鳥影
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著者名:石川啄木 

   其六

      一

 靜子の縁談は、最初、隨分性急に申込んで來て、兎に角も信吾が歸つてからと返事して置いたのが、既に一月、怎うしたのか其儘になつて、何の音沙汰もない、自然、家でも忘られた樣な形勢になつてゐた。
 結句それが、靜子にとつては都合がよかつた。母のお柳が、別に何處が惡いでなくて、兎角優れぬ勝の、口小言のみ喧(やかま)しいのへ、信吾は信吾で朝晩の惣菜まで、故障を言ふ性(たち)だから、人手の多い家庭ではあるが、靜子は矢張一日何かしら用に追はれてゐる。それも一つの張合になつて、兄が歸つてからというふもの、靜子はクヨ/\物を思ふ心の暇もなかつた。
 一體この家庭には妙な空氣が籠つてゐる。隱居の勘解由(かげゆ)はもう六十の阪を越して體も弱つてゐるが、小心な、一時間も空(むだ)には過されぬと言つた性(たち)なので、小作に任せぬ家の周圍の菜園から桑畑林檎畑の手入、皆自分が手づから指揮して、朝から晩まで戸外に居るが、その後妻のお兼とお柳との仲が兎角面白くないので、同じ家に居ながらも、信之親子と祖父母や其子等(信之には兄弟なのだが)とは、宛然(さながら)他人の樣に疎々(うと/\)しい。一家顏を合せるのは食事の時だけなのだ。
 それに父の信之は、村方の肝煎(きもいり)から諸附合、家にゐることとては夜だけなのだ。從つて、癇癪持のお柳が一家の權を握つて、其一顰(ぴん)一笑(せう)が家の中を明るくし又暗くする。見やう見まねで靜子の二人の妹――十三の春子に十一の芳子、まだ七歳にしかならぬ三男の雄三といふのまで、祖父母や昌作、その姉で年中病床にゐるお千世などを輕蔑する。其□(そんな)間に立つてゐる温なしい靜子には、それ相應に氣苦勞の絶えることがない。實際、信吾でも歸つて色々な話をしてくれたり、來客でもなければ、何の樂みもないのだ。尤も、靜子は譬へ甚□(どんな)事があつても、自分で自分の境遇に反抗し得る樣な氣の強い女ではないのだが。
 畫家の吉野滿太郎が來たのは、又しても靜子に一つの張合を増した。吉野の、何處か無愛相な、それでゐてソツのない態度は、先づ家中の人に喜ばれた。左程長くはないが、信吾とは隨分親密な間柄で(尤も吉野は信吾を寧ろ弟の樣に思つてるので)この春は一緒に畿内の方へ旅もした。今度はまた信吾の勸めで一夏を友の家に過す積りの、定つた職業とてもない、暢氣(のんき)な身上なのだ。
 言ふまでもなく信吾は、この遠來の友を迎へて喜んだ。それで取敢へず離室(はなれ)の八疊間を吉野の室に充てゝ、自分は母屋(おもや)の奧座敷に机を移した。吉野と兄の室の掃除は、下女の手傳もなく主に靜子がする。兎角、若い女は若い男の用を足すのが嬉しいもので。
 それ許りではない、靜子にはも一つ吉野に對して好感情を持つべき理由があつた。初めて逢つた時それは氣が附いたので。吉野は顏容(かほかたち)些(ちつ)とも似ては居ないが、その笑ふ時の目尻の皺が、怎うやら、死んだ浩一――靜子の許嫁――を思ひ出させた。
 生憎と、吉野の來た翌日から、雨が續いた。それで、客も來ず、出懸ける譯にもいかず、二日目三日目となつては吉野も大分退屈をしたが、お蔭で小川の家庭の樣子などが解つた。昌作も鮎釣にも出られず、日に幾度となく吉野の室を見舞つて色々な話を聞いたが、畫の事と限らず、詩の話、歌の話、昌作の平生飢ゑてる樣な話が多いので、もう早速吉野に敬服して了つた。
 降りこめた雨が三十一日(七月)の朝になつて漸く霽(あが)つた。と、吉野は、買物旁々、舊友に逢つて來ると言つて、其日の午後、一人盛岡に行くことになつた。

      二

 雨後の葉月空が心地よく晴れ渡つて、目を埋むる好摩(かうま)が原の青草は、緑の火の燃ゆるかと許り生々とした。
 小川の家では折角下男に送らせようと言つて呉れたのを斷つて、教へられた儘の線路傳ひ、手には洋杖(ステッキ)の外に何も持たぬ背廣扮裝(いでたち)の輕々しさ、畫家の吉野は今しも唯一人好摩停車場に辿り着いた。
 男神の如き岩手山と、名も姿も優しき姫神山に挾まれて、空には塵一筋浮べず、溢るゝ許りの夏の光を漂はせて北上川の上流に跨つた自然の若々しさは、旅慣れた身ながらも、吉野の眼には新しかつた。その色彩の單純なだけに、心は何となき輕快を覺え、唆かす樣な草葉の香りを胸深く吸つては、常になき健康を感じた。日頃、彼の頭腦を支配してゐる種々の形象と種々の色彩の混雜(こんがらが)つた樣な、何がなしに氣を焦立(いらだ)たせる重い壓迫も、彼の老ゆることなき空の色に吸ひ取られた樣で、彼は宛然(さながら)、二十前後の青年の樣な足取で、ついと停車場の待合所に入つた。
 眩い許りの戸外の明るさに慣れた眼には、人一人居ない此室の暗さは土窟にでも入つた樣で、暫しは何物も見えず、ぐら/\と眩暈(めまひ)がしさうになつたので、吉野は思はず知らず洋杖に力を入れて身を支へた。手巾を出して顏の汗を拭き乍ら、衣嚢(ポケット)の銀時計を見ると、四時幾分と聞いた發車時刻にもう間がない。急いで盛岡行の赤切符を買つて改札口へ出ると、
『向側からお乘りなさい。』
と教へ乍ら背の低い驛夫が鋏を入れる。チラと其時、向側のプラットホームに葡萄茶(えびちや)の袴を穿いた若い女の立つてゐるのが目についた。それは日向智惠子であつた。
 智惠子の方でも其時は氣が附いて居たが、三四日前に橋の上で逢つた限り、名も知り顏も知れど、口一つ利いたではなし、さればと言つて、乘客と言つては自分と其男と唯二人、隱るべき樣もないので、素知らぬ振も爲難い。夏中逗留するといへば、怎うせ又顏を合せなければならぬのだ。
 それで、吉野が線路を横切つて來るのを待つて、少し顏を染め乍ら輕くS卷の頭を下げて會釋した。
『や、意外な處でお目に懸ります。』と餘り偶然な邂逅を吉野も少し驚いたらしい。
『先日は失禮致しました。』
『怎うしまして、私こそ……。』と、脱(と)つた帽子の飾紐(リボン)に切符を□みながら、『フム、小川の所謂近世的婦人(モダーンウーマン)が此女(ひと)なのだ!』と心に思(おも)つた。
 そして、體を捻つて智惠子に向ひ合つて、『後で靜子さんから承つたんですが、貴女は日向さんと被仰(おつしや)るんですね?』
『は、左樣で御座います。』
『何れお目に懸る機會も有るだらうと思つてましたが、僕は吉野と申します。小川に居候に參つたんで。』
『お噂は、豫て靜子さんから承つて居りました。』
『來たよう。』と驛夫が向側で叫んだので、二人共目を轉じて線路の末を眺めると、遠く機關車の前部が見えて、何やらキラ/\と日に光る。
『今日は何處(どちら)まで?』
『盛岡までゝ御座います。』
『成程、學校は明日から休暇なさうですね。何ですか、お家は盛岡で?』
『否(いゝえ)。』と智惠子は愼しげに男の顏を見た。『學校に居りました頃からの同級會が、明後日大澤の温泉に開かれますので、それであの、盛岡のお友達をお誘ひする約束が御座いまして。』
『然うですか。それはお樂しみで御座いませう。』と鷹揚に微笑を浮べた。
『貴方は何處(どちら)へ?』
『矢張りその盛岡までゝす。』
 吉野は不圖、自分が平生(いつ)になく流暢に喋つてゐたことに氣が附いた。
 列車が着くと、これは青森上野間の直行なので車内は大分込んでゐる。二人の外には乘る者も、降りる者もない。漸くの事で、最後の三等車に少しの空席を見附けて乘込むと、その扉を閉め乍ら車掌が號笛(ふえ)を吹く。慌しく汽笛が鳴つて、ガタリと列車が動き出すと、智惠子はヨロヨロと足場を失つて思はず吉野に凭(よ)り掛(かゝ)つた。

