破戒
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著者名:島崎藤村 

『今、また阿爺(おやぢ)の声がした。』
『今? 何にも聞えやしなかつたぢやないか。』
『ホウ、左様(さう)かねえ。』
『左様かねえもないもんだ。何(なんに)も声なぞは聞えやしないよ。』と言つて、銀之助は敬之進の方へ向いて、『風間さん、奈何(どう)でした――何か貴方には聞えましたか。』
『いゝえ。』と敬之進も力を入れた。
『ホウラ。風間さんにも聞えなければ、僕にも聞えない。聞いたのは、唯君ばかりだ。神経、神経――どうしても其に相違ない。』
 斯う言つて、軈て銀之助はあちこちと闇を照らして見た。天は今僅かに星の映る鏡、地は今大な暗い影のやう。一つとして声のありさうなものが、手提洋燈の光に入るでもなかつた。『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑ひ出して、『まあ、僕は耳に聞いたつて信じられない。目に見たつて信じられない。手に取つて、触(さは)つて見て、それからでなければ其様(そん)なことは信じられない。いよ/\こりやあ、僕の観察の通りだ。生理的に其様な声が聞えたんだ。はゝゝゝゝ。それはさうと、馬鹿に寒く成つて来たぢやないか。僕は最早(もう)斯うして立つて居られなくなつた――行かう。』

       (三)

 其晩、寝床へ入つてからも、丑松は父と先輩とのことを考へて、寝られなかつた。銀之助は直にもう高鼾(たかいびき)。どんなに丑松は傍に枕を並べて居る友達の寝顔を熟視(みまも)つて、その平穏(おだやか)な、安静(しづか)な睡眠(ねむり)を羨んだらう。夜も更(ふ)けた頃、むつくと寝床から跳起(はねお)きて、一旦細くした洋燈(ランプ)を復た明くしながら、蓮太郎に宛てた手紙を書いて見た。今はこの病気見舞すら人目を憚(はゞか)つて認(したゝ)める程に用心したのである。時々丑松は書きかけた筆を止めて、洋燈の光に友達の寝顔を窺つて見ると、銀之助は死んだ魚のやうに大な口を開いて、前後も知らず熟睡して居た。
 全く丑松は蓮太郎を知らないでも無かつた。人の紹介で逢つて見たことも有るし、今歳(ことし)になつて二三度手紙の往復(とりやり)もしたので、幾分(いくら)か互ひの心情(こゝろもち)は通じた。然し、蓮太郎は篤志な知己として丑松のことを考へて居るばかり、同じ素性の青年とは夢にも思はなかつた。丑松もまた、其秘密ばかりは言ふことを躊躇(ちうちよ)して居る。だから何となく奥歯に物が挾まつて居るやうで、其晩書いた丑松の手紙にも十分に思つたことが表れない。何故(なぜ)是程(これほど)に慕つて居るか、其さへ書けば、他の事はもう書かなくても済(す)む。あゝ――書けるものなら丑松も書く。其を書けないといふのは、丑松の弱点で、とう/\普通の病気見舞と同じものに成つて了つた。『東京にて、猪子蓮太郎先生、瀬川丑松より』と認(したゝ)め終つた時は、深く/\良心(こゝろ)を偽(いつは)るやうな気がした。筆を投(なげう)つて、嘆息して、復(ま)た冷い寝床に潜り込んだが、少許(すこし)とろ/\としたかと思ふと、直に恐しい夢ばかり見つゞけたのである。
 翌朝のことであつた。蓮華寺の庄馬鹿が学校へやつて来て、是非丑松に逢ひたいと言ふ。『何の用か』を小使に言はせると、『御目に懸つて御渡ししたいものが御座(ござい)ます』とか。出て行つて玄関のところで逢へば、庄馬鹿は一通の電報を手渡しした。不取敢(とりあへず)開封して読下して見ると、片仮名の文字も簡短に、父の死去したといふ報知(しらせ)が書いてあつた。突然のことに驚いて了つて、半信半疑で繰返した。確かに死去の報知には相違なかつた。発信人は根津の叔父。『直ぐ帰れ』としてある。
『それはどうも飛んだことで、嘸(さぞ)御力落しで御座ませう――はい、早速帰りまして、奥様にも申上げまするで御座ます。』
 斯(か)う庄馬鹿が言つた。小児(こども)のやうに死を畏れるといふ様子は、其愚(おろか)しい目付に顕(あら)はれるのであつた。
 丑松の父といふは、日頃極めて壮健な方で、激烈(はげ)しい気候に遭遇(であ)つても風邪一つ引かず、巌畳(がんでふ)な体躯(からだ)は反(かへ)つて壮夫(わかもの)を凌(しの)ぐ程の隠居であつた。牧夫の生涯(しやうがい)といへばいかにも面白さうに聞えるが、其実普通の人に堪へられる職業では無いのであつて、就中(わけても)西乃入の牧場の牛飼などと来ては、『彼(あ)の隠居だから勤まる』と人にも言はれる程。牛の性質を克(よ)く暗記して居るといふ丈では、所詮(しよせん)あの烏帽子(ゑぼし)ヶ嶽(だけ)の深い谿谷(たにあひ)に長く住むことは出来ない。気候には堪へられても、寂寥(さびしさ)には堪へられない。温暖(あたゝか)い日の下に産れて忍耐の力に乏しい南国の人なぞは、到底斯(か)ういふ山の上の牧夫に適しないのである。そこはそれ、北部の信州人、殊に丑松の父は素朴な、勤勉な、剛健な気象で、労苦を労苦とも思はない上に、別に人の知らない隠遁の理由をも持つて居た。思慮の深い父は丑松に一生の戒を教へたばかりで無く、自分も亦た成るべく人目につかないやうに、と斯う用心して、子の出世を祈るより外にもう希望(のぞみ)もなければ慰藉(なぐさめ)もないのであつた。丑松のため――其を思ふ親の情からして、人里遠い山の奥に浮世を離れ、朝夕炭焼の煙りを眺め、牛の群を相手に寂しい月日を送つて来たので。月々丑松から送る金の中から好(すき)な地酒を買ふといふことが、何よりの斯(この)牧夫のたのしみ。労苦も寂寥(さびしさ)も其の為に忘れると言つて居た。斯ういふ阿爺(おやぢ)が――まあ、鋼鉄のやうに強いとも言ひたい阿爺が、病気の前触(まへぶれ)も無くて、突然死去したと言つてよこしたとは。
 電報は簡短で亡くなつた事情も解らなかつた。それに、父が牧場の番小屋に上るのは、春雪の溶け初める頃で、また谷々が白く降り埋(うづ)められる頃になると、根津村の家へ下りて来る毎年(まいとし)の習慣である。もうそろ/\冬籠りの時節。考へて見れば、亡くなつた場処は、西乃入か、根津か、其すら斯電報では解らない。
 しかし、其時になつて、丑松は昨夜(ゆうべ)の出来事を思出した。あの父の呼声を思出した。あの呼声が次第に遠く細くなつて、別離(わかれ)を告げるやうに聞えたことを思出した。
 斯の電報を銀之助に見せた時は、流石(さすが)の友達も意外なといふ感想(かんじ)に打たれて、暫時(しばらく)茫然(ぼんやり)として突立つた儘(まゝ)、丑松の顔を眺めたり、死去の報告(しらせ)を繰返して見たりした。軈(やが)て銀之助は思ひついたやうに、
『むゝ、根津には君の叔父さんがあると言つたツけねえ。左様(さう)いふ叔父さんが有れば、万事見ては呉れたらう。しかし気の毒なことをした。なにしろ、まあ早速帰る仕度をしたまへ。学校の方は、君、奈何(どう)にでも都合するから。』
 斯う言つて呉れる友達の顔には真実が輝き溢(あふ)れて居た。たゞ銀之助は一語(ひとこと)も昨夜のことを言出さなかつたのである。『死は事実だ――不思議でも何でも無い』と斯(こ)の若い植物学者は眼で言つた。
 校長は時刻を違(たが)へず出勤したので、早速この報知(しらせ)を話した。丑松は直にこれから出掛けて行きたいと話した。留守中何分宜敷(よろしく)、受持の授業のことは万事銀之助に頼んで置いたと話した。
『奈何(どんな)にか君も吃驚(びつくり)なすつたでせう。』と校長は忸々敷(なれ/\しい)調子で言つた。『学校の方は君、土屋君も居るし、勝野君も居るし、其様(そん)なことはもう少許(すこし)も御心配なく。実に我輩も意外だつた、君の父上(おとつ)さんが亡(な)くならうとは。何卒(どうか)、まあ、彼方(あちら)の御用も済み、忌服(きぶく)でも明けることになつたら、また学校の為に十分御尽力を願ひませう。吾儕(われ/\)の事業(しごと)が是丈(これだけ)に揚つて来たのも、一つは君の御骨折からだ。斯うして君が居て下さるんで、奈何(どんな)にか我輩も心強いか知れない。此頃(こなひだ)も或処で君の評判を聞いて来たが、何だか斯う我輩は自分を褒められたやうな心地(こゝろもち)がした。実際、我輩は君を頼りにして居るのだから。』と言つて気を変へて、『それにしても、出掛けるとなると、思つたよりは要(かゝ)るものだ。少許位(すこしぐらゐ)は持合せも有ますから、立替へて上げても可(いゝ)のですが、どうです少許(すこし)御持ちなさらんか。もし御入用(おいりよう)なら遠慮なく言つて下さい。足りないと、また困りますよ。』
 と言ふ校長の言葉はいかにも巧みであつた。しかし丑松の耳には唯わざとらしく聞えたのである。
『瀬川君、それでは届を忘れずに出して行つて下さい――何も規則ですから。』
 斯う校長は添加(つけた)して言つた。

