこいらは明るく成って来た。浅間の山の裾(すそ)もすこし顕(あらわ)れて来た。早く行く雲なぞが眼に入る。ところどころに濃い青空が見えて来る。そのうちに西の方は晴れて、ポッと日が映(あた)って来る。浅間が全く見えるように成ると、でも冬らしく成ったという気がする。最早あの山の巓(いただき)には白髪のような雪が望まれる。
 こんな風にして、冬が来る。激しい気候を相手に働くものに取って、一年中の楽しい休息の時が来る。信州名物の炬燵(こたつ)の上には、茶盆だの、漬物鉢(つけものばち)だの、煙草盆だの、どうかすると酒の道具まで置かれて、その周囲(まわり)で炬燵話というやつが始まる。

     小六月

 気候は繰返す。温暖(あたたか)な平野の地方ではそれほど際立(きわだ)って感じないようなことを、ここでは切に感ずる。寒い日があるかと思うと、また莫迦(ばか)に暖い日がある。それから復た一層寒い日が来る。いくら山の上でも、一息に冬の底へ沈んでは了(しま)わない。秋から冬に成る頃の小春日和(こはるびより)は、この地方での最も忘れ難い、最も心地の好い時の一つである。俗に「小六月(ころくがつ)」とはその楽しさを言い顕した言葉だ。で、私はいくらかこの話を引戻して、もう一度十一月の上旬に立返って、そういう日あたりの中で農夫等が野に出て働いている方へ君の想像を誘おう。

     小春の岡辺(おかべ)

 風のすくない、雲の無い、温暖(あたたか)な日に屋外(そと)へ出て見ると、日光は眼眩(まぶ)しいほどギラギラ輝いて、静かに眺(なが)めることも出来ない位だが、それで居ながら日蔭へ寄れば矢張寒い――蔭は寒く、光はなつかしい――この暖かさと寒さとの混じ合ったのが、楽しい小春日和だ。
 そういう日のある午後、私は小諸(こもろ)の町裏にある赤坂の田圃(たんぼ)中へ出た。その辺は勾配(こうばい)のついた岡つづきで、田と田の境は例の石垣に成っている。私は枯々とした草土手に身を持たせ掛けて、眺め入った。
 手廻しの好い農夫は既に収穫を終った頃だ。近いところの田には、高い土手のように稲を積み重ね、穂をこき落した藁(わら)はその辺に置き並べてあった。二人の丸髷(まるまげ)に結った女が一人の農夫を相手にして立ち働いていた。男は雇われたものと見え、鳥打帽に青い筒袖(つつっぽ)という小作人らしい風体(ふうてい)で、女の機嫌(きげん)を取り取り籾(もみ)の俵を造っていた。そのあたりの田の面(も)には、この一家族の外に、野に出て働いているものも見えなかった。
 古い釜形帽(かまがたぼう)を冠って、黄菊一株提げた男が、その田圃道を通りかかった。
「まあ、一服お吸い」
 と呼び留められて、釜形帽と鳥打帽と一緒に、石垣に倚(よ)りながら煙草を燻(ふか)し始めた。女二人は話し話し働いた。
