艸木虫魚
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著者名:薄田泣菫 

     2

 他人の軒さきを借りて生活をする貝隠れとは打って変って、広い海の上を漂泊することの好きな蟹に「おきぐらぷすす」がある。胆の太い航海者が小さなぼろ船に乗って、平気で海のただ中に遠出をするように、この蟹はそこらに有合せの流れ木につかまって、静かな海の上を波のまにまにところ定めず漂泊するのが、何よりも好きらしい。この小さな冒険者に不思議がられるのは、彼が広い海の上を乗り歩く娯しみとともに、また新しい港に船がかりする悦びをも知っているらしいことだ。磯打つ波と一緒に流れ木がそこらの砂浜に打ちあげられると、蟹は元気よく波に濡れた砂の上におり立ち、まるで自分が新しい大陸の発見者ででもあるように、気取った足どりでそこらを歩き廻るそうだ。

     3

 漂泊好きなこの蟹のことを考えるたびに思い出されるのは、年若くして亡くなった詩人増野三良氏のことだ。増野氏は生前オマア・カイヤムやタゴオルの訳者として知られていたが、そんな飜訳よりも彼自身のものを書いた方がよかりそうに思われるほど、詩人の気稟(きひん)に富んだ男だった。
 増野氏が大阪にいる頃、私は梅田駅の附近でたびたび彼を見かけたので、あるときこんなことを訊いたことがあった。
「よく出逢うじゃないか。君のうちはこの近くなの。」
 増野氏の答は意外だった。
「いや、違います。僕は毎日少くとも一度はこの停車場にやって来るんです。自分が人生の旅人であることを忘れまいとするためにね。」
 私は笑いながらいった。
「それはいいことだ。少くとも大阪のような土地では、旅人で暮されたら、その方が一等幸福らしいね。」
「僕は時々駅前の料理屋(レストオラン)へ入って食事をしますが、そこの店のものに旅人あつかいをされると、僕自身もいつの間にかその気になって、この煤煙と雑音との都会に対して旅人としての自由な気持をとり返すことが出来るんです。僕はどんな土地にも、人生そのものにも、土着民であることを好みません。旅人であるのが性に合ってるんですよ。」
 増野氏はこういって、女にしてみたいような美しい大きな眼を輝かせた。私はその眼のなかに、一片の雲のような漂泊好きな感情がちらと通り過ぎるのを見た。

     4

 それから二、三日して、私は友人を見送りに、梅田駅の構内に立っていた。下りの特急列車が今着いたばかりで、プラットフォオムは多数の乗客で混雑していた。
 ふと見ると、そのなかに増野氏が交って、白い入場券を帽子の鍔(つば)に、細身のステッキを小腋に抱込んだまま、ひとごみをかき分けかき分け、気取った歩きぶりで、そこらをぶらぶらしているのが眼についた。その姿を見ると、長い汽車旅行に飽きて、停車時間の暫くをそこらに降り立っている旅人の気持がありありと感じられた。
「人生の旅人か。」
 私は増野氏のいった言葉を思い出して、この若い、おしゃれな「おきぐらぷすす」の後姿をいつまでも眼で追っていた。


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   糸瓜

     1

「これは驚いた。糸瓜(へちま)の奴め、いかにもぶらりと下っていますね。のびのびと何の屈託もなさそうなあの姿を見ると、全くもって羨ましい。」
 今日訪ねて来た医者のM氏は、応接室の窓越しに菜園の高棚にぶら下っている糸瓜を見つけて、さも感心したようにいった。
「全く苦労知らずの奴ですね。」
 私がいうと、M氏は大きく頷いて、
「そうですよ。ほんとうに苦労知らずですよ。私もこの頃病院の仕事があまり多過ぎるので、過労のせいか、身体が思わしくないものですから、自宅に帰っているうちだけでも、仕事を忘れて暢気に暮したい。それには糸瓜でも眺めて、そののんびりした気持を娯んだらよかろうと思って、今年の夏は裏の空地へ糸瓜の種を蒔いてみました。ところが……」
「どうでした。出来ばえは。」
「お話になりません。生(な)る糸瓜も、生る糸瓜も、小指のように細い、おまけに寸の伸びない、まるで胡瓜のような奴ばかりなんです。毎日糸瓜でも見て、その暢気そうな気持を味いたいと楽しんでいただけに、栄養不良の瘠っぴいを見ると、どうも気が気でなく、毎日いらいらさせられるばかりなので、何事も予期通りにはゆかないものだと思いました。」
「どうしたわけでしょう。土でも合わなかったかな。」
「土が合わない。あんな暢気な奴でも、そんな選り好みをしますか。」
 M氏は不思議そうにいった。
「するでしょうな。それからまた糸瓜を長めに作ろうとするには、根を深く耕さなければならぬといいますが、ほんとうのことのようですね。」
「根を深く。なるほどそんなものかも知れませんな。ところで、お宅のあの糸瓜ですが……」M氏は椅子から少し腰を浮けて、窓外を覗き込むようにした。「あれは随分長いようじゃありませんか。どれほど寸がありましょうな。」
「さあ、どれほどありますかな。一向測ってみないもんですから……」
「へえ、折角あんなに伸びてるものを、それでは少し無関心に過ぎるじゃありませんか。しかし、ほんとうのことをいうと、糸瓜を植えて楽しもうという心は、寸を測るなどは、無用の沙汰とするかも知れませんね。」
 M氏の言葉には、自然物に親んで、自分の心を癒そうとするもののみが知る愛と抛擲とがあった。

     2

 私が糸瓜の長さを測ってみようともしないのは、今年のものは去年のに較べて、一体に出来が悪く、寸が短いからでもあった。
 去年のものはすべて出来がよく、おまけに素直で、どれ一つ意地くね悪く曲りくねろうとはしないで、七尺豊なものが背筋を並べて、すくすくと棚からぶら下っていた。
 なかに一番長いのは、尖った尻のさきが土にとどきそうになっていたので、まさかの時の用意に、家のものが摺鉢形に地べたを掘窪めていたことがあった。
 ある日、たずねて来た若い英文学者のI氏は、それをみるとにやにや笑い出した。
「ほう。糸瓜の下が円く掘下げられていますね。あれを見ると、僕うちの親父が上野の動物園にいた時分のことを思い出しますよ。」
「おとうさんは、動物園にもいられたんですか。」
 I氏の父は名高い老博士で、日本で誰よりも先にダアウィニズムを紹介した動物学者であった。私も二、三度会ったことがあって、学者らしい学者として尊敬の念を抱いていた。
「それはずっと以前のことで、こんなことがありました。――」
といって、I氏は次のようなことを話し出した。

