蟹工船
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著者名:小林多喜二 

        三

 霧雨が何日も上らない。それでボカされたカムサツカの沿線が、するすると八ツ目鰻(うなぎ)のように延びて見えた。
 沖合四浬(かいり)のところに、博光丸が錨(いかり)を下ろした。――三浬までロシアの領海なので、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた」。
 網さばきが終って、何時(いつ)からでも蟹漁が出来るように準備が出来た。カムサツカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、股(また)までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入って、ゴロ寝をした。
 周旋屋にだまされて、連れてこられた東京の学生上りは、こんな筈(はず)がなかった、とブツブツ云っていた。
「独(ひと)り寝だなんて、ウマイ事云いやがって!」
「ちげえねえ、独り寝さ。ゴロ寝だもの」
 学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、布団(ふとん)、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)になっていた。それが始めて分ったとき、貨幣(かね)だと思って握っていたのが、枯葉であったより、もっと彼等はキョトンとしてしまった。――始め、彼等は青鬼、赤鬼の中に取り巻かれた亡者のように、漁夫の中に一かたまりに固(かたま)っていた。
 函館(はこだて)を出帆してから、四日目ころから、毎日のボロボロな飯と何時も同じ汁のために、学生は皆身体の工合を悪くしてしまった。寝床に入ってから、膝(ひざ)を立てて、お互に脛(すね)を指で押していた。何度も繰りかえして、その度(たび)に引っこんだとか、引っこまないとか、彼等の気持は瞬間明るくなったり、暗くなったりした。脛をなでてみると、弱い電気に触れるように、しびれるのが二、三人出てきた。棚(たな)の端から両足をブラ下げて、膝頭を手刀で打って、足が飛び上るか、どうかを試した。それに悪いことには、「通じ」が四日も五日も無くなっていた。学生の一人が医者に通じ薬を貰いに行った。帰ってきた学生は、興奮から青い顔をしていた。――「そんなぜいたくな薬なんて無いとよ」
「んだべ。船医なんてんなものよ」側(そば)で聞いていた古い漁夫が云った。
「何処(どこ)の医者も同じだよ。俺のいたところの会社の医者もんだった」坑山の漁夫だった。
 皆がゴロゴロ横になっていたとき、監督が入ってきた。
「皆、寝たか――一寸(ちょっと)聞け。秩父丸が沈没したっていう無電が入ったんだ。生死の詳しいことは分らないそうだ」唇をゆがめて、唾(つば)をチェッとはいた。癖だった。
 学生は給仕からきいたことが、すぐ頭にきた。自分が現に手をかけて殺した四、五百人の労働者の生命のことを、平気な顔で云う、海にタタキ込んでやっても足りない奴だ、と思った。皆はムクムクと頭をあげた。急に、ザワザワお互に話し出した。浅川はそれだけ云うと、左肩だけを前の方に振って、出て行った。
 行衛(ゆくえ)の分らなかった雑夫が、二日前にボイラーの側から出てきたところをつかまった。二日隠れていたけれども、腹が減って、腹が減って、どうにも出来ず、出て来たのだった。捕(つか)んだのは中年過ぎの漁夫だった。若い漁夫がその漁夫をなぐりつけると云って、怒った。
「うるさい奴だ、煙草のみでもないのに、煙草の味が分るか」バットを二個手に入れた漁夫はうまそうに飲んでいた。
 雑夫は監督にシャツ一枚にされると、二つあるうちの一つの方の便所に押し込まれて、表から錠を下ろされた。初め、皆は便所へ行くのを嫌った。隣りで泣きわめく声が、とても聞いていられなかった。二日目にはその声がかすれて、ヒエ、ヒエしていた。そして、そのわめきが間を置くようになった。その日の終り頃に、仕事を終った漁夫が、気掛りで直(す)ぐ便所のところへ行ったが、もうドアーを内側から叩(たた)きつける音もしていなかった。こっちから合図をしても、それが返って来なかった。――その遅く、睾隠(きんかく)しに片手をもたれかけて、便所紙の箱に頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出されてきた。唇の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた。
 朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だった。かじかんだ手を懐(ふところ)につッこみながら、背を円るくして起き上ってきた。監督は雑夫や漁夫、水夫、火夫の室まで見廻って歩いて、風邪(かぜ)をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。
 風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが擂粉木(すりこぎ)のように感覚が無くなった。雑夫長が大声で悪態をつきながら、十四、五人の雑夫を工場に追い込んでいた。彼の持っている竹の先きには皮がついていた。それは工場で怠(なま)けているものを機械の枠越(わくご)しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように、造られていた。
「昨夜(ゆうべ)出されたきりで、ものも云えない宮口を今朝からどうしても働かさなけアならないって、さっき足で蹴(け)ってるんだよ」
 学生上りになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、雑夫長の顔を見い、見いそのことを知らせた。
「どうしても動かないんで、とうとうあきらめたらしいんだけど」
 其処(そこ)へ、監督が身体をワクワクふるわせている雑夫を後からグイ、グイ突きながら、押して来た。寒い雨に濡(ぬ)れながら仕事をさせられたために、その雑夫は風邪をひき、それから肋膜(ろくまく)を悪くしていた。寒くないときでも、始終身体をふるわしていた。子供らしくない皺(しわ)を眉(まゆ)の間に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、疳(かん)のピリピリしているような眼差(まなざ)しをしていた。彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラーの室にウロウロしていたところを、見付けられたのだった。
 出漁のために、川崎船をウインチから降していた漁夫達は、その二人を何も云えず、見送っていた。四十位の漁夫は、見ていられないという風に、顔をそむけると、イヤイヤをするように頭をゆるく二、三度振った。
「風邪をひいてもらったり、不貞寝(ふてね)をされてもらったりするために、高い金払って連れて来たんじゃないんだぜ。――馬鹿野郎、余計なものを見なくたっていい!」
 監督が甲板を棍棒(こんぼう)で叩いた。
「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」
「こんなこと内地(くに)さ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ」
