艸木虫魚
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著者名:薄田泣菫 

 糸瓜の実が尻ぬけをしたあとを、何心なく覗き込み、細かい繊維の網から出来上った長い長い空洞が、おりからの秋天の如く無一物なのに驚いて、声を放って哄笑するのも、時にとっての一興である。


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   赤土の山と海と

 私の郷里は水島灘に近い小山の裾にある。山には格別秀れたところもないが、少年時代の遊び場所として、私にとっては忘れがたい土地なのだ。
 山は一面に松林で蔽われている。赤松と黒松との程よい交錯。そこでなければ味われない肌理(きめ)の細かい風の音と、健康を喚び覚させるような辛辣な空気の匂とは、私の好きなものの一つであった。
 メレジュコオフスキイの『先駆者』を読むと、レオナルド・ダ・ヴィンチが戦争を避けて、友人ジロラモ・メルチの別荘地ヴァプリオに泊っている頃、メルチの子供フランチェスコと連れ立って、近くの森のなかを見て歩く条がある。少年は若芽を吹き出したばかりの木立のかげで、この絶代の知慧者から、自然に対する愛と知識とを教えられているが、こういう指導者を持たなかった私は、いつもたった一人でこの松山を遊び歩いた。そして人知れず行われている樹木の成長と、枯朽とを静かに見入ったり繁みの中から水のように滴り出る小鳥の歌にじっと聴きとれたりした。一葉蘭(いちようらん)が花と葉と、どちらもたった一つずつの、極めて乏しい天恵の下に、それでも自分を娯しむ生活を営んでいるのを知り、社交嫌いな鷦鷯(みそさざい)が、人一倍巣を作ることの上手な世話女房であるのを見たのも、この山のなかであった。フランチェスコは森の静寂のなかで、レオナルドの鉄のような心臓の鼓動を聞きながら、時々同伴者の頭の縮れっ毛や、長い髯が日に輝いているのを盗み見て、神様ではなかろうかと思ったということだが、私も偶に自分の背後や横側で、黒い大きなものが、自分と同じような身振で物に見とれ聞きとれているのを見て、思わずびっくりしたことがあった。それは山の傾斜に落ちている私の影だった。
 私はそんなことにも倦むと、山のいただきにある大きな岩の背に寝転んだ。そして自分の上に拡がっている大きな藍色の空をじっと見入った。空にはよく鳶の二、三羽が大幅な輪を描いて舞っていた。私のとりとめない空想は、その鳶の焦茶色に光った翼に載せられて空高く飛んだものだが、どうかすると鳥の描く輪は、次第々々に横に逸れて、いつのまにか私の視野から遠ざかってしまうことがないでもない。振り落された私の空想は、あぶなくもんどりうってまた私のふところに帰って来た。
 私はまた海にもよく往った。多くの場合水島灘の浪は女のように静かだった。私は岸の柔かい砂の上に腰をおろして、眼の前を滑って往く船の数をよんだりした。船はいずれも白鳥の翼のような白い帆を張っていた。そして少年のとりとめのない夢を載せて、次から次へと島々のかげに隠れて往った。
 海が遠浅なので、私はよく潮の退いた跡へおり立って、蝦や、しゃこや、がざみや、しおまねぎや、鰈や、いろんな貝などを捕った。私はこれらのものの水のなかの生活に親しむにつれて、山の上の草木や、小鳥などと一緒に、自分の朋輩として彼らに深い愛を感ずるようになった。そしてこの世のなかで、人間ばかりが大切なものでないことを思うようになった。
 あの小高い赤土の松山と遠浅の海と。――思えばこの二つは、私の少年時代を哺育した道場であった。


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   糸瓜と向日葵

 八月――日。畑に植えた長糸瓜は、釣上げられた鰻のように、長いからだをだらりと棚からぶら下げている。地べたとすれすれに尖った尻をふっている。一番剽軽で、そして一番長そうな奴を手で押えて、物尺であたってみたら、七尺近くもあった。
 糸瓜棚の上に、一、二尺も長い首を持ち上げて、お盆のように大きな花を咲かせていた向日葵は、いつの間にか金の花びらをふるい落して、その跡にざらざらの実を粒立たせているのが見える。立秋からもう十日も経っているのに、相変らず暑い。
 K氏来訪。開け放った応接室の窓越しに、ちらと畑の方へ眼をやりながら言った。
「あの向日葵はロシヤ種でしょう。あの実をロシヤ人が噛み割る方法を御存じですか。」
「いや、知りません。どんなにします。」
「それがおかしいんです。まず向日葵の実を一つ歯の間に噛んでおいて、そして……。」K氏は大きな両手でもって妙な恰好をしてみせた。「左の手で頭のてっぺんを押えつけて、右の掌面でいきなり強く下顎をこづき上るんです。こうやって。いかにもロシヤ人らしい食べ方でしょう。」
 私はそれを見て、思わず噴き出した。
「まさか……。」
「いや、ほんとうのことですよ。」K氏は不足らしく言った。「私は独逸(ドイツ)の田舎の停車場で、若いロシヤの労働者が、柵にもたれてそれをやっているのを見たんです。嘘だとお思いなら、その時一緒にいた私の友人の独逸人に訊いてみて下さい。」
「その独逸人は、どこにいるんです。」
 私は物ずきにも訊いてみた。
「今伯林(ベルリン)にいますよ。」
 K氏が帰った後へ入れかわりにB夫人来訪。夫人は信神の念のあつい妙好人である。
 午すぎの室のうちは、息苦しいほどに熱かった。私は夫人と差向いに四方山の話をしているうちに、夫人が時々それとなく窓の方へ眼をやって、いかにも楽しそうに、
「どうもありがとうございます。」
と、口のなかで小声に言って、ちょっと会釈しているのに気づいた。それが私の談話に対するうけ答えでないのはいうまでもないこと、どうかすると、私の存在をも忘れさせるような、眼に見えない第三者が窓越しに立っていて、それに対する挨拶とも見えるようで、何だかちょっと不気味だった。私は訊いてみた。
「何を言ってらっしゃるの。さっきから。」
「お礼を申し上げてるんですわ。」夫人は小娘のようにちょっと含羞んだ。「あまりお涼しい風が、吹き込んでまいりますもんですから。」
「そんなことまで一々言葉に出して、お礼を言わなければならないんですか。黙って感謝していてもよかりそうなものだのに。」
「いいえ。私達の神様は、人間の感謝が歓喜(よろこび)の声となって、大げさに告白されるのを、大層およろこびになりますよ。」夫人はきっぱりと言った。「黙っていたのでは、かえってお気に召さないんです。神恩(おかげ)は小さくとも、大よろこびでお礼を申上げますと、次にいただけますものは、もっと大きうございます。」
「そこに多少の虚偽が含まれてはいないでしょうか。」
「多少の虚偽はあっても構いません。おかげを喜ぶ度合が強くさえありましたら、嘘から真実が生れ、二二が五ともなれば、七ともなるのでございますよ。」
 B夫人はこう言って、ふと窓越しに外へ眼をやったが、糸瓜棚にだらりとぶら下った長糸瓜を見ると、思わず声を高めた。
「まあ、長い糸瓜ですこと。たんとおかげをいただいてますのね……。」


