鳥影
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著者名:石川啄木 

 二人は相談した樣に、吉野のことは露程も口に出さなかつた。
 靜子が家へ歸ると、信吾は待ち構へてゐたといふ風に自分の室へ呼んで、そして、何か怒つてる樣な打切棒(ぶつきらぼう)な語調で智惠子の事を訊いた。
 靜子は有の儘に答へた。
『然(さ)うか!』と言つた信吾の態度は、宛然(さながら)、其□(そんな)事は聞いても聞かなくても可いと言つた樣であつたが、靜子は征矢(そや)の如く兄の心を感じた。そして、何といふ事なしに、『兄樣に宜しくと言つてよ、智惠子樣が!』と言つて見た。智惠子は何とも言つたのではないが。
『然(さ)うか!』と、信吾は又卒氣(そつけ)なく答へた。晝飯が濟むと、フラリと一人出て、町へ行つた。
 信吾が出かけて間もなくである。月の初めに子供らを伴れて來た、盛岡の叔母が、見知らぬ一人の老人を伴れて來た。叔母は墓參の爲めと披露した。連の男は松原家から頼まれて來たのだとは直ぐ知れた。言ふまでもなく靜子の縁談の事で。
 父の信之、祖父の勘解由、母お柳、その三人と松原家の使者とは奧の間で話してゐる。叔母も其席に出た。靜子は今更の樣に胸が騷ぐ。兄の居ないのが恨めしい。若しや此話から、自分と死んだ浩一との事が吉野に知れはしまいかと思ふと、その吉野にも顏を見せたくなかつた。
 室に籠つたり、臺所へ行つたり、庭に出たり、兎角して日も暮れかゝつた。信吾はそれでも歸つて來ない。夕方から一緒に盆踊を見に行く筈だつたのだが。
 晩餐の時、媒介者(なかうど)が今夜泊るのだと叔母から話された。信吾は全く暗くなつても歸らぬ。母お柳の勸めで、兄とは町へ行つて逢ふことにして、靜子は吉野と共に妹達や下女を伴れて踊見物に出ることになつた。

      二

 丁度鶴飼橋へ差掛つた時、圓い十四日の月がゆら/\と姫神山の上に昇つた。空は雲一片なく穩かに晴れ渡つて、紫深く黝んだ岩手山が、くつきり夕照の名殘の中に浮んでゐる。
 仄りと暗い中空には、弱々しい星影が七つ八つ、青ざめて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第/\に高く上る。町からはもう太鼓の響が聞え出した。
 たとへ何を言つたとて妹共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ靜子の心は、言ふ許りなく動悸(ときめ)いてゐた。家には媒介者(なかうど)が來てゐる。松原との縁談は靜子の絶對に好まぬ所だ。その話の成行(なりゆき)が恁(か)うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、靜子は種々の思ひを胸に疊んだ。
「若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否、若し此人が現在自分の夫であつたら!」
 月明かに靜かな四邊の景色と、遠い太鼓の響とは、靜子の此心持に適合(ふさは)しかつた。靜子は妹共の罪なき言葉に吉野と聲を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出來なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、靜子は此夜の心持を忘れる事は出來ぬであらう。
 松原からの縁談は、その初め、當の對手の政治に對する嫌惡の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な考へやら或る侮辱の感やらで、靜子は兄に手頼つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの靜子は、今迄の理由の外に、も一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出來た。
 丁度橋の上に來た時である。
『此處で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』
 恁(か)う靜子は慣々しく言つてみた。月は其夢みる樣な顏を照した。
『然うでしたねえ!』と吉野は答へた。そして、何か思出した樣に少し俯向(うつむ)いて默つた。
 その態度は、屹度あの時の事を詳しく思ひ出してるのだと靜子に思はせた。靜子も強ひて其時の事を思ひ出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思ひ出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき滿足を與へた。
 が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠は、信吾が屹度智惠子の家にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに歸らなかつた申譯をするだらうと想像してゐた。
 町に入ると、常ならぬ華やかな光景が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪し氣な畫や「豐年萬作」などの字を書いた古風の行燈や提灯が掲げてある。街路の兩側には、門々に今を盛りと樺火が焚いてある。其赤い火影が、一筋町の賑ひを樂しく照して、晴着を飾つた往來(ゆきゝ)の人の顏が何れも/\醉つてる樣に見える。
 町は樂し氣な密話(さゞめき)に充ちた。寄太皷の音は人々の心を誘ふ。其處此處に新しい下駄を穿いた小兒らが集つて、樺火で煎餅などを燒(や)いてゐる。火が爆(は)ぜて火花が街路に散る。年長な小兒らは勢ひ込んで其列んだ火の上を跳ねてゆく。丁度夕餉の濟んだところ。赤い着物を着て女兒共は打ち連れて太皷の音を的にさゞめいて行く。
 町も端れの智惠子の宿の前には、消えかゝつた樺火を取卷いて四五人の小兒等がゐた。
『梅ちやん! 梅ちやん!』と妹共が先ず驅け寄る。其後から靜子は、『梅ちやん、先生は?』と優しく言ひながら近づいた。
 靜子は直ぐ氣が附いた。梅ちやんの着てゐる紺絣の單衣は、それは嘗て智惠子の平常着であつた!
あな我が君のなつかしさよ、
     まみゆる日ぞまたるる。
君は谷の百合、峰のさくら、
     うつし世にたぐひもなし。
 家の下からは幽かに讃美歌の聲が洩れる。信吾は居ない! 恁(か)う吉野は思つた。
『先生! 先生!』と梅ちやんは門口から呼ぶ。