「金さん、お目はどうです――それは結構――ああ、ああ、そうとも――」などと女の語る声が聞えた。私は屋外に日を送ることの多い人達の生活を思って、聞くともなしに耳を傾けた。振返って見ると、一方の畦(あぜ)の上には菅笠(すげがさ)、下駄、弁当の包らしい物なぞが置いてあって、そこで男の燻す煙草の煙が日の光に青く見えた。
「さいなら、それじゃお静かに」
 と一方の釜形帽はやがて別れて行った。
 鳥打帽は鍬(くわ)を執って田の土をすこしナラし始めた。女二人が錯々(せっせ)と籾(もみ)を振(ふる)ったり、稲こきしたりしているに引替え、この雇われた男の方ははかばかしく仕事もしないという風で、すこし働いたかと思うと、直(すぐ)に鍬を杖にして、是方(こっち)を眺めてはボンヤリと立っていた。
 岡辺は光の海であった。黒ずんだ土、不規則な石垣、枯々な桑の枝、畦の草、田の面に乾した新しい藁、それから遠くの方に見える森の梢(こずえ)まで、小春の光の充(み)ち溢(あふ)れていないところは無かった。
 私の眼界にはよく働く男が二人までも入って来た。一人は近くにある田の中で、大きな鍬に力を入れて、土を起し始めた。今一人はいかにも背の高い、痩(や)せた、年若な農夫だ。高い石垣の上の方で、枯草の茶色に見えるところに半身を顕(あらわ)して、モミを打ち始めた。遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上ったり下ったりする槌(つち)だけは見えた。そして、その槌の音が遠い砧(きぬた)の音のように聞えた。
 午後の三時過まで、その日私は赤坂裏の田圃道を歩き廻った。
 そのうちに、畠側(はたけわき)の柿や雑木に雀の群のかしましいほど鳴き騒いでいるところへ出た。刈取られた田の面には、最早青い麦の芽が二寸ほども延びていた。
 急に私の背後(うしろ)から下駄の音がして来たかと思うと、ぱったり立止って、向うの石垣の上の方に向いて呼び掛ける子供の声がした。見ると、茶色に成った桑畠を隔てて、親子二人が収穫(とりいれ)を急いでいた。子供はお茶の入ったことを知らせに来たのだ。信州人ほど茶好な人達も少なかろうと思うが、その子供が復た馳出(かけだ)して行った後でも、親子は時を惜むという風で、母の方は稲穂をこき落すに余念なく、子息(むすこ)はその籾を叩(たた)く方に廻ってすこしも手を休めなかった。遠く離れてはいたが、手拭を冠った母の身(からだ)を延べつ縮めつするさまも、子息のシャツ一枚に成って後ろ向に働いているさまも、よく見えた。
 子供にあんなことを言われると、私も咽喉(のど)が乾いて来た。
 家へ帰って濃い熱い茶に有付きたいと思いながら、元来た道を引返そうとした。斜めに射して来た日光は黄を帯びて、何となく遠近(おちこち)の眺望(ながめ)が改まった。岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集ったかと思うと、やがてまたパッと散り隠れた。

