鳥影
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:石川啄木 

      四

 今しもその、五六軒彼方の加藤醫院へ、晩餐の準備の豆腐でも買つて來たらしい白い前掛の下女が急ぎ足に入つて行つた。
『何有(なあに)、たかが知れた田舍女ぢやないか!』と、信吾は足の緩んだも氣が附かずに、我と我が撓(ひる)む心を嘲つた。人妻となつた清子に顏を合せるのは、流石に快(こゝろよ)くない。快くないと思ふ心の起るのを、信吾は自分で不愉快なのだ。
 寄らなければ寄らなくても濟む、別に用があるのでもないのだ。が、狹い村内の交際は、それでは濟まない。殊には、さまでもない病氣に親切にも毎日□診に來てくれるから是非顏出しして來いと母にも言はれた。加之(のみならず)、今日は妹の靜子と二人で町に出て來たので、其妹は加藤の宅で兄を待合して一緒に歸ることにしてある。
『疚(やま)しい事があるんぢやなし……。』と信吾は自分を勵ました。『それに加藤は未だ□診から歸つてゐまい。』と考へると、『然(さ)うだ。玄關だけで挨拶を濟まして、靜子を伴れ出して歸らうか。』と、つい卑怯な考へも浮ぶ。
『清子は甚□(どんな)顏をするだらう?』といふ好奇心が起つた。と、
『私はあの、貴方の言葉一つで……。』と言つて眤と瞳を据ゑた清子の顏が目に浮んだ。――それは去年の七月の末加藤との縁談が切迫塞(せつぱつま)つて、清子がとある社(やしろ)の杜に信吾を呼び出した折のこと。――その眼には、「今迄この私は貴方の所有(もの)と許り思つてました。恁う思つたのは間違でせうか?」といふ、心を張りつめた美しい質問が涙と共に光つてゐた。二人の上に垂れた楓の枝が微風に搖れて、葉洩れの日影が清子の顏を明るくし又暗くしたことさへ、鮮かに思出される。
 稚い時からの戀の最後を、其時、二人は人知れず語つたのだ。……此追憶は、流石に信吾の心を輕くはしない。が、その時の事を考へると、『俺は強者だ。勝つたのだ。』といふ淺間しい自負心の滿足が、信吾の眼に荒(すさ)んだ輝きを添へる……。
 取濟ました顏をして、信吾は大胯に杖を醫院の玄關に運んだ。
 昔は町でも一二の濱野屋といふ旅籠屋であつた、表裏に二階を上げた大きい茅葺家に、思切つた修繕を加へて、玄關造にして硝子戸を立てた。その取つてつけた樣な不調和な玄關には、『加藤醫院』と鹿爪らしい楷書で書いた、まだ新しい招牌(かんばん)を掲げた。――開業醫の加藤はもと他村の者であるが、この村に醫者が一人も無いのを見込んで一昨年の秋、この古家を買つて移つて來た。生れ村では左程の信用もないさうだが、根が人好きのする男で、技術の巧拙より患者への親切が、先づ村人の氣に入つた。そして、村長の娘の清子と結婚してからは馬を買ひ自轉車を買ひ、田舍者の目を驚かす手術臺やら機械やらを置き飾つて、隣村二ヶ村の村醫までも兼ねた。
 信吾が落着いた聲で案内を乞ふと、小生意氣らしい十七八の書生が障子を開けた。其處は直ぐ藥局で、加藤の弟の代診をしてゐる愼次が、何やら薄紅い藥を計量器(メートルグラス)で計つてゐた。
『や、小川さんですか。』と計量器を持つた儘で、『さ何卒(どうぞ)お上り下さいまし。』と無理に擬(ま)ねた樣な訛言(なまり)を使つた。
 そして『姉樣(ねえさん)、姉樣。』と聲高く呼んで、『兄もモウ歸る時分ですから。』
『ハ、有難う。妹は參つてゐませんですか?』
 其處へ横合ひの襖が開いて清子が出て來た。信吾を見ると、『呀(あ)。』と抑へた樣な聲を出して、膝をついて、『ようこそ。』と言ふも口の中。信吾はそれに挨拶をし乍らも、頭を下げた清子の耳の、薔薇の如く紅きを見のがさなかつた。
『さ何卒(どうぞ)。靜さんも待つてらつしやいますから。』
『否(いや)、然(さ)うしては……。』と言はうとしたのを止して、信吾は下駄を脱いだ。處女らしい清子の擧動が、信吾の心に或る皮肉な好奇心を起さしめたのだ。

      五

 二十分許り經つて、信吾兄妹は加藤醫院を出た。
 一筋町を北へ、一町許り行くと、傾き合つた汚ならしい、家と家の間から、家路を左へ入る、路は此處から、水車場の前の小橋を渡つて、小高い廣い麥畑を過ぎて、阪を下りて、北上川に架けられた、鶴飼橋といふ吊橋を渡つて十町許りで大字川崎の小川家に行く。落ちかけた夏の日が、熟して割れた柘榴(ざくろ)色の光線を、青々とした麥畑の上に流して、眞正面に二人の顏を彩(いろど)つた。
 信吾は何氣ない顏をして歩き乍らも心では清子の事を考へてゐた。僅か二十分許りの間、座には靜子も居れば、加藤の母も愼次も交る/\挨拶に出た。信吾は極く物慣れた大人振つた口をきいた。清子は茶を薦め菓子を薦めつゝ唯淑(しとや)かに、口數は少なかつた。そして男の顏を眞正面には得見なかつた。
 唯一度、信吾は對手を「奧樣(おくさん)」と呼んで見た。清子は其時俯(うつむ)いて茶を注(つ)いでゐたが、返事はしなかつた。また顏も上げなかつた。信吾は女の心を讀んだ。
 清子の事を考へると言つても、別に過ぎ去つた戀を思出してゐるのではない。また豫期してゐた樣な不快を感じて來たのでもない。寧ろ、一種の滿足の情が信吾の心を輕くしてゐる。一口に言へば、信吾は自分が何處までも勝利者であると感じたので。清子の擧動がそれを證明した。そして信吾は、加藤に對して少しの不快な感を抱いてゐない、却つてそれに親しまう、親しんで而して繁く往來しよう、と考へた。
 加藤に親しみ、清子を見る機會を多くする、――否、清子に自分を見せる機會を多くする。此方が、清子を思つては居ないが、清子には何時までも此方を忘れさせたくない。それ許りでなく、猫が鼠を嬲(なぶ)る如く敗者の感情を弄ばうとする、荒んだ戀の驕慢(プライド)は、も一度清子をして自分の前に泣かせて見たい樣な希望さへも心の底に孕んだ。
『清子さんは些とも變らないでせう。』と何かの序に靜子が言つた。靜子は、今日の兄の應待振の如何にも大人びてゐたのに感じてゐた。そして、兄との戀を自ら捨てた女友(とも)が、今となつて何故(なぜ)那□(あんな)未練氣のある擧動をするだらう。否、清子は自ら恥ぢてゐるのだ、其爲に臆すのだ、と許り考へてゐた。
『些とも變らないね。』と信吾は短い髭を捻つた。『幸福に暮してると年は老らないよ。』
『さうね。』
 其話はそれ限(きり)になつた。
『今日隨分長く學校に被居(いらし)たわね。貴兄(あなた)智惠子さんに逢つたでせう?』
『智惠子? ウン日向さんか。逢つた。』
『何う思つて、兄樣は?』と笑を含む。
『美人だね。』と信吾も笑つた。
『顏許りぢやないわ。』と靜子は眞面目な眼をして、『それや好い方よ心も。私姉樣の樣に思つてるわ。』と言つて、熱心に智惠子の性格の美しく清い事、其一例として、濱野(智惠子の宿)の家族の生活が殆んど彼女の補助によつて續けられてゐる事などを話した。
 信吾は其話を、腹では眞面目に、表面はニヤ/\笑ひ乍ら聽いてゐた。
 二人が鶴飼橋へ差掛つた時、朱盆の樣な夏の日が岩手山の巓(みね)に落ちて、夕映の空が底もなく黄橙色(だい/\いろ)に霞んだ。と、丈高い、頭髮をモヂャ/\さした、眼鏡をかけた一人の青年が、反對の方から橋の上に現れた。靜子は、
『アラ昌作叔父さんだわ。』と兄に□く。
『オーイ。』と青年は遠くから呼んだ。
『迎ひに來た。家ぢや待つてるぞ。』
 言ふ間もなく踵を返して、今來た路を自暴(やけ)[#ルビの「やけ」は底本では「や」]に大胯で歸つて行く。信吾は其後姿を見送り乍ら、愍れむ樣な輕蔑した樣な笑ひを浮べた。靜子は心持眉を顰めて、『阿母さんも酷(ひど)いわね。迎ひなら昌作さんでなくたつて可いのに!』と獨語(ひとりごと)の樣に呟(つぶや)いた。