「んさ。――こったら事って第一あるか」
 スティムでウインチがガラガラ廻わり出した。川崎船は身体を空にゆすりながら、一斉に降り始めた。水夫や火夫も狩り立てられて、甲板のすべる足元に気を配りながら、走り廻っていた。それ等のなかを、監督は鶏冠(とさか)を立てた牡鶏(おんどり)のように見廻った。
 仕事の切れ目が出来たので、学生上りが一寸の間風を避けて、荷物のかげに腰を下していると、炭山(やま)から来た漁夫が口のまわりに両手を円く囲んで、ハア、ハア息をかけながら、ひょいと角を曲ってきた。
「生命(えのぢ)的(まと)だな!」それが――心からフイと出た実感が思わず学生の胸を衝(つ)いた。「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、生(え)きられないなんてな。――瓦斯(ガス)も恐(お)ッかねど、波もおっかねしな」
 昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄い海霧(ガス)が一面に――然(しか)しそうでないと云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった。波は風呂敷でもつまみ上げたように、無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いて行った。荷物にかけてあるズックの覆(おお)いの裾(すそ)がバタバタとデッキをたたいた。
「兎が飛ぶどオ――兎が!」誰か大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。
 もう海一面、三角波の頂きが白いしぶきを飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び上っているようだった。――それがカムサツカの「突風」の前ブレだった。にわかに底潮の流れが早くなってくる。船が横に身体をずらし始めた。今まで右舷に見えていたカムサツカが、分らないうちに左舷になっていた。――船に居残って仕事をしていた漁夫や水夫は急に周章(あわ)て出した。
 すぐ頭の上で、警笛が鳴り出した。皆は立ち止ったまま、空を仰いだ。すぐ下にいるせいか、斜め後に突き出ている、思わない程太い、湯桶(ゆおけ)のような煙突が、ユキユキと揺れていた。その煙突の腹の独逸(ドイツ)帽のようなホイッスルから鳴る警笛が、荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。――遠く本船をはなれて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化(しけ)をおかして帰って来るのだった。
 薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水夫が固り合って騒いでいた。斜め上から、船の動揺の度に、チラチラ薄い光の束が洩(も)れていた。興奮した漁夫の色々な顔が、瞬間々々、浮き出て、消えた。
「どうした?」坑夫がその中に入り込んだ。
「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」殺気だっていた。
 監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れたところに碇(とま)っていた××丸から「突風」の警戒報を受取っていた。それには若(も)し川崎船が出ていたら、至急呼戻すようにさえ附け加えていた。その時、「こんな事に一々ビク、ビクしていたら、このカムサツカまでワザワザ来て仕事なんか出来るかい」――そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。
 それを聞いた最初の漁夫は、無線係が浅川ででもあるように、怒鳴りつけた。「人間の命を何んだって思ってやがるんだ!」
「人間の命?」
「そうよ」
「ところが、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」
 何か云おうとした漁夫は吃(ども)ってしまった。彼は真赤になった。そして皆のところへかけ込んできたのだった。
 皆は暗い顔に、然し争われず底からジリ、ジリ来る興奮をうかべて、立ちつくしていた。父親が川崎船で出ている雑夫が、漁夫達の集っている輪の外をオドオドしていた。ステイが絶え間なしに鳴っていた。頭の上で鳴るそれを聞いていると、漁夫の心はギリ、ギリと切り苛(さ)いなまれた。
 夕方近く、ブリッジから大きな叫声が起った。下にいた者達はタラップの段を二つ置き位にかけ上った。――川崎船が二隻近づいてきたのだった。二隻はお互にロープを渡して結び合っていた。
 それは間近に来ていた。然し大きな波は、川崎船と本船を、ガタンコの両端にのせたように、交互に激しく揺り上げたり、揺り下げたりした。次ぎ、次ぎと、二つの間に波の大きなうねりがもり上って、ローリングした。目の前にいて、中々近付かない。――歯がゆかった。甲板からはロープが投げられた。が、とどかなかった。それは無駄なしぶきを散らして、海へ落ちた。そしてロープは海蛇のように、たぐり寄せられた。それが何度もくり返された。こっちからは皆声をそろえて呼んだ。が、それには答えなかった。漁夫達の顔の表情はマスクのように化石して、動かない。眼も何かを見た瞬間、そのまま硬(こ)わばったように動かない。――その情景は、漁夫達の胸を、眼(ま)のあたり見ていられない凄(すご)さで、えぐり刻んだ。
 又ロープが投げられた。始めゼンマイ形に――それから鰻(うなぎ)のようにロープの先きがのびたかと思うと――その端が、それを捕えようと両手をあげている漁夫の首根を、横なぐりにたたきつけた。皆は「アッ!」と叫んだ。漁夫はいきなり、そのままの恰好(かっこう)で横倒しにされた。が、つかんだ! ――ロープはギリギリとしまると、水のしたたりをしぼり落して、一直線に張った。こっちで見ていた漁夫達は、思わず肩から力を抜いた。
 ステイは絶え間なく、風の具合で、高くなったり、遠くなったり鳴っていた。夕方になるまでに二艘を残して、それでも全部帰ってくることが出来た。どの漁夫も本船のデッキを踏むと、それっきり気を失いかけた。一艘は水船になってしまったために、錨(いかり)を投げ込んで、漁夫が別の川崎に移って、帰ってきた。他の一艘は漁夫共に全然行衛不明だった。
 監督はブリブリしていた。何度も漁夫の部屋へ降りて来て、又上って行った。皆は焼き殺すような憎悪(ぞうお)に満ちた視線で、だまって、その度に見送った。
 翌日、川崎の捜索かたがた、蟹(かに)の後を追って、本船が移動することになった。「人間の五、六匹何んでもないけれども、川崎がいたまし」かったからだった。

 朝早くから、機関部が急がしかった。錨を上げる震動が、錨室と背中合せになっている漁夫を煎豆(いりまめ)のようにハネ飛ばした。サイドの鉄板がボロボロになって、その度にこぼれ落ちた。――博光丸は北緯五十一度五分の所まで、錨をなげてきた第一号川崎船を捜索した。結氷の砕片(かけら)が生きもののように、ゆるい波のうねりの間々に、ひょいひょい身体(からだ)を見せて流れていた。が、所々その砕けた氷が見る限りの大きな集団をなして、あぶくを出しながら、船を見る見るうちに真中に取囲んでしまう、そんなことがあった。氷は湯気のような水蒸気をたてていた。と、扇風機にでも吹かれるように「寒気」が襲ってきた。船のあらゆる部分が急にカリッ、カリッと鳴り出すと、水に濡れていた甲板や手すりに、氷が張ってしまった。船腹は白粉(おしろい)でもふりかけたように、霜の結晶でキラキラに光った。水夫や漁夫は両頬を抑(おさ)えながら、甲板を走った。船は後に長く、曠野(こうや)の一本道のような跡をのこして、つき進んだ。
