破戒
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著者名:島崎藤村 

 急に室の内は寂しくなつたので、丑松は冷い鉄の柱に靠(もた)れ乍ら、眼を瞑(つむ)つて斯(こ)の意外な邂逅(めぐりあひ)を思ひ浮べて見た。慾を言へば、何となく丑松は物足りなかつた。彼程(あれほど)打解けて呉れて、彼程隔ての無い言葉を掛けられても、まだ丑松は何処かに冷淡(よそ/\)しい他人行儀なところがあると考へて、奈何(どう)して是程の敬慕の情が彼の先輩の心に通じないのであらう、と斯う悲しくも情なくも思つたのである。嫉(ねた)むでは無いが、彼(か)の老紳士の親しくするのが羨ましくも思はれた。
 其時になつて丑松も明(あきらか)に自分の位置を認めることが出来た。敬慕も、同情も、すべて彼の先輩に対して起る心の中のやるせなさは――自分も亦た同じやうに、『穢多である』といふ切ない事実から湧上るので。其秘密を蔵(かく)して居る以上は、仮令(たとひ)口の酸くなるほど他の事を話したところで、自分の真情が先輩の胸に徹(こた)へる時は無いのである。無理もない。あゝ、あゝ、其を告白(うちあ)けて了つたなら、奈何(どんな)に是胸の重荷が軽くなるであらう。奈何に先輩は驚いて、自分の手を執つて、『君も左様(さう)か』と喜んで呉れるであらう。奈何に二人の心と心とがハタと顔を合せて、互ひに同じ運命を憐むといふ其深い交際(まじはり)に入るであらう。
 左様(さう)だ――せめて彼の先輩だけには話さう。斯う考へて、丑松は楽しい再会の日を想像して見た。

       (三)

 田中の停車場(ステーション)へ着いた頃は日暮に近かつた。根津村へ行かうとするものは、こゝで下りて、一里あまり小県(ちひさがた)の傾斜を上らなければならない。
 丑松が汽車から下りた時、高柳も矢張同じやうに下りた。流石(さすが)代議士の候補者と名乗る丈あつて、風采(おしだし)は堂々とした立派なもの。権勢と奢侈とで饑(う)ゑたやうな其姿の中には、何処(どこ)となく斯(か)う沈んだところもあつて、時々盗むやうに是方(こちら)を振返つて見た。成るべく丑松を避けるといふ風で、顔を合すまいと勉めて居ることは、いよ/\其素振(そぶり)で読めた。『何処へ行(いく)のだらう、彼男は。』と見ると、高柳は素早く埒(らち)を通り抜けて、引隠れる場処を欲しいと言つたやうな具合に、旅人の群に交つたのである。深く外套に身を包んで、人目を忍んで居るさへあるに、出迎への人々に取囲(とりま)かれて、自分と同じ方角を指して出掛けるとは。
 北国街道を左へ折れて、桑畠(くはばたけ)の中の細道へ出ると、最早(もう)高柳の一行は見えなかつた。石垣で積上げた田圃と田圃との間の坂路を上るにつれて、烏帽子(ゑぼし)山脈の大傾斜が眼前(めのまへ)に展けて来る。広野、湯の丸、籠の塔、または三峯(さんぽう)、浅間の山々、其他ところ/″\に散布する村落、松林――一つとして回想(おもひで)の種と成らないものはない。千曲川(ちくまがは)は遠く谷底を流れて、日をうけておもしろく光るのであつた。
 其日は灰紫色の雲が西の空に群(むらが)つて、飛騨(ひだ)の山脈を望むことは出来なかつた。あの千古人跡の到らないところ、もし夕雲の隔(へだ)てさへ無くば、定めし最早(もう)皚々(がい/\)とした白雪が夕日を帯びて、天地の壮観は心を驚かすばかりであらうと想像せられる。山を愛するのは丑松の性分で、斯うして斯の大傾斜大谿谷の光景(ありさま)を眺めたり、又は斯の山間に住む信州人の素朴な風俗と生活とを考へたりして、岩石の多い凸凹(でこぼこ)した道を踏んで行つた時は、若々しい総身の血潮が胸を衝(つ)いて湧上るやうに感じた。今は飯山の空も遠く隔つた。どんなに丑松は山の吐く空気を呼吸して、暫時(しばらく)自分を忘れるといふ其楽しい心地に帰つたであらう。
 山上の日没も美しく丑松の眼に映つた。次第に薄れて行く夕暮の反射を受けて、山々の色も幾度(いくたび)か変つたのである。赤は紫に。紫は灰色に。終(しまひ)には野も岡も暮れ、影は暗く谷から谷へ拡つて、最後の日の光は山の巓(いたゞき)にばかり輝くやうになつた。丁度天空の一角にあたつて、黄ばんで燃える灰色の雲のやうなは、浅間の煙の靡(なび)いたのであらう。
 斯(か)ういふ楽しい心地(こゝろもち)は、とは言へ、長く続かなかつた。荒谷(あらや)のはづれ迄行けば、向ふの山腹に連なる一村の眺望、暮色に包まれた白壁土壁のさま、其山家風の屋根と屋根との間に黒ずんで見えるのは柿の梢(こずゑ)か――あゝ根津だ。帰つて行く農夫の歌を聞いてすら、丑松はもう胸を騒がせるのであつた。小諸の向町から是処(こゝ)へ来て隠れた父の生涯(しやうがい)、それを考へると、黄昏(たそがれ)の景気を眺める気も何も無くなつて了(しま)ふ。切なさは可懐(なつか)しさに交つて、足もおのづから慄(ふる)へて来た。あゝ、自然の胸懐(ふところ)も一時(ひととき)の慰藉(なぐさめ)に過ぎなかつた。根津に近(ちかづ)けば近くほど、自分が穢多である、調里(新平民の異名)である、と其心地(こゝろもち)が次第に深く襲(おそ)ひ迫つて来たので。
 暗くなつて第二の故郷へ入つた。もと/\父が家族を引連れて、この片田舎に移つたのは、牧場へ通ふ便利を考へたばかりで無く、僅少(わづか)ばかりの土地を極く安く借受けるやうな都合もあつたからで。現に叔父が耕して居るのは其畠である。流石(さすが)に用心深い父は人目につかない村はづれを択(えら)んだので、根津の西町から八町程離れて、とある小高い丘の裾(すそ)のところに住んだ。
 長野県小県郡根津村大字姫子沢――丑松が第二の故郷とは、其五十戸ばかりの小部落を言ふのである。

       (四)

