防雪林
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著者名:小林多喜二 

 せきが源吉の方を見て、云つた。
 源吉はだまつてゐた。
「わしも札幌さ行(え)きてえからつて、云つてやれば、來るどこでねえつて――そのくせ、自分であつたらに行きたがつたこと忘れてよ。」
 外では、時々豆でもぶツつけるやうに、雨が横なぐりに當る音がした。その度にランプが搖れて、後の障子に大きくうつつてゐる皆の影をゆすつた。――延びたり、ちゞんだりした。
 由は飯を食ひ終ると、焚火に、兩足を立てゝ、繪本を見た。小指の先程のチンポコを出したまゝだつた。
「兄、狼見たことあるか。」
「見たことねえ。」
「繪で見たべよ。」
「ん。」
「どつち強い。」
「強え方強えべよ。」
「いや/\、駄目――え。」
 源吉は大きな聲を出して笑つた。
 樹の根ツこをくべてある爐の火が、節の處に行つたせゐか、パチ/\となつて、火が爐の外へはねとんだ。
 一つが由の「朝顏の莟みたいな」チンポコへとんだ。
「熱ツ々々……□」
 由は繪本をなげ飛ばすと、後へひつくりかへつて、着物をバタ/\とほろつた。
「ホラ、見ろ、そつたらもの向けてるから、火の神樣におこられたんだべ。馬鹿。」
「糞、ううーうん、/\、」
 由が半分泣きさうにして、身體をゆすつた。
 せきとお文は臺所に、ローソクを立てゝ、茶碗などを洗つた。そこに取りつけてある窓にプツ/\と雨が當つた。そして横にスウーと硝子の面を流れた。
「ひどくなるでア。」
 お文も「兄、やめればえゝによ。」と云つた。
「俺アだぢ來た頃なんてみんな取りてえだけ秋味(鮭)ばとつたもんだ。夜、だまつてれば、キユ/\/\つて、秋味なア河面さ頭ば出して泣くの聞えたもんだ。」
 お文がくすツと笑つた。
「ん、馬鹿。ほんたうだで。をかしイ世の中になつたもんだ。」
 遠くで、牛がないた。すると、別な方でもないた。が、風の工合で、途中でそれが聞えなくなつた。
 由は仰向けになつて、何んか歌のやうなものをうたつてゐたが、
「お母(ちゝ)、いたこツて何んだ?」ときいた。「いたこつ來て、吉川のお父(と)うばおろしてみたつけアなあ、お父、今死んで、火焚きばやつて苦しんでるんだつて云つたどよ。――いたこつて婆だべ。いたこ婆つて云つてたど。」
「ふんとか?」
「いたこ婆にやるんだつて、吉川で油揚ばこしらへてたど。」
「お稻荷樣だべ。」
「お稻荷樣つて狐だべ。」
「んだ。」
「勝とこの芳なあ犬ばつれて吉川さ遊びに行(え)つたら、怒られたど。」
「んだべよ。」
「兄、狐、犬よんか弱いんだべ。」
 源吉はだまつてゐた。
「吉川の母(ちゝ)かなし/\ツて泣いてたど。眼ば眞赤にしてよ。」
 お文は裏の納屋に提灯をつけて入つて行つた。入口のすぐ片隅に積んである俵の中へ手を入れて、馬鈴薯をとり出した。それを自分の前掛の中に入れた。鼠がガサ/\と奧の方へ走つて行つた。提灯の影が眞暗な物置の天井に、圓く動いた。
「ホラ、芋だ。」
 お文は、歸つてきて、爐邊へ前掛から芋をあけた。
「芋か――くそ、うまぐねえで。」
 由はそれを仰向けに寢ながら足先で、あつちこつちへ、ごろ/\させて、惡戲した。
「ん、この罰當り!」せきがその足を火箸でなぐつた。由は足をちゞめると、舌を出した。
「吉川でなんか、薩摩芋ばくつてたど。」
「今に、見てれ、その足腐つて行ぐから。」
 源吉は大きく兩腕を平行線にグツと上にのばして、あくびをした。その影が障子で、丁度鬼のやうにうつつた。
「おツかねえ。」由が首をちゞめて、その方をみた。
 源吉が振りかへつてみて、「なアんだ、馬鹿!」さう云つて、芋を二つ三つとると、爐の灰の中にいけた。
「由、あとで、燒けてから食へたえなんて云ふなよ。」
 由はワザと別な方を見て、そのまゝ身體を横へごろりところがした。
 お文はランプの下に縫ひかけの着物を持つてきた。それから自分の芋を、灰にいけた。
「寒くなつた。もう雪だべ。嫌(えや)だな、これからの北海道つて! 穴さ入つた熊みたいによ。半年以上もひと足だつて出られないんだ――嫌になる。」
「嫌だつてどうなるか、えゝ。」
「どうにもならないからよ。」
「んだら、だまツてるもんだ。」
「……」フンとしたやうに「默つてるさ――」
 由は寢ころびながら、物差をもつて、それをしのらしたり、なんだりしてゐたが、それで今度は姉の身體に惡戲し出した。初め、お文はプン/\してゐたので分らなかつた。無意識に、惡戲された處へ手をやつた。それが由には面白かつた。何度もさうした。それから首筋に物差の端をつけた。お文は今度は氣付いて、
「これ!」と云つた。
 もう一度やつた。そして、「やア、こゝに、姉の首にかたがついてるど。」と云つて、そこをつツついた。
 お文はいきなりふり向くと、物差を力まかせにとりあげてしまつた。
 爐邊に安坐をかいてゐた母親は、何時か頭を振つてゐた。ランプの光で、顏にはつきり陰がつくと、急に母親の年寄つたのが分つた。
「母(ちゝ)みたえになれば、一番えゝ。」
 お文は母の方を見て云つた。
 ランプの焔の工合で家が明るくなつたり、暗くなつたりした。表の泥濘を草鞋をはいてペチヤ/\と通る足音が聞えた。
 ねぢのゆるんだ時計が八時のところでゆつくり四つ打つた。由は爐に外ツ方を向けたまゝ眠つてしまつた。源吉は雨工合を見るために一寸表へ出てみた。
 それから源吉は自分で仕度をした。お文は仕事をしながら、時々兄を見た。
「いゝのかい?」
 が源吉はだまつてゐた。源吉はすつかり仕度が出來ると、網を背負つて家を出た。雨は降つてゐなかつた。然し暗い夜だつた。彼は何度も足を窪地に落して、不意を喰つた。そんな處は泥水がたまつてゐるので、その度に思ひツ切り泥をはねあげて、顏までかゝつた。空には星が出てゐた。遠くの方で雜木林か何かに風が當つてゐるやうな音が不氣味に絶えずしてゐた。どつちを見ても明り一つ見えなかつた。遙か東南に、地平線のあたりがかすかに極く小部分明るく思はれた。岩見澤だつた。
 彼は歩きながら、自分のこれからしてのけようと思つてゐることを考へてゐた。源吉は何かに對して「畜生!」と獨りで云つた。彼は何べんもツバをはいた。じつとしてゐられない氣持だつた。そして、何んか、かう、自分の歩いてゐることが齒がゆくてたまらなかつた。「畜生!」道が曲つてゐた。
 そこを曲ると、二町程先きに明りが見えた。小さい窓からのランプの明りだつた。と、七、八間後の草ムラが、急にザアーと鳴つた、かと思ふと、雨が降つてきた。忽ち一面、彼の前も後も横も雨の音で包まれてしまつた。小さい窓の明りのところだけ、四角に限つて、雨脚が見えた。源吉が、その家の側に行くと、暗がりで、急に、犬ののどをうならせてゐる聲をきいた。彼はひよいと思ひ出して、犬の名を、その方へ見當をつけて、ひくゝ呼んでみた。すると、それが止んで、足にものが當つた、犬が今度は彼の足にまつはりついて來たのだつた。彼は二、三度犬の名を云つた。
