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著者名:石川啄木 

  無題

一年ばかりの間、いや一と月でも
一週間でも、三日でもいい。
神よ、もしあるなら、ああ、神よ、
私の願ひはこれだけだ。どうか、
身体(からだ)をどこか少しこはしてくれ痛くても
関(かま)はない、どうか病気さしてくれ!
ああ! どうか……

真白な、柔(やは)らかな、そして
身体がフウワリと何処までも――
安心の谷の底までも沈んでゆく様な布団(ふとん)の上に、いや
養老院の古畳の上でもいい、
何も考へずに(そのまま死んでも
惜しくはない)ゆっくりと寝てみたい!
手足を誰か来て盗んで行っても
知らずにゐる程ゆっくり寝てみたい!

どうだらう! その気持は! ああ。
想像するだけでも眠くなるやうだ! 今著(き)てゐる
この著物を――重い、重いこの責任の著物を
脱ぎ棄(す)てて了(しま)ったら(ああ、うっとりする!)
私のこの身体が水素のやうに
ふうわりと軽くなって、
高い高い大空へ飛んでゆくかも知れない――「雲雀(ひばり)だ」
下ではみんながさう言ふかも知れない! ああ!
    ――――――――――――――
死だ! 死だ! 私の願ひはこれ
たった一つだ! ああ!

あ、あ、ほんとに殺すのか? 待ってくれ、
ありがたい神様、あ、ちょっと!

ほんの少し、パンを買ふだけだ、五―五―五―銭でもいい!
殺すくらゐのお慈悲(じひ)があるなら!

  新らしき都の基礎

やがて世界の戦(いくさ)は来らん!
不死鳥(フエニツクス)の如き空中軍艦が空に群れて、
その下にあらゆる都府が毀(こぼ)たれん!
戦(いくさ)は永く続かん! 人々の半ばは骨となるならん!
然(しか)る後、あはれ、然る後、我等の
『新らしき都』はいづこに建つべきか?
滅びたる歴史の上にか? 思考と愛の上にか? 否、否。
土の上に。然り、土の上に、何の――夫婦と云ふ
定まりも区別もなき空気の中に
果て知れぬ蒼(あを)き、蒼き空の下(もと)に!

  夏の街の恐怖

焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌条(レール)の心。
母親の居睡(ねむ)りの膝(ひざ)から辷(す)り下りて、
肥(ふと)った三歳(みつつ)ばかりの男の児が
ちょこちょこと電車線路へ歩いて行く。

八百屋の店には萎(な)えた野菜。
病院の窓の窓掛(まどかけ)は垂(た)れて動かず。
閉(とざ)された幼稚園の鉄の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すベて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥子(けし)の花が死落(しにお)ち、
生木(なまき)の棺(ひつぎ)に裂罅(ひび)の入る夏の空気のなやましさ。

病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙蝠傘(かうもりがさ)をさしかけて門を出れば、
横町の下宿から出て進み来る、

夏の恐怖に物言はぬ脚気(かつけ)患者の葬(はうむ)りの列。
それを見て辻の巡査は出かかった欠呻(あくび)噛(か)みしめ、
白犬は思ふさまのびをして、
塵溜(ごみため)の蔭に行く。

  起きるな

西日をうけて熱くなった
埃(ほこり)だらけの窓の硝子(ガラス)よりも
まだ味気ない生命(いのち)がある。

正体もなく考へに疲れきって、
汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる
まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛(けずね)を照し、
その上に蚤(のみ)が這(は)ひあがる。

起きるな、超きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に冷しい静かな夕ぐれの来るまで。

何処かで艶(なまめ)いた女の笑ひ声。

  事ありげな春の夕暮

遠い国には戦(いくさ)があり……
海には難破船の上の酒宴(さかもり)……

質屋の店には蒼(あを)ざめた女が立ち、
燈火(あかり)にそむいてはなをかむ。
其処(そこ)を出て来れば、路次の口に
情夫(まぶ)の背を打つ背低い女――
うす暗がりに財布(さいふ)を出す。

何か事ありげな――
春の夕暮の町を圧する
重く淀(よど)んだ空気の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲れがある。
遠い国には沢山の人が死に……
また政庁に推寄(おしよ)せる女壮士のさけび声……
海には信夫翁(あはうどり)の疫病……

あ、大工(だいく)の家では洋燈(ランプ)が落ち、
大工の妻が跳(と)び上る。

  騎馬の巡査

絶間(たえま)なく動いてゐる須田町の人込(ひとごみ)の中に、
絶間なく目を配って、立ってゐる騎馬(きば)の巡査――
見すぼらしい銅像のやうな――。

白痴の小僧は馬の腹をすばしこく潜(くぐ)りぬけ、
荷を積み重ねた赤い自動車が
その鼻先を行く。

数ある往来の人の中には
子供の手を曳(ひ)いた巡査の妻もあり
実家(さと)へ金借りに行った帰り途(みち)、
ふと此(こ)の馬上の人を見上げて、
おのが夫の勤労を思ふ。

あ、犬が電車に轢(ひ)かれた――
ぞろぞろと人が集る。
巡査も馬を進める……

  はてしなき議論の後(一)

暗き、暗き曠野(くわうや)にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電(いなづま)のほとばしる如(ごと)く、
革命の思想はひらめけども――

