鳥影
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著者名:石川啄木 

      八

 仄暗(ほのくら)い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。
『貴女(あなた)は小説はお嫌ひですか?』と、信吾は少し唐突に問うた。其の時はもう肩も摩れ/\に並んでゐた。
『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』と落着いた答へをして閃(ちら)と男の横顏を仰いだが、智惠子の心には妙に落着がなかつた。前方の人達からは何時しか七八間も遲れた。後ろからは清子と靜子が來る。其跫音も何うやら少し遠ざかつた。そして自分が信吾と並んで話し乍ら歩く……何となき不安が胸に萠(きざ)してゐた。
 立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎に思ふのだが、何故かそれも出來なかつた。
『あれはお讀みですか、風葉の「戀ざめ」は?』と信吾はまた問うた。
『あの發賣禁止になつたとか言ふ……?』
『然(さ)うです。あれを禁止したのは無理ですよ。尤もあれだけじや無い、眞面目な作で同じ運命に逢つたのが隨分ありますからねえ。折角拵へた御馳走を片端から犬に喰はれる樣なもんで……ハハヽヽ。「戀ざめ」なんか別に惡い所が無いぢやないですか?』
『私はまだ讀みません。』
『然うでしたか。』と言つて、信吾は未だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを罷(や)めてニヤ/\と薄笑を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。
 信吾は心に、何ういふ連想からか、かの「戀ざめ」に描かれてある事實――否あれを書く時の作者の心持、否、あれを讀んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。
 五六歩歩(ある)くと、智惠子の柔かな手に、男の手の甲が、木の葉が落ちて觸る程輕く觸つた。寒いとも温(あつた)かいともつかぬ、電光の樣な感じが智惠子の腦を掠めて、體が自ら剛くなつた。二三歩すると又觸つた。今度は少し強かつた。
 智惠子は其手を口の邊へ持つて來て輕く故意とらしからぬ咳をした。そして、礑(はた)と足を留めて後ろを振返つた。清子と靜子は肩を並べて、二人とも俯向いて、十間も彼方から來る。
 信吾は五六歩歩いて、思切り惡さうに立留つた。そして矢張り振返つた。目は、淡く月光を浴びた智惠子の横顏を見てゐる。コツ/\と、杖(ステッキ)の尖(さき)で下駄の鼻を叩いた。其顏には、自ら嘲る樣な、或は又、對手を蔑視(みくび)つた樣な笑が浮んでゐた。
 清子と靜子は、霎時(しばし)は二人が立留つてゐるのも氣附かぬ如くであつた。清子は初めから物思はし氣に俯向いて、そして、物も言はず、出來るだけ足を遲くしようとする。
『濟まなかつたわね、清子さん、恁□(こんな)に遲くしちやつて。』と、も少し前に靜子が言つた。
『否。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。
『だつて、お宅ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も愼次さんも被來(いらし)たんだから可いけど……。』
『靜子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、昵と靜子の手を握つた。
『恁(か)うして居たいわ、私。……』
『え?』
『恁うして! 何處までも、何處までも恁うして歩いて……。』
 靜子は譯もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顏を見合さなかつた。何處までも恁うして歩く! 此美しい夢の樣な言葉は華かな歌留多の後の、疲れて※乎(ぼうつ)[#「目+夢の夕に代えて目」、38-上-5]として、淡い月光と柔かな靄に包まれて、底もなき甘い夜の靜寂の中に蕩(とろ)けさうになつた靜子の心をして、譯もなき咄嗟の同情を起さしめた。
『此女(ひと)は兄に未練を有つてる!』といふ考へが、瞬(またゝ)く後に靜子の感情を制した。厭はしき怖れが、胸に湧いた。然しそれも清子に對する同情を全くは消さなかつた。女は悲しいものだ! と言ふ樣な悲哀が、靜子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。
『怎うです。少し早く歩いては?』と信吾が呼んだ。二人は驚いて顏を擧げた。

      九

 其夜、人々に別れて智惠子が宿に着いた時はもう十時を過ぎてゐた。
 ガタピシする入口の戸を開けると、其處から見通しの臺所の爐邊に、薄暗く火屋(ほや)の曇つた、紙笠の破れた三分心の吊洋燈の下で、物思はし氣に悄然と坐つて裁縫(しごと)をしてゐたお利代は、『あ、お歸りで御座いますか。』と忙しく出迎へる。
『遲くなりまして、新坊さんももうお寢(やす)み?』
『は、皆寢みました。先生もお泊りかと思つたんですけれど……。』と言ひ乍ら先に立つて智惠子の室に入つて、手早く机の上の洋燈を點(とも)す。臥床が延べてあつた。
 お泊りかと思つたといふ言葉が、何故か智惠子の耳に不愉快に響いた。今迄お利代の坐つてゐた所には、長い手紙が擴げたなりに逶□(のたく)つてゐた。ちらとそれを見乍ら智惠子は室に入つて、『マア臥床(おとこ)まで延べて下すつて、濟まなかつたわ、小母(をば)さん。』
『何の、先生。』と笑顏を見せて、『面白う御座んしたでせう?』
『え……。』と少し曖昧に濁して、『私疲れちやつたわ。』と邪氣(あどけ)なく言ひ乍ら、袴も脱がずに坐る。
『誰方が一番お上手でした?』
『皆樣お上手よ。私なんか今迄餘り歌留多も取つた事がないもんですから、敗けて許り。』と莞爾(につこり)する。ほつれた髮が頬に亂れてる所爲か、其顏が常よりも艶に見えた。
 成程智惠子は遊戯などに心を打込む樣な性格でないと思つたので、お利代は感心した樣に、『然うでせうねえ!』と大きい眼をパチ/\する。
 それから二人は、一時間前に漸々(やう/\)寢入つたといふ老女の話などをしてゐたが、お利代は立つて行つて、今日凾館から來たといふ手紙を持つて來た。そして、
『先生、怎うしたものでせうねえ?』と愁はし氣な、極り惡氣な顏をして話し出した。其手紙はお利代の先夫からである。以前にも一度來た。返事を出さなかつたので又來た。梅といふ子が生れた翌年不圖行方知れずになつてからもう九年になる。其長い間の詫を細々書いて、そして、自分は今凾館の或商會の支店を預る位の身分になつたから、是非共過去の自分の罪を許して、一家を擧げて凾館に來てくれと言つて來たのである。そして、自分の家出の後に二度目の夫のあつた事、それが死んだ事も聞知つてゐる。生れた新坊は矢張り自分の子と思つて育てたいと優しくも言葉を添へた。――
 身を入れて其話を聞いてゐた智惠子は、愼(つゝま)しいお利代の口振りの底に、此悲しい女の心は今猶その先夫の梅次郎を慕つてゐる事を知つた。そして無理もないと思つた。
 無理もないと思ひつゝも、智惠子の心には思ひもかけぬ怪しき陰翳(かげ)がさした。智惠子は心から此哀れなる寡婦に同情してゐた。そして自己に出來るだけの補助をする――人を救ふといふことは樂しい事だ。今迄お利代を救ふものは自己一人であつた。然し今は然うでない!
 誰しも恁□(こんな)場合に感ずる一種の不滿を、智惠子も感ぜずに居れなかつた。が、すぐにそれを打消した。
『で御座いますからね。』お利代は言葉をついだ。『まあ何方(どつち)にした所で、祖母さんの病氣を癒すのが一番で御座いますがね。……何と返事したものかと思ひまして。』
『然うね。』と云つて、智惠子は睫毛の長い眼を瞬(しばたゝ)いてゐたが、『忝(かたじけ)ないわ、私なんかに御相談して下すつて。……あの小母さん、兎も角今のお家の事情を詳しく然(さ)う言つて上げた方が可かなくつて? 被行(いらつしや)る方が可いと、まあ私だけは思ふわ。だけど怎(ど)うせ今直ぐとはいかないんですから。』
『然うで御座いますねえ。』とお利代は俯向いて言つた。實は自分も然う思つてゐたので。