 川崎船は中々見つからない。
 九時近い頃になって、ブリッジから、前方に川崎船が一艘浮かんでいるのを発見した。それが分ると、監督は「畜生、やっと分りゃがったど。畜生!」デッキを走って歩いて、喜んだ。すぐ発動機が降ろされた。が、それは探がしていた第一号ではなかった。それよりは、もっと新しい第36[#「36」は縦中横]号と番号の打たれてあるものだった。明らかに×××丸のものらしい鉄の浮標(ヴイ)がつけられていた。それで見ると×××丸が何処(どこ)かへ移動する時に、元の位置を知るために、そうして置いて行ったものだった。
 浅川は川崎船の胴体を指先きで、トントンたたいていた。
「これアどうしてバンとしたもんだ」ニャッと笑った。「引いて行くんだ」
 そして第36[#「36」は縦中横]号川崎船はウインチで、博光丸のブリッジに引きあげられた。川崎は身体を空でゆすりながら、雫(しずく)をバジャバジャ甲板に落した。「一(ひと)働きをしてきた」そんな大様な態度で、釣り上がって行く川崎を見ながら、監督が、
「大したもんだ。大したもんだ!」と、独言(ひとりごと)した。
 網さばきをやりながら、漁夫がそれを見ていた。「何んだ泥棒猫! チエンでも切れて、野郎の頭さたたき落ちればえんだ」
 監督は仕事をしている彼らの一人々々を、そこから何かえぐり出すような眼付きで、見下しながら、側を通って行った。そして大工をせっかちなドラ声で呼んだ。
 すると、別な方のハッチの口から、大工が顔を出した。
「何んです」
 見当外(はず)れをした監督は、振り返ると、怒りッぽく、「何んです? ――馬鹿。番号をけずるんだ。カンナ、カンナ」
 大工は分らない顔をした。
「あんぽんたん、来い!」
 肩巾(かたはば)の広い監督のあとから、鋸(のこぎり)の柄を腰にさして、カンナを持った小柄な大工が、びっこでも引いているような危い足取りで、甲板を渡って行った。――川崎船の第36[#「36」は縦中横]号の「3」がカンナでけずり落されて、「第六号川崎船」になってしまった。
「これでよし。これでよし。うッはア、様(ざま)見やがれ!」監督は、口を三角形にゆがめると、背のびでもするように哄笑(こうしょう)した。
 これ以上北航しても、川崎船を発見する当がなかった。第三十六号川崎船の引上げで、足ぶみをしていた船は、元の位置に戻るために、ゆるく、大きくカーヴをし始めた。空は晴れ上って、洗われた後のように澄んでいた。カムサツカの連峰が絵葉書で見るスイッツルの山々のように、くっきりと輝いていた。

 行衛不明になった川崎船は帰らない。漁夫達は、そこだけが水溜(たま)りのようにポツンと空いた棚から、残して行った彼等の荷物や、家族のいる住所をしらべたり、それぞれ万一の時に直ぐ処置が出来るように取り纏(まと)めた。――気持のいいことではなかった。それをしていると、漁夫達は、まるで自分の痛い何処かを、覗(のぞ)きこまれているようなつらさを感じた。中積船が来たら托送(たくそう)しようと、同じ苗字(みょうじ)の女名前がその宛(あて)先きになっている小包や手紙が、彼等の荷物の中から出てきた。そのうちの一人の荷物の中から、片仮名と平仮名の交った、鉛筆をなめり、なめり書いた手紙が出た。それが無骨な漁夫の手から、手へ渡されて行った。彼等は豆粒でも拾うように、ボツリ、ボツリ、然(しか)しむさぼるように、それを読んでしまうと、嫌(いや)なものを見てしまったという風に頭をふって、次ぎに渡してやった。――子供からの手紙だった。
 ぐずりと鼻をならして、手紙から顔を上げると、カスカスした低い声で、「浅川のためだ。死んだと分ったら、弔い合戦をやるんだ」と云った。その男は図体の大きい、北海道の奥地で色々なことをやってきたという男だった。もっと低い声で、
「奴、一人位タタキ落せるべよ」若い、肩のもり上った漁夫が云った。
「あ、この手紙いけねえ。すっかり思い出してしまった」
「なア」最初のが云った。「うっかりしていれば、俺達だって奴にやられたんだで。他人(ひと)ごとでねえんだど」
 隅(すみ)の方で、立膝(たてひざ)をして、拇指(おやゆび)の爪(つめ)をかみながら、上眼をつかって、皆の云うのを聞いていた男が、その時、うん、うんと頭をふって、うなずいた。「万事、俺にまかせれ、その時ア! あの野郎一人グイとやってしまうから」
 皆はだまった。――だまったまま、然し、ホッとした。

 博光丸が元の位置に帰ってから、三日して突然(!)その行衛不明になった川崎船が、しかも元気よく帰ってきた。
 彼等は船長室から「糞壺」に帰ってくると、忽(たちま)ち皆に、渦巻のように取巻かれてしまった。
 ――彼等は「大暴風雨」のために、一たまりもなく操縦の自由をなくしてしまった。そうなればもう襟首(えりくび)をつかまれた子供より他愛なかった。一番遠くに出ていたし、それに風の工合も丁度反対の方向だった。皆は死ぬことを覚悟した。漁夫は何時でも「安々と」死ぬ覚悟をすることに「慣らされて」いた。
 が(!)こんなことは滅多にあるものではない。次の朝、川崎船は半分水船になったまま、カムサツカの岸に打ち上げられていた。そして皆は近所のロシア人に救われたのだった。
 そのロシア人の家族は四人暮しだった。女がいたり、子供がいたりする「家」というものに渇していた彼等にとって、其処(そこ)は何とも云えなく魅力だった。それに親切な人達ばかりで、色々と進んで世話をしてくれた。然し、初め皆はやっぱり、分らない言葉を云ったり、髪の毛や眼の色の異(ちが)う外国人であるということが無気味だった。
 何アんだ、俺達と同じ人間ではないか、ということが、然し直ぐ分らさった。
 難破のことが知れると、村の人達が沢山集ってきた。そこは日本の漁場などがある所とは、余程離れていた。
 彼等は其処に二日いて、身体を直し、そして帰ってきたのだった。「帰ってきたくはなかった」誰が、こんな地獄に帰りたいって! が、彼等の話は、それだけで終ってはいない。「面白いこと」がその外にかくされていた。
 丁度帰る日だった。彼等がストオヴの周(まわ)りで、身仕度をしながら話をしていると、ロシア人が四、五人入ってきた。――中に支那人が一人交っていた。――顔が巨(おおき)くて、赤い、短い鬚(ひげ)の多い、少し猫背の男が、いきなり何か大声で手振りをして話し出した。船頭は、自分達がロシア語は分らないのだという事を知らせるために、眼の前で手を振って見せた。ロシア人が一句切り云うと、その口元を見ていた支那人は日本語をしゃべり出した。それは聞いている方の頭が、かえってごじゃごじゃになってしまうような、順序の狂った日本語だった。言葉と言葉が酔払いのように、散り散りによろめいていた。
「貴方(あなた)方、金キット持っていない」
「そうだ」
「貴方方、貧乏人」
「そうだ」
「だから、貴方方、プロレタリア。――分る?」
「うん」
 ロシア人が笑いながら、その辺を歩き出した。時々立ち止って、彼等の方を見た。
「金持、貴方方をこれする。(首を締める恰好(かっこう)をする)金持だんだん大きくなる。(腹のふくれる真似(まね))貴方方どうしても駄目、貧乏人になる。――分る? ――日本の国、駄目。働く人、これ(顔をしかめて、病人のような恰好)働かない人、これ。えへん、えへん。(偉張って歩いてみせる)」
