千曲川のスケッチ
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著者名:島崎藤村 

     序

 敬愛する吉村さん――樹(しげる)さん――私は今、序にかえて君に宛(あ)てた一文をこの書のはじめに記(しる)すにつけても、矢張(やっぱり)呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸(ようや)く今纏(まと)めることが出来た。
 樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身を托(たく)して、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋久松町(ひさまつちょう)の小学校へ通われる頃は、私は白金(しろかね)の明治学院へ通った。君と私とは殆(ほと)んど兄弟のようにして成長して来た。私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えている。私は信州の小諸(こもろ)で家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。その時の君は早や中学を卒(お)えようとするほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君独(ひと)りで来られた。この書の中にある小諸城址(じょうし)の附近、中棚(なかだな)温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書の全部を君に宛てて書いた。山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。これが私には一番自然なことで、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地(こころもち)がする。
「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
 これは私が都会の空気の中から脱け出して、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中へ行って種々(いろいろ)なことを学んだ。田舎(いなか)教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択(えら)ぶように成った。この書の主(おも)なる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙していた時の印象である。
 樹さん、君のお父さんも最早(もう)居ない人だし、私の妻も居ない。私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川(ちくまがわ)の川上から川下までを生々(いきいき)と眼の前に見ることが出来る。あの浅間の麓(ふもと)の岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいを嗅(か)ぐような気がする。私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。このスケッチの中で知友神津猛(こうづたけし)君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは遺憾である。私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この書はいくらかそんな積りで著(あらわ)した。寂しく地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。

  大正元年 冬
藤村

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   その一


     学生の家

 地久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧(みまき)ヶ原(はら)の方へ山遊びに出掛けた。松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分蕨(わらび)を採った。それから鴇窪(ときくぼ)という村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。
 私は今、小諸の城址(しろあと)に近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている。君はこういう山の上への春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。梅も桜も李(すもも)も殆(ほと)んど同時に開く。城址の懐古園(かいこえん)には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時(いちどき)にすべての花を浚(さら)って行って了(しま)う。私達の教室は八重桜の樹で囲繞(いにょう)されていて、三週間ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓に近く咲き乱れた。休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。学生等はその下を遊び廻って戯れた。殊(こと)に小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。どうだろう、それが最早(もう)すっかり初夏の光景に変って了った。一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋(うずも)れていた。
 私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。平原(ひらはら)、小原(こはら)、山浦、大久保、西原、滋野(しげの)、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。こういう学生は多く農家の青年だ。学校の日課が済むと、彼等は各自(めいめい)の家路を指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川(ちくまがわ)の岸に随(つ)いて、蛙(かわず)の声などを聞きながら帰って行く。山浦、大久保は対岸にある村々だ。牛蒡(ごぼう)、人参(にんじん)などの好い野菜を出す土地だ。滋野は北佐久(きたさく)の領分でなく、小県(ちいさがた)の傾斜にある農村で、その附近の村々から通って来る学生も多い。
 ここでは男女(なんにょ)が烈(はげ)しく労働する。君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫(とりいれ)休みというものがあるとか。何かの本でそんなことを読んだことがあった。私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。多忙(いそが)しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
 Sという学生は小原村から通って来る。ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。私は小原のような村が好きだ。そこには生々とした樹蔭(こかげ)が多いから。それに、小諸からその村へ通う畠(はたけ)の間の平かな道も好きだ。
 私は盛んな青麦の香を嗅(か)ぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畠がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧(お)しつけられるような心持(こころもち)に成る。可怖(おそろ)しい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
 近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成(かなり)大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃(いんぎん)な家族の人達が私の心を惹(ひ)いた。
 君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所の側(わき)から直(じか)に裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚(ぶどうだな)などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛(ちちうし)が飼われている。
 Sの兄は大きなバケツを提(さ)げて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母と二人で腰を曲(かが)めて、新鮮な牛乳を罎詰(びんづめ)にする仕度(したく)をした。暫時(しばらく)、私は立って眺(なが)めていた。
 やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々(いろいろ)な話を聞いた。牛の性質によって温順(おとな)しく乳を搾(しぼ)らせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着(おちつ)いたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西(にし)の入(いり)の牧場(まきば)なぞが設けてあることを聞いた。
 晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。

     鉄砲虫

 この山の上で、私はよく光沢(つやけ)の無い茶色な髪の娘に逢う。どうかすると、灰色に近いものもある。草葺(くさぶき)の小屋の前や、桑畠(くわばたけ)の多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
 学校の小使が私にこんなことを言った。