 I博士が動物園をあずかっていた頃、世間に何か目出度いことがあって、その記念として、動物園では夫婦者の麒麟(きりん)を購うことに決めた。人も知っているように、麒麟は多くの動物のうちでも、とりわけ首と脚とが長く、有合せの檻で辛抱させる訳にもゆかないので、どうしても新しいものを新調する必要があった。その設計書と経費の明細書とが、博士の上役にあたる博物館長あてに差出された。館長は生物のことなど少しも知らないKという老人だったので、経費は無雑作に半分方削られてしまった。
「いくら麒麟だって、こんなに費用をかけるのは勿体ない。第一、檻の高さがべら棒に高いじゃないか。」
 老館長は眼鏡越しに年若な博士の顔を見ていった。
「いえ、それだけの高さのものが是非とも必要なんです。一体麒麟という獣は……」
 博士はこの獣について事細かに述べ立てようとした。
「わかっとる。わかっとる。麒麟は生草を踏まず、生物を食わずといって、世にも有難い獣じゃ。」
 館長は麒麟をアフリカ産のジラフだと知ろうはずがなく、名前を訊いただけで、すぐに支那人の想像から生れた霊獣を思い出しているらしかった。
「そんな霊獣でいて、おまけに背が高いんですから……」
「まあ、待ちなさい。君にいいことを教える。檻はこの設計書の半分の高さにこしらえなさい。」館長は大切な内証事を話すので、出し惜みをするらしく、一語一語金貨を数えるように、ゆっくりした調子でいった。「そして麒麟の頭が天井につかえるなら、床の地べたを幾らでも掘下げるんだ。いいかえ、天井を低くこしらえる代りに、地べたを深く掘下げるんだよ。」
 博士はそれを聞いて苦笑するより外に仕方がなかった。


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   茶の花

     1

 茶の花が白く咲いた。
 茶は華美(はで)好きの多い草木のなかにあって、ひとり隠遁の志の深い出世間者である。裏庭の塀際か、垣根つづきに植えられて、自分の天地といっては、僅に方丈の空間に過ぎないことが多いが、唯いたずらに幹を伸し、枝を拡げるのは、自分の性分に合わないことを知っているこの灌木は、いかにも隠遁者らしい恰好で、まるまると背を円めて地べたにかいつくばっている。春から夏へかけて、多くの草木が太陽の「青春」と「情熱」とに飽酔しようとして、てんでに大きな、底の深い花の盃を高く持ち上げている頃には、彼は心静かに日向ぼっこをして、微笑を続けているばかしだ。そしてその騒々しい草木が、花を閉じ、葉を振い落してしまうと、この謙遜な隠遁者はやっと自分の番が来たように、厚ぼったい葉の蔭から小さな盃を持ち出して来る。それは白磁作りの古風なもので、彼はそれでもって初冬の太陽から水の滴りのような「孤寒」と「静思」とをそっと汲み取るのである。
 渡鳥は毎日のように寒空を横切って、思い思いの方角へ飛び往くのが見られるが、みんな自分の旅にかまけていて、誰ひとり途の通りがかりに空地に下りて来て、この隠遁者を見舞おうとはしない。訪いもせず、訪われもせぬ閑寂な日が二、三日続いて、あるうすら寒い日の夕ぐれ前、灰色の着付をした小さな旅人がひょっくりと訪ねて来る。長めの尻尾を思いきり脊に反しているので、誰の眼にもすぐにそれがみそさざいであることが分ろうというものだ。
 みそさざいは灰色の翼を持っていながら、空高く飛ぶことを心がけないで、絶えず物かげから物かげへと、孤独をもとめてさすらい歩くひとり者である。このひとり者はさびしい裏庭の茶の木が目につくと、自分の好みにそっくりな好い友だちが見つかったように、いきなり飛んでいって、厚ぼったい葉なみを潜りぬけたり、小枝につかまってとんぼ返りをうったりする。

     2

 画禅室随筆の著者董其昌は、茶を論じてこういったことがあった。
「茶は眼にとっては色である。鼻にとっては香である。身にとっては触である。舌にとっては味である。この四のものは皆茶の正性ではない。これを合せばあるが、これを離せばなくなってしまう。ありというのは種々法生で、なしというのは種々法滅である。色は眼をもっては観えない。香は鼻をもっては嗅げない。触は身をもっては覚れない。味は舌をもっては知れない。法界の茶三昧とはこれである。」
 随分と気取った物のいいようであるが、それにしても茶を味わう場合には、この灌木の閑寂な生活を心頭より忘却しないようにしなければならぬ。

     3

 むかし、宋の書家として聞えた蔡襄が、その友歐陽修のために頼まれて、集古目録の序に筆を揮ったことがあった。その返礼として鼠鬚筆(そしゅひつ)数本と、銅緑の筆架と、好物の茶と、恵山泉の名水幾瓶とを歐陽修から贈って来たものだ。蔡襄はそれを見て、
「潤筆料としては、少しあっさりし過ぎてるようだ。しかし、俗でなくて何よりだ。」
といって笑ったそうだが、その恵山泉の水で茶を煮ると、すっかりいい気になって、
此泉何以珍
適与真茶遇
在物両清純
於予独得趣
…………
…………
と詩を作って歌ったということだ。

     4

 すべて茶を煮るには、炭加減と水の品とを吟味することが肝腎で、むかしの数寄者は何よりもこれに心をつかったものだ。わざわざ使を立てて、宇治橋の三の間の水を汲ませた風流も、こうした細かな吟味からのことだったが、大阪ではむかしから天王寺逢坂の水が茶にいいといって、一般に尚ばれたようだ。逢坂の水といえば、それについてこんな話が残っている。
 俳優二代目嵐小六の家に、ながく奉公をしている女中の父親で、女房に死別れて娘と一緒に身を寄せているのがあった。小六はこの男が仕事もなくては、定めし居つらかろうと、毎日逢坂の水を一荷ずつ水桶で家に運ばせることにした。それを聞いた世間はよくはいわなかった。
「役者風情が贅沢な沙汰じゃないか。あんなに遠くまで人をやって、わざわざお茶の水を汲ませるなんて。まるでお大名のすることだ。」
 この噂が弟子の口から師匠の耳へ伝えられた。すると、小六は
「それはもっての外の取沙汰というものだ。お前たちも聞いてるだろうが、むかし阪田藤十郎は、大阪の芝居へ勤める折には、わざわざ京の賀茂川の水を樽詰にして送らせたものだそうだ。ちょっと聞くと大層贅沢なようだが、藤十郎の考えでは、芝居に出ているうちは、自分の身体は銀主方と見物衆のもので、自分ひとりのものではないはずだから、つねに飲みつけない水を飲んで、腹をこわしてもとの用心から、賀茂川の水を取り寄せたまでのことなのだ。わしが逢坂の水を汲ませるのも、それと同じわけで、つまりは銀主方と見物衆とを大切に思うからのことなんだ。」
と顔色を変えて言訳をしたそうだ。

     5

 むかし、大阪の備後町に、河内屋太郎兵衛という商人があった。財(かね)があるにまかせて、随分思い切った振舞をするので、その度に世間の人たちから、
「また河内屋のいたずらか。何を仕出かすかもわからない男だな。」
と評判を立てられるようになった。
 あるとき、紀州侯を備後町の屋敷に迎えて、茶を献じたことがあった。紀州侯はその日の水が大層気に入ったらしかった。
「いい水質だ。太郎兵衛、ついでがあったら余も少しこの水を貰い受けたいものじゃて。」
 太郎兵衛はかしこまった。
「お口にかないまして、太郎兵衛面目に存じます。早速お届け致すでござりましょう。」
 紀州侯は間もなく和歌山へ帰った。そして太郎兵衛の茶席で所望した水のことなどはすっかり忘れていた。すべて人の頭に立とうというものは、昨日あったことを今日は忘れてしまわねばならない場合が多いものだが、紀州侯は誂え向きにそういう質に生れ合わせていたらしかった。
 ある日のこと、側近くに仕えている家来の一人が、慌てて紀州侯の前へ出て来た。
「殿、只今大阪の商人河内屋太郎兵衛と申すものから、かねてのお約束だと申しまして、水を送って参りました。」
「ほう、河内屋太郎兵衛から……水を……」紀州侯は忘れていた約束を思い出した。
「それならば早速受取ってつかわし、大事に貯えおくようにいたせ。」
「さあ、貯えると申しましたところで、あんなに沢山な水樽では……」
 家来は当惑したようにいった。
「そんなに沢山持って参ったか。」
 殿は物好きそうに眼を光らせた。
「はい、お城前はその水樽で身動きが出来ぬほどになっております。まだその上に次から次へと荷車が詰めかけて参りまして……」
 家来は城のなかはいうまでもないこと、紀州侯の領地という領地は、すっかり水樽で埋ってしまうかのように、気味悪さに肩を顫わせた。
「そうか。河内屋めがまたいたずらしおったな。」
 紀州侯はからからと声を立てて笑った。