      三

 智惠子に訊(き)くと、信吾は一時間許り前に歸つたといふ。
『まア何處へ行つたんでせうねえ。夕方までに歸つて、私達と一緒に又出かける筈でしたのよ。これから何處へ行くとも言はなかつたんでせうか?』
『否(いえ)、何んとも、別に。』と言つて、智惠子は意味ありげに、目で吉野を仰いで、そして俯向(うつむ)いた。
『歩いてゐたら逢ふでせうよ。』と吉野は鷹揚に言つた。
『怎(ど)うです。日向さんも被行(いらつしや)いませんか、盆踊を見に?』
『は、……まアお茶でも召し上つて……』
『直ぐ被行(いらつしや)いな、智惠子さん。何か御用でも有つて?』
と靜子も促す。
『否(いゝえ)。』
『行きませう! 僕は盆踊は生れて初めてなんです。』
と、吉野はもう戸外へ出る。
 で、智惠子は一寸奧へ行つて、帶を締直して來て、一緒に往來に出た。
 樺火は少し頽(すた)れた。踊がもう始まつたのであらう。太皷の音は急に高くなつて、調子に合つてゐる。唄の聲も聞える。人影は次第々々にその方へながれて行く。
 提灯を十も吊した加藤醫院の前には大束の薪がまだ盛んに燃えてゐて、屋内は晝の如く明るく、玄關は開け放されてゐる。大形の染の浴衣に水色縮緬をグル/\卷いた加藤を初め、清子、藥局生、下女、皆玄關に出て往來を眺めてゐた。
『やア、皆樣お揃ひですナ。』と、加藤から先づ聲をかける。
『お涼みですか。』と吉野が言つて、一行はゾロ/\と玄關に寄つた。
『Guten(グーテン)[#「Guten」は底本では「Cuten」] Abend(アベンド), Herr(ヘル) Yosino(ヨシノ)! ハハヽヽヽ。』と、近頃通信教授で習つてるといふ獨逸語を使つて、加藤は肥つた體を搖ぶる、晩酌の後で殊更機嫌が可いと見える。
『さ、まァお上りなさい、屹度被來(いらつしや)ると思つたからチャンと御馳走が出來てます。』
『それは恐れ入つた。ハハヽヽ。』
 傍では、靜子が兄の事を訊いてゐる。
『先刻一寸被行(いらつしや)つてよ。晩にまた來ると被仰つて直ぐお歸りになりましたわ。』と清子が言つた。
『うん、然(さ)う/\。』と加藤が言つた。
『吉野さん、愈々盆が濟んだら來て頂きませう。先刻(さつき)信吾さんにお話したら夫れは可い、是非書いて貰へと被仰(おつしや)つてでしたよ。是非願ひませう。』
『小川君にお話しなすつたですか! 僕は何日(いつ)でも可いんですがね。』
『眞箇(ほんと)に、小川さんに被居(いらつしや)るよりは御不自由で被居(いらつしや)いませうが、お書き下さるうちだけ是非何卒(どうぞ)……』と清子も口を添へる。そして靜子の方を向いて、
『あの、何ですの、宅(うち)があの阿母樣の肖像を是非吉野さんに書いて頂きたいと申すんで、それで、お書き下さる間、宅に被行つて頂(いただ)きたいんですの。』
『大丈夫、靜子さん。』と加藤が口を出す。
『お客樣を横取りする譯ぢやないんです。一週間許り吉野さんを拜借したいんで……直ぐお返ししますよ。』
『ホヽヽ、左樣で御座いますか!』と愛相よく言つたものゝ、靜子の心は無論それを喜ばなかつた。
 吉野は無理矢理に加藤に引張り込まれた。女連(をんなづれ)は霎時(しばらく)其處に腰を掛けてゐたが、軈て清子も一緒になつて出た。
 町の丁度中程の大きい造酒家の前には、往來に盛んに篝火を焚いて、其周圍、街道なりに楕圓形な輪を作つて、踊が始まつてゐる。輪の内外には澤山の見物。太皷は四挺、踊子は男女、子供らも交つて、まだ始まりだから五六十人位である。太皷に伴れて、手振り足振り面白く歌つて□る踊には、今の世ならぬ古色がある。揃ひの浴衣に花笠を被(かぶ)つた娘等もある。編笠に顏を隱して、醉つた身振りの可笑しく、唄も歌はず踊り行く男もある。月は既に高く昇つて、樂し氣に此群を照した。女連は、睦し氣に語りつ笑ひつし乍ら踊を見てゐた。
 と、輕く智惠子の肩を叩いた者があつた。靜子清子が少し離れて誰やら年揩フ女と挨拶してる時。

