工場細胞
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著者名:小林多喜二 

 ――そうだな、一つ貰おうか……。
 ――一つ? 一つしか買わないんだもの。
 女は堪(こ)らえていたような笑い方をした。
 ――……人が悪いな。
 ――じゃ、こっち側を一噛(ひとかじ)りしない?
 女はもう一度袂で林檎を拭(ぬぐ)うと、彼の眼の前につき出した。
 彼はてれてしまった。
 ――じゃ、こっち?
 女は悪戯らしく、自分の噛った方をくるりと向けた。
 ――……。
 ――元気がないでしょう。じゃ、矢張りこっちを一噛り。
 彼は仕方なく臆病に一噛りだけした。
 其処から「H・S工場」が見えた。灰色の大きな図体は鳴りをひそめた「戦闘艦」が舫(もや)っているように見えた。
 この初めての夜は、森本をとらえてしまった。彼はひょっとすると、お君のことを考えていた。彼はそれに別な「張り」を仕事に覚えた。それがお君から来ているのだと分ると、彼はうしろめいた気がした。――そして、もう自分は、河田の注意していることに陥入りかけているのではないか、とおもった。

          十四

 どれもこれもロクな職工はいない、みんなマヒした奴ばかりだとか――又彼等も外からはそう見えたということは、本当ではなかった。「フォード」と云っても、矢張り労働者は労働者位しかの待遇を受けていないのだ。たゞ、どっちを向いても底の知れない不景気で動きがとれないので、とにかくしがみついていなければならなかったし、それに彼等は矢張り「Yのフォード」だという自己錯覚の阿片にも少しは落とされていた。
 ――会社を離れて話してみると、皆ブツ、ブツよ。
 お君が云ったことがある。これは当っていた。たゞ、いくらそんな工合でも、彼等は誰かゞ口火を切ってくれる迄は待っているものだ、ということだった。
 森本は今迄は親しい仲間と会っても、工場の問題とか、政治上の話などをしゃべったことがなかった。それは仲のよかった石川が組合に入るようになってからだった。それまでの彼は見習からタヽキ上げられた、女工の尻を追ったり、白首を買ったり、女の話しかしない金属工でしかなかった。――然し、今度彼がその変った意識で以前のその仲間に話しかけると、不思議なことには、その同じ猥談(わいだん)組の仲間とは思われない答を持ってやってきた。それを見ても、今迄誰も彼等のうちにある意識にキッカケを与えなかったことが分る。彼等は皆自分の生活には細かい計算を持っていた。一日一銭のこと、会社の消費組合で買うするめの値が五厘高いというので、大きな喧嘩になるほどの議論をするのだ。
 月々の掛金や保険医の不親切と冷淡さで、彼等は「健康保険法」にはうんざりしていた。そればかりか、「健保」が施行されてから、会社は職工の私傷のときには三分の二、公傷のときには全額の負担をしなければならないのをウマク逃れてしまっていた。「健保は当然会社の全負担にさせなければならない性質(たち)のもんだ。」――誰にも教えられずに、職工はそう云っていた。
「工場委員会」も職工たちには「狸ごッこ」だとしか思われていない。「おとなしい」「我ン張りのない」職工を会社が勝手にきめて、お座なりに開くそんな「工場委員会」に少しも望みをつないでいなかった。
 今迄一人の女工も使っていないボデイ・ラインを、賃銀の安い女工で置きかえるかも知れないというので、職工は顔色をなくしていた。――
 表面の極く何んでもなさにも不拘、たったこれだけを見ても森本はうちにムクレ上がっている、ムクレ上がらせることの出来る力を充分に感ずることが出来た。
 森本は毎朝工場へ出掛けて行く自分の気持が、――今迄とは知らないうちに変ってきているのを発見した。寒い朝、肩を前にこごめ、首をちゞめて、ギュン/\なる雪を踏んで家を出るときは、彼は文字通り奴隷である惨めさを感じた。朝のぬくもっている床の中に、足をゆっくりのばして、もう一時間でいゝ寝て居れないものか、と思った。――朝が早いので、まだ細い雪道を同じ方向へ一列に、同じ生気のない恰好をして歩いている汚点(しみ)のような労働者たちのくねった長い列をみていると、これが何時、あの「ロシア」のような、素晴しい力に結集されるのか、と思われる。その一列にはたゞ鎖が見えないだけだった。陰気な囚人運動を思わせた。
 だから彼は工場でも仕事には自分から気を入れてやった事がなかった。彼はもっと出世して「社員」になろうと、一生懸命に働いたことがあった。然しいくら働いても、社員にしてくれないので、彼は十九頃からやけを起していた。殊に、そこでは人間が機械を使うのではなくて、機械が何時でも人間をへばりつかせていた。人間様が機械にギュッ/\させられてたまるもんかい、彼はだらしなく、懐手(ふところで)をしている方がましだと思っていた。――猫を何匹も飼っている婆の顔がだんだん猫に似てくるが、それと同じように、今にお前たちは機械に似てくるぞ、と森本はしゃべって歩いた。工場の轟音のなかで話している彼等は、金剛砥(グラインダー)が鉄物に火花を散らすような声でしかものが云えない。彼等の腰は機械の据りのようなねばりと適確さを持っている。彼等の厚い無表情は鉄のひやゝかな黒さに似ている。彼等の指の節々はたがねの堅さを持っている。彼らはそして汽槌(スチーム・ハンマー)のような意志を持っていた。――この労働者の首ッ根にベルトがかゝれば、彼等は旋盤がシャフトを削り、ボール盤が穴を穿(うが)ち、セーパーやステキ盤が鉄を平面にけずり、ミーリングが歯車を仕上げると同じそのまゝの力を出す。ハンドルを握った労働者の何処から何処までが機械であり、何処から何処までが労働者か、それを見分けることは誰にも困難なことだった。
 そこでは、人間の動作を決定するものは人間自身ではない。コンヴェイヤー化されている製罐部では、彼等は一分間に何十回手先きを動かすか、機械の廻わりを一日に何回、どういう速度でどの範囲を歩くかということは、勝手ではない。機械の回転とコンヴェイヤーの速度が、それを無慈悲に決定する。工場の中では「職工」が働いていると云っても、それはあまり人間らしく過ぎるし、当ってもいない。――働いているものは機械しかないのだ。コンヴェイヤーの側に立っている女工が月経の血をこぼしながらも、機械の一部にはめ込まれている「女工という部分品」は、そこから離れ得る筈がなかった。
 このまゝ行くと、労働者が機械に似てゆくだけではなしに、機械そのものになって行く、森本にはそうとしか考えられない。「人造人間」はこんな考えから出たのだろう。職工たちは「人造人間」の話をすると、イヤがった。――誰が機械になりたいものか。労働者はみんな人間になりたがっているのだ。――
 森本は自分たちの「仕事」をやるようになり、色々なことが分ってくると、その工場が今更不思議な魅力を持ってきたのだ。――朝出るとき、今日は誰にしようかを決める。その仲間の色々な性質や趣味や仕事から、どういう方法で、どんな話から近付いて行ったらいゝか、家へブラッと遊びに行ったらいゝか……そんな事を考えながら家を出て行くと、自分の前や後を油で汚れたナッパ服を着て、急いでいる労働者がどれも何時か自分達の「仲間」になる者達ばかりだ、と思われる。――それは今迄のジメ/\と陰気な考えを、彼から捨てさせた。

