鳥影
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著者名:石川啄木 

『先生……先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不圖氣がつくと、自分は其處で少し交睫(まどろ)みかけたらしい。お利代は加藤醫師を伴れて來て、心配氣な顏をして起してゐる。
『先生、まア恁□所に寢て、お醫師樣が被來(いらつしや)いましたよ。』
『まア濟みません。』然う言つてお利代に手傳はれ乍ら臥床の上に寢せられた。
 室には夜ツぴて點(つ)けておいた洋燈(ランプ)の油煙やら病人の臭氣やらがムッと籠つてゐた。お利代は洋燈(ランプ)を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髮亂れ、眼凹み、皮膚の澤(つや)なく弛んだ智惠子の顏が、もう一週間も其餘も病んでゐたものゝ樣に見えた。
 加藤は先ず概略の病状を訊いた。智惠子は痛みを怺へて問ふがまゝに答へる。
『不可(いけ)ませんなア!』と醫師は言つた。そして診察した。
 脈も體温も少し高かつた。舌は荒れて、眼が充血してゐる。そして腹を見た。
『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の邊を押す。
『痛みます。』と苦し氣に言つた。
『此處は?』
『其處も。』
『フム。』と言つて、加藤は腹一帶を輕く擦(さす)りながら眉を顰めた。
 それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。
「赤痢だ!」と智惠子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲みが湧いた。
 智惠子の病氣は赤痢――然も稍烈しい、チブス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には擔架に乘せられて隔離病舍に收容された。お利代の家の門口には「交通遮斷」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭氣に充ち、軒下には石灰が撒かれた。
 丁度智惠子が隔離病舍に入つた頃、小川の家では、信吾が遲く起きて、そして、今日の中に東京に歸らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたい不愉快と憤怒を抱いてふいと發(た)つた。それは午後の二時過。
 吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に制(と)められて、一日だけ延ばした。小川家には急に不愉快な、そして寂しい空氣が籠つた。
 日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智惠子の事を訊かされた。吉野は直ぐ智惠子の宿を訪ねた。町には矢張り樺火が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から□つて霎時(しばらく)お利代と話した。そして、石炭酸臭い一封の手紙を渡された、それは智惠子が鉛筆の走り書。――恁う書いてあつた。
 御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかゝれないのが何より――病の苦痛より辛う御座います。吉野樣、何卒私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。
 屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。
ちゑ   よしの樣まゐる

   其十三

      一

 智惠子の容體は、最初隨分危險であつた。隔離病舍に收容された晩などは知覺が朦朧になり、妄語(うはごと)まで言つた位。てつきりチブス性の赤痢と思つて加藤も弱つたのであるが、三日許りで危險は去つた。そして二十日過になると、赤痢の方はもう殆んど癒つたが、體が極度に衰弱してゐるところへ、肺炎が兆した。そして加藤の勸めで、盛岡の病院に入ることになつた。
 吉野は病める智惠子と共に澁民を去つた。彼は有ゆるものを犧牲に拂つても、必ず智惠子を助けねばならぬと決心してゐた。
 信吾去り、志郎去り、智惠子去り、吉野去つて二月の間に起つた種々の事件が、一先づ結末を告げた。
 八月も末になつた。そして、靜子は新しく病を得た。
 靜子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに來た時、お柳からの祕かの依頼で、それとなく松原家を動かし、媒介者(なかうど)を同伴して來るまでに運んだのであるが、來て見るとお柳の態度は思ひの外、對手の松原中尉の不品行(志郎から聞いた)を楯に、到頭破談にして了つた。
 靜子は、何處といふことなく體が良くなかつた。加藤は神經衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で藥取に行く樣に勸めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顏をして靜子は、白ハンカチに包んだ藥瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。
 そして靜子は、一時間か二時間、屹度清子と睦しく話をして歸る。
 或る日の事であつた。二人は醫院の裏二階の瀟洒(さつぱり)した室で、何日もの樣に吉野の噂をしてゐた。
 靜子は怎(ど)うした機會(はずみ)からか、吉野と初めて逢つた時からの事を話し出して、そして、かの寫生帖の事まで仄めかした。
 清子は熱心にそれを聞いてゐた。
『靜子さん。』と清子は、眤(ぢつ)と友の俯向(うつむ)いた顏を見ながら、しんみりした聲で言つた。『私よく知つてるわ。貴女の心を!』
『あら!』と言つて靜子は少し顏を赤めた。『何? 清子さん私の心つて?』
『隱さなくても好かなくつて、靜子[#「靜子」は底本では「清子」]さん?』
『…………』
 默つて俯向(うつむ)いた靜子の耳が燃える樣だ。清子は、少し惡い事を云つたと氣がついて、接穗(つぎほ)なくこれも默つた。
『清子さん。』と、稍あつてから靜子は言つた。其眼は濕んでゐた。『私……莫迦だわねえ!』
『あら其□(そんな)! 私惡い事言つて……。』
『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』
『…………』
 清子の眼にも涙が湧いた。
『ねえ、清子さん!』と又靜子は鼻白(はなじら)んで言つた。『詰らないわねえ、女なんて!』
『眞箇(ほんと)よ、靜子さん。』と、清子は全く同感したといふ樣に言つて、友の手を取つた。
『然(さ)う思つて、貴女(あなた)も?』と、清子の顏を見るその靜子の眼から、美しい涙が一雫二雫頬に傳つた。
『靜子さん!』と、清子は言つた。『貴女……私の事は誤解してらつしやるわね!』
 然う言つて、突然靜子の膝に突伏した。
『あら、貴女(あなた)の事ツて何(なに)?』