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   仙人と石

 支那の唐代に、張果老という仙人がありました。恒州の中条山というところに棲んでいて、いつも旅をするときには、驢馬にまたがって一日に数万里の道程(みちのり)を往ったといいます。旅づかれで家に帰って休もうとでもする場合には、驢馬の首や脚をぽきぽきと折り曲げて畳み、便利な小型(こがた)に形をかえて持ち運んだそうです。そんなおりに、思いがけなく川に出水(でみず)があって、徒渉(かちわた)りがしにくいと、この仙人は手にさげた折畳み式の馬に水を吹きかけます。すると、驢馬は急に元気づき、曲げられた四つの脚を踏みのばして、もとの姿にかえったといいます。
 あるとき、張果老が長い旅にすっかり疲れはてて、驢馬から下りて野なかの柳の蔭で憩(いこ)っていたことがあります。驢馬はその傍でうまそうに草の葉を食べ、時おり長い尻尾をふって羽虫を追っていました。
「おい、仙人どの。仙人どの。」
 誰だか呼ぶ声がしたので、張果老はうつらうつらする眼をひらいてあたりを見まわしました。十月の静かなあたたかい日ざしはそこいら一杯に流れて、広い野原には自分たちの外に、何一つ生物(いきもの)の影は見えませんでした。張果老はまた睡りかけようとしました。
「おい、仙人どの。仙人どのってば。」
 またしても自分を呼ぶらしい声がするので、仙人は不機嫌そうに眼をさましました。
「誰だ。わしを呼ぶのは。」
「わしだ。お前のまえに立っている石だよ。」
「なに、石だって。」
 仙人はずっと向うを見ていた眼を、急に自分の脚もとに落しました。そこには白い石が立っていました。仙人は気むつかしそうに言いました。
「お前か。さっきからわしを呼んでるのは。わしは今睡りかけているところなんだ。」
「それはすまなかった。お前に逢ったら、一度訊いてみたいと思うことがあるもんだから。」
 どこに口があるとも分らなかったが、白い石はしっかりした声で言いました。
「何か。お前が訊きたいというのは。」
「ほかでもない。わしは随分ながくここに住んでいるが、よくお前が驢馬に乗って、そこらを駆けて往くのを見ることがある。おそろしい速さだね。」
「速いはずだ。一日五万里を往くのだから。」
 仙人は得意そうに驢馬を見かえりました。馬は主人の顔を見て、にやりと笑いました。
「五万里。それは驚いた。」石はびっくりして少し肩を動かしたようでした。「そんなに速力(あし)の出る馬をどこから手に入れることが出来たのだ。」
 張果老は仙人らしい白いあご髯を、細い樹の枝のような指でしごきました。
「どこからでもない。わしが自分の法力でこしらえたのだ。わしはそういう馬が是非一頭ほしく思ったから。」
「なぜまたそんな途方もない馬をほしがったのだ。」
 長年同じところにじっとしている石は、仙人のそんな気持が腑に落ちないらしく訊きました。
「わしは幸福の棲む土地をたずねて、方々捜し歩きたかったからだ。」仙人は昨日見た夢を思い出すような眼つきをしました。「わしはあれに乗って、毎日毎日どこという当もなしに、暴風(あらし)のように駆けずり廻ったよ。わしが尋ね残した国は、どこにもないほどだ。この原っぱも今日まで幾度通ったか覚えきれない……」
「そうして、その幸福とやらはうまく見つかったのか。」
 白い石は待ち切れないように口を出しました。
「まだ見つからない。そしてわしはすっかり年をとってしまった。」仙人はこう言って、自分の姿を今更のように見返りました。「髯はこの通りに白くなるし、手は痩せて枯木のように細くなった……」
「わしはむかしからずっとここに立っているが、別段それをふしあわせだとも、退屈だとも思ったことはない。わしがお前のように方々飛び廻りたく思わないのは何故(なぜ)だろうな。」
 石の言葉は他人(ひと)に話すでもなく、独語(ひとりごと)のようでした。
 仙人はそれを聞くと、深く頷きました。
「わしもこの頃になって、やっとそう思い出したよ。幸福というものは外にあるものじゃない。ここぞと思うところに落ちついて棲んでいれば、初めてそこに幸福というものが……」
「それはお前にしては出来過ぎたほどの思いつきだ。どうだい、いっそここに落ちついて、わしと一緒に棲んじゃ。お前にしても、もう一生のつづまりをつけてもいい歳だよ。驢馬の始末なら、明日にでも通りがかりの旅商人(たびあきんど)に売り払ったらいいじゃないか。」
 白い石が無遠慮にこう言うと、驢馬は長い耳でそれを立聞きして、癪にさえたらしく、いきなり後脚(あとあし)を上げて、そこらを蹴飛ばしました。
「いや。わしにはそこまでの思いきりがない。人間というものは、みんなこれまで自分のして来た仕事に、引きずられて往くものなのだ。――ああ、お前につかまって、つい長話(ながばなし)をしすぎた。わしはもう出かけなければならない……」
 張果老は哀しそうに言って、自分の膝の上に落ちた砂埃を払いながら立ち上りました。石は見えぬ眼でそれを感づいたらしく、
「やっぱり幸福を求めて……」
「そうだ。幸福を求めて。……こんなにして方々駆けずり廻って、やがて死ぬのが、わしの一生かも知れない。でも、わしは出かけなければならない。」
 仙人は静かな足どりで、驢馬のいる方へ歩み寄りました。馬はそれと気づいて、元気そうに高くいななきました。
「そんならもうお別れだ。」
 張果老はひらりと驢馬の背にまたがりました。そして一鞭あてたかと思うと、馬は嵐のように飛んで、またたくうちに広野のはてに点のように小さくなりました。
「とうとう往ってしまった。……わしはやはり一人ぽっちだ。」
 白い石は低い声で独語(ひとりごと)を言って、そのまま黙ってしまいました。
 秋の日はそろそろ西へ落ちかかりました。途を間違えたらしいこがね虫が、土をもち上げて、ひょっくりと頭を出しましたが、急にそれと気づいたらしく、すぐにまた姿を隠してしまいました。