 それ等が若い漁夫には面白かった。「そうだ、そうだ!」と云って、笑い出した。
「働く人、これ。働かない人、これ。(前のを繰り返して)そんなの駄目。――働く人、これ。(今度は逆に、胸を張って偉張ってみせる、)働かない人、これ。(年取った乞食のような恰好)これ良ろし。――分かる? ロシアの国、この国。働く人ばかり。働く人ばかり、これ。(偉張る)ロシア、働かない人いない。ずるい人いない。人の首しめる人いない。――分る? ロシアちっとも恐ろしくない国。みんな、みんなウソばかり云って歩く」
 彼等は漠然と、これが「恐ろしい」「赤化」というものではないだろうか、と考えた。が、それが「赤化」なら、馬鹿に「当り前」のことであるような気が一方していた。然し何よりグイ、グイと引きつけられて行った。
「分る、本当、分る!」
 ロシア人同志が二、三人ガヤガヤ何かしゃべり出した。支那人はそれ等(ら)をきいていた。それから又吃(ども)りのように、日本の言葉を一つ、一つ拾いながら、話した。
「働かないで、お金儲(もう)ける人いる。プロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる恰好)――これ、駄目! プロレタリア、貴方方、一人、二人、三人……百人、千人、五万人、十万人、みんな、みんな、これ(子供のお手々つないで、の真似をしてみせる)強くなる。大丈夫。(腕をたたいて)負けない、誰にも。分る?」
「ん、ん!」
「働かない人、にげる。(一散に逃げる恰好)大丈夫、本当。働く人、プロレタリア、偉張る。(堂々と歩いてみせる)プロレタリア、一番偉い。――プロレタリア居ない。みんな、パン無い。みんな死ぬ。――分る?」
「ん、ん!」
「日本、まだ、まだ駄目。働く人、これ。(腰をかがめて縮こまってみせる)働かない人、これ。(偉張って、相手をなぐり倒す恰好)それ、みんな駄目! 働く人、これ。(形相凄(すご)く立ち上る、突ッかかって行く恰好。相手をなぐり倒し、フンづける真似)働かない人、これ。(逃げる恰好)――日本、働く人ばかり、いい国。――プロレタリアの国! ――分る?」
「ん、ん、分る!」
 ロシア人が奇声をあげて、ダンスの時のような足ぶみをした。
「日本、働く人、やる。(立ち上って、刃向う恰好)うれしい。ロシア、みんな嬉しい。バンザイ。――貴方方、船へかえる。貴方方の船、働かない人、これ。(偉張る)貴方方、プロレタリア、これ、やる!(拳闘のような真似――それからお手々つないでをやり、又突ッかかって行く恰好)――大丈夫、勝つ! ――分る?」
「分る!」知らないうちに興奮していた若い漁夫が、いきなり支那人の手を握った。「やるよ、キットやるよ!」
 船頭は、これが「赤化」だと思っていた。馬鹿に恐ろしいことをやらせるものだ。これで――この手で、露西亜が日本をマンマと騙(だま)すんだ、と思った。
 ロシア人達は終ると、何か叫声をあげて、彼等の手を力一杯握った。抱きついて、硬い毛の頬をすりつけたりした。面喰(めんくら)った日本人は、首を後に硬直さして、どうしていいか分らなかった。……。
 皆は、「糞壺」の入口に時々眼をやり、その話をもっともっとうながした。彼等は、それから見てきたロシア人のことを色々話した。そのどれもが、吸取紙に吸われるように、皆の心に入りこんだ。
「おい、もう止(よ)せよ」
 船頭は、皆が変にムキにその話に引き入れられているのを見て、一生懸命しゃべっている若い漁夫の肩を突ッついた。

        四

 靄(もや)が下りていた。何時も厳しく機械的に組合わさっている通風パイプ、煙筒(チェムニー)、ウインチの腕、吊(つ)り下がっている川崎船、デッキの手すり、などが、薄ぼんやり輪廓をぼかして、今までにない親しみをもって見えていた。柔かい、生ぬるい空気が、頬(ほお)を撫(な)でて流れる。――こんな夜はめずらしかった。
 トモのハッチに近く、蟹の脳味噌の匂いがムッとくる。網が山のように積(つま)さっている間に、高さの跛(びっこ)な二つの影が佇(たたず)んでいた。
 過労から心臓を悪くして、身体が青黄く、ムクンでいる漁夫が、ドキッ、ドキッとくる心臓の音でどうしても寝れず、甲板に上ってきた。手すりにもたれて、フ糊でも溶かしたようにトロッとしている海を、ぼんやり見ていた。この身体では監督に殺される。然(しか)し、それにしては、この遠いカムサツカで、しかも陸も踏めずに死ぬのは淋(さび)し過ぎる。――すぐ考え込まさった。その時、網と網の間に、誰かいるのに漁夫が気付いた。
 蟹の甲殻の片(かけら)を時々ふむらしく、その音がした。
 ひそめた声が聞こえてきた。
 漁夫の眼が慣れてくると、それが分ってきた。十四、五の雑夫に漁夫が何か云っているのだった。何を話しているのかは分らなかった。後向きになっている雑夫は、時々イヤ、イヤをしている子供のように、すねているように、向きをかえていた。それにつれて、漁夫もその通り向きをかえた。それが少しの間続いた。漁夫は思わず(そんな風だった)高い声を出した。が、すぐ低く、早口に何か云った。と、いきなり雑夫を抱きすくめてしまった。喧嘩(けんか)だナ、と思った。着物で口を抑えられた「むふ、むふ……」という息声だけが、一寸(ちょっと)の間聞えていた。然し、そのまま動かなくなった。――その瞬間だった。柔かい靄の中に、雑夫の二本の足がローソクのように浮かんだ。下半分が、すっかり裸になってしまっている。それから雑夫はそのまま蹲(しゃが)んだ。と、その上に、漁夫が蟇(がま)のように覆(おお)いかぶさった。それだけが「眼の前」で、短かい――グッと咽喉(のど)につかえる瞬間に行われた。見ていた漁夫は、思わず眼をそらした。酔わされたような、撲(な)ぐられたような興奮をワクワクと感じた。
 漁夫達はだんだん内からむくれ上ってくる性慾に悩まされ出してきていた。四カ月も、五カ月も不自然に、この頑丈(がんじょう)な男達が「女」から離されていた。――函館で買った女の話や、露骨な女の陰部の話が、夜になると、きまって出た。一枚の春画がボサボサに紙に毛が立つほど、何度も、何度もグルグル廻された。
…………
床とれの、
こちら向けえの、
口すえの、
足をからめの、
気をやれの、
ホンに、つとめはつらいもの。

 誰か歌った。すると、一度で、その歌が海綿にでも吸われるように、皆に覚えられてしまった。何かすると、すぐそれを歌い出した。そして歌ってしまってから、「えッ、畜生!」と、ヤケに叫んだ、眼だけ光らせて。
 漁夫達は寝てしまってから、
「畜生、困った! どうしたって眠(ね)れないや」と、身体をゴロゴロさせた。「駄目だ、伜が立って!」
「どうしたら、ええんだ!」――終(しま)いに、そう云って、勃起(ぼっき)している睾丸(きんたま)を握りながら、裸で起き上ってきた。大きな身体の漁夫の、そうするのを見ると、身体のしまる、何か凄惨(せいさん)な気さえした。度胆(どぎも)を抜かれた学生は、眼だけで隅(すみ)の方から、それを見ていた。
 夢精をするのが何人もいた。誰もいない時、たまらなくなって自涜をするものもいた。――棚(たな)の隅にカタのついた汚れた猿又や褌(ふんどし)が、しめっぽく、すえた臭(にお)いをして円(まる)められていた。学生はそれを野糞のように踏みつけることがあった。
 ――それから、雑夫の方へ「夜這(よば)い」が始まった。バットをキャラメルに換えて、ポケットに二つ三つ入れると、ハッチを出て行った。
 便所臭い、漬物樽(つけものだる)の積まさっている物置を、コックが開けると、薄暗い、ムッとする中から、いきなり横ッ面でもなぐられるように、怒鳴られた。