 雨のふる音が少し薄くなつたと思ふと、だん/\やんできた。じつとしてゐると、その雨の音が、西の方からやんできて、今では、東の方に移つて行くのがはつきり分つた。源吉のところでは雨が全く止んでゐるのに、石狩川の方に雨が降つてゐる音がした。それが、又だん/\野面を渡つて、後から後からとふり止んでゆく音が、はつきり分つた。
 源吉は裏口にまはると、「勝、勝」と呼んだ。
 家の中で誰かゞ立ち上つて、土間の下駄をつゝかけながら、來る音を源吉は聞いた。戸をガタ/\させてゐたが、がらつと開いた。光がサツと外へ流れ出た。入口に立つてゐた源吉に、眞向(まとも)に光が來た。
「源さんか。」
「ウン、行くか。」
「行く。一寸待つてくれ。」
「どうだ、」さう云つて、一寸聲をひそめて、「お父(とう)なんか云はねえか。」
「ううん。」勝はあいまいに返事をした。
 源吉はニヤツと笑つて、鼻を動かした。今朝源吉は、恐ろしがつて、嫌がる勝に、無理々々承知をさしたのだつた。彼はそのことを思ふと、をかしかつた。
「んだら、早く用意すべし。」と云つた。
 一寸經つて、二人は暗い道を歩いてゐた。
「どの邊でするんだ。」
「小(こ)一里のぼるだよ。せば北村と近くなるべ。んでなえと見(め)付かつたどき、うるせえべよ。」
「道廳の役人が入つてるさうだど。」
「んだべよ、きつと。んだから、なほ面白いんだよ。」
「…………」
「道廳の小役人に見付かつてたまるもんけ。あえつ等だつて、おツかながつてるし、今頃眠むがつてるべ。」
 源吉は大きな聲で笑つた。が、だだツ廣い平原はちつとも響き返へしもしないで、かへつて不氣味に消えた。
 源吉は先に立つて、あまりものも云はずについてくる勝を、引きずツてでもゐるやうに、グン/\歩いてゐた。五分位歩いたとき、又雨が降つてきた。眞暗闇の廣漠々とした平原に雨がザアーと音をさして降つてゐるその最(さ)中を提灯もつけずに歩くのは、勝には、然し、矢張り氣持よくなかつた。
「嫌だなア。」
「うん?」源吉はふり向いて、雨の音に逆つて、きいた。
「あまりよくねえツて。」
「何が。」
 勝はてれたやうに笑つた。
 しばらくしてから、
「役人は何處に泊つてるんだ。」と、勝が自分の前を歩いてゆく、がつしりした肩をしてゐる源吉にきいた。
「北村だべよ。北村の宿屋だべよ。――お湯さ入つて、えゝ氣持で長がまつてるべ。こつから三里もあるもの、ワザ/\こつたら雨降りに、出掛けて來なべえ。」
「今朝、俺アのお母川さ行つたら、五、六疋秋味が背中ば見せて下つて行つたツて云つたで。」
「ンか、うめえ/\。」
 それからしばらく二人ともだまつて歩いた。勝は、大股な源吉に、急ぎ足で追ひつくやうに歩いてゐた。
 急に横で、牛が幅の廣い聲で、ないた。思ひがけないので二人ともギヨツとした。
「畜生、びつくりさせやがる。めんこくもねえ牛(べこ)だ!」
 すると、ずウと遠くで、別な牛が答へるやうになくのが聞えた。一軒の家が横手に見えた。其處を通り過ぎるとき、思ひ出したやうに勝が、
「芳のことをきいたか?」と、前に言葉をかけた。勝は、芳が札幌へ行く前の、芳と源吉の關係を知つてゐた。
「うん、」源吉は面白くないことを露骨に出して返事をした。「お文も困りもんだよ。」
「…………」
 二人は、そこで頭でも鉢合せしたやうに、言葉を切つた。
「勝、お前餘計なこと、お文に云ふんだべ。」
「俺?」
「うん。お前えも、お文に負けなえからなあ。百姓嫌(え)やになつたんだべよ。」
 勝はまだ何も云はなかつた。
「札幌の街(まち)ば見てから、夢ばツかし見てるべ。」
「こつたらどん百姓が、えゝかげん嫌にならなかつたら阿呆だらう。」
「ふん。――俺んだら阿呆だなあ。」さう云ふと、勝の眼の前をふさいでゐる肩がゆるいで、笑ひ出した。「俺ア百姓ツ子だよ。」
 勝は、何んかしら、ギヨツとした。が「自慢にもならない。」さうひくゝ云つた。
「勝、お前え、芳札幌で何してるかおべでるか。」
 勝は云ひづらさうに「あんまりいゝ處でないさうだツてよ。」
「淫賣(ごけ)でもしてるべよ。」
 雨が殆どやんで、泥濘(ぬかるみ)を歩く二人の足音だけが耳についた。
「……淫賣(ごけ)になんかしたくねえよ。」
 源吉は獨言のやうに云つた。後になつてゐる勝にはよつく聞えなかつた。
 眞暗な野ツ原の夜道を三十分近くも歩いた。
「こゝから川岸に出るんだ。」
 源吉は立ち止つて、本道から小さい横道に入つた。「もう直ぐだよ。」
 畑と畑との間の細い道だつた。それで、兩側の雨にぬれてゐる草が歩く度に股引に當つた。そして股引が、すぐ氣持惡くぐぢよ/\になつてしまつた。
「さあ、氣をつけるべ。」源吉はさう云つて、背の網をゆすり上げた。「まさか、こつたら雨の日に役人もゐめえよ。」
「俺――」
「うん?」
「…………」
「何んだ?」源吉は振りかへつた。「うん?」
「つかまつたりしたらわやだど。」
「……なんだ、おつかなくでもなつたんか。」
「…………」
「どうした?」
「あんまりよくねえ。」
「馬鹿ツ、元氣出すんだ。」
 一寸した林の中に二人は入つた。梢越しに、空が見えた。雲が黒い、細い枝の上の頂上をかすめて、飛んでゆくやうに見えた。枝がゆれて、互に打ち當るそれ/″\の音が一緒になつて、變な凄味のあるうなりがしてゐた。そして半町も行かないうちに、心持眼下に、石狩川の川面が見えた。秋の末の、荒模樣の暗い夜に、その川面が、鈍い、然し、底氣味の惡い光をもつて流れてゐた。石狩川は晝でも、あまり氣持はよくなかつた。川の中央(まんなか)頃には二つも三つも、水が少しの音もたてずに渦を卷いてゐた。棒切れとか、紙屑のやうなものが流れてくる。すると、その渦卷のところで、グル/\行つたり來たりする、と、何かゞ川底にゐて、丁度ひつぱりこむやうに、その木屑などが渦卷の中に「吸ひこまれて」しまふ。それ等は晝でもいゝ氣持がしなかつた。勝は、今、眼下に、その音をせず、變んに底氣味のわるい石狩川を見た、身體が瞬間ブルンと顫はさつた。
「渡船場だべ、こゝ?」
 勝は源吉との距離をつめて、きいた。
 二人は川岸に下りた。源吉は岸につないである小舟に背の荷物を、どしんと投げてやつた。それから舟の端に腰をかけて、一寸の間、四圍(あたり)を見てゐた。
「オイ、勝、お前なんか大きな聲で、唄ば歌へや。」源吉は煙草を出しながら云つた。
 勝は、變に思つて、きゝかへした。
「なんでもえゝんだ。――まア、先に俺一つ歌ふかなア。――なんでも、大ツきな聲でだ。」