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   春の魔術

 春が帰って来た。そしてその不思議な魔術がまた始まろうとしている。
 欧洲航路の途中、シンガポオルに立ち寄ったことのある人は、あそこへ泊る船という船へよく訪ねて来る土人の魔術師のことを知っているだろう。鳶色の肌をしたこの魔法使は、皆の見る前で砂を盛った植木鉢のなかに、一粒の向日葵(ひまわり)の種子を蒔く。そして暫く呪文を唱えていると、その種子から小さな芽がむくむくと頭を持ち出し、すっと双葉を開いたと思うと、やがて黄ろい花がぽっかりと眼をあけかかるのだ。その手際のあざやかさは、見ている誰もが心から驚嘆させられるが、春の魔法使は、この鳶色の肌をした土人のそれよりももっと巧妙に、もっと秘密に、その魔術の企(たくら)みを仕おおせるだけの技巧と敏慧さとをもっている。
 私はこの頃の野道を歩くとき、自分の足の下にしかけられている春の魔術を思って、足の裏をくすぐられるようなこそばゆさを感じることがよくある。そこらの石ころの下、土くれのかげ、または置き腐れになった古蓆(むしろ)のなか――といったような、ついこないだまで霜柱に閉じられていた「忘却」と「睡眠」との国から、いろんな草が、小さな獣のような毛むくじゃらな手や、または小鳥のように細めに開けた怜悧そうな眼を覗けているのを数知れず見つけるではないか。こうした生物の、産れてまだ間もない柔かい生命が、私の不注意な足に踏まれて、どうかするととりかえしのつかない傷を負わされまいものでもないのを思うと、滅多に外を出歩くこともできないような気持がする。
 自分におっ被(かぶ)さっているいろんな邪魔ものを手で押しのけ、頭で突き上げて、地べたの上に自分を持ち出して来た草という草は、刻々に葉を伸し、茎を伸して、ひたすらに太陽の微笑と愛撫とに向って近づこうとする。
 その意気込みの激しさ。巻鬚や葉のひとつびとつが、感情をもち、霊魂をもっているかのように、地べたから大空を目ざして躍り上りそうに□いている。もしかそれぞれの根が、土底深く下りていなかったならば、春の草という草は、鳥のように羽ばたきして太陽を目あてに飛び揚ったかも知れない。
 それはひとり草のみではない。冬中ファキイル僧のように仮死の状態にあったそこらの木々の瘠せかじけた黒い枝には、また生命が甦って、新しい芽を吹き出しているではないか。寒さのうちは老予言者ででもあるように、寂しい姿をして、節くれだった裸の枝で意味ありそうに北極星の彼方を指さしていた公孫樹までが、齢にも不似合な若やぎようで、指さきという指さきをすっかり薄緑に染めておめかしをしている。
 そしてその成長の早さ、変化の目まぐるしさは、実際驚かれるばかりで、春の魔術には、ただ一つの繰返しすらもない。全く飛躍の連続である。
 この魔術の主調をなすものは、生の歓喜であり、生命の不思議である。


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   まんりょう

 夕方ふと見ると、植込の湿っぽい木かげで、真っ赤なまんりょうの実が、かすかに揺れている。寒い冬を越し、年を越しても、まだ落ちないでいるのだ。
 小鳥の眼のような、つぶらな紅い実が揺れ、厚ぼったい葉が揺れ、茎が揺れ、そしてまた私の心が微かに揺れている……
 謙遜な小さきまんりょうの実よ。お前が夢にもこの夕ぐれ時の天鵝絨(ビロード)のように静かな、その手触りのつめたさをかき乱そうなどと大それた望みをもつものでないことは判っている。いや、お前の立っているその木かげの湿っぽい空気を、自分のものにしようとも思うものでないことは、よく私が知っている。
 お前はただ実の赤さをよろこび、実の重みを楽んでいるに過ぎない。お前は夕ぐれ時の木蔭に、小さな紅提灯をともして、一人でおもしろがっている子供なのだ。
 持って生れたいささかの生命をいたわり、その日その日をさびしく遊んで来たまんりょうよ。
 またしても風もないのに、お前の小さな紅提灯が揺れ、そしてまた私の心が揺れる。


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   小鳥

 春の彼岸過ぎのことだった。
 どこをあてどともなく歩いていると、小さな草の丘に出て来た。丘は新芽を吹き出したばかりの灌木に囲まれていて、なかに円く取り残された空地に、かなり大きな桜の老木が一つ立っていた。
 それを見ると、私は思いがけないところでむかし馴染に出あったような気持で、邪魔になる灌木を押し分けながら、足を早めてその樹の側に近寄って往った。そして滑々した樹の肌をひとしきり手で撫でまわした後、私はそっと自分の背を幹にもたせかけた。
 枝という枝は、それぞれ浅緑の若葉と、爪紅をさした花のつぼみとを持って、また蘇って来た春の情熱に身悶えしている。冬中眠っていた樹の生命は、また元気よくめざめて、樹皮の一重下では、その力づよい脈搏と呼吸とが高く波うっている。
 その道の学者のいうところによると、野中に立っている一本の樺の木は、一日に八百ポンド以上の水分を空中に向って放散している。普通の大きさの水桶でこれだけの水を運ぼうとするには、まずざっと三十二度は通わなければならぬ。もしか人が地べたから樺のてっぺんまでそれを持ち運ぶとして、一度の上り下りに十分かかるものとすれば、それだけの水を運んでしまうには、五時間以上も働かなければならぬことになるといっている。
 樺にしてからがそうだ。桜にしてもそうでないとはいわれまい。とりわけ春は再び樹にかえって来て、枝という枝は数知れぬしなやかな葉を伸ばし、みずみずしい花を吹いている昨日今日、樹の内部では一瞬の休みもなく、夥しい水分が、根より吸い上げられて、噴き上げの水のようなすばらしい力をもって、幹から枝の先々にまで持ち運ばれていることだろう。――私はその激しい動揺を、自分の背に感じて、思わず
「春だな。」
と、心のなかでそういった。そして眼をあげて、頭の上に垂れかかっている枝を見た。
 その瞬間、深い紺色の空の彼方から、小石のようなものが一つ飛んで来て、ひょいと上枝にとまって、身軽に立ちなおったのを見ると、それは一羽の小鳥であった。鳥は黒繻子のような縁をとった灰色の羽をしていた。私は名も知らないこの小さな遊び仲間を眼の前に迎えて心より悦んだ。

 むかし支那に焦澹園という儒者があった。多くの学者のなかから擢んでられて東宮侍講となったが、あるとき進講していると、御庭の立木に飛んで来て、ちろちろと清しい声で鳴く小鳥があった。東宮は眼ざとくそれを見つけて、枝移りするその身軽い動作に心を奪われているらしかった。それに気がついた焦澹園は快からず思って、いきなり進講をやめてしまった。侍講の熱心な言葉が急に聞えなくなったのに驚いた東宮は、自分の仕打に気づいて、残り惜い思いはしながらも、またもとのように居ずまいを直した。侍講はやっと安心したように再び講義を続けたということだ。

 儒者焦澹園のつもりでは、かりにも聖賢の道を聞いている途中で、東宮ともあろうものが、小鳥の素振に気をとられるなどとは、怪しからぬことだというにあるらしいが、しかし、ほんとうのことをいうと、東宮はいいものを見つけたので、侍講は何をさしおいてもそれをほめなければならないはずなのだ。堅苦しい聖賢の道を聞きながら、小鳥の流れるような音律に耳を傾け、溌溂たる動作に眼を奪われるというのは、規律と形式との生活のただ中にいても、なお自然物と戯れ、自然物と楽もうとする、ほしいままな心を失わない証拠で、侍講が今少し賢いか、今少し愚かのどちらかであって、東宮が小鳥に見とれているのをそのまま見遁すことが出来たなら、この年若な貴公子はしかつべらしい聖賢の道よりも、もっと自由で、もっと明るいものを見つけることが出来ただろうと思われる……