     烏帽子山麓(えぼしさんろく)の牧場

 水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した。以前、私達の学校へは同じ水彩画家のM君が教えに来てくれていたが、M君は沢山信州の風景を描いて、一年ばかりで東京の方へ帰って行った。今ではB君がその後をうけて生徒に画学を教えている。B君は製作の余暇に、毎週根津村から小諸まで通って来る。
 土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県(ちいさがた)の傾斜を上った。
 根津村には私達の学校を卒業したOという青年が居る。Oは兵学校の試験を受けたいと言っているが、最早(もう)一人前の農夫として恥しからぬ位だ。私はその家へも寄って、Oの母や姉に逢った。Oの母は肥満した、大きな体格の婦人で、赤い艶々(つやつや)とした頬(ほお)の色なぞが素樸(そぼく)な快感を与える。一体千曲川の沿岸では女がよく働く、随(したが)って気象も強い。恐らく、これは都会の婦人ばかり見慣れた君なぞの想像もつかないことだろう。私は又、この土地で、野蛮な感じのする女に遭遇(であ)うこともある。Oの母にはそんな荒々しさが無い。何しろこの婦人は驚くべき強健な体格だ。Oの姉も労働に慣れた女らしい手を有(も)っていた。
 私はB君や、B君の隣家(となり)の主人に誘われて、根津村を見て廻った。隣家の主人はB君が小学校時代からの友達であるという。パノラマのような風光は、この大傾斜から擅(ほしいまま)に望むことが出来た。遠く谷底の方に、千曲川の流れて行くのも見えた。
 私達は村はずれの田圃道(たんぼみち)を通って、ドロ柳の若葉のかげへ出た。谷川には鬼芹(おにぜり)などの毒草が茂っていた。小山の裾(すそ)を選んで、三人とも草の上に足を投出した。そこでB君の友達は提(さ)げて来た焼酎(しょうちゅう)を取出した。この草の上の酒盛の前を、時々若い女の連(つれ)が通った。草刈に行く人達だ。
 B君の友達は思出したように、
「君とここで鉄砲打ちに来て、半日飲んでいたっけナ」
 と言うと、B君も同じように洋行以前のことを思出したらしい調子で、
「もう五年前だ――」
 と答えた。B君は写生帳を取出して、灰色なドロ柳の幹、風に動くそのやわらかい若葉などを写し写し話した。一寸(ちょっと)散歩に出るにも、この画家は写生帳を離さなかった。
 翌日は、私はB君と二人ぎりで、烏帽子ヶ岳の麓(ふもと)を指して出掛けた。私が牧場(まきば)のことを尋ねたら、B君も写生かたがた一緒に行こうと言出したので、到頭私は一晩厄介に成った。尤(もっと)も、この村から牧場のあるところへは、更に一里半ばかり上らなければ成らない。案内なしに、私などの行かれる場処では無かった。
 夏山――山鶺鴒(やませきれい)――こういう言葉を聞いただけでも、君は私達の進んで行く山道を想像するだろう。「のっぺい」と称する土は乾いていて灰のよう。それを踏んで雑木林の間にある一条(ひとすじ)の細道を分けて行くと、黄勝なすずしい若葉のかげで、私達は旅の商人に逢った。
 更に山深く進んだ。山鳩なぞが啼(な)いていた。B君は歩きながら飛騨(ひだ)の旅の話を始めて、十一という鳥を聞いた時の淋(さび)しかったことを言出した。「十一……十一……十一……」とB君は段々声を細くして、谷を渡って行く鳥の啼声を真似(まね)て聞かせた。そのうちに、私達はある岡の上へ出て来た。
 君、白い鈴のように垂下った可憐(かれん)な草花の一面に咲いた初夏の光に満ちた岡の上を想像したまえ。私達は、あの香気(かおり)の高い谷の百合(ゆり)がこんなに生(は)えている場所があろうとは思いもよらなかった。B君は西洋でこの花のことを聞いて来て、北海道とか浅間山脈とかにあるとは知っていたが、なにしろあまり沢山あるので終(しまい)には採る気もなかった。二人とも足を投出して草の中に寝転(ねころ)んだ。まるで花の臥床(しとね)だ。谷の百合は一名を君影草(きみかげそう)とも言って、「幸福の帰来」を意味するなどと、花好きなB君が話した。
 話の面白い美術家と一緒で、牧場へ行き着くまで、私は倦(う)むことを知らなかった。岡の上には到るところに躑躅(つつじ)の花が咲いていた。この花は牛が食わない為に、それでこう繁茂しているという。
 一周すれば二里あまりもあるという広々とした高原の一部が私達の眼にあった。牛の群が見える。何と思ったか、私達の方を眼掛(めが)けて突進してくる牛もある。こうして放し飼にしてある牛の群の側を通るのは、慣れない私には気味悪く思われた。私達は牧夫の住んでいる方へと急いだ。
 番小屋は谷を下りたところにあった。そこへ行く前に沢の流れに飲んでいる小牛、蕨(わらび)を採っている子供などに逢った。牛が来て戸や障子を突き破るとかで、小屋の周囲(まわり)には柵(さく)が作ってある。年をとった牧夫が住んでいた。僅(わず)かばかりの痩(や)せた畑もこの老爺(ろうや)が作るらしかった。破れた屋根の下で、牧夫は私達の為に湯を沸かしたり、茶を入れたりしてくれた。
 壁には鋸(のこぎり)、鉈(なた)、鎌(かま)の類を入れた「山猫」というものが掛けてあった。こんな山の中までよく訪ねて来てくれたという顔付で、牧夫は私達に牛飼の経験などを語り、この牧場の管理人から月に十円の手宛(てあて)を貰(もら)っていることや、自分は他の牧場からこの西(にし)の入(いり)の沢へ移って来たものであることなどを話した。牛は角がかゆい、それでこすりつけるようにして、物を破壊(こわ)して困るとか言った。今は草も短く、少いから、草を食い食い進むという話もあった。
 牧夫は一寸考えて、見えなくなった牛のことを言出した。あの山間(やまあい)の深い沢を、山の湯の方へ行ったかと思う、とも言った。
「ナニ、あの沢は裾まで下りるなんてものじゃねえ。柳の葉でもこいて食ってら」
 こう復(ま)た考え直したように、その牛のことを言った。
 間もなく私達は牧夫に伴われて、この番小屋を出た。牧夫は、多くの牛が待っているという顔付で、手に塩を提げて行った。途次(みちみち)私達に向って、「この牧場は芝草ですから、牛の為に好いです」とか「今は木が低いから、夏はいきれていけません」とか、種々(いろいろ)な事を言って聞かせた。
 ここへ来て見ると、人と牛との生涯が殆(ほと)んど混り合っているかのようである。この老爺は、牛が塩を嘗(な)めて清水を飲みさえすれば、病も癒(い)えるということまで知悉(しりつく)していた。月経期の牝牛(めうし)の鳴声まで聞き分ける耳を持っていた。
 アケビの花の紫色に咲いている谷を越して、復た私達は牛の群の見えるところへ出た。牧夫が近づいて塩を与えると、黒い小牛が先ず耳を振りながらやって来た。つづいて、額の広い、目付の愛らしい赤牛や、首の長い斑(ぶち)なぞがぞろぞろやって来て、「御馳走(ごちそう)」と言わないばかりに頭を振ったり尻尾(しっぽ)を振ったりしながら、塩の方へ近づいた。牧夫は私達に、牛もここへ来たばかりには、家を懐(なつか)しがるが、二日も経てば慣れて、強い牛は強い牛と集り、弱い牛は弱い牛と組を立てるなどと話した。向うの傾斜の方には、臥(ね)たり起きたりして遊んでいる牛の群も見える……
 この牧場では月々五十銭ずつで諸方(ほうぼう)の持主から牝牛を預っている。そういう牝牛が今五十頭ばかり居る。種牛は一頭置いてある。牧夫が勤めの主なるものは、牛の繁殖を監督することであった。礼を言って、私達はこの番人に別れた。