      一〇

『然うなすつた方が可いわ、小母さん。』と智惠子は俯向いたお利代の胸の邊を昵(ぢつ)と瞶(みつ)めた。
『然うで御座いますねえ。』と同じ事を繰返して、稍あつてお利代は思ひ餘つた樣な顏をあげたが、『怎うせ行くとしましても、それやまあ祖母さんが何(ど)うにか、あの快癒(なほ)つてからの事で御座いますから、何時の事だか解りませんけれども、何だかあの、生れ村を離れて北海道あたりまで行つて、此先何(ど)うなることかと思ふと……。』
『それやね、決めるまでにはまあ、間違ひはないでせうけれど、先方の事も詳しく何して見てから……』
『其處(そこ)ンところはあの、確乎(たしか)だらうと思ひますですが……今日もあの、手紙の中に十圓だけ入れて寄越して呉れましたから……。』
『おや然うでしたか。』と言つたが、智惠子はそれに就いての自分の感想を成るべく顏に現さぬ樣に努めて、
『兎も角お返事はお上げなすつた方が可いわ。矢張り梅ちやんや新坊さんの爲には……。』と、智惠子はお利代の思つてゐる樣な事を理を分けて説いてみた。説いてるうちに、何か恁う、自分が今善事をしてると云つた樣な氣持がして來た。
『然うで御座いますねえ。』と、お利代は大きい眼を屡叩(しばたゝ)き乍ら、未だ瞭(はつき)りと自分の心を言出しかねる樣で、『恁うして先生のお世話を頂いてると、私はもう何日までも此儘で居た方が幾ら樂しいか知れませんけれども。』
『私だつて然う思うわ、小母さん、眞箇(ほんと)に……。』と言ひかけたが、何かしら不圖胸の中に頭を擡(もた)げた思想があつて言葉は途斷(とぎ)れた。『神樣の思召よ。人間の勝手にはならないんですわね。』
『先生にしたところで、』と、お利代は智惠子の顏をマヂマヂと瞶(みつ)め乍ら、『怎うせ、御結婚なさらなけれやなりませんでせうし……。』
『ホヽヽヽ。』と智惠子は輕く笑つて、『小母さん、私まだ考へても見た事が無くつてよ。自分の結婚なんか。』
 話題はそれで逸(そ)れた。程なくしてお利代が出てゆくと、智惠子はやをら立つて袴を脱いで、丁寧にそれを疊んでゐたが、何時か其の手が鈍つた。そして再び机の前に坐ると、昵(ぢつ)と洋燈の火を瞶めて、時々氣が附いた樣に長い睫毛を屡叩(しばた)いてゐた。隣室では新坊が眼を覺まして何かむづかつてゐたが、智惠子にはそれも聞えぬらしかつた。
 智惠子の心は平生になく混亂(こんがらが)つてゐた。お利代一家のことも考へてみた。お利代の悲しき運命、――それを怎うやら恁うやら切拔けて來た心根を思ふと、實に同情に堪へない、今は加藤醫院になつてる家、あの家が以前お利代の育つた家、――四年前にそれが人手に渡つた。其昔、町でも一二の濱野屋の女主人として、十幾人の下女下男を使つた祖母が、癒る望みもない老の病に、彼樣(あゝ)して寢てゐる心は怎うであらう! 人間の一生の悲痛が時あつて智惠子の心を脅かす。……然し、此悲しきお利代の一家にも、思懸けぬ幸福が湧いて來た! 智惠子は神の御心に委ねた身乍らに、獨(ひとり)ぼツちの寂しさを感ぜぬ譯にいかなかつた。
 行末怎うなるのか! といふ眞摯な考への横合から、富江の躁(はしや)いだ笑聲が響く。つと、信吾の生白い顏が頭に浮ぶ、――智惠子は嚴肅な顏をして、屹と自分を譴(たしな)める樣に唇を噛んだ。『男は淺猿(あさま)しいものだ!』と心で言つて見た。青森にゐる兄の事が思出されたので。――嫂の言葉に返事もせず、竈の下を焚きつけ乍らも聖書を讀んだ頃が思出された。亡母(はゝ)の事が思出された。東京にゐる頃が思出された。
 遂に、あの頃のお友達は今怎(ど)うなつたらうと思ふと、今の我身の果敢なく寂しく頼りなく張合のない、孤獨の状態を、白地(あからさま)に見せつけられた樣な氣がして、智惠子は無性に泣きたくなつた。矢庭に兩手を胸の上に組んで、長く/\祈つた。長く/\祈つた。……
 侘(わび)しき山里の夜は更けて、隣家の馬のゴト/\と羽目板を蹴る音のみが聞えた。

   其五

      一

 何日しか七月も下旬になつた。
 かの歌留多會の翌日信吾は初めて智惠子の宿を訪ねたのであつた。其時は、イプセンの飜譯一二册に、『イプセン解説』と題して信吾自身が書いた、五六頁許りの評論の載つてゐる雜誌を態々持つて行つて貸して、智惠子からはルナンの耶蘇傳の飜譯を借りた。それを手初めに信吾は五六度も智惠子を訪ねた。
 信吾は智惠子に對して殊更に尊敬の態度を採(と)つた。時としては、もう幾年もの親しい友達の樣な口も利くが、概して二人の間に交換される會話は、恁□(こんな)田舎では聞かれた事のない高尚な問題で、人生(ライフ)とか信仰とか創作とかいふ語が多い。信吾は好んで其□(そんな)問題を擔(かつ)ぎ出し、對手に解らぬと知り乍ら六ヶ敷い哲學上の議論までする。氣をつけて聞けば、其謂ふ所に、或は一貫した思想も意見も無かつたかも知れぬ。又、其好んで口にする泰西の哲人の名に就いて彼自身の有つてゐる知識も疑問であつたかも知れぬ。それは兎も角、信吾が其□事を調子よく喋る時は、血の多い人のする樣に、大仰に眉を動したり、手を振つたり、自分の言ふ事に自分で先づ感動した樣子をする。
『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に眞面目になつて、若々しくなつて、平生考へてる事を皆言つて了ひたくなる。この二三年は何か恁う不安があつて、言はうと思ふこともつい人の前では言へなかつたりする樣になつてゐたんですが……實に不思議です。自分の思想を聞いてくれる人がある、否、それを言ひ得るといふ事が、既に一種の幸福を感じますね。』
と或時信吾は眞面目な口振で言つた。然しそれは、或は次の如く言ふべきであつたかも知れぬ。
『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に芝居を演(や)りたくなつて來て、つい心にない事まで言つて了ひます。』
 智惠子の方では、信吾の足繁き訪問に就いて、多少村の人達の思惑(おもわく)を心配せぬ譯にいかなかつた。狹い村だけに少しの事も意味あり氣に囃し立てるのが常である。萬一其□事があつては誠に心外の至りであると智惠子は思つた。それで成るべく寡言(ことばすくな)に、隙のない樣に待遇(あしら)つてゐるが、腑に落ちぬ事があり乍らも信吾の話が珍しい。我知らず熱心になつて、時には自分の考へを言つても見るが、其□時には、信吾は大袈裟に同感して見せる。歸つた後で考へてみると、男には矢張り氣障(きざ)な厭味(いやみ)な事が多い。殊更に自分の歡心を買はうとすることろが見える。『那(あゝ)した性質の人だ!』と智惠子は考へた。
 智惠子を訪ねた日は、大抵その足で信吾は富江を訪ねる。富江は例(いつ)に變らぬ調子で男を迎へる。信吾はニヤニヤ心で笑ひ乍ら川崎の家へ歸る。
 暑氣は日一日と酷(きび)しくなつて來た。殊にも今年は雨が少なくて、田といふ田には水が十分でない。日中は家の中でさへ九十度に上る。
 今朝も朝から雲一つ無く、東向の靜子の室の障子が、カッと眩(まぶ)しい朝日を受けて、晝の暑氣が思ひやられる。靜子は朝餐の後を、母から兄の單衣の縫直しを吩咐(いひつか)つて、一人其室に坐つた。
 ちらと鳥影が其障子に映つた。
『靜さん、其單衣はね……。』と言ひ乍ら信吾が入つて來た。
『兄樣、今日は屹度お客樣よ。』
『何故?』
『何故でも。』と笑顏を作つて、『そうら御覽なさい。』
 その時また鮮かな鳥影が障子を横ざまに飛んだ。
『ハハヽヽ。迷信家だね。事によつたら吉野が今日あたり着くかも知れないがね。』

