鳥影
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著者名:石川啄木 

      七

 智惠子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何かしら弱い者を虐めてやつた時の樣な思ひに亂れてゐた。恁(か)うなると彼は、今日自分の遣つた事は、豫じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に嵌つて智惠子に自白さしたかの樣に考へる。我と我を輕蔑(さげす)まうとする心を、強ひて其□(そんな)風に考へて抑へて見た。
 信吾は、成るべく平靜な態度をして、その足で直ぐ加藤醫院を訪ね、學校を訪ねた。彼は夕方までに歸つて、吉野や妹共と一緒に踊を見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。
 其時の信吾は、平常よりも餘程機嫌が好い樣に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる樣な氣がして來て、心にも無い事を一口言へば一口言ふ丈、胸が苛立(いらだ)つて來る。高い笑聲を殘して、彼は遂に學校から飛び出した。
 もう日暮近い頃であつた。
 自嘲の念は烈しく頭を亂した。何故那□事をいつたらう? 莫迦な、もう智惠子の顏を見ることが出來なくなつた! と彼は悔いた。何故もつと早く、――吉野の來ないうちに言はなかつたらう□
『畜生奴! 到頭白状させてやつた。』恁(か)う彼は口に出して言つて見た。が、矢張り彼は女から享けた拒絶の耻辱を、全く打消すことが出來なかつた。よし彼女を免職させる樣にしてやらうか! 否、それよりは何うかして吉野を追拂はう!
 彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋まで、國道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら歸るともなく歸つて來た。が、彼は人に顏を見られたくない。町端れから又引返して、今度は舊國道を門前寺村の方へ辿つた。
 月が昇つた。
 途斷れ/\に、町へ來る近村の男女に會つた。彼は然しそれに氣がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思ひ出してゐた。
『何有(なあに)! 知らん顏をしてゐればそれで濟む。豈夫智惠子が言ひは爲(し)まい。』と彼は少し落着いて來た。
『然し。』と彼は又しても吉野が憎くなる。『あの野郎奴、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがたつた!』
 信吾の憤りは再發した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思ひ出して、遂に、頭髮を掻き□りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステッキを強く揮つて、自暴(やけ)にヒュゥと空氣を切つた。
『信吾さん!』と女の聲。彼は驚いた樣に顏を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近づいて來る。草履を穿いてるのか足音がしない。
『信吾さん!』と富江は又呼んだ。
『あ、神山さんでしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。
『まア、何處へ被行(いらつしや)るの?』
 答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴(やけ)に體を向直した。
『ハハヽヽ。何處へ行つたんです貴女こそ?』
『生徒の家へ招待(よば)れて、門前寺の……一人で散歩するなんて氣が利かないぢやありませんか、貴方は!』
『貴女だつて一人ぢやないか!』
『ホヽヽ、どうして智惠子樣(さん)を誘つて上げなかつたの?』
『莫迦(ばか)な!』
『あら、月夜の散歩にはハイカラさんの手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか? 眞箇(ほんと)に!』
『何を言ふんです。』と信吾は苛々(いら/\)しく言つた。そして、突然富江の手を取つて、『僕は貴女の迎ひに來たんだ!』
『まア巧い事を!』と富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。
 信吾は、女の餘りに平氣なのが癪に障つた。そして、不圖怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。
 富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、『私の手なんか駄目よ、信吾さん! 女の手の樣ぢやないでせう?』
『…………』
『私は女ぢやないんですよ。』
『富江樣。』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』
『あ重い!』と言つたが逃げ樣ともせぬ。そして、急に眞面目な顏をして眤(ぢつ)と男の顏を見ながら、『眞箇よ。私石女(うまずめ)なんですもの。子供を生まない女は女ぢやないんでせう?』そして、袂を口にあてゝ急にホホヽヽと笑ひ出した。
 其夜は信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舍に詰めてゐる。主婦や子供らは踊に行つて留守であつた。
 で、彼が家へ歸つてくると、玄關の戸がもう閉(しま)つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら閾(しきい)が高い樣な氣がして、成るべく音を立てぬ樣にして入つた。