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   その二


     青麦の熟する時

 学校の小使は面白い男で、私に種々(いろいろ)な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬(ほお)の紅い彼の妻が子供を背負(おぶ)ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣(や)る。校長の家では毎年可成(かなり)な農家ほどに野菜を作った。燕麦(からすむぎ)なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
 私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川(ちくまがわ)の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一隅(ぐう)を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠(くわばたけ)、竹藪(たけやぶ)などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。
 粗末ではあるが眺望(ちょうぼう)の好い、その窓の一つに倚(よ)りながら、私は小使から六月の豆蒔(まめまき)の労苦を聞いた。地を鋤(す)くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋(わらじ)を穿(は)いて漸(ようや)くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠(こぬか)一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒(ま)くという。麦は矢張小作の年貢(ねんぐ)の中に入って、夏の豆、蕎麦(そば)なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
 南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に話したことだ。そう言えば、なまぬるい、微(かすか)な西風が私達の顔を撫(な)でて、窓の外を通る時候に成って来た。

     少年の群

 学校の帰路(かえりみち)に、鉄道の踏切を越えた石垣の下のところで、私は少年の群に逢った。色の黒い、二本棒の下った、藁草履(わらぞうり)を穿(は)いた子供等で、中には素足のまま土を踏んでいるのもある。「野郎」、「この野郎」、と互に顔を引掻(ひっか)きながら、相撲(すもう)を取って遊んでいた。
 何処(どこ)の子供も一種の俳優(やくしゃ)だ。私という見物がそこに立って眺(なが)めると、彼等は一層調子づいた。これ見よがしに危い石垣の上へ登るのもあれば、「怪我しるぞ」と下に居て呼ぶのもある。その中で、体躯(なり)の小な子供に何歳(いくつ)に成るかと聞いてみた。
「おら、五歳(いつつ)」とその子供が答えた。
 水車小屋の向うの方で、他の少年の群らしい声がした。そこに遊んでいた子供の中には、それを聞きつけて、急に馳出(かけだ)すのもあった。
「来ねえか、この野郎――ホラ、手を引かれろ」
 とさすがに兄らしいのが、年下(としした)の子供の手を助けるように引いた。
「やい、米でも食(くら)え」
 こんなことを言って、いきなり其処(そこ)にある草を毟(むし)って、朋輩(ほうばい)の口の中へ捻込(ねじこ)むのもあった。
 すると、片方(かたっぽう)も黙ってはいない。覚えておれと言わないばかりに、「この野郎」と叫んだ。
「畜生!」一方は軽蔑(けいべつ)した調子で。
「ナニ? この野郎」片方は石を拾って投げつける。
「いやだいやだ」
 と笑いながら逃げて行く子供を、片方は棒を持って追馳(おっか)けた。乳呑児(ちのみご)を背負(おぶ)ったまま、その後を追って行くのもあった。
 君、こういう光景(ありさま)を私は学校の往還(ゆきかえり)に毎日のように目撃する。どうかすると、大人が子供をめがけて、石を振上げて、「野郎――殺してくれるぞ」などと戯れるのを見ることもある。これが、君、大人と子供の間に極く無邪気に、笑いながら交換(とりかわ)される言葉である。
 東京の下町の空気の中に成長した君なぞに、この光景(ありさま)を見せたら、何と言うだろう。野蛮に相違ない。しかし、君、その野蛮は、疲れた旅人の官能に活気と刺戟(しげき)とを与えるような性質のものだ。

     麦畠

 青い野面(のら)には蒸すような光が満ちている。彼方此方(あちこち)の畠側(わき)にある樹木も活々(いきいき)とした新葉を着けている。雲雀(ひばり)、雀(すずめ)の鳴声に混って、鋭いヨシキリの声も聞える。
 火山の麓にある大傾斜を耕して作ったこの辺の田畠(たはた)はすべて石垣によって支えられる。その石垣は今は雑草の葉で飾られる時である。石垣と共に多いのは、柿の樹だ。黄勝(きがち)な、透明な、柿の若葉のかげを通るのも心地が好い。
 小諸はこの傾斜に添うて、北国(ほっこく)街道の両側に細長く発達した町だ。本町(ほんまち)、荒町(あらまち)は光岳寺を境にして左右に曲折した、主(おも)なる商家のあるところだが、その両端に市町(いちまち)、与良町(よらまち)が続いている。私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町(あいおいちょう)の道路を横ぎり、古い士族屋敷の残った袋町(ふくろまち)を通りぬけて、田圃側(たんぼわき)の細道へ出た。そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋根が町の全景の一部を望むように見られる。白壁、土壁は青葉に埋れていた。
 田圃側の草の上には、土だらけの足を投出して、あおのけさまに寝ている働き労(つか)れたらしい男があった。青麦の穂は黄緑(こうりょく)に熟しかけていて、大根の花の白く咲き乱れたのも見える。私は石垣や草土手の間を通って石塊(いしころ)の多い細道を歩いて行った。そのうちに与良町に近い麦畠の中へ出て来た。
 若い鷹(たか)は私の頭の上に舞っていた。私はある草の生えた場所を選んで、土のにおいなどを嗅(か)ぎながら、そこに寝そべった。水蒸気を含んだ風が吹いて来ると、麦の穂と穂が擦(す)れ合って、私語(ささや)くような音をさせる。その間には、畠に出て「サク」を切っている百姓の鍬(くわ)の音もする……耳を澄ますと、谷底の方へ落ちて行く細い水の響も伝わって来る。その響の中に、私は流れる砂を想像してみた。しばらく私はその音を聞いていた。しかし、私は野鼠のように、独(ひと)りでそう長く草の中には居られない。乳色に曇りながら光る空なぞは、私の心を疲れさせた。自然は、私に取っては、どうしても長く熟視(みつ)めていられないようなものだ……どうかすると逃げて帰りたく成るようなものだ。
 で、復(ま)た私は起き上った。微温(なまぬる)い風が麦畠を渡って来ると、私の髪の毛は額へ掩(おお)い冠(かぶ)さるように成った。復た帽子を冠って、歩き廻った。
 畠の間には遊んでいる子供もあった。手甲(てっこう)をはめ、浅黄(あさぎ)の襷(たすき)を掛け、腕をあらわにして、働いている女もあった。草土手の上に寝かされた乳呑児が、急に眼を覚まして泣出すと、若い母は鍬を置いて、その児の方へ馳けて来た。そして、畠中で、大きな乳房の垂下った懐(ふところ)をさぐらせた。私は無心な絵を見る心地(ここち)がして、しばらくそこに立って、この母子(おやこ)の方を眺(なが)めていた。草土手の雑草を刈取ってそれを背負って行く老婆もあった。
 与良町の裏手で、私は畠に出て働いているK君に逢った。K君は背の低い、快活な調子の人で、若い細君を迎えたばかりであったが、行く行くは新時代の小諸を形造る壮年(わかもの)の一人として、土地のものに望を嘱されている。こういう人が、畠を耕しているということも面白く思う。
 胡麻塩頭(ごましおあたま)で、目が凹(くぼ)んで、鼻の隆(たか)い、節々のあらわれたような大きな手を持った隠居が、私達の前を挨拶(あいさつ)して通った。腰には角(つの)の根つけの付いた、大きな煙草入をぶらさげていた。K君はその隠居を指して、この辺で第一の老農であると私に言って聞かせた。隠居は、何か思い付いたように、私達の方を振返って、白い短い髭(ひげ)を見せた。
 肥桶(こやしおけ)を担(かつ)いだ男も畠の向を通った。K君はその男の方をも私に指して見せて、あの桶の底には必(きっ)と葱(ねぎ)などの盗んだのが入っている、と笑いながら言った。それから、私は髪の赤白髪(あかしらが)な、眼の色も灰色を帯びた、酒好らしい赤ら顔の農夫にも逢った。

