工場細胞
著者名:小林多喜二
彼は専務や工場長に、而も彼等を三尺と離れない前において、ものを云うのは初めてだった。彼は赤くなって、何度もドギマギした。普段から、専務の顔さえも碌(ろく)に見れない隅ッこで、鉄屑のように働いている森本だったのだ。それに顔をつき合わせると、専務は案外な威厳を持っていた。――だがそう云われて、この「鉄屑のような」職工に、工場長は言葉をかえせなかった。
――まず「確答」だ!
――要求を承諾して貰うんだ! それからだ!
食堂をうずめている職工のなかゝら、誰かそれを叫んだ。上長に対して、そんな云い方は、この工場としては全くめずらしかった。こういう風に一つに集まると、彼等は無意識のうちにその力を頼んでいた。そして彼等は全く別人のようなことを平気で云ってのけた。
工場長とそれに森本も同時に眼をみはった。誰が何時の間に職工をこんな風に育てたのか?
――直ぐこゝでは無理でしょう。余裕を貰わなければなりますまい。
初めて専務は口を開いた。この言葉使いは「ナッパ服」とゝもに「H・S」の誇りだったのだ。
――余裕? 然しこの少しの無理のない決議はこれ以上どうにもならないのですから。
――然し、こっちの……。
森本はくさびを打ち込まなければならない。
――こんな困難な、どんなことになるか分らない時に、その日暮しゝか出来ない我々は、せめてこの機関だけを死守しなければならない所へ追いつめられているわけです。さっきから何人も何人もの職工がこゝの壇へ飛び上って、この要求が通らなかったら、全員のストライキに噛じりついても、獲得しなけア駄目だと云ってるのです。我々は勿論ストライキなど、望んでるわけではありません……。
ストライキ! 「今」この言葉が専務と工場長にこたえない筈がないのだ。カムチャツカの六千六百万罐の註文!
――……。
職工たちはなりをひそめた。
森本はもう一つ重要な先手を打たなければならなかった。
――勿論「金菱」のことでは、専務自身としても色々と一緒に御相談したいこともあることゝ思いますが……。
専務は急に顔を挙げた。森本は思わずニヤリ! とした。然し、彼は無遠慮にその手元へ切り込んだ。
――然しそれがすべて、この要求書が承諾され、規約の中にハッキリそうと改正されてからの事にしたら、お互いに相談が出来ると思われます。……でなかったら私たちの方が全く可哀相です。
――………………。
専務はさっきのさっき迄、この「労働者大会」を自分のために充分利用することを考えていた。自分に対する全職工の支持を決議させて「金菱」が新しく重役を入れることに対して全職工挙(こぞ)って反対させる。各自が醵金(きょきん)して、職工と社員の「上京委員」を編成し、関係筋を歴訪、運動させる。――殊に、今度のことが自分一個人の問題でないことが好都合だった。その証拠には、職工たちでさえ自発的に集会を持つところまで来ているではないか。だから、専務は、職長から職工の集会のことを聞いたとき、彼等の周章てゝいるのとは反対に、かえってほくそ笑んだのだ。こう意気が合ってうまく行くもんでない。と。でなかったら、専務は直ぐにも警察へ電話をかけるがよかった。それをしなかったではないか。――が、今専務は明かに、職工の自分に対する気持を飛んでもなく誤算していたことに気付いた。又、こんな形でやって来られるとは思いもよらなかった。誰か後にいる! 然し「Yのフォード」はこうも脆(もろ)いものか。労働者って不思議なものだ。――してやられたのだ! そして、もう遅かった!
――じゃ、二三日中……。
専務は自分でもその惨めな弱々しさに気付いた。
――二三日中! 然し「金菱」は二三日待ってくれるわけはありません。
――……。
森本は勝敗を一挙に決してしまわなければならない最後の「詰め手」をさしているのだ!
