鳥影
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著者名:石川啄木 

      六

 星影疎(まば)らに、川瀬の音も遠くなつた。熟した麥の香が、暗い夜路に漂うてゐる。
 先に立つ女兒(こども)等の心々は、まだ何か恐怖に囚はれてゐて、手に手に小い螢籠を携へて、密々(ひそ/\)と露を踏んでゆく。譯もなく歔欷(すゝりあ)げてゐる新坊を、吉野は確乎(しつか)と懷に抱いて、何か深い考へに落ちた態で、その後に跟(つ)いた。
 智惠子は、片手に濡れた新坊の着物を下げて、時々心配顏に子供の顏を覗き乍ら、身近く吉野と肩を並べた。胸は感謝の情に充溢(いつぱい)になつてゐて、それで、口は餘り利けなかつた。
『阿母樣(おつかあ)!』と、新坊は思い出し樣に時々呼んで、わアと力なく泣く。
『もう泣かないの、今阿母樣(おつかさん)の處へ伴れてつて下さるわ。ねえ、新坊さん、もう泣かないの。』と、智惠子は横合から頻りに慰める。
『眞箇(ほんと)に私、……貴方(あなた)が被來(いらつしや)らなかつたら、私奈何(どう)したで御座いませう!』
『其□(そんな)事はありません。』
『だつて私、萬一の事があつたら、宿の小母さんに甚□(どんな)にか……』
『日向樣(さん)!』と吉野は重々しい調子で呼んだ。『僕は貴女に然(さ)う言はれると、心苦しいです。誰だつてあの際あの場處に居たら、あれ位の事をするのは普通(あたりまへ)ぢやありませんか?』
『だつて、此兒の生命(いのち)を救けて下すつたのは、現在貴方ぢや御座いませんですか!』
『日向樣(さん)!』と吉野は又呼んだ。『も少し眞摯(まじめ)に考へて見ませう……若しあの際、彼處(あそこ)に居たのが貴女でなくて別の人だつたらですね、僕は同じことを行(や)るにしても、もつと違つた心持で行(や)つたに違ひない。』
『まあ貴方(あなた)は、……』
『言つて見れば一種の僞善だ!』
 然(さ)う言ふ顏を、智惠子は暗ながら眤(ぢつ)と仰いだ。何か言はうとしても言へなかつた。
『僞善です!』と、男は自分を叱り附ける樣に重く言つた。渠は今、自分の心が何物かに征服される樣に感じてゐる。それから脱れ樣として恁□(こんな)事を言ふのだ。『僞善です! 人が善といふ名の附く事をする、その動機は二つあります。一つは自分の感情の滿足を得る爲め、畢竟自分に甘える爲め、も一つは他に甘える爲めです。』
『貴方(あなた)は――』と言ふより早く、智惠子の手は突然男の肩に捉まつた。烈しい感動が、女の全身に溢れた。強く強く其顏を男の二の腕に摩(こす)り附けて、
『貴方は……貴方は……』と言ひ乍ら、火の樣な熱い涙が瀧の如く、男の肌に透る。
 吉野は礑(はた)と足を留めて、屹と脣を噛んだ。眼も堅く閉ぢられた。
『わア――』と、驚いた樣に新坊が泣く。
 はしたない事をした、といふ感じが矢の如く女の心を掠めた。と、智惠子は、も一度『貴方は!』迸しる樣に言つて、肩に捉つた手を烈しく男の首に捲いた。
『先生!』と、五六間前方から女兒(こども)等が呼ぶ。
『行きませう!』と男は促した。
『は。』と云ふも口の中。身も世も忘れた態で、顏は男の體から離しともなく二足三足、足は男に縺れる。
『日向樣(さん)』と男は足を留めた。
『お許し下さい!』と絶え入る樣。
『僕は東京へ歸りませう!』と言ふ目は眤(ぢつ)と暗い處を見てゐる。
『……何故(なぜ)で御座います?』
『……餘り不思議です、貴女と僕の事が。』
『…………』
『歸りませう! 其方が可(い)い。』
『遣(や)りません!』と智惠子は烈しく言つて、男の首を強く絞める。
『あゝ――』と吉野は唸る樣に言つた。
『お、お解りになりますまい、私のこ、心が……』
『日向さん!』と、男の聲も烈しく顫へた。『其言葉を僕は、聞きたくなかつた!』
 矢庭に二つの唇が交された。熟した麥の香の漂ふ夜路に、熱かい接吻の音が幽かに三度四度鳴つた。

      七

 其夜、母に呼ばれて母屋(おもや)へ行つた靜子が、用を濟まして再び庭に出て來た時は、もう吉野の姿が見えなかつた。植込の蔭、築山の上、池の畔、それとなく尋ね廻つて見たが、矢張り見えなかつた。
 客は九時過ぎになつて歸つた。父の信之は醉倒れて了つた。お柳は早くから座を脱して寢てゐたが、
『靜や、吉野樣(さん)はもうお寢みになつたのかえ。』
『否(いゝえ)、醉つたから散歩して來るつて出てらしつてよ。』
『何時頃?』
『二時間も前だわ。何處へ被行(いらしつ)たでせう!』
『昌作さんとかえ?』
『否、お一人。松藏でもお迎ひにやつて見ませうか?』
『然(さ)うだねえ。』
『大丈夫だよ。』と言ひ乍ら、赤い顏をした信吾が入つて來た。
『彼奴の事だ、橋の方へでも行つてブラ/\してるだらう。それより俺は頭が痛くて爲樣がないから寢かして呉れよ。』
『お先に?』
『歸つたら然う言つて呉れ。そして床を延べて置いてやれ、あゝ醉つた!』
 で、靜子は下女に手傳はして、兄を寢せ、座敷を片附けてから、一人離室(はなれ)に入つた。夜氣が濕(しつと)りと籠つて、人なき室に洋燈が明るく點いてゐる。
 一枚だけ殘して雨戸を閉め、散亂(ちらか)つた物を丁寧に片寄せて、寢具も布き、蚊帳も吊つた。不圖靜子は、「智惠子さん許(とこ)へ被行(いらし)たのかしら!」といふ疑ひを起した。「だつて、夜だもの。」「然し。」「豈夫(まさか)。」といふ考へが霎時(しばし)胸に亂れた。
「それにしても奈何(どう)なすつたらう!」靜子は、何がなしに此室に居て見たい樣な氣がした。で、夏座布團を布いた机の前に坐つて、心持洋燈(ランプ)の火を細くした。
『秋になつたら私が此室(こゝ)にゐる樣にしようか知ら!』
 机の上には、書が五六册。不圖其中に、黒い表紙の寫生帳が目に附いた。靜子は何氣なく其れを取つて、或所を披(ひら)いた。
 と、靜子の眼は輝いた。顏が染つた。人なき室をキョロ/\と見廻して又それを熱心に見る。――鉛筆の走書の粗末ではあるが、書かれてあるのは擬(まが)ひもなく靜子自身の顏ではないか!
 Erste(ルステ) Eindruck(アインドルック)(第一印象)と、獨逸語で其上に書かれた。それは然し、何の事やら靜子には解らなかつた。
 靜子は、氣がさした樣に、俄かにそれを閉ぢて以前の書(ほん)の間に重ねた。そして、逃げる樣に室を出た。心はそこはかとなく動いて、若々しい皷動が頻りに胸を打つた。
 次の頁にも、その次の頁にも、智惠子の顏の書かれてあることは、靜子は遂に知らなかつた。
 間もなく庭に下駄の音がした。靜子は妙に躊躇(ためら)つた上で、急いで又離室(はなれ)に來た。一枚殘した雨戸から、丁度吉野が上るところ。
『怎(ど)うも遲くなつちやつて。』
『否(いゝえ)。お歸り遊ばせ。』
 恁(か)う云つたが、男の顏を見る事は出來なかつた。俯向(うつむ)いた顏は仄(ほんの)りと紅かつた。急いで洋燈(ランプ)を明るくする。
『實に濟みませんでした。這□(こんな)に遲くなる積りぢやなかつたんですが……』
『否、貴方。あの、兄はお酒を過して頭痛がすると言つて、お先に……』
『然(さ)うですか。僕は悉皆(すつかり)醒めちやつた。もう何時頃でせう?』
『十時、で御座いませう。』
 吉野はどかりと机の前に坐つた。と靜子は、今し方自分が其處に坐つた事が心に浮んで、『お寢み遊ばせ。』と言ふより早く障子を閉めて縁側に出た。吉野はグタリと首を垂れて眼を瞑つた。着衣はシットリと夜氣に萎(な)えてゐる。裾やら袖やら、川で濡らした此着衣を、智惠子とお利代が強(た)つて勸めて乾かして呉れたのだ。その間、吉野は誰の衣服を着てゐたか!
「智惠子! 智惠子!」と吉野の心は叫んだ。密(そつ)と左の二の腕に手を遣つて見た。其處に顏を押附けて何と言つた□
『貴方は……貴方は……!』

