防雪林
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著者名:小林多喜二 

――それで百姓の生活がカチ/\だつた。
 何日も、何日も續いて、しつきりなしに吹雪いた。百姓はその間家から一歩も出ないで過ごした。窓から覗いてみても、たゞ眞白で、何も見えなかつた。時々、家がユキ/\と搖れた。そして、やうやく吹雪が上つた。戸をあけると外につもつてゐる雪が崩れて家の中に入つてきた。
 雪の石狩の平原は、今度こそ、何處を向いたつて、涯しもなく眞白に、廣がつてゐた。百姓家は所々ポツ/\と、屋根だけ見せて、うづまつてゐた。たゞ隨分離れてゐたと思つた隣家がはつきり、聲をかけられる位に近く見えた。空はまだ吹雪のあとを殘してゐる低い、暗い雲に覆はれて、それが地平線のあたりで、眞白な地上と、結び合つてゐた。そつちが今吹雪いてゐるらしく、眞黒になつてゐた。風は時々ピユ/\と音をさして吹いた。その度に、雪が煙のやうに吹き上り、渦を卷きながら、遠くから吹きよせてきた。その渦卷がグル/\一所で渦卷いてゐたり、素晴らしい早さで移つて行つたり、急に方向を變へたりした。家の角の邊に大きな吹き溜りが出來てゐた。
 寒氣がひどくなると、家の中などは夜中に、だまつてゐてもカリ、カリ、カリと、何かものの割れるやうな音がした。年寄つた百姓はテキ面にこたへて、腰がやんだり、肩が痛んだりして、動けなくなつた。
 家の中にとぢこめられて、食ひ物のなくなつた百姓が停車場のある町に、買ひ物にゆく、馬の鈴が聞えた。その、リン/\とした鈴がそのまゝで凍えてゐるやうな空氣に、ひゞき返つて、しばらく、――餘程遠くへ行くまで聞えてゐた。そしてその馬橇が雪の、茫漠とした野原を、曲りくねつて、一散にかけて行くのが見えた。
 雪が降り出してから、十日も經つと、百姓達は、ソロ/\この冬を、どうして過ごしてゆくかといふことを考へ出してきた。百姓達は雪を見ると、急に思ひつきでもしたやうだつた。食物がなくなつても、地主へ收めるものには手をつけることは出來ず、町へ仕入れにゆくにも金がなくなつてきた。百姓が顏を合はせると、ボツリ/\自分達の生活を話して、何んとかしなければと云つた。皆が苦しんでゐた。それで何時の間にか、そのことがずうと廣まつて行つた。
 川向ひの村に用事を足して歸つてきた勝の父親が、源吉に會つたとき、川向ひでも、色々そんな話が出てゐると云つた。石狩川が凍つたので、自由に向ひ側に行けるやうになつた。授業料ををさめることが出來なくなつて、小學校へ行く生徒が急に減つた。金をかけて、一日中遊ばせて置かれるか、と云つた。
 子供などはどこの子供も元氣のないきよとんとした顏をして、爐邊にぺつたり坐つてゐた。赤子は腹だけが、砂を一杯つめた袋のやうにつツ張つて、ヒイ/\泣いてばかりゐた。何も知らない赤子でさへ、いつも眉のあたりに皺を作つてゐた。頭だけが妙に大きくなつて、首に力なく、身體の置き方で、その方へ首をクラツと落したきり、直せなかつた。冬がくる前に、軒につるしておいた菜葉だけを、白湯のやうな味噌汁にして、三日も、四日も、五日も――朝、晝、晩續け樣に食つた。それに南瓜と馬鈴薯だつた。米は一日に一囘位しかたべられなかつた。菜葉の味噌汁が、終ひには味がなくて、のどがゲエ/\と云つた。
 だん/\百姓達は本氣になつた。
 話がかうしてゐるうちに纏つて行つた。源吉は誰からとなく、校長先生が裏に□つてゐる、といふ事をきいた。所が、同じ村のある百姓が、地主のために、立退きをせまられてゐるといふことが出來上つてから、急にさういふことが積極的になつた。
 川向ひから、若い男がやつてきた。自分の方も一緒にやつた方が、地主に當るにも都合がいゝといふことを云つた。日を決めて、一度、小學校に集つて、其處で、どうするか、といふことを打ち合はせることにした。
 その日吹雪いた。風はめつたやたらにグル/\吹きまくつた。降つてくる雪は地面と平行線になつたり、逆に下から吹き上つたり、斜めになつたり、さうなるとすぐ眼先さへ、たゞ眞白に、見えなくなつてしまつた。それで道から外れると、膝まで雪の中にうづまつた。雪は外套のどんな隙からでも入りこんで、手の甲や、爪先などは、ヅキン/\痛んできた。小學校へは、遠い家は小一里もあつた。
 どの百姓も、どの百姓も、入つてくるときはメリケン粉の中から出て來た人のやうに身體中眞白だつた。そしてかじかんだ兩手を口にあてゝハア、ハアと息をかけた。ひげも眉も、まつ毛さへも、一本々々白く凍りついてバリ/\してゐた。外套のない百姓は、着物を絲で刺したドサを頭からかぶつてやつてきた。何十年か前に、兵隊に行つたとき着た、カキ色のすゝけた外套をきたのや、ボロ/\の二重□はしをきたのや、筒砲袖の外套をきたのや、色々だつた。教室に入ると、ストーヴがたいてあるので、それでも暖かかつた。眉やヒゲから、凍つたのがとけて、水玉を作つて頬を流れ落ちた。
 百姓の顏は、どれも、風邪でもひいた後のやうな妙にはれぼつたい、それに、煤けた、生氣のない顏をしてゐた。背中が圓くなつたのや、身體はがつしりしてゐるが、どこか不平均なところのある百姓や、毛むぢやらのや、頭がすつかり禿げて、それが一年中も陽にさらされて、赤ひようたんのやうになつてゐるのや、色々だつた。さういふのが二、三人づゝ一かたまりになつて、てんでに、自分達のことを話し合つてゐた。キセルの吸殼を厚い掌にうけて、獨りで、何かむつちり考へこんでゐる年とつた百姓もゐた。五、六人を前に置いて、何か聲高に、手を振りながら、ものを云つてゐるのもゐた。
 しばらくすると、百姓の集會らしい、變な人いきれの臭氣でムンとした。
 片隅で、誰か五、六人のものが拍手をした。それにつれて、集つたものも、拍手をした。が、ぼんやりして、だまつて拍手をするのを見てゐたのもあつた。拍手が終ると、二十五、六のがつしりした身體の、眉の濃い、バリ/\した短い頬ヒゲをもつた石山といふ百姓が教壇に上つた。校長先生の親類だつた。
「皆に代つて、一通りのことをお話しします。」さう前置きをして石山は、百姓にはめづらしいはつきりした、分つた云ひ振りで(勿論、百姓などが殊更に改まつたときによくある、變な漢語も使つたが)――自分達は、犬や豚などより、もつと慘めな生活をしてゐること、――ところが自分達は何時か仕事をなまけた事でもあつたか。――では、何故か。自分達がいくら働いても働いても、とても何んの足しにもならない程貧窮してゐるのは、實に、地主のためであるといふことを分り易く、説明し、今度のやうな場合地主に小作料を收めることは「自分達の死」を意味してゐる、ナホ我々百姓は、高利貸の不當な利息、拓殖銀行の年賦にも、苦しめられ、それに税金がかゝつてくる。そして出來上つたものは、肥料や農具にも引合はない。かうまで、自分達がなつてゐるのに、だまつてゐられるか。そこで、我々は、皆んなにお集りを願ひ、その方策をきめることにしたいのだ、と結んで壇を下りた。百姓達は、聞き慣れない言葉が出る度に、石山の方を見て、考へこむ風をした。が、苦しい生活の事實を石山に云はれ、百姓は、「今更のやうに」、自分達自身の慘めさを、顏の眞ん前にとり出されて、見せられた氣がしたと思つた。石山が壇から下りると、急にガヤ/\し出した。今石山の云つた事について、あつちでも、こつちでも話し合つた。一番前にゐた年寄つた百姓が、「とんでもなえ、おつかねえこと云ふもんだ。」とブツ/\云つたのを石山はおりる時に聞いた。