      二

『あら、四五日中にお立ちになるつて昨日の手紙ぢやなかつたの?』
『然(さ)うさ。だがあの男の豫定位あてにならないものは無いんだ。雷(かみなり)みたいな奴よ、雲次第で何時でも鳴り出す……。』と信吾は其處に腰を下して、
『オイ、此衣服は少し短いんだから、長くして呉れ。』
『然う?』と、靜子は解きかけたネルの單衣に尺(ものさし)を使つて見て、『七寸……六分あるわ。短かゝなくつてよ、幾何(いくら)電信柱さんでも。』
『否(いや)短い。本人の言ふ事に間違ひつこなしだ。そら、其處に縫込んだ揚(あげ)があるぢやないか。それ丈下して呉れ。』
『だつて兄樣、さうすれば九寸位になつてよ。可いわ、そんなら八寸にしときませう。』『吝(けち)だな。も少し負けろ。』
『ぢや八寸一分?』
『もつと負けろ、氣に合はないから着ないと言つたら怎うする?』
『それは御勝手。』
『其□風でお嫁に行かれるかい?』
『厭(いや)よ、兄樣。』と信吾を睨(にら)む眞似をして、『だつて一分にすると、これより五分長くなるわ。可いでせう? その吉野さんて方、この春兄樣と京都の方へ旅行なすつた方でせう?』
『うん。』と笑ひ乍ら、手を延ばして、靜子の机の上から名に高き女詩人の『舞姫』を取る。本の小口からは、橄欖(おりいぶ)色の栞の房が垂れた。
『長くお泊りになるんでせう?』
『八月一杯遊んで行く約束なんだがね。飽きれば何日(いつ)でも飛び出すだらう、彼奴(あいつ)の事だから。』と横になつて、
『オイ、此本は昌作さんのか?』と頁を飜(めく)る。
『え。兄樣何か持つてらつしやらなくつて、其方のお書きになつたの。』
『否(いや)、遂買はなかつたが、この「舞姫」のあとに「夢の華」といふのがあるし、近頃また「常夏(とこなつ)」といふのが出た筈だ。』
『あら其方のぢやなくつてよ。其方ンなら私も知つてるわ。……その吉野さんのお書きになつたの?』
『吉野が?』と妹の顏を見て、『彼奴の詩は道樂よ。時々雜誌に匿名で出したのだけさ。本職は矢張洋畫の方だ。』
『然う?』と靜子は鋏の鈴をころ/\鳴らし乍ら、『展覽會なんかにお出しなすつて?』
『一度出した。あれは美術學校を卒業した年よ。然うだ、一昨年の秋の展覽會――そうら、お前も行つて見たぢやないか? 三尺許りの幅の、「嵐の前」といふ畫があつたらう?』
『然うでしたらうか?』
『あれだ、夕方の暗くなりかゝつた室の中で、青白い顏をした女が、厭やな眼附をして、眞白い猫を抱いてゐたらう? 卓子の上には擴げた手紙があつて、女の頭へ蔽被(おつかぶ)さる樣に鉢植の匂ひあらせいとうが咲いてゐた。そして窓の外を不愉快な色をした雲が、變な形で飛んでゐた。』
『見た樣な氣もするわ。それでなんですの「嵐の前」?』
『然うよ、その畫の意味はあの頃の人に解らなかつたんだ。日本のコロウよ、仲々偉(えら)い男だ。』
『コロウつて何の事?』
『ハッハヽヽ。佛蘭西の有名な畫家だ。』
『然う!』と言ひは言つたが、日本のコロウと云ふ意味は無論靜子に解りつこはない。唯偉い事を言つたのだと思つて、『其□方なら何故其後お出しにならないのでせう?』
『然うさ、まあ自重してるんだらう。彼奴が今度描いたら屹度滿都の士女を驚かせる! 俺には近頃いろんな友人が出來たが、吉野君なんか其中でもまあ話せる男だ。』と、暗に自分の偉くなつた事を吹聽する樣な調子で言ふ。
『姉樣、姉樣。』と叫び乍ら、芳子といふ十二三の妹がどたばた驅けて來た。
『何ですねえ、其□(そんな)に驅けて!』
『でも。』不平相な顏をして、『日向先生が被來たんだもの!』
『おや!』と靜子は兄の顏を見た。先程障子に映つた鳥影を思ひ出したので。

      三

 二三日經てば小學校も休暇になる。平生宿直室に寢泊りしてゐる校長の進藤は、もう師範出のうちでも古手の方で、今年は盛岡に開かれた體操と地理歴史教授法の夏期講習會に出席しなければならなかつた。それで、休暇中の宿直は森川が引受ける事になつて、これは土地の者の齋藤といふ年老つた首席教員と智惠子と富江の三人は、それ/″\村内に受持を定めて、兎角亂れ易い休暇中の兒童の風紀の、校外取締をすることになつた。富江は今年も矢張盛岡の夫の家へは歸らないで。智惠子にも歸るべき家が無かつた。無い譯ではない。兄夫婦は青森にゐるけれど、智惠子にはそれが自分の家の樣な氣がしない。よしや歸つたところで、あたら一月の休暇を不愉快に過して了ふに過ぎぬのだ。同窓の親しい友から、何處かの温泉場にでも共同生活をして樂しい夏を暮さうではないか、と言つて來たのもあるが、宿のお利代の心根を思ふと、別に譯もなくそれが忍びなかつた。結局智惠子は、八月二日に大澤の温泉で開かれる筈の師範時代の同級會に出席する外には、何處にも行かぬことに決めた。
 それで智惠子は、誰しも休暇前に一度やる樣に、八月一日に自分の爲すべき事の豫定を立てたものだ。そのうちには色々の事に遮(さへぎ)られて何日となく中絶してゐた英語の獨修を續ける事や、最も好きな歴史を繰返して讀む事や、色々あつたが、信吾の持つて歸つた書を成るべく澤山借りて讀まうといふのも其一つであつた。
 今日は折柄の日曜日、讀み了へたのを返して何か別の書を借りようと思つてまだ暑くならぬ午前の八時頃に小川家を訪ねたのだ。
 直ぐ歸る筈だつたのが無理に引き留められて、晝餐も御馳走になつた。午後はまた餘り暑いといふので、到頭四時頃になつて、それでも留めるのを漸くに暇乞して出た。田舍の素封家などにはよくある事で、何も珍しい事のない單調な家庭では、腹立しくなるまで無理に客を引き留める、客を待遇(もてな)さうとするよりは、寧ろそれによつて自分らの無聊を慰めようとする。
 平生の例で靜子が送つて出た。糊も萎(な)えた大形の浴衣にメリンスの幅狹い平常帶、素足に庭下駄を突掛けた無雜作な扮裝で、己が女傘(かさ)は疊んで、智惠子と肩も摩れ摩れに睦しげに列んだ。智惠子の方も平常着ではあるが、袴を穿いてゐる。何時しか二人はモウ鶴飼橋の上に立つた。
 此處は村での景色を一處に聚(あつ)めた。北から流れて來る北上川が、觀音下の崖に突當つて西に折れて、透徹る水が淺瀬に跳つて此吊橋の下を流れる。五六町行つて、川はまた南に曲つた。この橋に立てば、川上に姫神山、川下は岩手山、月は東の山にのぼり、日は西の峰に落つる。折柄の傾いた赤い日に宙に浮んだ此橋の影を、虹の影の如く川上の瀬に横たへて。
 南岸は崖になつてゐるが、北の岸は低く河原になつて、楊柳(やなぎ)が密生してゐる。水近い礫の間には可憐な撫子(なでしこ)が處々に咲いた。
 二人は鋼線(はりがね)を太い繩にした欄干に靠(もた)れて西日を背に受け乍ら、涼しい川風に袂を嬲らせて。
『そうら、彼(あれ)は屹度昌作さんよ。』と、靜子は今しも川上の瀬の中に立つてゐる一人の人を指さした。鮎を釣(か)けてゐるのであらう、編笠を冠つた背の高い男が、腰まで水に浸つて頻りに竿を動かしてゐる。種鮎か、それとも釣(かゝ)つたのか、ヒラリと銀色の鰭が波間に躍つた。
『だつて、昌作さんが那□!』と智惠子も眸を据ゑた。
『あら、鮎釣には那□扮裝(なり)して行くわ、皆。……昌作さんは近頃毎日よ。』と言つてる時、思ひがけなくも礫々(ごろ/\)といふ音響が二人の足に響いた。
 一臺の俥が、今しも町の方から來て橋の上に差懸つたのだ。二人は期せずして其方に向いたが、
『あら!』と靜子は聲を出して驚いて忽ち顏を染めた。女心は矢よりも早く、己が服裝の不行儀なのを恥ぢたので。

