防雪林
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著者名:小林多喜二 

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      北海道に捧ぐ

[#改丁]

      一

 十月の末だつた。
 その日、冷たい氷雨(ひさめ)が石狩のだゞツ廣(ぴろ)い平原に横なぐりに降つてゐた。
 何處(どつち)を見たつて、何んにもなかつた。電信柱の一列がどこまでも續いて行つて、マツチの棒をならべたやうになり、そしてそれが見えなくなつても、まだ平(たひら)であり、何んにも眼に邪魔になるものがなかつた。所々箒のやうに立つてゐるポプラが雨と風をうけて、搖れてゐた。一面に雲が低く垂れ下つてきて、「妙に」薄暗くなつてゐた。烏が時々周章てたやうな飛び方をして、少しそれでも明るみの殘つてゐる地平線の方へ二、三羽もつれて飛んで行つた。
 源吉は肩に大きな包みを負つて、三里ほど離れてゐる停車場のある町から歸つてきた。源吉たちの家は、この吹きツさらしの、平原に、二、三軒づゝ、二十軒ほど散らばつてゐた。それが村道に沿つて並んでゐたり、それから、ずツと畑の中にひツこんだりしてゐた。その中央にある小學校を除いては、みんなどの家もかやぶきだつた。屋根が變に、傾いたり、泥壁にはみんなひゞが入つたり、家の中は、外から一寸分らない程薄暗かつた。どの家にも申譯程位にしか窓が切り拔いてなかつた。家の後か、入口の向ひには馬小屋や牛小屋があつた。
 農家の後からは心持ち土地が、石狩川の方へ傾斜して行つてゐた。そこは畑にはなつてゐたが、所々に、石塊が、赤土や砂と一緒にムキ出しにころがつてゐた。石狩川が年一囘――五月には必ずはんらんして、その時は、いつでもその邊は水で一杯になつたからだつた。だから、そこへは五月のはんらんが濟んでからでなくては、作物をつけなかつた。畑が盡きると、丈が膝迄位の草原だつた。そして、それが石狩川の堤に沿つて並んでゐる雜木林に續いてゐた。そこからすぐ、石狩川だつた。幅が廣くて底氣味の惡い程深く、幾つにも折れ曲つて、音もさせずに、水面の流れも見せずに、うね/\と流れてゐた。河の向ふは砂の堤になつてゐて、やつぱり野良が續いてゐた。こつち同樣のチヨコレートのやうな百姓家の頭が、地平線から浮かんでぼつ/\見えた。雄鷄が向ふでトキをつくると、こつちの鷄が、それに答へて、呼び交はすこともあつた。
 源吉は何か考へこんで、むつしりして歸つてきた。通つてくるどの家も、焚火をしてゐるらしく、窓や入口やかやぶきの屋根のスキ間から煙が出てゐた。が、出た煙が雨のために眞直ぐ空に上れずに、横ひろがりになびいて、野面(づら)にすれ/″\に廣がつて行つた。家の前を通ると、だしぬけに、牛のなく幅廣い聲がした。野良に放してある牛が口をもぐ/\動かしながら頭をあげて、彼の方を見た。源吉が、自分の家にくると、中がモヤ/\とけむつてゐた。母親が何か怒鳴つてゐるのが表へ聞えた。すると、弟の由がランプのホヤをもつてけむたさに眼をこすりながら、出て來た。眼の□はりが汚く輪をつくつてゐた。
「えゝ、糞母(ちゝ)!」惡態をついた。
 源吉はだまつて裏の方へ□つて[#「□つて」は底本では「□って」]行つた。
 由は裂目が澤山入つて、ボロ/\にこぼれる泥壁に寄りかゝりながら、ランプのホヤを磨きにかゝつた。ホヤの端の方を掌で押へて、ハアーと息を吹きこんで、新聞紙の圓めたのを中に入れてやつて磨いた。それを何度も繰り返した。石油ツ臭い油煙が手についた。由は毎日々々のこのホヤ磨きが嫌で/\たまらなかつた。由がそれを磨きにかゝる迄には、母親のせきが何十邊とどならなければならなかつた。それから、由の頬を一度はなぐらなければならなかつた。
「えゝ、糞母(ちゝ)。」由は、磨きながら、思ひ出して、獨言した。
「由、そつたらどこで、今(えま)迄なにしてるだ!」
「今(えま)いくよオ!」さう返事をした。「えゝ、糞ちゝ、」
 母親はへつつひの前にしやがんで火をプウ/\吹いてゐた。髮の毛がモシヤ/\となつて、眼に煙が入る度に前掛でこすつた。薄暗い煙のなかでは、せきは人間ではない何か別な「生き物」が這ひつくばつてゐるやうに思はれた。へつつひの火でその顏の半面だけがめら/\光つて見えるのが、又なほ凄かつた。由が入つてくると、
「早ぐ、ランプばつけれ!」と云つた。
 由は煙(けむ)いのと、何時ものむしやくしやで、半分泣きながら上つて行つて、戸棚の上からランプを下した。涙や鼻水が後から後から出た。ランプの臺を振つてみると、石油が入つてゐなかつた。
「母(ちゝ)、油ねえど。」
「阿呆、ねがつたら、隣りさ行(え)つてくるべ、糞たれ。」
「じえんこ(錢)は?」
「兄がら貰つて行(え)け。」
「――隣りの犬(えぬ)おつかねえでえ。」
 由はランプの臺を持つたまゝ、母親の後にウロ/\して立つてゐた。
 せきは臺所にあげてあるザルの米を、釜の中に入れた。
「行(え)げたら、行げ。」
 由は、なぐられると思つて外へ出た。
「兄――!」さう呼んでみた。
 それから裏口に□りながら、もう一度「兄――」と呼んだ。源吉は裏の入口の側で茶色のした網を直してゐた。きまつた間隔を置いておもりを網につけてゐた。
「兄、じえんこ――油ば貰つてくるんだ。」
 源吉はだまつて、腰のポケツトから十錢一枚出して渡した。由は一寸立ち止つて、兄のしてゐることを見てゐた。
「兄、あのなあ道廳の人(しと)來てるツて、入江の房云(え)つてたど。」
「何時(えつ)。」
「さつき、學校でよ。」
「何處さ泊つてるんだ?」
「知(す)らない。――」
「馬鹿。」源吉は一寸身體をゆすつた。
「房どこで、んだから、網かくしたツて云(え)つてだど。――兄、こゝさ道廳の人でも來てみれ、これだど。」由は、後に手を□はしてみせた。
「――馬鹿。――行(え)け、行(え)け!」
 由が行つてしまふと、源吉は、獨りでにやりと笑つた。それから幅の廣い、厚い肩をゆすつて笑つた。
 日が暮れ出すと、風が少し強くなつてきた。そして寒くなつてきた。一寸眼さへ上げれば、限りなく廣がつてゐる平原と、地平線が見えた。その廣大な平原一面が暗くなつて、折り重なつた雲がどん/\流れてゐた。

