工場細胞
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著者名:小林多喜二 

 ――今日の暑気で、どれもグンナリだ。
 裏で独言(ひとりごと)を云っているのが聞えた。
「H・S工場」にも、少し年輩の職工は小鳥を飼ってみたり、花鉢を色々集めてみたり、規帳面(きちょうめん)にそれの世話をしてみたり、公休日毎に、家の細々した造作を作りかえてみたりする人が沢山(たくさん)いた。職工の一人は工場へ鉢を持ってきて、自分の仕事台の側にそれを置いた。
 ――花のような美人(べっぴん)ッて云うべ。んだら、これ美人(べっぴん)のような花だべ。美人の花ば見て暮すウさ。
 工場に置かれた花は、マシン油の匂いと鉄屑とほこりと轟々たる音響で身もだえした。そして、其処では一週間ももたないことが発見された。
 ――へえ!
皆は眼をまるくした。
 ――で、人間様はどういう事になるんだ?
 居合わせた森本がフト冗談口をすべらした。――すべらしてしまってから、自分の云った大きな意味に気付いた。
 胴付機(ボデイメエカー)の武林が小馬鹿にして笑った。
 ――夜店で別な奴と取りかえてくるさ。労働者はネ、選(よ)りどり自由ときてらア、ハヽヽヽヽヽ。
 新聞社の印刷工などに知り合いを持っているアナアキストの職工だった。――
 父が裏口から何か云っている。声が聞えず、動く口だけが汚れた硝子(ガラス)から見えた。
 ――お前、十五銭ばかし持ってないかな。
 具合悪そうに、そう云っているのだ。
 彼は又かと思った。「うん」と云うと、父は子供のような喜びをそのまゝ顔に出した。
 ――えゝ鉢があってナ、市(まち)さ出るたびに眼ばつけてたんだどもナ……!

          五

 暗くなるのを待った。その「会合」は秘密にされなければならなかった。
 ――活動へ行ってくるよ。
 家へはそう云った。昼のほとぼりで家の中にいたまらない長屋の人達は、夕飯が済むと、家を開(あ)けッ放しにしたまゝ、表へ台を持ち出して涼んだ。小路は泥溝(どぶ)の匂いで、プン/\している。それでも家の中よりはさっぱりしていた。大抵裸だった。近所の人たちと声高に話し合っていた。若い男と女は離れた暗がりに蹲(しゃが)んでいた。団扇だけが白く、ヒラ/\動くのが見えた。森本はそのなかを、挨拶をしながら表通りへ抜けた。――この町は「工場」へ出ている人達、「港」へ出ている人達、「日雇」の人達と、それ/″\何処かに別々な気持をもって住んでいる。
 この一帯はY市の端(は)ずれになっていた。端ずれは端ずれでも、Y市であることには違いなかった。然しこのT町の人達は、用事で市の中央に出掛けて行くのに、「Yへ行ってくる」と云った。何か離れた田舎からでも出掛けて行くように。乗合自動車も、円タクも、人力車もT町迄だと、市外と同じ「割増し」をとった。――こゝは暗くて、ジメ/\していて、臭(くさ)くて、煤(すす)けていた。労働者の街だった。つぶれた羊羹(ようかん)のような長屋が、足場の据(すわ)らないジュク/\した湿地に、床を埋めている。
 森本は暗いところを選んで歩いた。角を曲がる時だけ立ち止った。場所はワザと賑かな、明るい通りに面した家にされていた。裏がそこの入口だった。彼は決められていたように、二度その家の前を往復してみて、裏口へまわった。戸を開けると、鼻ッ先きに勾配の急な階段がせまった。彼は爪先きで探(さぐ)って――階段の刻(きざ)みを一つ一つ登った。粗末な階段はハネつるべのようなキシミを足元でたてた。彼は少し猫背の厚い肩を窮屈にゆがめた。頭がつッかえた。
 ――誰?
 上から光の幅と一緒に、河田の声が落ちてきた。
 ――森。
 ――あ、ご苦労。
 室一杯煙草の煙がこめて、喫(の)みつくしたバットの口と吸殻が小皿から乱雑に畳の上に、こぼれていた。何か別な討議がされた後らしい。立ってきた河田は、森本の入った後を自分で閉めた。彼は大きな臼のような頭をガリ、ガリに刈っていた。それにのそりと身体が大きいので、「悪党坊主」を思わせた。何時でも、ものゝ云い方がブッキラ棒なので、人には傲慢(ごうまん)だと思われていたかも知れなかった。然しそれだから岩のようなすわりがあるんだ、と組合のものが云っていた。
 仰向(あおむ)けになって、バットの銀紙で台付コップを拵(こし)らえていた石川が、彼を見ると頭をあげた。
 ――よオッ!
 石川はもと「R鋳物工場」にいたことがあるので、前からよく知っていた。彼が河田を知ったのも、石川の紹介からだった。石川が組合に入るようになってから、森本はそういう方面の教育を色々彼から受けた。それまでの彼は、普通の職工と同じように、安淫売をひやかしたり、活動をのぞいたり、買喰いをしたり喧嘩をして歩いていた。それから青年団の演説もキッパリやめてしまった。
 もう一人の鈴木とは前に一寸しか会っていなかった。神経質らしい、一番鋭い顔をしていた。何時でも不機嫌らしく口数が少なかったので、森本にはまだ親しみが出ていなかった。彼は膝を抱えて、身体(からだ)をゆすっていたが、煙を出すために窓を開けた。急に、波のような音が入ってきた。下のアスファルトをゾロ/\と、しっきりなしに人達が歩いている。その足音だった。多燈(スズラン)式照明燈が両側から腕をのばして、その下に夜店が並んでいた。――植木屋、古本屋、万年筆屋、果物屋、支那人、大学帽……。人達は、方向のちがった二本の幅広い調帯(ベルト)のように、両側を流れていた。何時迄見ていてもそれに切れ目が来ない。
 ――暇な人間も多いんだな。
 ――鈴木君、顔を出すと危いど。
 河田が謄写版刷りの番号を揃(そろ)えていたが、顔をあげた。
 ――顔を出すと危いか。ハヽヽヽ、汽車に乗ったようだな。
 ――じァ、やっちまうか……。
 灰皿を取り囲んで四人が坐った。
