工場細胞
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:小林多喜二 

 彼の右手は階段の下の、厚く澱んだ闇の中でしっかりと握りしめられていた。
 彼は外へ出た。気をとられていた。小路のドブ板を拾いながら、足は何度も躓(つまず)いた。
 ――工場細胞!
 彼はそれを繰り返えした。繰りかえしているうちに、ジリ/\と底から興奮してくる自分を感じた。

          七

 この会合は来るときも、帰るときも必ず連れ立たないことにされていた。森本も鈴木も別々に帰った。
 ……俺へばりついても、この仕事だけはやって行こうと思ってる。命が的になるかも知れないが……。
 前に帰ったものとの間隔を置くために待っていた河田が厚い肩をゆすぶった。
 ――警察ではこう云ってるそうだ。俺とか君とか鈴木とか、表(おもて)に出てしまった人間なんて、チットも恐ろしくない。これからは顔の知られない奴だって。彼奴(きゃつ)等だって、ちァんと俺たちの運動の方向をつかんだ云い方をするよ。だから彼奴等のスパイ政策も変ってきたらしい。特高係とか何んとか、所詮表看板をブラ下げたものに彼奴等自身もあまり重きを置かなくなってきたらしいんだ。
 ――フうん、やるもんだな。
 ――合法活動ならイザ知らず、運動が沈んでくれば、そんなスパイの踏みこめるところなど知れたものだ。恐ろしいのは仲間がスパイの時だ。或いは途中でスパイにされたときだ。買収だな。早い話が……。
 ――オイ/\頼むぜ。
 石川がムキな声を出した。
 ――ハヽヽヽヽ。まアさ、君がこっそり貰ってるとすれば、今晩のことはそのまゝ筒抜けだ。特高係など、私が労働運動者ですと、フレて歩く合法主義者と同じで、恐ろしさには限度があるんだ。外部でなくて内部だよ。
 ――また気味の悪いことを云いやがるな。
 河田はだが屈託なさそうに、鉢の大きい頭をゴシ/\掻(か)いて笑った。それから、
 ――本当だぜ!
 と云った。そして腕時計を見た。
 ――今日は俺が先きに帰るからな。
 河田はそこから出ると、萬百貨店の前のアスファルトを、片手にハンカチを持って歩いていた。一寸蹲めば分る小間物屋の時計が八時を指していた。彼は其処を二度往き来した。敷島をふかしてくる男と会うためだった。彼が前にその男から受取った手紙の日附から丁度十日目の午後八時だった。それは約束された時間だった。彼は表の方を注意しながら、三銭切手を一枚買った。会ったときの合図にそれが必要だった。その店を出しなに、フト前から来る背広の人が敷島をふかしているのに気付いた。彼はその服装を見た。一寸躊躇(ちゅうちょ)を感じた。然しその眼は明かに誰かを探がしていた。彼は思わずハンカチを握っている掌(てのひら)に力が入った。
 男が寄ってきた。で彼も何気ない様子を装って、その男と同じ方へ歩き出した。彼から口を切った。
 ――山田です。
 すると、背広の男は直ぐ
 ――川村。
 と云った。
「山」と「川」が合った。二人は人通りのあまり多くない河端(ぶち)を下りて行った。少し行くと、男が、
 ――何処か休む処がないですか。
 と云った。
 ――そうですね。
 河田は両側を探して歩いた。そして小さいレストランの二階へ上った。
 テーブルに坐ると、男がポケットから三銭切手を出した。その 3sn の 3 がインクで消されていた。河田もさっきの三銭切手を出して、その sn の方を消した。二人は完全に「同志」であることが分った。――男は中央から派遣されてきた党のオルガナイザーだった。
 河田はY地方の情勢や党員獲得数などを、そこで話し出した。

          八

 鈴木は少しでも長く河田や石川などゝいることに苦痛を覚えた。彼は心が少しも楽しまないのだ。誇張なしに、彼は自分があらゆるものから隔てられている事を感じていた。そしてその感情に何時でも負かされていた。――およそ、プロレタリヤ的でない! 然し自分は一体「運動」を通じて、運動をしているのか、「人」を信じて運動をしているのか? 河田や石川が自分にとって、どうであろうと、それが自分の運動に対する「気持」を一体どうにも変えようが無い筈ではないか。――又変えてはならないのだ。そうだ、それは分る。然し直ぐ次にくるこの「淋しさ」は何んだろう? ――彼はもう自分が道を踏み迷っていることを知っていた。
 理論的にも、実践的にも、それに個人的な感情の上からでも、あせっている自分の肩先きを、グイ/\と乗り越してゆく仲間を見ることに、彼は拷問にたえる以上の苦痛を感じた。こういう迷いの一ッ切れも感じたことのないらしい他の同志を、彼はうらやましく思った。――然し彼はこういう無産運動が、外から見る程の華々しい純情的なものでもなく、醜いいがみ合いと小商人たちより劣る掛引に充ちていることを知った。それは彼に恐ろしいまでの失望を強いた。
 ――運動ではお前は河田達の先輩なんだぜ。
 その言葉の陰は「それでも口惜(くや)しくないのか。」と云っていた。それは撒ビラのことで、二十九日食ったときの事だった。然しそんな事を云うのは、よく使われる特高係の「手」であることを彼は知っていた。
 ――お前も案外鈍感だな。一緒に働いていて、河田や石川たちから何処ッかこう仲間外れにされていることが分らないのかな。
 彼はだまって外ッ方を向いた。――然し彼は自分の意志に反して、顔から血のひいてゆくのをハッキリ感じた。
 ――「手」だな、とお前はキット考えてるだろう。
 特高主任が其処で薄く笑った。
 ――それアねえ、僕らも正直に云って、そんな「手」をよく使うよ。だが、これが「手」かどうかは、僕より君が内心知ってるんだろうと思うんだ。この前、石本君とも話したが、鈴木は可哀相に置いてけぼりばかり食ってる。あれでよく運動を一緒にやって行く度量がある。俺たちにはとても出来ない芸当だって云ってたんだ。
 ――…………。
 ――……じゃ知らせようか。
 特高主任がフト顔をかしげた。鈴木はその言葉の切れ間に思わず身体のしまる恐怖を感じた。
 ――これは或いは滅多に云えない事だが、僕等はある方法によって、そこは世界一を誇る警察網の力だが、すでに河田たちが共産党に加入しているということの確証を握ったのだ。――ところが、それに君が入っていないのだ。……入っていないから、こんな事君に云える。嘘(うそ)か本当かは君の方が分ってるだろうよ……。
 ――…………。
 ――おかしい云い方をするが、僕はそのことが分った時、喜んでいゝか、悲しんでいゝか分らなかった。
 ――入っていないときいて、僕等が喜ぶのは勝手だと君は云いたいだろう。それならそれでいい。僕等はどうせ、人に決して喜ばれることの出来ない職業をしているのだから。然し「同志」というものゝ気持は、僕等からはとても覗(うかが)い知ることの出来ないほど、深い信頼の情ではないかと思うんだ。だが、君はそれに裏切られているのだ。それが分ったとき、僕は君に対して何んと云っていゝか分らない、淋しい、暗い気持にされたのだ。
 ――勝手なことを云え!
 胸がまくれ上がって、のどへ来た。それを一思いにハキ出さなければならなかった。で、怒鳴った。――彼は胸一杯の涙をこらえた。
 特高主任は鉛筆をもてあそびながら、彼の顔をじッと見た。一寸だまった。
 ――そればかりではないんだ。紛議の交渉とか争議費用として受取った金の分配などで、君がどの位誤魔化されているか知れない。――河田たちが、そんな金で遊んでいる証拠がちァんと入ってるんだ。――それでも清貧に甘んじるか……。
 それ等が嘘であれ、本当であれ、彼が内心疑っていた事実をピシ/\と指していた。
 気にしまい、気にしまい、そう意識すると、逆にその意識が彼の心を歪める。河田と素直な気持ではものが云えなくなった。河田たちの顔を見ていることが出来なかった。自分ながら可笑(おか)しい程そわ/\して、視線を迷わせた。そして一方自分の何処かでは、河田の云うことに剃刀(かみそり)の刃のような鋭い神経を使っているのだ。
 少し前だった。何時も自分の宿に訪ねてくる特高係が、街で彼を見ると寄ってきた。
 ――君は大分宿代を滞(とど)こらせてるんだな。
 と、ニヤ/\云った。
 ――じゃ、君か!
 彼はそのまゝ立ち止った。刑事は大きな声で笑った。――四五日前、鈴木の友人だと云って、彼の泊っている宿へ来て、今迄滞らせていた宿代を払って行ったものがあったのだ。
 ――いゝじゃないか、こういう事は。お互さ。別に恩をきせて、どうというわけでないんだから。
 それから、一寸聞きたいことがあるんだが、と赤い薄い鬚(ひげ)を正方形だけはやしたその男が、四囲(あたり)を見廻わした。
 二人は大通りから入ったカフエー・モンナミを見付けた。そこのバネ付のドアーを押して二階へ上った。――特高は彼には勝手に、ビールやビフテキを注文した。
 ――断っておくが、こういう事は君たちの勝手にすることで、別に……。
 みんな云わせずに、
 ――分ってるよ。固くならないでさ。一度位はまアゆっくり話もしてみたいんだよ。――いくら僕等でもネ。
 と、云って、ヒヽヽヽヽと笑った。
 彼はもう破れ、かぶれだと思った。彼はそこでのめる程酔払ってしまった。――
「二階」の会合の時も、河田が急いでいたらしかったが、鈴木は自分から先きに出てしまった。ジリ/\と来る気持の圧迫に我慢が出来なかったのだ。――下宿に帰ってくると、誰か本の包みを置いて行ったと云った。彼はそれを聞くと、その意味が分った。
 二階に上って行って解いてみると、知らない講談本だった。彼は本の背をつまんで、頁を振ってみた。ぺったり折り畳まった拾円紙幣が二枚、赤茶けた畳の上に落ちてきた。
 彼はフイに顔色をかえた。――拾円紙幣が出たからではない。知らずに本の頁を振る動作をしていた自分にギョッと気付いたからだった。
 彼はそれをつかむと、階段を下りて、街へ出て行った。だが、彼の顔色がなかった。

