艸木虫魚
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著者名:薄田泣菫 

「あまりといえば乱暴ななされ方だ。」
 真青に顔の色を変えて、そのまま立ち上って帰ろうとしました。それを見た松平家の家来たちは、てんでに言葉をつくして平謝りに謝りました。このまま探幽を帰しては、居合す家来たちの大きな手落となると聞いては、探幽もむげに我を通すわけには往きませんでした。彼はしぶしぶ座に帰って、また画絹の前に坐りました。
 伊豆守の無礼だけは、どうしても免すわけに往かぬと探幽は思いました。膝から胸のあたりに飛び散った生々しい墨汁の痕を見ると、彼は身内が燃えるように覚えました。このいらいらしい気持から遁れるには、湧き返る憤怒をそのまま、画絹へ投つけるより外にはありませんでした。探幽は顫える手に絵筆を取り上げて、画絹と掴み合うような意気込で、雲龍の図にとりかかりました。

 程なく画は描き上げられました。それはすばらしい出来でした。探幽はそれを見て、憤怒のまだ消え切らない口もとをへし曲げるようにして、ちらと微笑しました。先刻から探幽の恐しい筆使いを見て、どうなることかと気遣っていたらしい松平家の家来たちは、お互いに顔を見合せて、腹の底より感心したらしい溜息を洩しました。
 そこへ主人の信綱が、以前と打って変って慇懃なものごしで、にこにこしながら出て来ました。
「先刻はいかい失礼をいたした。気持に感激がないと、いい絵は出来難いものじゃと聞いたので、ついその……」
 探幽は初めて信綱が自分に無礼を働いたわけに気がつきました。それと同時に、知慧自慢の伊豆守がこの画の前に立って、誰彼の容赦なく、作者を怒らせて描かせた吾が趣向を語って聞かせるだろう、その得意らしい顔つきが、気になってなりませんでした。で、負けぬ気になって次のように言いました。
「素人衆は一途に感激のことを申されますが、画家にとって大切なのは感激よりも、その感激に手綱をつけて、引き締めて往く力でございます。この絵もそれを引き締めるのに大分骨が折れましたが、まあ、どうかこうか……」


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   人間というもの
     少年少女のために

     1

 むかし、支那に馮幼将という、竹の画がすぐれて上手な画家がありました。この画家がある人に頼まれて、その家の壁に得意の筆で五、六本の竹を描いたことがありました。
 画が出来上ったので、作者が墨に塗れた筆をもったまま壁の前に立って、満足そうにその出来ばえを眺めていますと、だしぬけに騒々しい羽音がして、三羽五羽ばかしの雀が、その肩越しにさっと飛んで来ました。そして先を争って若竹の枝にとまろうとして、幾度か画面にぶっつかっては落ち、ぶっつかっては落ち、終いには床に落ちたまま羽ばたきもせず、不思議そうに円(まる)い頭を傾(かし)げて、じっと考え込んでいました。
 また童二如という画家がありました。梅が好きで、梅を描くことにかけては、その頃の画家に誰ひとりこの人に肩を並べるものがありませんでした。
 あるとき、童二如が自分の書斎の壁に梅を描きました。すると、それが冬の寒いもなかだったにもかかわらず、五、六ぴきの蜜蜂が寒そうに羽をならして飛んで来ました。そして描かれた花の上にとまって、不思議そうにそこらを嗅ぎまわっていましたが、甘い匂いといっては、ただの一しずくも吸い取ることが出来ないのを知ると、
「何だ。画にかいた花だったのか。ひとを調弄(からか)うのも大概にするがいいや。」
とぶつぶつ呟きながら、ひどく腹を立てて飛び去りました。

