破戒
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著者名:島崎藤村 

 と言はれて、始めて地主は微笑(ほゝゑみ)を泄(もら)したのである。
 其時まで、丑松は細君に話したいと思ふことがあつて、其を言ふ機会も無く躊躇(ちうちよ)して居たのであるが、斯うして酒が始つて見ると、何時(いつ)是地主が帰つて行くか解らない。御相伴(おしやうばん)に一つ、と差される盃を辞退して、ついと炉辺を離れた。表の入口のところへ省吾を呼んで、物の蔭に佇立(たゝず)み乍ら、袂から取出したのは例の紙の袋に入れた金である。丑松は斯う言つた。後刻(あと)で斯の金を敬之進に渡して呉れ。それから家の事情で退校させるといふ敬之進の話もあつたが、月謝や何かは斯中(このなか)から出して、是非今迄通りに学校へ通はせて貰ふやうに。『いゝかい、君、解つたかい。』と添加(つけた)して、それを省吾の手に握らせるのであつた。
『まあ、君は何といふ冷い手をしてゐるだらう。』
 斯う言ひ乍ら、丑松は少年の手を堅く握り締めた。熟(じつ)と其の邪気(あどけ)ない顔付を眺めた時は、あのお志保の涙に霑(ぬ)れた清(すゞ)しい眸(ひとみ)を思出さずに居られなかつたのである。

       (五)

 敬之進の家を出て帰つて行く道すがら、すくなくも丑松はお志保の為に尽したことを考へて、自分で自分を慰めた。蓮華寺の山門に近(ちかづ)いた頃は、灰色の雲が低く垂下つて来て、復(ま)た雪になるらしい空模様であつた。蒼然(さうぜん)とした暮色は、たゞさへ暗い丑松の心に、一層の寂しさ味気なさを添へる。僅かに天の一方にあたつて、遠く深く紅(くれなゐ)を流したやうなは、沈んで行く夕日の反射したのであらう。
 宵の勤行(おつとめ)の鉦(かね)の音は一種異様な響を丑松の耳に伝へるやうに成つた。それは最早(もう)世離れた精舎(しやうじや)の声のやうにも聞えなかつた。今は梵音(ぼんおん)の難有味(ありがたさ)も消えて、唯同じ人間世界の情慾の声、といふ感想(かんじ)しか耳の底に残らない。丑松は彼の敬之進の物語を思ひ浮べた。住職を卑しむ心は、卑しむといふよりは怖れる心が、胸を衝(つ)いて湧上つて来る。しかしお志保は其程香(か)のある花だ、其程人を□(ひきつ)ける女らしいところが有るのだ、と斯う一方から考へて見て、いよ/\其人を憐むといふ心地(こゝろもち)に成つたのである。
 蓮華寺の内部(なか)の光景(ありさま)――今は丑松も明に其真相を読むことが出来た。成程(なるほど)、左様言はれて見ると、それとない物の端(はし)にも可傷(いたま)しい事実は顕れて居る。左様(さう)言はれて見ると、始めて丑松が斯の寺へ引越して来た時のやうな家庭の温味(あたゝかさ)は何時の間にか無くなつて了つた。
 二階へ通ふ廊下のところで、丑松はお志保に逢(あ)つた。蒼(あを)ざめて死んだやうな女の顔付と、悲哀(かなしみ)の溢(あふ)れた黒眸(くろひとみ)とは――たとひ黄昏時(たそがれどき)の仄(ほの)かな光のなかにも――直に丑松の眼に映る。お志保も亦(ま)た不思議さうに丑松の顔を眺めて、丁度喪心(さうしん)した人のやうな男の様子を注意して見るらしい。二人は眼と眼を見交したばかりで、黙つて会釈(ゑしやく)して別れたのである。
 自分の部屋へ入つて見ると、最早そこいらは薄暗かつた。しかし丑松は洋燈(ランプ)を点けようとも為なかつた。長いこと茫然として、独りで暗い部屋の内に座(すわ)つて居た。

       (六)

『瀬川さん、御勉強ですか。』
 と声を掛けて、奥様が入つて来たのは、それから二時間ばかり経(た)つてのこと。丑松の机の上には、日々(にち/\)の思想(かんがへ)を記入(かきい)れる仮綴の教案簿なぞが置いてある。黄ばんだ洋燈(ランプ)の光は夜の空気を寂(さみ)しさうに照して、思ひ沈んで居る丑松の影を古い壁の方へ投げた。煙草(たばこ)のけむりも薄く籠(こも)つて、斯(こ)の部屋の内を朦朧(もうろう)と見せたのである。
『何卒(どうぞ)私に手紙を一本書いて下さいませんか――済(す)みませんが。』
 と奥様は、用意して来た巻紙状袋を取出し乍ら、丑松の返事を待つて居る。其様子が何となく普通(たゞ)では無い、と丑松も看(み)て取つて、
『手紙を?』と問ひ返して見た。
『長野の寺院(てら)に居る妹のところへ遣(や)りたいのですがね、』と奥様は少許(すこし)言淀(いひよど)んで、『実は自分で書かうと思ひまして、書きかけては見たんです。奈何(どう)も私共の手紙は、唯長くばかり成つて、肝心(かんじん)の思ふことが書けないものですから。寧(いつ)そこりや貴方(あなた)に御願ひ申して、手短く書いて頂きたいと思ひまして――どうして女の手紙といふものは斯う用が達(もと)らないのでせう。まあ、私は何枚書き損つたか知れないんですよ――いえ、なに、其様(そんな)に煩(むづか)しい手紙でも有ません。唯解るやうに書いて頂きさへすれば好いのですから。』
『書きませう。』と丑松は簡短に引受けた。
 斯答(このこたへ)に力を得て、奥様は手紙の意味を丑松に話した。一身上のことに就いて相談したい――是(この)手紙着次第(ちやくしだい)、是非々々々々出掛けて来るやうに、と書いて呉れと頼んだ。蟹沢から飯山迄は便船も発(た)つ、もし舟が嫌なら、途中迄車に乗つて、それから雪橇に乗替へて来るやうに、と書いて呉れと頼んだ。今度といふ今度こそは絶念(あきら)めた、自分はもう離縁する考へで居る、と書いて呉れと頼んだ。
『他の人とは違つて、貴方ですから、私も斯様(こん)なことを御願ひするんです。』と言ふ奥様の眼は涙ぐんで来たのである。『訳を御話しませんから、不思議だと思つて下さるかも知れませんが――』
『いや。』と丑松は対手(あひて)の言葉を遮(さへぎ)つた。『私も薄々聞きました――実は、あの風間さんから。』
『ホウ、左様(さう)ですか。敬之進さんから御聞きでしたか。』と言つて、奥様は考深い目付をした。
『尤(もつと)も、左様委敷(くはし)い事は私も知らないんですけれど。』
『あんまり馬鹿々々しいことで、貴方なぞに御話するのも面目ない。』と奥様は深い溜息を吐(つ)き乍ら言つた。『噫(あゝ)、吾寺(うち)の和尚さんも彼年齢(あのとし)に成つて、未(ま)だ今度のやうなことが有るといふは、全く病気なんですよ。病気ででも無くて、奈何して其様な心地(こゝろもち)に成るもんですか。まあ、瀬川さん、左様ぢや有ませんか。和尚さんもね、彼病気さへ無ければ、実に気分の優しい、好い人物(ひと)なんです――申分の無い人物なんです――いえ、私は今だつても和尚さんを信じて居るんですよ。』

       (七)