スツトトン、スツトトンと通(かよ)はせてえ――と、
今更ら嫌(え)やとは、それア無理よ、――だ、
嫌やなら、嫌ぢやと最初からア――と、
云(え)えば、ストトンと通やせぬ――と、
スツトトン、スツトトン

 源吉は、しやがれた聲を、突調子もなく大きく張りあげて歌つた。それがちつとも反響もしないで、ぶつきら棒に消えてしまつた。勝は、氣味わるく、むしろキヨトンとしてゐた。
「どうしたんだ?」
 源吉は、急に笑ひ出した。大きな身體をゆすつて、無遠慮に大きく笑つた。
「うん?」
 笑ひをやめない。
「オイ、よせよ。」
 勝は顏をしかめて、哀願でもするやうに立つてゐた。
「ハヽヽヽヽヽヽ。」
 それから、「もう一つ歌ふど。」と云つた。

鳥も通はぬう……うーう
(あ、聲が出ない。と云つて、)
花――ア櫻木イ――
人はア――ア武士――か。

 源吉は途中で止(よ)すと、勝をうながして、今來た道をもどつた。半町位來て又林の中に入つた。それから、源吉は立ちどまると、
「しばらく、かうやつてるんだ。」と云つて、源吉は耳をすまして、四圍に氣をつけながらじつとしてゐた。二十分も二人はさうしてゐた。
「よし/\、大丈夫。」さう云ふと、「さあ、行(え)くべ。」
 又二人は舟のところまで下りて行つた。そして、「乘るべし。」と云つた。
 源吉は勝をのせると、力を入れた、舟を川の眞ん中に押し出し、うまく、その瞬間ひよいと舟の後に飛びのつた。そのはずみに、舟のへようしが、いきり立つた馬の首のやうに立ち上つた。そして舟がぐら/\ツとゆれた。
「なんだか、糞も分らねよ。」勝は源吉が網の上に身體を下すとさう云つた。
「んか。なんでもねえよ。役人がゐるかと思つてちよいとやつてみたのさ。お前え、初めだから分らねんだ。みんなあやつて、すんだ。」
 さう云つて、「これから、その代り、おとなしくするんだ。」
 勝は身體が顫へてどうにもならなかつた。勝は内心源吉と一緒に來たことを後悔し出してゐた。石狩川には「主」がゐる、と云はれてゐた。舟もろとも、渦卷の中にグル/\卷きこまれる。さういふ感じがしてならなかつた。とにかく、晝、それはきつと馬鹿らしい話か知れないが、今、勝にはそんな事は問題でなかつた。事實、どういふ理由か分らないが、石狩川に入つて死んだ人は、決してその死體が上らなかつた。川は夜の海より氣味が惡かつた。今にも水から、「突如」何か出さうで、――出さうでならなかつた。舟は或ひはともが先きになつたり、めおしが先きになつたりして流されて行つた。舟底で、ペチヤ/\と水が當る音がした。兩側は黒く、高くなつてゐるところは切りとつた斷崖のやうになつてゐた。又、すぐずウと地平線が見える程低いところもあつた。川岸まで林が來てゐて、それが風をうけて、搖れてゐた。その下の水は眞暗になつて、そこを舟が通ると、今まで水のかすかな光の反射で見えてゐたお互の顏が見えなくなつた。
「オ、勝、あのなア、お前こつち側を見て、誰か人がゐたら知らせれ。」
 さう云ふと、源吉はそれと反對側を見守つた。
 十分程下つた。二日も雨が降つたので、水量が五寸位も高くなつて、流れも早くなつてゐた。やがて、石狩川が大きく、ゆるやかにカーブしてゐるところへ來た。すると、源吉は櫂をとりあげて、その可成り強い水流にさからつて、舟を岸につけようとした。勝も櫓をとると、さうした。二人が滿身の力で漕ぐ度に、小さい舟がグラツ/\とゆれた。そして、櫓が弓のやうにしのつた。それに力を入れ過ぎて、自分の力でよろめいたりした。勝は、二、三囘も不態に自分の身體の中心を失つた。舟は二人の力にも拘らず、カーブの眞中の方へ流され勝ちだつた。「ウーツ、ウーツ!」源吉は、まるで文字通り仁王立ちになつて、唸りながら、漕いだ。舟は、やがて二人の努力の千分の一位づゝ效いてきた。
「そらツ! やれツ!」
 勝も身體中が汗ばんできた。
 舟が、そして、川の中心を一間程切り拔けると、あとは今度は、その惰勢のように、樂になつた。
「これでいゝ、これでいゝ!」
 舟が砂の岸に、ズシンと乘りあげたとき、源吉は反動でよろめきながら着物の袖で顏中の汗をふいた。
「仕事さかゝる前、ちよつと、上さ行(え)つて、見張つてゝくれ。」さう源吉が、勝に云ふと、彼は、網の中を探がして、丁度野球に使ふバツトとそつくり同じやうな棍棒を出して渡した。勝は、それをめづらしさうに受取つて、苦笑した。
「凄いなア。」
 それを、何か玩具のやうにいぢりながら、砂の崖になつてゐる處をよぢ上り始めた。源吉はその後から、網の端の、ロープをもつて上つた。二人は平地の上に頭だけを出して、まづ、一度用心深く見□はしてみた。眞暗でよくは分らなかつた。風がずウと遠くを渡つてゐた。――そしてそれが移つてゆく工合が、はつきり分つた。空は地面と區別が出來なかつた。横なぐりに降つてゐる雨が、時々ひよいと眼の前に白く光つてみえた。
「こつたらどき役人くるけア。」
 源吉は、勝を立たして置いて、前から、それと決めてゐた樹の幹に、そのロープを卷きつけた。幹は雨でヌラ/\してゐて、源吉が力一杯に結ぶと、樹皮がボロ/\にはげて落ちた。しつかり結び終ると、今度は、兩手を幹にかけて、足場をふみならして、力一杯にゆすつた。急に頭の上で葉がガサ/\となると、パラ/\音がして、雨滴が落ちてきた。一寸離れて立つてゐた勝が、その時、ギヨツとしたやうに、源吉の立つてゐる所へ走つてきた。源吉も思はず緊張して、向き直つた。
「何んだ。」源吉は聲をひそめて、然し、鋭くきいた。
「今の、なんだ。」勝は、周章てゝ、どもつて云つた。
「うん?」
「ガサ/\つての。」
 源吉は、「何アーんで。」と云つて、笑つた。「んか、――何アんでえ。俺の方でびつくりしてしまつたで。」
「何んだ。びつくりしたで。」
「樹ば振つてみたんだ。水流が早えから、大丈夫かなと思つて、幹ばためしてみたんだ。そつたらこつたら、その棍棒糞も役に立たねべよ。」源吉は笑つた。
 二人は又舟にもどつた。そして、網をすつかり順序よく舟に積み直すと、源吉は自分で舟を漕いで、勝に、網を下してもらふことにした。舟は眞直ぐ向ひ側に、力一杯に漕ぎ出された。が、さうすると、丁度結局舟は斜め下流に、カーブにかゝつて向ひ側につくことになるのだつた。
 源吉は漕ぎながら、「さア、やつた。」と云つた。勝はドン/\網を水の中になげこんで行つた。向ひ側につくと、源吉は勝に手傳はせて網の端のロープを河には後向きに、肩にかけ、網が水流に流される力に反抗して、岸の樹に結びつけた。二人の力でも、二人とも時々ヨロ/\と後によろけたことさへあつた。それから舟を岸にあげた。
 それで終つた。
 二人は次の朝四時頃、こゝへ來ることにして、そこから畑道に出て、家に歸つた。
 源吉が家に入つて行くと、ランプを消して皆寢てゐた。彼は手さぐりで、臺所に行つて、水瓶からひしやくのまゝ、ゴクリ/\と咽喉をならして水を二、三杯續け樣にのんだ。厩小屋で、馬が尾毛で、ピシリ/\と自分の身體をうつ音がした。