 ――森本君とはまだ二度しか会っていないから、或いは僕等の態度がよく分っていないかと思うんだ……。
 河田は眉をひそめながらバットをせわしく吸った。
 ――手ッ取り早く云うと、こうだと思うんだが……。これまでの日本の左翼の運動は可なり活発だったと云える。殊に日本は資本主義の発展がどの分野でゝも遅れていた。それが戦争だとか、其他色ンナ関係から急激に――外国が十年もかゝったところを、五年位に距離を縮めて発展してきた。プロレタリアも矢張り急激に溢(あふ)れるように製造されたわけだ。そこへもってきて、戦争後の不景気だ。で、日本の運動がそこから跳ねッかえりに、持ち上ってきたワケだ。然し問題なのは、その「活発」ッてことだ。何故活発だったか、これだ。――僕らにはあの「三・一五事件」があってから、そのことが始めてハッキリ分ったんだが……手ッ取り早く云えば、工場に根を持っていなかったという事からそれが来ていた。それも「大工場」「重工業の工場」には全然手がついていなかったと云ってもいゝんだ。Yをみたってそうだ。労働組合の実勢力をなしているのが、港の運輸労働者だ。それはそれ/″\細かく分立している。それに実質上は何んたって反自由労働者で、職場から離れている。だから成る程事毎に動員はきくし、それはそして一寸見は如何にもパッとして華やかだ。日本の運動が活発だったというのは、こゝんとこから来ていると思うんだ。然し何より組織の点から云ったら、零(ゼロ)だった。チリ/\バラ/\のところから起ったんだから、終ったあとも直ぐチリ/\バラ/\だ。統計をみたって分るが、その間大工場は眠っている牛のように動かなかったんだ。――工場が動きづらい理由はそれァある。ギュッ/\させられている小工場は別として、何千、何万の労働者を使っている高度に発達した大工場となると、とても容易でないのだ。――容易でないが、「大工場の組織」を除いて、僕らの運動は絶対にあり得ないのだ。早い話が、この近所に小さい争議を千回起すより、夕張と美唄二つだけの炭山にストライキを起してみろ。日本の重要産業がピタリと止まってしまう。これは決して大それた事でなくて、ストライキは必ずこういう方向に進んで行かなければならない事を示していると思うんだ。――今迄の繰りかえしのようなストライキはやめることだ。だから……どうも、何んだかすっかり先生らしくなったな……。
 河田が「臼」を一撫(ひとな)でした。
 ――ま、詳しいことは又色んな時にゆっくりやれるとして。とにかく今になって云うのも変だが、「三・一五事件」で、何故僕らがあの位もの要らない犠牲を払ったか、ということだ。それは、さっき云ったあの華々しい運動をやっていた先輩たちが、非合法運動なのに、今迄の癖がとれず、時々金魚のように水面へ身体をプク/\浮かばしていたところから来てるんだ。工場に根をもった、沈んだ仕事をしていなかったからだ。――実際、僕たちの仕事が、工場の中へ、中へと沈んで行って、見えなくなってしまわなければならなかったのに、それを演壇の上にかけのぼって、諸君は! とがなってみたり、ビラを持って街を走り廻わることだと、勘ちがいをしてしまったのだ。――日本の運動もこゝまで分ってきた…………。
 ――ところが、本当は仲々分らないんだよ。恐ろしいもんだ。
 石川が河田の言葉をとった。銀紙のコップをバットの空箱に立てながら、何時ものハッキリしない笑顔を人なつッこく森本に向けた。
 ――ボロ船の舵(かじ)のようなもので、ハンドルを廻わしてから一時間もして、ようやくきいてくるッてところだ。今迄の誤ッてた運動の実践上の惰勢もあるし、これは何んてたって強い。それに工場の方は仕事はジミだし、又実際ジミであればあるほどいゝのだから……仲々ね。――
 ――それは本当だ。でねえ、僕らが何故口をひらけば「工場の沈んだ組織」と七くどく云うかと云えば、仮りにYのような浮かんだ労働組合を千回作ったとしても、「三・一五」が同様に千回あれば、千回ともペチャンコなのだ。それじゃ革命にも、暴動にも同じく一たまりもないワケだ。話が大きいか。ところが、こうなのだ。最近戦争の危機がせまっていると見えて、官営の軍器工場では、この不況にも不拘(かかわらず)、こっそり人をふやしてるらしい。M市のS工場などは三千のところが、五千人になっているそうだ。この場合だ。僕らが、その工場の中に組織を作って行ったとする。それは勿論、表面などに「活発にも」「花々しく」も出すどころか、絶対に秘密にやって行くわけだ。そこへ愈々(いよいよ)戦争になる。その時その組織が動き出すのだ。ストライキを起す。――軍器製造反対だ。軍器の製造がピタリととまる。それが例えば大阪のようなところであり、そして一つの工場だけでなかったとしたら、戦争もやんでしまうではないか。こゝを云うのだ。――然しこんなことをY労働組合の誰かに云ったら、夢か、夢を見てるのかと云われそうだ。がこれだけは絶対に今からやって行かないと、乞食(こじき)の頭数を集めるように、その場になって、とてもオイそれと出来ることではないんだ。
 ――僕らはそれをやって行こうと思っているんだ。そのために……。
 ――俺も失敗(しくじ)ったよ。
 石川が云った。
 ――職場ば離れるんでなかった。な、河田君!
 ――然しあの頃と云ったら、組合へ必ず出てきて、謄写版を刷って、ビラをまくことしか「運動」と云わなかったもんだ。
 ――そうなんだ。正直に云って、工場にじっとしていることが、良心的にたまらなかったんだ、あの頃は。
 森本は初めて口を入れた。
 ――然し工場は動きづらいと思うんです。大工場になると「監獄部屋」のようなことはしないんですから……。
 彼は今日の工場の様子を詳しく話した。河田たちは一つ、一つ注意深くきいていた。
 ――それはそうだ。
 と河田が言った。
 ――だから今迄何時も工場が後廻わしになってきたのだ。