   其十

      一

 吉野が新坊の命を救けた話は、翌朝朝飯の際に吉野自身の口から、簡單に話された。
 同じ話がまた、前夜其場に行合せた農夫が、午頃(ひるごろ)何かの用で小川家の臺所に來た時、稍詳しく家中の耳に傳へられた。老人達は心から吉野の義氣に感じた樣に、それに就いて語つた。信吾と靜子は、顏にも言葉にも現されぬ或る異つた感じを抱かせられた。
 昌作はまた、若しもそれが信吾によつて爲された事なら甚□(どんな)にか不愉快を感じたらうが、何がなしに蟲の好く吉野だつたので、その豪いことを誇張して繼母(はゝ)などに説き聞せた。そして、かの橋下の瀬の迅い事が話の起因(もと)で、吉野に對つて頻りに水泳に行く事を慫慂(すゝ)めた。昌作の吉野に對する尊敬が此時からまた加つた。
 其翌日か翌々日、叔母と其子等は盛岡に歸つて行つた。この叔母は、數ある小川家の親戚の中でも、殊更お柳と氣心が合つてゐた。といふよりは、夫(をつと)が非職の郡長上りか何かで、家が餘り裕(ゆた)かで無いところから、お柳の氣褄を取つては時々恁(か)うして遣つて來て、その都度家計向の補助を得てゆくので。お柳は、松原からの縁談がもう一月の餘もバタリと音沙汰がないのを内々心配してゐたので、密かにこの叔母に相談した。女二人の間には人知れず何事かの手筈が決められた。叔母は素知らぬ顏をして歸つて了つた。
 叔母を送つて好摩の停車場に行つた下男と下女は、新しい一人の人を小川家に導いて歸つた。それは他ではない、信之の次男、靜子とは一歳劣りの弟の、志郎といふ士官候補生だ。
 志郎は兄弟中の腕白者、お柳の氣には餘り入らぬが、父の信之からは此上なく愛されてゐる。靜子と縁談の持上つてゐる松原家の三男の狷介(けんすけ)とは小さい時からの親友で、一緒に陸軍に志し試驗も幸ひと同時に及第して士官學校に入つた。一日から二十日間の休暇を一週間許り仙臺に遊んで、確(しか)とした前知らせもなく歸つて來たのだ。
 或る日、母のお柳は志郎を呼んで、それとなく松原中尉の噂を訊いてみた。その返事は少からずお柳を驚かせた。
『松原の政治か! 彼奴ア駄目だよ、阿母樣、狷介なんかも兄貴に絶交して遣らうなんて云つてゐた。』
『奈何(どう)してだい、それはまた?』
『奈何してつて、那□(あんな)馬鹿はない。それや評判が惡いよ、此年の春だつけかなア、下宿してゐた素人屋の娘を孕(はら)ませて大騒ぎを行(や)つたんだよ。友人なんか仲に入つて百五十圓とか手切金を遣つたそうだ。那□(あんな)奴ア吾々軍人の面汚しだ。』
 お柳は猶その話を詳しく訊いた上で、その事は當分靜子にも誰にも言ふなと口留めした。
 志郎は淡白な軍人氣質、信吾を除いては誰とも仲が好い、緩々(ゆる/\)話をするなんかは大嫌ひで、毎日昌作と共に川にゆく、吉野とも親しんだ。――
 常ならぬ物思ひは、吉野と信吾と靜子の三人の胸にのみ潜んだ。そして、三人とも出來るだけそれを顏に表さぬ樣に努めた。智惠子の名は、三人とも怎(ど)うしたものか成るべく口に出すことを避けた。
 吉野は醫師の加藤と親んで、寫生に行くと言つては、重ねて其家を訪ねた。
 智惠子は唯一度、吉野も信吾も居らぬ時に遊びに來たツ限(きり)であつた。
 暑い/\八月も中旬になつた。螢の季節も過ぎた。明日は陰暦の盂蘭盆といふ日、夕方近くなつて、門口から噪(はしや)いだ聲を立てながら神山富江が訪ねて來た。

      二

 富江が來ると、家中が急に賑かになつて、高い笑聲が立つ。暑さ盛りをうつら/\と臥てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で靜子に髮を結(い)はしてる樣子。その縁側の邊から、富江の聲が霎時(しばらく)聞えてゐたが、何やら鋭く笑ひ捨てゝ、縁側傳ひに足音が此方へ來る。
 信吾も晝寢から覺めた許り、不快な夢でも見た後の樣に、妙に燻んだ顏をして胡座(あぐら)を掻いてゐた。富江の聲や足音は先刻から耳についてゐる。が、心は智惠子の事を考へてゐた。
 或は一人、或は吉野と二人、信吾は此月に入つてからも三四度智惠子を訪ねた。二人の話はもう以前の樣に逸(はず)まなくなつた。吉野が來てからの智惠子は、何處となく變つた點が見える。さればと言つて別に自分を厭ふ樣な樣子も見せぬ。
 かの新坊の溺死を救けた以來、吉野が一人で、或は昌作を伴れて、智惠子を訪ねることも、信吾は直ぐに感附いたゐた。二人の友人の間には何日しか大きい溝が出來た。信吾は苛々(いら/\)して不快な感情に支配されてゐる。
 いつそ結婚を申込んでやらうか、と考へることがないでもない。が、信吾は左程までに深く智惠子を思つてるのでもないのだ。高が田舍の女教員だ! といふ輕侮が常に頭にある。確乎(しつかり)した女だとも思ふ。確固(しつかり)した、そして美しい女だけに、信吾は智惠子をして他の男――吉野を思はしめたくない。何といふ理由なしに。自分には智惠子に思はれる權利でもある樣に感じてゐる。「吉野を歸して了ふ工夫はないだらうか!」恁□(こんな)考へまでも時として信吾を惱ました。
 そして又、靜子の吉野に對する素振(そぶり)も、信吾の目に快くはなかつた。總じて年頃の兄が年頃の妹の男に親しまうとするのを見るのは、樂しいものではない。平生戀といふものに自由な信條を抱いてる男でも、其□(そんな)場合には屹度自分の心の矛盾を發見する。
『戸籍上は兎も角、靜子はもう未亡人ぢやないか!』
 信吾の頭には恁□(こんな)皮肉さへも宿つてゐる。これと際立つところはないが靜子が吉野の事といへば何より大事にしてゐる、それが唯癪に障る。理由もなく不愉快に見える――。
『まア、起きてらつしつたんですか!』と、富江は開け放した縁側に立つた。
『貴女(あなた)でしたか!』
『オヤ、別の人を待つてゐたの?』
『ハッハハ。不相變(あひかはらず)不減口(へらずぐち)を吐く! 暑いところを能(よ)くやつて來ましたね。』
『貴方が晝寢してるだらうから、起して上げようと思つて。』
『屹度神山さんが來ると思つたから、恁うしてチャンと起きて待つてたんですよ。』
『其□(そんな)事誰方から習つて? ホホヽヽまア何といふ呆然(ぼんやり)した顏! お顏を洗つて被來いな。』と言ひ乍ら、遠慮なく坐つた。
『敵(かな)はない、敵はない。それぢや早速仰せに從つて洗つて來るかな。』
『然(さ)うなさいな。もう日が暮れますから。』と言つて、無雜作に其處に落ちてゐる小形の本を取る。
 立ち上つた信吾は、『ア、其奴(そいつ)ア可(い)けない。』と、それを取返さうとする。
 娘らしい態(しな)をして、富江は素早く其手を避けた。『何ですの、これ? 小説?』
 黄ろい本の表紙には、[#ここから横組み]“True Love”[#ここで横組み終わり]と書かれた。文科の學生などの間に流行(はや)つてゐる密輸入のアメリカ版の怪しい書だ。
『ハッハハ。』と信吾は手を引込ませて、『まア小説みたいなもんでサ。』
『みたいなナンテ……確乎(しつかり)教へたつて好いぢやありませんか? 私は讀めるんぢやなし……。』
『それが讀めたら面白いですよ。』と、信吾はニヤ/\笑つてゐる。
『日向樣(さん)の眞似をして私も英語をやりませうか?』と言つて、富江は皮肉に笑つてる眼で男を仰いだ。
 そして直ぐ何か思出した樣に聲を落して、『然う/\信吾さん、面白い話がありますよ。』
『甚□(どんな)?』
『まアお顏を洗つてらつしやいな。』