     古城の初夏

 私の同僚に理学士が居る。物理、化学なぞを受持っている。
 学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室の側を通った。戸口に立って眺めると、学士も授業を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒等に説明していた。机の上には、大理石の屑(くず)、塩酸の壜(びん)、コップ、玻璃管(ガラスくだ)などが置いてあった。蝋燭(ろうそく)の火も燃えていた。学士は、手にしたコップをすこし傾(かし)げて見せた。炭素はその玻璃板の蓋(ふた)の間から流れた。蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
 無邪気な学生等は学士の机の周囲(まわり)に集って、口を開いたり、眼を円(まる)くしたりして眺めていた。微笑(ほほえ)むもの、腕組するもの、頬杖(ほおづえ)突くもの、種々雑多の様子をしていた。そのコップの中へ鳥か鼠(ねずみ)を入れると直(すぐ)に死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
 問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあらわれた。
「アア、虫を取りに行った」
 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく何か捕(つかま)えて戻って来た。それを学士にすすめた。
「蜂(はち)ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「ア、怒ってる――螫(さ)すぞ螫すぞ」
 口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反(そ)らして、螫されまいとする様子をした。その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」というものもある。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶(もだ)えて、死んだ。
「最早(もう)マイりましたかネ」
 と学士も笑った。
 その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園(かいこえん)の方へ弓をひきに出掛けた。あの緑蔭には、同志の者が集って十五間ばかりの矢場を造ってある。私も学士に誘われて、学校から直(じか)に城址(しろあと)の方へ行くことにした。
 はじめて私が学士に逢った時は、唯(ただ)こんな田舎へ来て隠れている年をとった学者と思っただけで、そう親しく成ろうとは思わなかった。私達は――三人の同僚を除いては、皆な旅の鳥で、その中でも学士は幾多の辛酸を嘗(な)め尽して来たような人である。服装(みなり)なぞに極く関(かま)わない、授業に熱心な人で、どうかすると白墨で汚れた古洋服を碌(ろく)に払わずに着ているという風だから、最初のうちは町の人からも疎(うと)んぜられた。服装と月給とで人間の価値(ねうち)を定(き)めたがるのは、普通一般の人の相場だ。しかし生徒の父兄達も、次第に学士の親切な、正直な、尊い性質を認めないわけに行かなかった。これ程何もかも外部(そと)へ露出した人を、私もあまり見たことが無い。何時の間にか私はこの老学士と仲好(なかよし)に成って自分の身内からでも聞くように、その制(おさ)えきれないような嘆息や、内に憤る声までも聞くように成った。
 私達は揃(そろ)って出掛けた。学士の口からは、時々軽い仏蘭西(フランス)語なぞが流れて来る。それを聞く度(たび)に、私は学士の華やかな過去を思いやった。学士は又、そんな関わない風采(ふうさい)の中にも、何処(どこ)か往時(むかし)の瀟洒(しょうしゃ)なところを失わないような人である。その胸にはネキタイが面白く結ばれて、どうかすると見慣れない襟留(えりどめ)なぞが光ることがある。それを見ると、私は子供のように噴飯(ふきだ)したくなる。
 白い黄ばんだ柿の花は最早到る処に落ちて、香気を放っていた。学士は弓の袋や、クスネの類を入れた鞄(かばん)を提げて歩きながら、
「ねえ、実はこういう話サ。私共の二番目の伜(せがれ)が、あれで子供仲間じゃナカナカ相撲(すもう)が取れるんですトサ。此頃(こないだ)もネ、弓の弦(つる)を褒美(ほうび)に貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑(おか)しいんですよ。何だッて聞きましたらネ――沖の鮫(さめ)」
 私は笑わずにいられなかった。学士も笑を制えかねるという風で、
「兄のやつも名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだから、よく当るように矢当りとつけましたトサ。ええ、矢当りサ。子供というものは可笑しなものですネ」
 こういう阿爺(おとっ)さんらしい話を聞きながら古い城門の前あたりまで行くと馬に乗った医者が私達に挨拶して通った。
 学士は見送って、
「あの先生も、鶏に、馬に、小鳥に、朝顔――何でもやる人ですナ。菊の頃には菊を作るし、よく何処の田舎にも一人位はああいう御医者で奇人が有るもんです。『なアに他の奴等は、ありゃ医者じゃねえ、薬売りだ、とても話せない』なんて、エライ気焔(きえん)サ。でも、面白い気象の人で、在へでも行くと、薬代がなけりゃ畠の物でも何でもいいや、葱(ねぎ)が出来たら提げて来い位に言うものですから、百姓仲間には非常に受が好い……」
 奇人はこの医者ばかりでは無い。旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣(つり)に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍(かたわら)に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。旧士族には奇人が多い。時世が、彼等を奇人にして了(しま)った。
 もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀(どべい)、礎(いしずえ)ばかり残った桑畠なぞを見、離散した多くの家族の可傷(いたま)しい歴史を聞き、振返って本町、荒町の方に町人の繁昌(はんじょう)を望むなら、「時」の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられなかろう。しかし他の土地へ行って、頭角を顕(あらわ)すような新しい人物は、大抵教育のある士族の子孫だともいう。
 今、弓を提げて破壊された城址(しろあと)の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。校長は、江戸の御家人とかだ。休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
 私はこの古城址(こじょうし)に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々(たにだに)の雪は、ここから白壁を望むように見える。
 懐古園内の藤、木蘭(もくれん)、躑躅(つつじ)、牡丹(ぼたん)なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変って了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、それだけでも想像されよう。海のような浅間一帯の大傾斜は、その黒ずんだ松の樹の下へ行って、一線に六月の空に横(よこた)わる光景(さま)が見られる。既に君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村なぞは見えないまでも、そこから松林の向に指すことが出来る。私達の矢場を掩う欅(けやき)、楓(かえで)の緑も、その高い石垣の上から目の下に瞰下(みおろ)すことが出来る。
 境内には見晴しの好い茶屋がある。そこに預けて置いた弓の道具を取出して、私は学士と一緒に苔蒸(こけむ)した石段を下りた。静かな矢場には、学校の仲間以外の顔も見えた。
「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」
「一年の御稽古(けいこ)でも、しばらく休んでいると、まるで当らない。なんだか串談(じょうだん)のようですナ」
「こりゃ驚いた。尺二(しゃくに)ですぜ。しっかり御頼申(おたのもう)しますぜ」
「ボツン」
「そうはいかない――」
 こんな話が、強弓(ごうきゅう)をひく漢学の先生や、体操の教師などの間に起る。理学士は一番弱い弓をひいたが、熱心でよく当った。
 古城址といえば、全く人の住まないところのように君には想像されたろう。私は残った城門の傍(かたわら)にある門番と、園内の茶屋とを君に紹介した。まだその外に、鶏を養(か)う人なぞも住んでいる。この人は病身で、無聊(ぶりょう)に苦むところから、私達の矢場の方へ遊びに来る。そして、私達の弓が揃って引絞られたり、矢の羽が頬を摺(す)ったりする後方(うしろ)に居て、奇警な批評を浴せかける。戯れに、
「どうです。先生、もう弓も飽いたから――貴様、この矢場で、鳥でも飼え、なんと来た日にゃあ、それこそ此方(こっち)のものだ……しかしこの弓は、永代(えいたい)続きそうだテ」こんなことを言って混返(まぜかえ)すので、折角入れた力が抜けて、弓もひけないものが有った。
 小諸へ来て隠れた学士に取って、この緑蔭は更に奥の方の隠れ家のように見えた。愛蔵する鷹の羽の矢が揃って白い的の方へ走る間、学士はすべてを忘れるように見えた。
 急に、熱い雨が落ちて来た。雷(らい)の音も聞えた。浅間は麓まで隠れて、灰色に煙るように見えた。いくつかの雲の群は風に送られて、私達の頭の上を山の方へと動いた。雨は通過ぎたかと思うと復(また)急に落ちて来た。「いよいよ本物かナ」と言って、学士は新しく自分で張った七寸的(まと)を取除(とりはず)しに行った。
 城址の桑畠には、雨に濡(ぬ)れながら働いている人々もあった。皆なで雲行を眺めていると、初夏らしい日の光が遽(にわ)かに青葉を通して射して来た。弓仲間は勇んで一手ずつ射はじめた。やがて復たザアと降って来た。到頭一同は断念して、茶屋の方へ引揚(ひきあ)げた。
 私が学士と一緒に高い荒廃した石垣の下を帰って行く途中、東の空に深い色の虹(にじ)を見た。実に、学士はユックリユックリ歩いた。