          中 九

 ――君ちァん、君ちァん。――キイ公オ!
 二階の函詰場(パッキング・ルーム)で、男工と女工がコンヴェイヤーの両側に向い合って、空罐を箱詰めにしていた。パッキングされた函(はこ)は、二階からエスカレーターに乗って、運河の岸壁に横付けにされている船に、そのまゝ荷役が出来る。――昼近くになって、罐が切れた。皆が手拭で身体の埃を払いながら、薄暗い階段を下りて行った時だった。暗い口を開らいている「製品倉庫」のなかから、低くひそめた声が呼んでいる。前掛けはしめ直していたお君が「クスッ」と笑って、――急いで四囲を見た。だまっていた。
 ――キイ公、じらすなよ!
 お君はもう一度クッと笑って、倉庫の中へ身体を跳ねらした。
 ――ア、暗い。
 ワザと上わずった声を出して、両手で眼を覆った。居ない、居ないをしているように。
 ――こっちだ。
 男の手が肩にかゝった。
 ――いや。
 女が身体をひいた。
 ――何が「いや」だって。手ば除(の)けれよ。
 ――…………。
 お君は男の胸を直接(じか)に感じながら、身体をいや/\させた。
 ――手ば取れッたら。な。さ。ん?
 女はもっとそうしていることに妙な興奮と興味を覚えた。男は無理に両手を除けさせて、後に廻わした片手で、女の身体をグイとしめつけてしまった。女は男の腕の中に、身体をくねらした。そして、顔を仰向けにしたまゝ、いたずらに、ワザと男の唇を色々にさけた。男は女の頬や額に唇を打つけた。
 ――駄目だ、人が来るど!
 男はあせって、のどにからんだ声を出した。お君はとう/\声を出して笑い出した。そして背のびをするように、男の肩に手をかけた……。
 ――上手だなア。
 男が云った。
 ――モチ! 癖になるから、あんたとはこれでお終(しま)いよ!
 男が自由にグイ/\引きずり廻わされるのが可笑しかった。お君はそう云うと、身体を翻(ひる)がえして、上気した頬のまゝ、階段を跳ね降りて行った。
 お君は昼過ぎになってから、然し急に燥(はし)ゃぐことをやめてしまった。
 昼飯時の食堂は何時ものように、女工たちがガヤ/\と自分の場所を仲間たちできめていた。お君は仲良しの女工に呼ばれて、そこで腰を並べて、昼食をたべた。
 ――ねえ!
 ワザ/\お君を呼んだ話好きな友達が、声をひそめた。
 ――驚いッちまった!
 女は昨日仕事の跡片付けで、皆より遅くなり、工場の中が薄暗くなりかけた頃、脱衣場から下りてきた。その降り口が丁度「ラバー小屋」になっていた。知らずに降りてきた友達はフトそこで足をとめた。小屋の中に誰かいると思ったからだった。女の足をとめた所から少し斜め下の、高くハメ込んである小さい硝子窓の中に――男と女の薄い影が動いている。
 ――それがねエ!
 女は口を抑えて、もっと低い声を出した。
 男はこっちには背を見せて、ズボンのバンドをしめていた。女は窓の方を向いたまゝうつ向いて、髪に手をやっている。男はバンドを締めてしまうと、後から女の肩に手をかけた。そして片方の手をポケットに入れた。ポケットの中の手が何かを探がしているらしかった。
 ――お金よ! 男がそのお金を女の帯の間に入れてやったのよ、どう?
 ――…………□
 ――で、その女の人一体誰と思う?
 いたずらゝしい光を一杯にたゝえた眼で、お君をジッと見た。
 ――誰だか分ったの?
 ――それアもう! そういうことはねえ。
 ――…………?
 ――芳ちゃんさ!
 ――馬鹿な!
 お君は反射的にハネかえした。
 ――フン、それならそれでいゝさ。
 女は肩をしゃくった。
 お君は一寸だまった。
 ――相手は?
 ――相手? お金商売だもの一日変りだろうよ。誰だっていゝでしょうさ。
 何時でも寒そうな唇の色をしている芳ちゃんは、そう云えば四人の一家を一人で支えていた。お君はそのことを思い出した。――それをこんな調子でものを云う女に、お君はもち前の向かッ腹を立てゝしまった。
 ――でも、妾(わたし)たちの日給いくらだと思っているの。五十銭から七八十銭。月いくらになるか直してごらんよ。――淫乱(すき)なら無償(ただ)でやらせらアねえ!
 お君は飯が終って立ちかけながら、上から浴びせかけた。そして先きに食堂を出てしまった。
 ――馬鹿にしてる!