 彼は河田や石川の指導のもとに、班を二つに――男工と女工に分け、男工は彼が責任者になり、女工の方はお君が当り、その代表者だけが「二階」で河田たちと連絡をとり、そこで重要な活動の方法を決定して行くことにきめた。
 その各班では基礎的な直ぐ役立つ経済上や政治上の知識を得るために、小さい「集り」を持つことにされた。
 その初めに、河田が中央の指導者の書いた短い文章を森本に読んできかせた。――それはある地方の一小都市にいる同志に与えたその指導者の手紙の形をとっていた。
「……通信によれば、君は貴地で労働者の研究会を組織することに成功したと云うではないか。僕はすっかり嬉しくなっている。然かも××鉄工所の労働者が七名も参加しているとは何んと素晴しいことだ。たしかに、その××鉄工所は貴地に於ける一番大きな工場だ。大したもんだ。タッタ七名! 誰がそんな軽蔑した言葉を発するのだ。若し我々が何千名と云う工場で、而も懐柔政策と弾圧とで金城鉄壁のような工場に、一人でもいゝ資本の搾取に反対して起(た)とうとする労働者を友人とすることが出来たら、我々はもうそれだけで、この工場の半ばを獲得したも同様なのだ。――要は如何にして、その獲得へ到達するかである。我々の与える政策が正しいなら、途(みち)は急速に開けて行くだろう……。
「で、その研究会だが、君は九人の労働者を物識りに仕立てようとしているのではないだろう。若しそうだとすれば、それは一応労働運動や社会運動やマルクスの経済学を先ず理解させて、然る後組織し、闘争するというあの有名な、陳腐な、そして何時でもシタヽカの失敗と精力の濫費を重ねて来たようなやり方でなしに、――今、その地の労働者は、資本家に対して如何なる不平を持っているか。殊に××鉄工所の労働者の労働条件はどうか。現在持っている労働者の不平をどんな要求に結びつけて闘争を煽動すべきか、という形で進められるべきで、そうしたならばその集会は物識り研究会から、すっかり様子をかえてくる。現実に活(い)きた興味をもって活気が起きてくるのだ。」
 ――僕等はもうその有名な失敗に足をふみ入れかけていたんではないかな。
それはもう少し続いていた。
「例えば、××鉄工所に闘争激発のために、アジテエションのビラ等を持ち込む場合、その七名の労働者を矢面に立てることは断じて得策でない。それはまだ事の初まらない前に、我々の工場に於ける芽を敵のために刈り取られることを意味しているからである。かゝる仕事は当該工場の外部のものが担当するのが最もいゝ。そして工場内の労働者はそのビラが工場内でどのような反響を起したか、何人の共鳴者があったかを、その晩の研究会での報告者の役目をつとめる。で、今日の工場内の動揺に対して、次にはどういう形で更にアジテエションが与えられねばならぬか、新たに出来た工場内の共鳴者は逃がさず捕えて、どんな風に組織を進めてゆくか……等、集会は全く活気を呈するに至るだろう……。」
 ――これは全く正しい。
 と河田は云った。
 ――危なかったな。僕等もこの線に沿って行かけなればならない。

          十五

 ドンナ困難があろうと、何より先きに「工場新聞」が発行されなければならなかった。プロレタリアの新聞は「宣伝、煽動」の機関であるばかりでなく、同時に集合的な「組織者」の役目を持っていた。
 工場新聞は工場内の労働者が自分で体得した日々の経験、工場内の出来事、偽瞞的な政策等を分り易く、具体的に暴露して、それにマルクス主義的な解答を与え、漸次彼等を階級意識に目覚めさせて行く任務を持っていた。――だが、この新聞の持つ究極の意味は、それによってプロレタリアの党(共産党)の影響を深く工場の労働者大衆の中に浸透させ、やがては党を工場の基礎の上に建設する目的をもっていた。河田の努力の本当の目的はこゝにあった。然しそれはまだ誰も知っていなかった。
「H・S工場」の場合、工場新聞は謄写版刷りで、「H・Sニュース」として出すことにした。河田は沢山の先輩の例で、自分のように離れた立場にいるものが、その目当てとしている工場の中の具体的な事実も知らずに、何時でも極まり文句の抽象的なことばかり書いて、それが工場の中の誰にも飽かれたことのあるのを知っていた。だが、彼は森本やお君と共同の知識を使って作れるのだった。河田は又、他の鉄工場、ゴム工場、印刷工場にも同じ計画を進めていた。
「H・Sニュース」が出る。それは小型でもいゝ。労働者にむさぼり読まれ、そして愛され、親しまれるようなものでなければならない。中に挿入されてある漫画や似顔絵は、労働者にニュースを取ッ付き易いものにするだろう。工場長の似顔が素晴しくそっくりだったら、どうだろう。長いクドイ、ゴツ/\した論文はやめよう。そんなものは労働者は読まないから……、河田は自分の子供でも産まれるのを、拳(こぶし)のグリ/\で数えるような喜びをもって、そのニュースを空想することが出来た。
「H・Sニュース」の発行で、森本と工場の多くの職工たちの関係が、今迄のような漠然とした、弱い不充分なものでなくなるし、更に優れた「工場細胞」をそれ等のなかゝら見付け出すことも出来るようになる。「ニュース」はその他にも大きな任務を持っていた。「H・S会社」は会社の雑誌として、「キャン・クラブ」を定期に発行していた。それは何処の会社でもそうであるように、編輯(へんしゅう)には一人の職工をも加えず、集った原稿は社員だけで勝手に処理し、更に工場長が眼を通して、会社の利益に都合の悪いものを除ける。こういう御用新聞の持つ欺瞞的な記事、逆宣伝、ブルジョワ的な教化に対して、「H・Sニュース」は絶え間なく、抗争し、暴露し、それを逆に利用して「鼻をあかして」行かなければならなかった。
「キャン・クラブ」に投稿するには匿名(とくめい)でもいゝので、表立って云えないことをドシ、ドシ書いてくるらしかった。
 ――こんなことを考えている職工が居るのかと思うほど、凄いことを書いた原稿がくるんだ。と編輯をしている社員が云っている。
 それがウソでないことは、河田も知っていた。Y港に帝国軍艦が二十数隻入ったことがある。旗艦である「陸奥」はその艦だけの「新聞」を持っていた。新聞はこんなに色々な場合に使われる! その編輯をしていた士官が、「原稿は余るほど集まるが、いゝ原稿が無いんで――埋合せに大骨だ。」と云っていた。「兵卒ッて無茶なことを書くんでね。」
 河田はそれを聞いたとき、思わず俺の眼がギロリと光ったよ、と石川に云ったことがあった。
 ――帝国軍艦だぜ! 喜んだなア、中には矢張り居るんだ!
「ニュース」はその「凄いこと」を書く奴を、その「無茶なこと」を書く奴を、砂の中に交っていても、その中から鉄片を吸いつける磁石のように吸いつけなければならなかった。