      四

 近づく俥の音は遠雷の如く二人の足に響いて、吊橋は心持搖れ出した。
 洋服姿の俥上の男は、麥藁帽の頭を俯向けて、膝の上に寫生帖(スケッチブック)に何やら書いてゐる――一目見て靜子は、兄の話で今日あたり來るかも知れぬと聞いた吉野が、この人だと知つた。好摩(かうま)午後三時着の下り列車で着いて、俥だから線路傳ひの近道は取れず、態々本道を澁民の町へ廻つて來たものであらう。智惠子も亦、話は先刻聞いたので、すぐそれと氣が附いた。
『お孃樣、お孃樣許(とこ)のお客樣を乘せて來ただあ。』と、車夫の元吉は高い聲で呼びかけ乍ら轅を止めて、
『あれがはあ、小川樣のお孃樣でがんす。』と、車上の人に言ふ。顏一杯に流れた汗を小汚い手拭でブルリと拭つた。
 智惠子は、自分がその小川家の者でない事を現す樣に、一足後へ退(さが)つた。その時、傍の靜子の耳の紅くなつてゐた事に氣がついた。
『あ、然うですか。』と、車上の人は鉛筆を持つた手で帽子を脱(と)つて、
『僕は吉野滿太郎です。小川が――小川君が居ませうか?』と武骨な調子でいふ。
『は。』と靜子は塞(つま)つた樣な聲を出して、『あの、今日あたりお着き遊ばすかも知れないと、お噂致して居りました。』
『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親しげな口を利いたが、些と俯向加減にして立つてゐる智惠子の方を偸(ぬす)み視て、
『失禮しました、俥の上で。……お先に。』と挨拶する。
『私こそ……。』と靜子は初心(うぶ)らしく口の中で言つて頭を下げた。
『どつこいしよ。』と許り、元吉は俥を曳出す。二人は其後を見送つて呆然(ぼんやり)立つてゐた。
 吉野は、中背の、色の淺黒い、見るから男らしく引緊つた顏で、力ある聲は底に錆を有つた。すぐ目に附くのは、眉と眉の間に深く刻まれた一本の皺で烈しい氣象の輝く眼は、美術家に特有の何か不安らしい働きをする。
 俥が橋を渡り盡すと、路は少し低くなつて、繁つた楊柳(やなぎ)の間から、新らしい吉野の麥藁帽が見える。橋はその時まで、少し搖(ゆ)れてゐた。
『私、甚□(どんな)に困つたでせう、這□(こんな)扮裝(なり)をしてゐて!』と靜子は初めて友の顏を見た。
『其□(そんな)に! 誰だつて平常(ふだん)には……』と慰め顏に言つて、
『貴女の許(とこ)は、これからまた賑かね。』
 其れはほんの、うつかりして言つたのだが、智惠子の眼は實際羨ましさうであつた。
『あら、だから貴女も毎日被來(いらつしや)いよ。これからお休みなんですもの。』
『有難う。』と言つて、『私もうお別れするわ。何卒皆樣に宜しく!』
『一寸。』とその袂を捉へて、『可(い)いわよ智惠子さん、も少し。』
『だつて。那□(あんな)に日が傾いちやつた。』と西の空を見る。眼は赤い光を宿して星の樣に若々しく輝いた。
『構はないぢやありませんか、智惠子さん。家へ被來(いらつしや)いな又!』
『この次に。』と智惠子は沈着(おちつ)いた聲で言つて、『貴女も早くお歸りなすつたが可いわ。お客樣が被來(いらし)つたぢやありませんか。』と妹にでも言ふ樣に。
『あら、私のお客樣ぢやなくつてよ。』と、靜子は少し顏を染めた。心では、吉野が來た爲に急いで歸つたと思はれるのが厭だつたので。
 それで、智惠子が袂を分つて橋を南へ渡り切るまでも、靜子は鋼線(はりがね)の欄に靠(もた)れて見送つてゐた。
 智惠子は考へ深い眼を足の爪先に落して、歸路を急いだが、其心にあるのは、例の樣に、今日一日を空(むだ)に過したといふ悔ではない。神は我と共にあり! と自ら慰め乍らも、矢張靜子が何がなしに羨まれた。が、宿の前まで來た頃は、自分にも解らぬ一種の希望が胸に湧いてゐた。
 で、家に入るや否や、お利代に泣き附いて何か強請(ねだ)つてゐる五歳の新坊を、矢庭に兩手で高く差上げて、
『新坊さん、新坊さん、新坊さん、何(ど)うしたんですよう。』と手荒く擽(くすぐ)つたものだ。
 新坊は、常にない智惠子の此擧動に喫驚(びつくり)して、泣くのは礑(はた)と止めて不安相に大きく目を□つた。

