防雪林
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著者名:小林多喜二 

      二

 朝の四時は、夜の九時、十時と同じやうに眞暗だつた。それよりは青みを帶びて、何處か底寒かつた。
 川は水が増して、その勢ひで、ロープを結びつけてゐた樹が、たわんで、ゆれてゐた。二人が家を出て、其處に着くまでは雨が止んでゐたのに、仕事にとりかゝつた頃から、又ひどく降り出してきた。
 すぐに網をひきにかゝつた。その水流に逆つて網をひくことは、然し容易な仕事ではなかつた。二人は何度もヨロめいた。そのまんま河ん中に、ひつぱりこまれかゝつたりした。二人は息をハア/\させて、二十分位あとには、身體中汗みどれになつて、それが湯氣になつて出た。それでも、やうやくひかさつてきた。さう、少しでもなると、二人は調子よく元氣づいてきて、「エンヤ、エンヤ」の掛聲をかけてひき出した。それからはどん/\引かさつた。力がさう要らなくなつた。
 源吉は、一寸身體を休めると、「勝、棍棒は、あるべ?」ときいた。勝が「うん」と云ふと源吉はエヘ、エヘ/\と笑つた。「たまらねえぞ、畜生、野郎。」
 天井で、水桶でもひつくりかへしたやうに、無茶に、雨が地面をたゝきつけ、はねかへり、ゴン/\音をして流れてゐた。眞暗なのにも拘らず、雨のために、妙に白つぽい明るさがたゞよつてゐた。
 と、「バヂヤ/\/\」と水をはね返す音が起つたが、すぐそれツ切りだつた。一寸すると、又「バヂヤ/\」と水がはねかへつた。それからすぐ續いて、今度はもつと大きく「バヂヤ/\」となつた。網がだん/\引き寄せられてきた。

それ引いた、それ引いた。
女子(あねこ)の××を、それ引いた、それ引いた。

それ引いた、それ引いた、
嬶の××を、それ引いた、それ引いた。

アヽ、エンヤこらさと、エンヤこらさと。
どツこいしよ、どつこいしよ。

 源吉は息をきりながら、はやしをつけて、その大きな圖體ををどる時のやうに振つた。心持腰をまげて、内股を「鎌」にしながら、身體に拍子をとつた。それが源吉をまるで子供々々にさせた。網がだん/\狹められてくると、鮭がまるで板で水の面をたたきつけるやうな音をたてた。
「源、々、々!」勝が呼んだ。
「うむ?」
「あらツ! 見ろ。」
 夜は眞暗だつたのだ。――黒い衣(きれ)で眼かくしされてゐるやうに暗かつた。見ると、そのなかに、然し眼をひよいと疑ふ程に、鱗光が、ひらめいた。その次にすぐ、力強い、水をたゝきつける音が起つた。
「秋味だ!」源吉は大きな聲を出した。「でけえど、/\」だん/\水の「ばぢや/\」がひどくなつてきた。子供が水のかけ合ひでもしてゐるやうだつた。そのうちに、二、三匹は砂濱にはね上つたらしく、その肉付きの厚い身體を打ちつけながら、あばれた。源吉は勝に網をひかせて、自分は棍棒をもつて、川岸に降りた。網のそばまでくると、源吉は、心分量で十匹以上鮭が入つてゐることが分つた。いきなり横ツ面をたゝきつけるやうに、尾鰭ではじかれて、水と砂がとんできた。
「野郎!」
 源吉は顏を自分の雨でぬれた袖でぬぐふと、棍棒をふりあげた。見當をつけて、鮭の鼻ツぱしをなぐりつけた。
 キユツン! といふと、尾鰭を空にむけたまゝ、身をのばした。そのまゝ一寸さうしてゐた。が、尾鰭が下つて行つた。そして全くぐつたりしたやうに、尾鰭が下へつくと、ピク/\と身體が二、三度動いた。そしてそれからもう動かなかつた。
 源吉は、勝を呼んだ。勝が來たとき、源吉はものも云はずに、もう一匹の鼻へ一撃を加へた。勝はギヨツとして立ちすくんだ。源吉は、息がつまつた笑ひ方をした。源吉は一匹、一匹棍棒でなぐりつけて行つた。勝はそれをすぐえら(鰓)に手をかけて引つ張つて、舟にのせてあつた石油箱に入れた。ひつぱる度にピクツ/\と身體を動かすのや、まだ息だけはしてゐるらしく、鰓だけが動いてゐるのがあつた。
 源吉はさうやつてゐるうちに、妙に強暴な氣持になつてゐた。彼は一匹々々、「野郎」「畜生」「野郎」「畜生」と、唇をかんだり、齒をかんだりしながら、さうした。變に顏の筋肉が引きつつて、硬ばつたりした。そして氣が狂つたやうに、滅多打ちをした。
 さうかと思ふと、普段から、「野郎奴」と思つてゐたものの名を一々云ひながら、なぐりつけて行つた。そのことが、又、彼を不思議なほどにひきずつて行つた。
 ひよいとすると、生温いのが、顏にとんでくることがあつた。顏につくと、すぐねつとりとして、氣味が惡かつた。血だつた。源吉は一匹なぐり殺す度に、一匹、二匹と數へてゐた。七匹、八匹――となつて行く度に、だん/\大きな魚のはね返る音が、少なくなつて行つた。十匹まで數へて行くと、源吉のところから少し離れてゐたところで、一匹はねかへす音がしただけだつた。源吉はその方へ行かうとして、鮭のヌラ/\した身體をふんだ。思はず、源吉でさへ、ひやりとした。深夜に、鐵道で、轢死人でもふみつけるやうな氣がした。「十一匹――と。」源吉はさう云つて、耳をすましてみた。もう音がしなかつた。急に雨の音だけ源吉の耳についた。「十一匹か」と思つた。
 そして、「もう終りだ。十一匹。」と勝に云つた。
 勝はそれを二つの石油箱に入れると、背負へるやうにした。
「網と舟はどうするだ?」
「舟か?――こゝさあげておくさ。朝になつたら、モーター通るべよ、そのどき引張つて行つてくれるだ。網なんて、俺しよつてえくべ。」
「冗談でない。水さ入つたら、とつても重くて。」
「何、こつたらもの!」
         *
 二人は、畑道に出た、源吉はこんなに澤山とれるとは思つてもゐなかつただけ、子供のやうに上機嫌でゐた。が、勝はビク/\してゐた。この歸り道で、もし、出合頭に役人に會はないか、そのことで、勝の心は、後首でもひつつかまれてゐるやうだつた。何處もまだ/\暗かつた。だしぬけに牛が、すぐ側の眞闇から起つたとき、勝は、聲を出すところだつた。
 前から提灯が見えた。
「源、提灯。」勝は後から源吉に言葉をかけた。
「うん。」源吉は、すぐ道を外れて、畑の中に入つて行つた。十間程道から離れると、立ち止つた。二人はさうやつて提灯を行き過ごさした。じつと見てゐると、何處を見たつて一樣に眞暗な、ところが、提灯の動いてくる、火のとゞく一部分だけが見えた。草藪がちらつと光つたと思ふと、すぐ、道の兩側の畑の一部が見えたり、道の水たまりが見えたり、提灯がゆれると、その見える處が左に或ひは右に廣くなつたり、狹くなつたりした。
 行き過ぎると、二人は又道に出た。
「役人なんて、提灯ばつけてくるけア。」と源吉が笑つた。
「んだら、なほおつかねべよ。鼻先さぶつつかるまで、分らねえでないか。」
「んだら、こら。」さう云つて、身體を半分後にねぢ曲げて、勝の鼻先に、さつきの棍棒をつき出した。「これよ。」
 勝は、その棍棒から血なまぐさい臭ひがその時來たのを感じた、と同時に、ギヨツとした。
「馬鹿な!」勝は自分でもをかしいほどどもつて云つた。
「この村で、これで三ヶ月も一疋の魚ば喰つたことねえんだど。こつたら話つてあるか。後(うら)さ行つて、川ば見てれば、秋味の野郎、背中ば出して、泳いでるのに、三ヶ月も魚ば喰はねえつてあるか。糞ツたれ。そつたら分らねえ話あるか。それもよ、見ろ、下さ行けば、漁場の金持の野郎ども、たんまりとりやがるんだ。鑑札もくそもあるけア。」
 勝はだまつてゐた。
 源吉はさういふ事になると、心の中から、ヂリ/\と苛立つてくる不思議な怒りを感じた。こんな時役人にでも會つたら、彼は、鮭殺しに使つた棍棒をきつと、そいつの腦天にたゝきつけたかも知れない。
「俺、すきこのんで、こつたら事すると思つたら、大間違ひだで!」
 勝は源吉には變に、「底恐ろしさ」があるのを知つてゐたので、それを思つて、恐ろしくなつた。役人に會はないでくれゝばいゝと思つた。それは、役人に會へば、源吉がきつと、――本當に、きつと――役人を打ツ殺す、と思つたからだつた。
 勝は源吉のことで知つてゐることがあつた、それが今思はれた。餘程前、源吉の父親が内地からはる/″\この熊の出る北海道に渡つて來て以來、身體を土の上にえびのやうにまげて働きに働きつくしたお蔭で、やうやく一人前の土地になつた、――その土地をある金持のために押へられたことがあつた。その日になり、どうしても駄目で、その金持の手に渡さなければならなかつた。父はがつくりして、頭が痛いと云つてゐた。
 金持や役人などが二、三人どし/\入つてくると、父親に、ある書面に印を押さした。父親はまるで、ぼんやりして、印をとりに奧の間に入つて行くのに、その障子の前で、何かものでも忘れたやうにウロ/\した。
 丁度父親が印を押した時だつた。その書面の上に、身體をまげて、その方にばかり氣をとられてゐた金持が、うむツ! と云つて、後へふんぞりかへつた。皆はびつくりして、はね上つた。と、その時十一、二であつた源吉が、金持の足にだきつきながら、その毛のない脛にかじりついてゐた、のを皆は見た。身體をひきつけのやうに震はして、眼の色をかへながら、源吉が喰らひついてゐた。父親や役人が吃驚して、いくら離れさせようとしても、離れなかつた。大きな男の金持は、ワナにかゝつた兎のやうに、身體をごろ/\のたうつた。大聲をあげて泣きわめいた――。
 それまで――その日まで、源吉は一言も、畑のことについては云ひもしないし、父親が心配してゐるときでも、別に變つたことがなかつた。たゞ、かへつて何時もよりは無口に、おとなしくなつてゐた。それが、さうしたのだつた! この事件(こと)には隨分尾鰭がついて、部落内にひろまつた。勝もそれをきいた。
 源吉は何か事件(こと)があつても、じつとしてゐた。他の者なら、それについて何か云つたり、云ひあつたりする。源吉にはそれがなかつた。そして他のもの等が、その癖、結局は何もせず、ワイ/\してゐるとき、ノソ/\と出掛けて行つて、獨りで、とてつもない大きなことを仕出かした。歸つてきて、しかも、そのまゝ、そのことは一(ひと)ツ言も云はずに、むつしりしてゐた――かういふことがいくらもあつた。ウスのろだから、さうではなくて、何か、深い、しつかりしたのがあるので、さうなのだと、勝には思はれた。
 今、勝は、だから若し、源吉が役人と、ひよつこり會つたとしたら、勝はすぐ昔金持の脛にかぶりついた源吉であることを考へ、源吉が、あの棍棒で、てつきり、やらかすとしか思はれなかつた。それがまるで、「恐怖」のさそりみたいに勝の心にかぶりついてしまつた。
 二人はだまつて歩いた。ぬかる道を歩く足音だけがピチヤ/\/\と續いた。それが時々、くぼみに足を落して、身體を前のめりにのめらせたとき、亂れるだけだつた。さうしながら、勝は(勿論源吉も)前の方に氣を張つてゐた。勝が自分の家に來たとき、身體から急に力が拔けて、ヘナ/\になる程、氣を使つてゐたことを知つた。「助かつた」と思つた。
「一年振りだべ。ほら、お母ば喜ばせてやれよ。」
 源吉はさう云ふと、もう勝には見えなかつた。足音だけが暗闇でし、それが、一寸聞えてゐたが、ぽつちり消えてしまつた。草原のある路を曲つたらしかつた。
 それから、勝が裏口にまはつた。裏口のすぐ側にある納屋に、自分の荷物をおろしてゐると、誰かぬかる道を歩いてくる足音をきいた。勝は、自分の身體が丸太棒のやうに、瞬間、なつたのを感じた。
「勝。」――源吉だつた。
 勝は、分つても、然し、すぐに口に言葉が出なかつた。「――源吉――か。」
「うん」さう云ふと、のそりと大きな身體が、源吉――か、と云つた言葉をたぐつて、寄つてきた。
「あのなア、朝になつたら、お前え、こつから川岸の家まで、一匹づゝ配るんだど。さうせ。誰も食はねえでるんだから。――買つて來たツて云へば、それでえゝ。俺の方は石田の方まで分けるよ。當り前の事だんだ! なあ。」
「うん。」
「分つたべ、んだら、行(え)ぐど。」
 そして歸つて行つた。
 勝には、何か、かう力強い、一つ/\どつしりした足音であるやうに思はれ、源吉のもどつて行くのを、じつと聞いてゐた。