 三カ月すると、女工で集会に出てくるのが四人になった。男の方より一人しか少なくなかった。
お君と芳ちゃんがその中心だった。――「H・Sニュース」は、それで用心深く九枚しか刷られなかった。「集り」で、女工たちにちっとも退屈させないで、面白くやってのける鈴木がみんなに喜ばれた。
 ――鈴木は最近馬鹿に積極的になった。
 と河田が云った。それから、
 ――女がいるからかな?
 と笑った。
 仲間が一人増せば、ニュースは一枚だけ増刷りされた。集会にきている職工たちから、「手渡し」で見当をつけた一人に渡された。――白蟻のように表面には出ずに、知らないうちに露台骨をかみ崩していて、気付いた時にはその巨大な家屋建築がそのまゝ倒壊してしまわなければならなくなる白蟻を、そのニュースは思わせた。
 ――これからの運動は、街へ出てビラを撒いたり、演説をしたりすることではないんだぞ。
 河田は少し意識のついた若い職工が、ジリ/\し出すのを見ると、それを強調しなければならなかった。
 ――これからニュースを五年続けてゆく根気が絶対に必要なんだ。
「H・Sニュース」には安部磯雄と専務が握手をして、後手でこっそり職工の首を絞めている漫画が出た。「狐会議」が開かれている。大テーブルを囲んで、狐の似顔にされた工場長以下職長、社員が、職工に「馬の糞」の金を握らしている。それが「工場委員会」だった。「共済会」の基金や「健保」の掛金が何処にどう、誰の利益のために流用されているか。――香奠(こうでん)や出産見舞に職工が一々「礼状」を書かせられて、食堂の入口に貼られるカラクリが嘲笑された……。
 そのどれもが、会社を「Yのフォード」だと思っていた職工を驚かした。

          十六

 ――嫌になるな、君。お君と河田が変なんだぜ。
 集会の帰り、鈴木が不愉快げに云った。森本はフイに足をとめた。――彼は前から、工場でもお君にキッスをしたというものが二人もいるのを知っていた。然し、それは如何にもあのお君らしく思われ、不思議に気にならなかった。が、それが河田と! と思うと、彼は足元が急にズシンと落ちこむのを感じた。
 ――河田ッて、実にそういうところがルーズだ。
 ――…………。
 然しそういう鈴木が本当はお君を恋していた。彼は自分の「最後の藁(わら)」がお君だと思っていたのだった。彼はもう警察の金を二百円近くも、ズル/\に使ってしまっていた。彼は自分の惨めさを忘れなければならなかった。あせった。然しそのもがきは彼を更につき落すことしかしなかった。足がかりのない泥沼だった。――そして、今、彼は最後のお君までも失ってしまった。何んのために、自分は「集会」であんなに一生懸命になったのだ! ――こうなって彼は始めて自分の道が今度こそ本当に何処へ向いているかを、マザ/\と感じた。夜、盗汗(ねあせ)をかいたり、恐ろしい夢を見るようになった。
 四五日してからだった。
 ――芳ちゃんが、とても誰かに参っちまってるのよ。
 とお君はいたずらゝしく笑った。
 ――そしてクヨ/\想い悩んでるの。それアおかしいのよ。で、私云ってやったの。あんた一体「お嬢さん」かッて。月を見ては何んとか思い、花を見ては……なんて、お嬢さんのするこッた。思ってることをテキパキと云って、テキパキと片づけてしまいなさいって、ね。
 ――君ちゃんらしいな!
 と森本は淋しく笑った。
 ――そんなことで、仕事がおかしくなったら大変でしょう。私その人に云ってあげるから……キッスして貰いたかったら、キッスして貰おうし……そしたら仕事にも張り合いが出来るんでないの、と云ってやった。そしたら、とてもそんな事、恥かしくッてと。――どう?
 お君は遠慮のない大きな声を出した。こういう云い方が、みんな河田から来ているのではないかと、フト思うと、彼は苦しかった。
 ――恥かしいなんて、芳ちゃん何だか、お嬢さん臭いとこあってよ。
 お君を男にすれば河田かも知れない、森本はその時思った。――河田が若し恋愛をするとすれば、それは「仕事と同じ色の恋」をするだろうと皆冗談を云った。それは彼が恋をしたって、彼の感情の上にも、いわんや仕事の上にも少しの狂いもずりも起らないだろうという意味だった。
 お芳の想っている相手が誰か、お君は云わなかった。