       (四)

 丑松が急いで蓮華寺へ帰つた時は、奥様も、お志保も飛んで出て来て、電報の様子を問ひ尋ねた。奈何(どんな)に二人は丑松の顔を眺めて、この可傷(いたま)しい報知(しらせ)の事実を想像したらう。奈何に二人は昨夜の不思議な出来事を聞取つて、女心に恐しくあさましく考へたらう。奈何に二人は世にある多くの例(ためし)を思出して、死を告げる前兆(しらせ)、逢ひに来る面影、または闇を飛ぶといふ人魂(ひとだま)の迷信なぞに事寄せて、この暗合した事実に胸を騒がせたらう。
『それはさうと、』と奥様は急に思付いたやうに、『まだ貴方は朝飯前でせう。』
『あれ、左様(さう)でしたねえ。』とお志保も言葉を添へた。
『瀬川さん。そんなら準備(したく)して御出(おいで)なすつて下さい。今直に御飯にいたしますから。是(これ)から御出掛なさるといふのに、生憎(あいにく)何にも無くて御気の毒ですねえ――塩鮭(しほびき)でも焼いて上げませうか。』
 奥様はもう涙ぐんで、蔵裏(くり)の内をぐる/\廻つて歩いた。長い年月の精舎(しやうじや)の生活は、この女の性質を感じ易く気短くさせたのである。
『なむあみだぶ。』
 と斯(こ)の有髪(うはつ)の尼(あま)は独語(ひとりごと)のやうに唱へて居た。
 丑松は二階へ上つて大急ぎで旅の仕度をした。場合が場合、土産も買はず、荷物も持たず、成るべく身軽な装(なり)をして、叔母の手織の綿入を行李(かうり)の底から出して着た。丁度そこへ足を投出して、脚絆(きやはん)を着けて居るところへ、下女の袈裟治に膳を運ばせて、つゞいて入つて来たのはお志保である。いつも飯櫃(めしびつ)は出し放し、三度が三度手盛りでやるに引きかへ、斯うして人に給仕して貰ふといふは、嬉敷(うれしく)もあり、窮屈でもあり、無造作に膳を引寄せて、丑松はお志保につけて貰つて食つた。其日はお志保もすこし打解けて居た。いつものやうに丑松を恐れる様子も見えなかつた。敬之進の境涯を深く憐むといふ丑松の真実が知れてから、自然と思惑(おもはく)を憚(はゞか)る心も薄らいで、斯うして給仕して居る間にも種々(いろ/\)なことを尋ねた。お志保はまた丑松の母のことを尋ねた。
『母ですか。』と丑松は淡泊(さつぱり)とした男らしい調子で、『亡くなつたのは丁度私が八歳(やつつ)の時でしたよ。八歳といへば未だほんの小供ですからねえ。まあ、私は母のことを克(よ)く覚えても居ない位なんです――実際母親といふものゝ味を真実(ほんたう)に知らないやうなものなんです。父親(おやぢ)だつても、矢張左様(さう)で、この六七年の間は一緒に長く居て見たことは有ません。いつでも親子はなれ/″\。実は父親も最早(もう)好い年でしたからね――左様(さう)ですなあ貴方の父上(おとつ)さんよりは少許(すこし)年長(うへ)でしたらう――彼様(あゝ)いふ風に平素(ふだん)壮健(たつしや)な人は、反(かへ)つて病気なぞに罹(かゝ)ると弱いのかも知れませんよ。私なぞは、ですから、親に縁の薄い方の人間なんでせう。と言へば、まあお志保さん、貴方だつても其御仲間ぢや有ませんか。』
 斯(こ)の言葉はお志保の涙を誘ふ種となつた。あの父親とは――十三の春に是寺へ貰はれて来て、それぎり最早(もう)一緒に住んだことがない。それから、あの生(うみ)の母親とは――是はまた子供の時分に死別れて了つた。親に縁の薄いとは、丁度お志保の身の上でもある。お志保は自分の家の零落を思出したといふ風で、すこし顔を紅(あか)くして、黙つて首を垂れて了つた。
 そのお志保の姿を注意して見ると、亡くなつた母親といふ人も大凡(おほよそ)想像がつく。『彼娘(あのこ)の容貌(かほつき)を見ると直(すぐ)に前(せん)の家内が我輩の眼に映る』と言つた敬之進の言葉を思出して見ると、『昔風に亭主に便(たよる)といふ風で、どこまでも我輩を信じて居た』といふ女の若い時は――いづれこのお志保と同じやうに、情の深い、涙脆(なみだもろ)い、見る度に別の人のやうな心地(こゝろもち)のする、姿ありさまの種々(いろ/\)に変るやうな人であつたに相違ない。いづれこのお志保と同じやうに、醜くも見え、美しくも見え、ある時は蒼く黄ばんで死んだやうな顔付をして居るかと思ふと、またある時は花のやうに白い中(うち)にも自然と紅味(あかみ)を含んで、若く、清く、活々とした顔付をして居るやうな人であつたに相違ない。まあ、お志保を通して想像した母親の若い時の俤(おもかげ)は斯(か)うであつた。快活な、自然な信州北部の女の美質と特色とは、矢張丑松のやうな信州北部の男子(をとこ)の眼に一番よく映るのである。
 旅の仕度が出来た後、丑松はこの二階を下りて、蔵裏(くり)の広間のところで皆(みんな)と一緒に茶を飲んだ。新しい木製の珠数(じゆず)、それが奥様からの餞別であつた。やがて丑松は庄馬鹿の手作りにしたといふ草鞋(わらぢ)を穿(は)いて、人々のなさけに見送られて蓮華寺の山門を出た。


   第七章

       (一)

