艸木虫魚
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著者名:薄田泣菫 


くろかわ
山茶花
魚の旅
潔癖

驢馬
遊び
古本と蔵書印
ある日の基督
老和尚とその弟子
名器を毀つ
利休と丿観
探幽と松平伊豆(少年少女のために)
人間というもの(少年少女のために)
肖像画(少年少女のために)
道風の見た雨蛙(少年少女のために)


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   柚子

 柚の木の梢高く柚子の実のかかっているのを見るときほど、秋のわびしさをしみじみと身に感ずるものはない。豊熟した胸のふくらみを林檎に、軽い憂鬱を柿に、清明を梨に、素朴を栗に授けた秋は、最後に残されたわびしさと苦笑とを柚子に与えている。苦笑はつよい酸味となり、わびしさは高い香気となり、この二つのほかには何物をももっていない柚子の実は、まったく貧しい秋の私生児ながら、一風変った秋の気質は、外のものよりもたっぷりと持ち伝えている。
 柚子は世間のすねものである。超絶哲学者の猫が、軒端で日向ぼこりをしながら、どんな思索にふけっていようと、また新聞記者の雀が、路次裏で見た小さな出来事をどんなに大げさに吹聴していようと、彼はそんなことには一向頓着しない。赤く熟しきった太陽が雑木林に落ちて往く夕ぐれ時、隣の柿の木の枝で浮気ものの渡り鳥がはしゃぎちらしているのを見ても、彼は苦笑しながら黙々として頭をふるに過ぎない。そこらの果樹園の林檎が、梨が、柿が、蜜柑が、一つ残さずとりつくされて、どちらをふり向いて見ても、枝に残っているものは自分ひとりしかないのを知っても、彼は依然として苦笑と沈黙とをつづけている。彼は自分の持っているのは、さびしい「わび」の味いで、この味いがあまり世間受けのしないことは、柚子自らもよく知っているのである。
 むかし、千利休が飛喜百翁の茶会で西瓜(すいか)をよばれたことがあった。西瓜には砂糖がかけてあった。利休は砂糖のないところだけを食べた。そして家に帰ると、門人たちにむかって、
「百翁はもっとものがわかっている男だと思っていたのに、案外そうでもなかった。今日西瓜をふるまうのに、わざわざ砂糖をふりかけていたが、西瓜には西瓜の味があるものを、つまらぬことをしたものだ。」
といって笑ったそうだ。もののほんとうの味を味おうとするのが茶人の心がけだとすると、枝に残って朝夕の冷気に苦笑する柚子が、彼等の手につまれて柚味噌となるに何の不思議はない。「わび」を求めてやまない彼等に、こんな香の高い「わび」はないはずであるから。
 徳川八代将軍吉宗の頃、原田順阿弥という茶人があった。あるとき、老中松平左近将監の茶会に招かれて、懐石に柚味噌をふるまわれたことがあった。その後幾日か経て、順阿弥は将監にあいさつをした。
「こないだの御味噌は、風味も格別にいただきました。さすが御庭のもぎ立てはちがったものだと存じました。」
「庭のもぎ立て。」将監は不審そうにいった。「なぜそんなことがわかった。」
 順阿弥は得意そうに微笑した。
「外でもございません。お路次へ上りましたときと、下りましたときと、お庭の柚子の数がちがっておりましたものですから。」
 それを聞くと、将監は
「油断もすきも出来ない。」
といって、にが笑いしたそうである。
 ものごとに細かい用意があるのはいいものだが、路次の柚子を数えるなどは、柚味噌のわびしい風味をたのしむ人の振舞とも覚えない。こんなことを得意とするようでは、いつかは他人のふところ加減をも読みかねなくなる。


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   とうがらし

 青紫蘇、ねぎ、春菊、茗荷(みょうが)、菜っ葉――そういったもののみが取り残されて、申し合せたように青い葉の色で畑の健康を維持しているなかに、一株の唐辛が交って、火のしずくのような赤い実を点在させているのが眼についた。
「舞台では、なるべく赤い花をつかわないようにする。――これは脚本家が何よりも先に心がけなければならぬことである。強い赤の色は、どうかすると観客の注意を乱していけないから。」
 これは舞台監督として聞えたダヴィッド・ベラスコの言葉であるが、この監督が折角そういって気をつけているのにもかかわらず、唐辛は平気でトルコ人のような赤い帽子を被って舞台に立っているので、青一式の周囲の平和が、お蔭でどのくらい引っかきまわされているかしれない。
 唐辛は怒っているのだ。
 唐辛よ。お前は何をそんなに怒っているのか。もっと平和な気持になって、御近所の衆と一緒に静な秋を楽しんだらどうだろう。トルコ人の被りそうなそんな赤帽子は腋の下にでもそっとおし隠したらいいではないか。
 唐辛はむっとしている。
 唐辛は皮肉家だ。生れつきするどい皮肉家だ。彼は自分にさわるものには、誰にでも容捨なく持前の皮肉を投げつける。彼には「わさび」や「からし」のようなユウモリスト達が、相手に辛い皮肉を味わせながらも、同時にまた眼がしらに涙を浮べて笑いころげさせる滑稽味が欠けている。彼はどこまでも単純だ。感情が激越だ。単純で感情が激越なればこそ、皮肉家なのである。
 自然界のあらゆるものは性格をもっている。その性格にはそれぞれ変化があり、打開がある。たとえば柿や栗などは、初めのうちは渋いが、終いには甘くなる。蜜柑や杏のようなものは、初めのうちは酸っぱいが、終いには甘くなる。これらはそれぞれの性格の成長であり、飛躍である。悔悟であり、新生である。そんななかにたったひとり唐辛のみは、最初から終りまで同じ「からさ」の持ち続けである。何の変化もなく悔悟もない一本調子の生活ほど、気をいらだたせるものはない。日を重ねるにつれて唐辛の癇癪がいよいよ手におえなくなり、その皮肉がますますするどくなるのに何の不思議があろう。

 かくして唐辛は、いつもあんなにぷんぷん怒りどおしに怒っているのである。そして偉大なる太陽もそれをどうすることが出来ないのだ。

 今はもう三十年のむかしにもなろう。私が二十歳足らずの頃、早稲田鶴巻町のある下宿屋に友達を訪ねたことがあった。狭い廊下を通りかかると、障子を明けっ放しにした薄ぎたない部屋に、一人の老人が酒を飲みながら、声高に孟子を朗読しているのがあった。机の上には、小皿に唐辛を盛ったのが置いてあって、老人は時々それをつまんで、鼠のように歯音をたててかじっていた。
「誰かね、あの老人は。」
「あれが田中正造だよ。鉱毒事件で名高い……」
 私はそれを聞いた瞬間、あの爺さんのはげしい癇癪を、唐辛のせいのようにも思ったことがあった。