          下 十七

 その夏は暑かった。しかし秋は雨と氷雨が代り番に続いて、港街が荒さんだ。冬がくると、秋のあとをうけて、今度は天候がめずらしくよかった。が、天気が続けば、除雪の仕事もなくなって、労働者は瘠(や)せなければならない。
 港の労働者の生活はその上、政府の緊縮政策のために、更にドン底に落ち込ませられた。――「親方制度」「歩合制度」の手工業的な搾取方法を昆布巻きのように背負込んでいる労働者たちは、仮りに港に出て稼げても、手取りは何重にも削り取られて、半分になって入ってきた。歩合制度になっていながら、親方は「水揚げ高」(取扱高)の公表もせずに、勝手にごまかして、そのゴマかした高の何割しかくれなかった。金菱が石炭現場に積込機械(コンヴェイヤー)を据えつけてから、パイスキを担いでいたゴモが五十人も一かたまりに失業した。
 女房たちは家の中にジッとして居れなくなった。然しポカンと炉辺に坐っていれば、坐ったきりで一日中そうしていた。呆けたようになっていた。何も考えていなかった。――台所に立って行く。然し台所に行けば、何んのために立って行ったのか、忘れていた。一所にいることが出来ない。何か心の底で終始せき立てられていた。――女房たちは、夫の稼いでいる運河のある港通りへ出てきた。
 日暮れまでいて、帰りに女房たちは親方へ寄った。幾らでも貸して貰いたかった。
 ――笑談(じょうだん)じゃない!
 受付から親方が顔を出した。
 ――この不景気をみてくれ。こっちが第一喰えないんだ。
 そう云われても、女房たちは受付の手すりに肱(ひじ)をかけたきり、だまっていた。帰ることを忘れていた…………。
「H・S工場」の窓から、澱んだ運河を越して、その群れが見えた。――浜が騒がしくなった。「Y労働組合」はそれ等の間を縫って活動していた。不穏なストライキが起るのは、たゞ「きっかけ」だけあればよかった。組合はそれに備える充分の連絡と組織網を作って置かなければならなかった。
「工場代表者会議」が緊急に開かれた。それはこの場合二つの意味をもっていた。――運輸労働者が一斉に蹶起(けっき)したとしても、Y市の「工場労働者」がその闘争の外に立つことは、他の何処の市でもそうであるように分りきっていた。それをこの「工代」の力によって、全市のストライキに迄発展させなければならなかった。一つは「H・S工場」の最近の動揺についてゞあった。
 四つの鉄工場から六人、三つの印刷工場から三人、二つのゴム工場から四人集った。それは各々背後にその工場の何十人かの意見を代表していた。
 その中に、森本が見習工のとき廻って歩いていた鉄工場の仲間が二人もいた。
 ――やっぱり俺達はな……!
 と云って、お互いに笑った。
「工代」をこのくらいのものにするのに、河田たちは半年以上ものジミな努力をしてきていた。――で、
「H・S会社」は戦々兢々(せんせんきょうきょう)としていた。社員も職工も仕事が手につかなかった。――それは三田銀行が日本の一流銀行である金菱銀行に合同されることから起った。政府は金融機関の全国的統制――その集中をはかっていた。この合同もそれだった。銀行はます/\巨大な、数の少ないものに纏(まと)められて行っている。で、今までの「H・S会社」に対する三田銀行の支配権は、当然金菱銀行にそのまゝ移って行った。
 ところが、金菱銀行は自分の支配下に「N・S製罐会社」「T・S製罐会社」この二つの会社を持っていた。然し今まで製罐業では、金菱系の会社は何時でも「H・S会社」に圧倒されていた。だから、今「H・S」が一緒になれば、日本に於ける製罐業を安全に独占出来るのだった。――その製品を全国的に「単一化」して生産能率を挙げることも、技術や工場設備の共通的な改良整理も出来、人員の節約をし、殊にその販売の方面では、今迄無駄に惹(ひ)き起された価格の低下を防いで、独占価格を制定し思う存分の利潤をあげることも出来るのだった。――だから、三田銀行が今迄とっていたような「単純な支配」ではなしに、金菱が積極的に事業そのものゝ中に、ドカドカと干渉してくることは分りきっていた。――これは職工たちの恐れていた「産業の合理化」が直接(じか)に、そして極めて惨酷に実行されることを意味していた。工場はその噂でザワめいていた。
 然し問題はもっと複雑だった。
 ――今度のことでは、君、専務や支配人、工場長こいつ等の方が蒼白(まっさお)になってるんだぜ。
 と、引継のために新しい銀行に提出する書類の作成で、事務所に残って毎日夜業をやらせられている笠原が云った。
 ――金菱では自分の系統から重役や重(おも)だった役員を連れてきて、あいつ等を追っ払う積りらしいんだ。然しあゝなると、あいつ等も案外モロイもんだ。――然し問題は面白くなるよ。死物狂いで何か画策してるらしい。
 然し何時でも側にいる笠原には、大体その見当がついていた。――彼等は、金菱の悪ラツな進出が如何に全工場の「親愛なる」職工を犠牲にし、その生活を低下させ、「Yのフォード」を一躍「Yの監獄部屋」にまで蹴落(けおと)してしまうものであるか、と煽動し、全従業員の一致的行動によって、没落に傾いている自分達の地位を守ろうとでもするらしかった。
 ――どうも一寸ひッかゝりそうだな。
 と笠原が云った。
 ――然し金菱にかゝったら、いくら専務がジタバタしようが、桁(けた)から云ったって角力(すもう)にならない。これからは「金融資本家」と結びついていない「産業資本家」はドシ/\没落してゆくんだ。度々あるいゝ手本だよ。そう云えば※(かなたつ)[#「┐<辰」、屋号を示す記号、82-3]鈴木だって、手はこれと同じ手を喰らわされたんだ。金融資本制覇の一つの過程だな。
 そればかりでなく、「H・S」の製罐数の大部分は親会社である「日露会社」に売込まれて、カムチャツカに出ていた。それで、一方にはソヴエート・ロシアの「五カ年計画」の進出、他方には国内資本家間の無駄な競争に、何時でもおびやかされていた。漁区落札数の増減はテキ面に生産高にひゞいた。――「H・S」はそれに備えるために、政府を動かして、国民一般の愛国心とソヴエート・ロシアに対する敵慨心(てきがいしん)を煽り立てなければならなかった。
 今年は更にロシアが組織的に、色々な手段を借りて、わが優良漁区の蚕食をやるという確実な噂さが立っていた。「日露」と「H・S」の株価は傾きかけた水のように暴落していた。
『H・S』のそういう情勢に対しては、河田は「工場細胞」の積極的な活動、「ニュース」による暴露、煽動、新しい「細胞」の獲得は云うまでもないとして、更にこの当面の「戦々兢々」たる動揺をつかんで、職工が労働者としての自分の立場と利益を擁護するために、
「工場委員会」の自主化
 の闘争を起すように努力しなければならない事を提議した。
 労働者がどんな資本の「攻勢」にもグイと持ちこらえ得るためには、何より工場全部の労働者が「足並」を揃えることだった。職場(もちば)、職場で態度がチグハグなために、滅茶々々にされることはめずらしくないのだ。それは彼等が色々な問題について、工場の全部にわたって充分に討議する「機関」を持っていないところから来ていた。――その機関として、自主的な工場委員会が必要なのだ。今のところ、それは工場長や、社員できめた役付職工や去勢された職工によって、勝手にされている。我々はそれを労働者の利益のための機関として、労働者によって組織されることを要求しなければならない。――それが可決されて、時期、方法その他の具体案が長い時間かゝって、慎重に練られた。
 それから他の代表者の情勢報告があった。
 運輸労働者のストライキには、そのかゝげる「要求」の中に、必ず工場労働者をも動かし得るような「条項」を入れること。それには工場細胞が全力をあげて、それと工場独特の問題と結びつけて、宣伝、煽動をまき起すこと等が決議された。
 終ると、河田は仰向けに後へひッくりかえった。
 ――これで俺三日ばかり碌(ろく)に寝てないんだ。
 河田は特に警察の追求をうけていた。転々と居場所をかえて、逃げまわっていた。そしてその先き/″\で連絡をとって、組合や森本たちを指導していた。然し二十万に足りない小さい市(まち)では、それは殆んど不可能なほど危険なことだった。