     農夫の生活

 君はどれ程私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いたであろう。私の話の中には、幾度(いくたび)か農家を訪ねたり、農夫に話し掛けたり、彼等の働く光景(さま)を眺めたりして、多くの時を送ったことが出て来る。それほど私は飽きない心地で居る。そして、もっともっと彼等をよく知りたいと思っている。見たところ、Openで、質素で、簡単で、半ば野外にさらけ出されたようなのが、彼等の生活だ。しかし彼等に近づけば近づくほど、隠れた、複雑な生活を営んでいることを思う。同じような服装を着け、同じような農具を携え、同じような耕作に従っている農夫等。譬(たと)えば、彼等の生活は極く地味な灰色だ。その灰色に幾通りあるか知れない。私は学校の暇々に、自分でも鍬を執って、すこしばかりの野菜を作ってみているが、どうしても未だ彼等の心には入れない。
 こうは言うものの、百姓の好きな私は、どうかいう機会を作って、彼等に近づくことを楽みとする。
 赤い茅萱(ちがや)の霜枯れた草土手に腰掛け、桟俵(さんだわら)を尻(しり)に敷き、田へ両足を投出しながら、ある日、私は小作する人達の側に居た。その一人は学校の小使の辰さんで、一人は彼の父、一人は彼の弟だ。辰さん親子は麦畠の「サク」を掛け起していたが、私の方へ来ては休み休み種々な話をした。雨、風、日光、鳥、虫、雑草、土、気候、そういうものは無くて叶(かな)わぬものでありながら、又百姓が敵として戦わねば成らないものでもある。そんなことから、この辺の百姓が苦むという種々な雑草の話が出た。水沢瀉(みずおもだか)、えご、夜這蔓(よばいづる)、山牛蒡(やまごぼう)、つる草、蓬(よもぎ)、蛇苺(へびいちご)、あけびの蔓、がくもんじ(天王草)その他田の草取る時の邪魔ものは、私なぞの記憶しきれないほど有る。辰さんは田の中から、一塊(ひとかたまり)の土を取って来て、青い毛のような草の根が隠れていることを私に示した。それは「ひょうひょう草」とか言った。この人達は又、その中から種々な薬草を見分けることを知っていた。「大抵の御百姓に、この稲は何だなんて聞いても、名を知らないのが多い位に、沢山いろいろと御座います」
 話好きな辰さんの父親(おやじ)は、女穂(めほ)、男穂(おとこほ)のことから、浅間の裾で砂地だから稲も良いのは作れないこと、小麦畠へ来る鳥、稲田を荒らすという虫類の話などを私にして聞かせた。「地獄蒔(まき)」と言って、同じ麦の種を蒔くにも、農夫は地勢に応じたことを考えるという話もした。小諸は東西の風をうけるから、南北に向って「ウネ」を造ると、日あたりも好し、又風の為に穂の擦(す)れ落ちる憂(うれい)が無い、自分等は絶えずそんなことを工夫しているとも話した。
「しかし、上州の人に見せたものなら、こんなことでよく麦が取れるッて、消魂(たまげ)られます」
 こう言って、隠居は笑った。
「この阿爺(おとっ)さんも、ちったア御百姓の御話が出来ますから、御二人で御話しなすって下さい」
 と辰さんは言い置いて、麦藁(むぎわら)帽の古いのを冠りながら復た畠へ出た。辰さんの弟も股引(ももひき)を膝(ひざ)までまくし上げ、素足を顕して、兄と一緒に土を起し始めた。二人は腰に差した鎌を取出して、時々鍬に附着する土を掻取(かきと)って、それから復た腰を曲(こご)めて錯々(せっせ)とやった。
「浅間が焼けますナ」
 と皆な言い合った。
 私は掘起される土の香を嗅(か)ぎ、弱った虫の声を聞きながら、隠居から身上話を聞かされた。この人は六十三歳に成って、まだ耕作を休まずにいるという。十四の時から灸(きゅう)、占(うらない)の道楽を覚え、三十時代には十年も人力車(くるま)を引いて、自分が小諸の車夫の初だということ、それから同居する夫婦の噂(うわさ)なぞもして、鉄道に親を引つぶされてからその男も次第に、零落したことを話した。
「お百姓なぞは、能の無いものの為(す)るこんです……」
 と隠居は自ら嘲(あざけ)るように言った。
 その時、髪の白い、背の高い、勇健な体格を具えた老農夫が、同じ年格好(かっこう)な仲間と並んで、いずれも土の喰(く)い入った大きな手に鍬を携えながら、私達の側を挨拶して通った。肥(こや)し桶(おけ)を肩に掛けて、威勢よく向うの畠道を急ぐ壮年(わかもの)も有った。