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   かまきり

 秋草のなかにどかりと腰をおろして、両足を前へ投げ出したまま日向ぼっこをしていると、かさこそと草の葉を伝って、私の膝の上に這いのぼって来るものがある。見るとかまきりだ。かまきりはたった今生捕ったばかしの小さな赤とんぼを、大事そうに両手でもって胸へ抱え込んでいる。
 哀れな犠牲だ。私はかろく指さきでその赤とんぼの羽に触ってみた。あわよくば助けてやりたかったのだ。かまきりは立ちとまった。要らぬおせっかいを癪にさえたらしく、胸をそらして身構えた。私はまたとんぼの尻尾に触ろうとした。それを見たかまきりは、一足しさって高く右手の鎌をふりあげた。私はまたとんぼの頭を小突いた。その一刹那かまきりは赤とんぼをふり捨てて、両手の鎌をふりかざして手向って来た。私は指さきでその草色の背を押えた。処女(きむすめ)が他人に肌を弄られたような無気味さと恥辱とに身をふるわしながら、かまきりはいきなり私の指に噛みつこうとした。私はかろくそれを弾き飛ばした。よろよろとよろけた虫は、両脚をつよくしっかりと踏みはだかって、やっと立ち直ったかと思うと、すぐまた鎌を尖らして来た。
「なかなかしぶとい奴だな。それじゃ、こうしてくれる……」
 私はすきを見て、相手の細っこい首根っこを両指につまみあげようとして、その瞬間自分が今争っているのは、草色の背をした小さな秋の虫ではなく、私自身の胸の奥に巣くっている反抗心そのものであるような気がしたので、そのままそっと指を引っこめてしまった。
「反抗」の精霊よ。押えれば頭をもち上げたがる「反動」の小さな悪魔よ。澄みきった清明な秋の心の中にすみながら、お前は生れおちるとから死ぬるまで、一瞬の間も反抗と争闘との志を捨てようとはしない……
 馬を見よ。馬はあの大きな図体をしながら、人間にはどこまでも従順で、いいつけられたことにはすなおに服従している。ある学者の説明によると、馬があんなに人間に従順なのは、ひとえにその眼の構造によることで、馬の眼は人間の眼よりも二十二パアセントだけものを大きく見せるように出来ているので、五尺五寸の人間は馬の眼には六尺七寸以上に映ることになる。それゆえにこそ馬は人間におとなしいので、もしか馬が人間のほんとうの大きさを知ることが出来て、芝居の「馬」のように自分の背で反身になっているものが、必ずしも主役の一人とは限らないことを知ったなら、馬は主人を鞍の上からゆすぶり落して、足蹴にかけまいものでもないということだ。馬にこんな不思議な眼を授けた自然は、かまきりにはかなり鋭利な二つの鎌と一緒に、しぶとい反抗心を与えてくれた。これあるがゆえに、お前はあらゆる虫と戦い、草の葉と戦い、風と戦い、お前の母である清明な秋と戦い、はては大胆にも偉大なる太陽に向ってすら戦をいどもうとするのだ。百舌鳥もお前に似て喧嘩ずきな鳥だが、あの鳥の慾望は征服の心地よさにあるので、征服出来そうにもない相手には、滅多に争いを仕かけようとはしない。それに較べると、お前は何という向う見ずな反逆気(むほんぎ)だろう。あの太陽に向って喧嘩をしかけるとは。それにしてはお前の身体はあまりにひ弱すぎる。
「お前は結局自分の反逆気に焼かれて死ぬより外はないのだ。」
 私が小声でそっと耳打ちしようとすると、かまきりはもうそこらにいなくなっていた。それでも構わなかった。私は自分の胸に巣くっている、今一つのかまきりに呼びかけることが出来たから。


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   蜜柑

 黄金色の蜜柑がそろそろ市に出るころになった。

 むかし、善光という禅僧があった。あるとき托鉢行脚に出て紀州に入ったことがあった。ちょうど秋末のことで、そこらの蜜柑山には、黄金色の実が枝もたわむばかりに鈴なりになっていた。山の持主は蜜柑取に忙しいらしく、こんもり繁った樹のかげからは、ときおり陽気な歌が聞えていた。
 蜜柑山に沿うた小路をのぼりかかった善光は、ふと立ちとまった。頭の上には大粒の蜜柑のいくつかがぶら下っていた。善光は不思議なものを見つけたように、眼を上げてその枝を見つめた。そしてときどきいかにも不審に堪えないように小首をかしげては、何やら口のなかで独言をいっているらしかった。
 しばらくすると、程近い樹のかげから一人の農夫がのっそりと出て来た。
「坊さん。あんたそんなところで何してはりまんね。」
 善光は手をあげて頭の上の枝を指ざした。
「あすこに変なものがぶら下っている。あれは何というものかしら。」
「変なもの。どれ。どこに。」
 農夫は善光の指ざす方角を見あげた。そしてはじけるように笑い出した。
「はははは。あれ知んなはらんのか。蜜柑やおまへんか。」
「蜜柑。」善光はいぶかしそうに農夫の顔を見た。「何ですか、蜜柑というのは。」
「蜜柑を知んなはらんのか。」農夫はおかしそうな表情をして善光を見かえした。旅の坊さんは牛のようなとぼけた顔をして立っていた。農夫は爪立ちをしながら手を伸ばして、枝から蜜柑の一つをもぎとった。「まあ、あがってごらん。おいしおまっせ。」
 善光は熟しきった果物を手のひらに載せられたまま、それが火焔のかたまりででもあるかのように眼を見張った。
「食べられる、これが……」
 善光のもじもじしている容子を見た農夫は、おかしさに溜らなさそうにまた笑い出した。
「坊さんなんて、ありがたいもんやな。蜜柑の食べ方一つ知んなはらん。どれ、わしが教えてあげまっさ。」
 農夫は蜜柑の皮をむいて、あらためて中味を善光の手にかえした。
 善光はそれを一口に頬張った。その口もとを見つめていた農夫はいった。
「なかなかおいしおまっしゃろ。」
 善光はそれには答えないで、蝦蟇(がま)のような大きなおとがいを動かしながら、じっと後口(あとくち)を味っていたが、まだ何だか腑に落ちなさそうなところがあるらしく、ちょっと小首をかしげた。
「申しかねますが、今一ついただけないでしょうか。」
 農夫は黙ってまた二つの蜜柑を枝からもぎとった。善光はそれを二つとも食べてしまって、初めて合点したようにいった。
「なるほど蜜柑というものはうまいものですな。」
 旅の僧に初めて蜜柑を味わせたその喜びをもって、農夫がもとの樹かげに帰って往くと、善光は手を伸ばして道に落ちている蜜柑の皮を、残らず拾いとってふところに収めた。
「これ、これ。そんなもの拾うたかて、食べられやしまへんぜ。」
 農夫の声が樹かげから聞えた。善光は声のする方にふりむいた。
「いや、持って帰って陳皮にするのです。」
 善光め。何も知らない顔をしていて、実は蜜柑の皮を食うすべまで知っていたのだ。――禅というものは、いろんな場合に役に立つものである。


