工場細胞
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著者名:小林多喜二 

          上 一

 金網の張ってある窓枠(まどわく)に両手がかゝって――その指先きに力が入ったと思うと、男の顔が窓に浮かんできた。
 昼になる少し前だった。「H・S製罐(せいかん)工場」では、五ラインの錻刀切断機(スリッター)、胴付機(ボデイ・マシン)、縁曲機(フレンジャー)、罐巻締機(キャンコ・シーマー)、漏気試験機(エアー・テスター)がコンクリートで固めた床を震わしながら、耳をろうする音響をトタン張りの天井に反響させていた。鉄骨の梁(はり)を渡っているシャフトの滑車(プレー)の各機械を結びつけている幾条ものベルトが、色々な角度に空間を切りながら、ヒタ、ヒタ、ヒタ、タ、タ、タ……と、きまった調子でたるみながら廻転していた。むせッぽい小暗い工場の中をコンヴェイヤーに乗って、機械から機械へ移っていく空罐詰が、それだけ鋭く光った。――女工たちは機械の音に逆った大きな声で唄をうたっていた。で、窓は知らずにいた。
 ――あらッ!
「田中絹代」が声をあげた。この工場の癖で、田中絹代と似ているその女工を誰も本名を云うものはなかった。彼女は窓際に走った。コンヴェイヤーの前に立って、罐のテストをしていた男工の眼が、女の後を辿った。――外から窓に男がせり上がっている。その男は細くまるめた紙を、工場の中に入れようとしているらしい。
 女が走ってくるのを認めると、男の顔が急に元気づいたように見えた。彼女は金網の間から紙を受取ると、耳に窓をあてた。
 ――監督にとられないように、皆に配ってくれ。頼みますよ。
 男は窓の下へ音をさして落ちて行った。が、直(す)ぐ塀を乗り越して行く悍(たくま)しい後姿が見えた。
 昼のボーが鳴ると、機械の騒音が順々に吸われるように落ちて行って――急に女工たちの疳高(かんだか)い声がやかましく目立ってきた。
 ――何ァによ、絹ちゃん、ラヴ・レター?
 ――ラヴ・レターの見本か? 馬鹿に太(で)ッかいもんでないか。
 それを見ていた男工も寄ってきた。
 ――そんな事すると、伝明さんが泣くとよ。
 ――そうかい、出目でなけァ駄目とは恐ろしく物好きな女だな?
 皆が吹き出した。
 田中絹代がビラを皆に一枚々々渡してやった。
 ――な、何ァんでえ、これはまた特別に色気が無いもんでないか。
 ――組合のビラよ。
   失業労働者大会
・市役所へ押しかけろ!
・我等に仕事を与えよ!
・失業者の生活を市で保証せよ!
 仕上場の方から天井の低い薄暗いトロッコ道を、レールを踏んで、森本等が手拭いで首筋から顔をゴシ/\こすりながら出てきた。ズボンのポケットには無雑作に同じビラが突ッこまされていた。
 ――よオッ! 鉄削(かなけづ)りやッてきたな!
 連中を見ると、製罐部の職工が何時もの奴を出した。
 ――何云ってるんだ。この罐々虫!
 負けていなかった。
 ――鉄ばかり削っているうちに、手前えの身体ば鰹節(かつおぶし)みてえに削らねェ用心でもせ!
 製罐部と仕上場の職工は、何時でもはじき合っている。片方は熟練工だし、他方は機械についてさえいればいゝ職工だった。そこから来ていた。普段はそれでもよかったが、何かあると、知らないうちに、各々は別々に固まった。――例えば、仕上場の誰かゞ「歓迎」か「観迎」か分らなかったとする。すると、仕上場全部が「一大事」でも起ったように騒ぎ出す。彼等はこんな事でも充分に夢中になった。頭を幾つ並べてみたところで、同じ位の頭では結局どうしても分らず、持てあましてしまう。然し彼等は道路一つ向うの「事務所」へ出掛けて行って、ネクタイをしめた社員にきくことがあっても、製罐部の方へは行かないのだ。
 相手の胸にこたえるような冗談口をさがして、投げ合いながら、皆ゾロ/\階段を食堂へ上って行った。上から椅子の足を床にずらす音や、女工たちのキャッ/\という声が「塩鱒」の焼ける匂いと一緒に、賑(にぎ)やかに聞えてきた。
 この日、Yの「合同労働組合」のビラは「H・S工場」へ三百枚程入った。職場々々の「職長(おやじ)」さえもビラを持っていた。然し、そのビラのことは食事中ちっとも誰もの話題にならなかった。
 飯が終って、森本が遅く階段を降りてくると、段々のところ/″\や、工場の隅々に、さっきのビラが無雑作にまるめられたり、鼻紙になったり、何枚も捨てられているのを見た。――彼はありありと顔を歪(ゆが)めた。

          二

「H・S製罐会社」は運河に臨んでいた。――Y港の西寄りは鉄道省の埋立地になって居り、その一帯に運河が鑿(ほ)られている。運河の水は油や煤煙を浮かべたまゝ澱(よど)んでいた。発動機船や鰈(かれい)のような平らべったい艀(はしけ)が、水門の橋梁の下をくゞって、運河を出たり入ったりする。――「H・S工場」はその一角に超弩級艦のような灰色の図体を据えていた。それは全く軍艦を思わせた。罐は製品倉庫から運河の岸壁で、そのまゝ荷役が出来るようになっていた。
 市(まち)の人は「H・S工場」を「H・S王国」とか、「Yのフォード」と呼んでいる。――若い職工は帰るときには、ナッパ服を脱(ぬ)いで、金ボタンのついた襟(えり)の低い学生服と換えた。中年の職工や職長(おやじ)はワイシャツを着て、それにネクタイをしめた。――Y駅のプラットフォームにある「近郊名所案内」には「H・S工場、――約十八町」と書かれている。
 Y市は港町の関係上、海陸連絡の運輸労働者――浜人足、仲仕が圧倒的に多かった。朝鮮人がその三割をしめている。それで「労働者」と云えば、Yではそれ等を指していた。彼等はその殆んどが半自由労働者なので、どれも惨(みじ)めな生活をしていた。「H・S工場」の職工はそれで自分等が「労働者」であると云われるのを嫌った。――「H・S工場」に勤めていると云えば、それはそれだけで、近所への一つの「誇り」にさえなっていたのだ。
 