      四

 振向くと、何時醫院から出て來たか吉野が立つてゐる。
『あら!』と智惠子は恁(か)う小聲に言つて、若い血が顏に上つた。何がなしに體の加減が良くないので、立つてゐても力が無い。幾挺の太皷の強い響きが、腹の底までも響く。――今しもその太皷打が目の前を過ぎる。
 吉野は無邪氣に笑つた。
 二人は並んで立つた、立並ぶ見物の後ろだから人の目も引かぬ。
(私ーとー)と、好い聲で一人の女が音頭を取る。それに續いた十人許りの娘共は、直ぐ聲を合せて歌ひ次いだ。――
(――お前ーはーア御門ーのーとびーらーア、朝ーにーイわかーれーてエ、ー晩に逢ふ――)
 同じ樣な花笠に新しい浴衣、淡紅色メリンスの襷を端長く背に結んだ其娘共の中に、一人、背の低い肥つたのがあつて、高音中音(ソプランアルト)の冴えた唄に際立つ次中音(テノル)の調子を交へた。それが態と道化た手振りをして踊る。見物は皆笑ふ。
 ドヽドンと、先頭の太皷が合(あひ)を入れた。續いた太皷が皆それを遣る。調子を代へる合圖だ。踊の輪は淀んで唄が止む、下駄の音がゾロ/\と縺れる。
(ドヾドコドン、ドコドン――)と新しく太皷が鳴り出す。――ヨサレ節といふのがこれで。――淀んだ輪がまたそれに合せて踊り始める。何處やらで調子はづれた高い男の聲が、最先に唄つた――
(ヨサレー茶屋のかーア、花染ーの――たす――き――イ――)
『面白いですねえ。』と、吉野は智惠子を振返つた。『宛然(まるで)古代(むかし)に歸つた樣な氣持ぢやありませんか!』
『えゝ。』智惠子は踊にも唄にも心を留めなかつた樣に、何か深い考へに落ちた態(さま)で惱まし氣に立つてゐた。
 と見た吉野は、『貴女(あなた)何處かまだ惡いんぢやないんですか? お體(からだ)の加減が。』
『否(いゝえ)、たゞ少し……』
 俄かに見物が笑ひどよめく。今しも破蚊帳を法衣(ころも)の樣に纏つて、顏を眞黒に染めた一人の背の高い男が、經文の眞似をしながら巫山戯(ふざけ)て踊り過ぎるところで。
『吉野さん!』智惠子は思ひ切つた樣に恁(か)う囁いた。
『何です?』
『あの……』と、眤(ぢつ)と俯向(うつむ)いた儘で、『私今日、あの、困つた事を致しました!』
『……何です、困つた事ツて?』
 智惠子は不圖顏を上げて、何か辛さうに男を仰いだ。
『あの、私小川さんを憤(おこ)らして歸してよ。』
『小川を□ 怎(ど)うしたんです?』
『そして、瞭然(きつぱり)言つて了ひましたの。……貴方には甚□(どんな)に御迷惑だらうと思つて、後で私……』
『解りました、智惠子さん!』恁う言つて、吉野は強く女の手を握つた。『然(さ)うでしたか!』と、がつしりした肩を落す。
 智惠子はグンと胸が迫つた。と同時に、腹の中が空虚になつた樣でフラ/\とする。で男の手を放して人々の後に蹲(しやが)んだ。
 目の前には眞黒な幾本の足、彼方の篝火がその間から見える。――智惠子は深い谷底に一人落ちた樣な氣がして涙が溢れた。
『あら、先刻(さつき)から被來(いらし)つて?』と後ろに靜子の聲がした。
 吉野の足は一二尺動いた。
『今來た許りです。』
『然(さ)うですか! 兄は怎(ど)うしたんでせう、今方々探したんですけれど。』
『學校ですよ、屹度。』と清子が傍から言ふ。
『オヤ、日向さんは?』と、靜子は周圍を見□す。
 智惠子は立ち上つた。
『此處にゐらしつたわ!』
『立つてると何だかフラ/\して、私蹲(しやが)んでゐましたの、先刻(さつき)から。』
『然(さ)う! まだお惡いんぢやなくつて。』と靜子は思ひ遣り深い調子で言つた。そして(惡いところをお誘ひしたわねえ)(家へ歸つてお寢みなすつては?)と、同時に胸に浮んだ二つの言葉は、何を憚つてか言はずに了つた。
『何處かお惡くつて?』と、清子は醫師の妻。
『否(いゝえ)、少し……も少し見たら私歸りますわ。』