      三

 雪が今にも來る、さういふ天氣と思はれたのが、上(あが)つた。
 秋の終りの、空が高く晴れた氣持のいゝ日が、それから續いた。
 畑も、草原も、稻村も、林も、西の方だけに、遠くに見える低い山脈も、皆狐色になつてしまつてゐた。それが、澄んだ青空にくつきり對照されて、涯もなく廣がつてゐるのを見て、百姓たちは何んだか、目新しい、急に見せられたものゝやうに思つた。
 今度は本當にくる冬のために、村の人達が畑に出て仕度をし始めた。雜穀を背負つて、停車場のある町まで出て、それからその近邊をふれて賣つて歩くために、娘達が四、五人朝早く荷馬車に乘つて出掛けて行つた。お文もそれに加はつた。キヤツ/\と馬車の上で騷ぎながら、農家の前にくる毎に、一軒々々外から言葉をかけた。その女達は暗くなつてから、腰卷や襦袢の布(きれ)などを買つてもどつてきた。いゝ聲で、何人もで、歌をうたつてくるので、それとすぐ、家の中にゐる人には、
「あ、今歸つてきたとこだなア」と分つた。
 停車場のある町から、荒物屋の小僧がよく、田舍道を自轉車に乘つてやつてきた。畑で働いてゐる百姓達は、その度に腰をのばして、見た。小僧は時々言葉をかけて行つた。
 漬物の仕度をする女達は石狩川の堤を下りて行つて、拔いて來たすぐの土のついた大根を、繩ツ切れでこしらへたたはしでごし/\こすつて洗つた。そこは、河の曲り目などで、水流の關係で、砂洲になつてゐた。堤の上で働いてゐる百姓に、そこから、色々の女の歌が聞えてきた。
 山方面に出來た農産物、――主に、青豌豆など――を運ぶために、發動機船が、うるさく音をバタ/\たてゝ流れに逆つて河を上つて行つた。子供達は、その音が、遠くから少しでも聞えると、どん/\川岸の道を走つた。そして、川岸の堤に腰をかけて、足をブラ/\させながら、發動機船の通るのを待つてゐた。子供達は天氣さへよければ、いつでもそれをした。發動機は「上り」だと、音ばかりして中々見えなかつた。然し河が曲りくねつてゐるので、かへつて思ひがけなく、ひよツこり現はれることがあつた。子供達が、喜んで、手をふつて、「萬歳」などゝ云つた。と、船から、青い、油じみた服を着た人が、時々帽子を振つた。子供達が、然し、いくら萬歳などゝ呼んでも、船から誰も相手をしてくれないと、彼等は、つまらなさうに、だまつて、その後を見送つてゐることもあつた。發動機は荷物を積んだハシケを引張つてゐる時は、シキリなしにバタ/\やりながら、その度に身體をエンサ/\といふ風にゆすつて、進んでゐるとも分らない程の早さで、子供達の前を通つて行つた。「あら、モーター、汗かいて、ハアハア云つてる。」――子供達がさう云つた。
 由が隣りに坐つてゐる仲間の手をつかんで、自分の心臟にあてさせ、「分るべ。ドキ/\つて云つてるべ。」と云つた。「あのモーターの、バタ/\ツていふの、人間のこれど同んじだつて、うちの姉云つてたど。」
 皆は「んか」「んか」と云つて、てんでに今度は自分の胸に手をあてゝ見た。そして「んだ。」「んだ。」と云つた。
 發動機船が通り過ぎると、子供達は、畑にゐる親達に、手傳ふために、てんでに走つて行つた。