 父の死去した場処は、斯(こ)の根津村の家ではなくて、西乃入(にしのいり)牧場の番小屋の方であつた。叔父は丑松の帰村を待受けて、一緒に牧場へ出掛ける心算(つもり)であつたので、兎も角も丑松を炉辺(ろばた)に座(す)ゑ、旅の疲労(つかれ)を休めさせ、例の無慾な、心の好ささうな声で、亡くなつた人の物語を始めた。炉の火は盛(さかん)に燃えた。叔母も啜(すゝ)り上げ乍(なが)ら耳を傾けた。聞いて見ると、父の死去は、老の為でもなく、病の為でも無かつた。まあ、言はゞ、職業の為に突然な最後を遂げたのであつた。一体、父が家畜を愛する心は天性に近かつたので、随つて牧夫としての経験も深く、人にも頼まれ、牧場の持主にも信ぜられた位。牛の性質なぞはなか/\克(よ)く暗記して居たもの。よもや彼(あ)の老練な人が其道に手ぬかりなどの有らうとは思はれない。そこがそれ人の一生の測りがたさで、不図(ふと)ある種牛を預つた為に、意外な出来事を引起したのであつた。種牛といふのは性質(たち)が悪かつた。尤(もつと)も、多くの牝牛(めうし)の群の中へ、一頭の牡牛(をうし)を放つのであるから、普通の温順(おとな)しい種牛ですら荒くなる。時としては性質が激変する。まして始めから気象の荒い雑種と来たから堪(たま)らない。広濶(ひろ/″\)とした牧場の自由と、誘ふやうな牝牛の鳴声とは、其種牛を狂ふばかりにさせた。終(しまひ)には家養の習慣も忘れ、荒々しい野獣の本性(ほんしやう)に帰つて、行衛(ゆくへ)が知れなくなつて了(しま)つたのである。三日経(た)つても来ない。四日経つても帰らない。さあ、父は其を心配して、毎日水草の中を捜(さが)して歩いて、ある時は深い沢を分けて日の暮れる迄も尋ねて見たり、ある時は山から山を猟(あさ)つて高い声で呼んで見たりしたが、何処にも影は見えなかつた。昨日の朝、父はまた捜しに出た。いつも遠く行く時には、必ず昼飯(ひる)を用意して、例の『山猫』(鎌(かま)、鉈(なた)、鋸(のこぎり)などの入物)に入れて背負(しよ)つて出掛ける。ところが昨日に限つては持たなかつた。時刻に成つても帰らない。手伝ひの男も不思議に思ひ乍ら、塩を与へる為に牛小屋のあるところへ上つて行くと、牝牛の群が喜ばしさうに集まつて来る。丁度其中には、例の種牛も恍(とぼ)け顔(がほ)に交つて居た。見れば角は紅く血に染つた。驚きもし、呆(あき)れもして、来合せた人々と一緒になつて取押へたが、其時はもう疲れて居た故(せゐ)か、別に抵抗(てむかひ)も為なかつた。さて男は其処此処(そここゝ)と父を探して歩いた。漸(やうや)く岡の蔭の熊笹の中に呻吟(うめ)き倒れて居るところを尋ね当てゝ、肩に掛けて番小屋迄連れ帰つて見ると、手当も何も届かない程の深傷(ふかで)。叔父が聞いて駈付けた時は、まだ父は確乎(しつかり)して居た。最後に気息(いき)を引取つたのが昨夜の十時頃。今日は人々も牧場に集つて、番小屋で通夜と極めて、いづれも丑松の帰るのを待受けて居るとのことであつた。
『といふ訳で、』と叔父は丑松の顔を眺めた。『私が阿兄(あにき)に、何か言つて置くことはねえか、と尋ねたら、苦しい中にも気象はしやんとしたもので、「俺も牧夫だから、牛の為に倒れるのは本望だ。今となつては他に何にも言ふことはねえ。唯気にかゝるのは丑松のこと。俺が今日迄の苦労は、皆な彼奴(あいつ)の為を思ふから。日頃俺は彼奴に堅く言聞かせて置いたことがある。何卒(どうか)丑松が帰つて来たら、忘れるな、と一言左様(さう)言つてお呉れ。」』
 丑松は首を垂れて、黙つて父の遺言を聞いて居た。叔父は猶(なほ)言葉を継いで、
『「それから、俺は斯(こ)の牧場の土と成りたいから、葬式は根津の御寺でしねえやうに、成るなら斯の山でやつてお呉れ。俺が亡(な)くなつたとは、小諸(こもろ)の向町へ知らせずに置いてお呉れ――頼む。」と斯う言ふから、其時私(わし)が「むゝ、解つた、解つた」と言つてやつたよ。すると阿兄(あにき)は其が嬉(うれ)しかつたと見え、につこり笑つて、軈(やが)て私の顔を眺め乍らボロ/\と涙を零(こぼ)した。それぎりもう阿兄は口を利かなかつた。』
 斯ういふ父の臨終の物語は、言ふに言はれぬ感激を丑松の心に与へたのである。牧場の土と成りたいと言ふのも、山で葬式をして呉れと言ふのも、小諸の向町へ知らせずに置いて呉れと言ふのも、畢竟(つま)るところは丑松の為を思ふからで。丑松は其精神を酌取(くみと)つて、父の用意の深いことを感ずると同時に、又、一旦斯うと思ひ立つたことは飽くまで貫かずには置かないといふ父の気魄(たましひ)の烈しさを感じた。実際、父が丑松に対する時は、厳格を通り越して、残酷な位であつた。亡くなつた後までも、猶(なほ)丑松は父を畏(おそ)れたのである。
 やがて丑松は叔父と一緒に、西乃入牧場を指して出掛けることになつた。万事は叔父の計らひで、検屍(けんし)も済み、棺も間に合ひ、通夜の僧は根津の定津院(じやうしんゐん)の長老を頼んで、既に番小屋の方へ登つて行つたとのこと。明日の葬式の用意は一切叔父が呑込んで居た。丑松は唯出掛けさへすればよかつた。此処から烏帽子(ゑぼし)ヶ獄(だけ)の麓まで二十町あまり。其間、田沢の峠なぞを越して、寂しい山道を辿らなければならない。其晩は鼻を掴(つ)まゝれる程の闇で、足許(あしもと)さへも覚束なかつた。丑松は先に立つて、提灯の光に夜路を照らし乍ら、山深く叔父を導いて行つた。人里を離れて行けば行くほど、次第に路は細く、落ち朽ちた木葉を踏分けて僅かに一条(ひとすぢ)の足跡があるばかり。こゝは丑松が少年の時代に、克(よ)く父に連れられて、往つたり来たりしたところである。牛小屋のある高原の上へ出る前に、二人はいくつか小山を越えた。

       (五)

 谷を下ると其処がもう番小屋で、人々は狭い部屋の内に集つて居た。灯は明々(あか/\)と壁を泄(も)れ、木魚(もくぎよ)の音も山の空気に響き渡つて、流れ下る細谷川の私語(さゝやき)に交つて、一層の寂しさあはれさを添へる。家の構造(つくり)は、唯雨露(あめつゆ)を凌ぐといふばかりに、葺(ふ)きもし囲ひもしてある一軒屋。たまさか殿城山の間道を越えて鹿沢(かざは)温泉へ通ふ旅人が立寄るより外には、訪(と)ふ人も絶えて無いやうな世離れたところ。炭焼、山番、それから斯の牛飼の生活――いづれも荒くれた山住の光景(ありさま)である。丑松は提灯(ちやうちん)を吹消して、叔父と一緒に小屋の戸を開けて入つた。
 定津院の長老、世話人と言つて姫子沢の組合、其他父が生前懇意にした農家の男女(をとこをんな)――それらの人々から丑松は親切な弔辞(くやみ)を受けた。仏前の燈明は線香の烟(けぶり)に交る夜の空気を照らして、何となく部屋の内も混雑して居るやうに見える。父の遺骸(なきがら)を納めたといふは、極(ご)く粗末な棺。其周囲(まはり)を白い布で巻いて、前には新しい位牌(ゐはい)を置き、水、団子、外には菊、樒(しきみ)の緑葉(みどりば)なぞを供へてあつた。読経も一きりになつた頃、僧の注意で、年老いた牧夫の見納めの為に、かはる/″\棺の前に立つた。死別の泪(なみだ)は人々の顔を流れたのである。丑松も叔父に導かれ、すこし腰を曲(こゞ)め、薄暗い蝋燭(らふそく)の灯影に是世の最後の別離(わかれ)を告げた。見れば父は孤独な牧夫の生涯を終つて、牧場の土深く横はる時を待つかのやう。死顔は冷かに蒼(あをざ)めて、血の色も無く変りはてた。叔父は例の昔気質(むかしかたぎ)から、他界(あのよ)の旅の便りにもと、編笠、草鞋(わらぢ)、竹の輪なぞを取添へ、別に魔除(まよけ)と言つて、刃物を棺の蓋の上に載せた。軈(やが)て復(ま)た読経(どきやう)が始まる、木魚の音が起る、追懐の雑談は無邪気な笑声に交つて、物食ふ音と一緒になつて、哀しくもあり、騒がしくもあり、人々に妨げられて丑松は旅の疲労(つかれ)を休めることも出来なかつた。
 一夜は斯ういふ風に語り明した。小諸の向町へは通知して呉れるなといふ遺言もあるし、それに移住(ひつこし)以来(このかた)十七年あまりも打絶えて了つたし、是方(こちら)からも知らせてやらなければ、向ふからも来なかつた。昔の『お頭』が亡くなつたと聞伝へて、下手なものにやつて来られては反つて迷惑すると、叔父は唯そればかり心配して居た。斯の叔父に言はせると、墓を牧場に択んだのは、かねて父が考へて居たことで。といふは、もし根津の寺なぞへ持込んで、普通の農家の葬式で通ればよし、さも無かつた日には、断然謝絶(ことわ)られるやうな浅猿(あさま)しい目に逢ふから。習慣の哀しさには、穢多は普通の墓地に葬る権利が無いとしてある。父は克く其を承知して居た。父は生前も子の為に斯ういふ山奥に辛抱して居た。死後もまた子の為に斯の牧場に眠るのを本望としたのである。
『どうかして斯の「おじやんぼん」(葬式)は無事に済ましたい――なあ、丑松、俺はこれでも気が気ぢやねえぞよ。』
 斯ういふ心配は叔父ばかりでは無かつた。
 翌日(あくるひ)の午後は、会葬の男女(をとこをんな)が番小屋の内外(うちそと)に集つた。牧場の持主を始め、日頃牝牛を預けて置く牛乳屋なぞも、其と聞伝へたかぎりは弔ひにやつて来た。父の墓地は岡の上の小松の側(わき)と定まつて、軈(やが)ていよいよ野辺送りを為ることになつた時は、住み慣れた小屋の軒を舁(かつ)がれて出た。棺の後には定津院の長老、つゞいて腕白顔な二人の子坊主、丑松は叔父と一緒に藁草履穿(わらざうりばき)、女はいづれも白の綿帽子を冠つた。人々は思ひ/\の風俗、紋付もあれば手織縞(ておりじま)の羽織もあり、山家の習ひとして多くは袴も着けなかつた。斯の飾りの無い一行の光景(ありさま)は、素朴な牛飼の生涯に克(よ)く似合つて居たので、順序も無く、礼儀も無く、唯真心(まごゝろ)こもる情一つに送られて、静かに山を越えた。
 式も亦(ま)た簡短であつた。単調子な鉦(かね)、太鼓、鐃□(ねうはち)の音、回想(おもひで)の多い耳には其も悲哀な音楽と聞え、器械的な回向と読経との声、悲嘆(なげき)のある胸には其もあはれの深い挽歌(ばんか)のやうに響いた。礼拝(らいはい)し、合掌し、焼香して、軈て帰つて行く人々も多かつた。棺は間もなく墓と定めた場処へ移されたので、そこには掘起された『のつぺい』(土の名)が堆高(うづたか)く盛上げられ、咲残る野菊の花も土足に踏散らされてあつた。人々は土を掴(つか)んで、穴をめがけて投入れる。叔父も丑松も一塊(ひとかたまり)づゝ投入れた。最後に鍬(くは)で掻落した時は、崖崩れのやうな音して烈しく棺の蓋を打つ。それさへあるに、土気の襄上(のぼ)る臭気(にほひ)は紛(ぷん)と鼻を衝(つ)いて、堪へ難い思をさせるのであつた。次第に葬られて、小山の形の土饅頭が其処に出来上るまで、丑松は考深く眺め入つた。叔父も無言であつた。あゝ、父は丑松の為に『忘れるな』の一語(ひとこと)を残して置いて、最後の呼吸にまで其精神を言ひ伝へて、斯うして牧場の土深く埋もれて了つた――もう斯世(このよ)の人では無かつたのである。