      三

 顏を洗つて來た信吾は、氣も爽々(さつぱり)した樣で、ニヤ/\笑ひながら座についた。
『あら、貴方のお髭は洗つても落ちませんね。』
『冗談ぢやない。それより何です、面白い話といふのは?』
『詰らない事ですよ。』
『其□(そんな)に自重(もた)せなくても可いぢやないですか?』
『其□(そんな)に聞きたいんですか?』
『貴女(あなた)が言ひ出して置いた癖に。』
『ホホヽヽ。そんなら言ひませうか。』
『聞いて上げませう。』
『あのね……』と、富江は探る樣な目附をして、笑ひ乍ら眞正面に信吾を見てゐる。
 信吾は、其話が屹度智惠子の事だと察してゐる。で、恁(か)う此女に顏を見られると、擽られる樣な、かつがれてる樣な氣がして、妙に紛らかす機會がなくなつた。
『何です?』と、少し苛々(いら/\)した調子で言つた。
『ホホヽヽ。』と富江は又笑つた。『或る人がね。』
『或る人ツて誰?』
『まア。』
『可(よ)し/\。その或る人が怎(ど)うしたんです?』
『あの方をね。』と離室(はなれ)の方を頤で指す。
『吉野を。』と信吾の眼尻が緊つた。
『ホホヽヽ。』
『吉野を怎(ど)うしたんです?』
『……ですとサ。ホホヽヽ。』
『豈夫(まさか)? 神山樣(さん)の口にや戸が閉(た)てられない。』と言つて、何を思つてか膝を搖つて大きく笑つた。
 目的(あて)が外れたといふ樣に、富江は急に眞面目な顏をして、『眞箇(ほんとう)ですよ。』
『豈夫? 誰が其□事言つたんですか?』
『矢張り聞きたいんでせう?』
『聞きたいこともないが……然し其奴ア珍聞だ。』
『珍聞?』と、また勝誇つた眼附をして、『貴方も餘程頓馬ね!』
『怎(ど)うして?』
『怎うしてだと! ホヽヽヽ。』と、持つてゐる書で信吾の膝を突く。
『それより神山さん、誰が其□(そんな)事言つたんですか?』
『確かな所から。』
『然し面白いなア。ハッハハ。眞箇(ほんと)だつたら實に面白い。可し/\、一つ吉野に揶揄(からか)つてやらう。』と一人態(わざ)と面白さうに言ふ。
『其□(そんな)に面白くつて?』
『面白いさ。宛然(まるで)小説だ!』
『然(さ)うね。この話は誰より一番信吾さんに面白いの。ね、然(さ)うでせう?』
『それはまた、怎(ど)うした譯です?』
『ね、然(さ)うでせう? 然うでせう?』
と、男を壓迫(おしつけ)る樣に言つて探る樣な眼を異樣に輝かした。そして、彈機(ばね)でも外れた樣に、[#「樣に、」は底本では「樣に」]
『ホホヽヽ。』と笑つた。
『ハハヽヽ。』と、信吾も爲方なしに笑つて、『實に詭辯家だな神山さんは!』
『詭辯家? 怎(ど)うせ然(さ)うよ。今の話も私が拵へたんだから!』
『否(いや)、其意味ぢやないんですよ。誰です、それを言つたのは?』
 其顏を嘲る樣に眤(ぢつ)と見て、『矢張り氣に懸るわね、信吾さん!』
『莫迦な!』と言つたが、女に自分の心を探られてゐるといふ不快が信吾の頭を掠めた。『それより奈何です、その吉野の方へ行つてみませんか?』
『行きませう。』
 信吾はつと立つて縁側に出ると、『吉野君』と大きく呼んだ。
『何だ?』と落着いた返事。
『晝寢してたんぢやないのか! 今神山さんが來たが、其方へ行つても可(い)いか?』
『來たまへ。』
『行きませう。』と富江を促して、信吾は先に立つ。富江は何か急に考へることでも出來た樣な顏をして、默つてその後に跟いた。縁側傳ひ、蔭つた庭の植込に蜩(ひぐらし)が鳴き出した。