 二、三日して、小學校に、町からワザ/\呼んだ坊さんの説教があつた。それは、この一帶の地面をもつてゐる親方が、百姓の精神修養のために、一年に二度必ずそれをやつた。年寄つた百姓達はそれを待つてゐた。そして、かういふ事をしてくれる地主を、有難い方だ、と云つて、喜んでゐた。地主は、その度に若い娘にも「必ず」出るやうにと云つた。だから、若い男もそれに引かれて行くこともあつた。
 その日になると、何十年といふ百姓仕事で、風呂敷のやうに皺くちやになつた、曲つた錆釘のやうな年寄が、朝から、各□誘ひ合つて出掛けて行つた。表へ小便にも行けない老婆も、行かなければならないものだとしてゐた。七つ、八つの小娘や、十七、八の女が手をひいてやつた。それで眞黒い顏に、不似合に綺麗な赤の目立つ着物を着た人達が、畑と畑の道路に見えた。
 源吉の母親は、自分の夫が死んでからは、説教は決して缺かさなくなつた。娘のお文をも、その度に、連れて行きたがつた。が、お文は相手にしなかつた。「罰當り奴」と、母が云つた。
 説教が始まる頃、學校の、机や椅子をとり除けた教室が一杯になつた。集つたどの百姓も長い苦しい生活でどこか、無理矢理にひし曲げられたところがあつた。――どこか片輪だつた。年寄は、土から出てきた蟇のやうだつた。皆、久し振りで顏を合はせるものばかりだつた。同じ處にゐてさう會ふことがなかつた。色々な話が出た。煙具を出して、煙草を喫ふものもあつた。一緒に來てゐる孫達がお互にいたづらをし合つたり、年寄の圓い背を跳ね越して騷いでゐた。變に甘ずつぱい空氣で、教室がムンとした。
 坊さんは、こゝから四里ほどある村(それはこの東村よりもつと村らしい村だつた。)から來ることになつてゐた。坊さんは衣を着たまゝ自轉車に乘つてきたり、箱のついた荷馬車に、座布團をしいて、それに乘つてくる事もあつた。今度は、雨が上つたばかりなので荷馬車で來た。眼のひつこんだ、眉の濃い、そのくせ頭がてらりと禿げた、背の低い四十を越した男だつた。ザラ/\した聲で、大聲で説教をした。説教をしながら、たえず落着きなく、そのひつこんだ眼でギロ/\、あたりを見□はす癖があつた。――その、この前來た坊さんと同じ坊さんだつた。
 村の百姓達は、坊さんの云ふ一言々々に、「南無阿彌陀」を云つて、ガサ/\した厚い、ひびのよつてゐる掌でじゆずをならした。
「何事も阿彌陀樣のお心ぢや。――何事も阿彌陀樣のお心ぢや。それを忘れてはなりませぬぞ、いゝですか。」
「……決して不平を起してはなりません、さうおしやか樣はおつしやいましたぢや。何事もあみだ樣のお心ぢや。現世に於いて――この世の中に於いてぢや、苦しんだものは、あみだ樣のお側に參つたとき、始めて大極樂を得ることが出來るのだ。あの世に行つて、ちやんと、蓮華の上に坐つて、「なむあみだぶつ」と、心から云ふことが出來るのぢや。何事も不平を起してはなりませぬぢや。」
 坊さんは、物慣れた調子で、云つた。百姓達は、これ迄何度もその文句はきいてきてゐた。が、何度きいても、有難い言葉だ、と思つてゐた。そして今更のやうに頭をさげ、「南無阿彌陀」をくりかへした。
 年寄つた百姓達は、今まで生きて來た長い苦しかつた生涯をふりかへつてみた。そして自分は、不平を起さなかつたといふ事が分ると、ホツとした。さういふ苦しみを堪へてきた、それで、やがてあの世に行けば、あみだ樣のお側に行くことが出來る、年寄つた百姓はそのことより外に何んにも思はなかつた。何んだつて、この世の中の事は我慢しなければならない、と思つた。坊さんは又、お釋迦樣の難行苦行のことを持つてきて、それを丁度百姓のつらい一生にあてはめて云つた。それは百姓達を心から感激させた。
 坊さんはこの説教を終へると、一番信心深い家へ泊めてもらつて、今度は一軒々々□つて、説教をして歩いた。年寄のゐる百姓家では、足袋の切れたのを買はないで間に合はせても、坊さんを呼んだ。若しも、それが出來なかつたら、「後生」が惡くなるのではないか、と思つた。それは一番恐ろしいことだつた――百姓は今までこの長い間一息もしないで働かせられてきた、これ以上、死んでからも亦働かなければならない、そんなことであつたら、たまらないと思つた。百姓はどの百姓も多かれ少なかれ、あんまり働かなければならないこの世の中に、イヤ氣がさしてゐた。それから、何より、逃れたかつた。百姓にとつて、その事は足袋や、味噌どころではなかつた。百姓は、はつきりは考へてゐなくても、心の何處かで、何時も「來世」を思つてゐた。
 源吉の母親は、坊さんが來るといふ日、朝から何か臺所でこしらへてゐた。そして坊さんが來ると、それを出した。
 源吉の母親は、氣候が寒くなると腰や、足首などが痛んできた。長い間の、度を過ぎた働きが、だん/\身體にこたへてきたのだつた。母親は始終いやがる由に肩や腰をもませてゐた。坊さんは仔細らしく、お經を口早に、――うそぶくやうに唱へると、數珠をザラ/\とやつて、せきの肩や、腰などを、それでこすつたり、撫でたりした。そして、それはどの百姓家でもさうだつた。頑丈さうに見えても、百姓は大抵きつと、夜など、腰がやんできたり、肩がこつたりして眠れないで苦しんだ。だから、坊さんは一軒々々□つて歩くと、その方でも隨分金になつた。
 坊さんは二日ゐて、一軒々々□り切つてしまふと歸つて行つた。餘程金を懷に入れてゐた。
 源吉が畑から歸つてくるとき、その坊さんに會つた。坊さんはどこかこすい、商賣人らしく、一寸あいさつをした。が、源吉はムツとしたまゝ、だまつてゐた。それから少し來ると校長に會つた。
 小學校の校長は、三十七、八の、何處か人好きのしない、澁面の男だつた。校長でもあり、訓導でもあり、小使でもあつた。教室は二十程机をならべたのが一室しかなかつた。一年から六年生迄の男の子も女の子も、そこに一緒だつた。教室には地圖もかゝつてゐたし、理科用の標本の入つてゐる戸棚もあつたし、(その中には剥製の烏が一羽ゐた。)白い鍵のはげたオルガンが一臺隅つこに寄せてあつた。校長は坊主を一番嫌つた。この先生がどうしてこの村へ來たか誰も知つてゐなかつた。そして又澁顏をして人好きが惡かつたが、「偉い人」だ、さういふので、尊敬されてゐた。市の小學校で校長と喧嘩したゝめに、こんな處へ來たのだとも云はれていた。先生の室――それは、その教室から廊下を隔てゝすぐ續いてゐた――には、澤山本が積まさつてゐた。
 源吉は、先生に、「坊主歸りました。」と云つた。先生は顏をふむ! といふ風に動かして、「さうか、肥溜の中へでも、つまみ込んでしまへばよかつたのに。あれが村に來る度に、百姓がだん/\半可臭くなつて、頓馬になつてゆくんだ。――畜生。」と云つた。
         *
 この村のお祭りが、丁度、このいゝお天氣にかゝつた。