      三

 吉野は窓際へ、直ぐ隣つて智惠子が腰を掛けたが、少し體を動かしても互いの體温を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動――紹介もなしに男と話をした事――が、はしたない樣な、否、はしたなく見られた樣な氣がして、「だつて、那□(あんな)切懸(きつかけ)だつたんだもの。」と心で辯疏(いひわけ)して見ても、怎(どう)やら氣が落着かない。乘合の人々からジロ/\顏を見られるので、仄(ほんの)りと上氣してゐた。
 北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右に袖を擴げた樣に東の空に連つた。車窓の前を野が走り木立が走る。時々、夥しい草葉の蒸香(いきれ)が風と共に入つて來る。
 程なく列車が轟と音を立てゝ松川の鐵橋に差かゝると、窓外を眺めて默つてゐた吉野は、『あ、あれが小川の家ですね。』
と言つて窓から首を出した。線路から一町程離れて、大きい茅葺の家、その周圍に四五軒農家のある――それが川崎の小川家なのだ。
 首を出した吉野は、直ぐと振返つて、
『小川の令妹(シスタア)が出てますよ。』
『あら。』と言つて、智惠子も立つたが、怎う思つてか、外から見られぬ樣に、男の後ろに身を隱して、そつと覗いて見た。
 靜子は妹共と一緒に田の中の畦道(あぜみち)に立つて、手巾(ハンカチ)を振つてゐる。妹共は何か叫んでるらしいが、無論それは聞えない。智惠子は無性に心が騷いだ。
 帽子を振つてゐた吉野が、再び腰を掛けた時は、智惠子は耳の根まで紅くして極り惡る氣に俯向いてゐた。靜子の行動が、偶然か、はた心あつて見送つたものか、はた又吉野と申合せての事か、それは解らないが、何れにしても智惠子の心には、萬一自分が男と一緒に乘つてゐる事を、友に見られはしないかといふ心配が、強く動悸を打つた。吉野はその、極り惡る氣な樣子を見て、『小川の所謂近代的婦人(モダーンウーマン)も案外初心(うぶ)だ!』と思つたかも知れない。
 その實男も、先刻汽車に乘つた時から、妙に此女と體を密接してゐることに壓迫を感じてゐるので、それを紛(まぎ)らかさうとして、何か話を始め樣としたが、兎角、言葉が喉に塞(つま)る。其□(そんな)筈はないと自分で制しながらも、斷々(きれ/″\)に、信吾が此女を莫迦(ばか)に讃めてゐた事、自分がそれを兎や角冷かした事を思出してゐたが、腰を掛けるを切懸(きつかけ)に、
『貴女は、何日お歸りになります?』と何氣なく口を切つた。
『三日に、あの歸らうと思つてます。』
『然うですか。』
『貴方は?』
『僕は何日でも可いんですが、矢張り三日頃になるかも知れません。』と言つたが不圖思ひついた事がある樣に、
『貴女は盛岡の中學に圖畫の教師をしてる男を御存じありませんか? 渡邊金之助といふ?』
『存じて居ります。』と、智惠子は驚いた樣な顏をする。
『貴方(あなた)はあの、あの方と同じ學校を……?』
『然うです。美術學校で同級だつたんですが、……あゝ御存知ですか! 然うですか!』と鷹揚(おうやう)に頷(うなづ)いて、『甚□(どんな)で居るんでせう? まだ結婚しないでせうか?』
『え、まだ爲(な)さらない樣ですが。』と、□つた眼を男に注いで、『貴方はあの、渡邊さんへ被行(いらつしや)るんで御座いますか。』
『え、突然訪ねて見ようと思ふんですがね。』と、少し腑に落ちぬ樣な目附をする。
『まあ、左樣で御座いますか!』と一層驚いて、『私もあの、其家(そこ)へ參りますので……渡邊さんの妹樣(さん)と私と、矢張り同じ級(クラス)で御座いまして。』
『妹樣と? 然うですか! これは不思議だ!』と吉野も流石に驚いた。
『あの、久子さんと被仰(おつしや)います……。』
『然うですか! ぢや何ですね、貴女と僕と同じ家に行くんで! これは驚いた。』
『マア眞箇(ほんと)に!』と言ひ乍ら、智惠子は忽ち或る不安に襲はれた。靜子の事が心に浮んだので。


   第七

      一

 宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣に出懸けた。
 休暇になつてからの學校ほど伽藍堂(がらんどう)[#「伽藍堂」は底本では「伽籃堂」]に寂しいものはない。建物が大きいのと平生耳を聾する樣な喧騷に充ちてるのとで、日一日、人ツ子一人來ないとなると、俄かに荒れはてた樣な氣がする。常には目立たぬ塵埃が際立つて目につく。職員室の卓子の上も、硯箱や帳簿やら、皆取片附けられて了つて、其上に薄く塵が落ちた。
 懶いチクタクの音を響かせてゐる柱時計の下で、富江は森川の歸りを待つ間の退屈に額に汗をかきながら編物をしてゐた。暑い盛りの午後二時過、開け放した窓から時々戸外を眺めるが、烈々たる夏の日は目も痛む程で、うなだれた木の葉にそよとの風もなく、大人は山に、子供らは皆川に行つた頃だから、四邊が妙に靜まり返つてゐる。其處へブラリと昌作が、遣つて來た。
『暑いでせう外は。先刻(さつき)から眠くなつて/\爲樣(しやう)のないところだつたの。』と富江は椅子を薦(すゝ)める。年下の弟でも遇(あし)らふ樣な素振りだ。
 それに慣れて了つて、昌作も挨拶するでもなく、『暑い暑い』と帽子も冠らずに來た髮のモヂャ/\した頭に手を遣つて、荒い白絣の袖を肩に捲(まく)り上げた儘腰を下した。
『森川君は?』
『鮎釣に行つたの。釣れもしないくせに。』
『すると何だな、貴女が留守役を仰附かつてゐたんだな。ハハヽヽ好い氣味だ。』
『口の惡い! 何が好い氣味なもんですか。其□(そんな)事を言ふとお茶菓子を買ひませんよ。』と睨んで見せる。
『フム。』と昌作は妙に濟し込んで、『御勝手に。』
『まあ口許りぢやない人が惡くなつたよ、子供の癖に!』と言ひながら、手を延ばして呼鈴の綱を引いて、
『然う/\、一昨日は御馳走樣。お客樣はまだ歸つてらつしやらないの?』
『あーい。』と彼方で眠さうな聲。
『まだ。今日か明日歸るさうだ。吉野樣(さん)がゐないと俺は薩張(さつぱ)り詰らないから、今日は莫迦に暑いけれども飛出して來たんだ。』
『生憎と日向樣もまだ歸らないの。』と富江は調戲(からか)ふ眼附で青年の顏を見た。其處へ白髮頭の小使が入つて來て用を聞いたので、女は何かお菓子を買つて來いと命ずる。
『そら、到頭買うんだ。』と昌作はしたり顏。
『私が喰べるのですよ、誰が昌作さんなんかに上げるもんですか。』と減(へ)らず口を叩(たゝ)いて、
『よ、昌作さん、ハイカラの智惠子さんもまだ歸らないの。』
『フム。』
『何がフムですか。昌作さんの歌を大變賞めてるから、行つて御禮を被仰(おつしやい)よ。』
『フム。家の信吾ぢやないし。』
『え? 信吾さんが?』
『知らない。』
『信吾さんが行くの? マア好い事聞いた。ホホヽヽヽヽ、マア好い事聞いた。』
と、富江は彈(はじ)けた樣に一人で騷いで、
『マア好い事聞いた、信吾さんが智惠子さんの許(とこ)へ行くの。今度逢つたらうんと揶揄(からか)つて上げよう。ホホヽヽ。』
 昌作は冷かに其顏を眺めてゐたが、
『可けない/\。其□(そんな)話、吉野さんの前なんかで言つちや可けませんぞ。』
『あら、怎(ど)うして?』と忙しい眼づかひをする。
『だつて、詰らないぢやないですか。』
『詰らない? 言ひますよ私。』
『詰らない! 第一吉野さんの前で其□事が言へますか? 豪い人だ。信吾の友達には全く惜しい人だ。』
『まあ、大層見識が高くなつたのね?』
 すると昌作は、忽ち不快な顏をして默つた。
『其□に豪いの、その方は?』
『時にですな、』と昌作は附かぬ事を言ひ出した。『今日は貴女に用を頼まれて來たんだ。』
『オヤ、誰方から?』
 其時小使が駄菓子の袋を恭しく持つて入つて來た。