 森本は仕事台に寄っても仕事に実(み)が入らなかった。――彼は今日組合のビラが撒(ま)かれることは知っていたし、又そのビラが撒かれたときの「H・S工場」内の動きについて、ある会合で報告しなければならないことになっていた。だが、見ろ、こんな様(ざま)をオメ/\と一体誰に報告が出来るものか。職工の一人も問題にしないばかりか、巡査上りの守衛から、工場長さえ取り合いもしない。ビラの代りに、工場の中に虻(あぶ)か蜂の一匹でも迷いこんだ方が、それより大きな騒ぎになるかも知れないのだ。「虻」と「ビラ」か! それさえ比較にならないのだ。――そこまでくると、彼はもう張り合いが感ぜられなくなった。
 職場の片隅に取付けてある十馬力の発動機(モーター)は絶え間なく陰鬱な唸(うな)りをたてながら、眼に見えない程足場をゆすっていた。停電に備えるガソリン・エンジンがすぐ側に据えつけられている。――そこは工場の心臓だった。そこから幹線動脈のように、調帯(ベルト)が職場の天井を渡っている主動軸(メエンシャフト)の滑車にかゝっていた。そして、それがそこを基点として更にそれ/″\の機械に各々ちがった幅のベルトでつながっていた。そのまゝが人間の動脈網を思わせる。穿孔機(ボールバン)、旋盤、穿削機(ミーリング)……が鋭い音響をたてながら鉄を削り、孔(あな)をうがち、火花を閃(ひら)めかせた。
 働いている職工たちは、まるで縛りつけられている機械から一生懸命にもがいているように見えた。腰がふん張って、厚い肩が据えられると、タガネの尻を押している腕先きに全身の力が微妙にこもる。生きた骨にそのまゝ鑪(やすり)を当てられるような、不快さが直接(じか)に腕に伝わる。刃先から水沫のように、よれた鉄屑が散った。鍛冶場から、鋲付(リベッティング)の音が一しきり、一しきり機関銃のように起った。
 こゝは製罐部のような小刻(こきざみ)な、一定の調子(リズム)をもった音響でなしに、図太い、グヮン/\した音響が細い鋭い音響と入り交り、汽槌(スチーム・ハンマー)のドズッ、ドズッ! という地響きと鉄敷(かなじき)の上の疳高く張り上がった音が縫って……ごっちゃになり、一つになり、工場全体が轟々(ごうごう)と唸りかえっていた。鍛冶場の火焔が送風器で勢いよく燃え上ると、仕上場にいる職工の片頬だけが、瞬間メラ/\と赤く燃えた。
 天井を縦断している二条のレールをワイヤー・プレーをギリ/\と吊したグレーンが、皆の働いている頭のすぐ上を物凄(ものすご)い音を立てゝ渡って行った。それは鋳物場で型上げしたばかりの、機関車の車輌の三倍もある大きな奴で、ワイヤー受けの溝をほるために、横穿孔機(ボールバン)に据えつけるためだった。
 ――頼むどオ! 南部センベイは安いんだ!
 身体を除(の)けながら、上へ怒鳴っている。
 ――まず緊縮! 文句云うな。手前一人片付けば、サバ/\するァ!
 ハンドルを握っていた職工が上で唾(つば)をひッかける真似をした。
 ――畜生々々!
 下のは大ゲサに横へ跳(は)ねた。
 ――上から見れア、どいつもこいつも薄汚くゴミ/\してやがる。
 ――少し高いところさ上ったと思って、可哀相に畜生、すぐブル根性を出しやがる。
 ――ヘン、だ。手前らを顎(あご)で一度は使っても見たくならァ。
 横ボール盤の側に、四五人の職工とパンパン帽をかぶった職長が集って、ワイヤー・プレーを跛(びっこ)に吊したグレーンがガラ/\と寄ってくるのを見ていた。
 ――オーライ!
 渡り職工の職長が手を挙げた。手先きを見ていたハンドルの職工がグイと手元にひいた。グレーンがとまると、ワイヤー・プレーは余勢でゆるく揺れた。その度にチエンが、ギーイ、ギーイときしんだ。周(ま)わりを取巻いていた職工たちが、その揺れの拍子を捕えて、丁度足場の上へ押して行った。
 ――レッコ、レッコ!
 職長は手先きをお出で/\をするように動かした。チエンがギクシャクしながら、延びてきた。エンヤ、コラサ、エンヤ、コラサ……皆は掛声をかけ始めた。ワイヤー・プレーは底を二つの滑車にのせ、穿孔機(ボールバン)の腕にその軸と翼を締めつけて、固定された。グレーンが喧(やかま)しい音をたてゝ、チエンを捲き上げた。白墨を耳に挟(はさ)んだ彼等は、据えつけた機械のまわりを歩いたり、指先きでこすってみたり、ヤレ、ヤレという顔をした。
 ――森本のところからは、それが蟻(あり)が手におえない大きなものを寄って、たかって引きずッているように見えた。素晴しく大きな鉄の機械の前には、人間は汚れた鉄クソのように小さかった。彼は製罐部の護謨塗機(ライニング・マシン)の壊れた部分品を、万力台(バイス)にはさんで、鑪(やすり)をかけていた。――足場の乗りが一分ちがったとする。その時チエンがほぐれて……。と、あの大きなワイヤー・プレーはたった一つの音もたてずに、グイと手前にのめってくる。四人の職工のあばら骨が障子の骨より他愛なくひッつぶされてしまう。たった一分のちがいだとしても。二円にもならない、そこそこの日給を稼ぐために、職工は安々と命をかけている。――だのに、この職工たちは「ビラ」を鼻紙にしてしまった!
 彼はマシン油で汚れた手を、ナッパの尻にゴシ/\こすった。「ま、それでもいゝだろう……!」――そして彼はフン、と鼻をならした。

          三

 終業のボーが鳴ると、皆は仕事場から一散に洗面所へ馳(か)け出した。狭いコンクリートの壁が、女湯のような喧ましさをグヮン/\響きかえした。顔の所々(ところどころ)しか写らない剥げた鏡の前で、膚ぬぎになった職工たちが、石鹸(せっけん)の泡とお湯をはね飛ばした。悍しい肩と上膊の筋肉がその度にグリ、グリッとムクレ上った。
 ――馬鹿野郎め、石鹸が泣きやがる、オイ鑪でゴシ/\やってくれ。
 ――田中絹代さんにふられたいってね。
 ――オヤ/\だ、この野郎。
 割り込んで来る奴を、両方のが尻と尻をくッつけて邪魔をした。
 ――何んだ、大きくもない尻(けつ)を! 尻を割るど、此奴!
 ――へえ、済みませんね、エミちゃんのお尻でなくて。
 ――抱くにも、抱かれぬッてとこだな。ハハヽヽヽヽヽ。
 その後で、皆は手拭(てぬぐい)を首にまきつけて、つッ立ったり、白い角(かく)の浮石鹸を手玉にしたり、待っていた。
 ――こん畜生、だまってるとえゝ気になりやがって、棒杭(ぼうぐい)じゃないんだど。
 と、云われた奴が石鹸で顔中をモグモグさせながら、
 ――へえ、何時(いつ)人間様になったかな。俺はまた職工さんだとばかり思っていたが!
 見当ちがいの方を見て、云いかえした。
 申訳程の仕切りがあって、女工たちの洗面所がすぐ続いていた。洗面所にしゃがむと、女工たちの腰から下が見えた。職工たちは腰から下だけの「格好」で、誰が誰かを見分けるのに慣れていた。顔を何時までも洗っている振りをして、職工たちはそれを見ていた。
 ――あの三番目が「モンナミ」の彩(あや)ちゃんだど。
 工場では、Y市の有名なカフエーやバーのめずらしい名前をとってきて、「シャン」な女工を呼んでいる。
 ――どうだいあの腰の工合は!
 ――あいつ、この頃めっきり大人になってきたぞ。フン!
 ――腰がものを云うからな。
 ――こっちは誰だ?
 ――おッと、動いたぞ。足を交えた。……いゝなア、畜生!
 ――オイッ!
 後に立っているものが、それを見付けて、いきなり二つ並んでいる頭を両方からゴツンとやった。
 ――出歯亀!
 女の方で何か云いながら、一度にワッ、と笑い出した。すると、こっちでもわざと声をあげた。
 洗面所を出ると、出口で両方から一緒になった。帰るとき、女たちはまるッきり別な人になって出てきた。
 ――お前は誰だっけな?
 煙筒や汽罐の打鋲(リベッティング)をやっている六十に近い眼の悪い、耳の遠い職工には、本当に見分けがつかない。
 ――プッ! お爺さん、色気なくなったね。
 そして女に背中をたゝかれた。
 ――お婆さんを間違わないでね。
 ――こん畜生!
 会社は、女工が帰りに「お嬢さん」になることにも、カフエーの「女給(ウエイトレス)」になることにも、職工が「学生」になることにも、「会社員」になることにも、黙っていた。それだけの事が出来るから、そうするので、そこには少しの差支もある筈(はず)がない。Y市を見渡してみても、職工にそれだけのことの出来る待遇を与えている工場はあるまい、工場長はそう云っていた。
 洗面所を出ると、狭い廊下を肩で押し合いながら、二階の「脱衣室」に上って行った。両側が廃品(アウト)倉庫になって居り、箱が何十階のビルジングのように、うず高く積まさっていた。そこは暗かった。――女がキャッ! と叫んだ。そこへ来ると、誰か女によく悪戯(いたずら)した。
 ――この、いけすかない男!
 ――オイ、今日は……?
 ――今日? 約束があるの。
 ――本当か。何んの約束だ。誰と?
 ――これでも、ちァんとね。
 ――こん畜生!
 其処(そこ)では、何時でも手早い「やりとり」が交わされることになっていた。
 職工はよく仕事をしながら、次の持場にいる女と夜会う約束をするために、コンヴェイヤーに乗って来る罐詰に、
「ハシ、六」
 と書いてやる。男は手先きだけ動かしながら、その罐が機械の向うかげにいる女の前を通って行くのを見ている。女はチラッと見つけると、それを消して、そして男に微笑(ほほえ)んでみせる。
 ――「六時、何時もの橋のところ」というのが、その意味だった。そういうのが幾組もある。
 森本は顔をしかめた。こういう中から一体自分たちの仕事の仲間になってくれるようなものが、何人出るのだ。それを思うと、胸の下が妙に不安になり、落付けなくなった。