          十八

 会合が終ると、外へは一人ずつ別々に出た。賑やかな通りをはずれて、T町の入口に来た頃、森本の後から誰か、すイと追いついてきて、肩をならべた。オヤッと思うと、それが河田だった。
 ――一寸これからT町へ用事があるんだ。
 森本はその時フト変な予感を持った。――河田はお君のところへ行くのではないか。
 河田は一緒に歩きながら、自分たちの運動のことを熱心な調子で話し出した。河田のその熱心な調子は何時でもそうだが、独断的なガムシャラなところを持っていた。それは初めての人に、無意識な反感さえ持たせた。然し森本はその調子を河田から聞いているときは、何時でも自分のしていることに、不思議な「安心」を覚えた。彼は力と云っていゝものさえ、そこから感じることが出来た。
 ――君はこの仕事に献身的になれるかい。
 ときいた。森本は、なれるさ、と答えた。
 ――献身的の意味だが……。
 河田はそう云って、一寸考えこんで間をおいた。――人通りはまだあった。自動車のヘッドライトが時々河田の顔を半分だけ切って――カーヴを曲がって行った。
 ――献身的と云っても、一生を捧げると云う位の気だな。
 と云った。
 足元で春に近いザラメのような雪がサラッ、サラッとなった。
 ――勿論俺だちの仕事は遊び半分には出来ることでもないし、それに俺だちのようなものが、後から後からと何度も出て来て、折り重なって、ようやくものになるというようなものだから、分りきった事だが……。
 森本は今更あらたまった云い方だ、と思った。
 ――「ニュース」だって半年のうちに、とにかくこの位になったという事は、一糸乱れない「組織」の力だったと思うんだ。――でねえ、俺だちの目的だな、社会主義の国を建てるということだ。そのためには鉄のような「組織」とそれを動かし、死守していく所謂その献身的な同志の力が要るわけだ……。
 又そこで河田らしくなく言葉を切った。
 ――分るな?
 ――分ってるよ。変だな、今更……。
 彼がそう云うと、河田は口の中だけで「ムフ」と笑ったようだった。
 ――その鉄のような組織というのは、工場細胞を通して工場労働者にしっかりと基礎を置き、労働者の最先端に立って闘う政党ということになる。――で、労働者の党と云えば、それは「共産党」しかないわけだろう。
 然しそんなことも森本は飽きる程きかされていたことだった。だから、彼は「それアそうだ」と云った。
 ――鍋焼でも喰いたいな。
 河田は立ち止って、その辺を見廻わした。すこし行くと、小さい処(ところ)が眼についた。二人はそこで鍋焼を食った。――河田は森本の家の事情や、収入や係累のことを聞きながら、自分のことを話し出した。
 こういう運動をやるようになった動機とか、スパイ三人を向うにまわして、鉛のパイプを持って大乱闘をやったことがある話とか、どん底の生活をしている可哀相な女が時々金を自分に送ってきてくれる。それが自分のたった一人の女だとか、自家では然し母が彼のことを心に病んで、身体を悪くしているとか、そんなことを話した。彼は「お前にだけ親があると云うのか。」という詩を読んできかせた。それは聞いていると、胸をしめつけた。――何時でも冷やかに動いたことのない彼の瞳が、その詩を云い終ると潤んでいた。森本はこういう河田を初めてみたと思った。仕事をしている河田は一分もそういう彼を誰にも見せたことがなかったのだ。
 ――工場はまだ大丈夫かい。
 と河田がきいた。彼は何時でも森本の「顔」のことを心配していた。
 ――少ォしは。長い間だから。
 ――ん、少ォしでも悪いな。
 ――会社の笠原さんの話だと、最近バカに工場長のところへ警察の高等係がきて、何か話してるそうだ。
 鍋焼の熱いテンプラを舌の上で、あちこちやっていた河田が、眉毛を急にピクッと動かした。
 ――工場長が時々顔の知らない人をつれて、工場のなかを案内して歩くけれども、ひょっとすると、それが高等係かも知れない。それに君ちゃんの話だと、職工のなかには皆の動きを一々報告している、会社に買収された奴がいるそうだ。佐伯たちの手下と知らないで、鉢合せでもしたら事だからな!
 ――……□ 注意しなけれアならないな。
 ――「ニュース」は矢張り分ってるんだ。参ってるらしい。何処で作って、どんな経路で入ってくるかを躍起になってるらしい。
 ――フン!
「ニュース」は初め厳密に手渡しされていた。然し、組織の根が広まり、それが可なりしっかりしたものになってくると、それを工場内の眼のつく所にワザと捨てゝ置いたり、小規模だが、バラ撒いたりするようになっていた。
 ――組合のものが作ってるんだッて、工場長は云ってる。「ニュース」の No.16 かに、専務の一カ年間の精細な収入と家庭生活と一年間の芸者の線香代と妾のことを載せたアレ、とても人気を呼んで、とう/\グル/\廻ってしまった。あれで、女工のうちでは、これが本当なら、専務さんの「ナッパ服」に今迄だまされていたッて、泣いた奴が沢山いたそうだ。噂のような話だけど――
 二人は声を出して笑った。
 ――何んしろ細大洩(もら)さずだから、彼奴等も浮かぶ瀬が無いだろう。
 外は人通りがまばらになっていた。二人は用心して歩いた。
 森本の家の近くの坂に来たとき、河田が内ポケットから新聞の包みを出した。
 ――これ明日まで読んでおいてくれ。そして読んでしまったら、すぐ焼いてくれ。
 森本はそれを受取った。
 ――じゃ、明日九時頃君のところへ行くから、家にいてくれ。
 そう云って、河田が暗い小径を曲がって行った。
 ――彼はその足音を聞いて、立っていた。
 次の日、森本は河田から「共産党」加入の勧誘をうけた。

          十九

「H・S工場」の細胞が毎日々々集合した。手落ちのないように、細かい方法がそこで決められた。河田も顔を出した。
 ビラの形で撒かれる大衆的なニュースが、本当に生きた働きをするためには、その「時期」が絶対に選ばれなければならなかった。工場委員会が開かれる少し前であって、それが同時に「金菱」の整理断行が確定した日でなければならなかった。
 ビラを撒いてからの第二弾、第三弾の戦術、従業員大会開催の件などが、決議された。
 こん度は、専務の方からも職工も利用しようとしていた。普通のストライキと異っていた。専務は没落しかけている。だから、闘争の相手は専務や工場長ではなかった。この大きな「動揺」をつかんで、職工の結束の機関を獲得することにあった。然し、専務たちのもくろんでいることも、職工を結束させるという点では、その形態は同じだった。――この同じ一点に向ってる丁度逆の二つの力がどのようにもつれ合うか?

 ビラは大体次のような骨組を持った。
 1。工場長が天下り的に工場委員会をきめるのでは何んになる。われ/\は全職工の選挙によって、全委員をきめることを要求する。2。今迄提出する議案は工場長は一応眼を通して、差支えのないものばかり出していた。こんなベラ棒なことがあってなるものか。労働者の本当の日常利害の問題をドシ/\出すこと。3。委員長には工場長が勝手になっていた。これでは職工の利益になる事項が決議されるわけがない、委員長は全委員の互選できめること。4。委員会で決めたことでも、決めッ放しのものがあるし、又工場内の大切な規約を改正する場合などは一度だって委員会に出したことがなく、専務や工場長だけで勝手に決めてしまう。結局どうでもいゝことだけ委員会に出す。これでは委員会は看板より劣る。我々はこんなゴマカシに全部反対だ。5。女工も働いている工場であるからには、女工からも委員を選ぶこと。6。「金菱」の惨酷な整理、労働者の虐使と首切りにそなえるたった一つの力は、この工場委員会の自主化を握って、足並をそろえ、全職工が結束することを措いて他にないこと。7。専務らが自分の地位にしがみつくために策動するかも知れない。それに乗せられてはならないこと。8。市内のゴム会社、印刷会社、鉄工場も同じ問題をひッさげて、立ちかけている。「H・S」の同志に握手を求めていること。9。浜の人夫の窮状はもはや対岸の火事ではない。同じ運命がわれ/\にも待ちかまえている。彼等とも我々は手を握って、共に立たなければならないこと…………等々。

 色々のところから出る噂さや、憶測がグル/\廻わっているうちに、雪だるまのように大きくなった。それが職工たちを無遠慮に掻(か)き廻(ま)わした。皆は落付くことを忘れてしまった。休憩時間を待ちかまえて、皆が寄り集った。職長(おやじ)さえその仲間に首を差しこんできた。
 何時でもこッそり工場長に色々な小道具を造ってやっていた仕上場の職工などは、今度は露骨に悪口をたゝきつけられた。職工は工場で自分のものを作ることは愚か、鉄屑、ブリキ片一つ持ち出しても首だったのだ。
 ――又新しい工場長にもか? ハヽヽヽヽ、精々どうぞね!
 上役にうまく取入って威張っていたもの等が、ガラ/\とその位置を顛倒(てんとう)して行った。支え柱を一旦失うと、彼等は見事に皆の仲間外(はず)れを食った。
 ――ざまア見ろ!
 皆は大ッぴらに、唾をハネ飛ばした。
 そんな関係を持っている職長などは顔色をなくして、周章てゝいた。が、早くも彼等は、職工の大会を開いて、対策を講じなければならないと云った。佐伯たちがその先頭に立った。「H・S危急存亡の秋(とき)、諸君の蹶起を望む!」と、愛社心を煽って歩いた。――彼等はそんなときだけ、職工をだしに使うことを考えた。
 昼休みに女工たちは、男工の話し込んでいる所をウロ/\した。
 ――どうなるの?
 ときいた。
 ――男も女も半分首だとよ!
 男工がヤケにどなった。