       (六)

 兎(と)も角(かく)も葬式は無事に済(す)んだ。後の事は牧場の持主に頼み、番小屋は手伝ひの男に預けて、一同姫子沢へ引取ることになつた。斯(こ)の小屋に飼養(かひやしな)はれて居る一匹の黒猫、それも父の形見であるからと、しきりに丑松は連帰らうとして見たが、住慣(すみな)れた場処に就く家畜の習ひとして、離れて行くことを好まない。物を呉れても食はず、呼んでも姿を見せず、唯縁の下をあちこちと鳴き悲む声のあはれさ。畜生乍(なが)らに、亡くなつた主人を慕ふかと、人々も憐んで、是(これ)から雪の降る時節にでも成らうものなら何を食つて山籠りする、と各自(てんで)に言ひ合つた。『可愛さうに、山猫にでも成るだらず。』斯う叔父は言つたのである。
 やがて人々は思ひ/\に出掛けた。番小屋を預かる男は塩を持つて、岡の上まで見送り乍ら随(つ)いて来た。十一月上旬の日の光は淋しく照して、この西乃入牧場に一層荒寥(くわうれう)とした風趣(おもむき)を添へる。見れば小松はところ/″\。山躑躅(やまつゝじ)は、多くの草木の中に、牛の食はないものとして、反(かへ)つて一面に繁茂して居るのであるが、それも今は霜枯れて見る影が無い。何もかも父の死を冥想させる種と成る。愁(うれ)ひつゝ丑松は小山の間の細道を歩いた。父を斯(こ)の牧場に訪れたは、丁度足掛三年前の五月の下旬であつたことを思出した。それは牛の角の癢(かゆ)くなるといふ頃で、斯の枯々な山躑躅が黄や赤に咲乱れて居たことを思出した。そここゝに蕨(わらび)を采(と)る子供の群を思出した。山鳩の啼(な)く声を思出した。其時は心地(こゝろもち)の好い微風(そよかぜ)が鈴蘭(君影草とも、谷間の姫百合とも)の花を渡つて、初夏の空気を匂はせたことを思出した。父は又、岡の上の新緑を指して見せて、斯の西乃入には柴草が多いから牛の為に好いと言つたことを思出した。其青葉を食ひ、塩を嘗(な)め、谷川の水を飲めば、牛の病は多く癒(なほ)ると言つたことを思出した。父はまた附和(つけた)して、さま/″\な牧畜の経験、類を以て集る牛の性質、初めて仲間入する時の角押しの試験、畜生とは言ひ乍ら仲間同志を制裁する力、其他女王のやうに牧場を支配する一頭の牝牛なぞの物語をして、それがいかにも面白く思はれたことを思出した。
 父は斯(こ)の烏帽子(ゑぼし)ヶ嶽(だけ)の麓に隠れたが、功名を夢見る心は一生火のやうに燃えた人であつた。そこは無欲な叔父と大に違ふところで、その制(おさ)へきれないやうな烈しい性質の為に、世に立つて働くことが出来ないやうな身分なら、寧(いつ)そ山奥へ高踏(ひつこ)め、といふ憤慨の絶える時が無かつた。自分で思ふやうに成らない、だから、せめて子孫は思ふやうにしてやりたい。自分が夢見ることは、何卒(どうか)子孫に行はせたい。よしや日は西から出て東へ入る時があらうとも、斯(この)志ばかりは堅く執(と)つて変るな。行け、戦へ、身を立てよ――父の精神はそこに在つた。今は丑松も父の孤独な生涯を追懐して、彼(あ)の遺言に籠る希望と熱情とを一層力強く感ずるやうに成つた。忘れるなといふ一生の教訓(をしへ)の其生命(いのち)――喘(あへ)ぐやうな男性(をとこ)の霊魂(たましひ)の其呼吸――子の胸に流れ伝はる親の其血潮――それは父の亡くなつたと一緒にいよ/\深い震動を丑松の心に与へた。あゝ、死は無言である。しかし丑松の今の身に取つては、千百の言葉を聞くよりも、一層(もつと)深く自分の一生のことを考へさせるのであつた。
 牛小屋のあるところまで行くと、父の残した事業が丑松の眼に映じた。一週(ひとまはり)すれば二里半にあまるといふ天然の大牧場、そここゝの小松の傍(わき)には臥(ね)たり起きたりして居る牝牛の群も見える。牛小屋は高原の東の隅に在つて、粗造(そまつ)な柵の内には未(ま)だ角の無い犢(こうし)も幾頭か飼つてあつた。例の番小屋を預かる男は人々を款待顔(もてなしがほ)に、枯草を焚いて、猶(なほ)さま/″\の燃料(たきつけ)を掻集めて呉れる。丁度そこには叔父も丑松も待合せて居た。男も、女も、斯の焚火の周囲(まはり)に集つたかぎりは、昨夜一晩寝なかつた人々、かてゝ加へて今日の骨折――中にはもう烈しい疲労(つかれ)が出て、半分眠り乍ら落葉の焼ける香を嗅いで居るものもあつた。叔父は、牛の群に振舞ふと言つて、あちこちの石の上に二合ばかりの塩を分けてやる。父の飼ひ慣れたものかと思へば、丑松も可懐(なつか)しいやうな気になつて眺(なが)めた。それと見た一頭の黒い牝牛は尻毛を動かして、塩の方へ近(ちかづ)いて来る。眉間(みけん)と下腹と白くて、他はすべて茶褐色な一頭も耳を振つて近いた。吽(もう)と鳴いて犢(こうし)の斑(ぶち)も。さすがに見慣れない人々を憚るかして、いづれも鼻をうごめかして、塩の周囲(まはり)を遠廻りするものばかり。嘗(な)めたさは嘗めたし、烏散(うさん)な奴は見て居るし、といふ顔付をして、じり/\寄りに寄つて来るのもあつた。
 斯の光景(ありさま)を見た時は、叔父も笑へば、丑松も笑つた。斯ういふ可愛らしい相手があればこそ、寂しい山奥に住まはれもするのだと、人々も一緒になつて笑つた。やがて一同暇乞ひして、斯の父の永眠の地に別離(わかれ)を告げて出掛けた。烏帽子、角間(かくま)、四阿(あづまや)、白根の山々も、今は後に隠れる。富士神社を通過(とほりす)ぎた頃、丑松は振返つて、父の墓のある方を眺めたが、其時はもう牛小屋も見えなかつた――唯、蕭条(せうでう)とした高原のかなたに当つて、細々と立登る一条(ひとすぢ)の煙の末が望まれるばかりであつた。