 それは忘れることの出来ないほど寂しい旅であつた。一昨年(をとゝし)の夏帰省した時に比べると、斯(か)うして千曲川(ちくまがは)の岸に添ふて、可懐(なつか)しい故郷の方へ帰つて行く丑松は、まあ自分で自分ながら、殆んど別の人のやうな心地がする。足掛三年、と言へば其程長い月日とも聞えないが、丑松の身に取つては一生の変遷(うつりかはり)の始つた時代で――尤(もつと)も、人の境遇によつては何時変つたといふことも無しに、自然に世を隔てたやうな感想(かんじ)のするものもあらうけれど――其精神(こゝろ)の内部(なか)の革命が丑松には猛烈に起つて来て、しかも其を殊に深く感ずるのである。今は誰を憚(はゞか)るでも無い身。乾燥(はしや)いだ空気を自由に呼吸して、自分のあやしい運命を悲しんだり、生涯の変転に驚いたりして、無限の感慨に沈み乍(なが)ら歩いて行つた。千曲川の水は黄緑の色に濁つて、声も無く流れて遠い海の方へ――其岸に蹲(うづくま)るやうな低い楊柳(やなぎ)の枯々となつた光景(さま)――あゝ、依然として旧(もと)の通りな山河の眺望は、一層丑松の目を傷(いた)ましめた。時々丑松は立留つて、人目の無い路傍(みちばた)の枯草の上に倒れて、声を揚げて慟哭(どうこく)したいとも思つた。あるひは、其を為(し)たら、堪へがたい胸の苦痛(いたみ)が少許(すこし)は減つて軽く成るかとも考へた。奈何(いかん)せん、哭(な)きたくも哭くことの出来ない程、心は重く暗く閉塞(とぢふさが)つて了つたのである。
 漂泊する旅人は幾群か丑松の傍(わき)を通りぬけた。落魄の涙に顔を濡して、餓(う)ゑた犬のやうに歩いて行くものもあつた。何か職業を尋ね顔に、垢染(あかじ)みた着物を身に絡(まと)ひ乍ら、素足の儘(まゝ)で土を踏んで行くものもあつた。あはれげな歌を歌ひ、鈴振鳴らし、長途の艱難を修行の生命(いのち)にして、日に焼けて罪滅(つみほろぼ)し顔な巡礼の親子もあつた。または自堕落な編笠姿(あみがさすがた)、流石(さすが)に世を忍ぶ風情(ふぜい)もしをらしく、放肆(ほしいまゝ)に恋慕の一曲を弾じて、銭を乞ふやうな卑(いや)しい芸人の一組もあつた。丑松は眺め入つた。眺め入り乍ら、自分の身の上と思ひ比べた。奈何(どんな)に丑松は今の境涯の遣瀬(やるせ)なさを考へて、自在に漂泊する旅人の群を羨んだらう。
 飯山を離れて行けば行く程、次第に丑松は自由な天地へ出て来たやうな心地(こゝろもち)がした。北国街道の灰色な土を踏んで、花やかな日の光を浴び乍ら、時には岡に上り時には桑畠の間を歩み、時にはまた街道の両側に並ぶ町々を通過ぎて、汗も流れ口も乾き、足袋(たび)も脚絆も塵埃(ほこり)に汚(まみ)れて白く成つた頃は、反(かへ)つて少許(すこし)蘇生の思に帰つたのである。路傍(みちばた)の柿の樹は枝も撓(たわ)むばかりに黄な珠を見せ、粟は穂を垂れ、豆は莢(さや)に満ち、既に刈取つた田畠には浅々と麦の萌(も)え初めたところもあつた。遠近(をちこち)に聞える農夫の歌、鳥の声――あゝ、山家でいふ『小六月』だ。其日は高社山一帯の山脈も面白く容(かたち)を顕(あらは)して、山と山との間の深い谷蔭には、青々と炭焼の煙の立登るのも見えた。
 蟹沢(かにざは)の出はづれで、当世風の紳士を乗せた一台の人力車(くるま)が丑松に追付いた。見れば天長節の朝、式場で演説した高柳利三郎。代議士の候補者に立つものは、そろ/\政見を発表する為に忙しくなる時節。いづれ是人も、選挙の準備(したく)として、地方廻りに出掛けるのであらう。と見る丑松の側(わき)を、高柳は意気揚々として、すこし人を尻目にかけて、挨拶も為(せ)ずに通過ぎた。二三町離れて、車の上の人は急に何か思付いたやうに、是方(こちら)を振返つて見たが、別に丑松の方では気にも留めなかつた。
 日は次第に高くなつた。水内(みのち)の平野は丑松の眼前(めのまへ)に展けた。それは広濶(ひろ/″\)とした千曲川の流域で、川上から押流す泥砂の一面に盛上つたところを見ても、氾濫(はんらん)の凄(すさま)じさが思ひやられる。見渡す限り田畠は遠く連ねて、欅(けやき)の杜(もり)もところ/″\。今は野も山も濃く青い十一月の空気を呼吸するやうで、うら枯れた中にも活々(いき/\)とした自然の風趣(おもむき)を克(よ)く表して居る。早く斯(こ)の川の上流へ――小県(ちひさがた)の谷へ――根津の村へ、斯う考へて、光の海を望むやうな可懐(なつか)しい故郷の空をさして急いだ。
 豊野と言つて汽車に乗るべきところへ着いたは、午後の二時頃。車で駈付けた高柳も、同じ列車を待合せて居たと見え、発車時間の近いた頃に休茶屋からやつて来た。『何処(どこ)へ行くのだらう、彼(あの)男は。』斯う思ひ乍ら、丑松は其となく高柳の様子を窺(うかゞ)ふやうにして見ると、先方(さき)も同じやうに丑松を注意して見るらしい。それに、不思議なことには、何となく丑松を避けるといふ風で、成るべく顔を合すまいと勉めて居た。唯互ひに顔を知つて居るといふ丈、つひぞ名乗合つたことが有るではなし、二人は言葉を交さうともしなかつた。
 軈て発車を報せる鈴の音が鳴つた。乗客はいづれも埒(らち)の中へと急いだ。盛(さかん)な黒烟(くろけぶり)を揚げて直江津の方角から上つて来た列車は豊野停車場(ステーション)の前で停つた。高柳は逸早(いちはや)く群集(ひとごみ)の中を擦抜(すりぬ)けて、一室の扉(と)を開けて入る。丑松はまた機関車近邇(より)の一室を択(えら)んで乗つた。思はず其処に腰掛けて居た一人の紳士と顔を見合せた時は、あまりの奇遇に胸を打たれたのである。
『やあ――猪子先生。』
 と丑松は帽子を脱いで挨拶した。紳士も、意外な処で、といふ驚喜した顔付。
『おゝ、瀬川君でしたか。』

       (二)