      五

 さうしてる間にも、清子は嫁の身の二三度家へ行つて見て來た。その度、吉野に來て一杯飮めと加藤の言傳(ことづ)てを傳へた。
 信吾は來ない。
 月は高く昇つた。其處此處の部落から集つて來て、太皷は十二三挺に増えた。笛も三人許り加つた。踊の輪は長く/\街路なりに楕圓形になつて、その人數は二百人近くもあらう。男女、事々しく裝つたのもあれば、平常服(ふだんぎ)に白手拭の頬冠(ほゝかむり)をしたのもある。十歳位の子供から、醉の紛れの腰の曲つたお婆さんに至るまで、夜の更け手足の疲れるも知らで踊る。人垣を作つた見物は何時しか少くなつた。――何れも皆踊の輪に加つたので――二箇所の篝火は赤々と燃えに燃える。
 月は高く昇つた。
 強い太皷の響き、調子揃つた足擦れの音、華やかな、古風な、老も若きも戀の歌を歌つてゐる此境地から、不圖目を上げて其靜かな月を仰いだ心持は、何人も生涯に幾度となく思浮べて、飽かずも其甘い悲哀に醉はうとするところであらう。――殊にも此夜の智惠子は思ふ人と共にゐる樂みと、體内(みうち)の病苦と、唆る樣な素朴な烈しい戀の歌と、そして、何がなき頼りなさに心が亂れて、その沈んで行く氣持を強い太皷の響に掻き亂される樣に感じながら、踊りには左程の興もなく、心持眉を顰めては眤と月を仰いでゐた。
 怒りと嘲りを浮べた信吾の顏が、時々胸に浮んだ。智惠子は、今日その信吾の厚かましくも言ひ出でた戀を、小氣味よく拒絶して了つたのだ。
 立つたり蹲(しやが)んだりしてる間に、何がなしに腹が脹つて來て、一二度輕く嘔吐を催すやうな氣分にもなつた。早く歸つて寢よう、と幾度か思つた。が、この歡樂の境地に――否、靜子と共に吉野を一人置いて行くことが、矢張り快くなかつた。居たとて別に話――智惠子は今日の出來事を詳しく話したかつた――をする機會もないが、矢張り一寸でも長く男と一緒にゐたかつた。
 軈て、下腹の底が少しづゝ痺(しび)れる樣に痛み出した。それが段々烈しくなつて來る。
 隙を見て、智惠子は思ひ切つてつと男の傍へ寄つた。
『私、お先に歸ります。』
『其□に惡くなりましたか?』
『少し……少しですけれどもお腹がまた痛んでくる樣ですから。』
『可けませんねえ! 怎(ど)うです加藤さんに被行(いらし)つたら?』
『否、ホンの少しですから……あの、明日でも彼來(いらし)つて下さいませんか? 何卒(どうぞ)。』
『行きます、是非。』と言つて、吉野は強く女の手を握つた。女も握り返した。
『好い月ですわねえ!』
 智惠子は猶去り難げに恁(か)う言つた。そして、皆にも挨拶して一人宿の方へ歸つてゆく。月を浴びた其後姿を、吉野は少し群から離れた所に蹲(しやが)んで、遠く見送つてゐた。
 智惠子は痛む腹に力を入れて、堅く齒を喰縛りながら、幾回か後ろを振返つた。町の賑ひは踊の場所に集つて、十間離れたらもう人一人ゐない。霜の置いたかと許り明るい月光に、所々樺火の跡が黒く殘つて、軒々の提灯や行燈は半ば消えた。
 天心の月は、智惠子の影を短く地に印した。太皷の音と何十人の唄聲とは、その月までも屆くかと、風なき空に漂うてゆく。――華やかな舞樂の場から唯一人歸る智惠子は、急に己が宿が厭になつた。
 と言つて、足は矢張り宿の方へ動く。送つて來てくれぬ男を怨めしくも思つた。あの人が東京へ歸ると、屹度今夜のことを手紙に書いて寄越すだらうと思つた。そして、二人の間に取交された約束が、唯一生忘るまいといふ事だけなのを思つて、智惠子は今夜といふ今夜、初めて切實に、それだけでは物足らぬことを感じた。智惠子も女である。力強き男の腕に抱かれたら、あはれ、腹の痛みも忘れようものを!
 二町許り來る、と智惠子は俄かに足を早めた。不圖、怺(こら)へきれぬ程に便氣を催して來たので。

      六 

 程なく吉野や靜子等も歸路に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智惠子の病氣の氣に懸らぬではないが、寄つて見る譯にも行かぬ。
 それから小一時間も經つた。
 富江の宿の裏口が開いて、月影明るい中へヒョクリと信吾が出た。續いて富江も出た。
『好い月!』恁(か)う富江が言つた。信吾は自ら嘲る樣な笑ひを浮べて、些(ち)と空を仰いだが別に興を催した風もない。ハヽヽと輕く笑つた。
 太皷の響と唄の聲が聞える、四邊(あたり)は森として、何處やらで馬の強く立髮を振る音。
『一寸、其□(そんな)に濟まさなくたつて可いわよ。』
『疲れた!』と、信吾は低く呟く樣に言つた。
『マ酷(ひど)い! 散々人を虐(いぢ)めて置いて。』
『ハヽヽ。ぢや左樣なら!』
『一寸々々、眞箇(ほんと)よ明日の晩も。』
『ハヽヽ。』と男は又妙に笑つてスタ/\と歩き出す。富江は家へ入つた。
 人なき裏路を自棄(やけ)に急ぎながら、信吾は淺猿しき自嘲の念を制することが出來なかつた。少し下向いた其顏は不愉快に堪へぬと言つた樣に曇つた。
『莫迦!』と聲を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。
 信吾の心が生れてから今日一日ほど動搖した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智惠子を訪うと、初めは盛んに氣焔を吐いた。現代の學者を糞味噌に罵倒し盡し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚□(どんな)話の機會からか、智惠子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤(ぢつ)と俯向(うつむ)いてゐた。
 最後に信吾は言つた。
『智惠子さん、貴女は哀れな僕の述懷を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』
『…………』
『智惠子さん!』と、情が迫つた樣に聲を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智惠子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可(い)いと許して頂けば可いんです、それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……。』
『小川さん!』と女は屹(きつ)と顏をあげた。其顏は眉毛一本動かなかつた。『私の樣なものゝことを然(さ)う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』
『は□』
『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない樣にお願ひします。』
 信吾は眤(ぢつ)と腕を組んだ。
『失禮な事を申す樣ですが……』
『ウ、……何故でせう?』
『……別に理由はありませんけれど……。』
『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、さも落膽(がつかり)した樣に言つて、『然しです、何か理由が、然う被仰(おつしや)るからには有らうぢやありませんか? それを話して戴く譯にはいかないんですか?』
『…………』
『智惠子さん! ぼくがこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお斷りになるとは餘りです、餘りに侮辱です。』
『ですけれど……』
『そんならです。』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇の前にでも出た樣に言つた。其眼は物凄く輝いた。
『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智惠子さん、怎(ど)うでせう、聞かして下さいますか?』
『……私の知つてをります事ならそれは……』
『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳かした。『話は全然別の事です。僕は僕の一切を犧牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』
 智惠子は胸を刺されたやうにピクリとした。然し一寸も動かなかつた。顏色も變へなかつた。
『怎(ど)うです。』と男は更に突込んだ。『貴女は僕の祝ひを享けて下さいますか、それを聞かして下さい。』
『…………』
『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての眞心からお二人の爲に祝ひます。怎(ど)うです、享けて下さいますか?』
『…………』
『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。
 智惠子の顏はクワッと許り紅くなつた。そして、『有難う御座います。』と明かに言放つた。