 こんな事があれば、大抵先きに立つてやることに、決まつてゐる※[#「仝」の「工」に代えて「□」、屋号を示す記号、47-9]の菊や、丸山のオンコなどが、神社の前に「奉納」の縱に長い、大きな旗を建て、子供を手傳はせて、がたぴしする舞臺を作つた。新しい半纏を着た、頭の前だけを一寸のばして油をつけたのが、自轉車で、幔幕を借りてきたり、停車場のある町から色々の道具を運んだりして、やつぱりお祭りらしくとゝのつた。朝のうちから、新らしい着物を着た子供が四、五人、若者が仕度をしてゐる側で遊んでゐた。神社は學校のそばの、野ツ原で、一寸した雜木林で三方だけ圍まれてゐた。晩になれば、ゴム風船などを賣る商人が荷物にした商品を背負つてやつてくることになつてゐるし、法界節屋の連中も停車場のある町から來て、その舞臺で、安來節や手踊りなどをすることになつてゐた。
 お文と母親は、お祭りの御馳走をこしらへた。百姓はどんな慘めな暮しをしてゐても、かういふことはしなければならない、さう何時も考へてゐた。
 源吉は、焚火をしてゐる大きな爐のわきに寢ころびながら、足で、由にいたづらをしてゐた。
「ホラ!」源吉の足にしがみついてゐた由が、一寸すると、ころばされた。
 由は、負けまい負けまいと、自分の足に力を入れて突かゝつてくる。が、さうせば、さうするだけ、調子よく、すてんと身體を投げ出された。
「もツと!」
「糞ツ! 兄、足さかじるど。」
「馬鹿。」
 母親が、薄暗い臺所から、「由、祭りさ行(え)げ!」と怒鳴つた。
 源吉は、面白がつて、由を足であやしてゐるうちに、足が留守になり勝ちになつて行つた。由が、それで、自分が勝ちさうになつたので、一層勢ひづいてきた。源吉は、昨年のお祭りのときを思ひ出した。自分の想つてゐたお芳が、札幌へ無斷で行つてしまつた晩だつたことを思つた。源吉は、そのことがあつてから、もつと、むつしりしてきた。
「やア――、兄、まけた、負けた!」
 由が源吉の足をとう/\倒して、疊につけてしまつた。
 源吉はひよいと自分にかへると、思はず足に力を入れ過ぎて跳ねかへした。はずみを食つて由はとばされて、爐邊につんである木に頭を打(ぶ)つけた。由は、ことさらに大きな聲を出して泣き出した。「兄、ずるいど、兄ずるい、ずるい!」
 源吉は苦笑しながら、大きな掌で、由の頭をなでゝやつた。
「堅え頭してる。こゝか? ――えゝか、おまじないしてやるど。フエントカフエカシコラミヨノダイミヨウジン。」源吉は何度もそれを繰りかへして、由の頭をゴス/\なでた。始め、じいとしてゐた由が、惡戲だと、それが分ると、またワン/\と泣き出した。源吉は一つかみに由の頭をつかむと、
「こら、こら!」と、振つた。
「大きな態(なり)して、そつたら子(わらし)と、さわいでればえゝ!」母親が、叫んだ。
 由は、今度は泣きながら、
「兄、錢(ぜんこ)けれ、錢けれ。」と云ひだした。「錢ければ、えゝ。錢ければえゝ。」
「くそ、ずるい奴だ。――錢もらへば直るツてか?」
「錢けれ、ぜんこけれ。」
 由は、勢ひづいて、足をばた/\させて、それを云ひ出した。
「ホオーオ、勝えの健なんて十錢も貰つてるど、石だつてよ。――なア、兄、錢けれ、錢けれ、錢(ぜんこ)よ、よオー。」
 源吉は、それには、今度耳もかさずにじつとした。源吉は、お芳が札幌へ行つたと聞かされたとき、本當のところ、別な意味からも「淋しく」された事を思ひ出した。村ではとてもやつて行けないために、女達が都會(まち)へ出て下女になつたり、女工になつたり、――畠で働かなければならない男でさへ出て行つた。だん/\村の人がゐなくなる、さう思つた。源吉には、イヤな氣がした。
「ぜんこ、ぜんこ! よオー」
 由は源吉の身體をゆすり出した。源吉はだまつて、身體を、急にひねつた。由は、他愛もなく、轉がつた。なほ激しく泣き出した。
「うんと騷げ、この糞たれ!」母親が、たまりかねたやうに又怒鳴つた。
 源吉は、何んか、かう向ツ腹が不愉快に、ヂリ/\と立つてくるのを感じてゐた。
 外へ、子供が二人程由を呼びに來た。
「ホラ、由、呼んでるど。」
 由は、今迄泣いてゐたのを急にやめると、袖で顏中をぬぐつて、變な、附けたりの、極りの惡い笑ひ顏をして、外へ出て行つた。
 源吉は仰向けに、煤けて黒光りに光つてゐる天井を、ぼんやり見ながら、今晩は行くまい、さう考へてゐた。
 晩方になつて、表をガヤ/\七、八人の人が通つて行つた。停車場のある町から來た手踊りの連中だつた。紺のゴワ/\した大きな風呂敷包みを背負つた、色眼鏡をかけた男や、白粉をぬつた頬骨の出てゐる痩せた男、三味線を肩から釣つた、これも色眼鏡をかけた女、それにコテ/\と白粉をつけた十七、八の娘と七つ八つの女の子が三人程ゐた。その後から、村の子供達が四、五人ついてゐた。
 源吉は寢ころんだまゝぼんやりしてゐた。そのすぐ側で、お文が所々裏の赤いのが剥げてゐる鏡に向つて坐つてゐた。何處から持つてきたのか、白粉の瓶を、自分の掌に逆さに振つては、顏につけてゐた。源吉はさつきから一口も、誰にも、云はないでゐた。
「今度(こんだ)どんな手踊りがあるんだらう?」お文は鏡から眼を外さずに云つた。
 源吉は聞いてゐなかつたのか、だまつてゐた。お文には、別に返事のいることでなかつた。自分で何か云ひながら、そのくせ鏡に全部氣を取られてゐた。返事を待つてもゐなかつたので、源吉のことには氣付かなかつた。
「石田の録さんが、浪花節をやるつて……。」
 それから、一寸して、
「録さんの浪花節てどうだらう。きつとをかしいよ。」と云つた。
「お母アどこさ行つたべ――」
 源吉はやつぱり、天井ばかり見てゐた。足を立てゝゐた。片方の足の上に上げてゐた足の指先だけを時々、動かした。無心で動かしてゐた。
「妾(わし)、お祭りさ行くツて云ふのに、お母どうしたべ――本當に。」
 それでも自分は鏡から顏を離さなかつた。
「兄、お祭りさ行くべ?」
 源吉は頭をユル/\□はしてお文の方を見た。お文は、鏡に顏がくつつきさうになる程に突き出して、鼻の側に出てゐる何かを、一生懸命しぼり取らうとしてゐた。口を變にゆがめて。源吉は頭をもとにもどすと、それにも、何んにも云はなかつた。
「困つた。」
 今度はお文が手拭で顏をふき出した。
「春ちやんば誘つて行くんだけど、お母ア居なかつたら出られねえべよ。――兄、お祭りさ行くべ?」
 初めて顏を鏡から離して、源吉の方を見て、さう云つた。裏で、久し振りに立てたお湯に入つた後なので、お文の顏は、スベ/\と、白く、綺麗になつてゐた。源吉がお文の顏を見ると、お文は一寸顏を赤くして、「どうする?」と、工合惡さうに云つた。
 源吉は又頭をもとに返して、別な方にものを云ふやうに、初めて、
「行(え)つてもえゝ。」
 お文は奧に入つて行つた。そして着物を着かへると外へ出て行つた。
「フン、畜生!」
 源吉は立ち上つた。が、何をするためか、自分で分らなかつた。窓から外を見た。が、眞暗で、(それに内が明るいので)外はちつとも見えなかつた。臺所へ行つて、源吉は水を、二杯ほど飮んだ。爐邊に歸つてきたが、坐るのか、どうか、源吉は考へつかなかつた。源吉は、そこにしばらく、ぼんやり立つてゐた。四圍(あた)りは、靜かだつた。ランプが、時々明るくなつたり、何處かへ吸ひこまれるやうに、暗くなつたりした。裏口の側にある馬小屋の馬さへ、しつぽの音も、蹄で床をたゝく音もさせなかつた。祭りの場所も餘程離れてゐるので、何も聞えなかつた。源吉は少し、わけの分らないいらだたしさを覺えてきた。表を誰か通つて行つた。何か話してゐる。初め源吉には何か分らなかつた。