 脱衣所の入口に掲示が出ていた。森本は始め「ホオッ!」と思った。皆が服の袖に手を通しながら、その前に立っていた。
   告

 皆サンモ知ッテイル通リ、本日何者カヾ当工場ニ「失業者大会」ノビラヲ撒イテ行キマシタ。云ウマデモナク最近ノ不況ハドシ/\失業者ヲ街頭ニ投ゲ出シテ居リ、ソレハ全く見ルニ忍ビナイモノサエアルノデス。然シ我工場ハ幸イニシテ、皆サンノ勤勉努力にヨッテ、ソノ些々タル影響モ受ケテイナイノデアリマス。一度工場外ニ足ヲフミ出シテ見レバ分ル通リ、当工場ハマサニ「Yノフォード」タル名ニ恥シクナイ充分ノ待遇ヲ、ソノ時間ノ点カラ云ッテモ、ソノ賃銀ノ上カラ云ッテモ、皆サンニ与エテ居ルノデアリマスカラ、コノ際決シテ、カヽル宣伝ニ附和雷同セザル様、呉々モ申述ベテ置ク次第デアリマス。
 右工場長 森本はそれを読むのに何故かあせりを感じて、字を飛ばした。
 ――チエッ! 行きとゞいてやがる!
 彼はその言葉が、自分ながら不覚にもかぶとを脱いだ心のゆるみを出しているのにハッとした。彼は油っぽい形のくずれた鳥打ちを無雑作にかぶった。
 工場の前の狭い通りを、その幅を一杯にみたして、職工や女工が同じ方向へ流れていた。彼はその中に入りながら、独(ひと)りであることのうそ寒さを感じていた。
 運河の鉄橋を渡ると、税関や波止場、水上署、汽船会社、倉庫続きの浜通りだった。――浜人夫がタオ/\としわむ「歩板(あゆみ)」を渡って、艀から荷降しをしていた。然し所々に何人もの人夫が固まって、立っていた。それ等の労働者は瀬戸を重ねた大きな弁当を、地べたにそのまゝ置いたり、ぶら下げたり、他の人達の働いているのを見ていた。――「あぶれた」人夫達だった。
 夏枯(なつがれ)時で、港には仕事らしい仕事は一つもないのだ。市役所へおしかけようとしている連中がそれだった。岸壁につながっている艀はどの艀も死んだ鰈を思わせた。桟橋(さんばし)に近い道端に、林檎(りんご)や夏蜜柑(みかん)を積み重ねた売子が、人の足元をポカンと坐って見ていた。
 その「あぶれた」人足たちは「H・S工場」の職工達が鉄橋を渡ってくるのを見ていた。ありありと羨望の色が彼等の顔をゆがめていた。「H・S」の職工たちは「俺らはお前たちの仲間とは異(ちが)うんだぞ」という態度をオッぴらに出して、サッサと彼等の前を通り過ぎてしまった。この事は然し脱衣室の前の貼紙がなくても、そうだったのだ。
 浜人足――この運輸労働者達は「親方制度」とか「現場制度」とか、色々な小分立や封建的な苛酷な搾取(さくしゅ)をうけ、頭をはねられ、追いつめられた生活をしているので、何かのキッカケでよくストライキを起した。Y市の「合同労働組合」はこれ等の労働者をその主体にしていた。しかし「H・S工場」の職工は一人も入っていないと云ってよかった。
 森本はその浜の労働者のうちに知った顔を幾つか見付けた。組合で顔を合せたことのある人達だった。然し彼は今、この職工たちの中にいては、その人達に言葉をかける「図々しさ」を失っていた。