      二

 二人は暫時(しばし)言葉が無かつた。
 靜子はそれを、屹度兄の信吾の事と察した。が、兄の事を思ふだけに、何と訊いて可いか解らなかつた。
 稍あつてから、『え? 何の事私が誤解してるツて?』と靜子が又言ふ。
『言はずに置くわ、私。』と、思ひ切り惡く言つて、清子は漸く首を上げる。
『あら何うして?』
『兄の事……ぢやなくつて?』
 清子は羞し氣に俯向(うつむ)いた。
『清子さん、私何も貴女の事惡くなんか思つてやしなくつてよ。』
『あら然(さ)うぢやなくつてよ。それは私だつて能く知つててよ。』
 二人は懷し氣に眼を見合せた。
『私此の家に嫁(き)た事、貴女(あなた)可怪いと思つたでせう?』と稍あつて清子は極り惡相に言つた。
『でもないわ……今になつては。』と、靜子は心苦し氣である。靜子は、あの事あつて以來兄信吾の心が解りかねた。そして、その兄の不徳を、今一つ聞かねばならぬといふ氣がすると、流石に兄妹であれば辛くない譯に行かぬ。が、又、目の前の清子を見ると、この世に唯一の自分の友が此人だと言ふ限りない慕しさが胸に湧いた。
『濟まないわ、このお話するのは!』
『マ清子さん!……貴女其□(そんな)に……私になら何だつて言つて下すつたつて可(い)いわ。貴女許りよ、私姉さんの樣に思つてるのは!』
『……私ね……眞箇(ほんと)の姉妹になりたかつたの、貴女と。』
然う言つて清子は靜子の手を握る。
『解つてよ。』と、靜子は聞えるか聞えぬかに言つて、眤(ぢつ)と眼を瞑ぢた。其眼から涙が溢れる。
『嬉しいわ、私は。』と清子は友の手を強く引く。二人の涙は清子の膝に落ちた。
 そして言つた。『私信吾さんに逢つて頂いてよ、此方の方の話があつた時……忘れないわ、去年の七月二十三日よ、鶴飼の上の觀音樣の杜で。』
『…………』
『私甚□(どんな)に……男の方は矢張り氣が強いわねえ!』
『何と言つて其時、兄が?』
『……此家へ來る事を勸めて下すつたわ、あの、兄樣は。』
『マ然(さ)う!』靜子は強く言つて。そして、『濟まなかつたわ清子樣、眞箇(ほんと)に私……今迄知らなかつたんですもの。』と言うなり、清子の膝に泣伏した。
『何も其樣に!』と清子も泣聲で言つて、そして二人は相抱いて暫く泣いた。
『詰らないわね、女なんて!』と、稍あつて靜子はしみじみ言ふ。
『眞箇(ほんと)ねえ』と清子は應じた。
 二人の親しみは増した。
 九月が來た。
 信吾の不意に發(た)つて以來、富江は長い手紙を三四度東京に送つた。が、葉書一本の返事すらない。そして富江は不相變(あひかはらず)何時でも噪(はしや)いでゐる。
 肺を病んだ五尺足らずの山内は、到頭八月の末に盛岡に歸つて了つた。聞けば智惠子吉野と同じ病院に入つたといふ。
 濱野の家――智惠子の宿では、祖母の病が惡くもならず癒(よ)くもならぬ。
 お利代は一生懸命裁縫に勵んでゐる。時には智惠子から習つた讃美歌を、小聲で小供らに歌つて聞かしてる事もある。村では好からぬ噂を立てた。それはお利代も智惠子に感化(かぶ)れて、耶蘇信者になつたので、早く祖母の死ぬ事を毎晩神に祈つてゐるといふので。――そして、祖母の死ぬのを待つて凾館の先の夫の許へ行くのだ、と傳へられた。
 快く晴れた或日の午前であつた。昌作は浮かぬ顏をして町を歩いてゐた。そして郵便局の前へ來ると、懷から二枚の葉書を出してポストに入れた。――昌作は米國に行くことも出來ず、明日發つて十里許りの山奧の或小學校の代用教員に赴任することになつた。――その葉書は盛岡の病院なる智惠子と山内に宛てたもの。山内には手短く見舞の文句と自身の方の事を書いたが、智惠子への一枚には、氣取つた字で歌一首。
『秋の聲まづ逸早く耳に入るかゝる性(さが)有(も)つ悲むべかり』
 澁民村に秋風が見舞つた。

附記。この一篇は作者が新聞小説としての最初の試作なりき。囘を重ぬる六十囘。時歳末に際して豫期の如く事件を發展せしむる能はず、茲に一先づ擱筆するに到れるは作者の多少遺憾とする所なり。他日若し幸ひにして機會あらば、作者は稿を改めて更に智惠子吉野を主人公としたる本篇の續篇を書かむと欲す。




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