      八

 家に入つた信吾の心は、妙に臆(ひる)んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の歸路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて來た。烈しい××××××××××××しい疲勞が、今日一日の苛立(いらだ)つた彼の心を彌更に苛立たせた。
『淺猿しい、淺猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はもう此儘人知れず何處かへ行つて了ひたい樣な氣がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顏を思出すと、言ふべからざる厭惡の念が起る。そして又、段々家へ近附くにつれて、戀仇の吉野に對する自暴腹(やけつぱら)な怒りが強く發した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顏を見られたくなかつた。
 で、成るべく音立てぬ樣に縁側傳ひに自分の室に行く。家中もう寢て了つたと見えて、森としてゐた。と、離室に續く縁側に輕い足音がして、靜子が出て來た。四邊(あたり)は薄暗い。
『あら兄樣、遲かつたわねえ。何處に居たんですか、今迄?』
『何處でも可いぢやないか!』と、聲は低く、然し慳貪(けんどん)だ。
『まア!』
 信吾は、わが仇の吉野の室に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒が洪水の樣に頭に溢れた。
『貴樣こそ何處に行つてるんだ? 夜(よる)夜中人が寢て了つてから!』
 靜子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か嚴しく詰責でもされる樣で、信吾の憤怒は更に燃える。
『莫迦野郎! 何處に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ靜子を擲つた。
 靜子は矢庭に袂を顏にあてた。
『兄樣……其樣(そんな)……』
『此方へ來い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドッと突倒した。
『此畜生! 親や兄の眼を晦まして、……』
『わツ。』と靜子は倒れた儘で聲をあげた。先刻町から歸つてから、待てども/\兄が歸らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者との話の成行(なりゆき)が氣にかゝつた。自分から聞かれる事でもなく、手頼るは兄の信吾、その信吾が今日媒介者(なかうど)が來たも知らずにゐると思ふと、もう心配で/\堪らなくなつて、今も密(そつ)と吉野の室に行つて、その歸りの遲きを何の爲かと話してゐたのである。
 靜子は故なき兄の疑ひと怒が、口惜しい、恨めしい、辯解をしようにも喉が塞つて、たゞ堅く/\袖を噛んだが、それでも泣き聲が洩れる。
『莫迦野郎!』と、信吾は又しても唸る樣に言つて、下唇を喰縛り、堅めた兩の拳をブルブル顫はせて、恐しい顏をして突立つてゐる。
 靜子は死んだ樣に動かない。
『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴樣はもう松原に遣(や)る。貴樣みたいなものを家に置くと、何をするか知れない。』
『マ。』と言つて、靜子はガバと起きた。『兄樣……其松原から今日人が來て……それで……』
 手荒く襖が開いて、次の間に寢てゐる志郎と昌作が入つて來た。
『怎(ど)うしたんだい兄樣(さん)?』
『默れ!』と信吾は怒鳴つた。『默れ! 貴樣らの知つた事か。』
 そして、亂暴に靜子を蹴る、靜子は又ドタリと倒れて、先よりも高くわツと泣く。
『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて來た。『何だ? 夜更(よふけ)まで歩いて來て信吾は又何を其□に騷ぐのだ?』
『糞ツ。』と云ひさま、信吾は又靜子を蹴る。
『何をするッ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。
『何をするツ、貴樣らこそ。』と、信吾はもう無中に咆り立つて、突然志郎と昌作を薙倒す。
『こらツ』と父も聲を勵して、信吾の肩を掴んだ。『何莫迦をするのだ! 靜は那方(あつち)へ行け!』
『糞ツ。』と許り、信吾は其手を拂つて手負猪の樣な勢ひで昌作に組みつく。
『貴樣、何故俺を抑へた□』
『兄樣!』
『信吾ツ!』
 ドタバタと騷ぐ其音を聞いて、別室の媒介者(なかうど)も離室の吉野も驅けつけた。帶せぬ寢卷の前を押へて母のお柳も來る。
『畜生! 畜生!』と信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。