          四

 父は帰っていなかった。――六十を越している父は、彼より朝一時間早く出て行って、二時間遅く帰ってくる。陸仲仕の「山三現場」に出ていた。耳が遠くなり、もう眼に「ガス」がかゝっていた。電話の用もきかず、きまった仕事の半分も出来ないので、親方から毎日露骨にイヤな顔をされていた。然し二十年以上も勤務している手前、親方も一寸どう手をつけていゝか困りきっているらしかった。
 ――つらいなア……!
 フッとそれが出る。朝やっぱり出渋(でしぶ)るのだ。
 ――仕事より親方の顔ば見てれば、とッても……なア!
 まだ暗い出掛けに上り端で、仕事着の父親がゴリ/\ッと音をさして腰をのばす。それを聞く度に彼は居たまらない苦痛を感じた。――然し彼は、何時かこの父親をもっと、もっと惨めにしてしまわなければならない事を、フト考えた。――
 家の中は一日中の暑気で湿ッ気と小便臭い匂いがこもり、ムレた畳の皮がブワ/\ふくれ上っていた、汗ばんだ足裏に、それがベタ/\とねばった。
 猿又一つになって机の前に坐ると、手紙が来ていた。「中野英一」というのが差出人だった。それは工場の女工だった。その女を森本はようやく見付けたのだった。そのたった「一つ」をまず足場に、女工のなかにつながりを作って行かなければならなかった。彼は組合の河田からその方針について、指令をうけていた。手紙は簡単に「トニカク、クワシイ事ヲオ話シマショウ。明日八時、石切山ノ下デマッテイマス。」――書くなと云った通り、自分の名前も、宛(あ)てた森本の名も書いてなかった。
 夏の遅い日暮がくると、団扇(うちわ)位のなま涼しい風が――分らないうちに吹いてきていた。白い、さらしの襦袢(じゅばん)一枚だけで、小路に出ていた長屋の人達が、ようやく低いパン窯(かまど)のような家の中に入ってきた。棒切れをもった子供の一隊が、着物の前をはだけて、泥溝(どぶ)板をガタ/\させ、走り廻っていた。何時迄も夕映(ゆうばえ)を残して、澄んでいる空に、その喚声がひゞきかえった。
 ――腹減らしの餓鬼(がき)どもだ!
 父が帰ってきた。父は入口でノドをゴロ、ゴロならした。
 ――どうだった、父(とっ)ちゃの方は?
 ――ン?
 彼は父が何時でも「労働者大会」とか「労働組合」とか、そんなものに反対なのを知っている。父はそれだから二十何年も勤めて来られたのかもしれない。そして今毛一本程の危(あやう)さで、首をつないでいるにしても、自分は「日雇」でない、だから、そんなワケの分らないことに引きずり込まれたらことだと思っているらしかった。
 ――事務所の前で気勢ば上げていたケ。あぶれた奴等ば集めてナ。
 ――組合のものだべ、あれア!
 父は新聞の話でもするような無関心さで云った。
 ――他人(ひと)事でないど、父ちゃ。今に首になればな。
 父は返事をしないで、薄暗い土間にゴソ、ゴソ音をさせた。少しでも暗いと、「ガス」のかゝった眼は、まるッきり父をどまつかせた。父は裏へまわって行った。便所のすぐ横に、父は無器用な棚をこしらえて、それに花鉢を三つ程ならべていた。その辺は便所の匂いで、プン/\していた。父は家を出ると、キット夜店から値切った安い鉢(はち)を買ってくる。
 ――この道楽爺! 飯もロク/\食えねえ時に!
 母はその度に怒鳴った。その外のことでは、ひどい喧嘩(けんか)になることがあっても、鉢のことだと父は不思議に、何時でもたゞニヤ/\していた。――父はおかしい程それを大事にした。帰ってくると、家へ上る前に必ず自分で水をやることにしていた。仕方なく誰かに頼んで、頼んだものが忘れることでもあると、父は本気に怒った。――可哀相に、奴隷根性のハケ口さ、と森本は笑っていた。
 ――今日の暑気で、どれもグンナリだ。
 裏で独言(ひとりごと)を云っているのが聞えた。
「H・S工場」にも、少し年輩の職工は小鳥を飼ってみたり、花鉢を色々集めてみたり、規帳面(きちょうめん)にそれの世話をしてみたり、公休日毎に、家の細々した造作を作りかえてみたりする人が沢山(たくさん)いた。職工の一人は工場へ鉢を持ってきて、自分の仕事台の側にそれを置いた。
 ――花のような美人(べっぴん)ッて云うべ。んだら、これ美人(べっぴん)のような花だべ。美人の花ば見て暮すウさ。
 工場に置かれた花は、マシン油の匂いと鉄屑とほこりと轟々たる音響で身もだえした。そして、其処では一週間ももたないことが発見された。
 ――へえ!
皆は眼をまるくした。
 ――で、人間様はどういう事になるんだ?
 居合わせた森本がフト冗談口をすべらした。――すべらしてしまってから、自分の云った大きな意味に気付いた。
 胴付機(ボデイメエカー)の武林が小馬鹿にして笑った。
 ――夜店で別な奴と取りかえてくるさ。労働者はネ、選(よ)りどり自由ときてらア、ハヽヽヽヽヽ。
 新聞社の印刷工などに知り合いを持っているアナアキストの職工だった。――
 父が裏口から何か云っている。声が聞えず、動く口だけが汚れた硝子(ガラス)から見えた。
 ――お前、十五銭ばかし持ってないかな。
 具合悪そうに、そう云っているのだ。
 彼は又かと思った。「うん」と云うと、父は子供のような喜びをそのまゝ顔に出した。
 ――えゝ鉢があってナ、市(まち)さ出るたびに眼ばつけてたんだどもナ……!