――……。
五百の労働者の耳は、専務のたった一つの言葉を待っている。専務の味方をするものも、飛んでもない会合に出てしまったと思う職工たちも、こゝへくるともう同じだった。五百人の労働者はたった一つの呼吸しかしていなかった。
――………………。
誰か一番後で、カタッと靴の踵(かかと)を下した音が聞えた。
――明日の時間後まで……。
波のようなどよめきが起ったと思った。次の瞬間には、食堂をうちから跳ね上げるような轟音になって「万歳」が叫ばれた。
彼はたゞ、眼に涙を一杯ためて、手をガッシリと胸に握り合せ、彼の方を見つめているお君を、人たちの肩越しにチラリと見たと思った……。
二十一
河田がどんなに待っているだろう。あの「二階」で河田は居ても立っても居られないで、待っているだろう。――だが、森本は一体今日のこの素晴しい出来栄えを、どういう風に、どこから話したらいゝか分らなかった。お君も同じだった。
二人は河田に情勢報告をし、専務の返答如何による対策をきめ、すぐ帰って、仲間の家で開かれる細胞集会に出なければならなかった。「二階」に上る前には、必ず二度程家の前を通って、様子を見てからにされていた。――二人は道の反対側の暗いところを通りながら、二階をみた。電燈はついていた。別に人影はなかった。下の洋品店に、顔見知りのおかみさんが帳場に坐りながら、表を見ていた。――ひょいと、こっちが分ったらしく、顔が動いたようだった。
と、おかみさんは眼の前の煙でも払うように、手を振った。それは「駄目々々」という合図らしかった。
――変だな。
立ち止っていることが出来ないので、そのまゝ通り過ぎた。少し行って、又同じところを戻った。四囲(あたり)に注意しなければならなかった。
――ね、君ちゃん、お客さんのふりをして、チリ紙でも買って来てくれ。
――そうね。変んだ。あすこが分ることなんて絶対にない筈だわ。
お君は小走りに明るい洋品店の中に入って行った。森本は少し行った空地の塀で待っていた。――一寸して、お君の店を出てくる姿が見えた。
――どうした?
――大変らしい。
お君は息をきっていた。
――おかみさんが声を出して云えないところを見ると、中に張り込んでいるらしいわ。お釣りを寄こすとき、私を早く出ろ、早く出ろという風に押すのよ。――
悪寒(おかん)が彼の背筋をザアーッ、と走った。明るかったら、彼の顔は白ちゃけた鈍い土のように変ったのを、お君が見たかも知れなかった。それは専務をとッちめた彼らしくもなかった。
――フム、何んだろう。ストライキのことかな。彼の舌が不覚に粘った。
――何んにしても、この辺危いわ。
彼等は明るい大通りをよけた。集会のある仲間の家に一寸顔を出した。心配すると思って、そのことは云わなかった。二三人来ていた。皆興奮して、元気よく燥(はし)ゃいでいた。――彼は自分の家が気になった。そして咽喉がすぐ乾いた。彼は二度も水を飲むために台所へ立った。
彼は出直してくることにして外へ出た。
――顔色が悪いな。大切なときだから用心してくれ。
仲間が出しなにそう云った。
お君も一緒だった。彼は全く何時もの彼らしくなく何も云わずに、そのまゝ歩いて行った。
――鈴木さんて変な人。
お君が何か考えていたらしく、フトそう云った。それに何時迄も、黙って歩いているのに堪えられないという風だった。
――あの人変なことを云うのよ。……お前は河田にも……キッスをさせたんだから、俺にだっていゝだろうッて! そして酒に酔払って、眼をすえてるの。それから、とてもあの人嫌になった。何か誤解してるらしいの。私に誤解され易いところがあるッて云うけれどもね。……私ねえ、この仕事をするようになってから、もとのような無駄(むだ)なこと、キッパリやめたのよ。第一そんな気がなくなったの、不思議よ。それに芳ちゃんの想いこがれている相手というのが、河田さんなんですもの。あの人まだ河田さんに云ってないらしいけど……。
彼はハッ! とした。自分でもおかしい程、ドギマギした。だが、本当だろうか? そう云えば、河田が、自分にはどん底の生活をしている可哀相な女がいる。それが自分のたった一人の女だ、と話したことがあった。
――鈴木さんに限らず、男ッて……。
お君がそう云って、――何時もの癖で、いたずらゝしく、クスッと笑った。
――あんたゞけはそれでも少ォし別よ……。
――それはね。
森本は自分でも変なハズミから、言葉をすべらした。然し、何んだか、今云わなければ、それがそれッ切りのような気がした。彼は恐ろしく真面目な、低い声を出した。
――それはね、君ちゃんを本当に……愛してるからさ!