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   落梅の音

 今年は梅雨前には、雨がひっきりなく降り続いたが、肝腎の梅雨に入ってからは毎日の好天気で、自分の住まっている近くの水田なども水不足で、田植が延びがちになり、宵ごとに聞く蛙の声も何となく力がなかったが、六月も末になってから雨は降り出した。
 初めはしとしとと降り出した雨が、やがて底を抜いたような土砂降りとなり、それが二日も三日も四日も五日も、どうかすると九日も十日も降り続くと、天地は雨の光と影と響とに圧倒されて、草も、木も、鳥も、獣も、野も、山も、また人間も、まるで小さな魚のように、押流されてしまいそうな、危っかしい気持を抱かせられる。この危っかしさを孕んでいるのが梅雨の雨の特徴で、芭蕉の

さみだれを集めて早し最上川

という句を読んで、岸を浸さんばかりの濁り水が、矢のように早く走っているのを想像して、眼が眩いそうになるまでに水の力に驚くのも、この危さの気持を感ずるからである。蕪村の

さみだれや大河を前に家二軒

も、またこの危さの美を外にしては味われぬ句である。いつの年でも梅雨に入ってどしゃ降りの大雨に、不安な危っかしさを抱かせられる度ごとに、私は喩えがたい一種の快感を覚えぬわけには往かない。
 幾日か降り続いた雨が、やがて降りくたびれた頃は、凡兆のいう

この頃は小粒になりぬ五月雨

で、長雨と大雨の憂鬱と不安とから救い出された、激情の後のぐったりした疲れから産れる明るさといったようなものが、分毎に、秒毎に度を加えて来るのもこうした時である。
 また降り続き、降り暮らした雨が、いつか夜になって人の寝静まった後に、こっそり霽れて、それがちょうど月のある頃で、庭木の影が水のように窓障子に浮んでいるのを、ふと眼が覚めて見る驚きなども、梅雨でなくては得られない趣である。
 月の無い、まったくの闇の一夜、夜が更けて寝つかれないでいると、さきがたから降り細った雨はいつしか止んで、草木という草木は、雫のたれる濡れ髪を地べたに突伏したまま、起き上る力もなく、へとへとになっている静かさの底で、ぽたりと何物か地べたに落ちるのを聞きつけることがよくある。
 熟梅(うみうめ)の一つが枝を離れた音である。
 私はどんなときでもこの音を聞きつけると、梅の実が自分の心の深みに落ちて来たかのような、驚きとなつかしみとを感ずる。なに一つ動かない閑寂そのものの微かな溜息が、樹の枝を離れて、真っ直に私の生命の波心にささやきに来たような感じである。

 むかし小堀遠州は、古瀬戸の茶入「伊予すだれ」を愛玩して、これを見ると、心はいつでも「わび」を感じるといって、暫くの間も座右を離さなかった。その子権十郎はまたその小壺に書きつけをして、
「昔年亡父孤蓬庵主小壺をもとめ、伊予すだれと名づけ、その形たとへば編笠といふものに似て、物ふりて佗し。それ故に古歌をもつて
あふことはまばらに編める伊予すだれいよいよ我をわびさするかな
 我が愚かなる眺めにも、これを思ふに忽然としてわびしき姿なり。また寂寞たり。まことなるかな、青苔日々にあつくとあるも然り。年月をふるといへども、こと訪ふ人もなく、安閑の境界は却つて楽を招き、富貴を願はず、我が惑はぬ年をこそ、秋の夜の長きに老の寝覚のつれづれに思ひ出してしるし侍る。」
といっている。これで見ると、孤蓬庵父子はこの小壺に対すると、その形を見ただけで、もう「わび」の心持に入ることが出来たものと思われる。
 私が梅の実の熟(つ)えて落ちる音を好むのもつまりそれで、その音を聞くと、忽然として閑寂のふところに佗びの心持を味うことが出来るからである。私が梅の樹に取り囲まれた郷里の茅屋に、いまだに断ちがたい愛着を感じているのもそれ。一本の梅の木もない今の借家に絶えず物足りなさを抱かせられているのもそれ。また軒端の梅は実を採るものでなく、音を娯むものとしているのもそれゆえである。


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   菱

     1

 どこをあてどともなく歩いていると、そそけた灌木にとり囲まれた池のほとりに出て来た。池にはところどころに細かい水草が浮いていて、片眼で笑うような午過ぎの日ざしが一杯に落ちかかっている。
 草の路に沿うて池のまわりを歩いていると、ふと菱の実が食べたくなって来た。
 何の故ともわからない。
 支那湖州の菱湖鎮の菱は、味がうまいので聞えたもので、民船であの辺を旅をすると、舷を叩いてよくそれを売りに来るそうだが、私はまだそんなうまい菱の実を味わったことがない。私が少年のころ食べ馴れたのは、自分たちが小舟に乗って、村はずれの池から採って来た普通(ただ)の菱の実で、取り立てて言うほど味のいいものではなかったが、いかつい角を生(はや)した、その堅苦しい恰好がおもしろい上に、歯で噛むと、何とも譬えようのない仄かな匂が、ぷんと歯ぐきに沁み透ったものだ。
 秋が来ると、私がときどき菱の実を思い出すのも、ひとえにその匂をなつかしむからのことだ。
 一わたり池のおもてをあちこちと見わたしても、見覚えのある菱の葉はそこらに見つからなかった。
 ふと小蝦か魚かの白く水の上に跳ねあがるのが見えて、泡のつぶやきのような微かな音が聞かれた。
 その瞬間、私は菱の実の殻を噛み割ったような気持を私の前歯に感じた。

     2

 菱の根は池の底におりて泥のなか深く入っているが、蔓は長く伸びて水の面を這いまわっている。葉柄の腫れ上った三角形の葉は、水の面が皺む度に、たよたよと揺れ動いて、少しの落つきももたない。葉と葉との間にこぼれ咲いた小さな白い花は、真夏のものとは思われないほど佗しいもので、水底からわざわざ這い上って来て、あんなに小さい質素な花で満足しているその遠慮深い小心さは、贅沢好き、濫費好きの夏の太陽から、侮蔑の苦笑をもって酬いらるるに過ぎないかも知れない。

 だが、その小さな、謙遜な花から、兜虫のように、鬼のように、いかつい角を生した青黒い顔の菱の実が生れるのだ。


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   くろかわ

 くろかわという菌がある。二、三寸あまりの黒い蓋を着て、そこらの湿地に立っている。下向きに巻いた蓋をそっと傾けてみると、そこには白羅紗のような裏がついている。京都人はこれを料理につかう場合には、生(なま)のを茹(う)でて、それを熱湯のなかから取出すと、いきなりぴしゃりと板の間に投げつけるのを忘れない。
「なぜそんなことをするのだ。」
と訊くと、
「投げつけられると、菌がびっくりして、その拍子に苦味(にがみ)が幾らか取れるようですから。」
という返事だ。
 こうして残された少しの苦味は、この菌を酢のものにして味わう場合に、唯一つのなくてかなわぬものである。