 夢寐(むび)にも忘れなかつた其人の前に、丑松は今偶然にも腰掛けたのである。壮年の発達に驚いたやうな目付をして、可懐(なつか)しさうに是方(こちら)を眺めたは、蓮太郎。敬慕の表情を満面に輝かし乍ら、帰省の由緒(いはれ)を物語るのは、丑松。実に是邂逅(めぐりあひ)の唐突で、意外で、しかも偽りも飾りも無い心の底の外面(そと)に流露(あらは)れた光景(ありさま)は、男性(をとこ)と男性との間に稀(たま)に見られる美しさであつた。
 蓮太郎の右側に腰掛けて居た、背の高い、すこし顔色の蒼い女は、丁度読みさしの新聞を休(や)めて、丑松の方を眺めた。玻璃越(ガラスご)しに山々の風景を望んで居た一人の肥大な老紳士、是も窓のところに倚凭(よりかゝ)つて、振返つて二人の様子を見比べた。
 新聞で蓮太郎のことを読んで見舞状まで書いた丑松は、この先輩の案外元気のよいのを眼前(めのまへ)に見て、喜びもすれば不思議にも思つた。かねて心配したり想像したりした程に身体(からだ)の衰弱(おとろへ)が目につくでも無い。強い意志を刻んだやうな其大な額――いよ/\高く隆起(とびだ)した其頬の骨――殊に其眼は一種の神経質な光を帯びて、悲壮な精神(こゝろ)の内部(なか)を明白(あり/\)と映して見せた。時として顔の色沢(いろつや)なぞを好く見せるのは彼(あ)の病気の習ひ、あるひは其故(そのせゐ)かとも思はれるが、まあ想像したと見たとは大違ひで、血を吐く程の苦痛(くるしみ)をする重い病人のやうには受取れなかつた。早速丑松は其事を言出して、『実は新聞で見ました』から、『東京の御宅へ宛てゝ手紙を上げました』まで、真実を顔に表して話した。
『へえ、新聞に其様(そん)なことが出て居ましたか。』と蓮太郎は微笑(ほゝゑ)んで、『聞違へでせう――不良(わる)かつたといふのを、今不良(わる)いといふ風に、聞違へて書いたんでせう。よく新聞には左様(さう)いふ間違ひが出て来ますよ。まあ御覧の通り、斯うして旅行が出来る位ですから安心して下さい。誰がまた其様(そん)な大袈裟(おほげさ)なことを書いたか――はゝゝゝゝ。』
 聞いて見ると、蓮太郎は赤倉の温泉へ身体を養ひに行つて、今其帰途(かへりみち)であるとのこと。其時同伴(つれ)の人々をも丑松に紹介した。右側に居る、何となく人格の奥床(おくゆか)しい女は、先輩の細君であつた。肥大な老紳士は、かねて噂(うはさ)に聞いた信州の政客(せいかく)、この冬打つて出ようとして居る代議士の候補者の一人、雄弁と侠気(をとこぎ)とで人に知られた弁護士であつた。
『あゝ、瀬川君と仰(おつしや)るんですか。』と弁護士は愛嬌(あいけう)のある微笑(ほゝゑみ)を満面に湛へ乍ら、快活な、磊落(らいらく)な調子で言つた。『私は市村です――只今長野に居ります――何卒(どうか)まあ以後御心易く。』
『市村君と僕とは、』蓮太郎は丑松の顔を眺めて、『偶然なことから斯様(こんな)に御懇意にするやうになつて、今では非常な御世話に成つて居ります。僕の著述のことでは、殊にこの市村君が心配して居て下さるんです。』
『いや。』と弁護士は肥大な身体を動(ゆす)つた。『我輩こそ反(かへ)つて種々(いろ/\)御世話に成つて居るので――まあ、年だけは猪子君の方がずつと若い、はゝゝゝゝ、しかし其他のことにかけては、我輩の先輩です。』斯う言つて、何か思出したやうに嘆息して、『近頃の人物を数へると、いづれも年少気鋭の士ですね。我輩なぞは斯の年齢(とし)に成つても、未だ碌々(ろく/\)として居るやうな訳で、考へて見れば実に御恥しい。』
 斯(か)ういふ言葉の中には、真に自身の老大を悲むといふ情(こゝろ)が表れて、創意のあるものを忌(い)むやうな悪い癖は少許(すこし)も見えなかつた。そも/\は佐渡の生れ、斯の山国に落着いたは今から十年程前にあたる。善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな猛烈な気象から、種々(さま/″\)な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗(な)め尽して、今は弱いもの貧しいものゝ味方になるやうな、涙脆い人と成つたのである。天の配剤ほど不思議なものは無い――この政客が晩年に成つて、学もあり才もある穢多を友人に持たうとは。
 猶(なほ)深く聞いて見ると、これから市村弁護士は上田を始めとして、小諸、岩村田、臼田なぞの地方を遊説する為、政見発表の途(みち)に上るのであるとのこと。親しく佐久小県地方の有権者を訪問して草鞋穿(わらぢばき)主義で選挙を争ふ意気込であるとのこと。蓮太郎はまた、この友人の応援の為、一つには自分の研究の為、しばらく可懐(なつか)しい信州に踏止まりたいといふ考へで、今宵は上田に一泊、いづれ二三日の内には弁護士と同道して、丑松の故郷といふ根津村へも出掛けて行つて見たいとのことであつた。この『根津村へも』が丑松の心を悦ばせたのである。
『そんなら、瀬川さんは今飯山に御奉職(おいで)ですな。』と弁護士は丑松に尋ねて見た。
『飯山――彼処からは候補者が出ませう? 御存じですか、あの高柳利三郎といふ男を。』
 蛇(じや)の道は蛇(へび)だ。弁護士は直に其を言つた。丑松は豊野の停車場(ステーション)で落合つたことから、今この同じ列車に乗込んで居るといふことを話した。何か思当ることが有るかして、弁護士は不思議さうに首を傾(かし)げ乍(なが)ら、『何処へ行くのだらう』を幾度となく繰返した。
『しかし、是だから汽車の旅は面白い。同じ列車の内に乗合せて居ても、それで互ひに知らずに居るのですからなあ。』
 斯う言つて弁護士は笑つた。
 病のある身ほど、人の情の真(まこと)と偽(いつはり)とを烈しく感ずるものは無い。心にも無いことを言つて慰めて呉れる健康(たつしや)な幸福者(しあはせもの)の多い中に、斯ういふ人々ばかりで取囲(とりま)かれる蓮太郎の嬉(うれ)しさ。殊に丑松の同情(おもひやり)は言葉の節々にも表れて、それがまた蓮太郎の身に取つては、奈何(どんな)にか胸に徹(こた)へるといふ様子であつた。其時細君は籠の中に入れてある柿を取出した。それは汽車の窓から買取つたもので、其色の赤々としてさも甘さうに熟したやつを、択(よ)つて丑松にも薦(すゝ)め、弁護士にも薦めた。蓮太郎も一つ受取つて、秋の果実(このみ)のにほひを嗅(か)いで見乍(みなが)ら、さて種々(さま/″\)な赤倉温泉の物語をした。越後の海岸まで旅したことを話した。蓮太郎は又、東京の市場で売られる果実(くだもの)なぞに比較して、この信濃路の柿の新しいこと、甘いことを賞めちぎつて話した。
 駅々で車の停る毎に、農夫の乗客が幾群か入込んだ。今は室の内も放肆(ほしいまゝ)な笑声と無遠慮な雑談とで満さるゝやうに成つた。それに、東海道沿岸などの鉄道とは違ひ、この荒寥(くわうれう)とした信濃路のは、汽車までも旧式で、粗造で、山家風だ。其列車が山へ上るにつれて、窓の玻璃(ガラス)に響いて烈しく動揺する。終(しまひ)には談話(はなし)も能(よ)く聞取れないことがある。油のやうに飯山あたりの岸を浸す千曲川の水も、見れば大な谿流の勢に変つて、白波を揚げて谷底を下るのであつた。濃く青く清々とした山気は窓から流込んで、次第に高原へ近(ちかづ)いたことを感ぜさせる。
 軈(やが)て、汽車は上田へ着いた。旅人は多くこの停車場(ステーション)で下りた。蓮太郎も、妻君も、弁護士も。『瀬川君、いづれそれでは根津で御目に懸ります――失敬。』斯(か)う言つて、再会を約して行く先輩の後姿を、丑松は可懐(なつか)しさうに見送つた。
 急に室の内は寂しくなつたので、丑松は冷い鉄の柱に靠(もた)れ乍ら、眼を瞑(つむ)つて斯(こ)の意外な邂逅(めぐりあひ)を思ひ浮べて見た。慾を言へば、何となく丑松は物足りなかつた。彼程(あれほど)打解けて呉れて、彼程隔ての無い言葉を掛けられても、まだ丑松は何処かに冷淡(よそ/\)しい他人行儀なところがあると考へて、奈何(どう)して是程の敬慕の情が彼の先輩の心に通じないのであらう、と斯う悲しくも情なくも思つたのである。嫉(ねた)むでは無いが、彼(か)の老紳士の親しくするのが羨ましくも思はれた。
 其時になつて丑松も明(あきらか)に自分の位置を認めることが出来た。敬慕も、同情も、すべて彼の先輩に対して起る心の中のやるせなさは――自分も亦た同じやうに、『穢多である』といふ切ない事実から湧上るので。其秘密を蔵(かく)して居る以上は、仮令(たとひ)口の酸くなるほど他の事を話したところで、自分の真情が先輩の胸に徹(こた)へる時は無いのである。無理もない。あゝ、あゝ、其を告白(うちあ)けて了つたなら、奈何(どんな)に是胸の重荷が軽くなるであらう。奈何に先輩は驚いて、自分の手を執つて、『君も左様(さう)か』と喜んで呉れるであらう。奈何に二人の心と心とがハタと顔を合せて、互ひに同じ運命を憐むといふ其深い交際(まじはり)に入るであらう。
 左様(さう)だ――せめて彼の先輩だけには話さう。斯う考へて、丑松は楽しい再会の日を想像して見た。

       (三)