   其六

      一

 靜子の縁談は、最初、隨分性急に申込んで來て、兎に角も信吾が歸つてからと返事して置いたのが、既に一月、怎うしたのか其儘になつて、何の音沙汰もない、自然、家でも忘られた樣な形勢になつてゐた。
 結句それが、靜子にとつては都合がよかつた。母のお柳が、別に何處が惡いでなくて、兎角優れぬ勝の、口小言のみ喧(やかま)しいのへ、信吾は信吾で朝晩の惣菜まで、故障を言ふ性(たち)だから、人手の多い家庭ではあるが、靜子は矢張一日何かしら用に追はれてゐる。それも一つの張合になつて、兄が歸つてからというふもの、靜子はクヨ/\物を思ふ心の暇もなかつた。
 一體この家庭には妙な空氣が籠つてゐる。隱居の勘解由(かげゆ)はもう六十の阪を越して體も弱つてゐるが、小心な、一時間も空(むだ)には過されぬと言つた性(たち)なので、小作に任せぬ家の周圍の菜園から桑畑林檎畑の手入、皆自分が手づから指揮して、朝から晩まで戸外に居るが、その後妻のお兼とお柳との仲が兎角面白くないので、同じ家に居ながらも、信之親子と祖父母や其子等(信之には兄弟なのだが)とは、宛然(さながら)他人の樣に疎々(うと/\)しい。一家顏を合せるのは食事の時だけなのだ。
 それに父の信之は、村方の肝煎(きもいり)から諸附合、家にゐることとては夜だけなのだ。從つて、癇癪持のお柳が一家の權を握つて、其一顰(ぴん)一笑(せう)が家の中を明るくし又暗くする。見やう見まねで靜子の二人の妹――十三の春子に十一の芳子、まだ七歳にしかならぬ三男の雄三といふのまで、祖父母や昌作、その姉で年中病床にゐるお千世などを輕蔑する。其□(そんな)間に立つてゐる温なしい靜子には、それ相應に氣苦勞の絶えることがない。實際、信吾でも歸つて色々な話をしてくれたり、來客でもなければ、何の樂みもないのだ。尤も、靜子は譬へ甚□(どんな)事があつても、自分で自分の境遇に反抗し得る樣な氣の強い女ではないのだが。
 畫家の吉野滿太郎が來たのは、又しても靜子に一つの張合を増した。吉野の、何處か無愛相な、それでゐてソツのない態度は、先づ家中の人に喜ばれた。左程長くはないが、信吾とは隨分親密な間柄で(尤も吉野は信吾を寧ろ弟の樣に思つてるので)この春は一緒に畿内の方へ旅もした。今度はまた信吾の勸めで一夏を友の家に過す積りの、定つた職業とてもない、暢氣(のんき)な身上なのだ。
 言ふまでもなく信吾は、この遠來の友を迎へて喜んだ。それで取敢へず離室(はなれ)の八疊間を吉野の室に充てゝ、自分は母屋(おもや)の奧座敷に机を移した。吉野と兄の室の掃除は、下女の手傳もなく主に靜子がする。兎角、若い女は若い男の用を足すのが嬉しいもので。
 それ許りではない、靜子にはも一つ吉野に對して好感情を持つべき理由があつた。初めて逢つた時それは氣が附いたので。吉野は顏容(かほかたち)些(ちつ)とも似ては居ないが、その笑ふ時の目尻の皺が、怎うやら、死んだ浩一――靜子の許嫁――を思ひ出させた。
 生憎と、吉野の來た翌日から、雨が續いた。それで、客も來ず、出懸ける譯にもいかず、二日目三日目となつては吉野も大分退屈をしたが、お蔭で小川の家庭の樣子などが解つた。昌作も鮎釣にも出られず、日に幾度となく吉野の室を見舞つて色々な話を聞いたが、畫の事と限らず、詩の話、歌の話、昌作の平生飢ゑてる樣な話が多いので、もう早速吉野に敬服して了つた。
 降りこめた雨が三十一日(七月)の朝になつて漸く霽(あが)つた。と、吉野は、買物旁々、舊友に逢つて來ると言つて、其日の午後、一人盛岡に行くことになつた。

      二

 雨後の葉月空が心地よく晴れ渡つて、目を埋むる好摩(かうま)が原の青草は、緑の火の燃ゆるかと許り生々とした。
 小川の家では折角下男に送らせようと言つて呉れたのを斷つて、教へられた儘の線路傳ひ、手には洋杖(ステッキ)の外に何も持たぬ背廣扮裝(いでたち)の輕々しさ、畫家の吉野は今しも唯一人好摩停車場に辿り着いた。
 男神の如き岩手山と、名も姿も優しき姫神山に挾まれて、空には塵一筋浮べず、溢るゝ許りの夏の光を漂はせて北上川の上流に跨つた自然の若々しさは、旅慣れた身ながらも、吉野の眼には新しかつた。その色彩の單純なだけに、心は何となき輕快を覺え、唆かす樣な草葉の香りを胸深く吸つては、常になき健康を感じた。日頃、彼の頭腦を支配してゐる種々の形象と種々の色彩の混雜(こんがらが)つた樣な、何がなしに氣を焦立(いらだ)たせる重い壓迫も、彼の老ゆることなき空の色に吸ひ取られた樣で、彼は宛然(さながら)、二十前後の青年の樣な足取で、ついと停車場の待合所に入つた。
 眩い許りの戸外の明るさに慣れた眼には、人一人居ない此室の暗さは土窟にでも入つた樣で、暫しは何物も見えず、ぐら/\と眩暈(めまひ)がしさうになつたので、吉野は思はず知らず洋杖に力を入れて身を支へた。手巾を出して顏の汗を拭き乍ら、衣嚢(ポケット)の銀時計を見ると、四時幾分と聞いた發車時刻にもう間がない。急いで盛岡行の赤切符を買つて改札口へ出ると、
『向側からお乘りなさい。』
と教へ乍ら背の低い驛夫が鋏を入れる。チラと其時、向側のプラットホームに葡萄茶(えびちや)の袴を穿いた若い女の立つてゐるのが目についた。それは日向智惠子であつた。
 智惠子の方でも其時は氣が附いて居たが、三四日前に橋の上で逢つた限り、名も知り顏も知れど、口一つ利いたではなし、さればと言つて、乘客と言つては自分と其男と唯二人、隱るべき樣もないので、素知らぬ振も爲難い。夏中逗留するといへば、怎うせ又顏を合せなければならぬのだ。
 それで、吉野が線路を横切つて來るのを待つて、少し顏を染め乍ら輕くS卷の頭を下げて會釋した。
『や、意外な處でお目に懸ります。』と餘り偶然な邂逅を吉野も少し驚いたらしい。
『先日は失禮致しました。』
『怎うしまして、私こそ……。』と、脱(と)つた帽子の飾紐(リボン)に切符を□みながら、『フム、小川の所謂近世的婦人(モダーンウーマン)が此女(ひと)なのだ!』と心に思(おも)つた。
 そして、體を捻つて智惠子に向ひ合つて、『後で靜子さんから承つたんですが、貴女は日向さんと被仰(おつしや)るんですね?』
『は、左樣で御座います。』
『何れお目に懸る機會も有るだらうと思つてましたが、僕は吉野と申します。小川に居候に參つたんで。』
『お噂は、豫て靜子さんから承つて居りました。』
『來たよう。』と驛夫が向側で叫んだので、二人共目を轉じて線路の末を眺めると、遠く機關車の前部が見えて、何やらキラ/\と日に光る。
『今日は何處(どちら)まで?』
『盛岡までゝ御座います。』
『成程、學校は明日から休暇なさうですね。何ですか、お家は盛岡で?』
『否(いゝえ)。』と智惠子は愼しげに男の顏を見た。『學校に居りました頃からの同級會が、明後日大澤の温泉に開かれますので、それであの、盛岡のお友達をお誘ひする約束が御座いまして。』
『然うですか。それはお樂しみで御座いませう。』と鷹揚に微笑を浮べた。
『貴方は何處(どちら)へ?』
『矢張りその盛岡までゝす。』
 吉野は不圖、自分が平生(いつ)になく流暢に喋つてゐたことに氣が附いた。
 列車が着くと、これは青森上野間の直行なので車内は大分込んでゐる。二人の外には乘る者も、降りる者もない。漸くの事で、最後の三等車に少しの空席を見附けて乘込むと、その扉を閉め乍ら車掌が號笛(ふえ)を吹く。慌しく汽笛が鳴つて、ガタリと列車が動き出すと、智惠子はヨロヨロと足場を失つて思はず吉野に凭(よ)り掛(かゝ)つた。