「ま、おかしい! 何云ってるのさ、この男が!」――あの明るい、無遠慮に大きい笑い声が、この我ながら甘ッたるい、言葉を吹き飛ばしてしまうだろう、森本は云ってしまった瞬間、それに気付いて、カアッと赤くなった。――が、お君はフイに黙った。二人はそれっきり何も云わないで、撥(ばつ)の悪い気持のまゝ歩いて行った。
橋の上へ来たとき、彼が気付いた。――彼はお君を一寸先きに行って貰って、服のポケットを全部調べた。内ポケットの中から、四つに折った、折目がボロ/\になった薄いパンフレットが出た。河田から貰った焼き捨てなければならないものだった。彼はそれを充分に細かく幾つにも切って河に捨てた。闇の澱んでいる暗い河の表に、その紙片がクッキリと白く浮かんで、ひらひらと落ちて行った。時間を置いて、何回かにそれを分けた。――そうしているうちに、彼は落着いてくる自分を感じた。
お君は厚いショウ・ウインドウの硝子に身体を寄りかけたまゝ、彼を待っていた。彼は矢張り何も云わなかった。
別れるところへ来て、立ちどまった時、森本は始めて女の手を握って云った。
――元気を出して、もう一ふんばり、ふんばろう! 「Yのフォード」が俺たちの力で、ピタリと止まることもあるんだからな!
お君はうつむいたまゝ、彼の顔を見ないで、――握りかえしていた。
森本は家の戸を開けたとき、ハッ! とした。彼は然し何も見たわけではなかった、が、それはこんな時に、彼等だけが閃きのように持つ一つの直感だった。――ガラッと障子が開いた。見なれない背広が二人そこへ突ッ立った。――失敗(しま)ったと思った。彼には初めての経験だった。――だがこうなってしまった時、彼は不思議に落付きを失っていなかった。
――どなたです?
――フン。
背広の顔が皮肉にゆがんだ。
――本署のものだよ。
彼はだまって上へあがった。父はまだ帰っていないのか、居なかった。
――まア/\、お前!
母親は顔色をなくして、坐ったきりになっていた。待たしていた間、この可哀相な母親が背広にお茶を出したらしく、「南部せんべい」のお盆と湯呑茶碗(ゆのみちゃわん)が二つ並んでいた。それを見ると、彼は胸をつかれた。彼は次を云えないでいる母親に、
――何んでもないんだ。直ぐ帰るよ。
と云った。
彼は二人の背広にポケットというポケットを全部しらべられた。家の中はすっかり「家宅捜索」をうけて散らばっていた。
土間で靴の紐を結びながら、背のずんぐりした方が、
――こんな所に関係しているものがいようとは思わなかったよ。
と云った。
彼はその言葉の中に、当り前でない意味を聞きとった。彼は河田に云われたことを守っていた。今迄一度だって、彼等に顔を知られたことがなかった筈だ。河田でも云ったのだろうか。そんなことは絶対にない。とすれば――。彼は何かあったんだ、と思った。
母親は坐ったきりだった。彼は何か云えば、それッ切り泣けてしまうような気がした。
――行ってくるよ。
彼はそして連れて行かれた。
二十二
初めての臭い留置場は森本を寝らせなかった。そこは独房だった。
彼は澱んだ空気の中に、背を板壁に寄らせたまゝ坐っていた。――色々な考えが、次ぎから、次ぎから頭をかすめて行く。然し不思議に恐怖が来なかった。ただ頭だけが冴(さ)えてくる一方だった。
明け方が近かった。然しまだ明けなかった。切れ/″\に、それでも、お君のことを夢に見たと思った。寒かった。彼は顎を胸に折りこんで、背を円るめた。
コツ、コツ……コツ、コツ、コツ……。
冴えていた彼の耳が、何処から来るとも知れないその音を捉えた。耳をそばだてると、その時それが途絶えた。彼は息をひそめた。耳がジーンとなっていた。ものゝすべてが凍(い)てついていた。
コツ、コツ、コツ……コツ……コツ……。
彼は耳を板壁にあてた。――と、それは隣りからだった。然し何の音か分らなかった。彼は反射的に表へ気を配った。それから、ソッと拳をあて、低く、こっちから、コツ、コツ、コツと三つほど打ちかえしてみた。――向うの音がとまった。こんな事をして、だがよかったろうか、森本はフトぎょっとした。しばらく両方がだまった。
コツ、コツ、コツ……。
又向うが打ち出した。が、今度はその打つ場所がちがっていた。彼はその方へ寄って行った。すると、其処から小さい光の束が洩(も)れていた。何処の留置場でもよくあるように、前に入れられた何人かによって、少しずつ開けられたらしく、そこだけ小さく板がはげて、穴になっていた。――いゝことには、そこは表からは奥になっていた。彼は思いきって、その同じ場所をコツ、コツ、コツと、打ってみた。
低い声がそこから洩れてきた!