     2

 ある日のこと、画家にあざむかれた雀の小坊主と蜜蜂とは、人間に立ち聴きせられないように、わざと木深い森の中に隠れて、何がな復讐(しかえし)の手段はないものかと、ひそひそ評議をこらしていました。
「人間って奴、何だってあんなにまやかし物が作りたいんだろうな。みんな神様の真似ごとじゃないか。」
 癇癪持の蜜蜂は、羽をならしながら憎々(にくにく)しそうに言いました。曩(さき)の日のことを思うと、今になってもまだ腹に据えかねるのでした。
「そうだよ。みんな神様の真似ごとさ。唯仕事がすこしばかりまずいだけなんだ。」
 第一の雀が片脚をあげて、毛深いぼんのくぼの附近(あたり)を掻きながら、こんなことを言いました。
「巧くもないくせに、何だってそんなことに手出しなぞするんだろうな。」
「小(ち)っちゃな神様になりたいからなんだよ。」第三の雀が貝殻のような嘴をすぼめて、皮肉な口をききました。「現におれ達をかついだあの二人の画かきだね。あいつらはおれ達の眼をうまくくらまかしたというので、たいした評判を取り、おかげであの画は途方もない値段である富豪(かねもち)の手に買い取られたそうだ。何が幸福(しあわせ)になるんだか、人間の世の中はわからないことだらけだよ。」
「そうだとも。そうだとも。」
 残りの雀は声を揃えて調子を合せました。
「ほんとうに忌々(いまいま)しいたらありゃしない。ひとの失敗(しくじり)を自分の幸福(しあわせ)にするなんて。今度出逢ったが最後、この剣でもって思いきりみなの復讐(しかえし)をしてやらなくっちゃ。」
 蜜蜂は黄ろい毛だらけの尻に隠していた短剣をそっと引っこ抜いて、得意そうに皆に見せびらかしました。剣は持主が手入れを怠けたせいか、古い留針(とめばり)のように尖端(さき)が少し錆びかかっていました。
「お前。まだ分ってないんだな。画を描くことの出来る手は、また生物(いきもの)を殺すことも出来る手だってことがさ。」第一の雀は蜜蜂の態度に軽い反感をもったらしく、わざと自分の不作法を見せつけるように、枝の上から白い糞(ふん)を飛ばしました。「お前、その剣でもって人間の首筋を刺すことが出来るかも知れんが、その代り、とても生きては帰れないんだぞ。」
「じゃ、どうすればいいんだ。復讐(しかえし)もしないで黙って待っていろというのか。」
 蜜蜂は腹立たしくて溜らないように叫びました。頭の触角と羽とが小刻みにぶるぶると顫えました。
「復讐(しかえし)は簡単だよ。これから人間の画かきどもが何を描こうとも、おれ達はわざと気づかないふりをして外(そ)っ方(ぽう)を向いているんだ。そうすれば、おれ達がいくらそそっかしいにしたって、以前のように騙かされようがないじゃないか。騙かされさえしなかったら、どんな高慢な画かきにしても、手前味噌の盛りようがないんだからな。」
「大きにそうかも知れんて。じゃ、そうと決めようじゃないか。」
「よかろう。忘れても人間に洩らすんじゃないよ。」
「これでやっと復讐(しかえし)が出来ようというもんだ。」
 皆は吾を忘れて悦び合っていました。すると、だしぬけに程近い草のなかから、
「へっ、復讐かい。それが。おめでたく出来てるな。」
と冷笑する声が聞えました。