      三

 吉野は窓際へ、直ぐ隣つて智惠子が腰を掛けたが、少し體を動かしても互いの體温を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動――紹介もなしに男と話をした事――が、はしたない樣な、否、はしたなく見られた樣な氣がして、「だつて、那□(あんな)切懸(きつかけ)だつたんだもの。」と心で辯疏(いひわけ)して見ても、怎(どう)やら氣が落着かない。乘合の人々からジロ/\顏を見られるので、仄(ほんの)りと上氣してゐた。
 北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右に袖を擴げた樣に東の空に連つた。車窓の前を野が走り木立が走る。時々、夥しい草葉の蒸香(いきれ)が風と共に入つて來る。
 程なく列車が轟と音を立てゝ松川の鐵橋に差かゝると、窓外を眺めて默つてゐた吉野は、『あ、あれが小川の家ですね。』
と言つて窓から首を出した。線路から一町程離れて、大きい茅葺の家、その周圍に四五軒農家のある――それが川崎の小川家なのだ。
 首を出した吉野は、直ぐと振返つて、
『小川の令妹(シスタア)が出てますよ。』
『あら。』と言つて、智惠子も立つたが、怎う思つてか、外から見られぬ樣に、男の後ろに身を隱して、そつと覗いて見た。
 靜子は妹共と一緒に田の中の畦道(あぜみち)に立つて、手巾(ハンカチ)を振つてゐる。妹共は何か叫んでるらしいが、無論それは聞えない。智惠子は無性に心が騷いだ。
 帽子を振つてゐた吉野が、再び腰を掛けた時は、智惠子は耳の根まで紅くして極り惡る氣に俯向いてゐた。靜子の行動が、偶然か、はた心あつて見送つたものか、はた又吉野と申合せての事か、それは解らないが、何れにしても智惠子の心には、萬一自分が男と一緒に乘つてゐる事を、友に見られはしないかといふ心配が、強く動悸を打つた。吉野はその、極り惡る氣な樣子を見て、『小川の所謂近代的婦人(モダーンウーマン)も案外初心(うぶ)だ!』と思つたかも知れない。
 その實男も、先刻汽車に乘つた時から、妙に此女と體を密接してゐることに壓迫を感じてゐるので、それを紛(まぎ)らかさうとして、何か話を始め樣としたが、兎角、言葉が喉に塞(つま)る。其□(そんな)筈はないと自分で制しながらも、斷々(きれ/″\)に、信吾が此女を莫迦(ばか)に讃めてゐた事、自分がそれを兎や角冷かした事を思出してゐたが、腰を掛けるを切懸(きつかけ)に、
『貴女は、何日お歸りになります?』と何氣なく口を切つた。
『三日に、あの歸らうと思つてます。』
『然うですか。』
『貴方は?』
『僕は何日でも可いんですが、矢張り三日頃になるかも知れません。』と言つたが不圖思ひついた事がある樣に、
『貴女は盛岡の中學に圖畫の教師をしてる男を御存じありませんか? 渡邊金之助といふ?』
『存じて居ります。』と、智惠子は驚いた樣な顏をする。
『貴方(あなた)はあの、あの方と同じ學校を……?』
『然うです。美術學校で同級だつたんですが、……あゝ御存知ですか! 然うですか!』と鷹揚(おうやう)に頷(うなづ)いて、『甚□(どんな)で居るんでせう? まだ結婚しないでせうか?』
『え、まだ爲(な)さらない樣ですが。』と、□つた眼を男に注いで、『貴方はあの、渡邊さんへ被行(いらつしや)るんで御座いますか。』
『え、突然訪ねて見ようと思ふんですがね。』と、少し腑に落ちぬ樣な目附をする。
『まあ、左樣で御座いますか!』と一層驚いて、『私もあの、其家(そこ)へ參りますので……渡邊さんの妹樣(さん)と私と、矢張り同じ級(クラス)で御座いまして。』
『妹樣と? 然うですか! これは不思議だ!』と吉野も流石に驚いた。
『あの、久子さんと被仰(おつしや)います……。』
『然うですか! ぢや何ですね、貴女と僕と同じ家に行くんで! これは驚いた。』
『マア眞箇(ほんと)に!』と言ひ乍ら、智惠子は忽ち或る不安に襲はれた。靜子の事が心に浮んだので。


   第七

      一

 宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣に出懸けた。
 休暇になつてからの學校ほど伽藍堂(がらんどう)[#「伽藍堂」は底本では「伽籃堂」]に寂しいものはない。建物が大きいのと平生耳を聾する樣な喧騷に充ちてるのとで、日一日、人ツ子一人來ないとなると、俄かに荒れはてた樣な氣がする。常には目立たぬ塵埃が際立つて目につく。職員室の卓子の上も、硯箱や帳簿やら、皆取片附けられて了つて、其上に薄く塵が落ちた。
 懶いチクタクの音を響かせてゐる柱時計の下で、富江は森川の歸りを待つ間の退屈に額に汗をかきながら編物をしてゐた。暑い盛りの午後二時過、開け放した窓から時々戸外を眺めるが、烈々たる夏の日は目も痛む程で、うなだれた木の葉にそよとの風もなく、大人は山に、子供らは皆川に行つた頃だから、四邊が妙に靜まり返つてゐる。其處へブラリと昌作が、遣つて來た。
『暑いでせう外は。先刻(さつき)から眠くなつて/\爲樣(しやう)のないところだつたの。』と富江は椅子を薦(すゝ)める。年下の弟でも遇(あし)らふ樣な素振りだ。
 それに慣れて了つて、昌作も挨拶するでもなく、『暑い暑い』と帽子も冠らずに來た髮のモヂャ/\した頭に手を遣つて、荒い白絣の袖を肩に捲(まく)り上げた儘腰を下した。
『森川君は?』
『鮎釣に行つたの。釣れもしないくせに。』
『すると何だな、貴女が留守役を仰附かつてゐたんだな。ハハヽヽ好い氣味だ。』
『口の惡い! 何が好い氣味なもんですか。其□(そんな)事を言ふとお茶菓子を買ひませんよ。』と睨んで見せる。
『フム。』と昌作は妙に濟し込んで、『御勝手に。』
『まあ口許りぢやない人が惡くなつたよ、子供の癖に!』と言ひながら、手を延ばして呼鈴の綱を引いて、
『然う/\、一昨日は御馳走樣。お客樣はまだ歸つてらつしやらないの?』
『あーい。』と彼方で眠さうな聲。
『まだ。今日か明日歸るさうだ。吉野樣(さん)がゐないと俺は薩張(さつぱ)り詰らないから、今日は莫迦に暑いけれども飛出して來たんだ。』
『生憎と日向樣もまだ歸らないの。』と富江は調戲(からか)ふ眼附で青年の顏を見た。其處へ白髮頭の小使が入つて來て用を聞いたので、女は何かお菓子を買つて來いと命ずる。
『そら、到頭買うんだ。』と昌作はしたり顏。
『私が喰べるのですよ、誰が昌作さんなんかに上げるもんですか。』と減(へ)らず口を叩(たゝ)いて、
『よ、昌作さん、ハイカラの智惠子さんもまだ歸らないの。』
『フム。』
『何がフムですか。昌作さんの歌を大變賞めてるから、行つて御禮を被仰(おつしやい)よ。』
『フム。家の信吾ぢやないし。』
『え? 信吾さんが?』
『知らない。』
『信吾さんが行くの? マア好い事聞いた。ホホヽヽヽヽ、マア好い事聞いた。』
と、富江は彈(はじ)けた樣に一人で騷いで、
『マア好い事聞いた、信吾さんが智惠子さんの許(とこ)へ行くの。今度逢つたらうんと揶揄(からか)つて上げよう。ホホヽヽ。』
 昌作は冷かに其顏を眺めてゐたが、
『可けない/\。其□(そんな)話、吉野さんの前なんかで言つちや可けませんぞ。』
『あら、怎(ど)うして?』と忙しい眼づかひをする。
『だつて、詰らないぢやないですか。』
『詰らない? 言ひますよ私。』
『詰らない! 第一吉野さんの前で其□事が言へますか? 豪い人だ。信吾の友達には全く惜しい人だ。』
『まあ、大層見識が高くなつたのね?』
 すると昌作は、忽ち不快な顏をして默つた。
『其□に豪いの、その方は?』
『時にですな、』と昌作は附かぬ事を言ひ出した。『今日は貴女に用を頼まれて來たんだ。』
『オヤ、誰方から?』
 其時小使が駄菓子の袋を恭しく持つて入つて來た。