『奈何(どう)して私は斯(か)う物に感じ易いんでせう。』と奥様は啜(すゝ)り上げた。『今度のやうなことが有ると、もう私は何(なんに)も手に着きません。一体、和尚さんの病気といふのは、今更始つたことでも無いんです。先住は早く亡(な)くなりまして、和尚さんが其後へ直つたのは、未(ま)だ漸(やうや)く十七の年だつたといふことでした。丁度私が斯寺(このてら)へ嫁(かたづ)いて来た翌々年(よく/\とし)、和尚さんは西京へ修業に行くことに成ましてね――まあ、若い時には能(よ)く物が出来ると言はれて、諸国から本山へ集る若手の中でも五本の指に数へられたさうですよ――それで私は、其頃未だ生きて居た先住の匹偶(つれあひ)と、今寺内に居る坊さんの父親(おとつ)さんと、斯う三人でお寺を預つて、五年ばかり留守居をしたことが有ました。考へて見ると、和尚さんの病気はもう其頃から起つて居たんですね。相手の女といふは、西京の魚(うを)の棚(たな)、油(あぶら)の小路(こうぢ)といふところにある宿屋の総領娘、といふことが知れたもんですから、さあ、寺内の先(せん)の坊さんも心配して、早速西京へ出掛けて行きました。其時、私は先住の匹偶(つれあひ)にも心配させないやうに、檀家(だんか)の人達の耳へも入れないやうにツて、奈何(どんな)に独りで気を揉(も)みましたか知れません。漸(やつと)のこと、お金を遣つて、女の方の手を切らせました。そこで和尚さんも真実(ほんたう)に懲(こ)りなければ成らないところです。ところが持つて生れた病は仕方の無いもので、それから三年経(た)つて、今度は東京にある真宗の学校へ勤めることに成ると、復(ま)た病気が起りました。』
 手紙を書いて貰ひに来た奥様は、用をそつちのけにして、種々(いろ/\)並べたり訴へたりし始めた。淡泊(さつぱり)したやうでもそこは女の持前で、聞いて貰はずには居られなかつたのである。
『尤も、』と奥様は言葉を続けた。『其時は、和尚さんを独りで遣(や)つては不可(いけない)といふので――まあ学校の方から月給は取れるし、留守中のことは寺内の坊さんが引受けて居て呉れるし、それに先住の匹偶(つれあひ)も東京を見たいと言ふもんですから、私も一緒に随いて行つて、三人して高輪(たかなわ)のお寺を仕切つて借りました。其処から学校へは何程(いくら)も無いんです。克(よ)く和尚さんは二本榎(にほんえのき)の道路(みち)を通ひました。丁度その二本榎に、若い未亡人(ごけさん)の家(うち)があつて、斯人(このひと)は真宗に熱心な、教育のある女でしたから、和尚さんも法話(はなし)を頼まれて行き/\しましたよ。忘れもしません、其女といふは背のすらりとした、白い優しい手をした人で、御墓参りに行くところを私も見掛けたことが有ます。ある時、其未亡人(ごけさん)の噂(うはさ)が出ると、和尚さんは鼻の先で笑つて、「むゝ、彼女(あのをんな)か――彼様(あん)なひねくれた女は仕方が無い」と酷(ひど)く譏(けな)すぢや有ませんか。奈何(どう)でせう、瀬川さん、其時は最早和尚さんが関係して居たんです。何時の間にか女は和尚さんの種を宿しました。さあ、和尚さんも蒼(あを)く成つて了つて、「実は済(す)まないことをした」と私の前に手を突いて、謝罪(あやま)つたのです。根が正直な、好い性質の人ですから、悪かつたと思ふと直に後悔する。まあ、傍(はた)で見て居ても気の毒な位。「頼む」と言はれて見ると、私も放擲(うつちや)つては置かれませんから、手紙で寺内の坊さんを呼寄せました。其時、私の思ふには、「あゝ是(これ)は私に子が無いからだ。若し子供でも有つたら一層(もつと)和尚さんも真面目な気分に御成(おなん)なさるだらう。寧(いつ)そ其女の児を引取つて自分の子にして育てようかしら。」と斯う考へたり、ある時は又、「みす/\私が傍に附いて居乍ら、其様(そん)な女に子供迄出来たと言はれては、第一私が世間へ恥かしい。いかに言つても情ないことだ。今度こそは別れよう。」と考へたりしたんです。そこがそれ、女といふものは気の弱いもので、優しい言葉の一つも掛けられると、今迄の事は最早(もう)悉皆(すつかり)忘れて了ふ。「あゝ、御気の毒だ――私が居なかつたら、奈何(どんな)に不自由を成さるだらう。」とまあ私も思ひ直したのですよ。間も無く女は和尚さんの子を産落しました。月不足(つきたらず)で、加之(おまけ)に乳が無かつたものですから、満二月(まるふたつき)とは其児も生きて居なかつたさうです。和尚さんが学校を退(ひ)くことに成つて、飯山へ帰る迄の私の心配は何程(どれほど)だつたでせう――丁度、今から十年前のことでした。それからといふものは、和尚さんも本気に成ましたよ。月に三度の説教は欠かさず、檀家の命日には必ず御経を上げに行く、近在廻りは泊り掛で出掛ける――さあ、檀家の人達も悉皆(すつかり)信用して、四年目の秋には本堂の屋根の修繕も立派に出来上りました。彼様(あゝ)いふ調子で、ずつと今迄進んで来たら、奈何(どんな)にか好からうと思ふんですけれど、少許(すこし)羽振が良くなると直(すぐ)に物に飽きるから困る。倦怠(あき)が来ると、復(ま)た病気が起る。そりやあもう和尚さんの癖なんですからね。あゝ、男といふものは恐しいもので、彼程(あれほど)平常(ふだん)物の解つた和尚さんで有ながら、病気となると何の判別(みさかへ)も着かなくなる。まあ瀬川さん、考へて見て下さい。和尚さんも最早(もう)五十一ですよ。五十一にも成つて、未(ま)だ其様(そん)な気で居るかと思ふと、実に情ないぢや有ませんか。成程(なるほど)――今日(こんにち)飯山あたりの御寺様(おてらさん)で、女狂ひを為(し)ないやうなものは有やしません。ですけれど、茶屋女を相手に為(す)るとか、妾狂ひを為るとか言へば、またそこにも有る。あのお志保に想(おもひ)を懸けるなんて――私は呆(あき)れて物も言へない。奈何(どう)考へて見ても、其様な量見を起す和尚さんでは無い筈(はず)です。必定(きつと)、奈何かしたんです。まあ、気でも狂(ちが)つて居るに相違ないんです。お志保は又、何もかも私に打開けて話しましてね、「母親(おつか)さん、心配しないで居て下さいよ、奈何(どん)な事が有つても私が承知しませんから」と言ふもんですから――いえ、彼娘(あのこ)はあれでなか/\毅然(しやん)とした気象の女ですからね――其を私も頼みに思ひまして、「お志保、確乎(しつかり)して居てお呉れよ、阿爺(おとつ)さんだつても物の解らない人では無し、お前と私の心地(こゝろもち)が屈いたら、必定(きつと)思ひ直して下さるだらう、阿爺さんが正気に復(かへ)るも復らないも二人の誠意(まごゝろ)一つにあるのだからね」斯(か)う言つて、二人でさん/″\哭(な)きました。なんの、私が和尚さんを悪く思ふもんですか。何卒(どうか)して和尚さんの眼が覚めるやうに――そればつかりで、私は斯様(こん)な離縁なぞを思ひ立つたんですもの。』

       (八)