      四

 今年の春の巴里のサロンの畫譜を披いて、吉野は何か昌作に説明して聞かしてゐた。
 一通りの挨拶が濟むと、富江はすぐ立つて、壁に立掛けてある書きかけの水彩畫を見る。信吾はゴロリと横になつて、その畫のことを吉野と語る。
『昌作さん。』と富江が呼びかけた。『貴方昨日町へ被行(いらし)つて?』
『行つた。山内へ見舞に。』
『奈何(どう)でしたの、御病氣は?』と笑つてゐる。
『それや可哀想ですよ。臥(ね)たり起きたりだが、今年中に死ぬかも知れないなんて言つてるもの。』
『其□(そんな)に惡いかねえ。それや可哀想だ。何しろあの體だからなア。』と、信吾は別に同情した風もなく言ふ。
『盛岡に歸るさうだ。四五日中に。』
『昌作さん。』と富江は又呼んだ。そして急しく吉野と信吾の顏を見□して、
『好い物上げませうか、貴方に?』
『何です?』
『好い物なら僕も貰ひたいな。』
『信吾さんにはいや。ねえ昌作樣(さん)、上げませうか?』
『何だらうな!』と昌作は躊躇する。
『二人が喧嘩しちや可けないから僕が貰ひませうか?』
と吉野は淡白に笑ふ。
『ねえ昌作さん、誰方にも見せちや可けませんよ。』
『可し、志郎と二人で見る。』
『否(いゝえ)、貴方(あなた)一人で見なくちや可けないの。』と言ひながら、富江は何やら袂から出して掌に忍ばせて昌作に渡す。
 昌作は極り惡るさうにそれを受けた。そして、『可し、可し。』と言ひながら庭下駄を穿いて、『オイ、志郎! 好い物があるぞ。』と聲高に母屋の方へ行く。
『あら可けませんよ。人に見せちや。』と富江は其後ろから叫んで、そして、面白さうにホホホヽと笑つた。
 二人は好奇心に囚はれた。『何です、何です?』と信吾が言ふ。
『何でもありませんよ。』と、濟し返つて、吉野の顏をちらと見た。
『怪しいねえ、吉野君。』
『ハツヽヽ。』
『豈夫(まさか)! 信吾さんたら眞箇(ほんと)に人が惡い。』と何故か富江は少し愼(つゝま)しくしてゐる。
 其處へ、色のいゝ甜瓜(まくはうり)を盛つた大きい皿を持つて、靜子が入つて來た。『餘り甘味(おいし)しくないんですけど……。』
『何だ? 甜瓜(まくはうり)か! 赤痢になるぞ。』と信吾が言つた。
『マ兄樣は!』と言つて、『眞箇(ほんと)でせうか神山樣(さん)、赤痢が出たつてのは?』
『眞箇(ほんと)には眞箇(ほんと)でせうよ。隔離所は三人とか收容したつてますから。ですけれど大丈夫ですわねえ、餘程離れた處ですもの。』
『ハヽヽヽ。神山さんが大丈夫ツてのなら安心だ。早速やらうか。』と信吾が最先に一片摘む。
 軈て、裾短かの筒袖を着た志郎と昌作が入つて來た。
『やあ志郎さん、今まで晝寢ですか?』と吉野が手巾に手を拭き乍ら言つた。
『否(いゝえ)、僕は晝寢なんかしない。高畑へ行つて號令演習をやつて來て、今水を浴(かぶ)つたところです。』
『驚いた喃。君は實に元氣だ!』
 昌作は何か亢奮してる態で、肩を聳かして胡座(あぐら)をかいた。
『何だい彼物(あれ)は、昌作さん?』と信吾が訊く。
『莫迦だ喃!』と昌作は呟く樣に言つて、眤と眼鏡の中から富江を見る。『然し俺は山内に同情する。』
 富江は笑ひながら、『あら可けませんよ、此處で喋(しやべ)つては。』
『僕も見た。』と志郎は口を入れた。『オイ昌作さん、皆に報告しようか?』
『言へ、言へ。何だい?』と信吾は弟を唆かす。昌作は默つて腕組をする。
『言はう。』と志郎は快活に言つて、『あれは肺病で將に死せんとする山内謙三の艶書です。終り。』
『まア、志郎さんは酷い!』と、流石に富江も狼狽する。
『艶書?』と、皆は一度に驚いた。
『それが怎うしたの、志郎さん!』と靜子が訊く。
 呆れてゐる信吾の顏を富江は烈しい目で凝視(みつ)めてゐた。

   其十一

      一

 前日に富江が來て、急に夕方から歌留多會を開くことになり、下男の松藏が靜子の書いた招待状を持つて町に馳せたが、來たのは準訓導の森川だけ。智惠子は病氣と言つて不參。到頭肺病になつて了つた山内には、無論使者を遣らなかつた。
 智惠子の來なかつたのは、來なければ可いと願つた吉野を初め、信吾、靜子、さては或る計畫を抱いてゐた富江の各々に、歌留多に氣を逸(はず)ませなかつた。其夜は詰らなく過ぎた。
 靜子の生涯に忘るべからざる盆の十四日の日は、晴々と明けた。風なく、雲なく、麗かな靜かな日で、一年中の愉樂(たのしみ)を盆の三日に盡す村人の喜悦は此上もなかつた。
 村に禪寺が二つ、一つは町裏の寶徳寺、一つは下田の喜雲寺、何れも朝から村中の善男善女を其門に集めた。靜子も、母お柳の代理で、養祖母のお政や子供等と共に、午前のうちに參詣に出た。
 その歸路である。靜子は妹二人を伴れて、寶徳寺路の入口の智惠子の宿を訪ねた。智惠子は、何か氣の退(ひ)ける樣子で迎へる。
『怎(ど)うなすつたの、智惠子さん? 風邪(かぜ)でもお引きなすつて?』
『否、今日は何とも無いんですけれど、昨晩丁度お腹が少し變だつた所でしたから……折角お使を下すつたのに、濟みませんでしたわねえ。』
『心配しましたわ、私。』と、靜子は眞面目に言つた。『貴女が被來(いらつしや)らないもんだから、詰らなかつたの歌留多は。』
『あら其□(そんな)事は有りませんわ。大勢被行(いらし)つたでせう、神山さんも?』
『けれどもねえ智惠子さん、怎(ど)うしたんだか些とも氣が逸(はず)まなかつてよ。騷いだのは富江さん許り……可厭(いやあ)ねあの人は!』
『……那□(あんな)人だと思つてれヤ可いわ。』
 靜子は、その富江が山内の艶書を昌作に呉れた事を話さうかと思つたが、何故か二人の間が打解けてゐない樣な氣がして、止めて了つた。三十分許り經つて暇乞をした。
 二人は相談した樣に、吉野のことは露程も口に出さなかつた。
 靜子が家へ歸ると、信吾は待ち構へてゐたといふ風に自分の室へ呼んで、そして、何か怒つてる樣な打切棒(ぶつきらぼう)な語調で智惠子の事を訊いた。
 靜子は有の儘に答へた。
『然(さ)うか!』と言つた信吾の態度は、宛然(さながら)、其□(そんな)事は聞いても聞かなくても可いと言つた樣であつたが、靜子は征矢(そや)の如く兄の心を感じた。そして、何といふ事なしに、『兄樣に宜しくと言つてよ、智惠子樣が!』と言つて見た。智惠子は何とも言つたのではないが。
『然(さ)うか!』と、信吾は又卒氣(そつけ)なく答へた。晝飯が濟むと、フラリと一人出て、町へ行つた。
 信吾が出かけて間もなくである。月の初めに子供らを伴れて來た、盛岡の叔母が、見知らぬ一人の老人を伴れて來た。叔母は墓參の爲めと披露した。連の男は松原家から頼まれて來たのだとは直ぐ知れた。言ふまでもなく靜子の縁談の事で。
 父の信之、祖父の勘解由、母お柳、その三人と松原家の使者とは奧の間で話してゐる。叔母も其席に出た。靜子は今更の樣に胸が騷ぐ。兄の居ないのが恨めしい。若しや此話から、自分と死んだ浩一との事が吉野に知れはしまいかと思ふと、その吉野にも顏を見せたくなかつた。
 室に籠つたり、臺所へ行つたり、庭に出たり、兎角して日も暮れかゝつた。信吾はそれでも歸つて來ない。夕方から一緒に盆踊を見に行く筈だつたのだが。
 晩餐の時、媒介者(なかうど)が今夜泊るのだと叔母から話された。信吾は全く暗くなつても歸らぬ。母お柳の勸めで、兄とは町へ行つて逢ふことにして、靜子は吉野と共に妹達や下女を伴れて踊見物に出ることになつた。