「閉めろッ! 今、入ってくると、この野郎、タタキ殺すぞ!」

        ×     ×     ×

 無電係が、他船の交換している無電を聞いて、その収獲を一々監督に知らせた。それで見ると、本船がどうしても負けているらしい事が分ってきた。監督がアセリ出した。すると、テキ面にそのことが何倍かの強さになって、漁夫や雑夫に打ち当ってきた。――何時(いつ)でも、そして、何んでもドン詰りの引受所が「彼等」だけだった。監督や雑夫長はわざと「船員」と「漁夫、雑夫」との間に、仕事の上で競争させるように仕組んだ。
 同じ蟹(かに)つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると、(自分の儲(もう)けになる仕事でもないのに)漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気になる。監督は「手を打って」喜んだ。今日勝った、今日負けた、今度こそ負けるもんか――血の滲(にじ)むような日が滅茶苦茶に続く。同じ日のうちに、今までより五、六割も殖(ふ)えていた。然し五日、六日になると、両方とも気抜けしたように、仕事の高がズシ、ズシ減って行った。仕事をしながら、時々ガクリと頭を前に落した。監督はものも云わないで、なぐりつけた。不意を喰(く)らって、彼等は自分でも思いがけない悲鳴を「キャッ!」とあげた。――皆は敵(かたき)同志か、言葉を忘れてしまった人のように、お互にだまりこくって働いた。ものを云うだけのぜいたくな「余分」さえ残っていなかった。
 監督は然し、今度は、勝った組に「賞品」を出すことを始めた。燻(くすぶ)りかえっていた木が、又燃え出した。
「他愛のないものさ」監督は、船長室で、船長を相手にビールを飲んでいた。
 船長は肥えた女のように、手の甲にえくぼが出ていた。器用に金口(きんぐち)をトントンとテーブルにたたいて、分らない笑顔(えがお)で答えた。――船長は、監督が何時でも自分の眼の前で、マヤマヤ邪魔をしているようで、たまらなく不快だった。漁夫達がワッと事を起して、此奴をカムサツカの海へたたき落すようなことでもないかな、そんな事を考えていた。
 監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少いものに「焼き」を入れることを貼紙(はりがみ)した。鉄棒を真赤に焼いて、身体にそのまま当てることだった。彼等は何処まで逃げても離れない、まるで自分自身の影のような「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした。仕事が尻上(しりあが)りに、目盛りをあげて行った。
 人間の身体には、どの位の限度があるか、然しそれは当の本人よりも監督の方が、よく知っていた。――仕事が終って、丸太棒のように棚(たな)の中に横倒れに倒れると、「期せずして」う、う――、うめいた。
 学生の一人は、小さい時は祖母に連れられて、お寺の薄暗いお堂の中で見たことのある「地獄」の絵が、そのままこうであることを思い出した。それは、小さい時の彼には、丁度うわばみのような動物が、沼地ににょろ、にょろと這(は)っているのを思わせた。それとそっくり同じだった。――過労がかえって皆を眠らせない。夜中過ぎて、突然、硝子(ガラス)の表に思いッ切り疵(きず)を付けるような無気味な歯ぎしりが起ったり、寝言や、うなされているらしい突調子(とっぴょうし)な叫声が、薄暗い「糞壺」の所々から起った。
 彼等は寝れずにいるとき、フト、「よく、まだ生きているな……」と自分で自分の生身の身体にささやきかえすことがある。よく、まだ生きている。――そう自分の身体に!
 学生上りは一番「こたえて」いた。
「ドストイェフスキーの死人の家な、ここから見れば、あれだって大したことでないって気がする」――その学生は、糞(くそ)が何日もつまって、頭を手拭(てぬぐい)で力一杯に締めないと、眠れなかった。
「それアそうだろう」相手は函館からもってきたウイスキーを、薬でも飲むように、舌の先きで少しずつ嘗(な)めていた。「何んしろ大事業だからな。人跡未到の地の富源を開発するッてんだから、大変だよ。――この蟹工船(かにこうせん)だって、今はこれで良くなったそうだよ。天候や潮流の変化の観測が出来なかったり、地理が実際にマスターされていなかったりした創業当時は、幾ら船が沈没したりしたか分らなかったそうだ。露国の船には沈められる、捕虜になる、殺される、それでも屈しないで、立ち上り、立ち上り苦闘して来たからこそ、この大富源が俺たちのものになったのさ。……まア仕方がないさ」
「…………」
 ――歴史が何時でも書いているように、それはそうかも知れない気がする。然し、彼の心の底にわだかまっているムッとした気持が、それでちっとも晴れなく思われた。彼は黙ってベニヤ板のように固くなっている自分の腹を撫(な)でた。弱い電気に触れるように、拇指(おやゆび)のあたりが、チャラチャラとしびれる。イヤな気持がした。拇指を眼の高さにかざして、片手でさすってみた。――皆は、夕飯が終って、「糞壺」の真中に一つ取りつけてある、割目が地図のように入っているガタガタのストーヴに寄っていた。お互の身体が少し温(あたたま)ってくると、湯気が立った。蟹の生ッ臭い匂(にお)いがムレて、ムッと鼻に来た。
「何んだか、理窟は分らねども、殺されたくねえで」
「んだよ!」
 憂々した気持が、もたれかかるように、其処(そこ)へ雪崩(なだ)れて行く。殺されかかっているんだ! 皆はハッキリした焦点もなしに、怒りッぽくなっていた。
「お、俺だちの、も、ものにもならないのに、く、糞(くそ)、こッ殺されてたまるもんか!」
 吃(ども)りの漁夫が、自分でももどかしく、顔を真赤に筋張らせて、急に、大きな声を出した。
 一寸(ちょっと)、皆だまった。何かにグイと心を「不意」に突き上げられた――のを感じた。
「カムサツカで死にたくないな……」
「…………」
「中積船、函館ば出たとよ。――無電係の人云ってた」
「帰りてえな」
「帰れるもんか」
「中積船でヨク逃げる奴がいるってな」
「んか□ ……ええな」
「漁に出る振りして、カムサツカの陸さ逃げて、露助と一緒に赤化宣伝ばやってるものもいるッてな」
「…………」
「日本帝国のためか、――又、いい名義を考えたもんだ」――学生は胸のボタンを外(はず)して、階段のように一つ一つ窪(くぼ)みの出来ている胸を出して、あくびをしながら、ゴシゴシ掻(か)いた。垢(あか)が乾いて、薄い雲母のように剥(は)げてきた。
「んよ、か、会社の金持ばかり、ふ、ふんだくるくせに」
 カキの貝殻のように、段々のついた、たるんだ眼蓋(まぶた)から、弱々しい濁った視線をストオヴの上にボンヤリ投げていた中年を過ぎた漁夫が唾(つば)をはいた。ストオヴの上に落ちると、それがクルックルッと真円(まんまる)にまるくなって、ジュウジュウ云いながら、豆のように跳(は)ね上って、見る間に小さくなり、油煙粒ほどの小さいカスを残して、無くなった。皆はそれにウカツな視線を投げている。
「それ、本当かも知れないな」
 然し、船頭が、ゴム底タビの赤毛布の裏を出して、ストーヴにかざしながら、「おいおい叛逆(てむかい)なんかしないでけれよ」と云った。
「…………」
「勝手だべよ。糞」吃りが唇を蛸(たこ)のように突き出した。
 ゴムの焼けかかっているイヤな臭いがした。
「おい、親爺(おど)、ゴム!」
「ん、あ、こげた!」