 誠意(まごゝろ)籠る奥様の述懐を聞取つて、丑松は望みの通りに手紙の文句を認(したゝ)めてやつた。幾度か奥様は口の中で仏の名を唱(とな)へ乍(なが)ら、これから将来(さき)のことを思ひ煩(わづら)ふといふ様子に見えるのであつた。
『おやすみ。』
 といふ言葉を残して置いて奥様が出て行つた後、丑松は机の側に倒れて考へて居たが、何時の間にかぐつすり寝込んで了つた。寝ても、寝ても、寝足りないといふ風で、斯うして横になれば直に死んだ人のやうに成るのが此頃の丑松の癖である。のみならず、深いところへ陥落(おちい)るやうな睡眠(ねむり)で、目が覚めた後は毎時(いつも)頭が重かつた。其晩も矢張同じやうに、同じやうな仮寝(うたゝね)から覚めて、暫時(しばらく)茫然(ぼんやり)として居たが、軈(やが)て我に帰つた頃は、もう遅かつた。雪は屋外(そと)に降り積ると見え、時々窓の戸にあたつて、はた/\と物の崩れ落ちる音より外には、寂(しん)として声一つしない、それは沈静(ひつそり)とした、気の遠くなるやうな夜――無論人の起きて居る時刻では無かつた。階下(した)では皆な寝たらしい。不図(ふと)、何か斯う忍(しの)び音(ね)に泣くやうな若い人の声が細々と耳に入る。どうも何処から聞えるのか、其は能(よ)く解らなかつたが、まあ楼梯(はしごだん)の下あたり、暗い廊下の辺ででもあるか、誰かしら声を呑(の)む様子。尚(なほ)能く聞くと、北の廊下の雨戸でも明けて、屋外(そと)を眺(なが)めて居るものらしい。あゝ――お志保だ――お志保の嗚咽(すゝりなき)だ――斯う思ひ附くと同時に、言ふに言はれぬ恐怖(おそれ)と哀憐(あはれみ)とが身を襲(おそ)ふやうに感ぜられる。尤も、丑松は半分夢中で聞いて居たので、つと立上つて部屋の内を歩き初めた時は、もう其声が聞えなかつた。不思議に思ひ乍ら、浮足になつて耳を澄ましたり、壁に耳を寄せて聞いたりした。終(しまひ)には、自分で自分を疑つて、あるひは聞いたと思つたのが夢ででもあつたか、と其音の実(ほんと)か虚(うそ)かすらも判断が着かなくなる。暫時(しばらく)丑松は腕組をして、油の尽きて来た洋燈(ランプ)の火を熟視(みまも)り乍ら、茫然とそこに立つて居た。夜は更ける、心(しん)は疲れる、軈て押入から寝道具を取出した時は、自分で自分の為ることを知らなかつた位。急に烈しく睡気(ねむけ)が襲(さ)して来たので、丑松は半分眠り乍ら寝衣(ねまき)を着更へて、直に復(ま)た感覚(おぼえ)の無いところへ落ちて行つた。


   第拾八章

       (一)

 毎年(まいとし)降る大雪が到頭(たうとう)やつて来た。町々の人家も往来もすべて白く埋没(うづも)れて了つた。昨夜一晩のうちに四尺余(あまり)も降積るといふ勢で、急に飯山は北国の冬らしい光景(ありさま)と変つたのである。
 斯うなると、最早(もう)雪の捨てどころが無いので、往来の真中へ高く積上げて、雪の山を作る。両側は見事に削り落したり、叩き付けたりして、すこし離れて眺めると、丁度長い白壁のやう。上へ/\と積上げては踏み付け、踏み付けては又た積上げるやうに為るので、軒丈(のきだけ)ばかりの高さに成つて、対(むか)ひあふ家と家とは屋根と廂(ひさし)としか見えなくなる。雪の中から掘出された町――譬(たと)へば飯山の光景(ありさま)は其であつた。
 高柳利三郎と町会議員の一人が本町の往来で出逢(であ)つた時は、盛んに斯雪を片付ける最中で、雪掻(ゆきかき)を手にした男女(をとこをんな)が其処此処(そここゝ)に群(むらが)り集つて居た。『どうも大降りがいたしました。』といふ極りの挨拶を交換(とりかは)した後、軈(やが)て別れて行かうとする高柳を呼留めて、町会議員は斯う言出した。
『時に、御聞きでしたか、彼(あ)の瀬川といふ教員のことを。』
『いゝえ。』と高柳は力を入れて言つた。『私は何(なんに)も聞きません。』
『彼の教員は君、調里(てうり)(穢多の異名)だつて言ふぢや有ませんか。』
『調里?』と高柳は驚いたやうに。
『呆(あき)れたねえ、是(これ)には。』と町会議員も顔を皺(しか)めて、『尤(もつと)も、種々(いろ/\)な人の口から伝(つたは)り伝つた話で、誰が言出したんだか能(よ)く解らない。しかし保証するとまで言ふ人が有るから確実(たしか)だ。』
『誰ですか、其保証人といふのは――』
『まあ、其は言はずに置かう。名前を出して呉れては困ると先方(さき)の人も言ふんだから。』
 斯う言つて、町会議員は今更のやうに他(ひと)の秘密を泄(もら)したといふ顔付。『君だから、話す――秘密にして置いて呉れなければ困る。』と呉々も念を押した。高柳はまた口唇を引歪めて、意味ありげな冷笑(あざわらひ)を浮べるのであつた。
 急いで別れて行く高柳を見送つて、反対(あべこべ)な方角へ一町ばかりも歩いて行つた頃、斯(こ)の噂好(うはさず)きな町会議員は一人の青年に遭遇(であ)つた。秘密に、と思へば思ふ程、猶々(なほ/\)其を私語(さゝや)かずには居られなかつたのである。
『彼の瀬川といふ教員は、君、是(これ)だつて言ひますぜ。』
 と指を四本出して見せる。尤も其意味が対手には通じなかつた。
『是だつて言つたら、君も解りさうなものぢや無いか。』と町会議員は手を振り乍ら笑つた。
『どうも解りませんね。』と青年は訝(いぶか)しさうな顔付。
『了解(さとり)の悪い人だ――それ、調里のことを四足(しそく)と言ふぢやないか。はゝゝゝゝ。しかし是は秘密だ。誰にも君、斯様なことは話さずに置いて呉れ給へ。』
 念を押して置いて、町会議員は別れて行つた。
 丁度、そこへ通りかゝつたのは、学校へ出勤しようとする準教員であつた。それと見た青年は駈寄つて、大雪の挨拶。何時の間にか二人は丑松の噂を始めたのである。
『是(これ)はまあ極(ご)く/\秘密なんだが――君だから話すが――』と青年は声を低くして、『君の学校に居る瀬川先生は調里ださうだねえ。』
『其さ――僕もある処で其話を聞いたがね、未だ半信半疑で居る。』と準教員は対手の顔を眺め乍ら言つた。『して見ると、いよ/\事実かなあ。』
『僕は今、ある人に逢つた。其人が指を四本出して見せて、彼の教員は是だと言ふぢやないか。はてな、とは思つたが、其意味が能く解らない。聞いて見ると、四足といふ意味なんださうだ。』
『四足? 穢多のことを四足と言ふかねえ。』
『言はあね。四足と言つて解らなければ、「よつあし」と言つたら解るだらう。』
『むゝ――「よつあし」か。』
『しかし、驚いたねえ。狡猾(かうくわつ)な人間もあればあるものだ。能(よ)く今日(いま)まで隠蔽(かく)して居たものさ。其様(そん)な穢(けがらは)しいものを君等の学校で教員にして置くなんて――第一怪しからんぢやないか。』
『叱(しツ)。』
 と周章(あわ)てゝ制するやうにして、急に準教員は振返つて見た。其時、丑松は矢張学校へ出勤するところと見え、深く外套(ぐわいたう)に身を包んで、向ふの雪の中を夢見る人のやうに通る。何か斯う物を考へ/\歩いて行くといふことは、其の沈み勝ちな様子を見ても知れた。暫時(しばらく)丑松も佇立(たちどま)つて、熟(じつ)と是方(こちら)の二人を眺めて、軈て足早に学校を指して急いで行つた。

       (二)