 暗くなつてから、源吉は兩手で着物の前についたゴミを拂ひ落しながら家の中に入つてきた。由はランプの下に腹這ひになつて、二、三枚位しかくつついてゐない繪本の雜誌をあつちこつちひつくりかへして見てゐた。
「姉(ねね)、ここば讀んでけれや。」
 由がさう云つて、爐邊で足袋を刺してゐた姉の袖を引つ張つた。
「馬鹿!」姉は自分の指を口にもつて行つて、吸つた。「馬鹿、針ば手にさしてしまつたんでないか。」
「なあ、姉(ねね)、この犬どうなるんだ。」
「姉(ねね)に分らなえよ。」
「よオ、――」
「うるさいつて。」
「んだら、いたづらするど。」
 源吉が上り端で足を洗ひながら、お文に、
「吉村の勝居(え)たか?」ときいた。
 お文は顏をあげて兄の方を見たが、一寸だまつた。「何(なん)しただ?」
 源吉も次を云はなかつた。
「居(え)だつたよ。」それからお文がさう云つた。
「んか……何んか云つてながつたか。」
「何んも。」
「何んも? ……今晩どこさも行くつて云つてなかつたべ。」
「知らない。」
 源吉は上に上ると、爐邊に安坐をかいて坐つた。家の中は長い年の間の焚火のために、天井と云はず、羽目板と云はず、何處も眞黒になつて、テカ/\光つてゐた。天井からは長い煤がいくつも下つてゐて、それが火勢や、風で、フラ/\搖れてゐた。
 臺所は土間になつて居り、それがすぐ馬小屋に續いてゐた。だから何時でも馬小屋の匂ひが家に直接(ぢか)に入つてきた。夏など、それが熟れて、ムン/\した。馬小屋の大きな蠅が、澤山かたまつて飛んで來た。――馬が時々ひくゝいなゝいた。羽目板に身體をすりつける音や、前足でゴツ/\と板をかく音がした。
 家の中にはまんなかにたつた一つのランプが點つてゐた。そのランプ自身の影が、丸太で組んである天井の梁に映つてゐた。ランプが動く度に影がユラ/\搖れた。
 母親のせきはテーブルを持ち出しながら、
「源(げん)、お前え何んか勝(かツ)さんに用でもあるのか?」ときいた。
「何んも。」
「網の相手そんだら誰だ。」
「ん……誰でもえゝ。」
「道廳の役人が來てるツて聞いたで。えゝか。」
 源吉は肩を一寸動かして、「役人か……」さう云つて笑つた。
「なア兄、この犬どうするんだ。」
 由が今度は繪本を源吉の側にもつて行つた。「こんだこの犬が仇討をするんだべか。――」
「母(ちゝ)、ドザ(紺で、絲で刺した着物)ば仕度してけれや。」
「よオ、兄、この犬きつと強(つ)えどう。隣の庄、この犬、狼んか弱いんだつてきかねえんだ。嘘だなあ、兄。」
「これで二ヶ月も三ヶ月も魚ば喰つたことねえべよ、母(ちゝ)。――馬鹿にしてる!」源吉はこはい聲を出した。
「んだつて、オツかねえ眞似までして……。」
「馬鹿こけや!」
 母親は獨言のやうに何かぶつ/\云つた。
「さあ、まんまくべ。」
 母親は焚火の上にかけてある鍋から、菜葉の味噌汁を皆に盛つて出した。「ん、お文もやめにして、まんまだ。」
 由は、兄の眞似をするのが好きだつた。なるべく大きく安坐(あぐら)をかき、それから肱を張つて、飯を食ふ――時々、兄の方を見ながら、自分の恰好を直した。
「なア、兄、犬と狼とどつちが強えんだ。犬だなあ。」
「だまつて、さつさとけづかれ。」
 せきが、芋と小豆の交つた熱い粥をフウ/\吹きながら、叱つた。鼻水を何度も忙しくすゝり上げた。
 由は一杯の粥を食つてしまふと、箸で茶碗をカン/\とたゝいてせきに出した。
「兄、芳ちやんから手紙が來てたよ。」
「ん。」
「こゝにゐた時の方がなつかしいつて、そんなこと書いてるんだよ。フンだものなア、何がこつたら所。」
 お文は、本當にフンとしたやうな顏をした。
「又! ――んだつて本當かもしれねえべよ。」母が口を入れた。
「うそ。大嘘、こつたらどこの何處がえゝツてか。どこば見たつてなんもなくて、たゞ廣(び)ろくて、隣の家さ行(え)ぐつたつて、遠足みたえで、電氣も無えば、電信も無え、汽車まで見たことも無え――んで、みんな薄汚え恰好ばかりして、みんなごろつきで、……。」
「兄、犬の方強えでなア。」
「んでさ、都會は汚れてゐると、そんなことが分る度に、石狩川のほとりで、働いてた頃の、ことが思ひ出されるつて。」
「んだべさ。」
「何んが、んだべさだ。こつたら處で、馬の尻(けつ)ばたゝいて、糞の臭ひにとツつかれて働いて――フンだよ。」
「なア、兄、お文この頃駄目だでア。」
 せきが源吉の方を見て、云つた。
 源吉はだまつてゐた。
「わしも札幌さ行(え)きてえからつて、云つてやれば、來るどこでねえつて――そのくせ、自分であつたらに行きたがつたこと忘れてよ。」
 外では、時々豆でもぶツつけるやうに、雨が横なぐりに當る音がした。その度にランプが搖れて、後の障子に大きくうつつてゐる皆の影をゆすつた。――延びたり、ちゞんだりした。
 由は飯を食ひ終ると、焚火に、兩足を立てゝ、繪本を見た。小指の先程のチンポコを出したまゝだつた。
「兄、狼見たことあるか。」
「見たことねえ。」
「繪で見たべよ。」
「ん。」
「どつち強い。」
「強え方強えべよ。」
「いや/\、駄目――え。」
 源吉は大きな聲を出して笑つた。
 樹の根ツこをくべてある爐の火が、節の處に行つたせゐか、パチ/\となつて、火が爐の外へはねとんだ。
 一つが由の「朝顏の莟みたいな」チンポコへとんだ。
「熱ツ々々……□」
 由は繪本をなげ飛ばすと、後へひつくりかへつて、着物をバタ/\とほろつた。
「ホラ、見ろ、そつたらもの向けてるから、火の神樣におこられたんだべ。馬鹿。」
「糞、ううーうん、/\、」
 由が半分泣きさうにして、身體をゆすつた。
 せきとお文は臺所に、ローソクを立てゝ、茶碗などを洗つた。そこに取りつけてある窓にプツ/\と雨が當つた。そして横にスウーと硝子の面を流れた。
「ひどくなるでア。」
 お文も「兄、やめればえゝによ。」と云つた。
「俺アだぢ來た頃なんてみんな取りてえだけ秋味(鮭)ばとつたもんだ。夜、だまつてれば、キユ/\/\つて、秋味なア河面さ頭ば出して泣くの聞えたもんだ。」
 お文がくすツと笑つた。
「ん、馬鹿。ほんたうだで。をかしイ世の中になつたもんだ。」
 遠くで、牛がないた。すると、別な方でもないた。が、風の工合で、途中でそれが聞えなくなつた。
 由は仰向けになつて、何んか歌のやうなものをうたつてゐたが、
「お母(ちゝ)、いたこツて何んだ?」ときいた。「いたこつ來て、吉川のお父(と)うばおろしてみたつけアなあ、お父、今死んで、火焚きばやつて苦しんでるんだつて云つたどよ。――いたこつて婆だべ。いたこ婆つて云つてたど。」
「ふんとか?」
「いたこ婆にやるんだつて、吉川で油揚ばこしらへてたど。」
「お稻荷樣だべ。」
「お稻荷樣つて狐だべ。」
「んだ。」
「勝とこの芳なあ犬ばつれて吉川さ遊びに行(え)つたら、怒られたど。」
「んだべよ。」
「兄、狐、犬よんか弱いんだべ。」
 源吉はだまつてゐた。
「吉川の母(ちゝ)かなし/\ツて泣いてたど。眼ば眞赤にしてよ。」
 お文は裏の納屋に提灯をつけて入つて行つた。入口のすぐ片隅に積んである俵の中へ手を入れて、馬鈴薯をとり出した。それを自分の前掛の中に入れた。鼠がガサ/\と奧の方へ走つて行つた。提灯の影が眞暗な物置の天井に、圓く動いた。
「ホラ、芋だ。」
 お文は、歸つてきて、爐邊へ前掛から芋をあけた。
「芋か――くそ、うまぐねえで。」
 由はそれを仰向けに寢ながら足先で、あつちこつちへ、ごろ/\させて、惡戲した。
「ん、この罰當り!」せきがその足を火箸でなぐつた。由は足をちゞめると、舌を出した。
「吉川でなんか、薩摩芋ばくつてたど。」
「今に、見てれ、その足腐つて行ぐから。」
 源吉は大きく兩腕を平行線にグツと上にのばして、あくびをした。その影が障子で、丁度鬼のやうにうつつた。
「おツかねえ。」由が首をちゞめて、その方をみた。
 源吉が振りかへつてみて、「なアんだ、馬鹿!」さう云つて、芋を二つ三つとると、爐の灰の中にいけた。
「由、あとで、燒けてから食へたえなんて云ふなよ。」
 由はワザと別な方を見て、そのまゝ身體を横へごろりところがした。
 お文はランプの下に縫ひかけの着物を持つてきた。それから自分の芋を、灰にいけた。
「寒くなつた。もう雪だべ。嫌(えや)だな、これからの北海道つて! 穴さ入つた熊みたいによ。半年以上もひと足だつて出られないんだ――嫌になる。」
「嫌だつてどうなるか、えゝ。」
「どうにもならないからよ。」
「んだら、だまツてるもんだ。」
「……」フンとしたやうに「默つてるさ――」
 由は寢ころびながら、物差をもつて、それをしのらしたり、なんだりしてゐたが、それで今度は姉の身體に惡戲し出した。初め、お文はプン/\してゐたので分らなかつた。無意識に、惡戲された處へ手をやつた。それが由には面白かつた。何度もさうした。それから首筋に物差の端をつけた。お文は今度は氣付いて、