「ホラ、なア、星とんだべ。」
「そこ、穴あるど。」
「あの星なあ、粉みだいになつて、落ちでくるんだど。――たまに、どしーんツて落ちてくることもあるんだどよ。」
 相手が何か云つた。と、甘つたれるやうな、唇をとんがらした聲を出して、
「早くえがねば、踊り終るからなーア。」と、十一、二の子供が云ふのが聞えた。
「アツ――又、なア!」
「お母ア遲くてよーオ。」半分泣聲だつた。
 遠くなつて、すぐ聞えなくなつた。又、もとの靜かなのにかへつた。
 源吉は、自分の呼吸が聞えるのを知ると、その、變な靜かさが不氣味に思はれてきた。彼は坐らうと思つた。その時、鏡臺についてゐる小さい引出から、手紙が半分出てゐるのを、源吉がフト見た。お芳からの手紙だらうと思つた。
 ――貴女が札幌に出たがつてゐることは、自分のその頃のことから考へてみて、無理がない。……こつちの生活は、然し、自分が思つてゐたことゝ、まるつきり異つてゐる。……それで、貴女に、がつかりさせたくないために、あんなことを云つてやつたのだから許してくれ。――實は、こんないやな生活は、自分一人だけで澤山だと思つてゐる。
 勿論こつちでは、そこのやうに、汚い恰好をして、年中、あんな風に働く必要はない。……然し、その代り、とてもそつちなどにゐては、どうしたつて分らないやうな「恐ろしい」ことが澤山ある。……
 とにかく、貴女がどうしても、來るといふ決心をかへられないのであれば、仕方がないから、待つてゐる。……主人にも話したら人手が足りないから、丁度いゝと云つてゐる。(そして最後に)源さんには是非よろしく。
 そんな意味のことが書かれてゐた。源吉はそれを、ぼんやり又初めから讀みかへしてみた。――「源さんには是非よろしく」――讀んでから、手紙を手にもつたまゝじつとしてゐた。
 母親が歸つてきた。
「兄、何してる。行(え)け、行つてみ。――今、お文と會つた。」
 源吉は、手紙をもとの所におくと、母親には返事もしないで、外へ出た。母親は土間で、續けざまに「つかみツ鼻」をした。
「歸りに、由ば連れで來い。」と後から言葉をかけた。
 外へ出ると、ヒヤリと寒氣を感じた。空が高く晴れて、ばらまいたやうな星空だつた。源吉は、別にお祭りにも行く氣がなかつた。然し、家にゐられない氣持だつた。少し來ると、左側に高い木が五、六間並んで立つてゐた。その木の間からすぐ、石狩川の川面が見えた。星は出てゐたが、四圍は眞暗だつた。そこを、川面だけが青く光つてゐた。手前の木の幹が、それと對照して、黒くはつきり見えた。よく見ると、川に星が無數にうつつてゐた。大氣は冷え/″\としてゐた。源吉は何度も、身震ひをした。何時もお祭りの時には、神社の前よりも、若い男と女はこの河堤に集つた。源吉はお芳とそこで何囘も會つたことを思ひ出した。――源吉はイマ/\しさうに河の方へ唾をはいた。
 道が曲つてゐた。そこを曲ると、ずウと前方に、お祭りのあかりが見えた。そのあかりのところだけが、こちらからでもはつきり分つた。急に、どよめきが聞えてきた。太鼓を打つてゐるのがきこえる。人聲の中から時々、頓狂に、ゴム風船の破れる音や、笛の音が聞えた。途中の、農家の前に、その家の年寄が立つて、お祭りの方を見てゐた。
「お晩です。」と、源吉にくらがりで言葉をかけた。
「お晩です。」源吉も云つた。
「出掛けるのげア?」
「あ――。」
 源吉が行き過ぎかけると、「ごゆつくり。」と云つた。
 お祭りの舞臺には、十位もランプをつけてゐた。その前にはござを引いて、村の人達がそこに坐つて見てゐた。主に若い女や子供や年寄だつた。その邊は殆んど暗かつた。その後の道の兩側には、ランプをつけた屋臺のゴム風船屋などが、四つ程ならんでゐた。絶えず、足で機械をふんでゐる、綿飴屋が、割箸に、それをからませて、子供の前につき出して、何か云つてゐた。
 子供達が一つの屋臺の前に、二、三人づゝ立つてゐた。神社の後では、小さい土俵があつて、若者が相撲をとつてゐた。源吉は何處にも興味がなかつた。帶の前に兩手をさしながら、離れて、見てゐた。舞臺では手踊りだつた。足拍子をとる毎に、板がギシ/\云つた。たゞ手と足をどたん、ばたん、動かしてゐるといふ風に踊つてゐた。が、離れてゐるので、顏や着物のアラも見えず、澤山のランプの光で踊つてゐるのが、源吉には綺麗に見えた。所々で、踊つてゐる女が、「ハツ、――ハツ」と云つたり、聲を合せて、「そいつウーは、知らなかつた――ア」と唄を入れた。
 源吉は胸が、ヂリ/\してきた。一寸見てゐるうちに、馬鹿らしくなつた。彼は風船屋の後側を通つて、神社の裏にある土俵の方へ行かうとした。相撲の太鼓が聞えてゐた。がそこへ行く途中、然し源吉は氣が變つて、もどると、神社の外へ出てしまつた。源吉が一寸來たとき、小便をしようと思つて、道端の草原の方へ寄つて行つた。と、すぐ眼の前で(然し、暗かつたので分らなかつた。)女が腰をかゞめ、一寸着物のすそをせり上げて――、用を足し終つたところだつた。源吉は外のことに氣をとられてゐた。そこを不意にやられた。二人は立ちすくんだやうに、ギヨツとした、彼は突嗟に變な衝動を感じた。自分でも、どうしてか分らなかつた。彼は、素早く手を延ばした。と、逃げ腰になつた女の帶に手がかゝつた。源吉は咽喉が急にグツとつまつた。女は、聲をたてずに、闇の中でさからつた。が、力がちがつてゐた。すぐ女は源吉の胸のそばに寄せられた。女は帶にかけてゐる源吉の手に、爪をたてようとした。「馬鹿!」彼は息聲で云ふと、思ひツ切り、ギユツと女の身體を抱きしめてしまつた。女は、ふくらんでゐる乳房を抑へつけられてゐるので苦しがつた。日本髮につけてゐる新らしい油の匂ひが、源吉の鼻にムツと來た。源吉の心臟も、自分で分るほど、ドギン/\早くうつた。女のもはつきり分つた。女は、源吉に抑へられてゐながら、身體をもがいた。その厚味のある肉體(からだ)の、動きを直接(ぢか)に、自分の身體に源吉が感じた。源吉は、女を、今度は何の雜作もなく抱きあげると、そこから、畑に續いてゐる暗い小道へ出た。女は初め聲を出しさうに身體をふつた。滅茶苦茶に足で源吉をけつたり、胸をひつかいたりした。が、すぐ、何故かじつとした。そして、源吉のはだけられた胸に顏をあてた。暑い呼氣が源吉の胸を撫でた。
 源吉は、息をきらしながら、三町も歩いた。それから、どん/\畑の中に入つて行つた。唐黍の切株が澤山殘つてゐて、源吉は何度もそれで足の皮をむいた。それにくぼみに足を落して、よろめいた。が、惡鬼のやうな恰好になつた源吉は、かまはずに、無茶苦茶に歩いた。女は思ひ出したやうに、又劇しく抵抗した。然し抵抗すればする程源吉は元氣づいた。そして身體中が、ワク/\と震ひ上つてくるやうに感じた。