      二

『當てゝ御覽なさい。』と昌作はしたり顏に拗(す)ねる。
 其顏を、富江はマジ/\と見てゐたが、小使の出てゆくのを待つて、
『信吾さんから?』
 ピクリと昌作の眉が動いた。そして眼鏡の中で急しく瞬きをし乍ら顏を大きく横に振る。
『そんなら、誰方?』
『無論、貴女の知つた人からだ。』と小憎らしく濟したものだ。
『懊(じれ)つたい!』と自暴(やけ)に體を顫はせて、
『よ、誰方(どなた)からつてばさ。』
『ハッハハ、解りませんか?』と、何處までも高く踏んで出る。
『好いわ、もう聞かなくつても。』
『それぢや俺が困る。實はですね。』
『知りません。』
『登記所の山内君からだ。以前貴女から「戀愛詩評釋」といふ書を借りたことがあるさうだ。それを又讀みたいから俺に借りて來て呉れと言ふんですがね。』
『オヤ、何故御自分で被來(いらつしや)らないでせう?』
『だつて寢てるんだもの。』
『ぢやもう、床に就いたの?』と低めに言つて、胡散(うさん)臭い眼附をする。
『一昨日俺と鮎釣に行つて、夕立に會つたんですよ。それで以て山内は弱いから風邪を引いたんだ。』
『あら昌作さん、山内さんは肺病だつたんぢや有りませんか?』
『肺病?』と正直に驚いた顏をしたが『嘘だ!』
『嘘なもんですか。始終(しよつちう)那□(あんな)妙な咳をしてゐたぢやありませんか。……加藤さんがそ言つてるんですもの。』
『肺病だと?』
『え。』と氣がさした樣に聲を落して、『だけど私が言つたなんか言つちや厭よ。よ、昌作さん貴方も傳染(うつ)らない樣に用心なさいよ。』
『莫迦な! 山内は那□(あんな)小さい體をしてるもんだから、皆で色々な事を言ふんだ。俺だつて咳はする――。』
『馬の樣な咳を。ホホヽヽ。』と富江は笑つて、『誰がまた、那□一寸法師さんを一人前の人待遇(あつかひ)にするもんですか。』
 そして取つて附けた樣にホホヽヽと又笑つた。
『だから不可(いけ)ない。』と昌作は錆びた聲に力を入れて、『體の大小によつて人を輕重するといふ法はない。眞箇に俺は憤慨する。家の奴等も皆然(さ)うだ。』
『然(さ)うでないのは日向のハイカラさん許りでせう!』
 昌作は聞かぬ振をして、『英吉利の詩人にポープといふ人が有つた。その詩人は、佝僂(せむし)で跛足(びつこ)だつたさうだ。人物の大小は體に關らないさ。』と、三文雜誌でゞも讀んだらしい事を豪さうに喋る。
『大層力んで見せるのね。だけれど山内樣は別に大詩人でもないぢやありませんか?』
『それは別問題だ。……』と正直に塞つて、『それは然うと、今言つた書を貸して下さい。』
『家に置いてあるの。』
『小使を遣つて取寄せて呉れるさ。』と頼む樣な調子で。
『肺病患者なんかに!』獨言つ樣に言つて、『あのね、昌作さん。』と可笑しさを怺(こら)へた樣な眼附をする。『恁(か)う言つて下さいな山内さんに。あのね、評釋なんか無くつて解るぢやありませんかつて。』
『え? 何ですつて?』と昌作は眞面目に腑に落ちぬ顏をする。
『ホホヽヽヽ。』と、富江は一人高笑ひをした。そして『書(ほん)はね、後で誰かに屆けさせますよ。』
 一時間程經つて、昌作は、來た時の樣にブラリと、帽子も冠らず、單衣の兩袖を肩に捲くり上げて、長い體を妙に氣取つて、學校の門を出た。
 そして川崎道の曲角まで來た時、二三町彼方から、深張りの橄欖色(おりいぶいろ)の傘をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて來るのに目をつけた。『ハハア、歸つて來たナ。』と呟いて、足を淀めたが、ついと横路へ入る。
 三日前に畫家の吉野と同じ汽車に乘合せて、大澤温泉に開かれた同級會へ行つた智惠子は、今しも唯一人、町の入口まで歸つて來た。

      三

 小川家の離室(はなれ)には、畫家の吉野と信吾とが相對してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から歸つて來た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏襯衣(ちよつき)の、その鈕まで脱(はづ)して、胡座(あぐら)をかいた。
 その土産らしい西洋菓子の凾を開き茶を注(つ)いで、靜子も其處に坐つた。母屋の方では、キヤッ/\と妹共の騷ぐのが聞える。
『だからね。』と吉野は其友渡邊の噂を續けた。
『僕は中學の畫の教師なんかやるのが抑も愚だと言つて遣(や)つたんだ。奴だつて學校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙(ずつ)と常識的な男でね。靜物の寫生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友の間でも色彩の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩(なにいろ)を使つても習慣(コンベンション)を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覽會に出した風景と靜物なんか黒人(くろうと)仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴が君、遊びに來た中學生に三宅の水彩畫の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否(いや)悲しいといふよりは癪に障つたよ。何といふのかな、那□具合で到頭埋もれて了ふのを。平凡の悲劇とでも言ふかな……。』
『だつて君。』と信吾は委細呑込んだと言つた樣な顏をして、『其人にだつて家庭の事情てな事が有らあな。一年や二年中學の教師をした所で、畫才が全然滅びるつて事も無からうさ。』
『それがよ、家庭の事情なんて事がてんで可(よ)くない。生活問題は誰にしろ有るさ。然し藝術上の才能は然うは行かない。其奴が君、戰つても見ないで初めつから生活に降參するなんて、意氣地が無いやね。……とまあ言つて見たんさ、我身に引較べてね。』
『ハハヽヽ。君にも似合はんことを言ふぢやないか。』とゴロリ横になる。
 其處へ、庭に勢ひのいゝ下駄の音がして、昌作が植込の中からヒョックリと出て來た。今しも町から歸つて來たので。
『やあ、お歸りになりましたな。』と吉野に聲をかける。
『否、も少し先に。今日も貴方は鮎釣でしたか?』
『否(いゝえ)。』と無造作に答へて縁側に腰を掛けた。『吉野さん、貴方、日向さんと同じ汽車でしたらう?』
『え?』と靜子が聞耳を立てる。
『然う、然う。』と、吉野は今迄忘れてゐたと言つた樣に言つて、靜子の方に向いた。『それ、過日(こなひだ)橋の上に貴女と二人立つてゐた方ですね。あの方と今日同じ汽車に乘りましたよ。』
『あら智惠子さんと。然うでしたか! よくお解りになりましたね。』と莞爾(につこり)、何氣なく言つた。
『否(いや)その、何です、今話した渡邊の家で紹介されたんです。渡邊の妹君(シスタア)と親友なんださうで、偶然同じ家に泊つた譯なんです。』と、吉野は急しく眼をぱちつかせ乍ら、無意識に煙草に手を出す。
『オヤ然うでしたの!』
『然うかい!』と信吾も驚いて、『それは奇遇だつたな。實に不思議だ。』
『別段奇遇でも無からうがね。唯逢つただけよ。』と、吉野は顏にかゝる煙草の煙に大仰(おほぎやう)に眉を寄せる。
『昌作さんは何ですか、日向さんと逢つて來たの?』と信吾が横になつた儘で問うた。
『否(いや)。歸つて來た所を遠くから見ただけだ。』
『よつぽど遠くからね? ハヽヽ。』
 昌作はムッとした顏をして、返事はせずに、吉野の顏色を覗つた。
 然うしてる所へ、母屋の方には賑かな女の話聲。下女が前掛で手を拭きながらバタ/\驅けて來て、[#「來て、」は底本では「來て」]
『若旦那樣、お孃樣、板垣樣の叔母樣が盛岡からお出(で)アンした。』
『アラ今日被來(いらしつ)たの。明日かと思つたら。』と、靜子は吉野に會釋して怡々(いそ/\)下女の後から出て行く。
『父の妹が泊懸(とまりがけ)に來たんだ。一寸行つて會つてくるよ。』
と信吾も立つた。昌作は何時の間にか居ない。
 吉野は眉間の皺を殊更深くして、ぢつと植込の邊に瞳を据ゑてゐた。