      二

『當てゝ御覽なさい。』と昌作はしたり顏に拗(す)ねる。
 其顏を、富江はマジ/\と見てゐたが、小使の出てゆくのを待つて、
『信吾さんから?』
 ピクリと昌作の眉が動いた。そして眼鏡の中で急しく瞬きをし乍ら顏を大きく横に振る。
『そんなら、誰方?』
『無論、貴女の知つた人からだ。』と小憎らしく濟したものだ。
『懊(じれ)つたい!』と自暴(やけ)に體を顫はせて、
『よ、誰方(どなた)からつてばさ。』
『ハッハハ、解りませんか?』と、何處までも高く踏んで出る。
『好いわ、もう聞かなくつても。』
『それぢや俺が困る。實はですね。』
『知りません。』
『登記所の山内君からだ。以前貴女から「戀愛詩評釋」といふ書を借りたことがあるさうだ。それを又讀みたいから俺に借りて來て呉れと言ふんですがね。』
『オヤ、何故御自分で被來(いらつしや)らないでせう?』
『だつて寢てるんだもの。』
『ぢやもう、床に就いたの?』と低めに言つて、胡散(うさん)臭い眼附をする。
『一昨日俺と鮎釣に行つて、夕立に會つたんですよ。それで以て山内は弱いから風邪を引いたんだ。』
『あら昌作さん、山内さんは肺病だつたんぢや有りませんか?』
『肺病?』と正直に驚いた顏をしたが『嘘だ!』
『嘘なもんですか。始終(しよつちう)那□(あんな)妙な咳をしてゐたぢやありませんか。……加藤さんがそ言つてるんですもの。』
『肺病だと?』
『え。』と氣がさした樣に聲を落して、『だけど私が言つたなんか言つちや厭よ。よ、昌作さん貴方も傳染(うつ)らない樣に用心なさいよ。』
『莫迦な! 山内は那□(あんな)小さい體をしてるもんだから、皆で色々な事を言ふんだ。俺だつて咳はする――。』
『馬の樣な咳を。ホホヽヽ。』と富江は笑つて、『誰がまた、那□一寸法師さんを一人前の人待遇(あつかひ)にするもんですか。』
 そして取つて附けた樣にホホヽヽと又笑つた。
『だから不可(いけ)ない。』と昌作は錆びた聲に力を入れて、『體の大小によつて人を輕重するといふ法はない。眞箇に俺は憤慨する。家の奴等も皆然(さ)うだ。』
『然(さ)うでないのは日向のハイカラさん許りでせう!』
 昌作は聞かぬ振をして、『英吉利の詩人にポープといふ人が有つた。その詩人は、佝僂(せむし)で跛足(びつこ)だつたさうだ。人物の大小は體に關らないさ。』と、三文雜誌でゞも讀んだらしい事を豪さうに喋る。
『大層力んで見せるのね。だけれど山内樣は別に大詩人でもないぢやありませんか?』
『それは別問題だ。……』と正直に塞つて、『それは然うと、今言つた書を貸して下さい。』
『家に置いてあるの。』
『小使を遣つて取寄せて呉れるさ。』と頼む樣な調子で。
『肺病患者なんかに!』獨言つ樣に言つて、『あのね、昌作さん。』と可笑しさを怺(こら)へた樣な眼附をする。『恁(か)う言つて下さいな山内さんに。あのね、評釋なんか無くつて解るぢやありませんかつて。』
『え? 何ですつて?』と昌作は眞面目に腑に落ちぬ顏をする。
『ホホヽヽヽ。』と、富江は一人高笑ひをした。そして『書(ほん)はね、後で誰かに屆けさせますよ。』
 一時間程經つて、昌作は、來た時の樣にブラリと、帽子も冠らず、單衣の兩袖を肩に捲くり上げて、長い體を妙に氣取つて、學校の門を出た。
 そして川崎道の曲角まで來た時、二三町彼方から、深張りの橄欖色(おりいぶいろ)の傘をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて來るのに目をつけた。『ハハア、歸つて來たナ。』と呟いて、足を淀めたが、ついと横路へ入る。
 三日前に畫家の吉野と同じ汽車に乘合せて、大澤温泉に開かれた同級會へ行つた智惠子は、今しも唯一人、町の入口まで歸つて來た。

      三

 小川家の離室(はなれ)には、畫家の吉野と信吾とが相對してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から歸つて來た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏襯衣(ちよつき)の、その鈕まで脱(はづ)して、胡座(あぐら)をかいた。
 その土産らしい西洋菓子の凾を開き茶を注(つ)いで、靜子も其處に坐つた。母屋の方では、キヤッ/\と妹共の騷ぐのが聞える。
『だからね。』と吉野は其友渡邊の噂を續けた。
『僕は中學の畫の教師なんかやるのが抑も愚だと言つて遣(や)つたんだ。奴だつて學校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙(ずつ)と常識的な男でね。靜物の寫生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友の間でも色彩の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩(なにいろ)を使つても習慣(コンベンション)を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覽會に出した風景と靜物なんか黒人(くろうと)仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴が君、遊びに來た中學生に三宅の水彩畫の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否(いや)悲しいといふよりは癪に障つたよ。何といふのかな、那□具合で到頭埋もれて了ふのを。平凡の悲劇とでも言ふかな……。』
『だつて君。』と信吾は委細呑込んだと言つた樣な顏をして、『其人にだつて家庭の事情てな事が有らあな。一年や二年中學の教師をした所で、畫才が全然滅びるつて事も無からうさ。』
『それがよ、家庭の事情なんて事がてんで可(よ)くない。生活問題は誰にしろ有るさ。然し藝術上の才能は然うは行かない。其奴が君、戰つても見ないで初めつから生活に降參するなんて、意氣地が無いやね。……とまあ言つて見たんさ、我身に引較べてね。』
『ハハヽヽ。君にも似合はんことを言ふぢやないか。』とゴロリ横になる。
 其處へ、庭に勢ひのいゝ下駄の音がして、昌作が植込の中からヒョックリと出て來た。今しも町から歸つて來たので。
『やあ、お歸りになりましたな。』と吉野に聲をかける。
『否、も少し先に。今日も貴方は鮎釣でしたか?』
『否(いゝえ)。』と無造作に答へて縁側に腰を掛けた。『吉野さん、貴方、日向さんと同じ汽車でしたらう?』
『え?』と靜子が聞耳を立てる。
『然う、然う。』と、吉野は今迄忘れてゐたと言つた樣に言つて、靜子の方に向いた。『それ、過日(こなひだ)橋の上に貴女と二人立つてゐた方ですね。あの方と今日同じ汽車に乘りましたよ。』
『あら智惠子さんと。然うでしたか! よくお解りになりましたね。』と莞爾(につこり)、何氣なく言つた。
『否(いや)その、何です、今話した渡邊の家で紹介されたんです。渡邊の妹君(シスタア)と親友なんださうで、偶然同じ家に泊つた譯なんです。』と、吉野は急しく眼をぱちつかせ乍ら、無意識に煙草に手を出す。
『オヤ然うでしたの!』
『然うかい!』と信吾も驚いて、『それは奇遇だつたな。實に不思議だ。』
『別段奇遇でも無からうがね。唯逢つただけよ。』と、吉野は顏にかゝる煙草の煙に大仰(おほぎやう)に眉を寄せる。
『昌作さんは何ですか、日向さんと逢つて來たの?』と信吾が横になつた儘で問うた。
『否(いや)。歸つて來た所を遠くから見ただけだ。』
『よつぽど遠くからね? ハヽヽ。』
 昌作はムッとした顏をして、返事はせずに、吉野の顏色を覗つた。
 然うしてる所へ、母屋の方には賑かな女の話聲。下女が前掛で手を拭きながらバタ/\驅けて來て、[#「來て、」は底本では「來て」]
『若旦那樣、お孃樣、板垣樣の叔母樣が盛岡からお出(で)アンした。』
『アラ今日被來(いらしつ)たの。明日かと思つたら。』と、靜子は吉野に會釋して怡々(いそ/\)下女の後から出て行く。
『父の妹が泊懸(とまりがけ)に來たんだ。一寸行つて會つてくるよ。』
と信吾も立つた。昌作は何時の間にか居ない。
 吉野は眉間の皺を殊更深くして、ぢつと植込の邊に瞳を据ゑてゐた。