      七

 智惠子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何かしら弱い者を虐めてやつた時の樣な思ひに亂れてゐた。恁(か)うなると彼は、今日自分の遣つた事は、豫じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に嵌つて智惠子に自白さしたかの樣に考へる。我と我を輕蔑(さげす)まうとする心を、強ひて其□(そんな)風に考へて抑へて見た。
 信吾は、成るべく平靜な態度をして、その足で直ぐ加藤醫院を訪ね、學校を訪ねた。彼は夕方までに歸つて、吉野や妹共と一緒に踊を見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。
 其時の信吾は、平常よりも餘程機嫌が好い樣に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる樣な氣がして來て、心にも無い事を一口言へば一口言ふ丈、胸が苛立(いらだ)つて來る。高い笑聲を殘して、彼は遂に學校から飛び出した。
 もう日暮近い頃であつた。
 自嘲の念は烈しく頭を亂した。何故那□事をいつたらう? 莫迦な、もう智惠子の顏を見ることが出來なくなつた! と彼は悔いた。何故もつと早く、――吉野の來ないうちに言はなかつたらう□
『畜生奴! 到頭白状させてやつた。』恁(か)う彼は口に出して言つて見た。が、矢張り彼は女から享けた拒絶の耻辱を、全く打消すことが出來なかつた。よし彼女を免職させる樣にしてやらうか! 否、それよりは何うかして吉野を追拂はう!
 彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋まで、國道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら歸るともなく歸つて來た。が、彼は人に顏を見られたくない。町端れから又引返して、今度は舊國道を門前寺村の方へ辿つた。
 月が昇つた。
 途斷れ/\に、町へ來る近村の男女に會つた。彼は然しそれに氣がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思ひ出してゐた。
『何有(なあに)! 知らん顏をしてゐればそれで濟む。豈夫智惠子が言ひは爲(し)まい。』と彼は少し落着いて來た。
『然し。』と彼は又しても吉野が憎くなる。『あの野郎奴、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがたつた!』
 信吾の憤りは再發した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思ひ出して、遂に、頭髮を掻き□りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステッキを強く揮つて、自暴(やけ)にヒュゥと空氣を切つた。
『信吾さん!』と女の聲。彼は驚いた樣に顏を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近づいて來る。草履を穿いてるのか足音がしない。
『信吾さん!』と富江は又呼んだ。
『あ、神山さんでしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。
『まア、何處へ被行(いらつしや)るの?』
 答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴(やけ)に體を向直した。
『ハハヽヽ。何處へ行つたんです貴女こそ?』
『生徒の家へ招待(よば)れて、門前寺の……一人で散歩するなんて氣が利かないぢやありませんか、貴方は!』
『貴女だつて一人ぢやないか!』
『ホヽヽ、どうして智惠子樣(さん)を誘つて上げなかつたの?』
『莫迦(ばか)な!』
『あら、月夜の散歩にはハイカラさんの手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか? 眞箇(ほんと)に!』
『何を言ふんです。』と信吾は苛々(いら/\)しく言つた。そして、突然富江の手を取つて、『僕は貴女の迎ひに來たんだ!』
『まア巧い事を!』と富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。
 信吾は、女の餘りに平氣なのが癪に障つた。そして、不圖怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。
 富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、『私の手なんか駄目よ、信吾さん! 女の手の樣ぢやないでせう?』
『…………』
『私は女ぢやないんですよ。』
『富江樣。』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』
『あ重い!』と言つたが逃げ樣ともせぬ。そして、急に眞面目な顏をして眤(ぢつ)と男の顏を見ながら、『眞箇よ。私石女(うまずめ)なんですもの。子供を生まない女は女ぢやないんでせう?』そして、袂を口にあてゝ急にホホヽヽと笑ひ出した。
 其夜は信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舍に詰めてゐる。主婦や子供らは踊に行つて留守であつた。
 で、彼が家へ歸つてくると、玄關の戸がもう閉(しま)つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら閾(しきい)が高い樣な氣がして、成るべく音を立てぬ樣にして入つた。