      二

 丁度鶴飼橋へ差掛つた時、圓い十四日の月がゆら/\と姫神山の上に昇つた。空は雲一片なく穩かに晴れ渡つて、紫深く黝んだ岩手山が、くつきり夕照の名殘の中に浮んでゐる。
 仄りと暗い中空には、弱々しい星影が七つ八つ、青ざめて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第/\に高く上る。町からはもう太鼓の響が聞え出した。
 たとへ何を言つたとて妹共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ靜子の心は、言ふ許りなく動悸(ときめ)いてゐた。家には媒介者(なかうど)が來てゐる。松原との縁談は靜子の絶對に好まぬ所だ。その話の成行(なりゆき)が恁(か)うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、靜子は種々の思ひを胸に疊んだ。
「若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否、若し此人が現在自分の夫であつたら!」
 月明かに靜かな四邊の景色と、遠い太鼓の響とは、靜子の此心持に適合(ふさは)しかつた。靜子は妹共の罪なき言葉に吉野と聲を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出來なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、靜子は此夜の心持を忘れる事は出來ぬであらう。
 松原からの縁談は、その初め、當の對手の政治に對する嫌惡の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な考へやら或る侮辱の感やらで、靜子は兄に手頼つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの靜子は、今迄の理由の外に、も一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出來た。
 丁度橋の上に來た時である。
『此處で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』
 恁(か)う靜子は慣々しく言つてみた。月は其夢みる樣な顏を照した。
『然うでしたねえ!』と吉野は答へた。そして、何か思出した樣に少し俯向(うつむ)いて默つた。
 その態度は、屹度あの時の事を詳しく思ひ出してるのだと靜子に思はせた。靜子も強ひて其時の事を思ひ出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思ひ出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき滿足を與へた。
 が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠は、信吾が屹度智惠子の家にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに歸らなかつた申譯をするだらうと想像してゐた。
 町に入ると、常ならぬ華やかな光景が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪し氣な畫や「豐年萬作」などの字を書いた古風の行燈や提灯が掲げてある。街路の兩側には、門々に今を盛りと樺火が焚いてある。其赤い火影が、一筋町の賑ひを樂しく照して、晴着を飾つた往來(ゆきゝ)の人の顏が何れも/\醉つてる樣に見える。
 町は樂し氣な密話(さゞめき)に充ちた。寄太皷の音は人々の心を誘ふ。其處此處に新しい下駄を穿いた小兒らが集つて、樺火で煎餅などを燒(や)いてゐる。火が爆(は)ぜて火花が街路に散る。年長な小兒らは勢ひ込んで其列んだ火の上を跳ねてゆく。丁度夕餉の濟んだところ。赤い着物を着て女兒共は打ち連れて太皷の音を的にさゞめいて行く。
 町も端れの智惠子の宿の前には、消えかゝつた樺火を取卷いて四五人の小兒等がゐた。
『梅ちやん! 梅ちやん!』と妹共が先ず驅け寄る。其後から靜子は、『梅ちやん、先生は?』と優しく言ひながら近づいた。
 靜子は直ぐ氣が附いた。梅ちやんの着てゐる紺絣の單衣は、それは嘗て智惠子の平常着であつた!
あな我が君のなつかしさよ、
     まみゆる日ぞまたるる。
君は谷の百合、峰のさくら、
     うつし世にたぐひもなし。
 家の下からは幽かに讃美歌の聲が洩れる。信吾は居ない! 恁(か)う吉野は思つた。
『先生! 先生!』と梅ちやんは門口から呼ぶ。

      三

 智惠子に訊(き)くと、信吾は一時間許り前に歸つたといふ。
『まア何處へ行つたんでせうねえ。夕方までに歸つて、私達と一緒に又出かける筈でしたのよ。これから何處へ行くとも言はなかつたんでせうか?』
『否(いえ)、何んとも、別に。』と言つて、智惠子は意味ありげに、目で吉野を仰いで、そして俯向(うつむ)いた。
『歩いてゐたら逢ふでせうよ。』と吉野は鷹揚に言つた。
『怎(ど)うです。日向さんも被行(いらつしや)いませんか、盆踊を見に?』
『は、……まアお茶でも召し上つて……』
『直ぐ被行(いらつしや)いな、智惠子さん。何か御用でも有つて?』
と靜子も促す。
『否(いゝえ)。』
『行きませう! 僕は盆踊は生れて初めてなんです。』
と、吉野はもう戸外へ出る。
 で、智惠子は一寸奧へ行つて、帶を締直して來て、一緒に往來に出た。
 樺火は少し頽(すた)れた。踊がもう始まつたのであらう。太皷の音は急に高くなつて、調子に合つてゐる。唄の聲も聞える。人影は次第々々にその方へながれて行く。
 提灯を十も吊した加藤醫院の前には大束の薪がまだ盛んに燃えてゐて、屋内は晝の如く明るく、玄關は開け放されてゐる。大形の染の浴衣に水色縮緬をグル/\卷いた加藤を初め、清子、藥局生、下女、皆玄關に出て往來を眺めてゐた。
『やア、皆樣お揃ひですナ。』と、加藤から先づ聲をかける。
『お涼みですか。』と吉野が言つて、一行はゾロ/\と玄關に寄つた。
『Guten(グーテン)[#「Guten」は底本では「Cuten」] Abend(アベンド), Herr(ヘル) Yosino(ヨシノ)! ハハヽヽヽ。』と、近頃通信教授で習つてるといふ獨逸語を使つて、加藤は肥つた體を搖ぶる、晩酌の後で殊更機嫌が可いと見える。
『さ、まァお上りなさい、屹度被來(いらつしや)ると思つたからチャンと御馳走が出來てます。』
『それは恐れ入つた。ハハヽヽ。』
 傍では、靜子が兄の事を訊いてゐる。
『先刻一寸被行(いらつしや)つてよ。晩にまた來ると被仰つて直ぐお歸りになりましたわ。』と清子が言つた。
『うん、然(さ)う/\。』と加藤が言つた。
『吉野さん、愈々盆が濟んだら來て頂きませう。先刻(さつき)信吾さんにお話したら夫れは可い、是非書いて貰へと被仰(おつしや)つてでしたよ。是非願ひませう。』
『小川君にお話しなすつたですか! 僕は何日(いつ)でも可いんですがね。』
『眞箇(ほんと)に、小川さんに被居(いらつしや)るよりは御不自由で被居(いらつしや)いませうが、お書き下さるうちだけ是非何卒(どうぞ)……』と清子も口を添へる。そして靜子の方を向いて、
『あの、何ですの、宅(うち)があの阿母樣の肖像を是非吉野さんに書いて頂きたいと申すんで、それで、お書き下さる間、宅に被行つて頂(いただ)きたいんですの。』
『大丈夫、靜子さん。』と加藤が口を出す。
『お客樣を横取りする譯ぢやないんです。一週間許り吉野さんを拜借したいんで……直ぐお返ししますよ。』
『ホヽヽ、左樣で御座いますか!』と愛相よく言つたものゝ、靜子の心は無論それを喜ばなかつた。
 吉野は無理矢理に加藤に引張り込まれた。女連(をんなづれ)は霎時(しばらく)其處に腰を掛けてゐたが、軈て清子も一緒になつて出た。
 町の丁度中程の大きい造酒家の前には、往來に盛んに篝火を焚いて、其周圍、街道なりに楕圓形な輪を作つて、踊が始まつてゐる。輪の内外には澤山の見物。太皷は四挺、踊子は男女、子供らも交つて、まだ始まりだから五六十人位である。太皷に伴れて、手振り足振り面白く歌つて□る踊には、今の世ならぬ古色がある。揃ひの浴衣に花笠を被(かぶ)つた娘等もある。編笠に顏を隱して、醉つた身振りの可笑しく、唄も歌はず踊り行く男もある。月は既に高く昇つて、樂し氣に此群を照した。女連は、睦し氣に語りつ笑ひつし乍ら踊を見てゐた。
 と、輕く智惠子の肩を叩いた者があつた。靜子清子が少し離れて誰やら年揩フ女と挨拶してる時。

