雲は天才である
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著者名:石川啄木 


 茲に少し省略の筆を用ゐる。自分の問に對して、石本君が、例の音吐朗々たるナポレオン聲を以て詳しく説明して呉れた一切は、大略次の如くであつた。
 石本俊吉は今八戸(はちのへ)(青森縣三戸(さんのへ)郡)から來た。然し故郷はズット南の靜岡縣である。土地で中等の生活をして居る農家に生れて、兄が一人妹が一人あつた。妹は俊吉に似ぬ天使の樣な美貌を持つて居たが、其美貌祟りをなして、三年以前、十七歳の花盛の中に悲慘な最後を遂げた。公吏の職にさへあつた或る男の、野獸の如き貪婪(どんらん)が、罪なき少女の胸に九寸五分の冷鐵を突き立てたのだといふ。兄は立派な體格を備へて居たが、日清の戰役に九連城畔であへなく陣歿した。『自分だけは醜い不具者であるから未だ誰にも殺されないのです。』と俊吉は附加へた。兩親は仲々勉強で、何一つ間違つた事をした覺えもないが、どうしたものか兄の死後、格段な不幸の起つたでもないのに、家運は漸々傾いて來た。そして、俊吉が十五の春、土地の高等小學校を卒業した頃は、山も畑も他人の所有(もの)に移つて、少許(すこしばかり)の田と家屋敷が殘つて居た丈けであつた。其年の秋、年上な一友と共に東京に夜逃をした。新橋へ着いた時は懷中僅かに二圓三十錢と五厘あつた丈けである。無論前途に非常な大望を抱いての事。稚ない時から不具な爲めに受けて來た恥辱が、抑ゆべからざる復讐心を起させて居たので、この夜逃も詰りは其爲めである。又同じ理由に依つて、上京後は勞働と勉學の傍ら熱心に柔道を學んだ。今ではこれでも加納流の初段である。然し其頃の悲慘なる境遇は兎ても一朝一夕に語りつくす事が出來ない、餓ゑて泣いて、國へ歸らうにも旅費がなく、翌年の二月、さる人に救はれる迄は定まれる宿とてもなかつた位。十六歳にして或る私立の中學校に這入つた。三年許りにして其保護者(パトロン)の死んだ後は、再び大都の中央(まんなか)へ礫(いしころ)の如く投げ出されたが、兎に角非常な勞働によつて僅少の學費を得、其學校に籍だけは置いた。昨年の夏、一月許り病氣をして、ために東京では飯喰ふ道を失ひ、止むなく九月の初めに、友を便つて乞食をしながら八戸迄東下りをした。そして、實に一週間以前までは其處の中學の五年級で、朝は早く『八戸タイムス』といふ日刊新聞の配達をし、午後三時から七時迄四時間の間は、友人なる或菓子屋に雇はれて名物の八戸煎餅を燒き、都合六圓の金を得て月々の生命を繋ぎ、又學費として、孤衾襟寒き苦學自炊の日を送つて來たのだといふ。年齡は二十二歳、身の不具で弱くて小さい所以は、母の胎内に七ヶ月しか我慢がしきれず、無理矢理に娑婆へ暴れ出した罰であらうと考へられる。
 天野朱雲氏との交際は、今日で恰度半年目である。忘れもせぬ本年一月元旦、學校で四方拜の式を濟せてから、特務曹長上りの豫備少尉なる體操教師を訪問して、苦學生の口には甘露とも思はれるビールの馳走を受けた。まだ醉の醒めぬ顏を、ヒューと矢尻を研ぐ北國の正月の風に吹かせ乍ら、意氣揚々として歸つてくると、時は午後の四時頃、とある町の彼方から極めて異色ある一人物が來る。酒とお芽出度うと晴衣の正月元日に、見れば自分と同じ樣に裾から綿も出ようといふ古綿入を着て、羽織もなく帽子もなく、髮は蓬々として熊の皮を冠つた如く、然も癪にさはる程悠々たる歩調で、洋杖(ステッキ)を大きく振り□し乍ら、目は雪曇りのした空を見詰めて、……。初めは狂人かと思つた。近づいて見ると、五分位に延びた漆黒の鬚髯が殆んど其平たい顏の全面を埋めて、空を見詰むる目は物凄くもギラギラする巨大なる洞穴の樣だ。隨分非文明な男だと思ひ乍ら行きずりに過ぎようとすると、其男の大圈(おほわ)に振つて居る太い洋杖が、發矢(はつし)と許り俊吉の肩先を打つた。『何をするツ』と身構へると、其男も立止つて振返つた。が、極めて平氣で自分を見下すのだ。癪にさはる。先刻(さつき)も申上げた通り、これでも柔術は加納流の初段であるので、一秒の後には其非文明な男は雪の堅く凍つた路へ□(どう)と許り倒れた。直ぐ起き上る。打つて來るかとまた身構へると、矢張平氣だ。そして破鐘の樣な聲で、怒つた風もなく、