          二十

 ビラは深い用意から、女工の手によって工場に持ち込まれた。夜業準備のために、女工たちの帰えりが遅くなったとき「脱衣室」の上衣に一枚々々つッこまれた。十人近くの女工がそのために手早く立ち働いた。
 朝、森本が工場の入り口で「タイム・レコーダー」を押していると、パンパン帽をかぶった仕上場の職長が、
 ――大変だぜ!
 と云った。
 ――大変なビラだ。「ニュース」と同じ系統だ。
 ――へえ。
 ――今度は全部配られているんだ。何処から入るんかな。こゝの工場も小生意気になったもんだ。 職長は鶴見あたりの工場から流れて来た「渡り職工」だった。皆を「田舎職工」に何が分ると、鼻あしらいしていた。ストライキになったら、専務より先きに、この職長をグレエンにぶら下げて、下から突き上げしてやるんだ、と仕上場では云っていた。――「フン、今に見ろ!」森本は心の中でニッと笑った。
 工場の中は、いよ/\朝刊に出た金菱の態度と、ビラの記事でザワついていた。一足ふみ入れて、それを感じとると、森本はしめたと思った。仕事の始まる少し前の時間を、皆は機械のそばに一かたまり、一かたまりに寄ってビラのことをしゃべっている。
 ――こうなったら、これが矢張り第一の問題さ。
 森本は集りの輪の外へとんでくるそんな言葉をつかんだ。
 製罐部に顔を出すと、トップ・ラインにいたお君が、素早く見付けて、こっちへ歩いてきた。何気ない様子で、
 ――大丈夫よ。委員会は選挙制にするのが理屈だって云ってるわ。あんたの方の親爺、あの禿(はげ)の頑固! あいつ奴(め)だけが皆からビラをふんだくって歩いてるのよ。
 それだけ云って、男のように走って行った。
 アナアキストの武林が罐縁曲機(フレンジャー)に油を差していた。ひょいと上眼に見て、
 ――お前だな。
 と云った。
 ――何んだ、皆こうやって興奮しているのに、お前だけ工場長にでもなったように、ツウーンとしているんだな。
 森本はギョッとして、キツ先を外した。
 ――指導精神が違いますだ。
 ――そうか。自分だけは喰わなくてもいゝッて指導精神か。結構だな。
 ――そ。正にそう。
 森本は製罐部で見て置かなければならなかったのは、肉親関係をお互に持っている職工たちの動きだった。それはお君や、この方の同志にも殊更に注意して置いた。然しまだそれは見えていなかった。
 たゞ心配なことは、工場全体の動きを早くも見てとって、工場長が「H・S」全体に利害を持つことだからと、「工場大会」か何かの形で「先手」を打って来ないか、ということだった。――工場内の動きのうちには、ハッキリ分ることだが、自分たちの立場、階級的な気持からではなくて、矢張り其処には「会社全体の大問題」だという興奮のあることを見逃すことが出来なかった。乗ぜられ易い機微を、彼はそこに感じた。
 鋳物場では車輪の砂型をとってある側に、三四人立ち固まっていた。木型の大工も交っていた。すぐ下がってくる水洟(みずばな)を何度も何度もすゝり上げていた。
 ――誰か思いきって、グイと先頭に立つものが居なかったら、こういうものは駄目なんだ。
 云っているのは増野だった、――見習工のとき、彼は溶かした鉄のバケツを持って、溶炉から砂型に走って行く途中、足下に置き捨てゝあった木型につまずいて、顔の半分を焼いた。そのあとがひどくカタを残していた。
 ――各職場から一人か二人ずつ出るんだな。
 森本は彼を「細胞」の候補者にしていた。
 鋳物工の職工は、どれも顔にひッちりをこしらえたり、手に繃帯(ほうたい)をしていた。砂型に鉄を注ぎ込むとき、水分の急激な発散と、それと一緒に起る鉄の火花で皆やけどをしていた。
 鍛冶場の耳の遠い北川爺は森本をみると、
 ――ビラの通りに何んか起るのか。どうしても、こういう工合にしなけア駄目なもんかなア、森よ!
 と云った。
 ――そうだよ。そうなれば爺(じい)ちゃだって、安心ッてもんだ。
 北川爺は耳が遠いので、彼を見ながら、頭をかしげて、あやふやな笑い顔を向けた。
 打鋲(リベッチング)の山上は、
 ――やるど!
 と云った。彼は同志の一人だった。
 ――仕上場はどうだい?
 腕を少し動かしても、上膊の筋肉が、グル、グルッとこぶになった、堅い身体を持っていた。
 ――それア何たって本場さ。
 ――本場はよかった。出し抜かれるなよ。
 と笑った。
 ――出し抜かれて見たいもんだ。
 熟練工のいる仕上場は「金菱」のことで、直接にそうこたえるわけではなかったが、製罐部のように直ぐ代りを入れることの出来ない強味を持っていたし、何より森本を初め「細胞」の中心がこゝにあったので、しっかりしていた。
 ボールバンに白墨で円を描いていた仲間が森本をちらッと見ると、眼が笑った。白墨の粉のついた手をナッパの尻にぬぐって、
 ――「紙」は?
 と、訊(き)いた。
 ――朝すぐ。先手を打つ必要がある。
 旋盤や平鑿盤(シカルバン)や穿削機(ミーリング)についている仲間が、笑いをニヤ/\含んだ顔でこっちを見ていた。機械に片足をかけて「金菱政策」を泡をとばして話していた。穿削機には昨日から歯を削っていた歯車が据えつけられたまゝになっていた。
 大乗盤の側の空所に、註文の歯車やシャフトや鋲付する煙筒や鉄板が積まさっていた。仕上った機械の新鮮な赤ペンキの油ッ臭い匂いがプン/\鼻にきた。
 就業のボーが波形の屋根を巾広くひゞかせた。職長は二人位しか工場に姿を見せていない。事務所に行ってるらしかった。――皆はいつものように、ボーがなっても、直ぐ機械にかゝる気がしていなかった。
