艸木虫魚
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:薄田泣菫 

 雨蛙は以前山に棲んでいた頃、程近い人家にまぎれ込んで、竹製の刀架(かたなかけ)の孔のなかにもぐり込んでいたことがありました。ちょうど春雨の頃で、雨の音を聞きながら、口から出まかせの節で歌を唱っていると、急に座敷の方から美しい笛の音が流れて来ました。それにつれて歌を合わせていると、自分の咽喉がびっくりするほど滑らかに調子に合って来たことを、雨蛙は気づきました。そんなことを四、五日繰りかえしているうちに、雨蛙はだんだん芸が上達して、その刀架の孔から、広い世間へ這い出して来た折には、もういっぱしの歌唱いになっていました。
 雨蛙は今その話を蝸牛にして聞かせました。雨除け眼鏡をはめた友達は、すっかり感心しました。
「そしてその家の主人の名前は……」
「柳田将監という笛の名人だったよ。日光山に住んでいる……」雨蛙は自分の師匠の名を自慢そうに言って聞かせました。
「それじゃない。もっと外にもあるだろう。」
「あるとも。俳句の上手な一茶という男も知ってるよ。」
「その男はどこで知ったのだ。」
 蝸牛は持ち重りのする背(せな)の家を揺ぶってみました。家のまわりから雨の雫が落ちかかりました。
「信濃路(しなのじ)の小さな田舎でだったよ。おれはその頃将監さんに仕込まれた咽喉でもって旅芸人を稼いでいたのだ。柏原という村へ来て、くたびれ休めにそこにあった小屋の縁側に腰をかけたものだ。気がつくと、暗い家のなかに貧乏くさい男が、じっとわしを見つめているじゃないか。気味が悪かったものだから、おれも苦りきっていてやったよ。すると、その男がうめくように一句詠(よ)むじゃないか。

われを見て苦い顔する蛙かな

といってね。」
「へえ、変に気のひがんだ奴だな。」
「そうだよ。実際気のひがんだ奴らしかった。」雨蛙はまた話をつづけました。「お金を貸せとでも言われたら困ると思って、おれはそこそこに逃げ出しちゃった。すると貧乏爺(びんぼうおやじ)め、追っかけるようにまた一句投げつけるじゃないか。

薄縁(うすべり)に尿(いばり)して逃る蛙かな

といってね。相手怖さからおれが縁側にうっかり持病の小便をもらしたのを見つかったんだね。」
 雨蛙は申訳がなさそうに滑(すべ)っこい頭をかきました。
「は、は、は、は。こいつは笑わせるよ。は、は、は。」蝸牛はたまらぬように笑いこけました。その拍子に雨除け眼鏡があぶなくはずれかかろうとしたのをやっともとへ直しながら、「一茶という奴、おかしな野郎だな。だが、もっと外にもあるはずだが……たしか小野道風とかいった……」
「小野道風……」雨蛙は忘れた名前をふるい出すように、二、三度頭を横にふりました。
「そんな人は知らないよ。ねっから記憶(おぼえ)がないようだ。」
「記憶(おぼえ)がないはずはない。あの人の名前をお前に忘れられたら、大変なことになる……」
 蝸牛はこう言って、先刻従弟のなめくじに聞いたことを話して聞かせました。
 それは小野道風といった名高い書家が、まだ修業盛りの頃、どうも一向芸が上達しないので、すっかり嫌気がさして、雨の降るなかを、ぶらぶら散歩に出かけました。ふと見ると、途ばたのしだれ柳の下に雨蛙が一匹いて、枝に飛びつこうとしています。幾度か飛んで、幾度か落ちしている末、とうとう骨折のかいがあって、枝に縋りつきました、それを見た道風はすっかり感心しました。
「何事も努力だな。あの蛙がわしにそれを教えてくれたのだ。」
と思った彼は、家に帰ってから夜を日についで、みっちり勉強を重ねました。やがて書道のえらい大家になったという話なのでした。
「何でもその道風とやらは、公卿(くげ)の次男坊だそうだから、お冠でも着ていたかも知れない。そんな男の記憶はないかしら。」
「ある。ある。やっと思い出した。ずっと以前にそんな男に出あったことがあったっけ。」雨蛙はだしぬけに大きな声で叫びました。「だが、話が少しほんとうのことと違っているようだ。おれは何も道風とやらに教えようと思って、そんなに骨を折っていたわけじゃないよ。」
「これ。そんなに大きな声を……」
 蝸牛は慌てて眼でとめました。そして声をひそめて、この頃世間の噂によると、人間は雨蛙が道風を感化して、すぐれた書家をつくり上げた手柄を記念するために、今度銅像を建てようと目論んでいるという事を話しました。
「そんな場合じゃないか。話が違っているなどと、余計な口をきくものじゃないよ。」
 銅像――と聞くだけでも、雨蛙は喜びました。彼は秋になると、鋭い嘴(くちばし)をもった鵙(もず)がやって来て、自分たちを生捕りにして、樹の枝に磔(はりつけ)にするのを何よりも恐れていました。あの癇癪(かんしゃく)もちの小鳥が、赤銅張(しゃくどうば)りの自分をどうにもあつかいかねている姿を想像するのは、雨蛙にとってこの上もない満足でした。
「だが、おれは着物を着ていない。すっ裸だ。こんな姿(なり)でもいいのかしら。」
 雨蛙は心のなかでそう思うと、急に自分の姿が恥かしくなって、両手をひろげてふくれた腹を隠しました。腹には臍(へそ)がありませんでした。
「おれには臍がない。困ったなあ。臍のない銅像を見ると、皆が噴き出すだろうからな。」
 雨はざあざあ降りしきって来ました。雨蛙は両手で腹を抱えたまま、ずぶ濡れになって腑抜(ふぬ)けがしたようにぼんやりとそこに立っていました。
「えらい降りだな。」蝸牛はどうかすると、滑り落ちそうな無花果の葉っぱをしっかりとつかまえました。「おい、おい。何をそんなに考え込んでるんだ。」
「おれは銅像になぞしてもらいたくない。」雨蛙は哀しそうにいいました。「おれの腹には臍がないし、それに話が大分喰い違っているようだ。おれはあの折人にものを教えようとも思っていなければ、そんなに骨を折って柳の枝に飛びつこうともしていたわけじゃないんだよ。」
「じゃ、何をしてたんだ。正直に言いなさい。」
 蝸牛は険しい顔をしました。友達のそんな気色を見てとった雨蛙は、気おくれがしたように声を低めました。
「ほんとうのことをいうと、おれはぶらんこをしていたんだよ。道風さんにはすまないけど、唯それだけのことなんだ。」
「ぶらんこ……」
 蝸牛は呆気にとられたようにいいました。そして柄(え)のついた雨除け眼鏡を持ちなおして、しげしげと相手の顔を見入っていましたが、こんなせち辛い世のなかに、のん気にぶらんこをして遊ぶような、そんな友達なぞ持ちたくないといったように、顔をしかめたまま、黙って向をかえました。
 仲のいい友達を一人失くした哀しみを抱きながら、雨蛙はぐしょ濡れになって、無花果の上葉から下葉へと飛び下りました。
 そこには皺くちゃな蟇蛙(ひきがえる)がいて、待っていたように悪態を吐(つ)きました。
「慾のない小伜(こせがれ)めが。一家(いっけ)一族の面目ってことを知りくさらねえのか。」
「それは知っている。だが、おれは嘘は言いたくないのだ。それに買いかぶられるのが何よりも嫌なんだ。」
 そういった雨蛙の言葉には、何となくある明るさと力強さとがありました。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:243 KB

担当:undef