 田中の停車場(ステーション)へ着いた頃は日暮に近かつた。根津村へ行かうとするものは、こゝで下りて、一里あまり小県(ちひさがた)の傾斜を上らなければならない。
 丑松が汽車から下りた時、高柳も矢張同じやうに下りた。流石(さすが)代議士の候補者と名乗る丈あつて、風采(おしだし)は堂々とした立派なもの。権勢と奢侈とで饑(う)ゑたやうな其姿の中には、何処(どこ)となく斯(か)う沈んだところもあつて、時々盗むやうに是方(こちら)を振返つて見た。成るべく丑松を避けるといふ風で、顔を合すまいと勉めて居ることは、いよ/\其素振(そぶり)で読めた。『何処へ行(いく)のだらう、彼男は。』と見ると、高柳は素早く埒(らち)を通り抜けて、引隠れる場処を欲しいと言つたやうな具合に、旅人の群に交つたのである。深く外套に身を包んで、人目を忍んで居るさへあるに、出迎への人々に取囲(とりま)かれて、自分と同じ方角を指して出掛けるとは。
 北国街道を左へ折れて、桑畠(くはばたけ)の中の細道へ出ると、最早(もう)高柳の一行は見えなかつた。石垣で積上げた田圃と田圃との間の坂路を上るにつれて、烏帽子(ゑぼし)山脈の大傾斜が眼前(めのまへ)に展けて来る。広野、湯の丸、籠の塔、または三峯(さんぽう)、浅間の山々、其他ところ/″\に散布する村落、松林――一つとして回想(おもひで)の種と成らないものはない。千曲川(ちくまがは)は遠く谷底を流れて、日をうけておもしろく光るのであつた。
 其日は灰紫色の雲が西の空に群(むらが)つて、飛騨(ひだ)の山脈を望むことは出来なかつた。あの千古人跡の到らないところ、もし夕雲の隔(へだ)てさへ無くば、定めし最早(もう)皚々(がい/\)とした白雪が夕日を帯びて、天地の壮観は心を驚かすばかりであらうと想像せられる。山を愛するのは丑松の性分で、斯うして斯の大傾斜大谿谷の光景(ありさま)を眺めたり、又は斯の山間に住む信州人の素朴な風俗と生活とを考へたりして、岩石の多い凸凹(でこぼこ)した道を踏んで行つた時は、若々しい総身の血潮が胸を衝(つ)いて湧上るやうに感じた。今は飯山の空も遠く隔つた。どんなに丑松は山の吐く空気を呼吸して、暫時(しばらく)自分を忘れるといふ其楽しい心地に帰つたであらう。
 山上の日没も美しく丑松の眼に映つた。次第に薄れて行く夕暮の反射を受けて、山々の色も幾度(いくたび)か変つたのである。赤は紫に。紫は灰色に。終(しまひ)には野も岡も暮れ、影は暗く谷から谷へ拡つて、最後の日の光は山の巓(いたゞき)にばかり輝くやうになつた。丁度天空の一角にあたつて、黄ばんで燃える灰色の雲のやうなは、浅間の煙の靡(なび)いたのであらう。
 斯(か)ういふ楽しい心地(こゝろもち)は、とは言へ、長く続かなかつた。荒谷(あらや)のはづれ迄行けば、向ふの山腹に連なる一村の眺望、暮色に包まれた白壁土壁のさま、其山家風の屋根と屋根との間に黒ずんで見えるのは柿の梢(こずゑ)か――あゝ根津だ。帰つて行く農夫の歌を聞いてすら、丑松はもう胸を騒がせるのであつた。小諸の向町から是処(こゝ)へ来て隠れた父の生涯(しやうがい)、それを考へると、黄昏(たそがれ)の景気を眺める気も何も無くなつて了(しま)ふ。切なさは可懐(なつか)しさに交つて、足もおのづから慄(ふる)へて来た。あゝ、自然の胸懐(ふところ)も一時(ひととき)の慰藉(なぐさめ)に過ぎなかつた。根津に近(ちかづ)けば近くほど、自分が穢多である、調里(新平民の異名)である、と其心地(こゝろもち)が次第に深く襲(おそ)ひ迫つて来たので。
 暗くなつて第二の故郷へ入つた。もと/\父が家族を引連れて、この片田舎に移つたのは、牧場へ通ふ便利を考へたばかりで無く、僅少(わづか)ばかりの土地を極く安く借受けるやうな都合もあつたからで。現に叔父が耕して居るのは其畠である。流石(さすが)に用心深い父は人目につかない村はづれを択(えら)んだので、根津の西町から八町程離れて、とある小高い丘の裾(すそ)のところに住んだ。
 長野県小県郡根津村大字姫子沢――丑松が第二の故郷とは、其五十戸ばかりの小部落を言ふのである。

       (四)

 父の死去した場処は、斯(こ)の根津村の家ではなくて、西乃入(にしのいり)牧場の番小屋の方であつた。叔父は丑松の帰村を待受けて、一緒に牧場へ出掛ける心算(つもり)であつたので、兎も角も丑松を炉辺(ろばた)に座(す)ゑ、旅の疲労(つかれ)を休めさせ、例の無慾な、心の好ささうな声で、亡くなつた人の物語を始めた。炉の火は盛(さかん)に燃えた。叔母も啜(すゝ)り上げ乍(なが)ら耳を傾けた。聞いて見ると、父の死去は、老の為でもなく、病の為でも無かつた。まあ、言はゞ、職業の為に突然な最後を遂げたのであつた。一体、父が家畜を愛する心は天性に近かつたので、随つて牧夫としての経験も深く、人にも頼まれ、牧場の持主にも信ぜられた位。牛の性質なぞはなか/\克(よ)く暗記して居たもの。よもや彼(あ)の老練な人が其道に手ぬかりなどの有らうとは思はれない。そこがそれ人の一生の測りがたさで、不図(ふと)ある種牛を預つた為に、意外な出来事を引起したのであつた。種牛といふのは性質(たち)が悪かつた。尤(もつと)も、多くの牝牛(めうし)の群の中へ、一頭の牡牛(をうし)を放つのであるから、普通の温順(おとな)しい種牛ですら荒くなる。時としては性質が激変する。まして始めから気象の荒い雑種と来たから堪(たま)らない。広濶(ひろ/″\)とした牧場の自由と、誘ふやうな牝牛の鳴声とは、其種牛を狂ふばかりにさせた。終(しまひ)には家養の習慣も忘れ、荒々しい野獣の本性(ほんしやう)に帰つて、行衛(ゆくへ)が知れなくなつて了(しま)つたのである。三日経(た)つても来ない。四日経つても帰らない。さあ、父は其を心配して、毎日水草の中を捜(さが)して歩いて、ある時は深い沢を分けて日の暮れる迄も尋ねて見たり、ある時は山から山を猟(あさ)つて高い声で呼んで見たりしたが、何処にも影は見えなかつた。昨日の朝、父はまた捜しに出た。いつも遠く行く時には、必ず昼飯(ひる)を用意して、例の『山猫』(鎌(かま)、鉈(なた)、鋸(のこぎり)などの入物)に入れて背負(しよ)つて出掛ける。ところが昨日に限つては持たなかつた。時刻に成つても帰らない。手伝ひの男も不思議に思ひ乍ら、塩を与へる為に牛小屋のあるところへ上つて行くと、牝牛の群が喜ばしさうに集まつて来る。丁度其中には、例の種牛も恍(とぼ)け顔(がほ)に交つて居た。見れば角は紅く血に染つた。驚きもし、呆(あき)れもして、来合せた人々と一緒になつて取押へたが、其時はもう疲れて居た故(せゐ)か、別に抵抗(てむかひ)も為なかつた。さて男は其処此処(そここゝ)と父を探して歩いた。漸(やうや)く岡の蔭の熊笹の中に呻吟(うめ)き倒れて居るところを尋ね当てゝ、肩に掛けて番小屋迄連れ帰つて見ると、手当も何も届かない程の深傷(ふかで)。叔父が聞いて駈付けた時は、まだ父は確乎(しつかり)して居た。最後に気息(いき)を引取つたのが昨夜の十時頃。今日は人々も牧場に集つて、番小屋で通夜と極めて、いづれも丑松の帰るのを待受けて居るとのことであつた。
『といふ訳で、』と叔父は丑松の顔を眺めた。『私が阿兄(あにき)に、何か言つて置くことはねえか、と尋ねたら、苦しい中にも気象はしやんとしたもので、「俺も牧夫だから、牛の為に倒れるのは本望だ。今となつては他に何にも言ふことはねえ。唯気にかゝるのは丑松のこと。俺が今日迄の苦労は、皆な彼奴(あいつ)の為を思ふから。日頃俺は彼奴に堅く言聞かせて置いたことがある。何卒(どうか)丑松が帰つて来たら、忘れるな、と一言左様(さう)言つてお呉れ。」』
 丑松は首を垂れて、黙つて父の遺言を聞いて居た。叔父は猶(なほ)言葉を継いで、
『「それから、俺は斯(こ)の牧場の土と成りたいから、葬式は根津の御寺でしねえやうに、成るなら斯の山でやつてお呉れ。俺が亡(な)くなつたとは、小諸(こもろ)の向町へ知らせずに置いてお呉れ――頼む。」と斯う言ふから、其時私(わし)が「むゝ、解つた、解つた」と言つてやつたよ。すると阿兄(あにき)は其が嬉(うれ)しかつたと見え、につこり笑つて、軈(やが)て私の顔を眺め乍らボロ/\と涙を零(こぼ)した。それぎりもう阿兄は口を利かなかつた。』
 斯ういふ父の臨終の物語は、言ふに言はれぬ感激を丑松の心に与へたのである。牧場の土と成りたいと言ふのも、山で葬式をして呉れと言ふのも、小諸の向町へ知らせずに置いて呉れと言ふのも、畢竟(つま)るところは丑松の為を思ふからで。丑松は其精神を酌取(くみと)つて、父の用意の深いことを感ずると同時に、又、一旦斯うと思ひ立つたことは飽くまで貫かずには置かないといふ父の気魄(たましひ)の烈しさを感じた。実際、父が丑松に対する時は、厳格を通り越して、残酷な位であつた。亡くなつた後までも、猶(なほ)丑松は父を畏(おそ)れたのである。
 やがて丑松は叔父と一緒に、西乃入牧場を指して出掛けることになつた。万事は叔父の計らひで、検屍(けんし)も済み、棺も間に合ひ、通夜の僧は根津の定津院(じやうしんゐん)の長老を頼んで、既に番小屋の方へ登つて行つたとのこと。明日の葬式の用意は一切叔父が呑込んで居た。丑松は唯出掛けさへすればよかつた。此処から烏帽子(ゑぼし)ヶ獄(だけ)の麓まで二十町あまり。其間、田沢の峠なぞを越して、寂しい山道を辿らなければならない。其晩は鼻を掴(つ)まゝれる程の闇で、足許(あしもと)さへも覚束なかつた。丑松は先に立つて、提灯の光に夜路を照らし乍ら、山深く叔父を導いて行つた。人里を離れて行けば行くほど、次第に路は細く、落ち朽ちた木葉を踏分けて僅かに一条(ひとすぢ)の足跡があるばかり。こゝは丑松が少年の時代に、克(よ)く父に連れられて、往つたり来たりしたところである。牛小屋のある高原の上へ出る前に、二人はいくつか小山を越えた。