 そんな他人のことを考えるひまがあったら、私は自分の見つけた小鳥と遊んだ方がよかった。――小鳥は今持前の身軽さで、枝から枝へととんぼがえりを試みている。その拍子に私は不思議なものを見つけた。
 小鳥は赤いふんどしを締めていた。その尻っぺたにある赤いさし毛は、私をしてそんなことを思わせた。
「何だ。漁師の小せがれのように、赤いまわしなんか締めてさ……」
 私は思わず声を出して笑った。小鳥は臆面もなくまだとんぼがえりを続けている。
 見ているうちに、いつのまにか私の心もとんぼがえりをしていた。


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   桜鯛

     1

 春はどこから来る。
 春は若草の萌えた野道から来るともいい、また都大路の女の着物の色から来るともいうが、津軽海峡をへだてた北海道の平野に、久しく農人の生活を送って来た人の話によると、あちらの春は、野からも山からも来ない。言葉どおりに天そのものから下りて来る。それも一歩ごとにその足跡から花がほほ笑むという、素足の美しい女神ではなく、雄々しい行進曲に合せて、馬を躍らせて来る男性の神様である。強い光に満ちあふれた大空から、黄金の鎧をきらめかせ、ラッパの音高く下りて来るのが、あの雪国の春だそうだ。
 それとは違って、私の知っている春は、広い野原からも来たが、それと同じ頃を見はからって、砂丘のあなたの青い海からもまたやって来た。私の生れ故郷は、瀬戸内海の波の音のきこえる小村で、春になると、桜鯛がよく網に上った、それを売り歩く魚商人の声が、陽気に村々に聞えて来ると、村人は初めて海の春が、自分たちの貧しい食膳にも上るようになったのを喜んだものだ。
 麦の茎が伸び、雲雀が空でちろちろ鳴いていても、海に桜鯛がとれ出したという噂を聞かないうちは、春も何となく寂しかった。

     2

 桜鯛よ。
 網から引あげられて籠に入ったお前は、タニスで発見せられた名高いニイル河神の石像に彫りつけられた河魚のように、いつも横向きになっていて、つぶらな唯一つの眼しか見せていない。そのむかし、アレキサンドル大王の部将として聞えていたアンチゴノスは、自分の横顔(プロフィル)を描かせた最初の人だといわれているが、それはこの男が生れつきのめっかちだったので、その醜さを人に見られまいための用意に過ぎなかった。鯛はアンチゴノスと違って、眼は二つともいい分はなかったが、魚のならわしとして、一つの側面に一つの眼をしか持っていなかったから、籠のなかに寝かされたのでは、その一つの眼でものを見るより外に仕方がなかった。
 イギリスに小説家として、また下院の議員として相当聞えた A. W. Mason という人がいる。この人はいつも片眼鏡(モノクル)をかけていて、好きな水泳をする場合にも、滅多にそれをはずさないそうだ。あるとき汽車のなかで、その眼鏡を壊したことがあった。すると、片眼が急に風邪をひいてしまったそうだ。鯛もしおっぱい海の水を出て、じかに空気に触れるので、よく風邪でも引いて充血したように、真っ赤な眼をしているのがよくある。
 鯛よ。お前の眼は、これまで外界の自然を、自分の行動と平行してしか見なかった。お前の見る外界は、お前が鰭(ひれ)を動かして前へ進むときには、同じように前へ進み、お前が脊後へ退くときには、同じように背後へ退いた。正面から来て、お前の口さきにぶっつかるものは、お前の眼で見た外界ではなかった。お前は前に立っているものを永久に見ることが出来ないのみならず、左の眼で見たものは、右の眼で見たものとはすっかり違っていた。一つの眼が神を見て、それと遊んでいる同じ瞬間に、今一つの眼は悪魔を見て、その醜い姿に怖れおののくこともあったに相違ない。
 鯛よ。お前は海から引きあげられて、籠に入れられた一刹那、初めて高い空のあなたに、紅熟した南瓜のように円い大きなものを見て、びっくりしたことだろう。あれは太陽といって、多くのものにとって光明と生命との本源であるが、お前がまのあたりあれを見たときは、やがてお前にとっては死であった。
 鯛よ。お前が一つの眼で、そういう不思議な太陽を見ていたときも、今一つの眼は何かつまらぬものを見て、こっそり微笑していたらしかった。それは悲しいことだが、鯛にとっては免れることの出来ない運命であった。

     3

 むかし、支那に張風という老画家があった。仏道に帰依して、二、三十年の間は、少しもなまぐさいものを口にしなかったが、あるとき、友だちの一人が松江の鱸(すずき)を煮ているところへ往き合せたことがあった。張風は皿に盛られた魚の姿を一目見ると、
「忘れもしない。これはうちにいた鷹の子が好いて食べたものだ。」
といって、いきなり箸をとって、うまそうに食べ出した。そしてそれからというものは、平気で肉食をしつづけたということだ。
 私は張風のように、別になまぐさいものを断っているわけではないが、春になって、そこらの海がぼんやり霞んでいるのを見ると、生れ故郷の瀬戸うちの海を思い出して、そこで捕られた魚の金粉を吹いたような鱗をなつかしがることがよくある。


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   蟹

     1

 雨の晴れ間を野路へ出てみた。
 ずぶ濡れになった石のかげから、蟹が一つひょっこりと顔を出していた。
「いよう。蟹か。暫くぶりだったな。」
 私はそう思って微笑した。それが春になって初めて見る蟹だったことは、私がよく知っていた。
 暫く立ちとまって見ていると、蟹は石の下からのこのこと這い出して来た。そして爪立するような脚どりで水溜を渉り、髪を洗う女のように頭を水に突っ伏している雑草の背を踏んで、少し高めになっている芝土の上へあがって来た。
 ふと何かを見つけた蟹は、慌てて芝土に力足を踏みしめ、黒みがかった緑色の甲羅がそっくりかえるばかりに、二つの真赤な大鋏(おおばさみ)を頭の上に振りかざしている。
 怒りっぽい蟹は、一歩(ひとあし)巣から外へ踏み出したかと思うと、じきにもう自分の敵を見つけているのだ。
 彼は傍に立っている私を、好意のある自分の友達とも知らないで、その姿に早くも不安と焦燥とを感じ出し、持前の喧嘩好きな性分から急に赫となって、私に脅迫を試みているのだ。
 万力(まんりき)を思わせるような真赤な大鋏。それはどんな強い敵をも威しつけるのに充分な武器であった。
 そんな恐ろしい武器を揮って、敵を脅かすことに馴れた蟹は、持ち前の怒りっぽい、気短かな性分から、絶えず自分の周囲に敵を作り、絶えずそれがために焦立っているのではなかろうか。
 その気持は私にもよく分る。すべて人間の魂の物蔭には、蟹が一匹ずつかくれていて、それが皆赤い爪を持っているのだ。