   其八

      一

 智惠子は渡邊の家に一泊して、渡邊の妹の久子といふのと翌一日大澤の温泉に着いたのであつた。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨溪館といふ温泉宿の二階に、縣下の各地方から集つた。
 兎角女といふものは、學校にゐる時は如何に親しくしても、一度別れて了へば心ならずも疎(うと)くなり易い。それは各々の境遇が變つて了ふ爲めで、智惠子等のそれは、卒業してからも同じ職業に就いてるからこそ、同級會といふ樣なものも出來るのだ。三年の月日を姉と呼び妹と呼んで一棟の寄宿舍に起臥を共にした間柄、校門を辭して散々に任地に就いてからの一年半の間に、身に心に變化のあつた人も多からうが、さて相共に顏を合せては、自から氣が樂しかつた寄宿舍時代に歸つた。數限りなき追憶が口々に語られた。氣輕な連中は、階下の客の迷惑も心づかず、その一人が彈くヴアイオリンの音に伴れてダンスを始めた。恁くて此若い女達は翌二日の夜更までは何も彼も忘れて樂みに醉うた。缺席したのは四人、その一人は死に、その一人は病み、他の二人は懷姙中とのことで。――結婚したのはこの外にも五六人あつた。
 各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいという事、頭腦の舊い校長の惡口、同じ師範出の男教員が案外不眞面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大體に於て各々の意見が一致した。中に一人、智惠子の村の加藤醫師と遠縁の親戚だといふのがあつた。その女から、智惠子は清子に宛てた一封の手紙を托された。
 その手紙を屆けるべく、智惠子は澁民に歸つた翌日の午前、何氣なく加藤醫院を訪れたのであつた。
 玄關には、腰掛けたのや、上り込んだのや、薄汚ない扮裝をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顏をして、各自(てんで)に藥瓶の數多く並んだ棚や粉藥を分量してゐる小生意氣な藥局生の手先などを眺めてゐた。智惠子が其處へ入ると、有つ丈の眼が等しく其美しい顏に聚(あつま)つた。
『奧樣は?』
『ハイ。』と答へて、藥局生は匙を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽へた樣に居住ひを直した。諄々(くど/\)と挨拶したのもあつた。
 今朝髮を洗つたと見えて、智惠子は房々とした長い髮を、束ねもせず、緑の雲を被いだ樣に、肩から背に豐かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣の新しいセルの單衣に、帶は平常のメリンス、そのきちんとしたお太鼓が搖めく髮に隱れた。
 少し手間取つて、倉皇(そゝくさ)と小走りに清子が出て來た。
『まあ日向先生、何日お歸りになりましたの? さ何卒(どうぞ)。』
『は有難う。昨日夕方に歸りました許りで。』
『お樂みでしたわねえ。さ何卒お上り下さいまし、……あの小川さんのお客樣も被來(いらし)てますから。』
『は?』と智惠子は、脱ぎかけた下駄を止めた。
『吉野さんとか被仰る、畫をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰つてで御座いますよ。』
『あの、吉野さんが?』
『え。宅が小川さんで二三度お目にかゝりました相で、……昌作さんとお二人。ま何卒(どうぞ)。』
『は有難う。あのう……』と言ひ乍ら智惠子は懷から例の手紙を取出して、手短に其由來を語つて清子に渡した。
『ま然うでしたか。それは怎うも。……それは然うと、さ、さ。』と。手を引く許りにする。
『あの一寸學校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』
『あら、日向樣、其□貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、
『眞箇(ほんと)よ、奧樣。何れ後で。』
 智惠子は逃げる樣にして戸外に出た、と、忽ち顏が火の樣に熱つて、恐ろしく動悸がしてるのに氣がついた。

      二

 加藤の玄關を出た智惠子は、無意識に足が學校の方へ向つた。莫迦に胸騷ぎがする。
「何故那□(あんな)に狼狽(うろた)へたらう?」恁う自分で自分に問うて見た。
「何故那□に狼狽(うろた)へたらう? 吉野さんが被來(いらしつ)てゐたとて! 何が怖かつたらう! 清子さんも可笑しいと思つたであらう! 何故那□に狼狽(うろたへ)たらう? 何も譯が無いぢやないか!」
 理由は無い。
 智惠子は一歩毎に顏が益々上氣して來る樣に感じた。何がなしに、吉野と昌作が後ろから急ぎ足で追驅けて來る樣な氣がする。それが、一歩々々に近づいて來る……
 其□事は無い、と自分で譴(たしな)めて見る、何時しか息遣ひが忙しくなつてゐる。
 取留めもなく氣がそはついてるうちに歩くともなくもう學校の門だ。つと入つた。
 職員室の窓が開いて、細い竿釣が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シャツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄(いぢく)つてゐた。
 不圖顏を上げると、
『オヤ、日向さん、何時お歸りになりました?』
『は、あの、昨日夕方に。』と、外に立つて頭を下げる。洗ひ髮がさらりと肩から胸へ落つる。智惠子は、うるさい樣にそれを手で後ろにやつた。
『面白かつたでせう? さ、まあお上りなさい。』
『否(いゝえ)、あの。』と息が少し切れる。『あの私宛の手紙でも參つてゐませんでせうか?』
『奈何(どう)でしたか! あ、來ませんよ、神山樣の方の間違です。まあお上りなさい。』
『は有難う御座います。一寸あの、一寸、後ろの山へ行つて見ますから。』
『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハヽヽ。ま可いでせう?』
『は、何れ明日でも。』と行掛ける。
『あ、日向樣、貴女(あなた)に少しお願ひがありますがねえ。』
『何で御座いますか?』
『何有(なあに)眞(ほん)の些とした事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。
『何で御座いますか、私に出來る事なら……。』と智惠子は何時になく焦(もど)かし相な顏をした。
『出來る事ですとも。』また笑つて、『その何ですよ、過日(こなひだ)、否(いや)昨日か、神山樣にも一日お願ひしたんですがね。その、私は鮎釣に行きますから、御都合の可い時一日學校に被來(いらつしや)つて下さいませんか?』
『は、可(よ)う御座いますとも。何日(いつ)でも貴方の御出懸けになる時は、あの大抵の日は小使をお寄越し下されば直ぐ參ります。』
『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、濟みませんが。』
『何日でも……。』と言つて智惠子は、足早に裏の方に□つた。
 裏は直ぐ雜木の山になつて、下暗い木立の奧がこんもりと仰がれる。校舍の屋根に被(かぶ)さる樣になつた青葉には、楢もあれば、栗もある。鮮やかな色に重なり合つて。
 便所の後ろになつてゐる上り口から、智惠子はスタスタと坂を登つた。
 木立の中から、心地よく濕つた風が顏へ吹く。と、そのこんもりした奧から樂しさうな晝杜鵑(ひるほとゝぎす)の聲。
 聲は小迷(さまよ)ふ樣に、彼方此方(あちこち)、梢を渡つて、若き胸の轟きに調べを合せる。
 智惠子は躍る樣な心地になつて、つと青葉の下蔭に潜り込んだ。