   其三

      一

 曉方(あけがた)からの雨は午(ひる)少し過ぎに霽(あが)つた。庭は飛石だけ先づ乾いて、子供等の散らかした草花が生々としてゐる。池には鯉が跳ねる。池の彼方が芝生の築山、築山の眞上に姿優しい姫神山が浮んで空には斷れ/″\の白雲が流れた。――それが開放(あけはな)した東向の縁側から見える。地上に發散する水蒸氣が風なき空氣に籠つて、少し蒸す樣な午後の三時頃。
『それで何で御座いますか、えゝ、お食事の方は? 矢張お進みになりませんですか?』と言ひ乍ら、加藤は少し腰を浮かして、靜子が薦める金盥の水で眞似許り手を洗ふ。今しもお柳の診察――と言つても毎日の事でホンの型許り――が濟んだところだ。
『ハア、怎うも。……それでゐて恁う、始終何か喰べて見たい樣な氣がしまして、一日口按排(あんばい)が惡う御座いましてね。』とお柳も披(はだか)つた襟を合せ、片寄せた煙草盆などを醫師の前に直したりする。
 痩せた、透徹るほど蒼白い、鼻筋の見事に通つた、險のある眼の心持吊つた――左褄とつた昔を忍ばせる細面の小造りだけに遙(ずうつ)と若く見えるが、四十を越した證(しるし)は額の小皺に爭はれない。
『胃の所爲(せゐ)ですな。』と頷いて、加藤は新しい手巾(ハンカチ)で手を拭き乍ら坐り直した。
『で何です、明日からタカヂヤスターゼの錠劑を差上げて置きますから、食後に五六粒宛召上つて御覽なさい。え? 然(さ)うです。今までの水藥と散劑の外にです。碎くと不味(まづ)う御座いますから、微温湯(ぬるまゆ)か何かで其儘お嚥みになる樣に。』と頤を突出して、喉佛を見せて嚥み下す時の樣子をする。
 見るからが人の好さ相な、丸顏に髭の赤い、デップリと肥つた、色澤(つや)の好い男で、襟の塞つた背廣の、腿(もゝ)の邊が張り裂けさうだ。
 茶を運んで來た靜子が出てゆくと、奧の襖が開いて、卷莨の袋を掴んだ信吾が入つて來た。
『や、これは。』と加藤は先づ挨拶する、信吾も坐つた。
『ようこそ。暑いところを毎日御足勞で……。』
『怎う致しまして。昨日は態々お立寄り下すつた相ですが、生憎と芋田の急病人へ行つてゐたものですから失禮致しました。今度町へ被來(いらし)たら是非何卒(どうか)。』
『ハ、有難う。これから時々お邪魔したいと思つてます。』と莨に火を點(つけ)る。
『何卒さう願ひたいんで。これで何ですからな、無論私などもお話相手には參りませんが、何しろ狹い村なんで。』
『で御座いますからね。』とお柳が引取つた。『これが(頤で信吾を指して)退屈をしまして、去年なんぞは貴方、まだ二十日も休暇が殘つてるのに無理無體に東京に歸つた樣な譯で御座いましてね。今年はまた私が這□(こんな)にブラ/\してゐて思ふ樣に世話もやけず、何彼と不自由をさせますもんですから、もう昨日あたりからポツ/\小言が始りましてね。ホヽヽ。』
『然(さ)うですか。』と加藤は快活に笑つた。
『それぢや今年は信吾さんに逃げられない樣に、成るべく早くお癒りにならなけや不可(いけ)ませんね。』
『えゝもうお蔭樣で、腰が大概良いもんですから、今日も恁うして朝から起きてゐますので。』
『何ですか、リウマチの方はもう癒つたんで?』と信吾は自分の話を避けた。
『左樣、根治とはまあ行き難い病氣ですが、……何卒。』と信吾の莨を一本取り乍ら、『撒里矢爾酸曹達(さるちるさんそうだ)が阿母(おつか)さんのお體に合ひました樣で……。』とお柳の病氣の話をする。
 開放した次の間では、靜子が茶棚から葉鐵(ぶりき)の鑵を取出して、麥煎餅か何か盆に盛つてゐたが、それを持つて彼方へ行かうとする。
『靜や、何處へ?』とお柳が此方から小聲に呼止めた。
『昌作(をぢ)さん許(とこ)へ。』と振返つた靜子は、立ち乍ら母の顏を見る。
『誰が來てるんだい?』と言ふ調子は低いながらに譴(たしな)める樣に鋭かつた。

      二

『山内樣よ。』と、靜子は温(おと)なしく答へて心持顏を曇らせる。
『然うかい。三尺さんかい!』とお柳は蔑(さげす)む色を見せたが、流石に客の前を憚つて、『ホホホヽ。』と笑つた。[#「。」は底本では「、」]
『昌作さんの背高(のつぽ)に山内さんの三尺ぢや釣合はないやね。』
『昌作さんにお客?』と信吾は母の顏を見る。其間に靜子は彼方の室へ行つた。
『然(さ)うだとさ。山内さんて、登記所のお雇さんでね、月給が六圓だとさ。何で御座いますね。』と加藤の顏を見て、『然う言つちや何ですけれど、那□(あんな)小さい人も滅多にありませんねえ、家ぢや子供らが、誰が教へたでもないのに三尺さんといふ綽名(あだな)をつけましてね。幾何(いくら)叱つても山内さんを見れや然う言ふもんですから困つて了ひますよ。ホホヽヽ。七月兒だつてのは眞箇(ほんと)で御座いませうかね?』
『ハッハヽヽ。怎うですか知りませんが、那□(あんな)に生れついちやお氣の毒なもんですね。顏だつても綺麗だし、話して見ても色ンな事を知つてますが……。』
『えゝえゝ。』とお柳は俄かに眞面目臭つた顏をして、
『それやもう山内さんなんぞは、體こそ那□(あんな)でも、兎に角一人で喰つて行くだけの事をしてらつしやるんだから立派なもので御座いますが、昌作叔父さんと來たらまあ怎うでせう! 町の人達も嘸小川の剩(あまさ)れ者だつて笑つてるだらうと思ひましてね。』
『其□(そんな)ことは御座いません……。』
と加藤が何やら言はうとするのを、お柳は打消す樣にして、
『學校は勝手に廢(や)めて來るし、あゝして毎日碌々(ごろ/\)してゐて何をする積りなんですか。私は這□(こんな)性質ですから諄々(つべこべ)言つて見ることも御座いますが、人の前ぢや眼許りパチパチさしてゐて、カラもう現時(いま)の青年(わかいもの)の樣ぢやありませんので。お宅にでも伺つた時は何とか忠告して遣つて下さいましよ。』
『ハハヽヽ。否、昌作さんにした所で何か屹度大きい御志望を有つて居られるんでせうて。それに何ですな、譬へ何を成さるにしても、あの御體格なら大丈夫で御座いますよ。……昌作さんも何ですが(と信吾を見て)失禮乍ら貴君も好い御體格ですな。五寸……六寸位はお有りでせうな? 何方がお高う御座います?』
 氣の無い樣な顏をして煙りを吹いてゐた信吾は、『さあ、何方ですか。』と、吐月峯(はいふき)に莨の吸殼を突込む。
『何方ももう背許り延びてカラ役に立ちませんので、……電信柱にでも賣らなけや一文にもなるまいと申してゐますんで。ホホヽヽヽ。』と、お柳は取つて附けた樣に高笑ひする。加藤も爲方なしに笑つた。
 十分許り經つて加藤は自轉車で歸つて行つた。信吾は玄關から直ぐ書齋の離室(はなれ)へ引返さうとすると
『信吾や、まあ可いぢやないか。』と言つて、お柳は先刻の座敷に戻る。
『お父樣は今日も役場ですか?』と、信吾は縁側に立つて空を眺めた。
『然(さ)うだとさ、何の用か知らないが……町へ出さへすれや何日でも昨晩の樣に醉つぱらつて來るんだよ。』と、我子の後姿を仰ぎ乍ら眉を顰める。
『爲方がない、交際だもの。』と投げる樣に言つて、敷居際に腰を下した。
『時にね。』とお柳は顏を和(やはら)げて、『昨晩の話だね。お父樣のお歸りで其儘になつたつけが、お前よく靜に言つてお呉れよ。』
『何です、松原の話?』
『然うさ。』と眼をマヂ/\する。
 信吾は霎時(しばらく)庭を眺めてゐたが、『まあ可いさ。休暇中に決めて了つたら可いでせう?』と言つて立上る。
『だけどもね……。』
『任(まか)して置きなさい。俺も少し考へて見るから。』と叱り附ける樣に言つて、まだ何か言ひたげな母の顏を上から見下した。そして我が室へは歸らずに、何を思つてか昌作の室の方へ行つた。