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   山茶花

 山茶花は泣き笑いをしている。十一月末のいじけ切った植込みのなかに立って、白に、薄紅に、寂しく咲いたその花には、風邪に罹った女の、眼の縁の上気(のぼせ)は、発熱のせいかも知れないと、そっと触ってみると、肌はしっとりと汗ばんで、思いの外冷えきっている、そのつめたさが感じられる。途の通りがかりに飛び込んで来た風来坊の泥棒蜂が、その大きな百日鬘を花びらのなかに突っ込んで、すぐにまたつまらなさそうに引返して往くのは、その蕊の匂があまりに低く、冷いのによることかもしれない。
 これまで薄暗い庭の片隅で、日光に向いた一方にだけ花をもっていた山茶花を、ことしの春先に日当りのいい中央(まんなか)どころに移し植えたことがあった。いつも室の片隅から客に応対することしか知らない「女」を、大勢の群集のまんなかに引張り出すと、「女」は自分の背後を気にして、しきりと帯の結び目のあたりを撫まわしたりするものだが、ちょうどそのように、庭の片隅から日光のただなかに引越して来た山茶花は、小枝の少い自分の背後を気にして、出来合いの見すぼらしい花を三つ四つつけて、やっとばつを合わせているような恰好だ。
 寂しい花だ。


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   魚の旅

 魚の水を離れたようなものだ。――とは、頼りを失って、手も足も出ない場合に用いる言葉だが、しかし魚のなかには、水を離れても、ある期間は立派に生き存えているのがある。南アメリカの熱帯地方に棲んでいるある魚族は、池が狭くて、やけくそな太陽の熱に遠からず水が干上ろうというおそれがある場合には、あらかじめそれを感づいて、もっと広く、もっと冷い水をもとめて、漂泊の旅に上る。そして森の湿地から湿地へと、幾百という魚が群をなして、夜を日に継いでぞろぞろと動いているということだ。
 私も一度山越しの夜道に、草鞋の底で長い縄片のようなものを踏えたことがあった。手にさげた提灯の明りをさしつけて見ると、それは砂まみれになった鰻だった。
「あ、びっくりした。足の裏がぬるっとして滑りそうだったから、てっきり長虫(ながむし)だろうと思ったが……。」私は後から来る連の男に呼びかけた。「何だってまた、鰻がこんなところにまごまごしているんだろう。」
「すっかり秋だな。もう落鰻(おちうなぎ)の時節に入ったのだ。」
 連の男はそこらをのたくっている鰻に落した眼をあげて、暗い空を見た。
 空には星がきらびやかに瞬いて、銀河が白く帯のように落ちかかっていた。
「秋だな。」
と、連の男はも一度繰返していって、秋になると鰻は卵を産みに、山の上の湖から、高原の池から、沼から、小流から、てんでに這い出して来て、あらゆる困難に堪えつつ、河を下って海に入り、長い旅を続けて、遠くフィリッピンあたりまで行くらしいが、その生活の細々したことは、まだはっきり判らないのだというようなことを話して聞かせてくれた。
「奴さん、もうそろそろ旅に出たくなって、そこらの池から、闇にまぎれてぬけ出して来たのさ。」
「へえ、それじゃ、お前もそんな長旅をしている一人なのか。そうとは知らないで、草鞋で踏みつけてすまなかったな。」
 私は砂まみれになった身体のどこかに、傷でも負わせはしなかったろうかと、気がかりになって、提灯の明りでそこらを捜し廻ったが、鰻はもう地べたに姿を見せなかった。
 道の片側には、夜露を帯びた雑草の葉が茂り合い、その蔭をあるかないかの水がちょろちょろと流れていた。遠い海への長旅に絶えず気をとられている鰻は、私たちの気づかないうちに、いつの間にか草をもぐって、そのなかに滑り込んだらしかった。
「まあ、よかった。」
 私は口のなかでそういった。そしてあの粘り強い生命の力さえ失わなかったら、ちっとやそっとの傷はあっても、それはすぐに癒えついて、自分に負わされただけの旅の役目は、きっとしおおせるだろうと思った。
 私たちはまた夜道を急いだ。


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   潔癖

     1

「自分の描く竹は、唯もう胸の逸興を写しただけで、葉や枝の恰好がどうかということはあまり詮議しない。麻としようが、蘆としようが、それは見る人の勝手だ。」
 竹を描く度にこういった元の倪雲林は、竹が好きだっただけに、竹によく似た魂のすがすがしさと潔癖とを持っている画人だった。
 その潔癖といえば、まるで病気かと思われるほどひどいもので、いつも水を盛った盥を側において、自分にも日に幾十度となく顔を洗い、手を濯ぎ、偶に訪ねて来る客人にも、座敷に通る前に、一々手を洗わせなければ承知しなかったものだ。
 あるとき雲林の家に、客が一人泊ったことがあった。主人は自分が手にかけて綺麗に掃除をした庭の植込みが、そんなことに無関心な客人によって、汚されはしまいかとびくびくものでいた。雲林は人間の臭みが自然に沁み込むのをおそれて、自分の描く山水の画幅には、どんなことがあっても、人物を描き添えないというほどな泉石好きだった。
 主人は夜が更けて、客が咳き込むのを聞いた。
「きっとそこらに唾を吐き散らしているかも知れない。」
 そう思うと、この清潔好きな画家は、気に懸ってろくろく睡るわけにゆかなかった。朝になると、彼は早速召使を叩き起して、客が窓外に吐き捨てたらしい唾の痕を捜させた。
 召使はそんなことには馴れていた。彼は露に湿った一枚の桐の葉を折って来た。
「見つかりました、旦那さま。葉の面がこんなに濡れております。」
 雲林は顔をしかめた。そしてその一枚の葉を捨てさせに、遠い村境まで召使を急がせた。

     2

 またあるとき、倪雲林の母が大病にかかったことがあった。雲林は出来ることなら、医者というものは招きたくなかった。病人があれば、どんな汚い家にでも訪ねて往かなければならない医者のからだは、決して安心の出来る客人ではなかった。しかし、親孝行の彼は、母の病が治したさの一念から、目をつぶって某という医者を迎えることにした。
 医者は町に住んでいた。雲林はそれを迎えに自分の愛馬を送った。馬は主人の清潔好きな癖から、毎日洗い清められて、雪のように白く輝いていた。
 平素から雲林が他人を汚いもの扱いにする癖を知っていて、それをにがにがしいことに思っていた医者は、馬に跨るが早いか、道のぬかるみを選って歩かせ初めた。
 その日はちょうど大雨の後だったので、道のところどころには汚い水溜があった。そんなところへ来ると、医者はわざわざ飛び下りて馬の腹や、尻っぺたを思いきり泥水で汚した。
 医者が雲林の家に着いた時には、馬はどぶ鼠のように汚くなっていた。出迎えた雲林は尻目にそれを見て苦りきっていたが、大事な場合だったので、じっと辛抱していた。医者は導かれて病室に通ったが、出入にそこらの道具に衝き当ったり、主人が大事の文房具を見ると、わざわざ立停って汗だらけの手でいじくりまわしたりした。
 診察がすんで、医者の姿が見えなくなってしまうと、倪雲林の怒りは噴水のように迸り出した。
「お母さま。あなたに治っていただきたさの一念から、私は出来ぬことを辛抱しました。もしか私が病気だったら、死んでもあんな医者は迎えませんよ。」
 倪雲林は、その後五、六日というものは、毎日のように馬を洗い洗いしたということだ。お蔭で泥にまみれた馬の毛は雪のように白くはなったが、一旦傷つけられた主人の潔癖は、長く歪められたままで残っていた。