あはれ、あはれ、
かの壮快(さうくわい)なる雷鳴(らいめい)は遂(つひ)に聞え来らず。

我は知る、
その電に照し出さるる
新しき世界の姿を。
其処(そこ)にては、物みなそのところを得べし。

されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、
しかして、この壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――

  はてしなき議論の後(二)

われらの且(か)つ読み、且つ議論を闘(たたか)はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜(ロシア)の青年に劣らず。
われらは何を為(な)すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳(こぶし)に卓(たく)をたたきて、
‘V(ヴ) NAROD(ナロード) !’と叫び出づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

此処(ここ)にあつまれる者は皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂(つひ)に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭(らふそく)はすでに三度も取りかへられ、
飲料(のみもの)の茶碗(ちやわん)には小さき羽虫の死骸(しがい)浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

  ココアのひと匙(さじ)

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪(うば)はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷(さ)めたるココアのひと匙(さじ)を啜(すす)りて、
そのうすにがき舌触(したざは)りに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

  書斎の午後

われはこの国の女を好まず。

読みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零(こぼ)したる葡萄酒(ぶだうしゆ)の
なかなかに浸(し)みてゆかぬかなしみ。

われはこの国の女を好まず。

  激論

われはかの夜の激論を忘るること能(あた)はず、
新らしき社会に於(お)ける「権力」の処置に就(つ)きて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
我との間に惹(ひ)き起されたる激論を、
かの五時間に亙(わた)れる激論を。

「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家(せんどうか)の言なり。」
かれは遂(つひ)にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆(ほ)ゆるごとくなりき。
若(も)しその間に卓子(テエブル)のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭(かうべ)を撃ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲(みなぎ)れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。
或(あ)る一人の立ちて窓を明けたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭(らふそく)の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬(ほほ)に、
雨をふくめる夜風の爽(さはや)かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環(ゆびわ)を忘るること能(あた)はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心(しん)を截(き)るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女(ぢよ)は初めよりわが味方なりき。

  墓碑銘

われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶(なほ)尊敬す――
かの郊外の墓地の栗(くり)の木の下に
かれを葬(はうむ)りて、すでにふた月を経たれど。

実(げ)に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、
「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能(あた)はず、
されど、我には何時(いつ)にても起(た)つことを得る準備あり。」

「彼の眼は常に論者の怯懦(けふだ)を叱責(しつせき)す。」
同志の一人はかくかれを評しき。
然(しか)り、われもまた度度(たびたび)しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且(か)つ快活に働き、
暇(ひま)あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草(たばこ)も酒も用ゐざりき。

かれの真摯(しんし)にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈(はげ)しき熱に冒(をか)されて、病の床に横(よこた)はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫話(うはごと)を口にせざりき。

「今日は五月一日なり、われらの日なり。」
これ、かれのわれに遺(のこ)したる最後の言葉なり。
この日の朝(あした)、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕(ゆふべ)、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額(ひたひ)と、鉄槌(てつつゐ)のごとき腕(かひな)と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼(まなこ)つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸(ゐがい)は、一個の唯物論(ゆゐぶつろん)者として
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘(ぼひめい)は左の如し、
「われは何時(いつ)にても起つことを得る準備あり。」

  古びたる鞄をあけて

わが友は、古びたる鞄(かばん)をあけて、
ほの暗き蝋燭(らふそく)の火影(ほかげ)の散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出だしたり。
そは皆この国にて禁じられたるものなりき。
やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、
「これなり」とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭(よ)りて口笛を吹き出したり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。

  げに、かの場末の

げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭(くさ)きアセチレン瓦斯(ガス)の漂(ただよ)へる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
ひょろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽(たちま)ち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひょろろと鳴れば、
声嗄(か)れし説明者こそ、
西洋の幽霊(いうれい)の如(ごと)き手つきして、
くどくどと何事を語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。

されど、そは、三年(みとせ)も前の記憶なり。
はてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼(たれかれ)の心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひょろろろと、
また、ひょろろろと――

我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓(う)ゑて空(むな)しきこと、
今も猶(なほ)昔のごとし。

  わが友は、今日も

我が友は、今日もまた、
マルクスの「資本論(キヤプタル)」の
難解になやみつつあるならむ。

わが身のまはりには、
黄色なる小さき花片(はなびら)が、ほろほろと、
何故(なぜ)とはなけれど、
ほろほろと散るごときけはひあり。

もう三十にもなるといふ、
身の丈(たけ)三尺ばかりなる女の、
赤き扇(あふぎ)をかざして踊るを、
見世物(みせもの)にて見たることあり。
あれはいつのことなりけむ。

それはさうと、あの女は――
ただ一度我等の会合に出て
それきり来なくなりし――
あの女は、
今はどうしてゐるらむ。

明るき午後のものとなき静心(しづごごろ)なさ。

  家

今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了(を)へて帰り来て、
夕餉(ゆふげ)の後の茶を啜(すす)り、煙草(たばこ)をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。

場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構(かま)へ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなしとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子(いす)も。

この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし毎(ごと)に少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちに描(ゑが)きつつ、
ランプの笠(かさ)の真白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添乳(そへぢ)する妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。

さて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ――
雨降らぬ日は其処(そこ)に出て、
かの煙濃(こ)く、かをりよき埃及(エジプト)煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁(ページ)を切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……

はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく、若き日にわかれ来りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも
なつかしくして、何時(いつ)までも棄(す)つるに惜(を)しきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるランプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。

  飛行機

見よ、今日も、かの蒼空(あをぞら)に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。




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