 石山が下りると、すぐもう一人が壇に上つた。まだ二十一、二のヒヨロ/\した感じのする、頭の前だけを一寸のばした男だつた。が、案外力のこもつた聲で、グン/\、簡單に、ものを云つて行つた。大體に於いて、石山の云ふことを認め、直ちに小作料減率の請求を、全部の署名をして、地主に「嘆願」することにしてはどうか、といふことを云つた。齋藤といふ兵隊歸りの若者だつた。
 次は、四十位の百姓で、壇に上ると、いきなり手をふり□はしながら、醉つた眼を皆の方へすえて「俺達は……」とか「そこで以て、故に……」とか「そして須く……」「しなければならないんであります。」そんなことばかり云つた。ぐでん/\に醉拂つてゐた。皆が笑つた。誰かゞ、そんな奴は下ろせ、とか、下りろとか叫んだ。その百姓は、臺の上で見得を切つてみせると、身體をフラつかせながら壇を下りた。もと旅役者に入つてゐたことがある男で、醉拂ふと、昔の型物の眞似をするので、皆んな知つてゐた。
 年寄つた百姓が上つた。――色々説をきいたけれども、みんな「不義不忠」のことばかりだ、と云つた。言葉が齒からもれて、一言々々の間に、シツ、シツといふ音が入つた。――地主樣と自分達は親子のやうなものだ。若いものは、それを忘れてはならない。「いやしくも」地主樣にたてつくやうなことはしないことだ。「畑でも取り上げられたらどうするんだ。」――さう云つた。「お父アーン、分つたよ。」と、後から叫んだものがあつた。終つてその年寄が壇を下りると、又ガヤ/\した。
 今迄かなり、皆んなの氣持が一緒にかたまつてグツ/\と進んできたとき、この年寄つた百姓の言葉が、皆を暗闇から出て來た牛のやうに、ハツと尻ごみさした。かういふことでは、百姓は牛だつた。
「何んだベラ棒奴! ウン、野郎!」さつきの、醉拂つた百姓が又身體をヨロめかして、壇に上つてきた。「何云つてるんだい。老ボレ。そつたらごどで俺だちの貧乏どうしてくれるんだい。」
「ウン/\」といふのがあつた。「下りろ」「さうだ/\」……
 石山はそこで、出て行つた。――俺だちのしなけアならない事は、もう決つてゐるのだ。それをしなかつたら、明日食ふ米がなくなつて、俺だちは死ななければならない事だけだ。――俺だちはどうしても死んだ方がいゝと思つてゐるものは手をあげてくれ。さう云つた。
 ガヤ/\が靜まつてきた。しばらく石山はつツ立つてゐた。
 ――誰もない。ぢや俺だちは生きるんだなあ。そしたら、俺だちは俺だちの方法を實行するんだ!
 それより外に斷じてないことになるだらう。
 この斷定的な調子が、皆の氣持を、またグツと前へ突き出した。
 石山は「齋藤案」を持ち出して、それに對して論議を進めることにしようと計つた。
 そして、「この事に對して意見のある方は、手をあげて自分に云つて貰ひたい。」と云つた。
 またやかましくなつた。地主のことを惡く云ふものや、それを然し何處かで擁護してゐるものや、さういふのが、お互にブツ/\云ひ合つた。中には、ブツキラ棒に興奮して、□はらない口で、吃りながらしやべるものもあつた。が、さういふやうに色々のことを云ひながら、然し「どうする」といふことになると百姓達は、ちつとも分つてゐないやうに見えた。石山は壇上に立つたきりで、だまつて皆のしやべるのを聞いてゐた。石山は、皆の一番後の板壁に、先生が寄りかゝつてゐるのを見た。それから少し離れた窓際に、源吉が腕をくんで、がつしり立つてゐるのを知つた。皆の眞中頃にゐて、何か腕を振つてしきりにしやべつてゐる片岡といふ百姓は、此前、地主のお孃さんが遊びに來たとき、石狩川に落ちた、その時それを助けに飛込んで、自分で半分死ぬ目に會つた男だつた。が、大部分の百姓は、ポカーンと口をあいて、誰か云ふのを、代る代り、聞き惚れてゐた。
「誰か考へがありませんか。」
 石山が大聲をあげて聞いた。それで、一寸靜かになつた。
 すると、一人が、
「全然(まるツきり)地主さ納めねえ方がえゝべよ。」と云つた。
 が、その意見は、忽ち皆の反對に會つてしまつた。そんなことはとても出來得ないことであり、又すべきことでない、さう百姓は誰も考へてゐた。
「では、皆の意見は、小作料率の低減ですか。その嘆願ですか。」石山がさうきいた。と、又ガヤ/\になつた。それがしばらく續いた。
「この意見に反對の人は手をあげて下さい。」
 誰も上げなかつた。
「ありませんか。」
 間。
 誰もなかつた。
「ぢや、齋藤案に從ふことになるんですねえ。」
 皆は互に見□はしてみた。それから手が、あやふやに七ツ、八ツ擧がつた。
「そつたらごとで百姓の貧乏なほるもんけア!」
 誰か後で野生的な太々しい聲で叫んだ。さういふ瞬間であつたので皆はその方を見た。――源吉だつた。
「ぢや、源吉君、どうするんです。」石山がきいた。
「分つてるべよ。地主から畑ばとツ返すのさ!」
 ぴたり押へられた沈默だつた。次の瞬間、然し源吉の意見は一たまりもなく、皆が口々に云ふ罵言で、押しつぶされてしまつた。
 それから後、源吉は一言も云はなかつた。始終、腕をくんだまゝでゐた。
 まづ、そして、根本的なことが決められた。それからそれをどういふ風にしてやるか、といふことが問題になつた。それは、二、三日に、地主の差配が例年の通り□つてくることになつてゐるので、それに、事情を説明し、すぐ地主に交渉を始めることになつた。この時、その色々な交渉の間小作の米をどうするのか、と云ひ出すのがあつた。それが又相當大きなことなので、中々意見が一致しなかつた。又百姓には、それを最後迄の見通しをつけた上で、確實な――手落ちのない成算でやつて行けることが出來なかつた。この所、先生の意見をきいた。校長先生は、まづ、町にゐる商賣人に自分達所有の畑物を全部賣つてしまひ、その背水の陣で、地主に當ることにしたらいゝ、といふことを云つた。それには二つの條件をつけた。第一は最初の地主への交渉が不調に終つたら、第二は地主がその結果、作物を無理に押へるといふやうな樣子が分つたら、といふのがそれだつた。一軒々々持つてゐたのではすぐ押へられるし、又そのために、結束が破れるおそれもあつた。先生はかういふ點を防ぐためにもこの方法は重大であると云つた。かういふ事は百姓にはかなり思ひきつたことだつたけれども、それが當り前のことのやうに思はれる程皆せツぱつまつてゐた。
 かういふ風に決つたことを、實際にやつてゆくための人間とか、細則、具體的な方法、さういふことは、三、四人の重立つた人(その中には校長先生も入つた。)で決めて、すぐ皆に通知することにした。それでその日の集合が終つた。
 百姓達は二人三人一緒になつて、今日のことを話しながら歸つて行つた。外はまだ風はやんでゐなかつた。百姓達は厚い肩を前の方へ圓め、首を外套の襟の中にちゞめて、外へ出て行つた。