   其十二

 智惠子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から歸つてから、夜一夜苦しみ明した。お利代が寢ずに看護してくれて、腹を擦つたり、温めたタオルで罨法(あんぽふ)を施(や)つたりした。トロ/\と交睫(まどろ)むと、すぐ烈しい便氣の塞迫と腹痛に目が覺める。翌朝の四時までに都合十三回も便所に立つた。が、別に通じがあるのではない。
 夜が清々(すが/\)と明放れた頃には、智惠子はもう一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外(そと)にある。お利代が醫者に驅附けた後、智惠子は怺(こら)へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を傳つて危(あぶ)な氣に下駄を穿(つゝ)かけたが、歸つて來てそれを脱ぐと、もう立つてる勢ひがなかつた。で、臺所の板敷を辛(やつ)と這つて來たが、室に入ると、布團の裾に倒れて了つた。抉られる樣に腹が痛む。子供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓際の机の上にはまだ洋燈(ランプ)が曚然(ぼんやり)點(とも)つてゐた。
 智惠子は堅く目を瞑つて、幽かに唸りながら、不圖、今し方戸外へ出た時まだ日の出前の水の樣な朝光(あさかげ)が、快く流れてゐた事を思ひ出した。
「もう夜が明けた。」と覺束なく考へると、自分は何日からとも知れず、長い/\間恁(か)うして苦しんでゐた樣な氣がする。程經てから前夜の事が思ひ出された。それも然し、ずつとずつと以前の事のやうだ。
「今日あの方が來て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、もう夜が明けたのだもの!……。すると今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」
 喧しく雀が鳴く。智惠子はそれを遙(ずつ)と遠いところの事の樣に聞くともなく聞いた。
『先生……先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不圖氣がつくと、自分は其處で少し交睫(まどろ)みかけたらしい。お利代は加藤醫師を伴れて來て、心配氣な顏をして起してゐる。
『先生、まア恁□所に寢て、お醫師樣が被來(いらつしや)いましたよ。』
『まア濟みません。』然う言つてお利代に手傳はれ乍ら臥床の上に寢せられた。
 室には夜ツぴて點(つ)けておいた洋燈(ランプ)の油煙やら病人の臭氣やらがムッと籠つてゐた。お利代は洋燈(ランプ)を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髮亂れ、眼凹み、皮膚の澤(つや)なく弛んだ智惠子の顏が、もう一週間も其餘も病んでゐたものゝ樣に見えた。
 加藤は先ず概略の病状を訊いた。智惠子は痛みを怺へて問ふがまゝに答へる。
『不可(いけ)ませんなア!』と醫師は言つた。そして診察した。
 脈も體温も少し高かつた。舌は荒れて、眼が充血してゐる。そして腹を見た。
『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の邊を押す。
『痛みます。』と苦し氣に言つた。
『此處は?』
『其處も。』
『フム。』と言つて、加藤は腹一帶を輕く擦(さす)りながら眉を顰めた。
 それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。
「赤痢だ!」と智惠子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲みが湧いた。
 智惠子の病氣は赤痢――然も稍烈しい、チブス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には擔架に乘せられて隔離病舍に收容された。お利代の家の門口には「交通遮斷」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭氣に充ち、軒下には石灰が撒かれた。
 丁度智惠子が隔離病舍に入つた頃、小川の家では、信吾が遲く起きて、そして、今日の中に東京に歸らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたい不愉快と憤怒を抱いてふいと發(た)つた。それは午後の二時過。
 吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に制(と)められて、一日だけ延ばした。小川家には急に不愉快な、そして寂しい空氣が籠つた。
 日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智惠子の事を訊かされた。吉野は直ぐ智惠子の宿を訪ねた。町には矢張り樺火が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から□つて霎時(しばらく)お利代と話した。そして、石炭酸臭い一封の手紙を渡された、それは智惠子が鉛筆の走り書。――恁う書いてあつた。
 御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかゝれないのが何より――病の苦痛より辛う御座います。吉野樣、何卒私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。
 屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。
ちゑ   よしの樣まゐる