          五

 暗くなるのを待った。その「会合」は秘密にされなければならなかった。
 ――活動へ行ってくるよ。
 家へはそう云った。昼のほとぼりで家の中にいたまらない長屋の人達は、夕飯が済むと、家を開(あ)けッ放しにしたまゝ、表へ台を持ち出して涼んだ。小路は泥溝(どぶ)の匂いで、プン/\している。それでも家の中よりはさっぱりしていた。大抵裸だった。近所の人たちと声高に話し合っていた。若い男と女は離れた暗がりに蹲(しゃが)んでいた。団扇だけが白く、ヒラ/\動くのが見えた。森本はそのなかを、挨拶をしながら表通りへ抜けた。――この町は「工場」へ出ている人達、「港」へ出ている人達、「日雇」の人達と、それ/″\何処かに別々な気持をもって住んでいる。
 この一帯はY市の端(は)ずれになっていた。端ずれは端ずれでも、Y市であることには違いなかった。然しこのT町の人達は、用事で市の中央に出掛けて行くのに、「Yへ行ってくる」と云った。何か離れた田舎からでも出掛けて行くように。乗合自動車も、円タクも、人力車もT町迄だと、市外と同じ「割増し」をとった。――こゝは暗くて、ジメ/\していて、臭(くさ)くて、煤(すす)けていた。労働者の街だった。つぶれた羊羹(ようかん)のような長屋が、足場の据(すわ)らないジュク/\した湿地に、床を埋めている。
 森本は暗いところを選んで歩いた。角を曲がる時だけ立ち止った。場所はワザと賑かな、明るい通りに面した家にされていた。裏がそこの入口だった。彼は決められていたように、二度その家の前を往復してみて、裏口へまわった。戸を開けると、鼻ッ先きに勾配の急な階段がせまった。彼は爪先きで探(さぐ)って――階段の刻(きざ)みを一つ一つ登った。粗末な階段はハネつるべのようなキシミを足元でたてた。彼は少し猫背の厚い肩を窮屈にゆがめた。頭がつッかえた。
 ――誰?
 上から光の幅と一緒に、河田の声が落ちてきた。
 ――森。
 ――あ、ご苦労。
 室一杯煙草の煙がこめて、喫(の)みつくしたバットの口と吸殻が小皿から乱雑に畳の上に、こぼれていた。何か別な討議がされた後らしい。立ってきた河田は、森本の入った後を自分で閉めた。彼は大きな臼のような頭をガリ、ガリに刈っていた。それにのそりと身体が大きいので、「悪党坊主」を思わせた。何時でも、ものゝ云い方がブッキラ棒なので、人には傲慢(ごうまん)だと思われていたかも知れなかった。然しそれだから岩のようなすわりがあるんだ、と組合のものが云っていた。
 仰向(あおむ)けになって、バットの銀紙で台付コップを拵(こし)らえていた石川が、彼を見ると頭をあげた。
 ――よオッ!
 石川はもと「R鋳物工場」にいたことがあるので、前からよく知っていた。彼が河田を知ったのも、石川の紹介からだった。石川が組合に入るようになってから、森本はそういう方面の教育を色々彼から受けた。それまでの彼は、普通の職工と同じように、安淫売をひやかしたり、活動をのぞいたり、買喰いをしたり喧嘩をして歩いていた。それから青年団の演説もキッパリやめてしまった。
 もう一人の鈴木とは前に一寸しか会っていなかった。神経質らしい、一番鋭い顔をしていた。何時でも不機嫌らしく口数が少なかったので、森本にはまだ親しみが出ていなかった。彼は膝を抱えて、身体(からだ)をゆすっていたが、煙を出すために窓を開けた。急に、波のような音が入ってきた。下のアスファルトをゾロ/\と、しっきりなしに人達が歩いている。その足音だった。多燈(スズラン)式照明燈が両側から腕をのばして、その下に夜店が並んでいた。――植木屋、古本屋、万年筆屋、果物屋、支那人、大学帽……。人達は、方向のちがった二本の幅広い調帯(ベルト)のように、両側を流れていた。何時迄見ていてもそれに切れ目が来ない。
 ――暇な人間も多いんだな。
 ――鈴木君、顔を出すと危いど。
 河田が謄写版刷りの番号を揃(そろ)えていたが、顔をあげた。
 ――顔を出すと危いか。ハヽヽヽ、汽車に乗ったようだな。
 ――じァ、やっちまうか……。
 灰皿を取り囲んで四人が坐った。
 ――森本君とはまだ二度しか会っていないから、或いは僕等の態度がよく分っていないかと思うんだ……。
 河田は眉をひそめながらバットをせわしく吸った。
 ――手ッ取り早く云うと、こうだと思うんだが……。これまでの日本の左翼の運動は可なり活発だったと云える。殊に日本は資本主義の発展がどの分野でゝも遅れていた。それが戦争だとか、其他色ンナ関係から急激に――外国が十年もかゝったところを、五年位に距離を縮めて発展してきた。プロレタリアも矢張り急激に溢(あふ)れるように製造されたわけだ。そこへもってきて、戦争後の不景気だ。で、日本の運動がそこから跳ねッかえりに、持ち上ってきたワケだ。然し問題なのは、その「活発」ッてことだ。何故活発だったか、これだ。――僕らにはあの「三・一五事件」があってから、そのことが始めてハッキリ分ったんだが……手ッ取り早く云えば、工場に根を持っていなかったという事からそれが来ていた。それも「大工場」「重工業の工場」には全然手がついていなかったと云ってもいゝんだ。Yをみたってそうだ。労働組合の実勢力をなしているのが、港の運輸労働者だ。それはそれ/″\細かく分立している。それに実質上は何んたって反自由労働者で、職場から離れている。だから成る程事毎に動員はきくし、それはそして一寸見は如何にもパッとして華やかだ。日本の運動が活発だったというのは、こゝんとこから来ていると思うんだ。然し何より組織の点から云ったら、零(ゼロ)だった。チリ/\バラ/\のところから起ったんだから、終ったあとも直ぐチリ/\バラ/\だ。統計をみたって分るが、その間大工場は眠っている牛のように動かなかったんだ。――工場が動きづらい理由はそれァある。ギュッ/\させられている小工場は別として、何千、何万の労働者を使っている高度に発達した大工場となると、とても容易でないのだ。――容易でないが、「大工場の組織」を除いて、僕らの運動は絶対にあり得ないのだ。早い話が、この近所に小さい争議を千回起すより、夕張と美唄二つだけの炭山にストライキを起してみろ。日本の重要産業がピタリと止まってしまう。これは決して大それた事でなくて、ストライキは必ずこういう方向に進んで行かなければならない事を示していると思うんだ。――今迄の繰りかえしのようなストライキはやめることだ。だから……どうも、何んだかすっかり先生らしくなったな……。
 河田が「臼」を一撫(ひとな)でした。
 ――ま、詳しいことは又色んな時にゆっくりやれるとして。とにかく今になって云うのも変だが、「三・一五事件」で、何故僕らがあの位もの要らない犠牲を払ったか、ということだ。それは、さっき云ったあの華々しい運動をやっていた先輩たちが、非合法運動なのに、今迄の癖がとれず、時々金魚のように水面へ身体をプク/\浮かばしていたところから来てるんだ。工場に根をもった、沈んだ仕事をしていなかったからだ。――実際、僕たちの仕事が、工場の中へ、中へと沈んで行って、見えなくなってしまわなければならなかったのに、それを演壇の上にかけのぼって、諸君は! とがなってみたり、ビラを持って街を走り廻わることだと、勘ちがいをしてしまったのだ。――日本の運動もこゝまで分ってきた…………。
 ――ところが、本当は仲々分らないんだよ。恐ろしいもんだ。
 石川が河田の言葉をとった。銀紙のコップをバットの空箱に立てながら、何時ものハッキリしない笑顔を人なつッこく森本に向けた。
 ――ボロ船の舵(かじ)のようなもので、ハンドルを廻わしてから一時間もして、ようやくきいてくるッてところだ。今迄の誤ッてた運動の実践上の惰勢もあるし、これは何んてたって強い。それに工場の方は仕事はジミだし、又実際ジミであればあるほどいゝのだから……仲々ね。――
 ――それは本当だ。でねえ、僕らが何故口をひらけば「工場の沈んだ組織」と七くどく云うかと云えば、仮りにYのような浮かんだ労働組合を千回作ったとしても、「三・一五」が同様に千回あれば、千回ともペチャンコなのだ。それじゃ革命にも、暴動にも同じく一たまりもないワケだ。話が大きいか。ところが、こうなのだ。最近戦争の危機がせまっていると見えて、官営の軍器工場では、この不況にも不拘(かかわらず)、こっそり人をふやしてるらしい。M市のS工場などは三千のところが、五千人になっているそうだ。この場合だ。僕らが、その工場の中に組織を作って行ったとする。それは勿論、表面などに「活発にも」「花々しく」も出すどころか、絶対に秘密にやって行くわけだ。そこへ愈々(いよいよ)戦争になる。その時その組織が動き出すのだ。ストライキを起す。――軍器製造反対だ。軍器の製造がピタリととまる。それが例えば大阪のようなところであり、そして一つの工場だけでなかったとしたら、戦争もやんでしまうではないか。こゝを云うのだ。――然しこんなことをY労働組合の誰かに云ったら、夢か、夢を見てるのかと云われそうだ。がこれだけは絶対に今からやって行かないと、乞食(こじき)の頭数を集めるように、その場になって、とてもオイそれと出来ることではないんだ。
 ――僕らはそれをやって行こうと思っているんだ。そのために……。
 ――俺も失敗(しくじ)ったよ。
 石川が云った。
 ――職場ば離れるんでなかった。な、河田君!
 ――然しあの頃と云ったら、組合へ必ず出てきて、謄写版を刷って、ビラをまくことしか「運動」と云わなかったもんだ。
 ――そうなんだ。正直に云って、工場にじっとしていることが、良心的にたまらなかったんだ、あの頃は。
 森本は初めて口を入れた。
 ――然し工場は動きづらいと思うんです。大工場になると「監獄部屋」のようなことはしないんですから……。
 彼は今日の工場の様子を詳しく話した。河田たちは一つ、一つ注意深くきいていた。
 ――それはそうだ。
 と河田が言った。
 ――だから今迄何時も工場が後廻わしになってきたのだ。

          六

 森本は河田に云われて、「H・S工場」の地図を書いた。河田はその他に、市内の色々な工場の地図を持っていた。それからY市の全図を拡げて「H・S」のところに赤い印をつけた。
 ――水上署とは余程離れてるだろうか。
 ――四……四町位でしょう。
 ――四町ね?
 ――悪いところに立ってるな。
 石川が顔をあげた。
 ――この市(まち)の水上はドウ猛だからな。