 皆はびっくりして声のした方へ眼をやりました。日あたりのいい草の上で、今まで昼寝をしていたらしい一匹の黒猫が、起き上りざま背を円めて、大きな欠伸(あくび)をするのが眼につきました。
「いよう、黒外套(くろがいとう)の哲学者先生。お久しぶりですな。」剽軽者(ひょうきんもの)の一羽の雀は心安立(こころやすだて)と御機嫌とりとからこんな風に呼びかけました。「先生は唯今私達の仲間がみんなおめでたく出来てるようにおっしゃいましたね。」
「いったよ。確かにいった。実際そうなんだから仕方がない。」
 黒猫の眼は金色に輝きました。
「何がおめでたいんだか、そのわけを聞かしてもらおうじゃないか。」
 雀の二、三羽が、不平そうにそっと嘴を突らしました。
「望みならいって聞かそう。」黒猫は哲学者の冷静を強いて失うまいとするように、長い口髭を一本一本指でしごきながらいいました。「お前達は人間の描いたものには、もう一切目を藉(か)さない。そうすれば欺かれる心配がなくなるから、自然画の評判も立たなくなるわけだと思ってるらしいが、それがおめでたくて何だろう。画の評判ってものは、お前達が立てるのじゃなくて、ほんとうは世間のするしわざじゃないか。」
「世間。おれはまだ世間ってものを見たことがない。」
 第一の雀は不思議そうな顔をして、第二の雀をふりかえりました。
「世間ってのは、人間の仲間をひっくるめていう名前なんだよ。」黒外套の哲学者は、今更そんな講釈をするのは退屈至極だといわないばかりに大きなあくびをしました。
「人間を活(い)かすも殺すも、この世間の思わく一つによることなんだが、もともと人間って奴が妙な生れつきでね。多勢集まると、一人でいる時よりも品が落ちて、とかく愚(ばか)になりやすいんだ。だからお前達のようなもののしたことをも大袈裟に吹聴して、うっかり評判を立てるようなことにもなるんさ。」
「じゃ、その世間とやらを引き入れて、そいつに背(せな)を向けさせたらどうなんだ。」癇癪持の蜜蜂は、やけになって喚(わめ)きました。「どんな高慢ちきの画かきだって、ちっとは困るだろうて。」
「それが出来たら困るかも知れん。また困らぬかも知れん。なぜといって、人間の腹の中にはそれぞれ虫が潜(もぐ)っていて、こいつの頭(かぶり)のふりよう一つで、平気で世間を相手に気儘気随をおっ通したがる病(やまい)があるんだから。そうだ。まあ、病(やまい)だろうね。尤もそんな折には誰でもが極って持ち出したがる文句があるんだよ。
 ――今はわからないんだ。やがてわかる時が来るだろう。
といってね。文句というものは、またたびと同じようになかなか調法なものさ。」
 黒猫は口もとににやりと微笑を浮べたかと思うと、そのまま起き上って、足音も立てず草の中に姿を隠してしまいました。
「腹の中に虫が……。変だなあ。人間って奴、どこまで分らないずくめなんだろう。」
 知慧自慢の第二の雀が焦茶色の円い頭を傾(かし)げて、さもさも当惑したように考え込むと、残りの雀も同じように腑に落ちなさそうな顔をして、きょろきょろしていました。
 短気ものの蜜蜂は、悔(くや)しまぎれに直接行動でも思い込んだらしく、誰にも言葉を交わさないで、いきなり小さな羽を拡げて、森から外へ飛び出しました。