          六

 森本は河田に云われて、「H・S工場」の地図を書いた。河田はその他に、市内の色々な工場の地図を持っていた。それからY市の全図を拡げて「H・S」のところに赤い印をつけた。
 ――水上署とは余程離れてるだろうか。
 ――四……四町位でしょう。
 ――四町ね?
 ――悪いところに立ってるな。
 石川が顔をあげた。
 ――この市(まち)の水上はドウ猛だからな。

 森本は工場について一通り説明した。――工場Aが製罐部で、罐胴をつくるボデイ・ラインと罐蓋をつくるトップ・ラインに分れている。ボデイの方は、ブリキを切断して、円く胴をつくり、蓋(ふた)をくっツけて締めつけ、それが空気が漏(も)れないか、どうかを調べる。切断機(スリッター)、胴付機(ボデイ・マシン)、罐縁曲機(フレンジャー)、罐巻締機(キャンコ・シーマー)、空気検査機(エアー・テスター)などがその機械で、トップの方は錻力圧搾機(プレス)、波形切断機(スクロール)、と蓋の溝にゴムを巻きつける護謨塗機(ライニング・マシン)がある。――工場Bは、階下はラッカー工場で、罐に漆(うるし)を塗るところで、作業は秘密にされていた。階上は罐をつめる箱をつくるネーリング工場で、側板、妻板、仲仕切りを作っている。――出来上った罐とこの空箱が倉庫の二階のパッキング・ルームに落ち合って、荷造りされるわけである。工場Cは森本たちのいる仕上場になっていた。
 ――その外の附属は?
 河田がきいた。
 ――実験室。これはラバー(ゴム引き)の試験と漆塗料の研究をやっています。こゝにいる人は私らにひどく理解を持ってゝくれるんです。どッかの大学を首になったッて話です。
 ――自由主義者ッてところだろう。
 ――それから製図室と云って、産業の合理化だかを研究しているところがあります。
 ――ホ、産業の合理化?
 河田が調子の変った響きをあげた。
 ――「H・S工場」が始めて完全なコンヴェイヤー組織にかえられたのも、こゝの部員があずかって力があったそうです。――その時は一度に人が随分要らなくなったので、とう/\ストライキになって、職工たちが夜中に工場へ押しかけて行って、守衛をブン殴(な)ぐって、そのコンヴェイヤーのベルトを滅茶苦茶にしてしまったことがありました。何んしろ、作業と作業の間に一分の隙(すき)もない程に連絡がとれて居り、職場々々の職工たちは、コンヴェイヤーに乗って徐々に動いて来る罐が、自分の前を通り過ぎて行く間に割り当てられた仕事をすればいゝというようになってしまったのですから、たまりません。縁曲機(フレンジャー)なども、もとは職工がついていたが、今使っている機械は自動化されて、一人も要らなくなったんです。
 ――ん。
 ――今工場ではブリキ板を運ぶのに、トロッコを使っていますが、あれも若しコンヴェイヤー装置にでもしてしまうような事があったら、そこでも亦(また)人がオッ出されるわけでしょう。
 ――なるだろう。なるね。
 ――なるんです。製図室や実験室の人達には懸賞金がかけられているんです。
 ――うまいもんだ。
 ――その人達は何時でも、アメリカから取り寄せて、モーターやボイラーの写真の入った雑誌を読んでいます。
 ――これから色々僕たちの仕事を進めていく上に、職工のことゝは又別に、会社の所謂(いわゆる)「高等政策」ッてものも是非必要なのだ。で、上の方の奴をその意味で利用することを考えてもらいたいと思うんだ。
 森本はうなずいた。
 ――工場のことでも、私らの知っていることは、ホンのちょッぴりよりありません。
 ――そうだと思うんだ。……それでと……。
 眼が腕時計の上をチラッとすべった。
 ――そうだな……。
 疲れたらしく、石川が口の中だけで、小さくあくびを噛(か)んだ。
 ――ン、それから工場の中の対立関係と云うかな……あるだろうね。
 ――え……職場々々で矢張りあります。仕上場の方は熟練工だし、製罐部の方はどっちかと云えば、女工でも出来る仕事です。それで…………。
 森本がそう云って、頭に手をやった。河田は彼のはにかんだ笑い顔を初めてみたと思った。角ばった、ごッつい顔だと思っていたのに、笑うと輪廓(りんかく)がほころんで、眼尻に人なつッこい柔味が浮かんだ。それは思いがけないことだった。
 ――私らなど、何んかすると……金属工なんだぜ、と……その方の大将なんです。それから日雇や荷役方は職工と一寸変です。事務所の社員に対しては、これは何処(どこ)にでもあるでしょう。――女事務員は大抵女学校は出ているので、服装から違うわけです。用事があって、工場を通ることでもあると、女工たちの間はそれア喧しいものです。
 森本は声を出して笑って、
 ――男の方だって、さアーとした服を着ている社員様をみるとね。ところが、会社には勤勉な職工を社員にするという規定があるんです。会社はそれを又実にうまく使っているようです。ずウッと前に一人か二人を思い切って社員にしたことがあります。然しそれはそれッ切りで、それからは仲々したことが無いんですが、そういうのが変にきいてるらしいんです。
 河田は誰よりも聞いていた。鈴木は然し最後まで一言もしゃべらなかった。拇指(おやゆび)の爪を噛んだり、頭をゴシ/\やったり――それでも所々顔を上げて聞いたゞけだった。
 森本は更に河田から次の会合までの調査事項を受取った。「工場調査票」一号、二号。
 河田はこうしてY市内の「重要工場」を充分に細密に調査していた。それ等の工場の中に組織を作り、その工場の代表者達で、一つの「組織」と「連絡」の機関を作るためだった。「工場代表者会議」がそれだった。――河田はその大きな意図を持って、仕事をやっていたのだ。ある一つの工場だけに問題が起ったとしても、それはその機関を通じて、直ちにそして同時に、Y市全体の工場の問題にすることが出来るのだ。この仕事を地下に沈ませて、強固にジリ/\と進めていく! それこそ、どんな「弾圧」にも耐え得るものとなるだろう。この基礎の上に、根ゆるぎのしない産業別の労働組合を建てることが出来る。――河田は眼を輝かして、そのことを云った。
 ――ブルジョワさえこれと同じことを已(すで)にやってるんだ。工場主たちは「三々会」だとか、「水曜会」だとか、そんな名称でチャンとお互の連絡と結束を計ってるんだ。
 暗い階段を両方の手すりに身体を浮かして、降りてくると、河田も降りてきた。
 ――君は大切な人間なんだ。絶対に警察に顔を知られてはならないんだからね。
 森本は頬に河田の息吹きを感じた。
 ――「工場細胞」として働いてもらおうと思ってるんだ。
 彼の右手は階段の下の、厚く澱んだ闇の中でしっかりと握りしめられていた。
 彼は外へ出た。気をとられていた。小路のドブ板を拾いながら、足は何度も躓(つまず)いた。
 ――工場細胞!
 彼はそれを繰り返えした。繰りかえしているうちに、ジリ/\と底から興奮してくる自分を感じた。

          七

 この会合は来るときも、帰るときも必ず連れ立たないことにされていた。森本も鈴木も別々に帰った。
 ……俺へばりついても、この仕事だけはやって行こうと思ってる。命が的になるかも知れないが……。
 前に帰ったものとの間隔を置くために待っていた河田が厚い肩をゆすぶった。
 ――警察ではこう云ってるそうだ。俺とか君とか鈴木とか、表(おもて)に出てしまった人間なんて、チットも恐ろしくない。これからは顔の知られない奴だって。彼奴(きゃつ)等だって、ちァんと俺たちの運動の方向をつかんだ云い方をするよ。だから彼奴等のスパイ政策も変ってきたらしい。特高係とか何んとか、所詮表看板をブラ下げたものに彼奴等自身もあまり重きを置かなくなってきたらしいんだ。
 ――フうん、やるもんだな。
 ――合法活動ならイザ知らず、運動が沈んでくれば、そんなスパイの踏みこめるところなど知れたものだ。恐ろしいのは仲間がスパイの時だ。或いは途中でスパイにされたときだ。買収だな。早い話が……。
 ――オイ/\頼むぜ。
 石川がムキな声を出した。
 ――ハヽヽヽヽ。まアさ、君がこっそり貰ってるとすれば、今晩のことはそのまゝ筒抜けだ。特高係など、私が労働運動者ですと、フレて歩く合法主義者と同じで、恐ろしさには限度があるんだ。外部でなくて内部だよ。
 ――また気味の悪いことを云いやがるな。
 河田はだが屈託なさそうに、鉢の大きい頭をゴシ/\掻(か)いて笑った。それから、
 ――本当だぜ!
 と云った。そして腕時計を見た。
 ――今日は俺が先きに帰るからな。
 河田はそこから出ると、萬百貨店の前のアスファルトを、片手にハンカチを持って歩いていた。一寸蹲めば分る小間物屋の時計が八時を指していた。彼は其処を二度往き来した。敷島をふかしてくる男と会うためだった。彼が前にその男から受取った手紙の日附から丁度十日目の午後八時だった。それは約束された時間だった。彼は表の方を注意しながら、三銭切手を一枚買った。会ったときの合図にそれが必要だった。その店を出しなに、フト前から来る背広の人が敷島をふかしているのに気付いた。彼はその服装を見た。一寸躊躇(ちゅうちょ)を感じた。然しその眼は明かに誰かを探がしていた。彼は思わずハンカチを握っている掌(てのひら)に力が入った。
 男が寄ってきた。で彼も何気ない様子を装って、その男と同じ方へ歩き出した。彼から口を切った。
 ――山田です。
 すると、背広の男は直ぐ
 ――川村。
 と云った。
「山」と「川」が合った。二人は人通りのあまり多くない河端(ぶち)を下りて行った。少し行くと、男が、
 ――何処か休む処がないですか。
 と云った。
 ――そうですね。
 河田は両側を探して歩いた。そして小さいレストランの二階へ上った。
 テーブルに坐ると、男がポケットから三銭切手を出した。その 3sn の 3 がインクで消されていた。河田もさっきの三銭切手を出して、その sn の方を消した。二人は完全に「同志」であることが分った。――男は中央から派遣されてきた党のオルガナイザーだった。
 河田はY地方の情勢や党員獲得数などを、そこで話し出した。