      八

 家に入つた信吾の心は、妙に臆(ひる)んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の歸路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて來た。烈しい××××××××××××しい疲勞が、今日一日の苛立(いらだ)つた彼の心を彌更に苛立たせた。
『淺猿しい、淺猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はもう此儘人知れず何處かへ行つて了ひたい樣な氣がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顏を思出すと、言ふべからざる厭惡の念が起る。そして又、段々家へ近附くにつれて、戀仇の吉野に對する自暴腹(やけつぱら)な怒りが強く發した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顏を見られたくなかつた。
 で、成るべく音立てぬ樣に縁側傳ひに自分の室に行く。家中もう寢て了つたと見えて、森としてゐた。と、離室に續く縁側に輕い足音がして、靜子が出て來た。四邊(あたり)は薄暗い。
『あら兄樣、遲かつたわねえ。何處に居たんですか、今迄?』
『何處でも可いぢやないか!』と、聲は低く、然し慳貪(けんどん)だ。
『まア!』
 信吾は、わが仇の吉野の室に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒が洪水の樣に頭に溢れた。
『貴樣こそ何處に行つてるんだ? 夜(よる)夜中人が寢て了つてから!』
 靜子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か嚴しく詰責でもされる樣で、信吾の憤怒は更に燃える。
『莫迦野郎! 何處に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ靜子を擲つた。
 靜子は矢庭に袂を顏にあてた。
『兄樣……其樣(そんな)……』
『此方へ來い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドッと突倒した。
『此畜生! 親や兄の眼を晦まして、……』
『わツ。』と靜子は倒れた儘で聲をあげた。先刻町から歸つてから、待てども/\兄が歸らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者との話の成行(なりゆき)が氣にかゝつた。自分から聞かれる事でもなく、手頼るは兄の信吾、その信吾が今日媒介者(なかうど)が來たも知らずにゐると思ふと、もう心配で/\堪らなくなつて、今も密(そつ)と吉野の室に行つて、その歸りの遲きを何の爲かと話してゐたのである。
 靜子は故なき兄の疑ひと怒が、口惜しい、恨めしい、辯解をしようにも喉が塞つて、たゞ堅く/\袖を噛んだが、それでも泣き聲が洩れる。
『莫迦野郎!』と、信吾は又しても唸る樣に言つて、下唇を喰縛り、堅めた兩の拳をブルブル顫はせて、恐しい顏をして突立つてゐる。
 靜子は死んだ樣に動かない。
『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴樣はもう松原に遣(や)る。貴樣みたいなものを家に置くと、何をするか知れない。』
『マ。』と言つて、靜子はガバと起きた。『兄樣……其松原から今日人が來て……それで……』
 手荒く襖が開いて、次の間に寢てゐる志郎と昌作が入つて來た。
『怎(ど)うしたんだい兄樣(さん)?』
『默れ!』と信吾は怒鳴つた。『默れ! 貴樣らの知つた事か。』
 そして、亂暴に靜子を蹴る、靜子は又ドタリと倒れて、先よりも高くわツと泣く。
『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて來た。『何だ? 夜更(よふけ)まで歩いて來て信吾は又何を其□に騷ぐのだ?』
『糞ツ。』と云ひさま、信吾は又靜子を蹴る。
『何をするッ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。
『何をするツ、貴樣らこそ。』と、信吾はもう無中に咆り立つて、突然志郎と昌作を薙倒す。
『こらツ』と父も聲を勵して、信吾の肩を掴んだ。『何莫迦をするのだ! 靜は那方(あつち)へ行け!』
『糞ツ。』と許り、信吾は其手を拂つて手負猪の樣な勢ひで昌作に組みつく。
『貴樣、何故俺を抑へた□』
『兄樣!』
『信吾ツ!』
 ドタバタと騷ぐ其音を聞いて、別室の媒介者(なかうど)も離室の吉野も驅けつけた。帶せぬ寢卷の前を押へて母のお柳も來る。
『畜生! 畜生!』と信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。