      二

 朝の四時は、夜の九時、十時と同じやうに眞暗だつた。それよりは青みを帶びて、何處か底寒かつた。
 川は水が増して、その勢ひで、ロープを結びつけてゐた樹が、たわんで、ゆれてゐた。二人が家を出て、其處に着くまでは雨が止んでゐたのに、仕事にとりかゝつた頃から、又ひどく降り出してきた。
 すぐに網をひきにかゝつた。その水流に逆つて網をひくことは、然し容易な仕事ではなかつた。二人は何度もヨロめいた。そのまんま河ん中に、ひつぱりこまれかゝつたりした。二人は息をハア/\させて、二十分位あとには、身體中汗みどれになつて、それが湯氣になつて出た。それでも、やうやくひかさつてきた。さう、少しでもなると、二人は調子よく元氣づいてきて、「エンヤ、エンヤ」の掛聲をかけてひき出した。それからはどん/\引かさつた。力がさう要らなくなつた。
 源吉は、一寸身體を休めると、「勝、棍棒は、あるべ?」ときいた。勝が「うん」と云ふと源吉はエヘ、エヘ/\と笑つた。「たまらねえぞ、畜生、野郎。」
 天井で、水桶でもひつくりかへしたやうに、無茶に、雨が地面をたゝきつけ、はねかへり、ゴン/\音をして流れてゐた。眞暗なのにも拘らず、雨のために、妙に白つぽい明るさがたゞよつてゐた。
 と、「バヂヤ/\/\」と水をはね返す音が起つたが、すぐそれツ切りだつた。一寸すると、又「バヂヤ/\」と水がはねかへつた。それからすぐ續いて、今度はもつと大きく「バヂヤ/\」となつた。網がだん/\引き寄せられてきた。

それ引いた、それ引いた。
女子(あねこ)の××を、それ引いた、それ引いた。

それ引いた、それ引いた、
嬶の××を、それ引いた、それ引いた。

アヽ、エンヤこらさと、エンヤこらさと。
どツこいしよ、どつこいしよ。

 源吉は息をきりながら、はやしをつけて、その大きな圖體ををどる時のやうに振つた。心持腰をまげて、内股を「鎌」にしながら、身體に拍子をとつた。それが源吉をまるで子供々々にさせた。網がだん/\狹められてくると、鮭がまるで板で水の面をたたきつけるやうな音をたてた。
「源、々、々!」勝が呼んだ。
「うむ?」
「あらツ! 見ろ。」
 夜は眞暗だつたのだ。――黒い衣(きれ)で眼かくしされてゐるやうに暗かつた。見ると、そのなかに、然し眼をひよいと疑ふ程に、鱗光が、ひらめいた。その次にすぐ、力強い、水をたゝきつける音が起つた。
「秋味だ!」源吉は大きな聲を出した。「でけえど、/\」だん/\水の「ばぢや/\」がひどくなつてきた。子供が水のかけ合ひでもしてゐるやうだつた。そのうちに、二、三匹は砂濱にはね上つたらしく、その肉付きの厚い身體を打ちつけながら、あばれた。源吉は勝に網をひかせて、自分は棍棒をもつて、川岸に降りた。網のそばまでくると、源吉は、心分量で十匹以上鮭が入つてゐることが分つた。いきなり横ツ面をたゝきつけるやうに、尾鰭ではじかれて、水と砂がとんできた。
「野郎!」
 源吉は顏を自分の雨でぬれた袖でぬぐふと、棍棒をふりあげた。見當をつけて、鮭の鼻ツぱしをなぐりつけた。
 キユツン! といふと、尾鰭を空にむけたまゝ、身をのばした。そのまゝ一寸さうしてゐた。が、尾鰭が下つて行つた。そして全くぐつたりしたやうに、尾鰭が下へつくと、ピク/\と身體が二、三度動いた。そしてそれからもう動かなかつた。
 源吉は、勝を呼んだ。勝が來たとき、源吉はものも云はずに、もう一匹の鼻へ一撃を加へた。勝はギヨツとして立ちすくんだ。源吉は、息がつまつた笑ひ方をした。源吉は一匹、一匹棍棒でなぐりつけて行つた。勝はそれをすぐえら(鰓)に手をかけて引つ張つて、舟にのせてあつた石油箱に入れた。ひつぱる度にピクツ/\と身體を動かすのや、まだ息だけはしてゐるらしく、鰓だけが動いてゐるのがあつた。
 源吉はさうやつてゐるうちに、妙に強暴な氣持になつてゐた。彼は一匹々々、「野郎」「畜生」「野郎」「畜生」と、唇をかんだり、齒をかんだりしながら、さうした。變に顏の筋肉が引きつつて、硬ばつたりした。そして氣が狂つたやうに、滅多打ちをした。
 さうかと思ふと、普段から、「野郎奴」と思つてゐたものの名を一々云ひながら、なぐりつけて行つた。そのことが、又、彼を不思議なほどにひきずつて行つた。
 ひよいとすると、生温いのが、顏にとんでくることがあつた。顏につくと、すぐねつとりとして、氣味が惡かつた。血だつた。源吉は一匹なぐり殺す度に、一匹、二匹と數へてゐた。七匹、八匹――となつて行く度に、だん/\大きな魚のはね返る音が、少なくなつて行つた。十匹まで數へて行くと、源吉のところから少し離れてゐたところで、一匹はねかへす音がしただけだつた。源吉はその方へ行かうとして、鮭のヌラ/\した身體をふんだ。思はず、源吉でさへ、ひやりとした。深夜に、鐵道で、轢死人でもふみつけるやうな氣がした。「十一匹――と。」源吉はさう云つて、耳をすましてみた。もう音がしなかつた。急に雨の音だけ源吉の耳についた。「十一匹か」と思つた。
 そして、「もう終りだ。十一匹。」と勝に云つた。
 勝はそれを二つの石油箱に入れると、背負へるやうにした。
「網と舟はどうするだ?」
「舟か?――こゝさあげておくさ。朝になつたら、モーター通るべよ、そのどき引張つて行つてくれるだ。網なんて、俺しよつてえくべ。」
「冗談でない。水さ入つたら、とつても重くて。」
「何、こつたらもの!」
         *
 二人は、畑道に出た、源吉はこんなに澤山とれるとは思つてもゐなかつただけ、子供のやうに上機嫌でゐた。が、勝はビク/\してゐた。この歸り道で、もし、出合頭に役人に會はないか、そのことで、勝の心は、後首でもひつつかまれてゐるやうだつた。何處もまだ/\暗かつた。だしぬけに牛が、すぐ側の眞闇から起つたとき、勝は、聲を出すところだつた。
 前から提灯が見えた。
「源、提灯。」勝は後から源吉に言葉をかけた。
「うん。」源吉は、すぐ道を外れて、畑の中に入つて行つた。十間程道から離れると、立ち止つた。二人はさうやつて提灯を行き過ごさした。じつと見てゐると、何處を見たつて一樣に眞暗な、ところが、提灯の動いてくる、火のとゞく一部分だけが見えた。草藪がちらつと光つたと思ふと、すぐ、道の兩側の畑の一部が見えたり、道の水たまりが見えたり、提灯がゆれると、その見える處が左に或ひは右に廣くなつたり、狹くなつたりした。
 行き過ぎると、二人は又道に出た。
「役人なんて、提灯ばつけてくるけア。」と源吉が笑つた。
「んだら、なほおつかねべよ。鼻先さぶつつかるまで、分らねえでないか。」
「んだら、こら。」さう云つて、身體を半分後にねぢ曲げて、勝の鼻先に、さつきの棍棒をつき出した。「これよ。」
 勝は、その棍棒から血なまぐさい臭ひがその時來たのを感じた、と同時に、ギヨツとした。
「馬鹿な!」勝は自分でもをかしいほどどもつて云つた。
「この村で、これで三ヶ月も一疋の魚ば喰つたことねえんだど。こつたら話つてあるか。後(うら)さ行つて、川ば見てれば、秋味の野郎、背中ば出して、泳いでるのに、三ヶ月も魚ば喰はねえつてあるか。糞ツたれ。そつたら分らねえ話あるか。それもよ、見ろ、下さ行けば、漁場の金持の野郎ども、たんまりとりやがるんだ。鑑札もくそもあるけア。」
 勝はだまつてゐた。
 源吉はさういふ事になると、心の中から、ヂリ/\と苛立つてくる不思議な怒りを感じた。こんな時役人にでも會つたら、彼は、鮭殺しに使つた棍棒をきつと、そいつの腦天にたゝきつけたかも知れない。
「俺、すきこのんで、こつたら事すると思つたら、大間違ひだで!」
 勝は源吉には變に、「底恐ろしさ」があるのを知つてゐたので、それを思つて、恐ろしくなつた。役人に會はないでくれゝばいゝと思つた。それは、役人に會へば、源吉がきつと、――本當に、きつと――役人を打ツ殺す、と思つたからだつた。
 勝は源吉のことで知つてゐることがあつた、それが今思はれた。餘程前、源吉の父親が内地からはる/″\この熊の出る北海道に渡つて來て以來、身體を土の上にえびのやうにまげて働きに働きつくしたお蔭で、やうやく一人前の土地になつた、――その土地をある金持のために押へられたことがあつた。その日になり、どうしても駄目で、その金持の手に渡さなければならなかつた。父はがつくりして、頭が痛いと云つてゐた。
 金持や役人などが二、三人どし/\入つてくると、父親に、ある書面に印を押さした。父親はまるで、ぼんやりして、印をとりに奧の間に入つて行くのに、その障子の前で、何かものでも忘れたやうにウロ/\した。
 丁度父親が印を押した時だつた。その書面の上に、身體をまげて、その方にばかり氣をとられてゐた金持が、うむツ! と云つて、後へふんぞりかへつた。皆はびつくりして、はね上つた。と、その時十一、二であつた源吉が、金持の足にだきつきながら、その毛のない脛にかじりついてゐた、のを皆は見た。身體をひきつけのやうに震はして、眼の色をかへながら、源吉が喰らひついてゐた。父親や役人が吃驚して、いくら離れさせようとしても、離れなかつた。大きな男の金持は、ワナにかゝつた兎のやうに、身體をごろ/\のたうつた。大聲をあげて泣きわめいた――。
 それまで――その日まで、源吉は一言も、畑のことについては云ひもしないし、父親が心配してゐるときでも、別に變つたことがなかつた。たゞ、かへつて何時もよりは無口に、おとなしくなつてゐた。それが、さうしたのだつた! この事件(こと)には隨分尾鰭がついて、部落内にひろまつた。勝もそれをきいた。
 源吉は何か事件(こと)があつても、じつとしてゐた。他の者なら、それについて何か云つたり、云ひあつたりする。源吉にはそれがなかつた。そして他のもの等が、その癖、結局は何もせず、ワイ/\してゐるとき、ノソ/\と出掛けて行つて、獨りで、とてつもない大きなことを仕出かした。歸つてきて、しかも、そのまゝ、そのことは一(ひと)ツ言も云はずに、むつしりしてゐた――かういふことがいくらもあつた。ウスのろだから、さうではなくて、何か、深い、しつかりしたのがあるので、さうなのだと、勝には思はれた。
 今、勝は、だから若し、源吉が役人と、ひよつこり會つたとしたら、勝はすぐ昔金持の脛にかぶりついた源吉であることを考へ、源吉が、あの棍棒で、てつきり、やらかすとしか思はれなかつた。それがまるで、「恐怖」のさそりみたいに勝の心にかぶりついてしまつた。
 二人はだまつて歩いた。ぬかる道を歩く足音だけがピチヤ/\/\と續いた。それが時々、くぼみに足を落して、身體を前のめりにのめらせたとき、亂れるだけだつた。さうしながら、勝は(勿論源吉も)前の方に氣を張つてゐた。勝が自分の家に來たとき、身體から急に力が拔けて、ヘナ/\になる程、氣を使つてゐたことを知つた。「助かつた」と思つた。
「一年振りだべ。ほら、お母ば喜ばせてやれよ。」
 源吉はさう云ふと、もう勝には見えなかつた。足音だけが暗闇でし、それが、一寸聞えてゐたが、ぽつちり消えてしまつた。草原のある路を曲つたらしかつた。
 それから、勝が裏口にまはつた。裏口のすぐ側にある納屋に、自分の荷物をおろしてゐると、誰かぬかる道を歩いてくる足音をきいた。勝は、自分の身體が丸太棒のやうに、瞬間、なつたのを感じた。
「勝。」――源吉だつた。
 勝は、分つても、然し、すぐに口に言葉が出なかつた。「――源吉――か。」
「うん」さう云ふと、のそりと大きな身體が、源吉――か、と云つた言葉をたぐつて、寄つてきた。
「あのなア、朝になつたら、お前え、こつから川岸の家まで、一匹づゝ配るんだど。さうせ。誰も食はねえでるんだから。――買つて來たツて云へば、それでえゝ。俺の方は石田の方まで分けるよ。當り前の事だんだ! なあ。」
「うん。」
「分つたべ、んだら、行(え)ぐど。」
 そして歸つて行つた。
 勝には、何か、かう力強い、一つ/\どつしりした足音であるやうに思はれ、源吉のもどつて行くのを、じつと聞いてゐた。