「これ!」と云つた。
 もう一度やつた。そして、「やア、こゝに、姉の首にかたがついてるど。」と云つて、そこをつツついた。
 お文はいきなりふり向くと、物差を力まかせにとりあげてしまつた。
 爐邊に安坐をかいてゐた母親は、何時か頭を振つてゐた。ランプの光で、顏にはつきり陰がつくと、急に母親の年寄つたのが分つた。
「母(ちゝ)みたえになれば、一番えゝ。」
 お文は母の方を見て云つた。
 ランプの焔の工合で家が明るくなつたり、暗くなつたりした。表の泥濘を草鞋をはいてペチヤ/\と通る足音が聞えた。
 ねぢのゆるんだ時計が八時のところでゆつくり四つ打つた。由は爐に外ツ方を向けたまゝ眠つてしまつた。源吉は雨工合を見るために一寸表へ出てみた。
 それから源吉は自分で仕度をした。お文は仕事をしながら、時々兄を見た。
「いゝのかい?」
 が源吉はだまつてゐた。源吉はすつかり仕度が出來ると、網を背負つて家を出た。雨は降つてゐなかつた。然し暗い夜だつた。彼は何度も足を窪地に落して、不意を喰つた。そんな處は泥水がたまつてゐるので、その度に思ひツ切り泥をはねあげて、顏までかゝつた。空には星が出てゐた。遠くの方で雜木林か何かに風が當つてゐるやうな音が不氣味に絶えずしてゐた。どつちを見ても明り一つ見えなかつた。遙か東南に、地平線のあたりがかすかに極く小部分明るく思はれた。岩見澤だつた。
 彼は歩きながら、自分のこれからしてのけようと思つてゐることを考へてゐた。源吉は何かに對して「畜生!」と獨りで云つた。彼は何べんもツバをはいた。じつとしてゐられない氣持だつた。そして、何んか、かう、自分の歩いてゐることが齒がゆくてたまらなかつた。「畜生!」道が曲つてゐた。
 そこを曲ると、二町程先きに明りが見えた。小さい窓からのランプの明りだつた。と、七、八間後の草ムラが、急にザアーと鳴つた、かと思ふと、雨が降つてきた。忽ち一面、彼の前も後も横も雨の音で包まれてしまつた。小さい窓の明りのところだけ、四角に限つて、雨脚が見えた。源吉が、その家の側に行くと、暗がりで、急に、犬ののどをうならせてゐる聲をきいた。彼はひよいと思ひ出して、犬の名を、その方へ見當をつけて、ひくゝ呼んでみた。すると、それが止んで、足にものが當つた、犬が今度は彼の足にまつはりついて來たのだつた。彼は二、三度犬の名を云つた。
 雨のふる音が少し薄くなつたと思ふと、だん/\やんできた。じつとしてゐると、その雨の音が、西の方からやんできて、今では、東の方に移つて行くのがはつきり分つた。源吉のところでは雨が全く止んでゐるのに、石狩川の方に雨が降つてゐる音がした。それが、又だん/\野面を渡つて、後から後からとふり止んでゆく音が、はつきり分つた。
 源吉は裏口にまはると、「勝、勝」と呼んだ。
 家の中で誰かゞ立ち上つて、土間の下駄をつゝかけながら、來る音を源吉は聞いた。戸をガタ/\させてゐたが、がらつと開いた。光がサツと外へ流れ出た。入口に立つてゐた源吉に、眞向(まとも)に光が來た。
「源さんか。」
「ウン、行くか。」
「行く。一寸待つてくれ。」
「どうだ、」さう云つて、一寸聲をひそめて、「お父(とう)なんか云はねえか。」
「ううん。」勝はあいまいに返事をした。
 源吉はニヤツと笑つて、鼻を動かした。今朝源吉は、恐ろしがつて、嫌がる勝に、無理々々承知をさしたのだつた。彼はそのことを思ふと、をかしかつた。
「んだら、早く用意すべし。」と云つた。
 一寸經つて、二人は暗い道を歩いてゐた。
「どの邊でするんだ。」
「小(こ)一里のぼるだよ。せば北村と近くなるべ。んでなえと見(め)付かつたどき、うるせえべよ。」
「道廳の役人が入つてるさうだど。」
「んだべよ、きつと。んだから、なほ面白いんだよ。」
「…………」
「道廳の小役人に見付かつてたまるもんけ。あえつ等だつて、おツかながつてるし、今頃眠むがつてるべ。」
 源吉は大きな聲で笑つた。が、だだツ廣い平原はちつとも響き返へしもしないで、かへつて不氣味に消えた。
 源吉は先に立つて、あまりものも云はずについてくる勝を、引きずツてでもゐるやうに、グン/\歩いてゐた。五分位歩いたとき、又雨が降つてきた。眞暗闇の廣漠々とした平原に雨がザアーと音をさして降つてゐるその最(さ)中を提灯もつけずに歩くのは、勝には、然し、矢張り氣持よくなかつた。
「嫌だなア。」
「うん?」源吉はふり向いて、雨の音に逆つて、きいた。
「あまりよくねえツて。」
「何が。」
 勝はてれたやうに笑つた。
 しばらくしてから、
「役人は何處に泊つてるんだ。」と、勝が自分の前を歩いてゆく、がつしりした肩をしてゐる源吉にきいた。
「北村だべよ。北村の宿屋だべよ。――お湯さ入つて、えゝ氣持で長がまつてるべ。こつから三里もあるもの、ワザ/\こつたら雨降りに、出掛けて來なべえ。」
「今朝、俺アのお母川さ行つたら、五、六疋秋味が背中ば見せて下つて行つたツて云つたで。」
「ンか、うめえ/\。」
 それからしばらく二人ともだまつて歩いた。勝は、大股な源吉に、急ぎ足で追ひつくやうに歩いてゐた。
 急に横で、牛が幅の廣い聲で、ないた。思ひがけないので二人ともギヨツとした。
「畜生、びつくりさせやがる。めんこくもねえ牛(べこ)だ!」
 すると、ずウと遠くで、別な牛が答へるやうになくのが聞えた。一軒の家が横手に見えた。其處を通り過ぎるとき、思ひ出したやうに勝が、
「芳のことをきいたか?」と、前に言葉をかけた。勝は、芳が札幌へ行く前の、芳と源吉の關係を知つてゐた。
「うん、」源吉は面白くないことを露骨に出して返事をした。「お文も困りもんだよ。」
「…………」
 二人は、そこで頭でも鉢合せしたやうに、言葉を切つた。
「勝、お前餘計なこと、お文に云ふんだべ。」
「俺?」
「うん。お前えも、お文に負けなえからなあ。百姓嫌(え)やになつたんだべよ。」
 勝はまだ何も云はなかつた。
「札幌の街(まち)ば見てから、夢ばツかし見てるべ。」
「こつたらどん百姓が、えゝかげん嫌にならなかつたら阿呆だらう。」
「ふん。――俺んだら阿呆だなあ。」さう云ふと、勝の眼の前をふさいでゐる肩がゆるいで、笑ひ出した。「俺ア百姓ツ子だよ。」
 勝は、何んかしら、ギヨツとした。が「自慢にもならない。」さうひくゝ云つた。
「勝、お前え、芳札幌で何してるかおべでるか。」
 勝は云ひづらさうに「あんまりいゝ處でないさうだツてよ。」
「淫賣(ごけ)でもしてるべよ。」
 雨が殆どやんで、泥濘(ぬかるみ)を歩く二人の足音だけが耳についた。
「……淫賣(ごけ)になんかしたくねえよ。」
 源吉は獨言のやうに云つた。後になつてゐる勝にはよつく聞えなかつた。
 眞暗な野ツ原の夜道を三十分近くも歩いた。
「こゝから川岸に出るんだ。」
 源吉は立ち止つて、本道から小さい横道に入つた。「もう直ぐだよ。」
 畑と畑との間の細い道だつた。それで、兩側の雨にぬれてゐる草が歩く度に股引に當つた。そして股引が、すぐ氣持惡くぐぢよ/\になつてしまつた。
「さあ、氣をつけるべ。」源吉はさう云つて、背の網をゆすり上げた。「まさか、こつたら雨の日に役人もゐめえよ。」
「俺――」
「うん?」
「…………」
「何んだ?」源吉は振りかへつた。「うん?」
「つかまつたりしたらわやだど。」
「……なんだ、おつかなくでもなつたんか。」
「…………」
「どうした?」
「あんまりよくねえ。」
「馬鹿ツ、元氣出すんだ。」
 一寸した林の中に二人は入つた。梢越しに、空が見えた。雲が黒い、細い枝の上の頂上をかすめて、飛んでゆくやうに見えた。枝がゆれて、互に打ち當るそれ/″\の音が一緒になつて、變な凄味のあるうなりがしてゐた。そして半町も行かないうちに、心持眼下に、石狩川の川面が見えた。秋の末の、荒模樣の暗い夜に、その川面が、鈍い、然し、底氣味の惡い光をもつて流れてゐた。石狩川は晝でも、あまり氣持はよくなかつた。川の中央(まんなか)頃には二つも三つも、水が少しの音もたてずに渦を卷いてゐた。棒切れとか、紙屑のやうなものが流れてくる。すると、その渦卷のところで、グル/\行つたり來たりする、と、何かゞ川底にゐて、丁度ひつぱりこむやうに、その木屑などが渦卷の中に「吸ひこまれて」しまふ。それ等は晝でもいゝ氣持がしなかつた。勝は、今、眼下に、その音をせず、變んに底氣味のわるい石狩川を見た、身體が瞬間ブルンと顫はさつた。
「渡船場だべ、こゝ?」
 勝は源吉との距離をつめて、きいた。
 二人は川岸に下りた。源吉は岸につないである小舟に背の荷物を、どしんと投げてやつた。それから舟の端に腰をかけて、一寸の間、四圍(あたり)を見てゐた。
「オイ、勝、お前なんか大きな聲で、唄ば歌へや。」源吉は煙草を出しながら云つた。
 勝は、變に思つて、きゝかへした。
「なんでもえゝんだ。――まア、先に俺一つ歌ふかなア。――なんでも、大ツきな聲でだ。」