      三

 穢苦(むさくる)しい六疊室の、西向の障子がパッと明るく日を受けて、室一杯に莨の煙が蒸した。
 信吾が入つて來た時、昌作は、窓側の机の下に毛だらけの長い脛を投げ入れて、無態(ぶざま)に頬杖をついて熱心に喋(しやべ)つてゐた。
 山内謙三は、チョコナンと人形の樣に坐つて、時々死んだ樣に力のない咳(せき)をし乍ら、狡(ずる)さうな眼を輝かして温(おと)なしく聞いてゐる。萎(な)えた白絣の襟を堅く合せて、柄に合はぬ縮緬の大幅の兵子帶を、小さい體に幾□りも捲いた、狹い額には汗が滲んでゐる。
 二人共、この春徴兵檢査を受けたのだが、五尺足らずの山内は誰が目にも十七八にしか見えない。それでゐて何處か擧動が老人染みてもゐる。昌作の方は、背の高い割に肉が削(こ)けて、漆黒な髮を態とモヂャ/\長くしてるのと、度の弱い鐵縁の眼鏡を掛けてるのとで二十四五にも見える。
『……然(さ)うぢやないか、山内さん。俺はあの時、奈何(どう)してもバイロンを死なしたくなかつた。彼にして死なずんばだな。山内さん、甚□(どんな)偉(えら)い事をして呉れたか知れないぢやないか! それを考へると俺は、夜寢てゝもバイロンの顏が……』と景氣づいて喋(しやべ)つてゐた昌作は、信吾の顏を見ると神經的に太い眉毛を動かして、『實に偉い!』と俄かに言葉を遁がした。そして可厭(いや)な顏をして、口を噤んだ。
 信吾はニヤ/\笑ひ乍ら入つて來て、無造作に片膝を附く。と見ると山内は喰かけの麥煎餅の遣場に困つた樣に臆病らしくモヂ/\して、顏を赧めて頭を下げた。
『貴方は山内さんですね?』と信吾は鷹揚に見下す。
『ハ。』と又頭を下げて、其拍子に昌作の方をチラと偸視(ぬす)む。
『何です、昌作さん? 大分氣焔の樣だね。バイロンが怎(ど)うしたんです?』と信吾は矢張ニヤ/\して言ふ。
『怎うもしない。』と、昌作は不愉快な調子で答へた。
『怎うもしない? ハヽヽ。何ですか、貴方もバイロンの崇拜者で?』と山内を見る。
『ハ、否(いゝえ)。』と喉(のど)が塞(つま)つた樣に言つて、山内は其狡(ずる)さうな眼を一層狡さうに光らして、短かい髭を捻つてゐる信吾の顏をちらと見た。
『然(さ)うですか。だが何だね、バイロンは最(も)う古いんでさ。あんなのは今ぢや最う古典(クラシック)になつてるんで、彼國(むかう)でも第三流位にしきや思つてないんだ。感情が粗雜で稚氣があつて、獨(ひとり)で感激してると言つた樣な詩なんでさ。新時代の青年が那□(あんな)古いものを崇拜してちや爲樣が無いね。』
『眞理と美は常に新しい!』と、一度砂を潜(もぐ)つた樣にザラザラした聲を少し顫はして、昌作は倦怠相(けだるさう)に胡座(あぐら)をかく。
『ハッハヽヽ。』と、信吾は事も無げに笑つた。『だが何かね? 昌作さんはバイロンの詩を何(ど)れ/\讀んだの?』
 昌作の太い眉毛が、痙攣(ひきつ)ける樣にピリヽと動いた。山内は臆病らしく二人を見てゐる。
『讀まなくちや爲樣が無い!』と嘲る樣に對手の顏を見て、
『讀まなくちや崇拜もない。何處を崇拜するんです?』
と揶揄(からか)ふ樣な調子になる。
『信吾や。』と隣の室からお柳が呼んだ。『富江さんが來たよ。』
 昌作はジロリと其方を見た。そして信吾が山内に挨拶して出てゆくと、不快な冷笑を憚りもなく顏に出して、自暴(やけ)に麥煎餅を頬張つた。
 次の間にはお柳が不平相な顏をして立つてゐて、信吾の顏を見るや否や、『何だねえお前、那□(あんな)奴等の對手になつてさ! 九月になれや何處かの學校へ代用教員に遣るつて阿父樣が然(さ)う言つてるんだから、那□愚物(ばか)にや構はずにお置きよ。お前の方が愚物(ばか)になるぢやないか!』と、險のある眼を一層激しくして譴(たしな)める樣に言つた。
 彼方の室からは子供らの笑聲に交つて、富江の躁(はしや)いだ聲が響いた。