 源吉が歸らうと、外套に手を通してゐると、先生の子供が出てきて、源吉に是非遊んでゆけと、着かけてゐる外套をひつぱつて、居間の方へ連れて行つた。仕方なしに源吉は、しばらくの間、子供の相手になつてゐた。源吉は何時も他愛なく子供相手に遊ぶので、好きがられてゐた。が、源吉はその、子供達に好きがられる、何んとも云はれない大まかな、無心な氣持が、ちつとも出なかつた。源吉は何處かイラ/\して、じつとしてゐられなかつた。好加減にして出てきた。外へ行かうとして、教室の戸をあけると、殘つた四、五人が相談をしてゐた。
「源吉君、殘つて一つ相談に乘つたらどうだ。」と、若い一人が云つた。
 源吉は口のなかで、煮え切らない返事をして、外へ出た。
「それどころか!」源吉はさう思つてゐた。

 源吉は自分の考へが、皆に何んとか云はれる筈だと思つた。百姓は後へふんばる牛のやうだつた。理窟で、さうと分つてゐても、中々、おいそれと動かなかつた。けれども源吉はそんなケチな、中途半端な、方法はなんになるか、と思つた。何故、そこから、もう一歩出ないのか、さう考へた。
 源吉は小さい時から、はつきりさうと云へないが、ある考へを持つてゐた。源吉の父親が、自分の一家をつれて、その頃では死にに行くといふのと大したちがひのなかつた北海道にやつて來、何處へ行つていゝか分らないやうな雪の廣野を吹雪かれながら、「死ぬ思ひで」自分達の小屋を見付けて入つた。その頃、近所を平氣で熊が歩いてゐた。よく馬がゐなくなつたり、畑が踏み荒らされたりした。石狩川の川ブチで熊が鮭をとつてゐるのを、源吉の父が馬を洗ひに行つた途中見て、眞青になつて家へかけこんで來たことがあつた。夜になると、食物のなくなつた熊が出てくるので各農家では、家の中にドン/\火を焚いた。熊は一番火を恐れた。源吉は小さい時の記憶で、夜になると、窓から熊が覗いてゐる氣がして震へてゐたことを覺えてゐる。――その時から二十年近く、源吉の父親達が働きに働き通した。
 母親から、源吉が聞いたことだが――その頃父親が時々眞夜中に雨戸をあけて外へ出て行くことがあつた。母親は、用を達しに行くのだらうと、初め思つてゐると、中々歸つてこなかつた。一時間も二時間も歸つて來ないことがあつた。母はだん/\變に思つて、それを父にきいた。父は笑つて、「畑さ行つて來るんだ。」と云つた。それ以上云はなかつた。
 いつかの晩、母があまり變に思つたので、後をついて行つた。すると父が眞暗な畑の中にズン/\入つて行くのを見た。その時には母も何かゾツと身震ひを感じた。母は、少ししやがんで、そつちの方をすかして見てゐると、父は畑の眞中に、立つたきり、じいとしてゐた。十分も、二十分も。それからその隣りの自分の畑の方へ行くと、又、やつぱり立つたまゝしばらくさうしてゐた。と、今度はそこから一寸離れた自分の畑に歩いて行つた。母にはちつとも、そのことが分らなかつた。
 あとで、母はとう/\その晩のことを云ふと、
「馬鹿だなあ」と云つて笑つた。「俺なア、俺アの畑が可愛(めんこ)くてよ。可愛くて。畑、風邪(かぜ)でもひかなえかと思つてな。」
 そして、眞面目に「お前だつて、目さめれば、源や文が風邪ひかねえかつて氣ばつけて、夜着かけてやるべよ。」と云つた。
 が、何時の間にか、その生命のもとでのやうな土地が、「地主」といふものに渡つてゐた。父親は、ことに、死ぬ前、そのことばかりを口にして、グヂつてゐた。源吉は、それをきく度に、子供ながら、父親の氣持が分ると思つた。源吉が地主の足にかじりついたのは、さう無意味な理由からではなかつた。「畑は百姓のものでなければならない。」さう文字通りはつきりではなくても、このことは、源吉は十一、二の時から、父親の長い經驗と一緒に考へてきてゐた。
 源吉は然し、やつぱり外の百姓達と同じやうに、さういふことを、たゞぼんやり考へてゐた(――考へてゐたとは云へない程度であつたが)が、そのぼんやりした考へ? が、今度は、源吉自身の經驗で、少しづゝ形をとつてきた。そしてそのことが、もう一歩思ひ切つた跳進をしたのは、校長先生の話したことであるやうだつた。こんな簡單な、分りきつたことを、然し百姓は一生がかりで分つた、或ひは分らずに終ふことさへあつた。分らずに終ふことが、かへつて多かつた。
「分つてるべよ、地主から畑ばとつかへすのさ!」――かう源吉が云つたのは、理窟でなかつた。源吉はさう背後で云はせる父親の氣持も感じてゐたのだ! 源吉は歩きながら、こんな事が分らない、そして又そこ迄行かうとしない百姓に、心から腹を立て、「勝手にしやがれ、俺ア俺アだ。」と思つてゐた。

      七

 源吉が、集會の途中、醉拂つて歸つてきた。札幌に行つてゐる勝から、手紙が來てゐた。
 ――札幌にも雪が降つた。やつぱり寒い。俺達には冬が一番堪へる。朝六時には工場へ行く。冬の朝の六時つたら、俺達若いものだつて身體の節々が痛んで來るほど寒い。油でヒンヤリする帽子をかぶり、背中を圓くして、辨當をブラ下げて出掛けてゆく。俺の前や後にも、やつぱりさういふ連中が元氣のない恰好で急いで歩いてゆく。工場では、ボヤ/\してはゐられない。六時から晩の五時迄、弓のつるみたいに心を張つてゐなけアならない。俺が來てから、仲間の若い男が二人も、機械の中にペロ/\とのまれてしまつた。ローラーから出てきた人間はまるで大幅の雜巾のやうなヒキ肉になつて出てきた。
 一人の方の嬶が、それから淫賣をやつて子供を育てゝゐるといふ評判をきいた。
 工場が、大きな機械の□る音で、グアン/\してゐる。始めの一週間位は、家に歸つても、頭も、耳も工場にゐるときと同じやうに、グアン/\して、新聞一枚も讀めなくなつてしまつた。俺は、このまゝ馬鹿になつて行くのかと思つた。
 夜五時になつて(今では眞暗だ)汽笛が鳴る、さうすると人を喰ふ機械から歸つてもいゝといふことになる、身體も心も、急にガツたりする。歸るのが、イヤになるほど疲れてゐる。其處へそのまゝ坐つてしまひたい位だ。俺はかう思つた――百姓は、かういふ工場で働いてゐるもの等より、もつと低い、馬鹿らしい、慘めな生活をしてゐても、あの野ツ原で働くのが、どんなに過勞だと云つたつて、空氣がいゝ、まるで澄んだ水のやうに綺麗な空氣だ。空氣のなかには毛一本程のゴミも交つてゐない。働きながら、歌もうたへる。晝には、畑の眞中に、仰向けになつて、空を見ながら、ぼんやりしてゐたり、晝寢も出來る。ところが、どうだ、こゝは! 俺はこの工場の中を、君に知らせたいのだ、然し、どう知らせていゝのか俺には一寸出來ない。まるで、それに比らべたら、場末のグヂヨ/\した大きな「塵(ゴミ)箱の中で」働いてゐると云つてもいゝ。工場の中は、暗くて、臭くて、ゴミがとんで、ムツとして、ごう/\として、……お話にならない。仕事が終つて出てくるものは、眞黒い顏をして、眼だけを光らして酒に醉拂つた人のやうに、フラ/\してゐる。
 こゝに働いてゐる人達は、百姓のやうに、貧乏はしてゐても、何處かがつしりしたところがなくて、青白くて、病身らしくて、いつでもセキをしてゐる。俺は、そのことを考へて、暗い氣持になつてゐる。石狩川の大平原にゐた方が、と、きまりきつた愚痴が、此頃出かゝつてゐる。本當のところ、其處の生活も亦いゝものではないが。