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   肖像画
     少年少女のために

 むかし、天保の頃に、二代目一陽斎豊国という名高い浮世絵師がありました。
 あるとき、豊国は蔵前の札差(ふださし)として聞えた某(なにがし)の老人から、その姿絵を頼まれました。どこの老人もがそうであるように、この札差も性急(せっかち)でしたから、絵の出来るのを待ちかねて、幾度か催促しました。ところが、多くの絵師のそれと同じように、豊国はそんな註文なぞ忘れたかのように、ながく打捨ておきました。
 やっと三年目になって、姿絵は出来上りました。使に立った札差の小僧は、豊国の手から、主人の姿絵を受取って、それに眼を落しました。
「これはよくにていますな。うちの御隠居さんそっくりですよ。」
と思わず叫びながら、つくづく見とれていましたが、暫くするとその眼からはらはらと涙がこぼれかかろうとしました。すぐ前で煙草をふかしていた豊国は、それを見遁しませんでした。
「おい、おい。小僧さん。何だって涙なぞこぼすのだ。御隠居のお小言でも思い出したのかい。それならそれでいいが、絵面を濡らすことだけは堪忍してくんな。」
「いいえ、違います。」小僧は慌てて手の甲で、涙を受取りました。「私にも国もとにこの御隠居様と同じ年恰好のお祖父様(じいさま)があります。小さい時から大層私を可愛がってくれましたので、江戸へ奉公に出て来ても、一日だって忘れたことはありません。今これを見るにつけて、私のお祖父様をもこんな風に描いていただきましたら、どんなにか嬉しかろうと存じまして。」
「ふうん。そんな訳だったのか。お前、祖父さん思いだな。」豊国は口にくわえていた煙管を、ぽんと畳の上へ投げ出しました。「その孝心にめでて、お前の祖父さんを描いてやりたくは思うが、でも、遠い国許に居るのじゃ、そうもいかないし、ここで一つお前の姿絵を描いてやるから、それを国許へ送ってやったらどんなものだい。そんなに可愛がってくれた祖父さんだ。今も何かにつけて、お前を思い出しているだろうからな。」
「ありがとう存じます。」
 小僧は感に余って、丁寧に頭を下げました。
「それじゃ、すぐ始めよう。まあ、こっちへ上んな。そして涙でも拭きねえ。」
 豊国はすっかり上機嫌で、絵筆を取上げました。小僧は気恥かしそうにその前に坐って、きちんと膝の上に両手を揃えました。
 絵は程なく出来上りました。豊国はそれに彩色まで施してやりました。
「さあ、これを送ってやりねえ。吾ながらよく出来たよ。」
「ありがとう存じます。お祖父様がどんなにか喜ぶことでしょう。」
 小僧はこれがほんとうに自分の姿なのかと、不思議そうに絵に見入りました。そして遠い国にいる老人が、これを見るときの驚きと喜びとを胸に描いてみました。

 自分の姿絵を小僧の手から受取った札差の老人は、
「よく出来た。そっくり俺に生写しだよ。これだったら三年かかったのに、少しも無理はないはずだ。」
と言って、大喜びに喜びました。しかし、小僧が半ば得意そうに、半ば言訳がましく、先刻のいきさつを話しながら、ふところから取出した今一枚の姿絵を見ると、また気むつかしくなりました。そしてやくざなものを扱うようにそれをそこに投げ出しました。
「何だ。つまらない。お前にちっとも似てやしないじゃないか。」