 波が出て来たらしく、サイドが微(かす)かになってきた。船も子守唄(うた)程に揺れている。腐った海漿(ほおずき)のような五燭燈でストーヴを囲んでいるお互の、後に落ちている影が色々にもつれて、組合った。――静かな夜だった。ストーヴの口から赤い火が、膝(ひざ)から下にチラチラと反映していた。不幸だった自分の一生が、ひょいと――まるッきり、ひょいと、しかも一瞬間だけ見返される――不思議に静かな夜だった。
「煙草無(ね)えか?」
「無え……」
「無えか?……」
「なかったな」
「糞」
「おい、ウイスキーをこっちにも廻せよ、な」
 相手は角瓶(かくびん)を逆かさに振ってみせた。
「おッと、勿体(もったい)ねえことするなよ」
「ハハハハハハハ」
「飛んでもねえ所さ、然し来たもんだな、俺も……」その漁夫は芝浦の工場にいたことがあった。そこの話がそれから出た。それは北海道の労働者達には「工場」だとは想像もつかない「立派な処」に思われた。「ここの百に一つ位のことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と云った。
 その事から――そのキッかけで、お互の今までしてきた色々のことが、ひょいひょいと話に出てきた。「国道開たく工事」「灌漑(かんがい)工事」「鉄道敷設」「築港埋立」「新鉱発掘」「開墾」「積取人夫」「鰊(にしん)取り」――殆(ほと)んど、そのどれかを皆はしてきていた。
 ――内地では、労働者が「横平(おうへい)」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪(かぎづめ)をのばした。其処(そこ)では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。然し、誰も、何んとも云えない事を、資本家はハッキリ呑み込んでいた。「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱(しらみ)より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に堪(た)えられなくて逃亡する。それが捕(つか)まると、棒杭(ぼうぐい)にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴(け)らせたり、裏庭で土佐犬に噛(か)み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨(ろっこつ)が胸の中で折れるボクッとこもった音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰りかえした。終(しま)いには風呂敷包みのように、土佐犬の強靱(きょうじん)な首で振り廻わされて死ぬ。ぐったり広場の隅(すみ)に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピクピクと動いていた。焼火箸(やけひばし)をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなる程なぐりつけることは「毎日」だった。飯を食っていると、急に、裏で鋭い叫び声が起る。すると、人の肉が焼ける生ッ臭い匂いが流れてきた。
「やめた、やめた。――とても飯なんて、食えたもんじゃねえや」
 箸を投げる。が、お互暗い顔で見合った。
 脚気(かっけ)では何人も死んだ。無理に働かせるからだった。死んでも「暇がない」ので、そのまま何日も放って置かれた。裏へ出る暗がりに、無雑作にかけてあるムシロの裾(すそ)から、子供のように妙に小さくなった、黄黒く、艶(つや)のない両足だけが見えた。
「顔に一杯蠅(はえ)がたかっているんだ。側を通ったとき、一度にワアーンと飛び上るんでないか!」
 額を手でトントン打ちながら入ってくると、そう云う者があった。
 皆は朝は暗いうちに仕事場に出された。そして鶴嘴(つるはし)のさきがチラッ、チラッと青白く光って、手元が見えなくなるまで、働かされた。近所に建っている監獄で働いている囚人の方を、皆はかえって羨(うらやま)しがった。殊(こと)に朝鮮人は親方、棒頭(ぼうがしら)からも、同じ仲間の土方(日本人の)からも「踏んづける」ような待遇をうけていた。
 其処から四、五里も離れた村に駐在している巡査が、それでも時々手帖をもって、取調べにテクテクやってくる。夕方までいたり、泊りこんだりした。然し土方達の方へは一度も顔を見せなかった。そして、帰りには真赤な顔をして、歩きながら道の真中を、消防の真似(まね)でもしているように、小便を四方にジャジャやりながら、分らない独言を云って帰って行った。
 北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本々々労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋立には、脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。――北海道の、そういう労働者を「タコ(蛸)」と云っている。蛸は自分が生きて行くためには自分の手足をも食ってしまう。これこそ、全くそっくりではないか! そこでは誰をも憚(はばか)らない「原始的」な搾取が出来た。「儲(もう)け」がゴゾリ、ゴゾリ掘りかえってきた。しかも、そして、その事を巧みに「国家的」富源の開発ということに結びつけて、マンマと合理化していた。抜目がなかった。「国家」のために、労働者は「腹が減り」「タタき殺されて」行った。
「其処(あこ)から生きて帰れたなんて、神助け事だよ。有難かったな! んでも、この船で殺されてしまったら、同じだべよ。――何アーんでえ!」そして突調子(とっぴょうし)なく大きく笑った。その漁夫は笑ってしまってから、然し眉(まゆ)のあたりをアリアリと暗くして、横を向いた。
 鉱山(やま)でも同じだった。――新しい山に坑道を掘る。そこにどんな瓦斯(ガス)が出るか、どんな飛んでもない変化が起るか、それを調べあげて一つの確針をつかむのに、資本家は「モルモット」より安く買える「労働者」を、乃木軍神がやったと同じ方法で、入り代り、立ち代り雑作なく使い捨てた。鼻紙より無雑作に! 「マグロ」の刺身のような労働者の肉片が、坑道の壁を幾重にも幾重にも丈夫にして行った。都会から離れていることを好い都合にして、此処でもやはり「ゾッ」とすることが行われていた。トロッコで運んでくる石炭の中に拇指(おやゆび)や小指がバラバラに、ねばって交ってくることがある。女や子供はそんな事には然し眉を動かしてはならなかった。そう「慣らされていた」彼等は無表情に、それを次の持場まで押してゆく。――その石炭が巨大な機械を、資本家の「利潤」のために動かした。
 どの坑夫も、長く監獄に入れられた人のように、艶(つや)のない黄色くむくんだ、始終ボンヤリした顔をしていた。日光の不足と、炭塵(たんじん)と、有毒ガスを含んだ空気と、温度と気圧の異常とで、眼に見えて身体がおかしくなってゆく。「七、八年も坑夫をしていれば、凡(およ)そ四、五年間位は打(ぶ)ッ続けに真暗闇(まっくらやみ)の底にいて、一度だって太陽を拝まなかったことになる、四、五年も!」――だが、どんな事があろうと、代りの労働者を何時でも沢山仕入れることの出来る資本家には、そんなことはどうでもいい事であった。冬が来ると、「やはり」労働者はその坑山に流れ込んで行った。