     収穫

 ある日、復た私は光岳寺の横手を通り抜けて、小諸の東側にあたる岡の上に行って見た。
 午後の四時頃だった。私が出た岡の上は可成眺望(ちょうぼう)の好いところで、大きな波濤(なみ)のような傾斜の下の方に小諸町の一部が瞰下(みおろ)される位置にある。私の周囲には、既に刈乾した田だの未だ刈取らない田だのが連なり続いて、その中である二家族のみが残って収穫(とりいれ)を急いでいた。
 雪の来ない中に早くと、耕作に従事する人達の何かにつけて心忙しさが思われる。私の眼前(めのまえ)には胡麻塩(ごましお)頭の父と十四五ばかりに成る子とが互に長い槌(つち)を振上げて籾(もみ)を打った。その音がトントンと地に響いて、白い土埃(つちほこり)が立ち上った。母は手拭を冠り、手甲(てっこう)を着けて、稲の穂をこいては前にある箕(み)の中へ落していた。その傍(かたわら)には、父子(おやこ)の叩いた籾を篩(ふるい)にすくい入れて、腰を曲めながら働いている、黒い日に焼けた顔付の女もあった。それから赤い襷掛(たすきがけ)に紺足袋穿という風俗(なり)で、籾の入った箕を頭の上に載せ、風に向ってすこしずつ振い落すと、その度に粃(しいな)と塵埃(ほこり)との混り合った黄な煙を送る女もあった。
 日が短いから、皆な話もしないで、塵埃(ほこり)だらけに成って働いた。岡の向うには、稲田や桑畠を隔てて、夫婦して笠を冠って働いているのがある。殊にその女房が箕を高く差揚げ風に立てているのが見える。風は身に染みて、冷々(ひやひや)として来た。私の眼前(めのまえ)に働いていた男の子は稲村に預けて置いた袖なし半天を着た。母も上着(うわっぱり)の塵埃(ほこり)を払って着た。何となく私も身体がゾクゾクして来たから、尻端折(しりはしょり)を下して、着物の上から自分の膝を摩擦しながら、皆なの為ることを見ていた。
 鍬を肩に掛けて、岡づたいに家の方へ帰って行く頬冠りの男もあった。鎌を二挺(ちょう)持ち、乳呑児を背中に乗せて、「おつかれ」と言いつつ通過ぎる女もあった。
 眼前(めのまえ)の父子(おやこ)が打つ槌の音はトントンと忙しく成った。
「フン」、「ヨウ」の掛声も幽(かす)かに泄(も)れて来た。そのうちに、父はへなへなした俵を取出した。腰を延ばして塵埃の中を眺める女もあった。田の中には黄な籾の山を成した。
 その時は最早暮色が薄く迫った。小諸の町つづきと、かなたの山々の間にある谷には、白い夕靄(ゆうもや)が立ち籠(こ)めた。向うの岡の道を帰って行く農夫も見えた。
 私はもうすこし辛抱して、と思って見ていると、父の農夫が籾をつめた俵に縄を掛けて、それを負(しょ)いながら家を指して運んで行く様子だ。今は三人の女が主に成って働いた。岡辺も暮れかかって来て、野面(のら)に居て働くものも無くなる。向うの田の中に居る夫婦者の姿もよく見えない程に成った。
 光岳寺の暮鐘が響き渡った。浅間も次第に暮れ、紫色に夕映(ゆうばえ)した山々は何時しか暗い鉛色と成って、唯(ただ)白い煙のみが暗紫色の空に望まれた。急に野面(のら)がパッと明るく成ったかと思うと、復た響き渡る鐘の音を聞いた。私の側には、青々とした菜を負(しょ)って帰って行く子供もあり、男とも女とも後姿の分らないようなのが足速(あしばや)に岡の道を下って行くもあり、そうかと思うと、上着(うわっぱり)のまま細帯も締めないで、まるで帯とけひろげのように見える荒くれた女が野獣(けもの)のように走って行くのもあった。
 南の空には青光りのある星一つあらわれた。すこし離れて、また一つあらわれた。この二つの星の姿が紫色な暮の空にちらちらと光りを見せた。西の空はと見ると、山の端(は)は黄色に光り、急に焦茶色と変り、沈んだ日の反射も最後の輝きを野面(のら)に投げた。働いている三人の女の頬冠り、曲(こご)めた腰、皆な一時に光った。男の子の鼻の先まで光った。最早稲田も灰色、野も暗い灰色に包まれ、八幡の杜(もり)のこんもりとした欅(けやき)の梢(こずえ)も暗い茶褐色に隠れて了(しま)った。
 町の彼方(かなた)にはチラチラ燈火(あかり)が点(つ)き始めた。岡つづきの山の裾にも点いた。
 父の農夫は引返して来て復た一俵負(しょ)って行った。三人の女や男の子は急ぎ働いた。
「暗くなって、いけねえナア」と母の子をいたわる声がした。
「箒(ほうき)探しな――箒――」
 と復た母に言われて、子はうろうろと田の中を探し歩いた。
 やがて母は箒で籾を掃き寄せ、筵(むしろ)を揚げて取り集めなどする。女達が是方(こっち)を向いた顔もハッキリとは分らないほどで、冠っている手拭の色と顔とが同じほどの暗さに見えた。
 向うの田に居る夫婦者も、まだ働くと見えて、灰色な稲田の中に暗く動くさまが、それとなく分る。
 汽笛が寂しく響いて聞えた。風は遽然(にわかに)私の身にしみて来た。
「待ちろ待ちろ」
 母の声がする。男の子はその側で、姉らしい女と共に籾を打った。彼方(かなた)の岡の道を帰る人も暗く見えた。「おつかれでごわす」と挨拶そこそこに急いで通過ぎるものもあった。そのうちに、三人の女の働くさまもよくは見えない位に成って、冠った手拭のみが仄(ほの)かに白く残った。振り上ぐる槌までも暗かった。
「藁をまつめろ」
 という声もその中で聞える。
 私がこの岡を離れようとした頃、三人の女はまだ残って働いていた。私が振返って彼等を見た時は、暗い影の動くとしか見えなかった。全く暮れ果てた。