   第八章

       (一)

 西乃入に葬られた老牧夫の噂(うはさ)は、直に根津の村中へ伝播(ひろが)つた。尾鰭(をひれ)を付けて人は物を言ふのが常、まして種牛の為に傷けられたといふ事実は、些少(すくな)からず好奇(ものずき)な手合の心を驚かして、到(いた)る処に茶話の種となる。定めし前(さき)の世には恐しい罪を作つたことも有つたらう、と迷信の深い者は直に其を言つた。牧夫の来歴に就いても、南佐久の牧場から引移つて来た者だの、甲州生れだの、いや会津の武士の果で有るのと、種々(さま/″\)な臆測を言ひ触らす。唯(たゞ)、小諸(こもろ)の穢多町の『お頭(かしら)』であつたといふことは、誰一人として知るものが無かつたのである。
『御苦労招(よ)び』(手伝ひに来て呉れた近所の人々を招く習慣)のあつた翌日(あくるひ)、丑松は会葬者への礼廻りに出掛けた。叔父も。姫子沢の家には叔母一人留守居。御茶漬後(すぎ)(昼飯後)は殊更温暖(あたゝか)く、日の光が裏庭の葱畠(ねぎばたけ)から南瓜(かぼちや)を乾し並べた縁側へ射し込んで、いかにも長閑(のどか)な思をさせる。追ふものが無ければ鶏も遠慮なく、垣根の傍に花を啄(つ)むもあり、鳴くもあり、座敷の畳に上つて遊ぶのもあつた。丁度叔母が表に出て、流のところに腰を曲(こゞ)め乍ら、鍋(なべ)を洗つて居ると、そこへ立つて丁寧に物を尋ねる一人の紳士がある。『瀬川さんの御宅は』と聞かれて、叔母は不思議さうな顔付。つひぞ見掛けぬ人と思ひ乍ら、冠つて居る手拭を脱(と)つて挨拶して見た。
『はい、瀬川は手前でごはすよ――失礼乍ら貴方(あんた)は何方様(どちらさま)で?』
『私ですか。私は猪子といふものです。』
 蓮太郎は丑松の留守に尋ねて来たのであつた。『もう追付(おつつ)け帰つて参じやせう』を言はれて、折角(せつかく)来たものを、兎(と)も角(かく)も其では御邪魔して、暫時(しばらく)休ませて頂かう、といふことに極め、軈(やが)て叔母に導かれ乍ら、草葺(くさぶき)の軒を潜(くゞ)つて入つた。日頃農夫の生活に興を寄せる蓮太郎、斯(か)うして炉辺(ろばた)で話すのが何より嬉敷(うれしい)といふ風で、煤(すゝ)けた屋根の下を可懐(なつか)しさうに眺(なが)めた。農家の習ひとして、表から裏口へ通り抜けの庭。そこには炭俵、漬物桶、又は耕作の道具なぞが雑然(ごちや/\)置き並べてある。片隅には泥の儘(まゝ)の『かびた芋』(馬鈴薯)山のやうに。炉は直ぐ上(あが)り端(はな)にあつて、焚火の煙のにほひも楽しい感想(かんじ)を与へるのであつた。年々の暦と一緒に、壁に貼付(はりつ)けた錦絵の古く変色したのも目につく。
『生憎(あいにく)と今日(こんち)は留守にいたしやして――まあ吾家(うち)に不幸がごはしたもんだで、その礼廻りに出掛けやしてなあ。』
 斯(か)う言つて、叔母は丑松の父の最後を蓮太郎に語り聞かせた。炉の火はよく燃えた。木製の自在鍵に掛けた鉄瓶(てつびん)の湯も沸々(ふつ/\)と煮立つて来たので、叔母は茶を入れて款待(もてな)さうとして、急に――まあ、記憶といふものは妙なもので、長く/\忘れて居た昔の習慣を思出した。一体普通の客に茶を出さないのは、穢多の家の作法としてある。煙草(たばこ)の火ですら遠慮する。瀬川の家も昔は斯ういふ風であつたので其を破つて普通の交際を始めたのは、斯(こ)の姫子沢へ移住(ひつこ)してから以来(このかた)。尤(もつと)も長い月日の間には、斯の新しい交際に慣れ、自然(おのづ)と出入りする人々に馴染(なじ)み、茶はおろか、物の遣り取りもして、春は草餅を贈り、秋は蕎麦粉(そばこ)を貰ひ、是方(こちら)で何とも思はなければ、他(ひと)も怪みはしなかつたのである。叔母が斯様(こん)な昔の心地(こゝろもち)に帰つたは近頃無いことで――それも其筈(そのはず)、姫子沢の百姓とは違つて気恥しい珍客――しかも突然(だしぬけ)に――昔者の叔母は、だから、自分で茶を汲む手の慄へに心付いた程。蓮太郎は其様(そん)なことゝも知らないで、さも/\甘(うま)さうに乾いた咽喉(のど)を濡(うるほ)して、さて種々(さま/″\)な談話(はなし)に笑ひ興じた。就中(わけても)、丑松がまだ紙鳶(たこ)を揚げたり独楽(こま)を廻したりして遊んだ頃の物語に。
『時に、』と蓮太郎は何か深く考へることが有るらしく、『つかんことを伺ふやうですが、斯(こ)の根津の向町に六左衛門といふ御大尽(おだいじん)があるさうですね。』
『はあ、ごはすよ。』と叔母は客の顔を眺めた。
『奈何(どう)でせう、御聞きでしたか、そこの家(うち)につい此頃婚礼のあつたとかいふ話を。』
 斯う蓮太郎は何気なく尋ねて見た。向町は斯の根津村にもある穢多の一部落。姫子沢とは八町程離れて、西町の町はづれにあたる。其処に住む六左衛門といふは音に聞えた穢多の富豪(ものもち)なので。
『あれ、少許(ちつと)も其様(そん)な話は聞きやせんでしたよ。そんなら聟(むこ)さんが出来やしたかいなあ――長いこと彼処(あすこ)の家の娘も独身(ひとり)で居りやしたつけ。』
『御存じですか、貴方は、その娘といふのを。』
『評判な美しい女でごはすもの。色の白い、背のすらりとした――まあ、彼様(あん)な身分のものには惜しいやうな娘(こ)だつて、克(よ)く他(ひと)が其を言ひやすよ。へえもう二十四五にも成るだらず。若く装(つく)つて、十九か二十位にしか見せやせんがなあ。』
 斯ういふ話をして居る間にも、蓮太郎は何か思ひ当ることがあるといふ風であつた。待つても/\丑松が帰つて来ないので、軈て蓮太郎はすこし其辺(そこいら)を散歩して来るからと、田圃(たんぼ)の方へ山の景色を見に行つた――是非丑松に逢ひたい、といふ言伝(ことづて)を呉々も叔母に残して置いて。

       (二)