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   その三


     山荘

 浅間の方から落ちて来る細流は竹藪(たけやぶ)のところで二つに別れて、一つは水車小屋のある窪(くぼ)い浅い谷の方へ私の家の裏を横ぎり、一つは馬場裏の町について流れている。その流に添う家々は私の家の組合だ。私は馬場裏へ移ると直ぐその組合に入れられた。一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。私は本町へ買物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配(こうばい)のある道を上らねばならぬ。
 組合頭(くみあいがしら)は勤勉な仕立屋の亭主だ。この人が日頃出入する本町のある商家から、商売(あきない)も閑(ひま)な頃で店の人達は東沢の別荘へ休みに行っている、私を誘って仕立屋にも遊びに来ないか、とある日番頭が誘いに来たとのことであった。
 私は君に古城の附近をすこし紹介した。町家の方の話はまだ為(し)なかった。仕立屋に誘われて商家の山荘を見に行った時のことを話そう。
 君は地方にある小さい都会へ旅したことが有るだろう。そこで行き逢う人々の多くは
――近在から買物に来た男女だとか、旅人だとかで――案外町の人の少いのに気が着いたことが有るだろう。田舎の神経質はこんなところにも表れている。小諸がそうだ。裏町や、小路(こうじ)や、田圃側(たんぼわき)の細い道なぞを択(えら)んで、勝手を知った人々は多く往(い)ったり来たりする。
 私は仕立屋と一緒に、町家の軒を並べた本町の通を一瞥(べつ)して、丁度そういう田圃側の道へ出た。裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれている。中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾(のれん)と対照を成して土地の気質や殷富(とみ)を表している。
 麦秋(むぎあき)だ。一年に二度ずつ黄色くなる野面(のら)が、私達の両側にあった。既に刈取られた麦畠も多かった。半道ばかり歩いて行く途中で、塩にした魚肉の薦包(こもづつみ)を提げた百姓とも一緒に成った。
 仕立屋は百姓を顧みて、
「もうすっかり植付が済みましたかネ」
「はい、漸(ようや)く二三日前に。これでも昔は十日前に植付けたものでごわすが、近頃はずっと遅く成りました。日蔭に成る田にはあまり実入(みいり)も無かったものだが、この節では一ぱいに取れますよ」
「暖くなった故(せい)かナ」
「はい、それもありますが、昔と違って田の数がずっと殖えたものだから、田の水もウルミが多くなってねえ」
 百姓は眺め眺め答えた。
 東沢の山荘には商家の人達が集っていた。店の方には内儀(かみ)さん達と、二三の小僧とを残して置いて、皆なここへ遊びに来ているという。東京の下町に人となった君は――日本橋天馬町(てんまちょう)の針問屋とか、浅草猿屋町(さるやちょう)の隠宅とかは、君にも私に可懐(なつか)しい名だ――恐らく私が今どういう人達と一緒に成ったか、君の想像に上るであろうと思う。
 山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓(さんてん)も望まれるという。池の辺(ほとり)に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。仕立屋は庭の高麗檜葉(こうらいひば)を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹(ひ)かなかった。
 私達は眺望(ちょうぼう)のある二階の部屋へ案内された。田舎縞(いなかじま)の手織物を着て紺の前垂を掛けた、髪も質素に短く刈ったのが、主人であった。この人は一切の主権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅気な大店(おおだな)の主人らしく見えた。でっぷり肥った番頭も傍(かたわら)へ来た。池の鯉(こい)の塩焼で、主人は私達に酒を勧めた。階下(した)には五六人の小僧が居て、料理方もあれば、通いをするものもあった。
 一寸したことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。番頭は、私達の前にある冷豆腐(ひややっこ)の皿にのみ花鰹節(はながつお)が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油(しょうゆ)ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節(おかか)をすこしかいて来ておくれ」
 と楼梯(はしごだん)のところから階下(した)を覗(のぞ)いて、小僧に吩咐(いいつ)けた。間もなく小僧はウンと大きく削った花鰹節を二皿持って上って来た。
 やがて番頭は階下から将棋の盤を運んだ。それを仕立屋の前に置いた。二枚落しでいこうと番頭が言った。仕立屋は二十年以来ぱったり止めているが、万更でも無いからそれじゃ一つやるか、などと笑った。主人も好きな道と見えて、覗き込んで、仕立屋はなかなか質(たち)が好いようだとか、そこに好い手があるとか、しきりと加勢をしたが、そのうちに客の敗と成った。番頭は盃(さかずき)を啣(ふく)んで、「さあ誰でも来い」という顔付をした。「お貸しなさい、敵打(かたきうち)だ」と主人は飛んで出て、番頭を相手に差し始める。どうやら主人の手も悪く成りかけた。番頭はぴッしゃり自分の頭を叩(たた)いて、「恐れ入ったかな」と舌打した。到頭主人の敗と成った。復た二番目が始まった。