      三

 やゝ急な西向の傾斜、幾年の落葉の朽ちた土に下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、處々、虎斑(とらふ)の樣に影を落して、そこはかとなく搖めいた。細き太き、數知れぬ樹々の梢は參差として相交つてゐる。
 唆かす樣な青葉の香が、頬を撫で、髮に戲れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。
『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隱れた晝杜鵑が啼く。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な、若い胸の底から漂ひ出る樣な聲だ。その聲が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何處ともなき青葉の戰(さや)ぎ!
 と、少し隔つた彼方から、『ククヽヽクウ』と同じ聲が起る。
『ククヽヽクウ。ククヽヽクウ。』と、後の方からも。
『漂へる聲(ワンダリングブォイス)』とライダル湖畔の詩人が謳つた。それだ、全くそれだ。甘き青葉の香を吸ひ、流れるこの鳥の聲を聞いては、身は詩人でなくても、魂が胸を出て、聲と共にそこはかとなく森の下蔭を小迷(さまよ)ふてゆく思ひがする。
 聲の所在(ありか)を覓(もと)むる如く、キョロ/\と落着かぬ樣に目を働かせて、徑もなき木陰地(こさぢ)の濕りを、智惠子は樹々の間を其方に拔け此方に潜る。夢見る人の足取とは是であらう。髮は肩に亂れ、胸に波打ち、はら/\と顏にも懸る。それを拂はうとするでもない。
 故もなく胸が騷いでゐる。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な……宛ら葉隱れの鳥の聲の、何か定めなき思ひが、總身の脈を亂してゐる。
『ククヽヽクウ』と鳥の聲。
「私ほど辛い悲いものはない!」
 恁う譯のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。たゞ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。
「吉野さんが町に、加藤の家に來てゐる。」智惠子に解つてるのは之だけだ。
 初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の容子は、今猶明かに心に殘つてゐる。然し言葉を交したでもない。友の靜子は耳の根迄紅くなつてゐた。その靜子は又、自分とあの人が端なくも汽車に乘合せて盛岡に行く時、田圃に出て手巾を振つた。靜子の底の底の心が、何故か自分に解つた樣な氣がする。
『何故あの時、私はあの人の後ろに隱れたらう?』恁う智惠子は自分に問うて見る。我知らず顏が紅くなる。
 其晩、同じく久子の家に泊つた。久子兄妹とあの人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は甚□に嬉しんだらう! 久子の兄とあの人との會話が、解らぬ乍らに甚□に面白かつたらう!
『君は天才なんだ。』恁う久子の兄が幾度か眞摯に言つた。何かの話の時、『矢張り女といふものは全く放たれる事が出來ん。男は結局一人ぽつちよ、死ぬまで。』とあの人が言つた!
 翌日久子と大澤に行つて、昨日午前再び下小路なる久子の家まで歸つた。
『日向樣は何日お歸りになります!』恁うあの人が言つた。
『明日になさいな、ねえ!』と久子が側から言つた。
『吉野さんも然う遊ばせな何卒(どうぞ)。』
『否(いや)、僕は今日午後に發ちます。』
 遂に同じ汽車で歸つて、再會を約して好摩が原で別れた。
『それだけだ。』と智惠子は言つて見た。何が(それだけ)なのか解らぬ。(それだけ)が何れだけなのか解らぬ。
 解つてるのは、その吉野が今昌作と二人加藤の家にゐる事だけだ。或はもう、加藤の家を出たかも知れぬ。出て而して、何處へ? 何處へ?
『ククヽヽクウ。』といふ聲は遙(ずつ)と後ろに聞えた。智惠子は何時しか雜木の木立を歩み盡きて、幾百本の杉の暗く茂つた、急な坂の上に立つてゐた。
 きつと其下の方を見て居たが、何を思つてか、智惠子は忙しく其急な坂を下り始めた。

      四

 ダラ/\と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下り盡すと、其處は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奧に小さな柾葺(まさぶき)の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ爲に屋根を葺いた。町の半數の家々ではこの水で飯を炊(かし)ぐ。
 蓊欝(こんもり)と木が蔽(かぶ)さつてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の樣な水が、其處らの青苔や圓い石を濡らしてるのとで、如何な日盛りでも冷い風が立つて居る。智惠子は不圖渇を覺えた。まだ午飯(ひるめし)に餘程間があると見えて、誰一人水汲が來てゐない。
 重い柄杓に水を溢れさせて、口移しに飮まうとすると、サラリと髮が落つる。髮を被いた顏が水に映つた。先刻から斷間(しきり)なしに熱(ほて)つてるのに、四邊の青葉の故か、顏が例(いつも)より青く見える。
 智惠子は二口許り飮んだ。齒がキリ/\する位で、心地よい冷さが腹の底までも沁み渡つた。と、顏の熱るのが一層感じられる。『怎うして青く見えたか知ら!』と考え乍ら、裏畑の細徑傳(ほそみちづた)ひ急ぎ足に家へ歸つた。
『誰方(どなた)も被來(いらつしや)らなくつて?』
『否(いえ)。』とお利代は何氣ない顏をしてゐる。『あら、何處へ行つてらしつたんですか? お髮(ぐし)に木の葉が附いて。』
『然う?』と手を遣つて見て、『學校の後ろの山を歩いて見ましたの。』
『お一人で!』
『否、子供達と。』と、うつかり言つたが、智惠子は妙に氣が引けた。
『先生、俺も行きたいなア。』と梅ちやんが甘える。
『俺も、俺も。』と新坊は氣早に立ち上つて雀躍(こをどり)する。
『ホホヽヽ。もう行つて來たの。この次にね。』と言ひ乍ら、智惠子は己が室に入つた。
「來なかつた!」と思ふと、ホッと安心した樣な氣持だ。と又、今にも來るかといふ新しい心配が起る。戸外を通る人の跫音が、忙しく心を亂す。戸口の溝の橋板が鳴る度、押へきれぬ程動悸がする。
「奈何(どう)したといふのだらう?」と自分の心が疑はれる。莫迦な! と叱つても矢張り氣が氣でない。強ひて書(ほん)を讀んで見ても、何が書いてあつたか全然心に留らない。新坊が泣き出しでもすると譯もなく腹立しくなる。幾度も幾度も室の中を片附けてゐるうちに、午食(ひる)になつた。
『小母(をば)さん、私の顏紅くなつて?』と箸を動かしながら訊いた。
『否(いえ)。些とも。』
『然う? ぢや平生(ふだん)より青いんでせう。』
『否(いゝえ)、何ともありませんよ。怎うかなすつたんですか?』
『怎うもしないんですけど、何だかホカ/\するわ。目の底に熱がある樣で……。』
『暑いところを山へなんか被行(いらし)つたからでせうよ。今日はこれから又甚□に蒸しますか!』
 何がなしに氣が急いて、智惠子はさつさと箸を捨てた。何をするでもなく、氣がそは/\して、妙な暗さが心に湧いて來る。「怎うもしないのに!」自分に辯疏して見る傍から、「屹度加藤さんで午餐(ひる)が出て、それから被來(いらつしや)る。」といふ考が浮ぶ。髮を結(ゆ)はう、結(ゆ)はうと何囘と無く思ひ附いたが、箪笥の上の鏡に顏を寫しただけ。到頭三時近くなつた。
「世の中が詰らない!」と言つた樣な失望が、漠然と胸に湧く。自省の念も起る。氣を紛らさうと思つて二人の子供を呼んだ。智惠子の拵へてくれた浴衣をだらしなく着た梅ちやんと、裸體に腹掛をあてた新坊が喜んで來た。
『何か話をして上げませう? 新坊さんは桃太郎が好き?』
『嫌(いや)。』と頭を振つて、『山さ行く。』
『先生、山さ連れてつて。』と梅ちやんも甘えかゝる。
『ホホヽヽ、何方も山へ行きたいの? 山はこの次にね……。』
と言つてる所へ、入口に人の訪るゝ氣勢(けはい)。智惠子は屹と口を結んだ。俄かに動悸が強く打つ。