      四

 振向くと、何時醫院から出て來たか吉野が立つてゐる。
『あら!』と智惠子は恁(か)う小聲に言つて、若い血が顏に上つた。何がなしに體の加減が良くないので、立つてゐても力が無い。幾挺の太皷の強い響きが、腹の底までも響く。――今しもその太皷打が目の前を過ぎる。
 吉野は無邪氣に笑つた。
 二人は並んで立つた、立並ぶ見物の後ろだから人の目も引かぬ。
(私ーとー)と、好い聲で一人の女が音頭を取る。それに續いた十人許りの娘共は、直ぐ聲を合せて歌ひ次いだ。――
(――お前ーはーア御門ーのーとびーらーア、朝ーにーイわかーれーてエ、ー晩に逢ふ――)
 同じ樣な花笠に新しい浴衣、淡紅色メリンスの襷を端長く背に結んだ其娘共の中に、一人、背の低い肥つたのがあつて、高音中音(ソプランアルト)の冴えた唄に際立つ次中音(テノル)の調子を交へた。それが態と道化た手振りをして踊る。見物は皆笑ふ。
 ドヽドンと、先頭の太皷が合(あひ)を入れた。續いた太皷が皆それを遣る。調子を代へる合圖だ。踊の輪は淀んで唄が止む、下駄の音がゾロ/\と縺れる。
(ドヾドコドン、ドコドン――)と新しく太皷が鳴り出す。――ヨサレ節といふのがこれで。――淀んだ輪がまたそれに合せて踊り始める。何處やらで調子はづれた高い男の聲が、最先に唄つた――
(ヨサレー茶屋のかーア、花染ーの――たす――き――イ――)
『面白いですねえ。』と、吉野は智惠子を振返つた。『宛然(まるで)古代(むかし)に歸つた樣な氣持ぢやありませんか!』
『えゝ。』智惠子は踊にも唄にも心を留めなかつた樣に、何か深い考へに落ちた態(さま)で惱まし氣に立つてゐた。
 と見た吉野は、『貴女(あなた)何處かまだ惡いんぢやないんですか? お體(からだ)の加減が。』
『否(いゝえ)、たゞ少し……』
 俄かに見物が笑ひどよめく。今しも破蚊帳を法衣(ころも)の樣に纏つて、顏を眞黒に染めた一人の背の高い男が、經文の眞似をしながら巫山戯(ふざけ)て踊り過ぎるところで。
『吉野さん!』智惠子は思ひ切つた樣に恁(か)う囁いた。
『何です?』
『あの……』と、眤(ぢつ)と俯向(うつむ)いた儘で、『私今日、あの、困つた事を致しました!』
『……何です、困つた事ツて?』
 智惠子は不圖顏を上げて、何か辛さうに男を仰いだ。
『あの、私小川さんを憤(おこ)らして歸してよ。』
『小川を□ 怎(ど)うしたんです?』
『そして、瞭然(きつぱり)言つて了ひましたの。……貴方には甚□(どんな)に御迷惑だらうと思つて、後で私……』
『解りました、智惠子さん!』恁う言つて、吉野は強く女の手を握つた。『然(さ)うでしたか!』と、がつしりした肩を落す。
 智惠子はグンと胸が迫つた。と同時に、腹の中が空虚になつた樣でフラ/\とする。で男の手を放して人々の後に蹲(しやが)んだ。
 目の前には眞黒な幾本の足、彼方の篝火がその間から見える。――智惠子は深い谷底に一人落ちた樣な氣がして涙が溢れた。
『あら、先刻(さつき)から被來(いらし)つて?』と後ろに靜子の聲がした。
 吉野の足は一二尺動いた。
『今來た許りです。』
『然(さ)うですか! 兄は怎(ど)うしたんでせう、今方々探したんですけれど。』
『學校ですよ、屹度。』と清子が傍から言ふ。
『オヤ、日向さんは?』と、靜子は周圍を見□す。
 智惠子は立ち上つた。
『此處にゐらしつたわ!』
『立つてると何だかフラ/\して、私蹲(しやが)んでゐましたの、先刻(さつき)から。』
『然(さ)う! まだお惡いんぢやなくつて。』と靜子は思ひ遣り深い調子で言つた。そして(惡いところをお誘ひしたわねえ)(家へ歸つてお寢みなすつては?)と、同時に胸に浮んだ二つの言葉は、何を憚つてか言はずに了つた。
『何處かお惡くつて?』と、清子は醫師の妻。
『否(いゝえ)、少し……も少し見たら私歸りますわ。』

      五

 さうしてる間にも、清子は嫁の身の二三度家へ行つて見て來た。その度、吉野に來て一杯飮めと加藤の言傳(ことづ)てを傳へた。
 信吾は來ない。
 月は高く昇つた。其處此處の部落から集つて來て、太皷は十二三挺に増えた。笛も三人許り加つた。踊の輪は長く/\街路なりに楕圓形になつて、その人數は二百人近くもあらう。男女、事々しく裝つたのもあれば、平常服(ふだんぎ)に白手拭の頬冠(ほゝかむり)をしたのもある。十歳位の子供から、醉の紛れの腰の曲つたお婆さんに至るまで、夜の更け手足の疲れるも知らで踊る。人垣を作つた見物は何時しか少くなつた。――何れも皆踊の輪に加つたので――二箇所の篝火は赤々と燃えに燃える。
 月は高く昇つた。
 強い太皷の響き、調子揃つた足擦れの音、華やかな、古風な、老も若きも戀の歌を歌つてゐる此境地から、不圖目を上げて其靜かな月を仰いだ心持は、何人も生涯に幾度となく思浮べて、飽かずも其甘い悲哀に醉はうとするところであらう。――殊にも此夜の智惠子は思ふ人と共にゐる樂みと、體内(みうち)の病苦と、唆る樣な素朴な烈しい戀の歌と、そして、何がなき頼りなさに心が亂れて、その沈んで行く氣持を強い太皷の響に掻き亂される樣に感じながら、踊りには左程の興もなく、心持眉を顰めては眤と月を仰いでゐた。
 怒りと嘲りを浮べた信吾の顏が、時々胸に浮んだ。智惠子は、今日その信吾の厚かましくも言ひ出でた戀を、小氣味よく拒絶して了つたのだ。
 立つたり蹲(しやが)んだりしてる間に、何がなしに腹が脹つて來て、一二度輕く嘔吐を催すやうな氣分にもなつた。早く歸つて寢よう、と幾度か思つた。が、この歡樂の境地に――否、靜子と共に吉野を一人置いて行くことが、矢張り快くなかつた。居たとて別に話――智惠子は今日の出來事を詳しく話したかつた――をする機會もないが、矢張り一寸でも長く男と一緒にゐたかつた。
 軈て、下腹の底が少しづゝ痺(しび)れる樣に痛み出した。それが段々烈しくなつて來る。
 隙を見て、智惠子は思ひ切つてつと男の傍へ寄つた。
『私、お先に歸ります。』
『其□に惡くなりましたか?』
『少し……少しですけれどもお腹がまた痛んでくる樣ですから。』
『可けませんねえ! 怎(ど)うです加藤さんに被行(いらし)つたら?』
『否、ホンの少しですから……あの、明日でも彼來(いらし)つて下さいませんか? 何卒(どうぞ)。』
『行きます、是非。』と言つて、吉野は強く女の手を握つた。女も握り返した。
『好い月ですわねえ!』
 智惠子は猶去り難げに恁(か)う言つた。そして、皆にも挨拶して一人宿の方へ歸つてゆく。月を浴びた其後姿を、吉野は少し群から離れた所に蹲(しやが)んで、遠く見送つてゐた。
 智惠子は痛む腹に力を入れて、堅く齒を喰縛りながら、幾回か後ろを振返つた。町の賑ひは踊の場所に集つて、十間離れたらもう人一人ゐない。霜の置いたかと許り明るい月光に、所々樺火の跡が黒く殘つて、軒々の提灯や行燈は半ば消えた。
 天心の月は、智惠子の影を短く地に印した。太皷の音と何十人の唄聲とは、その月までも屆くかと、風なき空に漂うてゆく。――華やかな舞樂の場から唯一人歸る智惠子は、急に己が宿が厭になつた。
 と言つて、足は矢張り宿の方へ動く。送つて來てくれぬ男を怨めしくも思つた。あの人が東京へ歸ると、屹度今夜のことを手紙に書いて寄越すだらうと思つた。そして、二人の間に取交された約束が、唯一生忘るまいといふ事だけなのを思つて、智惠子は今夜といふ今夜、初めて切實に、それだけでは物足らぬことを感じた。智惠子も女である。力強き男の腕に抱かれたら、あはれ、腹の痛みも忘れようものを!
 二町許り來る、と智惠子は俄かに足を早めた。不圖、怺(こら)へきれぬ程に便氣を催して來たので。