『君は元氣のいい男だね!』
 自分の滿身の力は、此一語によつて急に何處へか逃げて了つた。トタンに復、
『面白い。どうだ君、僕と一しょに來給へ。』
『君も變な男だね!』
と自分も云つて見た。然し何の效能も無かつた。變な男は悠々と先に立つて歩く。自分も默つて其後に從つた。見れば見る程、考へれば考へる程、誠に奇妙な男である。此時まで斯ういふ男は見た事も聞いた事もない。一種の好奇心と、征服された樣な心持とに導かれて、三四町も行くと、
『此處だ。獨身ぢやから遠慮はない。サア。』
「此處」は廣くもあらぬ八戸の町で、新聞配達の俊吉でさへ知らなかつた位な場處、と云はば、大抵どんな處か想像がつかう。薄汚ない横町の、晝猶暗き路次を這入つた突當り、豚小舍よりもまだ酷い二間間口の裏長屋であつた。此日、俊吉が此處から歸つたのは、夜も既に十一時を過ぎた頃であつた。その後は殆んど夜毎に此豚小舍へ通ふやうになつた。變な男は乃ち朱雲天野大助であつたのだ。『天野君は僕の友人で、兄で先生で、そして又導師です。』と俊吉は告白した。
 家出をして茲に足掛八年、故郷へ歸つたのは三年前に妹が悲慘な最後を遂げた時唯一度である。家は年々に零落して、其時は既に家屋敷の外父の所有といふものは一坪もなかつた。四分六分の殘酷な小作で、漸やく煙を立てて居たのである。老いたる母は、其儘俊吉をひき留めようと云ひ出した。然し父は一言も云はなかつた。二週間の後には再び家を出た。その時父は、『壯健(たつしや)で豪い人になつてくれ。それ迄は死なないで待つて居るぞ。石本の家を昔に還して呉れ。』といつて、五十餘年の勞苦に疲れた眼から大きい涙を流した。そして何處から工面したものか、十三圓の金を手づから俊吉の襯衣(しやつ)の内衣嚢(かくし)に入れて呉れた。これが、父の最後の言葉で又最後の慈悲であつた。今は再び此父を此世に見る事は出來ない。
 と云ふのは、父は五十九歳を一期として、二週間以前(まへ)にあの世の人と成つたのである。この通知の俊吉に達したのは、實に一週間前の雨の夕であつた。『この手紙です。』といつて一封の書を袂から出す。そして、打濕つた聲で話を續ける。
『僕は泣いたです。例の菓子屋から、傘がないので風呂敷を被(かぶ)つて歸つて來て見ると、宿の主婦(かみ)さんの渡してくれたのが、此手紙です。いくら讀み返して見ても、矢張り老父(おやぢ)が死んだとしか書いて居ない、そんなら何故(なぜ)電報で知らして呉れぬかと怨んでも見ましたが、然し私の村は電信局から十六里もある山中なんです。恰度其日が一七日と氣がつきましたから、平常嫌ひな代數と幾何の教科書を賣つて、三十錢許り貰ひました。それで花を一束と、それから能く子供の時に老父が買って來て呉れました黒玉――アノ、黒砂糖を堅くした樣な小さい玉ですネ、あれを買つて來て、寫眞などもありませんから、この手紙を机の上に飾つて、そして其花と黒玉を手向(たむ)けたんです。…………其時の事は、もう何とも口では云へません。殘つたのは母一人です、そして僕は、二百里も遠い所に居て、矢張一人ポッチです。』
 石本は一寸句を切つた。大きい涙がボロ/\と其右の眼からこぼれた。自分も涙が出た。何か云はうとして口を開いたが、聲が出ない。