スツトトン、スツトトンと通(かよ)はせてえ――と、
今更ら嫌(え)やとは、それア無理よ、――だ、
嫌やなら、嫌ぢやと最初からア――と、
云(え)えば、ストトンと通やせぬ――と、
スツトトン、スツトトン

 源吉は、しやがれた聲を、突調子もなく大きく張りあげて歌つた。それがちつとも反響もしないで、ぶつきら棒に消えてしまつた。勝は、氣味わるく、むしろキヨトンとしてゐた。
「どうしたんだ?」
 源吉は、急に笑ひ出した。大きな身體をゆすつて、無遠慮に大きく笑つた。
「うん?」
 笑ひをやめない。
「オイ、よせよ。」
 勝は顏をしかめて、哀願でもするやうに立つてゐた。
「ハヽヽヽヽヽヽ。」
 それから、「もう一つ歌ふど。」と云つた。

鳥も通はぬう……うーう
(あ、聲が出ない。と云つて、)
花――ア櫻木イ――
人はア――ア武士――か。

 源吉は途中で止(よ)すと、勝をうながして、今來た道をもどつた。半町位來て又林の中に入つた。それから、源吉は立ちどまると、
「しばらく、かうやつてるんだ。」と云つて、源吉は耳をすまして、四圍に氣をつけながらじつとしてゐた。二十分も二人はさうしてゐた。
「よし/\、大丈夫。」さう云ふと、「さあ、行(え)くべ。」
 又二人は舟のところまで下りて行つた。そして、「乘るべし。」と云つた。
 源吉は勝をのせると、力を入れた、舟を川の眞ん中に押し出し、うまく、その瞬間ひよいと舟の後に飛びのつた。そのはずみに、舟のへようしが、いきり立つた馬の首のやうに立ち上つた。そして舟がぐら/\ツとゆれた。
「なんだか、糞も分らねよ。」勝は源吉が網の上に身體を下すとさう云つた。
「んか。なんでもねえよ。役人がゐるかと思つてちよいとやつてみたのさ。お前え、初めだから分らねんだ。みんなあやつて、すんだ。」
 さう云つて、「これから、その代り、おとなしくするんだ。」
 勝は身體が顫へてどうにもならなかつた。勝は内心源吉と一緒に來たことを後悔し出してゐた。石狩川には「主」がゐる、と云はれてゐた。舟もろとも、渦卷の中にグル/\卷きこまれる。さういふ感じがしてならなかつた。とにかく、晝、それはきつと馬鹿らしい話か知れないが、今、勝にはそんな事は問題でなかつた。事實、どういふ理由か分らないが、石狩川に入つて死んだ人は、決してその死體が上らなかつた。川は夜の海より氣味が惡かつた。今にも水から、「突如」何か出さうで、――出さうでならなかつた。舟は或ひはともが先きになつたり、めおしが先きになつたりして流されて行つた。舟底で、ペチヤ/\と水が當る音がした。兩側は黒く、高くなつてゐるところは切りとつた斷崖のやうになつてゐた。又、すぐずウと地平線が見える程低いところもあつた。川岸まで林が來てゐて、それが風をうけて、搖れてゐた。その下の水は眞暗になつて、そこを舟が通ると、今まで水のかすかな光の反射で見えてゐたお互の顏が見えなくなつた。
「オ、勝、あのなア、お前こつち側を見て、誰か人がゐたら知らせれ。」
 さう云ふと、源吉はそれと反對側を見守つた。
 十分程下つた。二日も雨が降つたので、水量が五寸位も高くなつて、流れも早くなつてゐた。やがて、石狩川が大きく、ゆるやかにカーブしてゐるところへ來た。すると、源吉は櫂をとりあげて、その可成り強い水流にさからつて、舟を岸につけようとした。勝も櫓をとると、さうした。二人が滿身の力で漕ぐ度に、小さい舟がグラツ/\とゆれた。そして、櫓が弓のやうにしのつた。それに力を入れ過ぎて、自分の力でよろめいたりした。勝は、二、三囘も不態に自分の身體の中心を失つた。舟は二人の力にも拘らず、カーブの眞中の方へ流され勝ちだつた。「ウーツ、ウーツ!」源吉は、まるで文字通り仁王立ちになつて、唸りながら、漕いだ。舟は、やがて二人の努力の千分の一位づゝ效いてきた。
「そらツ! やれツ!」
 勝も身體中が汗ばんできた。
 舟が、そして、川の中心を一間程切り拔けると、あとは今度は、その惰勢のように、樂になつた。
「これでいゝ、これでいゝ!」
 舟が砂の岸に、ズシンと乘りあげたとき、源吉は反動でよろめきながら着物の袖で顏中の汗をふいた。
「仕事さかゝる前、ちよつと、上さ行(え)つて、見張つてゝくれ。」さう源吉が、勝に云ふと、彼は、網の中を探がして、丁度野球に使ふバツトとそつくり同じやうな棍棒を出して渡した。勝は、それをめづらしさうに受取つて、苦笑した。
「凄いなア。」
 それを、何か玩具のやうにいぢりながら、砂の崖になつてゐる處をよぢ上り始めた。源吉はその後から、網の端の、ロープをもつて上つた。二人は平地の上に頭だけを出して、まづ、一度用心深く見□はしてみた。眞暗でよくは分らなかつた。風がずウと遠くを渡つてゐた。――そしてそれが移つてゆく工合が、はつきり分つた。空は地面と區別が出來なかつた。横なぐりに降つてゐる雨が、時々ひよいと眼の前に白く光つてみえた。
「こつたらどき役人くるけア。」
 源吉は、勝を立たして置いて、前から、それと決めてゐた樹の幹に、そのロープを卷きつけた。幹は雨でヌラ/\してゐて、源吉が力一杯に結ぶと、樹皮がボロ/\にはげて落ちた。しつかり結び終ると、今度は、兩手を幹にかけて、足場をふみならして、力一杯にゆすつた。急に頭の上で葉がガサ/\となると、パラ/\音がして、雨滴が落ちてきた。一寸離れて立つてゐた勝が、その時、ギヨツとしたやうに、源吉の立つてゐる所へ走つてきた。源吉も思はず緊張して、向き直つた。
「何んだ。」源吉は聲をひそめて、然し、鋭くきいた。
「今の、なんだ。」勝は、周章てゝ、どもつて云つた。
「うん?」
「ガサ/\つての。」
 源吉は、「何アーんで。」と云つて、笑つた。「んか、――何アんでえ。俺の方でびつくりしてしまつたで。」
「何んだ。びつくりしたで。」
「樹ば振つてみたんだ。水流が早えから、大丈夫かなと思つて、幹ばためしてみたんだ。そつたらこつたら、その棍棒糞も役に立たねべよ。」源吉は笑つた。
 二人は又舟にもどつた。そして、網をすつかり順序よく舟に積み直すと、源吉は自分で舟を漕いで、勝に、網を下してもらふことにした。舟は眞直ぐ向ひ側に、力一杯に漕ぎ出された。が、さうすると、丁度結局舟は斜め下流に、カーブにかゝつて向ひ側につくことになるのだつた。
 源吉は漕ぎながら、「さア、やつた。」と云つた。勝はドン/\網を水の中になげこんで行つた。向ひ側につくと、源吉は勝に手傳はせて網の端のロープを河には後向きに、肩にかけ、網が水流に流される力に反抗して、岸の樹に結びつけた。二人の力でも、二人とも時々ヨロ/\と後によろけたことさへあつた。それから舟を岸にあげた。
 それで終つた。
 二人は次の朝四時頃、こゝへ來ることにして、そこから畑道に出て、家に歸つた。
 源吉が家に入つて行くと、ランプを消して皆寢てゐた。彼は手さぐりで、臺所に行つて、水瓶からひしやくのまゝ、ゴクリ/\と咽喉をならして水を二、三杯續け樣にのんだ。厩小屋で、馬が尾毛で、ピシリ/\と自分の身體をうつ音がした。