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   柿

 今日野道をぶらついていると、一軒の田舎家の裏口に出た。そこには柿の木が立っていて、枝には柿の実の幾つかが、午後三時頃の日光を受けて紅玉のように光っていた。柿の木の上には、雨あがりの青磁色をした深い秋の空が、たとえようもない清明な姿をして拡がっていた。
 燃えるような柿の色に暗示されて、赤絵を焼いたという柿右衛門の陶器には、器の一方に片寄せて花鳥をえがき、それに対する他の一方は素地の清徹をそのまま残して、花鳥の花やかな配色と対照させているのがよくある。ちょうどそのように柿の実の紅玉を見て楽むにも、それをもぎ取って手のひらに載せたり、果物籠に盛ったりしたのでは感興が薄い。やはり大空を陶器皿の見込に見たてて、深い空の色を背景として見あげるに越したことはない。柿右衛門の製作には、そのまま残された素地に、ちぎれ雲とか小さな鳥とかを描き込んで、その器の向きを示しているのがよくあるが、頭の上の柿の実に見とれる折にも、慾をいえば、雲の一片か小鳥かが空を飛んでいてくれたら、どんなにかおもしろかろうとも思うが、世のなかのことは、そうそう注文通りにはゆきかねるから仕方がない。
 柿右衛門に限ったことではないが、陶器の絵には、自然界ではとても見つかりそうにもない変な形をした禽獣や草木がよく描かれてある。鍋島にうずまきの花をもった草が描かれているのは、人の皆知っているところで、むしろあすこの製作の特徴のようにさえなっているが、あんな草がどこに見出されるだろうか。また古陶の名高いものに頭でっかちな鳥や、すばらしく尻っ尾の長い鳥の染付をよく見ることがあるが、あんな不恰好な鳥はどこの森をさがしても、ねっから見つかりそうには思われない。
 むかし、宋の徽宗皇帝が、画院の画工たちに孔雀が丘に上ろうとする様を描かせたことがあった。画は出来上って上覧に供せられたが、皇帝はどれを見ても一向気に入らぬらしかった。皇帝はいった。
「孔雀が丘に上るときには、きっと左脚から先にするものなのだ。それなのにお前たちの画は、皆右脚から先に踏み出している。こんなに事実に違っていてはとても駄目だ。」
 すべてに生動の真をつかもうがためには、精厳な写生によらなければならないとした院態写生画のこうした主張からすると、あの陶器画のあるものは、何という気まま勝手な、反自然な、しかしまた何という自由な精神に富んだものだろう。彼等は右脚を先にするは愚なこと、はでな孔雀の羽の代りに、じみな牛の尻尾をつけかえまいものでもなさそうだ。そこに笑うべき稚拙がある。しかしまた快活な自由さがないではない……。
 柿の木と柿の実とのあの素朴な厚ぼったい感じは、どの材料をつかうよりも、一番よく陶器画として表現出来そうだ。私をして描かしむれば、鍋島の陶器師があのうずまきの草花を選んだような自由さをもって、私は紅玉の実を支える枝という枝に、雄鶏の脚に見るような、するどい蹴爪をかき添えるかも知れない。
 なぜといって、今気がついたことだが、あすこに真赤に熟しているのは、まがうようもない渋柿だからである。


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   蓑虫

     1

 空は藍色に澄んでいる。陶器のそれを思わせるような静かで、新鮮な、冷い藍色だ。
 庭の梅の木の枝に蓑虫が一つぶら下っている。有合せの枯っ葉を縫いつづくった草庵とでもいうべきお粗末な住家で、庵の主人は印度人のような鳶色の体を少しばかし、まだ開けっ放しの入口の孔から突き出したまま、ひょくりひょくりと頭をふっている。何一つする仕事はなし、退屈でたまらないから、閑つぶしに頭でもふってみようかといった風の振方である。
 そっと指さきで触ってみると、虫は急に頭をすくめて、すぽりと巣のなかに潜り込んでしまうが、しばらくすると、のっそりと這い上って来て、またしてもひょくりひょくりと頭をふっている。

     2

 むかし、支那の河南に武億という学者があった。ある歳の冬、友人の家に泊っていて除夜を過ごしたことがあった。その日の夕方宿の主人がこんなことをいい出した。
「旅に出て歳を送るのは、さだめし心細いものだろうと思うな。その心細さを紛らせるのに何かいいものがあったら、遠慮なくいってくれたまえ。」
 すると、武億は答えた。
「有難う。じゃ酒を貰おうかな。酔ってさえいれば除夜も何もあったものではない。」
 主人は客の好みに応じて蒙古酒一瓶に、豕肉と、鶏と、家鴨と、その外にもいろんな珍らしい食物を見つくろって武億をもてなした。客はその席に持ち出されたものはみんな飲みつくし、食べつくして、いい機嫌になっていたが、何となくまだ物足りなさそうにも見えるので、主人が気をきかせて、
「まだ欲しいものがあるなら、何なりともいってくれたまえ。」
というと、武億はとろんこの眼を睡そうに瞬きながら、
「何もない。ただ泣きたいばかりだ。」
といいも終らず、いきなり声をあげて小児のようにおいおい泣き出したそうだ。

 武億が声をあげて泣き出したのは、したたか酒に食べ酔った後の所在なさ、やるせなさからで、蓑虫がひょくりひょくりと円い頭をふり立てているのも、同じ所在なさやるせなさの気持からだ。虫は春からこの方、ずっと青葉に食べ飽きて、今はもう秋冬の長い静かな眠りを待つのみの身の上だ。ところが、気紛れな秋は、この小さな虫に順調な安眠を与えようとはしないで、時ももう十月半ばだというのに、どうかすると夏のような日光の直射と、晴れきった空の藍色とで、虫の好奇心を誘惑しようとする。木の葉を食うにはもう遅すぎ、ぐっすり寝込むにはまだ早過ぎる中途半端な今の「出来心」を思うと、虫は退屈しのぎの所在なさから、小坊主のような円い頭をひょくりひょくりと振ってでもいるより外に仕方がなかったのだ。

     3

 むかしの人は、虫と名のつくものは、どんなものでも歌をうたうものと思っていたらしく、蚯蚓(みみず)や蓑虫をも鳴く虫の仲間に数え入れて、なかにも蓑虫は
「父こいし。父こいし。……」
と親を慕って鳴くのが哀れだといい伝えられているが、ほんとうのことをいうと、蚯蚓と蓑虫とは性来のむっつりやで、今日まで一度だって歌などうたったことはないはずだ。蚯蚓が詩人と間違えられたのは、たまさかその巣に潜り込んで鳴いている螻蛄(けら)のせいで、地下労働者の蚯蚓は決して歌をうたおうとしない。黙りこくってせっせと地を掘るのが彼の仕事である。
 それと違って、蓑虫が歌をうたわないのは、彼がほんとうの詩人だからだ。むかしの人もいったように、ほんとうに詩を知ることの深いものは、詩を作ろうとはしないものだ。声に出して歌うと、自分の内部が痩ることを知っているものは、唯沈黙を守るより外には仕方がない。――だから蓑虫は黙っているのだ。

 支那の周櫟園の父はなかなかの洒落者で、老年になってから自分のために棺を一つ作らせて、それを邸内に置いていた。天気のいい日などに酒に酔っぱらうと、
「いい気持だ。こんな気持をなくしないうちに、今日は一つ死んでのけよう。」
といいいい、ごそごそその棺のなかに潜り込んで、ぐっすり寝入ったものだ。そして眠りから覚めると、多くの孫たちを呼び集め、懐中に忍ばせておいたいろんな果物を投げてやって、孫たちがそれを争い拾うのを眺めて悦んでいたということだ。――死の家から、若い生命の伸びてゆくのを見る娯しみである。

 枯っ葉でつづくった蓑虫の草庵は、やがてまたその棺であり、墓である。そのなかで頭をふりふり世間を観じている蓑虫の心は、むかし周氏の父が味ったような遊びに近いものではなかろうか。
 私にはそんなことが考えられる。