          十

 午後から女学生の「工場参観」があると云うので、男工たちは燥ゃいでいた。
 ――ヘンだ。ナッパ服と女学生様か! よくお似合いますこと!
 女工たちは露骨な反感を見せた。
 ――口惜しいだろう! ――女学生が入ってくると、工場(ここ)のお嬢さん方の眼付が変るから。凄(すご)いて!
 ――眼付きなら、どっちがね!
 ――オイ、あまりいじめるなよ。たまには大学生様だって参観に来るんだからな。
 何時でもズケ/\と皮肉なことを云う職工だった。
 ――と、どうなるんだ。大学生様と女工さんか。ハ、それア今流行(はやり)だ!
 ――ネフリュウドフでも来るのを待ってるか……!
「芸術職工」が口を入れた。
 ――女学生の参観のあとは、不思議にお嬢さん方の鼻息がおとなしくなるから、たまにはあった方がいゝんだ。
 年老った職工が聞いていられないという風に云った。
 ――「友食い」はやめろって! キイ公まで黙ってしまった。――何んとか、かんとか云ったって……どんづまりはなア!
 どんづまりは? で、みんなお互気まずく笑い出してしまった。
「Yのフォード」は、その完備した何処へ出しても恥かしくない工場であると云うことを宣伝するために、広告料の要らない広告として、「工場参観」を歓迎していた。「製罐業」を可成りの程度に独占している「H・S会社」としては、工場の設備や職工の待遇をこの位のものにしたとしても、別に少しの負担にならなかった。而(しか)も、その効果は更に職工たちに反作用してくることを予想しての歓迎だった。――「俺ンとこの工場は――」「俺の会社は――」職工たちはそういう云い方で云う。自分の工場が誰かに悪口をされると、彼等はおかしい程ムキになって弁護した。三井に勤めている社員が、他のどの会社に勤めている社員の前でも一つのキン恃(じ)をもっている。そういう社員は従って決して三井を裏切るようなことをしない。「H・S」の専務はそのことを知っていたのだ。
 伝令が来た。幼年工を使ってよこした。
 ――来たよ。シャンがいるよ。
 ――キイ公、聞いたか。シャンがいるとよ。
 ――どれ、俺も敵状視察と行ってくるかな。
 同じパッキングにいる温(おとな)しい女工が、浮かない顔をしていた。
 ――ね、君ちゃん、私いやだわ。女学校なら、小学校のとき一緒の人がいるんだもの。
 ――構うもんかい!
 お君は男のような云い方をした。
 ――こっちへ来たら、その間だけ便所へ行ってるわ、頼んで。――本当に、どんな気で他人の働いてるのを見に来るんだか。
 ――何が恥かしいッて。お嬢さん面へ空罐でも打(ぶ)ッつけてやればいゝんだ。動物園と間違ってやがる。
 ――よオ! よオ!
 ――何がよオだい。働いた金でのお嬢さん面なら、文句は云わない。何んだい!
 ――へえ、キイ公も偉くなったな。どうだい、今晩活動をおごるぞ。行かないか。月形竜之介演ずるところの、何んだけ、斬人斬馬の剣か。人触るれば人を斬り、馬触るれば馬を斬る! 来いッ、参るぞオ――だ。行かないか。
 ――たまには、このお君さんにも約束があるんでね。
 ――キイ公めっきり切れるようになったな。
 お君は今晩「仕事」のことで、森本と会わなければならなかった。――
 階段を上ってくる沢山の足音がした。
 ――さア、来たぞ□

          十一

 その昼、森本は笠原を誘って、会社横の綺麗(きれい)に刈り込んだ芝生に長々とのびた。――彼はこういう機会を何時でも利用しなければならなかった。笠原は工場長の助手をしていた。甲種商業学校出で、マルクスのものなども少しは読んでいるらしかった。
 そこからは、事務所の前で、ワイシャツの社員がキャッチボールをやっているのが見えた。力一杯なげたボールがミットに入るたびに、真昼のもの憂い空気に、何かゞ筒抜けていくような心よい響きをたてた。側に立っていた女事務員が、受け損じると、手を拍(う)ってひやかした。
 が、工場の日陰の方には、子供が負ぶってきた乳飲子を立膝の上にのせて、年増の女工が胸をはだけていた。それが四五組あった。
 森本は青い空をみていた。仰向けになると、空は殊更に青かった。――その時、胸にゲブゲブッと来た。森本は口の中でそれを噛(か)み直した。
 ――オイ!
 側にいた笠原が頭だけをムックリ挙げて、森本を見た。
 ――……? 反芻(はんすう)か? 嫌な奴だな。
 彼は極り悪げにニヤ/\した。
 森本が会社のことを色々きくのは笠原からだった。
 会社は今「産業の合理化」について、非常に綿密な調べ方をしていた。然し合理化の政策それ自体には大した問題があるのではなくて、その政策をどのような方法で実行に移すかということ――つまり職工たちに分らないように、憤激を買わないようにするには、どうすればいゝか、その事で頭を使っていた。
「H・S」では、新たに採用する職工は必ず現に勤務している職工の親や兄弟か……でなければならなかった。専務は工場の一大家族主義化を考えていた。――然しその本当の意味は、どの職工もお互いが勝手なことが出来ないように、眼に見えない「責任上の連繋(れんけい)」を作って置くことにあった。それは更に、賃銀雇傭という冷たい物質的関係以外に、会社のその一家に対する「恩恵」とも見れた。然し何よりストライキ除けになるのだった。で、今合理化の政策を施行しようとしている場合、これが役立つことになるわけだった。
 会社は更に市内に溢れている失業労働者やすぐ眼の前で動物線以下の労働を強いられている半自由労働者――浜人足たちのことを、たゞそれッ切りのことゝして見てはいなかった。そういう問題が深刻になって来れば来るほど、それが又「Yのフォード」である「H・S」の職工たちにもデリケートな反映を示してくるということを考えていた。――そういう一方の「劣悪な条件」を必要な時に、必要な程度にチク/\と暗示をきかして、職工たちに強いことが云えないようにする。――「H・S」はだから、イザと云えば、そういう強味を持っていた。
 合理化の一つの条件として、例えば労働時間の延長を断行しようとする場合、それが職工たちの反感を真正面(まとも)に買うことは分り切っている。然し、軍需品を作るS市の「製麻会社」や、M市の「製鋼所」などでは、それが単なる「営利事業」でなくて、重大な「国家的義務」であるという風に喧伝して、安々と延長出来た例があった。――「抜け道は何処にでもある。」だから、その工場のそれ/″\の特殊性を巧妙につかまえれば、案外うまく行くわけだった。――「H・S」もそうだった。

自慢じゃ御座んせぬ
 製罐工場の女工さんは
露領カムチャツカの寒空に
 命もとでの罐詰仕事
無くちゃならない罐つくる。

羨ましいぞえ
 製罐工場の女工さんは
一度港出て罐詰になって
 帰りゃ国を富まして身を肥やす
無くちゃならない罐つくる。

自慢じゃ御座んせぬ
 製罐工場の女工さんは
怠けられようか会社のために
 油断出来ようかみ国のために
命もとでの仕事に済まぬ。
(「H・S会社」発行「キャン・クラブ」所載。#crlf#)