      二

 朝の四時は、夜の九時、十時と同じやうに眞暗だつた。それよりは青みを帶びて、何處か底寒かつた。
 川は水が増して、その勢ひで、ロープを結びつけてゐた樹が、たわんで、ゆれてゐた。二人が家を出て、其處に着くまでは雨が止んでゐたのに、仕事にとりかゝつた頃から、又ひどく降り出してきた。
 すぐに網をひきにかゝつた。その水流に逆つて網をひくことは、然し容易な仕事ではなかつた。二人は何度もヨロめいた。そのまんま河ん中に、ひつぱりこまれかゝつたりした。二人は息をハア/\させて、二十分位あとには、身體中汗みどれになつて、それが湯氣になつて出た。それでも、やうやくひかさつてきた。さう、少しでもなると、二人は調子よく元氣づいてきて、「エンヤ、エンヤ」の掛聲をかけてひき出した。それからはどん/\引かさつた。力がさう要らなくなつた。
 源吉は、一寸身體を休めると、「勝、棍棒は、あるべ?」ときいた。勝が「うん」と云ふと源吉はエヘ、エヘ/\と笑つた。「たまらねえぞ、畜生、野郎。」
 天井で、水桶でもひつくりかへしたやうに、無茶に、雨が地面をたゝきつけ、はねかへり、ゴン/\音をして流れてゐた。眞暗なのにも拘らず、雨のために、妙に白つぽい明るさがたゞよつてゐた。
 と、「バヂヤ/\/\」と水をはね返す音が起つたが、すぐそれツ切りだつた。一寸すると、又「バヂヤ/\」と水がはねかへつた。それからすぐ續いて、今度はもつと大きく「バヂヤ/\」となつた。網がだん/\引き寄せられてきた。