      四

 又雨がやつてきた。日がだん/\薄暗くなり、寒さうな雲が垂れ下つてきて、霰が交つたりした。今度こそ、本當に冬がくる、さう皆が思つた。朝起きてみると水のたまつた溝の表面に氷が張つてゐた。
 百姓達は冬圍ひが終つてしまふと、草家(や)の中にもぐりこんで、土間にむしろを敷いて、繩を編んだり、草鞋を造つた。一年の間、畑に出て、腰をまげて土にへばりつきながら働き通して、然し、それでもまだ百姓には足りなかつた。娘達は、その出來たものや豆類などを背負つて停車場のある町に出掛けて行つた。百姓達は、誰のためにも分らずに、色んなものを作つた。が、その半分以上のものは一つ殘らず持つて行かれてしまつた。小作人は地主の小作料に、自作農は拓殖銀行の年賦の拂込金にそれが成りあがつてしまつた。その上に肥料店と農具店があつた。米をつくり、豆をつくり、唐黍をつくり、ナスビを作つた百姓は、毎日干した菜葉と、芋しか食ふものがなかつた。それより食へなかつた。その上に飯を食ふ時、百姓はそれだけを食ふのを勿體なく思つた。それで、米に水を何倍も割つて薄くトロ/\にして、芋を入れたり、豆を交ぜたり、して食つた。
 夏にとつて軒に乾して置いた何十といふ南瓜を冬中食つた。それを毎日續け樣に食ふので、どの百姓も顏から、掌から、足からすつかり眞黄色になつてしまつた。眼玉の白いところにさへ、黄色い筋が入つた。
 冬近くなると、一年中はき切らしてボロ/\になつた足袋を繕ふのが、その家の年寄の仕事になつた。それにつぎを幾つもあてゝ、もう一冬間に合はせた。シヤツも襦袢も、腰卷もさうだつた。源吉の母親は押入から、色々のボロを引張つてきて、それを爐邊に山のやうに積んで、片方の玉の壞れた眼鏡を糸で耳にひつかけて、ランプの下に顏を持つて行つて仕事をした。
 收穫が終つてから、冬になる間、百姓の金を當てにして何人もの行商が、一日に何囘も寄つて行つた。玩具のやうな道具をもつた乞食も來ることがあつた。が、永い冬が待つてゐることを考へれば、一きれの布も、百姓にはうつかり買へなかつた。越中富山の藥屋も小さい引出の澤山ついた桐の藥箱を背負つてやつてきた。馬などの繪をかいた藥臭いちらしを子供達にくれて、いくら要らないと云つても、上り端に腰を下して動かなかつた。そして藥袋を置いて行つた。由は馬のちらしを大切に持つてゐて、暇があると、それを寫してゐた。
 百姓達はそれでもとにかく、馬を仕立てゝ、停車場のある町に出掛けて行つて、味噌や醤油や、その他の入用なものを買つてきた。その頃は、停車場前の荒物屋の店先にある電信柱には、百姓の荷馬車が何臺もつながれてゐた。牝馬が多かつた。たまに牡馬が通ると、いなゝきながら、暴れた。すると、荒物屋の中から、醉拂つた顏の赤い百姓が飛び出してきて、牝馬を側の方へ引張つて行つた。荒物屋では土間に二つ三つ椅子があつて、そこへ腰をかけて、百姓が氷水を飮むコツプに冷酒をついで、干魚をさきながら、飮んでゐた。
 百姓のうちでは、こゝで醉ひつぶれてしまふものがあつた。
「俺アなんぼ醉拂つたつて、あいつがみんなおべでる。」
 そして、店の小僧にだかれて、味噌や醤油樽と一緒に、荷馬車に、まるで荷物のやうにつまれた。つみ込まれたまゝで、昔若い時に覺えた歌をうたひながら、いゝ機嫌になつてゐると、馬はひとりで、もと來た道を、もどつて行つた。
 源吉はモツキリを二、三杯のむと、それが久し振りであつたゝめか、すつかり醉拂つてしまつた。源吉は、大きな圖體の身體を、ふりながら、他愛もなく踊りの手眞似をしたり、眼を細めて、變な聲を出して笑つたり、分けの分らないことをしやべつた。
 八時頃荒物屋を出ると、源吉は側につないであつた馬の側に行つて、ヨロ/\しながら、馬の首につかまつて、それを支へにして、鼻面を撫でながら、何か獨りブツ/\云つた。さうしながらも始終身體をフラ/\させてゐた。馬から離れると、一寸立つてゐた。が、覺束ない足取りで歩き出した。もう町は人通りが無かつた。源吉は懷に兩手をはすがひにつつこんで、醉拂つたあとによくあるが、ブル/\震ひながら、そして、ひとりで何かブツ/\云ひながら歩いた。
「何んぼ働いたつて、何んになるんでえ。糞たれ。」何囘もこんな、同じことを繰り返してゐた。少し行くと軒の低いそばやがあつた。源吉は、そこの入口の柱にどしんと身體をうちつけた。そして、そのまゝそれによりかゝりながら、目もあけずに「誰だ、畜生、誰だ」と云つた。中で、白粉をつけた女が「兄さん、寄つてよ、上つて一杯のんで行つて。」と云つた。そして、すぐ立つて出て來た。
「まアいゝ機嫌ねえ。」
 源吉は女の顏のすぐ前まで、自分の顏をつき出して、醉つてシヨボ/\した眼を、無理にひらいて、女を見た。安い白粉と、女の汗臭い匂ひがムーンと鼻に來た。
「この女子(あまつ)こ、めんこい顏してるど。」
「温めてやるよ。ねえ、上つてさ、――。」
 源吉はよろけながら、土間に入つてしまつた。