       (五)

 谷を下ると其処がもう番小屋で、人々は狭い部屋の内に集つて居た。灯は明々(あか/\)と壁を泄(も)れ、木魚(もくぎよ)の音も山の空気に響き渡つて、流れ下る細谷川の私語(さゝやき)に交つて、一層の寂しさあはれさを添へる。家の構造(つくり)は、唯雨露(あめつゆ)を凌ぐといふばかりに、葺(ふ)きもし囲ひもしてある一軒屋。たまさか殿城山の間道を越えて鹿沢(かざは)温泉へ通ふ旅人が立寄るより外には、訪(と)ふ人も絶えて無いやうな世離れたところ。炭焼、山番、それから斯の牛飼の生活――いづれも荒くれた山住の光景(ありさま)である。丑松は提灯(ちやうちん)を吹消して、叔父と一緒に小屋の戸を開けて入つた。
 定津院の長老、世話人と言つて姫子沢の組合、其他父が生前懇意にした農家の男女(をとこをんな)――それらの人々から丑松は親切な弔辞(くやみ)を受けた。仏前の燈明は線香の烟(けぶり)に交る夜の空気を照らして、何となく部屋の内も混雑して居るやうに見える。父の遺骸(なきがら)を納めたといふは、極(ご)く粗末な棺。其周囲(まはり)を白い布で巻いて、前には新しい位牌(ゐはい)を置き、水、団子、外には菊、樒(しきみ)の緑葉(みどりば)なぞを供へてあつた。読経も一きりになつた頃、僧の注意で、年老いた牧夫の見納めの為に、かはる/″\棺の前に立つた。死別の泪(なみだ)は人々の顔を流れたのである。丑松も叔父に導かれ、すこし腰を曲(こゞ)め、薄暗い蝋燭(らふそく)の灯影に是世の最後の別離(わかれ)を告げた。見れば父は孤独な牧夫の生涯を終つて、牧場の土深く横はる時を待つかのやう。死顔は冷かに蒼(あをざ)めて、血の色も無く変りはてた。叔父は例の昔気質(むかしかたぎ)から、他界(あのよ)の旅の便りにもと、編笠、草鞋(わらぢ)、竹の輪なぞを取添へ、別に魔除(まよけ)と言つて、刃物を棺の蓋の上に載せた。軈(やが)て復(ま)た読経(どきやう)が始まる、木魚の音が起る、追懐の雑談は無邪気な笑声に交つて、物食ふ音と一緒になつて、哀しくもあり、騒がしくもあり、人々に妨げられて丑松は旅の疲労(つかれ)を休めることも出来なかつた。
 一夜は斯ういふ風に語り明した。小諸の向町へは通知して呉れるなといふ遺言もあるし、それに移住(ひつこし)以来(このかた)十七年あまりも打絶えて了つたし、是方(こちら)からも知らせてやらなければ、向ふからも来なかつた。昔の『お頭』が亡くなつたと聞伝へて、下手なものにやつて来られては反つて迷惑すると、叔父は唯そればかり心配して居た。斯の叔父に言はせると、墓を牧場に択んだのは、かねて父が考へて居たことで。といふは、もし根津の寺なぞへ持込んで、普通の農家の葬式で通ればよし、さも無かつた日には、断然謝絶(ことわ)られるやうな浅猿(あさま)しい目に逢ふから。習慣の哀しさには、穢多は普通の墓地に葬る権利が無いとしてある。父は克く其を承知して居た。父は生前も子の為に斯ういふ山奥に辛抱して居た。死後もまた子の為に斯の牧場に眠るのを本望としたのである。
『どうかして斯の「おじやんぼん」(葬式)は無事に済ましたい――なあ、丑松、俺はこれでも気が気ぢやねえぞよ。』
 斯ういふ心配は叔父ばかりでは無かつた。
 翌日(あくるひ)の午後は、会葬の男女(をとこをんな)が番小屋の内外(うちそと)に集つた。牧場の持主を始め、日頃牝牛を預けて置く牛乳屋なぞも、其と聞伝へたかぎりは弔ひにやつて来た。父の墓地は岡の上の小松の側(わき)と定まつて、軈(やが)ていよいよ野辺送りを為ることになつた時は、住み慣れた小屋の軒を舁(かつ)がれて出た。棺の後には定津院の長老、つゞいて腕白顔な二人の子坊主、丑松は叔父と一緒に藁草履穿(わらざうりばき)、女はいづれも白の綿帽子を冠つた。人々は思ひ/\の風俗、紋付もあれば手織縞(ておりじま)の羽織もあり、山家の習ひとして多くは袴も着けなかつた。斯の飾りの無い一行の光景(ありさま)は、素朴な牛飼の生涯に克(よ)く似合つて居たので、順序も無く、礼儀も無く、唯真心(まごゝろ)こもる情一つに送られて、静かに山を越えた。
 式も亦(ま)た簡短であつた。単調子な鉦(かね)、太鼓、鐃□(ねうはち)の音、回想(おもひで)の多い耳には其も悲哀な音楽と聞え、器械的な回向と読経との声、悲嘆(なげき)のある胸には其もあはれの深い挽歌(ばんか)のやうに響いた。礼拝(らいはい)し、合掌し、焼香して、軈て帰つて行く人々も多かつた。棺は間もなく墓と定めた場処へ移されたので、そこには掘起された『のつぺい』(土の名)が堆高(うづたか)く盛上げられ、咲残る野菊の花も土足に踏散らされてあつた。人々は土を掴(つか)んで、穴をめがけて投入れる。叔父も丑松も一塊(ひとかたまり)づゝ投入れた。最後に鍬(くは)で掻落した時は、崖崩れのやうな音して烈しく棺の蓋を打つ。それさへあるに、土気の襄上(のぼ)る臭気(にほひ)は紛(ぷん)と鼻を衝(つ)いて、堪へ難い思をさせるのであつた。次第に葬られて、小山の形の土饅頭が其処に出来上るまで、丑松は考深く眺め入つた。叔父も無言であつた。あゝ、父は丑松の為に『忘れるな』の一語(ひとこと)を残して置いて、最後の呼吸にまで其精神を言ひ伝へて、斯うして牧場の土深く埋もれて了つた――もう斯世(このよ)の人では無かつたのである。