 森本は工場について一通り説明した。――工場Aが製罐部で、罐胴をつくるボデイ・ラインと罐蓋をつくるトップ・ラインに分れている。ボデイの方は、ブリキを切断して、円く胴をつくり、蓋(ふた)をくっツけて締めつけ、それが空気が漏(も)れないか、どうかを調べる。切断機(スリッター)、胴付機(ボデイ・マシン)、罐縁曲機(フレンジャー)、罐巻締機(キャンコ・シーマー)、空気検査機(エアー・テスター)などがその機械で、トップの方は錻力圧搾機(プレス)、波形切断機(スクロール)、と蓋の溝にゴムを巻きつける護謨塗機(ライニング・マシン)がある。――工場Bは、階下はラッカー工場で、罐に漆(うるし)を塗るところで、作業は秘密にされていた。階上は罐をつめる箱をつくるネーリング工場で、側板、妻板、仲仕切りを作っている。――出来上った罐とこの空箱が倉庫の二階のパッキング・ルームに落ち合って、荷造りされるわけである。工場Cは森本たちのいる仕上場になっていた。
 ――その外の附属は?
 河田がきいた。
 ――実験室。これはラバー(ゴム引き)の試験と漆塗料の研究をやっています。こゝにいる人は私らにひどく理解を持ってゝくれるんです。どッかの大学を首になったッて話です。
 ――自由主義者ッてところだろう。
 ――それから製図室と云って、産業の合理化だかを研究しているところがあります。
 ――ホ、産業の合理化?
 河田が調子の変った響きをあげた。
 ――「H・S工場」が始めて完全なコンヴェイヤー組織にかえられたのも、こゝの部員があずかって力があったそうです。――その時は一度に人が随分要らなくなったので、とう/\ストライキになって、職工たちが夜中に工場へ押しかけて行って、守衛をブン殴(な)ぐって、そのコンヴェイヤーのベルトを滅茶苦茶にしてしまったことがありました。何んしろ、作業と作業の間に一分の隙(すき)もない程に連絡がとれて居り、職場々々の職工たちは、コンヴェイヤーに乗って徐々に動いて来る罐が、自分の前を通り過ぎて行く間に割り当てられた仕事をすればいゝというようになってしまったのですから、たまりません。縁曲機(フレンジャー)なども、もとは職工がついていたが、今使っている機械は自動化されて、一人も要らなくなったんです。
 ――ん。
 ――今工場ではブリキ板を運ぶのに、トロッコを使っていますが、あれも若しコンヴェイヤー装置にでもしてしまうような事があったら、そこでも亦(また)人がオッ出されるわけでしょう。
 ――なるだろう。なるね。
 ――なるんです。製図室や実験室の人達には懸賞金がかけられているんです。
 ――うまいもんだ。
 ――その人達は何時でも、アメリカから取り寄せて、モーターやボイラーの写真の入った雑誌を読んでいます。
 ――これから色々僕たちの仕事を進めていく上に、職工のことゝは又別に、会社の所謂(いわゆる)「高等政策」ッてものも是非必要なのだ。で、上の方の奴をその意味で利用することを考えてもらいたいと思うんだ。
 森本はうなずいた。
 ――工場のことでも、私らの知っていることは、ホンのちょッぴりよりありません。
 ――そうだと思うんだ。……それでと……。
 眼が腕時計の上をチラッとすべった。
 ――そうだな……。
 疲れたらしく、石川が口の中だけで、小さくあくびを噛(か)んだ。
 ――ン、それから工場の中の対立関係と云うかな……あるだろうね。
 ――え……職場々々で矢張りあります。仕上場の方は熟練工だし、製罐部の方はどっちかと云えば、女工でも出来る仕事です。それで…………。
 森本がそう云って、頭に手をやった。河田は彼のはにかんだ笑い顔を初めてみたと思った。角ばった、ごッつい顔だと思っていたのに、笑うと輪廓(りんかく)がほころんで、眼尻に人なつッこい柔味が浮かんだ。それは思いがけないことだった。
 ――私らなど、何んかすると……金属工なんだぜ、と……その方の大将なんです。それから日雇や荷役方は職工と一寸変です。事務所の社員に対しては、これは何処(どこ)にでもあるでしょう。――女事務員は大抵女学校は出ているので、服装から違うわけです。用事があって、工場を通ることでもあると、女工たちの間はそれア喧しいものです。
 森本は声を出して笑って、
 ――男の方だって、さアーとした服を着ている社員様をみるとね。ところが、会社には勤勉な職工を社員にするという規定があるんです。会社はそれを又実にうまく使っているようです。ずウッと前に一人か二人を思い切って社員にしたことがあります。然しそれはそれッ切りで、それからは仲々したことが無いんですが、そういうのが変にきいてるらしいんです。
 河田は誰よりも聞いていた。鈴木は然し最後まで一言もしゃべらなかった。拇指(おやゆび)の爪を噛んだり、頭をゴシ/\やったり――それでも所々顔を上げて聞いたゞけだった。
 森本は更に河田から次の会合までの調査事項を受取った。「工場調査票」一号、二号。
 河田はこうしてY市内の「重要工場」を充分に細密に調査していた。それ等の工場の中に組織を作り、その工場の代表者達で、一つの「組織」と「連絡」の機関を作るためだった。「工場代表者会議」がそれだった。――河田はその大きな意図を持って、仕事をやっていたのだ。ある一つの工場だけに問題が起ったとしても、それはその機関を通じて、直ちにそして同時に、Y市全体の工場の問題にすることが出来るのだ。この仕事を地下に沈ませて、強固にジリ/\と進めていく! それこそ、どんな「弾圧」にも耐え得るものとなるだろう。この基礎の上に、根ゆるぎのしない産業別の労働組合を建てることが出来る。――河田は眼を輝かして、そのことを云った。
 ――ブルジョワさえこれと同じことを已(すで)にやってるんだ。工場主たちは「三々会」だとか、「水曜会」だとか、そんな名称でチャンとお互の連絡と結束を計ってるんだ。
 暗い階段を両方の手すりに身体を浮かして、降りてくると、河田も降りてきた。
 ――君は大切な人間なんだ。絶対に警察に顔を知られてはならないんだからね。
 森本は頬に河田の息吹きを感じた。
 ――「工場細胞」として働いてもらおうと思ってるんだ。
 彼の右手は階段の下の、厚く澱んだ闇の中でしっかりと握りしめられていた。
 彼は外へ出た。気をとられていた。小路のドブ板を拾いながら、足は何度も躓(つまず)いた。
 ――工場細胞!
 彼はそれを繰り返えした。繰りかえしているうちに、ジリ/\と底から興奮してくる自分を感じた。