 荒物屋の前につないであつた源吉の馬は、次の朝まで其處に、そのまゝ、頭を長く下げてつながれてゐた。
         *
 長い秋の夜を、ランプを土間に下して、藁をたゝいて、繩をなつたりしながら、百姓は、自分達の過ごして來た一生を思ひかへした。秋の夜は百姓達にはさういふ時だつた。小聲で鼻唄をうたつてゐたのが、フト止むと、何時の間にか百姓達は昔のことを思つてゐた。
 内地では彼等は芋ばかりしか食へなかつた。畑から出來上つたものは安くて、肥料や農具はその倍にもなつた。地主には小作料が、重なりに重なると、立毛は押へられた、土地はとりあげられた。「北海道に行つたら」さう思つて、追ひ立てられて、然し、大きな夢をもつて、彼等は「熊が出る」北海道にやつてきた。津輕海峽を渡つて、北へ、北へとやつてきた。親子で行李を背負ひながら、北海道の飛んでもない、プラツトフオームもない、吹きツさらしの停車場で降ろされると、何里もの涯しの見えない雪道を歩かせられた。何處まで行つても雪で、平であつた。指も顏の皮も切つて行かれさうな風にふきまくられた。そして落着いてみれば、どこにも立札がしてあつた。拾つていゝ土地なんか、重箱のふた程も殘つてゐなかつた。たまに、安く土地が「拾へても」、それを耕してゆく金がなかつた。結局人から借りた金でやれば、二、三年經つて、その荒蕪地がやうやく畑らしくなつた頃、そのかたに、すつかり、彼等の手からなくなつてゐた。――ここも矢張り住みよくはなかつた。
「國(くに)ではどうしてるべ。」
 かういふ百姓にとつては、たとへ北海道に二十年ゐたとしても、三十年ゐたとしても、内地のことは忘れなかつた。死ぬ時は、内地で、――昔、自分たちには決していゝ仕打ちをさへしなかつた――村で、なければならない、さう、暗默に思つてゐた。何時でも、何時か國に歸つて行くことを考へてゐた。百姓たちが仕事の合間にフト口をきくとき、「國ではどうしてるべ。」きつと、さう云つた。内地のことは、今では、不思議にも、百姓達には、變な魅力をもつて、心の中によみがへつてきた。何かしら、綺麗な、樂しかつたものに想像されて、くるのだつた。豆腐屋の誰がどうしてゐるとか、※[#「冂」の左の縦棒を取った中に「△」、屋号を示す記号、62-2]の金がまだ生きてゐるだらうかとか、角地の娘が婿をとつたとか、石屋の旦那が樺太へ行つてるとか……そんなことが、ボツ/\、切れさうになつたり、途切れてから續いたり、そしてそれに結びつけて、昔の自分達のことを、ゆつくりした調子で話した。
 初め、「國」を出るときには、百姓たちは、北海道へ行つたら、一働きして、うんと金を作つて、國へもどつてきて安樂に暮さう、さう考へてゐた。誰でもさうだつた。源吉の父もさうだつた。然し、どの百姓だつて、それの出來たのが誰もゐなかつた。結局内地での昔の生活とちつとも異つてゐなかつた。然し百姓はそのことをちつとも分らうともしなかつた。だが本當のところどの百姓も、現實にはとてもそんなことは駄目なことだと「分つてゐながら」、漠然と、やつぱり、内地へ金をもつて歸ることを心の何處かで思つてゐた。北海道の百姓は皆平氣でさうだつた。
 たまに、内地へ一ヶ月でも行つてくるといふ者があると、(――それは然し極くまれだつた。例へば、誰か肉親が急病だとか、さういふ場合を兼ねての場合に限られてゐた。)同じ國の者が集つて行つて、自分達の親類に色々なことづけを頼んだり、何かをとゞけてもらつたりした。村の樣子をきいてきて貰ふ事を約束したりした。
 なんでも源吉の父親と母親が、初めて北海道に來て、雪の野ツ原を歩かせられたとき、(源吉はその時父の背におぶさつてゐた。)――丁度今ゐる村に入る少し手前の道端に、くひが一本立つてゐたのを見た。それは日暮れに近い時で、そのだゞツ廣い野原に、そのくひだけが、たつた一本しよんぼり立つてゐた。父親は標示杭と思ひ、まだ、何里位あるのか、その前にしやがんで雪を拂ひ落してみると、それには、「越後國――郡――村、―― ――こゝに死す」と書いてあつた。父がそのことを母に云つてきかせた。二人とも、その時はゾツと寒氣がする程の頼りなさを感じた、――「なんぼなんでも、こんな風にだけはなりたくない」さう云つたのを、源吉は何度も聞かされて知つてゐた。
 そのやうに百姓は何時でも「故里」の土に結びつかれてゐた。
 農村の秋はます/\深くなつて行つた。
 源吉の母親は、冬ま近になると、腰が痛んできた。土間に下りて、繩を作りながら、由に、腰をもませたり、肩をもませた。由が嫌がつて逃げて歩く度に、
「ぜんこ一銭けるど。」と云つたり、それでもまだ來ないと、
「せば二錢けるど」と云つた。
 由が、母の後に□つて、二度か三度、肩をもんで、すぐ、
「ぜんこけれ!」
「このほいと。」
「したツて、もんだでないか。」
「もつと。」
「ずるい/\。」
「馬鹿、お母ちやえゝツてまでだ。」
「ずるい/\/\。」
「この糞たれ!」
 二人で本氣になつた。そして、――がフト、
「なあ、源ん――俺アこの冬、國さ行(え)つてきてえんだよ――源ん。」ヅキ/\痛む腰を自分でもみながら云つた。そして暗い顏をして源吉を見た。