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   鶏

 むかし、福井藩に高橋記内という鍔(つば)作りの名人があった。藩主をはじめ、家中のものたちは、その手で作られた鍔を、自分の腰のものにつけていることを誇として、ひどくそれを欲しがっていた。しかし、名人気質の記内は注文があったからといって、おいそれとすぐには仕事にとりかかろうとはしないで、毎日酒ばかり飲んでいた。記内は大の酒好きだった。
 あるとき、殿様からのいいつけで、お側近く仕えている小役人の一人が記内を訪ねて来て、鶏の鍔を注文した。記内は早速承知して殿様お手飼の鶏の拝借方を申し出た。この鍔師が細工はすべて写生をもととして、物の形なり、動作なりを生きているように写し取るところに妙味があるのを知っている役人は、もっともな申出だとして、御鶏を貸し与えた。御鶏は羽の色が純白で、そこらに見られない高価な珍らしいものだった。
 記内は大喜びで、その鶏を仕事場の近くに放った。鶏はしかつめらしい顔つきで、餌を拾いながら、気取った足どりであちこち歩き廻った。
「おい、そんなに気取るなよ。御殿のお庭より、こちとらの門先の方がどんなにか気儘でよかろうというものだ。もっとのんびりとしていてくれよ。」
 記内はこんな冗談口をききながら、わき眼もふらないで鶏の動作を見つめていた。側にはいつものように酒徳利が置いてあった。記内は楽しそうにちびりちびりそれを飲みつづけていた。
 肝腎の鍔が出来ないうちに、記内は毎日飲み溜めた酒の払いに困るようになった。きびしい酒屋の催促に、記内は堪りかねて、持前のずぼらな性分から、御貸下の鶏を売り飛ばしてしまった。
 珍しい純白な鶏は、間もなくまた殿様のお手もとに買い戻されていた。記内の仕業はお上を憚らぬ不敵な振舞だというので、厳重に謹慎をいい渡された。
 ある日、役人の一人がその後の様子を見に記内の家を訪ねた。この鍔作りの名人は戸を閉て切った仕事場のなかで、相も変らず酒に酔っぱらってごろ寝をしていた。
「これは何というざまだ、ほんとうに呆れ返ってしまう。」役人は酒臭い記内を揺り起こしながらいった。「これ、そんなに寝てばかりいないで、早く眼を覚まさんか。お上のお免しを得るには、御注文の品を打ち上げるより外にはないということが、お前には分らんか。」
「寝る、寝るといわれるが、遠慮を申しつけられたのでは、寝るより外には仕方がないのじゃからな。」
 記内は独語のようにぼやいて、やっと起き上った。そしてとろんこの眼で役人の顔を見つけると、不足そうな微笑をうかべた。
「そんなにいわれるなら、これから仕事に取りかかろうから、もう一度あの鶏をお貸下げが願いたいものだな。」
「それはならぬ。お前のことじゃもの、また御鶏を酒手に代えまいものでもない。」
 記内は大声で笑い出した。
「は、は、は、は。そんなに心配だったら、お前様が附添になってござらっしゃればいいじゃないか。」
「なるほどな……」
 役人はいわれた通りに、まさかの時の用意に、自分が附添って御鶏を記内の仕事場に連れ込んだ。御鶏は油断のならぬ顔つきで、横眼で記内の方を盗み見ながら、横柄にそこらを歩きまわっていた。
 記内は腕を拱んで、側眼もふらずじっとそれに見とれていたが、気に入った鶏の姿態が眼に入ると、
「あ、これだ。これだ。」
と叫ぶようにいって、眼の底に焼きつけられた形をそのまま、すぐに仕事にとりかかった。
 間もなくすばらしい鶏の鍔が出来上った。御褒美の一つとして、羽の白い鶏の一つがいが記内のもとに下げられた。記内はそれを見向うともしなかった。
「お鶏か。折角だが、お前にはもう用はないのだ。」


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   驢馬

     1

 驢馬は愛すべきものの一つだ。馬のように気どらないで、薄のろなところが愛嬌があっていい、脚の運びが遅いのも、小児や老人の乗ものとして、恰好でこそあれ、少しも非難すべきいわれはない。とりわけ都合がいいのは、馬に比べて背が低いので、どうかした拍子に誤って落馬するとき、腰などしたたかに打つ心配がないことだ。落馬のときのことなど心配すると、今の人はおかしがって笑い出すかも知れないが、むかし池大雅は、旅行のとき、宿場宿場でよく馬に乗ることがある。そんな時に落馬の心がけがなかったら、ものの拍子で怪我をするかも知れないといって、わざわざその道の人について、馬から落ちる法を稽古したものだ。それを思うと、私が驢馬のことにつけて、すぐに落馬の場合を思いついたのに、少しも間違がないことが解るだろう。

     2

 支那の明代の末に、徐枋という気品の高い画家があった。節義のために死んだ父の遺言を守って、一代に肩を比べるもののないほどの学才を持ちながら、役にもつかないで、一生を門を閉じて暮した人だったが、この人が飼っていた驢馬は、大変もの分りがよく、
「あの馬は、すっかり人間のいうことが分るようだ。」
という評判をとったほどのものだった。
 寡慾で、貧乏だった徐枋は、家に食うものといっては何一つなくて、ひもじい目をすることがよくあった。そんな折にはこの画家は、即興の画なり書なりをしたため、それを籠に入れて、しっかりと驢馬の背に結びつけたものだ。すると、この評判の怜悧ものは、門を出るなり、側目もふらないで、一散に程近い町の方へ走って往った。そして巧みにひとごみのなかを分けながら、市場の前まで歩いて来て、ぴたりとそこへ立ちとまった。
「ほら、徐先生のお使が来た。きっとまたお急ぎの御用だぞ。」
 それを見つけた町の人は、いつものことなので、てんでに走り寄って、籠のなかから書画を持ち出し、自分たちの気に入ったものを選び取った。そしてその代りに米や魚や野菜を、しこたまそのなかに運び入れることを忘れなかった。
 籠が一杯になると、驢馬は市場を後に、もと来た道を道草も喰わないで、静かに帰って往った。


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   遊び

     1

 すべて画家とか、彫刻家とかいう人たちのなかには、いろんな動物を飼って、その習性なり、形態なりを研究し、写生するのがよくある。
 与謝蕪村の門弟松本奉時という大阪の画家は、ひどく蛙が好きで、方々からいろんな種類を集めて、それを写生したり、鳴かせたりして喜んでいた。それだけに、長い間には珍らしいのを見つけることも少くはなかったが、あるとき、三本足と六本足の蛙を見つけて、これこそ後の世に伝えなければならぬと、筆をとってこくめいに写生したものが、今に残っているということだ。

     2

 長崎東福寺の住職東海和尚は、画の方でもかなり聞えた人で、よく河豚を描いて人にくれたりしていたが、ほんとうのところは、まだ一度もこの魚を見たことがなかった。
 あるとき、和尚は海辺を通って、潮の引いたあとの水溜に、二、三びきの小魚を見つけたことがあった。
「何だろう、可愛らしい小ざかなだな。」
 和尚は水溜の側にしゃがんで、暫く魚のそぶりに見とれていたが、ふとちょっかいが出してみたくなって、手を伸べて魚の尻っ尾を押えようとした。魚は怒って山寺の老和尚のように、腹を大きく膨らませたかと思うと、急に游ぎがむつかしくなって、水の上にひっくりかえって、癲癇持のように泡をふき出した。その恰好は自分がいつも画に描きなれている河豚にそっくりだった。
「河豚だ。河豚だ。こいつおもしろい奴だな。」
 和尚は笑いながら、はち切れそうな魚の腹を指先でちょっと弾いてみたりした。
「和尚さま、何してござるだ。そんな毒魚(どくうお)いじくって……。」
 だしぬけに肩の上から太い声がするので、和尚はうしろを振り返った。そこにはこのあたりのものらしい漁師の咎め立てするような苦い顔が見つかった。
「わしか。わしはちょっと仲のいい友達と遊ばしてもらっていたばかりじゃ。」
 和尚はこういって、河豚と遊ぶのを少しもやめなかった。その態度には、好きな遊戯に夢中になっている小児の純一さがあった。