それ引いた、それ引いた。
女子(あねこ)の××を、それ引いた、それ引いた。

それ引いた、それ引いた、
嬶の××を、それ引いた、それ引いた。

アヽ、エンヤこらさと、エンヤこらさと。
どツこいしよ、どつこいしよ。

 源吉は息をきりながら、はやしをつけて、その大きな圖體ををどる時のやうに振つた。心持腰をまげて、内股を「鎌」にしながら、身體に拍子をとつた。それが源吉をまるで子供々々にさせた。網がだん/\狹められてくると、鮭がまるで板で水の面をたたきつけるやうな音をたてた。
「源、々、々!」勝が呼んだ。
「うむ?」
「あらツ! 見ろ。」
 夜は眞暗だつたのだ。――黒い衣(きれ)で眼かくしされてゐるやうに暗かつた。見ると、そのなかに、然し眼をひよいと疑ふ程に、鱗光が、ひらめいた。その次にすぐ、力強い、水をたゝきつける音が起つた。
「秋味だ!」源吉は大きな聲を出した。「でけえど、/\」だん/\水の「ばぢや/\」がひどくなつてきた。子供が水のかけ合ひでもしてゐるやうだつた。そのうちに、二、三匹は砂濱にはね上つたらしく、その肉付きの厚い身體を打ちつけながら、あばれた。源吉は勝に網をひかせて、自分は棍棒をもつて、川岸に降りた。網のそばまでくると、源吉は、心分量で十匹以上鮭が入つてゐることが分つた。いきなり横ツ面をたゝきつけるやうに、尾鰭ではじかれて、水と砂がとんできた。
「野郎!」
 源吉は顏を自分の雨でぬれた袖でぬぐふと、棍棒をふりあげた。見當をつけて、鮭の鼻ツぱしをなぐりつけた。
 キユツン! といふと、尾鰭を空にむけたまゝ、身をのばした。そのまゝ一寸さうしてゐた。が、尾鰭が下つて行つた。そして全くぐつたりしたやうに、尾鰭が下へつくと、ピク/\と身體が二、三度動いた。そしてそれからもう動かなかつた。
 源吉は、勝を呼んだ。勝が來たとき、源吉はものも云はずに、もう一匹の鼻へ一撃を加へた。勝はギヨツとして立ちすくんだ。源吉は、息がつまつた笑ひ方をした。源吉は一匹、一匹棍棒でなぐりつけて行つた。勝はそれをすぐえら(鰓)に手をかけて引つ張つて、舟にのせてあつた石油箱に入れた。ひつぱる度にピクツ/\と身體を動かすのや、まだ息だけはしてゐるらしく、鰓だけが動いてゐるのがあつた。
 源吉はさうやつてゐるうちに、妙に強暴な氣持になつてゐた。彼は一匹々々、「野郎」「畜生」「野郎」「畜生」と、唇をかんだり、齒をかんだりしながら、さうした。變に顏の筋肉が引きつつて、硬ばつたりした。そして氣が狂つたやうに、滅多打ちをした。
 さうかと思ふと、普段から、「野郎奴」と思つてゐたものの名を一々云ひながら、なぐりつけて行つた。そのことが、又、彼を不思議なほどにひきずつて行つた。
 ひよいとすると、生温いのが、顏にとんでくることがあつた。顏につくと、すぐねつとりとして、氣味が惡かつた。血だつた。源吉は一匹なぐり殺す度に、一匹、二匹と數へてゐた。七匹、八匹――となつて行く度に、だん/\大きな魚のはね返る音が、少なくなつて行つた。十匹まで數へて行くと、源吉のところから少し離れてゐたところで、一匹はねかへす音がしただけだつた。源吉はその方へ行かうとして、鮭のヌラ/\した身體をふんだ。思はず、源吉でさへ、ひやりとした。深夜に、鐵道で、轢死人でもふみつけるやうな氣がした。「十一匹――と。」源吉はさう云つて、耳をすましてみた。もう音がしなかつた。急に雨の音だけ源吉の耳についた。「十一匹か」と思つた。
 そして、「もう終りだ。十一匹。」と勝に云つた。
 勝はそれを二つの石油箱に入れると、背負へるやうにした。
「網と舟はどうするだ?」
「舟か?――こゝさあげておくさ。朝になつたら、モーター通るべよ、そのどき引張つて行つてくれるだ。網なんて、俺しよつてえくべ。」
「冗談でない。水さ入つたら、とつても重くて。」
「何、こつたらもの!」
         *
 二人は、畑道に出た、源吉はこんなに澤山とれるとは思つてもゐなかつただけ、子供のやうに上機嫌でゐた。が、勝はビク/\してゐた。この歸り道で、もし、出合頭に役人に會はないか、そのことで、勝の心は、後首でもひつつかまれてゐるやうだつた。何處もまだ/\暗かつた。だしぬけに牛が、すぐ側の眞闇から起つたとき、勝は、聲を出すところだつた。
 前から提灯が見えた。
「源、提灯。」勝は後から源吉に言葉をかけた。
「うん。」源吉は、すぐ道を外れて、畑の中に入つて行つた。十間程道から離れると、立ち止つた。二人はさうやつて提灯を行き過ごさした。じつと見てゐると、何處を見たつて一樣に眞暗な、ところが、提灯の動いてくる、火のとゞく一部分だけが見えた。草藪がちらつと光つたと思ふと、すぐ、道の兩側の畑の一部が見えたり、道の水たまりが見えたり、提灯がゆれると、その見える處が左に或ひは右に廣くなつたり、狹くなつたりした。
 行き過ぎると、二人は又道に出た。
「役人なんて、提灯ばつけてくるけア。」と源吉が笑つた。
「んだら、なほおつかねべよ。鼻先さぶつつかるまで、分らねえでないか。」
「んだら、こら。」さう云つて、身體を半分後にねぢ曲げて、勝の鼻先に、さつきの棍棒をつき出した。「これよ。」
 勝は、その棍棒から血なまぐさい臭ひがその時來たのを感じた、と同時に、ギヨツとした。
「馬鹿な!」勝は自分でもをかしいほどどもつて云つた。
「この村で、これで三ヶ月も一疋の魚ば喰つたことねえんだど。こつたら話つてあるか。後(うら)さ行つて、川ば見てれば、秋味の野郎、背中ば出して、泳いでるのに、三ヶ月も魚ば喰はねえつてあるか。糞ツたれ。そつたら分らねえ話あるか。それもよ、見ろ、下さ行けば、漁場の金持の野郎ども、たんまりとりやがるんだ。鑑札もくそもあるけア。」
 勝はだまつてゐた。
 源吉はさういふ事になると、心の中から、ヂリ/\と苛立つてくる不思議な怒りを感じた。こんな時役人にでも會つたら、彼は、鮭殺しに使つた棍棒をきつと、そいつの腦天にたゝきつけたかも知れない。
「俺、すきこのんで、こつたら事すると思つたら、大間違ひだで!」
 勝は源吉には變に、「底恐ろしさ」があるのを知つてゐたので、それを思つて、恐ろしくなつた。役人に會はないでくれゝばいゝと思つた。それは、役人に會へば、源吉がきつと、――本當に、きつと――役人を打ツ殺す、と思つたからだつた。
 勝は源吉のことで知つてゐることがあつた、それが今思はれた。餘程前、源吉の父親が内地からはる/″\この熊の出る北海道に渡つて來て以來、身體を土の上にえびのやうにまげて働きに働きつくしたお蔭で、やうやく一人前の土地になつた、――その土地をある金持のために押へられたことがあつた。その日になり、どうしても駄目で、その金持の手に渡さなければならなかつた。父はがつくりして、頭が痛いと云つてゐた。
 金持や役人などが二、三人どし/\入つてくると、父親に、ある書面に印を押さした。父親はまるで、ぼんやりして、印をとりに奧の間に入つて行くのに、その障子の前で、何かものでも忘れたやうにウロ/\した。
 丁度父親が印を押した時だつた。その書面の上に、身體をまげて、その方にばかり氣をとられてゐた金持が、うむツ! と云つて、後へふんぞりかへつた。皆はびつくりして、はね上つた。と、その時十一、二であつた源吉が、金持の足にだきつきながら、その毛のない脛にかじりついてゐた、のを皆は見た。身體をひきつけのやうに震はして、眼の色をかへながら、源吉が喰らひついてゐた。父親や役人が吃驚して、いくら離れさせようとしても、離れなかつた。大きな男の金持は、ワナにかゝつた兎のやうに、身體をごろ/\のたうつた。大聲をあげて泣きわめいた――。
 それまで――その日まで、源吉は一言も、畑のことについては云ひもしないし、父親が心配してゐるときでも、別に變つたことがなかつた。たゞ、かへつて何時もよりは無口に、おとなしくなつてゐた。それが、さうしたのだつた! この事件(こと)には隨分尾鰭がついて、部落内にひろまつた。勝もそれをきいた。
 源吉は何か事件(こと)があつても、じつとしてゐた。他の者なら、それについて何か云つたり、云ひあつたりする。源吉にはそれがなかつた。そして他のもの等が、その癖、結局は何もせず、ワイ/\してゐるとき、ノソ/\と出掛けて行つて、獨りで、とてつもない大きなことを仕出かした。歸つてきて、しかも、そのまゝ、そのことは一(ひと)ツ言も云はずに、むつしりしてゐた――かういふことがいくらもあつた。ウスのろだから、さうではなくて、何か、深い、しつかりしたのがあるので、さうなのだと、勝には思はれた。
 今、勝は、だから若し、源吉が役人と、ひよつこり會つたとしたら、勝はすぐ昔金持の脛にかぶりついた源吉であることを考へ、源吉が、あの棍棒で、てつきり、やらかすとしか思はれなかつた。それがまるで、「恐怖」のさそりみたいに勝の心にかぶりついてしまつた。
 二人はだまつて歩いた。ぬかる道を歩く足音だけがピチヤ/\/\と續いた。それが時々、くぼみに足を落して、身體を前のめりにのめらせたとき、亂れるだけだつた。さうしながら、勝は(勿論源吉も)前の方に氣を張つてゐた。勝が自分の家に來たとき、身體から急に力が拔けて、ヘナ/\になる程、氣を使つてゐたことを知つた。「助かつた」と思つた。
「一年振りだべ。ほら、お母ば喜ばせてやれよ。」
 源吉はさう云ふと、もう勝には見えなかつた。足音だけが暗闇でし、それが、一寸聞えてゐたが、ぽつちり消えてしまつた。草原のある路を曲つたらしかつた。
 それから、勝が裏口にまはつた。裏口のすぐ側にある納屋に、自分の荷物をおろしてゐると、誰かぬかる道を歩いてくる足音をきいた。勝は、自分の身體が丸太棒のやうに、瞬間、なつたのを感じた。
「勝。」――源吉だつた。
 勝は、分つても、然し、すぐに口に言葉が出なかつた。「――源吉――か。」
「うん」さう云ふと、のそりと大きな身體が、源吉――か、と云つた言葉をたぐつて、寄つてきた。
「あのなア、朝になつたら、お前え、こつから川岸の家まで、一匹づゝ配るんだど。さうせ。誰も食はねえでるんだから。――買つて來たツて云へば、それでえゝ。俺の方は石田の方まで分けるよ。當り前の事だんだ! なあ。」
「うん。」
「分つたべ、んだら、行(え)ぐど。」
 そして歸つて行つた。
 勝には、何か、かう力強い、一つ/\どつしりした足音であるやうに思はれ、源吉のもどつて行くのを、じつと聞いてゐた。