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   松茸

     1

 西日のあたった台所の板敷に、五、六本の松茸が裸のままでころがっている。その一つを取り上げてみると、この菌(きのこ)特有の高い香気がひえびえと手のひらにしみとおるようだ。
 ものの香気ほど聯想を生むものはない。松茸の香気を嗅いですぐに想い浮べられるものは、十月の高い空のもとに起伏する緑青色の松並木の山また丘である。馬には馬の毛皮の汗ばんだ臭みがあり、女には女の肌の白粉くさい匂いがあるように、秋の松山にはまた松山みずからの体臭がある。日光と霧と松脂(まつやに)のしずくとが細かく降注ぐ山土の傾斜、ふやけた落葉の堆積のなかから踊り出して来たこの頭の円い菌こそは、松山の赤肌に嗅がれる体臭を、遺伝的にたっぷりと持ち伝えた、ちゃきちゃきの秋の小伜である。

     2

 私たちの母国ほど、松の樹にめぐまれている土地は少かろう。高い山、低い山、高原、平野、畷道、または波うち際の砂浜に至るまで、どこにでも、松の樹の存在は見出される。遠いむかしに生きていたという蛟龍のような、鱗だらけの脊をして、偶に一人ぽっちで立っていないこともないが、多くの場合互に手を取り肩を並べて群生している。それも杉や樅(もみ)などと異って、群生したからといって、同じ高さで同じ恰好に成長するのではなく、集団的生活を営みながらも、持って生れた自分の本性を損わないで、めいめい勝手にわが欲するがままに背を伸ばし、手を振りかざしている。全体として緑青と代赭(たいしゃ)との塊りとしか見えない松木立も、そのなかに入ってよく見ると、それぞれの樹が性向と姿態とを異にしているのに驚くことがよくある。多くの樹木が女の顔立と同じように、老齢の重みに圧されると、唯もう醜くなるのみなのに較べて、松の樹は男の容貌と同じように、歳とともに鍛錬せられゆく性格の重みを加え、環境との争闘から生じた痛ましい創痕(きずあと)を、雄々しくもむき出しに見せつけている。
 松はこうした際立った性格のために、人間に愛敬せられるとともに、また松脂くさいその葉の呼吸で、あたりの大気に新鮮さを放散し、人間の気分に一味の健かさを与えている。私はこれまで自分の心に憂鬱の雲がかかると、いつもきまったように松木立のなかに入って行くことにしているが、松脂の香気に充ちた空気を胸一杯に吸い込むと、憂鬱は影もなく消えてゆき、心はいつのまにか気力と新鮮さとを取り返している。
 むかし、足利尊氏は洛西等持院の境内にあった一本の松をこの上もなく愛していた。それはほととぎすの松といって、ほととぎすが巣をかけたことのある名木だった。実をいうと、この鳥はどんな場合にも、自分では巣を組まないで、鶯の家へこっそり卵を産み落し、雛をかえさせるので知られているほどだから、ほととぎすの巣だというのも、詮じてみれば鶯のそれだったかも知れないが、そんな詮索はどうでもいいとして、尊氏は愛賞のあまり、鎌倉へ下向の折にも、この樹のみはわざわざ持ち運ばせるのを忘れなかった。すると、鎌倉滞在中は樹に何となく生気がぬけていたが、主人の上洛とともに等持院に帰って来ると、急にまた元気づいて、葉の色も若やいで来たということだ。
 私が松木立のなかに立って、持病の憂鬱がとみに軽くなるのを覚えるのは、ちょうどこのほととぎすの松が、寺の境内に帰って来て、生気を回復するのと同じように、ここに一つの郷土を感ずるからなのではあるまいか。ともかくも、それほどまでに松脂のにおいは、私たちの生活の奥深く滲み透っているように思われる。

     3

 松茸の蒸すようなにおいは、私をしてこんなことまでも聯想させた。だが、私は今病をいだいて、起居さえ不自由な境涯にある。松木立のなかで感じられる大気の辛辣さ新鮮さが、どんなに私を誘惑して、軽い動悸をさえ覚えさせるものがあろうとも、さしあたって私はどうするわけにもゆかない。
 近江の石山寺に持ち伝えられた古文書を見た人の話によると、そのむかし、京都のある公卿が、一度ほととぎすを聞こうとは思うが、どうしても聞かれないので、霊験のあらたかな観世音に願って、都の空でこの鳥を鳴かせてほしいと、所望して来たことがそれに載っているそうだ。観世音に祈って、居ながらほととぎすが聞かれるものなら、病に居ても松木立のそぞろ歩きが出来ないこともなかろう。だが、それが出来ないというなら、そこにはまた想像と幻想というものがある。私はその自由な翼に乗って、どことなく松脂の匂いのする私の郷土へ飛ぶことが出来ようというものだ。


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   影

     1

 閉(た)てきった障子に、午後三時頃の陽があかるくあたって、庭さきの木芙蓉の影が黒くはっきりと映(うつ)っている。
 枝のたたずまい。花のさかずき。ぎざぎざの入ったもみじ形の葉。――そういうものが、くっきりと浮び出したように、白い障子のおもてにその横顔を投げている。
 かまきりが一つ、高脚を踏ん張って、葉の裏にすがりついている。
 雀が一羽、どこからか飛んで来て枝にとまると、そのはずみに枝が揺れ、葉が揺れ幹がかすかに揺れている。
 小さな蜜蜂が、矢のように真っすぐに来て、蕊の高い花びらのなかに隠れたかと思うと、すぐにまた飛び出して往ってしまう。
 いそがしい生活の動きだ。
 木芙蓉がだしぬけに顔を、肩を、胸を、――、身体じゅうを皺くちゃにして笑い出した。風が吹いて来たのだ。
 一瞬の間もじっとしていない自然の動きは、絶えず障子の影絵にその脈搏を伝え、影は刻々にその以前の姿態と心持とを塗抹し、忘却し、喪失して、それに更る新しい姿態と心持とを生み出している。その一刹那の影を捉えて、それにふさわしい形を与えることは、とても無駄な思いつきだろうか。

 むかし、前蜀のなにがし夫人は、秋の夜長のつれづれに、ひとり室に籠って考え事に耽っていたが、ふと何かを見つけると、声に出して叫んだ。
「まあ、竹があんなところに……」
 平素夫人が愛していた庭さきの竹が、仙女のような瘠せた清らかな影を、紙窓にうつしていた。いつのまにか空には月があがっていたのだ。
 絵心の深かった夫人は、早速筆をとって窓の影そのままを一気に墨に染めた。かりそめの出来心がさせた戯れとのみ軽く思っていたこの竹の画は、後でよく見ると、幹も、枝も、葉も、溌溂として生意に富んだ、すばらしい出来だったそうだ。

 夫人のこの画こそ、墨竹の初まりのようにいう人もあるが、そんなことはどうでもよい。忘れてはならないのは、夫人が少しの躊躇もなく、自然の一刹那の姿態を捉えたことによって、はちきれるばかり豊富に生意を画面に盛り得たことだ。

     2

 自分の姿を見て満足を覚える人は、世間にざらにあるだろうが、自分の影を見て限りもない楽みを感ずる人は滅多にあるまい。
 明末四公子の一人として、風流の名をほしいままにした冒巣民の愛妾小苑のごときは、その僅なうちの一人に相違なかった。
 小苑が紅熟した桜桃(さくらんぼ)をつまんで食べる時には、桜桃(さくらんぼ)と唇との見わけがつかなかったというほどだから、どんなに美しい女だったかはほぼ想像することが出来る。二十七の若盛りで亡くなったので、冒氏は哀惜のあまり、自分の手でこの女の思い出を書き残しているが、それによると、小苑は自分の影を見ることが好きで、月夜には、ああか、こうかといろんな立姿を月あかりにうつして、興に入っていたものだそうだ。
 あるとき、菊を贈ってよこした人があった、花のひかり、葉のつや、枝のたたずまいなど、見るから眼のさめるようなうつくしい花だった。そのおり小苑は病気で床に臥っていたが、やおら起きあがって、白地の六面屏風に花の三方をとりまかせた。そして自分も花の側に座を設けて、灯火が屏風へ投げる二つの影をいろいろと試み直していたが、いくらか疲れが出たらしくぐたりとなって、誰にいうともなく、
「菊の花はほんとうによく出来ているんだが、人間の方がこんなに痩っちまって……」
と悲しそうにつぶやいたということだ。