 それから「入地百姓」――北海道には「移民百姓」がいる。「北海道開拓」「人口食糧問題解決、移民奨励」、日本少年式な「移民成金」など、ウマイ事ばかり並べた活動写真を使って、田畑を奪われそうになっている内地の貧農を煽動(せんどう)して、移民を奨励して置きながら、四、五寸も掘り返せば、下が粘土ばかりの土地に放り出される。豊饒(ほうじょう)な土地には、もう立札が立っている。雪の中に埋められて、馬鈴薯も食えずに、一家は次の春には餓死することがあった。それは「事実」何度もあった。雪が溶けた頃になって、一里も離れている「隣りの人」がやってきて、始めてそれが分った。口の中から、半分嚥(の)みかけている藁屑(わらくず)が出てきたりした。
 稀(ま)れに餓死から逃れ得ても、その荒ブ地を十年もかかって耕やし、ようやくこれで普通の畑になったと思える頃、実はそれにちアんと、「外の人」のものになるようになっていた。資本家は――高利貸、銀行、華族、大金持は、嘘(うそ)のような金を貸して置けば、(投げ捨てて置けば)荒地は、肥えた黒猫の毛並のように豊饒な土地になって、間違なく、自分のものになってきた。そんな事を真似て、濡手をきめこむ、目の鋭い人間も、又北海道に入り込んできた。――百姓は、あっちからも、こっちからも自分のものを噛(か)みとられて行った。そして終(しま)いには、彼等が内地でそうされたと同じように「小作人」にされてしまっていた。そうなって百姓は始めて気付いた。――「失敗(しま)った!」
 彼等は少しでも金を作って、故里(ふるさと)の村に帰ろう、そう思って、津軽海峡を渡って、雪の深い北海道へやってきたのだった。――蟹工船にはそういう、自分の土地を「他人」に追い立てられて来たものが沢山いた。
 積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きの小樽(おたる)の下宿屋にゴロゴロしていると、樺太(かばふと)や北海道の奥地へ船で引きずられて行く。足を「一寸(いっすん)」すべらすと、ゴンゴンゴンとうなりながら、地響をたてて転落してくる角材の下になって、南部センベイよりも薄くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行く、水で皮がペロペロになっている材木に、拍子を食って、一なぐりされると、頭のつぶれた人間は、蚤(のみ)の子よりも軽く、海の中へたたき込まれた。
 ――内地では、何時までも、黙って「殺されていない」労働者が一かたまりに固って、資本家へ反抗している。然し「殖民地」の労働者は、そういう事情から完全に「遮断(しゃだん)」されていた。
 苦しくて、苦しくてたまらない。然し転(ころ)んで歩けば歩く程、雪ダルマのように苦しみを身体に背負い込んだ。
「どうなるかな……?」
「殺されるのさ、分ってるべよ」
「…………」何か云いたげな、然しグイとつまったまま、皆だまった。
「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」どもりがブッきら棒に投げつけた。
 トブーン、ドブーンとゆるく腹(サイド)に波が当っている。上甲板の方で、何処かのパイプからスティムがもれているらしく、シー、シ――ン、シ――ンという鉄瓶(てつびん)のたぎるような、柔かい音が絶えずしていた。

 寝る前に、漁夫達は垢(あか)でスルメのようにガバガバになったメリヤスやネルのシャツを脱いで、ストーヴの上に広げた。囲んでいるもの達が、炬燵(こたつ)のように各□その端をもって、熱くしてからバタバタとほろった。ストーヴの上に虱(しらみ)や南京虫が落ちると、プツン、プツンと、音をたてて、人が焼ける時のような生ッ臭い臭(にお)いがした。熱くなると、居たまらなくなった虱が、シャツの縫目から、細かい沢山の足を夢中に動かして、出て来る。つまみ上げると、皮膚の脂肪(あぶら)ッぽいコロッとした身体の感触がゾッときた。かまきり虫のような、無気味な頭が、それと分る程肥えているのもいた。
「おい、端を持ってけれ」
 褌(ふんどし)の片端を持ってもらって、広げながら虱をとった。
 漁夫は虱を口に入れて、前歯で、音をさせてつぶしたり、両方の拇指(おやゆび)の爪で、爪が真赤になるまでつぶした。子供が汚い手をすぐ着物に拭(ふ)くように、袢天(はんてん)の裾(すそ)にぬぐうと、又始めた。――それでも然し眠れない。何処から出てくるか、夜通し虱と蚤(のみ)と南京虫(ナンキンむし)に責められる。いくらどうしても退治し尽されなかった。薄暗く、ジメジメしている棚に立っていると、すぐモゾモゾと何十匹もの蚤が脛(すね)を這(は)い上ってきた。終(しま)いには、自分の体の何処かが腐ってでもいないのか、と思った。蛆(うじ)や蠅に取りつかれている腐爛(ふらん)した「死体」ではないか、そんな不気味さを感じた。
 お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ臭くよごれて仕様がなかった。然し一週間もすると、三日置きになり、一カ月位経つと、一週間一度。そしてとうとう月二回にされてしまった。水の濫費(らんぴ)を防ぐためだった。然し、船長や監督は毎日お湯に入った。それは濫費にはならなかった。(!)――身体が蟹の汁で汚れる、それがそのまま何日も続く、それで虱か南京虫が湧(わ)かない「筈(はず)」がなかった。
 褌を解くと、黒い粒々がこぼれ落ちた。褌をしめたあとが、赤くかたがついて、腹に輪を作った。そこがたまらなく掻(か)ゆかった。寝ていると、ゴシゴシと身体をやけにかく音が何処からも起った。モゾモゾと小さいゼンマイのようなものが、身体の下側を走るかと思うと――刺す。その度に漁夫は身体をくねらし、寝返りを打った。然し又すぐ同じだった。それが朝まで続く。皮膚が皮癬(ひぜん)のように、ザラザラになった。
「死に虱だべよ」
「んだ、丁度ええさ」
 仕方なく、笑ってしまった。

        五

 あわてた漁夫が二、三人デッキを走って行った。
 曲り角で、急にまがれず、よろめいて、手すりにつかまった。サロン・デッキで修繕をしていた大工が背のびをして、漁夫の走って行った方を見た。寒風の吹きさらしで、涙が出て、初め、よく見えなかった。大工は横を向いて勢いよく「つかみ鼻」をかんだ。鼻汁が風にあふられて、歪(ゆが)んだ線を描いて飛んだ。
 ともの左舷のウインチがガラガラなっている。皆漁に出ている今、それを動かしているわけがなかった。ウインチにはそして何かブラ下っていた。それが揺れている。吊(つ)り下がっているワイヤーが、その垂直線の囲りを、ゆるく円を描いて揺れていた。「何んだべ?」――その時、ドキッと来た。
 大工は周章(あわて)たように、もう一度横を向いて「つかみ鼻」をかんだ。それが風の工合でズボンにひっかかった。トロッとした薄い水鼻だった。
「又、やってやがる」大工は涙を何度も腕で拭(ぬぐ)いながら眼をきめた。
 こっちから見ると、雨上りのような銀灰色の海をバックに、突き出ているウインチの腕、それにすっかり身体を縛られて、吊し上げられている雑夫が、ハッキリ黒く浮び出てみえた。ウインチの先端まで空を上ってゆく。そして雑巾(ぞうきん)切れでもひッかかったように、しばらくの間――二十分もそのままに吊下げられている。それから下がって行った。身体をくねらして、もがいているらしく、両足が蜘蛛(くも)の巣にひっかかった蠅(はえ)のように動いている。
 やがて手前のサロンの陰になって、見えなくなった。一直線に張っていたワイヤーだけが、時々ブランコのように動いた。
 涙が鼻に入ってゆくらしく、水鼻がしきりに出た。大工は又「つかみ鼻」をした。それから横ポケットにブランブランしている金槌(かなづち)を取って、仕事にかかった。