 俺は、村にゐたときから、君とちがつて、どうしても落付いてゐることが出來なかつた。こんな生活でない、もつといゝ、本當の生活があると、いつでも、考へてゐた。何んであるかちつとも分らずに、そればかり考へてゐた。が、今になつて、俺達がどんなところに轉ばうが、轉べるところは決つてゐる、といふことが分つた。分らされたんだ。君はきつと、こんなことを云ふやうになつた俺を笑ふだらう。笑はれても仕方ない人間だ。然し、俺は、俺達皆が一體どんなものであり、どんなことをして居り、それがこの社會にどんな役目と、待遇をうけてゐるものであるか、かういふことを、こゝへ來てから初めて知るやうになつた。百姓も、このことは分らなければならないことだ。こゝには、こつそり、さういふことを研究してゐる人達がゐるんだ。俺も一寸顏を出すやうになつてから、ぼんやりながら分りかけてきた。そして、俺はびつくりしてゐる。この世の中が大變なからくりから出來てゐるといふことを初めて知つた。そして、そのどれもこれもが、皆、「俺達の」頭に成る程とピン/\くるものだ。
 が、それはいづれ、詳しく書くつもりだ。そつちではどうして暮してゐる。もしなんなら、手紙を書いてくれたら有難い。
 君の妹も、札幌に出てきたことを愚痴つてゐる、俺は君の妹を女給にだけはしたくないと思つて、今、何處かへ奉公させてやりたいと思つてゐる。
 こんな意味の手紙だつた。
「兄、芳さん、歸つてきたツてど。」
 源吉が臺所で水をのんでゐたとき、外から來た由が源吉を見て、云つた。源吉は口のそばまでもつて行つた二杯目のひしやくを、そのまゝに、とめて「うん□」と、ふりかへつた。眼がぎろりとした。
「お母アからきいてみればえゝさ。」
「うん?」源吉は、水の入つてゐるひしやくを持つたまゝ、ウロ/\した眼で母親を探がした。
「何處さ行(え)つてる?」
 由が裏口へ出て行つた。戸を開けた拍子に、いきなり雪が吹きこんできた。源吉はまだひしやくを、口の高さにもつたまゝ、うつろな眼をして立つてゐた。
「何處さ行(え)つたか、居ねえわ。」由が歸つてきた。
 源吉は、フト思ひ出したやうに、ゴクツとのどをならして、水をのむと、外へ出て行つた。
 然し二分もしないで、歸つてきた。醉つた眼をすゑて。土間に立つてゐた。それから表の方を一寸見た。そして、何か考へ惑つてゐた。が、チエツ! と舌打ちすると、家へ上つた。源吉はすぐ、押入れから、垢でベト/\になつた丹前をとり出して、それを頭からかぶると、寢てしまつた。由は、隅の方で、さういふ兄を、半ば恐れながら、然しじいと見てゐた。
 夜になつて、母親が、お芳のことを「驚いたもんだ。」と云つた。源吉はその時は何時ものむつちりにかへつて、飯を食ひながらだまつて聞いてゐた。
 ――お芳は札幌にゐたうちに、ある金持の北大の學生と關係した。そしてお芳が妊娠したと分つたときに、その學生にうま/\と棄てられてしまつた。その學生の實家は内地に澤山の土地をもつた地主だつた。
 お芳は、何度も/\學生にすがつて行つた。「誰の子供だか分るもんか。」終ひにはさう云はれた。そのうちに、身體のそんな事情で、カフエーの方も工合わるくなり、大きな十ヶ月の腹で、歸つてきた。
 本當は十日も前に、「こつそり」歸つてきてゐたのだつた。お芳の父親は家に入れないと云つた。貧乏百姓には、寢て米を食ふ厄介物でしかなかつたし、もう少したてば、それにもう一つ口が殖える。とんでもないものいりだつた。そして又そんな不しだらな「女郎」を家には置けない、とぐわんばつた。お芳は土間に蹴落された。「物置の隅ツこでもいゝから。」お芳は、土べたに横坐りになつたまゝ、泣いて頼んだ。――
 母親のせきに、お芳の父が會つたとき、「あれア、もう百姓仕事も出來ねえ、ふにやけ身體になつて歸つてきたんし、手もまツ白くて、小さくなつて……良(え)い穀つぶしが舞えこんだもんだし。――あつたらごとになつて親の罰だべなんす。」と云つた。
 母が「まあ/\」と云ふと、
「なんかえゝごとでもなえべか?」ときいた。母がきゝかへすと、
「あの腹の子んしな。」と云つた。
「お前さん!」母はびつくりした。
 すると、お芳の父は落着きなく、うやむやにして、頭を自分の手で押へて振りながら、歸つて行つた。「俺アは、もうどうもかもはア分(わ)かなくなつたんし。」……
 母親は、源吉に、「無理しねえばえゝが。」と云つた。「あんの調子だら、あぶねえわ。」
 源吉は返事も、相槌もうたず、にゐた。母親は、それから、聲をひそめて、
「よく聞いてみれば、お芳ア、そんなに札幌さ行(え)ぎたい、行ぎたいつて、行つたんでねえツてなア。」
 源吉は、母親の顏を見た。「うん?」
「なんでもよ、お芳居だら、口かゝるし、働くだけの畑も無えべよ、んで、ホラ、そつたらごとから、お芳にや、家(うち)つらかつたべ――。」
「それ、本當か?」
「お芳、隣りの、あの、なんてか、――石か、――石だべ、石さ云つたどよ、さうやつて。」
 源吉はそれをきくと、溜めてゐた息を大きくゆるくはいて、それから又横を向いてだまつた。
「可哀さうに! 産婆さ見せる金も無えべし、それに、こツ恥かしくて見せもされねえべしよ。――お芳の弟(おんじ)云つてたけど、毎日札幌さ手紙ば出してるどよ。んから、あの郵便持ちがくる頃に、いつでも入口さ立つて待つてるんだけど、一度だつて、返事來たごと無えてたぞ。」
 母親が、ポツリ、ポツリ云ふのが、源吉の胸に、文字通り、ぎぐり/\刺さりこんで行つた。
 初め、源吉は、お芳が歸つてきたときいたとき、カツ! とした。拳固をぎり/\握りしめると、「畜生ツ!」と思つた。一思ひにと思つて、飛び出さうとさへした。
 が源吉は、母親の、それをきいてゐるうちに、自分でお芳を憎んでゐるのか、あはれんでゐるのか分らない氣持になつた。げつそり頬のこけたお芳が郵便配達を入口に立つて待つてゐる恰好が、源吉には見えると思つた。弱々しい、考へ込んでゐる眼が、どうしても離れない。大きな腹をして、――だが、そこへ來ると、源吉は頭を振るやうにして、眼をじつとつぶつた。胸が變に、ドキついてきて、彼には苦しくてたまらなかつた。
 次の日に、源吉は、お芳が始めどうしても飮まない、飮まない、とぐわんばつてゐた藥を、やうやく飮んでゐるといふ、噂をきいた。それは、何度も何度も出した手紙が一囘だつて返事が來ないのに、色々これからの事も考へ、飮み出したのだと、云つてゐた。源吉は、自分のことのやうに、氣持に狼狽を感じた。が、だまつて、それをこらへた。
「嘘だらう。」と云つた。
「本當々々。」母親は見てきたやうに云つた。「可哀さうにさ、眼さ一杯涙ばためて、のむんだと。んで、飮んでしまへば、可哀さうに、蒲團さ顏つけて、聲ば殺して泣くどよ。」
「馬鹿こけツ!」
 源吉は、何かしら亂暴に、ブツキラ棒に云ふと、母親のそばから荒々しく立つた。
 晩に飯を食つてゐたとき、
「赤子(あか)、んで墮(お)りたのか?」と、ひよいときいた。
 母親は源吉の顏をだまつてみて、それから「うん?」と云つた。
 源吉は、自分がなんのきつかけもなく、突コツにそれを云つたことに氣付いて、赤くなつた。ドギまぎして「芳さ」と云つた。
「芳? ――うん、芳か。」さう母親が分ると、「それさ、まだ墮りねえどよ。體でも惡くしねえばえゝ。」と云つた。