『これ、丑松や、猪子といふ御客様(さん)がお前(めへ)を尋ねて来たぞい。』斯(か)う言つて叔母は駈寄つた。
『猪子先生?』丑松の目は喜悦(よろこび)の色で輝いたのである。
『多時(はあるか)待つて居なすつたが、お前が帰らねえもんだで。』と叔母は丑松の様子を眺め乍ら、『今々其処へ出て行きなすつた――ちよツくら、田圃(たんぼ)の方へ行つて見て来るツて。』斯う言つて、気を変へて、『一体彼(あ)の御客様は奈何(どう)いふ方だえ。』
『私の先生でさ。』と丑松は答へた。
『あれ、左様(さう)かつちや。』と叔母は呆れて、『そんならそのやうに、御礼を言ふだつたに。俺はへえ、唯お前の知つてる人かと思つた――だつて、御友達のやうにばかり言ひなさるから。』
 丑松は蓮太郎の跡を追つて、直に田圃の方へ出掛けようとしたが、丁度そこへ叔父も帰つて来たので、暫時(しばらく)上(あが)り端(はな)のところに腰掛けて休んだ。叔父は酷(ひど)く疲れたといふ風、家の内へ入るが早いか、『先づ、よかつた』を幾度と無く繰返した。何もかも今は無事に済んだ。葬式も。礼廻りも。斯ういふ思想(かんがへ)は奈何(どんな)に叔父の心を悦(よろこ)ばせたらう。『ああ――これまでに漕付(こぎつ)ける俺の心配といふものは。』斯う言つて、また思出したやうに安心の溜息を吐くのであつた。『全く、天の助けだぞよ。』と叔父は附加して言つた。
 平和な姫子沢の家の光景(ありさま)と、世の変遷(うつりかはり)も知らずに居る叔父夫婦の昔気質(むかしかたぎ)とは、丑松の心に懐旧の情を催さした。裏庭で鳴き交す鶏の声は、午後の乾燥(はしや)いだ空気に響き渡つて、一層長閑(のどか)な思を与へる。働好な、壮健(たつしや)な、人の好い、しかも子の無い叔母は、いつまでも児童(こども)のやうに丑松を考へて居るので、其児童扱(こどもあつか)ひが又、些少(すくな)からず丑松を笑はせた。『御覧やれ、まあ、あの手付なぞの阿爺(おやぢ)さんに克く似てることは。』と言つて笑つた時は、思はず叔母も涙が出た。叔父も一緒に成つて笑つた。其時叔母が汲んで呉れた渋茶の味の甘かつたことは。款待振(もてなしぶり)の田舎饅頭(ゐなかまんぢゆう)、その黒砂糖の餡(あん)の食ひ慣れたのも、可懐(なつか)しい少年時代を思出させる。故郷に帰つたといふ心地(こゝろもち)は、何よりも深く斯ういふ場合に、丑松の胸を衝(つ)いて湧上(わきあが)るのであつた。
『どれ、それでは行つて見て来ます。』
 と言つて家を出る。叔父も直ぐに随いて出た。何か用事ありげに呼留めたので、丑松は行かうとして振返つて見ると、霜葉(しもば)の落ちた柿の樹の下のところで、叔父は声を低くして
『他事(ほか)ぢやねえが、猪子で俺は思出した。以前(もと)師範校の先生で猪子といふ人が有つた。今日の御客様は彼人(あのひと)とは違ふか。』
『それですよ、その猪子先生ですよ。』と丑松は叔父の顔を眺め乍ら答へる。
『むゝ、左様(さう)かい、彼人かい。』と叔父は周囲(あたり)を眺め廻して、やがて一寸親指を出して見せて、『彼人は是(これ)だつて言ふぢやねえか――気を注(つ)けろよ。』
『はゝゝゝゝ。』と丑松は快活らしく笑つて、『叔父さん、其様(そん)なことは大丈夫です。』
 斯う言つて急いだ。

       (三)

『大丈夫です』とは言つたものゝ、其実丑松は蓮太郎だけに話す気で居る。先輩と自分と、唯二人――二度とは無い、斯(か)ういふ好い機会は。と其を考へると、丑松の胸はもう烈しく踊るのであつた。
 枯々とした草土手のところで、丑松は蓮太郎と一緒に成つた。聞いて見ると、先輩は細君を上田に残して置いて、其日の朝根津村へ入つたとのこと。連(つれ)は市村弁護士一人。尤(もつと)も弁護士は有権者を訪問する為に忙(せは)しいので、旅舎(やどや)で別れて、蓮太郎ばかり斯の姫子沢へ丑松を尋ねにやつて来た。都合あつて演説会は催さない。随つて斯の村で弁護士の政論を聞くことは出来ないが、そのかはり蓮太郎は丑松とゆつくり話せる。まあ、斯ういふ信濃の山の上で、温暖(あたゝか)な小春の半日を語り暮したいとのことである。
 其日のやうな楽しい経験――恐らく斯の心地(こゝろもち)は、丑松の身にとつて、さう幾度もあらうとは思はれなかつた程。日頃敬慕する先輩の傍に居て、其人の声を聞き、其人の笑顔を見、其人と一緒に自分も亦た同じ故郷の空気を呼吸するとは。丑松は唯話すばかりが愉快では無かつた。沈黙(だま)つて居る間にも亦た言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。まして、蓮太郎は――書いたものゝ上に表れたより、話して見ると又別のおもしろみの有る人で、容貌(かほつき)は厳(やかま)しいやうでも、存外情の篤(あつ)い、優しい、言はゞ極く平民的な気象を持つて居る。左様(さう)いふ風だから、後進の丑松に対しても城郭(へだて)を構へない。放肆(ほしいまゝ)に笑つたり、嘆息したりして、日あたりの好い草土手のところへ足を投出し乍ら、自分の病気の話なぞを為た。一度車に乗せられて、病院へ運ばれた時は、堪へがたい虚咳(からぜき)の後で、刻むやうにして喀血(かくけつ)したことを話した。今は胸も痛まず、其程の病苦も感ぜず、身体の上のことは忘れる位に元気づいて居る――しかし彼様(あゝ)いふ喀血が幾回もあれば、其時こそ最早(もう)駄目だといふことを話した。
 斯ういふ風に親しく言葉を交へて居る間にも、とは言へ、全く丑松は自分を忘れることが出来なかつた。『何時(いつ)例のことを切出さう。』その煩悶(はんもん)が胸の中を往つたり来たりして、一時(いつとき)も心を静息(やす)ませない。『あゝ、伝染(うつ)りはすまいか。』どうかすると其様(そん)なことを考へて、先輩の病気を恐しく思ふことも有る。幾度か丑松は自分で自分を嘲(あざけ)つた。
 千曲川(ちくまがは)沿岸の民情、風俗、武士道と仏教とがところ/″\に遺した中世の古蹟、信越線の鉄道に伴ふ山上の都会の盛衰、昔の北国街道の栄花(えいぐわ)、今の死駅の零落――およそ信濃路のさま/″\、それらのことは今二人の談話(はなし)に上つた。眼前(めのまへ)には蓼科(たてしな)、八つが嶽、保福寺(ほふくじ)、又は御射山(みさやま)、和田、大門などの山々が連つて、其山腹に横はる大傾斜の眺望は西東(にしひがし)に展(ひら)けて居た。青白く光る谷底に、遠く流れて行くは千曲川の水。丑松は少年の時代から感化を享(う)けた自然のこと、土地の案内にも委(くは)しいところからして、一々指差して語り聞かせる。蓮太郎は其話に耳を傾けて、熱心に眺め入つた。対岸に見える八重原の高原、そこに人家の煙の立ち登る光景(さま)は、殊に蓮太郎の注意を引いたやうであつた。丑松は又、谷底の平地に日のあたつたところを指差して見せて、水に添ふて散布するは、依田窪(よだくぼ)、長瀬、丸子(まりこ)などの村落であるといふことを話した。濃く青い空気に包まれて居る谷の蔭は、霊泉寺、田沢、別所などの温泉の湧くところ、農夫が群れ集る山の上の歓楽の地、よく蕎麦(そば)の花の咲く頃には斯辺(このへん)からも労苦を忘れる為に出掛けるものがあるといふことを話した。
 蓮太郎に言はせると、彼も一度は斯ういふ山の風景に無感覚な時代があつた。信州の景色は『パノラマ』として見るべきで、大自然が描いた多くの絵画の中では恐らく平凡といふ側に貶(おと)される程のものであらう――成程(なるほど)、大きくはある。然し深い風趣(おもむき)に乏しい――起きたり伏たりして居る波濤(なみ)のやうな山々は、不安と混雑とより外に何の感想(かんじ)をも与へない――それに対(むか)へば唯心が掻乱(かきみだ)されるばかりである。斯う蓮太郎は考へた時代もあつた。不思議にも斯の思想(かんがへ)は今度の旅行で破壊(ぶちこは)されて了(しま)つて、始めて山といふものを見る目が開(あ)いた。新しい自然は別に彼の眼前(めのまへ)に展けて来た。蒸(む)し煙(けぶ)る傾斜の気息(いき)、遠く深く潜む谷の声、活きもし枯れもする杜(もり)の呼吸、其間にはまた暗影と光と熱とを帯びた雲の群の出没するのも目に注(つ)いて、『平野は自然の静息、山嶽は自然の活動』といふ言葉の意味も今更のやうに思ひあたる。一概に平凡と擯斥(しりぞ)けた信州の風景は、『山気』を通して反(かへ)つて深く面白く眺められるやうになつた。
 斯ういふ蓮太郎の観察は、山を愛する丑松の心を悦(よろこ)ばせた。其日は西の空が開けて、飛騨(ひだ)の山脈を望むことも出来たのである。見れば斯の大谿谷のかなたに当つて、畳み重なる山と山との上に、更に遠く連なる一列の白壁。今年の雪も早や幾度か降り添ふたのであらう。その山々は午後の日をうけて、青空に映り輝いて、殆んど人の気魄(たましひ)を奪ふばかりの勢であつた。活々(いき/\)とした力のある山塊の輪郭と、深い鉛紫(えんし)の色を帯びた谷々の影とは、一層その眺望に崇高な趣を添へる。針木嶺、白馬嶽、焼嶽、鎗が嶽、または乗鞍嶽(のりくらがたけ)、蝶が嶽、其他多くの山獄の峻(けは)しく競(きそ)ひ立つのは其処だ。梓川、大白川なぞの源を発するのは其処だ。雷鳥の寂しく飛びかふといふのは其処だ。氷河の跡の見られるといふのは其処だ。千古人跡の到らないといふのは其処だ。あゝ、無言にして聳(そび)え立つ飛騨の山脈の姿、長久(とこしへ)に荘厳(おごそか)な自然の殿堂――見れば見る程、蓮太郎も、丑松も、高い気象を感ぜずには居られなかつたのである。殊に其日の空気はすこし黄に濁つて、十一月上旬の光に交つて、斯の広濶(ひろ)い谿谷(たにあひ)を盛んに煙(けぶ)るやうに見せた。長い間、二人は眺め入つた。眺め入り乍ら、互に山のことを語り合つた。