 ベルトがヒタ、ヒタ………と動き出すと、声高にしゃべっていた人声が、底からグン/\と迫るように高まってくる音に溺(おぼ)れて行った。シャフトにベルトをかけると、突然生物になったように、機械は歯車と歯車を噛(か)み合わせ、シリンダアーで風を切った。一定の間隔に空罐をのせたコンヴェイヤーが、映画のフイルムのように機械と機械の間を辷(すべ)って行った。ブランク台で大板のブリキをトロッコから移すたびに、その反射がキラッ、キラッと、天井と壁と機械の横顔を刃物より鋭く射った。トップ・ラインの女工たちが、蓋を揃えたり、数えたりしながら何か歌っている声が、どうかした機械の轟音のひけ間に聞えた。――天井の鉄梁(ビーム)が機械の力に抗(た)えて、見えない程揺れた。
 ――あのニュースとかッて奴は共産党の宣伝をしてるんだろ、な。
 職長が両手を後にまわしながら、機械の間を歩いていた。
 ――さア。
 きかれた職工は無愛想につッぱねた。が、フト、ぎょッとした。――それは細胞の一人だった。「H・Sニュース」に漫画が多かったりすると、彼はよく糊付(のりづ)けにぺったり機械へはったりした。
 ――後にはキッと共産党がいるんだ。どうもそうだ。
 ――然しあんなものが共産党なら、共産党ッてものも極く当り前のことしか云わないもんだね。
 ――だから恐ろしいんだよ。
 彼は笑ってしまった。
 ――だから何んでもないッて云うのが本当でしょうや。
 仕事が始まってから二十分もした。――働いていた職工が後から背を小突かれた。
 ――何処ッかゝら廻ってきた。
 紙ッ切れをポケットの中にソッと入れられた。いゝことには、職長が二人位しかいないことだった。
「工場委員会」の選挙制協議のため時間後一人残らず食堂へ集合の事。危機は迫っている。団結の力を以って我等を守ろう。
 ――次へ廻わしてやるんだそうだ。変な奴には廻さないそうだど。
 ――ホ! 矢張りな。
 同じ時に、それと同じ紙片が「仕事場」にも「鋳物場」にも、「ボデイ・ライン」にも、「トップ・ライン」にも、「漆塗工場(ラッカー)」にも、「釘付工場(ネーリング)」にも、「函詰部(パッキング)」にも同じ方法で廻っていた。――
 職長たちが話しながら、ゾロ/\事務所から帰ってきた。機械についていた職長がそれを見ると、周章てゝ走って行った。彼は工場の隅で立話を始めた。職工たちは仕事をしながら、それを横目でにらんだ。
 仕上場の見張りの硝子戸の中から、「グレエン」職長が周章てゝ飛び出してきた。――金剛砥(グラインダー)に金物をあてゝいた斉藤が、その直ぐ横の旋盤についていた職工から、何か紙片を受取って、それをポケットに入れた。それをひょッと見たからだった。神経が尖(と)がっていた。――皆は何が起ったか、と思った。その「渡り職」の後を一斉に右向けをしたように見た。
 ――おいッ!
 大きな手が斉藤の肩をつかんだ。然し振返った斉藤は落付ていた。
 ――何んですか?
 ゆっくり云いながら、片手は素早くポケットの紙片をもみくしゃにして、靴の底で踏みにじっていた。
 ――あ、あッ、あッ、その紙だ!
 職長がせきこんだ。
 ――紙?
 砂地の床は水でしめっていた。斉藤は靴の先きで、紙片をいじりながら、
 ――どうしたんです。
 ――どうした? 太(ふて)え野郎だ。
 然しそれ以上職長にはどうにも出来なかった。「うらめし」そうに踏みにじられた紙片を見ながら、
 ――この野郎、とう/\誤魔化しやがった! 畜生め!
 と云った。
 機械から手を離して見ていた職工たちは、ざまア見やがれ、と思った。
 ――グレエンに吊(つる)されるのも、もう少しだぞ。
 職長は目論見(もくろみ)外れから工合悪そうに、肩を振って帰って行った。職工たちの眼はそれを四方から思う存分嘲(あざけ)った。
 ――バーカーヤーロー。
 ステキ盤でシャフトに軌道をほっていた仲間が、口を掌で囲んで、後から悪戯した。皆がドッと笑った。職長がくるりと振りかえって、職場を見廻わした。急に皆が真面目な顔をして、機械をいじる真似をした。我慢が出来なくて、誰か隅の方で、プウッと吹き出してしまった。
 ――いま/\しい奴だ!
 硝子戸を乱暴に開けて、中へ入った。
 ――自分の首でも気をつけろ、馬鹿!
 昼休みには、森本と重な仲間が四人同じ所に坐って、もう一度綿密に考えを練った。
 ――女の方はどうかな。
 ――戦術としてもな。ハヽヽヽヽ。
 ――そうだよ。
 お君は余程離れた向う隅で、仲間に何か一生懸命しゃべっているのが見えた。顔全部を自由に、大げさに動かしながら、口一杯でものを云っている。お君がそこにすっかり出ていた。――森本はその女に自分の気持をチットモ云えないことを、フト淋しく思った。飯が終る頃、お君が食器を持ったまゝ皆のいる所を通った。
 ――どうだ?
 ――四分の一位。別に反対の人はないのよ。それでも女は一度も出つけないでしょう。
 ――うん。
 ――でも、頑ん張ってみる。
 ――頼む。
 ――森さん、今日は「首」を投げてやってよ。首になったら、皆で養ってあげるから。
 お君は明るく笑って、スタンドへ行った。
 ――それから「偉い方」はどうかな。
 と森本が仲間にきいた。
 ――事務所ではまだ勿論「工場大会」のことには気付いてはいないんだが、対策はやってるだろう。――給仕が云ってた。自動車で専務がやってきたって。工場長が電話で呼んだらしい。ところが専務は気もでんぐり返えして、馳け廻ってるんだ。まだ/\工場どころでないらしいんだ、
 ――こゝは俺達のつけ目さ。