 自分の姿態と、影と、心持とを、花のもつそれらと交錯させ、諧和させようとする試みは、多くの人が花を自分の好みにねじ曲げるようにするそれとは異って、確におもしろい行き方だと思う。


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   さすらい蟹

     1

 今日蛤(はまぐり)を食べていると、貝のなかから小さな蟹が出た。貝隠れといって、蛤や鳥貝の貝のなかに潜り込み、つつましやかな生活を送っている小さな食客だ。蟹という蟹が持って生れた争闘性から、身分不相応な資本(もとで)を入れて、大きな親爪や堅い甲羅をしょい込み、何ぞといっては、すぐにそれを相手の鼻さきに突きつけようとする無頼漢(ならずもの)揃いのなかにあって、これはまた何という無力な、無抵抗な弱者であろう。
 そうした弱者であるだけに、こっそりとそこらの蛤の家に潜り込み、宿の主人といがみあいもしないで、仲よく同じ屋根の下で、それぞれの本性に合った、異った生活を営むことも出来るので、こんな貧しい、しかしまたむつまじい生活を与えてくれる自然の意志と慈愛とは、感嘆に値いするものがある。
 この小さな蟹の第二指と第五指とが、人間のそれと同じように、第三指や第四指に比べて少し短いのは、どうした訳であろうか。自然はこんな目で測られないような小さなものにまで、細かい意匠の変化を見せて、同じものになるのを嫌っているのではなかろうか。

     2

 他人の軒さきを借りて生活をする貝隠れとは打って変って、広い海の上を漂泊することの好きな蟹に「おきぐらぷすす」がある。胆の太い航海者が小さなぼろ船に乗って、平気で海のただ中に遠出をするように、この蟹はそこらに有合せの流れ木につかまって、静かな海の上を波のまにまにところ定めず漂泊するのが、何よりも好きらしい。この小さな冒険者に不思議がられるのは、彼が広い海の上を乗り歩く娯しみとともに、また新しい港に船がかりする悦びをも知っているらしいことだ。磯打つ波と一緒に流れ木がそこらの砂浜に打ちあげられると、蟹は元気よく波に濡れた砂の上におり立ち、まるで自分が新しい大陸の発見者ででもあるように、気取った足どりでそこらを歩き廻るそうだ。

     3

 漂泊好きなこの蟹のことを考えるたびに思い出されるのは、年若くして亡くなった詩人増野三良氏のことだ。増野氏は生前オマア・カイヤムやタゴオルの訳者として知られていたが、そんな飜訳よりも彼自身のものを書いた方がよかりそうに思われるほど、詩人の気稟(きひん)に富んだ男だった。
 増野氏が大阪にいる頃、私は梅田駅の附近でたびたび彼を見かけたので、あるときこんなことを訊いたことがあった。
「よく出逢うじゃないか。君のうちはこの近くなの。」
 増野氏の答は意外だった。
「いや、違います。僕は毎日少くとも一度はこの停車場にやって来るんです。自分が人生の旅人であることを忘れまいとするためにね。」
 私は笑いながらいった。
「それはいいことだ。少くとも大阪のような土地では、旅人で暮されたら、その方が一等幸福らしいね。」
「僕は時々駅前の料理屋(レストオラン)へ入って食事をしますが、そこの店のものに旅人あつかいをされると、僕自身もいつの間にかその気になって、この煤煙と雑音との都会に対して旅人としての自由な気持をとり返すことが出来るんです。僕はどんな土地にも、人生そのものにも、土着民であることを好みません。旅人であるのが性に合ってるんですよ。」
 増野氏はこういって、女にしてみたいような美しい大きな眼を輝かせた。私はその眼のなかに、一片の雲のような漂泊好きな感情がちらと通り過ぎるのを見た。

     4

 それから二、三日して、私は友人を見送りに、梅田駅の構内に立っていた。下りの特急列車が今着いたばかりで、プラットフォオムは多数の乗客で混雑していた。
 ふと見ると、そのなかに増野氏が交って、白い入場券を帽子の鍔(つば)に、細身のステッキを小腋に抱込んだまま、ひとごみをかき分けかき分け、気取った歩きぶりで、そこらをぶらぶらしているのが眼についた。その姿を見ると、長い汽車旅行に飽きて、停車時間の暫くをそこらに降り立っている旅人の気持がありありと感じられた。
「人生の旅人か。」
 私は増野氏のいった言葉を思い出して、この若い、おしゃれな「おきぐらぷすす」の後姿をいつまでも眼で追っていた。


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   糸瓜

     1

「これは驚いた。糸瓜(へちま)の奴め、いかにもぶらりと下っていますね。のびのびと何の屈託もなさそうなあの姿を見ると、全くもって羨ましい。」
 今日訪ねて来た医者のM氏は、応接室の窓越しに菜園の高棚にぶら下っている糸瓜を見つけて、さも感心したようにいった。
「全く苦労知らずの奴ですね。」
 私がいうと、M氏は大きく頷いて、
「そうですよ。ほんとうに苦労知らずですよ。私もこの頃病院の仕事があまり多過ぎるので、過労のせいか、身体が思わしくないものですから、自宅に帰っているうちだけでも、仕事を忘れて暢気に暮したい。それには糸瓜でも眺めて、そののんびりした気持を娯んだらよかろうと思って、今年の夏は裏の空地へ糸瓜の種を蒔いてみました。ところが……」
「どうでした。出来ばえは。」
「お話になりません。生(な)る糸瓜も、生る糸瓜も、小指のように細い、おまけに寸の伸びない、まるで胡瓜のような奴ばかりなんです。毎日糸瓜でも見て、その暢気そうな気持を味いたいと楽しんでいただけに、栄養不良の瘠っぴいを見ると、どうも気が気でなく、毎日いらいらさせられるばかりなので、何事も予期通りにはゆかないものだと思いました。」
「どうしたわけでしょう。土でも合わなかったかな。」
「土が合わない。あんな暢気な奴でも、そんな選り好みをしますか。」
 M氏は不思議そうにいった。
「するでしょうな。それからまた糸瓜を長めに作ろうとするには、根を深く耕さなければならぬといいますが、ほんとうのことのようですね。」
「根を深く。なるほどそんなものかも知れませんな。ところで、お宅のあの糸瓜ですが……」M氏は椅子から少し腰を浮けて、窓外を覗き込むようにした。「あれは随分長いようじゃありませんか。どれほど寸がありましょうな。」
「さあ、どれほどありますかな。一向測ってみないもんですから……」
「へえ、折角あんなに伸びてるものを、それでは少し無関心に過ぎるじゃありませんか。しかし、ほんとうのことをいうと、糸瓜を植えて楽しもうという心は、寸を測るなどは、無用の沙汰とするかも知れませんね。」
 M氏の言葉には、自然物に親んで、自分の心を癒そうとするもののみが知る愛と抛擲とがあった。