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   古本と蔵書印

 本屋の息子(むすこ)に生れただけあって、文豪アナトオル・フランスは無類の愛書家だった。巴里(パリ)のセイヌ河のほとりに、古本屋が並んでいて、皺くちゃな婆さん達が編物をしながら店番をしているのは誰もが知っていることだが、アナトオル・フランスも少年の頃、この古本屋の店さきに立って、手あたり次第にそこらの本をいじくりまわして、いろんな知識を得たのみならず、老年になっても時々この店さきにその姿を見せることがあった。フランスはこの古本屋町を讃美して、「すべての知識の人、趣味の人にとって、そこは第二の故郷である。」と言い、また「私はこのセイヌ河のほとりで大きくなった。そこでは古本屋が景色の一部をなしている。」とも言っている。彼はこの古本屋から貪るように知識を吸収したが、そのお礼としてまたいろいろな趣味と知識とを提供するを忘れなかった。――というのは外のことではない。彼が自分の文庫に持てあました書物を、時折この古本屋に売り払ったことをいうのだ。
 一度こんなことがあった。――あるときフランスは来客を書斎に案内して、自分の蔵書を一々その人に見せていた。愛書家として聞えている割合には、その蔵書がひどく貧しく、とりわけ新刊物がまるで見えないのに驚いた客は、すなおにその驚きを主人に打ちあけたものだ。すると、フランスは、
「私は新刊物は持っていません。方々から寄贈をうけたものも、今は一冊も手もとに残していません。みんな田舎にいる友人に送ってやったからです。」
と、言いわけがましく言ったそうだが、その田舎の友人というのが、実はセイヌ河のほとりにある古本屋をさしていったのだ。
 そのフランスを真似るというわけではないが、私もよく読みふるしの本を古本屋に売る。家が狭いので、いくら好きだといっても、そうそう書物ばかりを棚に積み重ねておくわけにも往かないからである。
 京都に住んでいた頃は、読みふるした本があると、いつも纏めて丸太町川端のKという古本屋に売り払ったものだ。あるとき希臘(ギリシャ)羅馬(ローマ)の古典の英訳物を五、六十冊ほど取揃えてこの本屋へ売ったことがあった。私はアイスヒュロスを読むにも、ソフォクレエスを読むにも、ピンダロスやテオクリトスを読むにも、ダンテを読むにも、また近代の大陸文学を読むにも、英訳の異本が幾種かあるものは、その全部とは往かないまでも、評判のあるものはなるべく沢山取寄せて、それを比較対照して読むことにしているが、一度読んでしまってからは、そのなかで自分が一番秀れていると思ったものを一種か二種か残しておいて、他はみな売り払うことにきめている。今Kという古本屋に譲ったのも、こうしたわけで私にはもう不用になっていたものなのである。
 それから二、三日すると、京都大学のD博士がふらりと遊びに来た。博士は聞えた外国文学通で、また愛書家でもあった。
「いま来がけに丸太町の古本屋で、こんなものを見つけて来ました。」
 博士は座敷に通るなりこう言って、手に持った二冊の書物をそこに投り出した。一つは緑色で他の一つは藍色の布表紙だった。私はそれを手に取上げた瞬間にはっと思った。自分が手を切った女が、他の男と連れ立っているのを見た折に感じる、ちょうどそれに似た驚きだった。書物はまがう方もない、私がK書店に売り払ったなかのものに相違なかった。
「ピンダロスにテオクリトスですか。」
 私は二、三日前まで自分の手もとにあったものを、今は他人の所有として見なければならない心のひけ目を感じながら、そっと書物の背を撫でまわしたり、ペエジをめくって馴染のある文句を読みかえしたりした。
「京都にもこんな本を読んでる人があるんですね。いずれは気まぐれでしょうが……」
 博士は何よりも好きな煙草の脂(やに)で黒くなった歯をちらと見せながら、心もち厚い唇を上品にゆがめた。
「気まぐれでしょうか。気まぐれに読むにしては、物があまりに古すぎますね。」
 私はうっかりこう言って、それと同時にこの書物の前の持主が私であったことを、すなおに打明ける機会を取りはずしてしまったことを感じた。
「それじゃ同志社あたりに来ていた宣教師の遺愛品(ビクエスト)かな。そうかも知れない。」
 博士は藍表紙のテオクリトスを手にとると、署名の書き入れでも捜すらしく、前附の紙を一枚一枚めくっていたが、そんなものはどこにも見られなかった。
 私は膝の上に取残されたピンダロスの緑色の表紙を撫でながら、前の持主を喘息か何かで亡くなった宣教師だと思い違いせられた、その運命を悲しまぬわけに往かなかった。
「宣教師だなんて、とんでもない。宣教師などにお前がわかってたまるものかい。――だが、こんなことになったのも、俺が蔵書印を持合さなかったからのことで。二度とまたこんな間違いの起らぬように、大急ぎで一つすばらしい蔵書印をこしらえなくちゃ……」

 私はその後D博士を訪問する度に、その書斎の硝子戸越しに、幾度かこの二冊の書物を見た。その都度書物の背の金文字は藪睨みのような眼つきをして、
「おや、宣教師さん。いらっしゃい。」
と、当つけがましく挨拶するように思われた。
 私はその瞬間、
「おう、すっかり忘れていた。今度こそは大急ぎで一つ蔵書印のすばらしく立派な奴を……」
と、いつでも考え及ぶには及ぶのだったが、その都度忘れてしまって、いまだに蔵書印というものを持たないでいる。


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   ある日の基督

     1

 西班牙(スペイン)の ALPUJARRAS 山には、人間の顔をした梟が棲んでいるそうです。それについて土地の人達のなかに、むかしからこんな事が言い伝えられています。
 あるとき、キリストがヨハネとペテロとを連れて、この山の裾野を通りかかったことがありました。師匠も弟子もひどく腹がすいていました。折よく山羊の群を飼っている男に出会(でくわ)したので、ペテロがその男を呼びとめて、
「村の衆。私達は旅の者だが、ひどく腹が減って困っている。どうか私達のためにお前さんの山羊を一つ御馳走してはくれまいか。」
と頼んでみました。羊飼はひどく吝(しわ)い男でしたから、初のうちはなかなか承知しそうにもありませんでしたが、三人が口を揃えてうるさく強請(せが)むので、ぶつくさ呟きながらも引請けるには引請けました。
 だが、羊飼は自分の山羊を使おうとはしないで、代りに猫を殺して、それでもって客を振舞いました。キリストは食卓につくなり、変な眼つきをしてその肉片を見ていましたが、暫くすると口のなかで、
皿のなかの油揚(フライ)
山羊ならよいが
小猫の肉(み)なら
やっとこさで逃げ出しゃれ
と、二、三度繰り返して言いました。すると、皿のなかの油揚が急に立ちあがり、窓越しに外へ飛び出して、そのまま姿を隠してしまいました。
「不埒な羊飼だ。こんな男はいっそ梟にでも生れ代るといいのに……」
 キリストは腹立まぎれに独語のように呟(ぼや)きました。すると、その次の一刹那には、羊飼の姿がそこから消えてしまって、人間のような顔をした梟が一羽、□(まぐさ)の上にとまっていましたが、二、三度羽ばたきをしたかと思うと、ついと家の外へ飛び出してしまいました。
「ほう、羊飼が梟になりおった。気の毒なことをしたな。だが、あれよりも可憫(かあい)そうなのは私だよ。無駄口一つきく事が出来ないのだからな。」
 キリストはそれを見て、心のなかでこんなことを思いました。そして神の子に生れて、摩訶不思議な力を持っているものの世間の狭さ、窮屈さを思って、微かな溜息をもらしました。