 雪に妨げられて、学校へ集る生徒は些少(すくな)かつた。何時(いつ)まで経(た)つても授業を始めることが出来ないので、職員のあるものは新聞縦覧所へ、あるものは小使部屋へ、あるものは又た唱歌の教室に在る風琴の周囲(まはり)へ――いづれも天の与へた休暇(やすみ)として斯の雪の日を祝ふかのやうに、思ひ/\の圜(わ)に集つて話した。
 職員室の片隅にも、四五人の教員が大火鉢を囲繞(とりま)いた。例の準教員が其中へ割込んで入つた時は、誰が言出すともなく丑松の噂を始めたのであつた。時々盛んな笑声が起るので、何事かと来て見るものが有る。終(しまひ)には銀之助も、文平も来て、斯の談話(はなし)の仲間に入つた。
『奈何(どう)です、土屋君。』と準教員は銀之助の方を見て、『吾儕(われ/\)は今、瀬川君のことに就いて二派に別れたところです。君は瀬川君と同窓の友だ。さあ、君の意見を一つ聞かせて呉れ給へ。』
『二派とは?』と銀之助は熱心に。
『外でも無いんですがね、瀬川君は――まあ、近頃世間で噂のあるやうな素性の人に相違ないといふ説と、いや其様な馬鹿なことが有るものかといふ説と、斯う二つに議論が別れたところさ。』
『一寸待つて呉れ給へ。』と薄鬚(うすひげ)のある尋常四年の教師が冷静な調子で言つた。『二派と言ふのは、君、少許(すこし)穏当で無いだらう。未(ま)だ、左様(さう)だとも、左様では無いとも、断言しない連中が有るのだから。』
『僕は確に其様なことは無いと断言して置く。』と体操の教師が力を入れた。
『まあ、土屋君、斯ういふ訳です。』と準教員は火鉢の周囲(まはり)に集る人々の顔を眺(なが)め廻して、『何故(なぜ)其様(そん)な説が出たかといふに、そこには種々(いろ/\)議論も有つたがね、要するに瀬川君の態度が頗(すこぶ)る怪しい、といふのがそも/\始りさ。吾儕(われ/\)の中に新平民が居るなんて言触らされて見給へ。誰だつて憤慨するのは至当(あたりまへ)ぢやないか。君始め左様だらう。一体、世間で其様なことを言触らすといふのが既にもう吾儕職員を侮辱してるんだ。だからさ、若し瀬川君に疚(やま)しいところが無いものなら、吾儕と一緒に成つて怒りさうなものぢやないか。まあ、何とか言ふべきだ。それも言はないで、彼様(あゝ)して黙つて居るところを見ると、奈何(どう)しても隠して居るとしか思はれない。斯う言出したものが有る。すると、また一人が言ふには――』と言ひかけて、軈(やが)て思付いたやうに、『しかし、まあ、止さう。』
『何だ、言ひかけて止すやつが有るもんか。』と背の高い尋常一年の教師が横鎗(よこやり)を入れる。
『やるべし、やるべし。』と冷笑の語気を帯びて言つたのは、文平であつた。文平は準教員の背後(うしろ)に立つて、巻煙草を燻(ふか)し乍ら聞いて居たのである。
『しかし、戯語(じようだん)ぢや無いよ。』と言ふ銀之助の眼は輝いて来た。『僕なぞは師範校時代から交際(つきあ)つて、能く人物を知つて居る。彼(あ)の瀬川君が新平民だなんて、其様(そん)なことが有つて堪るものか。一体誰が言出したんだか知らないが、若(も)し世間に其様な風評が立つやうなら、飽迄(あくまで)も僕は弁護して遣らなけりやならん。だつて、君、考へて見給へ。こりや真面目(まじめ)な問題だよ――茶を飲むやうな尋常(あたりまへ)な事とは些少(すこし)訳が違ふよ。』
『無論さ。』と準教員は答へた。『だから吾儕(われ/\)も頭を痛めて居るのさ。まあ、聞き給へ。ある人は又た斯ういふことを言出した。瀬川君に穢多の話を持掛けると、必ず話頭(はなし)を他(わき)へ転(そら)して了ふ。いや、転して了ふばかりぢや無い、直に顔色を変へるから不思議だ――其顔色と言つたら、迷惑なやうな、周章(あわ)てたやうな、まあ何ともかとも言ひやうが無い。それそこが可笑(をか)しいぢやないか。吾儕と一緒に成つて、「むゝ、調里坊(てうりツぱう)かあ」とかなんとか言ふやうだと、誰も何とも思やしないんだけれど。』
『そんなら、君、あの瀬川丑松といふ男に何処(どこ)か穢多らしい特色が有るかい。先づ、其からして聞かう。』と銀之助は肩を動(ゆす)つた。
『なにしろ近頃非常に沈んで居られるのは事実だ。』と尋常四年の教師は、腮(あご)の薄鬚(うすひげ)を掻上げ乍ら言ふ。
『沈んで居る?』と銀之助は聞咎(きゝとが)めて、『沈んで居るのは彼男(あのをとこ)の性質さ。それだから新平民だとは無論言はれない。新平民でなくたつて、沈欝(ちんうつ)な男はいくらも世間にあるからね。』
『穢多には一種特別な臭気(にほひ)が有ると言ふぢやないか――嗅いで見たら解るだらう。』と尋常一年の教師は混返(まぜかへ)すやうにして笑つた。
『馬鹿なことを言給へ。』と銀之助も笑つて、『僕だつていくらも新平民を見た。あの皮膚の色からして、普通の人間とは違つて居らあね。そりやあ、もう、新平民か新平民で無いかは容貌(かほつき)で解る。それに君、社会(よのなか)から度外(のけもの)にされて居るもんだから、性質が非常に僻(ひが)んで居るサ。まあ、新平民の中から男らしい毅然(しつかり)した青年なぞの産れやうが無い。どうして彼様(あん)な手合が学問といふ方面に頭を擡(もちあ)げられるものか。其から推(お)したつて、瀬川君のことは解りさうなものぢやないか。』
『土屋君、そんなら彼(あ)の猪子蓮太郎といふ先生は奈何(どう)したものだ。』と文平は嘲(あざけ)るやうに言つた。
『ナニ、猪子蓮太郎?』と銀之助は言淀(いひよど)んで、『彼(あ)の先生は――彼(あれ)は例外さ。』
『それ見給へ。そんなら瀬川君だつても例外だらう――はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
 と準教員は手を拍(う)つて笑つた。聞いて居る教員等(たち)も一緒になつて笑はずには居られなかつたのである。
 其時、斯の職員室の戸を開けて入つて来たのは、丑松であつた。急に一同口を噤(つぐ)んで了(しま)つた。人々の視線は皆な丑松の方へ注ぎ集つた。
『瀬川君、奈何(どう)ですか、御病気は――』
 と文平は意味ありげに尋ねる。其調子がいかにも皮肉に聞えたので、準教員は傍に居る尋常一年の教師と顔を見合せて、思はず互に微笑(ほゝゑみ)を泄(もら)した。
『難有(ありがた)う。』と丑松は何気なく、『もうすつかり快(よ)くなりました。』
『風邪(かぜ)ですか。』と尋常四年の教師が沈着(おちつ)き澄まして言つた。
『はあ――ナニ、差(たい)したことでも無かつたんです。』と答へて、丑松は気を変へて、『時に、勝野君、生憎(あいにく)今日は生徒が集まらなくて困つた。斯(こ)の様子では土屋君の送別会も出来さうも無い。折角準備(したく)したのにツて、出て来た生徒は張合の無いやうな顔してる。』
『なにしろ是雪(このゆき)だからねえ。』と文平は微笑んで、『仕方が無い、延ばすサ。』
 斯(か)ういふ話をして居るところへ、小使がやつて来た。銀之助は丑松の方にばかり気を取られて、小使の言ふことも耳へ入らない。それと見た体操の教師は軽く銀之助の肩を叩いて、
『土屋君、土屋君――校長先生が君を呼んでるよ。』
『僕を?』銀之助は始めて気が付いたのである。

       (三)