 そういう歌や文章が投稿されてくると、会社は殊更に「キャン・クラブ」で優遇した。又、会社がこっそり誰かに作らせて、それを載せることさえした。
「H・S会社」はカムサツカに五千八百万罐、蟹工船に七百八十万罐、千島、北海道、樺太に九百八十万罐移出していた。割合(パーセント)にして、カムサツカは圧倒的だった。
 笠原は工場長のもとで「科学的管理法(サエンテフィック・マネージメント)」や「テイラー・システム」を読ませられたり、色々な統計を作らされるので、会社の計画を具体的に知ることが出来た。日本ばかりでなく、世界の賃銀の高低を方眼紙にひかされた。――世界的に云って、名目賃銀は降っていたし、生活必需品の価格と比較してみると、実質賃銀としても矢張り下降を辿っている。「H・S」だけが何時迄もその例外である筈がなかった。又、生産力の強度化を計るために、現在行われている機械組織がモット分業化され、賃銀の高い熟練工を使わずに、婦女子で間に合わすことが出来ないか、コンヴェイヤーがもっと何処ッかへ利用出来ないか、まだ労働者が「油を売ったり」「息を継ぐ」暇があるのではないか、箇払賃銀にしたらどうか……。職工たちがせゝッこましい工場の中のことで、頭をつッこんでグズ/\しているまに、彼等は「世界」と歩調を合せて、その方策を進めていた。
「H・S工場」の五カ年の統計をとってみると、生産高が増加しているのに、労働者の数は減っている。これは二つの意味を持っていた。――一つは今迄以上に労働者が搾(しぼ)られたと云うこと、一つはそれだけが失業者として、街頭におッぽり出されているわけである。コンヴェイヤーが完備してから、「運搬工」や「下働人夫」が特に目立って減った。熟練工、不熟練工との人数の開きも賃銀の開きも、ずッと減っている。驚くべきことは、何時のまにか「女工」の増加したことで、更に女工が増加した頃から、工場一般の賃銀が眼に見えない位ずつ低下していた。――工場長は、女を使うと、賃銀ばかりの点でなく、労働組合のような組織に入ることもなく、抵抗力が弱いから無理がきく、と云っていた。
 然しこれ等のことは、どれもたゞ「能率増進」とか「工場管理法」の徹底とか云ってもいゝ位のことで、「産業の合理化」という大きな掛声のホンの内輪な一部分でしかなかった。――「産業の合理化」は本当の目的を別なところに持っていた。それは「企業の集中化」という言葉で云われている。中や小のゴチャ/\した商工業を整理して、大きな奴を益々大きくし、その数を益々少なくして行こうというのが、その意図だった。
 で、その窮極の目的は、残された収益性に富む大企業をして安々と独占の甘い汁を吸わせるところにあった。そして、その裏にいて、この「産業の合理化」の糸を実際に操(あやつ)っているものは「銀行」だった。
 例えば銀行が沢山の鉄工業者に多大の貸出しをしている場合、自分の利潤から云っても、それ等のもの相互間に競争のあることは望ましいことではない。だから銀行は企業間の競争を出来るだけ制限し、廃止することを利益であると考える。こういう時、銀行はその必要から、又自分が債権者であるという力から、それ等の同種産業者間に協定と合同を策して、打って一丸とし、本来ならば未だ競争時代にある経済的発展段階を独占的地位に導く作用を営むのだ。――合理化の政策は明かに「大金融資本家」の利益に追随していた。
 毎月三田銀行へ提出する「業務報告」を書かせられている笠原は、資本関係としての「銀行と会社」というものが、どんな関係で結びつけられているか知っていた。――「H・S工場」の監督権も、支配、統制権もみんな三田銀行が握っていること、営業成績のことで、よく会社へ文句がくること、専務が殆んど三田銀行へ日参していること、誇張して云えば、専務は丁度逆に三田銀行から「H・S」へ来ている出張員のようなものであること……。こういう関係は、いずれ面白いことになりそうだ……笠原がそんなことを話した。森本はだん/\青空を見ていなかった。
 産業の合理化は更に購買と販売の方にもあらわれた。資本家同志で「共同購入」や「共同販売」の組合を作って、原料価格と販売価格の「統制」をする。そうすれば、彼等は一方では労働者を犠牲にして剰余価値をグッと殖(ふ)やすことが出来ると同時に、こゝでは価格が「保証」されるわけだから、二重に利潤をあげることが出来るのだった。彼等の独占的な価格協定のために、安い品物を買えずに苦しむのは誰か? 国民の大多数をしめている労働者だった。
 ――要らなくなったゴミ/\した工場は閉鎖される。労働者はドシ/\街頭におッぽり出される。幸いに首のつながっている労働者は、ます/\科学的に、少しの無駄もなく搾(しぼ)られる。他人事ではないさ。――こういう無慈悲な摩擦(まさつ)を伴いながら、資本主義というものは大きな社会化された組織・独占の段階に進んで行くものなのだ。だから、産業の合理化というものは、どの一項を取り出してきても、結局資本主義を最後の段階まで発達させ、社会主義革命に都合のいゝ条件を作るものだけれども、又どの一項をとってみても、皆結局は「労働者」にその犠牲を強いて行われるものなんだ。――「H・S」だって今に……なア……。
 笠原は眼をまぶしく細めて、森本を見た。
 ――「Yのフォード」も何時迄も「フォード」で居られなくなるんでないか、と思うがな。