       (四)

 噫(あゝ)。幾度丑松は蓮太郎に自分の素性を話さうと思つたらう。昨夜なぞは遅くまで洋燈(ランプ)の下で其事を考へて、もし先輩と二人ぎりに成るやうな場合があつたなら、彼様(あゝ)言はうか、此様(かう)言はうかと、さま/″\の想像に耽(ふけ)つたのであつた。蓮太郎は今、丑松の傍に居る。さて逢(あ)つて見ると、言出しかねるもので、風景なぞのことばかり話して、肝心の思ふことは未(ま)だ話さなかつた。丑松は既に種々(いろ/\)なことを話して居乍ら、未だ何(なんに)も蓮太郎に話さないやうな気がした。
 夕飯の用意を命じて置いて来たからと、蓮太郎に誘はれて、丑松は一緒に根津の旅舎(やどや)の方へ出掛けて行つた。道々丑松は話しかけて、正直なところを言はう/\として見た。それを言つたら、自分の真情が深く先輩の心に通ずるであらう、自分は一層(もつと)先輩に親むことが出来るであらう、斯う考へて、其を言はうとして、言ひ得ないで、時々立止つては溜息を吐くのであつた。秘密――生死(いきしに)にも関はる真実(ほんたう)の秘密――仮令(たとひ)先方(さき)が同じ素性であるとは言ひ乍ら、奈何(どう)して左様(さう)容易(たやす)く告白(うちあ)けることが出来よう。言はうとしては躊躇(ちうちよ)した。躊躇しては自分で自分を責めた。丑松は心の内部(なか)で、懼(おそ)れたり、迷つたり、悶えたりしたのである。
 軈(やが)て二人は根津の西町の町はづれへ出た。石地蔵の佇立(たゝず)むあたりは、向町(むかひまち)――所謂(いはゆる)穢多町で、草葺(くさぶき)の屋造(やね)が日あたりの好い傾斜に添ふて不規則に並んで居る。中にも人目を引く城のやうな一郭(ひとかまへ)、白壁高く日に輝くは、例の六左衛門の住家(すみか)と知れた。農業と麻裏製造(あさうらづくり)とは、斯(こ)の部落に住む人々の職業で、彼の小諸の穢多町のやうに、靴、三味線、太鼓、其他獣皮に関したものの製造、または斃馬(へいば)の売買なぞに従事して居るやうな手合は一人も無い。麻裏はどの穢多の家(うち)でも作るので、『中抜き』と言つて、草履の表に用(つか)ふ美しい藁がところ/″\の垣根の傍に乾してあつた。丑松は其を見ると、瀬川の家の昔を思出した。小諸時代を思出した。亡くなつた母も、今の叔母も、克(よ)く其の『中抜き』を編んで居たことを思出した。自分も亦(ま)た少年の頃には、戸隠から来る『かはそ』(草履裏の麻)なぞを玩具(おもちや)にして、父の傍で麻裏造る真似をして遊んだことを思出した。
 六左衛門のことは、其時、二人の噂(うはさ)に上つた。蓮太郎はしきりに彼の穢多の性質や行為(おこなひ)やらを問ひ尋ねる。聞かれた丑松とても委敷(くはしく)は無いが、知つて居る丈(だけ)を話したのは斯うであつた。六左衛門の富は彼が一代に作つたもの。今日のやうな俄分限者(にはかぶげんしや)と成つたに就いては、甚(はなは)だ悪しざまに罵るものがある。慾深い上に、虚栄心の強い男で、金の力で成ることなら奈何(どん)な事でもして、何卒(どうか)して『紳士』の尊称を得たいと思つて居る程。恐らく上流社会の華(はな)やかな交際は、彼が見て居る毎日の夢であらう。孔雀の真似を為(す)る鴉(からす)の六左衛門が東京に別荘を置くのも其為である。赤十字社の特別社員に成つたのも其為である。慈善事業に賛成するのも其為である。書画骨董(こつとう)で身の辺(まはり)を飾るのも亦た其為である。彼程(あれほど)学問が無くて、彼程蔵書の多いものも鮮少(すくな)からう、とは斯界隈(このかいわい)での一つ話に成つて居る。
 斯ういふことを語り乍ら歩いて行くうちに、二人は六左衛門の家の前へ出て来た。丁度午後の日を真面(まとも)にうけて、宏壮(おほき)な白壁は燃える火のやうに見える。建物幾棟(いくむね)かあつて、長い塀(へい)は其周囲(まはり)を厳(いかめ)しく取繞(とりかこ)んだ。新平民の子らしいのが、七つ八つを頭(かしら)にして、何か『めんこ』の遊びでもして、其塀の外に群り集つて居た。中には頬の紅(あか)い、眼付の愛らしい子もあつて、普通の家の小供と些少(すこし)も相違の無いのがある。中には又、卑しい、愚鈍(おろか)しい、どう見ても日蔭者の子らしいのがある。是れを眺めても、穢多の部落が幾通りかの階級に別れて居ることは知れた。親らしい男は馬を牽(ひ)いて、其小供の群に声を掛けて通り、姉らしい若い女は細帯を巻付けた儘(まゝ)で、いそ/\と二人の側を影のやうに擦抜(すりぬ)けた。斯うして無智と零落とを知らずに居る穢多町の空気を呼吸するといふことは、可傷(いたま)しいとも、恥かしいとも、腹立たしいとも、名のつけやうの無い思をさせる。『吾儕(われ/\)を誰だと思ふ。』と丑松は心に憐んで、一時(いつとき)も早く是処を通過ぎて了(しま)ひたいと考へた。
『先生――行かうぢや有ませんか。』
 と丑松はそこに佇立(たゝず)み眺(なが)めて居る蓮太郎を誘ふやうにした。
『見たまへ、まあ、斯の六左衛門の家(うち)を。』と蓮太郎は振返つて、『何処(どこ)から何処まで主人公の性質を好く表してるぢや無いか。つい二三日前、是の家に婚礼が有つたといふ話だが、君は其様(そん)な噂(うはさ)を聞かなかつたかね。』
『婚礼?』と丑松は聞咎(きゝとが)める。
『その婚礼が一通りの婚礼ぢや無い――多分彼様(あゝ)いふのが政治的結婚とでも言ふんだらう。はゝゝゝゝ。政事家の為(す)ることは違つたものさね。』
『先生の仰(おつしや)ることは私に能(よ)く解りません。』
『花嫁は君、斯の家の娘さ。御聟(おむこ)さんは又、代議士の候補者だから面白いぢやないか――』
『ホウ、代議士の候補者? まさか彼の一緒に汽車に乗つて来た男ぢや有ますまい。』
『それさ、その紳士さ。』
『へえ――』と丑松は眼を円くして、『左様(さう)ですかねえ――意外なことが有れば有るものですねえ――』
『全く、僕も意外さ。』といふ蓮太郎の顔は輝いて居たのである。
『しかし何処で先生は其様(そん)なことを御聞きでしたか。』
『まあ、君、宿屋へ行つて話さう。』