      三

 雪が今にも來る、さういふ天氣と思はれたのが、上(あが)つた。
 秋の終りの、空が高く晴れた氣持のいゝ日が、それから續いた。
 畑も、草原も、稻村も、林も、西の方だけに、遠くに見える低い山脈も、皆狐色になつてしまつてゐた。それが、澄んだ青空にくつきり對照されて、涯もなく廣がつてゐるのを見て、百姓たちは何んだか、目新しい、急に見せられたものゝやうに思つた。
 今度は本當にくる冬のために、村の人達が畑に出て仕度をし始めた。雜穀を背負つて、停車場のある町まで出て、それからその近邊をふれて賣つて歩くために、娘達が四、五人朝早く荷馬車に乘つて出掛けて行つた。お文もそれに加はつた。キヤツ/\と馬車の上で騷ぎながら、農家の前にくる毎に、一軒々々外から言葉をかけた。その女達は暗くなつてから、腰卷や襦袢の布(きれ)などを買つてもどつてきた。いゝ聲で、何人もで、歌をうたつてくるので、それとすぐ、家の中にゐる人には、
「あ、今歸つてきたとこだなア」と分つた。
 停車場のある町から、荒物屋の小僧がよく、田舍道を自轉車に乘つてやつてきた。畑で働いてゐる百姓達は、その度に腰をのばして、見た。小僧は時々言葉をかけて行つた。
 漬物の仕度をする女達は石狩川の堤を下りて行つて、拔いて來たすぐの土のついた大根を、繩ツ切れでこしらへたたはしでごし/\こすつて洗つた。そこは、河の曲り目などで、水流の關係で、砂洲になつてゐた。堤の上で働いてゐる百姓に、そこから、色々の女の歌が聞えてきた。
 山方面に出來た農産物、――主に、青豌豆など――を運ぶために、發動機船が、うるさく音をバタ/\たてゝ流れに逆つて河を上つて行つた。子供達は、その音が、遠くから少しでも聞えると、どん/\川岸の道を走つた。そして、川岸の堤に腰をかけて、足をブラ/\させながら、發動機船の通るのを待つてゐた。子供達は天氣さへよければ、いつでもそれをした。發動機は「上り」だと、音ばかりして中々見えなかつた。然し河が曲りくねつてゐるので、かへつて思ひがけなく、ひよツこり現はれることがあつた。子供達が、喜んで、手をふつて、「萬歳」などゝ云つた。と、船から、青い、油じみた服を着た人が、時々帽子を振つた。子供達が、然し、いくら萬歳などゝ呼んでも、船から誰も相手をしてくれないと、彼等は、つまらなさうに、だまつて、その後を見送つてゐることもあつた。發動機は荷物を積んだハシケを引張つてゐる時は、シキリなしにバタ/\やりながら、その度に身體をエンサ/\といふ風にゆすつて、進んでゐるとも分らない程の早さで、子供達の前を通つて行つた。「あら、モーター、汗かいて、ハアハア云つてる。」――子供達がさう云つた。
 由が隣りに坐つてゐる仲間の手をつかんで、自分の心臟にあてさせ、「分るべ。ドキ/\つて云つてるべ。」と云つた。「あのモーターの、バタ/\ツていふの、人間のこれど同んじだつて、うちの姉云つてたど。」
 皆は「んか」「んか」と云つて、てんでに今度は自分の胸に手をあてゝ見た。そして「んだ。」「んだ。」と云つた。
 發動機船が通り過ぎると、子供達は、畑にゐる親達に、手傳ふために、てんでに走つて行つた。