   其四

      一

 遠くから見ただけの人は、智惠子をツンと取濟した、愛相のない、大理石の像の樣に冷い女とも思ふ。が、一度近づいて見ては、その滑(なめら)かな美しい肌の下に、ぱつちりとした黒味勝の眼の底の、温かい心を感ぜずには居られぬ。
 同情の深い智惠子は、宿の子供――十歳になる梅ちやんと五歳の新坊――が、もう七月になつたのに垢染みた袷を着て暑がつてるのを、例(いつ)もの事ながら見るに見兼ねた。今日は幸ひ土曜日なので、授業が濟むと直ぐ歸つた。そして、歸途(かへり)に買つて來た――一圓某の安物ではあるが――白地の荒い染の反物を裁(た)つて、二人の單衣を仕立に掛つた。
 障子を開けた格子窓の、直ぐ下から青い田が續いた。其青田を貫いて、此家の横から入つた寺道が、二町許りを眞直に、寶徳寺の門に隱れる。寺を圍んで蓊鬱(こんもり)とした杉の木立の上には、姫神山が金字塔(ピラミット)の樣に見える。午後の日射は青田の稻のそよぎを生々照して、有るか無きかの初夏の風が心地よく窓に入る。壁一重の軒下を流れる小堰(こぜき)の水(みづ)に、蝦を掬ふ子供等の叫び、さては寺道を山や田に往き返りの男女の暢氣(のんき)の濁聲(にごりごゑ)が手にとる樣に聞える――智惠子は其聞苦しい訛にも耳慣れた。去年の秋轉任になつてから、もう十ヶ月を此村に過したので。
 隣室からは、床に就いて三月にもなる老女の、幽かな呻き聲が聞える。主婦(あるじ)のお利代は盥を門口に持出して、先刻(さつき)からパチャ/\と洗濯の音をさしてゐる。智惠子は白い布(きれ)を膝に披げて、餘念もなく針を動かしてゐた。
 子供の衣服(きもの)を縫ふ――といふ事が、端なくも智惠子をして亡き母を思出させた。智惠子は箪笥の上から、葡萄色天鵞絨の表紙の、厚い寫眞帖を取下して、机の上に展(ひら)いた。
 何處か俤の肖通(にかよ)つた四十許りの品の良い女の顏が寫されてゐる。智惠子はそれに懷し氣な眼を遣り乍ら針の目を運んだ。亡き母!……智惠子の身にも悲しき追憶はある。生れたのは盛岡だと言ふが、まだ物心附かぬうちから東京に育つた……父が長いこと農商務省に技手をしてゐたので……十五の春御茶の水女學校に入るまで、小學の課程は皆東京で受けた。智惠子が東京を懷しがるのは、必ずしも地方に育つた若い女の虚榮と同じではなかつた。十六の正月、父が俄かの病で死んだ。母と智惠子は住み慣れた都を去つて、盛岡に歸つた。――唯一人の兄が縣廳に奉職してゐたので。――浮世の悲哀といふものを、智惠子は其の時から知つた。間もなく母は病んだ。兄には善からぬ行ひがあつた。智惠子は學校にも行けなかつた。教會に足を入れ初めたのは其頃で。
 長患ひの末、母は翌年になつて遂に死んだ。程なく兄は或る藝妓を落籍(ひか)して夫婦になつた。智惠子は其賤き女を姉と呼ばねばならなかつた。遂に兄の意に逆つて洗禮を受けた。
 智惠子は堅くも自活の決心をした。そして、十八の歳に師範學校の女子部に入つて、去年の春首尾克く卒業したのである。兄は今青森の大林區署に勤めてゐる。
 父は嚴しい人で、母は優しい人であつた。その優しかつた母を思出す毎に智惠子は東京が戀しくてならぬ。住居は本郷の弓町であつた。四室か五室の廣からぬ家ではあつたが、……玄關の脇の四疊が智惠子の勉強部屋にされてゐた。衡門(かぶきもん)から筋向ひの家に、それは/\大きい楠が一株、雨も洩さぬ程繁つた枝を路の上に擴げてゐた。――靜子に訊けば、それが今猶殘つてゐると言ふ。
『那の邊の事を、怎(ど)う變つたか詳しく小川さんの兄樣に訊いて見ようか知ら!』とも考へてみた。そして、『訊いた所で仕方がない!』と思返した。
 と、門口に何やら聲高に喋る聲が聞えた。洗濯の音が止んだ。『六錢。』といふ言葉だけは智惠子の耳にも入つた。

      二

 すると、お利代の下駄を脱ぐ音がして、輕い跫音(あしおと)が次の間に入つた。
 何やら探す樣な氣勢(けはひ)がしてゐたが、鏗(がちや)りと銅貨の相觸れる響。――霎時(しばし)の間何の物音もしない、と老女の枕元の障子が靜かに開いて、窶(やつ)れたお利代が顏を出した。
『先生、何とも……。』と小聲に遠慮し乍ら入つて來て、『あの、これが來まして……。』と言ひにくさうに膝をつく。
『何です!』と言つて、見ると、それは厚い一封の手紙、(濱野お利代殿)と筆太に書かれて、不足税の印が捺してある。
『細かいのが御座んしたら、あの、一寸二錢だけ足りませんから……。』
『あ、然う?』と皆まで言はせず輕く答へて、智惠子はそれを出してやる。お利代は極り惡氣にして出て行つた。
 智惠子は不圖針の手を留めて、『子供の衣服(きもの)よりは、お錢で上げた方が好かつたか知ら!』と、考へた。そして直ぐに、『否(いゝや)、まだ有るもの!』と、今しも机の上に置いた財布に目を遣つた。幾何かの持越と先月分の俸給十三圓、その内から下宿料や紙筆油などの雜用の拂ひを濟まし、今日反物を買つて來て、まだ五圓許りは殘つてるのである。
 お利代は直ぐ引返して來て、櫛卷にした頭に小指を入れて掻き乍ら、
『眞箇(ほんたう)に何時も/\先生に許り御迷惑をかけて。』と言つて、潤みを有つた大きい眼を氣の毒相に瞬く。左の手にはまだ封も切らぬ手紙を持つてゐた。
『まあ其□(そんな)こと!』と事も無げに言つたが、智惠子は心の中で、此女にはもう一錢も無いのだと考へた。
『今夜あの衣服(きもの)を裁縫(こしら)へて了へば、明日幾何(いくら)か取れるので御座んすけれど……唯(たつた)四錢しか無かつたもんですから。』
『小母さん!』と智惠子は口早に壓附(おしつ)ける樣に言つた。そして優しい調子で、
『私小母さんの家の人よ。ぢやなくつて?』
 初めて聞いた言葉ではないが、お利代は大きい眼を瞠(みは)つて昵と智惠子の顏を見た。何と答へて可いか解らないのだ。
 母は早く死んだ。父は家産を倒して行方が知れぬ。先夫は良い人であつたが、梅といふ女兒(こども)を殘して之も行方知れず(今は凾館にゐるが)二度目の夫は日露の戰に從つて歸らずなつた。何か軍律に背いた事があつて、死刑にされたのだといふ。七十を越した祖母一人に子供二人、己が手一つの仕立物では細い煙も立て難くて、一昨年から女教師を泊めた。去年代つた智惠子にも居て貰ふことにした。この春祖母が病み附いてからは、それでも足らぬ。足らぬ所は何處から出る? 智惠子の懷から!
 言つて見れば赤の他人だ。が、智惠子の親切は肉身の姉妹も及ばぬとお利代は思つてゐる。美しくつて、優しくつて、確固(しつかり)した氣立、温かい情……かくまで自分に親しくしてくれる人が、またと此世にあらうかと、悲しきお利代は夜更けて生活の爲の裁縫をし乍らも、思はず智惠子の室に向いて手を合せる事がある。智惠子を有難いと思ふ心から、智惠子の信ずる神樣も有難いものに思つた。
『あの……小母さん。』と智惠子は稍躊躇(ためら)ひ乍ら、机の上の財布を取つて其中から紙幣を一枚、二枚、三枚……若しや輕蔑したと思はれはせぬかと、直ぐにも出しかねて右の手に握つたが、
『あの、小母さん、私小母さんの家の人よ。ね。だからあの毎日我儘許りしてるんですから惡く思はないで頂戴よ。ね。私小母さんを姉さんと思つてゐるんですから。』
『それはもう……』と言つて、お利代は目を落して疊に片手をついた。
『だからあの、惡く思はれる樣だと私却つて濟まないことよ。ね。これはホンのお小遣よ。祖母さんにも何か……』と言ひ乍ら握つたものを出すと、俯いたお利代の膝に龍鍾(はら/\)と霰の樣な涙が落ちる。と見ると智惠子はグッと胸が迫つた。
『小母さん!』と、出した其手で矢庭に疊に突いたお利代の手を握つて、『神よ!』と心に叫んだ。『願はくば御惠を垂れ給へ!』と瞑ぢた其眼の長い睫毛を傳つて、美しい露が溢れた。