     2

 その後、キリストはまた多くの弟子達を連れて、ユダヤのある村を通りかかった事がありました。村端れには柳の並木の美しい野原が続いていました。
 その日はぽかぽか暖か過ぎるほどの上天気だったので、キリストは上衣を脱いで、一本の柳の枝に掛けました。そして彼は村人の多くがこの救世主の説教を聴こうとして待合せている野の傾斜をさして歩き出しました。
 説教のすばらしい出来に満足したキリストは、足どりも軽く柔い草を踏んで、柳の並木に帰って来ました。しかし、いくら捜しても、彼の上衣と、その上衣を掛けておいた柳の木はそこらに見つかりませんでした。
「てっきり柳の木があの上衣を持逃げしたのだ。あれはある信者の女が、自分の手で織ってよこしたもので、極上等の織物だったからな。だが、この時候に上衣なしに外を出歩かねばならないなんて……」
 キリストはそう思うと、忌々しくて溜りませんでした。彼は眼を上げて柳の並木を見ました。柳の木はこの若い救世主をなぶるように、長い下枝をゆらゆらと揺り動かせました。
「ひとの物を持逃げするなんて。そんな木は一本残らず消えてなくなればいい。」
 キリストはうっかり口を滑らしました。すると、その瞬間そこらの柳の並木は、急に葉も、枝も、萎れかえってすっかり立枯となってしまいました。
「おう、柳の木が枯れてしまった。――可憫そうなことをしたな。だが、ほんとうのことをいうと、あの木よりも私の方が可憫そうなんだ。うっかり口もきけないという仕末なのだからな。」
 キリストは以前西班牙の山の中で羊飼を梟にした失敗(しくじり)を思い出して、自分が不用意に洩した言葉がそのまま実現せられてゆくのに驚きました。自分がつぶやくように言った言葉を、すぐにその仕事の一つに取入れる神の慈愛に驚くよりも、その神を動かすあるものが自分の内に隠れているのに驚きました。そしてまたしても神の子に生れて、摩訶不思議な力を身に具えている自分の世間の狭さ、窮屈さを心から悲しんだという事です。


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   老和尚とその弟子

 名高い西宮海清寺の住職南天棒和尚の弟子に、東馬(とうま)甚斎という居士があった。満洲に放浪していた頃は、馬賊の群に交って、相応な働をしたと言われるほどあって、筋骨の逞しい、鬼のようにいかつい恰幅をした壮士で、日本に帰って来てからは、そこらの電車に乗るのにいつも切符というものを持たないで、車掌がそれを喧(やかま)しく言うと、
「俺は東馬だ。顔を見覚えておけ、顔を……」
と獣のような不気味な顔を、相手の鼻先に突き出すので、車掌も運転手も度胆をぬかれて、ぶつくさ呟きながらも、大抵はそのまま見遁していたものだった。
 あるとし、満洲から帰って海清寺に落ちついた甚斎は、僧堂に自分の気に添わない雲水が二、三人いることに気がついた。
「あんなのは、一日も早く追い出さなくちゃ。和尚の顔にもかかわることだ。」
 甚斎は腹のなかでそう思ったらしかった。彼はその翌日から庫裡(くり)へ顔を出した。そして雲水たちの食事の世話を焼きだした。
 ある朝、雲水たちは汁鍋の蓋を取ってびっくりした。鍋のなかには、無造作にひきちぎられた雑草の葉っぱの上に、殿様蛙の幾匹かが、味噌汁の熱気に焼け爛れた身体を、苦しそうにしゃちこ張らせたまま、折重って死んでいた。
「気味が悪いな。一体どうしてこんなものが……」
 雲水の一人は咎めだてするように、そこに突立っている甚斎の顔を見た。
「俺の手料理さ。肉食の好きな君たちには、あまり珍らしくもあるまいが、まあ遠慮せんで食べてくれ。俺もここでお相伴(しょうばん)をするから。」
 甚斎はこう言って、皆の汁椀にそれぞれ雑草の葉っぱと蛙とを盛り分けた。そして鍋に残った蛙の死骸の一つをつまみ上げて、蝦蟇(がま)仙人のように自分の掌面(てのひら)に載せたかと思うと、いきなり唇を尖(とが)らせてするするとそれを鵜呑にしてしまった。
 皆は呆気にとられた。そして不気味そうに自分たちの椀のなかを覗き込んでじっと眉を顰(ひそ)めていたが、眼の前にいっかい膝の上で石のような拳(こぶし)を撫でまわしている甚斎の姿を見ると、悲しそうにそっと溜息をついた。
 皆は不承不精に椀を取り上げた。そして犬のように臭気(くさみ)を嗅ぎながら、雑草の葉っぱを前歯でちょっぴり噛ってみたり、蛙の後脚をそっと舌でさわってみたりした。
 そんなことが度重るうちに、自分の身にうしろ暗いところのある雲水は、後々(あとあと)を気遣って、いつの間にか寺から姿を隠してしまった。甚斎は手を拍(う)って喜んだ。
 そのことが南天棒の耳に入ると、甚斎は方丈に呼び出された。他人のなかでは荒馬のように粗暴な甚斎も、和尚の前へ出ては猫のようにおとなしかった。和尚はいった。
「東馬、お前は雲水たちをいびり出したそうじゃな。乱暴にも程があるじゃないか。」
「はい。別に追出したというわけではありませんが……」甚斎は雄鶏のように昂然と胸を反(そ)らせた。「彼等から出て往きました。雲水にもあるまじき所業の多かった輩(てあい)でしたから、あとに残ったものは、実際救われましたようなわけで……」
 老和尚は相手の得意そうな顔をじろりと見返した。
「後に残ったものは救われたかも知れんが、出て往ったものは救われたじゃろうかな。」
「……」甚斎は壁に衝き当ったようにどぎまぎした。
「救われないかも知れませんが、それにしたって、あんな不行跡者は仕方がありません。」
「それはいかん。」和尚はこう言って、側の本箱から一冊の写本を取出した。そして紙に折目のついているところを繰り開けて、甚斎の鼻先に突きつけた。「ここのところを読んでみなさい。声をあげて。」
 甚斎は和尚の手から本を受取った。そして納所坊主(なっしょぼうず)がお経を読む折のように、声を張り上げてそれを読み出した。
「下谷高岸寺に、ある頃弟子僧二人あり。一人は律義廉直にして、専ら寺徳をなす。一人は戒行を保たで、大酒を好み、あまつさへ争論止まず、私多し。ある時什物を取出し売るを――ひどい奴があったものですな。まるで此寺(こちら)の雲水そっくりのようで……。」
「むだ口を利(き)かんと、後を読みなさい。」
 和尚は媼さんのような口もとをしてたしなめた。甚斎はまた読み続けた。
「あるとき、什物を取出し売るを、一人の僧見て諫(いさめ)を加へけるに、聞入れざれば、この由住持に告げ、追退(おいの)け給はずば、ために悪しかりなんと言ふ。住持先づ諭し見るべしとて、厳しく戒めたるままにて捨て置きぬ。又あるとき仏具を取出し売りたるに、いよいよ禍ひに及び、わが身にもかからん間、彼のものに給はずんば、我に暇給はるべしと頻りに言ひける程に、住持涙を浮べ、さあらば、願ひのままにその方に暇をつかはすべし。悪僧は今暫し傍におきて諭すべしといふに――これは手ぬるい。ねえ、老師。少し手ぬるいじゃござんせんか。」
「どうでもいい、そんなことは。早く後を読み続けなさい。」
 和尚はわざと突っ放すように言った。甚斎は亀の子のように首をすくめた。
「この僧大いに怨み、われ暇のこと申さば、悪僧を追出し給はんと思ふものから、それを却つて罪なきわれに暇給はること、近頃依怙(えこ)の心に非ずやといへば、住持答へて、さにあらず、御身は今この寺を出でたりとも、僧一人の勤めはなるものなり。悪僧は今わが傍(かたえ)を離るれば、忽ち捕はれて罪人とならんも計り難し。さすれば……」
 甚斎は間(ま)が悪いように段々と声を落して、くどくどと口のなかで読み下した。
「もっと声を大きくして……」
 和尚は注意をした。甚斎の声は灯(ひ)をかきたてたように、またぱっと明るくなった。
「わが徳も捨たれて、一人の弟子を失ふなり。故に傍(かたえ)に暫し置きて、彼が命をも延ばし、且は厳しく教戒をもせば、善心に立ち返ることもやありなんと思ふが故なり、と言へば、悪僧このことを聞き、師の厚恩に感じ、やがて本心に飜(か)へりしとぞ。」
 読み終った甚斎が、幾らか不足そうな顔つきで書物を膝の上に置くと、和尚はそれを受取って、大事に本箱に蔵い込みながら言った。
「どうじゃ、わかったか。修業の足りない雲水が、悪いことをしたからというて、寺を追い出すのは、それは罪を重ねさすようなものなんじゃ。」
「どうも相済みません。」
 甚斎は不満と後悔とのごっちゃになったような表情をした。
「いや。俺にあやまってくれても、俺はどうするわけにもゆかんて。」和尚はさも当惑したもののように言った。「折角俺を頼って来た仏弟子を、修業半ばに追い返したんじゃ、仏様に対して俺が相済まんわけじゃ。でお前には気の毒じゃが、一まずここを引き取ってもらいたい。」
「それはあんまりなお言葉です。老師が御承知の通り、私には家というものがありません。」
 甚斎はいかつい顔を歪めて、鼻を詰らせたような声を出した。
「いや、家がないことはない。お前には世間というものがある。しかし寺を追い出された雲水には、何も残っていないのじゃ。」
「これからはきっと慎みますから、今度ばかりはどうぞ……」
 甚斎は蛙のように両手をついてあやまった。
「いや、ならぬ。」
 和尚はきっぱりと言い切った。甚斎は恨めしそうな顔をして、すごすごと庫裡の方へ引取って往った。
 暫くすると、甚斎はいつもに似ずつつましやかに方丈に入って来た。その顔は蒼味を帯びていた。和尚は机にもたれて、何か読みものをしていた。
「老師。心からお詫のしるしを、ここにお預けいたしますから、今度のことばかりは、どうぞ大目にお見遁しを……」
 こう言って、彼は手に持った小さな紙包を机の端においた。和尚は黙々としてその包を開けてみた。なかには真赤な血にまみれた、なまなましい小指が一つ転っていた。和尚はじろりと尻目に甚斎の左手を見た。小指の附根には、無造作に繃帯がしてあった。和尚はまた黙々としてそれをもとのように包みなおした。
 和尚の眼は何物にも妨げられなかったように、またしずかに読み本の上に注がれた。甚斎はもどかしさに堪らぬように、
「老師。これでお免(ゆるし)が願われましょうか。」
 和尚はきっと相手の顔を見た。その言葉の調子は低かったが、石のような重みと、石のような冷さとをもって、甚斎のひしがれた心の上に落ちかかった。
「お前に用のないものが、俺に入用なとでも思っとるのか。うつけもの奴(め)が。」