          七

 この会合は来るときも、帰るときも必ず連れ立たないことにされていた。森本も鈴木も別々に帰った。
 ……俺へばりついても、この仕事だけはやって行こうと思ってる。命が的になるかも知れないが……。
 前に帰ったものとの間隔を置くために待っていた河田が厚い肩をゆすぶった。
 ――警察ではこう云ってるそうだ。俺とか君とか鈴木とか、表(おもて)に出てしまった人間なんて、チットも恐ろしくない。これからは顔の知られない奴だって。彼奴(きゃつ)等だって、ちァんと俺たちの運動の方向をつかんだ云い方をするよ。だから彼奴等のスパイ政策も変ってきたらしい。特高係とか何んとか、所詮表看板をブラ下げたものに彼奴等自身もあまり重きを置かなくなってきたらしいんだ。
 ――フうん、やるもんだな。
 ――合法活動ならイザ知らず、運動が沈んでくれば、そんなスパイの踏みこめるところなど知れたものだ。恐ろしいのは仲間がスパイの時だ。或いは途中でスパイにされたときだ。買収だな。早い話が……。
 ――オイ/\頼むぜ。
 石川がムキな声を出した。
 ――ハヽヽヽヽ。まアさ、君がこっそり貰ってるとすれば、今晩のことはそのまゝ筒抜けだ。特高係など、私が労働運動者ですと、フレて歩く合法主義者と同じで、恐ろしさには限度があるんだ。外部でなくて内部だよ。
 ――また気味の悪いことを云いやがるな。
 河田はだが屈託なさそうに、鉢の大きい頭をゴシ/\掻(か)いて笑った。それから、
 ――本当だぜ!
 と云った。そして腕時計を見た。
 ――今日は俺が先きに帰るからな。
 河田はそこから出ると、萬百貨店の前のアスファルトを、片手にハンカチを持って歩いていた。一寸蹲めば分る小間物屋の時計が八時を指していた。彼は其処を二度往き来した。敷島をふかしてくる男と会うためだった。彼が前にその男から受取った手紙の日附から丁度十日目の午後八時だった。それは約束された時間だった。彼は表の方を注意しながら、三銭切手を一枚買った。会ったときの合図にそれが必要だった。その店を出しなに、フト前から来る背広の人が敷島をふかしているのに気付いた。彼はその服装を見た。一寸躊躇(ちゅうちょ)を感じた。然しその眼は明かに誰かを探がしていた。彼は思わずハンカチを握っている掌(てのひら)に力が入った。
 男が寄ってきた。で彼も何気ない様子を装って、その男と同じ方へ歩き出した。彼から口を切った。
 ――山田です。
 すると、背広の男は直ぐ
 ――川村。
 と云った。
「山」と「川」が合った。二人は人通りのあまり多くない河端(ぶち)を下りて行った。少し行くと、男が、
 ――何処か休む処がないですか。
 と云った。
 ――そうですね。
 河田は両側を探して歩いた。そして小さいレストランの二階へ上った。
 テーブルに坐ると、男がポケットから三銭切手を出した。その 3sn の 3 がインクで消されていた。河田もさっきの三銭切手を出して、その sn の方を消した。二人は完全に「同志」であることが分った。――男は中央から派遣されてきた党のオルガナイザーだった。
 河田はY地方の情勢や党員獲得数などを、そこで話し出した。

          八

 鈴木は少しでも長く河田や石川などゝいることに苦痛を覚えた。彼は心が少しも楽しまないのだ。誇張なしに、彼は自分があらゆるものから隔てられている事を感じていた。そしてその感情に何時でも負かされていた。――およそ、プロレタリヤ的でない! 然し自分は一体「運動」を通じて、運動をしているのか、「人」を信じて運動をしているのか? 河田や石川が自分にとって、どうであろうと、それが自分の運動に対する「気持」を一体どうにも変えようが無い筈ではないか。――又変えてはならないのだ。そうだ、それは分る。然し直ぐ次にくるこの「淋しさ」は何んだろう? ――彼はもう自分が道を踏み迷っていることを知っていた。
 理論的にも、実践的にも、それに個人的な感情の上からでも、あせっている自分の肩先きを、グイ/\と乗り越してゆく仲間を見ることに、彼は拷問にたえる以上の苦痛を感じた。こういう迷いの一ッ切れも感じたことのないらしい他の同志を、彼はうらやましく思った。――然し彼はこういう無産運動が、外から見る程の華々しい純情的なものでもなく、醜いいがみ合いと小商人たちより劣る掛引に充ちていることを知った。それは彼に恐ろしいまでの失望を強いた。
 ――運動ではお前は河田達の先輩なんだぜ。
 その言葉の陰は「それでも口惜(くや)しくないのか。」と云っていた。それは撒ビラのことで、二十九日食ったときの事だった。然しそんな事を云うのは、よく使われる特高係の「手」であることを彼は知っていた。
 ――お前も案外鈍感だな。一緒に働いていて、河田や石川たちから何処ッかこう仲間外れにされていることが分らないのかな。
 彼はだまって外ッ方を向いた。――然し彼は自分の意志に反して、顔から血のひいてゆくのをハッキリ感じた。
 ――「手」だな、とお前はキット考えてるだろう。
 特高主任が其処で薄く笑った。
 ――それアねえ、僕らも正直に云って、そんな「手」をよく使うよ。だが、これが「手」かどうかは、僕より君が内心知ってるんだろうと思うんだ。この前、石本君とも話したが、鈴木は可哀相に置いてけぼりばかり食ってる。あれでよく運動を一緒にやって行く度量がある。俺たちにはとても出来ない芸当だって云ってたんだ。
 ――…………。
 ――……じゃ知らせようか。
 特高主任がフト顔をかしげた。鈴木はその言葉の切れ間に思わず身体のしまる恐怖を感じた。
 ――これは或いは滅多に云えない事だが、僕等はある方法によって、そこは世界一を誇る警察網の力だが、すでに河田たちが共産党に加入しているということの確証を握ったのだ。――ところが、それに君が入っていないのだ。……入っていないから、こんな事君に云える。嘘(うそ)か本当かは君の方が分ってるだろうよ……。
 ――…………。
 ――おかしい云い方をするが、僕はそのことが分った時、喜んでいゝか、悲しんでいゝか分らなかった。
 ――入っていないときいて、僕等が喜ぶのは勝手だと君は云いたいだろう。それならそれでいい。僕等はどうせ、人に決して喜ばれることの出来ない職業をしているのだから。然し「同志」というものゝ気持は、僕等からはとても覗(うかが)い知ることの出来ないほど、深い信頼の情ではないかと思うんだ。だが、君はそれに裏切られているのだ。それが分ったとき、僕は君に対して何んと云っていゝか分らない、淋しい、暗い気持にされたのだ。
 ――勝手なことを云え!
 胸がまくれ上がって、のどへ来た。それを一思いにハキ出さなければならなかった。で、怒鳴った。――彼は胸一杯の涙をこらえた。
 特高主任は鉛筆をもてあそびながら、彼の顔をじッと見た。一寸だまった。
 ――そればかりではないんだ。紛議の交渉とか争議費用として受取った金の分配などで、君がどの位誤魔化されているか知れない。――河田たちが、そんな金で遊んでいる証拠がちァんと入ってるんだ。――それでも清貧に甘んじるか……。
 それ等が嘘であれ、本当であれ、彼が内心疑っていた事実をピシ/\と指していた。
 気にしまい、気にしまい、そう意識すると、逆にその意識が彼の心を歪める。河田と素直な気持ではものが云えなくなった。河田たちの顔を見ていることが出来なかった。自分ながら可笑(おか)しい程そわ/\して、視線を迷わせた。そして一方自分の何処かでは、河田の云うことに剃刀(かみそり)の刃のような鋭い神経を使っているのだ。
 少し前だった。何時も自分の宿に訪ねてくる特高係が、街で彼を見ると寄ってきた。
 ――君は大分宿代を滞(とど)こらせてるんだな。
 と、ニヤ/\云った。
 ――じゃ、君か!
 彼はそのまゝ立ち止った。刑事は大きな声で笑った。――四五日前、鈴木の友人だと云って、彼の泊っている宿へ来て、今迄滞らせていた宿代を払って行ったものがあったのだ。
 ――いゝじゃないか、こういう事は。お互さ。別に恩をきせて、どうというわけでないんだから。
 それから、一寸聞きたいことがあるんだが、と赤い薄い鬚(ひげ)を正方形だけはやしたその男が、四囲(あたり)を見廻わした。
 二人は大通りから入ったカフエー・モンナミを見付けた。そこのバネ付のドアーを押して二階へ上った。――特高は彼には勝手に、ビールやビフテキを注文した。
 ――断っておくが、こういう事は君たちの勝手にすることで、別に……。
 みんな云わせずに、
 ――分ってるよ。固くならないでさ。一度位はまアゆっくり話もしてみたいんだよ。――いくら僕等でもネ。
 と、云って、ヒヽヽヽヽと笑った。
 彼はもう破れ、かぶれだと思った。彼はそこでのめる程酔払ってしまった。――
「二階」の会合の時も、河田が急いでいたらしかったが、鈴木は自分から先きに出てしまった。ジリ/\と来る気持の圧迫に我慢が出来なかったのだ。――下宿に帰ってくると、誰か本の包みを置いて行ったと云った。彼はそれを聞くと、その意味が分った。
 二階に上って行って解いてみると、知らない講談本だった。彼は本の背をつまんで、頁を振ってみた。ぺったり折り畳まった拾円紙幣が二枚、赤茶けた畳の上に落ちてきた。
 彼はフイに顔色をかえた。――拾円紙幣が出たからではない。知らずに本の頁を振る動作をしていた自分にギョッと気付いたからだった。
 彼はそれをつかむと、階段を下りて、街へ出て行った。だが、彼の顔色がなかった。