   第九章

       (一)

 一軒、根津の塚窪(つかくぼ)といふところに、未(ま)だ会葬の礼に泄(も)れた家が有つて、丁度序(ついで)だからと、丑松は途中で蓮太郎と別れた。蓮太郎は旅舎(やどや)へ。直に後から行く約束して、丑松は畠中の裏道を辿(たど)つた。塚窪の坂の下まで行くと、とある農家の前に一人の飴屋(あめや)、面白可笑(をか)しく唐人笛(たうじんぶえ)を吹立てゝ、幼稚(をさな)い客を呼集めて居る。御得意と見えて、声を揚げて飛んで来る男女(をとこをんな)の少年もあつた――彼処(あすこ)からも、是処(こゝ)からも。あゝ、少年の空想を誘ふやうな飴屋の笛の調子は、どんなに頑是(ぐわんぜ)ないものゝ耳を楽ませるであらう。いや、買ひに集る子供ばかりでは無い、丑松ですら思はず立止つて聞いた。妙な癖で、其笛を聞く度に、丑松は自分の少年時代を思出さずに居られないのである。
 何を隠さう――丑松が今指して行く塚窪の家には、幼馴染(をさななじみ)が嫁(かたづ)いて居る。お妻といふのが其女の名である。お妻の生家(さと)は姫子沢に在つて、林檎畠一つ隔(へだ)てゝ、丑松の家の隣に住んだ。丑松がお妻と遊んだのは、九歳(こゝのつ)に成る頃で、まだ瀬川の一家族が移住して来て間も無い当時のことであつた。もと/\お妻の父といふは、上田の在から養子に来た男、根が苦労人ではあり、他所者(よそもの)でもあり、するところからして、自然(おのづ)と瀬川の家にも後見(うしろみ)と成つて呉れた。それに、丑松を贔顧(ひいき)にして、伊勢詣(いせまうで)に出掛けた帰途(かへりみち)なぞには、必ず何か買つて来て呉れるといふ風であつた。斯ういふ隣同志の家の子供が、互ひに遊友達と成つたは不思議でも何でも無い。のみならず、二人は丁度同い年であつたのである。
 楽しい追憶(おもひで)の情は、唐人笛の音を聞くと同時に、丑松の胸の中に湧上(わきあが)つて来た。朦朧(おぼろげ)ながら丑松は幼いお妻の俤(おもかげ)を忘れずに居る。はじめて自分の眼に映つた少女(をとめ)の愛らしさを忘れずに居る。あの林檎畠が花ざかりの頃は、其枝の低く垂下つたところを彷徨(さまよ)つて、互ひに無邪気な初恋の私語(さゝやき)を取交したことを忘れずに居る。僅かに九歳(こゝのつ)の昔、まだ夢のやうなお伽話(とぎばなし)の時代――他のことは多く記憶にも残らない程であるが、彼の無垢(むく)な情緒(こゝろもち)ばかりは忘れずに居る。尤(もつと)も、幼い二人の交際(まじはり)は長く続かなかつた。不図(ふと)丑松はお妻の兄と親しくするやうに成つて、それぎり最早(もう)お妻とは遊ばなかつた。
 お妻が斯(こ)の塚窪へ嫁(かたづ)いて来たは、十六の春のこと。夫といふのも丑松が小学校時代の友達で、年齢(とし)は三人同じであつた。田舎(ゐなか)の習慣(ならはし)とは言ひ乍ら、殊(こと)に彼の夫婦は早く結婚した。まだ丑松が師範校の窓の下で歴史や語学の研究に余念も無い頃に、もう彼の若い夫婦は幼いものに絡(まと)ひ付かれ、朝に晩に『父さん、母さん』と呼ばれて居たのであつた。
 斯(か)ういふ過去の歴史を繰返したり、胸を踊らせたりして、丑松は坂を上つて行つた。山の方から溢(あふ)れて来る根津川の支流は、清く、浅く、家々の前を奔(はし)り流れて居る。路傍(みちばた)の栗の梢(こずゑ)なぞ、早や、枯れ/″\。柿も一葉を留めない程。水草ばかりは未だ青々として、根を浸すありさまも心地よく見られる。冬籠(ふゆごもり)の用意に多忙(いそが)しい頃で、人々はいづれも流のところに集つて居た。余念も無く蕪菜(かぶな)を洗ふ女の群の中に、手拭に日を避(よ)け、白い手をあらはし、甲斐々々(かひ/″\)しく働く襷掛(たすきが)けの一人――声を掛けて見ると、それがお妻で、丑松は斯の幼馴染の様子の変つたのに驚いて了(しま)つた。お妻も亦た驚いたやうであつた。
 其日はお妻の夫も舅(しうと)も留守で、家に居るのは唯姑(しうとめ)ばかり。五人も子供が有ると聞いたが、年嵩(としかさ)なのが見えないは、大方遊びにでも行つたものであらう。五歳(いつゝ)ばかりを頭(かしら)に、三人の女の児は母親に倚添(よりそ)つて、恥かしがつて碌(ろく)に御辞儀(おじぎ)も為なかつた。珍しさうに客の顔を眺めるもあり、母親の蔭に隠れるもあり、漸(やうや)く歩むばかりの末の児は、見慣(みな)れぬ丑松を怖れたものか、軈(やが)てしく/\やり出すのであつた。是光景(ありさま)に、姑も笑へば、お妻も笑つて、『まあ、可笑(をか)しな児だよ、斯の児は。』と乳房を出して見せる。それを咬(くは)へて、泣吃逆(なきじやつくり)をし乍(なが)ら、密(そつ)と丑松の方を振向いて見て居る児童(こども)の様子も愛らしかつた。
 話好きな姑は一人で喋舌(しやべ)つた。お妻は茶を入れて丑松を款待(もてな)して居たが、流石(さすが)に思出したことも有ると見えて、
『そいつても、まあ、丑松さんの大きく御成(おなん)なすつたこと。』
 と言つて、客の顔を眺(なが)めた時は、思はず紅(あか)くなつた。
 会葬の礼を述べた後、丑松はそこ/\にして斯の家を出た。姑と一緒に、お妻も亦(ま)た門口に出て、客の後姿を見送るといふ様子。今更のやうに丑松は自他(われひと)の変遷(うつりかはり)を考へて、塚窪の坂を上つて行つた。彼の世帯染みた、心の好ささうな、何処(どこ)やら床(ゆか)しいところのあるお妻は――まあ、忘れずに居る其俤に比べて見ると、全く別の人のやうな心地(こゝろもち)もする。自分と同い年で、しかも五人子持――あれが幼馴染(をさななじみ)のお妻であつたかしらん、と時々立止つて嘆息した。
 斯ういふ追懐(おもひで)の情は、とは言へ、深く丑松の心を傷けた。平素(しよつちゆう)もう疑惧(うたがひ)の念を抱いて苦痛(くるしみ)の為に刺激(こづ)き廻されて居る自分の今に思ひ比べると、あの少年の昔の楽しかつたことは。噫、何にも自分のことを知らないで、愛らしい少女(をとめ)と一緒に林檎畠を彷徨(さまよ)つたやうな、楽しい時代は往(い)つて了(しま)つた。もう一度丑松は左様(さう)いふ時代の心地(こゝろもち)に帰りたいと思つた。もう一度丑松は自分が穢多であるといふことを忘れて見たいと思つた。もう一度丑松は彼の少年の昔と同じやうに、自由に、現世(このよ)の歓楽(たのしみ)の香を嗅いで見たいと思つた。斯う考へると、切ない慾望(のぞみ)は胸を衝(つ)いて春の潮のやうに湧き上る。穢多としての悲しい絶望、愛といふ楽しい思想(かんがへ)、そんなこんなが一緒に交つて、若い生命(いのち)を一層(ひとしほ)美しくして見せた。終(しまひ)には、あの蓮華寺のお志保のことまでも思ひやつた。活々とした情の為に燃え乍ら、丑松は蓮太郎の旅舎(やどや)を指して急いだのである。