       (六)

 兎(と)も角(かく)も葬式は無事に済(す)んだ。後の事は牧場の持主に頼み、番小屋は手伝ひの男に預けて、一同姫子沢へ引取ることになつた。斯(こ)の小屋に飼養(かひやしな)はれて居る一匹の黒猫、それも父の形見であるからと、しきりに丑松は連帰らうとして見たが、住慣(すみな)れた場処に就く家畜の習ひとして、離れて行くことを好まない。物を呉れても食はず、呼んでも姿を見せず、唯縁の下をあちこちと鳴き悲む声のあはれさ。畜生乍(なが)らに、亡くなつた主人を慕ふかと、人々も憐んで、是(これ)から雪の降る時節にでも成らうものなら何を食つて山籠りする、と各自(てんで)に言ひ合つた。『可愛さうに、山猫にでも成るだらず。』斯う叔父は言つたのである。
 やがて人々は思ひ/\に出掛けた。番小屋を預かる男は塩を持つて、岡の上まで見送り乍ら随(つ)いて来た。十一月上旬の日の光は淋しく照して、この西乃入牧場に一層荒寥(くわうれう)とした風趣(おもむき)を添へる。見れば小松はところ/″\。山躑躅(やまつゝじ)は、多くの草木の中に、牛の食はないものとして、反(かへ)つて一面に繁茂して居るのであるが、それも今は霜枯れて見る影が無い。何もかも父の死を冥想させる種と成る。愁(うれ)ひつゝ丑松は小山の間の細道を歩いた。父を斯(こ)の牧場に訪れたは、丁度足掛三年前の五月の下旬であつたことを思出した。それは牛の角の癢(かゆ)くなるといふ頃で、斯の枯々な山躑躅が黄や赤に咲乱れて居たことを思出した。そここゝに蕨(わらび)を采(と)る子供の群を思出した。山鳩の啼(な)く声を思出した。其時は心地(こゝろもち)の好い微風(そよかぜ)が鈴蘭(君影草とも、谷間の姫百合とも)の花を渡つて、初夏の空気を匂はせたことを思出した。父は又、岡の上の新緑を指して見せて、斯の西乃入には柴草が多いから牛の為に好いと言つたことを思出した。其青葉を食ひ、塩を嘗(な)め、谷川の水を飲めば、牛の病は多く癒(なほ)ると言つたことを思出した。父はまた附和(つけた)して、さま/″\な牧畜の経験、類を以て集る牛の性質、初めて仲間入する時の角押しの試験、畜生とは言ひ乍ら仲間同志を制裁する力、其他女王のやうに牧場を支配する一頭の牝牛なぞの物語をして、それがいかにも面白く思はれたことを思出した。
 父は斯(こ)の烏帽子(ゑぼし)ヶ嶽(だけ)の麓に隠れたが、功名を夢見る心は一生火のやうに燃えた人であつた。そこは無欲な叔父と大に違ふところで、その制(おさ)へきれないやうな烈しい性質の為に、世に立つて働くことが出来ないやうな身分なら、寧(いつ)そ山奥へ高踏(ひつこ)め、といふ憤慨の絶える時が無かつた。自分で思ふやうに成らない、だから、せめて子孫は思ふやうにしてやりたい。自分が夢見ることは、何卒(どうか)子孫に行はせたい。よしや日は西から出て東へ入る時があらうとも、斯(この)志ばかりは堅く執(と)つて変るな。行け、戦へ、身を立てよ――父の精神はそこに在つた。今は丑松も父の孤独な生涯を追懐して、彼(あ)の遺言に籠る希望と熱情とを一層力強く感ずるやうに成つた。忘れるなといふ一生の教訓(をしへ)の其生命(いのち)――喘(あへ)ぐやうな男性(をとこ)の霊魂(たましひ)の其呼吸――子の胸に流れ伝はる親の其血潮――それは父の亡くなつたと一緒にいよ/\深い震動を丑松の心に与へた。あゝ、死は無言である。しかし丑松の今の身に取つては、千百の言葉を聞くよりも、一層(もつと)深く自分の一生のことを考へさせるのであつた。
 牛小屋のあるところまで行くと、父の残した事業が丑松の眼に映じた。一週(ひとまはり)すれば二里半にあまるといふ天然の大牧場、そここゝの小松の傍(わき)には臥(ね)たり起きたりして居る牝牛の群も見える。牛小屋は高原の東の隅に在つて、粗造(そまつ)な柵の内には未(ま)だ角の無い犢(こうし)も幾頭か飼つてあつた。例の番小屋を預かる男は人々を款待顔(もてなしがほ)に、枯草を焚いて、猶(なほ)さま/″\の燃料(たきつけ)を掻集めて呉れる。丁度そこには叔父も丑松も待合せて居た。男も、女も、斯の焚火の周囲(まはり)に集つたかぎりは、昨夜一晩寝なかつた人々、かてゝ加へて今日の骨折――中にはもう烈しい疲労(つかれ)が出て、半分眠り乍ら落葉の焼ける香を嗅いで居るものもあつた。叔父は、牛の群に振舞ふと言つて、あちこちの石の上に二合ばかりの塩を分けてやる。父の飼ひ慣れたものかと思へば、丑松も可懐(なつか)しいやうな気になつて眺(なが)めた。それと見た一頭の黒い牝牛は尻毛を動かして、塩の方へ近(ちかづ)いて来る。眉間(みけん)と下腹と白くて、他はすべて茶褐色な一頭も耳を振つて近いた。吽(もう)と鳴いて犢(こうし)の斑(ぶち)も。さすがに見慣れない人々を憚るかして、いづれも鼻をうごめかして、塩の周囲(まはり)を遠廻りするものばかり。嘗(な)めたさは嘗めたし、烏散(うさん)な奴は見て居るし、といふ顔付をして、じり/\寄りに寄つて来るのもあつた。
 斯の光景(ありさま)を見た時は、叔父も笑へば、丑松も笑つた。斯ういふ可愛らしい相手があればこそ、寂しい山奥に住まはれもするのだと、人々も一緒になつて笑つた。やがて一同暇乞ひして、斯の父の永眠の地に別離(わかれ)を告げて出掛けた。烏帽子、角間(かくま)、四阿(あづまや)、白根の山々も、今は後に隠れる。富士神社を通過(とほりす)ぎた頃、丑松は振返つて、父の墓のある方を眺めたが、其時はもう牛小屋も見えなかつた――唯、蕭条(せうでう)とした高原のかなたに当つて、細々と立登る一条(ひとすぢ)の煙の末が望まれるばかりであつた。


   第八章

       (一)