          八

 鈴木は少しでも長く河田や石川などゝいることに苦痛を覚えた。彼は心が少しも楽しまないのだ。誇張なしに、彼は自分があらゆるものから隔てられている事を感じていた。そしてその感情に何時でも負かされていた。――およそ、プロレタリヤ的でない! 然し自分は一体「運動」を通じて、運動をしているのか、「人」を信じて運動をしているのか? 河田や石川が自分にとって、どうであろうと、それが自分の運動に対する「気持」を一体どうにも変えようが無い筈ではないか。――又変えてはならないのだ。そうだ、それは分る。然し直ぐ次にくるこの「淋しさ」は何んだろう? ――彼はもう自分が道を踏み迷っていることを知っていた。
 理論的にも、実践的にも、それに個人的な感情の上からでも、あせっている自分の肩先きを、グイ/\と乗り越してゆく仲間を見ることに、彼は拷問にたえる以上の苦痛を感じた。こういう迷いの一ッ切れも感じたことのないらしい他の同志を、彼はうらやましく思った。――然し彼はこういう無産運動が、外から見る程の華々しい純情的なものでもなく、醜いいがみ合いと小商人たちより劣る掛引に充ちていることを知った。それは彼に恐ろしいまでの失望を強いた。
 ――運動ではお前は河田達の先輩なんだぜ。
 その言葉の陰は「それでも口惜(くや)しくないのか。」と云っていた。それは撒ビラのことで、二十九日食ったときの事だった。然しそんな事を云うのは、よく使われる特高係の「手」であることを彼は知っていた。
 ――お前も案外鈍感だな。一緒に働いていて、河田や石川たちから何処ッかこう仲間外れにされていることが分らないのかな。
 彼はだまって外ッ方を向いた。――然し彼は自分の意志に反して、顔から血のひいてゆくのをハッキリ感じた。
 ――「手」だな、とお前はキット考えてるだろう。
 特高主任が其処で薄く笑った。
 ――それアねえ、僕らも正直に云って、そんな「手」をよく使うよ。だが、これが「手」かどうかは、僕より君が内心知ってるんだろうと思うんだ。この前、石本君とも話したが、鈴木は可哀相に置いてけぼりばかり食ってる。あれでよく運動を一緒にやって行く度量がある。俺たちにはとても出来ない芸当だって云ってたんだ。
 ――…………。
 ――……じゃ知らせようか。
 特高主任がフト顔をかしげた。鈴木はその言葉の切れ間に思わず身体のしまる恐怖を感じた。
 ――これは或いは滅多に云えない事だが、僕等はある方法によって、そこは世界一を誇る警察網の力だが、すでに河田たちが共産党に加入しているということの確証を握ったのだ。――ところが、それに君が入っていないのだ。……入っていないから、こんな事君に云える。嘘(うそ)か本当かは君の方が分ってるだろうよ……。
 ――…………。
 ――おかしい云い方をするが、僕はそのことが分った時、喜んでいゝか、悲しんでいゝか分らなかった。
 ――入っていないときいて、僕等が喜ぶのは勝手だと君は云いたいだろう。それならそれでいい。僕等はどうせ、人に決して喜ばれることの出来ない職業をしているのだから。然し「同志」というものゝ気持は、僕等からはとても覗(うかが)い知ることの出来ないほど、深い信頼の情ではないかと思うんだ。だが、君はそれに裏切られているのだ。それが分ったとき、僕は君に対して何んと云っていゝか分らない、淋しい、暗い気持にされたのだ。
 ――勝手なことを云え!
 胸がまくれ上がって、のどへ来た。それを一思いにハキ出さなければならなかった。で、怒鳴った。――彼は胸一杯の涙をこらえた。
 特高主任は鉛筆をもてあそびながら、彼の顔をじッと見た。一寸だまった。
 ――そればかりではないんだ。紛議の交渉とか争議費用として受取った金の分配などで、君がどの位誤魔化されているか知れない。――河田たちが、そんな金で遊んでいる証拠がちァんと入ってるんだ。――それでも清貧に甘んじるか……。
 それ等が嘘であれ、本当であれ、彼が内心疑っていた事実をピシ/\と指していた。
 気にしまい、気にしまい、そう意識すると、逆にその意識が彼の心を歪める。河田と素直な気持ではものが云えなくなった。河田たちの顔を見ていることが出来なかった。自分ながら可笑(おか)しい程そわ/\して、視線を迷わせた。そして一方自分の何処かでは、河田の云うことに剃刀(かみそり)の刃のような鋭い神経を使っているのだ。
 少し前だった。何時も自分の宿に訪ねてくる特高係が、街で彼を見ると寄ってきた。
 ――君は大分宿代を滞(とど)こらせてるんだな。
 と、ニヤ/\云った。
 ――じゃ、君か!
 彼はそのまゝ立ち止った。刑事は大きな声で笑った。――四五日前、鈴木の友人だと云って、彼の泊っている宿へ来て、今迄滞らせていた宿代を払って行ったものがあったのだ。
 ――いゝじゃないか、こういう事は。お互さ。別に恩をきせて、どうというわけでないんだから。
 それから、一寸聞きたいことがあるんだが、と赤い薄い鬚(ひげ)を正方形だけはやしたその男が、四囲(あたり)を見廻わした。
 二人は大通りから入ったカフエー・モンナミを見付けた。そこのバネ付のドアーを押して二階へ上った。――特高は彼には勝手に、ビールやビフテキを注文した。
 ――断っておくが、こういう事は君たちの勝手にすることで、別に……。
 みんな云わせずに、
 ――分ってるよ。固くならないでさ。一度位はまアゆっくり話もしてみたいんだよ。――いくら僕等でもネ。
 と、云って、ヒヽヽヽヽと笑った。
 彼はもう破れ、かぶれだと思った。彼はそこでのめる程酔払ってしまった。――
「二階」の会合の時も、河田が急いでいたらしかったが、鈴木は自分から先きに出てしまった。ジリ/\と来る気持の圧迫に我慢が出来なかったのだ。――下宿に帰ってくると、誰か本の包みを置いて行ったと云った。彼はそれを聞くと、その意味が分った。
 二階に上って行って解いてみると、知らない講談本だった。彼は本の背をつまんで、頁を振ってみた。ぺったり折り畳まった拾円紙幣が二枚、赤茶けた畳の上に落ちてきた。
 彼はフイに顔色をかえた。――拾円紙幣が出たからではない。知らずに本の頁を振る動作をしていた自分にギョッと気付いたからだった。
 彼はそれをつかむと、階段を下りて、街へ出て行った。だが、彼の顔色がなかった。