          十二

 始業のボウで、二人が跳ね上った。笠原はズボンをバタ/\と払って、事務所の方へ走って行った。
 気槌(スチーム・ハンマー)のドズッ、ドズッという地ゆるぎが足裏をくすぐったく揺すった。薄暗い職場の入口で、内に入ろうとして、森本がひょいと窓からゴルフへ行く専務の姿を見て、足をよどました。給仕にステッキのサックを背負わしていた。拍子に、中から出てきた佐伯と身体を打ち当てゝしまった。
 ――失敬ッ!
 ――ひょっとこ奴(め)!
 佐伯? 何んのために、こっちへやって来やがったんだ、――森本は臭い奴だと思った。
 ――何んだ、手前の眼カスベか鰈(かれい)か?
 ――何云ってるんだ。窓の外でも見ろ!
 佐伯はチラッとそれを見ると、イヤな顔をした。
 ――あの格好を見れ。「昭和の花咲爺」でないか。ゴルフってあんな恰好しないと出来ないんか。
 ――フン、どうかな……。
 あやふやな受け方をした。佐伯には痛いところだった。
 ――実はね、安部磯雄が今度遊説に来るんだよ。……それを機会に、市内の講演が終ってから、一時間ほど工場でもやってもらうことにしたいと思ってるんだ。これは専務も賛成なんだが……。
 ――主催は? ……君等が呼ぶのか?
 ――冗談じゃない、専務だよ。
 ――専務が□
 森本が薄く笑った。
 ――へえ、馬鹿に大胆なことをするもんだな。
 ――偉いもんだよ。
 佐伯は森本の意味が分らず、き真面目に云った。
 専務が「社民党」から市会議員に出るという噂を森本がきいたことがあった。そんな話を持ち出してきたのも矢張り佐伯だった。その時、森本は、
 ――じゃ、社民党ッて誰の党なんだ。「労働者の党」ではないのか。
 と云った。
 佐伯が顔色を動かした。そして
 ――共産党ではないさ。
 と云ったことがある。
 会社では、職工たちが左翼の労働組合に走ることを避けるために、内々佐伯たちを援助して、工場の中で少し危険と見られている職工を「労働総同盟」に加入させることをしていた。それは森本たちも知っている。――然しその策略は逆に「H・S」の専務は実に自由主義的だとか、職工に理解があって、労働組合にワザ/\加入さえさせているとか――そういうことで巧妙に隠されていた。それで働いている多くの職工たちは、その関係を誰も知っていなかった。工場の重だった分子が、仮りに「社民系」で固められたとすれば、およそ「工場」の中で、労働者にどんな不利な、酷な事が起ろうと、それはそのまゝ通ってしまう。分りきったことだった。――森本は其処に大きな底意を感ずることが出来る。会社がダン/\職工たちに対して、積極的な態度をもってやってきている。それに対する何かの用意ではないか? ――彼はます/\その重大なことが近付いていることを感じた。
 彼はまだ「工場細胞」というものゝ任務を、それと具体的には知っていない。然し彼は今までの長い工場生活の経験と、この頃のようやく分りかけてきたその色々な機構(しくみ)のうちに、自分の位置を知ることが出来るように思った。――
 ――で、この機会に、工場の中にも社民党の基礎を作ろうと思うんだ。……仕上場の方にも一通りは云ってきた。――その積りで頼むぜ。
 佐伯はそれだけを云うと、トロッコ道を走って行った。走って行きながら、ブリキを積んだトロッコを押している女工の尻に後から手をやった。それがこっちから見えた。女がキャッ! とはね上って、佐伯の背を殴(な)ぐりつけた。
 ――ぺ、ぺ、ぺ!
 彼はおどけた恰好に腰を振って、曲がって行った。
 佐伯は労働者街のT町で、「中心会」という青年団式の会を作っていた。その七分までが「H・S」の職工だった。彼は柔道が出来るので、その会は半分その目的を持っていた。道場もあった。「H・S会社」から幾分補助を貰っているらしかった。何処かにストライキが起ると、「一般市民の利益のために」争議の邪魔をした。精神修養、心神錬磨の名をかりて、明かにストライキ破りの「暴力団」を養成していたのだ。会社で「武道大会」があると、その仲間が中心になった。
 森本は職場へ下りて行きながら、自分の仕事の段取と目標が眼の前に、ハッキリしてくるのを感じた。

 その日家へ帰ってくると、河田の持って来た新聞包みのパンフレットが机にのっていた。歯車の装幀(そうてい)のある四五十頁のものだった。
・「工場新聞」
・「工場細胞の任務とその活動」
 表紙に鉛筆で「すぐ読むこと」と、河田の手で走り書してあった。