 師家のお役に立たなかった小指は、またもとの持主に帰らねばならなかった。甚斎とその小指とは一緒に、海清寺のかかりつけの医者のもとへ送られた。そして小指は器用にもとの附根に縫いつけられた。
「どうだ、痛くはなかったか。」
 手術が済んだ後、甚斎に訊いたものがあった。すると、この乱暴者はにやりと笑ったのみで、何とも答えなかった。


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   名器を毀つ

     1

 勧修寺大納言経広は心ざまが真直で、誰に遠慮もなく物の言える人だった。
 時の禁裏後西院天皇は茶の湯がお好きで、茶人に共通の道具癖から井戸という茶碗の名器を手に入れて、この上もなく珍重させられていた。
 あるとき経広が御前にまかり出ると、主上はとりわけ上機嫌で、御自分で秘蔵の井戸を取り出されてお茶を賜ったりなどした。経広は主上の御口からその茶碗が名高い井戸だということを承ると、驚きと喜びとに思わず声をはずませた。
「井戸と申しますと、名前のみはかねて聞き及びましたが、眼にいたすのはまったく初めてのことで、ついては御許を蒙って、篤と拝見いたしたいと存じますが……」
 主上からお許しが出ると、経広はいそいそと立ち上って南向きの勾欄に近づいて往った。ちょうど秋の曇り日の午過ぎだったので、御殿の中は経広の老眼にはあまりに薄暗かった。彼は明りを求めて勾欄の上にのしかかるようにして茶碗を眺めた。いかにも感に堪えたように幾度か掌面(てのひら)にひねくり廻しているうちに、どうしたはずみにか、つい御器(おうつわ)を取り落とすような粗忽をしでかした。茶碗は切石の上に落ちて、粉々に砕けてしまった。
 主上はさっと顔色を変えられたらしかった。座に帰って来た経広には、悪びれた気色も見えなかった。
「過失とは申しながら、御秘蔵の名器を毀ちました罪は重々恐れ入ります。しかし、よくよく考えまするに、名器とは言い条、これまで数多の人の手にかかりたるやも知れざる品、むかし宋の徽宗皇帝は秘蔵の名硯を米元章に御貸与えになり、一度臣下の手に触れたものは、また用い難いとあって、そのまま元章にお下げになりましたとやら。さような嫌いのある品を御側近うお置きになりますのはいかがかと存ぜられます。してみれば、唯今の粗忽もかえって怪我の功名かと存じまして……」
 この一言を聞かれると、主上の御機嫌は直ったが、しかし何となく寂しそうだった。
 心ざまの真直な経広は、茶器の愛に溺れきっていられる主上を諫めようとして、向う見ずにもその前にまず肝腎の茶器を壊してしまったのだ。