     2

 私が糸瓜の長さを測ってみようともしないのは、今年のものは去年のに較べて、一体に出来が悪く、寸が短いからでもあった。
 去年のものはすべて出来がよく、おまけに素直で、どれ一つ意地くね悪く曲りくねろうとはしないで、七尺豊なものが背筋を並べて、すくすくと棚からぶら下っていた。
 なかに一番長いのは、尖った尻のさきが土にとどきそうになっていたので、まさかの時の用意に、家のものが摺鉢形に地べたを掘窪めていたことがあった。
 ある日、たずねて来た若い英文学者のI氏は、それをみるとにやにや笑い出した。
「ほう。糸瓜の下が円く掘下げられていますね。あれを見ると、僕うちの親父が上野の動物園にいた時分のことを思い出しますよ。」
「おとうさんは、動物園にもいられたんですか。」
 I氏の父は名高い老博士で、日本で誰よりも先にダアウィニズムを紹介した動物学者であった。私も二、三度会ったことがあって、学者らしい学者として尊敬の念を抱いていた。
「それはずっと以前のことで、こんなことがありました。――」
といって、I氏は次のようなことを話し出した。

 I博士が動物園をあずかっていた頃、世間に何か目出度いことがあって、その記念として、動物園では夫婦者の麒麟(きりん)を購うことに決めた。人も知っているように、麒麟は多くの動物のうちでも、とりわけ首と脚とが長く、有合せの檻で辛抱させる訳にもゆかないので、どうしても新しいものを新調する必要があった。その設計書と経費の明細書とが、博士の上役にあたる博物館長あてに差出された。館長は生物のことなど少しも知らないKという老人だったので、経費は無雑作に半分方削られてしまった。
「いくら麒麟だって、こんなに費用をかけるのは勿体ない。第一、檻の高さがべら棒に高いじゃないか。」
 老館長は眼鏡越しに年若な博士の顔を見ていった。
「いえ、それだけの高さのものが是非とも必要なんです。一体麒麟という獣は……」
 博士はこの獣について事細かに述べ立てようとした。
「わかっとる。わかっとる。麒麟は生草を踏まず、生物を食わずといって、世にも有難い獣じゃ。」
 館長は麒麟をアフリカ産のジラフだと知ろうはずがなく、名前を訊いただけで、すぐに支那人の想像から生れた霊獣を思い出しているらしかった。
「そんな霊獣でいて、おまけに背が高いんですから……」
「まあ、待ちなさい。君にいいことを教える。檻はこの設計書の半分の高さにこしらえなさい。」館長は大切な内証事を話すので、出し惜みをするらしく、一語一語金貨を数えるように、ゆっくりした調子でいった。「そして麒麟の頭が天井につかえるなら、床の地べたを幾らでも掘下げるんだ。いいかえ、天井を低くこしらえる代りに、地べたを深く掘下げるんだよ。」
 博士はそれを聞いて苦笑するより外に仕方がなかった。


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   茶の花

     1

 茶の花が白く咲いた。
 茶は華美(はで)好きの多い草木のなかにあって、ひとり隠遁の志の深い出世間者である。裏庭の塀際か、垣根つづきに植えられて、自分の天地といっては、僅に方丈の空間に過ぎないことが多いが、唯いたずらに幹を伸し、枝を拡げるのは、自分の性分に合わないことを知っているこの灌木は、いかにも隠遁者らしい恰好で、まるまると背を円めて地べたにかいつくばっている。春から夏へかけて、多くの草木が太陽の「青春」と「情熱」とに飽酔しようとして、てんでに大きな、底の深い花の盃を高く持ち上げている頃には、彼は心静かに日向ぼっこをして、微笑を続けているばかしだ。そしてその騒々しい草木が、花を閉じ、葉を振い落してしまうと、この謙遜な隠遁者はやっと自分の番が来たように、厚ぼったい葉の蔭から小さな盃を持ち出して来る。それは白磁作りの古風なもので、彼はそれでもって初冬の太陽から水の滴りのような「孤寒」と「静思」とをそっと汲み取るのである。
 渡鳥は毎日のように寒空を横切って、思い思いの方角へ飛び往くのが見られるが、みんな自分の旅にかまけていて、誰ひとり途の通りがかりに空地に下りて来て、この隠遁者を見舞おうとはしない。訪いもせず、訪われもせぬ閑寂な日が二、三日続いて、あるうすら寒い日の夕ぐれ前、灰色の着付をした小さな旅人がひょっくりと訪ねて来る。長めの尻尾を思いきり脊に反しているので、誰の眼にもすぐにそれがみそさざいであることが分ろうというものだ。
 みそさざいは灰色の翼を持っていながら、空高く飛ぶことを心がけないで、絶えず物かげから物かげへと、孤独をもとめてさすらい歩くひとり者である。このひとり者はさびしい裏庭の茶の木が目につくと、自分の好みにそっくりな好い友だちが見つかったように、いきなり飛んでいって、厚ぼったい葉なみを潜りぬけたり、小枝につかまってとんぼ返りをうったりする。

     2

 画禅室随筆の著者董其昌は、茶を論じてこういったことがあった。
「茶は眼にとっては色である。鼻にとっては香である。身にとっては触である。舌にとっては味である。この四のものは皆茶の正性ではない。これを合せばあるが、これを離せばなくなってしまう。ありというのは種々法生で、なしというのは種々法滅である。色は眼をもっては観えない。香は鼻をもっては嗅げない。触は身をもっては覚れない。味は舌をもっては知れない。法界の茶三昧とはこれである。」
 随分と気取った物のいいようであるが、それにしても茶を味わう場合には、この灌木の閑寂な生活を心頭より忘却しないようにしなければならぬ。

     3

 むかし、宋の書家として聞えた蔡襄が、その友歐陽修のために頼まれて、集古目録の序に筆を揮ったことがあった。その返礼として鼠鬚筆(そしゅひつ)数本と、銅緑の筆架と、好物の茶と、恵山泉の名水幾瓶とを歐陽修から贈って来たものだ。蔡襄はそれを見て、
「潤筆料としては、少しあっさりし過ぎてるようだ。しかし、俗でなくて何よりだ。」
といって笑ったそうだが、その恵山泉の水で茶を煮ると、すっかりいい気になって、
此泉何以珍
適与真茶遇
在物両清純
於予独得趣
…………
…………
と詩を作って歌ったということだ。

     4

 すべて茶を煮るには、炭加減と水の品とを吟味することが肝腎で、むかしの数寄者は何よりもこれに心をつかったものだ。わざわざ使を立てて、宇治橋の三の間の水を汲ませた風流も、こうした細かな吟味からのことだったが、大阪ではむかしから天王寺逢坂の水が茶にいいといって、一般に尚ばれたようだ。逢坂の水といえば、それについてこんな話が残っている。
 俳優二代目嵐小六の家に、ながく奉公をしている女中の父親で、女房に死別れて娘と一緒に身を寄せているのがあった。小六はこの男が仕事もなくては、定めし居つらかろうと、毎日逢坂の水を一荷ずつ水桶で家に運ばせることにした。それを聞いた世間はよくはいわなかった。
「役者風情が贅沢な沙汰じゃないか。あんなに遠くまで人をやって、わざわざお茶の水を汲ませるなんて。まるでお大名のすることだ。」
 この噂が弟子の口から師匠の耳へ伝えられた。すると、小六は
「それはもっての外の取沙汰というものだ。お前たちも聞いてるだろうが、むかし阪田藤十郎は、大阪の芝居へ勤める折には、わざわざ京の賀茂川の水を樽詰にして送らせたものだそうだ。ちょっと聞くと大層贅沢なようだが、藤十郎の考えでは、芝居に出ているうちは、自分の身体は銀主方と見物衆のもので、自分ひとりのものではないはずだから、つねに飲みつけない水を飲んで、腹をこわしてもとの用心から、賀茂川の水を取り寄せたまでのことなのだ。わしが逢坂の水を汲ませるのも、それと同じわけで、つまりは銀主方と見物衆とを大切に思うからのことなんだ。」
と顔色を変えて言訳をしたそうだ。