 脱衣場は集合場になる「食堂」と隣り合って、二階になっている。そして降り口は一つしかなかった。――で、帰るのにはどうしても二階に行って、食堂を通り、服を着かえて、その階段を又降りて来なければならない。それが偶然にも森本たちに、この上もない有利な条件を与えた。食堂の会合に出なければ、どうしても帰ることが出来ないようになっていた。――普段から職工仲間に信用のある「細胞」を階段の降り口に立たせて置いて、職工を引きとめた。
 不賛成な職工や女工はしばらく下の工場で、機械のそばや隅の方を文句を云いながら、ブラブラしていた。帰るにも帰れなかったのだ。年老(としと)った職工や女房のいるのが多かった。女工たちは所々に一かたまりになって、たゞ立っていた。女の方は別な理由はなかった。何んだか工合わるく、それに生意気に感じて躊躇(ちゅうちょ)しているらしかった。
 ――ストライキの相談じゃないんだよ。委員を選挙にして下さい。これだけの事なんだよ。
 森本がそれを云って歩くと、それだけの事なら、もっと穏やかな話し様もあるんでないかと云った。
 ――何処にか穏やかでない処でもあるかな。会社と一喧嘩をするわけでもないし、お願いなんだ。女工はお君やお芳に説かれると、五六人が身体を打ッつけ合うように一固りにして、階段を上がった。
 職長たちは事が起ると見ると、事務所の方へ引き上げていたので、一人も邪魔にならなかった。
 食堂には思いがけず、三分の二以上もの職工が押しつまった。然しその殆んどが、「会社存亡の問題」という考えから集まっていた。それは誤算すると、飛んでもないことだった。そうでなかったらこのフォードの職工がこれだけ集まる筈がなかった。然しそれをすかさず捉えて、強力なアジを使って、その方向を引き寄せて来なければならなかった。――
 その時、薄暗い工場の中を影が突ッきって来た。工場の要所々々に立てゝ置いた見張(ピケット)だった。
 ――森君、佐伯あいつ等が盛んに何んか材料倉庫で相談しているよ。それも柔道着一枚で!
 ――佐伯□
 森本の顔がサッと変った。――暴力で打ッ壊しに来る? それが森本の頭に来た。彼はそんなことになれていなかった。
 ――よし、じゃ仕上場の若手に、こゝに立ってゝ貰おう。――そして愚図々々しないで始めることだ!
 森本は階段を上った。五百人近くの職工のこもったどよめきが、足踏みや椅子をずらす音と一しょになり、重い圧力のように押しかぶさって来た。手筈をきめて置いた激励の演説がそれを太くつらぬいた。離れていると、その一つ一つの言葉が余韻を引きずるように、ハッキリ職工たちをとらえている。潮なりに似た群衆の勢いが――どよめきが分った。それによって、何より会社主義で集っている職工たちを、その演説で引きずり込まなければならないのだ。――彼は嘗(か)つて覚えたことのない血の激しい流れを感じた。これからやってのけなければならない、大きな任務を考えると、彼はガタ/\と身体がふるえ出した。グイと後首筋に力を入れ、顎をひいてもとまらなかった。彼は内心あやふやな恐怖さえ感じていた。こんな時に、河田が側にいてくれたら、たゞいてだけくれても、彼は押し強くやれるのだが、と思った。
 知った顔が振り返って、笑った。――しっかりやってくれ、笑顔がそう云っていた。
 食堂の中はスチィムの熱気と人いきれで、ムンとむれ返っていた。油臭いナッパ服が肩と肩、顔と顔をならべ、腰をかけたり、立ったり――それが或いは腕を胸に組み、頬杖(ほおづえ)をし、演説するものをにらんでいた。彼等はそして自分たちでも知らずに、職場別に一かたまりずつ固まっていた。アナアキストの武林の仲間は、一番後に不貞腐(ふてく)された図太い恰好で、板壁に倚(よ)りかゝっていた。
 左寄りの女工たちは、皆の視線を受けていることを意識して、ぎこちなく水たまりのように固まっていた。今迄の会社のどんな「集会」にも、女工だけは除外していた。女たちは今、その初めてのことゝ、自分たちの引き上げられた地位に興奮していた――。
 壇には鋳物場の増野が立っていた。「俺は何故顔の半分が鬼になったか」彼はそのことをしゃべっていた。身体を振って、ものを云う度に、赤くたゞれた顔がそのまゝ鬼になって、歪んだ。――初め、みんなの中に私語が起った。
 ――また、ひでえ顔をしてるもんだな!
 時々小さい笑い声が交った。然しそれ等がグイ/\と増野の熱に抑えられて行った。
――我々はこれだけの危険を「毎日の仕事」に賭けている。こんな顔になって、諸君は笑うだろう。だが、可哀相な僕は顔だけでよかったと思っている。一日二円にもならない金で、我々は「命」さえも安々と賭けなければならない。ブリキ罐をいじっている製罐部の諸君に、私は何人指のない人間がいるかを知っている。――指の無い人間! それが製罐工場が日本一だということをきいている。で、我々はそんな場合、会社の云いなりしかどうにも出来ない。何故だ? 我々は我々だけの職工の利益を擁護してくれる機関を持っていないからではないか。――増野はもっと元気づいて続けた。
 ――金菱がどうのとか、産業の合理化がどうとか、面倒な理窟は知らない。たゞ我々のうちの半分以上も今首を――首を切られようとして居り、賃銀は下がり、もっとギュウ、ギュウ働かされるそうだ。偉い人はもっと/\儲(もう)けなければならないのだそうだ。――
 彼はそこで水をのむコップを探がした。
 ――で…………。
 水の入ったコップが無かった。彼はそこで吃(ども)ってしまった。カアッと興奮すると、彼は又同じことを云った。すると彼は何処までしゃべったか、見当を失ってしまった。無数の顔が彼の前で、重って、ゆがんで、揺れた。それが何かを叫んでいる。彼は仕方がなくなってしまった。彼は最後のことだけを怒鳴った。
 ――で、工場委員会です。彼奴等の勝手にされていた委員会を我々のものにしなければならない。その第一歩として、委員の選挙です。我々は全部結束いたしまして、この目的のために闘争されんことを、コイ希うものであります。――俺、何しゃべったかなア!
 お終(しま)いに独言ともつかない事をくッつけた。それが皆にきこえたので、ドッと笑った。
 ――よオッく分ったぞ!
 ワザと誰かゞ手をたゝいた。
 お君が森本の後に来ていた。ソッと背を突いた。お君は興奮している時によくある片方の頬だけを真赤にしていた。
 ――耳……。一寸。
 ――ん。
 ――あのね、芳(よっ)ちゃんに出てもらう事にしたの。
 ――芳ちゃん?
 あの「漂泊の孤児」がかい? と思った。何でもものをズケ/\云う河田に従うと、お芳は「漂泊の孤児」だった。顔の膚がカサ/\と艶(つや)がなく、何時でも寒そうな、肩の狭い女だった。無口であったが、思慮のあることしか云わなかった。お君がそばにいると、日陰になったように、その存在が貧相になった。
 ――え、真面目な人は案外思いきったことをするものよ。私でもいゝはいゝけれども、私ならそんな事を云うかも知れない女だってことが分ってるでしょう。だから、そうひどく感動は与えないと思うの。然し芳ちゃんなら、へえッ! って皆がね。――煽動効果満点よ! 無理矢理出さすの。
 お君はずるそうに笑った。しめった赤い唇が、耳のすぐそばにあった。
 次に誰が出るか、それをみんな待った。然し人達は意外なものを見た。片隅から出て行ったのは、「女」ではないか、皆は急にナリをひそめた。――そして、それがあの「芳ちゃん」であることが分ったとき、抑えられた沈黙が、急に跳ねかえった。ガヤ/\とやかましくなった。
 ――あの女が□
 芳ちゃんは壇の上へ、あやふやな足取りで登ると、仲間の女たちのいる方へ少し横を向いて、きちんと両手をさげたまゝ、うつむいて立った。――顔が蒼白(そうはく)だった。
 ――これだけの男の前だぜ。あれで仲々すれッてるんだろう。
 横で、ラッカー工場の職工が云っているのを、森本は耳に入れた。
 芳ちゃんはそのまゝの恰好で、顔をあげずに云い出した。聞きとれないので、皆はしゃべることをやめた。耳の後に掌をあてゝ、みんな背延びをした。
 ――……こゝへ上るのに、どんなに覚悟が要るでしょう……私は生意気かも知れません……でも必死です……誰か矢張り先に立って生意気にならなければ、私たちはどうなって行きますか……。
 ――あの温しい芳公がな。
 一句切れ、一句切れ毎に皆の言葉がはさまった。
 ――ねえ、どう?
 お君は云った。
 ――しっかりしている。
 ――私たち皆と仕事をするようになってから、自分でも分るほど変ってきたわ。
 ――……私たちは男からも、会社からも……何時でも特別待遇をうけてきました……。
 言葉が時々途切れた。
 ――女がこういう所に出て、こうやって話が出来るのは……この工場始まって以来のことかと思います……私たちも一人残らず一緒になり……お助けして行きたいと思っています。皆さんも……どうぞ……。
 芳ちゃんが降りると、ワァーッという声と一緒に、拍手が起った。それが何時迄も続いた。お君の云った通り、男工たちに予想以上の反響を与えた。
 ――矢張り、少し温し過ぎる。
 とお君が云った。
 ――芳ちゃんにしたら大出来だ。然し、よくやってくれた。聞いていると、こう涙が出て来るんだ。
 ――そうね。
 お君は自分の眼をこすった。
 ――さ、行って、賞(ほ)めてやらないと。
 お君は女工たちの方へ走って行った。芳ちゃんは皆に取り巻かれていた。見ると、彼女は堪えていた興奮から、自分でワッ! と泣き出してしまっていた。
 ――安心出来ないよ。
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