         *
 百姓達は、さうやつて集つて決めたが、今度はそのことを、地主や差配を相手にやつて行くといふやうな事になると、お互が何處か、調子がをかしくなつた。知らず知らずの間に、どうにか我慢することにするか、そんな事に逆もどりをしさうな處が出てきた。さうなつたとしても、百姓は然し今までの長い間の貧乏の――泥沼の底のやうな底になれてゐたので、ちつとも不思議がらずに矢張り、その暮しに堪へて行つたかも知れなかつた。――源吉は、一層無口に、爐邊に大きく安坐(あぐら)をかきながら、「見たか!」と、心で嘲笑つた。
「お前え達のやることツたらそつたらごとだ。」
 二、三日して、小作料を納められないので、立退きをされさうになつてゐた「河淵の澤」のところへ、差配がとう/\やつてきた。澤の畑を處分するから、雪が消えたら、家をあけろ、と云つた。女や子供に、ワン/\泣かれると、澤はすつかりオロ/\して、この前の會合の仲間へ、それを云ひに行つた。「幹部」の百姓は、急に、それで騷ぎ出した。そして、すぐ學校へ寄り合ふと、今更新しいことのやうに、この前と同じ相談を又やり直した。
「どうしても、やらなけアならないかな。」年寄つたのが、そんな事を云つた。が、他の「幹部」は、今時、こんな事を云ふのをきいても、「冗談云つちや困る」とさへ思はなかつた。かへつて、首を一緒にかしげて考へこんだりした。そして、
「まあ、さうしなけアなんねえべ。」と、そんな事になつた。
 それから、何邊も同じ事を、グル/\繰りかへして、「がつしりかゝつてやるべ。」といふことに決つた。それで皆が、やうやく別れた。
 差配が今年度分の小作料のことで、村にやつてきて、村の重だつた――小金をためてゐる丸山の家にゐることが分つたので、「幹部」の一番若い元氣のいゝ石山が、校長先生の入智慧で作りあげた恐ろしく漢字の多い、石山自身にさへ、さうはつきり文句も意味も分らない「陳述書」をもつて、出掛けて行つた。
 差配は、石山がドモリながら、眞赤になつて、同じことを、何度も云ふのを飯を食ひながらきいてゐた。それから、眼鏡を袂から出して、袖で玉を一々丁寧にふきながら、「何しに來やがつた。警察さ突き出されたくてか□」と云つた。
 そして、「陳述書」を五分も十分もかゝつて讀んでしまふと、「馬鹿野郎。一昨日(をとゝひ)來い!」と、どなつて、それを石山の膝に投げかへしてよこした。
「いつの間に、かう百姓生意氣になつたべ。」
 口の中に手をつツこんで、齒の間にはさまつてゐるのを、とつてゐた丸山が、そばから口を入れた。
 さう云はれると、石山は急に、不思議に、太々しい、何時もの元氣がかへつてきた。
「覺えてゐやがれツ!」向き直つて、タンカを切つた。
 丸山は、穩かに、百姓はそんなことをするもんでない、地主は親で、俺達は子供のやうなものだ、何事も堪へしのんで働くことは立派なことだ。歸つたら、皆んなにさう云つた方がいゝ、差配さんには自分からよく頼んで置いてあげるから、と云つた。
「糞でも喰へツ!」石山はそのまゝ表へ出てしまつた。
 一寸行つてから、帽子を忘れてきたことに氣付いた。石山はプン/\しながら、ひよいとその時だけ立ちどまつたが、もどりもせずに、結果を待つてゐる「幹部」のところへ、走つた。
 それで、――それで百姓達が、やうやく、殺氣立つてきた「やうに見えた」。自然、そして幹部から、その氣勢が、だん/\一人々々と、傳つて行つた。誰も何んとも云はなくても、石山の家に、成行きを知るために、百姓がわざ/\出掛けてくるものも出來てきた。無口な百姓も、口少なではあるが、苛立つた調子で、ムツツリ/\ものを云つて行つた。
 源吉達は、もう雪も固まつたので、山へ入る時期だつたけれども、この方が片付くまで行けなかつた。それに今では皆、そんな處でない、と思ふほど、興奮してゐた。石山の家に寄り合つて、色々の話をきいたりしてゐるうちに、殊に若い百姓などは、「地主つて不埓だ!」さういふ理窟の根據が分つてくるのが出てきた。始め「さうかなア」と思つて、フラ/\した氣持のものが、「野郎奴」などと云つてきた。澤山集ることがあると、校長先生は、手振りや、身振りまでして、「佐倉宗五郎」や「磔茂左衞門」などの義民傳を話してきかせた。それが、處が、理窟なしに百姓の頑固な岩ツころのやうな胸のすき間々々から、にじみ入つて行つた。それから、笑談のやうに、「北海道の宗五郎」といふ奴が、何處かから一人位は出たつて惡くないだらうさ、と云つた。すると、朴訥な百姓は、眞面目に、考へこんだ。
 差配に掛合つても結局駄目だといふことが分り、そこへもつて行つて差配のとつた傲慢な態度のことから、カツ! とした元氣で、すぐ地主に掛け合ふことに、手はずがきめられてしまつた。校長先生の「北海道の宗五郎」が時機を得て、三人も、その大きな役目を引き受けるものが百姓の中から出た程だつた。
 そこで、それに「幹部」のものが二人加はつて、都合五人で「停車場のある町」の地主の家へ出掛けることになつた。それから殘つた幹部が、百姓二、三人とで、村中の百姓家を□つて、今迄の成行きを話し、愈□すつかり手を組み合はせて、皆一緒に――一人も地主へ裏切るものがないやうに、どし/\やることにするといふことを云つて歩くことにした。
 その連中は、お婆さんなどにつかまると、くど/\暮しの苦しいことや、自分達の昔からのことなどを口説かれた。そして、「地主樣」になんか、どうか手荒い事をしないでくれと拜まれたりした。「俺んどこの息子ば、そつたら寄合ひさなんか出さないで、すぐ歸れツて云つてくれ。」と、頭から、どなられたところもあつた。「碌なものにならない。」さういふ處は何んと云つても駄目だつた。それから、皆のする事を危ぶんで、「何んか、別にえゝこどでもねえべか。」と云つたり、「失敗(しく)じつたらハ、飯の食ひツぱぢになるべし。」と云はれたりした。
 ところが、その連中のうちの誰かゞ眼をつけてゐる娘の家へ行つて、その娘のゐるところで、いきなり、「碌でなし奴等!」と怒鳴られて、がつかりするものがあつた。又、逆に、そんな娘のゐるところへは、その用事にかこつけて、上り端に腰を下して、別な話を長々して喜んだのもゐた。――そして然し、とにかく、皆ヘト/\になつて、石山の家へ歸つてきた。
 地主の家へ行つた方は、家の中から野良犬でも「たゝき出される」やうに、上り端に腰もかけさせずに、そのまゝ「たゝき出」されて、戻つてきた。
「この野郎共、串だんごみたいに、手前え等ばつきさして、警察に、渡してやるから――今に、食はねえめに會ふな! 役人ばつれて行つて、お前達のものビタ/\片ツぱしから差押へてやるから。」
 皆の出てゆく後を丸太棒でゞもなぐりつけるやうに、惡態をついた。五人とも涙を眼に一杯ためて、興奮してゐた。
 幹部の百姓と、校長先生とは、すぐこの結果を、村中の百姓に一時も早く知らせて、皆を極度に激昂させ、その滿潮に乘つた勢ひで、やつてのけなければならないことを相談した。――「鐵は赤いうちに」! そして、一方、先生が町へ行つて、賣却の交渉を濟ませて置くことが、勿論必要な緊急事だつた。
「團結だ! 團結だ! 一人も殘らず團結だ!」