      三

『あゝ。』といふ力無い欠伸が次の間から聞えて、『お利代、お利代。』と、嗄れた聲で呼び、老女が目を覺まして、寢返りでも爲たいのであらう。
 智惠子はハッとした樣に手を引いた。お利代は涙に濡れた顏を擧げて、『は、只今。』と答へたが、其顏に言ふ許りなき感謝の意を湛へて、『一寸』と智惠子に會釋して立つ。急がしく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。
 其後姿を見送つた目を其處に置いて行つた手紙の上に[#「上に」は底本では「上を」]移して、智惠子は眤と呼吸を凝した。神から授つた義務を果した樣な滿足の情が胸に溢れた。そして、『私に出來るだけは是非して上げねばならぬ!』と自分に命ずる樣に心に誓つた。
『あゝゝ、よく寢た。もう夜が明けたのかい、お利代?』と老女(としより)の聲が聞える。
『ホホヽヽ、今午後の三時頃ですよ祖母さん。お氣分は?』
『些(ちつ)とも平生(ふだん)と變らないよ。ナニか、先生はもうお出掛けか?』
『否、今日は土曜日ですから先刻にお歸りになりましたよ。そしてね祖母さん、あの、梅と新坊に單衣を買つて來て下すつて、今縫つて下すつてるの。』
『呀(おや)、然うかい。それぢやお前、何か御返禮に上げなくちや不可(いけ)ないよ。』
『まあ祖母さんは! 何時でも昔の樣な氣で……。』
『ホヽヽ。然(さ)うだつたかい。だがねお利代、お前よく氣を附けてね、先生を大事にして上げなけれや不可(いけ)ないよ。今度の先生の樣に良い人はお前、何處へ行つたつて有るものぢやないよ。』と子供にでも訓(をし)へる樣に言ふ。
 智惠子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の鍾(あつま)るを覺えた。
『ア痛、ア痛、寢返りの時に限つてお前は邪慳(ぢやけん)だよ。』と、今度はお利代を叱つてゐる。智惠子は氣が附いた樣に、また針を動かし出した。
 五分許り經つてお利代が再び入つて來た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。
『お氣分が宜い樣ね?』
『は。もう夜が明けたかなんて恍(とぼ)けて……。』と少し笑つて、『皆先生のお蔭で御座います。』
『まあ小母(をば)さんは!』と同情深い眼を上げて、『小母(をば)さんは何だわね、私を家の人の樣にはして下さらないのね?』
『ですけれど先生、今もあのお祖母さんが、先生の樣な人は何處に行つても無いと申しまして……。』
と、流石は世慣れた齡(とし)だけに厚く禮を述べる。
『辛いわ、私!』と智惠子は言つた。
『何も私なんかに然(さ)う被仰(おつしや)る事はなくてよ、小母さんの樣に立派な心掛を有つてる人は、神樣が助けて下さるわ。』
『眞箇(ほんと)に先生、生きた神樣つたら先生の樣な人かと思ひまして。』
『まあ!』と心から驚いた樣な聲を出して、智惠子は涼しい眼を瞠(みは)つた。『其□事(そんなこと)被仰(おつしやる)るもんぢやないわ。』
『は。』と言つてお利代は俯いた。今の言葉を若しやお世辭とでも取られたかと思つたのだらう。手は無意識に先刻の手紙に行く。
『あら小母さん、お手紙御覽なさいよ。何處から?』
『は。』と目を上げて、『凾館からですの。……あの梅の父から。』と心持極り惡氣に言ふ。
『ま、然う?』と輕く言つたが、惡い事を訊いたと心で悔(くや)んだ。
『あの、先月……十日許り前にも來たのを、返事を遣らなかつたもんですから……』
と言つてる時、門口に人の氣勢。
『日向さんは?』
『靜子さんですよ。』と□(さゝや)いたお利代は急いで立つ。
『小母さん、これ。』と智惠子は先刻の紙幣を指さしたのでお利代は『それでは!』と受取つて室を出た。

      四

 挨拶が濟むと、靜子は直ぐ、智惠子が片附けかけた裁縫物に目をつけて、『まあ好い柄ね。』
『でも無いわ。』
『貴女(あなた)ンの?』
『まさか! 這□(こんな)小さいの着られやしないわ。』と、笑ひ乍ら縫掛けのそれを抓(つま)んで見せる。
『梅ちやんの?』と少し聲を潜めた。
『え、新坊さんと二人の。』
『然う?』と言つて、靜子は思ひあり氣な眼附をした。無論、智惠子が買つてくれたものと心に察したので。
 智惠子は身の周圍(まはり)を取片附けると、改めて嬉しげな顏をして、『よく被來(いらし)つたわね!』
『貴女は些(ちつ)とも被來(いらし)つて下さらないのね?』
『濟まなかつたわ。』と何氣なく言つたが、一寸目の遣場(やりば)困つた。そして、微笑(ほゝえ)んでる樣な靜子の目と見合せると色には出なかつたが、ポッと顏の赧(あから)むを覺えた。靜子清子の外には友も無い身の(富江とは同僚乍ら餘り親しくなかつた。)小川家にも一週に一度は必ず訊ねる習慣であつたのに、信吾が歸つてからは、何といふ事なしに訪ねようとしなかつた。
『今日はお忙しくつて?』
『否(いゝえ)。土曜日ですもの、緩(ゆつく)りしてらつしつても可いわね?[#「可いわね?」は底本では「可いわね」]』
『可けないの。今日は私、お使ひよ。』
『でもまあ可いわ。』
『あら、貴女のお迎ひに來たのよ。今夜あの、宅で歌留多會を行(や)りますから母が何卒(どうぞ)ッて。……被來(いらつしや)るわね?』
『歌留多、私取れなくつてよ。』
『まあ、貴女御謙遜ね?』
『眞箇(ほんと)よ。隨分久しく取らないんですもの。』
『可いわ。私だつて下手(へた)ですもの。ね、被來(いらつしや)るわね?』
と靜子は姉にでも甘える樣な調子。
『然うね?』と智惠子は、心では行く事に決めてゐ乍ら、餘り氣の乘らぬ樣な口を利いて、
『誰々? 集るのは?』
『十人許(ばか)しよ。』
『隨分大勢ね?』
『だつて、宅許りでも選手(チャンピオン)が三人ゐるんですもの。』
『オヤ、その一人は?』と智惠子は調戲(からか)ふ樣に目で笑ふ。
『此處に。』と頤で我が胸を指して、『下手組の大將よ。』と無邪氣に笑つた。
 智惠子は、信吾が歸つてからの靜子の、常になく生々と噪(はしや)いでゐることを感じた。そして、それが何かしら物足らぬ樣な情緒を起させた。自分にも兄がある。然し、その兄と自分との間に、何の情愛がある?
 智惠子は我知らず氣が進んだ。『何時(なんじ)から? 靜子さん。』
『今直ぐ、何にも無いんですけど晩餐(ごはん)を差上げてから始めるんですつて。私これから、清子さんと神山さんをお誘ひして行かなけやならないの。一緒に行つて下すつて? 濟まないけど。』
『は。貴女となら何處までゞも。』と笑つた。
 軈て智惠子は、『それでは一寸。』と會釋して、『失禮ですわねえ。』と言ひ乍ら、室の隅で着換へに懸つたが、何を思つてか、取出した衣服は其儘に、着てゐた紺絣の平常着(ふだんぎ)へ、袴だけ穿いた。
 其後姿を見上げてゐた靜子は、思出す事でもあるらしく笑を含んでゐたが少し小聲で、
『あの、山内樣ね。』
『え。』と此方へ向く。
『アノウ……』と、智惠子の眞面目な顏を見ては惡いことを言出したと思つたらしく、心持極り惡氣に頬を染めたが、『詰らない事よ。……でも神山さんが言つてるの。あの、少し何してるんですつて、神山さんに。』
『何してるつて、何を?』
『あら!』と靜子は耳まで紅くした。
『まさか!』
『でも富江さん自身で被仰(おつしや)つたんですわ。』と、自分の事でも辯解する樣に言ふ。
『まあ彼の方は!』と智惠子は少し驚いた樣に目を瞠(みは)つた。それは富江の事を言つたのだが、靜子の方では、山内の事の樣に聞いた。
 程なくして二人は此家を出た。