彼はソロ/\と身体をずらして穴の丁度、そこへ耳をあてた。
――ダ…………。
はっきりしなかった。何度も耳をあてかえ直した。
――ダレダ……。
「誰だ?」――然し、そういうもの自身が一体誰だろう。彼は口を穴に持って行った。
――誰だ?
ときいた。そして、直ぐ耳をあてた。相手はだまったらしかったが、少ォし大きな声で、
――ダレダ?
と繰りかえした。
アッ! その声は河田ではないか! 彼は急に血が騒ぎ出した。表の方へ気を配ってから、口をあてた。
――河田か?
相手は確かに吃驚(びっくり)したらしかった。
――ダレダ?
――森!
――モリカ?
相手も分ったのだ。彼は全身の神経を耳に持って行った。
――ゲン……
――げん?
――ゲンキカ。
――あ、元気か。元気だ。
…………。
何を云ったか、分らなかった。
――分らない、もう少し大きく!
――コーバ……。
――工場、ん。
――ダイジョウブカ。
――ん、うまく行った。
――アトハ……。
――後は?
――ドウダ。
――大丈夫だ。
――ヘ…………。
――ん?
――ヘコタレルナ。
――ん!
――イツ……。
――何時?
――イヤ、イツデモ。
――何時でも。
――ゲンキで……………。
――分った!
彼は、この不自由に話されているうちにも、いつもの河田を感じた。フウッと胸が熱くなった。彼はのどをゴクッとならした。
――ダレカ……、
――ん。
――ナカマデ……。
――ん? 中迄?
彼は一生懸命に耳をあてた。
――イヤ、ナカマ。
――あ、仲間。
――ウ……ラ……。
――う……ら……。
河田の言葉がハッキリしなかった。が彼はアッ! と思った。
――裏切った?
思わず大きな声を出した。
――ン。
――本当か?
――ホントウ。
知らないうちに握りしめていた彼の掌は、ネト/\と汗ばんでいた。
――ワカル……。
――ん、分る。
――ハズノナイ……。
――ん? ん?
――ワカルハズノナイコトマデ……。
――分る筈の……、ん。
――ミンナ……。
――皆、
――ワカッタ。
――……!
――ジケンハ……。
――事件? ん。
――ジケンハ……。
――ん、分った。
――キョウサントウ!
――矢張り!
矢張りか、と思った。彼は胴締めをされたような「胸苦しさ」を感じた。
――サイ……。
――ん?
――サイゴマデ……。
――ん。
――ガンバレ。
――分った!
――アノ……。
その時、彼はギョッとして、身体を跳ね起した。廊下を歩いてくる靴音を聞いたと思ったからだ。
そしてそれは本当に靴音だった。――何か騒がしい事が、向う端で急に起ったらしかった。
形式だけの検束をうけて、留置場の中で特別の待遇をうけて居た鈴木が、この明け方、首を縊(くく)っていたのを、看守の巡査が発見したのだった。
* *
次の日「H・S工場」の労働者たちは、予期していたように「工場委員会」の自主化を獲得した。たとえ、そのなかにはどんな専務の第二弾の魂胆が含められているとしても。――然し彼等は、次にくる今度こそは本物の闘争にたえるために「足場」を堅固に築いて置かなければならなかった。森本の後は残されていた。――
初めて二人を結びつけた握手が、別れるためのものだったことをお君は思った。それを考えると、胸が苦しくなった。――然し彼が帰ってくる迄、自分たちのして置かなければならない仕事をお君は知っていた。
お君は工場の帰り、お芳とそのことを話し合った。――お芳はそっと眼をぬぐった。
――泣くんじゃない! 泣いちゃ駄目(だめ)!
お君は薄い彼女の肩に手をかけた。お芳は河田のことを考えていた。
春が近かった。――ザラメのような雪が、足元でサラッ、サラッとなった。
(一九三〇・二・二四)
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