          十三

 ――女が入るようになると、気をつけなければならないな。運動を変にしてしまうことがあるから。
 河田がよく云った。――で、森本もお君と会うとき、その覚悟をしっかり握っていた。
「石切山」に待ってゝもらって、それから歩きながら話した。
 胸を張った、そり身のお君は男のような歩き方をした。工場で忙がしい仕事を一日中立って働いている女工たちは、日本の「女らしい」歩き方を忘れてしまっていた。――もう少し合理的に働かせると、日本の女で洋服の一番似合うのは女工かも知れない、アナアキストの武林が、武林らしいことを云っていた。
 工場では森本は女工にフザケたり、笑談口も自由にきけた。然し、こう二人になると、彼は仕事のことでも仲々云えなかった。一寸云うと、まずく吃(ども)った。淫売を買いなれていることとは、すっかり勝手がちがっていた。小路をつッ切って、明るい通りを横切らなければならないとき、彼はおかしい程周章(あわ)てた。お君が後(うしろ)で、クッ、クッと笑った。――彼は一人先きにドンドン小走りに横切ってしまうと、向い小路で女を待った。お君は落付いて胸を張り、洋装の人が和服を着たときのように、着物の裾をパッ、パッとはじいて、――眼だけが森本の方を見て笑っている――近付いて来た。肩を並べて歩きながら、
 ――森本さん温しいのね。
 とお君が云った。
 ――あ、汗が出るよ。
 ――男ッてそんなものだろうか。どうかねえ……?
 薄い浴衣(ゆかた)は円く、むっつりした女の身体の線をそのまゝ見せていた。時々肩と肩がふれた。森本はギョッとして肩をひいた。
 ――のどが乾いた。冷たいラムネでも飲みたい。何処かで休んで、話しない?
 少し行くと、氷水(こおり)店があった。硝子のすだれが凉しい音をたてゝ揺れていた。小さい築山におもちゃの噴水が夢のように、水をはね上げていた。セメントで無器用に造った池の中に、金魚が二三匹赤い背を見せた。
 ――おじさん、冷たいラムネ。あんたは?
 ――氷水にする。
 ――そ。おじさん、それから氷水一ツ。
 森本を引きずッて、テキパキとものをきめて行くらしい女だと分ると、彼はそれは充分喜んでいゝと思った。彼はこれからやっていく仕事に、予想していなかった「張り」を覚えた。
 ――で、ねえ……。
 のど仏をゴクッ、ゴクッといわせて、一息にラムネを飲んでしまうと、又女が先を切ってきた。
 ――途中あんたから色々きいたことね、でも私ちがうと思うの。……会社が自分でウマク宣伝してるだけのことよ。女工さんは矢張り女工さん。一体女工さんの日給いくらだと思ってるの。それだけで直ぐ分ることよ。
 お君は友達から聞いた「芳ちゃん」のことを、名前を云わず彼に話してきかせた。
 ――友達はその女が不仕鱈(ふしだら)だという。でも不仕鱈ならお金を貰う筈がないでしょう。悪いのは一家四人を養って行かなければならない女の人じゃなくて――一日六十銭よりくれない会社じゃない? ――あんただって知ってるでしょう。会社をやめて、バアーの女給さんになったり、たまには白首(ごけ)になったりする女工さんがあるのを。それはね、会社をやめて、それからそうなったんでなくて、会社のお金だけではとてもやって行けないので、始めッからそうなるために会社をやめるのよ。――会社の人たちはそれを逆に、あいつは堕落してそうなったとか、会社にちアんと勤めていればよかったのにと云いますが、ゴマかしも、ゴマかし!
 森本は驚いて女を見た。正しいことを、しかもこのような鋭さで云う女! それが女工である!
 ――女工なんて惨めなものよ。だから、可哀相に、話していることってば、月何千円入る映画女優のこととか、女給や芸者さんのことばかり。
 ――そうかな。
 ――それから一銭二銭の日給の愚痴(ぐち)。「工場委員会」なんて何んの役にも立ったためしもないけれども、それにさえ女工を無視してるでしょう。
 ――二人か出てるさ。
 ――あれ傍聴よ。それも、デクの棒みたいに立ってる発言権なしのね。
 ――ふウん。
 ――氷水お代り貰わない?
 ――ん。
 ――あんた仕上場で、私たちの倍以上も貰ってるんだから、おごるんでしょう。
 お君は明るく笑った。並びのいゝ白い歯がハッキリ見えた。森本はお君の屈託のない自由さから、だんだん肩のコリがとれてくるのを覚えた。お君はよく「――だけのこと」「――という口吻(こうふん)。」それだけで切ってしまったり、受け答いに「そ」「うん」そんな云い方をした。それだけでも、森本が今迄女というものについて考えていたことゝ凡(およ)そちがっていた。――こういうところが、皆今迄の日本の女たちが考えもしなかった工場の中の生活から来ているのではないか、と思った。
 ――会社を離れて、お互いに話してみるとよッく分るの。皆ブツ/\よ。あんた「フォード」だからッて悲観してるようだけれども、私各係に一人二人の仲間は作れるッて気がしてるの。――女ッて……
 お君がクスッと笑った。
 ――女ッて妙なものよ。一たん方向だけきまって動き出すと、男よりやってしまうものよ。変形ヒステリーかも知れないわね。
 ――変形ヒステリーはよかった。
 森本も笑った。
 彼は河田からきいた「方法」を細かくお君に話し出した。するとお君はお君らしくないほどの用心深い、真実な面持で一々それをきいた。
 ――やりますわ。みんなで励げみ合ってやりましょう!
 お君は片方の頬だけを赤くした顔をあげた。
 氷水屋を出て少し行くと、鉄道の踏切だった。行手を柵が静かに下りてきた。なまぬるく風を煽(あお)って、地響をたてながら、明るい窓を一列にもった客車が通り過ぎて行った。汽罐(ボイラー)のほとぼりが後にのこった。――ペンキを塗った白い柵が闇に浮かんで、静かに上った。向いから、澱んでいた五六人がすれ違った。その顔が一つ一つ皆こっちを向いた。
 ――へえ、シャンだな。
 森本はひやりとした。それに「恋人同志」に見られているのだと思うと、カアッと顔が赤くなった。
 ――何云ってるんだ。
 お君が云いかえした。
 彼女は歩きながら、工場のことを話した。……顔が変なために誰にも相手にされず、それに長い間の無味乾燥な仕事のために、中性のようになった年増の女工は小金をためているとか、決して他の女工さんの仲間入りをしないとか、顔の綺麗な女工は給料の上りが早いとか、一人の職工に二人の女工さんが惚れたたゝめに、一人が失恋してしまった、ところが失恋した方の女工さんが、他の誰かと結婚すると、早速「水もしたゝる」ような赤い手柄の丸髷(まるまげ)を結って、工場へやって来る、そしてこれ見よとばかりに一廻りして行くとか、日給を上げて貰うために、職長(おやじ)と活動写真を見に行って帰り「そばや」に寄るものがあるとか、社員が女工のお腹を大きくさせて置きながら、その女工が男工にふざけられているところを見付けると、その男と変だろうと、突ッぱねたことがあるとか……。
 坂になっていて、降りつくすと波止場近くに出た。凉み客が港の灯の見える桟橋近くで、ブラブラしていた。
 ――林檎、夏蜜柑、梨子(なし)は如何(いかが)ですか。
 道端の物売りがかすれた声で呼んだ。
 ――林檎喰べたいな。
 独言のように云って、お君が寄って行った。
 他の女工と同じように、お君も外へ出ると、買い喰いが好きだった。――お君は歩きながら、袂(たもと)で真赤な林檎の皮をツヤ/\にこすると、そのまゝ皮の上からカシュッとかぶりついた。暗がりに白い歯がチラッと彼の眼をすべった。
 ――おいしい! あんた喰べない?
 林檎とこの女が如何にもしっくりしていた。
 ――そうだな、一つ貰おうか……。
 ――一つ? 一つしか買わないんだもの。
 女は堪(こ)らえていたような笑い方をした。
 ――……人が悪いな。
 ――じゃ、こっち側を一噛(ひとかじ)りしない?
 女はもう一度袂で林檎を拭(ぬぐ)うと、彼の眼の前につき出した。
 彼はてれてしまった。
 ――じゃ、こっち?
 女は悪戯らしく、自分の噛った方をくるりと向けた。
 ――……。
 ――元気がないでしょう。じゃ、矢張りこっちを一噛り。
 彼は仕方なく臆病に一噛りだけした。
 其処から「H・S工場」が見えた。灰色の大きな図体は鳴りをひそめた「戦闘艦」が舫(もや)っているように見えた。
 この初めての夜は、森本をとらえてしまった。彼はひょっとすると、お君のことを考えていた。彼はそれに別な「張り」を仕事に覚えた。それがお君から来ているのだと分ると、彼はうしろめいた気がした。――そして、もう自分は、河田の注意していることに陥入りかけているのではないか、とおもった。