 校長は郡視学と二人で応接室に居た。銀之助が戸を開けて入つた時は、二人差向ひに椅子に腰懸けて、何か密議を凝(こら)して居るところであつた。
『おゝ、土屋君か。』と校長は身を起して、そこに在る椅子を銀之助の方へ押薦(おしすゝ)めた。『他(ほか)の事で君を呼んだのでは無いが、実は近頃世間に妙な風評が立つて――定めし其はもう君も御承知のことだらうけれど――彼様(あゝ)して町の人が左(と)や右(かく)言ふものを、黙つて見ても居られないし、第一斯(か)ういふことが余り世間へ伝播(ひろが)ると、終(しまひ)には奈何(どん)な結果を来すかも知れない。其に就いて、茲(こゝ)に居られる郡視学さんも非常に御心配なすつて、態々(わざ/\)斯(こ)の雪に尋ねて来て下すつたんです。兎(と)に角(かく)、君は瀬川君と師範校時代から御一緒ではあり、日頃親しく往来(ゆきゝ)もして居られるやうだから、君に聞いたら是事(このこと)は一番好く解るだらう、斯う思ひましてね。』
『いえ、私だつて其様(そん)なことは解りません。』と銀之助は笑ひ乍ら答へた。『何とでも言はせて置いたら好いでせう。其様な世間で言ふやうなことを、一々気にして居たら際限(きり)が有ますまい。』
『しかし、左様いふものでは無いよ。』と校長は一寸郡視学の方を向いて見て、軈(やが)て銀之助の顔を眺め乍ら、『君等は未だ若いから、其程世間といふものに重きを置かないんだ。幼稚なやうに見えて、馬鹿にならないのは、世間さ。』
『そんなら町の人が噂(うはさ)するからと言つて、根も葉も無いやうなことを取上げるんですか。』
『それ、それだから、君等は困る。無論我輩だつて其様なことを信じないさ。しかし、君、考へて見給へ。万更(まんざら)火の気の無いところに煙の揚る筈(はず)も無からうぢやないか。いづれ是には何か疑はれるやうな理由が有つたんでせう――土屋君、まあ、君は奈何(どう)思ひます。』
『奈何しても私には左様思はれません。』
『左様言へば、其迄だが、何かそれでも思ひ当る事が有さうなものだねえ。』と言つて校長は一段声を低くして、『一体瀬川君は近頃非常に考へ込んで居られるやうだが、何が原因(もと)で彼様(あゝ)憂欝に成つたんでせう。以前は克(よ)く吾輩の家(うち)へもやつて来て呉れたツけが、此節はもう薩張(さつぱり)寄付かない。まあ吾儕(われ/\)と一緒に成つて、談(はな)したり笑つたりするやうだと、御互ひに事情も能(よ)く解るんだけれど、彼様(あゝ)して独りで考へてばかり居られるもんだから――ホラ、訳を知らないものから見ると、何かそこには後暗い事でも有るやうに、つい疑はなくても可い事まで疑ふやうに成るんだらうと思ふのサ。』
『いえ。』と銀之助は校長の言葉を遮(さへぎ)つて、『実は――其には他に深い原因が有るんです。』
『他に?』
『瀬川君は彼様いふ性質(たち)ですから、なか/\口へ出しては言ひませんがね。』
『ホウ、言はない事が奈何して君に知れる?』
『だつて、言葉で知れなくたつて、行為(おこなひ)の方で知れます。私は長く交際(つきあ)つて見て、瀬川君が種々(いろ/\)に変つて来た径路(みちすぢ)を多少知つて居ますから、奈何(どう)して彼様(あゝ)考へ込んで居るか、奈何して彼様憂欝に成つて居るか、それはもう彼の君の為(す)ることを見ると、自然と私の胸には感じることが有るんです。』
 斯(か)ういふ銀之助の言葉は深く対手の注意を惹いた。校長と郡視学の二人は巻煙草を燻(ふか)し乍ら、奈何(どう)銀之助が言出すかと、黙つて其話を待つて居たのである。
 銀之助に言はせると、丑松が憂欝に沈んで居るのは世間で噂(うはさ)するやうなことゝ全く関係の無い――実は、青年の時代には誰しも有勝ちな、其胸の苦痛(くるしみ)に烈しく悩まされて居るからで。意中の人が敬之進の娘といふことは、正に見当が付いて居る。しかし、丑松は彼様いふ気象の男であるから、其を友達に話さないのみか、相手の女にすらも話さないらしい。それそこが性分で、熟(じつ)と黙つて堪(こら)へて居て、唯敬之進とか省吾とか女の親兄弟に当る人々の為に種々(さま/″\)なことを為(し)て遣(や)つて居る――まあ、言はないものは、せめて尽して、それで心を慰めるのであらう。思へば人の知らない悲哀(かなしみ)を胸に湛へて居るのに相違ない。尤(もつと)も、自分は偶然なことからして、斯ういふ丑松の秘密を感得(かんづ)いた。しかも其はつい近頃のことで有ると言出した。『といふ訳で、』と銀之助は額へ手を当てゝ、『そこへ気が付いてから、瀬川君の為ることは悉皆(すつかり)読めるやうに成ました。どうも可笑(をか)しい/\と思つて見て居ましたツけ――そりやあもう、辻褄(つじつま)の合はないやうなことが沢山(たくさん)有つたものですから。』
『成程(なるほど)ねえ。あるひは左様いふことが有るかも知れない。』
 と言つて、校長は郡視学と顔を見合せた。

       (四)

 軈(やが)て銀之助は応接室を出て、復(ま)たもとの職員室へ来て見ると、丑松と文平の二人が他の教員に取囲(とりま)かれ乍ら頻(しきり)に大火鉢の側で言争つて居る。黙つて聞いて居る人々も、見れば、同じやうに身を入れて、あるものは立つて腕組したり、あるものは机に倚凭(よりかゝ)つて頬杖(ほゝづゑ)を突いたり、あるものは又たぐる/\室内を歩き廻つたりして、いづれも熱心に聞耳を立てゝ居る様子。のみならず、丑松の様子を窺(うかゞ)ひ澄まして、穿鑿(さぐり)を入れるやうな眼付したものもあれば、半信半疑らしい顔付の手合もある。銀之助は談話(はなし)の調子を聞いて、二人が一方ならず激昂して居ることを知つた。
『何を君等は議論してるんだ。』
 と銀之助は笑ひ乍ら尋ねた。其時、人々の背後(うしろ)に腰掛け、手帳を繰り繙(ひろ)げ、丑松や文平の肖顔(にがほ)を写生し始めたのは準教員であつた。
『今ね、』と準教員は銀之助の方を振向いて見ながら、『猪子先生のことで、大分やかましく成つて来たところさ。』と言つて、一寸鉛筆の尖端(さき)を舐(な)めて、復(ま)た微笑(ほゝゑ)み乍ら写生に取懸つた。
『なにも其様(そんな)にやかましいことぢや無いよ。』斯う文平は聞咎(きゝとが)めたのである。『奈何(どう)して瀬川君は彼(あ)の先生の書いたものを研究する気に成つたのか、其を僕は聞いて見たばかりだ。』
『しかし、勝野君の言ふことは僕に能(よ)く解らない。』丑松の眼は燃え輝いて居るのであつた。
『だつて君、いづれ何か原因が有るだらうぢやないか。』と文平は飽(あ)く迄(まで)も皮肉に出る。
『原因とは?』丑松は肩を動(ゆす)り乍ら言つた。
『ぢやあ、斯(か)う言つたら好からう。』と文平は真面目に成つて、『譬(たと)へば――まあ僕は例を引くから聞き給へ。こゝに一人の男が有るとしたまへ。其男が発狂して居るとしたまへ。普通(なみ)のものが其様な発狂者を見たつて、それほど深い同情は起らないね。起らない筈(はず)さ、別に是方(こちら)に心を傷(いた)めることが無いのだもの。』
『むゝ、面白い。』と銀之助は文平と丑松の顔を見比べた。
『ところが、若(も)しこゝに酷(ひど)く苦んだり考へたりして居る人があつて、其人が今の発狂者を見たとしたまへ。さあ、思ひつめた可傷(いたま)しい光景(ありさま)も目に着くし、絶望の為に痩せた体格も目に着くし、日影に悄然(しよんぼり)として死といふことを考へて居るやうな顔付も目に着く。といふは外でも無い。発狂者を思ひやる丈(だけ)の苦痛(くるしみ)が矢張是方(こちら)にあるからだ。其処だ。瀬川君が人生問題なぞを考へて、猪子先生の苦んで居る光景(ありさま)に目が着くといふのは、何か瀬川君の方にも深く心を傷めることが有るからぢや無からうか。』
『無論だ。』と銀之助は引取つて言つた。『其が無ければ、第一読んで見たつて解りやしない。其だあね、僕が以前(まへ)から瀬川君に言つてるのは。尤も瀬川君が其を言へないのは、僕は百も承知だがね。』
『何故(なぜ)、言へないんだらう。』と文平は意味ありげに尋ねて見る。
『そこが持つて生れた性分サ。』と銀之助は何か思出したやうに、『瀬川君といふ人は昔から斯うだ。僕なぞはもうずん/\暴露(さらけだ)して、蔵(しま)つて置くといふことは出来ないがなあ。瀬川君の言はないのは、何も隠す積りで言はないのぢや無い、性分で言へないのだ。はゝゝゝゝ、御気の毒な訳さねえ――苦むやうに生れて来たんだから仕方が無い。』
 斯う言つたので、聞いて居る人々は意味も無く笑出した。暫時(しばらく)準教員も写生の筆を休(や)めて眺めた。尋常一年の教師は又、丑松の背後(うしろ)へ廻つて、眼を細くして、密(そつ)と臭気(にほひ)を嗅(か)いで見るやうな真似をした。
『実は――』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら、『ある処から猪子先生の書いたものを借りて来て、僕も読んで見た。一体、彼(あ)の先生は奈何(どう)いふ種類の人だらう。』
『奈何いふ種類とは?』と銀之助は戯れるやうに。
『哲学者でもなし、教育家でもなし、宗教家でもなし――左様かと言つて、普通の文学者とも思はれない。』
『先生は新しい思想家さ。』銀之助の答は斯うであつた。
『思想家?』と文平は嘲(あざけ)つたやうに、『ふゝ、僕に言はせると、空想家だ、夢想家だ――まあ、一種の狂人(きちがひ)だ。』
 其調子がいかにも可笑(をか)しかつた。盛んな笑声が復(ま)た聞いて居る教師の間に起つた。銀之助も一緒に成つて笑つた。其時、憤慨の情は丑松が全身の血潮に交つて、一時に頭脳(あたま)の方へ衝きかゝるかのやう。蒼(あを)ざめて居た頬は遽然(にはかに)熱して来て、□(まぶち)も耳も紅(あか)く成つた。