      三

 雪が今にも來る、さういふ天氣と思はれたのが、上(あが)つた。
 秋の終りの、空が高く晴れた氣持のいゝ日が、それから續いた。
 畑も、草原も、稻村も、林も、西の方だけに、遠くに見える低い山脈も、皆狐色になつてしまつてゐた。それが、澄んだ青空にくつきり對照されて、涯もなく廣がつてゐるのを見て、百姓たちは何んだか、目新しい、急に見せられたものゝやうに思つた。
 今度は本當にくる冬のために、村の人達が畑に出て仕度をし始めた。雜穀を背負つて、停車場のある町まで出て、それからその近邊をふれて賣つて歩くために、娘達が四、五人朝早く荷馬車に乘つて出掛けて行つた。お文もそれに加はつた。キヤツ/\と馬車の上で騷ぎながら、農家の前にくる毎に、一軒々々外から言葉をかけた。その女達は暗くなつてから、腰卷や襦袢の布(きれ)などを買つてもどつてきた。いゝ聲で、何人もで、歌をうたつてくるので、それとすぐ、家の中にゐる人には、
「あ、今歸つてきたとこだなア」と分つた。
 停車場のある町から、荒物屋の小僧がよく、田舍道を自轉車に乘つてやつてきた。畑で働いてゐる百姓達は、その度に腰をのばして、見た。小僧は時々言葉をかけて行つた。
 漬物の仕度をする女達は石狩川の堤を下りて行つて、拔いて來たすぐの土のついた大根を、繩ツ切れでこしらへたたはしでごし/\こすつて洗つた。そこは、河の曲り目などで、水流の關係で、砂洲になつてゐた。堤の上で働いてゐる百姓に、そこから、色々の女の歌が聞えてきた。
 山方面に出來た農産物、――主に、青豌豆など――を運ぶために、發動機船が、うるさく音をバタ/\たてゝ流れに逆つて河を上つて行つた。子供達は、その音が、遠くから少しでも聞えると、どん/\川岸の道を走つた。そして、川岸の堤に腰をかけて、足をブラ/\させながら、發動機船の通るのを待つてゐた。子供達は天氣さへよければ、いつでもそれをした。發動機は「上り」だと、音ばかりして中々見えなかつた。然し河が曲りくねつてゐるので、かへつて思ひがけなく、ひよツこり現はれることがあつた。子供達が、喜んで、手をふつて、「萬歳」などゝ云つた。と、船から、青い、油じみた服を着た人が、時々帽子を振つた。子供達が、然し、いくら萬歳などゝ呼んでも、船から誰も相手をしてくれないと、彼等は、つまらなさうに、だまつて、その後を見送つてゐることもあつた。發動機は荷物を積んだハシケを引張つてゐる時は、シキリなしにバタ/\やりながら、その度に身體をエンサ/\といふ風にゆすつて、進んでゐるとも分らない程の早さで、子供達の前を通つて行つた。「あら、モーター、汗かいて、ハアハア云つてる。」――子供達がさう云つた。
 由が隣りに坐つてゐる仲間の手をつかんで、自分の心臟にあてさせ、「分るべ。ドキ/\つて云つてるべ。」と云つた。「あのモーターの、バタ/\ツていふの、人間のこれど同んじだつて、うちの姉云つてたど。」
 皆は「んか」「んか」と云つて、てんでに今度は自分の胸に手をあてゝ見た。そして「んだ。」「んだ。」と云つた。
 發動機船が通り過ぎると、子供達は、畑にゐる親達に、手傳ふために、てんでに走つて行つた。