 階下では、大きな巾着(きんちゃく)を腰に着けた男の児が、黒い洋犬と戯れていたが、急に家の方へ帰ると駄々をコネ始めた。小僧がもてあましているので、仕立屋も見兼ねて、子供の機嫌(きげん)を取りに階下へ降りた。その時、私も庭を歩いて見た。小手毬(こでまり)の花の遅いのも咲いていた。藤棚の下へ行くと、池の中の鯉の躍(おど)るのも見えた。「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」と言っている者も有った。
 池を一廻りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。
「先生、勝負はどうでしたネ」と仕立屋が尋ねた。
「二番とも、これサ」
 番頭は鼻の先へ握り拳(こぶし)を重ねて、大天狗(だいてんぐ)をして見せた。そして、高い、快活な声で笑った。
 こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を送った。ポツポツ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘(あいあいがさ)というやつはナカナカ意気なものですから」
 と番傘を出して貸してくれた。私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。
「もう一本お持ちなさい」と言って、復(ま)た小僧が追いかけて来た。

     毒消売の女

「毒消は宜(よ)う御座んすかねえ」
 家々の門(かど)に立って、鋭い越後訛(えちごなまり)で呼ぶ女の声を聞くように成った。
 黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷(ふろしき)、日をうけて光る笠、あだかも燕(つばめ)が同じような勢揃(せいぞろ)いで、互に群を成して時季を違えず遠いところからやって来るように、彼等もはるばるこの山の上まで旅して来る。そして鳥の群が彼方(かなた)、此方(こなた)の軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。彼等は血気壮(さか)んなところまで互によく似ている。

     銀馬鹿

「何処(どこ)の土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」とある人が言った。
 貧しい町を通って、黒い髭(ひげ)の生えた飴屋(あめや)に逢った。飴屋は高い石垣の下で唐人笛(とうじんぶえ)を吹いていた。その辺は停車場に近い裏町だ。私が学校の往還(ゆきかえり)によく通るところだ。岩石の多い桑畠(くわばたけ)の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を曳(ひ)いて押流されるように降りて来た人があった。荷車には屠(ほふ)った豚の股(もも)が載せてあった。後で、私はあの人が銀馬鹿だと聞いた。銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。この人は又、自分の家屋敷を他(ひと)に占領されてそれを知らずに働いているともいう。

     祭の前夜

 春蚕(はるこ)が済む頃は、やがて土地では、祇園祭(ぎおんまつり)の季節を迎える。この町で養蚕をしない家は、指折るほどしか無い。寺院(おてら)の僧侶(ぼうさん)すらそれを一年の主なる収入に数える。私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞える位だ。こういう土地だから、暗い蚕棚(かいこだな)と、襲うような臭気と、蚕の睡眠(ねむり)と、桑の出来不出来と、ある時は殆(ほと)んど徹夜で働いている男や女のことを想ってみて貰(もら)わなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。
 秤を腰に差して麻袋を負(しょ)ったような人達は、諏訪(すわ)、松本あたりからこの町へ入込んで来る。旅舎(やどや)は一時繭買(まゆかい)の群で満たされる。そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行く光景(さま)も、何となく町々に活気を添えるのである。
 二十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成って漸(ようや)く晴れた。霖雨(ながあめ)の後の日光は殊(こと)にきらめいた。長いこと煙霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗(ききょう)色に顕(あら)われた。この日は町の大人から子供まで互に新しい晴衣を用意して待っていた日だ。
 私は町の団体の暗闘に就(つ)いて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思わない。ただ、祭以前に紛擾(ごたごた)を重ねたと言うだけにして置こう。一時は祭をさせるとか、させないとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾(しめかざ)りが漸く七日目に町々の空へ掛った。その余波として、御輿(みこし)を担(かつ)ぎ込まれるが煩(うるさ)さに移転したと言われる家すらあった。そういう騒ぎの持上るというだけでも、いかにこの祭の町の人から待受けられているかが分る。多くの商人は殊に祭の賑(にぎわ)いを期待する。養蚕から得た報酬がすくなくもこの時には費されるのであるから。
 夜に入って、「湯立(ゆだて)」という儀式があった。この晩は主な町の人々が提灯(ちょうちん)つけて社(やしろ)の方へ集る。それを見ようとして、私も家を出た。空には星も輝いた。社頭で飴菓子(あめがし)を売っている人に逢った。謡曲で一家を成した人物だとのことだが、最早長いことこの田舎に隠れている。
 本町の通には紅白の提灯が往来(ゆきき)の人の顔に映った。その影で、私は鳩屋(はとや)のI、紙店(かみみせ)のKなぞの手を引き合って来るのに逢った。いずれも近所の快活な娘達だ。