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   道風の見た雨蛙
     少年少女のために

 細かい秋の雨がびしょびしょと降りしきる朝でした。久しぶりの雨なので、雨蛙はもう家にじっとしていられなくなって、上機嫌で散歩に出ました。濡れそぼった無花果の広い葉からは、甘そうな雫がしたたり落ちていました。雨蛙は竹垣の端からその葉の上へひょいと飛び移るなり、自慢の咽喉で、
「け、け、け……」
と一声鳴いてみました。すると、だしぬけにどこからか、
「先生。上機嫌ですな。」
と、声がかかりました。雨蛙はその声の主が誰であるかをすぐに感づきました。こんな雨の日に外を出歩こうというものは、自分を取り除けては、蟹と蝸牛(かたつむり)の外には誰もいないのに、蟹はあの通りの気むつかしやで、滅多に他人と口をきこうともしませんでしたから。
 雨蛙はこっそり無花果の葉の裏をのぞき込みました。そこには柄のついた雨除け眼鏡をはめた蝸牛がいました。この友達は今日もいつものように大がかりに自分の家を背にしょっていました。
「や。お早う。やっぱりお前だったな。」
 蝸牛は老人のように眼鏡越しに相手を見ました。
「お早う。上機嫌ですな、先生。」
「先生だって。おいおい、何だってそんなにあらたまるんだい。今朝に限って。」
 雨蛙はからかわれでもしたようにいやな顔をしました。
「気に触ったらごめんなさい。じゃ、やっぱりこれまで通り、お前と呼ばしてもらおうか。」
 蝸牛の態度には、どこかにあらたまったところがありました。きさくな雨蛙は、それが気に入らないように頬をふくらませていました。
「お前で結構さ。もともとおれたちは長い間の朋輩つきあいで、お天気嫌いな癖も、お互いにもってる仲じゃないか。」
「そう言ってくれるとうれしい。実はさっきお前も知っているあの従弟のなめくじから、お前の噂を聞いて、すっかり感心したもんだから、つい、その……」蝸牛はてれかくしに眼鏡をはずして、雨の雫を拭きとりました。「ところで、だしぬけに変なことを訊くようだが、お前、人間に近づきがあるそうだな。」
「人間にか。人間には幾人(いくたり)か近づきがあるよ。」雨蛙は相手の気色を見てとって、すっかり機嫌をなおしたようでした。「おれが歌の稽古をつけてもらったのも、やっぱり人間だったよ。」
「ほう、歌の稽古を……」
 雨蛙は以前山に棲んでいた頃、程近い人家にまぎれ込んで、竹製の刀架(かたなかけ)の孔のなかにもぐり込んでいたことがありました。ちょうど春雨の頃で、雨の音を聞きながら、口から出まかせの節で歌を唱っていると、急に座敷の方から美しい笛の音が流れて来ました。それにつれて歌を合わせていると、自分の咽喉がびっくりするほど滑らかに調子に合って来たことを、雨蛙は気づきました。そんなことを四、五日繰りかえしているうちに、雨蛙はだんだん芸が上達して、その刀架の孔から、広い世間へ這い出して来た折には、もういっぱしの歌唱いになっていました。
 雨蛙は今その話を蝸牛にして聞かせました。雨除け眼鏡をはめた友達は、すっかり感心しました。
「そしてその家の主人の名前は……」
「柳田将監という笛の名人だったよ。日光山に住んでいる……」雨蛙は自分の師匠の名を自慢そうに言って聞かせました。
「それじゃない。もっと外にもあるだろう。」
「あるとも。俳句の上手な一茶という男も知ってるよ。」
「その男はどこで知ったのだ。」
 蝸牛は持ち重りのする背(せな)の家を揺ぶってみました。家のまわりから雨の雫が落ちかかりました。
「信濃路(しなのじ)の小さな田舎でだったよ。おれはその頃将監さんに仕込まれた咽喉でもって旅芸人を稼いでいたのだ。柏原という村へ来て、くたびれ休めにそこにあった小屋の縁側に腰をかけたものだ。気がつくと、暗い家のなかに貧乏くさい男が、じっとわしを見つめているじゃないか。気味が悪かったものだから、おれも苦りきっていてやったよ。すると、その男がうめくように一句詠(よ)むじゃないか。

われを見て苦い顔する蛙かな

といってね。」
「へえ、変に気のひがんだ奴だな。」
「そうだよ。実際気のひがんだ奴らしかった。」雨蛙はまた話をつづけました。「お金を貸せとでも言われたら困ると思って、おれはそこそこに逃げ出しちゃった。すると貧乏爺(びんぼうおやじ)め、追っかけるようにまた一句投げつけるじゃないか。