      六 

 程なく吉野や靜子等も歸路に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智惠子の病氣の氣に懸らぬではないが、寄つて見る譯にも行かぬ。
 それから小一時間も經つた。
 富江の宿の裏口が開いて、月影明るい中へヒョクリと信吾が出た。續いて富江も出た。
『好い月!』恁(か)う富江が言つた。信吾は自ら嘲る樣な笑ひを浮べて、些(ち)と空を仰いだが別に興を催した風もない。ハヽヽと輕く笑つた。
 太皷の響と唄の聲が聞える、四邊(あたり)は森として、何處やらで馬の強く立髮を振る音。
『一寸、其□(そんな)に濟まさなくたつて可いわよ。』
『疲れた!』と、信吾は低く呟く樣に言つた。
『マ酷(ひど)い! 散々人を虐(いぢ)めて置いて。』
『ハヽヽ。ぢや左樣なら!』
『一寸々々、眞箇(ほんと)よ明日の晩も。』
『ハヽヽ。』と男は又妙に笑つてスタ/\と歩き出す。富江は家へ入つた。
 人なき裏路を自棄(やけ)に急ぎながら、信吾は淺猿しき自嘲の念を制することが出來なかつた。少し下向いた其顏は不愉快に堪へぬと言つた樣に曇つた。
『莫迦!』と聲を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。
 信吾の心が生れてから今日一日ほど動搖した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智惠子を訪うと、初めは盛んに氣焔を吐いた。現代の學者を糞味噌に罵倒し盡し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚□(どんな)話の機會からか、智惠子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤(ぢつ)と俯向(うつむ)いてゐた。
 最後に信吾は言つた。
『智惠子さん、貴女は哀れな僕の述懷を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』
『…………』
『智惠子さん!』と、情が迫つた樣に聲を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智惠子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可(い)いと許して頂けば可いんです、それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……。』
『小川さん!』と女は屹(きつ)と顏をあげた。其顏は眉毛一本動かなかつた。『私の樣なものゝことを然(さ)う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』
『は□』
『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない樣にお願ひします。』
 信吾は眤(ぢつ)と腕を組んだ。
『失禮な事を申す樣ですが……』
『ウ、……何故でせう?』
『……別に理由はありませんけれど……。』
『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、さも落膽(がつかり)した樣に言つて、『然しです、何か理由が、然う被仰(おつしや)るからには有らうぢやありませんか? それを話して戴く譯にはいかないんですか?』
『…………』
『智惠子さん! ぼくがこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお斷りになるとは餘りです、餘りに侮辱です。』
『ですけれど……』
『そんならです。』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇の前にでも出た樣に言つた。其眼は物凄く輝いた。
『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智惠子さん、怎(ど)うでせう、聞かして下さいますか?』
『……私の知つてをります事ならそれは……』
『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳かした。『話は全然別の事です。僕は僕の一切を犧牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』
 智惠子は胸を刺されたやうにピクリとした。然し一寸も動かなかつた。顏色も變へなかつた。
『怎(ど)うです。』と男は更に突込んだ。『貴女は僕の祝ひを享けて下さいますか、それを聞かして下さい。』
『…………』
『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての眞心からお二人の爲に祝ひます。怎(ど)うです、享けて下さいますか?』
『…………』
『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。
 智惠子の顏はクワッと許り紅くなつた。そして、『有難う御座います。』と明かに言放つた。

      七

 智惠子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何かしら弱い者を虐めてやつた時の樣な思ひに亂れてゐた。恁(か)うなると彼は、今日自分の遣つた事は、豫じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に嵌つて智惠子に自白さしたかの樣に考へる。我と我を輕蔑(さげす)まうとする心を、強ひて其□(そんな)風に考へて抑へて見た。
 信吾は、成るべく平靜な態度をして、その足で直ぐ加藤醫院を訪ね、學校を訪ねた。彼は夕方までに歸つて、吉野や妹共と一緒に踊を見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。
 其時の信吾は、平常よりも餘程機嫌が好い樣に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる樣な氣がして來て、心にも無い事を一口言へば一口言ふ丈、胸が苛立(いらだ)つて來る。高い笑聲を殘して、彼は遂に學校から飛び出した。
 もう日暮近い頃であつた。
 自嘲の念は烈しく頭を亂した。何故那□事をいつたらう? 莫迦な、もう智惠子の顏を見ることが出來なくなつた! と彼は悔いた。何故もつと早く、――吉野の來ないうちに言はなかつたらう□
『畜生奴! 到頭白状させてやつた。』恁(か)う彼は口に出して言つて見た。が、矢張り彼は女から享けた拒絶の耻辱を、全く打消すことが出來なかつた。よし彼女を免職させる樣にしてやらうか! 否、それよりは何うかして吉野を追拂はう!
 彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋まで、國道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら歸るともなく歸つて來た。が、彼は人に顏を見られたくない。町端れから又引返して、今度は舊國道を門前寺村の方へ辿つた。
 月が昇つた。
 途斷れ/\に、町へ來る近村の男女に會つた。彼は然しそれに氣がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思ひ出してゐた。
『何有(なあに)! 知らん顏をしてゐればそれで濟む。豈夫智惠子が言ひは爲(し)まい。』と彼は少し落着いて來た。
『然し。』と彼は又しても吉野が憎くなる。『あの野郎奴、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがたつた!』
 信吾の憤りは再發した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思ひ出して、遂に、頭髮を掻き□りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステッキを強く揮つて、自暴(やけ)にヒュゥと空氣を切つた。
『信吾さん!』と女の聲。彼は驚いた樣に顏を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近づいて來る。草履を穿いてるのか足音がしない。
『信吾さん!』と富江は又呼んだ。
『あ、神山さんでしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。
『まア、何處へ被行(いらつしや)るの?』
 答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴(やけ)に體を向直した。
『ハハヽヽ。何處へ行つたんです貴女こそ?』
『生徒の家へ招待(よば)れて、門前寺の……一人で散歩するなんて氣が利かないぢやありませんか、貴方は!』
『貴女だつて一人ぢやないか!』
『ホヽヽ、どうして智惠子樣(さん)を誘つて上げなかつたの?』
『莫迦(ばか)な!』
『あら、月夜の散歩にはハイカラさんの手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか? 眞箇(ほんと)に!』
『何を言ふんです。』と信吾は苛々(いら/\)しく言つた。そして、突然富江の手を取つて、『僕は貴女の迎ひに來たんだ!』
『まア巧い事を!』と富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。
 信吾は、女の餘りに平氣なのが癪に障つた。そして、不圖怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。
 富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、『私の手なんか駄目よ、信吾さん! 女の手の樣ぢやないでせう?』
『…………』
『私は女ぢやないんですよ。』
『富江樣。』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』
『あ重い!』と言つたが逃げ樣ともせぬ。そして、急に眞面目な顏をして眤(ぢつ)と男の顏を見ながら、『眞箇よ。私石女(うまずめ)なんですもの。子供を生まない女は女ぢやないんでせう?』そして、袂を口にあてゝ急にホホヽヽと笑ひ出した。
 其夜は信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舍に詰めてゐる。主婦や子供らは踊に行つて留守であつた。
 で、彼が家へ歸つてくると、玄關の戸がもう閉(しま)つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら閾(しきい)が高い樣な氣がして、成るべく音を立てぬ樣にして入つた。