 百姓の二、三人は、先生の使ふ「團結」といふ聞き覺えた言葉を使つて、叫んだ。

      八

 その朝、まだ薄暗いうちに、村の百姓は(川向ひの百姓も)馬橇に雜穀類を積んだ。
 源吉は寒さのためにかじかんだ手を口にもつて行つて息をふきかけながら、馬小屋から、革具をつけた馬をひき出した。馬はしつぽで身體を輕く打ちながら、革具をならして出てきた。が、外へ出かゝると、寒いのか、何囘も尻込みをした。「ダ、ダ、ダ……」源吉は口輪を引つ張つた。馬は長い顏だけを前に延ばして、身體を後にひいた、そして蹄で敷板をゴト/\いはせた。「ダ、ダ、ダ……」それから舌をまいて、「キユツ、キユツ……」とならした。
 源吉は馬を橇につけて、すつかり用意が出來ると、皆が來る迄、家のなかに入つた。母親は、縁(ふち)のたゞれた赤い眼を手の甲でぬぐひながら、臺所で、朝飯のあと片付をしてゐた。由は、爐邊に兩足を立てゝ、開いてゐる戸口から外を見てゐた。
 源吉が入つてくると、母親は、
「俺アそつたらことなら、やめたらえゝと思ふんだ。」と半分泣聲を出して云つた。
 それは、このことが決つてから、毎日のやうに、何かの拍子に母親が云ふことだつた。何邊云つても、母親は又新しいことか何かのやうに、云つた。「地主樣に手向ふなんて、そつたら恐ろしいことしたつて、碌なことねえ。」
 年寄つた百姓達は、どんなことがあらうと、全くそれは文字通り「どんな事」があらうとたゞ「仕方がない。」さう何年も、――何十年も思つてきてゐた。
 そんな大それた事は、だから、思ひも寄らなかつた。
 源吉は然し母親の云ふことには、別に何んとも、たてをつくやうな事は云ひもせず、しもしなかつた。ムツシリしてゐた。ことに、源吉は、この事があつてから、ずウと、何時ものムツシリがひどくなつてゐた。母親にはそれが分つた。源吉は、ひどくムツシリし出す、その次には何かキツトいゝことがなかつた。大きなことをやらかす前、源吉は鐵の固まりのやうにだまりこくつてゐた。母親はそんなことが無ければ、とそればかり思つてゐた。だから、何時もの愚痴が母親の口から出た。
「昔、こつたらごと無かつたんだど、本當に、おつかなこと仕出來すんだか。」
 源吉は上り端に腰を下すと、やけにゴシ/\頭をかいた。
「なんもよくなるわけでなしさ。」
 由は、火に足をたてたまゝ、母親と兄とを、見てゐた。何んのことを話し合つてゐるのか分らなかつた。
「きつとえゝことなんて無いんだ。」母親は鼻涕をすゝり上げた。
「それこそ本當にめしも喰へねええんた事始まるべよ。」
「あまり先き立たねえ方えゝべ。ん、源。」
 母親はまだ、とぎれ、とぎれにくど/\云つた。
 源吉は年寄つた母親の後姿を見てゐた。白髮の交つてゐるゴミの一杯くつついてゐるモシヤ/\した髮の下から、皮だけたるんだ、生氣ない首筋が見えた。肩がすつかり前こゞみになつて、腰もまがつてゐた。帶の代りにヒモをしめてゐた。身體全體がまるで握り拳位にしか見えなかつた。源吉は今更、氣付いたやうに、「年寄つたなア!」さう、思つた。
 源吉は、今度のことでは、自分から、といふ風な氣乘りはなかつた。反對にこんな煮え切らないことなんて、見てろ、と思つてさへゐた。
 一寸すると、遠くで、馬橇の鈴の音が聞えてきた。
「ホラ、兄。」由が表の方に聞耳をたてゝ云つた。
 源吉は、どつこいしよ、と云つた風に腰をあげて、表へ出て行つた。
 母親はため息をして、ブツ/\何か口の中で云つた。そして、腰をのばして、表の方を見た。「氣ばつけて行くんだで。」源吉の後からさう云つた。
 源吉は、一寸、振返つて、母親を見た、が、そのまゝ戸をしめて、出た。
 卷舌で、馬の手綱をとるのが聞えた。後から來た仲間と何か話してゐる。走つてきた馬が、いきり立つて、首を高くあげながら、嘶いた。鈴は、後から後からと聞えてきて、十二、三臺もとまつたらしかつた。由は、窓から覗いて、何頭來たとか、誰々だとか、一つ/\云つて母に知らせた。表の騷ぎはだん/\大きくなつて行つた。馬のいななく聲や鈴の音や、百姓達が、前や後の仲間を呼び交はすやうにしやべつてゐるのや、それ等が一つになつて、どよめきになつて聞えた。由は、うれしがつて、窓にぴつたり顏をあてながら、一生懸命に表を見てゐた。母親は、獨言のやうに、「罰當り」とか、「ふんとに碌でなし」だとか云つた。表へは出て見なかつた。
 やがて、馬車が一齊に動き出した。鈴の音が、空氣でもそのまゝ凍えるやうな寒い空に、朗かに、しかしそれだけブルツとするほど寒さうにひゞきわたつた。それに百姓の馬をしかる聲や、革でぴしり/\打つ音や、馬のいなゝきなどが、何か物々しい、生々した、大きな事が今起らうとしてゐるやうに聞えてきた。
 何臺も何臺も過ぎて行つた。誰かゞ源吉の家に言葉をかけてゆくものがあつた。母親は、やうやく戸をあけて表へ出てみた。その時は丁度もう終りさうで、鈴木の石が、母親をみて、「やア、お婆さん、行(え)つてくるど!」と言葉をかけた。
 見ると、涯もなく廣がつてゐるたゞ雪ばかりの廣野を、何臺もの馬橇がまがりくねつてついてゐる道を、勢ひよく走つて行く一列が見えた。遠くから、その橇の調子のいゝ鈴の音が聞えてきた。時々、雪煙が、パツ/\と上つた。後の方の馬橇で先頭のが見えなくなつたかと思ふと、道が逆に曲つてゐる處にくると、その先頭の方が玩具のやうに小さく見えたりした。一列はその度毎にまるで、のびたり、ちゞんだりくねつたり、する黒い糸筋のやうに見えた。それが雪の平野だけに、はつきり目についた。そしてリン/\といふ鈴の音が、遠くに聞えたり、急に近くに聞えたりした。母親は、氣でも呑まれた人のやうに、じつと立つて、それを見てゐた。フト、自分に歸ると、「なんまんだ/\/\。」と云つた。
 停車場のある町では、幹部の百姓達が待つてゐることになつてゐた。雪道が、細くなつて續いてゐる行手に、防雪林の一列がみえ、すぐそこから電信柱や電氣柱が鉛筆を何本も立てたやうにみえ、煙草の煙程の、ストーヴの煙がシヨボ/\空に上つてゐるのが見える所迄來た。もうすぐだつた。
「どうだい、この威勢は!」
 源吉の前の房公が、振りかへつて云つた。
「うまく行くツかい?」
 源吉はあいまいな返事をした。
 どの馬も口や馬具が身體に着いてゐる處などから、石鹸泡のやうな汗をブク/\に出してゐた。舌をだらり出して、鼻穴を大きくし、やせた足を棒切れのやうに動かしてゐた。充分に食物をやつてゐない、源吉の馬などはすつかり疲れ切つて、足をひよいと雪道に深くつきさしたりすると、そのまゝ無氣力にのめりさうになつた。源吉は、もうしばらくしたら、馬を賣り飛ばすなり、どうなり、處分をしなければならないと、考へてゐた。
 十二、三臺もの馬橇が鈴を一せいに、雪の廣野に、おつぴらに響かせながら、前や後が時々呼びかはしたり、物々しく、精一杯に一散に走つてゐるうちに、それが、不思議に、こそくな百姓達の氣持を、グン/\殺バツな、誰でも、なんでも來い、といふ氣持に引きずつて行つた。四十をずつと過ぎてゐる、普段はおとなしい房公さへが、