      五

 胸を轟かして待つた其人では無くて訪ねて來たのは信吾であつた。智惠子は何がなしにバツが惡く思つた。
 信吾は常に變らぬ容子乍らも、何處か落着ぬ樣で、室に入ると不圖氣がさした樣に見□して坐つたが、今まで客のあつたとも見えぬ。
『吉野君が來なかつたですか?』
『否(いゝえ)。』と對手の顏色を見る。
『來ない? 然うですか、何處へ行つたかなア。はてナ、』と、信吾は是非逢はねばならぬ用でもある樣に考へる。
『あの、お一人でお出懸けになつたんで御座いますか?』
『昌作と二人です、今朝出たつ限(きり)まだ歸らないんですが、多分貴女(あんた)ン許(とこ)かと思つて伺つたんです。』
 何故此家に居ると思つたか、此家に來ると其人が言つて出たのか、又、若し眞に用があるのなら、午前中確かに居た筈の加藤へ行つて聞けば可い。言ひ方は樣々あつたが、智惠子は膝に目を落して、唯『否。』と許り。
 危(あぶ)ない藝當を行(や)つてるといふ樣な氣がして、心が咎める。
『はてナ。』と、信吾はまた大袈裟に考へ込む態(さま)を見せて、『實は何です、家に親類の者が來てゐて僕は今朝出られなかつたんですが、一寸今、用が出來たもんですから探しに來たんです。』
『何方(どちら)か外にお尋ねになつたんで御座いますか?』
『否(いゝえ)、』と信吾は少し困つて、『……眞直に此方へ。』
『此家(こゝ)へ被來(いらつしや)るとでも被仰(おつしや)つて、お出懸けになられたんで御座いますか?』
『然うぢやないんですが、唯、多分然うかと思つたんで。』
『奈何(どう)してで御座いますか?』
『ハッハハ。』と、男は突然大きく笑つた。『違ひましたね。それぢや何處へ行つたかなア!』
 智惠子は默つて了つた。
『盛岡でお逢ひになつたんですつてね、吉野に?』
『え。渡邊さんといふお友達の家に參りましたが、その方の兄さんとお親しい方だとかで……あの、些とお目に懸つたんで御座います。』
「巧く言つてやがらア、畜生奴!」と心の中。『甚□男です、貴女の見る所では?』
 智惠子は不快を感じて來た。『奈何ツて、別に……。』
『僕はあゝした男が大好(だいすき)ですよ。僕の知つてる美術家連中も少くないが、吉野みたいな氣持の好い、有望な男は居ませんよ……。』と、信吾は誇張した言方をして、女の顏色を見る。
『然うで御座いますか。』と言つた限(きり)、智惠子は眞面目な顏をしてゐる。
 話は遂にはずまなかつた。智惠子には若しや恁うしてる所へ其人が來はせぬかといふ心配がある。そして、其人に關する事を言ひ出されるのが、何がなしに侮辱されてる樣な氣がする。信吾は信吾で、妙に皮肉な考へ許り頭に浮んだ。
 それでも、四十分許り向ひ合つてゐて不圖氣が附いた樣にして信吾はその家を辭した。
『畜生奴!』恁う先づ心に叫んだ。
 元が用があつて探しに來たのでも無いのだから、その儘家路を急いだ。母は二三日前からまた枕に就いた。父は留守。其處へ饒舌(おしやべり)の叔母が子供達と共に泊りに來たのが、今朝も信吾は其叔母に捉まつて出懸けかねた。吉野は昌作を伴れて出懸けた。午後になつて父が歸ると、信吾は何となく吉野と智惠子の事が氣に掛つた。それは一つは退屈だつた爲めでもある。
 も一つには、その二人が自分の紹介も待たずして知己になつたのが、譯もなく不愉快なのだ。隱して置いた物を他人に勝手に見られた樣な感じが、信吾の心を焦立(いらだた)せてゐる。
『今日は奈何して、あゝ冷淡だつたらう?』と、智惠子の事を考へ乍ら、信吾は強く杖を揮つて、路傍の草を自暴(やけ)に薙ぎ倒した。

   其九

      一

 叔母一行が來て家中が賑つてる所へ夕方から村の有志が三四人、門前寺の梁(やな)に落ちたといふ川鱒を持つて來て酒が始つたので、病床のお柳までが鉢卷をして起きるといふ混雜、客自慢の小川家では、吉野までも其席に呼出した。燈火の點く頃には、少し酒亂の癖のある主人の信之が、向鉢卷をしてカッポレを踊り出した。
 朝から昌作の案内で町に出た吉野の歸つた時は、先に歸つた信吾が素知らぬ顏をして、客の誰彼と東京談をしてゐた。無理強ひの盃四つ五つ、それが悉皆(すつかり)體中に循(まは)つて了つて、聞苦しい土辯の川狩の話も興を覺えた。眞紅(まつか)な顏をした吉野は、主人のカッポレを機(しほ)に密乎(こつそり)と離室に逃げ歸つた。
 其縁側には、叔母の子供等や妹達を對手に、靜子が何やら低く唱歌を歌つてゐた。
『あゝ、悉皆(すつかり)醉つちやつた。』恁う言つて吉野は縁に立つ。
『御迷惑で御座いましたわね。お苦しいんですか其□(そんな)に?』
 燈火(あかり)に背(そむ)いた其笑顏が、何がなしに艶に見えた。涼しい夜風が遠慮なく髮を嬲(なぶ)る。庭には植込の繁みの中に螢が光つた。子供達は其方にゆく。
『飮みつけないもんですからね。然し氣持よく醉ひましたよ。』と言ひ乍ら、吉野は庭下駄を穿いた。其實、顏がぽつぽつと熱(ほて)るだけで、格別醉つた樣な心地でもない。
『夜風に當ると可(よ)う御座いますわ。』
『え、些(ち)と歩いて見ませう。』と、酒臭い息を涼しい空に吹く。月の無い頃で、其處此處に星がちらついた。
『靜や、靜や。』と母屋の方からお柳の聲がした。
 吉野はブラリ/\と庭を拔けて、圃路(はたけみち)に出た。追駈ける樣な家の中の騷ぎの間々に、靜かな麥畑の彼方から水の音がする。暗を縫うて見え隱れに螢が流れる。
 夜涼(よびえ)が頬を舐めて、吉野は何がなしに一人居る嬉しさを感じた。恁(か)うした田舍の夜路を、何の思ふことあるでもなく、微醉(ほろゑひ)の足の亂れるでもなく、しつとりとした空氣を胸深く吸つて、ブラリ/\と辿る心地は、渠が長く/\忘れてゐた事であつた。北上川の水音は漸々近くなつた。足は何時しか、町へ行く路を進んでゐた。
 轟然たる物の響の中、頭を壓する幾層の大厦に挾まれた東京の大路を、苛々(いら/\)した心地で人なだれに交つて歩いた事、兩國近い河岸の割烹店(レストーラン)の窓から、目の下を飛ぶ電車、人車、駈足をしてる樣な急しい人々、さては、濁つた大川を上り下りの川蒸汽、川の向岸に立列んだ、強い色彩の種々の建物などを眺めて、取り留めもない、切迫塞(せつぱつま)つた苦痛に襲れてゐた事などが、怎(ど)うやらずつと昔の事、否、他人の事の樣に思はれる。
 吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既う五六日も十日も前の事の樣に思はれた。自分が餘程以前(まへ)から此村にゐる樣な氣持で、先刻逢つて酒を強ひられた許りの村の有志――その中には清子の父なる老村長もゐた――の顏も、可也古くからの親しみがある樣に覺えた。
 いつしか高畠の杜を過ぎて、鶴飼橋の支柱が夜目にそれと見える樣になつた。急に高まつた川瀬の音が、靜かな、そして平かな心の底に、妙にしんみりした響きを傳へる。
 と、その川瀬の音に交つて、子供らの騷ぐ聲が聞え出した。
 橋の袂まで來た。不圖子供らの聲に縺れて、低い歌が耳に入る。
『……かーみはーあーいーなり。』
 仄白い人の姿が、朧氣に橋の上に立つてゐる。