     十三日の祇園(ぎおん)

 十三日には学校でも授業を休んだ。この授業を止む休(やす)まないでは毎時(いつでも)論があって、校長は大抵の場合には休む方針を執り、幹事先生は成るべく休まない方を主張した。が、祇園の休業は毎年の例であった。
 近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。戸板や樽(たる)を持出し、毛布(ケット)をひろげ、その上に飲食(のみくい)する物を売り、にわかごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人(こあきんど)はそこにも、ここにもあった。日頃顔を見知った八百屋(やおや)夫婦も、本町から市町の方へ曲ろうとする角のあたりに陣取って青い顔の亭主と肥った内儀(かみさん)とが互に片肌抜(かたはだぬぎ)で、稲荷鮨(いなりずし)を漬(つ)けたり、海苔巻(のりまき)を作ったりした。貧しい家の児が新調の単衣(ひとえ)を着て何か物を配り顔に町を歩いているのも祭の日らしい。
 午後に、家のものはB姉妹の許(もと)へ招かれて御輿(みこし)の通るのを見に行った。Bは清少納言(せいしょうなごん)の「枕の草紙」などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。
 光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞(つ)くことを許してあった。三時頃から、私も例の組合の家について夏の日のあたった道を上った。そこを上りきったところまで行くと軒毎に青簾(あおすだれ)を掛けた本町の角へ出る。この簾は七月の祭に殊に適(ふさ)わしい。
 祭を見に来た人達は鄙(ひな)びた絵巻物を繰展(くりひろ)げる様に私の前を通った。近在の男女は風俗もまちまちで、紫色の唐縮緬(とうちりめん)の帯を幅広にぐるぐると巻付けた男、大きな髷(まげ)にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男の洋傘(こうもりがさ)をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂(まえだれ)をして尻端(しりはし)を折った児もある。黒い、太い足に白足袋(しろたび)を穿(はい)て、裾(すそ)の短い着物を着た小娘もある。一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。その中を、軽井沢辺(あた)りの客と見えて、珍らしそうに眺(なが)めて行く西洋の婦人もあった。町の子供はいずれも嬉しそうに群集の間を飛んで歩いた。
 やがて町の下の方から木の臼(うす)を転(ころ)がして来た。見物はいずれも両側の軒下なぞへ逃げ込んだ。
「ヨイヨ。ヨイヨ」
 と掛声して、重い御輿が担(かつ)がれて来た。狭い往来の真中で、時々御輿は臼の上に置かれる。血気な連中はその周囲(まわり)に取付いて、ぐるぐる廻したり、手を揚げて叫んだりする。壮(さか)んな歓呼の中に、復た御輿は担がれて行った。一種の調律は見物の身(からだ)に流れ伝わった。私は戻りがけに子供まで同じ足拍子で歩いているのを見た。
 この日は、町に紛擾(ごたごた)のあった後で、何となく人の心が穏かでなかった。六時頃に復た本町の角へ出て見た。「ヨイヨヨイヨ」という掛声までシャガレて「ギョイギョ、ギョイギョ」と物凄(ものすご)く聞える。人々は酒気を帯て、今御輿が町の上の方へ担がれて行ったかと思うと急に復た下って来る。五六十人の野次馬は狂するごとく叫び廻る。多勢の巡査や祭事掛は駈足(かけあし)で一緒に附いて歩いた。丁度夕飯時で、見物は彼方是方(あちこち)へ散じたが、御輿の勢は反(かえ)って烈(はげ)しく成った。それが大きな商家の前などを担がれて通る時は、見る人の手に汗を握らせた。
 急に御輿は一種の運動と化した。ある家の前で、衝突の先棒(さきぼう)を振るものがある、両手を揚げて制するものがある、多勢の勢に駆られて見る間に御輿は傾いて行った。その時、家の方から飛んで出て、御輿に飛付き押し廻そうとするものもあった。騒ぎに踏み敷かれて、あるものの顔から血が流れた。「御輿を下せ御輿を下せ」と巡査が馳(は)せ集って、烈しい論判の末、到頭輿丁(よてい)の外(ほか)は許さないということに成った。御輿の周囲(まわり)は白帽白服の人で護られて、「さあ、よし、持ち上げろ」などという声と共に、急に復た仲町の方角を指して担がれて行った。見物の中には突き飛ばされて、あおのけさまに倒れた大の男もあった。
「それ早く逃げろ、子供々々」
 皆な口々に罵(ののし)った
「巡査も随分御苦労なことですな」
「ほんとに好い迷惑サ」
 見物は言い合っていた。
 暮れてから町々の提灯(ちょうちん)は美しく点(とも)った。簾(すだれ)を捲上(まきあ)げ、店先に毛氈(もうせん)なぞを敷き、屏風(びょうぶ)を立て廻して、人々は端近く座りながら涼んでいた。
 御輿は市町から新町の方へ移った。ある坂道のところで、雨のように降った賽銭(さいせん)を手探りに拾う女の児なぞが有った。後には、提灯を手にして往来を探(さが)すような青砥(あおと)の子孫も顕(あらわ)れるし、五十ばかりの女が闇から出て、石をさぐったり、土を掴(つか)んだりして見るのも有った。さかしい慾の世ということを思わせた。
 市町の橋は、学校の植物の教師の家に近い。私の懇意なT君という医者の家にも近い。その欄干(らんかん)の両側には黒い影が並んで、涼しい風を楽んでいるものや、人の顔を覗(のぞ)くものや、胴魔声(どうまごえ)に歌うものや、手を引かれて断り言う女連なぞが有った。
 夜の九時過に、馬場裏の提灯はまだ宵の口のように光った。組合の人達は仕立屋や質屋の前あたりに集って涼みがてら祭の噂(うわさ)をした。この夜は星の姿を見ることが出来なかった。螢(ほたる)は暗い流の方から迷って来て、町中(まちなか)を飛んで、青い美しい光を放った。