『その晩は一睡もしませんでした。彼是十二時近くだつたでせうが、線香を忘れて居たのに氣が附きまして、買ひに出掛けました。寢て了つた店をやう/\叩き起して、買ふには買ひましたが、困つたです、雨が篠つく樣ですし、矢張風呂敷を被つて行つたものですから、其時はもうビショ濡れになつて居ます。どうして此線香を濡らさずに持つて歸らうかと思つて、藥種屋の軒下に暫らく立つて考へましたが、店の戸は直ぐ閉るし、後は急に眞暗になつて、何にも見えません。雨はもう、轟々ツと鳴つて酷(ひど)い降り樣なんです。望の綱がスッカリ切れて了つた樣な氣がして、僕は生れてから、隨分心細く許り暮して來ましたが、然し此時位、何も彼もなくたゞ無暗にもう死にたくなつて、呼吸(いき)もつかずに目を瞑(つむ)る程心細いと思つた事はありません。斯んな時は涙も出ないですよ。
『それから、其處に立つて居たのが、如何(どれ)程の時間か自分では知りませんが、氣が附いた時は雨がスッカリ止んで、何だか少し足もとが明るいのです。見ると東の空がボーッと赤くなつて居ましたつけ。夜が明けるんですネ。多分此時まで失神して居たのでせうが、よくも倒れずに立つて居たものと不思議に思ひました。線香ですか? 線香はシッカリ握つて居ました、堅く、しかし濡れて用に立たなくなつて居るのです。
『また買はうと思つたんですが、濡れてビショ/\の袂に一錢五厘しか殘つて居ないんです。一把二錢でしたが……。本を賣つた三十錢の内、國へ手紙を出さうと思つて、紙と状袋と切手を一枚買ひましたし、花は五錢でドッサリ、黒玉も、たゞもう父に死なれた口惜(くやし)まぎれに、今思へば無考(むかんがへ)な話ですけれども、十五錢程買つたのですもの。仕方がないから、それなり歸つて來て、其時は餘程障子も白んで居ましたが、復此手紙を讀みました。所が可成(なるべく)早く國に歸つて呉れといふ事が、繰り返し/\書いてあるんです。昨夜はチッとも氣がつかなかつたのですが、無論讀んだには讀んだ筈なんで、多分「父が死んだ」といふ、たゞそれ丈けで頭が一杯だつた故(せゐ)でせう。成程、父と同年で矢張五十九になる母が唯一人殘つたのですもの、どう考へたつて歸らなくちやならない、且つ自分でも羽があつたら飛んで行きたい程一刻も早く歸り度いんです。然し金がない、一錢五厘しか無い、草鞋一足だつて二錢は取られまさあアね。新聞社の方も菓子屋の方も、實は何日でも月初めに前借してるんで駄目だし、それに今月分の室賃はまだ拂つて居ないのだから、財産を皆賣つた所で五錢か十錢しか、殘りさうも無い。財産と云つたものの、布團一枚に古机一つ、本は漢文に讀本(リーダー)に文典(グランマー)と之丈け、あとの高い本は皆借りて寫したんですから賣れないんです。尤もまだ毛布が一枚ありましたけれども、大きい穴が四ツもあるのだから矢張駄目なんです。室賃は月四十錢でした、長屋の天井裏ですもの。兒玉――菓子屋へ行つて話せば、幾何(いくら)か出して貰へんこともなかつたけれど、然し今迄にも度々世話になつてましたからネ。考へて考へて、去年東京から來た時の經驗もあるし、尤も餘り結構な經驗でもありませんが、仕方が無いから思ひ切つて、乞食をして國まで歸る事に到頭決心したんです。貧乏の位厚顏な奴はありませんネ。此決心も、僕がしたんでなくて、貧乏がさせたんですネ。それでマア決心した以上は一刻の猶豫もなりませんし、國へは直ぐさう云つて手紙を出しました。それから、九時に學校へ行つて、退校願を出したり、友人へ告別したりして。尤も告別する樣な友人は二人しかありませんでしたが、……所が校長の云ふには、「君は慥(たし)か苦學して居る筈だつたが、國へ歸るに旅費などはあるのかナ。」と、斯ういふんです。僕は、乞食して行く積りだつて、さう答へた所が、「ソンナ無謀な破廉恥な事はせん方が可いだらう。」と云ひました。それではどうしたら可(いゝ)でせうと問ひますと、「マア能く考へて見て、何とかしたら可ぢやないか。」と拔かしやがるんです。癪に觸りましたネ。