 二、三日して、小學校に、町からワザ/\呼んだ坊さんの説教があつた。それは、この一帶の地面をもつてゐる親方が、百姓の精神修養のために、一年に二度必ずそれをやつた。年寄つた百姓達はそれを待つてゐた。そして、かういふ事をしてくれる地主を、有難い方だ、と云つて、喜んでゐた。地主は、その度に若い娘にも「必ず」出るやうにと云つた。だから、若い男もそれに引かれて行くこともあつた。
 その日になると、何十年といふ百姓仕事で、風呂敷のやうに皺くちやになつた、曲つた錆釘のやうな年寄が、朝から、各□誘ひ合つて出掛けて行つた。表へ小便にも行けない老婆も、行かなければならないものだとしてゐた。七つ、八つの小娘や、十七、八の女が手をひいてやつた。それで眞黒い顏に、不似合に綺麗な赤の目立つ着物を着た人達が、畑と畑の道路に見えた。
 源吉の母親は、自分の夫が死んでからは、説教は決して缺かさなくなつた。娘のお文をも、その度に、連れて行きたがつた。が、お文は相手にしなかつた。「罰當り奴」と、母が云つた。
 説教が始まる頃、學校の、机や椅子をとり除けた教室が一杯になつた。集つたどの百姓も長い苦しい生活でどこか、無理矢理にひし曲げられたところがあつた。――どこか片輪だつた。年寄は、土から出てきた蟇のやうだつた。皆、久し振りで顏を合はせるものばかりだつた。同じ處にゐてさう會ふことがなかつた。色々な話が出た。煙具を出して、煙草を喫ふものもあつた。一緒に來てゐる孫達がお互にいたづらをし合つたり、年寄の圓い背を跳ね越して騷いでゐた。變に甘ずつぱい空氣で、教室がムンとした。
 坊さんは、こゝから四里ほどある村(それはこの東村よりもつと村らしい村だつた。)から來ることになつてゐた。坊さんは衣を着たまゝ自轉車に乘つてきたり、箱のついた荷馬車に、座布團をしいて、それに乘つてくる事もあつた。今度は、雨が上つたばかりなので荷馬車で來た。眼のひつこんだ、眉の濃い、そのくせ頭がてらりと禿げた、背の低い四十を越した男だつた。ザラ/\した聲で、大聲で説教をした。説教をしながら、たえず落着きなく、そのひつこんだ眼でギロ/\、あたりを見□はす癖があつた。――その、この前來た坊さんと同じ坊さんだつた。
 村の百姓達は、坊さんの云ふ一言々々に、「南無阿彌陀」を云つて、ガサ/\した厚い、ひびのよつてゐる掌でじゆずをならした。
「何事も阿彌陀樣のお心ぢや。――何事も阿彌陀樣のお心ぢや。それを忘れてはなりませぬぞ、いゝですか。」
「……決して不平を起してはなりません、さうおしやか樣はおつしやいましたぢや。何事もあみだ樣のお心ぢや。現世に於いて――この世の中に於いてぢや、苦しんだものは、あみだ樣のお側に參つたとき、始めて大極樂を得ることが出來るのだ。あの世に行つて、ちやんと、蓮華の上に坐つて、「なむあみだぶつ」と、心から云ふことが出來るのぢや。何事も不平を起してはなりませぬぢや。」
 坊さんは、物慣れた調子で、云つた。百姓達は、これ迄何度もその文句はきいてきてゐた。が、何度きいても、有難い言葉だ、と思つてゐた。そして今更のやうに頭をさげ、「南無阿彌陀」をくりかへした。
 年寄つた百姓達は、今まで生きて來た長い苦しかつた生涯をふりかへつてみた。そして自分は、不平を起さなかつたといふ事が分ると、ホツとした。さういふ苦しみを堪へてきた、それで、やがてあの世に行けば、あみだ樣のお側に行くことが出來る、年寄つた百姓はそのことより外に何んにも思はなかつた。何んだつて、この世の中の事は我慢しなければならない、と思つた。坊さんは又、お釋迦樣の難行苦行のことを持つてきて、それを丁度百姓のつらい一生にあてはめて云つた。それは百姓達を心から感激させた。
 坊さんはこの説教を終へると、一番信心深い家へ泊めてもらつて、今度は一軒々々□つて、説教をして歩いた。年寄のゐる百姓家では、足袋の切れたのを買はないで間に合はせても、坊さんを呼んだ。若しも、それが出來なかつたら、「後生」が惡くなるのではないか、と思つた。それは一番恐ろしいことだつた――百姓は今までこの長い間一息もしないで働かせられてきた、これ以上、死んでからも亦働かなければならない、そんなことであつたら、たまらないと思つた。百姓はどの百姓も多かれ少なかれ、あんまり働かなければならないこの世の中に、イヤ氣がさしてゐた。それから、何より、逃れたかつた。百姓にとつて、その事は足袋や、味噌どころではなかつた。百姓は、はつきりは考へてゐなくても、心の何處かで、何時も「來世」を思つてゐた。
 源吉の母親は、坊さんが來るといふ日、朝から何か臺所でこしらへてゐた。そして坊さんが來ると、それを出した。
 源吉の母親は、氣候が寒くなると腰や、足首などが痛んできた。長い間の、度を過ぎた働きが、だん/\身體にこたへてきたのだつた。母親は始終いやがる由に肩や腰をもませてゐた。坊さんは仔細らしく、お經を口早に、――うそぶくやうに唱へると、數珠をザラ/\とやつて、せきの肩や、腰などを、それでこすつたり、撫でたりした。そして、それはどの百姓家でもさうだつた。頑丈さうに見えても、百姓は大抵きつと、夜など、腰がやんできたり、肩がこつたりして眠れないで苦しんだ。だから、坊さんは一軒々々□つて歩くと、その方でも隨分金になつた。
 坊さんは二日ゐて、一軒々々□り切つてしまふと歸つて行つた。餘程金を懷に入れてゐた。
 源吉が畑から歸つてくるとき、その坊さんに會つた。坊さんはどこかこすい、商賣人らしく、一寸あいさつをした。が、源吉はムツとしたまゝ、だまつてゐた。それから少し來ると校長に會つた。
 小學校の校長は、三十七、八の、何處か人好きのしない、澁面の男だつた。校長でもあり、訓導でもあり、小使でもあつた。教室は二十程机をならべたのが一室しかなかつた。一年から六年生迄の男の子も女の子も、そこに一緒だつた。教室には地圖もかゝつてゐたし、理科用の標本の入つてゐる戸棚もあつたし、(その中には剥製の烏が一羽ゐた。)白い鍵のはげたオルガンが一臺隅つこに寄せてあつた。校長は坊主を一番嫌つた。この先生がどうしてこの村へ來たか誰も知つてゐなかつた。そして又澁顏をして人好きが惡かつたが、「偉い人」だ、さういふので、尊敬されてゐた。市の小學校で校長と喧嘩したゝめに、こんな處へ來たのだとも云はれていた。先生の室――それは、その教室から廊下を隔てゝすぐ續いてゐた――には、澤山本が積まさつてゐた。
 源吉は、先生に、「坊主歸りました。」と云つた。先生は顏をふむ! といふ風に動かして、「さうか、肥溜の中へでも、つまみ込んでしまへばよかつたのに。あれが村に來る度に、百姓がだん/\半可臭くなつて、頓馬になつてゆくんだ。――畜生。」と云つた。
         *
 この村のお祭りが、丁度、このいゝお天氣にかゝつた。