       (五)

『むゝ、勝野君は巧いことを言つた。』と斯う丑松は言出した。『彼(あ)の猪子先生なぞは、全く君の言ふ通り、一種の狂人(きちがひ)さ。だつて、君、左様(さう)ぢやないか――世間体の好いやうな、自分で自分に諂諛(へつら)ふやうなことばかり並べて、其を自伝と言つて他(ひと)に吹聴(ふいちやう)するといふ今の世の中に、狂人(きちがひ)ででも無くて誰が冷汗の出るやうな懴悔なぞを書かう。彼の先生の手から職業を奪取(うばひと)つたのも、彼様いふ病気に成る程の苦痛(くるしみ)を嘗(な)めさせたのも、畢竟(つまり)斯(こ)の社会だ。其社会の為に涙を流して、満腔(まんかう)の熱情を注いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は爛(たゞ)れる迄も思ひ焦(こが)れて居るなんて――斯様(こん)な大白痴(おほたはけ)が世の中に有らうか。はゝゝゝゝ。先生の生涯は実に懴悔の生涯(しやうがい)さ。空想家と言はれたり、夢想家と言はれたりして、甘んじて其冷笑を受けて居る程の懴悔の生涯さ。「奈何(どん)な苦しい悲しいことが有らうと、其を女々しく訴へるやうなものは大丈夫と言はれない。世間の人の睨(にら)む通りに睨ませて置いて、黙つて狼のやうに男らしく死ね。」――其が先生の主義なんだ。見給へ、まあ其主義からして、もう狂人染(きちがひじ)みてるぢやないか。はゝゝゝゝ。』
『君は左様激するから不可(いかん)。』と銀之助は丑松を慰撫(なだめ)るやうに言つた。
『否(いや)、僕は決して激しては居ない。』斯(か)う丑松は答へた。
『しかし。』と文平は冷笑(あざわら)つて、『猪子蓮太郎だなんて言つたつて、高が穢多ぢやないか。』
『それが、君、奈何した。』と丑松は突込んだ。
『彼様(あん)な下等人種の中から碌(ろく)なものゝ出よう筈が無いさ。』
『下等人種?』
『卑劣(いや)しい根性を持つて、可厭(いや)に癖(ひが)んだやうなことばかり言ふものが、下等人種で無くて君、何だらう。下手に社会へ突出(でしやば)らうなんて、其様な思想(かんがへ)を起すのは、第一大間違さ。獣皮(かは)いぢりでもして、神妙(しんべう)に引込んでるのが、丁度彼の先生なぞには適当して居るんだ。』
『はゝゝゝゝ。して見ると、勝野君なぞは開化した高尚な人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言ふのだね。はゝゝゝゝ。僕は今迄、君も彼の先生も、同じ人間だとばかり思つて居た。』
『止せ。止せ。』と銀之助は叱るやうにして、『其様な議論を為たつて、つまらんぢやないか。』
『いや、つまらなかない。』と丑松は聞入れなかつた。『僕は君、是(これ)でも真面目(まじめ)なんだよ。まあ、聞き給へ――勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ下等だと言はれたが、実際御説の通りだ。こりや僕の方が勘違ひをして居た。左様だ、彼の先生も御説の通りに獣皮(かは)いぢりでもして、神妙にして引込んで居れば好いのだ。それさへして黙つて居れば、彼様な病気なぞに罹(かゝ)りはしなかつたのだ。その身体のことも忘れて了つて、一日も休まずに社会と戦つて居るなんて――何といふ狂人(きちがひ)の態(ざま)だらう。噫(あゝ)、開化した高尚な人は、予(あらかじ)め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業なぞに従事して居る。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞは其様な成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上つて居るのだ。その慨然とした心意気は――はゝゝゝゝ、悲しいぢやないか、勇しいぢやないか。』
 と丑松は上歯を顕(あらは)して、大きく口を開いて、身を慄(ふる)はせ乍ら欷咽(すゝりな)くやうに笑つた。欝勃(うつぼつ)とした精神は体躯(からだ)の外部(そと)へ満ち溢(あふ)れて、額は光り、頬の肉も震へ、憤怒と苦痛とで紅く成つた時は、其の粗野な沈欝な容貌が平素(いつも)よりも一層(もつと)男性(をとこ)らしく見える。銀之助は不思議さうに友達の顔を眺めて、久し振で若く剛(つよ)く活々とした丑松の内部(なか)の生命(いのち)に触れるやうな心地(こゝろもち)がした。
 対手が黙つて了(しま)つたので、丑松もそれぎり斯様(こん)な話をしなかつた。文平はまた何時までも心の激昂を制(おさ)へきれないといふ様子。頭ごなしに罵(のゝし)らうとして、反(かへ)つて丑松の為に言敗(いひまく)られた気味が有るので、軽蔑(けいべつ)と憎悪(にくしみ)とは猶更(なほさら)容貌の上に表れる。『何だ――この穢多めが』とは其の怒気(いかり)を帯びた眼が言つた。軈て文平は尋常一年の教師を窓の方へ連れて行つて、
『奈何(どう)だい、君、今の談話(はなし)は――瀬川君は最早(もう)悉皆(すつかり)自分で自分の秘密を自白したぢやないか。』
 斯(か)う私語(さゝや)いて聞かせたのである。
 丁度準教員は鉛筆写生を終つた。人々はいづれも其周囲(まはり)へ集つた。


   第拾九章

       (一)