     後の祭

 翌日は朝から涼しい雨が降った。家の周囲(まわり)にある柿、李(すもも)なぞの緑葉からは雫(しずく)が滴(したた)った。李の葉の濡(ぬ)れたのは殊(こと)に涼しい。
 本町の通では前の日の混雑した光景(さま)と打って変って家毎に祭の提灯を深く吊(つる)してある。紺暖簾(のれん)の下にさげた簾(すだれ)も静かだ。その奥で煙草盆の灰吹を叩(たた)く音が響いて聞える位だ。往来には、娘子供が傘をさして遊び歩くのみだ。前の日に用いた木の臼(うす)も町の片隅(かたすみ)に転してある。それが七月の雨に濡れている。
 この十四日には家々で強飯(こわめし)を蒸(ふか)し、煮染(にしめ)なぞを祝って遊び暮す日であるという。午後の四時頃に成っても、まだ空は晴れなかった。烏帽子(えぼし)を冠り、古風な太刀(たち)を帯びて、芝居の「暫(しばらく)」にでも出て来そうな男が、神官、祭事掛、子供などと一緒に、いずれも浅黄の直垂(ひたたれ)を着けて、小雨の降る町中の〆飾を切りに歩いた。


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   その四


     中棚(なかだな)

 私達の教員室の窓から浅い谷が見える。そこは耕されて、桑(くわ)などが植付けてある。
 こういう谷が松林の多い崖(がけ)を挟(はさ)んで、古城の附近に幾つとなく有る。それが千曲川(ちくまがわ)の方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。私達は城門の横手にある草地を掘返して、テニスのグランドを造っているが、その辺も矢張(やはり)谷の起点の一つだ。M君が小諸に居た頃は、この谷間(たにあい)で水彩画を作ったこともあった。学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐るべき山崩れのあった時、浅間の方から押寄せて来た水がこういう変化のある地勢を造ったとか。
 八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。私の足はよく其方(そちら)へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。
 中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎畠(りんごばたけ)が見える。千曲川はその向を流れている。
 午後の一時過に、私は田圃脇(たんぼわき)の道を通って、千曲川の岸へ出た。蘆(あし)、蓬(よもぎ)、それから短い楊(やなぎ)などの多い石の間で、長野から来ている師範校の学生と一緒に成(なっ)た。A、A、Wなどいう連中だ。この人達は夏休を応用して、本を読みに私の家へ通っている。岸には、熱い砂を踏んで水泳にやって来た少年も多かった。その中には私達の学校の生徒も混っていた。
 暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れて、ここへ泳ぎに来るが、隅田川(すみだがわ)なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う。青く澄んだ川の水は油のように流れていても、その瀬の激しいことと言ったら、眩暈(めまい)がする位だ。川上の方を見ると、暗い岩蔭から白波を揚げて流れて来る。川下の方は又、矢のように早い。それが五里淵(ごりぶち)の赤い崖に突き当って、非常な勢で落ちて行く。どうして、この水瀬が是処(こっち)の岩から向うの崖下まで真直(まっすぐ)に突切れるものではない。それに澄んだ水の中には、大きな岩の隠れたのがある。下手をマゴつけば押流されて了(しま)う。だから余程上(かみ)の方からでも泳いで行かなければ、目的とする岩に取付いて上ることが出来ない。
 平野を流れる利根(とね)などと違い、この川の中心は岸のどちらかに激しく傾いている。私達は、この河底の露(あらわ)れた方に居て、溝萩(みぞはぎ)の花などの咲いた岩の蔭で、二時間ばかりを過した。熱い砂の上には這(は)いのめって、甲羅(こうら)を乾しているものもあった。ザンブと水の中へ飛込むものもあった。このあたりへは小娘まで遊びに来て、腕まくりをしたり、尻を端折(はしょ)ったりして、足を水に浸しながら余念なく遊び廻っていた。
 三つの麦藁(むぎわら)帽子が石の間にあらわれた。師範校の連中だ。
「ちったア釣れましたかネ」と私が聞いた。
「ええ、すっかり釣られて了いました」
「どうだネ、君の方は」
「五尾(ひき)ばかし掛るには掛りましたが、皆な欺(だま)されて了いました」
「む、む、二時間もあるのだから、ゆっくり言訳は考えられるサ……」
 こんなことを言って、仲間の話を混返(まぜかえ)すものもあった。
 この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽(よくそう)の中から外部(そと)の景色を眺(なが)めるのも心地(こころもち)が好かった。湯から上っても、皆の楽みは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽(ふけ)ることであった。林檎畠、葡萄棚(ぶどうだな)なぞを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。
「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
 と一人が言出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。
「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
「菓子もいいが、随分かかるネ」
「僕は二年ばかり辛抱した……」
「それはエラい。二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定(き)めている」
「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
「此頃(こないだ)、ある先生が――諸君は菓子屋へよく行そうだ、私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
「フウン」
「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡(およ)そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害(こわ)さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃散をつけて食う男があるよ」
 三人は何を言っても気が晴れるという風だ。中には、手を叩(たた)いて、踊り上って笑うものもあった。それを聞くと、私も噴飯(ふきだ)さずにはいられなかった。
 やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎(やどや)の方へ別れて行った。
 この温泉から石垣について坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚(よ)って眺望の好い位置に在る。
 先生は共立学校時代の私の英語の先生だ。あの頃は先生も男のさかりで、アアヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」などを教えてくれたものだった。
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