 私がこんなことを思っていると、蟹は横柄な足どりで、横這いに草のなかに姿を隠してしまった。

     2

 海に棲むものに擁剣蟹(がざみ)がいる。物もあろうに太陽を敵として、その光明を怖れているこの蟹は、昼間は海底の砂にもぐって、夜にならなければその姿を現わそうとしない。
 擁剣蟹は、脚の附け際の肉がうまいので知られているが、獲られた日によってひどく肉の肥痩が異うことがある。それに気づいた私は、いつだったか出入の魚屋にその理由を訊いたことがあった。魚屋はその荷籠から刺(とげ)のある甲羅を被(き)たこの蟹をつまみ出しながら言った。
「奴さん。こんな姿はしていますが、大の明るみ嫌いでしてね。夜分しか外を出歩かない上に、満月の夜のあとさきは、海が明るいので昼だと思って、じっと砂にもぐっていて、餌一つとろうとしないそうですから、多分その故(せい)かも知れませんよ。」
 魚屋の言葉を真実だとすると、擁剣蟹は白熱した太陽の正視を怖れているのみならず、また青白い満月の流盻(ながしめ)をすらも嫌がっているのだ。
 こんな性分の擁剣蟹にとっては、一月でもいい、月のない夜が、せめて満月の出ない夜が、どんなにか望ましいことだろう。一月でもいい、満月の出ない夜が。そんなことが果して有り得るだろうか。――いや、それはあるにはあった。天文学者の言うところによると、紀元八百六十六年の二月には、月は一度も顔を見せなかった。
 月が顔を見せないことはなかったが、満月の夜は一度もなかった。こんなことは世界の開闢以来初めてで、その後も二百五十万年の間に、まず二度とはあるまいといわれているが、そんなことになったのは、前の一月中に満月の夜が二度もあり、続いて三月になってからもまた二度あったので、二月には一度も見られないことになったのだということだ。
 してみると、擁剣蟹がどんなに嫌がったところで、青白い顔をした満月は、月に一度はきっと海の上を見舞うにきまっているので、明るみを好まないこの蟹は、そんな夜になると、静かな波の響にも、青ざめた光の不気味さに怯えつつ、海底の土にでもこっそり潜っている外はなかった。
 やがて闇の夜が来ると、擁剣蟹は急に元気づいて活躍を始める。そして波底の暗がりにまぎれて、大勢の仲間を誘い合せ、海から海へとはてしもない大袈裟な旅を続けることがよくある。夜の海に網を下す漁師たちが、思いがけないあたりでこの蟹を引き揚げて、その遠出に驚くのも、こんな時のことだ。

     3

 潮の退いた干潟を歩いていると、底土の巣から這い出したままの潮招蟹(しおまねぎ)が、甲羅に泥をこびりつけて、忙しそうに食物をあさっているのがよくある。蟹は時々立ち停って、片っ方のずば抜けて大きな大鋏(おおばさみ)を、しかつめらしく上げ下しをしている。自分の身体の全体よりもずっと重そうな大きな脚だ。
 それを見ると、蟹は自分の周囲に、何かしら自分に好意をもたないもののあるのを感じて、それに対って威嚇と侮蔑とを試みているようだ。その相手が海賊のように毛むくじゃらな泥蟹であろうと、狡猾な水禽であろうと、または無干渉な大空そのものであろうと、そんなことは蟹にとってどちらでもいいのだ。

 蟹は唯反抗し、威嚇さえすれば、それで充分なのだ。


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   海老

     1

 潮干狩の季節が来た。
 潮干狩に往って、貝を拾い、魚を獲るのは、それぞれ異った興味があるものだ。海の中も不景気だと見えて、いつもしかめっ面をしている蟹をからかったり、盗人のように夜でなければ出歩かない擁剣蟹(がざみ)を砂の中から掘出したり、富豪(かねもち)のように巣に入口を二つ持っていて、その一つを足で踏まれると、きっと裏口から飛び出す蝦蛄(しゃこ)を押えたりするのもおもしろいものだが、それよりも私の好きなのは、車海老を手捕りにすることだ。
 遠浅な海では、引潮の場合にあまり遊びが過ぎて帰り遅れた魚や、海老などが、そこらの藻草や、砂の窪みにかいつくばって、姿を隠しているのがあるものだ。そんなのを何の気もつかずに踏むと、足の下から海老があわてて跳出すことがよくある。
 海老は弾き豆のように勢いよく飛出すが、あまり遠くへは行かないで、きっとまたそこらの砂の窪みに落ちつくものだ。水影に透してじっと見つめていると、海老は尻尾から先に、浅く砂や藻草にもぐって、やがて背全体をも隠してしまうが、鼻眼鏡のような柄のついた二つの眼だけは外に出して、それとなく自分を驚かせた闖入者を見まもっている。やがて闖入者に他意がないらしいのを見極めると、海老は安心したように、しずかにお洒落の鼻眼鏡の柄を畳んでしまう。
 海老はもう何も見えない。見えないから安心している。
 私たちはそこを狙って、よくこの海の騎士を生捕にしたものだ。
 海老を海の騎士だと呼ぶのに、何の不思議があろう。彼は強い魂をもっている。死ぬまで飛躍を止めようとしない。それにまた彼は兜をかぶっている。その兜は彼にとって少し重過ぎるほどいかめしい拵えだ。

     2

 海老が好きで、その頭を兜として立派に飾りたてたものに、蒔絵師の善吉があった。善吉は羽前の鶴岡に住んでいた人で、明治の初年頃までまだ生きながらえていた。
「俺の家に来て見ろ。金の兜をきた海老がいるぜ。」
 善吉は人を見ると、得意そうによくこんなことをいったものだ。
 それを聞いた人たちのなかには、物ずきにも善吉の家をたずねてゆくのがあった。
 家には、縁端に大きな水盤がおいてあった。なかを覗いてみると、なみなみと盛られた水の底に、青い藻草が漂っていて、そのなかを数知れぬ川海老が、楽しそうに泳ぎまわっていた。
 驚いたことには、海老はいずれも金の兜と金の鎧とを身につけて、きらきらと光っていた。
 皆は呆気にとられて、こんな綺麗な海老をどこで捕って来たかを善吉に聞いた。
 善吉は笑ってばかりいて、それには答えなかった。
 黄金の海老は、善吉が商売道具の絵具をもって、こまめに金蒔絵したものであった。
 善吉の妻は、海老のために、毎日餌をやることと、水盤の水を取りかえることとを夫にいいつかっていたが、内職仕事の織物の方にかまけていて、どうかするとそれを忘れがちだった。
 そんな折には、夫の機嫌はとりわけよくなかった。一度などそれが原因で、夫婦のなかに大喧嘩が持ち上ったこともあった。
 その翌日だったか、妻は夫の留守を見計らって、水盤の海老を家の前を流れる小川のなかにすっかりぶちまけてしまった。
 外から帰って来た善吉は、水盤が空になっているのを見て、留守中の出来事を察したらしかった。
 見ると、薄暗い土間に、半ば織りさした木綿機があった。妻は近所あるきでもしているらしく、そこらに姿を見せなかった。
 気味悪くにやりと笑って、善吉はすばしこく土間へ飛び下りた。そしてそこにあった鋏をもって、織さしの布をむざむざとつみ切ったかと思うと、それを一くるめにくるめて、前の小川にぽいと投げ捨ててしまったそうだ。