 この大雪を衝(つ)いて、市村弁護士と蓮太郎の二人が飯山へ乗込んで来る、といふ噂(うはさ)は学校に居る丑松の耳にまで入つた。高柳一味の党派は、斯(こ)の風説に驚かされて、今更のやうに防禦(ばうぎよ)を始めたとやら。有権者の訪問、推薦状の配付、さては秘密の勧誘なぞが頻(しきり)に行はれる。壮士の一群(ひとむれ)は高柳派の運動を助ける為に、既に町へ入込んだともいふ。選挙の上の争闘(あらそひ)は次第に近いて来たのである。
 其日は宿直の当番として、丑松銀之助の二人が学校に居残ることに成つた。尤(もつと)も銀之助は拠(よんどころ)ない用事が有ると言つて出て行つて、日暮になつても未だ帰つて来なかつたので、日誌と鍵とは丑松が預つて置いた。丑松は絶えず不安の状態(ありさま)――暇さへあれば宿直室の畳の上に倒れて、独りで考へたり悶(もだ)えたりしたのである。冬の一日(ひとひ)は斯ういふ苦しい心づかひのうちに過ぎた。入相(いりあひ)を告げる蓮華寺の鐘の音が宿直室の玻璃窓(ガラスまど)に響いて聞える頃は、殊(こと)に烈しい胸騒ぎを覚えて、何となくお志保の身の上も案じられる。もし奥様の決心がお志保の方に解りでもしたら――あるひは、最早(もう)解つて居るのかも知れない――左様なると、娘の身として其を黙つて視て居ることが出来ようか。と言つて、奈何(どう)して彼の継母のところなぞへ帰つて行かれよう。
『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。』
 と不図(ふと)斯ういふことを想ひ着いた時は、言ふに言はれぬ哀傷(かなしみ)が身を襲(おそ)ふやうに感ぜられた。
 待つても、待つても、銀之助は帰つて来なかつた。長い間丑松は机に倚凭(よりかゝ)つて、洋燈(ランプ)の下(もと)にお志保のことを思浮べて居た。斯うして種々(さま/″\)の想像に耽(ふけ)り乍ら、悄然(しよんぼり)と五分心の火を熟視(みつ)めて居るうちに、何時の間にか疲労(つかれ)が出た。丑松は机に倚凭つた儘(まゝ)、思はず知らずそこへ寝(ね)て了(しま)つたのである。
 其時、お志保が入つて来た。

       (二)

 こゝは学校では無いか。奈何(どう)して斯様(こん)なところへお志保が尋ねて来たらう。と丑松は不思議に考へないでもなかつた。しかし其疑惑(うたがひ)は直に釈(と)けた。お志保は何か言ひたいことが有つて、わざ/\自分のところへ逢ひに来たのだ、と斯う気が着いた。あの夢見るやうな、柔嫩(やはらか)な眼――其を眺めると、お志保が言はうと思ふことはあり/\と読まれる。何故、父や弟にばかり親切にして、自分には左様(さう)疎々(よそ/\)しいのであらう。何故、同じ屋根の下に住む程の心やすだては有乍ら、優しい言葉の一つも懸けて呉れないのであらう。何故、其口唇(くちびる)は言ひたいことも言はないで、堅く閉(と)ぢ塞(ふさが)つて、恐怖(おそれ)と苦痛(くるしみ)とで慄へて居るのであらう。
 斯ういふ楽しい問は、とは言へ、長く継(つゞ)かなかつた。何時の間にか文平が入つて来て、用事ありげにお志保を促(うなが)した。終(しまひ)には羞(はづか)しがるお志保の手を執(と)つて、無理やりに引立てゝ行かうとする。
『勝野君、まあ待ち給へ。左様(さう)君のやうに無理なことを為(し)なくツても好からう。』
 と言つて、丑松は制止(おしとゞ)めるやうにした。其時、文平も丑松の方を振返つて見た。二人の目は電光(いなづま)のやうに出逢(であ)つた。
『お志保さん、貴方(あなた)に好事(いゝこと)を教へてあげる。』
 と文平は女の耳の側へ口を寄せて、丑松が隠蔽(かく)して居る其恐しい秘密を私語(さゝや)いて聞かせるやうな態度を示した。
『あツ、其様(そん)なことを聞かせて奈何(どう)する。』
 と丑松は周章(あわ)てゝ取縋(とりすが)らうとして――不図(ふと)、眼が覚めたのである。
 夢であつた。斯う我に帰ると同時に、苦痛(くるしみ)は身を離れた。しかし夢の裡(なか)の印象は尚残つて、覚めた後までも恐怖(おそれ)の心が退かない。室内を眺め廻すと、お志保も居なければ、文平も居なかつた。丁度そこへ風呂敷包を擁(かゝ)へ乍ら、戸を開けて入つて来たのは銀之助であつた。
『や、どうも大変遅くなつた。瀬川君、まだ君は起きて居たのかい――まあ、今夜は寝て話さう。』
 斯う声を掛ける。軈(やが)て銀之助はがた/\靴の音をさせ乍(なが)ら、洋服の上衣を脱いで折釘へ懸けるやら、襟(カラ)を取つて机の上に置くやら、または無造作にズボン釣を外すやらして、『あゝ、其内に御別れだ。』と投げるやうに言つた。八畳ばかり畳の敷いてあるは、克く二人の友達が枕を並べて、当番の夜を語り明したところ。今は銀之助も名残惜(なごりを)しいやうな気に成つて、着た儘の襯衣(シャツ)とズボン下とを寝衣(ねまき)がはりに、宿直の蒲団の中へ笑ひ乍ら潜り込んだ。
『斯(か)うして君と是部屋に寝るのも、最早(もう)今夜限(ぎ)りだ。』と銀之助は思出したやうに嘆息した。『僕に取つては是(これ)が最終の宿直だ。』
『左様(さう)かなあ、最早御別れかなあ。』と丑松も枕に就き乍ら言つた。
『何となく斯(か)う今夜は師範校の寄宿舎にでも居るやうな気がする。妙に僕は昔を懐出(おもひだ)した――ホラ、君と一緒に勉強した彼の時代のことなぞを。噫(あゝ)、昔の友達は皆な奈何して居るかなあ。』と言つて、銀之助はすこし気を変へて、『其は左様と、瀬川君、此頃(こなひだ)から僕は君に聞いて見たいと思ふことが有るんだが――』
『僕に?』
『まあ、君のやうに左様黙つて居るといふのも損な性分だ。どうも君の様子を見るのに、何か非常に苦しい事が有つて、独りで考へて独りで煩悶(はんもん)して居る、としか思はれない。そりやあもう君が言はなくたつて知れるよ。実際、僕は君の為に心配して居るんだからね。だからさ、其様(そんな)に苦しいことが有るものなら、少許(すこし)打開けて話したらば奈何(どう)だい。随分、友達として、力に成るといふことも有らうぢやないか。』

       (三)