 二、三日して、小學校に、町からワザ/\呼んだ坊さんの説教があつた。それは、この一帶の地面をもつてゐる親方が、百姓の精神修養のために、一年に二度必ずそれをやつた。年寄つた百姓達はそれを待つてゐた。そして、かういふ事をしてくれる地主を、有難い方だ、と云つて、喜んでゐた。地主は、その度に若い娘にも「必ず」出るやうにと云つた。だから、若い男もそれに引かれて行くこともあつた。
 その日になると、何十年といふ百姓仕事で、風呂敷のやうに皺くちやになつた、曲つた錆釘のやうな年寄が、朝から、各□誘ひ合つて出掛けて行つた。表へ小便にも行けない老婆も、行かなければならないものだとしてゐた。七つ、八つの小娘や、十七、八の女が手をひいてやつた。それで眞黒い顏に、不似合に綺麗な赤の目立つ着物を着た人達が、畑と畑の道路に見えた。
 源吉の母親は、自分の夫が死んでからは、説教は決して缺かさなくなつた。娘のお文をも、その度に、連れて行きたがつた。が、お文は相手にしなかつた。「罰當り奴」と、母が云つた。
 説教が始まる頃、學校の、机や椅子をとり除けた教室が一杯になつた。集つたどの百姓も長い苦しい生活でどこか、無理矢理にひし曲げられたところがあつた。――どこか片輪だつた。年寄は、土から出てきた蟇のやうだつた。皆、久し振りで顏を合はせるものばかりだつた。同じ處にゐてさう會ふことがなかつた。色々な話が出た。煙具を出して、煙草を喫ふものもあつた。一緒に來てゐる孫達がお互にいたづらをし合つたり、年寄の圓い背を跳ね越して騷いでゐた。變に甘ずつぱい空氣で、教室がムンとした。
 坊さんは、こゝから四里ほどある村(それはこの東村よりもつと村らしい村だつた。)から來ることになつてゐた。坊さんは衣を着たまゝ自轉車に乘つてきたり、箱のついた荷馬車に、座布團をしいて、それに乘つてくる事もあつた。今度は、雨が上つたばかりなので荷馬車で來た。眼のひつこんだ、眉の濃い、そのくせ頭がてらりと禿げた、背の低い四十を越した男だつた。ザラ/\した聲で、大聲で説教をした。説教をしながら、たえず落着きなく、そのひつこんだ眼でギロ/\、あたりを見□はす癖があつた。――その、この前來た坊さんと同じ坊さんだつた。
 村の百姓達は、坊さんの云ふ一言々々に、「南無阿彌陀」を云つて、ガサ/\した厚い、ひびのよつてゐる掌でじゆずをならした。
「何事も阿彌陀樣のお心ぢや。――何事も阿彌陀樣のお心ぢや。それを忘れてはなりませぬぞ、いゝですか。」
「……決して不平を起してはなりません、さうおしやか樣はおつしやいましたぢや。何事もあみだ樣のお心ぢや。現世に於いて――この世の中に於いてぢや、苦しんだものは、あみだ樣のお側に參つたとき、始めて大極樂を得ることが出來るのだ。あの世に行つて、ちやんと、蓮華の上に坐つて、「なむあみだぶつ」と、心から云ふことが出來るのぢや。何事も不平を起してはなりませぬぢや。」
 坊さんは、物慣れた調子で、云つた。百姓達は、これ迄何度もその文句はきいてきてゐた。が、何度きいても、有難い言葉だ、と思つてゐた。そして今更のやうに頭をさげ、「南無阿彌陀」をくりかへした。
 年寄つた百姓達は、今まで生きて來た長い苦しかつた生涯をふりかへつてみた。そして自分は、不平を起さなかつたといふ事が分ると、ホツとした。さういふ苦しみを堪へてきた、それで、やがてあの世に行けば、あみだ樣のお側に行くことが出來る、年寄つた百姓はそのことより外に何んにも思はなかつた。何んだつて、この世の中の事は我慢しなければならない、と思つた。坊さんは又、お釋迦樣の難行苦行のことを持つてきて、それを丁度百姓のつらい一生にあてはめて云つた。それは百姓達を心から感激させた。
 坊さんはこの説教を終へると、一番信心深い家へ泊めてもらつて、今度は一軒々々□つて、説教をして歩いた。年寄のゐる百姓家では、足袋の切れたのを買はないで間に合はせても、坊さんを呼んだ。若しも、それが出來なかつたら、「後生」が惡くなるのではないか、と思つた。それは一番恐ろしいことだつた――百姓は今までこの長い間一息もしないで働かせられてきた、これ以上、死んでからも亦働かなければならない、そんなことであつたら、たまらないと思つた。百姓はどの百姓も多かれ少なかれ、あんまり働かなければならないこの世の中に、イヤ氣がさしてゐた。それから、何より、逃れたかつた。百姓にとつて、その事は足袋や、味噌どころではなかつた。百姓は、はつきりは考へてゐなくても、心の何處かで、何時も「來世」を思つてゐた。
 源吉の母親は、坊さんが來るといふ日、朝から何か臺所でこしらへてゐた。そして坊さんが來ると、それを出した。
 源吉の母親は、氣候が寒くなると腰や、足首などが痛んできた。長い間の、度を過ぎた働きが、だん/\身體にこたへてきたのだつた。母親は始終いやがる由に肩や腰をもませてゐた。坊さんは仔細らしく、お經を口早に、――うそぶくやうに唱へると、數珠をザラ/\とやつて、せきの肩や、腰などを、それでこすつたり、撫でたりした。そして、それはどの百姓家でもさうだつた。頑丈さうに見えても、百姓は大抵きつと、夜など、腰がやんできたり、肩がこつたりして眠れないで苦しんだ。だから、坊さんは一軒々々□つて歩くと、その方でも隨分金になつた。
 坊さんは二日ゐて、一軒々々□り切つてしまふと歸つて行つた。餘程金を懷に入れてゐた。
 源吉が畑から歸つてくるとき、その坊さんに會つた。坊さんはどこかこすい、商賣人らしく、一寸あいさつをした。が、源吉はムツとしたまゝ、だまつてゐた。それから少し來ると校長に會つた。
 小學校の校長は、三十七、八の、何處か人好きのしない、澁面の男だつた。校長でもあり、訓導でもあり、小使でもあつた。教室は二十程机をならべたのが一室しかなかつた。一年から六年生迄の男の子も女の子も、そこに一緒だつた。教室には地圖もかゝつてゐたし、理科用の標本の入つてゐる戸棚もあつたし、(その中には剥製の烏が一羽ゐた。)白い鍵のはげたオルガンが一臺隅つこに寄せてあつた。校長は坊主を一番嫌つた。この先生がどうしてこの村へ來たか誰も知つてゐなかつた。そして又澁顏をして人好きが惡かつたが、「偉い人」だ、さういふので、尊敬されてゐた。市の小學校で校長と喧嘩したゝめに、こんな處へ來たのだとも云はれていた。先生の室――それは、その教室から廊下を隔てゝすぐ續いてゐた――には、澤山本が積まさつてゐた。
 源吉は、先生に、「坊主歸りました。」と云つた。先生は顏をふむ! といふ風に動かして、「さうか、肥溜の中へでも、つまみ込んでしまへばよかつたのに。あれが村に來る度に、百姓がだん/\半可臭くなつて、頓馬になつてゆくんだ。――畜生。」と云つた。
         *
 この村のお祭りが、丁度、このいゝお天氣にかゝつた。
 こんな事があれば、大抵先きに立つてやることに、決まつてゐる※[#「仝」の「工」に代えて「□」、屋号を示す記号、47-9]の菊や、丸山のオンコなどが、神社の前に「奉納」の縱に長い、大きな旗を建て、子供を手傳はせて、がたぴしする舞臺を作つた。新しい半纏を着た、頭の前だけを一寸のばして油をつけたのが、自轉車で、幔幕を借りてきたり、停車場のある町から色々の道具を運んだりして、やつぱりお祭りらしくとゝのつた。朝のうちから、新らしい着物を着た子供が四、五人、若者が仕度をしてゐる側で遊んでゐた。神社は學校のそばの、野ツ原で、一寸した雜木林で三方だけ圍まれてゐた。晩になれば、ゴム風船などを賣る商人が荷物にした商品を背負つてやつてくることになつてゐるし、法界節屋の連中も停車場のある町から來て、その舞臺で、安來節や手踊りなどをすることになつてゐた。
 お文と母親は、お祭りの御馳走をこしらへた。百姓はどんな慘めな暮しをしてゐても、かういふことはしなければならない、さう何時も考へてゐた。
 源吉は、焚火をしてゐる大きな爐のわきに寢ころびながら、足で、由にいたづらをしてゐた。
「ホラ!」源吉の足にしがみついてゐた由が、一寸すると、ころばされた。
 由は、負けまい負けまいと、自分の足に力を入れて突かゝつてくる。が、さうせば、さうするだけ、調子よく、すてんと身體を投げ出された。
「もツと!」
「糞ツ! 兄、足さかじるど。」
「馬鹿。」
 母親が、薄暗い臺所から、「由、祭りさ行(え)げ!」と怒鳴つた。
 源吉は、面白がつて、由を足であやしてゐるうちに、足が留守になり勝ちになつて行つた。由が、それで、自分が勝ちさうになつたので、一層勢ひづいてきた。源吉は、昨年のお祭りのときを思ひ出した。自分の想つてゐたお芳が、札幌へ無斷で行つてしまつた晩だつたことを思つた。源吉は、そのことがあつてから、もつと、むつしりしてきた。
「やア――、兄、まけた、負けた!」
 由が源吉の足をとう/\倒して、疊につけてしまつた。
 源吉はひよいと自分にかへると、思はず足に力を入れ過ぎて跳ねかへした。はずみを食つて由はとばされて、爐邊につんである木に頭を打(ぶ)つけた。由は、ことさらに大きな聲を出して泣き出した。「兄、ずるいど、兄ずるい、ずるい!」
 源吉は苦笑しながら、大きな掌で、由の頭をなでゝやつた。
「堅え頭してる。こゝか? ――えゝか、おまじないしてやるど。フエントカフエカシコラミヨノダイミヨウジン。」源吉は何度もそれを繰りかへして、由の頭をゴス/\なでた。始め、じいとしてゐた由が、惡戲だと、それが分ると、またワン/\と泣き出した。源吉は一つかみに由の頭をつかむと、
「こら、こら!」と、振つた。
「大きな態(なり)して、そつたら子(わらし)と、さわいでればえゝ!」母親が、叫んだ。
 由は、今度は泣きながら、
「兄、錢(ぜんこ)けれ、錢けれ。」と云ひだした。「錢ければ、えゝ。錢ければえゝ。」
「くそ、ずるい奴だ。――錢もらへば直るツてか?」
「錢けれ、ぜんこけれ。」
 由は、勢ひづいて、足をばた/\させて、それを云ひ出した。
「ホオーオ、勝えの健なんて十錢も貰つてるど、石だつてよ。――なア、兄、錢けれ、錢けれ、錢(ぜんこ)よ、よオー。」
 源吉は、それには、今度耳もかさずにじつとした。源吉は、お芳が札幌へ行つたと聞かされたとき、本當のところ、別な意味からも「淋しく」された事を思ひ出した。村ではとてもやつて行けないために、女達が都會(まち)へ出て下女になつたり、女工になつたり、――畠で働かなければならない男でさへ出て行つた。だん/\村の人がゐなくなる、さう思つた。源吉には、イヤな氣がした。
「ぜんこ、ぜんこ! よオー」
 由は源吉の身體をゆすり出した。源吉はだまつて、身體を、急にひねつた。由は、他愛もなく、轉がつた。なほ激しく泣き出した。
「うんと騷げ、この糞たれ!」母親が、たまりかねたやうに又怒鳴つた。

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