          中 九

 ――君ちァん、君ちァん。――キイ公オ!
 二階の函詰場(パッキング・ルーム)で、男工と女工がコンヴェイヤーの両側に向い合って、空罐を箱詰めにしていた。パッキングされた函(はこ)は、二階からエスカレーターに乗って、運河の岸壁に横付けにされている船に、そのまゝ荷役が出来る。――昼近くになって、罐が切れた。皆が手拭で身体の埃を払いながら、薄暗い階段を下りて行った時だった。暗い口を開らいている「製品倉庫」のなかから、低くひそめた声が呼んでいる。前掛けはしめ直していたお君が「クスッ」と笑って、――急いで四囲を見た。だまっていた。
 ――キイ公、じらすなよ!
 お君はもう一度クッと笑って、倉庫の中へ身体を跳ねらした。
 ――ア、暗い。
 ワザと上わずった声を出して、両手で眼を覆った。居ない、居ないをしているように。
 ――こっちだ。
 男の手が肩にかゝった。
 ――いや。
 女が身体をひいた。
 ――何が「いや」だって。手ば除(の)けれよ。
 ――…………。
 お君は男の胸を直接(じか)に感じながら、身体をいや/\させた。
 ――手ば取れッたら。な。さ。ん?
 女はもっとそうしていることに妙な興奮と興味を覚えた。男は無理に両手を除けさせて、後に廻わした片手で、女の身体をグイとしめつけてしまった。女は男の腕の中に、身体をくねらした。そして、顔を仰向けにしたまゝ、いたずらに、ワザと男の唇を色々にさけた。男は女の頬や額に唇を打つけた。
 ――駄目だ、人が来るど!
 男はあせって、のどにからんだ声を出した。お君はとう/\声を出して笑い出した。そして背のびをするように、男の肩に手をかけた……。
 ――上手だなア。
 男が云った。
 ――モチ! 癖になるから、あんたとはこれでお終(しま)いよ!
 男が自由にグイ/\引きずり廻わされるのが可笑しかった。お君はそう云うと、身体を翻(ひる)がえして、上気した頬のまゝ、階段を跳ね降りて行った。
 お君は昼過ぎになってから、然し急に燥(はし)ゃぐことをやめてしまった。
 昼飯時の食堂は何時ものように、女工たちがガヤ/\と自分の場所を仲間たちできめていた。お君は仲良しの女工に呼ばれて、そこで腰を並べて、昼食をたべた。
 ――ねえ!
 ワザ/\お君を呼んだ話好きな友達が、声をひそめた。
 ――驚いッちまった!
 女は昨日仕事の跡片付けで、皆より遅くなり、工場の中が薄暗くなりかけた頃、脱衣場から下りてきた。その降り口が丁度「ラバー小屋」になっていた。知らずに降りてきた友達はフトそこで足をとめた。小屋の中に誰かいると思ったからだった。女の足をとめた所から少し斜め下の、高くハメ込んである小さい硝子窓の中に――男と女の薄い影が動いている。
 ――それがねエ!
 女は口を抑えて、もっと低い声を出した。
 男はこっちには背を見せて、ズボンのバンドをしめていた。女は窓の方を向いたまゝうつ向いて、髪に手をやっている。男はバンドを締めてしまうと、後から女の肩に手をかけた。そして片方の手をポケットに入れた。ポケットの中の手が何かを探がしているらしかった。
 ――お金よ! 男がそのお金を女の帯の間に入れてやったのよ、どう?
 ――…………□
 ――で、その女の人一体誰と思う?
 いたずらゝしい光を一杯にたゝえた眼で、お君をジッと見た。
 ――誰だか分ったの?
 ――それアもう! そういうことはねえ。
 ――…………?
 ――芳ちゃんさ!
 ――馬鹿な!
 お君は反射的にハネかえした。
 ――フン、それならそれでいゝさ。
 女は肩をしゃくった。
 お君は一寸だまった。
 ――相手は?
 ――相手? お金商売だもの一日変りだろうよ。誰だっていゝでしょうさ。
 何時でも寒そうな唇の色をしている芳ちゃんは、そう云えば四人の一家を一人で支えていた。お君はそのことを思い出した。――それをこんな調子でものを云う女に、お君はもち前の向かッ腹を立てゝしまった。
 ――でも、妾(わたし)たちの日給いくらだと思っているの。五十銭から七八十銭。月いくらになるか直してごらんよ。――淫乱(すき)なら無償(ただ)でやらせらアねえ!
 お君は飯が終って立ちかけながら、上から浴びせかけた。そして先きに食堂を出てしまった。
 ――馬鹿にしてる!

          十

 午後から女学生の「工場参観」があると云うので、男工たちは燥ゃいでいた。
 ――ヘンだ。ナッパ服と女学生様か! よくお似合いますこと!
 女工たちは露骨な反感を見せた。
 ――口惜しいだろう! ――女学生が入ってくると、工場(ここ)のお嬢さん方の眼付が変るから。凄(すご)いて!
 ――眼付きなら、どっちがね!
 ――オイ、あまりいじめるなよ。たまには大学生様だって参観に来るんだからな。
 何時でもズケ/\と皮肉なことを云う職工だった。
 ――と、どうなるんだ。大学生様と女工さんか。ハ、それア今流行(はやり)だ!
 ――ネフリュウドフでも来るのを待ってるか……!
「芸術職工」が口を入れた。
 ――女学生の参観のあとは、不思議にお嬢さん方の鼻息がおとなしくなるから、たまにはあった方がいゝんだ。
 年老った職工が聞いていられないという風に云った。
 ――「友食い」はやめろって! キイ公まで黙ってしまった。――何んとか、かんとか云ったって……どんづまりはなア!
 どんづまりは? で、みんなお互気まずく笑い出してしまった。
「Yのフォード」は、その完備した何処へ出しても恥かしくない工場であると云うことを宣伝するために、広告料の要らない広告として、「工場参観」を歓迎していた。「製罐業」を可成りの程度に独占している「H・S会社」としては、工場の設備や職工の待遇をこの位のものにしたとしても、別に少しの負担にならなかった。而(しか)も、その効果は更に職工たちに反作用してくることを予想しての歓迎だった。――「俺ンとこの工場は――」「俺の会社は――」職工たちはそういう云い方で云う。自分の工場が誰かに悪口をされると、彼等はおかしい程ムキになって弁護した。三井に勤めている社員が、他のどの会社に勤めている社員の前でも一つのキン恃(じ)をもっている。そういう社員は従って決して三井を裏切るようなことをしない。「H・S」の専務はそのことを知っていたのだ。
 伝令が来た。幼年工を使ってよこした。
 ――来たよ。シャンがいるよ。
 ――キイ公、聞いたか。シャンがいるとよ。
 ――どれ、俺も敵状視察と行ってくるかな。
 同じパッキングにいる温(おとな)しい女工が、浮かない顔をしていた。
 ――ね、君ちゃん、私いやだわ。女学校なら、小学校のとき一緒の人がいるんだもの。
 ――構うもんかい!
 お君は男のような云い方をした。
 ――こっちへ来たら、その間だけ便所へ行ってるわ、頼んで。――本当に、どんな気で他人の働いてるのを見に来るんだか。
 ――何が恥かしいッて。お嬢さん面へ空罐でも打(ぶ)ッつけてやればいゝんだ。動物園と間違ってやがる。
 ――よオ! よオ!
 ――何がよオだい。働いた金でのお嬢さん面なら、文句は云わない。何んだい!
 ――へえ、キイ公も偉くなったな。どうだい、今晩活動をおごるぞ。行かないか。月形竜之介演ずるところの、何んだけ、斬人斬馬の剣か。人触るれば人を斬り、馬触るれば馬を斬る! 来いッ、参るぞオ――だ。行かないか。
 ――たまには、このお君さんにも約束があるんでね。
 ――キイ公めっきり切れるようになったな。
 お君は今晩「仕事」のことで、森本と会わなければならなかった。――
 階段を上ってくる沢山の足音がした。
 ――さア、来たぞ□