   其十三

      一

 智惠子の容體は、最初隨分危險であつた。隔離病舍に收容された晩などは知覺が朦朧になり、妄語(うはごと)まで言つた位。てつきりチブス性の赤痢と思つて加藤も弱つたのであるが、三日許りで危險は去つた。そして二十日過になると、赤痢の方はもう殆んど癒つたが、體が極度に衰弱してゐるところへ、肺炎が兆した。そして加藤の勸めで、盛岡の病院に入ることになつた。
 吉野は病める智惠子と共に澁民を去つた。彼は有ゆるものを犧牲に拂つても、必ず智惠子を助けねばならぬと決心してゐた。
 信吾去り、志郎去り、智惠子去り、吉野去つて二月の間に起つた種々の事件が、一先づ結末を告げた。
 八月も末になつた。そして、靜子は新しく病を得た。
 靜子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに來た時、お柳からの祕かの依頼で、それとなく松原家を動かし、媒介者(なかうど)を同伴して來るまでに運んだのであるが、來て見るとお柳の態度は思ひの外、對手の松原中尉の不品行(志郎から聞いた)を楯に、到頭破談にして了つた。
 靜子は、何處といふことなく體が良くなかつた。加藤は神經衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で藥取に行く樣に勸めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顏をして靜子は、白ハンカチに包んだ藥瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。
 そして靜子は、一時間か二時間、屹度清子と睦しく話をして歸る。
 或る日の事であつた。二人は醫院の裏二階の瀟洒(さつぱり)した室で、何日もの樣に吉野の噂をしてゐた。
 靜子は怎(ど)うした機會(はずみ)からか、吉野と初めて逢つた時からの事を話し出して、そして、かの寫生帖の事まで仄めかした。
 清子は熱心にそれを聞いてゐた。
『靜子さん。』と清子は、眤(ぢつ)と友の俯向(うつむ)いた顏を見ながら、しんみりした聲で言つた。『私よく知つてるわ。貴女の心を!』
『あら!』と言つて靜子は少し顏を赤めた。『何? 清子さん私の心つて?』
『隱さなくても好かなくつて、靜子[#「靜子」は底本では「清子」]さん?』
『…………』
 默つて俯向(うつむ)いた靜子の耳が燃える樣だ。清子は、少し惡い事を云つたと氣がついて、接穗(つぎほ)なくこれも默つた。
『清子さん。』と、稍あつてから靜子は言つた。其眼は濕んでゐた。『私……莫迦だわねえ!』
『あら其□(そんな)! 私惡い事言つて……。』
『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』
『…………』
 清子の眼にも涙が湧いた。
『ねえ、清子さん!』と又靜子は鼻白(はなじら)んで言つた。『詰らないわねえ、女なんて!』
『眞箇(ほんと)よ、靜子さん。』と、清子は全く同感したといふ樣に言つて、友の手を取つた。
『然(さ)う思つて、貴女(あなた)も?』と、清子の顏を見るその靜子の眼から、美しい涙が一雫二雫頬に傳つた。
『靜子さん!』と、清子は言つた。『貴女……私の事は誤解してらつしやるわね!』
 然う言つて、突然靜子の膝に突伏した。
『あら、貴女(あなた)の事ツて何(なに)?』