      五

 二人が醫院の玄關に入ると、藥局の椅子に靠(もた)れて、處方簿か何かを調べてゐた加藤は、やをら其帳簿を伏せて快活に迎へた。
『や、婦人隊の方は少々遲れましたね、昌作さんの一隊は二十分許り前に行きましたよ。』
『然(さ)うで御座いますか。あの愼次さんも被來(いらし)つて?』
『は。弟は歌留多を取つた事がないてんで弱つてましたが、到頭引つ張られて行きました。まお上がんなさい。こら、清子、清子。』
 そして、清子の行く事も快く許された。
『貴君も如何で御座いますか?』と智惠子が言つた。
『ハッハヽヽ、私は駄目ですよ、生れてから未だ歌留多に勝つた事がないんで……だが何です、負傷者でもある樣でしたら救護員として出張しませう。』
 清子が着換の間に、靜子は富江の宿を訪ねたが、一人で先に行つたといふ事であつた。
 三人の女傘(かさ)が後になり先になり、穗の揃つた麥畑の中を睦(むつま)し氣に川崎に向つた。丁度鶴飼橋の袂に來た時、其處で落合ふ別の道から山内と出會した。山内は顏を眞赤(まつか)にして會釋して、不即不離(つかずはなれず)の間隔をとつて、いかにも窮屈らしい足取で、十間許り前方をチョコ/\と歩いた。
 程近い線路を、好摩(かうま)四時半發の上り列車が凄じい音を立てゝ過ぎた頃、一行は小川家に着いた。噪いだ富江の笑聲が屋外までも洩れた。岩手山は薄紫に※(ぼ)[#「目+夢の夕に代えて目」、32-上-9]けて、其肩近く靜なる夏の日が傾いてゐた。
 富江の外に、校長の進藤、準訓導の森川、加藤の弟の愼次、農學校を卒業したといふ馬顏の沼田、それに巡囘に來た松山といふ巡査まで上り込んで、大分話が賑つてゐた。其處へ山内も交つた。
 女組は一まづ別室に休息した。富江一人は彼室(あちら)へ行き此室(こちら)へ行き、宛然(さながら)我家の樣に振舞つた。お柳は朝から口喧しく臺所を指揮(さしづ)してゐた。
 晩餐の際には、嚴めしい口髭を生やした主人の信之も出た。主人と巡査と校長の間に持上つた鮎釣(あゆかけ)の自慢話、それから、此近所の山にも猿が居る居ないの議論――それが濟まぬうちに晩餐は終つて巡査は間もなく歸つた。
 軈て信吾の書齋にしてゐる離室(はなれ)に、歌留多の札が撒(ま)かれた。明るい五分心の吊洋燈(つるしランプ)二つの下に、入交りに男女の頭が兩方から突合つて、其下を白い手や黒い手が飛ぶ。行儀よく並んだ札が見る間に減つて、開放した室が刻々に蒸熱(むしあつ)くなつた。智惠子の前に一枚、富江の前に一枚……頬と頬が觸れる許りに頭が集る。『春の夜の――』と山内が妙に氣取つた節で讀上げると、
『萬歳ツ。』と富江が金切聲で叫んだ。智惠子の札が手際よく拔かれて、第一戰は富江方の勝に歸した。智惠子、信吾、沼田、愼次、清子の顏には白粉が塗られた。信吾の片髭が白くなつたのを指さして、富江は聲の限り笑つた。一同もそれに和した。沼田は片肌を脱ぎ、森川は立襟の洋服の釦を脱して風を入れ乍ら、乾き掛つた白粉で皮膚が痙攣(ひきつ)る樣なのを氣にして、顏を妙にモグ/\さしたので、一同は又笑つた。
『今度は復讐しませう。』と信吾が言つた。
『ホホヽヽ。』と智惠子は唯笑つた。
『新しく組を分けるんですよ。』と、富江は誰に言ふでもなく言つて、急(いそが)しく札を切る。

      六

 二度目の合戰が始つて間もなくであつた。靜子の前の「たゞ有明」の札に、對合(むかひあ)つた昌作の手と靜子の手と、殆んど同時に落ちた。此方が先だ、否、此方が早いと、他の者まで面白づくで騷ぐ。
『敗(ま)けてお遣りよ。昌作さんが可哀想だから。』と見物してゐたお柳が喙(くちばし)を容れた。不快な顏をして昌作は手を引いた。靜子は氣の毒になつて、無言で昌作の札を一枚自分の方へ取つた。昌作はそれを邪慳に奪ひ返した。其合戰が濟むと、昌作は無理に望んで讀手になつた。そして到頭終ひまで讀手で通した。
 何と言つても信吾が一番上手であつた。上の句の頭字を五十音順に列べた其配列法が、最初少からず富江の怨みを買つた。しかし富江も仲々信吾に劣らなかつた。そして組を分ける毎に、信吾と敵になるのを喜んだ。二人の戰ひは隨分目覺ましかつた。
 信吾に限らず、男といふ男は、皆富江の敏捷(すばしこ)い攻撃を蒙つた。富江は一人で噪(はしや)ぎ切つて、遠慮もなく對手の札を拔く、其拔方が少し汚なくて、五囘六囘と續くうちに、指に紙片で繃帶する者も出來た。そして富江は、一心になつて目前の札を守つてゐる山内に、隙さへあれば遠くからでも襲撃を加へることを怠らなかつた。其度、山内は上氣した小さい顏を擧げて、眼を三角にして怨むが如く富江の顏を見る。『オホヽヽ。』と、富江は面白氣に笑ふ。靜子と智惠子は幾度か目を見合せた。
 一度、信吾は智惠子の札を拔いたが、汚なかつたと言つて遂に札を送らなかつた。次いで智惠子が信吾のを拔いた。
『イヤ、參りました。』と言つて、信吾は強ひて、一枚貰つた。
 其合戰の終りに、信吾と智惠子の前に一枚宛殘つた。昌作は立つて來て覗いてゐたが、氣合を計つて、
『千早ふる――』と叫んだ。それは智惠子の札で、信吾の敗となつた。
『マア此人は!』と、富江はしたゝか昌作の背を平手で擲(どや)しつけた。昌作は赤くなつた顏を勃(むつ)とした樣に口を尖らした。
 可哀想なは愼次で、四五枚の札も守り切れず、イザとなると可笑しい身振をして狼狽(まごつ)く。それを面白がつたのは嫂の清子と靜子であるが、其狼狽方(まごつきかた)が故意(わざ)とらしくも見えた。滑稽でもあり氣の毒でもあつたのは校長の進藤で、勝敗がつく毎に鯰髭を捻つては、『年を老ると駄目です喃。』と啣(こぼ)してゐた。一度昌作に代つて讀手になつたが、間違つたり吃つたりするので、二十枚と讀まぬうちに富江の抗議で罷(や)めて了つた。
 我を忘れる混戰の中でも、流石に心々の色は見える。靜子の目には、兄と清子の間に遠慮が明瞭(あり/\)と見えた。清子は始終敬虔(つゝまし)くしてゐたが、一度信吾と並んで坐つた時、いかにも極り惡氣であつた。その清子の目からは亦信吾の智惠子に對する擧動が、全くの無意味には見えなかつた。そして富江の阿婆摺(あばず)れた調子、殊にも信吾に對する忸々(なれ/\)しい態度は、日頃富江を心に輕んじてゐる智惠子をして多少の不快を感ぜしめぬ譯にいかなつた。
 九時過ぎて濟んだ、茶が出、菓子が出る。殘りなく白粉の塗られた顏を、一同は互ひに笑つた。消さずに歸る事と誰やらが言出したが、智惠子清子靜子の三人は何時の間にか洗つて來た。富江が不平を言ひ出して、三人に更めて附けようと騷いだが、それは信吾が宥(なだ)めた。そして富江は遂に消さなかつた。森川は上衣の釦(ボタン)をかけて、乾いた手巾(ハンケチ)で顏を拭いた。宛然(さながら)厚化粧した樣になつて、黒い齒の間に一枚の入齒が、殊更らしく光つた。妖怪の樣だと言つて一同がまた笑つた。
 軈てドヤ/\と歸路についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外に出た。雲一つなき天に片割月が傾いて、靜かにシットリとした夜氣が、相應に疲れてゐる各々の頭腦に、水の如く流れ込んだ。