それから、歸りに菓子屋へ行つて其話をして、新聞社の方も斷つて、古道具屋を連れて來ました。前に申上げたやうな品物に、小倉の校服の上衣だの、硯だのを加へて、値踏(ねぶ)みをさせますと、四十錢の上は一文も出せないといふんです。此方(こつち)の困つてるのに見込んだのですネ。漸やくの次第で四十五錢にして貰つて、賣つて了つたが、殘金僅か六錢五厘では、いくら慣れた貧乏でも誠に心細いもんですよ。それに、宿から借りて居た自炊の道具も皆返して了ふし、机も何もなくなつてるし、薄暗い室の中央(まんなか)に此不具な僕が一人坐つてるのでせう。平常(ふだん)から鈍い方の頭が昨夜の故でスッカリ勞れ切つてボンヤリして、「老父(おやぢ)が死んで、これから乞食をして國へ歸るのだ」といふ事だけが、漠然と頭に殘つてるんです。此漠然とした目的も手段も何もない處が、無性に悲しいんで、たゞもう聲を揚げて泣きたくなるけれども、聲も出ねば涙も出ない。何の事なしにたゞ辛くて心細いんですネ。今朝飯を喰はなかつたので、空腹ではあるし、國の事が氣になるし、昨夜(ゆうべ)の黒玉をつかんで無暗に頬ばつて見たんです。
『それから愈々出掛けたんですが、一時頃でしたらう、天野君の家へ這入つたのは。天野君も以前は大抵夜分でなくては家に居なかつたのですが、學校を罷(や)めてからは、一日外へ出ないで、何時でも蟄居(ちつきよ)して居るんです。』
『天野は罷めたんですか、學校を?』
『エ? 左樣々々、君はまだ御存じなかつたんだ。罷めましたよ、到頭。何でも校長といふ奴と、――僕も二三度見て知つてますが、鯰髭(なまづひげ)の隨分變梃(へんてこ)な高麗人(かうらいじん)でネ。その校長と素晴しい議論をやつて勝つたんですとサ。それでに二三日經つと突然免職なんです。今月の十四五日の頃でした。』
『さうでしたか。』と自分は云つたが、この石本の言葉には、一寸顏にのぼる微笑を禁じ得なかつた。何處の學校でも、校長は鯰髭の高麗人で、議論をすると屹度(きつと)敗(ま)けるものと見える。
 然し此微笑も無論三秒とは續かなかつた。石本の沈痛なる話が直ぐ進む。
『學校を罷めてからといふもの、天野君は始終考へ込んで許り居たんですがネ。「少し散歩でもせんと健康が衰へるんでせう。」といふと、「馬鹿ツ。」と云ふし、「何を考へて居るのです。」ツて云へば、「君達に解る樣な事は考へぬ。」と來るし、「解脱(げだつ)の路に近づくのでせう。」なんて云ふと、「人生は隧道(トンネル)だ。行くところまで行かずに解脱の光が射してくるものか。」と例の口調なんですネ。行つた時は、平生(いつも)のやうに入口の戸が閉(しま)つて居ました。初めての人などは不在かと思ふんですが。戸を閉めて置かないと自分の家に居る氣がしないとアノ人が云つてました。其戸を開けると、「石本か。」ツて云ふのが癖でしたが、この時は森(しん)として何とも云はないんです。不在かナと思ひましたが、歸つて來るまで待つ積りで上り込んで見ると、不在ぢやない、居るんです。居るには居ましたが、僕の這入つたのも知らぬ風で、木像の樣に俯向いて矢張り考へ込んで居るんですナ。「何(ど)うしました?」と聲をかけると、ヒョイと首を上げて「石本か。君は運命の樣だナ。」と云ふ。何故ですかツて聞くと、「さうぢやないか、不意の侵入者だもの。」と淋しさうに笑ひましたツけ。それから、「なんだ其顏。陰氣な運命だナ。そんな顏をしてるよりは、死ね、死ね。……それとも病氣か。」と云ひますから、「病氣には病氣ですが、ソノ運命と云ふ病氣に取附かれたんです。」ツて答へると、「左樣(さう)か、そんな病氣なら、少し炭を持つて來て呉れ、湯を沸すから。」と又淋しく笑ひました。天野君だつて一體サウ陽氣な顏でもありませんが、この日は殊に何だか斯う非常に淋しさうでした。それがまた僕は悲しいんですネ。