     3

 海老をまた好いた人に、蜆子和尚という老僧が唐代にあった。和尚は身のまわりに何一つ物らしい物を蓄えないで、夏も冬もたった一枚の衣でおっ通したほど、無慾枯淡な生涯を送ったものだった。腹が空くと、衣の裾をからげて水に入り、海老や、貝といったようなものを採って、うまそうに食っていた。僧かと思えば僧でもなく、俗かと見れば俗でもなさそうで、一向そんなことに無頓着で、出入自在、その日その日の生命に無理な軛(くびき)を負わせないで、あるがままに楽み、唯もう自然と遊戯しているつもりで暮していたらしかった。
 この老和尚を描いたものに、渡辺崋山の作品がある。それは禿頭の和尚が、幾らか屈み腰に、左手に持った網を肩にかたげたまま、右手の指の間にぴちぴち跳ねまわる海老を捉えている図で、脚下(あしもと)に芦の葉が少し描き添えてあるのみなのが、枯淡な老和尚の面目にふさわしかった。
「贅沢な老人だな。こんな採りたての、活(いき)のいい海老を食べるなんて。」
 私はその絵を見ているうちに、和尚の無一物の生活の豊かさが羨ましくなって、ついこんなことを思ったことがあった。


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   魚の憂鬱

 池のほとりに来た。蒼黒い水のおもてに、油のような春の光がきらきらと浮いている。ふと見ると、水底の藻の塊を押し分けて、大きな鯉がのっそりと出て来た。そして気が進まなさそうにそこらを見まわしているらしかったが、やがてまたのっそりと藻のなかに隠れてしまった。
 私はそれを見て、以前引きつけられた支那画の不思議な魚を思い出した。

 私は少年の頃、よく魚釣に出かけて往った。ある時、鮒を獲ろうとして、小舟に乗って、村はずれの池に浮んだことがあった。
 その日はどうしたわけか、釣れが悪かった。私はやけになって、すぐそこを游いでいる三寸ばかりの魚を目がけて鉤を下した。そして無理やりに餌を魚の鼻さきにこすりつけようとして、ふと物に驚いて、じっと水の深みを見おろした。
 今まで雲にかげっていた春の陽(ひ)は、急にぱっと明るくそこらに落ちかかって来た。ささ濁りに濁った水の中に、青い藻が長く浮いていて、その蔭から大きな鯉が、真っ黒な半身(はんみ)をのっそりと覗けているではないか。鋼鉄の兜でも被(かぶ)ったようなそのしかめっ面。人を恐れないその眼の光り。私は見ているうちに、何だか不気味になった。
「池のぬしかも知れない。」
 そう思うと、水草の蔭に、幾年と棲みながらえて、岸を外へ、広い天地に躍り出すこともできないで、絶えず身悶えして池を泳ぎまわり、絶えず限られた池を呪って来た老魚の生活の倦怠と憂鬱とが、私の小さな心を脅(おびや)かすように感じられて来たので、私は魚を獲ることなどはすっかり思いとまって、そこそこに舟を岸に漕ぎ戻したことがあった。
 河魚といえば、いずれも新鮮な生命にぴちぴちしていて、その姿をしなやかな、美しいものとのみ思って、友達のような親みをもって遊び馴れて来た私に、この古池の鯉は、彼等の持つ冷たい不気味さと憂鬱との半面を見せてくれるに十分であった。

 私はその後、どうしたわけか、魚の画が好きになって、出来る限りいろんな画家のものを貪り見たことがあった。画院の待詔で、游魚の図の名手として聞え、世間から范獺子と呼ばれた范安仁をはじめ、応挙、蘆雪、崋山などの名高い作物をも見たが、その多くは軽快な魚の動作姿態と、凝滞のない水の生活の自由さとを描いたもので、あの古池の鯉が見せてくれたような、淡水に棲む老魚の持つ倦怠と、憂鬱と、暗い不気味さとは、どの作品でも味うことができなかったのを、幾らか物足らず思ったものだ。たった一度、呉霊壁のあまりすぐれた出来とも思われない作品に、あり来りのそれとはちがって、鯉を水の怪生か何かのように醜く描いてあるのを見て、おもしろいと思ったことがあった。作者はどんな人かよく知らないが、多くの画家が生命の溌溂さをのみ見ているこの魚族を取り扱うのに、彼みずからの見方に従って、グロテスクの味をたっぷりと出したのが気に入って、いまだに忘れられないでいる。


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   苺

 苺の花がこぼれたように咲いている。
 白い小さな花で、おまけに地べたにこびりついて咲くので、どうかすると脚に踏まれそうだ。
 女にも娘のうちは、内気で、きゃしゃで、一向目にも立たなかったのが、人の妻となって、子供でも産むと、急にはしゃいで、おしゃべりな肥大婦(ふとっちょ)になり、どうかすると亭主の頭に手をやりかねないようになるのがあるものだ。苺もそれで、花のうちはあんなにつつましいが、一度実を結ぶと、だんだん肥えて赤ら顔になり、よそ事ながら気恥かしくなるほど尻も大きく張って来るものだ。
 その苺もやがて紅く熟して来る。

 むかし、江蘇の汪□が清朝に二度勤めをして、翰林編修になっていた頃のことだった。あるとき客と一緒に葡萄を食べたことがあった。葡萄は北京の近くで採れたもので、大層うまかった。北の方で生れた客は、ところ自慢から□にむかって、
「うまいですな。お故郷(くに)の江蘇にも、何かこんな果物のいいのがおありでしょうか。」
と訊いたものだ。すると、汪□は、
「私の故郷にですか。故郷には、夏になると楊梅が、秋になると柑子が熟しますよ。こんなことを話してるだけでも、口に唾(つばき)が溜ろうという始末で……もしか自分でそれをちぎった日には……」
といって、夢でも見ているような眼つきをしていたそうだが、それから暫くすると、急に病気だといって、役を罷めて故郷に帰ったということだ。

 それを思うと、上方(かみがた)地方に住んで、朝夕を採り立ての苺を食べ馴れている人達は、滅多に土地を離れて、天国にも旅立ちが出来ないわけだ。なぜというのに、天国にはそのむかしエバが盗んだ林檎の樹が立っている。もしかその実を見て、汪□のように、故郷へ帰りたくなっては大変だから……


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   草の汁

 この頃野へ出てみると、いろんな草が芽を出し、葉を出している。長い間つめたい土にもぐっていたものが、久しぶりに明るい暖かな世界へ飛び出して来たので、神経の先々まで喜びに顫えているようだ。太陽が酔っ払いであろうが、無頼漢(ならずもの)であろうが、そんなことには頓着なく、草はみな両手を差し上げている。
 春の朝、生れたばかりのこの雑草が、露に濡れているのを見ていると、どの葉も、どの若芽もが、皆生(なま)のままで食べられそうに思われるものだ。物好きの人達のなかには、そんなことから思いついたものか、春の遊びの一つとして、よく草の葉を食べあるく催しをしたものがあった。
 それにはまず、味噌を盛った小皿を用意しなければならない。それが出来ると、彼等は列をつくって野道に出かける。そして先達がこれと思う草を摘み、それに味噌をつけて食べると、後について往く人達は、順々にそれに倣って同じことをする。どんなことがあっても、それを嫌がってはならない約束なのだ。春の雑草でも食べようという人達は、牛のように無頓着で、牛のように従順でなければならないことは、彼等自身よく知っているはずだった。
 一、二度違った草を噛むと、次の人が代って先達になることになっているが、こうして幾度か繰返しているうちには、それと知らないで、毒草を口にすることも少くない。そんな場合には、皆の唇は紫色に腫れあがり、胸先がちくちく痛むようなことがないでもなかったが、仮にも仲間を組んで、悪食(あくじき)の一つもしようという輩は、そんなことには一向驚かなかった。
 こんな遊びをした仲間で、私の知っている人が一人あるが、その人はいっていた。
「遊びとしてはちょっと変なものですが、そんなことをやったおかげで、大分物知りになりました。私はその後大抵の草は一目見て、それが食べられるか、どうかということが分るようになりました。」