          十四

 どれもこれもロクな職工はいない、みんなマヒした奴ばかりだとか――又彼等も外からはそう見えたということは、本当ではなかった。「フォード」と云っても、矢張り労働者は労働者位しかの待遇を受けていないのだ。たゞ、どっちを向いても底の知れない不景気で動きがとれないので、とにかくしがみついていなければならなかったし、それに彼等は矢張り「Yのフォード」だという自己錯覚の阿片にも少しは落とされていた。
 ――会社を離れて話してみると、皆ブツ、ブツよ。
 お君が云ったことがある。これは当っていた。たゞ、いくらそんな工合でも、彼等は誰かゞ口火を切ってくれる迄は待っているものだ、ということだった。
 森本は今迄は親しい仲間と会っても、工場の問題とか、政治上の話などをしゃべったことがなかった。それは仲のよかった石川が組合に入るようになってからだった。それまでの彼は見習からタヽキ上げられた、女工の尻を追ったり、白首を買ったり、女の話しかしない金属工でしかなかった。――然し、今度彼がその変った意識で以前のその仲間に話しかけると、不思議なことには、その同じ猥談(わいだん)組の仲間とは思われない答を持ってやってきた。それを見ても、今迄誰も彼等のうちにある意識にキッカケを与えなかったことが分る。彼等は皆自分の生活には細かい計算を持っていた。一日一銭のこと、会社の消費組合で買うするめの値が五厘高いというので、大きな喧嘩になるほどの議論をするのだ。
 月々の掛金や保険医の不親切と冷淡さで、彼等は「健康保険法」にはうんざりしていた。そればかりか、「健保」が施行されてから、会社は職工の私傷のときには三分の二、公傷のときには全額の負担をしなければならないのをウマク逃れてしまっていた。「健保は当然会社の全負担にさせなければならない性質(たち)のもんだ。」――誰にも教えられずに、職工はそう云っていた。
「工場委員会」も職工たちには「狸ごッこ」だとしか思われていない。「おとなしい」「我ン張りのない」職工を会社が勝手にきめて、お座なりに開くそんな「工場委員会」に少しも望みをつないでいなかった。
 今迄一人の女工も使っていないボデイ・ラインを、賃銀の安い女工で置きかえるかも知れないというので、職工は顔色をなくしていた。――
 表面の極く何んでもなさにも不拘、たったこれだけを見ても森本はうちにムクレ上がっている、ムクレ上がらせることの出来る力を充分に感ずることが出来た。
 森本は毎朝工場へ出掛けて行く自分の気持が、――今迄とは知らないうちに変ってきているのを発見した。寒い朝、肩を前にこごめ、首をちゞめて、ギュン/\なる雪を踏んで家を出るときは、彼は文字通り奴隷である惨めさを感じた。朝のぬくもっている床の中に、足をゆっくりのばして、もう一時間でいゝ寝て居れないものか、と思った。――朝が早いので、まだ細い雪道を同じ方向へ一列に、同じ生気のない恰好をして歩いている汚点(しみ)のような労働者たちのくねった長い列をみていると、これが何時、あの「ロシア」のような、素晴しい力に結集されるのか、と思われる。その一列にはたゞ鎖が見えないだけだった。陰気な囚人運動を思わせた。
 だから彼は工場でも仕事には自分から気を入れてやった事がなかった。彼はもっと出世して「社員」になろうと、一生懸命に働いたことがあった。然しいくら働いても、社員にしてくれないので、彼は十九頃からやけを起していた。殊に、そこでは人間が機械を使うのではなくて、機械が何時でも人間をへばりつかせていた。人間様が機械にギュッ/\させられてたまるもんかい、彼はだらしなく、懐手(ふところで)をしている方がましだと思っていた。――猫を何匹も飼っている婆の顔がだんだん猫に似てくるが、それと同じように、今にお前たちは機械に似てくるぞ、と森本はしゃべって歩いた。工場の轟音のなかで話している彼等は、金剛砥(グラインダー)が鉄物に火花を散らすような声でしかものが云えない。彼等の腰は機械の据りのようなねばりと適確さを持っている。彼等の厚い無表情は鉄のひやゝかな黒さに似ている。彼等の指の節々はたがねの堅さを持っている。彼らはそして汽槌(スチーム・ハンマー)のような意志を持っていた。――この労働者の首ッ根にベルトがかゝれば、彼等は旋盤がシャフトを削り、ボール盤が穴を穿(うが)ち、セーパーやステキ盤が鉄を平面にけずり、ミーリングが歯車を仕上げると同じそのまゝの力を出す。ハンドルを握った労働者の何処から何処までが機械であり、何処から何処までが労働者か、それを見分けることは誰にも困難なことだった。
 そこでは、人間の動作を決定するものは人間自身ではない。コンヴェイヤー化されている製罐部では、彼等は一分間に何十回手先きを動かすか、機械の廻わりを一日に何回、どういう速度でどの範囲を歩くかということは、勝手ではない。機械の回転とコンヴェイヤーの速度が、それを無慈悲に決定する。工場の中では「職工」が働いていると云っても、それはあまり人間らしく過ぎるし、当ってもいない。――働いているものは機械しかないのだ。コンヴェイヤーの側に立っている女工が月経の血をこぼしながらも、機械の一部にはめ込まれている「女工という部分品」は、そこから離れ得る筈がなかった。
 このまゝ行くと、労働者が機械に似てゆくだけではなしに、機械そのものになって行く、森本にはそうとしか考えられない。「人造人間」はこんな考えから出たのだろう。職工たちは「人造人間」の話をすると、イヤがった。――誰が機械になりたいものか。労働者はみんな人間になりたがっているのだ。――
 森本は自分たちの「仕事」をやるようになり、色々なことが分ってくると、その工場が今更不思議な魅力を持ってきたのだ。――朝出るとき、今日は誰にしようかを決める。その仲間の色々な性質や趣味や仕事から、どういう方法で、どんな話から近付いて行ったらいゝか、家へブラッと遊びに行ったらいゝか……そんな事を考えながら家を出て行くと、自分の前や後を油で汚れたナッパ服を着て、急いでいる労働者がどれも何時か自分達の「仲間」になる者達ばかりだ、と思われる。――それは今迄のジメ/\と陰気な考えを、彼から捨てさせた。

 彼は河田や石川の指導のもとに、班を二つに――男工と女工に分け、男工は彼が責任者になり、女工の方はお君が当り、その代表者だけが「二階」で河田たちと連絡をとり、そこで重要な活動の方法を決定して行くことにきめた。
 その各班では基礎的な直ぐ役立つ経済上や政治上の知識を得るために、小さい「集り」を持つことにされた。
 その初めに、河田が中央の指導者の書いた短い文章を森本に読んできかせた。――それはある地方の一小都市にいる同志に与えたその指導者の手紙の形をとっていた。
「……通信によれば、君は貴地で労働者の研究会を組織することに成功したと云うではないか。僕はすっかり嬉しくなっている。然かも××鉄工所の労働者が七名も参加しているとは何んと素晴しいことだ。たしかに、その××鉄工所は貴地に於ける一番大きな工場だ。大したもんだ。タッタ七名! 誰がそんな軽蔑した言葉を発するのだ。若し我々が何千名と云う工場で、而も懐柔政策と弾圧とで金城鉄壁のような工場に、一人でもいゝ資本の搾取に反対して起(た)とうとする労働者を友人とすることが出来たら、我々はもうそれだけで、この工場の半ばを獲得したも同様なのだ。――要は如何にして、その獲得へ到達するかである。我々の与える政策が正しいなら、途(みち)は急速に開けて行くだろう……。
「で、その研究会だが、君は九人の労働者を物識りに仕立てようとしているのではないだろう。若しそうだとすれば、それは一応労働運動や社会運動やマルクスの経済学を先ず理解させて、然る後組織し、闘争するというあの有名な、陳腐な、そして何時でもシタヽカの失敗と精力の濫費を重ねて来たようなやり方でなしに、――今、その地の労働者は、資本家に対して如何なる不平を持っているか。殊に××鉄工所の労働者の労働条件はどうか。現在持っている労働者の不平をどんな要求に結びつけて闘争を煽動すべきか、という形で進められるべきで、そうしたならばその集会は物識り研究会から、すっかり様子をかえてくる。現実に活(い)きた興味をもって活気が起きてくるのだ。」
 ――僕等はもうその有名な失敗に足をふみ入れかけていたんではないかな。
それはもう少し続いていた。
「例えば、××鉄工所に闘争激発のために、アジテエションのビラ等を持ち込む場合、その七名の労働者を矢面に立てることは断じて得策でない。それはまだ事の初まらない前に、我々の工場に於ける芽を敵のために刈り取られることを意味しているからである。かゝる仕事は当該工場の外部のものが担当するのが最もいゝ。そして工場内の労働者はそのビラが工場内でどのような反響を起したか、何人の共鳴者があったかを、その晩の研究会での報告者の役目をつとめる。で、今日の工場内の動揺に対して、次にはどういう形で更にアジテエションが与えられねばならぬか、新たに出来た工場内の共鳴者は逃がさず捕えて、どんな風に組織を進めてゆくか……等、集会は全く活気を呈するに至るだろう……。」
 ――これは全く正しい。
 と河田は云った。
 ――危なかったな。僕等もこの線に沿って行かけなればならない。