      八

 家に入つた信吾の心は、妙に臆(ひる)んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の歸路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて來た。烈しい××××××××××××しい疲勞が、今日一日の苛立(いらだ)つた彼の心を彌更に苛立たせた。
『淺猿しい、淺猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はもう此儘人知れず何處かへ行つて了ひたい樣な氣がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顏を思出すと、言ふべからざる厭惡の念が起る。そして又、段々家へ近附くにつれて、戀仇の吉野に對する自暴腹(やけつぱら)な怒りが強く發した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顏を見られたくなかつた。
 で、成るべく音立てぬ樣に縁側傳ひに自分の室に行く。家中もう寢て了つたと見えて、森としてゐた。と、離室に續く縁側に輕い足音がして、靜子が出て來た。四邊(あたり)は薄暗い。
『あら兄樣、遲かつたわねえ。何處に居たんですか、今迄?』
『何處でも可いぢやないか!』と、聲は低く、然し慳貪(けんどん)だ。
『まア!』
 信吾は、わが仇の吉野の室に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒が洪水の樣に頭に溢れた。
『貴樣こそ何處に行つてるんだ? 夜(よる)夜中人が寢て了つてから!』
 靜子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か嚴しく詰責でもされる樣で、信吾の憤怒は更に燃える。
『莫迦野郎! 何處に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ靜子を擲つた。
 靜子は矢庭に袂を顏にあてた。
『兄樣……其樣(そんな)……』
『此方へ來い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドッと突倒した。
『此畜生! 親や兄の眼を晦まして、……』
『わツ。』と靜子は倒れた儘で聲をあげた。先刻町から歸つてから、待てども/\兄が歸らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者との話の成行(なりゆき)が氣にかゝつた。自分から聞かれる事でもなく、手頼るは兄の信吾、その信吾が今日媒介者(なかうど)が來たも知らずにゐると思ふと、もう心配で/\堪らなくなつて、今も密(そつ)と吉野の室に行つて、その歸りの遲きを何の爲かと話してゐたのである。
 靜子は故なき兄の疑ひと怒が、口惜しい、恨めしい、辯解をしようにも喉が塞つて、たゞ堅く/\袖を噛んだが、それでも泣き聲が洩れる。
『莫迦野郎!』と、信吾は又しても唸る樣に言つて、下唇を喰縛り、堅めた兩の拳をブルブル顫はせて、恐しい顏をして突立つてゐる。
 靜子は死んだ樣に動かない。
『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴樣はもう松原に遣(や)る。貴樣みたいなものを家に置くと、何をするか知れない。』
『マ。』と言つて、靜子はガバと起きた。『兄樣……其松原から今日人が來て……それで……』
 手荒く襖が開いて、次の間に寢てゐる志郎と昌作が入つて來た。
『怎(ど)うしたんだい兄樣(さん)?』
『默れ!』と信吾は怒鳴つた。『默れ! 貴樣らの知つた事か。』
 そして、亂暴に靜子を蹴る、靜子は又ドタリと倒れて、先よりも高くわツと泣く。
『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて來た。『何だ? 夜更(よふけ)まで歩いて來て信吾は又何を其□に騷ぐのだ?』
『糞ツ。』と云ひさま、信吾は又靜子を蹴る。
『何をするッ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。
『何をするツ、貴樣らこそ。』と、信吾はもう無中に咆り立つて、突然志郎と昌作を薙倒す。
『こらツ』と父も聲を勵して、信吾の肩を掴んだ。『何莫迦をするのだ! 靜は那方(あつち)へ行け!』
『糞ツ。』と許り、信吾は其手を拂つて手負猪の樣な勢ひで昌作に組みつく。
『貴樣、何故俺を抑へた□』
『兄樣!』
『信吾ツ!』
 ドタバタと騷ぐ其音を聞いて、別室の媒介者(なかうど)も離室の吉野も驅けつけた。帶せぬ寢卷の前を押へて母のお柳も來る。
『畜生! 畜生!』と信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。

   其十二

 智惠子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から歸つてから、夜一夜苦しみ明した。お利代が寢ずに看護してくれて、腹を擦つたり、温めたタオルで罨法(あんぽふ)を施(や)つたりした。トロ/\と交睫(まどろ)むと、すぐ烈しい便氣の塞迫と腹痛に目が覺める。翌朝の四時までに都合十三回も便所に立つた。が、別に通じがあるのではない。
 夜が清々(すが/\)と明放れた頃には、智惠子はもう一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外(そと)にある。お利代が醫者に驅附けた後、智惠子は怺(こら)へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を傳つて危(あぶ)な氣に下駄を穿(つゝ)かけたが、歸つて來てそれを脱ぐと、もう立つてる勢ひがなかつた。で、臺所の板敷を辛(やつ)と這つて來たが、室に入ると、布團の裾に倒れて了つた。抉られる樣に腹が痛む。子供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓際の机の上にはまだ洋燈(ランプ)が曚然(ぼんやり)點(とも)つてゐた。
 智惠子は堅く目を瞑つて、幽かに唸りながら、不圖、今し方戸外へ出た時まだ日の出前の水の樣な朝光(あさかげ)が、快く流れてゐた事を思ひ出した。
「もう夜が明けた。」と覺束なく考へると、自分は何日からとも知れず、長い/\間恁(か)うして苦しんでゐた樣な氣がする。程經てから前夜の事が思ひ出された。それも然し、ずつとずつと以前の事のやうだ。
「今日あの方が來て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、もう夜が明けたのだもの!……。すると今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」
 喧しく雀が鳴く。智惠子はそれを遙(ずつ)と遠いところの事の樣に聞くともなく聞いた。
『先生……先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不圖氣がつくと、自分は其處で少し交睫(まどろ)みかけたらしい。お利代は加藤醫師を伴れて來て、心配氣な顏をして起してゐる。
『先生、まア恁□所に寢て、お醫師樣が被來(いらつしや)いましたよ。』
『まア濟みません。』然う言つてお利代に手傳はれ乍ら臥床の上に寢せられた。
 室には夜ツぴて點(つ)けておいた洋燈(ランプ)の油煙やら病人の臭氣やらがムッと籠つてゐた。お利代は洋燈(ランプ)を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髮亂れ、眼凹み、皮膚の澤(つや)なく弛んだ智惠子の顏が、もう一週間も其餘も病んでゐたものゝ樣に見えた。
 加藤は先ず概略の病状を訊いた。智惠子は痛みを怺へて問ふがまゝに答へる。
『不可(いけ)ませんなア!』と醫師は言つた。そして診察した。
 脈も體温も少し高かつた。舌は荒れて、眼が充血してゐる。そして腹を見た。

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