 西乃入に葬られた老牧夫の噂(うはさ)は、直に根津の村中へ伝播(ひろが)つた。尾鰭(をひれ)を付けて人は物を言ふのが常、まして種牛の為に傷けられたといふ事実は、些少(すくな)からず好奇(ものずき)な手合の心を驚かして、到(いた)る処に茶話の種となる。定めし前(さき)の世には恐しい罪を作つたことも有つたらう、と迷信の深い者は直に其を言つた。牧夫の来歴に就いても、南佐久の牧場から引移つて来た者だの、甲州生れだの、いや会津の武士の果で有るのと、種々(さま/″\)な臆測を言ひ触らす。唯(たゞ)、小諸(こもろ)の穢多町の『お頭(かしら)』であつたといふことは、誰一人として知るものが無かつたのである。
『御苦労招(よ)び』(手伝ひに来て呉れた近所の人々を招く習慣)のあつた翌日(あくるひ)、丑松は会葬者への礼廻りに出掛けた。叔父も。姫子沢の家には叔母一人留守居。御茶漬後(すぎ)(昼飯後)は殊更温暖(あたゝか)く、日の光が裏庭の葱畠(ねぎばたけ)から南瓜(かぼちや)を乾し並べた縁側へ射し込んで、いかにも長閑(のどか)な思をさせる。追ふものが無ければ鶏も遠慮なく、垣根の傍に花を啄(つ)むもあり、鳴くもあり、座敷の畳に上つて遊ぶのもあつた。丁度叔母が表に出て、流のところに腰を曲(こゞ)め乍ら、鍋(なべ)を洗つて居ると、そこへ立つて丁寧に物を尋ねる一人の紳士がある。『瀬川さんの御宅は』と聞かれて、叔母は不思議さうな顔付。つひぞ見掛けぬ人と思ひ乍ら、冠つて居る手拭を脱(と)つて挨拶して見た。
『はい、瀬川は手前でごはすよ――失礼乍ら貴方(あんた)は何方様(どちらさま)で?』
『私ですか。私は猪子といふものです。』
 蓮太郎は丑松の留守に尋ねて来たのであつた。『もう追付(おつつ)け帰つて参じやせう』を言はれて、折角(せつかく)来たものを、兎(と)も角(かく)も其では御邪魔して、暫時(しばらく)休ませて頂かう、といふことに極め、軈(やが)て叔母に導かれ乍ら、草葺(くさぶき)の軒を潜(くゞ)つて入つた。日頃農夫の生活に興を寄せる蓮太郎、斯(か)うして炉辺(ろばた)で話すのが何より嬉敷(うれしい)といふ風で、煤(すゝ)けた屋根の下を可懐(なつか)しさうに眺(なが)めた。農家の習ひとして、表から裏口へ通り抜けの庭。そこには炭俵、漬物桶、又は耕作の道具なぞが雑然(ごちや/\)置き並べてある。片隅には泥の儘(まゝ)の『かびた芋』(馬鈴薯)山のやうに。炉は直ぐ上(あが)り端(はな)にあつて、焚火の煙のにほひも楽しい感想(かんじ)を与へるのであつた。年々の暦と一緒に、壁に貼付(はりつ)けた錦絵の古く変色したのも目につく。
『生憎(あいにく)と今日(こんち)は留守にいたしやして――まあ吾家(うち)に不幸がごはしたもんだで、その礼廻りに出掛けやしてなあ。』
 斯(か)う言つて、叔母は丑松の父の最後を蓮太郎に語り聞かせた。炉の火はよく燃えた。木製の自在鍵に掛けた鉄瓶(てつびん)の湯も沸々(ふつ/\)と煮立つて来たので、叔母は茶を入れて款待(もてな)さうとして、急に――まあ、記憶といふものは妙なもので、長く/\忘れて居た昔の習慣を思出した。一体普通の客に茶を出さないのは、穢多の家の作法としてある。煙草(たばこ)の火ですら遠慮する。瀬川の家も昔は斯ういふ風であつたので其を破つて普通の交際を始めたのは、斯(こ)の姫子沢へ移住(ひつこ)してから以来(このかた)。尤(もつと)も長い月日の間には、斯の新しい交際に慣れ、自然(おのづ)と出入りする人々に馴染(なじ)み、茶はおろか、物の遣り取りもして、春は草餅を贈り、秋は蕎麦粉(そばこ)を貰ひ、是方(こちら)で何とも思はなければ、他(ひと)も怪みはしなかつたのである。叔母が斯様(こん)な昔の心地(こゝろもち)に帰つたは近頃無いことで――それも其筈(そのはず)、姫子沢の百姓とは違つて気恥しい珍客――しかも突然(だしぬけ)に――昔者の叔母は、だから、自分で茶を汲む手の慄へに心付いた程。蓮太郎は其様(そん)なことゝも知らないで、さも/\甘(うま)さうに乾いた咽喉(のど)を濡(うるほ)して、さて種々(さま/″\)な談話(はなし)に笑ひ興じた。就中(わけても)、丑松がまだ紙鳶(たこ)を揚げたり独楽(こま)を廻したりして遊んだ頃の物語に。
『時に、』と蓮太郎は何か深く考へることが有るらしく、『つかんことを伺ふやうですが、斯(こ)の根津の向町に六左衛門といふ御大尽(おだいじん)があるさうですね。』
『はあ、ごはすよ。』と叔母は客の顔を眺めた。
『奈何(どう)でせう、御聞きでしたか、そこの家(うち)につい此頃婚礼のあつたとかいふ話を。』
 斯う蓮太郎は何気なく尋ねて見た。向町は斯の根津村にもある穢多の一部落。姫子沢とは八町程離れて、西町の町はづれにあたる。其処に住む六左衛門といふは音に聞えた穢多の富豪(ものもち)なので。
『あれ、少許(ちつと)も其様(そん)な話は聞きやせんでしたよ。そんなら聟(むこ)さんが出来やしたかいなあ――長いこと彼処(あすこ)の家の娘も独身(ひとり)で居りやしたつけ。』
『御存じですか、貴方は、その娘といふのを。』
『評判な美しい女でごはすもの。色の白い、背のすらりとした――まあ、彼様(あん)な身分のものには惜しいやうな娘(こ)だつて、克(よ)く他(ひと)が其を言ひやすよ。へえもう二十四五にも成るだらず。若く装(つく)つて、十九か二十位にしか見せやせんがなあ。』
 斯ういふ話をして居る間にも、蓮太郎は何か思ひ当ることがあるといふ風であつた。待つても/\丑松が帰つて来ないので、軈て蓮太郎はすこし其辺(そこいら)を散歩して来るからと、田圃(たんぼ)の方へ山の景色を見に行つた――是非丑松に逢ひたい、といふ言伝(ことづて)を呉々も叔母に残して置いて。

       (二)

『これ、丑松や、猪子といふ御客様(さん)がお前(めへ)を尋ねて来たぞい。』斯(か)う言つて叔母は駈寄つた。
『猪子先生?』丑松の目は喜悦(よろこび)の色で輝いたのである。
『多時(はあるか)待つて居なすつたが、お前が帰らねえもんだで。』と叔母は丑松の様子を眺め乍ら、『今々其処へ出て行きなすつた――ちよツくら、田圃(たんぼ)の方へ行つて見て来るツて。』斯う言つて、気を変へて、『一体彼(あ)の御客様は奈何(どう)いふ方だえ。』
『私の先生でさ。』と丑松は答へた。
『あれ、左様(さう)かつちや。』と叔母は呆れて、『そんならそのやうに、御礼を言ふだつたに。俺はへえ、唯お前の知つてる人かと思つた――だつて、御友達のやうにばかり言ひなさるから。』
 丑松は蓮太郎の跡を追つて、直に田圃の方へ出掛けようとしたが、丁度そこへ叔父も帰つて来たので、暫時(しばらく)上(あが)り端(はな)のところに腰掛けて休んだ。叔父は酷(ひど)く疲れたといふ風、家の内へ入るが早いか、『先づ、よかつた』を幾度と無く繰返した。何もかも今は無事に済んだ。葬式も。礼廻りも。斯ういふ思想(かんがへ)は奈何(どんな)に叔父の心を悦(よろこ)ばせたらう。『ああ――これまでに漕付(こぎつ)ける俺の心配といふものは。』斯う言つて、また思出したやうに安心の溜息を吐くのであつた。『全く、天の助けだぞよ。』と叔父は附加して言つた。
 平和な姫子沢の家の光景(ありさま)と、世の変遷(うつりかはり)も知らずに居る叔父夫婦の昔気質(むかしかたぎ)とは、丑松の心に懐旧の情を催さした。裏庭で鳴き交す鶏の声は、午後の乾燥(はしや)いだ空気に響き渡つて、一層長閑(のどか)な思を与へる。働好な、壮健(たつしや)な、人の好い、しかも子の無い叔母は、いつまでも児童(こども)のやうに丑松を考へて居るので、其児童扱(こどもあつか)ひが又、些少(すくな)からず丑松を笑はせた。『御覧やれ、まあ、あの手付なぞの阿爺(おやぢ)さんに克く似てることは。』と言つて笑つた時は、思はず叔母も涙が出た。叔父も一緒に成つて笑つた。其時叔母が汲んで呉れた渋茶の味の甘かつたことは。款待振(もてなしぶり)の田舎饅頭(ゐなかまんぢゆう)、その黒砂糖の餡(あん)の食ひ慣れたのも、可懐(なつか)しい少年時代を思出させる。故郷に帰つたといふ心地(こゝろもち)は、何よりも深く斯ういふ場合に、丑松の胸を衝(つ)いて湧上(わきあが)るのであつた。
『どれ、それでは行つて見て来ます。』
 と言つて家を出る。叔父も直ぐに随いて出た。
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