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   木の芽

     1

 勝手口にある山椒の若芽が、この頃の暖気で、めっきり寸を伸ばした。枝に手をかけて軽くゆすぶって見ると、この木特有の強い匂が、ぷんぷんとあたりに散らばった。
 何という塩っぱい、鼻を刺すような匂だろう。春になると、そこらの草や木が、われがちに太陽の光を飽飲して、町娘のように派手で、贅沢な色で、花のおめかしをし合っているなかに、自分のみは、黄色な紙の切屑のようにじみな、細々(こまごま)した花で辛抱しなければならず、それがためには、大気の明るい植込みのなかに出ることも出来ないで、うすら寒い勝手口に立っていなければならない山椒の樹は、何をおいても葉で自らを償い、自らを現すより外には仕方がなかった。そして葉は思いきり匂を撒き散らしているのだ。
 Smithsonian Institution の McIndoo 博士は、嗅覚の鋭敏なので名高い人だが、いつだったか、五、六ケ月の実験の後、同じ巣に棲っている女王蜂と、雄蜂と、働蜂とをそれぞれ嗅ぎ分けることが出来た。博士はまた数多くの蜂蜜を集めて、その匂の差異を少しも間違わないで、嗅ぎ知ることが出来た。こうした実験の成功から博士は確信をもって、同じ巣に棲んでいる蜂という蜂は、それぞれちがった体臭をもっているので、彼等は暗い巣のなかで、やや離れていても、お互によく相手を嗅ぎ知ることが出来るのだといっている。
 何の別ちもなく見えるこんなものの匂にも、味いわけようとすれば、味いわけ得られるだけの微かな相違はあるのだ。自然がかくばかり細かな用意をもって、倹約(しまつ)して物を使っているのに、この木の芽の塩っぱい匂は、あまりに濫費(むだづかい)に過ぎ、あまりに一人よがりに過ぎはしないだろうか。――とはいうものの、自然に恵まれないものは、しょうことなしに溜息でもつくの外はなかった。こうして洩らされた葉の溜息は、その静かな情熱を包んで、麝香猫のようにぷんぷんあたりを匂わせているのだ。

     2

 春さきに勝手口の空地に顔を出しているものに、山椒と蕗の薹とがある。蕗の薹は辛辣な皮肉家だけに、絶えず苦笑をしている。巧みな皮肉も、度を過ごすと少しあくどくなるように、蕗の薹の苦い風味を好む人も、もし分量が過ぎると、口をゆがめ、顔を顰めないわけにはゆかなくなる。皮肉家は多くの場合に自我主義者(エゴイスト)で、どうかすると自分の持味で他の味をかき乱そうとするからだ。それに較べると、山椒の匂は刺激はあるが、苦味がないだけに、外のものとの折れ合も悪くはない。
 筍といういたずらものがある。春になると、土鼠のように、土のなかから産毛(うぶげ)だらけの頭を持出して来る奴だが、このいたずらもののなかには、えぐい味のがあって、そんなのはどうかすると、食べた人に世の中を味気なく思わせるものだ。また小芋という頭の円い小坊主がいる。この小坊主にもえぐいのがあって、これはまた食べた人を怒りっぽくするものだが、こんな場合に木の芽がつまに添えてあると、私たちはそれを噛んで、こうした小さな悪党達の悪戯(いたずら)から、やっと逃げ出すことが出来る。

     3

 イギリスのある詩人がいった。――
「万人の鼻に嗅ぎつけられる匂が二つある。一つは燃える炭火の匂。今一つは溶ける脂肪の匂。前のは料理を仕過ぎた匂で、後のは料理を仕足りない匂だ。」
と。私は今一つ、木の芽や、またそれと同じような働きをするものをこれに附け加えて、料理の風味を添える匂としたいと思う。


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   物の味

     1

「どんな芸事でも、食物の味のわからない人達に、その呼吸がわかろうはずがありませんよ。庖丁加減にちっとも気のつかない奴が、物の上手になったためしはないのですからな。」
 四条派の始祖松村呉春は、人を見るとよくこんなことをいったものだ。
 呉春は、『胆大小心録』の著者上田秋成から、「食いものは、さまざまと物好みが上手じゃった。」といわれたほどあって、味覚がすぐれて鋭敏な人で、料理の詮議はなかなかやかましかった。
 呉春は若い頃から、暮し向がひどく不自由なのにもかかわらず、五、六人の俳人仲間と一緒に、一菜会という会をこしらえて、毎月二度ずつ集まっていた。そしてその会では、俳諧や、絵画の研究の外に、いろいろ変った料理を味って、この方面の知識を蓄えることも忘れなかった。

     2

 呉春は困った時には、島原の遊女が昵懇客(なじみきゃく)へおくる艶書の代筆までしたことがあった。そんな苦しい経験を数知れず持っている彼も、画名があがってからの貧乏は、どうにも辛抱が出来なかった。
 師の蕪村の門を出てから後も、呉春の画は一向に売れなかった。彼は自分の前に一点のかすかな光明をも見せてくれない運命を呪った。そしてとうとうわれとわれが存在を否定しようとした。生きようにも生きるすべのないものは、死ぬより仕方がなかった。
 物を味うことの好きな呉春に、たった一つ、死ぬる前に味っておかねばならぬものが残されていた。
 彼は一度でいいから、心ゆくまでそれを味ってみたいと思いながら、今日まで遂にそれを果すことが出来なかったのだ。
 それはこの世に二つとない美味いものだった。しかし、それを食べたものは、やがて死ななければならなかった。彼はその死が怖ろしさに、今日までそれを味うことを躊躇していた。
 それを味うことが、やがて死であるとすれば、いま死のうとする彼にとって、そんな都合のよい食物はなかった。
 その食物というのは、外でもない。河豚(ふぐ)であった。

 呉春は死のうと思いきめたその日の夕方、めぼしいものを売った金で、酒と河豚とを買って来た。
「河豚よ。今お前を味うのは、やがてまた死を味うわけなのだ。お前たち二つのものにここで一緒に会えるのは、おれにとっても都合が悪くはない。」
 呉春は透きとおるような魚の肉を見て、こんなことを考えていた。そしてしたたか酒を煽飲(あお)りながら、一箸ごとに噛みしめるようにしてそれを味った。
 河豚は美味かった。多くの物の味を知りつくしていた呉春にも、こんな美味いものは初めてだった。彼は自分の最期に、この上もない物を味うことが出来るのを、いやそれよりも、そういう物を楽しんで味うことによって、安々と死をもたらすことが出来るのを心より喜んだ。
 暫くすると、彼の感覚は倦怠を覚え出した。薄明りが眼の前にちらつくように思った。麻痺が来かかったのだ。
「河豚よ。お前は美味かった。すてきに美味かった。――死もきっとそうに違いなかろう……」
 呉春はだるい心の底で夢のようにそんなことを思った……。
 柔かい闇と、物の匂のような眠とが、そっと落ちかかって来た。
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