 大工はひょいと耳をすまして――振りかえって見た。ワイヤ・ロープが、誰か下で振っているように揺れていて、ボクンボクンと鈍い不気味な音は其処(そこ)からしていた。
 ウインチに吊された雑夫は顔の色が変っていた。死体のように堅くしめている唇から、泡(あわ)を出していた。大工が下りて行った時、雑夫長が薪(まき)を脇(わき)にはさんで、片肩を上げた窮屈な恰好(かっこう)で、デッキから海へ小便をしていた。あれでなぐったんだな、大工は薪をちらっと見た。小便は風が吹く度に、ジャ、ジャとデッキの端にかかって、はねを飛ばした。
 漁夫達は何日も何日も続く過労のために、だんだん朝起きられなくなった。監督が石油の空罐(あきかん)を寝ている耳もとでたたいて歩いた。眼を開けて、起き上るまで、やけに罐をたたいた。脚気(かっけ)のものが、頭を半分上げて何か云っている。然(しか)し監督は見ない振りで、空罐をやめない。声が聞えないので、金魚が水際に出てきて、空気を吸っている時のように、口だけパクパク動いてみえた。いい加減たたいてから、
「どうしたんだ、タタき起すど!」と怒鳴りつけた。「いやしくも仕事が国家的である以上、戦争と同じなんだ。死ぬ覚悟で働け! 馬鹿野郎」
 病人は皆蒲団(ふとん)を剥(は)ぎとられて、甲板へ押し出された。脚気のものは階段の段々に足先きがつまずいた。手すりにつかまりながら、身体を斜めにして、自分の足を自分の手で持ち上げて、階段を上がった。心臓が一足毎に無気味にピンピン蹴(け)るようにはね上った。
 監督も、雑夫長も病人には、継子(ままこ)にでも対するようにジリジリと陰険だった。「肉詰」をしていると追い立てて、甲板で「爪たたき」をさせられる。それを一寸(ちょっと)していると「紙巻」の方へ廻わされる。底寒くて、薄暗い工場の中ですべる足元に気をつけながら、立ちつくしていると、膝(ひざ)から下は義足に触るより無感覚になり、ひょいとすると膝の関節が、蝶(ちょう)つがいが離れたように、不覚にヘナヘナと坐り込んでしまいそうになった。
 学生が蟹をつぶした汚れた手の甲で、額を軽くたたいていた。一寸すると、そのまま横倒しに後へ倒れてしまった。その時、側に積(か)さなっていた罐詰の空罐がひどく音をたてて、学生の倒れた上に崩れ落ちた。それが船の傾斜に沿って、機械の下や荷物の間に、光りながら円るく転んで行った。仲間が周章てて学生をハッチに連れて行こうとした。それが丁度、監督が口笛を吹きながら工場に下りてきたのと、会った。ひょいと見てとると、
「誰が仕事を離れったんだ!」
「誰が□……」思わずグッと来た一人が、肩でつッかかるようにせき込んだ。
「誰がア――? この野郎、もう一度云ってみろ!」監督はポケットからピストルを取り出して、玩具のようにいじり廻わした。それから、急に大声で、口を三角形にゆがめながら、背のびをするように身体をゆすって、笑い出した。
「水を持って来い!」
 監督は桶(おけ)一杯に水を受取ると、枕木のように床に置き捨てになっている学生の顔に、いきなり――一度に、それを浴せかけた。
「これでええんだ。――要(い)らないものなんか見なくてもええ、仕事でもしやがれ!」
 次の朝、雑夫が工場に下りて行くと、旋盤の鉄柱に、前の日の学生が縛りつけられているのを見た。首をひねられた鶏のように、首をガクリ胸に落し込んで、背筋の先端に大きな関節を一つポコンと露(あら)わに見せていた。そして子供の前掛けのように、胸に、それが明らかに監督の筆致で、
「此者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄(あさなわ)ヲ解クコトヲ禁ズ」
 と書いたボール紙を吊していた。
 額に手をやってみると、冷えきった鉄に触るより冷たくなっている。雑夫等は工場に入るまで、ガヤガヤしゃべっていた。それが誰も口をきくものがない。後から雑夫長の下りてくる声をきくと、彼等はその学生の縛られている機械から二つに分れて各々の持場に流れて行った。
 蟹漁が忙がしくなると、ヤケに当ってくる。前歯を折られて、一晩中「血の唾」をはいたり、過労で作業中に卒倒したり、眼から血を出したり、平手で滅茶苦茶に叩(たた)かれて、耳が聞えなくなったりした。あんまり疲れてくると、皆は酒に酔ったよりも他愛なくなった。時間がくると、「これでいい」と、フト安心すると、瞬間クラクラッとした。
 皆が仕舞いかけると、
「今日は九時までだ」と監督が怒鳴って歩いた。「この野郎達、仕舞いだッて云う時だけ、手廻わしを早くしやがって!」
 皆は高速度写真のようにノロノロ又立ち上った。それしか気力がなくなっていた。
「いいか、此処(ここ)へは二度も、三度も出直して来れるところじゃないんだ。それに何時(いつ)だって蟹が取れるとも限ったものでもないんだ。それを一日の働きが十時間だから十三時間だからって、それでピッタリやめられたら、飛んでもないことになるんだ。――仕事の性質(たち)が異(ちが)うんだ。いいか、その代り蟹が採れない時は、お前達を勿体ない程ブラブラさせておくんだ」監督は「糞壺」へ降りてきて、そんなことを云った。「露助はな、魚が何んぼ眼の前で群化(くき)てきても、時間が来れば一分も違わずに、仕事をブン投げてしまうんだ。んだから――んな心掛けだから露西亜(ロシア)の国がああなったんだ。日本男児の断じて真似(まね)てならないことだ!」
 何に云ってるんだ、ペテン野郎! そう思って聞いていないものもあった。然し大部分は監督にそう云われると日本人はやはり偉いんだ、という気にされた。そして自分達の毎日の残虐な苦しさが、何か「英雄的」なものに見え、それがせめても皆を慰めさせた。
 甲板で仕事をしていると、よく水平線を横切って、駆逐艦が南下して行った。後尾に日本の旗がはためくのが見えた。漁夫等は興奮から、眼に涙を一杯ためて、帽子をつかんで振った。――あれだけだ。俺達の味方は、と思った。
「畜生、あいつを見ると、涙が出やがる」
 だんだん小さくなって、煙にまつわって見えなくなるまで見送った。
 雑巾切れのように、クタクタになって帰ってくると、皆は思い合わせたように、相手もなく、ただ「畜生!」と怒鳴った。暗がりで、それは憎悪(ぞうお)に満ちた牡牛(おうし)の唸(うな)り声に似ていた。誰に対してか彼等自身分ってはいなかったが、然し毎日々々同じ「糞壺」の中にいて、二百人近くのもの等がお互にブッキラ棒にしゃべり合っているうちに、眼に見えずに、考えること、云うこと、することが、(なめくじが地面を匐(は)うほどののろさだが)同じになって行った。――その同じ流れのうちでも、勿論澱(よど)んだように足ぶみをするものが出来たり、別な方へ外(そ)れて行く中年の漁夫もある。然しそのどれもが、自分では何んにも気付かないうちに、そうなって行き、そして何時の間にか、ハッキリ分れ、分れになっていた。
 朝だった。タラップをノロノロ上りながら、炭山(やま)から来た男が、
「とても続かねえや」と云った。
 前の日は十時近くまでやって、身体は壊(こわ)れかかった機械のようにギクギクしていた。タラップを上りながら、ひょいとすると、眠っていた。後から「オイ」と声をかけられて思わず手と足を動かす。そして、足を踏み外(はず)して、のめったまま腹ん這(ば)いになった。
 仕事につく前に、皆が工場に降りて行って、片隅(かたすみ)に溜(たま)った。どれも泥人形のような顔をしている。

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