     5

 むかし、大阪の備後町に、河内屋太郎兵衛という商人があった。財(かね)があるにまかせて、随分思い切った振舞をするので、その度に世間の人たちから、
「また河内屋のいたずらか。何を仕出かすかもわからない男だな。」
と評判を立てられるようになった。
 あるとき、紀州侯を備後町の屋敷に迎えて、茶を献じたことがあった。紀州侯はその日の水が大層気に入ったらしかった。
「いい水質だ。太郎兵衛、ついでがあったら余も少しこの水を貰い受けたいものじゃて。」
 太郎兵衛はかしこまった。
「お口にかないまして、太郎兵衛面目に存じます。早速お届け致すでござりましょう。」
 紀州侯は間もなく和歌山へ帰った。そして太郎兵衛の茶席で所望した水のことなどはすっかり忘れていた。すべて人の頭に立とうというものは、昨日あったことを今日は忘れてしまわねばならない場合が多いものだが、紀州侯は誂え向きにそういう質に生れ合わせていたらしかった。
 ある日のこと、側近くに仕えている家来の一人が、慌てて紀州侯の前へ出て来た。
「殿、只今大阪の商人河内屋太郎兵衛と申すものから、かねてのお約束だと申しまして、水を送って参りました。」
「ほう、河内屋太郎兵衛から……水を……」紀州侯は忘れていた約束を思い出した。
「それならば早速受取ってつかわし、大事に貯えおくようにいたせ。」
「さあ、貯えると申しましたところで、あんなに沢山な水樽では……」
 家来は当惑したようにいった。
「そんなに沢山持って参ったか。」
 殿は物好きそうに眼を光らせた。
「はい、お城前はその水樽で身動きが出来ぬほどになっております。まだその上に次から次へと荷車が詰めかけて参りまして……」
 家来は城のなかはいうまでもないこと、紀州侯の領地という領地は、すっかり水樽で埋ってしまうかのように、気味悪さに肩を顫わせた。
「そうか。河内屋めがまたいたずらしおったな。」
 紀州侯はからからと声を立てて笑った。


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   仙人と石

 支那の唐代に、張果老という仙人がありました。恒州の中条山というところに棲んでいて、いつも旅をするときには、驢馬にまたがって一日に数万里の道程(みちのり)を往ったといいます。旅づかれで家に帰って休もうとでもする場合には、驢馬の首や脚をぽきぽきと折り曲げて畳み、便利な小型(こがた)に形をかえて持ち運んだそうです。そんなおりに、思いがけなく川に出水(でみず)があって、徒渉(かちわた)りがしにくいと、この仙人は手にさげた折畳み式の馬に水を吹きかけます。すると、驢馬は急に元気づき、曲げられた四つの脚を踏みのばして、もとの姿にかえったといいます。
 あるとき、張果老が長い旅にすっかり疲れはてて、驢馬から下りて野なかの柳の蔭で憩(いこ)っていたことがあります。驢馬はその傍でうまそうに草の葉を食べ、時おり長い尻尾をふって羽虫を追っていました。
「おい、仙人どの。仙人どの。」
 誰だか呼ぶ声がしたので、張果老はうつらうつらする眼をひらいてあたりを見まわしました。十月の静かなあたたかい日ざしはそこいら一杯に流れて、広い野原には自分たちの外に、何一つ生物(いきもの)の影は見えませんでした。張果老はまた睡りかけようとしました。
「おい、仙人どの。仙人どのってば。」
 またしても自分を呼ぶらしい声がするので、仙人は不機嫌そうに眼をさましました。
「誰だ。わしを呼ぶのは。」
「わしだ。お前のまえに立っている石だよ。」
「なに、石だって。」
 仙人はずっと向うを見ていた眼を、急に自分の脚もとに落しました。そこには白い石が立っていました。仙人は気むつかしそうに言いました。
「お前か。さっきからわしを呼んでるのは。わしは今睡りかけているところなんだ。」
「それはすまなかった。お前に逢ったら、一度訊いてみたいと思うことがあるもんだから。」
 どこに口があるとも分らなかったが、白い石はしっかりした声で言いました。
「何か。お前が訊きたいというのは。」
「ほかでもない。わしは随分ながくここに住んでいるが、よくお前が驢馬に乗って、そこらを駆けて往くのを見ることがある。おそろしい速さだね。」
「速いはずだ。一日五万里を往くのだから。」
 仙人は得意そうに驢馬を見かえりました。馬は主人の顔を見て、にやりと笑いました。
「五万里。それは驚いた。」石はびっくりして少し肩を動かしたようでした。「そんなに速力(あし)の出る馬をどこから手に入れることが出来たのだ。」
 張果老は仙人らしい白いあご髯を、細い樹の枝のような指でしごきました。
「どこからでもない。わしが自分の法力でこしらえたのだ。わしはそういう馬が是非一頭ほしく思ったから。」
「なぜまたそんな途方もない馬をほしがったのだ。」
 長年同じところにじっとしている石は、仙人のそんな気持が腑に落ちないらしく訊きました。
「わしは幸福の棲む土地をたずねて、方々捜し歩きたかったからだ。」仙人は昨日見た夢を思い出すような眼つきをしました。「わしはあれに乗って、毎日毎日どこという当もなしに、暴風(あらし)のように駆けずり廻ったよ。わしが尋ね残した国は、どこにもないほどだ。この原っぱも今日まで幾度通ったか覚えきれない……」
「そうして、その幸福とやらはうまく見つかったのか。」
 白い石は待ち切れないように口を出しました。
「まだ見つからない。そしてわしはすっかり年をとってしまった。」仙人はこう言って、自分の姿を今更のように見返りました。「髯はこの通りに白くなるし、手は痩せて枯木のように細くなった……」
「わしはむかしからずっとここに立っているが、別段それをふしあわせだとも、退屈だとも思ったことはない。わしがお前のように方々飛び廻りたく思わないのは何故(なぜ)だろうな。」
 石の言葉は他人(ひと)に話すでもなく、独語(ひとりごと)のようでした。
 仙人はそれを聞くと、深く頷きました。
「わしもこの頃になって、やっとそう思い出したよ。幸福というものは外にあるものじゃない。ここぞと思うところに落ちついて棲んでいれば、初めてそこに幸福というものが……」
「それはお前にしては出来過ぎたほどの思いつきだ。どうだい、いっそここに落ちついて、わしと一緒に棲んじゃ。お前にしても、もう一生のつづまりをつけてもいい歳だよ。驢馬の始末なら、明日にでも通りがかりの旅商人(たびあきんど)に売り払ったらいいじゃないか。」
 白い石が無遠慮にこう言うと、驢馬は長い耳でそれを立聞きして、癪にさえたらしく、いきなり後脚(あとあし)を上げて、そこらを蹴飛ばしました。
「いや。わしにはそこまでの思いきりがない。人間というものは、みんなこれまで自分のして来た仕事に、引きずられて往くものなのだ。――ああ、お前につかまって、つい長話(ながばなし)をしすぎた。わしはもう出かけなければならない……」
 張果老は哀しそうに言って、自分の膝の上に落ちた砂埃を払いながら立ち上りました。石は見えぬ眼でそれを感づいたらしく、
「やっぱり幸福を求めて……」
「そうだ。幸福を求めて。……こんなにして方々駆けずり廻って、やがて死ぬのが、わしの一生かも知れない。でも、わしは出かけなければならない。」
 仙人は静かな足どりで、驢馬のいる方へ歩み寄りました。馬はそれと気づいて、元気そうに高くいななきました。
「そんならもうお別れだ。」
 張果老はひらりと驢馬の背にまたがりました。そして一鞭あてたかと思うと、馬は嵐のように飛んで、またたくうちに広野のはてに点のように小さくなりました。
「とうとう往ってしまった。……わしはやはり一人ぽっちだ。」
 白い石は低い声で独語(ひとりごと)を言って、そのまま黙ってしまいました。
 秋の日はそろそろ西へ落ちかかりました。途を間違えたらしいこがね虫が、土をもち上げて、ひょっくりと頭を出しましたが、急にそれと気づいたらしく、すぐにまた姿を隠してしまいました。