     2

 伊達政宗があるとき家に伝えた名物茶碗を取出していたことがあった。
 太閤秀吉が自分の好みから、また政略上の方便から煽り立てた茶の湯の流行は、激情と反抗心との持主である奥州の荒くれ男をも捉えて、利休の門に弟子入をさせ、時おりは為(しよ)う事なさの退屈しのぎから、茶器弄りをさえさせるようになったのだった。
 茶碗は天目だった。紺青色の釉(くすり)のなかに宝玉のような九曜星の美しい花紋が茶碗の肌一面に光っていた。政宗は持前の片眼に磨りつけるようにして、この窯変の不思議を貪り眺めていたが、ついうっとりとなったまま、危く茶碗を掌面(てのひら)より取り落そうとした。
 政宗ははっとなって覚えず胆を潰した。
「金二千両もしたものじゃ。壊してなるものか。」
 こんな考えが電光のように頭のなかを走った。仕合せと茶碗は膝の上で巧く両手の掌面(てのひら)に抱きとめられていた。政宗は冷汗をかいた。胸には高く動悸が鳴っている……
「おれは娘っ子のようにおっ魂消たな。――恥しいことじゃ。」
 政宗はその次の瞬間そう思って悔しさに身悶えした。突嗟の場合器の値段を思い浮べて、胸をどきつかせたのが何としても堪えられなく厭だった。

 いつだったか、政宗は徳川家康に茶の饗応(ふるまい)を受けたことがあった。そのおり家康は湯を汲み出そうとして何心なく釜の蓋へ手をやった。蓋は火のように熱していた。あまりの熱さに家康は小児のように、
「おう、熱う……」
と叫んで、釜の蓋を取り離したかと思うと、慌ててその手を自分の耳朶へやった。その様子がいかにも可笑しかったので、政宗は覚えず
「うふ……」
と吹き出してしまった。
 家康はそれを聞くと、また気をとり直して、前よりは熱していたらしい釜の蓋を平気で撮み上げた。そして何事もなかったように静かに茶を立てにかかった。
 政宗はいつに変らぬ亭主のねばり強さに感心させられたが、それでも腹のなかではもしか俺だったら、初めに手にとり上げたが最後、どんなに熱くたって釜の蓋を取り落すような事はしまいと思った。

 政宗は今それを思い出した。あんなに心上りしたことを考えていたものが、今の有様はどうだったかと思うと、顔から火が出るような気持がした。誰だったか知らないが自分の耳近くにやって来て、
「うふ……」
と冷かすように吹き出したらしい気配(けはい)を政宗は感じた。
 逆上(のぼ)せ易いこの茶人はかっとなってしまった。彼は鷲掴みに茶碗を片手にひっ掴んだかと思うと、いきなりそれを庭石目がけて叩きつけた。茶碗はけたたましい音を立てて、粉微塵に砕け散った。
「は、は、は、は……」
 政宗は声高く笑った。彼はその瞬間、金二千両の天目茶碗を失った代りに、自分の心の落着きをしかと取り返すことが出来たように思って、昂然と胸を反らした。

     3

 泉州小泉の城主片桐貞昌は、茶道石州流の開祖として、船越吉勝、多賀左近と合せて、その頃の三宗匠と称えられた名誉の茶人であった。
 貞昌があるとき、海道筋に旅をして宿屋に泊ったことがあった。ちょうど冬のことだったので、宿屋の主人(あるじ)は夜長の心遣いから、溺器(しびん)を室の片隅に持運んで来た。それは一風変った形をした陶器だったが、物の鑑定(めきき)にたけた貞昌の眼は、それを見遁さなかった。彼は主人に言いつけて、器を綺麗に洗い濯がせた後、あらためて手にとって見直すことにした。
 洗い清められた溺器(しびん)の肌には、古い陶物(やきもの)の厚ぼったい不器用な味がよく出ていた。愛撫に充ちた貞昌の眼は労わるようにその上を滑った。
「亭主。この器が譲り受けたい。価は何程にしてくれるの。」
 暫くしてから、貞昌は主人の方に振り向きざま言葉をかけた。
「お気に召しましたらお持ち帰りを願いますが、旅籠屋が溺器をお譲りして代物(だいもつ)をいただきましたとあっては……」
 主人は小泉一万石の城主ともあるものが、ものもあろうに旅籠屋の溺器を買い取ろうとするなぞ、風流にしてはあまりに戯談に過ぎ、戯談にしてはあまりに風流に過ぎるとでも思っているらしかった。
「他人から物を譲り受けて、代物を払わぬという法はない。」
 貞昌は半は自分の供のものたちへ言いきかせるようにいって、何程かの金を主人の手に渡させた。
 貞昌は静かに立って夜の障子を開けた。薄暗い内庭に踏石がほんのり白く浮んで見えた。彼は手に持った溺器を強くそれに叩きつけた。居合せた人たちはびっくりした顔を上げた。
 何事もなかったような気振(けぶり)で貞昌は座に帰った。そして静かな声でいった。
「わしの見たところに間違がなければ、あれは立派な古渡(こわたり)じゃ。今は埋れて溺器に用いられているが、もしか眼の利く商人(あきんど)に見つかって掘り出されでもしようものなら、どんなところへ名器として納まらぬものでもない代物(しろもの)じゃ。そんなことがあってはならぬと思うから、可惜(あたら)ものをつい割ってしもうた。」

     4

 三人は三様の心持と方法とで、世の中から三つの陶器を失った。失われたのは、いずれも秀れた名器だったが、彼等はそれを失うことによりて、一層尊いあるものを救うことが出来たのだ。


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   利休と丿観

 山科の丿観(へちかん)は、利休と同じ頃の茶人だった。丿観は利休の茶に幾らか諂(へつら)い気味があるのを非難して、
「あの男は若い頃は、心持の秀れた人だったが、この頃の容子を見ると、真実が少くなって、まるで別人のようだ。あれを見ると、人間というものは、二十年目ぐらいには心までが変って往くものと見える。自分も四十の坂を越えて、やっと解脱の念が起きた。鴨長明は蝸牛のように、方丈の家を洛中に引っ張りまわし、自分は蟹のように他人の掘った穴を借りている。こうして現世を夢幻と観ずるのは、すべて心ある人のすることだが、利休は人の盛なことのみを知って、それがいつかは衰えるものだということを知らないようだ。」
と言い言いしていたが、利休は別に自分のすばらしい天地をもっており、それに性格から言っても、丿観よりは大きいところがあったから、そんな非難をもあまり頓着しなかったようだ。
 あるとき、丿観が茶会を開いて、利休を招いたことがあった。案内にはわざと時刻を間違えておいた。
 その時刻になって、利休は丿観の草庵を訪れた。ところが、折角客を招こうというのに、門の扉はぴったりと閉っていた。
「はてな。」
 利休は門の外で早くも主人の趣向にぶっつかったように思った。丿観はそのころの茶人仲間でも、一番趣向の気取っているので知られた男だった。利休はその前の年の秋、太閤が北野に大茶の湯を催したときのことを思い出した。その日利休は太閤のお供をして、方々の大名たちの茶席を訪れた。そして由緒のある高貴な道具の数々と、そんなものを巧く取合せていた茶席の主人の心遣とを味って、眼も心も幾らか疲労を覚えた頃、ふと見ると、緑青を砕いたような松原の樹蔭に、朱塗の大傘を立てて、その下を小ぢんまりと蘆垣で囲っているのがあった。主人は五十ばかりの法体で、松の小枝に瓢をつるし、その下で静かに茶を煮ていた。
 ものずきな太閤が、ずかずかと傘の下に入って往って、
「どうだ。ここにも茶があるのかい。」
と大声に訊かれると、主人はつつましやかに、
「はい。用意いたしております。」

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