          十一

 その昼、森本は笠原を誘って、会社横の綺麗(きれい)に刈り込んだ芝生に長々とのびた。――彼はこういう機会を何時でも利用しなければならなかった。笠原は工場長の助手をしていた。甲種商業学校出で、マルクスのものなども少しは読んでいるらしかった。
 そこからは、事務所の前で、ワイシャツの社員がキャッチボールをやっているのが見えた。力一杯なげたボールがミットに入るたびに、真昼のもの憂い空気に、何かゞ筒抜けていくような心よい響きをたてた。側に立っていた女事務員が、受け損じると、手を拍(う)ってひやかした。
 が、工場の日陰の方には、子供が負ぶってきた乳飲子を立膝の上にのせて、年増の女工が胸をはだけていた。それが四五組あった。
 森本は青い空をみていた。仰向けになると、空は殊更に青かった。――その時、胸にゲブゲブッと来た。森本は口の中でそれを噛(か)み直した。
 ――オイ!
 側にいた笠原が頭だけをムックリ挙げて、森本を見た。
 ――……? 反芻(はんすう)か? 嫌な奴だな。
 彼は極り悪げにニヤ/\した。
 森本が会社のことを色々きくのは笠原からだった。
 会社は今「産業の合理化」について、非常に綿密な調べ方をしていた。然し合理化の政策それ自体には大した問題があるのではなくて、その政策をどのような方法で実行に移すかということ――つまり職工たちに分らないように、憤激を買わないようにするには、どうすればいゝか、その事で頭を使っていた。
「H・S」では、新たに採用する職工は必ず現に勤務している職工の親や兄弟か……でなければならなかった。専務は工場の一大家族主義化を考えていた。――然しその本当の意味は、どの職工もお互いが勝手なことが出来ないように、眼に見えない「責任上の連繋(れんけい)」を作って置くことにあった。それは更に、賃銀雇傭という冷たい物質的関係以外に、会社のその一家に対する「恩恵」とも見れた。然し何よりストライキ除けになるのだった。で、今合理化の政策を施行しようとしている場合、これが役立つことになるわけだった。
 会社は更に市内に溢れている失業労働者やすぐ眼の前で動物線以下の労働を強いられている半自由労働者――浜人足たちのことを、たゞそれッ切りのことゝして見てはいなかった。そういう問題が深刻になって来れば来るほど、それが又「Yのフォード」である「H・S」の職工たちにもデリケートな反映を示してくるということを考えていた。――そういう一方の「劣悪な条件」を必要な時に、必要な程度にチク/\と暗示をきかして、職工たちに強いことが云えないようにする。――「H・S」はだから、イザと云えば、そういう強味を持っていた。
 合理化の一つの条件として、例えば労働時間の延長を断行しようとする場合、それが職工たちの反感を真正面(まとも)に買うことは分り切っている。然し、軍需品を作るS市の「製麻会社」や、M市の「製鋼所」などでは、それが単なる「営利事業」でなくて、重大な「国家的義務」であるという風に喧伝して、安々と延長出来た例があった。――「抜け道は何処にでもある。」だから、その工場のそれ/″\の特殊性を巧妙につかまえれば、案外うまく行くわけだった。――「H・S」もそうだった。

自慢じゃ御座んせぬ
 製罐工場の女工さんは
露領カムチャツカの寒空に
 命もとでの罐詰仕事
無くちゃならない罐つくる。

羨ましいぞえ
 製罐工場の女工さんは
一度港出て罐詰になって
 帰りゃ国を富まして身を肥やす
無くちゃならない罐つくる。

自慢じゃ御座んせぬ
 製罐工場の女工さんは
怠けられようか会社のために
 油断出来ようかみ国のために
命もとでの仕事に済まぬ。
(「H・S会社」発行「キャン・クラブ」所載。#crlf#)

 そういう歌や文章が投稿されてくると、会社は殊更に「キャン・クラブ」で優遇した。又、会社がこっそり誰かに作らせて、それを載せることさえした。
「H・S会社」はカムサツカに五千八百万罐、蟹工船に七百八十万罐、千島、北海道、樺太に九百八十万罐移出していた。割合(パーセント)にして、カムサツカは圧倒的だった。
 笠原は工場長のもとで「科学的管理法(サエンテフィック・マネージメント)」や「テイラー・システム」を読ませられたり、色々な統計を作らされるので、会社の計画を具体的に知ることが出来た。日本ばかりでなく、世界の賃銀の高低を方眼紙にひかされた。――世界的に云って、名目賃銀は降っていたし、生活必需品の価格と比較してみると、実質賃銀としても矢張り下降を辿っている。「H・S」だけが何時迄もその例外である筈がなかった。又、生産力の強度化を計るために、現在行われている機械組織がモット分業化され、賃銀の高い熟練工を使わずに、婦女子で間に合わすことが出来ないか、コンヴェイヤーがもっと何処ッかへ利用出来ないか、まだ労働者が「油を売ったり」「息を継ぐ」暇があるのではないか、箇払賃銀にしたらどうか……。職工たちがせゝッこましい工場の中のことで、頭をつッこんでグズ/\しているまに、彼等は「世界」と歩調を合せて、その方策を進めていた。
「H・S工場」の五カ年の統計をとってみると、生産高が増加しているのに、労働者の数は減っている。これは二つの意味を持っていた。――一つは今迄以上に労働者が搾(しぼ)られたと云うこと、一つはそれだけが失業者として、街頭におッぽり出されているわけである。コンヴェイヤーが完備してから、「運搬工」や「下働人夫」が特に目立って減った。熟練工、不熟練工との人数の開きも賃銀の開きも、ずッと減っている。驚くべきことは、何時のまにか「女工」の増加したことで、更に女工が増加した頃から、工場一般の賃銀が眼に見えない位ずつ低下していた。――工場長は、女を使うと、賃銀ばかりの点でなく、労働組合のような組織に入ることもなく、抵抗力が弱いから無理がきく、と云っていた。
 然しこれ等のことは、どれもたゞ「能率増進」とか「工場管理法」の徹底とか云ってもいゝ位のことで、「産業の合理化」という大きな掛声のホンの内輪な一部分でしかなかった。――「産業の合理化」は本当の目的を別なところに持っていた。それは「企業の集中化」という言葉で云われている。中や小のゴチャ/\した商工業を整理して、大きな奴を益々大きくし、その数を益々少なくして行こうというのが、その意図だった。
 で、その窮極の目的は、残された収益性に富む大企業をして安々と独占の甘い汁を吸わせるところにあった。そして、その裏にいて、この「産業の合理化」の糸を実際に操(あやつ)っているものは「銀行」だった。
 例えば銀行が沢山の鉄工業者に多大の貸出しをしている場合、自分の利潤から云っても、それ等のもの相互間に競争のあることは望ましいことではない。だから銀行は企業間の競争を出来るだけ制限し、廃止することを利益であると考える。こういう時、銀行はその必要から、又自分が債権者であるという力から、それ等の同種産業者間に協定と合同を策して、打って一丸とし、本来ならば未だ競争時代にある経済的発展段階を独占的地位に導く作用を営むのだ。――合理化の政策は明かに「大金融資本家」の利益に追随していた。
 毎月三田銀行へ提出する「業務報告」を書かせられている笠原は、資本関係としての「銀行と会社」というものが、どんな関係で結びつけられているか知っていた。――「H・S工場」の監督権も、支配、統制権もみんな三田銀行が握っていること、営業成績のことで、よく会社へ文句がくること、専務が殆んど三田銀行へ日参していること、誇張して云えば、専務は丁度逆に三田銀行から「H・S」へ来ている出張員のようなものであること……。こういう関係は、いずれ面白いことになりそうだ……笠原がそんなことを話した。森本はだん/\青空を見ていなかった。
 産業の合理化は更に購買と販売の方にもあらわれた。資本家同志で「共同購入」や「共同販売」の組合を作って、原料価格と販売価格の「統制」をする。そうすれば、彼等は一方では労働者を犠牲にして剰余価値をグッと殖(ふ)やすことが出来ると同時に、こゝでは価格が「保証」されるわけだから、二重に利潤をあげることが出来るのだった。彼等の独占的な価格協定のために、安い品物を買えずに苦しむのは誰か? 国民の大多数をしめている労働者だった。
 ――要らなくなったゴミ/\した工場は閉鎖される。労働者はドシ/\街頭におッぽり出される。幸いに首のつながっている労働者は、ます/\科学的に、少しの無駄もなく搾(しぼ)られる。他人事ではないさ。――こういう無慈悲な摩擦(まさつ)を伴いながら、資本主義というものは大きな社会化された組織・独占の段階に進んで行くものなのだ。だから、産業の合理化というものは、どの一項を取り出してきても、結局資本主義を最後の段階まで発達させ、社会主義革命に都合のいゝ条件を作るものだけれども、又どの一項をとってみても、皆結局は「労働者」にその犠牲を強いて行われるものなんだ。――「H・S」だって今に……なア……。
 笠原は眼をまぶしく細めて、森本を見た。
 ――「Yのフォード」も何時迄も「フォード」で居られなくなるんでないか、と思うがな。