          十五

 ドンナ困難があろうと、何より先きに「工場新聞」が発行されなければならなかった。プロレタリアの新聞は「宣伝、煽動」の機関であるばかりでなく、同時に集合的な「組織者」の役目を持っていた。
 工場新聞は工場内の労働者が自分で体得した日々の経験、工場内の出来事、偽瞞的な政策等を分り易く、具体的に暴露して、それにマルクス主義的な解答を与え、漸次彼等を階級意識に目覚めさせて行く任務を持っていた。――だが、この新聞の持つ究極の意味は、それによってプロレタリアの党(共産党)の影響を深く工場の労働者大衆の中に浸透させ、やがては党を工場の基礎の上に建設する目的をもっていた。河田の努力の本当の目的はこゝにあった。然しそれはまだ誰も知っていなかった。
「H・S工場」の場合、工場新聞は謄写版刷りで、「H・Sニュース」として出すことにした。河田は沢山の先輩の例で、自分のように離れた立場にいるものが、その目当てとしている工場の中の具体的な事実も知らずに、何時でも極まり文句の抽象的なことばかり書いて、それが工場の中の誰にも飽かれたことのあるのを知っていた。だが、彼は森本やお君と共同の知識を使って作れるのだった。河田は又、他の鉄工場、ゴム工場、印刷工場にも同じ計画を進めていた。
「H・Sニュース」が出る。それは小型でもいゝ。労働者にむさぼり読まれ、そして愛され、親しまれるようなものでなければならない。中に挿入されてある漫画や似顔絵は、労働者にニュースを取ッ付き易いものにするだろう。工場長の似顔が素晴しくそっくりだったら、どうだろう。長いクドイ、ゴツ/\した論文はやめよう。そんなものは労働者は読まないから……、河田は自分の子供でも産まれるのを、拳(こぶし)のグリ/\で数えるような喜びをもって、そのニュースを空想することが出来た。
「H・Sニュース」の発行で、森本と工場の多くの職工たちの関係が、今迄のような漠然とした、弱い不充分なものでなくなるし、更に優れた「工場細胞」をそれ等のなかゝら見付け出すことも出来るようになる。「ニュース」はその他にも大きな任務を持っていた。「H・S会社」は会社の雑誌として、「キャン・クラブ」を定期に発行していた。それは何処の会社でもそうであるように、編輯(へんしゅう)には一人の職工をも加えず、集った原稿は社員だけで勝手に処理し、更に工場長が眼を通して、会社の利益に都合の悪いものを除ける。こういう御用新聞の持つ欺瞞的な記事、逆宣伝、ブルジョワ的な教化に対して、「H・Sニュース」は絶え間なく、抗争し、暴露し、それを逆に利用して「鼻をあかして」行かなければならなかった。
「キャン・クラブ」に投稿するには匿名(とくめい)でもいゝので、表立って云えないことをドシ、ドシ書いてくるらしかった。
 ――こんなことを考えている職工が居るのかと思うほど、凄いことを書いた原稿がくるんだ。と編輯をしている社員が云っている。
 それがウソでないことは、河田も知っていた。Y港に帝国軍艦が二十数隻入ったことがある。旗艦である「陸奥」はその艦だけの「新聞」を持っていた。新聞はこんなに色々な場合に使われる! その編輯をしていた士官が、「原稿は余るほど集まるが、いゝ原稿が無いんで――埋合せに大骨だ。」と云っていた。「兵卒ッて無茶なことを書くんでね。」
 河田はそれを聞いたとき、思わず俺の眼がギロリと光ったよ、と石川に云ったことがあった。
 ――帝国軍艦だぜ! 喜んだなア、中には矢張り居るんだ!
「ニュース」はその「凄いこと」を書く奴を、その「無茶なこと」を書く奴を、砂の中に交っていても、その中から鉄片を吸いつける磁石のように吸いつけなければならなかった。

 三カ月すると、女工で集会に出てくるのが四人になった。男の方より一人しか少なくなかった。
お君と芳ちゃんがその中心だった。――「H・Sニュース」は、それで用心深く九枚しか刷られなかった。「集り」で、女工たちにちっとも退屈させないで、面白くやってのける鈴木がみんなに喜ばれた。
 ――鈴木は最近馬鹿に積極的になった。
 と河田が云った。それから、
 ――女がいるからかな?
 と笑った。
 仲間が一人増せば、ニュースは一枚だけ増刷りされた。集会にきている職工たちから、「手渡し」で見当をつけた一人に渡された。――白蟻のように表面には出ずに、知らないうちに露台骨をかみ崩していて、気付いた時にはその巨大な家屋建築がそのまゝ倒壊してしまわなければならなくなる白蟻を、そのニュースは思わせた。
 ――これからの運動は、街へ出てビラを撒いたり、演説をしたりすることではないんだぞ。
 河田は少し意識のついた若い職工が、ジリ/\し出すのを見ると、それを強調しなければならなかった。
 ――これからニュースを五年続けてゆく根気が絶対に必要なんだ。
「H・Sニュース」には安部磯雄と専務が握手をして、後手でこっそり職工の首を絞めている漫画が出た。「狐会議」が開かれている。大テーブルを囲んで、狐の似顔にされた工場長以下職長、社員が、職工に「馬の糞」の金を握らしている。それが「工場委員会」だった。「共済会」の基金や「健保」の掛金が何処にどう、誰の利益のために流用されているか。――香奠(こうでん)や出産見舞に職工が一々「礼状」を書かせられて、食堂の入口に貼られるカラクリが嘲笑された……。
 そのどれもが、会社を「Yのフォード」だと思っていた職工を驚かした。

          十六

 ――嫌になるな、君。お君と河田が変なんだぜ。
 集会の帰り、鈴木が不愉快げに云った。森本はフイに足をとめた。――彼は前から、工場でもお君にキッスをしたというものが二人もいるのを知っていた。然し、それは如何にもあのお君らしく思われ、不思議に気にならなかった。が、それが河田と! と思うと、彼は足元が急にズシンと落ちこむのを感じた。
 ――河田ッて、実にそういうところがルーズだ。
 ――…………。
 然しそういう鈴木が本当はお君を恋していた。彼は自分の「最後の藁(わら)」がお君だと思っていたのだった。彼はもう警察の金を二百円近くも、ズル/\に使ってしまっていた。彼は自分の惨めさを忘れなければならなかった。あせった。然しそのもがきは彼を更につき落すことしかしなかった。足がかりのない泥沼だった。――そして、今、彼は最後のお君までも失ってしまった。何んのために、自分は「集会」であんなに一生懸命になったのだ! ――こうなって彼は始めて自分の道が今度こそ本当に何処へ向いているかを、マザ/\と感じた。夜、盗汗(ねあせ)をかいたり、恐ろしい夢を見るようになった。
 四五日してからだった。
 ――芳ちゃんが、とても誰かに参っちまってるのよ。
 とお君はいたずらゝしく笑った。
 ――そしてクヨ/\想い悩んでるの。それアおかしいのよ。で、私云ってやったの。あんた一体「お嬢さん」かッて。月を見ては何んとか思い、花を見ては……なんて、お嬢さんのするこッた。思ってることをテキパキと云って、テキパキと片づけてしまいなさいって、ね。
 ――君ちゃんらしいな!
 と森本は淋しく笑った。
 ――そんなことで、仕事がおかしくなったら大変でしょう。私その人に云ってあげるから……キッスして貰いたかったら、キッスして貰おうし……そしたら仕事にも張り合いが出来るんでないの、と云ってやった。そしたら、とてもそんな事、恥かしくッてと。――どう?
 お君は遠慮のない大きな声を出した。こういう云い方が、みんな河田から来ているのではないかと、フト思うと、彼は苦しかった。
 ――恥かしいなんて、芳ちゃん何だか、お嬢さん臭いとこあってよ。
 お君を男にすれば河田かも知れない、森本はその時思った。――河田が若し恋愛をするとすれば、それは「仕事と同じ色の恋」をするだろうと皆冗談を云った。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:134 KB

担当:undef