工場細胞
著者名:小林多喜二
彼は澱んだ空気の中に、背を板壁に寄らせたまゝ坐っていた。――色々な考えが、次ぎから、次ぎから頭をかすめて行く。然し不思議に恐怖が来なかった。ただ頭だけが冴(さ)えてくる一方だった。
明け方が近かった。然しまだ明けなかった。切れ/″\に、それでも、お君のことを夢に見たと思った。寒かった。彼は顎を胸に折りこんで、背を円るめた。
コツ、コツ……コツ、コツ、コツ……。
冴えていた彼の耳が、何処から来るとも知れないその音を捉えた。耳をそばだてると、その時それが途絶えた。彼は息をひそめた。耳がジーンとなっていた。ものゝすべてが凍(い)てついていた。
コツ、コツ、コツ……コツ……コツ……。
彼は耳を板壁にあてた。――と、それは隣りからだった。然し何の音か分らなかった。彼は反射的に表へ気を配った。それから、ソッと拳をあて、低く、こっちから、コツ、コツ、コツと三つほど打ちかえしてみた。――向うの音がとまった。こんな事をして、だがよかったろうか、森本はフトぎょっとした。しばらく両方がだまった。
コツ、コツ、コツ……。
又向うが打ち出した。が、今度はその打つ場所がちがっていた。彼はその方へ寄って行った。すると、其処から小さい光の束が洩(も)れていた。何処の留置場でもよくあるように、前に入れられた何人かによって、少しずつ開けられたらしく、そこだけ小さく板がはげて、穴になっていた。――いゝことには、そこは表からは奥になっていた。彼は思いきって、その同じ場所をコツ、コツ、コツと、打ってみた。
低い声がそこから洩れてきた!
彼はソロ/\と身体をずらして穴の丁度、そこへ耳をあてた。
――ダ…………。
はっきりしなかった。何度も耳をあてかえ直した。
――ダレダ……。
「誰だ?」――然し、そういうもの自身が一体誰だろう。彼は口を穴に持って行った。
――誰だ?
ときいた。そして、直ぐ耳をあてた。相手はだまったらしかったが、少ォし大きな声で、
――ダレダ?
と繰りかえした。
アッ! その声は河田ではないか! 彼は急に血が騒ぎ出した。表の方へ気を配ってから、口をあてた。
――河田か?
相手は確かに吃驚(びっくり)したらしかった。
――ダレダ?
――森!
――モリカ?
相手も分ったのだ。彼は全身の神経を耳に持って行った。
――ゲン……
――げん?
――ゲンキカ。
――あ、元気か。元気だ。
…………。
何を云ったか、分らなかった。
――分らない、もう少し大きく!
――コーバ……。
――工場、ん。
――ダイジョウブカ。
――ん、うまく行った。
――アトハ……。
――後は?
――ドウダ。
――大丈夫だ。
――ヘ…………。
――ん?
――ヘコタレルナ。
――ん!
――イツ……。
――何時?
――イヤ、イツデモ。
――何時でも。
――ゲンキで……………。
――分った!
彼は、この不自由に話されているうちにも、いつもの河田を感じた。フウッと胸が熱くなった。彼はのどをゴクッとならした。
――ダレカ……、
――ん。
――ナカマデ……。
――ん? 中迄?
彼は一生懸命に耳をあてた。
――イヤ、ナカマ。
――あ、仲間。
――ウ……ラ……。
――う……ら……。
河田の言葉がハッキリしなかった。が彼はアッ! と思った。
――裏切った?
思わず大きな声を出した。
――ン。
――本当か?
――ホントウ。
知らないうちに握りしめていた彼の掌は、ネト/\と汗ばんでいた。
――ワカル……。
――ん、分る。
――ハズノナイ……。
――ん? ん?
――ワカルハズノナイコトマデ……。
――分る筈の……、ん。
――ミンナ……。
――皆、
――ワカッタ。
――……!
――ジケンハ……。
――事件? ん。
――ジケンハ……。
――ん、分った。
――キョウサントウ!
――矢張り!
矢張りか、と思った。彼は胴締めをされたような「胸苦しさ」を感じた。
――サイ……。
――ん?
――サイゴマデ……。
――ん。
――ガンバレ。
――分った!
――アノ……。
その時、彼はギョッとして、身体を跳ね起した。廊下を歩いてくる靴音を聞いたと思ったからだ。
そしてそれは本当に靴音だった。――何か騒がしい事が、向う端で急に起ったらしかった。
形式だけの検束をうけて、留置場の中で特別の待遇をうけて居た鈴木が、この明け方、首を縊(くく)っていたのを、看守の巡査が発見したのだった。
* *
次の日「H・S工場」の労働者たちは、予期していたように「工場委員会」の自主化を獲得した。たとえ、そのなかにはどんな専務の第二弾の魂胆が含められているとしても。――然し彼等は、次にくる今度こそは本物の闘争にたえるために「足場」を堅固に築いて置かなければならなかった。森本の後は残されていた。――
初めて二人を結びつけた握手が、別れるためのものだったことをお君は思った。それを考えると、胸が苦しくなった。――然し彼が帰ってくる迄、自分たちのして置かなければならない仕事をお君は知っていた。
お君は工場の帰り、お芳とそのことを話し合った。――お芳はそっと眼をぬぐった。
――泣くんじゃない! 泣いちゃ駄目(だめ)!
お君は薄い彼女の肩に手をかけた。お芳は河田のことを考えていた。
春が近かった。――ザラメのような雪が、足元でサラッ、サラッとなった。
(一九三〇・二・二四)
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