      二

 橋の上の仄白い人影、それは智惠子であつた。
 信吾の歸つた後の智惠子は、妙に落膽(がつかり)して氣が沈んだ。今日一日の己が心が我ながら怪まれる。
『奈何(どう)したといふのだらう? 私はあの人を、思つてる……戀してるのか知ら!』
『否!』と強く自ら答へて見た。自分は假にも其□(そんな)事を考へる樣な境遇ぢやない、兩親はなく、一人ある兄も手頼りにならず、又成らうともせぬ。謂はゞこの世に孤獨の自分は、傍目もふらずに自活の途を急がねばならぬ。それだのに、何故這□(こんな)……?
 懊(じ)れに懊(じ)れて待つた其人の、遂に來なかつた失望が、冷かに智惠子の心を嘲つた。二度と這□(こんな)事は考へまい! と思ふ傍から、『矢張り女は全く放たれる事が出來ない。男は結局孤獨だ、死ぬまで。』と久子の兄に言つた其人の言葉などが思出された。書(ほん)を讀む氣もしない。學校へ行つてオルガンでも彈かうと考へても見た。うつかりすると取り留めのない空想が湧く……。
 日が暮れると、近所の女小供が螢狩に誘ひに來た。案外氣輕に智惠子はそれに應じて宿の二人の子供をも伴れて出た。出る時、加藤の玄關が目に浮んだ。其處には數々の履物に交つて赤革の夏靴が一足脱いであつた。小川のお客樣も來てゐると清子の言つたその時、智惠子は、あ、これだ! と其靴に目を留めたつけ!
 村で螢の名所は二つ、何方(どつち)に爲(し)ようと智惠子が言ひ出すと、子供らは皆舟綱(ふなた)橋に伴れてつて呉れと強請(せが)んだ。
『彼方には男生徒が澤山行つてるから、お前達には取れませんよ。』恁(か)う智惠子が言つた。女兒等は、何有(なあに)男に敗(ま)けはしないと口々に騷いだが、結句智惠子の言葉に從つて鶴飼橋に來た。
 夏の夜、この橋の上に立つて、夜目(よめ)にも著(しる)き橋下の波の泡を瞰下(みおろ)し、裾も袂も涼しい風にはらめかせて、數知れぬ囁(さゝや)きの樣な水音に耳を澄した心地は長く/\忘られぬであらう。南岸の崖の木々の葉は、その一片々々(ひとつ/\)が光るかと見えるまで、無數の螢が集つてゐて、それが時を計つて、ポーッと一度に青く光る。川水も青く底まで透いて見える。と、一度にスッと暗くなる。また光る、また消える、また光る……。其中から、迷ひ出る樣に風に隨つて飛ぶのが、上から下から、橋の下を潜り、上に立つ人の鬢(びん)を掠(かす)める。低く飛んだのが誤つて波頭に呑まれてその儘あへなく消えるものもある。
 低くなつた北岸の川原にも、圓葉楊(まるばやなぎ)の繁みの其方此方、青く瞬く星を鏤めた其隅々には、暗に仄めく月見草が、しと/\と露を帶びて、一團づゝ處々に咲き亂れてゐる。
 女兒等は直ぐ川原に下りて、キャッ/\と騷ぎ乍ら流れる螢を追つてゐる。智惠子は何がなしに、唯何がなしに橋の上にゐたかつた。其□(そんな)事は無い! と否み乍らも、何がなしに、若しや、若しや、といふ朦乎(ぼんやり)した期待が、その通り路を去らしめなかつた。
 今日一日の種々な心持と違つた、或る別な心持が、新しく智惠子の心を領した。そこはかとなき若き悲哀――手頼りなさが、消えみ明るみする螢の光と共に胸に往來して、他(ひと)にとも自分にとも解らぬ、一種の同情が、自(おのづ)と呼吸を深くした。
 幸福とは何か? 這□(こんな)考へが浮んだ。神の愛にすがるが第一だ、と自分に答へて見た。不圖智惠子は、今日一日全く神に背いて暮した樣な氣がして來た。『神に遁れる、といふ樣な事も有得るですね。』と、何時だつたか信吾の言つた言葉も思ひ出された。智惠子の若い悲哀は深くなつた。遂に讃美歌を歌ひ出した。
『……やーみ路をー、てーらせりー、かーみはーあーいーなりー。』
「愛」といふ語が何がなく懷しかつた。そして又繰り返した。『……あーいーなり……。』
 下駄の音が橋に傳はつた。智惠子は鋭敏にそれを感じて、つと振返つた。が、待構へてでも居た樣に、不思議に動悸もしない。其人とは蟲が知らしたのだが……。