          十二

 始業のボウで、二人が跳ね上った。笠原はズボンをバタ/\と払って、事務所の方へ走って行った。
 気槌(スチーム・ハンマー)のドズッ、ドズッという地ゆるぎが足裏をくすぐったく揺すった。薄暗い職場の入口で、内に入ろうとして、森本がひょいと窓からゴルフへ行く専務の姿を見て、足をよどました。給仕にステッキのサックを背負わしていた。拍子に、中から出てきた佐伯と身体を打ち当てゝしまった。
 ――失敬ッ!
 ――ひょっとこ奴(め)!
 佐伯? 何んのために、こっちへやって来やがったんだ、――森本は臭い奴だと思った。
 ――何んだ、手前の眼カスベか鰈(かれい)か?
 ――何云ってるんだ。窓の外でも見ろ!
 佐伯はチラッとそれを見ると、イヤな顔をした。
 ――あの格好を見れ。「昭和の花咲爺」でないか。ゴルフってあんな恰好しないと出来ないんか。
 ――フン、どうかな……。
 あやふやな受け方をした。佐伯には痛いところだった。
 ――実はね、安部磯雄が今度遊説に来るんだよ。……それを機会に、市内の講演が終ってから、一時間ほど工場でもやってもらうことにしたいと思ってるんだ。これは専務も賛成なんだが……。
 ――主催は? ……君等が呼ぶのか?
 ――冗談じゃない、専務だよ。
 ――専務が□
 森本が薄く笑った。
 ――へえ、馬鹿に大胆なことをするもんだな。
 ――偉いもんだよ。
 佐伯は森本の意味が分らず、き真面目に云った。
 専務が「社民党」から市会議員に出るという噂を森本がきいたことがあった。そんな話を持ち出してきたのも矢張り佐伯だった。その時、森本は、
 ――じゃ、社民党ッて誰の党なんだ。「労働者の党」ではないのか。
 と云った。
 佐伯が顔色を動かした。そして
 ――共産党ではないさ。
 と云ったことがある。
 会社では、職工たちが左翼の労働組合に走ることを避けるために、内々佐伯たちを援助して、工場の中で少し危険と見られている職工を「労働総同盟」に加入させることをしていた。それは森本たちも知っている。――然しその策略は逆に「H・S」の専務は実に自由主義的だとか、職工に理解があって、労働組合にワザ/\加入さえさせているとか――そういうことで巧妙に隠されていた。それで働いている多くの職工たちは、その関係を誰も知っていなかった。工場の重だった分子が、仮りに「社民系」で固められたとすれば、およそ「工場」の中で、労働者にどんな不利な、酷な事が起ろうと、それはそのまゝ通ってしまう。分りきったことだった。――森本は其処に大きな底意を感ずることが出来る。会社がダン/\職工たちに対して、積極的な態度をもってやってきている。それに対する何かの用意ではないか? ――彼はます/\その重大なことが近付いていることを感じた。
 彼はまだ「工場細胞」というものゝ任務を、それと具体的には知っていない。然し彼は今までの長い工場生活の経験と、この頃のようやく分りかけてきたその色々な機構(しくみ)のうちに、自分の位置を知ることが出来るように思った。――
 ――で、この機会に、工場の中にも社民党の基礎を作ろうと思うんだ。……仕上場の方にも一通りは云ってきた。――その積りで頼むぜ。
 佐伯はそれだけを云うと、トロッコ道を走って行った。走って行きながら、ブリキを積んだトロッコを押している女工の尻に後から手をやった。それがこっちから見えた。女がキャッ! とはね上って、佐伯の背を殴(な)ぐりつけた。
 ――ぺ、ぺ、ぺ!
 彼はおどけた恰好に腰を振って、曲がって行った。
 佐伯は労働者街のT町で、「中心会」という青年団式の会を作っていた。その七分までが「H・S」の職工だった。彼は柔道が出来るので、その会は半分その目的を持っていた。道場もあった。「H・S会社」から幾分補助を貰っているらしかった。何処かにストライキが起ると、「一般市民の利益のために」争議の邪魔をした。精神修養、心神錬磨の名をかりて、明かにストライキ破りの「暴力団」を養成していたのだ。会社で「武道大会」があると、その仲間が中心になった。
 森本は職場へ下りて行きながら、自分の仕事の段取と目標が眼の前に、ハッキリしてくるのを感じた。

 その日家へ帰ってくると、河田の持って来た新聞包みのパンフレットが机にのっていた。歯車の装幀(そうてい)のある四五十頁のものだった。
・「工場新聞」
・「工場細胞の任務とその活動」
 表紙に鉛筆で「すぐ読むこと」と、河田の手で走り書してあった。