薄縁(うすべり)に尿(いばり)して逃る蛙かな

といってね。相手怖さからおれが縁側にうっかり持病の小便をもらしたのを見つかったんだね。」
 雨蛙は申訳がなさそうに滑(すべ)っこい頭をかきました。
「は、は、は、は。こいつは笑わせるよ。は、は、は。」蝸牛はたまらぬように笑いこけました。その拍子に雨除け眼鏡があぶなくはずれかかろうとしたのをやっともとへ直しながら、「一茶という奴、おかしな野郎だな。だが、もっと外にもあるはずだが……たしか小野道風とかいった……」
「小野道風……」雨蛙は忘れた名前をふるい出すように、二、三度頭を横にふりました。
「そんな人は知らないよ。ねっから記憶(おぼえ)がないようだ。」
「記憶(おぼえ)がないはずはない。あの人の名前をお前に忘れられたら、大変なことになる……」
 蝸牛はこう言って、先刻従弟のなめくじに聞いたことを話して聞かせました。
 それは小野道風といった名高い書家が、まだ修業盛りの頃、どうも一向芸が上達しないので、すっかり嫌気がさして、雨の降るなかを、ぶらぶら散歩に出かけました。ふと見ると、途ばたのしだれ柳の下に雨蛙が一匹いて、枝に飛びつこうとしています。幾度か飛んで、幾度か落ちしている末、とうとう骨折のかいがあって、枝に縋りつきました、それを見た道風はすっかり感心しました。
「何事も努力だな。あの蛙がわしにそれを教えてくれたのだ。」
と思った彼は、家に帰ってから夜を日についで、みっちり勉強を重ねました。やがて書道のえらい大家になったという話なのでした。
「何でもその道風とやらは、公卿(くげ)の次男坊だそうだから、お冠でも着ていたかも知れない。そんな男の記憶はないかしら。」
「ある。ある。やっと思い出した。ずっと以前にそんな男に出あったことがあったっけ。」雨蛙はだしぬけに大きな声で叫びました。「だが、話が少しほんとうのことと違っているようだ。おれは何も道風とやらに教えようと思って、そんなに骨を折っていたわけじゃないよ。」
「これ。そんなに大きな声を……」
 蝸牛は慌てて眼でとめました。そして声をひそめて、この頃世間の噂によると、人間は雨蛙が道風を感化して、すぐれた書家をつくり上げた手柄を記念するために、今度銅像を建てようと目論んでいるという事を話しました。
「そんな場合じゃないか。話が違っているなどと、余計な口をきくものじゃないよ。」
 銅像――と聞くだけでも、雨蛙は喜びました。彼は秋になると、鋭い嘴(くちばし)をもった鵙(もず)がやって来て、自分たちを生捕りにして、樹の枝に磔(はりつけ)にするのを何よりも恐れていました。あの癇癪(かんしゃく)もちの小鳥が、赤銅張(しゃくどうば)りの自分をどうにもあつかいかねている姿を想像するのは、雨蛙にとってこの上もない満足でした。
「だが、おれは着物を着ていない。すっ裸だ。こんな姿(なり)でもいいのかしら。」
 雨蛙は心のなかでそう思うと、急に自分の姿が恥かしくなって、両手をひろげてふくれた腹を隠しました。腹には臍(へそ)がありませんでした。
「おれには臍がない。困ったなあ。臍のない銅像を見ると、皆が噴き出すだろうからな。」
 雨はざあざあ降りしきって来ました。雨蛙は両手で腹を抱えたまま、ずぶ濡れになって腑抜(ふぬ)けがしたようにぼんやりとそこに立っていました。
「えらい降りだな。」蝸牛はどうかすると、滑り落ちそうな無花果の葉っぱをしっかりとつかまえました。「おい、おい。何をそんなに考え込んでるんだ。」
「おれは銅像になぞしてもらいたくない。」雨蛙は哀しそうにいいました。「おれの腹には臍がないし、それに話が大分喰い違っているようだ。おれはあの折人にものを教えようとも思っていなければ、そんなに骨を折って柳の枝に飛びつこうともしていたわけじゃないんだよ。」
「じゃ、何をしてたんだ。正直に言いなさい。」
 蝸牛は険しい顔をしました。友達のそんな気色を見てとった雨蛙は、気おくれがしたように声を低めました。
「ほんとうのことをいうと、おれはぶらんこをしていたんだよ。道風さんにはすまないけど、唯それだけのことなんだ。」
「ぶらんこ……」
 蝸牛は呆気にとられたようにいいました。そして柄(え)のついた雨除け眼鏡を持ちなおして、しげしげと相手の顔を見入っていましたが、こんなせち辛い世のなかに、のん気にぶらんこをして遊ぶような、そんな友達なぞ持ちたくないといったように、顔をしかめたまま、黙って向をかえました。
 仲のいい友達を一人失くした哀しみを抱きながら、雨蛙はぐしょ濡れになって、無花果の上葉から下葉へと飛び下りました。
 そこには皺くちゃな蟇蛙(ひきがえる)がいて、待っていたように悪態を吐(つ)きました。
「慾のない小伜(こせがれ)めが。一家(いっけ)一族の面目ってことを知りくさらねえのか。」
「それは知っている。だが、おれは嘘は言いたくないのだ。それに買いかぶられるのが何よりも嫌なんだ。」
 そういった雨蛙の言葉には、何となくある明るさと力強さとがありました。




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