      五

 源吉の母親は、お文が札幌へお祭りの夜逃げて行つてから、何處か弱つてきた。何か仕事をしてゐるとき、フトお文のことを云ひ出した。そして、何時までも、そのことを獨言のやうにしやべつてゐた。源吉は、母親がさういふ事を云ひ出すと、默つて立つて、外へ出て行つた。
 秋の更けた、靜かな、ある晩だつた。裏を流れてゐる川のあたりに時々鳥が啼いてゐた。源吉と母親はランプを低く下して、土間にむしろをおいて、草鞋を作つてゐた。
 誰か表から呼んだと思つた。
「はアー」と源吉が表にきゝ耳をたてゝ言葉をかけた。
「俺だよ。」校長が、ガタピシする戸を身體であけて入つてきた。
「退屈で、話ししに來た。」と云つた。
 爐のそばで、由が假寢をしてゐた。ランプは土間の方に持つて來られてゐるので、そこが暗くつて分らなかつた。
「お文はどうしてる?」何かの話から先生がきいた。母親は、何時もの通り、何度も何度も云つたことを又繰りかへして校長先生にきかした。源吉はだまつてゐた。
「どうして連れもどさないんだ。」
「わしなんぼさう云つても、源が駄目でねえ。行きたがらねえんだもの。――札幌ばおつかながつてるんだべよ。」
「源吉君、どうした。」
「駄目だんす。」源吉はさう云つた。「連れてきたつて、又行くべよ。」
「こんだもの。」母親はあきれたやうに、先生の顏を見た。そのことから、先生が札幌にゐたときの話をした。そしてこんなことを云つた。――若し一度でも都會の味が分つたら、こんな田舍には、とても居られるものでない。電話があつて、どんな遠くの人とでもすぐその場にゐて用事が話せる。自動車が何臺とある。電車がある。それに女は何時でも人形さんのやうに、綺麗に白粉をつけ、長い袖の着物を着て歩いてる。活動寫眞は毎日あるし、芝居も見れるし、音樂會はある。公園がある。
 それに男だつて、外國の寫眞に出てくる人達とちつとも異らないやうな恰好で、町をキユツ/\と、光るほどに磨いた靴をはいて歩いてゐる。
「まあ、ねえ――」母がびつくりしたやう[#「母がびつくりしたやう」はママ]
「それにどうだ、百姓は。――」先生は一寸言葉を切つた。
「年中糞こやしの中にうづまつて、眞ツ黒けになつて、男だか女だか分らなくなる。この邊の女の手の皮なんて、まるで雜巾みたいでないか。朝は暗いうちから、それも夜まで。所がそれから又夜なべだ。――それで、ウンと金でも殘るんならいゝさ。ねえ、お母さん。」
 先生は變な調子で笑つた。「市(まち)の金持なんて、綺麗なビルデイングあたりで、綺麗な、上品な仕事を、チヨイ/\とやると、もうそれで一日終り。そしてたんまり金が入る。とてもお話にならないさ。」さう云つてから、
「どうだい。」と源吉に云つた。
 源吉はだまつてゐた。
「そんでせうねえ!」母親は感心して、「市の立派な人さんだちだものねえ。」
「源吉君分るかい、――この理窟が……」
「…………」
 源吉は先生の顏を見たが、何も答へなかつた。そして口に水をふくんで、それを霧打ちにして、藁を木槌で打つた。先生は煙草を喫ひながら、少しだまつてゐた。それから、フト思ひ出したやうに、
「あ、勝君が苗穗の鐵道の工場へ入つたつて、聞いたか。」
「ほんですか。」源吉もひよいと氣をひかれた。「やつぱりねえ。んなもんだ。」
「勝君の家(うち)で云つてたよ。――勝君も亦一苦勞だ。」
「お文ばけしかけたんだ、あの勝!」母親は怒つて云つた。
「なア、源吉君、百姓がたつた一人働けば、自分の一家を食はして行つて、おまけに地主にぜいたく三昧な暮しをさしてやる事も出來るし、その地主のお蔭で生きて行つてゐる人にも恩惠を分けてやることも出來るんだ。大したもんだよ。人間を生かしてやるも、やらないも意のまゝに出來るのは、お百姓と職工だけなんだよ。面白いだらう。」先生はいつも決して見せなかつた笑顏をした。それから笑談のやうな調子で、「偉いもんだよ。世界中で一番偉いのは百姓と職工といふわけになるだらう。ハヽヽヽヽ。ところがねえ、源吉君、その百姓と職工さんが一番貧乏して、一番薄汚くて、一番人に馬鹿にされて、一番働かされてるから、愉快だよ。」
 源吉も思はずその調子に引き入れられて、笑つた。母親は、何か、分つたやうな分らないやうな顏をしてゐた。
「面白いよ、こんなことを考へてれば。六月に地主が、皆んなを集めて、何んか饒舌つたらう。お前たちの貧乏するのは何處かお前達に罪があるんだ、働くものに追付く貧乏がないつて。皆もつともだ、もつともだつて、聞いてたツけ。――所が、なんのことない、さうやつて、ウンとこさ働かして置いて、その一番いゝ處をうま/\とひつたくつて行くのが地主だから面白いつて。まつたく地主に追付くものは一つだつてないさ。處が、奇妙な事もあればあるもんで、誰も地主にちよろまかされてるんだてえ事を知らないんだ。それでまだ稼ぎが足りないんだべ、まだ足りないんだべつて、一生懸命働いてるんだ。地主の奴、うしろで、舌ばペロ/\出して、喜んでるだべよ! 働け働けたつて、今まででさへ百姓が朝四時か五時から起きてさ、晩はまた晩で、七時も八時迄も働いてるんだ。これよりもつと朝早く、夜はおそくして、馬車馬見たいに、働いたら、それこそ三日で百姓ぶつ倒れるべよ。百姓位のべつ暇なしに働くものなんかあるか。――働きが足りないから貧乏してるなんて、ウソの大皮さ。」
「先生さま、まア何云ふだべ。」母親はびつくりして云つた。
「イヤ、お前んとこでも、ウンと働いてやれや。せば、地主の倉さ米俵が、うんとこさ積まさつて、逆にお前達の口がカラ/\になつてくるから。」先生は高聲で笑つた。
 源吉は、つんのめされた人のやうな、固い、むづかしい顏をしてゐた。時々、フト木槌がとまつた。
「俺、何時でも不思議に思つてるのは、みんながこんなに貧乏してゐるのに、どういふわけでこんなに貧乏かつてことが、誰も分つてゐないことだよ。なア、源吉君。地主があつたらこと云ひやがるし、坊主は又坊主の奴で、地主からたんまり貰つたもんだから、何事も佛樣のみ胸のまゝだなんてぬかすもんで、分らないのが、イヨ/\こんがらがつて分らなくなつたんだ。が、洗つたところを見れば、――何も、かも、はつきりしたもんだよ。百姓、あんまりはつきりすると自分でどうしていゝか困るのかなア。」又そこで笑つた。そして、獨りで「ウン、困るんだ。困るんから……分らないことにして置いてるんだ。」
 先生は源吉の方を見た。源吉が何か云ひ出すのを待つ、といふやうな恰好をした。が、源吉は眉をひそめたむづかしい顏を、まだ、してゐた。
「まア/\、先生樣、そつたらごと、地主樣にでも聞えたら、大變なごとになるべしよ。」
 先生はちよつとだまつてゐた。が、それからは別なことを話した。爐邊に寢てゐた由が、何かに吃驚したやうに、跳ね上つた。そして、立つたまゝポカーンとした。皆その方を見た。
「由、何ば寢ぼけてるんだ!」
 由は、それから四圍をキヨロ/\見ながら、身體を何囘もゆすつた。由の身體には虱が湧いてゐた。
「ホラ、校長さんがおいでになつてるど。」
 由は校長先生を見ると、頭をさげた。が、何も云はずにすぐ又爐邊に坐つた。そして兩膝頭と顎が喰付くやうに、圓まつて寢込んでしまつた。
「うなされてる。」
 校長先生はそれからしばらくして、イガ栗頭をゴシ/\かきながら歸つて行つた。表をあけながら、「ウツ、寒い。」と云つて、袂に手をひつこめた。戸がしまつてからすぐ家の側で、先生の小便をしてゐる音がした。
「お晩でした。」誰かゞさう云つて通つて行つた。
 先生は小便をしながら、「や、お晩。」と、何時ものザラ/\した聲で云つた。
 仕事が終つてから、母親が皮をむいて置いた馬鈴薯を大きな鍋に入れて湯煮をした。すつかり煮えた頃それを笊にとつて、上から鹽をかけた。母親と源吉が爐邊に坐つて、それを喰つた。うまい馬鈴薯は、さういふ風にして煮ると「粉を吹い」た。二人は熱いのをフウ/\吹きながら頬ばつた。母親は、源吉の向側に、安坐をかいて坐つてゐた。が、一寸すると、芋を口にもつて行きながら、その手が口元に行かずに、……母親は居眠りをしてゐた。が、手がガクツと動くので、自分にかへつて、とにかく芋を口に入れるが、口をもぐ/\させてゐるうちに、――のみ下さないで、口にためたまゝ、又居眠りを始めた。
 爐にくべてある木が時々パチ/\とはねた。その音で、母親が時々、少し自分にかへつた。源吉はものも云はずに、芋を喰つてゐた。何か考へ事でもしてゐるやうに、口を機械的にしか動かしてゐなかつた。
 柱時計が四つ、ゆるく、打つた。母親は、びつくりして、今度は本當に眼をさました。そして、くるつと圓くなつて寢てゐる由をゆり起した。由は眼をさますと、不機嫌に、ねじけ始めた。
「ホラ、校長先生!」母がどなつた。
 由はギヨツとしたやうに、四圍(あたり)を見た。
「うそ、うそ! うそ□――うそ※[#感嘆符三つ、70-8]……」とう/\由が本氣に泣き出してしまつた。
「この野郎。早く小便たれてこ。表さ行(え)つて。」
 由は中々立たなかつた。三度も、四度も云はれて、表へ立つた。が、戸を少し細目にあけると、そこからチンポコだけ出して、勢ひよく表へやつた。
「又、表さ出ねえで。なんぼ癖惡いんだか。――あどから臭せくツて!――赤びつき(赤子)でもあるまいし。えゝか、あとから兄から、うんブンなぐられるべ!」
「表おツかねえで。んに、寒いわ。」半分泣き聲で由が云つた。
「よし/\、うんと、そつたらごとせ。」
 母親は床を三つ敷いた。
「なア源ん、校長先生あれきつと、――あれだ。飛んでもない事云ふもんだ。本氣に聞くなよ。うん。」床をしきながら、母がさう云つた。
 源吉は、芋を喰ひあきると、火箸をもつたまゝ、爐の中を見てゐた。火箸で、火のオキを色々に、ならべてみたり、崩してみたり、しばらくさうしてゐた。
 由と母親が寢てしまつた。
 源吉は爐の側にある木をとつてくべた。それからそれが一しきり燃え終るまで、すゝけた青銅の像のやうに、坐つてゐた。ランプも石油がなくなつてきて、だん/\焔が細くなつてきた。
「源、まだ起きてたのか。燃料(たきもの)たいしだ。――寢かされ。」
 母親が眼をさまして、一寸枕から顏をあげて、こつちを見ながら云つた。源吉は火も、もう燃え殘りしかなくて、自分が寒くなつてゐたのに氣付いた。
「うん。」さう云つて、立ち上つた。……
 後の窓に、大きな影になつて、源吉の身體がうつつた。
「なんまんだ、なんまんだ、――。」ブツ/\母親が云ふのを源吉はきいた。

      六

 長い冬が來た。百姓は今年の不作の埋合せをしなければならなかつた。
 源吉は、村の人達五、六人と、朝里の山奧へ入つて、しなの皮はぎに雇はれるために、雪が降つたら出掛けることに決めてゐた。それが二月一杯できり上ると、余市の鰊場へ行くことになつてゐた。そして四月の終り頃村へ歸つてくる。それはどの百姓も大抵さうした。
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