 こんな事があれば、大抵先きに立つてやることに、決まつてゐる※[#「仝」の「工」に代えて「□」、屋号を示す記号、47-9]の菊や、丸山のオンコなどが、神社の前に「奉納」の縱に長い、大きな旗を建て、子供を手傳はせて、がたぴしする舞臺を作つた。新しい半纏を着た、頭の前だけを一寸のばして油をつけたのが、自轉車で、幔幕を借りてきたり、停車場のある町から色々の道具を運んだりして、やつぱりお祭りらしくとゝのつた。朝のうちから、新らしい着物を着た子供が四、五人、若者が仕度をしてゐる側で遊んでゐた。神社は學校のそばの、野ツ原で、一寸した雜木林で三方だけ圍まれてゐた。晩になれば、ゴム風船などを賣る商人が荷物にした商品を背負つてやつてくることになつてゐるし、法界節屋の連中も停車場のある町から來て、その舞臺で、安來節や手踊りなどをすることになつてゐた。
 お文と母親は、お祭りの御馳走をこしらへた。百姓はどんな慘めな暮しをしてゐても、かういふことはしなければならない、さう何時も考へてゐた。
 源吉は、焚火をしてゐる大きな爐のわきに寢ころびながら、足で、由にいたづらをしてゐた。
「ホラ!」源吉の足にしがみついてゐた由が、一寸すると、ころばされた。
 由は、負けまい負けまいと、自分の足に力を入れて突かゝつてくる。が、さうせば、さうするだけ、調子よく、すてんと身體を投げ出された。
「もツと!」
「糞ツ! 兄、足さかじるど。」
「馬鹿。」
 母親が、薄暗い臺所から、「由、祭りさ行(え)げ!」と怒鳴つた。
 源吉は、面白がつて、由を足であやしてゐるうちに、足が留守になり勝ちになつて行つた。由が、それで、自分が勝ちさうになつたので、一層勢ひづいてきた。源吉は、昨年のお祭りのときを思ひ出した。自分の想つてゐたお芳が、札幌へ無斷で行つてしまつた晩だつたことを思つた。源吉は、そのことがあつてから、もつと、むつしりしてきた。
「やア――、兄、まけた、負けた!」
 由が源吉の足をとう/\倒して、疊につけてしまつた。
 源吉はひよいと自分にかへると、思はず足に力を入れ過ぎて跳ねかへした。はずみを食つて由はとばされて、爐邊につんである木に頭を打(ぶ)つけた。由は、ことさらに大きな聲を出して泣き出した。「兄、ずるいど、兄ずるい、ずるい!」
 源吉は苦笑しながら、大きな掌で、由の頭をなでゝやつた。
「堅え頭してる。こゝか? ――えゝか、おまじないしてやるど。フエントカフエカシコラミヨノダイミヨウジン。」源吉は何度もそれを繰りかへして、由の頭をゴス/\なでた。始め、じいとしてゐた由が、惡戲だと、それが分ると、またワン/\と泣き出した。源吉は一つかみに由の頭をつかむと、
「こら、こら!」と、振つた。
「大きな態(なり)して、そつたら子(わらし)と、さわいでればえゝ!」母親が、叫んだ。
 由は、今度は泣きながら、
「兄、錢(ぜんこ)けれ、錢けれ。」と云ひだした。「錢ければ、えゝ。錢ければえゝ。」
「くそ、ずるい奴だ。――錢もらへば直るツてか?」
「錢けれ、ぜんこけれ。」
 由は、勢ひづいて、足をばた/\させて、それを云ひ出した。
「ホオーオ、勝えの健なんて十錢も貰つてるど、石だつてよ。――なア、兄、錢けれ、錢けれ、錢(ぜんこ)よ、よオー。」
 源吉は、それには、今度耳もかさずにじつとした。源吉は、お芳が札幌へ行つたと聞かされたとき、本當のところ、別な意味からも「淋しく」された事を思ひ出した。村ではとてもやつて行けないために、女達が都會(まち)へ出て下女になつたり、女工になつたり、――畠で働かなければならない男でさへ出て行つた。だん/\村の人がゐなくなる、さう思つた。源吉には、イヤな氣がした。
「ぜんこ、ぜんこ! よオー」
 由は源吉の身體をゆすり出した。源吉はだまつて、身體を、急にひねつた。由は、他愛もなく、轉がつた。なほ激しく泣き出した。
「うんと騷げ、この糞たれ!」母親が、たまりかねたやうに又怒鳴つた。
 源吉は、何んか、かう向ツ腹が不愉快に、ヂリ/\と立つてくるのを感じてゐた。
 外へ、子供が二人程由を呼びに來た。
「ホラ、由、呼んでるど。」
 由は、今迄泣いてゐたのを急にやめると、袖で顏中をぬぐつて、變な、附けたりの、極りの惡い笑ひ顏をして、外へ出て行つた。
 源吉は仰向けに、煤けて黒光りに光つてゐる天井を、ぼんやり見ながら、今晩は行くまい、さう考へてゐた。
 晩方になつて、表をガヤ/\七、八人の人が通つて行つた。停車場のある町から來た手踊りの連中だつた。紺のゴワ/\した大きな風呂敷包みを背負つた、色眼鏡をかけた男や、白粉をぬつた頬骨の出てゐる痩せた男、三味線を肩から釣つた、これも色眼鏡をかけた女、それにコテ/\と白粉をつけた十七、八の娘と七つ八つの女の子が三人程ゐた。その後から、村の子供達が四、五人ついてゐた。
 源吉は寢ころんだまゝぼんやりしてゐた。そのすぐ側で、お文が所々裏の赤いのが剥げてゐる鏡に向つて坐つてゐた。何處から持つてきたのか、白粉の瓶を、自分の掌に逆さに振つては、顏につけてゐた。源吉はさつきから一口も、誰にも、云はないでゐた。
「今度(こんだ)どんな手踊りがあるんだらう?」お文は鏡から眼を外さずに云つた。
 源吉は聞いてゐなかつたのか、だまつてゐた。お文には、別に返事のいることでなかつた。自分で何か云ひながら、そのくせ鏡に全部氣を取られてゐた。返事を待つてもゐなかつたので、源吉のことには氣付かなかつた。
「石田の録さんが、浪花節をやるつて……。」
 それから、一寸して、
「録さんの浪花節てどうだらう。きつとをかしいよ。」と云つた。
「お母アどこさ行つたべ――」
 源吉はやつぱり、天井ばかり見てゐた。足を立てゝゐた。片方の足の上に上げてゐた足の指先だけを時々、動かした。無心で動かしてゐた。
「妾(わし)、お祭りさ行くツて云ふのに、お母どうしたべ――本當に。」
 それでも自分は鏡から顏を離さなかつた。
「兄、お祭りさ行くべ?」
 源吉は頭をユル/\□はしてお文の方を見た。お文は、鏡に顏がくつつきさうになる程に突き出して、鼻の側に出てゐる何かを、一生懸命しぼり取らうとしてゐた。口を變にゆがめて。源吉は頭をもとにもどすと、それにも、何んにも云はなかつた。
「困つた。」
 今度はお文が手拭で顏をふき出した。
「春ちやんば誘つて行くんだけど、お母ア居なかつたら出られねえべよ。――兄、お祭りさ行くべ?」
 初めて顏を鏡から離して、源吉の方を見て、さう云つた。裏で、久し振りに立てたお湯に入つた後なので、お文の顏は、スベ/\と、白く、綺麗になつてゐた。源吉がお文の顏を見ると、お文は一寸顏を赤くして、「どうする?」と、工合惡さうに云つた。
 源吉は又頭をもとに返して、別な方にものを云ふやうに、初めて、
「行(え)つてもえゝ。」
 お文は奧に入つて行つた。そして着物を着かへると外へ出て行つた。
「フン、畜生!」
 源吉は立ち上つた。が、何をするためか、自分で分らなかつた。窓から外を見た。が、眞暗で、(それに内が明るいので)外はちつとも見えなかつた。臺所へ行つて、源吉は水を、二杯ほど飮んだ。爐邊に歸つてきたが、坐るのか、どうか、源吉は考へつかなかつた。源吉は、そこにしばらく、ぼんやり立つてゐた。四圍(あた)りは、靜かだつた。ランプが、時々明るくなつたり、何處かへ吸ひこまれるやうに、暗くなつたりした。裏口の側にある馬小屋の馬さへ、しつぽの音も、蹄で床をたゝく音もさせなかつた。祭りの場所も餘程離れてゐるので、何も聞えなかつた。源吉は少し、わけの分らないいらだたしさを覺えてきた。表を誰か通つて行つた。何か話してゐる。初め源吉には何か分らなかつた。