          十三

 ――女が入るようになると、気をつけなければならないな。運動を変にしてしまうことがあるから。
 河田がよく云った。――で、森本もお君と会うとき、その覚悟をしっかり握っていた。
「石切山」に待ってゝもらって、それから歩きながら話した。
 胸を張った、そり身のお君は男のような歩き方をした。工場で忙がしい仕事を一日中立って働いている女工たちは、日本の「女らしい」歩き方を忘れてしまっていた。――もう少し合理的に働かせると、日本の女で洋服の一番似合うのは女工かも知れない、アナアキストの武林が、武林らしいことを云っていた。
 工場では森本は女工にフザケたり、笑談口も自由にきけた。然し、こう二人になると、彼は仕事のことでも仲々云えなかった。一寸云うと、まずく吃(ども)った。淫売を買いなれていることとは、すっかり勝手がちがっていた。小路をつッ切って、明るい通りを横切らなければならないとき、彼はおかしい程周章(あわ)てた。お君が後(うしろ)で、クッ、クッと笑った。――彼は一人先きにドンドン小走りに横切ってしまうと、向い小路で女を待った。お君は落付いて胸を張り、洋装の人が和服を着たときのように、着物の裾をパッ、パッとはじいて、――眼だけが森本の方を見て笑っている――近付いて来た。肩を並べて歩きながら、
 ――森本さん温しいのね。
 とお君が云った。
 ――あ、汗が出るよ。
 ――男ッてそんなものだろうか。どうかねえ……?
 薄い浴衣(ゆかた)は円く、むっつりした女の身体の線をそのまゝ見せていた。時々肩と肩がふれた。森本はギョッとして肩をひいた。
 ――のどが乾いた。冷たいラムネでも飲みたい。何処かで休んで、話しない?
 少し行くと、氷水(こおり)店があった。硝子のすだれが凉しい音をたてゝ揺れていた。小さい築山におもちゃの噴水が夢のように、水をはね上げていた。セメントで無器用に造った池の中に、金魚が二三匹赤い背を見せた。
 ――おじさん、冷たいラムネ。あんたは?
 ――氷水にする。
 ――そ。おじさん、それから氷水一ツ。
 森本を引きずッて、テキパキとものをきめて行くらしい女だと分ると、彼はそれは充分喜んでいゝと思った。彼はこれからやっていく仕事に、予想していなかった「張り」を覚えた。
 ――で、ねえ……。
 のど仏をゴクッ、ゴクッといわせて、一息にラムネを飲んでしまうと、又女が先を切ってきた。
 ――途中あんたから色々きいたことね、でも私ちがうと思うの。……会社が自分でウマク宣伝してるだけのことよ。女工さんは矢張り女工さん。一体女工さんの日給いくらだと思ってるの。それだけで直ぐ分ることよ。
 お君は友達から聞いた「芳ちゃん」のことを、名前を云わず彼に話してきかせた。
 ――友達はその女が不仕鱈(ふしだら)だという。でも不仕鱈ならお金を貰う筈がないでしょう。悪いのは一家四人を養って行かなければならない女の人じゃなくて――一日六十銭よりくれない会社じゃない? ――あんただって知ってるでしょう。会社をやめて、バアーの女給さんになったり、たまには白首(ごけ)になったりする女工さんがあるのを。それはね、会社をやめて、それからそうなったんでなくて、会社のお金だけではとてもやって行けないので、始めッからそうなるために会社をやめるのよ。――会社の人たちはそれを逆に、あいつは堕落してそうなったとか、会社にちアんと勤めていればよかったのにと云いますが、ゴマかしも、ゴマかし!
 森本は驚いて女を見た。正しいことを、しかもこのような鋭さで云う女! それが女工である!
 ――女工なんて惨めなものよ。だから、可哀相に、話していることってば、月何千円入る映画女優のこととか、女給や芸者さんのことばかり。
 ――そうかな。
 ――それから一銭二銭の日給の愚痴(ぐち)。「工場委員会」なんて何んの役にも立ったためしもないけれども、それにさえ女工を無視してるでしょう。
 ――二人か出てるさ。
 ――あれ傍聴よ。それも、デクの棒みたいに立ってる発言権なしのね。
 ――ふウん。
 ――氷水お代り貰わない?
 ――ん。
 ――あんた仕上場で、私たちの倍以上も貰ってるんだから、おごるんでしょう。
 お君は明るく笑った。並びのいゝ白い歯がハッキリ見えた。森本はお君の屈託のない自由さから、だんだん肩のコリがとれてくるのを覚えた。お君はよく「――だけのこと」「――という口吻(こうふん)。」それだけで切ってしまったり、受け答いに「そ」「うん」そんな云い方をした。それだけでも、森本が今迄女というものについて考えていたことゝ凡(およ)そちがっていた。――こういうところが、皆今迄の日本の女たちが考えもしなかった工場の中の生活から来ているのではないか、と思った。
 ――会社を離れて、お互いに話してみるとよッく分るの。皆ブツ/\よ。あんた「フォード」だからッて悲観してるようだけれども、私各係に一人二人の仲間は作れるッて気がしてるの。――女ッて……
 お君がクスッと笑った。
 ――女ッて妙なものよ。一たん方向だけきまって動き出すと、男よりやってしまうものよ。変形ヒステリーかも知れないわね。
 ――変形ヒステリーはよかった。
 森本も笑った。
 彼は河田からきいた「方法」を細かくお君に話し出した。するとお君はお君らしくないほどの用心深い、真実な面持で一々それをきいた。
 ――やりますわ。みんなで励げみ合ってやりましょう!
 お君は片方の頬だけを赤くした顔をあげた。
 氷水屋を出て少し行くと、鉄道の踏切だった。行手を柵が静かに下りてきた。なまぬるく風を煽(あお)って、地響をたてながら、明るい窓を一列にもった客車が通り過ぎて行った。汽罐(ボイラー)のほとぼりが後にのこった。――ペンキを塗った白い柵が闇に浮かんで、静かに上った。向いから、澱んでいた五六人がすれ違った。その顔が一つ一つ皆こっちを向いた。
 ――へえ、シャンだな。
 森本はひやりとした。それに「恋人同志」に見られているのだと思うと、カアッと顔が赤くなった。
 ――何云ってるんだ。
 お君が云いかえした。
 彼女は歩きながら、工場のことを話した。……顔が変なために誰にも相手にされず、それに長い間の無味乾燥な仕事のために、中性のようになった年増の女工は小金をためているとか、決して他の女工さんの仲間入りをしないとか、顔の綺麗な女工は給料の上りが早いとか、一人の職工に二人の女工さんが惚れたたゝめに、一人が失恋してしまった、ところが失恋した方の女工さんが、他の誰かと結婚すると、早速「水もしたゝる」ような赤い手柄の丸髷(まるまげ)を結って、工場へやって来る、そしてこれ見よとばかりに一廻りして行くとか、日給を上げて貰うために、職長(おやじ)と活動写真を見に行って帰り「そばや」に寄るものがあるとか、社員が女工のお腹を大きくさせて置きながら、その女工が男工にふざけられているところを見付けると、その男と変だろうと、突ッぱねたことがあるとか……。
 坂になっていて、降りつくすと波止場近くに出た。凉み客が港の灯の見える桟橋近くで、ブラブラしていた。
 ――林檎、夏蜜柑、梨子(なし)は如何(いかが)ですか。
 道端の物売りがかすれた声で呼んだ。
 ――林檎喰べたいな。
 独言のように云って、お君が寄って行った。
 他の女工と同じように、お君も外へ出ると、買い喰いが好きだった。――お君は歩きながら、袂(たもと)で真赤な林檎の皮をツヤ/\にこすると、そのまゝ皮の上からカシュッとかぶりついた。
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