   其十二

 智惠子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から歸つてから、夜一夜苦しみ明した。お利代が寢ずに看護してくれて、腹を擦つたり、温めたタオルで罨法(あんぽふ)を施(や)つたりした。トロ/\と交睫(まどろ)むと、すぐ烈しい便氣の塞迫と腹痛に目が覺める。翌朝の四時までに都合十三回も便所に立つた。が、別に通じがあるのではない。
 夜が清々(すが/\)と明放れた頃には、智惠子はもう一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外(そと)にある。お利代が醫者に驅附けた後、智惠子は怺(こら)へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を傳つて危(あぶ)な氣に下駄を穿(つゝ)かけたが、歸つて來てそれを脱ぐと、もう立つてる勢ひがなかつた。で、臺所の板敷を辛(やつ)と這つて來たが、室に入ると、布團の裾に倒れて了つた。抉られる樣に腹が痛む。子供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓際の机の上にはまだ洋燈(ランプ)が曚然(ぼんやり)點(とも)つてゐた。
 智惠子は堅く目を瞑つて、幽かに唸りながら、不圖、今し方戸外へ出た時まだ日の出前の水の樣な朝光(あさかげ)が、快く流れてゐた事を思ひ出した。
「もう夜が明けた。」と覺束なく考へると、自分は何日からとも知れず、長い/\間恁(か)うして苦しんでゐた樣な氣がする。程經てから前夜の事が思ひ出された。それも然し、ずつとずつと以前の事のやうだ。
「今日あの方が來て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、もう夜が明けたのだもの!……。すると今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」
 喧しく雀が鳴く。智惠子はそれを遙(ずつ)と遠いところの事の樣に聞くともなく聞いた。
『先生……先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不圖氣がつくと、自分は其處で少し交睫(まどろ)みかけたらしい。お利代は加藤醫師を伴れて來て、心配氣な顏をして起してゐる。
『先生、まア恁□所に寢て、お醫師樣が被來(いらつしや)いましたよ。』
『まア濟みません。』然う言つてお利代に手傳はれ乍ら臥床の上に寢せられた。
 室には夜ツぴて點(つ)けておいた洋燈(ランプ)の油煙やら病人の臭氣やらがムッと籠つてゐた。お利代は洋燈(ランプ)を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髮亂れ、眼凹み、皮膚の澤(つや)なく弛んだ智惠子の顏が、もう一週間も其餘も病んでゐたものゝ樣に見えた。
 加藤は先ず概略の病状を訊いた。智惠子は痛みを怺へて問ふがまゝに答へる。
『不可(いけ)ませんなア!』と醫師は言つた。そして診察した。
 脈も體温も少し高かつた。舌は荒れて、眼が充血してゐる。そして腹を見た。
『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の邊を押す。
『痛みます。』と苦し氣に言つた。
『此處は?』
『其處も。』
『フム。』と言つて、加藤は腹一帶を輕く擦(さす)りながら眉を顰めた。
 それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。
「赤痢だ!」と智惠子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲みが湧いた。
 智惠子の病氣は赤痢――然も稍烈しい、チブス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には擔架に乘せられて隔離病舍に收容された。お利代の家の門口には「交通遮斷」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭氣に充ち、軒下には石灰が撒かれた。
 丁度智惠子が隔離病舍に入つた頃、小川の家では、信吾が遲く起きて、そして、今日の中に東京に歸らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたい不愉快と憤怒を抱いてふいと發(た)つた。それは午後の二時過。
 吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に制(と)められて、一日だけ延ばした。小川家には急に不愉快な、そして寂しい空氣が籠つた。
 日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智惠子の事を訊かされた。吉野は直ぐ智惠子の宿を訪ねた。町には矢張り樺火が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から□つて霎時(しばらく)お利代と話した。そして、石炭酸臭い一封の手紙を渡された、それは智惠子が鉛筆の走り書。――恁う書いてあつた。
 御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかゝれないのが何より――病の苦痛より辛う御座います。吉野樣、何卒私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。
 屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。
ちゑ   よしの樣まゐる

   其十三

      一

 智惠子の容體は、最初隨分危險であつた。隔離病舍に收容された晩などは知覺が朦朧になり、妄語(うはごと)まで言つた位。てつきりチブス性の赤痢と思つて加藤も弱つたのであるが、三日許りで危險は去つた。そして二十日過になると、赤痢の方はもう殆んど癒つたが、體が極度に衰弱してゐるところへ、肺炎が兆した。そして加藤の勸めで、盛岡の病院に入ることになつた。
 吉野は病める智惠子と共に澁民を去つた。彼は有ゆるものを犧牲に拂つても、必ず智惠子を助けねばならぬと決心してゐた。
 信吾去り、志郎去り、智惠子去り、吉野去つて二月の間に起つた種々の事件が、一先づ結末を告げた。
 八月も末になつた。そして、靜子は新しく病を得た。
 靜子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに來た時、お柳からの祕かの依頼で、それとなく松原家を動かし、媒介者(なかうど)を同伴して來るまでに運んだのであるが、來て見るとお柳の態度は思ひの外、對手の松原中尉の不品行(志郎から聞いた)を楯に、到頭破談にして了つた。
 靜子は、何處といふことなく體が良くなかつた。加藤は神經衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で藥取に行く樣に勸めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顏をして靜子は、白ハンカチに包んだ藥瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。
 そして靜子は、一時間か二時間、屹度清子と睦しく話をして歸る。
 或る日の事であつた。二人は醫院の裏二階の瀟洒(さつぱり)した室で、何日もの樣に吉野の噂をしてゐた。
 靜子は怎(ど)うした機會(はずみ)からか、吉野と初めて逢つた時からの事を話し出して、そして、かの寫生帖の事まで仄めかした。
 清子は熱心にそれを聞いてゐた。
『靜子さん。』と清子は、眤(ぢつ)と友の俯向(うつむ)いた顏を見ながら、しんみりした聲で言つた。『私よく知つてるわ。貴女の心を!』
『あら!』と言つて靜子は少し顏を赤めた。『何? 清子さん私の心つて?』
『隱さなくても好かなくつて、靜子[#「靜子」は底本では「清子」]さん?』
『…………』
 默つて俯向(うつむ)いた靜子の耳が燃える樣だ。清子は、少し惡い事を云つたと氣がついて、接穗(つぎほ)なくこれも默つた。
『清子さん。』と、稍あつてから靜子は言つた。其眼は濕んでゐた。『私……莫迦だわねえ!』
『あら其□(そんな)! 私惡い事言つて……。』
『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』
『…………』
 清子の眼にも涙が湧いた。
『ねえ、清子さん!』と又靜子は鼻白(はなじら)んで言つた。『詰らないわねえ、女なんて!』
『眞箇(ほんと)よ、靜子さん。』と、清子は全く同感したといふ樣に言つて、友の手を取つた。
『然(さ)う思つて、貴女(あなた)も?』と、清子の顏を見るその靜子の眼から、美しい涙が一雫二雫頬に傳つた。
『靜子さん!』と、清子は言つた。『貴女……私の事は誤解してらつしやるわね!』
 然う言つて、突然靜子の膝に突伏した。
『あら、貴女(あなた)の事ツて何(なに)?』