     巡礼の歌

 乳呑児(ちのみご)を負(おぶ)った女の巡礼が私の家の門(かど)に立った。
 寒空には初冬(はつふゆ)らしい雲が望まれた。一目見たばかりで、皆な氷だということが思われる。氷線の群合とも言いたい。白い、冷い、透明な尖端(せんたん)は針のようだ。この雲が出る頃に成ると、一日は一日より寒気を増して行く。
 こうして山の上に来ている自分等のことを思うと、灰色の脚絆(きゃはん)に古足袋を穿(は)いた、旅窶(たびやつ)れのした女の乞食(こじき)姿にも、心を引かれる。巡礼は鈴を振って、哀れげな声で御詠歌を歌った。私は家のものと一緒に、その女らしい調子を聞いた後で、五厘銅貨一つ握らせながら、「お前さんは何処ですネ」と尋ねた。
「伊勢でござります」
「随分遠方だネ」
「わしらの方は皆なこうして流しますでござります」
「何処(どっち)の方から来たんだネ」
「越後(えちご)路から長野の方へ出まして、諸方(ほうぼう)を廻って参りました。これから寒くなりますで、暖い方へ参りますでござりますわい」
 私は家のものに吩咐(いいつ)けて、この女に柿をくれた。女はそれを風呂敷包にして、家のものにまで礼を言って、寒そうに震えながら出て行った。
 夏の頃から見ると、日は余程南よりに沈むように成った。吾家の門に出て初冬の落日を望む度に、私はあの「浮雲似二故丘一」という古い詩の句を思出す。近くにある枯々な樹木の梢は、遠い蓼科(たでしな)の山々よりも高いところに見える。近所の家々の屋根の間からそれを眺めると丁度日は森の中に沈んで行くように見える。


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   その八


     一ぜんめし

 私は外出した序(ついで)に時々立寄って焚火(たきび)にあてて貰(もら)う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処(おんやすみどころ)、揚羽屋(あげばや)とした看板の出してあるのがそれだ。
 私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子(でし)を相手にして、石菖蒲(せきしょうぶ)、万年青(おもと)などの青い葉に眼を楽ませながら錯々(せっせ)と着物を造(こしら)える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹(ようかん)を店頭(みせさき)に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網(とあみ)をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者(えきしゃ)が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾(こんのれん)を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩(あんま)を渡世にする頭を円(まる)めた盲人(めくら)が居る。駒鳥(こまどり)だの瑠璃(るり)だのその他小鳥が籠(かご)の中で囀(さえず)っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
 揚羽屋では豆腐を造るから、服装(なりふり)に関わず働く内儀(かみ)さんがよく荷を担(かつ)いで、襦袢(じゅばん)の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹(とお)る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直(すぐ)に分る。自分の家でもこの女から油揚(あぶらあげ)だの雁(がん)もどきだのを買う。近頃は子息(むすこ)も大きく成って、母親(おっか)さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴(やっこ)でもトントンとやるように成った。
 揚羽屋には、うどんもある。尤(もっと)も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺(めん)類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐(ばんさん)に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦(そば)はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走(ちそう)に成っている。それから、「お煮掛(にかけ)」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋(おおなべ)のかけてある炉辺(ろばた)に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱(あたたかさ)を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何(いかが)でごわす」などと言って、内儀さんが大丼(おおどんぶり)に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供相撲(ずもう)に弓を取った自慢話なぞを始める。
 そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤(すす)けた壁も、汚(よご)れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。私は往来に繋(つな)いである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。荒くれた人達の話や笑声に耳を傾ける。次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。

     松林の奥

 夷講(えびすこう)の翌日、同僚の歴史科の教師W君に誘われて、山あるきに出掛けた。W君は東京の学校出で、若い、元気の好い、書生肌の人だから、山野を跋渉(ばっしょう)するには面白い道連だ。
 小諸の町はずれに近い、与良町(よらまち)のある家の門で、
「煮(た)いて貰うのだから、お米を一升も持っておいでなんしょ。柿も持っておいでなんすか――」

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