「地主の野郎、下手なごとしたら、袋たゝきだ。」さう、大聲で源吉に云つた。そして、さういふ氣勢が、云はず語らず、皆の氣持を横に、太く強く一本に結びつけてゐた。若し、彼等の前に何か邪魔ものが出たとしたら、それがどんなものであらうと、騎兵の一隊が敵陣の眞只中に飛び込んで、馬の蹄で縱横に蹴ちらすやうに、一氣にやつつけたかも知れない。――それは、誇張なくさうだつた。
 防雪林を出ると、鐵道線路の踏切があつた。
 一番先頭に立つてゐたのが、いきり立つてゐる馬の手綱を力一杯に身體を後にしのらして引きながら、踏切番に、汽車をきいた。
「馬鹿に澤山だな、どうしたんだ。汽車はまだゞ。えゝよ。」
 顏を見知つてゐた踏切番が、柄に卷いた白旗をもつて、出てきた。
「ぢや、やるよ!」
 そのために、一時とまつた馬橇が、又順に動き出した。その踏切を越すと、今度は鐵道線路に添つてついてゐる道を七、八丁行けば、それで町には入れた。「さあ、愈□しめてかゝるんだぞ。」さういふのが、前から順次に皆に傳つてきた。
 町の入口に、七、八人の人が立つてゐるのが、眼に入つた。はつきり人は分らなかつた。が、先頭に立つてゐたのが、大きな聲で呼んだり、自分の帽子を振つて合圖をした。入口の七、八人は動かずに、こつちの方を見てゐるらしかつた。向ふには分らないのか、こつちからの合圖には、何も返事をしてゐるらしいしるしが無いやうに思はれた。
 一寸すると、それ等の人が、一度に、こつちに向つて走つてくるらしかつた。
 先きに立つてゐた百姓の二、三人が「あツ□」と、一緒に叫んだ。そして、急に馬を止めた。後からの馬は、はずみを食つて、前の馬橇に前足を打つた。後から、「どうした、どうした」「やれ/\!」皆が馬橇の上でのめつたり、雪やぶにとび出したりして、前を見ながら叫んだ。
「大變だ! 巡査だ□」
「えツ□」皆、ギヨツ! として、瞬間、だんまりの表情人形のやうに、立ちすくんで、前方を見た。――巡査だ! たしかに巡査だつた。
 だが、巡査とは! 百姓は巡査にはなれてゐなかつた。文字通りだじ/\になつて、何が何やら分らずにゐるうちに、手もなく巡査に兩側を守られて、十三人の百姓は警察に連れられて行つた。警察には幹部の百姓も連れて來られてゐた。地主が皆の入つてくるのを見ると、椅子に坐つたまゝ、大聲で笑ひ出した。その夜まで皆は、ブル/\震ひながら、駐在所の後の小さい室に押しこめられてゐた。巡査が三人もついてゐるので、お互が一言も話すことが出來なかつた。表からは、何頭もの馬のいなゝきや足がきが聞えてくることがあつた。皆は兩腕をはすがひに深く懷につツこんで、顎を胸にうづめ、鷺のやうに交る/\片足で立つて、片足は他の片足の脛や股にくつつけ、寒さのために爪先などが感覺のなくなるのを防いだりした。
 一人々々、そこから呼び出されて、取調べられた。ドアー越しに、ピシリ/\と平手でなぐりつける音や、大きな身體がどつかへ投げられたやうな、肉が直接(ぢか)にぶち當る變に鈍い、音が、はつきり聞えてきた。低くうなるのや、鼠でもふみつけられたやうな叫聲なども聞えた。その度に、皆は思はず息をのんだ。だが、然したゞ不安な眼差しを、互ひに交はすことしか出來なかつた。荒々しく戸が開くと、よろ/\になつた百姓が、つツ飛ばされるやうに、のめつて入つてきた。
 鼻血を出し、それが顏一杯についてゐて、鐵道線路の轢死人が立ち上つてきた、といふ風にみえるものもあつた。顏一杯が紫色にはれ上つて、眼が變に上ずつてゐるのや、唇をピク/\ケイレンさせて入つてくるものもあつた。皆は次の順番のくるのを、身體を硬直させながら、反つて、妙にうつろな氣持で待つてゐた。
 源吉はいきなり――いきなり顏をなぐられた、と思つた。自分の體が瞬間ゴムマリのやうに縮まつたのを感じた。
「貴樣、皆をけしかけたろツ!」
 源吉は反射的に、自分の頬を兩手で抑へた。と、次が來た。鼻がキーンとなると、強い藥でも嗅いだやうに感じて、――……べつたり尻もちをついてゐた。眼まひがした。彼は兩手で床に手をついて、自分の身體を支へた。鼻血の生ぬるいのが、床についてゐる手の甲に、落ちてきた。
「この野郎達案外、皆強情だ! 土ん百姓の癖に生意氣しやがると――」
 側に立つてゐた巡査が、さう云ひながら、腰にさしてゐた鞘のまゝの劍をもつて、滅多打ちに、源吉をなぐりつけた。すると、二、三人の巡査もよつてきて、ふんだり、蹴つたりした。――源吉は、「夢中」になつてゐた。それから少し手をゆるめた。
「どうだ?」
 源吉は、自分でも分らなかつたが、どうしたのか、眼蓋が重たくて、はつきり開けることが出來なかつた。そして顏全體に何か粘土でもぬられてゐるやうで、自分の手で抑へても、それがちつとも顏の感覺に來なかつた。何か別なものをつかんでゐるやうだつた。
「皆をけしかけたつて白状するんだ!」
 巡査が云ふのも、何處かやつぱり一皮隔てた處から聞えてくる氣がした。
「大きな圖體しやがつて、この野郎。」
 その途端に、源吉の身體がひよいと浮き上つた。「えツ!」氣合だつた。――源吉は床に投げ出されたとき「うむ」と云つた。と見る/\肺が急激に縮まつてゆく、苦しさを感じた。そして、自分の體が床から下へそのまゝ、グツ、グツと沈んでゆくやうに感じて……が、それから分らなくなつてしまつた。
 三日間駐在所に置かれて、その暮方、十二、三人が歸つてもいゝ事になつて、表へ出された。幹部のものは札幌へ送られることになつたのでのこつた。
 皆は駐在所の角につながれてゐた、空になつた馬橇に背中を圓くして乘ると、出掛けた。なぐられたあとに、寒い風が當ると、ヒリ/\とそこが痛んだ。吹雪いてゐた。町外れに出ると、それが遠慮なく吹きまくつた。皆は外套の上に、むしろやゴザをかぶつて、出來るだけ身體を縮めた。一臺、一臺、元氣なく暮方の、だん/\嚴しくなつてゆく寒氣の中を、鈴をならしながら歸つて行つた。誰も、何も云はなかつた。お互はお互の顏も見なかつた。見ようともしなかつた。
 踏切りを越すと、前方一帶が吹雪で、眞白い大きな幕でも降ろされてゐるやうに、何も見えなかつた。東の方から少しづゝ暗さがせまつてきてゐた。平野の一本道は、すつかり消されてしまつてゐた。防雪林の側を通つた時にはそれに當る粉雪と強風で、そこから凄みのあるうなりが響いてきた。そして、たゞ天も地も眞白いところに、ぼかし畫のやうに、色々な濃淡で、防雪林が、頭を一樣にふつたり、身體をゆすつたりしてゐるのが見えた。全く何も障碍物のない平野に出てしまつた頃、源吉の馬橇だけは一番うしろで、餘程遲れてゐた。それさへ、然し源吉は分つてゐないやうに見えた。
 源吉は齒をギリ/\かんでゐた。くやしかつた。憎い! たゞ口惜しかつた! たゞ憎くて、憎くてたまらなかつた。源吉は始めて、自分たち「百姓」といふものが、どういふものであるか、といふ事が分つた。――「死んでも、野郎奴!」と思つた――。源吉は、ハツキリ、自分たちの「敵」が分つた。敵だ! 食ひちぎつてやつても、鉈で頭をたゝき割つてやつても、顏の眞中をあの鎌で滅茶苦茶にひつかいてやつてもまだ足りない「敵」を、ハツキリ見た。それが「巡査」といふものと、手をくみ合はせてゐる「からくり」も! ウム、憎い! 地主の野郎! 源吉は齒をギリ/\かんだ。
「覺えてろ□」