   其八

      一

 智惠子は渡邊の家に一泊して、渡邊の妹の久子といふのと翌一日大澤の温泉に着いたのであつた。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨溪館といふ温泉宿の二階に、縣下の各地方から集つた。
 兎角女といふものは、學校にゐる時は如何に親しくしても、一度別れて了へば心ならずも疎(うと)くなり易い。それは各々の境遇が變つて了ふ爲めで、智惠子等のそれは、卒業してからも同じ職業に就いてるからこそ、同級會といふ樣なものも出來るのだ。三年の月日を姉と呼び妹と呼んで一棟の寄宿舍に起臥を共にした間柄、校門を辭して散々に任地に就いてからの一年半の間に、身に心に變化のあつた人も多からうが、さて相共に顏を合せては、自から氣が樂しかつた寄宿舍時代に歸つた。數限りなき追憶が口々に語られた。氣輕な連中は、階下の客の迷惑も心づかず、その一人が彈くヴアイオリンの音に伴れてダンスを始めた。恁くて此若い女達は翌二日の夜更までは何も彼も忘れて樂みに醉うた。缺席したのは四人、その一人は死に、その一人は病み、他の二人は懷姙中とのことで。――結婚したのはこの外にも五六人あつた。
 各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいという事、頭腦の舊い校長の惡口、同じ師範出の男教員が案外不眞面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大體に於て各々の意見が一致した。中に一人、智惠子の村の加藤醫師と遠縁の親戚だといふのがあつた。その女から、智惠子は清子に宛てた一封の手紙を托された。
 その手紙を屆けるべく、智惠子は澁民に歸つた翌日の午前、何氣なく加藤醫院を訪れたのであつた。
 玄關には、腰掛けたのや、上り込んだのや、薄汚ない扮裝をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顏をして、各自(てんで)に藥瓶の數多く並んだ棚や粉藥を分量してゐる小生意氣な藥局生の手先などを眺めてゐた。智惠子が其處へ入ると、有つ丈の眼が等しく其美しい顏に聚(あつま)つた。
『奧樣は?』
『ハイ。』と答へて、藥局生は匙を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽へた樣に居住ひを直した。諄々(くど/\)と挨拶したのもあつた。
 今朝髮を洗つたと見えて、智惠子は房々とした長い髮を、束ねもせず、緑の雲を被いだ樣に、肩から背に豐かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣の新しいセルの單衣に、帶は平常のメリンス、そのきちんとしたお太鼓が搖めく髮に隱れた。
 少し手間取つて、倉皇(そゝくさ)と小走りに清子が出て來た。
『まあ日向先生、何日お歸りになりましたの? さ何卒(どうぞ)。』
『は有難う。昨日夕方に歸りました許りで。』
『お樂みでしたわねえ。さ何卒お上り下さいまし、……あの小川さんのお客樣も被來(いらし)てますから。』
『は?』と智惠子は、脱ぎかけた下駄を止めた。
『吉野さんとか被仰る、畫をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰つてで御座いますよ。』
『あの、吉野さんが?』
『え。宅が小川さんで二三度お目にかゝりました相で、……昌作さんとお二人。ま何卒(どうぞ)。』
『は有難う。あのう……』と言ひ乍ら智惠子は懷から例の手紙を取出して、手短に其由來を語つて清子に渡した。
『ま然うでしたか。それは怎うも。……それは然うと、さ、さ。』と。手を引く許りにする。
『あの一寸學校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』
『あら、日向樣、其□貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、
『眞箇(ほんと)よ、奧樣。何れ後で。』
 智惠子は逃げる樣にして戸外に出た、と、忽ち顏が火の樣に熱つて、恐ろしく動悸がしてるのに氣がついた。

      二

 加藤の玄關を出た智惠子は、無意識に足が學校の方へ向つた。莫迦に胸騷ぎがする。
「何故那□(あんな)に狼狽(うろた)へたらう?」恁う自分で自分に問うて見た。
「何故那□に狼狽(うろた)へたらう? 吉野さんが被來(いらしつ)てゐたとて! 何が怖かつたらう! 清子さんも可笑しいと思つたであらう! 何故那□に狼狽(うろたへ)たらう? 何も譯が無いぢやないか!」
 理由は無い。
 智惠子は一歩毎に顏が益々上氣して來る樣に感じた。何がなしに、吉野と昌作が後ろから急ぎ足で追驅けて來る樣な氣がする。それが、一歩々々に近づいて來る……
 其□事は無い、と自分で譴(たしな)めて見る、何時しか息遣ひが忙しくなつてゐる。
 取留めもなく氣がそはついてるうちに歩くともなくもう學校の門だ。つと入つた。
 職員室の窓が開いて、細い竿釣が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シャツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄(いぢく)つてゐた。
 不圖顏を上げると、
『オヤ、日向さん、何時お歸りになりました?』
『は、あの、昨日夕方に。』と、外に立つて頭を下げる。洗ひ髮がさらりと肩から胸へ落つる。智惠子は、うるさい樣にそれを手で後ろにやつた。
『面白かつたでせう? さ、まあお上りなさい。』
『否(いゝえ)、あの。』と息が少し切れる。『あの私宛の手紙でも參つてゐませんでせうか?』
『奈何(どう)でしたか! あ、來ませんよ、神山樣の方の間違です。まあお上りなさい。』
『は有難う御座います。一寸あの、一寸、後ろの山へ行つて見ますから。』
『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハヽヽ。ま可いでせう?』
『は、何れ明日でも。』と行掛ける。
『あ、日向樣、貴女(あなた)に少しお願ひがありますがねえ。』
『何で御座いますか?』
『何有(なあに)眞(ほん)の些とした事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。
『何で御座いますか、私に出來る事なら……。』と智惠子は何時になく焦(もど)かし相な顏をした。
『出來る事ですとも。』また笑つて、『その何ですよ、過日(こなひだ)、否(いや)昨日か、神山樣にも一日お願ひしたんですがね。その、私は鮎釣に行きますから、御都合の可い時一日學校に被來(いらつしや)つて下さいませんか?』
『は、可(よ)う御座いますとも。何日(いつ)でも貴方の御出懸けになる時は、あの大抵の日は小使をお寄越し下されば直ぐ參ります。』
『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、濟みませんが。』
『何日でも……。』と言つて智惠子は、足早に裏の方に□つた。
 裏は直ぐ雜木の山になつて、下暗い木立の奧がこんもりと仰がれる。校舍の屋根に被(かぶ)さる樣になつた青葉には、楢もあれば、栗もある。鮮やかな色に重なり合つて。
 便所の後ろになつてゐる上り口から、智惠子はスタスタと坂を登つた。
 木立の中から、心地よく濕つた風が顏へ吹く。と、そのこんもりした奧から樂しさうな晝杜鵑(ひるほとゝぎす)の聲。
 聲は小迷(さまよ)ふ樣に、彼方此方(あちこち)、梢を渡つて、若き胸の轟きに調べを合せる。
 智惠子は躍る樣な心地になつて、つと青葉の下蔭に潜り込んだ。

      三

 やゝ急な西向の傾斜、幾年の落葉の朽ちた土に下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、處々、虎斑(とらふ)の樣に影を落して、そこはかとなく搖めいた。細き太き、數知れぬ樹々の梢は參差として相交つてゐる。
 唆かす樣な青葉の香が、頬を撫で、髮に戲れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。
『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隱れた晝杜鵑が啼く。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な、若い胸の底から漂ひ出る樣な聲だ。その聲が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何處ともなき青葉の戰(さや)ぎ!
 と、少し隔つた彼方から、『ククヽヽクウ』と同じ聲が起る。
『ククヽヽクウ。ククヽヽクウ。』と、後の方からも。

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