          中 九

 ――君ちァん、君ちァん。――キイ公オ!
 二階の函詰場(パッキング・ルーム)で、男工と女工がコンヴェイヤーの両側に向い合って、空罐を箱詰めにしていた。パッキングされた函(はこ)は、二階からエスカレーターに乗って、運河の岸壁に横付けにされている船に、そのまゝ荷役が出来る。――昼近くになって、罐が切れた。皆が手拭で身体の埃を払いながら、薄暗い階段を下りて行った時だった。暗い口を開らいている「製品倉庫」のなかから、低くひそめた声が呼んでいる。前掛けはしめ直していたお君が「クスッ」と笑って、――急いで四囲を見た。だまっていた。
 ――キイ公、じらすなよ!
 お君はもう一度クッと笑って、倉庫の中へ身体を跳ねらした。
 ――ア、暗い。
 ワザと上わずった声を出して、両手で眼を覆った。居ない、居ないをしているように。
 ――こっちだ。
 男の手が肩にかゝった。
 ――いや。
 女が身体をひいた。
 ――何が「いや」だって。手ば除(の)けれよ。
 ――…………。
 お君は男の胸を直接(じか)に感じながら、身体をいや/\させた。
 ――手ば取れッたら。な。さ。ん?
 女はもっとそうしていることに妙な興奮と興味を覚えた。男は無理に両手を除けさせて、後に廻わした片手で、女の身体をグイとしめつけてしまった。女は男の腕の中に、身体をくねらした。そして、顔を仰向けにしたまゝ、いたずらに、ワザと男の唇を色々にさけた。男は女の頬や額に唇を打つけた。
 ――駄目だ、人が来るど!
 男はあせって、のどにからんだ声を出した。お君はとう/\声を出して笑い出した。そして背のびをするように、男の肩に手をかけた……。
 ――上手だなア。
 男が云った。
 ――モチ! 癖になるから、あんたとはこれでお終(しま)いよ!
 男が自由にグイ/\引きずり廻わされるのが可笑しかった。お君はそう云うと、身体を翻(ひる)がえして、上気した頬のまゝ、階段を跳ね降りて行った。
 お君は昼過ぎになってから、然し急に燥(はし)ゃぐことをやめてしまった。
 昼飯時の食堂は何時ものように、女工たちがガヤ/\と自分の場所を仲間たちできめていた。お君は仲良しの女工に呼ばれて、そこで腰を並べて、昼食をたべた。
 ――ねえ!
 ワザ/\お君を呼んだ話好きな友達が、声をひそめた。
 ――驚いッちまった!
 女は昨日仕事の跡片付けで、皆より遅くなり、工場の中が薄暗くなりかけた頃、脱衣場から下りてきた。その降り口が丁度「ラバー小屋」になっていた。知らずに降りてきた友達はフトそこで足をとめた。小屋の中に誰かいると思ったからだった。女の足をとめた所から少し斜め下の、高くハメ込んである小さい硝子窓の中に――男と女の薄い影が動いている。
 ――それがねエ!
 女は口を抑えて、もっと低い声を出した。
 男はこっちには背を見せて、ズボンのバンドをしめていた。女は窓の方を向いたまゝうつ向いて、髪に手をやっている。男はバンドを締めてしまうと、後から女の肩に手をかけた。そして片方の手をポケットに入れた。ポケットの中の手が何かを探がしているらしかった。
 ――お金よ! 男がそのお金を女の帯の間に入れてやったのよ、どう?
 ――…………□
 ――で、その女の人一体誰と思う?
 いたずらゝしい光を一杯にたゝえた眼で、お君をジッと見た。
 ――誰だか分ったの?
 ――それアもう! そういうことはねえ。
 ――…………?
 ――芳ちゃんさ!
 ――馬鹿な!
 お君は反射的にハネかえした。
 ――フン、それならそれでいゝさ。
 女は肩をしゃくった。
 お君は一寸だまった。
 ――相手は?
 ――相手? お金商売だもの一日変りだろうよ。誰だっていゝでしょうさ。
 何時でも寒そうな唇の色をしている芳ちゃんは、そう云えば四人の一家を一人で支えていた。お君はそのことを思い出した。――それをこんな調子でものを云う女に、お君はもち前の向かッ腹を立てゝしまった。
 ――でも、妾(わたし)たちの日給いくらだと思っているの。五十銭から七八十銭。月いくらになるか直してごらんよ。――淫乱(すき)なら無償(ただ)でやらせらアねえ!
 お君は飯が終って立ちかけながら、上から浴びせかけた。そして先きに食堂を出てしまった。
 ――馬鹿にしてる!

          十

 午後から女学生の「工場参観」があると云うので、男工たちは燥ゃいでいた。
 ――ヘンだ。ナッパ服と女学生様か! よくお似合いますこと!
 女工たちは露骨な反感を見せた。
 ――口惜しいだろう! ――女学生が入ってくると、工場(ここ)のお嬢さん方の眼付が変るから。凄(すご)いて!
 ――眼付きなら、どっちがね!
 ――オイ、あまりいじめるなよ。たまには大学生様だって参観に来るんだからな。
 何時でもズケ/\と皮肉なことを云う職工だった。
 ――と、どうなるんだ。大学生様と女工さんか。ハ、それア今流行(はやり)だ!
 ――ネフリュウドフでも来るのを待ってるか……!
「芸術職工」が口を入れた。
 ――女学生の参観のあとは、不思議にお嬢さん方の鼻息がおとなしくなるから、たまにはあった方がいゝんだ。
 年老った職工が聞いていられないという風に云った。
 ――「友食い」はやめろって! キイ公まで黙ってしまった。――何んとか、かんとか云ったって……どんづまりはなア!
 どんづまりは? で、みんなお互気まずく笑い出してしまった。
「Yのフォード」は、その完備した何処へ出しても恥かしくない工場であると云うことを宣伝するために、広告料の要らない広告として、「工場参観」を歓迎していた。「製罐業」を可成りの程度に独占している「H・S会社」としては、工場の設備や職工の待遇をこの位のものにしたとしても、別に少しの負担にならなかった。而(しか)も、その効果は更に職工たちに反作用してくることを予想しての歓迎だった。――「俺ンとこの工場は――」「俺の会社は――」職工たちはそういう云い方で云う。自分の工場が誰かに悪口をされると、彼等はおかしい程ムキになって弁護した。三井に勤めている社員が、他のどの会社に勤めている社員の前でも一つのキン恃(じ)をもっている。そういう社員は従って決して三井を裏切るようなことをしない。「H・S」の専務はそのことを知っていたのだ。
 伝令が来た。幼年工を使ってよこした。
 ――来たよ。シャンがいるよ。
 ――キイ公、聞いたか。
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