「ホラ、なア、星とんだべ。」
「そこ、穴あるど。」
「あの星なあ、粉みだいになつて、落ちでくるんだど。――たまに、どしーんツて落ちてくることもあるんだどよ。」
 相手が何か云つた。と、甘つたれるやうな、唇をとんがらした聲を出して、
「早くえがねば、踊り終るからなーア。」と、十一、二の子供が云ふのが聞えた。
「アツ――又、なア!」
「お母ア遲くてよーオ。」半分泣聲だつた。
 遠くなつて、すぐ聞えなくなつた。又、もとの靜かなのにかへつた。
 源吉は、自分の呼吸が聞えるのを知ると、その、變な靜かさが不氣味に思はれてきた。彼は坐らうと思つた。その時、鏡臺についてゐる小さい引出から、手紙が半分出てゐるのを、源吉がフト見た。お芳からの手紙だらうと思つた。
 ――貴女が札幌に出たがつてゐることは、自分のその頃のことから考へてみて、無理がない。……こつちの生活は、然し、自分が思つてゐたことゝ、まるつきり異つてゐる。……それで、貴女に、がつかりさせたくないために、あんなことを云つてやつたのだから許してくれ。――實は、こんないやな生活は、自分一人だけで澤山だと思つてゐる。
 勿論こつちでは、そこのやうに、汚い恰好をして、年中、あんな風に働く必要はない。……然し、その代り、とてもそつちなどにゐては、どうしたつて分らないやうな「恐ろしい」ことが澤山ある。……
 とにかく、貴女がどうしても、來るといふ決心をかへられないのであれば、仕方がないから、待つてゐる。……主人にも話したら人手が足りないから、丁度いゝと云つてゐる。(そして最後に)源さんには是非よろしく。
 そんな意味のことが書かれてゐた。源吉はそれを、ぼんやり又初めから讀みかへしてみた。――「源さんには是非よろしく」――讀んでから、手紙を手にもつたまゝじつとしてゐた。
 母親が歸つてきた。
「兄、何してる。行(え)け、行つてみ。――今、お文と會つた。」
 源吉は、手紙をもとの所におくと、母親には返事もしないで、外へ出た。母親は土間で、續けざまに「つかみツ鼻」をした。
「歸りに、由ば連れで來い。」と後から言葉をかけた。
 外へ出ると、ヒヤリと寒氣を感じた。空が高く晴れて、ばらまいたやうな星空だつた。源吉は、別にお祭りにも行く氣がなかつた。然し、家にゐられない氣持だつた。少し來ると、左側に高い木が五、六間並んで立つてゐた。その木の間からすぐ、石狩川の川面が見えた。星は出てゐたが、四圍は眞暗だつた。そこを、川面だけが青く光つてゐた。手前の木の幹が、それと對照して、黒くはつきり見えた。よく見ると、川に星が無數にうつつてゐた。大氣は冷え/″\としてゐた。源吉は何度も、身震ひをした。何時もお祭りの時には、神社の前よりも、若い男と女はこの河堤に集つた。源吉はお芳とそこで何囘も會つたことを思ひ出した。――源吉はイマ/\しさうに河の方へ唾をはいた。
 道が曲つてゐた。そこを曲ると、ずウと前方に、お祭りのあかりが見えた。そのあかりのところだけが、こちらからでもはつきり分つた。急に、どよめきが聞えてきた。太鼓を打つてゐるのがきこえる。人聲の中から時々、頓狂に、ゴム風船の破れる音や、笛の音が聞えた。途中の、農家の前に、その家の年寄が立つて、お祭りの方を見てゐた。
「お晩です。」と、源吉にくらがりで言葉をかけた。
「お晩です。」源吉も云つた。
「出掛けるのげア?」
「あ――。」
 源吉が行き過ぎかけると、「ごゆつくり。」と云つた。
 お祭りの舞臺には、十位もランプをつけてゐた。その前にはござを引いて、村の人達がそこに坐つて見てゐた。主に若い女や子供や年寄だつた。その邊は殆んど暗かつた。その後の道の兩側には、ランプをつけた屋臺のゴム風船屋などが、四つ程ならんでゐた。絶えず、足で機械をふんでゐる、綿飴屋が、割箸に、それをからませて、子供の前につき出して、何か云つてゐた。
 子供達が一つの屋臺の前に、二、三人づゝ立つてゐた。神社の後では、小さい土俵があつて、若者が相撲をとつてゐた。源吉は何處にも興味がなかつた。帶の前に兩手をさしながら、離れて、見てゐた。舞臺では手踊りだつた。足拍子をとる毎に、板がギシ/\云つた。たゞ手と足をどたん、ばたん、動かしてゐるといふ風に踊つてゐた。が、離れてゐるので、顏や着物のアラも見えず、澤山のランプの光で踊つてゐるのが、源吉には綺麗に見えた。所々で、踊つてゐる女が、「ハツ、――ハツ」と云つたり、聲を合せて、「そいつウーは、知らなかつた――ア」と唄を入れた。
 源吉は胸が、ヂリ/\してきた。一寸見てゐるうちに、馬鹿らしくなつた。彼は風船屋の後側を通つて、神社の裏にある土俵の方へ行かうとした。相撲の太鼓が聞えてゐた。がそこへ行く途中、然し源吉は氣が變つて、もどると、神社の外へ出てしまつた。源吉が一寸來たとき、小便をしようと思つて、道端の草原の方へ寄つて行つた。と、すぐ眼の前で(然し、暗かつたので分らなかつた。)女が腰をかゞめ、一寸着物のすそをせり上げて――、用を足し終つたところだつた。源吉は外のことに氣をとられてゐた。そこを不意にやられた。二人は立ちすくんだやうに、ギヨツとした、彼は突嗟に變な衝動を感じた。自分でも、どうしてか分らなかつた。彼は、素早く手を延ばした。と、逃げ腰になつた女の帶に手がかゝつた。源吉は咽喉が急にグツとつまつた。女は、聲をたてずに、闇の中でさからつた。が、力がちがつてゐた。すぐ女は源吉の胸のそばに寄せられた。女は帶にかけてゐる源吉の手に、爪をたてようとした。「馬鹿!」彼は息聲で云ふと、思ひツ切り、ギユツと女の身體を抱きしめてしまつた。女は、ふくらんでゐる乳房を抑へつけられてゐるので苦しがつた。日本髮につけてゐる新らしい油の匂ひが、源吉の鼻にムツと來た。源吉の心臟も、自分で分るほど、ドギン/\早くうつた。女のもはつきり分つた。女は、源吉に抑へられてゐながら、身體をもがいた。その厚味のある肉體(からだ)の、動きを直接(ぢか)に、自分の身體に源吉が感じた。源吉は、女を、今度は何の雜作もなく抱きあげると、そこから、畑に續いてゐる暗い小道へ出た。女は初め聲を出しさうに身體をふつた。滅茶苦茶に足で源吉をけつたり、胸をひつかいたりした。が、すぐ、何故かじつとした。そして、源吉のはだけられた胸に顏をあてた。暑い呼氣が源吉の胸を撫でた。
 源吉は、息をきらしながら、三町も歩いた。それから、どん/\畑の中に入つて行つた。唐黍の切株が澤山殘つてゐて、源吉は何度もそれで足の皮をむいた。それにくぼみに足を落して、よろめいた。が、惡鬼のやうな恰好になつた源吉は、かまはずに、無茶苦茶に歩いた。女は思ひ出したやうに、又劇しく抵抗した。然し抵抗すればする程源吉は元氣づいた。そして身體中が、ワク/\と震ひ上つてくるやうに感じた。

      四

 又雨がやつてきた。日がだん/\薄暗くなり、寒さうな雲が垂れ下つてきて、霰が交つたりした。今度こそ、本當に冬がくる、さう皆が思つた。朝起きてみると水のたまつた溝の表面に氷が張つてゐた。
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