      三

『日向樣ぢやありませんか?』恁う言つて、吉野は近づいて來た。
『まア、貴方で御座いましたか! 昨日は失禮致しました。』
『僕こそ。』と言ひながら、男は少し離れて鋼線の欄干に靠れた。『意外な所で又お目にかゝりましたね。貴女(あなた)お一人ですか?』
『否(いゝえ)、子供達に強請(せが)まれて螢狩に。貴方も御散歩?』
『え。少し酒を飮まされたもんですから、密乎(こつそり)逃げ出して來たんです。實に好い晩ですねえ!』
『えゝ。』
 不圖話が斷れた。橋の下の川原には女兒等が夢中になつて螢を追つてゐる。
 智惠子は胸を欄干に推當てた故か、幽かに心臟の鼓動が耳に響く。其間にも崖の木の葉が、光り又消える。
『貴女は、時々被來(いらつしや)るんですか、此處等(こゝいら)に?』
『否。……滅多に夜は出ませんですけれど。……今日は餘り暑かつたもんで御座いますから!』
『あゝ然(さ)うですか!』
 話はまた斷れた。
『隨分澤山な螢で御座いますねえ!』と、今度は智惠子が言つた。
『えゝ、東京ぢや迚(とて)も見られませんねえ。』
『左樣(さう)で御座いませうねえ。』
『あ、貴女は以前東京に被居(ゐらしつ)たんですつてねえ?』
『え。』
『餘程以前ですか?』
『六七年前までで御座います。』
『然(さ)うでしたか!』と、吉野はまた何か言はうとしたが、立ち入つた身の上の話と氣が附いて、それなり止めた。
 二人は又接穗(つぎほ)なさに困つた。そして長い事默してゐた。吉野は既(も)う顏の熱(ほて)りも忘られて、醉ひ醒めの侘しさが、何がなしの心の望と戰つた。つい四五日前までは不見不知(みずしらず)の他人であつた若い美しい女と、恁うして唯二人人目も無き橋の上に並んでゐると思ふと、平生烈しい内心の壓迫を享け乍ら、遂今迄その感情の滿足を圖らなかつた男だけに、言う許りなき不安が、「男は死ぬまで孤獨だ!」という渠の悲哀と共に、胸の中に亂れた。
 若しも智惠子が、渠の嘗て逢つた樣な近づき易い世の常の女であつたなら、渠は直ぐに強い輕侮の念を誘ひ起して自ら此不安から脱れたかも知れぬ。然し眼前の智惠子は渠の目には餘りに清く餘りに美しく、そして、信吾の所謂、近代的女性(モダーンウーマン)で無いことを知つた丈に、其不安の興奮が強かつた。自制の意が醉ひ醒めの侘しさを掻き亂した。豐かな洗髮を肩から背に波打たせて、眤(ぢつ)と川原に目を落して、これも烈しく胸を騷がせてゐる智惠子の歴然(くつきり)と白い横顏を、吉野は不思議な花でも見る樣に眺めてゐた。
 と、飛び交ふ螢の、その一つが、スイと二人の間を流れて、宙に舞ふかと見ると、智惠子の肩を辷つて髮に留つた。パッと青く光る。
『あ、』と吉野は我知らず聲を立てた。智惠子は顏を向ける。其拍子に螢は飛んだ。
『今螢が留つたんです、貴女の髮に。』
『まア!』と言つて、智惠子は暗ながら颯と顏を染めた。今まで男に凝視(みつめ)られてゐたと思つたので。
 で、二人の目は期せずして其一疋の螢の後を追うた。フラ/\と頭の上に漂うて、風を喰つた樣に逆まに川原に逃げる。
『あれ、先生の方から!』と、子供の一人が其螢を見附けたらしく、下から叫んだ。
『あれ! あれ!』
『先生! 先生!』と女兒等は騷ぐ、螢はツイと逸(そ)れて水の上を横ざまに。
『先生! 下へ來て取つて下(くな)ンせ!』と一人が甘えて呼ぶ。
『今行きますよ。』と智惠子は答へた。下からは口を揃へて同じ事を言ふ。
『行つて見ませう!』恁(か)う吉野が言つて欄干から離れた。
『は、參りませう。』
『御迷惑ぢやないんですか貴女(あなた)は?』
『否(いゝえ)』と答へる聲に力が籠つた。『貴方こそ?』

      四

 晝は足を燬(や)く川原の石も、夜露を吸つて心地よく冷えた。處々に咲き亂れた月見草が、闇に仄かに匂うてゐる。その間を縫うて、二人はそこはかとなく小迷(さまよ)うた。
『その感想(かんじ)――孤獨の感想(かんじ)がですね。』と、吉野は平生の興奮した調子で語り續けてゐた。
『大都會の中央(まんなか)の、轟然たる百萬の物音の中にゐて感ずる時と、恁うした靜かな村で感ずる時と、それア違ひますよ。矢張り何ですかね、新しい文明はまだ行き渡つてゐないんで、一歩都會を離れると、世界にはまだ/\ロマンチックが殘つてるんですね。畢竟夢が殘つてるんですね。』
『は!』
『夢を見る暇も無い都會の烈しい戰爭の中で、間斷(ひつきり)なしの壓迫と刺戟を享けながら、切迫塞(せつぱつま)つた孤獨の感を抱いてゐる時ほど、自分の存在の意識の強い事はありませんね。それア苦しいですよ。苦しいけれど、矢張り新しい生活は其烈しい戰爭の中で營まれるんですね。……が、です、田舍へ來ると違ひます。田舍にはロマンチックが殘つてます。夢が殘つてます、叙情詩(リリック)が殘つてます。先刻も一人歩いてゐて然(さ)う思つたんですが、この靜かな廣い天地に自分は孤獨だ! と感じてもですね、それが何だか恁(か)う、嬉しい樣な氣がするんです。切迫塞つた苦しい、意識を刺戟する感じでなくて、餘裕のある、叙情的(リリカル)な調子(トーン)のある……畢竟周圍の空氣がロマンチックだから、矢張り夢の樣な感じですね。……僕は苦しくつて堪らなくなると何時でも田舍に逃げ出すんです。今度も然(さ)うです、畢竟、僕自身にもまだロマンチックが澤山殘つてます。自分の藝術から言へば出來るだけそれを排斥しなきや不可(いけな)い。然しそれが出來ない! 抽象的に言ふと、僕の苦痛が其努力の苦痛なんです、そして結局の所――』と激した調子で續けて來て、
『結局の所、何方が個人の生存――少くとも僕一個人の生存に幸福であるか解らない!』と聲を落した。
 智惠子は眤(ぢつ)と俯向(うつむ)いて、出來る丈け男の言ふ事を解さうと努めながら歩いてゐた。
『貴女は寂しい――孤獨だと思ふことがありますか?』
と、突然吉野が問うた。
『御座います!』と、智惠子は低く力を籠めて言つて、男の横顏を仰いだ。
『貴女は親兄弟にも友人にも言へない樣な心の聲を何に發表されるんです? 歌にですか、涙にですか?』
『神樣に……。』
『神樣に!』と、男は鸚鵡返しに叫んだ。『神樣に! 然うですねえ、貴女には神があるんですねえ!』
『僕にはそれが無い! 以前にはそれを色彩と形に現せると思つてゐたんですが、又、實際幾分づゝ現してゐたんですが、それがもう出來なくなつた。』と言ひ乍ら、吉野は無雜作に下駄を脱ぎ裾を捲(まく)つて、ヒタ/\と川原の石に口づけてゐる淺瀬にザブ/\と入つて行く。
『モウパッサンといふ小説家は自己の告白に堪へかねて死んだと言ひますがねえ……アヽ氣持が好い、怎(ど)うです、お入りになりませんか?』
『は。』と言つて智惠子は莞爾(につこり)笑つた。そして、矢張り跣足(はだし)になり裾を遠慮深く捲つて、眞白な脛の半ばまで冷かな波に沈めた。
『まア、眞箇(ほんと)に……!』
 吉野は膝頭の隱れる邊まで入つて行く。二人は暫し言葉が斷れた。螢が飛ぶ。子供らも二人の態を見て、我先にと裾を捲つて水に入つた。
 相對した彼岸の崖には、數知れぬ螢がパーッと光る。川の面が一面に燐でも燃える樣に輝く。
『あれッ!』『あれッ、新坊さんが!』と魂消(たまげ)つた叫聲(さけびごゑ)が女兒らと智惠子の口から迸つた。五歳の新坊が足を浚はれて、呀(あつ)といふ間もなく流れる。と見た吉野は、突然手を擧げて智惠子の自ら救はんとするを制した。
『大丈夫!』唯一言、手早く尻をからげてザブ/\と流れる子供の後を追ふ。子供は刻々中流へ出る、間隔は三間許りもあらう。水は吉野の足に絡(からま)る。川原に上つた子供らは聲を限りに泣き騷いだ。

      五

 川底の石は滑かに、流れは迅い。岸の智惠子が俄かの驚きに女兒(こども)等の泣き騷ぐも構はず、はら/\してる間に、吉野は危き足を踏みしめて十二三間も夜川の瀬を追驅けた。波がザブ/\と腰を洗つた。
 螢の光と星の影、處々に波頭の蒼白く飜へる間を、新坊はツブ/\と流れて行く。
 グイと手を延ばすと、小さい足が捉(つかま)つた。
『大丈夫!』と吉野は聲高く呼んだ。
『捉(つかま)りましたか?』と智惠子の聲。
『捉つた!』
 吉野は、濡れに濡れて呼吸(いき)も絶えたらしい新坊の體を、無造作に抱擁(だきかゝ)へて川原に引返した。其處へ、騷ぎを聞いて通行の農夫が一人、提灯を下げて降りて來た。
『何したべ? 誰が死んだがナ?』
『何有(なあに)、大丈夫!』と、吉野は水から上つた。丁度橋の下である。

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