      二

 二人は暫時(しばし)言葉が無かつた。
 靜子はそれを、屹度兄の信吾の事と察した。が、兄の事を思ふだけに、何と訊いて可いか解らなかつた。
 稍あつてから、『え? 何の事私が誤解してるツて?』と靜子が又言ふ。
『言はずに置くわ、私。』と、思ひ切り惡く言つて、清子は漸く首を上げる。
『あら何うして?』
『兄の事……ぢやなくつて?』
 清子は羞し氣に俯向(うつむ)いた。
『清子さん、私何も貴女の事惡くなんか思つてやしなくつてよ。』
『あら然(さ)うぢやなくつてよ。それは私だつて能く知つててよ。』
 二人は懷し氣に眼を見合せた。
『私此の家に嫁(き)た事、貴女(あなた)可怪いと思つたでせう?』と稍あつて清子は極り惡相に言つた。
『でもないわ……今になつては。』と、靜子は心苦し氣である。靜子は、あの事あつて以來兄信吾の心が解りかねた。そして、その兄の不徳を、今一つ聞かねばならぬといふ氣がすると、流石に兄妹であれば辛くない譯に行かぬ。が、又、目の前の清子を見ると、この世に唯一の自分の友が此人だと言ふ限りない慕しさが胸に湧いた。
『濟まないわ、このお話するのは!』
『マ清子さん!……貴女其□(そんな)に……私になら何だつて言つて下すつたつて可(い)いわ。貴女許りよ、私姉さんの樣に思つてるのは!』
『……私ね……眞箇(ほんと)の姉妹になりたかつたの、貴女と。』
然う言つて清子は靜子の手を握る。
『解つてよ。』と、靜子は聞えるか聞えぬかに言つて、眤(ぢつ)と眼を瞑ぢた。其眼から涙が溢れる。
『嬉しいわ、私は。』と清子は友の手を強く引く。二人の涙は清子の膝に落ちた。
 そして言つた。『私信吾さんに逢つて頂いてよ、此方の方の話があつた時……忘れないわ、去年の七月二十三日よ、鶴飼の上の觀音樣の杜で。』
『…………』
『私甚□(どんな)に……男の方は矢張り氣が強いわねえ!』
『何と言つて其時、兄が?』
『……此家へ來る事を勸めて下すつたわ、あの、兄樣は。』
『マ然(さ)う!』靜子は強く言つて。そして、『濟まなかつたわ清子樣、眞箇(ほんと)に私……今迄知らなかつたんですもの。』と言うなり、清子の膝に泣伏した。
『何も其樣に!』と清子も泣聲で言つて、そして二人は相抱いて暫く泣いた。
『詰らないわね、女なんて!』と、稍あつて靜子はしみじみ言ふ。
『眞箇(ほんと)ねえ』と清子は應じた。
 二人の親しみは増した。
 九月が來た。
 信吾の不意に發(た)つて以來、富江は長い手紙を三四度東京に送つた。が、葉書一本の返事すらない。そして富江は不相變(あひかはらず)何時でも噪(はしや)いでゐる。
 肺を病んだ五尺足らずの山内は、到頭八月の末に盛岡に歸つて了つた。聞けば智惠子吉野と同じ病院に入つたといふ。
 濱野の家――智惠子の宿では、祖母の病が惡くもならず癒(よ)くもならぬ。
 お利代は一生懸命裁縫に勵んでゐる。時には智惠子から習つた讃美歌を、小聲で小供らに歌つて聞かしてる事もある。村では好からぬ噂を立てた。それはお利代も智惠子に感化(かぶ)れて、耶蘇信者になつたので、早く祖母の死ぬ事を毎晩神に祈つてゐるといふので。――そして、祖母の死ぬのを待つて凾館の先の夫の許へ行くのだ、と傳へられた。
 快く晴れた或日の午前であつた。昌作は浮かぬ顏をして町を歩いてゐた。そして郵便局の前へ來ると、懷から二枚の葉書を出してポストに入れた。――昌作は米國に行くことも出來ず、明日發つて十里許りの山奧の或小學校の代用教員に赴任することになつた。――その葉書は盛岡の病院なる智惠子と山内に宛てたもの。山内には手短く見舞の文句と自身の方の事を書いたが、智惠子への一枚には、氣取つた字で歌一首。
『秋の聲まづ逸早く耳に入るかゝる性(さが)有(も)つ悲むべかり』
 澁民村に秋風が見舞つた。

附記。この一篇は作者が新聞小説としての最初の試作なりき。囘を重ぬる六十囘。時歳末に際して豫期の如く事件を發展せしむる能はず、茲に一先づ擱筆するに到れるは作者の多少遺憾とする所なり。他日若し幸ひにして機會あらば、作者は稿を改めて更に智惠子吉野を主人公としたる本篇の續篇を書かむと欲す。




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