『何故(なぜ)、君は左様(さう)だらう。』と銀之助は同情(おもひやり)の深い言葉を続けた。『僕が斯(か)ういふ科学書生で、平素(しよつちゆう)其方(そつち)の研究にばかり頭を突込んでるものだから、あるひは僕見たやうなものに話したつて解らない、と君は思ふだらう。しかし、君、僕だつて左様冷い人間ぢや無いよ。他(ひと)の手疵(てきず)を負つて苦んで居るのを、傍(はた)で観て嘲笑(わら)つてるやうな、其様(そん)な残酷な人間ぢや無いよ。』
『君はまた妙なことを言ふぢやないか、誰も君のことを残酷だと言つたものは無いのに。』と丑松は臥俯(うつぶし)になつて答へる。
『そんなら僕にだつて話して聞かせて呉れ給へな。』
『話せとは?』
『何も左様君のやうに蔵(つゝ)んで居る必要は有るまいと思ふんだ。言はないから、其で君は余計に苦しいんだ。まあ、僕も、一時は研究々々で、あまり解剖的にばかり物事を見過ぎて居たが、此頃に成つて大に悟つたことが有る。それからずつと君の心情(こゝろもち)も解るやうに成つた。何故君があの蓮華寺へ引越したか、何故(なぜ)君が其様に独りで苦んで居るか――僕はもう何もかも察して居る。』
 丑松は答へなかつた。銀之助は猶(なほ)言葉を継(つ)いで、
『校長先生なぞに言はせると、斯ういふことは三文の価値(ねうち)も無いね。何ぞと言ふと、直に今の青年の病気だ。しかし、君、考へて見給へ。彼先生だつて一度は若い時も有つたらうぢやないか。自分等は鼻唄で通り越して置き乍ら、吾儕(われ/\)にばかり裃(かみしも)を着て歩けなんて――はゝゝゝゝ、まあ君、左様(さう)ぢや無いか。だから僕は言つて遣(や)つたよ。今日彼(あの)先生と郡視学とで僕を呼付けて、「何故(なぜ)瀬川君は彼様(あゝ)考へ込んで居るんだらう」と斯う聞くから、「其は貴方等(あなたがた)も覚えが有るでせう、誰だつて若い時は同じことです」と言つて遣つたよ。』
『フウ、左様かねえ、郡視学が其様なことを聞いたかねえ。』
『見給へ、君があまり沈んでるもんだから、つまらないことを言はれるんだ――だから君は誤解されるんだ。』
『誤解されるとは?』
『まあ、君のことを新平民だらうなんて――実に途方も無いことを言ふ人も有れば有るものだ。』
『はゝゝゝゝ。しかし、君、僕が新平民だとしたところで、一向差支は無いぢやないか。』
 長いこと室の内には声が無かつた。細目に点けて置いた洋燈(ランプ)の光は天井へ射して、円く朦朧(もうろう)と映つて居る。銀之助は其を熟視(みつ)め乍ら、種々(いろ/\)空想を描いて居たが、あまり丑松が黙つて了つて身動きも為ないので、終(しまひ)には友達は最早(もう)眠つたのかとも考へた。
『瀬川君、最早睡(ね)たのかい。』と声を掛けて見る。
『いゝや――未(ま)だ起きてる。』
 丑松は息を殺して寝床の上に慄(ふる)へて居たのである。
『妙に今夜は眠られない。』と銀之助は両手を懸蒲団の上に載せて、『まあ、君、もうすこし話さうぢやないか。僕は青年時代の悲哀(かなしみ)といふことを考へると、毎時(いつも)君の為に泣きたく成る。愛と名――あゝ、有為な青年を活すのも其だし、殺すのも其だ。実際、僕は君の心情を察して居る。君の性分としては左様(さう)あるべきだとも思つて居る。君の慕つて居る人に就いても、蔭乍(かげなが)ら僕は同情を寄せて居る。其だから今夜は斯様(こん)なことを言出しもしたんだが、まあ、僕に言はせると、あまり君は物を六(むづ)ヶ敷(しく)考へ過ぎて居るやうに思はれるね。其処だよ、僕が君に忠告したいと思ふことは。だつて君、左様ぢや無いか。何も其様に独りで苦んでばかり居なくたつても好からう。友達といふものが有つて見れば、そこはそれ相談の仕様によつて、随分道も開けるといふものさ――「土屋、斯(か)う為たら奈何(どう)だらう」とか何とか、君の方から切出して呉れると、及ばず乍ら僕だつて自分の力に出来る丈のことは尽すよ。』
『あゝ、左様(さう)言つて呉れるのは君ばかりだ。君の志は実に難有(ありがた)い。』と丑松は深い溜息を吐いた。『まあ、打開けて言へば、君の察して呉れるやうなことが有つた。確かに有つた。しかし――』
『ふむ。』
『君はまだ克(よ)く事情を知らないから、其で左様言つて呉れるんだらうと思ふんだ。実はねえ――其人は最早死んで了(しま)つたんだよ。』
 復(ま)た二人は無言に帰つた。やゝしばらくして、銀之助は声を懸けて見たが、其時はもう返事が無いのであつた。

       (四)

 銀之助の送別会は翌日(あくるひ)の午前から午後の二時頃迄へ掛けて開らかれた。昼を中へ□んだは、弁当がはりに鮨(すし)の折詰を出したからで。教員生徒はかはる/″\立つて別離(わかれ)の言葉を述べた。余興も幾組かあつた。多くの無邪気な男女(をとこをんな)の少年は、互ひに悲んだり笑つたりして、稚心(をさなごゝろ)にも斯の日を忘れまいとするのであつた。
 斯(か)ういふ中にも、独り丑松ばかりは気が気で無い。何を見たか、何を聞いたか、殆(ほとん)ど其が記憶にも留らなかつた。唯頭脳(あたま)の中に残るものは、教員や生徒の騒しい笑声、余興のある度に起る拍手の音、または斯の混雑の中にも時々意味有げな様子して盗むやうに自分の方を見る人々の眼付――まあ、絶えず誰かに附狙(つけねら)はれて居るやうな気がして、其方の心配と屈託と恐怖(おそれ)とで、見たり聞いたりすることには何の興味も好奇心も起らないのであつた。どうかすると丑松は自分の身体ですら自分のものゝやうには思はないで、何もかも忘れて、心一つに父の戒を憶出して見ることもあつた。『見給へ、土屋君は必定(きつと)出世するから。』斯う私語(さゝや)き合ふ教員同志の声が耳に入るにつけても、丑松は自分の暗い未来に思比べて、すくなくも穢多なぞには生れて来なかつた友達の身の上を羨んだ。
 送別会が済(す)む、直に丑松は学校を出て、急いで蓮華寺を指して帰つて行つた。蔵裏(くり)の入口の庭のところに立つて、奥座敷の方を眺めると、白衣を着けた一人の尼が出たり入つたりして居る。一昨日の晩頼まれて書いた手紙のことを考へると、彼が奥様の妹といふ人であらうか、と斯(か)う推測が付く。其時下女の袈裟治が台処の方から駈寄つて、丑松に一枚の名刺を渡した。見れば猪子蓮太郎としてある。袈裟治は言葉を添へて、今朝斯(こ)の客が尋ねて来たこと、宿は上町の扇屋にとつたとのこと、宜敷(よろしく)と言置いて出て行つたことなぞを話して、まだ外にでつぷり肥つた洋服姿の人も表に立つて居たと話した。『むゝ、必定(きつと)市村さんだ。』と丑松は独語(ひとりご)ちた。話の様子では確かに其らしいのである。
『直に、これから尋ねて行つて見ようかしら。』とは続いて起つて来た思想(かんがへ)であつた。人目を憚(はゞか)るといふことさへなくば、無論尋ねて行きたかつたのである。鳥のやうに飛んで行きたかつたのである。『まあ、待て。』と丑松は自分で自分を制止(おしとゞ)めた。彼の先輩と自分との間には何か深い特別の関係でも有るやうに見られたら、奈何しよう。書いたものを愛読してさへ、既に怪しいと思はれて居るではないか。まして、うつかり尋ねて行つたりなんかして――もしや――あゝ、待て、待て、日の暮れる迄待て。暗くなつてから、人知れず宿屋へ逢ひに行かう。斯う用心深く考へた。
『それは左様と、お志保さんは奈何(どう)したらう。』と其人の身の上を気遣(きづか)ひ乍ら、丑松は二階へ上つて行つた。始めて是寺へ引越して来た当時のことは、不図(ふと)、胸に浮ぶ。見れば何もかも変らずにある。古びた火鉢も、粗末な懸物も、机も、本箱も。其に比べると人の境涯(きやうがい)の頼み難いことは。丑松はあの鷹匠(たかしやう)町の下宿から放逐された不幸な大日向を思出した。丁度斯の蓮華寺から帰つて行つた時は、提灯(ちやうちん)の光に宵闇の道を照し乍ら、一挺の籠が舁(かつ)がれて出るところであつたことを思出した。附添の大男を思出した。門口で『御機嫌よう』と言つた主婦を思出した。罵(のゝし)つたり騒いだりした下宿の人々を思出した。終(しまひ)にはあの『ざまあ見やがれ』の一言を思出すと、慄然(ぞつ)とする冷(つめた)い震動(みぶるひ)が頸窩(ぼんのくぼ)から背骨の髄へかけて流れ下るやうに感ぜられる。今は他事(ひとごと)とも思はれない。噫(あゝ)、丁度それは自分の運命だ。何故、新平民ばかり其様(そんな)に卑(いやし)められたり辱(はづかし)められたりするのであらう。何故、新平民ばかり普通の人間の仲間入が出来ないのであらう。何故、新平民ばかり斯の社会に生きながらへる権利が無いのであらう――人生は無慈悲な、残酷なものだ。
 斯う考へて、部屋の内を歩いて居ると、唐紙の開く音がした。其時奥様が入つて来た。

       (五)

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