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   春の魔術

 春が帰って来た。そしてその不思議な魔術がまた始まろうとしている。
 欧洲航路の途中、シンガポオルに立ち寄ったことのある人は、あそこへ泊る船という船へよく訪ねて来る土人の魔術師のことを知っているだろう。鳶色の肌をしたこの魔法使は、皆の見る前で砂を盛った植木鉢のなかに、一粒の向日葵(ひまわり)の種子を蒔く。そして暫く呪文を唱えていると、その種子から小さな芽がむくむくと頭を持ち出し、すっと双葉を開いたと思うと、やがて黄ろい花がぽっかりと眼をあけかかるのだ。その手際のあざやかさは、見ている誰もが心から驚嘆させられるが、春の魔法使は、この鳶色の肌をした土人のそれよりももっと巧妙に、もっと秘密に、その魔術の企(たくら)みを仕おおせるだけの技巧と敏慧さとをもっている。
 私はこの頃の野道を歩くとき、自分の足の下にしかけられている春の魔術を思って、足の裏をくすぐられるようなこそばゆさを感じることがよくある。そこらの石ころの下、土くれのかげ、または置き腐れになった古蓆(むしろ)のなか――といったような、ついこないだまで霜柱に閉じられていた「忘却」と「睡眠」との国から、いろんな草が、小さな獣のような毛むくじゃらな手や、または小鳥のように細めに開けた怜悧そうな眼を覗けているのを数知れず見つけるではないか。こうした生物の、産れてまだ間もない柔かい生命が、私の不注意な足に踏まれて、どうかするととりかえしのつかない傷を負わされまいものでもないのを思うと、滅多に外を出歩くこともできないような気持がする。
 自分におっ被(かぶ)さっているいろんな邪魔ものを手で押しのけ、頭で突き上げて、地べたの上に自分を持ち出して来た草という草は、刻々に葉を伸し、茎を伸して、ひたすらに太陽の微笑と愛撫とに向って近づこうとする。
 その意気込みの激しさ。巻鬚や葉のひとつびとつが、感情をもち、霊魂をもっているかのように、地べたから大空を目ざして躍り上りそうに□いている。もしかそれぞれの根が、土底深く下りていなかったならば、春の草という草は、鳥のように羽ばたきして太陽を目あてに飛び揚ったかも知れない。
 それはひとり草のみではない。冬中ファキイル僧のように仮死の状態にあったそこらの木々の瘠せかじけた黒い枝には、また生命が甦って、新しい芽を吹き出しているではないか。寒さのうちは老予言者ででもあるように、寂しい姿をして、節くれだった裸の枝で意味ありそうに北極星の彼方を指さしていた公孫樹までが、齢にも不似合な若やぎようで、指さきという指さきをすっかり薄緑に染めておめかしをしている。
 そしてその成長の早さ、変化の目まぐるしさは、実際驚かれるばかりで、春の魔術には、ただ一つの繰返しすらもない。全く飛躍の連続である。
 この魔術の主調をなすものは、生の歓喜であり、生命の不思議である。


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   まんりょう

 夕方ふと見ると、植込の湿っぽい木かげで、真っ赤なまんりょうの実が、かすかに揺れている。寒い冬を越し、年を越しても、まだ落ちないでいるのだ。
 小鳥の眼のような、つぶらな紅い実が揺れ、厚ぼったい葉が揺れ、茎が揺れ、そしてまた私の心が微かに揺れている……
 謙遜な小さきまんりょうの実よ。お前が夢にもこの夕ぐれ時の天鵝絨(ビロード)のように静かな、その手触りのつめたさをかき乱そうなどと大それた望みをもつものでないことは判っている。いや、お前の立っているその木かげの湿っぽい空気を、自分のものにしようとも思うものでないことは、よく私が知っている。
 お前はただ実の赤さをよろこび、実の重みを楽んでいるに過ぎない。お前は夕ぐれ時の木蔭に、小さな紅提灯をともして、一人でおもしろがっている子供なのだ。
 持って生れたいささかの生命をいたわり、その日その日をさびしく遊んで来たまんりょうよ。
 またしても風もないのに、お前の小さな紅提灯が揺れ、そしてまた私の心が揺れる。


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   小鳥

 春の彼岸過ぎのことだった。
 どこをあてどともなく歩いていると、小さな草の丘に出て来た。丘は新芽を吹き出したばかりの灌木に囲まれていて、なかに円く取り残された空地に、かなり大きな桜の老木が一つ立っていた。
 それを見ると、私は思いがけないところでむかし馴染に出あったような気持で、邪魔になる灌木を押し分けながら、足を早めてその樹の側に近寄って往った。そして滑々した樹の肌をひとしきり手で撫でまわした後、私はそっと自分の背を幹にもたせかけた。
 枝という枝は、それぞれ浅緑の若葉と、爪紅をさした花のつぼみとを持って、また蘇って来た春の情熱に身悶えしている。冬中眠っていた樹の生命は、また元気よくめざめて、樹皮の一重下では、その力づよい脈搏と呼吸とが高く波うっている。
 その道の学者のいうところによると、野中に立っている一本の樺の木は、一日に八百ポンド以上の水分を空中に向って放散している。普通の大きさの水桶でこれだけの水を運ぼうとするには、まずざっと三十二度は通わなければならぬ。もしか人が地べたから樺のてっぺんまでそれを持ち運ぶとして、一度の上り下りに十分かかるものとすれば、それだけの水を運んでしまうには、五時間以上も働かなければならぬことになるといっている。
 樺にしてからがそうだ。桜にしてもそうでないとはいわれまい。とりわけ春は再び樹にかえって来て、枝という枝は数知れぬしなやかな葉を伸ばし、みずみずしい花を吹いている昨日今日、樹の内部では一瞬の休みもなく、夥しい水分が、根より吸い上げられて、噴き上げの水のようなすばらしい力をもって、幹から枝の先々にまで持ち運ばれていることだろう。
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