      七

 淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光が柔かに濕(うるは)うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を蕩かして、天地は限りなき靜寂の夢を罩(こ)めた。見知らぬ郷の音信の樣に、北上川の水瀬の音が、そのしつとりとした空氣を顫はせる。
 男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭腦は、今までの華やかな明るい室の中の樣と、この夜の村の靜寂の間の關係を、一寸心に見出しかねる……と、眼の前に歌留多の札がちらつく。歌の句が片々に混雜(こんがらが)つて、唆(そゝ)るやうに耳の底に甦(よみがへ)る。『あの時――』と何やら思出される。それが餘りに近い記憶なので却つて全體(みな)まで思出されずに消えて了ふ。四邊は靜かだ。濕(しめ)つた土に擦(す)れる下駄の、音が取留めもなく縺(もつ)れて、疲れた頭が直ぐ朦々(もう/\)となる。霎時(しばし)は皆無言で足を運んだ。
 田の中を逶(うね)つた路が細い。十人は長い不規則な列を作つた。最先に沼田が行く。次は富江、次は愼次、次は校長……森川山内と續いて、山内と智惠子の間は少し途斷(とぎ)れた。智惠子のすぐ後ろを、丈高い信吾が歩いた。
 智惠子は甘い悲哀を感じた。若い心はウットリとして、何か恁(か)う、自分の知らなんだ境を見て歸る樣な氣持である。詰らなく騷いだ! とも思へる。樂しかつた! とも思へる。そして、心の底の何處かでは、富江の阿婆摺(あばず)れた噪(はしや)ぎ方が、不愉快でならなかつた。そして、何といふ譯もなしに直ぐ後ろから跟(つ)いて來る信吾の跫音が心にとまつてゐた。
 其姿は、何處か、夢を見てゐる人の樣に悄然とした[#「とした」はママ]、髮も亂れた。
 先づ平生の心に歸つたのは富江であつた。『ね、沼田さん。あの時そら貴方の前に「むべ山」があつたでせう? あれが私の十八番(おはこ)ですの。屹度拔いて上げませうと思つて待つてると、信吾さんに札が無くなつて、貴方が「むべ山」と「流れもあへぬ」を信吾さんへ遣つたでせう? 私厭になつちまひましたよ。ホホヽヽ。』と、先刻(さつき)の事を喋(しやべ)り出した。『ハハヽヽ。』と四五人一度に笑ふ。
『森川さんの憎いつたらありやしない。那□(あんな)に亂暴しなくたつて可いのに、到頭「聲きく時」を裂(さ)いちまつた……。』
と、富江は氣に乘つて語り繼(つ)ぐ。
 信吾は、間隔を隔(へだた)つてゐる爲か、何も言はなかつた。笑ひもしなかつた。其心は眼前の智惠子を追うてゐた。そして、其後の清子の心は信吾を追うてゐた。其又後ろの靜子の心は清子を追うてゐた。そして、四人共に何も言はずに足を運んだ。
 路が下田路に合つて稍廣くなつた。前の方の四五人は、甲高い富江の笑聲を圍んで一團になつた。町歸りの醉漢(よひどれ)が、何やら呟(つぶや)き乍ら蹣跚(よろ/\)とした歩調(あしどり)で行き過ぎた。
 と、信吾は智惠子と相並んだ。
『奈何(どう)です、此靜かな夜の感想は?』
『眞箇(ほんと)に靜かで御座いますねえ。』と、少し間(ま)をおいて智惠子は答へる。
『貴女は何でせう、歌留多なんか餘りお好きぢやないでせう?』
『でもないんで御座いますけれど……然し今夜は、眞箇(ほんと)に樂しう御座いました。』と遠慮勝に男を仰いだ。
『ハハヽヽ。』と笑つて信吾は杖の尖でコツ/\石を叩(たゝ)き乍ら歩いたが、
『何ですね。貴女は基督教信者(クリスチャン)で?』
『ハ。』と低い聲で答へる。
『何か其方の本を貸して下さいませんか? 今迄つい宗教の事は、調べて見る機會も時間もなかつたんですが、此夏は少し遣つて見ようかと思ふんです。幸ひ貴女の御意見も聞かれるし……。』
『御覽になる樣な本なんぞ……あの、私こそ此夏は、靜子さんにでもお願ひして頂いて、何か拜借して勉強したいと思ひまして……。』
『否(いや)、別に面白い本も持つて來ないんですが、御覽になるなら何時でも……。すると何ですか、此夏は何處にも被行(いらつしや)らないんですか?』
『え。まあ其積りで……。』
 路は小さい杜に入つて、月光を遮つた青葉が風もなく、四邊(あたり)を香(にほ)はした。

      八

 仄暗(ほのくら)い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。
『貴女(あなた)は小説はお嫌ひですか?』と、信吾は少し唐突に問うた。其の時はもう肩も摩れ/\に並んでゐた。
『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』と落着いた答へをして閃(ちら)と男の横顏を仰いだが、智惠子の心には妙に落着がなかつた。前方の人達からは何時しか七八間も遲れた。後ろからは清子と靜子が來る。其跫音も何うやら少し遠ざかつた。そして自分が信吾と並んで話し乍ら歩く……何となき不安が胸に萠(きざ)してゐた。
 立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎に思ふのだが、何故かそれも出來なかつた。
『あれはお讀みですか、風葉の「戀ざめ」は?』と信吾はまた問うた。
『あの發賣禁止になつたとか言ふ……?』
『然(さ)うです。あれを禁止したのは無理ですよ。尤もあれだけじや無い、眞面目な作で同じ運命に逢つたのが隨分ありますからねえ。折角拵へた御馳走を片端から犬に喰はれる樣なもんで……ハハヽヽ。「戀ざめ」なんか別に惡い所が無いぢやないですか?』
『私はまだ讀みません。』
『然うでしたか。』と言つて、信吾は未だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを罷(や)めてニヤ/\と薄笑を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。
 信吾は心に、何ういふ連想からか、かの「戀ざめ」に描かれてある事實――否あれを書く時の作者の心持、否、あれを讀んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。
 五六歩歩(ある)くと、智惠子の柔かな手に、男の手の甲が、木の葉が落ちて觸る程輕く觸つた。寒いとも温(あつた)かいともつかぬ、電光の樣な感じが智惠子の腦を掠めて、體が自ら剛くなつた。二三歩すると又觸つた。今度は少し強かつた。
 智惠子は其手を口の邊へ持つて來て輕く故意とらしからぬ咳をした。そして、礑(はた)と足を留めて後ろを振返つた。清子と靜子は肩を並べて、二人とも俯向いて、十間も彼方から來る。
 信吾は五六歩歩いて、思切り惡さうに立留つた。そして矢張り振返つた。目は、淡く月光を浴びた智惠子の横顏を見てゐる。コツ/\と、杖(ステッキ)の尖(さき)で下駄の鼻を叩いた。其顏には、自ら嘲る樣な、或は又、對手を蔑視(みくび)つた樣な笑が浮んでゐた。
 清子と靜子は、霎時(しばし)は二人が立留つてゐるのも氣附かぬ如くであつた。清子は初めから物思はし氣に俯向いて、そして、物も言はず、出來るだけ足を遲くしようとする。
『濟まなかつたわね、清子さん、恁□(こんな)に遲くしちやつて。』と、も少し前に靜子が言つた。
『否。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。
『だつて、お宅ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も愼次さんも被來(いらし)たんだから可いけど……。』
『靜子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、昵と靜子の手を握つた。
『恁(か)うして居たいわ、私。……』
『え?』
『恁うして! 何處までも、何處までも恁うして歩いて……。』
 靜子は譯もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顏を見合さなかつた。何處までも恁うして歩く! 此美しい夢の樣な言葉は華かな歌留多の後の、疲れて※乎(ぼうつ)[#「目+夢の夕に代えて目」、38-上-5]として、淡い月光と柔かな靄に包まれて、底もなき甘い夜の靜寂の中に蕩(とろ)けさうになつた靜子の心をして、譯もなき咄嗟の同情を起さしめた。
『此女(ひと)は兄に未練を有つてる!』といふ考へが、瞬(またゝ)く後に靜子の感情を制した。厭はしき怖れが、胸に湧いた。然しそれも清子に對する同情を全くは消さなかつた。女は悲しいものだ! と言ふ樣な悲哀が、靜子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。
『怎うです。少し早く歩いては?』と信吾が呼んだ。二人は驚いて顏を擧げた。