      二

 二人は暫時(しばし)言葉が無かつた。
 靜子はそれを、屹度兄の信吾の事と察した。が、兄の事を思ふだけに、何と訊いて可いか解らなかつた。
 稍あつてから、『え? 何の事私が誤解してるツて?』と靜子が又言ふ。
『言はずに置くわ、私。』と、思ひ切り惡く言つて、清子は漸く首を上げる。
『あら何うして?』
『兄の事……ぢやなくつて?』
 清子は羞し氣に俯向(うつむ)いた。
『清子さん、私何も貴女の事惡くなんか思つてやしなくつてよ。』
『あら然(さ)うぢやなくつてよ。それは私だつて能く知つててよ。』
 二人は懷し氣に眼を見合せた。
『私此の家に嫁(き)た事、貴女(あなた)可怪いと思つたでせう?』と稍あつて清子は極り惡相に言つた。
『でもないわ……今になつては。』と、靜子は心苦し氣である。靜子は、あの事あつて以來兄信吾の心が解りかねた。そして、その兄の不徳を、今一つ聞かねばならぬといふ氣がすると、流石に兄妹であれば辛くない譯に行かぬ。が、又、目の前の清子を見ると、この世に唯一の自分の友が此人だと言ふ限りない慕しさが胸に湧いた。
『濟まないわ、このお話するのは!』
『マ清子さん!……貴女其□(そんな)に……私になら何だつて言つて下すつたつて可(い)いわ。貴女許りよ、私姉さんの樣に思つてるのは!』
『……私ね……眞箇(ほんと)の姉妹になりたかつたの、貴女と。』
然う言つて清子は靜子の手を握る。
『解つてよ。』と、靜子は聞えるか聞えぬかに言つて、眤(ぢつ)と眼を瞑ぢた。其眼から涙が溢れる。
『嬉しいわ、私は。』と清子は友の手を強く引く。二人の涙は清子の膝に落ちた。
 そして言つた。『私信吾さんに逢つて頂いてよ、此方の方の話があつた時……忘れないわ、去年の七月二十三日よ、鶴飼の上の觀音樣の杜で。』
『…………』
『私甚□(どんな)に……男の方は矢張り氣が強いわねえ!』
『何と言つて其時、兄が?』
『……此家へ來る事を勸めて下すつたわ、あの、兄樣は。』
『マ然(さ)う!』靜子は強く言つて。そして、『濟まなかつたわ清子樣、眞箇(ほんと)に私……今迄知らなかつたんですもの。』と言うなり、清子の膝に泣伏した。
『何も其樣に!』と清子も泣聲で言つて、そして二人は相抱いて暫く泣いた。
『詰らないわね、女なんて!』と、稍あつて靜子はしみじみ言ふ。
『眞箇(ほんと)ねえ』と清子は應じた。
 二人の親しみは増した。
 九月が來た。
 信吾の不意に發(た)つて以來、富江は長い手紙を三四度東京に送つた。が、葉書一本の返事すらない。そして富江は不相變(あひかはらず)何時でも噪(はしや)いでゐる。
 肺を病んだ五尺足らずの山内は、到頭八月の末に盛岡に歸つて了つた。聞けば智惠子吉野と同じ病院に入つたといふ。
 濱野の家――智惠子の宿では、祖母の病が惡くもならず癒(よ)くもならぬ。
 お利代は一生懸命裁縫に勵んでゐる。時には智惠子から習つた讃美歌を、小聲で小供らに歌つて聞かしてる事もある。村では好からぬ噂を立てた。それはお利代も智惠子に感化(かぶ)れて、耶蘇信者になつたので、早く祖母の死ぬ事を毎晩神に祈つてゐるといふので。――そして、祖母の死ぬのを待つて凾館の先の夫の許へ行くのだ、と傳へられた。
 快く晴れた或日の午前であつた。昌作は浮かぬ顏をして町を歩いてゐた。そして郵便局の前へ來ると、懷から二枚の葉書を出してポストに入れた。――昌作は米國に行くことも出來ず、明日發つて十里許りの山奧の或小學校の代用教員に赴任することになつた。――その葉書は盛岡の病院なる智惠子と山内に宛てたもの。山内には手短く見舞の文句と自身の方の事を書いたが、智惠子への一枚には、氣取つた字で歌一首。
『秋の聲まづ逸早く耳に入るかゝる性(さが)有(も)つ悲むべかり』
 澁民村に秋風が見舞つた。

附記。この一篇は作者が新聞小説としての最初の試作なりき。囘を重ぬる六十囘。時歳末に際して豫期の如く事件を發展せしむる能はず、茲に一先づ擱筆するに到れるは作者の多少遺憾とする所なり。他日若し幸ひにして機會あらば、作者は稿を改めて更に智惠子吉野を主人公としたる本篇の續篇を書かむと欲す。




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