       (二)

 御泊宿、吉田屋、と軒行燈(のきあんどん)に記してあるは、流石(さすが)に古い街道の名残(なごり)。諸国商人の往来もすくなく、昔の宿はいづれも農家となつて、今はこの根津村に二三軒しか旅籠屋(はたごや)らしいものが残つて居ない。吉田屋は其一つ、兎角(とかく)商売も休み勝ち、客間で秋蚕(しうこ)飼ふ程の時世と変りはてた。とは言ひ乍ら、寂(さび)れた中にも風情(ふぜい)のあるは田舎(ゐなか)の古い旅舎(やどや)で、門口に豆を乾並べ、庭では鶏も鳴き、水を舁(かつ)いで風呂場へ通ふ男の腰付もをかしいもの。炉(ろ)で焚(た)く『ぼや』の火は盛んに燃え上つて、無邪気な笑声が其周囲(まはり)に起るのであつた。
『左様(さう)だ――例のことを話さう。』
 と丑松は自分で自分に言つた。吉田屋の門口へ入つた時は、其思想(かんがへ)が復(ま)た胸の中を往来したのである。
 案内されて奥の方の座敷へ通ると、蓮太郎一人で、弁護士は未だ帰らなかつた。額、唐紙、すべて昔の風を残して、古びた室内の光景(さま)とは言ひ乍ら、談話(はなし)を為(す)るには至極静かで好かつた。火鉢に炭を加へ、其側に座蒲団を敷いて、相対(さしむかひ)に成つた時の心地(こゝろもち)は珍敷(めづらし)くもあり、嬉敷(うれし)くもあり、蓮太郎が手づから入れて呉れる茶の味は又格別に思はれたのである。其時丑松は日頃愛読する先輩の著述を数へて、始めて手にしたのが彼(あ)の大作、『現代の思潮と下層社会』であつたことを話した。『貧しきものゝなぐさめ』、『労働』、『平凡なる人』、とり/″\に面白く味(あぢは)つたことを話した。丑松は又、『懴悔録』の広告を見つけた時の喜悦(よろこび)から、飯山の雑誌屋で一冊を買取つて、其を抱いて内容(なかみ)を想像し乍ら下宿へ帰つた時の心地(こゝろもち)、読み耽つて心に深い感動を受けたこと、社会(よのなか)といふものゝ威力(ちから)を知つたこと、さては其著述に顕(あら)はれた思想(かんがへ)の新しく思はれたことなぞを話した。
 蓮太郎の喜悦(よろこび)は一通りで無かつた。軈て風呂が湧いたといふ案内をうけて、二人して一緒に入りに行つた時も、蓮太郎は其を胸に浮べて、かねて知己とは思つて居たが、斯(か)う迄自分の書いたものを読んで呉れるとは思はなかつたと、丑松の熱心を頼母(たのも)しく考へて居たらしいのである。病が病だから、蓮太郎の方では遠慮する気味で、其様(そん)なことで迷惑を掛けたく無い、と健康(たつしや)なものゝ知らない心配は絶えず様子に表はれる。斯うなると丑松の方では反(かへ)つて気の毒になつて、病の為に先輩を恐れるといふ心は何処へか行つて了つた。話せば話すほど、哀憐(あはれみ)は恐怖(おそれ)に変つたのである。
 風呂場の窓の外には、石を越して流下る水の声もおもしろく聞えた。透(す)き澄(とほ)るばかりの沸(わか)し湯(ゆ)に身体を浸し温めて、しばらく清流の響に耳を嬲(なぶ)らせる其楽しさ。夕暮近い日の光は窓からさし入つて、蒸(む)し烟(けぶ)る風呂場の内を朦朧(もうろう)として見せた。一ぱい浴びて流しのところへ出た蓮太郎は、湯気に包まれて燃えるかのやう。丑松も紅(あか)くなつて、顔を伝ふ汗の熱さに暫時(しばらく)世の煩(わづら)ひを忘れた。
『先生、一つ流しませう。』と丑松は小桶(こをけ)を擁(かゝ)へて蓮太郎の背後(うしろ)へ廻る。
『え、流して下さる?』と蓮太郎は嬉しさうに、『ぢやあ、願ひませうか。まあ君、ざつと遣つて呉れたまへ。』
 斯うして丑松は、日頃慕つて居る其人に近いて、奈何(どう)いふ風に考へ、奈何いふ風に言ひ、奈何いふ風に行ふかと、すこしでも蓮太郎の平生を見るのが楽しいといふ様子であつた。急に二人は親密(したしみ)を増したやうな心地(こゝろもち)もしたのである。
『さあ、今度は僕の番だ。』
 と蓮太郎は湯を汲出(かいだ)して言つた。幾度か丑松は辞退して見た。
『いえ、私は沢山です。昨日入つたばかりですから。』と復(ま)た辞退した。
『昨日は昨日、今日は今日さ。』と蓮太郎は笑つて、『まあ、左様(さう)遠慮しないで、僕にも一つ流させて呉れたまへ。』
『恐れ入りましたなあ。』
『どうです、瀬川君、僕の三助もなか/\巧いものでせう――はゝゝゝゝ。』と戯れて、やがて蓮太郎はそこに在る石鹸(シャボン)を溶いて丑松の背中へつけて遣り乍ら、『僕がまだ長野に居る時分、丁度修学旅行が有つて、生徒と一緒に上州の方へ出掛けたことが有りましたツけ。まだ覚えて居るが、彼(あ)の時の投票は、僕がそれ大食家さ。しかし大食家と言はれる位に、彼の頃は壮健(たつしや)でしたよ。それからの僕の生涯は、実に種々(いろ/\)なことが有ましたねえ。克(よ)くまあ僕のやうな人間が斯うして今日迄生きながらへて来たやうなものさ。』
『先生、もう沢山です。』
『何だねえ、今始めたばかりぢや無いか。まだ、君、垢が些少(ちつと)も落ちやしない。』
 と蓮太郎は丁寧に丑松の背中を洗つて、終(しまひ)に小桶の中の温い湯を掛けてやつた。遣ひ捨ての湯水は石鹸の泡に交つて、白くゆるく板敷の上を流れて行つた。
『君だから斯様(こん)なことを御話するんだが、』と蓮太郎は思出したやうに、『僕は仲間のことを考へる度に、実に情ないといふ心地(こゝろもち)を起さずには居られない。御恥しい話だが、思想の世界といふものは、未だ僕等の仲間には開けて居ないのだね。僕があの師範校を出た頃には、それを考へて、随分暗い月日を送つたことも有ましたよ。病気になつたのも、実は其結果さ。しかし病気の為に、反(かへ)つて僕は救はれた。それから君、考へてばかり居ないで、働くといふ気になつた。ホラ、君の読んで下すつたといふ「現代の思潮と下層社会」――あれを書く頃なぞは、健康(たつしや)だといふ日は一日も無い位だつた。まあ、後日新平民のなかに面白い人物でも生れて来て、あゝ猪子といふ男は斯様(こん)なものを書いたかと、見て呉れるやうな時が有つたら、それでもう僕なぞは満足するんだねえ。むゝ、その踏台さ――それが僕の生涯(しやうがい)でもあり、又希望(のぞみ)でもあるのだから。』

       (三)

 言はう/\と思ひ乍ら、何か斯(か)う引止められるやうな気がして、丑松は言はずに風呂を出た。まだ弁護士は帰らなかつた。夕飯の用意にと、蓮太郎が宿へ命じて置いたは千曲川の鮠(はや)、それは上田から来る途中で買取つたとやらで、魚田楽(ぎよでん)にこしらへさせて、一緒に初冬の河魚の味を試みたいとのこと。仕度するところと見え、摺鉢(すりばち)を鳴らす音は台所の方から聞える。炉辺(ろばた)で鮠の焼ける香は、ぢり/\落ちて燃える魚膏(あぶら)の煙に交つて、斯の座敷までも甘(うま)さうに通つて来た。
 蓮太郎は鞄(かばん)の中から持薬を取出した。殊に湯上りの顔色は病気のやうにも見えなかつた。嗅ぐともなしに『ケレオソオト』のにほひを嗅いで見て、軈(やが)て高柳のことを言出す。
『して見ると、瀬川君はあの男と一緒に飯山を御出掛でしたね。』
『どうも不思議だとは思ひましたよ。
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