……で、二人で湯を沸して、飯を喰ひ乍ら、僕は今から乞食をして郷國(くに)へ歸る所だツて、何から何まで話したのですが、天野君は大きい涙を幾度も/\零(こぼ)して呉れました。僕はモウ父親の死んだ事も郷國の事も忘れて、コンナ人と一緒に居たいもんだと思ひました。然し天野君が云つて呉れるんです、「君も不幸な男だ、實に不幸な男だ。が然し、餘り元氣を落すな。人生の不幸を滓(かす)まで飮み干さなくては眞の人間になれるものぢやない。人生は長い暗い隧道だ、處々に都會といふ骸骨の林があるツ限(き)り。それにまぎれ込んで出路を忘れちや可けないぞ。そして、脚の下にはヒタ/\と、永劫の悲痛が流れて居る、恐らく人生の始よりも以前から流れて居るんだナ。それに行先を阻(はゞ)まれたからと云つて、其儘歸つて來ては駄目だ、暗い穴が一層暗くなる許りだ。死か然らずんば前進、唯この二つの外に路が無い。前進が戰鬪だ。戰ふには元氣が無くちや可(い)かん。だから君は餘り元氣を落しては可けないよ。少なくとも君だけは生きて居て、そして最後まで、壯烈な最後を遂げるまで、戰つて呉れ給へ。血と涙さへ涸(か)れなければ、武器も不要(いらぬ)、軍略も不要、赤裸々で堂々と戰ふのだ。この世を厭になつては其限(それつきり)だ。少なくとも君だけは厭世的な考へを起さんで呉れ給へ。今までも君と談合(かたりあ)つた通り、現時の社會で何物かよく破壞の斧に値せざらんやだ、全然破壞する外に、改良の餘地もない今の社會だ。建設の大業は後に來る天才に讓つて、我々は先づ根柢まで破壞の斧を下さなくては不可(いかん)。然しこの戰ひは決して容易な戰ひではない。容易でないから一倍元氣が要(い)る。元氣を落すな。君が赤裸々で乞食をして郷國(くに)へ歸るといふのは、無論遺憾な事だ、然し外に仕方が無いのだから、僕も賛成する。尤も僕が一文無しでなかつたら、君の樣な身體の弱い男に乞食なんぞさせはしない。然し君も知つての通りの僕だ。ただ、何日か君に話した新田君へ手紙をやるから新田には是非逢つて行き給へ。何とか心配もしてくれるだらうから、僕にはアノ男と君の外に友人といふものは一人も無いんだから喃(なあ)。」と云つて、先刻差上げた手紙を書いてくれたんです。それから種々(いろ/\)話して居たんですが、暫らくしてから、「どうだ、一週間許り待つて呉れるなら汽車賃位出來る道があるが、待つか待たぬか。」と云ふんです。如何(どう)してと聞くと、「ナーニ此僕の財産一切を賣るのサ。」と云ひますから、ソンナラ君は何うするんですかツて問ふと、暫し沈吟してましたつけが、「僕は遠い處へ行かうと思つてる。」と答へるんです。何處へと聞いても唯遠い處と許りで、別に話して呉れませんでしたが、天野君の事(こ)ツてすから、何でも復何か痛快な計畫があるだらうと思ひます。考へ込んで居たのも其問題なんでせうネ。屹度大計畫ですよ、アノ考へ樣で察すると。』
『さうですか。天野はまた何處かへ行くと云つてましたか。アノ男も常に人生の裏路許り走つて居る男だが、甚□(どんな)計畫をしてるのかネー。』
『無論それは僕なんぞに解らないんです。アノ人の言ふ事行(や)る事、皆僕等凡人の意想外ですからネ。然し僕はモウ頭ツから敬服してます。天野君は確かに天才です。豪い人ですよ。今度だつて左樣でせう、自身が遠い處へ行くに旅費だつて要らん筈がないのに、財産一切を賣つて僕の汽車賃にしようと云ふのですもの。これが普通の人間に出來る事(こ)ツてすかネ。さう思つたから、僕はモウ此厚意だけで澤山だと思つて辭退しました。それからまた暫らく、別れともない樣な氣がしまして、話してますと、「モウ行け。」と云ふんです。「それでは之でお別れです。」と立ち上りますと、少し待てと云つて、鍋の飯を握つて大きい丸飯(ぐわんぱん)を九つ拵(こしら)へて呉れました。