 雪は眞向から吹きつけるかと思ふと、左側になつてゐたり、後から吹いたりした。馬は全身眞白になつて、年寄つた百姓のやうな、ガラ/\に瘠せた尻を跳ねあげるやうにして、足を動かしてゐた。尻毛が時々ピシリ/\と身體を打つた。が、風の向きで、その方へなびくこともあつた。眞白になつてゐるたてがみも風通りに動いた。前方を行く馬橇は、吹雪のために、二、三臺位しか見えなかつた。その先きの方は時々、吹雪の工合で、ひよつこり現れたり、見てるうちに又消されたりした。鈴は風の工合でまるつきり聞えないことがあるが、思ひがけなく實際よりもすぐ近く聞えることもあつた。何處からといふことなく、平野一帶がゴウ/\と物凄くうなつてゐた。だん/\薄暗くなつて行つた。
「覺えてろツ!」
 寒さがギリ/\と、むしろの上から、その下の外套を通して、着物を通して、シヤツを通して、皮膚(はだ)へ、ぢかにつき刺さつてきた。外套についてゐる細かい粉のやうな雪が、キラ/\と、小さいなりに一つ一つ結晶して、ついてゐた。手先や足先が痛むやうに冷えてきた。鼻穴がキン/\して、口でも耳でも鼻でも、こはばつてちつとでも動かせば、それつきり、割れたり、ピリ/\いひさうでたまらなかつた。皆の馬橇は雜木林の並木が續いてゐる處に出た。それは石狩川の川端(ぶち)に沿つてゐる林だつた。それで始めて、道を迷はずに來たことが分つた。時々、町からの歸りに、吹雪に會つて、道を迷つたものが、半分死にかゝつて、次の朝とんでもない逆の方向に行つてゐることを發見することがあつた。一樣に平なので、方向の見當が、つかないのだつた。
 雜木林は、誰かゞワザとにやつてゐるやうなかん高い悲鳴をあげて、ゆれてゐた。それが終ると、その雪をお伴にしてゐる風が、うなりをあげて、平野の中心の方へ、たゝきつけるやうな勢ひで、移つてゆくのが分つた。が、すぐその後から、もつと強いのが追ひかけてきた。源吉の前をゆく馬橇の横で、吹雪が龍卷のやうに大きな物凄い渦卷をつくり、それが見てゐるうちに、大理石のやうな圓筒形のまゝ、別な方からの強風と一緒になつて、馬橇を乘り越して行つた。と、その百姓がかぶつてゐたむしろが、いきなり剥ぎとられて、空高くに舞上つてしまつた。風は自由氣まゝに、そして益□強くなつて行つた。
「覺えてやがれ、野郎ツ□」
 源吉の胸一杯は、そのまゝ、この吹雪の嵐と同じやうに荒れきつてゐた。
 源吉は前方に眼をやつた。風呂敷包みか何かのやうに馬橇の上に圓く縮こまつてゐる百姓を見ると、それが自分たち全部の生活をそのまゝ現してゐるやうに源吉には思はれた。このかまきり蟲のやうな「敵」が分らず、分らうともせず、蟻やケラのやうに慘めに暮してゐる百姓達がハツキリ見えた。彼等だつて、然し今こそ、敵がどいつだか、どんな畜生だか分つたらう。だが、こんなに打ちのめされた善良な百姓達は、もう一度、さうだ今度こそは、鎌と鍬をもつて、ふんばつて、立ち上れるか! 敵のしやれかうべを目がけて、鍬をザクツと打ちこめるか!
 ――駄目だ、駄目だ、駄目かも知れない、源吉はさう考へた。然し、えツ、口惜しい、「覺えてろ!」源吉は齒をギリ/\かんだ。彼は何かに醉拂つたやうに、夢中になつてゐた。

      九

 源吉は村に歸つてから二日寢た。
 村は雪の中のあちこちに置き捨てにされた塵芥箱のやうに、意氣地なく寂れてしまつたやうに見えた。鳶に油揚げをさらはれた後のやうに、皆ポカーンとしてしまつた。源吉は寢ながら、然し寢てゐられない氣持で、興奮してゐた。母親が、源吉の枕もとに飯を持つてきて、何時もの泣言交りの愚痴をクド/\してから、フト思ひついたやうに、
「お芳が來てゐたで。」と云つた。
「あつたら奴、ブツ殺してしまへばえゝんだ。」顏も動かさずに、ぶつきら棒に云つた。
「何んだか、お前えに話してえことあるてたど。すつかりやつれてよ。青ツぷくれになつてな。ヒヨロ/\してるんだど。」
「金持のなまツ白い息子さおべツかつくえんた奴だ――!」
「こゝさ來て話すのも、戸口さ手で身體ばおさへてねば駄目だ位だんだ。」
 母親がそれからお芳のことをボツリ/\云つた。――お芳は、まだ然し大學生からの手紙をあきらめ切つてはゐなかつた。夢の中で手紙が配達されて、思はず聲をあげ、その自分の聲で眼をさましたりする事があつた。然し今では、その手紙を待つてゐる氣持が前とはだん/\異つてきてゐた。前は、その男がやつぱり戀しかつた。それが何より一番だつた。それでその手紙を待つてゐた。が、男から手紙がどうしても來ないといふことが分ると、今度はいくら藥をのんでも、おまじなひをしても墮りない、どうしても生れて來ようとしてゐる子供のために、男の手紙を待つやうになつてゐたのだつた。
 お芳はあの體で一生懸命働いた。時々陣痛が起ると、物置に走つて行つて、そこで、エビのやうにまんまるにまるまつてうなつた。それは前に、家の中で突然陣痛がきたので、お芳は腹を抑へたまゝ、そこにうつぶせになつてうなつた、その時「この恥さらし」と、嫂に云はれたことがあつたからだつた。働いてゐながら、めまひが起ることもあつた。突然家の中がゆがんだまゝ、グウツと眼の前につり上つてみえた。そしてクラ/\ツと來た。自分でごはんの仕度をして、それがすつかり出來上つてならんでしまふと、お芳は家の隅ツこの方に坐つて、じいとしてゐた。そして皆がたべてしまつて、餘れば――餘りがあれば、コソ/\自分で今度はたべた。
 寒い日だつた。お芳が仕事の手をフト置いて、ぼんやり考へこんでゐた。その時表から嫂が、手桶に一杯水をくんで入つてきた。寒中に水を汲みに行くのは、相當つらい仕事だつた。ところが入つてきて、お芳が何かぽかーんとしてゐたのを嫂が見た。
「えゝ、この穀つぶしの淫だら女(め)。」いきなり、お芳の體に、ひしやくで水をぶツかけた。
「何するツ!」お芳はカツとして、向き直つた。
「ふにやけた體して、それで働きの足しになれるか。穀つぶし。」
 ……源吉は、お芳が話して行つたことを聞きながら、逆に憎惡をもつて、そんなことで、まだまだ足りないぞ! と思つてゐた。今までのお芳に對するどんな氣持もフツ飛んでしまつてゐた。
「んで、俺に?」
「何時くるべかツて云つてだ。分かねツて云つたらなんも云はなえで歸つて行つた。」
 お芳から先だ! 源吉はまだ自分の顏が、自分のものでないやうに、はれ上つてゐる痛みを感じながら、一途にさう考へた。人もあらうに俺達のあの敵に身體を賣つた裏切者だ! あの女郎(めらう)、眞裸にして、逆さにつり下げ、飴ん棒のやうにねぢり殺してやれ! こいつから先だ!

 二、三日した。
 今度の事件で、地主が普段生意氣な百姓の畑を取りあげてしまふ、といふ噂が村中に立つてきた。差配がそれを云つて歩いてゐるらしかつた。一度とてつもなく打(ぶ)ちのめされて、ウロ/\してゐる百姓達はビク/\に、一日一日を送つて行かなければならなかつた。勿論百姓達が土地を取上げられては、生きるか死ぬかの問題であつた。それに對して、本當に結束を固めて、地主に當らなければならない事であつた。然し、「幹部」を取られてしまひ、殘虐な仕打ちにあつては、百姓達はもう手も足も出ない形だつた。

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