      九

 其夜、人々に別れて智惠子が宿に着いた時はもう十時を過ぎてゐた。
 ガタピシする入口の戸を開けると、其處から見通しの臺所の爐邊に、薄暗く火屋(ほや)の曇つた、紙笠の破れた三分心の吊洋燈の下で、物思はし氣に悄然と坐つて裁縫(しごと)をしてゐたお利代は、『あ、お歸りで御座いますか。』と忙しく出迎へる。
『遲くなりまして、新坊さんももうお寢(やす)み?』
『は、皆寢みました。先生もお泊りかと思つたんですけれど……。』と言ひ乍ら先に立つて智惠子の室に入つて、手早く机の上の洋燈を點(とも)す。臥床が延べてあつた。
 お泊りかと思つたといふ言葉が、何故か智惠子の耳に不愉快に響いた。今迄お利代の坐つてゐた所には、長い手紙が擴げたなりに逶□(のたく)つてゐた。ちらとそれを見乍ら智惠子は室に入つて、『マア臥床(おとこ)まで延べて下すつて、濟まなかつたわ、小母(をば)さん。』
『何の、先生。』と笑顏を見せて、『面白う御座んしたでせう?』
『え……。』と少し曖昧に濁して、『私疲れちやつたわ。』と邪氣(あどけ)なく言ひ乍ら、袴も脱がずに坐る。
『誰方が一番お上手でした?』
『皆樣お上手よ。私なんか今迄餘り歌留多も取つた事がないもんですから、敗けて許り。』と莞爾(につこり)する。ほつれた髮が頬に亂れてる所爲か、其顏が常よりも艶に見えた。
 成程智惠子は遊戯などに心を打込む樣な性格でないと思つたので、お利代は感心した樣に、『然うでせうねえ!』と大きい眼をパチ/\する。
 それから二人は、一時間前に漸々(やう/\)寢入つたといふ老女の話などをしてゐたが、お利代は立つて行つて、今日凾館から來たといふ手紙を持つて來た。そして、
『先生、怎うしたものでせうねえ?』と愁はし氣な、極り惡氣な顏をして話し出した。其手紙はお利代の先夫からである。以前にも一度來た。返事を出さなかつたので又來た。梅といふ子が生れた翌年不圖行方知れずになつてからもう九年になる。其長い間の詫を細々書いて、そして、自分は今凾館の或商會の支店を預る位の身分になつたから、是非共過去の自分の罪を許して、一家を擧げて凾館に來てくれと言つて來たのである。そして、自分の家出の後に二度目の夫のあつた事、それが死んだ事も聞知つてゐる。生れた新坊は矢張り自分の子と思つて育てたいと優しくも言葉を添へた。――
 身を入れて其話を聞いてゐた智惠子は、愼(つゝま)しいお利代の口振りの底に、此悲しい女の心は今猶その先夫の梅次郎を慕つてゐる事を知つた。そして無理もないと思つた。
 無理もないと思ひつゝも、智惠子の心には思ひもかけぬ怪しき陰翳(かげ)がさした。智惠子は心から此哀れなる寡婦に同情してゐた。そして自己に出來るだけの補助をする――人を救ふといふことは樂しい事だ。今迄お利代を救ふものは自己一人であつた。然し今は然うでない!
 誰しも恁□(こんな)場合に感ずる一種の不滿を、智惠子も感ぜずに居れなかつた。が、すぐにそれを打消した。
『で御座いますからね。』お利代は言葉をついだ。『まあ何方(どつち)にした所で、祖母さんの病氣を癒すのが一番で御座いますがね。……何と返事したものかと思ひまして。』
『然うね。』と云つて、智惠子は睫毛の長い眼を瞬(しばたゝ)いてゐたが、『忝(かたじけ)ないわ、私なんかに御相談して下すつて。……あの小母さん、兎も角今のお家の事情を詳しく然(さ)う言つて上げた方が可かなくつて? 被行(いらつしや)る方が可いと、まあ私だけは思ふわ。だけど怎(ど)うせ今直ぐとはいかないんですから。』
『然うで御座いますねえ。』とお利代は俯向いて言つた。實は自分も然う思つてゐたので。

      一〇

『然うなすつた方が可いわ、小母さん。』と智惠子は俯向いたお利代の胸の邊を昵(ぢつ)と瞶(みつ)めた。
『然うで御座いますねえ。』と同じ事を繰返して、稍あつてお利代は思ひ餘つた樣な顏をあげたが、『怎うせ行くとしましても、それやまあ祖母さんが何(ど)うにか、あの快癒(なほ)つてからの事で御座いますから、何時の事だか解りませんけれども、何だかあの、生れ村を離れて北海道あたりまで行つて、此先何(ど)うなることかと思ふと……。』
『それやね、決めるまでにはまあ、間違ひはないでせうけれど、先方の事も詳しく何して見てから……』
『其處(そこ)ンところはあの、確乎(たしか)だらうと思ひますですが……今日もあの、手紙の中に十圓だけ入れて寄越して呉れましたから……。』
『おや然うでしたか。』と言つたが、智惠子はそれに就いての自分の感想を成るべく顏に現さぬ樣に努めて、
『兎も角お返事はお上げなすつた方が可いわ。矢張り梅ちやんや新坊さんの爲には……。』と、智惠子はお利代の思つてゐる樣な事を理を分けて説いてみた。説いてるうちに、何か恁う、自分が今善事をしてると云つた樣な氣持がして來た。
『然うで御座いますねえ。』と、お利代は大きい眼を屡叩(しばたゝ)き乍ら、未だ瞭(はつき)りと自分の心を言出しかねる樣で、『恁うして先生のお世話を頂いてると、私はもう何日までも此儘で居た方が幾ら樂しいか知れませんけれども。』
『私だつて然う思うわ、小母さん、眞箇(ほんと)に……。』と言ひかけたが、何かしら不圖胸の中に頭を擡(もた)げた思想があつて言葉は途斷(とぎ)れた。『神樣の思召よ。人間の勝手にはならないんですわね。』
『先生にしたところで、』と、お利代は智惠子の顏をマヂマヂと瞶(みつ)め乍ら、『怎うせ、御結婚なさらなけれやなりませんでせうし……。』
『ホヽヽヽ。』と智惠子は輕く笑つて、『小母さん、私まだ考へても見た事が無くつてよ。自分の結婚なんか。』
 話題はそれで逸(そ)れた。程なくしてお利代が出てゆくと、智惠子はやをら立つて袴を脱いで、丁寧にそれを疊んでゐたが、何時か其の手が鈍つた。そして再び机の前に坐ると、昵(ぢつ)と洋燈の火を瞶めて、時々氣が附いた樣に長い睫毛を屡叩(しばた)いてゐた。隣室では新坊が眼を覺まして何かむづかつてゐたが、智惠子にはそれも聞えぬらしかつた。
 智惠子の心は平生になく混亂(こんがらが)つてゐた。お利代一家のことも考へてみた。お利代の悲しき運命、――それを怎うやら恁うやら切拔けて來た心根を思ふと、實に同情に堪へない、今は加藤醫院になつてる家、あの家が以前お利代の育つた家、――四年前にそれが人手に渡つた。其昔、町でも一二の濱野屋の女主人として、十幾人の下女下男を使つた祖母が、癒る望みもない老の病に、彼樣(あゝ)して寢てゐる心は怎うであらう! 人間の一生の悲痛が時あつて智惠子の心を脅かす。……然し、此悲しきお利代の一家にも、思懸けぬ幸福が湧いて來た! 智惠子は神の御心に委ねた身乍らに、獨(ひとり)ぼツちの寂しさを感ぜぬ譯にいかなかつた。
 行末怎うなるのか! といふ眞摯な考への横合から、富江の躁(はしや)いだ笑聲が響く。つと、信吾の生白い顏が頭に浮ぶ、――智惠子は嚴肅な顏をして、屹と自分を譴(たしな)める樣に唇を噛んだ。『男は淺猿(あさま)しいものだ!』と心で言つて見た。青森にゐる兄の事が思出されたので。――嫂の言葉に返事もせず、竈の下を焚きつけ乍らも聖書を讀んだ頃が思出された。亡母(はゝ)の事が思出された。東京にゐる頃が思出された。
 遂に、あの頃のお友達は今怎(ど)うなつたらうと思ふと、今の我身の果敢なく寂しく頼りなく張合のない、孤獨の状態を、白地(あからさま)に見せつけられた樣な氣がして、智惠子は無性に泣きたくなつた。矢庭に兩手を胸の上に組んで、長く/\祈つた。長く/\祈つた。……
 侘(わび)しき山里の夜は更けて、隣家の馬のゴト/\と羽目板を蹴る音のみが聞えた。


次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:191 KB

担当:undef