僕は自分でやりますと云つたんですけれど、「そんな事を云ふな、天野朱雲が最後の友情を享けて潔よく行つて呉れ。」と云ひ乍ら、涙を流して僕には背を向けて孜々(せつせ)と握るんです。僕はタマラナク成つて大聲を擧げて泣きました。泣き乍ら手を合せて後姿を拜みましたよ。天野君は確かに豪いです。アノ人の位豪い人は決してありません。……(石本は眼を瞑ぢて涙を流す。自分も熱い涙の溢るるを禁じ得なんだ。女教師の啜り上げるのが聞えた。)それから、また坐つて、「これで愈々お別れだ。石本君、生別又兼死別時(せいべつまたかねしべつのとき)、僕は慇懃に袖を引いて再逢(さいほう)の期を問ひはせん。君も敢てまたその事を云ひ給ふな。ただ別れるのだ。別れて君は郷國(くに)へ歸り、僕は遠い處へ行くまでだ。行先は死、然らずんば戰鬪(たたかひ)。戰つて生きるのだ。死ぬのは……否、死と雖ども新たに生きるの謂(いひ)だ。戰の門出に泣くのは兒女(じぢよ)の事ぢやないか。別れよう。潔(いさぎよ)く元氣よく別れよう。ネ、石本君。」と云ひますから、「僕だつて男です、潔くお別れします。然し何も、生別死別を兼ぬる譯では無いでせう。人生は成程暗い坑道ですけれど、往來皆此路(わうらいみなこのみち)、君と再び逢ふ期がないとは信じられません。逢ひます、屹度再び逢ひます、僕は君の外に頼みに思ふ人もありませんし、屹度再た何處かで逢ひます。」と云ひますと、「人生はさう都合よくは出來て居らんぞ。……然し何も、君が死にに行くといふではなし、また、また、僕だつて未だ死にはせん……決して死にはせんのだから、さうだ、再逢の期が遂に無いとは云はん。ただ、それを頼りに思つて居ると失望する事がないとも限らない。詰らぬ事を頼りにするな。又、人生の雄々しき戰士が、人を頼りにするとは弱い話だ。……僕は此八戸に來てから、君を得て初めて一道の慰藉と幸福を感じて居た。僅か半歳の間、□々(そう/\)たる貧裡半歳(ひんりはんさい)の間とは云へ、僕が君によつて感じ得た幸福は、長(とこし)なへに我等二人を親友とするであらう。僕が心を決して遠い處へ行かんとする時、君も又飄然として遙かに故園に去る、――此八戸を去る。好(よ)し、行け、去れ、去つて再び問ふこと勿れ。たゞ、願はくは朱雲天野大助と云ふ世外の狂人があつたと丈けは忘れて呉れ給ふな。……解つたか、石本。」と云つて、ヂッと僕を凝視(みつめ)るのです。「解りました。」ツて頭を下げましたが、返事がない。見ると、天野君は兩膝に手をついて、俯向(うつむ)いて目を瞑(つむ)つてました。解りましたとは云つたものの、僕は實際何もかも解らなくなつて、唯斯う胸の底を掻きむしられる樣で、ツイと立つて入口へ行つたです。目がしきりなく曇るし、手先が慄へるし、仲々草鞋が穿(は)けなかつたですが、やう/\紐をどうやら結んで、丸飯の新聞包を取り上げ乍ら見ると、噫、天野君は死んだ樣に突伏(つつぷ)してます。「お別れです。」と辛うじて云つて見ましたが、自分の聲の樣で無い、天野君は突伏した儘で、「行け。」と怒鳴るんです。僕はモウ何とも云へなくなつて、大聲に泣きながら驅け出しました。路次の出口で振返つて見ましたが、無論入口には出ても居ません。見送って呉れる事も出來ぬ程悲しんで呉れるのかと思ひますと、有難いやら嬉しいやら怨めしいやらで、丸飯の包を兩手に捧げて入口の方を拜んだとまでは知つてますが、アトは無宙(むちう)で驅け出したです。……人生は何處までも慘苦です。僕は天野君から眞の弟の樣にされて居たのが、自分一生涯の唯一度の幸福だと思ふのです。』
 語り來つて石本は、痩せた手の甲に涙を拭(ぬぐ)つて悲氣(かなしげ)に自分を見た。自分もホッと息を吐(つ)いて涙を拭つた。女教師は卓子(テーブル)に打伏して居る。




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